2013/08/31

歴史のお話その198:蒼き狼の帝国④

<モンゴル帝国の成立④>

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◎モンゴルは何故強力な力を保持したのか②

 モンゴル兵の強靭さは、更に在ります。
千戸制、機動力の他に挙げるとすれば、モンゴル人の純朴さ、素直さがあると思います。
今でも、モンゴル共和国で遊牧生活を行う人々は日本人が遥か昔に忘れてしまった人の良さを持っているそうです。
現在の日本人が、感動するくらい素朴な人達とのこと。

 チンギス・ハーン時代は尚更だったことでしょう。
素朴で素直と言うことは、兵士としては多分一番の適性で、「前進」と命令されれば、何があっても何処までも前進すし、「殺せ」と命令されれば、疑うこと無く従いました。

 しかも、この様な兵士達がチンギス・ハーンに忠誠心を持つのですから、これに太刀打ちできる軍隊はまず存在せず、言葉で表せば「困苦に耐え、快楽を喜び、命令に忠実である」と言えます。

 未だ、チンギス・ハーンが大勢力を築く前、モンゴル高原の統一を目指していた頃ですが、ある戦いでチンギス・ハーンの首に敵の矢が刺さって、ばったりと倒れ、戦いが終わっても彼は昏倒したまま目が覚めることが在りません。
やがて、吹雪になって雪が降りだしますが、矢が急所に刺さっているだけに動かすに動かせないのです。
其処に一人の武将が、自分の服を脱いでチンギス・ハーンの身体にさしかけ、一昼夜を共にしました。
一日経って、チンギス・ハーンは無事に目覚めるのですが、自分の周りにだけ雪が積もっていないことに不思議に思いながら見渡すと、その武将は身じろぎもせずに傍に付き添っていたと云います。
この様に忠義を尽くす武将が沢山存在した軍隊がモンゴル軍なのです。

 更に初期のモンゴル軍は、抵抗した都市を徹底的に破壊し、その住民を殲滅しました。
恐怖の軍隊として、その残虐さを強調することで宣伝効果を狙っていたふしも在ります。
ホラズム攻略では、ある都市を降伏させるとその住民総てを奴隷にして、次に攻略する都市まで引き連れて行き、その奴隷達を攻撃の第一陣として使い、又は、攻撃の為の土木工事に死ぬまで働かせました。
抵抗すれば後ろからモンゴル軍に殺されるので、前進して仲間に対して攻撃を仕掛けなければならず、退くも地獄、進むも地獄です。

 残虐さは、敵の抵抗を引き起こすものの様ですが、モンゴル軍の様に徹底的な殲滅攻撃は、抵抗する気力すらも無くなるものかもしれません。

 チンギス・ハーンが晩年に将軍達を集めて宴会を行った場で、彼は将軍達に訪ねます。
「人生最大の幸せは何か」
将軍達は「草原で家族に囲まれてのんびり遊牧をすることです」と答えたのですが、「それは違う」とチンギス・ハーンは言い放ちます。
「人生最大の幸福は、敵を思う存分撃破し、駿馬を奪い、美しい妻や娘を我がものにし、その悲しむ顔を見ることだ」

 最後の言葉が凄いと思います。
悲しむ顔を見ること、この様な言葉を吐き出す人間は、大帝国を築いた英雄だとしても、とんでもない人物です。

 チンギス・ハーンについて、二つ程逸話を紹介します。

 モンゴル族が対立する部族、ナイマン族を滅ぼした時にナイマン王の金印を手に入れたチンギス・ハーンは、その物が何なのか解りません。
この金印を文書に押すだけで、王の命令が全国に行き渡るのです、と教えられて非常に感心したという話が在ります。

 又、金国の北部を占領した時、中国の農民を皆殺しにして農地を総て牧草地にすれば、沢山の馬が飼えると喜んだのですが、それを聞いて遼の王族出身でモンゴルに仕えていた耶律楚材が、農民は生かしておけば一年に一度たっぷりと税金が取れるのですよ、とチンギス=ハーンに進言します。
その言葉に一利有るなと思ったチンギス・ハーンは、一年様子を見ていたら確かに収穫時にどっと税が入って納得したと云います。

 此等はモンゴル人を低い文化の民族とする為に中国人が作った話かもしれませんが、それでも当時のモンゴル人の雰囲気を伝えていると思います。

 この逸話の言わんとする処は、初期のモンゴル人の政治的経験は、遊牧社会にしか通用しないものでした。
領土を拡大するに伴って、様々な統治技術が必要になり、民族人種に関係なく有能な人材を次々に政府の中枢部に組み込んでいきます。
耶律楚材もその一人です。
 
 又、チンギス・ハーン時代のモンゴルの人口は十万戸、七十万人程度なので、征服地が増えるにしたがって、モンゴルの千戸制に組み込まれる人々も増えます。
近代的な民族意識はまだ存在しない時代ですから、新たに組織された人々、政府中央で活躍する人々、それらを総て含み込んで、モンゴルと呼ばれる巨大な集団が形成されていったのです。

蒼き狼の帝国:続く・・・


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2013/08/30

歴史のお話その197:蒼き狼の帝国③

<モンゴル帝国の成立③>

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◎モンゴルは何故強力な力を保持したのか

 チンギス・ハーンの死後もモンゴルの発展は続きますが、何故モンゴル軍は戦争に強かったのでしょう。

 チンギス・ハーンは「千戸制」という軍団組織を作り上げました。

 「人類始まって以来、現在に至る迄モンゴル軍の様な軍団はかつて存在しなかった。彼らは困苦に耐え、快楽を喜び、命令に忠実である。それは賃金や封土や収入や昇進目当てではない。(中略)出征に際してはその目的の為に必要な総ての品物を点検する。(中略)点呼の時には装備の検閲を受け、少しでも欠けたものが有ると責任者は処罰される。(中略)軍隊の召集や点呼の制度が完備しているので徴兵薄や徴兵担当官を置く必要がない。総ての兵士は10人の組に分けられ、その1人が長となって他の9人を指揮する。10人の十戸長から1人の百戸長を選び、100人がその指揮下に入る。1000人で千戸、10000人で万戸を作り、万戸の長をテュメンという。」
ジュワイ二ー「世界征服者の歴史1」より

 この様に組織化された軍団が、チンギス・ハーンの意のままに行動し、この千戸制は軍制だけでなく、日常の行政組織でもありました。

 千戸制のシステムによって集められた兵士達は、総て軽騎兵ですから、機動力は抜群でした。
モンゴル兵は一人で五・六頭の馬をつれて従軍します。
騎馬軍団が遠征し、ずっと同じ馬に乗り続ければ、馬も疲れて潰れてしまいます。
その様な状況に成れば、兵士はその馬を乗り捨てて予備の馬に乗り換え、この様にして次々と馬を乗り換えて行軍しますから、敵の不意をつく速さで戦場に到着して攻撃をすることが可能でした。

 ホラズム王国を攻略した時等は、モンゴル軍から包囲攻撃された都市が、別の都市にモンゴルが侵略を知らせ、知らせを受けた都市が防備を固めようと準備をしていると、もう地平線の向こうからモンゴル軍が迫って来る状態なので、敵軍に軍備を調える余裕さえ与えません。

 乗り捨てられた馬達はどうなるのでしょうか?
馬には鳩や犬と同じ様に帰巣本能が在り、放っておけば、勝手に故郷に帰るのです。
遠征を終り兵士が家族の元に戻ってみると馬の方が先に帰っていることに成るのです。

 機動力を高める為には余分な装備は持たず、荷物をできるだけ軽くした方が良いのは当然です。
又、遠征途中で馬に食べさせる牧草が無くては成りませんから、チンギス・ハーンに限らずモンゴルの皇帝達は遠征計画が決定すると、遠征実施一年以上前から遠征予定進路上での遊牧を禁止します。モンゴル帝国のどの家族もその土地で遊牧はできない。
そうやって遠征軍の為に牧草を沢山生やしておくのです。

 兵士の装備は次のようなものです。

 革製鎧・兜、太刀・短刀・矢、馬(5~6頭)、手斧、やすり・キリ、釣り針・糸、引き綱、鉄鍋、革袋(水入り)、防寒毛皮マント、テント・敷物、干し肉・チーズ

 兵士達が日用品を自分で補修しながら遠征している感じが伝わってきますね。

蒼き狼の帝国:続く・・・


2013/08/29

歴史のお話その196:蒼き狼の帝国②

<モンゴル帝国の成立②>

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チンギス・ハーン誕生850年小型シート
白馬の手綱を引くチンギス・ハーンと背景にブルカン岳。
ブルカン岳はモンゴル帝国初代皇帝(大ハーン)となったチンギス・ハーンの故郷、墓所として神聖視されています。

◎モンゴル帝国の成立その②

 テムジンの父親イェスゲイは、モンゴル族の有力貴族の一人でした。
モンゴル族そのものが当時、統一されていない中で、イェスゲイは配下の集団を増やしてモンゴルの族長の地位を目指していました。
勢力が拡大すれば、その分良い牧草地を他の集団から奪うことができます。
又強い指導者の下には、多くの遊牧集団が集まり、強い指導者に従えば自分の安全も生活もそれなりに保証されることになります。

 ところが、イェスゲイは敵対するタタール族の何者かに毒殺されてしまいます。
テムジンが僅か9歳の時のことでした。
9歳の子供に集団を束ねること等できる筈もなく、イェスゲイの下に集まっていた遊牧民達はテムジン一家を見捨てて、次々に去って行きます。

 それでも、テムジンは7人兄弟の長男なので、9歳にして小さい弟達と母親を率いる家長として行動することになるのですが、瞬く間にテムジン一家は牧草地から追いやられ、遊牧民でありながら遊牧で生活すら出来ない様になります。

 彼等は狩猟採集生活をしながら何とか生き伸びます。
河に入って魚を捕まえたりも行ったことでしょう。
遊牧民は本来誇り高く、馬に跨り草原を疾駆することが彼等の本来の生活です。
地面に這いつくばって、河で魚を捕る行動は、最低の人間以下の暮らし、その様な感覚なのです。

 又、在る時は猟をして鹿を仕留めるのですが、獲物の分け合いで兄弟喧嘩になるのですが、なんとテムジンは弟二人をその時に殺しています。
食べ物の奪い合いで兄弟を殺すような生活を想像できますか?

 しかし、その様な極限の生活を生き抜く中で、テムジンは実行力、決断力、冷静さ、別の意味で残酷さを身に付けていきました。

 成長した後は、父親の昔の同盟者等を味方に付けながら、徐々に力を蓄え、モンゴル族を統一し、次には他のモンゴル高原の遊牧諸部族を配下に従えて、チンギス・ハーンと成りました。
この時の年齢が40代から50代の頃で、もう既に若い年齢ではなく、当時の感覚では老境に達したことでしょう。

 これ以後、彼の支配下に入った遊牧諸部族は総てモンゴルと呼ばれる様になります。

 遼の滅亡後、百年ぶりにモンゴル高原を統一したチンギス・ハーンは、この後、猛烈な勢いで征服活動を進め、支配地域を拡大しますが、遊牧民の潜在能力は一つにまとまると強烈です。

 当時のモンゴル人にとって、最も欲した地域は、東西交易路であり、貿易路を押さえれば遠隔商人達から莫大な税金をとることが可能となります。

 チンギス・ハーンが最初に征服した国が西遼で、遼が滅びる時に、王族の一人耶律大石が中央アジアに逃れて建国した国ですが、西遼の滅亡は1218年、正確には1211年に西遼の王座を簒奪したナイマン部を滅ぼしたのです。
1220年にはイランから中央アジアにかけて、領土を保有していたイスラム教国ホラズム王国を滅ぼし、この間に東の金に対しても攻撃を加えています。

 更に1227年、モンゴルからの援軍要請を断った西夏を滅ぼしますが、この時にチンギス・ハーンは亡くなりました。
彼の遺体はモンゴル高原のケルレン川の流域に埋葬されたらしいですが、副葬品の盗掘を恐れて何も記念物を残さず、埋葬地を隠す目的で騎馬軍団がその上を何度も往復して墓の痕跡を完全に消してしまいました。
その為、今もチンギス・ハーンの墓所は不明です。

 彼が滅ぼして領土に加えた国は、総て東西交易路上にある国です。
チンギス・ハーンの業績を一言で云えば、交易路を完全に支配下に置き、大遊牧国家の建設に成功したことです。
この段階でモンゴル帝国と呼んで差し支えないと思います。

蒼き狼の帝国:続く・・・


2013/08/28

歴史のお話その195:蒼き狼の帝国①

<モンゴル帝国の成立①>

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◎モンゴル帝国の成立

 契丹族の遼帝国が金の攻撃によって滅亡した12世紀以降、モンゴル高原には、遊牧民の部族が分立、抗争を繰り返していました。
その数多の部族の一つにモンゴル族が在りました。

 モンゴル人、モンゴル高原、現在も使っている言葉ですが、この当時にはその様な意味では使用されていません。
是等の言葉は、モンゴル族が遊牧諸部族を統一して帝国を建国しその名前を知られる様に成った後、使用された民族名であり、地名なのです。

 当然ながら、当時のモンゴル部族そのものは数多の部族の一つに過ぎませんし、特に有力な部族でも在りませんでした。

 当時のモンゴル人の様子を紹介した南宋の記録には、以下
 「金は三年毎に兵を遣わして北に向かって討伐をする。これを《減丁》という。
今でも中原(黄河下流地方)の人はこのことをよく覚えている。20年前には山東や河北の家では皆モンゴル人を買って奴碑としたものだった。彼らは皆金軍が捕えてきた者達である。」
蒙韃備録:1221年

 この記録に在る様に、金の奴隷狩りの対象に成っていた部族だった様です。

 この弱小モンゴル部族を統一するのがテムジンです。
やがて、彼は他の諸部族も統一し、分裂していたモンゴル高原の諸勢力をまとめ上げました。
1206年、クリルタイで大ハーンの地位に就きチンギス・ハーンと名乗ることになります。

 クリルタイは遊牧諸部族の族長会議で、ハーンは王の称号、チンギスの意味はわかっていません。

 遊牧生活は「遊」という字が入っているので、牧草を求めて移動するイメージがありますが、実際には遊牧する場所は、夏営地、冬営地と、集団毎に決まっており、季節毎にテントを持って同じ場所を往来するのが基本です。

 モンゴル高原は、私達が想像するようにどこまでも緑の草原が続いている場所ばかりではないのです。
岩場も在れば、砂漠に近い場所もあり、誰もが少しでも条件の良い場所で遊牧がしたいと思います。しかし、幾つもの集団が条件の良い場所に集中した場合、牧草は直ぐに食べ尽くされてしまいますから、どうしても良い場所は取り合いになりますね。

 遊牧社会全体を統率する強大な権力者がいる時代は、争いにならないように集団毎に牧草地を割り振っていきますが、そうでない時代には、諸集団は常に争いあっています。
テムジンの少年時代はまさにその様な時代で、モンゴルの戦国時代と考えて良いと思います。

蒼き狼の帝国:続く・・・

2013/08/27

歴史のお話その194:宋の終焉とその後⑧

<南宋・宋代の社会と文化⑤>

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※文化


(2)文学

 歴史学では北宋の司馬光が重鎮でしょうか。
旧法党の中心人物で、王安石との対抗関係に在った人物です。
この人は『資治通鑑(しちつがん)』とナス名付けられた歴史書を編纂しますが、編年体と呼ばれる書法で書かれていることが特徴です。

 司馬遷の『史記』以来、中国の歴史書は紀伝体で書かれていました。
紀伝体は基本的には人物中心な為、時間の経過に沿って如何なる事件が起きていたのかが解りにくいのです。
『資治通鑑』の編年体は、時間系列で事件を順番に記述し、事件の流れが大変理解し易くなりました。しかも、ただの年表では無く、読んで興味を引く様に叙述に工夫が凝らされ、これ以後、編年体は紀伝体とならぶ歴史書の形式になりました。
『資治通鑑』は、戦国時代から五代十国時代迄を描いた大著です。

 散文学では「唐宋八大家」の欧陽脩(おうようしゅう)、蘇軾(そしょく)、蘇轍(そてつ)、王安石が有名です。
蛇足ですが、王安石は一流の文章家でも在り、司馬光、王安石、大政治家は同時に大文化人なのが良く判ると思います。

 韻文では「詞」が大流行します。
唐代の韻文は「詩」で、之を「唐詩」と呼び、宋では「宋詞」と呼びます。
詞と詩の違い、此れは重要です。
現代の日本でも、この二つの言葉は厳格に使い分けが成され、改めて簡単に説明すれば、国語の教科書に載るのは詩、音楽の教科書に載るのは詞なのです。

 メロディが付いて歌われるのが詞、メロディが付かないのが詩です。
 唄をうたうのはいつの時代でも庶民の楽しみの一つです。宋の詞というのは、庶民が歌った流行歌と考えたらわかりやすいと思います。唐詩は貴族の社交道具です。

 宋代は都市の賑わいと同時に、詞の流行等、庶民が経済や文化の担い手として登場してくる時代なのです。

(3)絵画・陶芸

 北宋末期の皇帝徽宗は政治家としては問題の多い人物ですが、芸術の才能は秀でたもので、宮殿内に画院と云う工房を作って絵を作らせます。
この流派を「院体画」もしくは「北画」と呼び、緻密で、あでやかな画風です。
徽宗は皇帝に生まれなくても芸術家とし名を残したかもしれません。

 院体画とは別に「文人画」もしくは「南画」と呼ばれる絵画も発展しました。
画家では牧谿(もっけい)が有名、渋い墨絵で、禅僧の描く絵が殆どこの流派です。

青磁、白磁がこの時代の代表的な陶磁器です。
中国人は磁器の持つ透明感を好む様で、春秋戦国時代の玉器を磁器で再現したいのではないかと思われます。
青磁、白磁は西アジアから東アジア全体に輸出され、この青磁を朝鮮半島、高麗で再現しようとしたのが高麗青磁です。

(4)宋代の三代発明について

 木版印刷・火薬・羅針盤
総てが宋の時代に発明されたか否かは、今ひとつ研究調査が必要ですが、宋の時代には実用化されていた。
 やがて、是等はヨーロッパに伝わり、火薬はヨーロッパで鉄砲・大砲に使用され、羅針盤はコロンブス達の大航海時代に大きな力を与えることになります。
羅針盤を頼りにアジアやアメリカ大陸に訪れたヨーロッパ人は、鉄砲を使って征服を行います。
本家の中国人がその様な行動に出なかったことを考えると、文化の違いというものを考えてしまいます。


宋の終焉とその後:終わり・・・

2013/08/26

歴史のお話その193:宋の終焉とその後⑦

<南宋・宋代の社会と文化④>

※文化

(1)儒学

 学問の中心は、やはり儒学ですが、新しい展開があります。
儒学は処世訓の寄せ集め的な面が強いのですが、宋代になって理論が体系化されます。
これは仏教に対抗する必要が在った為なのですが、仏教の様に儒学も独自の世界観、宇宙観を持つように成ります。
一般に此れを「宋学」と呼びます。

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 宋学を大成した人物が朱熹(しゅき)若しくは朱子(1130年~1200年)。

 朱子は、宇宙を原理と運動の二つから成り立つと考えました。
原理の事を「理」、運動の事を「気」と呼び、この理論を「理気二元論」と云います。

 人間の本性は、「理」なのか、其れ共「気」なのか。
朱子は「性即理」、つまり人間の本姓は理であると説きました。
「理気二元論」なので、「気」も当然ながら存在し、ならば本性が「理」なら、「気」は何なのでしょう?

 朱子は心が「気」と同様に説きます。
この心が運動して人間を悪い方向に導く、その為に、常に人間は動かない物体を研究して、本性である「理」を確認しなければなりません。
そのために儒学と云う学問を学び続けなければならず、物を究めて知識を確実にして修養を積む、この行いを「格物致知(かくぶつちち)」と云います。

 個人的には大変難解な理論に思えます。

 朱子にはもう一つ「大義名分論」という議論があります。
朱子は南宋の人物ですから、中国の正統政権は金ではなく南宋であると主張したいのですが、客観的に見れば両政権が中国に並立しているのであって、どちらかが正しく一方が間違っている、と云う事はないのですが、中国にいくつかの王朝が並立した場合は、一つだけ正統政権で、あとは変則的な政権だと考えるのです。
この考え方を大義名分論と呼びます。

 日本では江戸時代に朱子学が、儒学の正統とされます。
水戸藩二代目藩主、水戸光圀が、朱子学の大義名分論の立場で歴史書「大日本史を編纂させています。
ところが、大義名分論で日本史を書いていくと、どうも天皇が正統政権で徳川氏は政権の簒奪者になってしまいます。

 この部分に疑問を抱きながら、水戸藩は天皇が権力を持つべきであるとする歴史観を持ち続けます。御三家の立場とこの歴史観は、相当矛盾しますが、此れを裏付けるかの様に幕末の水戸藩は、党派闘争が激しくなって大混乱します。

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 宋学の学者でもう一人有名な人物が陸九淵(りくきゅうえん、1139年~1192年)。
この人物は朱子の「性即理」に対して、「心即理」を唱えました。
朱子が人間の「理」を曇らせると考えた心こそが「理」だと考えたのです。現代風にいえば、「心即理」は人間の主体性を重視する考えだと思います。

 陸九淵の思想は、明の時代の大学者王陽明に引き継がれ、更には日本の吉田松陰に多大な影響を与えました。
陸九淵の側に絶つ学者は、皆行動的です。

宋の終焉とその後:続く・・・

2013/08/25

歴史のお話その192:宋の終焉とその後⑥

<南宋・宋代の社会と文化③>

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※商業

 唐代には商業活動に対しては政府の制限が存在していました。
例えば、長安には東西に市が設けられていましたが、それ以外の場所で店舗を構えて商売は出来ません。
更に、営業時間も正午から日没迄に制限されていました。

 宋代にはいるとこの様な制限は無くなります。
何処に店を構えても良く、営業時間も無制限、地方にも市が立てられる様になり、これが商業都市へと発展してきます。
是等の市が草市(そうし)と呼ばれ、田舎の市と云う感覚の言葉です。
唐末五代の戦乱期に部隊が駐屯した場所にも商業都市が発展し、これを鎮(ちん)と呼びます。
現在の中国の地名で何々市、何々鎮、と呼ばれる所は宋代以降に発展した比較的新しい都市だと思って間違いありませんし、この草市の市という単語が日本語に入ってきているのです。

 同業組合も発達し、「行(こう)」が商人の組合、「作(さく)」が手工業者の組合で、行と云う単語は日本語では「銀行」という単語に使われています。

 商工業の繁栄は当然貨幣経済を進展させ、宋の時代は銅銭が大量に鋳造された。
銅銭は金貨や銀貨と違って小銭で、銅銭が大量に作られると云う事は、多くの庶民が必要としたという事なのです。

 宋代の銅銭を特に宋銭と呼びますが、この宋銭はアジア全域から大量に出土します。
日本も平安時代の末期、平清盛が熱心に日宋貿易を行い、この時大量に宋銭を輸入しています。

 日本では皇朝十二銭と云う銅銭を鋳造、流通させていたのですが、やがて独自の貨幣発行を止めてしまい、その日本で流通したのが宋銭です。
(経済的に貧しい国で、自国の貨幣の信用が無く、ドルや円が幅を利かせている何処かの国を連想します。)

 今でも、地方の旧家の土蔵の中から宋銭が沢山入った古い壺が見つかったりしますが、趣味の古銭屋の店頭でも、安価に売られている様です。
其れは、宋代の経済活動が活発に、東アジア地域で行われていた証拠でも在ります。

 小銭が銅銭とすれば、大きな金額は紙幣でしょうか?
紙幣が初めて登場するのが宋の時代です。
北宋時代の紙幣を「交子」南宋時代は「会子」と呼び、此等は民間で使われていた手形が発達してできた物です。

宋の終焉とその後:続く・・・

2013/08/25

歴史のお話その191:宋の終焉とその後⑤

<南宋・宋代の社会と文化②>

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◎宋代の社会と文化

 北宋、南宋を一つとして社会の特徴と文化を検証。

※官僚

 宋代は、貴族階級が無くなりますから、皇帝の権力を押さえる勢力は存在しません。
皇帝一人だけが強大な権力を握りますが、その皇帝のもとで実際に民衆に対して権力を振るうのが官僚です。
ある意味では、官僚が支配者と言っても過言では在りません。

 官僚は戸籍上「官戸」とされて税制上の特権を持ちます。
一種の特権階層ですが、その特権は「家」に与えられたものでは無く、科挙に合格した「個人」に与えられるものです。
この部分が、貴族と違う処です。

 官僚は科挙に合格しているわけですから、一流の知識人、学者、読書人でも在ります。
学問があると云う事は、人々から尊敬され、地域社会の指導者として信望を集めるような存在です。その為、官僚である彼等は「士大夫(したいふ)」と呼ばれます。

 又、学問を修める為には、家に経済的余裕が無くては成りません。
士大夫と呼ばれる人達は、宋の時代には形勢戸と呼ばれる、ほとんど地主出身です。
宋の時代の支配社会層は、官僚としては官戸と呼ばれる特権者であり、地域社会では士大夫と呼ばれる知的指導者、経済的には形勢戸と呼ばれる地主、この三つ面をもった階層として理解出来ます。

 これに対して被支配者階層は自作農と「佃戸(でんこ)」と呼ばれる小作人です。

 魏晋南北朝から唐迄の時代と違う部分は、この支配者と被支配者の関係が固定的ではなかったことです。
地主であっても何代も官僚を出さなければ没落する事も在り、小作農であっても優秀な子供が出て、科挙に受かれば一気に資産家に成り上がる事が可能でした。

 中国社会は一族の繋がりが強いので、一族の中に飛び抜けて頭の良い子が居る場合、親族郎党一同で勉学資金を出し合い、良い先生に就けて科挙を目指させるのです。
結果として、支配者階層に入る人達は、何十年か経つと入れ替わりが行われ、貴族階級として支配者が固定化しない訳です。

※農業

 宋の時代は農業生産量の増大が著しく、特に江南、長江の下流域を中心に開発が進みます。
 「江浙(こうせつ)熟すれば天下足る」とは当時の諺です。
長江下流地方が豊作ならば、他の地方が凶作であろうとも国中が飢えに困ることはない、その様な意味です。

 この時期には占城稲(せんじょうとう)、チャンパ米とも呼びますが、この種類の米がベトナム方面からもたらされました。
この品種は干害に強く中国南部の稲作地帯に急速に広がり、特に成長が早かった為、一年二毛作、二年三毛作なども広まり、食糧の増産が可能になった。

 茶の栽培もおこなわれるようになります。
飲茶の風習は唐代から広まるのですが、茶はあってもなくてもよい嗜好品ですから、本格的に栽培されるようになったということは、食料生産に余裕が生まれてきたことの結果でもあるわけです。

宋の終焉とその後:続く・・・


2013/08/23

歴史のお話その190:宋の終焉とその後④

<南宋・宋代の社会と文化>

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◎南宋

 靖康の変で徽宗、欽宗親子が金軍によって、北方に連れ去られた後、徽宗の息子の一人高宗が南方に逃れて建国したのが南宋(1127年~1279年)、首都は臨安、今の杭州です。
臨安の意味は、臨時の皇帝の居場所という意味で、何時かは金から中国北部を奪還しようという意図がこめられています。

 建国早々の南宋では、金に対して如何なる政策を実施するかが、課題と成り、結果的に和平派と主戦派が対立しました。

 和平派の代表政治家が秦檜(しんかい)で、この人物は靖康の変の時に、徽宗達と一緒に捕虜として連行され、暫く金国で暮らした経験が在り、新興国家である金の勢い、質実さ、強さを充分見聞した訳です。
その秦檜に言わせれば、金と戦って領土を奪還する行為そのものは、将来の希望としては良いが、現実は全く不可能であって、その様な行為を実行する事は、南宋滅亡の原因と成りかねず、南北で金と南宋は棲み分けをして、友好関係を築く事が現実的な選択と説いています。

 秦檜の言葉、考えは、それなりに説得力はあるのですが、一つ大きな問題が在りました。
それは秦檜自身の問題でした。
金の捕虜になっていた秦檜が、何故南宋に帰ってくる事を許されたのか、と云う疑惑が持たれていたのです。
現在風に考えれば、秦檜は対南宋和平工作の為に金から送り込まれた(思想)工作員ではないか、と云う事なのです。(似たようなお話は、日本の回りにも結構在りますね)

 更には、秦檜の和平の主張がいくら理にかなっていても、国の半分を奪った相手と仲良くしようというのは、如何にも弱腰な主張ではないでしょうか?

 この考えに対して、あくまでも戦って領土を奪還する主戦派の主張は、その勇ましさから、支持者も多かったのです。

 この主戦派の代表者が岳飛(がくひ)で、彼は軍人一筋に生きてきた人物で、まだ三十代の若い将軍でした。
金との国境地帯の防衛に大活躍しましたが、彼の軍団は規律が厳しく守られた事で有名でした。

 皇帝高宗は秦檜の和平派を応援します。
岳飛は強く反対し、人望も在り軍隊を握っている岳飛が反対をとなえ続ける事は、高宗・秦檜には、何かと問題に成る事が多かった様です。
終に秦檜は、岳飛を都に呼びだして毒殺を実行します。

 これ以後秦檜は権力を握り続けるのですが、殺された岳飛はやがて民族の英雄として祭り上げられるようになりました。
 
 1142年、南宋は金と盟約を結び、両国の関係は「金君南宋臣」で、南宋は多額の歳貢を金に送る事になりました。

 しかし、華北を金に取られながらも南宋は経済的には繁栄します。
金は南宋を滅ぼす事は叶わず、南宋も華北を奪還することが同様出来ず、両国は大体淮河(わいが)を国境として住み分ける事に成りました。
やがて、この両国を滅ぼしてアジアを大統一するのが、モンゴルで、金は1234年、南宋は1278年、滅亡します。

宋の終焉とその後:続く・・・

2013/08/21

歴史のお話その189:宋の終焉とその後③

<王安石の改革と金の建国その③>

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宋の都、開封の繁栄

◎金の建国と靖康の変

 宋が新法党、旧法党の争いで混乱しているちょうどその時、現在の中国東北地方で新たな民族の活動が活発化します。
遼の支配下にある沿海州から中国朝鮮国境あたりにかけて女真族が居住していました。
半猟半農生活で、毛皮や砂金を遼に納めていたのですが、やがて完顏阿骨打(わんやんあくだ)が諸部族を統一して国号を金として建国します(1115年)。

 遼の国の東端で独立国が成立し、当然遼は軍隊を送って、金を圧迫しようと試みるのですが、金の女真族が遼軍に勝って独立を確保します。
当時の遼は建国時の勢いを失い、軍隊は弱体化しており、宋から莫大な歳貢を贈られて軟弱に成っていたのでしょう。

 宋は北方で金と云う新興国が、遼と戦っているのを知ってこの機会を逃すまいと考えました。
「金と同盟を結んで遼を南北から攻めて滅ぼすことができないか?」。
早速宋と金の軍事同盟が結ばれ、遼が滅亡した後は、万里の長城以北は金、以南は宋の領土とする条件なので、成功すれば、悲願の燕雲十六州が取り戻せるわけです。

 金と宋による作戦が始まると遼は瞬く間に滅亡します(1125年)。

 この時に金軍は瞬く間に長城以北を制圧するのですが、南を分担していた宋軍はその弱体化を露見してしまいます。
燕雲十六州に攻め込むのですが、遼の守る都市を攻め落とす事ができず、長城以北はすっかり制圧されているにも関わらず、唯一燕雲十六州の遼軍だけが抵抗を続ける状態に成りました。

 金軍は長城迄進出し、様子を見守っています。
長城以南は宋軍の作戦地区ですから、宋軍の動きを見守っています。
しかし、宋軍は残存の遼軍を駆逐できず、金軍が燕雲十六州に進軍し、やっと遼の残存勢力を撃破して遼は滅んだのです。

 このときに遼の王族の一人耶律大石(やりつたいせき)が西方に逃れて、中央アジアで西遼(せいりょう、「カラ・キタイ」とも呼ぶ)を建国しています。
契丹族の勢力が中央アジアまで及んでいたことがわかります。

 遼が滅亡した後、金と宋の共同作戦と言いながら、実際には宋は何も出来ませんでした。
ところが事前の約束通りに、長城以南燕雲十六州の領土を要求した為、金側は、予定の戦略行動も行なっていないにも関わらず、領土要求する宋の態度は許せません。

 これを発端として、金と宋の不許和音が始まります。
宋は多額の金品と引き替えに北京方面の領有を金に認めさせるのですが、その約束を守らず、金品を払いません。
債務不履行に対して金が軍隊を出動させると、その場を上手くすり抜けるのですが、また約束を反故にする。

 度重なる宋の同盟違反に対して、ついに金は大軍を南下させ、都開封を攻め落とし、皇帝徽宗と息子の欽宗を捕虜にして長城の北に連れ去ってしまいました。
徽宗は金軍が攻めてくると責任逃れの為に急遽息子に位を譲った結果、正確にはこの問の皇帝は欽宗です。

 この事件を「靖康(せいこう)の変」と呼び1127年の事で、宋は滅亡してしまいました。

 しかしながら、金は中国の南部迄支配下におさめるだけの力は無く、華北を支配するだけで精一杯だったようです。
女真族自体はそれほど人口も多いとは思われず、此れまでの急成長で国力は精一杯だったのでしょう。

 中国南部には、宋の皇族の一人が南宋を建国します。
これに対して、靖康の変で滅んだ宋を北宋と呼びます。

 金は遼につづく征服王朝と成り、中国統治についても遼の二重統治体制を引き継ぎます。
遊牧民に対しては猛安・謀克(もうあん・ぼうこく)制を適用し、各300戸で1謀克、10謀克で1猛安とする軍事編成の組織をそのまま行政組織に利用したものです。
猛安、謀克というのは女真語に漢字に置き換えたものです。

 これに対して、漢民族など農耕民社会には州県制、科挙などを実施して遊牧民に対する統治とは分けていきます。

 基本的に女真族は独自の民族文化の維持を心がけていて、女真文字を制定しています。
また、女真族の男達は前髪をそり落として後頭部の髪を伸ばして編むのですが、この髪型を金朝支配下の漢民族にも強制しています。
中国最後の王朝清朝も実はこの女真族が建てた国で、同じ髪型を中国人に強制しました。
弁髪と呼ばれる特徴在る髪型です。

宋の終焉とその後:続く・・・

2013/08/20

歴史のお話その188:宋の終焉とその後②

<王安石の改革と金の建国その②> 

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◎王安石の改革②

 均輸法は漢の武帝の時代に実施された事が在り、内容的には全く同様です。
物価の安定と流通の円滑化を図る為に、政府が市場価格の安い時に物資を買い上げ、高い時期や他の地方に転売して、商人の中間利潤をできるだけ押さえようとしたものです。
物価が安く安定しておれば、貧しい民衆に取ってこれ程有難い事は無く、生活も楽になります。

 市易法は青苗法の都市版と考えると、理解し易いでしょう。
都市には、零細商人が多数居り、彼等は豪商達の買い占めや価格操作の為に、常に圧迫されていました。
市易法は、政府によって、中小零細商人に低利で営業資金を貸し出すものです。

 募役法、これは複雑なのです。
納税なのですが、現在の給料生活者なら給料を受け取る時に(好むと好まざるとに関わらず)自動的に市町村民税が、控除されていますね。
自分から納めに行く必要は原則ありませんが、之が自営業の人達は、確定申告を自分で行い、所管税務署へ行って手続きをしなければなりません。
但し、税務署に一日出かけて行く位のもので、大変機械的に手続きは終わるので、それ程手間がかかるものでは在りません。

 では此れが、農業社会ではどうなるのか?中国のように広大な国ではどうなるのでしょうか?
一軒の農家に村全体の税を徴収して、しかもそれを県の役場迄、運ぶ仕事が割り当てられるのですが、これを職役と云い、大変な仕事でした。
若し職役が巡ってくれば家が潰れる、と云われていました。
何が大変なのでしょうか?
先ず、兎に角、金がかかり、租税を役場に運ぶと簡単に云いますが、田舎の場合、役場迄何日もかかる場合も多々在り、しかも米、小麦やその他の現物を村の分全部まとめて輸送するのですから、量は莫大です。
この輸送費用を職役に当たった農家が自己負担で運ばなければならず、その上輸送途中に、変質、劣化、滅失した場合には、輸送担当の農民の負担に成るのです。

 実際、職役が当たった為に、自分の土地を売って費用を捻出する、という事も多々在り、自作農が没落してしまうのです。

 政府は決められた税額が納入されればそれで良いのであって、その為に農民が没落してもそれは政府の預かり知らぬ事、と云うのが基本的な態度でした。
但し、官戸、官僚をだした家は、職役が当たらない特権が存在していました。

 王安石は、この職役の過酷さを解消する為に、農家全体から免役銭を徴収して、その金で職役を担当する者を雇わせました。
毎年、一軒の農家に重い負担を強いるのでは無く、広く薄く負担させる方法に切り替えました。
これが募役法。

 保甲法と保馬法は、上の四つとは違って直接農民や商人を救済する政策ではありません。
軍事に関するものです。
保甲法は、農家を組織して自警団を作らせ、遼や西夏と接する地方では軍事訓練もおこなって軍事費の削減をめざしました。
保馬法はこういう農家に軍馬を飼育させたものです。

◎党争の激化

 王安石は宰相として新法を実行していくのですが、反対派の官僚も多くいました。
本来中国の歴代王朝では、その王朝の創始者の定めた政治体制を改革する事を良しとしない、伝統的な考え方が存在し、大胆な改革は内容に関係なく嫌われるのです。

 王安石の新法に反対する官僚達は旧法党と呼ばれ、旧法党の中心人物は司馬光(しばこう)でした。王安石は新法を実施する時、司馬光にも協力を要請したのですが断られ、その後、司馬光は最後迄、新法に反対し続けました。

 新法を支持するグループを新法党と呼び、やがて、王安石の後ろ盾だった神宗が崩御すると、宋の政界は新法党と旧法党の争いに明け暮れるようになります。

 王安石の新法が継続して実施され続けた場合、大きな成果を挙げたかもしれないのですが、王安石が宰相を退いた後は、旧法党と新法党が交互に政権を担当するようになり、そのたびに報復人事が繰り返される結果と成りました。
良かれと思って始めた新法が、政策の動揺と国家体制の弱体化を招くことになってしまったのです。

 旧法党はなぜ、王安石の新法に反対したのでしょうか。
先ほど述べた、改革を伝統的に嫌うという理由以外に大きな原因がありました。

 新法の政策を考えてみると、高利貸しでもうけている地主や、大商人の利益を押さえて、自作農や中小商人を保護するというところが要点です。
これは、地主や大商人にはありがたくない政策です。

 つまり、旧法党の人々は大地主、大商人の利益を守る立場に立っていたということなのです。
科挙に合格する人達は、家が大地主や縁者が大きな商売をしていたりするものです。
自分たちの不利益になるような政策に賛成する訳がないのです。

 この様に考えれば、王安石は個人的な利害よりも国家の利益を優先させて考えることができた政治家だった言えます。

宋の終焉とその後:続く・・・


2013/08/19

歴史のお話その187:宋の終焉とその後①

<王安石の改革と金の建国その①>

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◎王安石の改革

 遼、西夏という隣国に対して宋は、お金で平和を買うという政策をとるようになりました。

 但しこれも長期化すると、流石の経済大国、宋でもその財政は苦しくなるのは当然でした。
遼と西夏に支払う歳貢が、宋政府の財政を圧迫するように成り、政治改革を行なって財政再建をすることが宋政府の課題となります。

 この様な状況で登場した人物が王安石、第六代皇帝神宗が抜擢して政治改革を委ねた大臣でした。
王安石は親父さんも科挙官僚でしたが、彼が19歳の時に亡くなります。
王安石は頭脳明晰で22歳で科挙に合格しました。
4番の成績で合格したので中央政界で、出世街道を驀進することもできたのですが、一家の生活を支える為に実入りの大きい地方官の道を選びます。
地方の実状を知る中で、政治の矛盾や不合理について考えるように成り、やがて地方で実績を上げ評判に成りました。
ついには45歳で神宗に抜擢されて宰相に就任します。
宰相は皇帝から全面的に政治を任される、現在に例えれば総理大臣です。

 さて、王安石は新法という呼び名で有名になる政策を断行して、財政再建を図ります。

 財政再建の為に一番簡単な方法は増税です。
しかし、ただ増税するだけでは一時的に財政難をしのげても、長期的観点からは、人民の生活は疲弊するだけなので、王安石は貧しい人々の生活を豊かにすることを同時に考えました。
景気が良くなるだけでなく、貧困層が豊かになれば自然に税収は増えると発想をしたのです。

 王安石の新法は大きく分けて六つ在ります。

 青苗法(せいびょうほう)、均輸法(きんゆほう)、市易法(しえきほう)、募役法(ぼえきほう)、保甲法(ほこうほう)、保馬法(ほばほう)です。

 青苗法は政府が、農民に低金利で金を貸す法律です。
大きな土地を持っていない限り自作農は、ぎりぎりの生活をしている者が多く、自分の土地を持っていてもそれだけでは足りないものは地主・形勢戸から農地を借りている場合も多いのです。

 農民はサラリーマンと違って、決まった収入が毎月あるわけでは無く、米を作っているのなら、収穫は秋だけです。
収穫をしたら早速政府に税を納め、土地を借りていたら小作料を地主に支払い、更に米を売ったお金で必要最小限の生活道具や農具を買わなければ成りません。
そして、最後に残った収穫物で、翌年の秋迄食べ繋ぐですが、翌年の収穫迄もてば良いのですが、そうはいかない場合も多いのです。
不作の年であれば、食料用の米もすぐに無くなり、そうなると借金をして生計を立てなければ成りません。
農民が借金をする先は地主です。

 この地主からの借金の利子が高かく、一度借金生活に入ってしまうとなかなか抜けられないものです。
秋の収穫の後、税、小作料、それに借金と利子を払うともう自分の取り分がなくなり、また借金繰り返し、最後には借金が払えきれなくなって、わずかばかりの土地も売り払って隷農か浮浪者に転落していくことに成ります。

 この様に自作農が没落すると、政府から見れば課税対象者が減る訳で、自作農を没落させず、一生懸命働いて収穫を上げ、しっかり納税してもらわないと困るのです。

 そこで、自作農救済策として政府が地主よりも低金利で農民に金を貸すことにしました。
低金利といっても20%から30%の利子と云いますから、現在の目で見れば結構高利です。
それだけ地主の利子が高かったということでしょう。

 青苗法は新法の中でも成果を挙げたものの一つでした。

宋の終焉とその後:続く・・・

2013/08/17

歴史のお話その186:宋時代の周辺国家・番外編

<敦煌文書>

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 中国大陸、河西通廊を西へ西へと進んだに果てに、敦煌の町は在りました。
中国の絹は、ここから「絹の道:シルクロード」を通って西へ、遠くは遥かギリシャ、ローマ迄運ばれ、西からの品物や文書は、敦煌を経由して中国、朝鮮、日本に送られて行きました。
仏教もいち早く敦煌へ伝授し、インドや西域で営まれた石窟寺院が、敦煌の周辺に造られたのでした。

 敦煌周辺の石窟寺院の内、最大のものは、莫高窟で、千仏洞とも呼ばれていました。
4世紀の半ばから造営され、隋・唐・宋の時代を経て、14世紀、元の地代に至る迄石窟は、造営され続け、約1.6kmの断崖に大小600余りの洞窟が掘られています。
しかし、遠い辺境の石窟は、何時しか中国の人々から忘れ去られ、遺跡も荒廃が進んでいたのです。

 19世紀も最後の年、1900年、この千仏洞に暮らしていた、王道士(道教の僧)によって、石窟の一つに大量の文書が秘蔵されている事が判明しました。
其処には、経典、庶民の生活記録、日常の取引記録、或は、牧童の恋歌迄、石窟の奥にある小部屋にぎっしりと詰め込まれ、入り口は、泥で密封されていました。
王道士は、この発見を役所に報告したものの、役人達は、古文書に関して一切興味を示さなかったと云います。

 この発見に着目したのは、寧ろ諸外国で、1905年、ロシアの探検隊が訪れ、若干の古文書を持ち去り、1907年には、イギリスの探検家スタインが、窟を訪れます。
スタインは、王道士を上手く操り、1万点に及ぶ文書類をロンドンに運びました。
1908年、フランスの東洋学者ペリオが訪れ、アジアの言語に通じた彼は。石窟内の文書から特に貴重な物を5000余点選び出し、パリへの帰国途中、北京でその一部を公開したのですが、それは、中国の学者達を震撼させるに十分な資料だったのです。

彼等は、時の中国政府に働き掛け、取り残された文書類、約1万点を北京に運びました。
其の後、1912年に、日本の大谷探検隊が、1000点に近い古文書類を日本に運び、1914年には、再びロシアの探検隊が、訪れています。

 こうして現在迄に知られた、敦煌文書は、総数4万点に近く、その大部分が5世紀から、11世紀に及ぶ未知の資料でした。
仏典、中国古典、キリスト教(景教)等の経典、漢文以外にチベット語、ウイグル語、更には死語となった中央アジア諸国の言語、文字で記された文書も多数発見されました。
更には、経典の裏には、戸籍が書かれ、又契約書、帳簿、習い文字に用いた紙片迄在りました。

 この様な日常の文書は、貴重ですが、この様な大量な文書類を、誰が、何時、如何なる理由で、千仏洞の一角に密封したのでしょう?
20世紀最大の発見の一つと云われる、敦煌文書が、如何なる理由で収蔵され、今日迄伝えられたかのかは、永遠に解からないと思います。

 敦煌文書は、5世紀から11世紀初頭のものであり、之等は11世紀に収蔵されたのでしょうか?
この時代、中国は宋の地代で、黄河の上流では、チベット系の西夏が建国していました。
やがて、西夏は、李元高の時代、吐伴、ウイグル等の周辺諸国を併合し、宋の領土に迫ります。
特にウイグルは、ヤグラ汗の御世、かつて強大な国家を築いたウイグルも、終に西夏の前に敗走し滅亡します。
当時、宋は既に江南、開封の逃れ南宋の時代となり、その国力を衰える一方でしたから、辺境の地、敦煌の人々が西夏の進行をどれ程恐れたかは、十分想像できます。

 石窟寺院の大規模な造営からも推察される様に、敦煌では仏教が盛んな町でしたから、何よりも大切な仏典を戦火から守る為、限られた時間の中でそれらを隠したのでしょう。
その時、経典だけでなく、手当たり次第にあらゆる文書類を運びこんだのか、不要な書類を収納していた窟に、重要な経典を詰め込んだのかは、現在では想像するしか方法が有りません。
種類を問わず、雑然と積み込まれ、しかも封印されていた石窟の意味を、現在の歴史家はこの様に推察しています。

敦煌文書:終わり・・・
2013/08/16

歴史のお話その185:宋時代の周辺国家②

<宋時代の周辺国家②>

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◎西夏

 もうひとつ10世紀末から力を伸ばしてきた民族にタングート族がいます。
ティベット系の民族で、彼等は牧畜農耕を中心の生活をしていましたが、唐末から東西交易路を押さえ、勢力を増大させます。中国から中央アジアに至る交易路上に建国します。

 彼等の建てた国が西夏(せいか)、建国者は李元昊(りげんこう)、中国風の名前ですが、タングート族なので、本来別の民族名も持っていると思われます。

 西夏は宋と長年に渡って戦争を続け、貿易上の利害関係で争うのですが、最終的には1044年、両国の間に和義が成立しました。

 このときに決められた西夏と宋の関係は、宋が君主で西夏が臣下の「宋君西夏臣」関係。
遼との「宋兄遼弟」関係に比較しても宋の格の方が高いのです。
しかし、宋が西夏に対して年毎に金品を送ることは、遼との場合と同じで、実質的には西夏に軍事力で勝つことをあきらめた宋が、お金を払って国境地帯の平和を買っている訳です。

 この西夏のタングート族も独自の文化を発展させようとの思いから、西夏文字を制定しています。
この文字も、やはり漢字をモデルにしているようですは、非常に複雑な字形で、現在総てが読めるわけではありませんが徐々に解読が進んでいます。

 こうして、宋は契丹族の遼にもタングート族の西夏にも軍事的には優位を保つことができず、金品を払って平和を維持するという外交政策をとるようになりました。

 本来、宋は文治主義を基本政策として、軍隊を強大化させないという方針でしたから、当然の結果ともいえます。
ただ、宋は、軍事的には弱体でも経済的には非常に繁栄していました。
その為、「平和を金で買う」ことが出来たのです。

◎未解読の文字について

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西夏文字と漢字

 10世紀初頭、日本では平安時代前期、延喜7年(907年)、唐は終に滅亡します。
是より、中国華北の地に五つの王朝が、盛衰を繰り返し、そのの地域でも、小国が交替する五代十国の時代と成りました。
同じ頃、モンゴル高原の東部には、モンゴル系契丹人の国が生れ、やがて契丹は、五代の混乱に乗じて、華北の地に侵入し、現在の北京、大同一帯の地域を領土に加え、更に国号を遼とします。

 一方、中国では、宋が五代十国の混乱を治め(960年)、統一国家が復活しますが、遼の国力は、宋の其れを凌駕し、じりじりと宋を圧迫します。
11世紀に成り、中国の辺境の西辺、黄河上流地方を中心に、チベット系国家が建国します。
この国家こそが、西夏であり西域との交通の要衝を治め、強勢でした。

 超えて12世紀、満州の地(東北部)にツングース系女真族(後年の清朝を建国)が、其れ迄、契丹人支配から分離独立を果たし、金を建国します。
金は、宋と同盟関係を構築して、遼を滅ぼし(1125年)、更には盟友である宋を攻め、皇帝一族を捕虜(1127年)とし、此処に宋は、一旦滅亡します。
但し、皇族の一部は、南方に逃れ、開封を都に揚子江流域以南を保ち、宋の王朝を復活するものの、華北の地は、悉く異民族である、金の領土と成りました。

 この様に、契丹、西夏、女真の各民族も中国の王朝を圧迫し、その一部を領土として猛威を振るったものの、武力は強大であっても、その文化は、到底中国に比較できるものでは有りませんでした。
彼等は、中国文化を吸収する一方で、漢字に倣って、独自の文字を創ります。
其れが、契丹文字で在り、西夏文字で在り、女真文字で在りました。

 しかし、どの文字を見ても、其の複雑さは漢字の比ではなく、漢字に似ているものの、読み方、文法も全く異なり、契丹文字は、モンゴル系言語を写したものであり、西夏文字は、チベット系のもので在りました。
彼等の国家では、この文字が正式な文字とされ、公文書の作成は、この複雑な文字が用いられたのです。

 其の読み方に関して、現在迄、数多の研究が進められ、その結果、是等の複雑な文字の構成法は解読され、特に西夏文字は、日本の西田竜雄氏によって、解読されました。
しかし、契丹文字や女真文字は、未だ未解読のまま残されています。

 文字を創るという行為は、民族としての自覚が高くなった結果に相違ないものの、是程に難解な文字を創り、又読みこなせたのでしょうか?
余りに使い難い文字で在った為、国の崩壊と供に忘れられ、誰も読む事が不可能に成るのです。
文字は、使い易くしなければ、普及しません。
日本の「かな」文字の発明が、どれ程、日本文化発展に貢献したでしょうか。

 13世紀のモンゴル人は、ウイグル文字(トルコ系)を真似て、モンゴル文字を創り、後に清朝を建国した、女真族は、更にモンゴル文字を真似て、満州文字を創りました。
この満州文字は、「かな」と同様に表音文字で在り、15世紀に成立した朝鮮文字(ハングル)と供に、後世迄残りました。
中国と接する南の国々、特にベトナムも、日本、朝鮮と同様に中国文化の影響を強く受け、ベトナムも漢字表記では「越南」で在り、「胡志明」と書いてホー・チミンと読み、「奠辺府」と書いてディエンビエンフーと読みました。

 やがて、14世紀には、漢字を利用して、ベトナム語を表記する独特の文字(チュノム)を創りましたが、漢字をそのまま使用したものも在れば、字画を簡素にしたもの、或は合成したものも在りますが、実際に使用するには、不便だったと思われ、事実、フランスがベトナムに進出する様に成ると、ローマ字でベトナム語を表記する事が、一般に普及したのでした。

 中国を廻る諸民族の文字は、何れも簡略化の道を辿りますが、契丹と西夏、更に女真は、殊更に複雑な字形を創り、普及されぬまま、文字も国家も滅亡したのでしょう。
是等の文字も何れ解読される時が、来るのでしょうが、西夏文字を除き、解読不可能な文字として、現在も残っています。

宋時代の周辺国家:終わり・・・
2013/08/15

歴史のお話その184:宋時代の周辺国家①

<宋時代の周辺国家>

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◎契丹

 現在の中国東北部には、様々な少数民族が居住していますが、遼河の流域で半農半牧の生活を送っていた、契丹族と云う部族が居ました。
彼等は、唐の支配が緩むに従い、政治的に自立する傾向が強くなり、916年、契丹諸部族は統一され、遼(りょう)を建国しました。

 建国者は耶律阿保機(やりつあぼき)、耶律が姓にあたる氏族名で阿保機が名です。
遼は中国東北部から突厥帝国崩壊後のモンゴル高原を平定し、中国北方に大帝国を作り上げ、当然の様に、しばしば中国北辺に侵入します。

 五代十国時代には中国の燕雲十六州を獲得しています。

 燕雲十六州は、現在の北京を中心とする地域で、燕、雲は州の名称です。
十六の州が在ったのでまとめて燕雲十六州と呼びますが、この地域を遼が獲得した事情を簡単に説明します。

 五代の二番目に後唐王朝が有り、この王朝を倒したのが後晋です。
後晋の建国者が石敬瑭(せきけいとう)、彼は後唐の節度使だったのですが、反乱をおこして後唐を滅ぼしたのです。

 この時、石敬瑭は軍事力が十分では無かった為、遼に援助を求め、遼が軍事援助の見返りに求めたのが燕雲十六州なのです。

 結局、石敬瑭は遼の援助で後晋王朝を建て、燕雲十六州を遼に譲りました。
燕雲十六州は万里の長城の内側ですから、中国の伝統的な領土で、住んでいる者も漢民族の農耕民です。

 これ以後、宋の時代になっても燕雲十六州は遼の支配下のままでした。

 北方の民族が中国を支配することは、五胡十六国時代以来在ったのですが、それまでの北方民族は総て、中国の文化に同化していきました。
北魏が好い例で、孝文帝が漢化政策を実施したことは、先に書きました。

 五代後唐の支配者も突厥系、トルコ人が中国文化に同化した人達で、後晋の石敬瑭もやはりトルコ系ですが、彼等自身がそのことを意識して行動している節は無く、既に完全に中国化している様に思えます。

 ところが、遼の契丹族はそうでは在りませんでした。
中国文化に同化することを極力避け、民族の独自性を保とうとしたのです。

 その為には燕雲十六州の統治は、慎重におこなう必要が在り、下手をすると中国文化に感化されてしまい、何時の間にか同化してしまう事に成りかねません。
そこで、遼は「二重統治体制」を採用し、燕雲十六州の支配制度を北方の自分達の本拠地とは完全に切り離し、両者が混じり合わないようにしたのです。

 遊牧民の世界には北面官と云う役所を置いて、各民族の部族制度を維持したまま統治します。
漢民族等の農耕民族には南面官と云う役所を置いて、州県制によって支配しました。

 この様に民族文化の独自性を守る姿勢は、文字制定と云う形でも現れ、契丹族は漢字の使用を避けて、民族独自の文字を作ったのです。
これが、契丹文字で、字形から判断すれば、漢字の影響を強く受けている事が大変良く理解出来ます。

 因みに日本でも同じ時期に「かな」が発明されます。

 唐は国際色豊かな帝国で、周辺の諸民族に大きな影響を与えましたが、唐の衰退後、周辺諸民族は民族意識に目覚めて行ったのでした。

 さて燕雲十六州は、中国(漢民族)から見れば本来は自分達の土地です。
宋は中国の統一をした後、燕雲十六州奪還を企て、しばしは遼軍と対決しますが勝てません。
1004年には、遼は宋の都、開封近くまで攻め込み、宋は遼と和平条約を結びました。

 この和平条約を「澶淵(せんえん)の盟」と呼びます。

 この条約で、宋は遼に毎年絹20万匹,銀10万両を贈る事、宋を兄,遼を弟とする事、両国国境は現状維持、と決められました。

 宋が兄で遼が弟なのですから、名目的には宋の方が偉い形ですが、兄の宋は弟の遼に毎年莫大な資金を渡さなければならず、国境現状維持の意味は、燕雲十六州を宋は今後共に放棄する意味ですから、実質的に遼の勝利です。

 これ以後宋と遼は基本的には平和が保たれました。

宋時代の周辺国家:続く・・・

2013/08/13

お盆のお話

<お盆のお話>

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 お盆は正式には「盂蘭盆会」と言います。これはインドの言葉の一つ、サンスクリット語のウラバンナ(逆さ吊り)を漢字で音写したものです。

 お盆のはじまりについて「盂蘭盆経」の中の親孝行の大切さを説いた教えが昔から知られています。それは、「お釈迦様の弟子の中で、神通力一番とされている目連尊者が、ある時神通力によって亡き母が飢餓道に落ち逆さ吊りにされ苦しんでいると知りました。そこで、どうしたら母親を救えるのか、お釈迦様に相談にいきました。するとお釈迦様は、おまえが多くの人に施しをすれば母親は救われると言われました。そこで目連尊者はお釈迦様の教えに従い、夏の修行期間のあける7月15日に多くの層たちに飲食物をささげて供養したのです。すると、その功徳によって母親は、極楽往生がとげられました。」という話です。

 それ以来(旧暦)7月15日は、父母や先祖に報恩感謝をささげ、供養をつむ重要な日となったのです。わが国では、推古天皇の14年(606)に、はじめてお盆の行事が行われたと伝えられています。日本各地で行われるお盆の行事は、各地の風習などが加わったり、宗派による違いなどによって様々ですが、一般的に先祖の霊が帰ってくると考えられています(浄土真宗では霊魂が帰ってくるとは考えない。)日本のお盆は祖先の霊と一緒に過ごす期間なのです。

(資料提供:出版社名-鎌倉新書 出典名-2分でわかる仏事の知識)

さて、この時期、もう一つ思い出される行事。

 1974年(S.49)、コーラスグループ“グレープ”が歌ったさだまさしさんの名曲でも有ります。
精霊流しは、長崎県の旧盆の伝統行事で、最近の一年間に亡くなった人の御霊を船に乗せて西方浄土に送るものです。
長崎の精霊流しを一度でも見た人は、爆竹が雨あられのように舞う喧騒(けんそう)の中で、歌詞にあるような「華やか」さを感じることがあるかも知れません。

 しかし、どんなに華やかで騒がしい中にあっても、これが新しく仏になった、精霊様を送る儀礼であることを思うとき、喧騒は消えてしまいます。
そこには、誰にも知られない、一人ひとりの深い思いがこめられており、他の人を近づけない静寂さえが感じられます。
2013/08/13

歴史のお話その183:統一国家の成立④

<五代から宋へ④>

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清朝末期の科挙試験会場

◎科挙その2

 では科挙試験とは、どの様な試験を行うのでしょうか。
まず論文で政策論を書かせる、儒学の経典の理解力をみる、そして詩を書かせます。
当然、すべて論述式です。

 政策論は官僚に必要と思いますが、儒学の理解や詩は官僚として必要なことでしょうか? 
儒学の理解度をみることは、その人の徳を測ることと同じで、詩を書かせることは文化人としての教養をみることです。

 つまり、科挙試験は、官僚として実務に有能な者なら誰でも良い訳ではなく、貴族的な人間を試験で探す意味合いが強い様に思われ、現在の大学入試の様な単なる能力テストでは無く、人格を測る様な処が在ります。

 従って、文字が綺麗なことも当然要求され、現在の様に鉛筆や消しゴムでは無く、墨をすって筆で書くことに成り、しかも、清書用紙を墨で汚せばまず不合格、緊張の連続でしょう。

 更に、試験は三日間連続で行われ、試験会場は一種の独房形式の小屋で、受験生一人一人にその独房が割り当てられ、そこで缶詰状態で受験します。
鍋釜、食材、寝具も持ち込んで、自炊しながら答案を書くのですが、なかには、緊張に耐え切れずに発狂する受験者も存在したと伝えられています。

 是が非でも合格する為に不正行為をする者も当然現れますが、論述式試験なのでカンニングペーパーはあまり役には立ちません。
論語、詩経等は暗記していることが大前提で在って、答案を作成する時にそれらを如何に上手に引用して文章を格調あるものにするのかが合否の判断材料に成ってきます。

 そうなれば、合格する為に不正行為を行う場合、一番確実なのが採点する担当者を買収することです。
当然ですが、政府としてその様な事態が横行することは、科挙の権威が台無しに成ってしまう為、懸命に不正防止策を展開します。
まず、賄賂を受け取っている採点官が誰の答案か判らない様に、受験生の名前を隠してしまいます。
 
 国家の指導層を選ぶ科挙では更に不正対策が行われ、受験者の名前を隠すだけでは足りず、受験者の筆跡で人物を判断出来る場合もあるので、筆跡をわからなくする為に受験者の提出した答案を別の役人達が書き写すし、筆跡がわからなくなった答案を採点官が採点します。
 
 不正を企む人物は居たと思いますが、科挙はおおむね公正におこなわれていき、モンゴルが中国を支配した一時期を除いて王朝が変わっても連綿と継続され、20世紀1904年迄、実施されたのです。

 宋の時代には科挙官僚を出した家は「官戸」とよばれ、特権を得ました。
徭役を免除など減税が行われ、この特権はその家から官僚がいなくなれば、なくなってしまうものです。
そういう意味で、家系そのものが高貴とされる貴族とは全然違うものです。

 宋はこの科挙に象徴されるように文治主義の政治体制をつくりあげていきました。

統一国家の成立:終わり・・・


2013/08/11

歴史のお話その182:統一国家の成立③

<五代から宋へ③>

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科挙試験場風景

◎宋の政策

 趙匡胤は宋の太祖に成ります。
彼の時に、ほぼ中国を統一しますが、完全に統一したのは二代目皇帝(979年)、趙匡胤の弟、趙匤義(ちょうぎょうぎ)(在位976年~997年)、こちらは宋の太宗と呼ばれる方が多い様です。

 この兄弟が宋の基礎を固めました。
宋の政治方針は、「文治主義」、この「文」の反対語は、この場合は「武」にあたります。
文治は武力ではなく「文の力」で治めることを意味しているのです。

 具体的には、節度使の権限を大幅に削減し、地方の軍事勢力を弱体化させるのですが、兵士を急に減らすと、失業兵士が賊に成る可能性が大きいので、急には減らしません。
そのかわり新しい兵士を採用せず、兵士は1年又1年と歳をとり年齢が進みます。
現実、これでは戦力としては役に立ちませんが、政府は彼等に地方都市の城壁の修理、橋、堤防工事等を行わせ、地方軍を骨抜きにしていきます。

 代わってに皇帝直属の軍、「禁軍」を強化していきます。

 軍人の力を削って、代わりに文人官僚による行政機構を整備し、多くの文人官僚を採用する為に科挙(かきょ)と呼ばれる採用試験が実施されました。

 「選挙」という名で隋の時代から始まり、唐の則天武后時代に充実されていたのですが、科挙が一気に重みを増し整備されるのは宋の時代からです。
この時代に貴族階級が消滅し、総ての官僚が科挙によって選ばれることに成りました。

◎科挙

 宋代の科挙は、誰でも受験することが可能で、年齢、出身地関係在りません。
但し女性は受験資格が在りませんでした。
試験は三年に一回、三段階の試験があります。
最初が郷試、これは地方試験、合格したら都で二次試験を受けることが出来、これを会試と呼びます。
会試を通過した受験者を最後に待ち受ける試験が殿試で、これは宋代から初まり、皇帝自身による面接試験で、宮殿で行う為殿試を呼ばれました。

 官僚に成ることが叶えば、一族皆が潤うような財産と権力とが手に入り、主席で合格すれば将来の大臣は約束された様なものだったのです。

 一旗揚げようと云う血気盛んな者達は、腕力に頼るのでは無く、机に向かって勉強する様に成り、政府に不満を持つ者も、反政府運動をするよりも受験勉強に精を出して官僚に成ったが話が早い訳です。
その様な意味でも、政府は積極的に科挙を宣伝し、以下は科挙を受験する様にに勧める歌です。

 「金持ちになる為に良田を買う要はない。
  本のなかから自然に千石の米がでてくる。
  安楽な住居に高殿をたてる要はない。
  本のなかから自然に黄金の家がとび出す。
  外出するにお伴がないと歎(なげ)くな。
  本のなかから車馬がぞくぞく出てくるぞ。
  妻を娶(めと)るに良縁がないと歎くな。
  本のなかから玉のような美人が出てくるぞ。
  男児たるものひとかどの人物になりたくば、経書をば辛苦して窓口に向かって読め。」
  
※宮崎市定「科挙」中公新書より

 窓口に向かって、の表現は、何分千年も前位の時代ですから照明は暗く、日が暮れかけても窓からは光が射し込むから暗くなっても勉強しろ、ということを比喩しているのです。

 この歌は太宗趙匤義が創って意図的に流行させたといわれ、人民を取り込むのに必死だった結果ですが、太宗は科挙の合格者を一挙に増やした皇帝でもありました。

 子供に勉強させるだけの余裕のある家は、必死に受験勉強させます。
少し利発な子供なら、親戚皆でお金を出し合って評判の良い先生のところに入門させて、科挙の準備をさせます。
子供は一族の期待を一心に担って勉強するのですから、そのプレッシャーは、現在の大学や法曹の受験勉強とは比較に成らないことでしょう。
優秀な人だと十代で合格する場合も在りますが、五十代、六十代になっても朝鮮し続ける人もいました。

 合格率は、17世紀初頭、明朝末期の数字ですが、予備試験に合格して受験資格を持つ者が50万人、それに対して殿試合格定員が300人程度なので、凄まじい競争率と言わざるを得ません。

統一国家の成立:続く・・・

2013/08/10

歴史のお話その181:統一国家の成立②

<五代から宋へ②>

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清明上河図(12世紀)に於ける開封

◎五代から宋へその②

 宋成立以前、後周の時代に世宗(せいそう)という皇帝がいました。
この人は非常に有能で南北に領土を拡げていて、やがては混乱状態を終息させ、国を統一してくれるものと期待されていたのですが、三十代の若さで病死します。
代わって即位したのが幼い息子。

 心ある者は、又世の中が乱れるのかと、内心落胆したのです。
唐末以来の長い混乱でこの状態を収束させ、平和な世の中をみんなが望んでいる時に、幼い皇帝ではこの様な期待に応えられません。
軍人達も無能な皇帝に仕えることは、何の意味も無く、幼い皇帝を喜ぶ筈は在りません。

 趙匡胤は後周の軍人出身で、節度使の経験も在り、新皇帝の側で親衛隊長を任じられていました。北部国境に敵の侵入があったという報告で、趙匡胤は親衛隊をひきいて出陣します。

 此処で、少々興味深いお話が残っています。

 都の北方で宿営する彼の処へ、部下の将校達がやって来て懇願します。
「幼い現皇帝では再び混乱が起きる。貴方様が皇帝になってください」と。
趙匡胤は親衛隊長として反乱なぞ考えてもいないと断るのですが、部下達は強引で断りつづければ、自分は殺されるかもしれない。
当にその様な雰囲気に成ってきました。
そこで、やむなく皇帝に成ることを約束すると、部下達は喜んで黄色の服を持ってきて趙匡胤に着せました。
黄色は皇帝の象徴なのです。

 真意は定かでは在りませんが、趙匡胤は不承不承ながら皇帝に祭り上げられ、親衛隊を率いて都に戻り、幼い後周の皇帝から位を奪い、こうして宋は建国されたのです。

 このお話は、宋の成立した後に作られた記録なので、本当に趙匡胤が不承不承皇帝になったか否かは解りませんが、最初からその様な話を部下達と準備していたのかも知れません。
しかし、この様な芝居を準備して人民を納得させることが、必要な状況だったのです。

 余談ですが、宋は後周の皇帝一族を殺さずに丁重に保護していきます。
宋の時代に後周皇帝家は存続しており、「水滸伝」には豪傑の一人として後周皇帝の末裔が登場しています。
後周以外にも、宋が全国統一する時に進んで降伏してきた、十国の君主達も同様に丁重な扱いを受けます。
戦乱を終わらせる、余分な血を流さない、と云う民衆の願いを、宋の支配者は自覚しているようです。

統一国家の成立:続く・・・

2013/08/08

歴史のお話その180:統一国家の成立①

<五代から宋へ①>

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趙匡胤

◎五代から宋へ

 唐が滅亡してからの約50年間の分裂時代を五代十国時代といいます。

 華北、黄河流域には開封を首都として5つの王朝が交代し、これを五代と呼びます。
その王朝は、順番に後梁(こうりょう)、後唐(こうとう)、後晋(こうしん)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう)の5つです。

 それ以外の地域に合計10程度の独立政権が成立しました。
この時代のほとんどの政権は、節度使が自立したもので、各政権の皇帝や王は皆軍人出身です。
戦乱の絶えない時代で、均田制が崩壊したあとの社会の仕組みに釣り合う政治の仕組みが作り出される過渡期です。

 その過渡期の混乱時、新しい時代の担い手は新興地主層で、これを形勢戸(けいせいこ)と云い、後漢以来の豪族との相違点は、豪族は南北朝から隋唐迄、連綿と続いて貴族階級を形成して行きますが、形勢戸は同じ家がずっと地主として続きません。
自作農から地主に成長する家もあれば、没落する家もあって同じ家が存続しない為、形勢戸は貴族階級には成りませんでした。
形勢戸の言葉には「成り上がり」の意味があるのです。

 又、形勢戸の大土地所有は、一円的所有では在りませんでした。
此処で一円的の意味は、一つの地域を丸ごと持っていることを云い、豪族は一円的土地所有の為、そこで働く農民は豪族に隷属して行き、更には貴族化していったのです。

 しかし、形勢戸は多くの土地を所有していますが、点在分散しており、全体を合計すれば大きな土地になるのですが、一つひとつの土地は小さく、小作農の立場からすると、何人もの形勢戸から土地を借りています。
従って、一人の形勢戸に隷属するような関係には成りにくく、形勢戸は身分的にも貴族化していきません。

 黄巣の乱で南北朝以来の貴族階級が全滅させられて以降、ずっと中国では貴族階級は登場せず、総ての人民は、同じ身分でした。

 日本で貴族が無くなったのが第二次世界大戦後、20世紀の出来事です。
中国では10世紀には既に貴族が消滅している為、この様な面では、中国は大変進んでいる社会です。

 五代最後の後周が宋に替わるのが960年、宋の建国者は趙匡胤(ちょうきょういん)(在位960年~976年)、都は開封です。

 宋が成立した時には既に統一に向けた機運は生まれつつ在ったのです。


統一国家の成立:続く・・・
2013/08/07

歴史のお話その179:栄華の時代・文化その④

<唐の文化その④>

◎書画

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呉道玄;孔子像

 絵画分野では、山水画の達人、呉道玄(ごどうげん)。
人物画では「歴代帝王図巻」を書いた閻立本(えんりつほん)(?~673年)。
この図鑑はボストン美術館が所蔵していますが、彼の直筆か否かは諸説あるとのことです。


 書の分野では、楮遂良(ちょすいりょう)(596年~658年)。

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顔真卿:祭姪文稿

顔真卿(がんしんけい)(709年~786年頃)、顔真卿は安史の乱で自衛軍を組織して反乱軍に抵抗した人物で、その字も力強く、王羲之の貴族的で優雅な書風を一変させました。
現在でも、顔真卿の書のファンは多い様です。

 さて此処に上げた文、画、書、の名人達ですが、彼等も官僚です。
芸術家という分類は、この時代に存在せず、芸術は貴族階級が嗜むものでした。

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唐三彩:ラクダに乗り唐にやってきた隊商

 工芸では唐三彩(とうさんさい)。
作品の題材は、中央アジア系が顕著で、ラクダにイラン人が乗って、琵琶を弾く等、唐の国際性が現れています。

◎学問

 儒学は官僚登用試験の科目にも採用されて、隆盛を極め、南北朝時代に儒学の主要問題集である、五経の解釈は別れてしまい、統一が必要でした。
解釈が別れては、試験問題としても問題在りなので、太宗の命により孔穎達(くようだつ)(574年~648年)により、「五経正義」と云う政府公認の儒学解釈本を編纂しました。

 これ以来官僚を目指す受験生は「五経正義」を参考書にして勉強しました。
確かに勉強には便利でしたが、儒学の解釈が固定化されてしまったのです。

◎宗教

 道教は則天武后や玄宗の保護を受けて隆盛です。

 仏教について
仏教はますます中国に深く浸透して、僧侶のなかで本場インドに留学したいと思う者も現れてきます。
 
東晋の時代に法顕(ほっけん)がインドに旅行して「仏国記」を残していますが、唐では更に有名な人物がいます。

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玄奘

 玄奘(げんじょう)(602年~664年)、三蔵法師の名も有名です。
彼は13歳で出家し、天才少年で瞬く間に先輩達を追い抜いて、仏教の理論を吸収して行きました。20歳を越える頃には、大人達に講義をするほどに成り、勉強を深めればそれだけ疑問も生じてきます。しかし、玄奘の疑問に答えられる人物は中国には存在しませんでした。

 疑問を解決する為には本場のインドに行くしか方法は在りません。
ところが、当時国外への旅行は禁じられており、インドに行きたい願望は募るばかりで、とうとう国境警備の監視を掻い潜り、国境線を突破、国外脱出に成功したのです。
齢27歳、太宗李世民の時代でした。

 インドへの旅の困難さがやがて『西遊記』の物語に成ります。
インドでも学識の高さで有名に成り、ヴァルダナ朝のハルシャ・ヴァルダナ王にも招かれ、王にすっかり気に入られて数多くの教本を持って645年に帰国します。
帰りは何頭もの馬に何百巻もの経典を積み、お付きの者も付けての旅でした。

 唐国境が近づきますが、玄奘帰ることが出来ません。
密出国ですから、帰れません。
そこで、彼は長安の太宗皇帝に手紙を出し、自分は唐僧ですが仏教を学ぶ為に国法を破ってインドに行きました。
留学を終えて帰ってきたのですが、どうか入国を認めてください、と。

 太宗、歓迎して玄奘を迎えます。
貴重な西域、インドの情報源と考えたのでしょう。
玄奘の為に寺を建立し経典の漢訳を援助し、何十人もの助手をつけて翻訳を手伝わせました。
現在、長安の観光名所と成っている大雁塔(だいがんとう)は、玄奘が持ち帰った経典を保存するために建設されたものです。

 また、太宗の命令で玄奘が書いた西域旅行記が「大唐西域記」です。

 もう一人インドへ趣いた僧に義浄(635年~715年)がいます。
彼は陸路ではなく海路南シナ海を船で西へ向かい、旅行記が「南海寄帰内法伝(なんかいききないほうでん)」、東南アジアの諸民族の貴重な記録となっています。

 唐の時代は禅宗、浄土宗、天台宗、真言宗など宗派が形成される時代で、仏教が中国化しはじめている時でした。

 日本からの留学僧はその様な空気の中で、最新流行の宗派を持ち帰って日本に紹介したわけです。有名な処では空海の真言宗、最澄の天台宗を伝えました。

唐の文化:終わり・・・

2013/08/05

歴史のお話その178:栄華の時代・文化その③

<唐の文化その③>

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◎文学の隆盛・李白その②

 とにかく使者は、何とか李白を宴席に連れて来ることには成功しましたが、李白は立っていることもままならず、近くの長椅子にふんぞり返って横に成り、テーブルの上に両足を投げ出しました。
皇帝等お構いなしです。
更に横に立っていた男に命令しました。
「お前、俺の靴を脱がせろ。」
立っていた男は、高力士という宦官で玄宗のお気に入りの一人なのですが、彼にしてみれば「この俺様に対して」、と思い気分を害しながらも、李白はお客様で自分は宦官ですから、その場はしゃがみ込んで李白の靴を脱がせたのです。

 高力士はこの時の恨みを忘れません。
折に触れて玄宗に李白の悪口を告げたらしく、終に玄宗は李白を長安から追放してしまったと云います。
因みに高力士は、後に玄宗の命令で楊貴妃を絞め殺すことになる男です。
この様な事が起こっても、自由奔放な李白の性格は変わらなかったようです。

 このエピソードを李白の親友、杜甫が詩にしています。

「飲中八仙歌」
李白は一斗、詩百篇
長安市上、酒家に眠る
天子呼び来(きた)れども船に上(のぼ)らず
自ら称す、臣は是(こ)れ酒中の仙、と

 最初の句は酒を一斗飲めば、詩が百でてくる、という意味。
李白は「詩仙」と称されます。
在命中から天国から間違って地上に落ちてきてしまった詩の仙人、と云われていました。
最後の「酒中の仙」とはその部分を踏まえています。
皇帝の使者が呼びに来ても、「俺は詩の仙人、皇帝がなんだ」とうそぶいていた、という感じでしょうか。

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 杜甫(712年~770年)、李白と並び称される大詩人、「詩聖」と云われています。
李白とは正反対の性格で地味で不器用な人物、官僚になる為、縁故を求めて就職活動を続けていましが、大成しません。
詩人としては有名に成りますが。

 40歳代に成ってようやく下級官僚に成りますが、その頃安史の乱が起こって総てが水泡に帰りました。
その後は各地の有力者の世話になりながら諸国を放浪して生涯を終えました。
苦労した人物なので作品も、庶民の生活や兵士の苦労、戦乱の悲惨、その様な社会的な題材を多く取り上げています。

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 王維(701年~761年)、自然を描く詩にすぐれ、画家としても有名。
少年の頃から天才の名として名を馳せた、宴席の参加の一人で、官僚登用試験にも合格して官僚としても出世しましたが、この人物も安史の乱に遭遇して捕虜に成り、無理矢理に安禄山に仕えさせられたこともあった人です。

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 白居易(はくきょい)(772年~819年)、白楽天(はくらくてん)とも云い、前の三人より後の時代の人物です。

「長恨歌(ちょうごんか)」が有名。
先に少し紹介しましたが、玄宗と楊貴妃の悲恋を詩にしたもので、平安貴族に愛唱されたので、日本でも有名になりました。

 白居易は作詩する時に何度も推敲するのですが、その推敲の仕方が面白く、まず詩ができると、街へ出ていき道ゆく老婆をつかまえて、無理矢理詩を聞かせます。
お婆さんが「よくわからないなあ」という顔をしていたら、持ちかえって書き直し、又通りすがりの老人をつかまえて聞かせる。聞かされた人が「いいねえ」という顔をしたら完成です。

 白居易が試し聞かせる相手は皆庶民、文学の素養なんかない普通の人ばかりですから、その様な階層の人館でも感動できる作品をめざすのです。
彼の詩の特徴は平易で流麗ということですが、こういう作詩の態度からきているのですね。
日本の貴族達に持て囃されたのも、平易な文で理解しやすかったからではと思います。

 文という文学分野が中国にはあります。

 唐と次の宋の時代に文の名人が八人居り、これを「唐宋八大家」と呼び、唐にはそのうち二人がいます。

 韓愈(かんゆ)(768年~824年)と柳宗元(りゅうそうげん)(773年~819年)。
 南北朝時代は四六駢儷体(しろくべんれいたい)という華麗な文体が流行するのですが、これにたいして漢代風の骨太い文を復興しました。

唐の文化:続く・・・

2013/08/04

歴史のお話その177:栄華の時代・文化その②

<唐の文化その②>

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◎宗教の伝播

 東西交流の活発に伴い、西方から様々な宗教も流入します。

 ゾロアスター教、当時祆教(けんきょう)と呼ばれ、イラン系の宗教なので、胡姫達と共に伝授されたと思われます。

 景教(けいきょう)、ネストリウス派キリスト教。
ローマ帝国で異端とされ、東方に拡散し、この時代は中国にも伝播しました。
この宗派に関しては「大秦景教流行中国碑」と云う有名な碑が残っており、造営は781年、高さ276cm。長安でキリスト教が流行したことを記念して建てられたものです。

 マニ教、イラン生まれの宗教も伝わりました。
このマニ教は、仏教、キリスト教、ゾロアスター教を融合させたもので、イスラム以前の西アジアで信者を多く集めていました。

 イスラム教、これは回教(かいきょう)と表現します。
中国は現在でも多民族国家であることは変わらず、イスラム教徒の数も多く、現在はイスラム教を信仰しているウイグル人を回民と記載しています。

 仏教や道教と一緒に上記の宗教寺院が、長安の街には数多く点在していたのです。
遣唐使と共に唐に渡った高野山の開祖、空海は当時中国で流行していた密教を日本に持ち帰りますが、好奇心旺盛な人物なので、長安の街の到る処を歩き回ったことでしょう。
ゾロアスター教や、キリスト教、イスラム教、その様な宗教を日本に紹介する可能性も在ったのです。

 唐の文化をまとめると、国際的な性格ですが、歴史的には五胡十六国時代以来の多民族的な側面が発展したものです。
もう一つは貴族的性格、文化の担い手は六朝文化を継承する貴族階級で、魏晋南北朝以来発展した文化が、唐によって確立されたのでした。

◎文学の隆盛

 唐の文化は文学、なかでも詩の文化です。

 李白(701年~762年)、自由な作風、開放的、貴族的、と云われますが、西域貿易で成功をおさめた商人の息子に生まれ、苦労を殆どする事無く、育った為か自由な詩風に成ったのかも知れません。
先に「少年行」は紹介しましたが、明るく華やかな詩を書く人物で、お酒の詩も多く伝わっています。
李白の優れた才能は評判となり、やがては玄宗の宮廷に出入りするようにもなります。

 当時の文学者はその殆どが、官僚か官僚志望の人たちでした。
官僚に取っては人並みの文章が書けることは、当たり前の教養なので、その中で飛び抜けた才能を持つ者は今でいう人気作家、人気脚本家でしょうか。
その様な人物は、貴族や役人の様々な宴席に呼ばれ、その場にあった詩を即興で創作します。
見事な詩をその場で作り上げて拍手喝采を浴び、ますます評判が上がり、何処か芝居の役者に近いところも在りますね。

 李白は陽気で華やか、自由奔放な性格の為、宴席でも人気が在り、彼が来れば座は大いに盛り上がりました。

 或る時、玄宗皇帝が船遊びをしました。
お気に入りの側近を集めての宴会で、玄宗皇帝、余興に李白を呼んで詩を詠ませようと思ったのです。
そこで側近を李白の所に走らせますが、家には不在、酒好きの李白なので酒場を探し回ったら、発見できました。
「皇帝陛下がお呼びです、どうぞ御同行ください」、と使者が告げますが、李白は既に出来上がって素面では在りませんでした。

以下のエピソードは次回に。

唐の文化:続く・・・


2013/08/04

歴史のお話その176:栄華の時代・文化その①

<唐の文化その①>

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◎唐の国際性

 唐は国際性の豊かな時代でした。
前回の番外編で「長安の酒場に行けば、青い眼をした女性が居た。・・・・・・」の言葉を紹介しましたが、改めて唐の国際性について書いてみたいと思います。

 唐の前半は羈縻政策が功を奏して、非常に広い地域が唐の勢力下に入ります。
その広大な領域内だけでも数多の民族が居住し、貿易、留学等様々な目的で世界中から多くの民族が入唐した結果、都長安は国際色豊かな都市と成り、現在に例えれば其れは、主要先進国の首都を連想すれば良いと思います。
人口も100万人を超えており、当時多分バグダードと並んで当時世界最大規模の都市です。

李白「少年行」

五陵の年少、金市の東
銀鞍白馬、春風を渡(わた)る
落花(らっか)踏み尽くして、何(いず)れの処(ところ)にか遊ぶ
笑って入る、胡姫酒肆(こきしゅし)の中

盛り場を貴公子が春風の中、馬に乗って走っていく。
(白馬に銀の飾りのついた豪華な鞍をつけており、見るからに金持ちの貴公子です)
花びらを踏み散らしながらどこへ行くのか
(と李白が見ていたら)
胡姫酒肆の中へ入って行きました。
 (酒肆は酒場)
 
 胡姫の意味
胡の字は本来、異民族の意味で使われていましたが、唐の時代に成るとイラン人を示す言葉になります。
胡姫はイラン人の若い女性、胡姫酒肆は、若いイラン娘が踊り、がお酌をしてくれる酒場なのです。

 李白はこの様な長安の華やかな雰囲気をつたえる詩を沢山創りました。
商人以外にも様々な仕事で、唐に出稼ぎに来ていた西方出身の人が数多く居た結果であると思います。

 外交使節も長安にやってきます。
日本からは遣唐使、留学生、留学僧も数多く居り、当時の日本は新興国家なので、唐に学ぼうと必死です。

 遣唐使の様な使節を送る国は無数に存在し、唐の観点からすれば、これらは皆朝貢(ちょうこう)で、中国の皇帝を慕って諸国が貢ぎ物を持ってくる、と解釈をします。
対等な外交関係ではありませんが、朝貢した国は帰りに数多の返礼品を持ち帰ります。
貿易の面から見れば、朝貢国は大変な恩恵を受けていたのです。

 アラビア方面からはインド洋経由でイスラム商人達が往来します。
唐は広州に貿易業務を管理する役所、市舶司設け商業税を徴収しました。

 此処でイスラム勢力との関係では重要な戦いが発生します。
 タラス河畔の戦い(751年)。

 現在のカザフスタン、ウズベキスタン、キルギス三国の境付近で唐とイスラム・アッバース朝が東西交易路での勢力争い結果、戦火を交えます。
この戦いで唐は敗走し、死者5万人、捕虜2万人と伝えられていますが、この捕虜の中に紙梳(す)き職人を本業とする人物が混じっていました。
その結果、製紙法がイスラム世界に伝わり、やがてはヨーロッパまで広く伝授されて行きます。
タラス河畔の戦いは、文化史上非常に重要な戦いでした。

 因みにこの時に唐軍の司令官が、高仙芝(こうせんし)で、この人物は高句麗人です。
朝鮮半島出身の人物が、唐の軍人として中央アジアで、アラブ人のイスラム勢力と戦っている大変、スケールの大きな時代のお話です。

 高仙芝はこの後、長安に帰還し安史の乱で、反乱軍と戦っています。

唐の文化:続く・・・


2013/08/01

歴史のお話その175:栄華の時代番外編②

<唐番外編その②>

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◎唐に献上された日本の舞姫


 「長安の酒場に行けば、青い眼をした女性が居た。白い顔を花の様にほころばせて、歌っていた。金髪をなびかせながら、踊っていた」。
今から1200年程前、我国では奈良時代のお話です。

 唐の都、長安は、当時世界最大の国際都市で、大唐帝国の威勢をしたって、又高い文化に憧れて、四方の国々から、さまざまな人種の人々が、長安に集まっていました。
日本からも、遣唐使が赴き、留学生が行き、中にはそのまま長安に住居を構え、唐の役人に成る者も現れました。
遣唐使の藤原清河、留学生の阿倍仲麻呂が良く知られています。

 阿倍仲麻呂は、詩人李白とも親交が深かったので、先に述べた酒場で、異国の女性が注ぐ、葡萄の酒を味わった事でしょう。
藤原清河、阿倍仲麻呂は、供に長安で他界します。

 さて、唐の年号で大歴13年(778年)、日本の年号では、宝亀9年、日本からの遣唐使が26年ぶりに長安に赴きました。
一行は、正月に入京し、4月末迄長安に滞在し、帰国に際しては、在唐の留学生の他、清河と唐の婦人の間に生れた娘(喜娘)を伴います。
帰路の航海は、逆風に合い、多くの者が海に消えたものの、喜娘は、何とか父の故国の土を踏む事ができました。

 処が、この時長安の宮廷には、別に11人もの日本女性が、再び祖国を見る当ても無く、辛い日々を送っていました。
この薄幸の女性達に関して、日本側の記録には、何も伝えていません。
この女性達は「日本国の舞姫」で在り、777年の正月、渤海から貢物として、唐の朝廷に献上された者達で在りました。
唐の役人も、特に珍しい事と思ったのか、特に記録に留めていますが、なぜ「日本国の舞姫」が渤海からの献上品に成ったのでしょうか?

 渤海は、現在の中国東北部から朝鮮半島にかけて、勢力を伸ばした大国で、7世紀末に建国し、唐に通じた他、日本にも使節を送っていました。
渤海の使節は、日本に対しても、うやうやしく臣下としての礼をとり、貢物を捧げ、天皇の徳を慕って来朝したと称しました。
よって、奈良の朝廷は、使節の接待に国費を傾けたのでした。

 渤海からの貢物は何かと云えば、その領内に産する動物の毛皮が、主な物で、虎、ヒグマ、テンの皮、人参、蜂蜜が中心で、之に対して、朝廷は豪華な絹製品を大量に与えました。
実は、渤海が度々日本に使節を送る目的も、この恩寵の品が大きな目的であったと思われます。

 では渤海が「舞姫」を、どの様にして手にしたのかについては、流石に当時の記録にも「舞姫」迄与えたとは記録されていませんが、唐に献上している以上、日本から連れ帰ったに違いないのです・
渤海の使節が、来朝すると、連日の様に宴席が持たれ、朝廷からは、女樂を賜りとの記録も在り、宮中で召抱えている舞姫達を、宴席に侍らせたのでしょう。
唐に献上された「舞姫」とは、この事であると思われ、献上の年にもっとも近い、渤海の入朝は宝亀2年(771年)に7回目の使節が入京した事が、朝廷の記録に残されています。

 何人の「舞姫」が異郷の地に伴われたのか、渤海の都での境遇等は、今と成っては知る事も不可能ですが、少なくとも11人は、日本の女性として満州の広野に足跡を印し、この地で5年余りを送った後、長安に貢物として送られたのでしょう。
その翌年の遣唐使一行が、かつての同朋が長安に居る事を知っていたのか、朝廷がその事実を知っていたのかは解かりません。
11人の「舞姫」は一度、長安に現れ、おそらく宮廷の奥深く、永遠に姿を消したのでした。

 その後も、渤海と日本の国交は続き、朝廷の歓待したのは言う迄もありません。
聖武天皇の御世、神亀4年(727年)に初めて来朝し、醍醐天皇の御世、延長4年(926年)に渤海の国が滅亡する迄、その使節の来朝は、実に35回。
奈良時代から平安時代を通じて、常に渤海は忠誠な国で在り、その外交は巧みで在りました。

栄華の時代:続く・・・