2013/07/31

歴史のお話その174:栄華の時代番外編①

<唐番外編その①>

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◎皇女と則天武后

 中華人民共和国の古都、西安から北西に80km程はなれた場所に、17基の墳丘群が、周囲の平野から目立っています。
此れは、唐代の広大な王墓で、1300年程の昔、此処に1人の若い皇女が埋葬されました。
その名を、永遠の平和の意味である永泰公主と云い、中国歴代王朝の中でも、黄金時代といわれる唐代(西暦618年~907年)に生きた女性です。

 彼女の生と死の物語は、1000年以上を隔てた現在さえ、痛ましいものでした。

 西暦700年、16歳の永泰公主は、唐の宮廷の高い身分の貴族で、風采も堂々たる武官と結婚しました。
結婚後直ぐに懐妊にし、華やかな世界で、彼女の将来を約束されているかの様にみえました。

 しかし、其処は又、永泰公主の祖母、則天武后に支配された世界でもあり、彼女は、前皇后を殺害し、ライバルと成りそうな者達への警告として、その手足を切断して酒に漬ける様な残虐な行為を示して、唐王朝の最高権力者に台頭した人物でした。
彼女が、全宮廷に不信を抱き、あらゆる人々の間に、陰謀の陰を見たとしても、故の無い事ではなかったでしょう。

 西暦701年の或る日の事、宮中に広く放たれた密偵の1人は、若い永泰公主が、夫や兄弟と一緒に、宮廷生活のとある一面を、笑っている事を聞いてしまいました。
密偵は、直ちにその事実を則天武后に知らせ、彼女は、その事実の中に陰謀の芽を見とり、直ちに若い3人に死の命令が下ったのは言うまでもありません。

 則天武后のこの命令は、厳しい仕来りに裏付けされたもので、若い3人は共に、自分達の成すべき事を知っており、西暦701年10月8日、自害したと云われています。

 皇女とその物語は、人々の記憶から殆んど消えかけていましたが、1960年、中国当局は、西安近郊の唐代墳墓の一つを発掘調査する決定を下しましたが、当時、夫々の陵墓の埋葬者に関して、唐王室の誰かと云う以外、何も知られていなかったのです。
全くの偶然から、一つの陵墓が選定され、この選択によって長く忘れられていた皇女が、再度歴史の舞台に登場する事に成りました。

 考古学者が、何処に入室坑口が在るのか調査の為、墳墓の周囲で最初の土質調査を実施した時、別の竪穴が、墳墓の基部の直ぐ脇に、垂直に貫通している事が確認されました。
明らかに、盗掘者が墓室に侵入する為に掘った穴でした。

 盗掘者の1人は、未だその場所に居ました。
考古学者達は、15m下の地下通路を埋めている土砂の上に、彼の骨が横たわっているのを見つけたのです。
頭蓋骨は、近くに転がっていた鉄斧で、木端微塵に叩き潰され、分け前の金、玉、銀等の宝物が骨の回りに散乱していました。

 墓所は、隅々迄荒され、盗賊の侵入は、埋葬後20年以内の事だったと推定されます。
巨大な石棺は金梃で傷つけられ、その重い天蓋は割れて、中身は全て盗まれていました。
残っていたのは、死者の骨だけでしたが、盗掘者は、墓室への通路に並んでいる、碧がんには手をつけていませんでした。
壁がんには、唐代の陶磁器が多量に並んでいるのですが、この品々は盗掘者にとって、無価値の物でしたが、現在では計り知れない程の価値が在る物なのです。
又、唐の宮廷生活を描いた、目を瞠る程の壁画もそのまま発見されました。
当時、中国の研究者の間では、この墳墓に埋葬された人物が如何なる身分の者なのか、確認されていませんでしたが、やがて、通路に置かれた大きな石版が出土し、この石版には、永泰公主の碑銘が彫られていたのでした。

 西暦705年に、則天武后が退位させられた後、彼女の実子で、正統の皇帝であり、永泰公主の父親でもある中宗が、王位を継承しました。
其の後間もなく、則天武后が崩御し、その実子である中宗は、未だ自分の子供達と義理の息子の非業の死を嘆いていたので、その遺骸を最初に埋葬された、貧しい墓から掘り出し、唐皇族の陵(みささぎ)に皇族として埋葬する様に命じたのでした。

 更に父親である中宗は、史書を書き改め様と試みました。
唐の史書は全て、永泰公主の名前とその不当な死を書き残していましたから、彼女の父親によって墳墓に置かれた碑文には、ただ偉大な唐王朝の故永泰公主は、出産の為に死亡したとだけ記録されました。
恐らく、忌まわしい過去の記憶を永遠に人々の記憶から、抹消してしまおうと考えたたのでしょう。

栄華の時代:続く・・・
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2013/07/30

歴史のお話その173:栄華の時代⑦

<唐その⑦>

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◎唐の滅亡

 安史の乱以後、それまでとは全く異なった税制・兵制で国家の中身はすっかり以前とは違ったものになりましたが、後100年程、唐は何とか存続します。

 この唐朝に最後の打撃を与えたのが黄巣の乱(こうそうのらん)(875年~884年)でした。

 黄巣は塩の密売人で、安史の乱後、塩の専売制は唐の大きな収入源となっていた為、塩の値段は上昇して行きます。
塩は生活必需品ですから誰もが買わざるを得ず、庶民の生活を圧迫するのです。
この様に塩の値段が高すぎれば、当然密売人が現れて、政府価格より安く売って莫大な利益を得るのです。
 政府としては密売を放置する事は、収入減に継る為、必死の取り締まりを展開し、密売人側もそれに対抗して、各地の密売組織が連絡をとりあって政府の裏をかいていたのです。
 
 最後に唐中央政府は、軍を投入して取り締まりを更に強化し、追いつめられた密売人がおこした反乱が黄巣の乱なのです。

 黄巣の反乱軍は次から次へと都市を占領して略奪を繰り返し、一つの都市を襲いめぼしい物が無くなると、次の都市に向かう。
この様な一種の盗賊を流賊と呼びますが、神出鬼没で何処に現れるか判らず、先の安史の乱では無傷だった中国南部も大きな被害を受けました。
全国を荒らしまわって最後は数十万の勢力に成長して長安を占領しました。

 この時に黄巣軍は、長安在住の南北朝以来の貴族達をことごとく黄河に放り込んで殺しています。貴族階級に対する庶民の恨みは確かに強く、これで貴族は全滅したということです。
黄巣は長安で皇帝に即位しますが、その後直ぐに反乱軍自体が内部分裂で解体していく事になりました。

 唐王朝は軍事的には彼等を押さえられないので、黄巣の武将達に寝返って唐側に協力する様に誘います。
この政策が首尾よく行われ、有力武将達の離反が相次ぎ、黄巣自身は即位後の政策等在る訳も無く、その上部下は次々に唐王朝に寝返り、敗戦が続き最後は故郷に逃げ帰って自刃して反乱は終息しました。

 しかし、乱の後、唐の政府は全く形だけのものになり、中国全土に節度使が自立して軍閥化していたのです。

 大運河と黄河の合流点に在る、開封の節度使に任命されたのが、黄巣の反乱軍から寝返った朱全忠(しゅぜんちゅう)でした。
907年、朱全忠は唐を滅ぼして皇帝に即位しました。
都は開封、国名は後梁(こうりょう)。

 しかし、後梁は中国全土を支配するだけの力は無く、黄河流域をかろうじて勢力範囲にしただけでした。

 それ以外の地域にはそれぞれの節度使が自立・建国して中国は再び分裂時代に突入します。

栄華の時代:続く・・・


2013/07/29

歴史のお話その172:栄華の時代⑥

<唐その⑥>

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◎唐の変質

 安史の乱後、唐の政治も社会も大きく変化します。

 唐王朝の力が弱体化し、均田制を維持することがもはや不可能に成りました。
均田農民は政府の援助が得られずに没落して、小作農と成りますが、小作農のことを佃戸(でんこ)と呼びます。
佃戸が働く、農地の所有者が新興地主階級ですが、彼等は貴族とは何の脈略も無く、混乱に乗じて成長してきた新興層です。

 均田制が崩れれば、当然それをもとにしていた租庸調制も崩れます。
変わって実施された税制が両税法、夏と秋の二回の収穫期に銭納で税を集め、一年二回の徴税なので両税法と呼びます。
両税法の献策者が楊炎(ようえん)です。 
更には、塩の専売制を強化して国家財政を補いました。

 府兵制が解体して、募兵制に切り替わり、傭兵部隊と成りました。
傭兵は西洋でも東洋でも質が悪く、中国では「良い鉄は釘にはならない、善い人は兵隊にはならない」との諺が在り、兵士になる奴にまともな奴は居らず、真面目に働くことの出来ない遊人が最後に辿り着く仕事だと考えられていたのです。

 府兵制時代の兵士は違いました。
徴兵によって均田農民が兵士に成っていますから、農民は元来まじめで黙々といわれたとおりによく働きます。
府兵は質が高く、募兵制の傭兵になってから兵士の質が格段に落ち、略奪・暴行等治安の悪化を助長しました。

 そして、この募兵を率いるのが節度使なのです。
唐王朝は安史の乱後、国内にも節度使を設置しますが、その理由は節度使が反乱したら別の節度使に鎮圧させるためです。
 
国内に多数設置された節度使に任命されたのが、安史の乱で暴れまわった反乱軍側の武将達でした。反乱鎮圧後、唐王朝は反乱軍の将兵の扱いに困り、政府の監視下に置かなければ、また何を起こすかわかりません。
そこで、官職を与えて各地の節度使やその武将、兵士にした訳なのです。

 この様な節度使ですから、最初から唐王朝を軽んじ、直ぐに各地で自立化して行き、唐王朝の命令を無視し、納税された税金も中央に還元される事は在りませんでした。

 ただし、安史の乱で戦乱に巻き込まれなかった江南地方は比較的唐の政府に対して従順で税金を送って来ました。
その経路が大運河で、唐王朝にとって大運河と江南地方が生命線に成り、やがてここが唐王朝の支配下から外れる時が、唐の滅亡の時となります。

栄華の時代:続く・・・



2013/07/28

歴史のお話その171:栄華の時代⑤

<唐その⑤>

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◎安史の乱

 当時、唐中央政府には、楊貴妃の縁で玄宗に気に入られて出世した人物が居たのです。
名前は楊国忠、名前からもこの人物は楊貴妃の「縁石関係」で、こちらもどんどん出世して、宰相になります。
 
 処が安禄山は、この楊国忠と大変仲が悪く、実際二人とも実力ではなく裏工作で、現在の地位を手中に収めている訳ですから、玄宗に嫌われたらその瞬間に高い地位から転落する運命に在り、更には玄宗と楊貴妃の愛を奪い合う関係ですから、ライバルになるのは当然です。

 楊国忠は宰相として常に皇帝の傍に居ますが、安禄山は何時も玄宗や楊貴妃の傍に居て御機嫌伺いをしている訳には行きません。
赴任する統治場所は辺境ですから、節度使の仕事も実行しなければ成りません。

 都を離れると安禄山は自分に評価が気に成り、自分が不在の間に楊国忠が讒言をして自分を失脚させるのではないか、と心配なのです。

 処がやがて安禄山は在る事に気づきます。
「自分は三つの節度使を兼任し、唐帝国全兵力の三分の一を掌握している。玄宗の機嫌恐れる必要など全くない。この兵力をもってすれば自分自身が皇帝になることだってできる、」と。

 挙兵の理由は単純なのですが、此れこそ玄宗皇帝の情実に流された人材登用の結果が、一気に爆発したと思われます。
そもそも節度使は辺境防衛の為におかれた軍団で在って、国防軍の正確を持つ軍団から国を守る別の軍が存在する筈も無く、反乱軍は当に快進撃を続けます。
率いる軍勢は15万、瞬く間に洛陽を占領、翌年には長安をも占領しました。

 玄宗は楊貴妃を引き連れて長安から逃れ、四川省に向けて落ち延びるのですが、逃避行の途中で彼等を護衛する親衛隊が反抗します。
安禄山の反乱は楊貴妃に主たる原因が在り、この女に皇帝が溺れて政務を蔑ろにした結果が、この乱であるから、この女を殺せ、と近衛兵達は玄宗に迫ったのでした。

 兵士の協力がなければ、逃げのびるどころか自分も命も判らない状況で、玄宗は片田舎の寺社に楊貴妃を連れ行き、因果を含めて絞め殺させるのです。
愛は山より高く海よりも深いのですが、もうどうすることも出来ず、泣く泣く命を絶つ、ここが、玄宗と楊貴妃、世紀の恋愛の終点でした。

 この後、玄宗は反乱勃発の責任を取り退位し、息子の肅宗(しゅくそう)が即位しました。

 唐政府は安史の乱を鎮圧する為、ウイグル族に援助を要請しました。
ウイグル族は突厥が衰退した後、勢力を伸ばしてきた遊牧民族ですが、既に国内には安史の乱を鎮圧できる軍事力が存在しない結果でした。

 さて安禄山ですが、長安を占領して新政府を樹立し、皇帝に即位する迄は順調でした。
処がその直後に失明します。
体型的に多分糖尿病の結果と推定され、更に全身皮膚病をも患いました。
挙兵理由に、確固たる理想や理念が存在した反乱ではありませんから、皇帝に即位しても政治運営は不可能です。
そこへ失明と皮膚病で精神的に病んでしまったのか、暴虐な人間に成り、最後は息子に殺されてしまいます。
 更にその息子は武将の一人史思明に暗殺されて、以後は史思明が反乱軍の中心人物になりますが、彼も武闘派が取り柄で、これもその息子に殺されます。
その史思明の息子は、反乱軍をとりまとめるだけの力量等全く無く、中心を失った反乱軍はウイグル軍に鎮圧されて、ようやく反乱は終わりました(763年)。

 9年間にも及んだ戦乱で、華北は完全に荒廃してしまいました。
安史の乱の兵士達には遊牧民出身の者も多かった為、農民に対する理解や配慮は無く、農地は荒廃の極みと成り、農民は畑を棄てて逃げ散り、食糧生産も満足におこなわれません。

 反乱鎮圧後、唐の朝廷は長安に帰ってきますが、都はすっかり変わり果てていたのです。

杜甫(とほ)「春望(しゅんぼう)」

  国破れて 山河あり
  城春にして 草木深し
  時に感じては 花にも涙をそそぎ
  別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす
  烽火 三月に連なり
  家書 万金に抵(あた)る
  白頭 掻(か)けば更に短く
  渾(すべ)て 簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す

 杜甫は安史の乱で一時長安に幽閉されます。
戦乱で荒れ果てた長安の風景を嘆いている詩で、「城春にして」の城とは長安のこと、繁栄していた長安が今では草ぼうぼうだ、と嘆いています。
戦火が三ヶ月もつづき、離ればなれになった家族からの手紙は万金の価値。
白髪頭もすっかり薄くなり、まったくかんざしさえさすことができない。
その様な意味の詩です。

栄華の時代:続く・・・

2013/07/26

歴史のお話その170:栄華の時代④

<唐その④>

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◎安史の乱・安禄山の生立

755年、安史の乱(あんしのらん)が勃発します。
反乱軍の指導者、安禄山(あんろくざん)と史思明(ししめい)の二人の名前から安史の乱とよばれます。

 安禄山は、現在の北京北方を守備する節度使(せつどし)の長官でした。

 節度使について。
唐の兵制は府兵制でしたが、玄宗の時代からこの制度が上手く機能不全に堕ちいっていました。
均田制の形骸化が、その主たる原因と思われますが、当然兵士の徴兵もままならず、羈縻政策もうまくいかなくなってきました。
そこで辺境防衛の為に新たに組織されたのが節度使です。
兵士は府兵制の様な徴兵ではなく募兵ですから、お金で雇った傭兵です。
そして、軍団の司令官は管轄地域の民政も兼務します。
軍団指揮官が行政の長官を兼任する形なのですが、国境を警護の為には、この政策が機敏に対応できるのですね。
ちなみに節度使の長官のことも節度使と呼ばれます。

 玄宗の時代には北方国境地域を中心に10個の節度使が設けられていました。

 安禄山は父親がソグド人、母親は突厥人と伝えられ、ソグド人は中央アジアを中心に活動していたイラン系の商業民族です。
その様な家系も在り、安禄山は六カ国語が自由に操り、若い頃から現在の北京方面に置かれた節度使の下級官吏として通訳の仕事をこなしていたと云います。
辺境地域ですから多種多様な民族と接触する機会が多かったのでしょう。

 安禄山の名前は「アレクサンドロス」の音を漢字にしたという説もありますが、此れは外史のお話です。

 安禄山は、状況把握が早く、又人心を掌握することが上手でしたから、唐は人種、民族関係無く秀でた人物を引き上げて行きますから、軍団の中で出世も早かったのです。

 出世する為の手段は何かと言えば、楊貴妃に取り入ったのです。
最初は貢物を届け、時が経つに従い楊貴妃の部屋に入ることさえ許されました。
そして楊貴妃に気に入られれば、当然玄宗皇帝に取り立ててもらえます。

 結果的に玄宗にも重く用いられました。

 安禄山は大変な肥満体でした。
一方で、運動神経は抜群で、玄宗の前で軽快なステップを踏んで踊って見せます。
その体型と踊りの不釣り合いが如何にも印象的で、玄宗の心に止まったのでしょう。
ご機嫌の玄宗が「お前のその大きな腹の中には何が入っているのか」と聞くと、安禄山は「この腹の中は陛下への真心でいっぱいでございます」等と答えるのです。

 安禄山は最終的に、北方の三つの節度使の長官を兼ねる迄に成りました。

 そこまで出世してなぜ反乱をおこしたのでしょう?

栄華の時代:続く・・・

2013/07/25

歴史のお話その169:栄華の時代③

<唐その③>

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◎傾国の美姫

 皇帝と成った則天武后としては、自分の手足となって動いてくれる忠実な官僚が欲しい。
そこで彼女は中央だけで実施していた官僚登用試験を全国に広げます。
試験で採用された官僚達には、門閥がありませんから、則天武后に忠節を尽くすことで出世するしか無く、旧来からの家臣の様に指示命令に従わないことは在りません。

 則天武后の時代に新官僚層が政界に進出して、南北朝以来の旧勢力と対抗する力をつけてきます。言い換えれば貴族ではない官僚層が、政権中枢部に登場して来たことを意味します。
則天武后は皇帝ですから実力行使も行い、この時代に暗殺、若しくは自殺に追い込まれた貴族とその家族は千人は下りません。

 則天武后は最晩年には、息子の中宗が再び即位して国号も唐に戻されました。
やがて、則天武后は崩御しますが、中宗の皇后が又問題のある人物でした。
則天武后の政治運営を目の当たりにした皇后の韋后(いこう)は、自分も則天武后の様に考えるのは当然です。
則天武后は夫の高宗が崩御して皇帝になったのですが、韋后は中宗がそうなる時間を待つことができず、とうとう娘と共謀して中宗を毒殺してしまいます。
この行動は余りにも酷過ぎ、中宗の甥で睿宗の息子の李隆基(りりゅうき)が兵士をひきいて宮中に乗り込み、韋后らの一派を排除しました。

 則天武后から韋后までの政変を「武韋の禍(ぶいのか)」と呼びますが、これはあくまで唐の宮廷内での事件で一般民衆の生活とはあまり関係はない話です。

 唐の宮廷を正常化した李隆基は後に、第六代皇帝に就き、彼が唐の中期の繁栄をもたらした玄宗(在位712年~756年)です。
即位した年齢は28歳、能力もそして活力も在り、次々と政策を打ち出しました。
そして、彼を補佐した有能な大臣達は全員、則天武后の時代に頭角を表して来た人たちなので、玄宗の成功はある意味では、彼女のお蔭かも知れません。

 玄宗時代の繁栄を「開元の治(かいげんのち)」と呼びならわし、太宗の「貞観の治」と同様、唐帝国が繁栄した栄光の時代でした。

皇帝の政務は、実際激務でした。
宮廷での政務は早朝、それも夜明け前に始まりますから、皇帝は午前三時頃にはもう起きて、威儀を正して宮廷にお出ましです。
そして、次から次へと官僚たちが持ってくる書類を決裁していくのです。

 正午になる頃にようやく仕事も一区切り、以降が自由時間なのですが、この様な日常の仕事を規則正しく遣り繰りすることは大変な労力で、皇帝は一番偉いのですから手抜きも可能です。
しかし、此れを行い始めると、宦官や外戚等の実力者が勝手な振る舞いをする様に成ってしまいます。

 玄宗は規則正しく政務に没頭するのですが、長寿を保ちました。
皇帝に定年制度は等無く、崩御する時が政務から開放される時なのです。
即位30年を越え、年齢が60歳近くに成ると、流石の玄宗も政治に対する熱意を失ってきます。

 この様な晩年に、彼が出会った女性が楊貴妃でした。
楊貴妃は本来、玄宗の息子の妃の一人だったのですが、馴れ初めははっきりとしませんが、玄宗は彼女を見初めて、息子の後宮からもらい受け、自分の後宮に入れてしまいました。

 楊貴妃は如何なる気持だったのでしょう?
将来皇帝の位に就けるか否か、余談を許さない皇子の後宮に埋もれているよりも、現皇帝の寵愛を受ける方が幸せでしょう。
多分、そして、彼女はこの好機を逃すこと無く、玄宗の愛を独占するのに成功しました。
玄宗と傾国の美姫、楊貴妃の世紀の愛の始まりです。

 ロマンチックに語られることの多い二人の恋愛ですが、出会ったときの玄宗の年齢が61歳、楊貴妃は27歳です。

 以来、玄宗は夜が明けても宮廷に登城する事無く、正午近く迄、楊貴妃の寝室で戯れる、日々がつづくようになりました。

 玄宗の政治は当然公正さを失い、出世を望む者は、楊貴妃に取り入れば良い、その様な風潮が宮中に蔓延し、政府の中核が腐敗してきます。
ついに玄宗の晩年に唐帝国を大きく揺るがす大反乱が勃発するのですが、それは次回に。

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在天願作比翼鳥、
在地願爲連理枝  
     天にあっては願わくは比翼の鳥となり
     地にあっては願わくは連理の枝となろう。
天長地久有時盡、
此恨綿綿無絕期
     天地は悠久といえどもいつかは尽きることもある。
     しかし、この悲しみは綿々と続いて絶える時はないだろう。

長恨歌(抜粋) 白楽天

栄華の時代:続く・・・
2013/07/24

歴史のお話その168:栄華の時代②

<唐その②>

則天武后

◎則天武后

 太宗李世民は政治的には成功をおさめるのですが、継承者問題は難航しました。
長男が皇太子なのですが、この人物は突厥、トルコ人の遊牧文化に郷愁と憧れを持ち、宮殿の庭に幕舎を張って生活し、食事の時は羊の肉を剣に刺し、火であぶって食べることを好みました。
従臣には弁髪を強要し、彼等とトルコ語で会話をします。

 何故、皇太子が遊牧文化に郷愁と憧れを持ったのか不明ですが、本来唐の皇室李家も鮮卑族等、北方民族の血が濃く、李世民の皇后も長孫氏と云う北魏以来の鮮卑族の名門でしたから、風俗として遊牧民に近いものがあったのでしょう。
皇太子の振る舞いは先祖返りかもしれません。

 但し、皇帝としては困った問題で、言動も乱暴な処が常々在るのです。
そこで、李世民は長男を皇太子からはずして、長孫皇后が授かった子供達の中で一番大人しい三男を皇太子にしました。
この人物が第三代皇帝高宗(在位649年~683年)。

 高宗は優柔不断なところのある頼りない皇帝でしたが、太宗李世民の国家基盤が強固なものだしたから、彼の時代になっても唐の支配領域は拡大しつづけ、高句麗を滅ぼすのもこの時代でした。

高宗は彼自身よりも皇后が有名です。
則天武后(そくてんぶこう)がその人で、本来彼女は李世民の後宮に入っていたのですが、息子の高宗に見初められ、親父が無き後、彼女を自分の後宮に入れました。

 これは、やはり遊牧民的な行動です。
息子が父親の妻を自分のものにすることは儒教文化ではありえませんが、遊牧民では普通にあることなのです。

 則天武后は高宗の愛を独占して皇后の地位に登りつめます。
彼女は頭が大変良く、高宗は決断力の無い人物なので、政治向きの相談を彼女に行い、則天武后は
実に的確な指示を行うのです。
やがて、高宗は彼女無しでは政務が出来なくなりました。

 朝廷で役人に会う時に自分の後ろに簾をたらしておいて、その裏側に則天武后を座らせ、高宗が判断に迷うと則天武后が簾の後ろからそっと耳打ちをしました。

 高宗が崩御すると則天武后が実権を握りました。
彼女と高宗とのあいだに二人の息子がいます。
まず中宗が即位しますが、彼の政治は則天武后の意に沿わず、中宗を退位させて、もう一人の息子、睿(えい)宗を即位させます。
則天武后はこの睿宗も中宗と同じ運命を辿り、終には自分で即位しました(在位695年~705年)。齢63歳位の時です。

 こうして、中国史上唯一の女性皇帝が誕生しました。
武照(ぶしょう)が彼女の本名で、皇帝家が李家から武家へ変わったので国号も周と変更しました。
則天武后という呼び名も、高宗の皇后としての呼び方であって皇帝としての名前ではないのです。
女性だから皇帝名で呼ばない伝統的な女性蔑視を引きずり、武則天(ぶそくてん)と呼ばれました。

 則天武后が政治の実権を掌握するにつれて、北周、隋、唐と続いてきた支配者集団は当然非協力的です。
則天武后は鮮卑系の武人集団でも南朝以来の伝統的貴族階級出身でも無く、個人的な美貌と才覚だけで登り詰めた人物です。

栄華の時代:続く・・・

2013/07/23

歴史のお話その167:栄華の時代①

<唐その①>

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◎唐の成立
   
 隋末には各地に反乱勢力が割拠します。
その人物は農民出身者や隋の高官等、反乱勢力の中は色々でした。
そのなかで、混乱を収拾して唐帝国を建てたのが、隋の将軍、しかも名門軍人の李淵(りえん)(在位618年~626年)です。

 処で隋の楊家と李淵の家系は、北魏末に反乱をおこした軍人達の一部で、隋を建国した楊堅は、北周の軍人で、北周時代は楊家と李家は軍人として同僚でした。
しかも李淵の家系の方が格式も高かったのですが、楊堅が隋を建て皇帝に成った為、李淵はそのまま隋の将軍を引き受けていました。
しかも、李淵と煬帝は従兄弟の関係に在り、お互いの母親が鮮卑族の名門貴族独孤氏の姉妹でした。

 その為、隋末に李淵が挙兵した時に、隋の官僚や軍人達には家系的に不信を持つ者は殆どいませんでした。
北周から唐の時代は、縁石関係の中で皇帝の地位を世襲していたとも考えられます。

 上記の理由から、李淵は挙兵後直ぐに長安に入城することが可能で、隋の統治組織をそのまま手中に治めて、対抗の諸勢力を倒していきました。

 唐の建国に大活躍したのが李淵の次男李世民(りせいみん)です。
李淵は温厚な人物で、李世民が父親を促して挙兵したと思っても良く、建国の第一の功労者ですが、次男の為皇太子に就くことが出来ません。
やがて皇太子である兄を実力で倒して、二代目の皇帝になりました。

 唐の第二代皇帝が太宗(在位626年~649年)です。
中国史上三本の指に入る名君で、彼の治世は「貞観の治(じょうがんのち)」と呼ばれ、その貞観時代が平和で良く国が治まった時代でした。

 唐の政策は隋をそのまま引き継いでいきます。
大運河の建設が隋時代に終わっていた分、唐はその成果をそっくり手に入れることができて有利でした。
 
◎政策

土地制度は均田制。
税制は租庸調制。
軍制は府兵制。

律令格式(りつりょうきゃくしき)と云われる法律も整備され、唐はこの律令制度が完成して頂点に達した時代です。

◎三省六部(さんしょうりくぶ)

 三省とは、中書省(ちゅうしょしょう)、門下省(もんかしょう)、尚書省(しょうしょしょう)。中書省は皇帝の意思を受けて法令を文章化する役所。
門下省は中書省から下りてきた法令を審査し、もし門下省の役人が問題ありとした場合、法案は中書省に差し戻しです。
中書省はもう一度皇帝と談義して法案を練り直さないといけません。

 従って、門下省は大きな力を持っており、この門下省の役人になったのが南北朝以来の名門貴族の者達です。
大きな権力を持ってはいるのですが政府の官僚としての権力に過ぎなくなっているところは、注目すべきところです。

 門下省の審査を経た法案は尚書省によって実行に移されました。
尚書省に属しているのが六部で、吏部、戸部、礼部、兵部、刑部、工部の六つの役所が行政担当部門です。

現在の日本の省庁を参考にすると
 吏部は官僚人事。
 戸部は財務省。
 礼部は文部科学省。
 兵部は防衛省。
 刑部は法務省と国家公安委員会。
 工部は建設省。

 以上のような唐の諸制度は遣唐使によって日本に積極的に取り入れられました。
日本でも大宝律令が作られますが、唐の律令の影響が大きく、役所の名前等、現在に到る迄財務省、文部省等、省という呼び方をしているのは三省六部の影響です。

栄華の時代:続く・・・


2013/07/22

歴史のお話その166:分裂から統一へ⑤

<統一国家の成立・隋番外>

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◎遣隋使は何回あったのか

 我国に於いては、推古天皇の御世、聖徳太子摂政の時、中国へ対等な国書を呈した事は、歴史を学んだ者なら皆知っています。
其の国書の文面が、「日出づる処の天子、書を没する処の天子に致す、恙なきや、云々」と云うもので在った事も、良く知られています。
当時の中国は、隋の治世で、その皇帝は、第二代の煬帝で在り、日本からの国書を見て、「無礼なり」として怒ったと伝えられています。
以上の事は全て、隋の歴史を記した「隋書」に紹介され、国書の文面も隋書の伝える通りで在り、大業3年(607年)の事でした。

 一方、遣隋使の事は「日本書記」にも記録されていますが、書記には、小野妹子を隋に遣わした事を伝えるのみで、国書の文面に関して何も伝えていません。

 やがて翌年(608年)、隋からも答礼使が来朝し、小野妹子も一緒に帰国し、答礼使が隋に帰国の際、小野妹子は再び隋に遣いします。
この時も国書を持参しますが、その文面は、書記にのみ以下の様に記録されています。
「東の天皇、つつしみて西の皇帝に白す。使人鴻臚寺の掌客、裴世清ら至りて、久しき憶、方に解けたり。季秋(9月)薄冷なり。尊はいかに。想ふに清悆ならん。これ、すなわち常のごとし。いま大礼蘇因高(小野妹子)、大礼乎那利(吉士雄成)らを遣はし、往かしむ。謹白不具」。

 之は、第二回国書として、有名で在り、天皇の称号を初めて用いた例としても、良く知られています。
歴史教科書にも先の「日出づる処・・・」の国書と供にこの書記の「東の天皇・・・」の国書を並べて掲げています。

 しかし、なぜ書記は、第一回の国書を掲げず、第二回の、文辞穏やかな国書のみを掲げたのでしょう?
この場合、日本書記の編纂が、時代を下った奈良時代に成されて事も、考慮しなければなりません。
編纂の際に文辞を改めた事も有り得る事で、書記に「東の天皇・・・」の称号が記されて在ったからと云って、聖徳太子の時代に「天皇」の称号が用いられた証拠には成りません。
 
 更に二つの国書を比べて読めば、その内容は、全く同じである事が判ります。
「日出づる処」は「東」で在り、「日没する処」は「西」の意味で、「つつがなきや」の個所を時節の挨拶にして、「謹白不具」で結び、他に加わっているのは、使人達の名前に過ぎません。

 文章として見た場合、書記の国書は、隋書の国書に比べて劣っていると思われ、国書の体裁も不自然で、書記の国書は、隋書の国書を書き改めた物に過ぎないと推定されます。
日本書記の編纂時、既に隋書は存在しており、参考にされたと考えられます。
更に問題の国書を、なぜ第二回の使節(608年)の時に掲げたのか、如何なる理由で、穏やかな文面に書き改めたのかも判っていません。

 他にも、遣隋使には、疑問点が多く、書記によれば、遣隋使の派遣は三回、607年、608年、614年で在り、前の二回が小野妹子、最後の一回が、犬上御田鍬(のちの第一回遣唐使)でした。
一方、隋書によれば、日本からの遣隋使は、三回入朝していますが、その年代は、600年、607年、610年で「この後、終に絶つ」と記されています。
書記と隋書で一致するのは、607年の回のみで、600年の遣隋使について、隋書には、皇帝(初代文帝)と使者の問答迄、詳しく伝えているにも関わらず、書記には、如何なる記述も存在せず、607年のものが、第一回の遣隋使とされているのは何故でしょうか?

 国書を持参した遣隋使が、第二回である点は、隋書も書記も一致しています。
但し、書記で608年に送った使者が、隋書では、第三回の使節として、610年の正月に入朝している事、更に書記では、もう一回、614年に使節が隋に赴いているが、隋書では「終に絶つ」として、日本からの使節入朝を伝えていません。

 単純な数の符合で考えられていた遣隋使の問題も、国書の問題も双方の記録文書を符合させると、不思議な一面が現れてくるのです。
聖徳太子の時代に行われた遣隋使は、実際何回在ったのでしょう?

統一国家の成立・終わり

2013/07/21

歴史のお話その165:分裂から統一へ④

<統一国家の成立・隋④>

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推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)

◎倭国の国書②

 聖徳太子の時代、多くの仏僧が朝鮮半島から倭国に渡来しました。
大和朝廷からみれば、先進地帯である朝鮮半島から積極的に仏僧を受け入れていたのでしょう。
 
 そのなかに聖徳太子が師と仰いだ仏僧慧慈(えじ)が居ります。
実はこの人物は、高句麗僧、高句麗から渡ってきているのです。
この慧慈が先の国書を書いたのではないかという説が存在しています。

 国書は「日の出づる処」と倭国の事を書いていますが、実際に日本列島に住んでいる私達にとって、日本は「日の出づる処」では在りません。
倭国を「日の出づる処」と考えるのは、更に西方から見る視点で在って、中国を「日没する処」とするのは同様に中国よりも東方からの視点です。
では国書を書いた人物の視点は、倭国と隋の中間に存在するのではないでしょうか?
その場所こそ、高句麗です。

 高句麗僧慧慈にとって、倭国と高句麗が軍事同盟を結ぶ事が望ましく、その為には倭国と隋の間に障害が発生する方が好ましい。
聖徳太子の信任を受けた慧慈は、その様な下心を持って国書を書いたのではないでしょうか?

 又、煬帝も倭国の無礼に対して怒り抱きましたが、倭国を高句麗側に追い込まない様に注意しています。
僅か数行の国書の文面から、倭国をも巻き込んだ当時の国際関係が読みとれ様な気がします。

 『隋書』には608年に倭国に趣いた使節の記録が存在しています。
この時に使節は倭国王と、その妃、王子に会ったと記録されているのですが、さて?
聖徳太子は王では無く、推古天皇は女性の天皇ですから、一体誰に会見したのでしょうか?
正式な隋の外交使節を倭国政府は、敢えて聖徳太子を王として謁見したのでしょうか?
又、この時に帰国した小野妹子は、隋の国書を途中で紛失した事に成っているのです。
遣隋使に関する疑問点は、改めて紹介します。

◎7世紀初頭の朝鮮半島

 高句麗は紀元前1世紀後半に鴨緑江の流域で成立した国家で、ツングース系扶余族の国家でした。
この国が飛躍的に領土を拡大したのが広開土王(在位391年~412年)の時代。 
この王の業績を記念して立てられた石碑が「広開土王碑」、この碑文には倭の記事も出てくるのですが、読み方に関して種々の説が存在し、碑文そのものの改竄(かいざん)説迄在る為、問題の多い石碑です。
5世紀初頭の東アジア諸民族の貴重な資料で、中華人民共和国吉林省集安に建っています。

 高句麗は隋の攻撃には耐え抜いたのですが、結局、次の唐によって滅ぼされました(668年)。
この時唐と共に高句麗を攻撃したのが新羅(しらぎ、しんら)で、4世紀後半に朝鮮半島の東南に成立した国家です。
高句麗と百済に圧迫されていた新羅は7世紀半ば、積極的に唐の文物を取り入れて国政改革を断行し、唐との結束を強めます。
最終的には唐と軍事同盟を結び、660年には百済、663年には高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一したのですが、唐は朝鮮半島の直接支配を目論んでおり、新羅は唐軍を朝鮮半島から追い払うために676年迄戦い続ける事になります。

 百済は朝鮮半島西南、4世紀前半成立、この国家は高句麗、新羅と比べて大和朝廷との関係が非常に深く、唐、新羅連合軍によって滅ぼされた後、倭国の援助を受けて復活を目指します。
663年の白村江の戦いが有名ですが、倭国軍は敗走し百済再興は叶いませんでした。

※倭国について

 3世紀魏に邪馬台国が使者を派遣し、その後は倭国が5世紀南朝宋に使節を送っています。
中国の王朝に官職を授けてもらう事により、朝鮮半島や日本列島の対立勢力の中で有利な立場を確保しようと考えていた様です。
宋の歴史書には五人の倭王の名が記録されているので、これを「倭の五王」と彼の地では呼んでいますが、それ以後、隋の時代迄倭の記録は現れません。

 南朝の宋にだけ記録が残されているのは、宋は山東半島迄、領土を拡大している為、日本列島から百済を経由して比較的簡単に辿り着く事が可能でした。

 隋のときに倭国は遣隋使を送ります。
やがて、隋・唐の高句麗遠征、高句麗・百済・新羅の三国を巻き込む国際関係の中で新羅と同じように内政改革を行わざるを得ず、645年の大化改新として断行されました。
因みに日本の国号を正式に使用するのは、7世紀後半からなので、それ以前の時代は、倭国と呼ぶ方が正しいのです。

統一国家の成立・続く・・・

2013/07/19

今日から小倉祇園太鼓です。

<小倉祇園太鼓>

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 北九州市の小倉を代表する夏祭りである小倉祗園太鼓は、全国的にも珍しい両面打ちを特徴とし、昭和三十三年、福岡県指定無形文化財に指定されました。
小倉祗園太鼓の伝統的な姿は、山車の前後に太鼓を据え、山車を曳きながら打つ姿で、太鼓二台の両面打ちで四人、ジャンガラ二人、計六人というのが、基本的な構成です。
又、装束は、向こう鉢巻に浴衣又は法被、白足袋に草履が基本。
太鼓は面によって音が異なり、低く腹に響く音がする面をドロといい、祇園太鼓のリズムをとり、もう一面はカンといい、高い軽やかな音がし、メロディとなります。

 太鼓の起源は、祇園祭は、鉦(かね)、鼓(つづみ)、笛(ふえ)を用いていたと記録にあり、その叩き方は「能」の形式でした。
「祗園会神事神山次第」に「万治三年(1660年)、囃方清五郎が藩主のお供をして江戸表に上がり、山王神事の囃し方を聞き覚え、小倉に帰国後、子供四人を集め、教授しが始め也」とあり、その頃から今の撥さばきが始まり、今から三百四十年前の事でした。

 現在の形が出来たのは、江戸時代、ご神幸に城下の各町内から、いろいろな趣向を凝らした山車、踊車、人形引車、踊り子などが随従するという豪華なものでしたが、明治時代以降、山車に据えつけた太鼓を叩き、それに調子をとるジャンガラ(摺り鉦)が加わり両面打ちを主体とした祗園へと変化して行きました。

 祗園祭の起こりは無病息災の祈りからで、平安時代、夏になると悪疫が流行したり稲などに害虫がつき、これを悪霊の仕業と考え、この悪霊を慰め退散させる為に神に祈った事を起源とする祭りでした。
旧六月に行われてきた「小倉祗園」は、小倉城を築城した細川忠興が、無病息災を祈るとともに、城下町繁栄のひとつとして、元和三年(1617年)に祗園社(現在の八坂神社)を建て、京都の祗園祭を小倉の地に取り入れたものです。

参考:小倉祇園の歴史

2013/07/18

歴史のお話その164:分裂から統一へ③

<統一国家の成立・隋③>

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◎高句麗遠征
   
 南北朝時代、中国の北方で大きな勢力を持っていた遊牧民族が突厥(とっけつ)でした。
トルコ系民族で突厥の名は、トルコを音訳したものです。
この突厥は隋が成立するのと同じ時期に東西に分裂して、東突厥は隋に臣従しましたが、高句麗は隋に臣従しません。

 反対に隋に隠れて突厥に密使を送り、その様な事情から煬帝は高句麗遠征を企てたのです。

  第一回高句麗遠征が612年、110万をこえる隋軍が出兵し、一方攻め込まれる高句麗は国家の存亡に直面に必至の抵抗を試みます。
この時は、隋軍は無理な作戦が災いして敗北、撤退しました。
之を「薩水の戦い」と呼び、領内に深入りした隋軍を高句麗軍が破った戦いでした。

 韓国や北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)では隋の侵略を三度撃退した事は、民族の栄光の戦いと見なしています。
現在の韓国や北朝鮮の人達が高句麗人直系の子孫か否かは簡単には分からなく成っています。

 第二回目の高句麗遠征は613年、この時は後方で物資輸送に当たっていた担当大臣が反乱をおこして撤兵、隋の政権内部の乱れが目立ってきます。
又、各地で民衆反乱が起きはじめていました。

 第三回は614年、この年に成ると民衆反乱が大規模に成り、高句麗遠征行う状況では在りません。高句麗側はその事実を見越して形だけの降伏をして、煬帝はそれを機会に撤兵しました。
各地の反乱は激しさを増し、煬帝は大混乱の中で親衛隊長に暗殺され、618年に隋は滅びました。

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◎倭国の国書 

 隋の煬帝は倭国との関係で有名なエピソードが在ります。
607年、小野妹子が遣隋使として中国に渡り、彼は国書を煬帝に渡しますが、その冒頭の文句が「日出(い)づるところの天子、書を日没するところの天子に致(いた)す。つつがなきや・・・」。

 これを読んで煬帝は激怒し、もう二度と倭国の使者入朝を拒否したのです。
怒りの原因は、この文面は中国の皇帝と倭国の王が同格であつかわれているからで、中華的発想では、周辺民族は中国よりもランクが下、中華文明を慕ってやってくるものでなければならず、倭国の手紙はそのような外交的常識から外れたはなはだ無礼なもでした。

 その煬帝ですが、翌年には裴世清(はいせいせい)を使者として、倭国に派遣して友好関係を続けているのです。
この時期は、高句麗遠征の準備を進めている時で、高句麗、新羅、百済そして、倭国と東アジア諸国の緊張感が高まっており、隋としては高句麗を孤立させたいのです。
もし倭国との外交関係を断絶したならば、高句麗が倭国と同盟を結ぶかもしれず、そうなれば、外交的にも軍事的にも大きな問題になる為です。
個人的な怒りとは別に外交上は倭国を従属させている事に成ります。

 問題の国書を作成した人物は聖徳太子と云われていますが、文章の内容を意味する処を聖徳太子は知っていたのでしょうか。

統一国家の成立・続く・・・

2013/07/17

歴史のお話その163:分裂から統一へ②

<統一国家の成立・隋②>

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◎隋の政策

 都は大興城ですが、長安の名称の方が有名です。
土地制度は北魏より引き続いて均田制、税制は租庸調制です。
均田制によって国家から土地を支給されている農民を均田農民と呼び、均田農民が国家から土地を支給されるかわりに、国家に対して納めるのが租庸調(そようちょう)です。
租は穀物で納める税、庸は労働力で納める税、一年のうち一定期間政府に労働奉仕し、調は各地の特産物などで支払う税です。

 更に均田農民には兵役が在り、均田農民によって編成される兵制を府兵制と呼びます。

 均田制と租庸調制、府兵制は一体で実施されて効果が上がる制度で在り、この制度によって、王朝は豪族に頼らずに直接に農民を把握し、軍事力を手に入れることを可能としました。
北魏時代から徐々に整備されてきた国家制度が隋の時代に実が結んだのです。

 官僚登用制度は「選挙」。
試験による官僚登用制度で、この制度が発展して後の宋の時代に科挙(かきょ)と呼ばれるようになります。
隋の時代は選挙で採用される官僚の数は未だ少なく、家柄によらず人物を選ぶ試験を始めた事実は、高く評価されます。

 貴族も官僚として活躍していますが、隋の時代からは貴族出身官僚を地方官に任命しなく成りました。
地方の地盤を重視した結果で、貴族は豪族的な面を徐々に無くして行き、王朝に寄生する存在に近づいていきます。
後漢滅亡後の課題であった皇帝権力の強化はこの様な形で実現していくのです。

 4世紀に渡る分裂の間に江南地方、長江南方の地域は南朝によって開発され、農業生産が伸びていました。
隋はこの地域を中国北部に結びつける為に大運河を建設します。
南は長江南方の杭州から現在の北京近くまで全長1500キロメートルにも成ります。

 大運河は南北中国の経済の大動脈として以後の社会に欠かせないものとなっていきます。
後の唐の繁栄は、この運河の恩恵なのです。

 文帝楊堅を継いで隋の二代目の皇帝に就いた人物が煬帝(ようだい)です。
煬帝は暴虐な皇帝であるという評価が一般的で、帝という字を「てい」と呼ばずに、格落ちの意味で「だい」と読むようになっているのです。
煬という文字も、非常に縁起の良くない悪い意味の字で、隋に代わった唐にとって煬帝を非難して自らの王朝を正当化する必要もあったのでしょう。

 実際の煬帝はそれほど暴君なのか言えばと、贅沢三昧が悪いとすれば其れは普通です。
南朝では皇帝の名前に値しない人物は、沢山居ましたから・・・。

 ただ煬帝が人民を徹底的に徴発した事には恨みを買いました。
大運河の開削工事で農民を人夫として徴発し、普通土木工事に駆り出されるのは男と決まっているのですが、大運河開削には女性も動員され、これは前代未聞の出来事でした。

 対外戦争では、高句麗遠征を三回おこない、全て失敗し、この戦争とその準備で多くの人民が命を失いました。

 高句麗は隋の東北方面、現在の朝鮮半島北部から中国東北部にかけて領土を保ち、煬帝は遠征の為の物資をタク郡(現在の北京付近)に集めるのですが、南方から物資を輸送する為に黄河からタク郡までの運河を掘削させます。 
この様な民衆の負担の激増で、各地で農民反乱や有力者の反乱が起きて隋は滅びる事になるのです。

統一国家の成立・続く・・・

2013/07/16

歴史のお話その162:分裂から統一へ①

<統一国家の成立・隋①>

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◎隋の中国統一

 長い分裂時代を終わらせて中国を再び統一したのが隋です。

 時代は北魏の孝文帝が漢化政策を実行した頃です。
実はこの漢化政策に不満を持った、辺境地域の軍人達が居り、彼等の反乱によって北魏は東西に分裂しました。
この軍人達は辺境防衛で苦労をともにし、強い団結力を持っていましたが、人種的には鮮卑系等の北方民族と、北方民族化した漢族が渾然一体となっています。

 この軍人達が北魏分裂後の西魏、北周の支配者集団に成ります。
彼等は質実剛健な雰囲気を持ち続け、東魏、北斉政権は南朝の貴族文化に影響されて軟弱化していきますが、北周は地理的な関係もあって南朝の洗練された貴族文化にあまり影響されなかったのです。

 隋の建国者は楊堅(ようけん)、後の文帝と成ります。
この人物は北周皇帝の外戚で、北周の皇帝から帝位を譲り受けて隋を建てます。
もともと楊堅も北周皇帝家も北魏時代の軍人仲間のグループなので、王朝が隋に代わっても基本的な政策の変更は殆ど無く、支配者層のも変化は在りませんでした。

 やがて、楊堅の隋は北斉、陳を滅ぼして統一を成し遂げるのです。
楊堅は漢民族と伝えられますが、生活文化はかなり北方民族化していた様です。
伴侶は独孤(どっこ)氏と云い、鮮卑族の有力貴族出身です。
従って、隋と云う統一王朝は、中国が北方民族の風俗習慣を吸収消化して生まれたものと考えたらよいと思います。

 さて、此れまで中国文化、漢民族等の単語を使ってきましたが、中国文化は常に周辺の民族の文化を取り入れて発展してきた文化です。
漢民族も、周辺民族を取り込んでその範囲が次々の拡大した民族なのです。

 漢帝国が崩壊してから隋の統一迄の長い分裂時代に、中国文化は五胡の文化をその中に消化しながら発展進化して行きました。

 因みに、隋が滅んだ後を継ぐのが唐です。
唐は広大な範囲を支配下に置き、大唐文化圏を形成していきます。
日本からも遣唐使が派遣され、阿倍仲麻呂の様に、唐に入朝以後、唐の皇帝に認められ、唐の官僚として生活しました。
唐は、その人間が何民族の出身であるかは、全然問題にしない国家で、北魏、西魏、北周という流れの中で、いわゆる中国人と北方民族が融合していった、その流れが隋、唐という国の基本的な姿勢にも現れていると思います。

統一国家の成立・続く・・・

2013/07/15

歴史のお話その161:分裂の時代⑦

<魏晋南北朝時代⑦>

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◎代表的な文化人と作品②

 陶淵明や王羲之が活躍し、華麗な貴族文化が、咲き乱れた華南に対して、華北では、五胡系統の王朝が継続して建国された結果、華やかな貴族文化は生まれませんが、実用的な書物が書かれました。

 農業技術書として有名な「斉民要術(せいみんようじゅつ)」。
 「水経注(すいけいちゅう)」は地理書として紹介されていますが、事実、中国国内に流れる河川沿いの風俗、歴史等を紹介した書物なのですが、妖怪や怪獣も実在の存在(!)として登場していますので、実用的な書物とは少々分野が違うと思います。

 五胡十六国の支配者である北方、西方の民族は仏教を保護し、招かれて西域から仏僧が渡来します。
仏僧として名前を残している人物が、仏図澄(ぶっとちょう、ブドチンガ)(?~348年)、鳩摩羅什(くまらじゅ、クマーラジーヴァ)(344年~413年)が有名です。

 仏図澄は、中央アジアの都市国家、亀慈(クチャ)出身で、精力的に中国で仏教を布教しました。
鳩摩羅什は、父親がインド人、亀慈の王女を母親とする人物で、インド留学も経験した一流の仏教僧でした。
五胡十六国時代に中国に渡り活躍するのですが、この人は仏典の翻訳で有名です。

 仏典はインドのサンスクリット語で書かれている為、中国語に翻訳しなければならず、鳩摩羅什はその作業を行ったのです。

 従って日本が仏教を取り入れた時には、当然ながら日本語訳は存在していません。
現在でも仏事でお坊さんが読むお経は漢訳仏典で、日本には鳩摩羅什の様な人物は居なかったのです。

 仏教遺跡は北魏時代の石窟寺院で、雲崗(うんこう)、竜門(りゅうもん)の二個所が有名です。
雲崗は初期の都、平城近郊、竜門は後期の都、洛陽の近郊に造られた寺院ですが、ともに岸壁に造られた巨大石仏で有名です。
竜門は洛陽に近く、北魏時代から20世紀まで連綿と石仏が掘られ続け、掘られた年代を調べても興味深いと思います。

 唐の時代、日本から遣唐使が来朝しますが、その中には仏教を学ぶための学生も多く、日本から来た留学生も多分この竜門の大仏を見たと思います。
やがて時は流れて、聖武天皇の時代、奈良に大仏が作られました。
竜門の大仏と奈良の大仏は、同じルシャナ仏なのです。

 インドで生まれた仏教が、ガンダーラでギリシア文明と融合して仏像を生み、中国に伝わり北魏で造られた大仏が、唐の時代に日本に影響を与え奈良の大仏に成りました。
そういう意味で、まさしく日本は文化伝搬の終点なのです。

 宗教では道教が確立、発展したのも北魏の時代です。
寇謙之(こうけんし)(365年~448年)が道教を体系化して北魏の保護を受けて発展しました。

魏晋南北朝時代:終わり・・・

2013/07/14

歴史のお話その160:分裂の時代⑥

<魏晋南北朝時代⑥>

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◎代表的な文化人と作品

 東晋の詩人で陶潜(とうせん)、若しくは陶淵明(とうえんめい)。
作品は「帰去来辞(ききょらいのじ)」が有名です。
これは「帰りなん、いざ」の一文からはじまる詩で、役人を辞めて田舎に帰る時に作ったと云います。この詩の一節に「五斗米の為に腰を折らず」の言葉が在りますが、五斗米とは役人としての陶潜に支払われていた給料を意味しています。
腰を折るの表現は、お辞儀をすることで、「僅かな給料をもらう為に上司に媚び諂う様な役人仕事はもう止めにしよう。俺は仕事を辞めて田舎へ帰って、静かに毎日を暮らす方が良い」、という詩なのです。
陶潜も当時の貴族に広まっていた逸民的な気質の中に居る人物のなのです。

 南朝宋の詩人謝霊運(しゃれいうん)は、超一流の名門貴族でもありました。
官僚なのですが、傲慢な性格故に左遷されて田舎に赴任するのですが、その地の美しい自然に心を癒されて、山水詩を書きました。
自然の風景の中に自分の精神を融合させて、安らぎを得る感覚ですね。
当に仙人の境地です。

 南朝梁の国の皇太子、昭明太子。
即位する事無く他界しますが、彼の編集した本が「文選(もんぜん)」と云い、古今の名文を集めたもので、貴族達が文章を書く時の参考にしたものです。
日本にも渡来し奈良・平安の貴族達が、漢文を書く時の手本にした有名な本です。

 東晋の名門貴族、王羲之(おうぎし)。
書聖と呼ばれる書道の名人で、筆と墨を使って書く行為を芸術にした人と思って良いでしょう。

 代表作が「蘭亭序(らんていじょ)」。
名門貴族達40数人が蘭亭という風光明媚な場所に集まって宴会を行います。
如何にも「清談」的な雰囲気の集まりで、皆で作った詩を集めたものに王羲之が序文を書いたのですが、これが「蘭亭序」。
傑作の誉れも高い物ですが、後の時代、唐の太宗が自分の墓に一緒に埋葬した為、実物は現存していません。

 その他の作品でも、王羲之本人が書いた真筆は伝わっておらず、現在、私達の目に触れる作品は臨書(りんしょ)と云い、後の時代の名人が書き写したものです。

 顧愷之(こがいし)。
この人物も貴族ですが、役人としてもその地位は低く、画家としての方が有名です。
肖像画が得意とし、その代表作が「女史箴図(じょししんず)」で、貴族女性の日常生活を描いています。
当時の貴族達の暮らし振りが判って興味深いものが在ります。
日本では、余り利用されなかった銅鏡を使用する姿や、屋敷での畳の置き方等、当時の貴族生活を垣間見る事が出来ます。
是等の絵が、そのまま日本に伝わり、良い例が百人一首の絵です。
天皇や貴族の座り方とまったく同じなのです。

 日本では畳はどんどん普及して、部屋全体に敷くようになって現在に至りますが、一方、本家の中国では唐の時代くらいから、椅子とテーブルの暮らしが一般的に成り、現在では畳は使っていません。
「古い時代の文化は、辺境地域に残る」という文化伝達の原則が在りますが、その実例で、この場合、辺境とは日本の事です。

魏晋南北朝時代:続く・・

2013/07/13

歴史のお話その159:分裂の時代⑤

<魏晋南北朝時代⑤>

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◎魏晋南北朝時代の文化

 この時代の文化の担い手は貴族です。
代々続く豪族は既に貴族階層で、特に華北の戦乱を逃れて、南方に逃れてきた貴族達によって成熟した貴族文化が発達します。
中国南部の王朝で発展した結果、六朝(りくちょう)文化と呼ばれています。

 後漢の末から豪族⇔貴族達の間で逸民的な雰囲気が流行しました。
混沌とした政治の世界から身を引き、儒学的な道徳に因われず、精神的な自由を守ろうという風潮です。
先の諸葛亮も劉備に懇願される迄は田舎で隠遁生活を送っており、彼も逸民的な生き方をしていたと考えられます。

 儒学に変わって主流に成った思想が老荘思想、道家系統の思想で、西晋の頃から貴族達の間で老荘思想に基づく弁論合戦が盛んに行われました。
貴族の集まりで奇をてらった面白い議論を展開できれば、人物の評判が高まりました。
この様な議論を「清談」と呼びます。

 特に清談で有名になった貴族が七人居り、彼等を「竹林の七賢(ちくりんのしちけん)」と呼びました。
竹林が茂る別荘に集まって清談して時間を過ごしたのです。
竹林の七賢は皆政府の高官でも在り、彼等は現代ならば、国家の発展や人民の生活の安定の為に一所懸命働かなければならない立場なのです。
しかし、浮き世離れした清談に時間を費やしている行為は、悪い言い方をすれば貴族達の現実逃避の手段のひとつであったかもしれません。
そう様な意味でも、「清談」には国家から半分背を向いている、当時の貴族⇔豪族の生き方が良く現れていると思うのです。

 貴族階級には麻薬も持て囃されました。
五石散(ごせきさん)と呼ばれる麻薬を利用している記録が多く在り、やはり死亡事故も発生しています。
貴族の社交場は麻薬で陶酔しながら、浮き世離れした哲学論を戦わせる場でも在った訳です。

魏晋南北朝時代:続く・・

2013/07/12

歴史のお話その158:分裂の時代④

<魏晋南北朝時代④>

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北魏骑兵俑

◎魏晋南北朝時代の政治

 皇帝は国家権力を強化したいと考えるのは、当然の成り行きで、その反対勢力に成りうるのは豪族勢力です。
豪族勢力を押さえて、皇帝権力を強化する方法を画策しました。

 第一に土地、豪族よりも広い農地を直接皇帝の支配下に置く事で、単純に豪族よりも強い権力を持つ事が出来ます。
 その土地で自作農民を育成し、租税を徴収し、更に自作農民を徴発して兵士にする事が皇帝にとって可能に成りますし、計画通りに進めば、豪族に頼らない軍事力と経済基盤を持つことが可能です。

 その為の政策が、三国の魏の屯田制、西晋の占田・課田法。
占田・課田法は豪族の土地所有を制限し、自作農を作り出すための政策といわれています。
更にこの政策の完成された姿が北魏の均田制で、孝文帝の時代に実施されました。
この政策も自作農民を育成する仕組みですが、均田制は国家が人民に土地を支給し、人民は土地を支給されて自作農になることができる代わりに、彼等は国家に対して租庸調(そようちょう)の租税を納め、兵役の義務も果たすことになります。

 この政策によって北魏は強力になったとも云えます。
この均田制は北魏に続く歴代王朝にも引き継がれ、北周を継いで中国を再統一した隋、隋に代わった唐でも均田制は実施されました。

 唐の時代に日本から遣唐使が来朝し、遣唐使がこの均田制を日本に伝えました。
これが班田収授法に名称を変えて、日本でも実施されたのです。

 皇帝権力強化の二つ目の課題が官僚の登用でした。
皇帝の手足となって働く官僚は、中央集権を目指す王朝にとっては絶対必要なのですが、これを如何に採用するのか。
豪族として私利私欲を追求するのではなくて、王朝に忠誠を尽くす人物を採用しなければ成りません。

 魏が実施した九品中正法がそのための方法です。
しかしこの方法によっても採用されたのは豪族の子弟で、しかも、九品中正法は豪族の家柄をランク付けしましたから、有力な豪族は代々高級官僚を輩出する事になりました。
このような豪族は事実上貴族で在って、西晋の時代にはその様な貴族の家柄が概ね決まってきたようです。
これでは、皇帝に忠実な官僚の採用とは言えません。

 但し、豪族即ち貴族が九品官人法によって、国家の序列の中に位置づけられた意味は在りました。国家の存在と無関係に貴族が存在できるのではなく、国家や皇帝権力によって高い家格に位置付けされる事を彼等は望み、その点では九品中正法は豪族を国家権力に取り込んだと云えます。

 九品中正法は魏晋南北朝時代の各王朝で採用され、どの王朝も是が非でも豪族⇔貴族勢力を国家権力に取り込もうとしたのです。
国家権力が豪族とは無縁の官僚を登用できるようになるのは、更に後の隋、唐の時代を迎えてからでした。

魏晋南北朝時代:続く・・・
2013/07/10

歴史のお話その157:分裂の時代③

<魏晋南北朝時代③>

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◎北魏

 五胡の民族は間断なく南方に侵略してきます。
一方東晋王朝は侵入を阻止しなければならず、機会が在れば華北を奪還したいのは当然でした。
従って、如何なる努力を払っても、軍事力を強化しなければならならず、やがては、この軍人達が政治的な発言権を持つように成り、それは更に王朝権力を不安定なものにして行きました。
東晋以後の南朝諸王朝は、軍人が帝位を簒奪した建国した国家です。

 華北で五胡の短命地方政権が興亡を繰り返しているなかに、徐々に勢力を拡大した勢力が北魏で、鮮卑族の拓跋珪(たくばつけい)が建国者、この拓跋氏という部族の族長です。

 この北魏が五胡十六国の分裂状態を終結させ、華北を統一したのが439年。
太武帝(たいぶてい)統治の時代でした。
この間に北魏は華北支配の基礎を固め、当然漢人豪族の協力も得ていくことに成ります。
鮮卑人の数は漢人に比べれば微々たるもので、漢民族豪族の協力がなければ中国支配は不可能です。華南に逃れずに北部に留まり続けた豪族勢力も当然存在し、北魏の皇帝一族も漢人との結びつきを強める為に漢人豪族と婚姻関係を結んでいきました。

 この様な状況の中で登場するのが、北魏第六代皇帝孝文帝(こうぶんてい)(在位471年~499年)です。
孝文帝は当然鮮卑族ですが、帝の母親は漢民族、彼の祖母も漢民族なので、どの民族の属するのかと云う問題は、実質的にはあまり意味が在りません。

 北魏の国家を鮮卑族の国家から、民族的な差別を越えた国家へと発展させなければ中国全土を支配することなど不可能なので、孝文帝は積極的に漢化政策をおこないました。
 
 具体的には首都を辺境の地、平城(へいじょう)(山西省大同)から、洛陽に遷都、宮廷で鮮卑語の使用を禁じ、鮮卑族の軍人や役人は総て中国語(漢民族の言葉)を話さなければ成りません。
名前も中国風に改名し、皇帝一族自身も拓跋という姓を元一字姓に変更しています。
この政策には、鮮卑族有力者達の当然の反対抵抗も在ったのですが、孝文帝は改革を推進したのです。

 実話なのか逸話なのか区別できませんが、変わった話が伝えられています。
鮮卑族の拓跋氏には一つの風習がありました。
皇帝の生母を殺すという風習で、これは外戚が権力を持つことを避ける為にずっと前から実行されていたと云います。
孝文帝は幼少で即位するのですが、その結果かれの母親は殺されている訳です。

 中国の儒学的発想から見れば考えられない野蛮な行為で、親には「孝」が中国的な道徳です。
孝文帝は血統から見れば、鮮卑族の血よりも漢族の血の方が濃く、鮮卑族の風習と同じように中国の儒学的な発想も身につけていたに違いないと思われます。
両方の価値感を持ち、常識的に考えて自分の母親が殺されて悲しくない訳はなく、孝文帝の場合は母の死は自分の即位が原因な訳で、彼は鮮卑族の風習を忌み嫌ったに違いないと私は想像します。
その様な背景を考察すれば、孝文帝の漢化政策は理解できると思います。

魏晋南北朝時代:続く・・・

2013/07/09

歴史のお話その156:分裂の時代②

<魏晋南北朝時代②>

匈奴征战图

◎西晋から東晋

 西晋(265年~316年)、建国者は司馬炎、この人物の祖父が「三国志演義」で曹操の信頼を得た大将軍、司馬懿(しばい)です。

 因みに司馬懿は蜀の諸葛亮が魏への侵攻を防衛して名を挙げて、諸葛亮の死後は東方の遼東半島にあった公孫氏の独立政権を滅ぼします。
この結果、朝鮮半島までが魏の勢力範囲に入り、そこにやってくるのが倭の邪馬台国の使者です。
有名な「魏志倭人伝」はこの魏の国の歴史書の一部分で、歴史に「若し」は禁物と云われますが、若し、諸葛亮が死なず、司馬懿が蜀との国境に布陣したままで在ったなら、朝鮮半島は魏の勢力範囲には入らず、魏の歴史書に邪馬台国の記録は残されなかったもしれません。

 司馬懿は魏の国で実力者と成り、彼の子も、孫である司馬炎も魏の大将軍の地位を握りつづけます。魏は曹操、曹丕は力がありましたがそれ以後は無力な皇帝が相次ぎ、次第に司馬家に実権を握られ、司馬炎が遂に魏の皇帝から帝位を奪って晋を建てることに成りました。

 従って、司馬炎は祖父の遺産で皇帝の座を射止めたので在って、大人物では在りません。
即位すると怠惰な生活に一気に傾いた様ですが、それでも280年には呉を滅ぼし天下統一なされますが、彼の無き後帝位を巡って王族どうしの内紛が発生します。
八人の王族がそれぞれに軍隊を率いて内乱を起、これを八王の乱(291年~306年)と呼びます。

 この王達は、相手を倒す為には自分の軍事力を強力にすれば良いので、そのための手段として周辺の異民族の力を導入しました。
遊牧系の民族は中国兵よりも強く、各部族の長達を上手く誘って、配下として戦わせました。
遊牧部族の者達は、最初晋の王族の下で戦うのですが、中国人は弱く、此処で何も中国人の命令を聞いて行動しなくとも、自らの部族の力だけで中国内地に政権を打ち立てることができる、と考え始めたのです。
遂には、晋の王族に連合していない部族まで移住が始まり、晋国内は大混乱に陥り、最終的に晋は滅亡したのでした。

 この時に中国内に入境した異民族が五胡と呼ばれます。
匈奴、鮮卑(せんぴ)、羯(けつ)、テイ、羌(きょう)です。
テイと羌はチベット系の民族、鮮卑はモンゴル系、匈奴は民族系統不明、羯は匈奴の別種と思われます。 

 遊牧系民族が国を建てた結果、華北では農村荒廃が進行し、五胡どうしの争いも続きました。
華北の豪族達は、配下の農民達を引き連れて南に逃れます。

 華南に晋の王族の一人司馬睿(しばえい)が逃れて東晋を建国、都は建康、華南にはまだ開発されていない土地が可也存在し、東晋政府はその土地を逃れてきた豪族達に割り当てていきます。
其処が豪族たちの新たな地盤となりますが、華南には華南土着の豪族もいます。
かつては呉政権を支えた人々で、土着豪族と新参の豪族は当然ながら、不協和音が伴いました。
東晋の皇帝はこの様な豪族達の微妙な人間関係の上に立って政権を維持していったのです。
しかも、北には五胡の圧迫が常に存在していました。

魏晋南北朝時代:続く・・・

2013/07/08

歴史のお話その155:分裂の時代①

<魏晋南北朝時代①>

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◎大分裂時代

 後漢滅亡後、三国時代を迎えますが、魏に代わる国が晋です。
晋が蜀と呉を滅ぼし、一度中国を統一します(265年)が、混乱の為に短期間で晋は滅びます。

 華北には北方、西方の異民族が侵入し、彼等の部族単位による小さな政権が複数誕生しました。
この時代を五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代(316年~439年)と呼び、五つの異民族によって十六の政権ができた時代を意味しますが、華北は大混乱の時代です。

 やがてその中の一国北魏が華北を統一します(439年)。
北魏はやがて東西に分裂(534年)して東魏、西魏が成立するのですが、更に東魏は北斉(ほくせい)(550年~577年)、西魏は北周(556年~581年)に代わります。
北魏から北斉、北周までの五つの王朝は総て同じ系統の政権なので、これを総称して北朝と呼びます。

 異民族の政権が成立したのは華北だけで華南にまで彼等の侵入はありませんでした。
崩壊した晋の王族の一人が南に逃げてここに晋を再興し、これを東晋(317年~420年)と呼びますが、東晋と区別してその前の晋を西晋と呼ぶことも在るので注意が必要です。

 東晋を滅ぼした勢力が宋、その後、斉、梁、陳と等の王朝が続き、この宋から陳までの四つの王朝を総称して南朝と呼び、華北の北朝と対峙する恰好に成ります。

 北周が北斉を滅ぼして華北を統一した後、581年に北周が隋に代わり、この隋が南朝最期の王朝陳も滅ぼして再び中国全体を統一するのが589年です。

 後漢滅亡後、隋の統一までの370年間が大分裂時代と成るのです。

 この時代全体の呼び方は、魏晋南北朝時代が一般的ですが、南方の政権に着目して六朝(りくちょう)時代と言うことも在ります。
三国の呉、東晋、南朝の宋、斉、梁、陳、全部で六つの王朝が存在したので六朝。
この六つはすべて都が現在の南京なので、一連の王朝と考えている訳です。

 しかし、王朝の変遷は権力の最高位にある皇帝の家柄が代わって行くことを追っているだけの話で、大きな歴史の流れとしては、権力が不安定で長い分裂がつづいた時代として、考えて良いと思います。

 では、なぜ皇帝権力が不安定で政権交代を繰り返したのでしょうか?
三国時代でも書きましたが、豪族の勢力が強く、豪族層に対抗できるような皇帝権力の基盤を作れなかったのです。

 もうひとつは異民族の流入が見逃せません。
前漢、後漢の時代に積極的に対外政策をおこなった結果、北方の遊牧民族のあいだに徐々にではありますが、中国文明が浸透して行きました。
匈奴の中にも中国国内に移住して生活するような部族が出て、華北の場合は彼等の活動が更に混乱に拍車をかけたのです。

魏晋南北朝時代:続く・・・

2013/07/06

七夕のお話

いちばん古い七夕の由来

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 明日は七夕ですが、はたして星空を眺めることが叶うでしょうか?

 こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られ、織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘でした。

 夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルで、夏彦もまた働き者で、天帝は二人の結婚を認め、目出度く夫婦と成りましたが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなりました。
この為天帝は怒り、2人を天の川を隔てて引き離しましたが、しかし年に1度、7月7日の七夕の日だけは会うことが許されたのです。
雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡る事が出来ませんが、そのときはどこからか無数のカササギがやってきて、天の川に自分の体で橋を架けてくれると云います。

 日本古来の年中行事は、1年を半分に分けた時、1月からの行事と7月からの行事で、似通ったものが2回繰り返されると云われます。
例えば7月15日のお盆(新盆)と1月15日の小正月、どちらも祖霊祭に原義が在り、半年を周期に年月の流れを取られていた為と云われています。
では7月7日の七夕は、1月の如何なる行事に似ているでしょうか?
それは、若水汲みになります。

 吉成直樹『俗信のコスモロジー』(白水社1996年)に沿って紹介すると、高知県等での七夕に関する俗信の調査では、「里芋の葉にたまった水を集めて顔を洗うと肌が綺麗になる」「その水でイボや傷・吹き出物につけると直る」と云った事が言われます。
他には「その水で墨をすって字を書くと字が上手なる」と云うものも在りますが、之はこの日に技芸の上達を祈るという中国の乞巧奠の影響だろうということです。
里芋の葉の水とは、天から落ちてきた水だと考えられました。
そして肌や皮膚に関して人が若返るという信仰は、盆に備える為に禊で清めるというものとは異質のものだろうと云います。
皮膚が若返るとは、脱皮を意味するもので、水神=蛇を模したもので、その水神は天に住んでいるのだという信仰なのです。

 同じ調査では、6日の晩に14歳以上の未婚の少女たちが一つの宿に集まって、夜を通して、苧(お)を績(う)む行事があったと報告され、かつては全県で同様の行事があったといいます。「苧を績む」とは麻の繊維から麻糸を作ることです。
辞書によれば「苧績み宿」「糸宿」ともいい「娘宿の一。夜間、娘たちが集まって麻糸を紡いだり糸引きの仕事をしたりする集会所。糸引き宿。よなべ宿。」(大辞泉yahoo版)と説明され、全国的な民俗だったようです。
機織りについて糸を績むことと類似の行為と見てよいと思います。

 七夕とは、神を祭る棚機姫(たなばたつめ)と呼ばれる女性が、水辺の棚の上で、機を織りながら、神の来訪を待つ神事だと云われ、其れは選ばれた特別の女性の様なイメージなのですが、村の総ての少女が集団で行なってきた事でした。

 七夕の伝説が一人の美しい女性の物語と成ったのは、物語だからそう成ったと云えばそれまでですが、神に選ばれたと云う結果から解釈された物語なのかもしれません。
神に選ばれたとは、毎年の糸引きや神祭りを続ける事によって誰もが結婚の資格を得た事を意味しているのでしょう。
未だ学校の無かった時代ですから、娘宿では機織等の他にも学ばねばならない事柄は沢山在り、或は春先に、日中に外へ出て若菜を摘んで自炊したり、様々な経験をする処が娘宿だった様です。

終わり・・・

2013/07/05

歴史のお話その154:統一から分裂へ番外

<三国時代番外>

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◎曹操は悪人だったのか

 3世紀の中国、後漢の帝国は名目を保っているに過ぎませんでした。
皇帝は、在位していても如何なる権力も無く、只、形の上で皇帝の座を保って居るだけでした。

 群雄割拠し、天下を争い、その中で最後迄残った3人の英雄が、魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備でした。
この3人の中で、曹操は大悪人、乱世の姦雄と昔から決まっており、あらゆる策略を巡らして、敵対者を倒し、終に魏王となって、暴虐の限りをつくす、形だけは、漢の皇帝をいただいていたものの、実権の全ては曹操が握っていました。
既に漢の天下は、魏王に奪われたも同然でした。

 220年、曹操が崩御すると、即位した子の曹丕は、漢の帝位を廃して、自ら魏の皇帝を名乗ります。
即ち、文帝であり、ここに漢の国は、名実供に滅亡したのでした。
之に対抗したのが、孫権であり劉備で、特に劉備は一世の英傑、その姓が劉氏である事からも、漢の皇室と同族であり、曹氏に奪われた漢の天下を回復する為、あくまで戦おうと、221年、自らも即位して、漢の皇帝たる事を宣言し、蜀漢の照烈帝となりました。

 劉備の処には、豪傑あり、謀将あり。
特に高明なのは、張飛と関羽、そして諸葛孔明、その生涯を劉氏の為、漢帝国の復興の為に捧げました。
しかし、蜀の地は中国の西方に位置し、人口も100万に達する事は無く、その国力は、魏に比べるも無かったのでした。
やがて、人口440万を擁する魏は、じりじりと蜀を圧迫し、263年蜀も二代にして滅亡してしまいます。

 呉は、江南を保って、人口130万、魏に対抗して、孫権も皇帝を称しましたが、やはり北方の強国、魏の大勢力には対抗できず、四代を保ったものの魏の後を受けた晋によって280年に滅亡します・

 魏呉蜀三国の興亡は、「三国志演義」が著されて以来、広く中国の民衆に好まれ、日本でも大変良く読まれたのです。
劉備は正しく、曹操は悪人と云う事が、この物語を貫く一本の太い筋で、日本に置き換えれば、後醍醐天皇と足利尊氏と言えるでしょう。
人々は、正しい劉備や諸葛孔明の悲運に涙し、あくまでも悪くて、強い曹操を歯がみして苦やしがりました。

 しかし、其れは歴史の真実な姿でしょうか?
劉備が正しいのは、漢の皇帝一族の出身であるとの理由ですが、実際には、劉備の生い立ち先に述べた通りです。
彼の祖父は、地方長官の役を得ていましたが、父親は早くに亡くなり、家は貧しく、その家系も偶然、劉氏で在った事から、漢の皇帝一族としたらしいのです。

 一方、曹操は、名実供に名家で、その父曹崇は、大変な資産家であり、漢の朝廷に仕えて大尉(大臣)の位を頂き、更に祖父は宦官の巨頭で、宦官として宮中に権力をふるったのでした。
宦官ですから実子ではなく、曹崇は養子で在り、曹操は名家の出身でも宦官の子孫という屈辱を背負っていました。

 ところで、生い立ちは別として、曹操は果たして極悪非道の人物で在ったのでしょうか?
確かに漢の天下を簒奪したのですから、主従の関係からも良くない事には違いないとしても、前王朝を倒して実力で皇帝の地位を得た者は、曹操だけの話では無く、劉備も同様と思います。
では、曹操は強いばかりの豪傑で在ったのかと云えば、彼は、書を好み、兵法に関して当代に並ぶ者の無い学者在り、更に文学の世界に至っては、天成の詩人で在りました。
その詩篇の数々は、今日に至る迄愛誦されています。

 「月明らかに星稀に、烏鵲南に飛ぶとは、これ曹孟得(曹操)の詩にあらずや。・・・酒をそそいで江にのぞみ、槊を横たえて詩を賦す。もとより一世の雄なり」

 宋代の詩人、蘇東坡も「赤壁の賦」のなかで、この様に詠い、曹操の長子である曹丕(文帝)も次子たる植も、ともに詩文の天才で在り、父子ともに詩文の歴史に与えた影響は、極めて大きいものがありました。

 では、曹操に関する悪評は、「三国志演義」の創作にすぎないのか?之も又否なのです。
物語として、形が整えられる以前に、講釈が在り、町の辻で講釈師が語り聞かせ、その重要な題材が、三国志の物語で在り、確かに宋代には、曹操は悪人の藻本とさえ、されていました。

 更に魏晋の時代、つまり曹操と同じ時代から、その評判は、良からぬもので、曹操の人格に関する悪評が多く、地代を経る毎に悪評を重なって行きました。
しかし、同世代の人物、陳寿が著した「三国志」は、流石に歴史書なので、決して曹操を非難せず、その構成からも三国の内で正当とされたのは、曹氏の魏で在りました。
「三国志」において、曹操や曹丕は、皇帝として扱われ、劉備や孫権は違うのです。
皇帝たる者と然らざる者とでは、文書の書き方も違い、しかも陳寿は、蜀の遺臣なのでした。

 其れが地代の経過と供に、蜀漢が正当とされ、劉備や諸葛孔明のみが同情される事と成ったのが、「三国志演義」で在って、そもそも曹操を悪人とし、更に極悪人に仕立てたのは、誰の仕業なのでしょうか?
其れとも、地代の風潮だったのかも知れません。

三国時代:終わり・・・


2013/07/04

歴史のお話その153:統一から分裂へ④

<三国時代その④>

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◎「三顧(さんこ)の礼」

 魏の政策制度では屯田制と九品中正法が有名です。
屯田制は後漢末の戦乱で混乱した農業生産を回復させる為の土地制度で在り、九品中正法は漢の郷挙里選に変わる官吏登用制度です。
地方に中正官をおいて、中正官が地方の人物を九等級に分けて中央に推薦し、中央政府はこれにもとづいて役人を採用していきます。

 後漢末、中国北部を統一した曹操は南方に侵攻し、これを迎え撃ったのが孫権、劉備の連合軍でした。
長江中流域で決戦になるのですが水軍に不慣れな曹操軍は大敗します。
これが有名な赤壁の戦い(208年)で、この敗北で曹操は統一を断念し、中国の分裂が決定的になりました。

 孫権が長江下流を中心に建国したのが呉(222年~280年)、首都は建業、これは現在の南京に成ります。
この国も南方土着豪族の勢力を結集して建国されました。

 劉備が現在の四川省を中心に建国した国家が蜀(221年~263年)、首都は成都。
この人物こそは有名な『三国志演義』の主人公です。
関羽、張飛等の豪傑を従えて黄巾の乱の鎮圧に活躍し、やがて諸葛亮という軍師を迎えて蜀の君主に成ります。
物語も現実も筋書きは同じでが、彼等の歴史上の事実よりも物語での活躍の方が有名に成ってしまい、虚構が現実と混同されている様です。
中国でも古くから講談や演劇の題材になり、今でもテレビドラマや映画になっていることは、ご存意の通りです。

 とくに劉備の武将関羽は人望が在り、神として祭られ、関帝廟が存在しており、蓄財の神様に成っています。

有名な軍師の諸葛亮は物語の中では、桁外れた知謀の持ち主で彼の立案した作戦や政策は正確に的をついて劉備を一国の君主に押し上げていくわけですが、劉備が諸葛亮を自分の家臣に加えた訳は、以下の物語が在ります。

 劉備は早くから関羽、張飛などと一旗揚げて活躍し、有名になっていくのですが、なかなか曹操や孫権のように一国一城の主として自分の地盤を作ることが出来ません。
各地で地方の太守の居候(いそうろう)、客将暮らしを続けていた時のこと、諸葛亮という知謀の士がいることを耳にしました。
彼を家臣に加えることができれば、自分も大きく発展することができるだろうと考えるのですが、諸葛亮は田舎に篭って誰にも仕えていません。

 劉備は諸葛亮の隠遁場所を訪ねるのですが、諸葛亮は不在、劉備は諦めきれず、もう一度自ら出向いて行きますが、再度不在でした。
普通なら諦めるところですが、何とかして自分の参謀に迎えたい思いは一層強く、もう一回訪ねていきます。
これが三回目。
三度目の正直では在りませんが、やっと在宅中でした。
ところが、諸葛亮は昼寝の最中で、劉備は昼寝の邪魔をしては諸葛亮先生に申し訳ないと思い、目覚める迄じっと待ったのです。

 やがて、諸葛亮目が覚め、三度も自ら訪ねてきてくれた上に、しかも自分が寝ているのを起こそうともせずに待っていてくれたことに、すっかり感激して劉備に仕えることに成りました。
これが三顧の礼の由来です。

 これは物語としての「三国志」の山場のひとつなのですが、実話とも云われています。
 
 では劉備とは一体何者なのでしょう。
彼は漢の皇帝家の血筋を引いていることに成っていますが、偶然姓が劉氏であるだけで、一般庶民出身です。
田舎では筵(むしろ)売りをしていましたが、黄巾の乱で機会を得て、成り上がっていくのですが、所詮身分が低い。

 後漢が崩壊していく過程で地方権力を打ち立てていくのはみな豪族でした。
曹操も豪族、孫権も豪族、しかし劉備は違います。

 諸葛亮は大豪族の一員ですが、諸葛家は中国全土に知られた大豪族でした。
諸葛亮には兄も居り、その兄は呉の孫権に仕え、大臣にまでなっています。
又従兄弟(またいとこ)は曹操に仕えていることから、魏や呉にとっても諸葛一族は自分の味方にしておきたいような大豪族、諸葛亮はそういう豪族の一員なのです。

 劉備が諸葛亮を家臣にできれば、「諸葛一族の諸葛亮が劉備に仕えたのならば、劉備も豪族仲間の味方と考えて良いだろう」と全国の豪族勢力に認知されることになるのです。

 実際、諸葛亮を迎えてからの劉備は早い期間で蜀の国を建てます。
蜀の地方の豪族達が、彼を君主として仰ぐことに賛同した背景には諸葛亮の存在は大きかったと思います。

 これほどに、豪族の力を無視しては何もできなかった時代だったのです。
逆にいえば、誰も全国の豪族勢力をひとつにまとめられなかったから中国が分裂したのでした。

三国時代:続く・・・

2013/07/02

歴史のお話その152:統一から分裂へ③

<三国時代その③>

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曹 操(永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日)

◎三国時代(詳しブロクも沢山在りますので、流して行きます)
 
 後漢滅亡後、中国は長い分裂時代に突入します。
一時的な統一の期間はありますが、ほぼ350年程分裂が続きます。

 その最初が、有名な三国時代で、魏、呉、蜀、の三国に分裂しました。
魏(220年~265年)、都は洛陽、この魏が後漢に取って代わった国で、中国北部を支配し、三国の中で最大最強の国家です。
建国者は曹操、曹丕(そうひ)、事実上は曹操が形成した国家ですが、彼は皇帝の位に就くことなく亡くなり、息子の曹丕の代に後漢最後の皇帝から位を簒奪して、魏の初代皇帝に成りました。
その為、形式的には建国者は曹丕。

 曹操はもちろん豪族出身、お爺さんが宦官で財産を築いたのですが、宦官でも養子をとって家を残すことがあるのです。
黄巾の乱鎮圧で頭角を表し、その他大勢の豪族を傘下に治めて、三国志の物語に出てくる彼の部下、武将や参謀は皆豪族出身者なのです。
それぞれ手勢を率いて曹操の配下に加わってくるのです。

 曹操が強かった理由は色々とあるのですが、例えば、後漢末の群雄割拠の時代に活躍した豪族に呂布(りょふ)が居ます、
なぜ彼が強いか?
呂布は匈奴兵を率いており、彼自身も現在の内蒙古出身で遊牧民族の血を引いていたと推定されます。遊牧民は騎馬に優れて勇猛です。
その呂布無き後、その軍隊を曹操はそっくりそのまま自分の軍隊に吸収します。
更には青州兵と呼ばれる、黄巾軍の残党も自軍に編成し、兵力として何でも利用できるものは利用します。

 三国時代で曹操は一番魅力的な人物と思います。
彼の魅力の根本は、従来からの儒学、道徳から解き放されているところでしょうか。
曹操は法家だとも云われ、先に党錮の禁以来「逸民」的な生き方が流行したと書きましたが、逸民というのは世間から逸脱(いつだつ)しているのです。
この逸脱の中身には、儒学的な道徳からの逸脱も含まれており、その様な意味では法家的な曹操も逸民と同じ根源を持っていると思われます。
その結果、行動にも大胆不敵で爽快なイメージがつきまといます。

 政治、軍事だけでなく文学の才能をも持ち合わせた人物でした。
曹操だけでなく息子の曹丕や曹植(そうしょく)も文才は変わらず、「建安の文学」と呼ばれて中国文学史上、黄金期のひとつに数えられる時代で在り、彼等は皆「建安の文学」を代表する詩人でもあうのです。

※曹操の詩

短歌行 曹操

酒に対わば当に歌え
人生幾何やある
譬えば朝露にも如たり
去日苦も多きことよ
慨らば当にもって慷け
憂思忘れ難し
何に以てか憂を解さん
唯杜康有るのみ
……
山 高きを厭わず
海 深きを厭わず
周公哺を吐きたれば
天下心帰せたりとかや

さけにむかわばまさにうたえ
ひとのいくるやいくばくのときやある
たとえばあさつゆにもにたり
すぎにしひびさてもしげきことよ
おもいたぎらばまさにもってなげけ
こもれるおもいわすれがたし
なにによりてかむすぼれるおもいをけさん
ただうまざけあるのみ
 ……
やま たかきをいとわず
うみ ふかきをいとわず
しゅうこうくちのなかのたべものをはきたれば
あまがしたこころよせたりとかや

(竹内実・吉田富夫編訳「志のうた」中公新書より)

 人生は朝露のように短く儚いものですが、振り返って見れば、色々な出来事が思い出されて、胸が痛い。
そんな時には美味い酒を飲んでうたおうではないか。
山は高いことを嫌がらないし、海は深いことを嫌がらない。
周の建国の功臣、周公旦(しゅうこうたん)は仕官したい者や政治について意見を持つ人が訪れれば、食事中であっても口の中のモノを吐き出してまでもすぐに面会した。
だから、皆が心服したのだ。

 意味は上記の通りですが、周公旦に自分を重ねているのは理解できます。
山が高いように、海が深いように、周公旦がそうであるように、俺、曹操もそのようにあるのだ。
彼の意気込みが伝わって来ます。

三国時代:続く・・・

2013/07/01

歴史のお話その151:統一から分裂へ②

<三国時代その②>

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◎後漢末期の情勢②

 豪族に土地を奪われ、小作や奴隷として生きていく極限状態の中で生活している農民達は、心の拠所が欲っしました。
かれらが頼った対象が宗教でした。
この時代、宗教が大流行し、宗教結社の活動が活発化して来ます。

 宗教結社で特に大きな集団は二つ在り、太平道(たいへいどう)、五斗米道(ごとべいどう)で、これらは後に道家思想と結びついて道教の源流に成って行きます。

 二つの集団とも病気を治すと宣伝した、民衆の人気を獲得していくのですが、特に五斗米道の活動は興味深く、信者に成ろうとする者は、五斗の米を教団に納めます。
信者に成れば、祈祷やお札で病気を治してもらえるだけでは在りません。

 この宗教結社は「義舎」と呼ばれる施設を作っているのですが、簡単に言えば無料宿泊所なのです。信者が流民に成って生活の基盤や住居を失ってしまった場合、「義社」に泊まることが出来、食事も出来るのです。
五斗の米を出せない様な貧しい民衆でも利用できるのですが、その場合は労働奉仕を行えば良いのです。
橋の修理、道路の補修、堤防を修築したりする労働を行い、本来、政府や農村の共同体が行うべき仕事なのですが、当時の後漢政府は腐敗が広がり、共同体は豪族の私利私欲で崩壊していました。
その様な部分を五斗米道の教団組織が担っていたのです。

 この様な教団に人気が出ない訳は無く、最終的には現在の陜西省から四川省にかけて独立国の状況を呈する迄に発展していきました。

 太平道は五斗米道の様な具体的な活動はよく判っていませんが、多分同様な活動を行なっていたと思われます。
中国の東部を中心に数十万の信者ができ、政府の無策と豪族の横暴がつづく限り、困窮した農民達が次々と信者に成っていくのです。

 太平道の指導者は張角で、農民信者の支持で自信を持ち、後漢を滅ぼして、新しい国を建設しようと考えました。
信者を軍隊組織にして大農民反乱をおこしたのが黄巾の乱(184年)です。

 黄巾の乱の参加者の矛先は、後漢王朝と農民を苦しめる豪族です。
後漢政府は頼りにならず、豪族達はそれぞれに私兵を組織して黄巾の乱と戦いましたから、所謂群雄割拠の状態に成って行きました。

 この時に兵を挙げるのが三国志のお話で有名な曹操や、孫堅、劉備、その他の英雄達なのです。
三国志の物語では彼等が英雄で黄巾の乱は、農民を苦しめる悪い輩に成っていますが、農民の視点から見れば曹操達は農民を苦しめる側の豪族で、やむにやまれず立ち上がった農民反乱を鎮圧しようとする人物となるのでした。
豪族達の奮戦で黄巾の乱は、鎮圧されますが後漢政府は事実上無力化しますが、政府はこのとき活躍した豪族達に官職を与えて名目的には存続しました。

 後漢が名実ともに滅び去るのは220年です。

三国時代:続く・・・