2013/09/30

歴史のお話その222:語り継がれる伝説、伝承、物語⑪

<ニュルンベルグの孤児>

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◎事件の始まり

 1828年のホイットマンディ(復活祭後第7日曜日の翌日)の事、年齢は16歳位の見慣れぬ顔の少年が、ドイツのニュルンベルグの町に姿を現しました。
擦り切れた野良着を身に付けた彼を、誰もが浮浪者か酔っ払いと思った程でした。
少年は“ニュルンベルグ駐留第6騎兵隊内第4中隊長”宛の手紙を所持していました。

 一人の靴職人が少年を、中隊長の家に連れて行きましたが、少年は鸚鵡の様に「私は父の様に、軍人に成りたいのです」を繰り返すばかりでした。
警察署に移された少年は、あらゆる尋問に「知らない」と答え、この少年の精神年齢は、3歳から4歳で止まっている様でしたが、紙と鉛筆を渡されると“Kasper Hauser”と自分の名前を綴る事はできました。

 カスパー・ハウザーは浮浪者に収容所に送られ、所持していた無署名の手紙が検査され、その手紙には次の様な文章が書かれていました。
「隊長閣下、軍務について閣下にお使えしたいと望む少年をお届します。彼は1812年10月7日に、我家の前に捨てられておりました。私はしがない日雇いに過ぎません。家には10人の子供達が居り、我子を育てる事に精一杯でございます。私は其れでも、1812年以来、少年を我家において参りました。・・・彼をお抱え下さるおつもりが無いのでしたら、殺すなり、煙突の上に吊るすなり、ご随意になさって下さい」。

 カスパー・ハウザーは牢番の家に引き取られましたが、少年の体は良く成長しているものの、足の裏は新生児の其れの様に柔らかく、歩こうとすると、漸く立ち上がった赤子の様によろめきました。

◎育てられた環境

 カスパー・ハウザーは直ぐに、途切れ途切れながら会話が出来る様になり、食物はパンと水しか受け付けませんでした。
牢番の妻が入浴させる時も恥ずかしがらず、男女の違いさえ分からない様でした。
この様な状況から、少年には、背後に何か重大な秘密があるに違いない、と牢番は考えました。

 謎の少年は、次第に人々の興味を呼び始め、若いダウマー博士が彼に教育を施した結果、カスパーは終に、彼の驚くべき過去を垣間見せる事が出来る様に成りました。

 カスパー・ハウザーは、ニュルンベルグにやって来る迄、自分が会った人間は一人きりだったと語り、奥行き2m、幅1.2m、高さ僅か1.5mの小部屋で暮らし、腰掛けるか、横になる姿勢しかとれなかった事、毎朝、目が覚めると水差しと一切れのパンが置かれており、水は時々苦い味がして、飲むと眠くなり、其の後起きて見ると、衣服が変わり体も綺麗になっていた事を話しました。

 或る日、一人の男がやって来て、“Kasper Hauser”の綴り方と「私は父の様に軍人になりたいのです」と言う言い方を教え、その後彼は、カスパーを抱えあげて外は連れ出しました。
太陽の光と外気に初めてふれたカスパーは、気を失い、改めて気が付くと、ニュルンベルグの町を彷徨っていたと言う事でした。

 少年に関する関心は、彼が何か特別な存在と考えられた結果、ヨーロッパに広がり、法律家、医師、役人が次々と彼の基を訪ねました。
顔立ちが良く似ていたので、カスパーの名前がバーデン大公家と関係があるのではないかと囁かれましたが、1812年、カスパーが誕生した頃、大公家の直系の世継ぎとなる二人の幼い公子が、突然の死に遭遇していた為でした。

 1830年3月に家長の大公が亡くなると、大公の相続人の友人であるイギリス人、スタンホープ伯爵がカスパーの後見人を引き受けます。
スタンホープ伯爵は、カスパーの出身はハンガリーで、バーデン大公家とは何の繋がりもないと事有る毎に主張し、彼は執拗に人々の其れまでの意見を変えさせて、カスパーはペテン師であると言わせる様に努めました。
しかし、アンセルム・リッター・フォン・フォイエルバッハは、次に様に断言します。
「カスパーの自由を奪った犯罪は、憎悪や仕返しが目的ではなく、利己的な利益の為に引き起こされたものである。カスパー・ハウザーは高貴な家柄の嫡出子であり、他の者が相続権を奪う為に彼を排除した」

 フォン・フォイエルバッハは1833年に突然世を去り、世間はカスパーの高貴な出身の証拠を発見した為に毒を盛られたのだと噂されましたが、その様な証拠が公表された事は在りませんでした。

◎陰  謀

 短い生涯において、常にそうであるように、カスパーの死は悲劇と謎に満ちていました。
1833年の或る日の午後、高貴の出生について情報を伝えるとの伝言で、彼はアンスバッハ公園に誘き出され、待っていた人物は、やにわに彼の心臓にナイフを突き立てました。
カスパーは、家迄よろめきながらも辿り着いたものの、3日後に死亡します。

 バーデン大公妃シュテファーニエは、彼の死を知って号泣したと云われています。
彼女は、カスパーの真の母親と噂されており、夫カールは大公家の末子だったので、世継ぎを設け損なうと、相続権はホッホベルク伯爵夫人の子供に移る事に成っていました。

 大公妃シュテファーニエが長子を出産した時、ホッホベルク伯爵夫人が百姓娘の死産児を密かに宮殿に入れ、生まれたての公子カスパー・ハウザーと入れ替えたとの話しが存在しています。
伯爵夫人は、カスパーをヘンネンフォーファー少佐に預け、少佐は子持ちの退役兵に養育させました。
一説には、ヘンネンフォーファー少佐は尋問を受けて、この一件を自白したと云います。

 しかし、カスパー・ハウザーの秘密は決して解明されないのです。
ヘンネンフォーファー少佐が死亡した時、彼の私文書も全て焼却されてしまいました。

続く・・・

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2013/09/28

歴史のお話その221:語り継がれる伝説、伝承、物語⑩

<鉄仮面>

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 ルイ14世の治世60年目の1703年に、バスチーユ監獄である囚人が死亡しました。
34年間を獄中で過ごしたその男は、ベルベットの仮面をつけ、監獄の誰にも顔を見せぬまま、世を去りました。

 フランスの一公女から、イギリスの宮廷に居る友人のもとに「昔の囚人」について書かれた手紙が届きます。
「仮面をつけた一人の男が、長年バスチーユで暮らし、仮面をつけたまま死んだ。近衛兵が二人、常に彼を見張り、仮面を外そうものなら直ぐに殺す用意をしていた。・・・是には何か訳があったのだろう。他の面では彼は厚遇され、快適に生活できるよう配慮され、望むものは全て与えられていたから。・・・彼が何者であったのか、誰も知る事は出来ませんでした」。

 ロマン派の小説家アレクサンドル・デュマ(父)は仮面の材質に多少の脚色を加えて、「鉄仮面」を書き、素性不明の囚人が、ルイ14世自身、若しくは双生児の弟という説を広めました。
しかし、是までに判明した事実から、より一層奇怪な推測が生れています。

 1669年、港町ダンケルクで逮捕された瞬間から、この囚人は異常に用心深い保護を受けました。
当時フランス領で在ったトリノ近郊のピニェロル監獄に彼が、護送されてきた時、責任者のM・サンマルスは次のような命令を与えられました。
「日用生活必需品以外の物事に関し、彼が口を開こうとした時は、氏の脅しを持って制しせよ」。
サンマルスが他の監獄に移動する度に、その任地に囚人も蝋紙で目隠しをした、籠に入れられ一緒に移動しました。
囚人は、激怒の余り気も狂わんばかりであったと記録されています。
囚人の逮捕からほぼ30年が経過したにも関わらず、尚もこの人物が人目に触れないように、あらゆる手段を尽すよ
う命じられていました。
 
 仮面は罰ではなく、用心の為で有り、この長い期間、囚人は公然の存在では有りませんでした。
では、なぜかくも厳重な警戒が必要だったのでしょうか?
謎を解く鍵として、かの人物は、誰か極めて重要な人物と驚く程似ていたのかも知れず、そして容姿が似ている事が大変に不都合であったのではないでしょうか・

 学者で在り、又政治家でもあるクイックスイッド卿が発表した推論は、既知の事実と符合す様に思われます。
囚人は、ルイ14世の真実の父親ではなかったのか、と言う推論なのですが・・・。

 ルイ13世とアンヌ・ドートリッシェは22年間の結婚生活中、一人の子宝に恵まれませんでした。
当時フランスの実権を掌握していたのは、リシュリュー宰相で、彼は自分の権力維持の為に王の世継ぎの誕生を待ちあぐねていました。
ルイ13世の子が王位を継承すれば、リシュリュー派は引き続き権力を行使できます。
しかし、王と王妃は、14年前から別居生活を続けていましたが、宰相は何とか、公式の和解を取り持ち、そうして全フランスが驚天動地した事に、王妃は1638年、男子をもうけました。

 それ以前に国王夫妻に子供が生れる事は無く、しかも二人は互いに嫌いぬいていましたから、王子の父親となる夫の国王の変わりに若い貴族の男性を受け入れる様に、王妃をリシュリューが口説き落としたと想像できるのです。
当時、パリには身持ちの悪いアンリ・ド・ナバールの私生児・・・全てルイ13世の異母兄弟・・・が数多く居たので、ブルボン家の血統を引く人材を捜す事に、苦労は無かったと推測されます。
リシュリューは、容姿に優れ、彼の意志に従順なブルボン家系の青年を容易に見つけ出し、窮地を抜け出るには他の方法は無いと王妃を説得したのでしょう。

 事実、少年時代のルイ14世は逞しく活動的で、父王であるルイ13世に少しも似ていないと、宮廷の中で噂されていた事実が存在します。

 この推論が正しければ、真の父親は海外、多分カナダのフランス植民地に送られ、やがて過去の経緯も忘れた頃を見計らい、若しくは今や全能の太陽王と成った息子、ルイ14世を頼って、フランスに戻って来たのではないでしょうか?
父親と息子は互いに、余りにも似すぎていた為、彼の出現は宮廷を困惑させ、王権自体を脅かす存在で在ったと考えられます。

 簡単な解決方法、即ち彼を暗殺する事は、おそらく問題外で有り、ルイ14世にしても自分の父親の殺害は阻止せざるを得なかったはずであり、結果、完全な秘匿、生活に一切の不住は無いものの、看守以外の人間からも一切隔離された生活しか他に手段は無かった・・・と思われます。

 囚人は生前のとおり、顔を知られず無名のまま死にました。
その素性は、死後もなお隠され、バスチーユで生涯を終えた者の例にもれず、彼は仮名で埋葬されました。
太陽王ルイ14世の父親であったかもしれないその人物は、“ウスタード・ドージェ:下僕”と記録されたのでした。

続く・・・



2013/09/27

歴史のお話その220:語り継がれる伝説、伝承、物語⑨

<ブルボン家の継承者>

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 フランスの皇族、ブルボン家の正統な継承者が、今も世界の何処かで、富と名声を相続する権利が、自分に有るとも知らず、ひっそりと暮らしているかも知れません。
ルイ16世とマリー・アントワネットの間に生れた皇太子ルイ・シャルルは、1795年に“死亡”したと成されていますが、彼が子孫を残した可能性も有るのです。

 国王夫妻が1793年に処刑された時、ルイ・シャルルは投獄されて、革命政府の処置を待っていましたが、17ヶ月後、彼は10歳で死亡したと発表されました。

 遺体を検証した5人の人物は、皇太子に間違いないと証言しましたが、生前の皇太子を見た人物はその中に存在せず、又一緒に投獄されていた彼の姉は、死亡後の皇太子の顔を見ていません。
葬儀が行われた時、年端の行かない少年を入れるにしては、棺が大きすぎるとして、人々は不思議がりましたが、その後、様々な事柄を繋ぎ合わせてみると、遺体のすり替えが在ったのではないかという、疑惑が発生したのでした。

◎身代わり

 皇太子の牢番を命じられていた夫婦者が、職を離れる時、皇太子は悪戯盛りの9歳でした。
処が、それから7ヶ月後、後にフランスの独裁者と成ったポール・バラス将軍が獄舎を訪れた時、少年は重い病の床に在りました。
少年の健康状態が驚く程に急変した事情を、牢番をしていた女性が20年後、尼僧の前で懺悔したのです。
牢番夫婦が密かに、別の少年を牢へ連れ込んだのでした。
夫婦は職を離れる日に、皇太子と身代わりの少年を入れ替え、その女性は一言最後に付け加えました。
「私の王子様は、死んでいません!」

 ポール・バラス将軍の獄舎訪問に続いて起こった出来事が、女性の話しをある程度裏付けたのです。
新しい牢番が、将軍に皇太子は偽者であると告げ、バラス将軍は直ちに、皇太子捜索の手配を下したのでした。

 一方、革命政府の役人も牢を訪れ、少年が皇太子と似ても似つかぬ人物である事を証明する人物も居り、銀行家プチチバルは、皇太子の死亡証明書を偽造であると非難する程でした。
しかし、それから1年も経たない間に、プチチバルは一家皆殺しに成ってしまいます。
バラス将軍は、政府報告書の中でプチチバル家の者は、「諸君等も御承知の例の少年を除いて」全員死んだと述べています。

 この事から、バラス将軍は皇太子探索に成功し、少年がプチチバル家に居た事を将軍の同僚や、一部の高級官僚は知っていたのだと考えられます。

 其れならば、獄中で死亡した少年は、誰だったのでしょう?
1846年、遺体の再検分を行った医師は、10歳と云うよりは、15歳から16歳の少年のものである事を証言し、更に1894年に再度司法解剖され、16歳から18歳の年齢の少年と鑑定され、棺の中の遺体は皇太子では在り得ませんでした。

◎自称皇太子

 1815年のナポレオン・ボナパルト失墜と共に、ブルボン王朝は復活しましたが、自称「皇太子」の引きも切らぬ認知要求に悩まされる事と成りました。
勿論、その殆どが一目で分かる、偽者で在った事は、言う迄もありません。

 そのような中、カール・ウィルヘルム・ナウンドロフが登場します。
彼は、自分が失われた世継ぎで在ると称し、その主張を裏付ける極めて有力な証拠を持っていました。
皇太子の乳母も、ルイ16世の司法官も彼の主張を認め、皇太子の姉は、ナウンドロフが自分の家族に良く似ていると聞かされましたが、彼との面会は強く拒んだのでした。
彼の支持者は、皇女の拒絶をナウンドロフの主張が正しい証拠と見なしました。
皇女は、正統の王位継承者として、叔父のシャルルを推していたからです。

 ナウンドロフの主張で一つ特異な点は、牢番によって救出されたのではない事で、バラス将軍が彼を牢内の別の場所に移し、身代わりの少年を引き入れたとされていました。
そして、身代わりが死亡した日に、皇太子は密かに連れ出されてイタリアを経由したプロイセンに送られ、其処でナウンドロフの名前を改めて付けられたと主張しました。
認知要求を更に押し進める為、彼は民事訴訟を起こしたものの、直ちに逮捕されフランスから、国外追放に成りました。

 9年後、彼はオランダで死亡し、死亡証明書には、“ルイ16世とマリー・アントワネットの子 ルイ・シャルル・ド・ブルボン、享年60歳”と記載されました。
今日尚、ナウンドロフの子孫はフランスの法廷に認知請求を申し立てていますが、彼も又詐欺師で在ったなら、別の推測が成り立ちます。
即ち、本当のルイ・シャルル・ド・ブルボンは人目に立たない市井に暮らし、身元が明らかになる事を好まなかったかも知れません。
革命の時代に在って、王家の相続人である事は危険すぎると、彼が考えたとしても不思議では在りません。

続く・・・


2013/09/26

歴史のお話その219:語り継がれる伝説、伝承、物語⑧

<歴史を変えた病気:人類史上最悪の災厄②>

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◎犠牲者の墓地

 14世紀初頭、ネストリウス派の伝道師達が、新しいルートを通ってヨーロッパとアジアの間を旅する様に成りました。

 1338年と1339年の伝道師達の墓が、そのルート沿いに発見されています。
この放浪の宣教者のある者は、外モンゴルでペストに感染した事が知られており、この痛ましい事実と、普通の鼠がヨーロッパに生息していた事が、その後60年間に渡ってヨーロッパ大陸で猛威をふるい、更に引き続き4世紀近くに渡って世界中を震撼させた「黒死病」の原因に成ったと考えられます。

◎恐ろしい死

 ラテン語の「黒い」という言葉は、中世に於いて「恐ろしい」と同義語で使用されていました。
「黒死病」は、文字通り恐怖の病を意味していたのです。

 1348年には、フィレンチェの人口の大半が、黒死病の大発生の為死亡し、更にこの災禍は全イタリア半島に伝播しました。
同年、当時アビニュンに住んでいた教皇クレメンス6世は、ローマへの巡礼を提唱し、100万人以上の信者が、約800kmの旅に出発したものの、故郷に戻って来たのは10万人に満たない数だったのです。

 流行の絶頂期には、ローヌ川が犠牲者の墓場として使われましたが、他の方法ではもはや、死体の処理をする事が不可能に成る程でした。

 14世紀末までに、2500万人が犠牲となり、之は当時のヨーロッパ人口の25%に当たると推定されます。
或る推定値によれば、1500年~1720年の間に45回に上るペストの流行が報告されていると云います。
最も有名で最大規模の感染が1665年6月、ロンドンにおいて発生しました。

 ロンドンではペストの防疫法の一つとして、ねずみ以外にも犬、猫を焼却処分する方法を選択しましたが、この方法は徹底されず、手遅れでも在りました。
1666年迄に6万8000人のロンドン市民が、犠牲となりヨーロッパ大陸では、新しい流行が発生しないかと戦々恐々の日々が続いていましたが、1666年9月2日に、ロンドンの人口密集地域の中心部で、火災が発生し火事は4日間、燃え続け、市内の5分の4を焼き尽くし、同時に伝染病が発生する温床と成っていた、不衛生な環境も一掃されたのでした。

◎最後の大流行

 ヨーロッパに於ける最後のペスト大流行は、1720年、フランスのマルセイユで発生しました。
当時の挿絵や文書から判断すると、医師達は分厚い作業着と革の手袋を身に付け、更にくちばし状のマスクを被っていました。
くちばしの部分には、臭気を避ける、香草が入れられおり、当時は臭気が病気を運ぶと信じられていた、結果なのでした。

 18世紀以降、なぜペストの大流行が無くなってしまったのかは、はっきりとした理由は導き出せませんが、衛生概念の発達が、そういった大流行を抑制しているのだと思います。
只、「もしペストが発生したら、すばやく遠くへ逃げて、ゆっくり戻って来い」と云う当時の諺が、その対処をはっきりと言い表している様です。

続く・・・
2013/09/25

歴史のお話その218:語り継がれる伝説、伝承、物語⑦

<歴史を変えた病気:人類史上最悪の災厄①>

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 現在確認されている直近の腺ペストの大流行は、1910年の事で、毛皮猟師の貪欲さから、7ヶ月の間に6万人の人々の命を奪いました。
東シベリアで始まり、当時世界的に毛皮の需要が高まり、マーモットの毛皮の取引価格は通常の4倍にまで高騰していました。
マーモットはげっ歯類の動物で、その毛皮は黒テンの代用品として売られていたのです。
以前からこの動物を捕らえてきたモンゴル人達は、時々この動物が奇妙な病気に罹る事を知っていました。

 モンゴル人は誰一人として、病気に罹った動物を捕獲する事は有りません。
マーモットの肉や脂肪は美味と思われていましたが、その地方には「腋の下の脂肪組織の塊は食べてはならない」との戒めが存在し、その腺には、死んだ猟師の魂が入っていると、言い伝えられており、モンゴル人は
この腺に病気を持っている場合が多い事を知っていたのでした。
この病気は、時として人間に感染し、この様な病人をモンゴル人は放置して、その運命に任せました。

 1910年、何万人とも云う中国人が、毛皮ブームに乗じて北部満州に移動してきました。
中国人達は、病気に感染して簡単に捕らえる事が出来る、マーモットに遭遇した時は、むしろ幸運であると考えました。
やがて、その猟師が病気になると、動物から感染した病気が腺ペストとは知らずに、病人を手厚く看護したのです。
ペストは狩猟地帯から、中国東部の鉄道の終点であった、満州里の町を席巻し、終には鉄道沿線に沿って2700kmにも拡大し、何万人もの人々が死んでいきました。

◎蚤による伝染

 ペストは普通、人間の病気と言うより、ねずみの病気で1mmの1/1000を越えない程度の細菌によって発症します。
この細菌は、蚤によってげっ歯類の動物から動物へと媒介されます。
ペストは、大きく腺ペストと肺ペストに大別され、病気に感染したげっ歯類動物の蚤が、人体を刺すと、刺された箇所や鼠蹊部が腫れてきます。
この様にリンパ腺が腫れる事から腺ペストの名前が付き、一方、肺ペストは病気に感染した動物に接触し、細菌を吸い込む事によって感染し、やがて呼吸によって、他の人物へと感染が広がります。

 大流行の時は、その被害が甚大な場合、人口の90%が感染する場合も在りますが、現在は抗生物質による治療の為、発症から数時間以内であれば、ほとんどの患者を救う事が可能となりました。
もし、治療が発症後12時間以上1日程度遅れた場合、腺ペストの致死率は50%、肺ペストの場合は、100%に達します。

 人類の歴史が始まって以来、人類はペストの恐怖に苛まれてきた様で、事実ペストは何億もの人々を根絶やしにした上、正に歴史の進路を変えたと断言できるのでは無いでしょうか?

 紀元542年、史上最悪のペストの大流行が、エジプトから交易路に沿って広がりました。
ペストは小アジアを横断し、コンスタンチノープル、ギリシア、ローマ、更にはライン川流域に迄達し、その猛威は52年間の長期に及び、犠牲者の数は1億人を越えたと考えられています。
之は当時知られていた世界人口の極めて大きな部分に相当します。

 ローマ帝国の衰退に伴い、交易路も衰退し、その後8世紀迄の間、ペスト発生の報告は殆ど存在しません。
唯一、ベネラブル・リードが「アングロ・サクソン年代記」の中で報告している流行が有ります。
紀元664年にイングランドとアイルランドでペストの大流行が在り、腺ペストしか考えられない、病気の症状を克明に記録しています。

続く・・・

2013/09/24

歴史のお話その217:語り継がれる伝説、伝承、物語⑥

<歴史を変えた病気:人はそれを運命と呼んだ>

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◎未来のアメリカ大統領を襲った悲劇

 エイブラハム・リンカーンは、母親のナンシーが原因不明の病に倒れ、悲劇の底にいました。
当時、彼は僅か9歳の少年で、貧しい一家は牧草地もない、荒廃した土地に住んでいました。
その為、彼の家に飼われていた牛は、森の中で餌を探さなければなりませんでした。

 1818年、リンカーンの叔父夫婦は、疲労感、足のこばわり、舌の発疹等の症状を起こして、床につき、彼らは数日の内に死亡し、母親のナンシーもその後を追いました。
インディアナ州ピジョン・クリークの人々は、「牛乳病」だと言い、リンカーン家の牛が「震える病気」に感染している事が、その証拠であると主張しましたが、その病気の正体が解明されたのは、実に1927年の事でした。

 リンカーン家の人々は、有毒の白いヘビネを食べた牛の乳を飲んで、死亡したのでした。
もし、ほかに食べる草が存在すれば、牛はヘビネを避けます。
正に、リンカーン家の人々は、貧しさの犠牲に成ったのですが、未来のアメリカ大統領が死の運命を免れたのは、全くの幸運でした。

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◎戦争を引き起こした癌

 1887年、理性的で好人物であるプロシアをフリードリッヒ王子は、左の声帯に腫れ物ができました。
当初試みられた治療が失敗に終わると、ドイツ人医師団はこれを癌と診断し、彼に喉頭の摘出を勧めました。
しかし、著目なイギリス人で耳鼻咽喉科の権威であった、モレル・マッケンジー博士は、癌の兆候は無いと診断し、結果的に手術は行われませんでした。

 1888年6月15日、フリードリッヒは王位を継承してから、僅か99日後に喉頭癌の為に崩御してしまいます。
この結果、彼の息子で、知性的にも劣る、好戦的なカイゼル・ヴィルヘルムの宿命的な統治が始まりました。

若し、ドイツ人医師団の指示通りに手術が行われ、フリードリッヒの命を存命させていたなら、世界は第一次世界大戦の恐怖から、逃れられていたかも知れません。

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◎浴槽の中での暗殺

 フランス革命の最も無慈悲な指導者の一人として悪名高い、ジャン・ポール・マラーは、1793年に浴槽の中で刺殺されました。
彼の死に関して、疑問や謎は一切存在しません。
彼の暗殺者は、シャルロット・コルディーという理想主義の少女で、彼女の研ぎ澄まされたテーブルナイフは、マラーの心臓近くの大動脈を切断していました。
この背景には、1日の殆どを一人きりで浴槽の中で過ごすという、マラーの習慣が、暗殺者の仕事を可也容易なものとしたのです。

 マラー自身、革命当時の生活を調べていくと、彼が地下室や下水道に隠れて、何年も過ごしている間に、瘙痒症(かいようしょう)や単純性糖批疹(たんじゅんせいこうひしん)等の皮膚に痒みを伴う病気に罹っていた事が判明しました。
彼は、全身の痒みから逃れる為に、浴槽の中に座り、民衆を扇動する論文を執筆したのです。

 耐え難い痒みが、彼のペンから悪意に満ちた感情を迸らせ、革命のテロリズムを極端な迄に導いて行ったのでしょう。
其れが又彼自身の死の原因とも成った事は、皮肉と言わねば成りません。

続く・・・
2013/09/22

歴史のお話その216:語り継がれる伝説、伝承、物語⑤

<歴史に語り継がれる伝説:地上の楽園は何処に>

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 人間は何時も、この世の楽園を夢見てきました。
戦も貧困も知らず、総てのものに正義が行われる、大いなる平和と美の国、世の憂いと永遠に無縁で居られる島、其れが人類の夢でした。

 その様な民間信仰を取り除こうと、中世の教会は努めましたが、西方に楽園が存在するという神話は、社会の如何なる階層にも広く流布していました。
中でもケルト人は、人間の不朽の魂が、永遠の平和を得られる来世、すなわち死者の島の概念を持っていました。

 文人や吟遊詩人達は、それぞれにこれ等空想の国の物語を描き、或いは読み広め、更には海の彼方からヨーロッパの海岸に漂着した、めずらしい物が夢と現実をこの世に現す手助けをしました。

 古代ギリシア人からケルト人、アングロサクソン人迄、この様な地上の楽園は、おおむね夕日の彼方、西方の何処かに在ると考え、メロピス、オギュギア、幸福の島、ヘスペリスの園、アバロン等さまざまな名称で呼ばれていました。
スコットランド人とケルト人は特に、「若さの島:デエル・ナン・オグー」と呼びました。

 サクソン族に征服される以前に、ブリトン族を支配したと云われる伝説の王アーサーは、死期を迎えた時、ケルト族の「聖者の島」アバロン島へ小船で運ばれたと云われています。

 イングランド南西部のグラストンベリーは、かつてのアバロン島とされ、アーサー王の死の物語と結びつけて語られます。
1190年、グラストンベリー寺院の古い墓地で、アーサー王とギネビア王妃の遺骨と思われるものが発見され、あらためて寺院の礼拝所に収められ、その位置が1931年に再発見されました。

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◎アーサー王の宮殿は何処に

 しかし、跡地の最有力候補は、ある程度考古学的証拠も存在する、サマーセットのキャドベリー城であると思います。
この城は、要塞化された丘の遺跡として、クイーン・キャメル村の近郊に在り、ヘンリー8世統治下の故事研究家ジョン・リーランドは、砦が発見された丘を土地の人々が、しばしば「キャラマット」と呼ぶと記しています。

 又、近くを流れるキャム川は、9世紀のイギリスの歴史家ネニアスの「ブリトン史」が語る、アーサー王最後の戦い、キャムランの戦場であったと考えられました。
かつて、農園の小作人達がキャドベリー城の西側に在る集団墓地で、大量の人骨を掘り出した事が有り、正にこの土地が戦場であった事を物語る様であったと伝えられています。

 戦闘で負傷した傷も回復し、王座に戻って黄金時代を築いたアーサー王の伝説は、もうひとつの中世伝説オギュギアの物語と酷似しています。
ギリシアの哲学者で文人のプルタルコス(西暦46年~120年頃)は、オギュギアの国は西の彼方、夕日の下の永久の美の土地に在ると書きました。
そこには、ギリシアの巨人族の神で、父ウラヌスを去勢し、王座を奪われる事を恐れ、自分の子供を次々と食べ続けたクロヌスが眠っていると云います。
アーサー王と同じく、クロヌスも後に目覚めて王座に就き、黄金時代を作り上げるのでした。

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◎楽園の島

 其処では、水に浮かぶガラスに宮殿が、祝福された者の魂を迎え入れます。
若者と乙女達が、柔らかな草の上で踊り、木には果実がたわわに実り、牛は1回の乳搾りで、池を満たす程のミルクを出す。

 遥かな楽園の島の物語は、フランスではコカーニュ、すなわち「お菓子の国」と呼ばれました。
13世紀のイギリスの詩では、コカーニュはスペインの西に在ると云い、一方フランスの詩では、コカーニュでは通りをガチョウの丸焼きが歩き(!)、若返りの泉が湧いていると云われました。
この様に、滑稽なお話にもかかわらず、西方の幸福の島の神話は、中世民衆の夢を育み、ドイツ人にとっては、イギリスが彼らの場所から見て、西方の島であったので、其れをエンゲルランドと呼び、スラヴ人も遠い西の国の果実がたわわに実る楽園を夢見たのでした。

 アイルランドとスコットランドのケルト人は、デエル・ナン・オグーは宮殿の立ち並ぶ都で、大西洋か未知の湖の底に在ると信じていました。
この空想は、アイルランドを侵略した北欧民族にも受け継がれ、彼らの帰国と共に、伝説も北欧へ伝わっていきました。
彼らは其れをアイルランド・ヒット・ミクラ(大アイルランド)と呼び、自分たちの見たアイルランド島の西に在ると信じたのでした。

続く・・・


2013/09/21

歴史のお話その215:語り継がれる伝説、伝承、物語④

<伝記の陰の真実その②>

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◎ジョージ・ワシントンは桜の木を切り倒した

 6歳の時、未来のアメリカ合衆国初代大統領は、父の大事な桜の木を切り倒した為に叱責されていました。
「僕には嘘は言えません」と父に告白します。
「僕が斧で切り倒しました」

 少年ワシントンの告白は、子供らしい悪戯と正直さが融合した、魅力的なエピソードなので、アメリカ史上最も有名な事件の一つと成りました。
此処には、大指導者の少年時代に似つかわしい、率直な性格が表れています。

 しかし、ワシントンの少年時代に関しては、殆んど何も判明していません。
説教師メイスン・ウォームズが書いた最古の伝記でも、少年時代に関す記述は、僅かに1ページなのです。

 大統領の死の翌年、1800年に出版された「ジョージ・ワシントンの生涯」初版には、桜の木の故事に関する記述は存在しません。
後に重版される段階で、ジョージ少年が手斧で悪さをした話を始め、大量の挿話が新たに付け加えられたのです。

 ウォームズは、問題の話をワシントン家と親しく交際していた、匿名の老婦人に聞いたと主張していました。
しかしながら、この筆者は、自分の著作に「伝記的秘話」を創作する、時には自分の書いた、全く別の人物の伝記から幾つかの話を、転用する癖があるので有名でした。

 後年、桜の木の話も、その一つであると言明した訳では在りませんが、ウォームズ自身創作を書き加えた事を認めています。
ペンシルバニア州の建設者である「ウィリアム・ペンの生涯」では、彼はネイティブアメリカンと移住民が協定を結んだ話を創造し、条文の引用迄書いていますが、現実には、その様な協定は存在していません。

 ウォームズの書いたワシントン伝は19世紀中に70版を重ね、桜の木の話は、アメリカの民間伝承として、広く海外にも広まりましたが、現在の伝記作家達は、この話を史実と認めず、全く記述から排除しています。

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◎エデンの薗でイヴはアダムに林檎を与えた

 林檎は禁断の木の実として、人間堕落のシンボルに成っていますが、「創世記」第3章に述べられている誘惑の物語には、りんごに関する記述が一言も登場しません。
単に「楽園の只中になる木の実」とだけ記述されており、アダムとイヴが果実を食べた後、無花果の葉で身を覆った事から推察すれば、その実は無花果であったと考える研究者も存在します。

 林檎は、恐らくギリシアとケルトの神話から、物語に紛れ込んだと思われます。
これらの神話ではもとの林檎は愛の女神のもので、欲望を象徴しているのです。

 西暦2世紀に、ポントゥスのアイクラが「ソロモンの歌」をヘブライ語からギリシア語に翻訳した時、「余は汝を林檎の樹の下で育てた。其処で我母は、汝を産み落とした」という原文を「余は汝を林檎の樹の下で育てた。其処で汝は堕落した」と訳しました。
明らかに原文が、禁断の果樹を意味していると誤解したのではないでしょうか?
聖ヒエロニムス(西暦340年?~西暦420年:ラテン語訳聖書の完成者)も旧約聖書を翻訳する時、この先例にならい、其れ以来、誤った俗信が今日迄続いているのです。

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◎シンデレラはガラスの靴を履いていた

 シンデレラ物語の原型である、フランスの古い御伽噺では、彼女が履いていたのはPentoufles de vah、つまり毛皮の靴でした。
しかし、14世紀頃には、vah(毛皮)が死語となり、フランスの作家シャルル・ベロー(1628~1703)が、この物語を1697年に書き直した時、毛皮の古語を知らなかったので、同音異語であるverre(ガラス)と解釈したのでした。

 西洋世界に広く流布した、シンデレラの物語は、全てベローの作品が原型に成った為、この物語を語る場合、「ガラスの靴」が定番の小道具に成りました。

 シンデレラ物語の起源は、遠く漠然とした民話で、別伝は500以上のバリエーションが存在しますが、その全てに靴が登場し、それぞれが黄金、宝石、真珠散りばめた姿で語られています。
この民話は、ヨーロッパに限らず、全世界に広まり、現存する最古のバリエーションは、中国で西暦9世紀に書かれた物語です。

続く・・・


2013/09/18

歴史のお話その214:語り継がれる伝説、伝承、物語③

<伝記の陰の真実その①>

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◎ネロはローマ炎上を見ながらバイオリン(竪琴)を弾いた

 長い間信じられて来た古代ローマの伝説によると、誇大妄想狂の皇帝ネロは、自分自身の不朽の記念碑として、新たな都を建設する夢にとりつかれ、町を塞ぐ私有地の所有者達に妨害されたので、ローマ市に放火したとされています。

 しかし、ネロが市内の何処かに放火させたと云う歴史的証拠は存在せず、この伝説の中で最も有名な「ネロは都の搭(宮殿のバルコニー)に登ってバイオリンに興じた」と云う部分は、更に真偽の程が怪しいものなのです。
まず、バイオリンが発明されたのは、16世紀に成ってからですが、別の表現では、「彼はホメロスを気取り、リラ(七弦の竪琴)をかき鳴らした」と云う事に成っています。

 ローマの大火が有って間もなく、歴史家タキトゥス(西暦55年~西暦117年)が書いた記録によれば、火災発生時、ネロは80km程離れたアンティウムの別荘に滞在していましたが、大火災を眺めて楽しむ所か、すぐさま都に駆けつけ、消火に努力したそうです。

 動機が何であったかは別として、其れがネロの行った唯一の殊勝な行動でした。
他の面では、この皇帝は忌むべき生涯をおくりました。
17歳の時、母アグリッピナの力で権力の座に就いた彼は、義弟ブリタニクスの帝位継承簒奪者として民衆に憎まれ、更に彼の私生活は、当時のローマの風習に照らしても、恥ずべき醜聞に満ちていました。
人々が取り分け迷惑がったのは、ネロの演じる芝居やオペラを強制的に鑑賞させられる行為で、どうやら、彼は凄まじい迄の大根役者で、更に悪声の持ち主の様であったと思われます。

 ネロはキリスト教徒を過酷に弾圧したと伝えられていますが、当時の初期キリスト教徒は、未だ声望のない小集団に過ぎず、魔術師の集団の様に怪しまれていた為、ネロに取って大火の責任を問う格好の替え玉だったのです。
その為、数百人のキリスト教徒が処刑されましたが、生きたままライオン等の猛獣に餌食にされた記録は存在しません。

 ネロの残忍性と放蕩性は、最後には最も身近な者達も遠ざけ、執政官護衛兵団(皇帝個人のボディガード)も彼を見捨て、西暦68年、降位と処刑の瀬戸際に追い詰められた彼は自殺します。

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(Sir Walter Raleigh、1552年or1554年 - 1618年10月29日)

◎サー・ウォルター・ローリーはエリザベス1世の通り道にマントを敷いた

 従者を従えて、しずしずと歩くイングランド女王の両脇を固める人垣の中に、若く端正な顔立ちの紳士が居ました。
彼の前に差し掛かった時、女王はふと立止りました。
道に水溜りが在ったからなのです。
名前をウォルター・ローリーというこの海の男は、機転の利く伊達男でも在りましたので、水溜りの上に即座に自分のマントを投げます。
女王は彼の手際の良さに感じ入り、マントを踏んで渡りながら、彼女の足を守る為に彼が払った高価な犠牲に笑顔を持って報いました。
二人の歴史的人物に相応しいロマンティックな出会いと思われますが、是は史実では在りません。

 このお話は、歴史家トマス・フラー(1608年~1861年)の創作と考えられており、彼は退屈な史実をおもしろおかしく語る為に、しばしば作り話を創造して書き加えたのでした。

 更に、サー・ウォルター・スコットが小説「ケニルワース」(1821年)で同じ話を引用したので、この伝説は一層有名になりました。
この小説作品の中でローリーは「私の手元に在る限り」マントにブラシは掛けませぬと誓い、彼の心ばせを多とした女王は「衣服1着、それも最新仕立ての物」を彼に与える勅令を持たせた従者を、ローリーの館に送ります。

 ローリーは1586年に、イギリスへ初めてジャガイモをもたらしたとも云われていますが、この点についても事実か否かは良く解かりません。
ジョン・ジェラードは、其の著書「草本誌」(1597年)の中で、C・クルジウスなる人物が1585年にイタリアで既にジャガイモを栽培していたと紹介しています。
これらの話が真実か否かは別として、ジャガイモは急速に普及し、「草本誌」で紹介されてから、10年と経たぬ間に、ヨーロッパ全土に普及し栽培される様に成りました。

 又、イングランドに初めてタバコをもたらしたのも、一般にローリーだと云われています。
1586年、当時のイギリス植民地バージニアからの帰途、持ち込んだと云う話が定説に成っています。
尚、フランスには是より早く、1559年頃に紹介されており、その紹介者は、フランス人ジャン・ニコで、「ニコチン」は彼の名前から派生した言葉なのです。

続く・・・
2013/09/18

歴史のお話その213:語り継がれる伝説、伝承、物語②

<語られる事の無い歴史の世界>

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カスティリア公女イネス・デ・カストロ (Inês de Castro,1325年 - 1355年1月7日)

◎その①:骸骨の即位

 1360年、ポルトガルの古都コインブラで、身の毛もよだつ儀式が行われました。
国王の命令で、高僧、貴族が一人ずつ進み出て、玉座にかけた骸骨の手に口付けをしました。
逸れは、即位したばかりの国王ペドロ・デ・アラゴンの愛妄で、カスティリア公女イネス・デ・カストロの亡骸でした。

 イネスは1342年、ペドロの妃の侍女としてポルトガルの宮廷に上がります。
ペドロは当時皇太子の身分で、彼女と道ならぬ恋に落ちます。
父王アルフォンソは、不義が表沙汰に為ることを恐れ、イネスを打ち首にしてしまいます。

 暫らくの間、ペドロは悲しみと怒りを胸に秘めなければ成りませんでした。
しかし、5年後、王座に就くや、彼は愛人を暗殺した刺客の心臓をえぐり取らせ、そしてポルトガル王妃として、イネス・デ・カストロの骸骨の前に全宮廷を跪かせたのでした。

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クヌート王クヌーズ1世(Canute / Cnut / Knut I、995年 - 1035年11月12日)

◎その②:海に命令したクヌート王

 海に後退を命じ、足を濡らしたというクヌート王(西暦995年~1035年)の物語は、事実で在るのか否か、検証する事は大変困難です。

 もし、事実で在ったとしても、真相は間違って伝えられている様です。
一般の伝承と異なり、最初期の話では、王は愚か者ではなく、極めて謙虚な人物として、語られていました。

 クヌート王の死後100年予後、ハンティントンのヘンリーによって記述された「イングランド史」によれば、王は何事も御意のままにと諂う廷臣達に立腹し、海岸での実験を思いつきました。
海に「下がれ」と命じて、なお波が足元を洗う事を見て、クヌート王は告げます。
「皆の者よ、王の力が如何に虚しく、甲斐なきものか、今こそ知れ。不滅の掟によって天と地と海の敬う神の他に、真の王の名に値するものはないのである」と。

 ヘンリーによれば、クヌート王は其の後二度と、王冠を被らなかったと云います。
逸れは、ウエストミンスター寺院に置いたままにしたとの事でした。

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サマーセットのメルズ荘園(現在)

◎その③:ジャック・ホーナーの伝説

 言い伝えに寄れば、最初のイギリス古謡の主人公ホーナーは、グラストンベリー僧院長リチャード・ホワイティングの執事だったと云います。
1530年代、僧院解体時代の頃、院長はヘンリー8世の歓心を買う為に、12の荘園の権利証書を巨大なパイに入れて王に送りました。
ホーナーはそのパイをロンドンに運ぶ役目を仰せつかり、途中でパイを開いてサマーセットのメルズ荘園の証書を盗み取りました。
之が、恐らく歌の中で「プラム」と呼ばれている土地の事と思われます。

 トマス・ホーナーという名前の人物が、確かにメルズ荘園の所有権を握りましたが、彼の子孫も現在の所有者アスクイス伯爵も、歌の中身はまっかな嘘で在り、一族の名誉を傷つけるものであると、主張しています。
一族の言い分では、ホーナーは、国王から荘園を買い取ったと主張しており、更には彼の名前は、トマスでジャックでは無く、この古謡がチューダー朝以前から、存在していたとの証拠も在ります。

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不吉なわらべ歌の輪

◎その④:不吉なわらべ歌

 イギリスの子供達は、何世紀にも渡って、全く無邪気にある奇妙に、不吉な低い調子を持った童謡を歌ってきました。

 バラの花輪と、ポケットに花束、ハックション、ハックション、みんな倒れてしまう。

 この歌は1665年、ペストが流行したロンドンの通りで歌われ始めました。
「バラの花輪」とは、ペスト、すなわち黒死病に感染した人物に現れる、小さな発疹の事を指しています。
「ポケットに花束」とは、人々が古代から、悪臭は人間を病気で苦しめる悪魔の毒の息と信じ、香りのよい香草や花は、其れを防ぐと考えられていました。
「ハックション、ハックション」の表現は、ペストの流行期、くしゃみがペストに感染した事を示す、兆候でした。
「みんな倒れてしまう」、当に何千、何万という人々が死んでいきました。
14世紀にヨーロッパ全体を席巻した黒死病により、2500万人が死亡したと推定されています。

続く・・・
2013/09/17

歴史のお話その212:語り継がれる伝説、伝承、物語②

<歴史に語り継がれる伝説:失われた国々>

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ウェールズ海岸

◎イギリスの伝説

 伝説によれば、ブリテン諸島を取巻く海は、少なくとも3つの豊かな大国をその底に沈めました。
一つ目は、ティノ・ヘリグで、現在のコンウェイ湾となっている場所のグウィネッドから北へ国でした。

 ティノ・ヘリグは西暦6世紀に、王達が犯した罪に、神の罰が下り滅ぼされた様です。
王達は、現在のウェールズ海岸から約3kmの海中にあたる地点に在った、リス・ヘリグ宮殿に住んでいました。

 現地に伝わる伝説では、王国に悲劇をもたらしたのは、ヘリグ・アブ・グランナウグ王の罪であったと伝えています。
傾れ込んだ海水は、王とその息子達を除いて、すべての人間を溺れさせました。
生き残った王達は、改心して真面目な生活を送ったと云います。

 ウェールズ海岸のこの地方に住む人々は、何世紀にも亘って、引き潮になると宮殿の遺跡が海中に見えると言い伝えてきました。
しかし、1939年に実施された海底調査の結果、2万㎡にも及ぶ「遺跡」は自然石の集合体で、遥かな太古に沈降した事が判明しました。

◎乱行の果てに

 同様の調査がカーディガン湾でも行われ、もう一つの「失われた国」の伝説も、古くからの夢を裏切ってしまいました。
この国も又、人間の過ちの為に破滅したと云われており、ロウランド・ハンドレッドの物語は、ティノ・ヘリグ伝説の変形であった可能性が強いと思われます。

 この伝説によれば、ロウランド・ハンドレッドは肥沃な大地を持った富裕な国で、その長さ65km、幅32kmの土地を有し、現在のバードジー島と本土を繋いでいました。
堤防と堰が、海から国土を守っており、首都はカエル・グウィッドノと呼ばれ、6世紀初頭、国王グウィッドノ・ガランヒルはここに宮殿を構えていました。

 或る日の事、この国で祭りが催された時、故意にか?戯れにか?、堰の水門が不意に開かれ、国土の全ては海に飲み込まれ、助かった住民は少数でした。

◎失われた故郷の物語

 イングランド南西端のランズエンド岬の西方には、セブン・ストーンズと名前の岩石群が在り、コーンウォールの漁師達の中には「ザ・タウン」呼ぶ者も居ます。
この岩はかつて、コーンウォールとシリー諸島を結んで栄えていたと伝えられる、王国ライオネスの首都の遺跡とされています。

 西暦5世紀、海は驚くべき速度で、ライオネスの国土を侵食し始めました。
住民の中でトレベリアンと言う名前の男性だけが、差し迫る危機を感じていました。
彼は家族をコーンウォールに非難させた直後、ライオネスの国土は大西洋に飲み込まれます。
トレベリアンは馬に乗って、コーンウォールに辿り着く事が出来、生き残ったのは、彼と家族だけでした。

 16世紀になり、セブン・ストーンズの近郊で窓枠等の建具が、漁師の網にかかった事から、ライオネスの首都がその位置に在ったと考えられる様に成りました。

 さて、ティノ・ヘリグもロウランド・ハンドレッドもライオネスも、神話の部類に属するとは言え、これら3つの国の領地には、かつて確かに人が住んでいました。
シリー諸島周辺やコーンウォール、ウェールズ海岸沖の海底の沈降地盤から、住居跡が発見されています。
その場所に住んでいた人々は、次第に内陸部へ追いやられ、そして彼らの子孫の想像力が、波間に沈んだ故国の物語を美化したのでしょう。

続く・・・
2013/09/16

歴史のお話その211:語り継がれる伝説、伝承、物語①

<歴史に現れる名文句:誤って伝えられた言葉>

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◎イングランド人とは小売商人の国民である・ナポレオン・ボナパルト

 この言葉は、一般にナポレオンが話した言葉とされ、プチ・ブルジョア(小企業家)国民としてのイングランド人に、彼が抱いていた軽蔑心の表れと解されています。

 しかし「小売商人の国民」乃至商人集団との表現は、ナポレオンの少年時代から既に印刷物に書かれていました。
従って彼の独創になる言葉とは、言いがたく、まず1766年、イングランドの経済学者ジョサイア・タッカーが政治論文の中で使用し、次には、スコットランドの経済学者アダム・スミスが「国富論」(1776年)で用いたのでした。
又、アダム・スミスと同年代に、フィラデルフィアでは、サミュエル・アダムスがこの言葉を使っています。

 後年、ナポレオンが流刑された頃、この言葉は二人の伝記執筆者のせいで、彼が喋ったものとされる様に成りました。
ナポレオンの医師バリー・オマーラは自著「流刑地のナポレオン、若しくはセント・ヘレナからの声」に1817年2月17日のナポレオンとの対話を載せ、その中で彼がイングランド人について「彼らは商人の国民である」と語ったと書かれています。

 ナポレオンがこの意見に同感していたとは言え、言葉自体はコルシカの愛国者バスクワーレ・パオリ(1725年~1807年)の言葉の引用として語られたものなのです。

又「購買力のある需要国民を育て上げると言う、唯一目的の為に広大な植民地を建設する事は、一見、小売商人の国民にのみかなう計画に見えるかもしれない」と書いたのは、アダム・スミスで、ナポレオン自身彼の著作を良く知っていました。

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◎お菓子を食べさせておやり・マリー・アントワネット

 1789年10月、より公正な新政府をルイ16世に作らせようと、パリの貧しい女性達が、ベルサイユ王宮に行進しました。
伝説によれば、屋外に騒ぎを聞きつけた王妃、マリー・アントワネットは、人々がパンも無く飢えている事を聞いて、”Qu’ils mangent de la brioche”と言いました。
この言葉が一般に「お菓子をたべさせておやり」と伝えられる様になったのです。

 この話は王妃の処刑後、広く伝わり、貧民の苦しみに対する彼女の冷淡さと、愚かさの典型と見なされました。
しかし、彼女がその様な言葉を発した証拠は、何処にもありません。

 この言葉が始めて出現したのは、1760年代、ジャン・ジャック・ルソーの「告白録」中であり、マリー・アントワネットはまだ少女の時代でした。
文中でルソーは、「或る偉大な王女」について語っています。
彼女は、農民にパンが無いと聞いて、”Qu’ils mangent de la brioche”と答えます。
Briocheとは最上級のパンの事で、王女はこの種類のパンの事しか知りません。
従って、この言葉は、親切心の表れだったのでした。

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◎ワーテルローの戦勝は、イートン校の運動場で成し遂げられた・ウェリントン公

 初代ウェリントン公がイートン校の学生であった頃、学校には運動場も存在せず、集団競技のチームすら存在していませんでした。
しかも、彼の子孫が語ったところによれば、ウェリントン公の学校生活は、「短く、芳しい成績ではなかった」そうなので、従って彼が、最初に記載した言葉を語った可能性は、とても在りそうには思えません。

 其れを文章上で彼の発言であると、紹介した人物は、フランスのシャルル・ド・モンタランベール伯爵で、彼の著書「イングランドの政治的未来」の文中であり、この書物は1855年、ウェリントン公の死後3年経って出版されました。

しかし、ウェリントン公がその言葉を喋ったと云う、同国人の証言は存在せず、更にウェリントン公は、母校にもパブリック・スクールの精神にも大した愛着を持っていませんでした。

続く・・・

2013/09/14

歴史のお話その210:蒼き狼の帝国・番外編④

<マルコ・ポーロの旅>

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 やっと20代に成ったばかりの青年にとって、それは思わず息を飲む光景でした。
其れまでに見た、如何なる都市よりも壮麗でした。
青年は、是ほど美しい都会に住んでいる人達は、天国で暮らしている様な気持ちではないかと、考えたのです。
美しく整備された街路、公園、港、運河が在り、運河には、アーチ橋が何本も掛り、その多くは大変高く、帆柱を立てた船が、その下を通る事が出来、下水道設備、警察、消防、郵便も在ったのです。

 700年前のこの青年の名前は、史上最も偉大な旅行家の一人、マルコ・ポーロです。
そしてこの大都会、杭州は中国の多くある都会の一つに過ぎませんでした。
マルコ・ポーロはその日誌に、杭州が世界中の如何なる都市よりも素晴らしいと書き、彼の意見では、首都の大都(北京)や、彼の故郷ベネチアと比較してさえ、更に美しい都だったと言います。

 マルコ・ポーロの一族は、世界中を広く旅行しており、父ニコロと叔父マティオは、既に当時の中国を訪問していました。
二人がベネチアに帰る時、皇帝は二人に、又戻ってくると約束させ、二人はこの約束を1272年に実行しましたが、この時に、当時17歳だったマルコを同行させたのでした。

 この旅行は、3年もの日数を要する、困難を極めたものでした。
一行は、まず船でトルコ南東部の港、アヤスルに着き、この町でキャラバンを組んで、アジアを横断する旅に出発したのでした。
彼らの隊商路は、現在のイラン、アフガニスタンを通過し、パミール高原を越え、天山南路を進み、ゴビ砂漠を横断して、中国(当時:元朝)に至り、1275年5月、終にフビライ汗のもとに到着したのでした。
この時、皇帝は万里の長城の北に在る、夏の宮殿に居ましたが、その秋、マルコ・ポーロ一行も皇帝と一緒に冬の都、北京に戻りました。

 マルコ・ポーロは、凍った山を登り、豪雨、砂嵐、洪水、雪崩に悪戦苦闘した、長い旅の記録を残しています。
アフガニスタンでは、マルコ自身が病気になり、まる1年足止めされ、盗賊の出没する地域や紛争の起こった地域を避け、幾度もコースを変更し、計画を練り直した事が、詳細に認められています。

◎驚異の旅

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 彼は後に、彼らが見聞した驚くべき光景や、出会った風変わりな人々について書き残しました。
彼は、「火を点けると、木炭の様に燃え、可也の熱を発する黒い石の鉱脈(石炭)」に驚き、「地中から噴出し、ランプの火を燃やす事に使用する物質(石油)」も見て、「紡いで糸にし、織って布にする事が出来、火中に投じても燃えない布(石綿)」を試しています。
ワニの事を「長さが10歩(約7.6m)の巨大なヘビで、その顎は人間を飲み込めるほど大きい」と説明し、ヤクは、「象に匹敵する野牛」と書き、ココナッツは「人間の頭位の大きさで、味が良く、ミルクの様に白い」と書き残しました。

 皇帝は、この若い客に非常な感銘を受け、象に乗って、狩にも同行させ、豪華な宮殿や夏の避暑先(上都)に、自由に出入する事を許したのでした。
マルコは、金色に輝く彫刻や、美術品、皇帝を取巻く優雅な廷臣達に感嘆しています。
彼の記録に因れば、100人或はそれ以上の美しい側室を探し、皇帝の後宮に入れる為、特使が2年に1度、帝国の各地に派遣されたと云います。

 マルコ・ポーロは、中国とその近隣諸国についても記録を残した最初のヨーロッパ人です。
アジア大陸を横断するルートについて語ったのも、太平洋を見たのも、ヨーロッパ人では彼が最初と言う事が出来ます。

 彼の父と叔父は、交易で巨万の富を得ましたが、マルコは17年間皇帝の為に働き、皇帝は彼を皇帝自身の特使として、帝国の各地に送りました。
この時、彼はベトナム、ビルマ、チベットを訪問し、後に3年間、楊州を治め、その管轄した都市は24に及んだと云います。

 しかし、この時皇帝フビライ汗は、既に70歳を越しており、皇帝が崩御すれば、どの後継者が後を継いでもマルコ達の身が安全である保証は有りませんでした。
1292年、彼らは、皇帝の命を受け、特別に仕立てた船で泉州を出帆します。
そして、ほぼ25年ぶりに、彼らが故郷ベネチアに帰り着いた時、本人達が生きて帰ったと信じてくれた人物は、一人も居ませんでした。

 自分達が決して、ペテン師で無い事を納得させる為、3人は宴席を設け、まだ疑わしそうな眼差しを向ける客達の前に、旅でぼろぼろに成った、ダッタンの衣装を見せ、その縫い目を切ると、煌めく宝石が滝の様にこぼれ落ちました。
是は、彼らの話が真実である事を証明する、絶対の決め手と考えられ、中国の皇帝以外にこの様に多量の財宝を与える事が出来る者が存在するはずがない、と当時の人々は信じていたからでした。

 だが、もし戦争が起こらなければ、マルコ・ポーロの旅が、世界に知られる事は無かったでしょう。
彼らがベニチアに帰還してから3年後、ベネチアは商業上の競争相手である、ジェノバと衝突します。
ガレー船の指揮を取っていた、マルコは捕虜となり、ジェノバの監獄に収監されました。
其処で、マルコは時間を賢明に使ったのです。
皇帝の為に書き留めておいた記録を使って、記憶を呼び覚ましながら、仲間の囚人に思い出話を書き取らせたのです。
こうして、彼の旅行記「東方見聞録」が完成したのですが、この記録が書物として出版されると、嘘の固まりであるとさんざん非難されました。

 1324年、彼が死の床についた時でさえ、或る司祭は彼に、ホラ話を取り消す様に勧めましたが、最後の息の下で彼はこの様に語ったと伝えられています。
「私は、自分の見た事の半分しか、まだ話してはいない」と。

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蒼き狼の帝国・番外編:終わり・・・
2013/09/13

歴史のお話その209:蒼き狼の帝国・番外編③

<蒙古来襲>

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 文永11年10月20日(太陽暦11月19日)、日本は記録上初めて、異国の侵略を受けました。
「文永の役」、いわゆる元寇です。
博多の湾内は、前日から蒙古の軍船で埋まり、その数900隻余り、既に対馬、壱岐を攻略し、その守備軍を全滅させ、今当に九州本土に達したのでした。

 蒙古は国号を「元」と称し、中国北部を領土として、朝鮮半島も完全に制圧され、高麗は属国となり、日本もその勢力下に置こうとしていました。
中国や高麗から徴兵された将兵の数、28000人、その他高麗が、供与した水夫は6800人に上ります。

 夜が明けると、蒙古軍は博多湾の西方に上陸を開始し、人馬供に大集団を成し、ときの声を上げ、日本側に襲い掛かります。
日本軍は、其れまでの戦いと全く異なる戦法(一騎打ちに対する集団戦法)に苦戦を強いられ、善戦はしたものの、じりじりと後方に押され、夕方には、博多の本陣も突破され、総崩れとなり南に向かって退きます。
 大宰府の守備を固めて、改めて蒙古軍を食い止める戦法をとりました。
蒙古軍は、博多の町を席捲して、箱崎方向(東向き)に軍を進め、町には火が放たれます。
この日は、朝から曇り空でしたが、夕方から雨となり、南へ退いた人々は、遥かに望む猛火を見て、降りしきる雨に涙を流しました。

 恐ろしい一夜が明けると、蒙古軍の姿が無い!
海には、軍船の姿も無く、町には、兵の姿も無く、僅かに、志賀島の砂州に一隻が、打ち上げられています。
蒙古軍は、昨夜の内に退去していたのでした。
昨晩は、大風が吹き、そん為に蒙古軍の大船団は姿を消したのでしょうか?
奇跡でした。

 歴史書には「一夜の大風雨によって、敵船の大半は転覆した」と記述され、7年後の「弘安の役」(1281年)の時も、台風によって蒙古軍は、敗退したというのが、従来の定説、通説でした。
近年「文永の役を終結させたのは、台風ではない」との見解が発表されますが、事実10月下旬に北部九州に到来する台風は有りません。
又、信頼すべき資料、文献に台風の来襲を明示したものが無い事から、蒙古軍は予定して退却したのだと考えられるとしたものが、新設の根拠に成っています。

 この日の戦闘を有利に展開していた、蒙古軍は、なぜ撤退したのでしょう?
元の記録によれば「軍が整わず、又矢も尽きた為」と在り、更に「疲れた兵を持って、大敵と戦う事は不利」と判断した為でした。
蒙古軍は、作戦を中止して、撤退したのですが、確かにその夜、大風が吹きました。
高麗の記録や、京都における公家の日記でも、はっきりと「大風雨」又は。「逆風」が在った事が記されていて、疑う余地は無く、台風では無いにしても、蒙古軍の船団は、この気象状況によって大損害を受け、溺死する者が多数に及び、高麗では、未帰還者の数を13000余人と記しています。

 一日の戦闘に28000人の全軍が上陸していたとは、作戦上からも考え難く、上陸作戦の常識でも実際に上陸したのは、10000人程度と思われます。
従って、犠牲者の大半は、風による遭難で在り、過半数の軍勢は続いて上陸すべ船内に待機していたはずです。
しかも一帯の占領も行う事無く撤退した事は、日本側の抵抗の強さに圧倒された為かも知れません。
もし、翌日も新手を繰り出して、作戦を継続しておれば、恐らく大宰府迄突破され、現在の福岡市一帯は、大損害を被ったに違い有りません。

 蒙古軍はなぜ撤退したのか?としての疑問は依然として残る訳ですが、推察すると、騎馬戦、陸上戦に長じた蒙古軍も、海を越えての作戦は、不利で在ったと思われ、日本への遠征は2度試みられて、供に失敗し、後にはジャワ遠征(1291~1292)も又失敗し、ベトナムに対する遠征(1284年)も暴風雨による大損害を免れませんでした。

蒼き狼の帝国・番外編:続く・・・


2013/09/12

歴史のお話その208:蒼き狼の帝国・番外編②

<キリスト教伝説に登場するチンギス・ハーン>

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◎プレスター・ジョンの奇跡の国

 エチオピアに渡っていた、ポルトガルの宣教師が、20世紀初頭に古代キリスト教徒の王の旗と剣を発見したと報告しました。
幾世紀より以前から伝えられた品物で、この地のキリスト教徒にとっては、神と同様に考えられていました。

 この古代キリスト教徒の王とは、伝説のプレスター・ジョンの事では無いでしょうか?
中世ヨーロッパでは、東方にあって、想像を絶する程富裕な聖職者の王と、その謎の王国の伝説が幾世紀も語り次がれてきました。
その国は、平和と正義が支配し、貧困と悪徳を知らなかったと云います。

 其れは又驚異の国でした。
中世の時代に、或る旅人が書き残しています。
「或る地域には、毒草も生えなければ、蠍も、草の間をすべる蛇もいない」

 しかし、その国に向かう事は、命がけの冒険で、途中の砂漠には野蛮人が住んでおり、彼らは「見るも恐ろしい人間で、角をはやしている。全く人語を話さず、豚の様に鼻を鳴らすだけ」で、更に、小人族、巨人族が行く手を阻み、最後に「人間の肉や早産した動物の子供を常食にしている」と云い、「この人種のうち、誰かが死ぬと、その友人縁者がその死者をがつがつと貪り食らう。人間の肉を食う事を、彼らは義務と心得ているのである。私達は、彼らを上手く他の敵に対抗させ、食人種の目を逸らした。其れで私達は、人間も馬も全く被害を被る事無く、他方の敵が全部食われてしまった時、私達は、護衛の軍隊と共に故郷へ帰る」事が出来たと記されています。

 プレスター・ジョンの宮殿は水晶で造られ、屋根は宝石を鏤め、王国内で陰謀が存在すれば、魔法の鏡がいち早くその事実を王に知らせました。

 王はサファイアの寝台に眠り、王衣はサラマンドラ(火竜)の毛織物で作られていました。
馬は無く、代わりに天駆けるドラゴンを操りました。
誰も若返りの泉を利用でき、王自身の歳は、562歳という事でした。

◎現在の解釈

 プレスター・ジョンとは、聖職者ジョンの意味であり、この王は、イエス誕生の時に訪れた東方の3賢者の一人の子孫で、初期キリスト教の一派、ネストリウス派の指導者だったとされています。

 プレスター・ジョンの物語は、1145年にゲバル(現在のレバノン)の司教フーゴが語り始めた痕跡があります。
ネストリウス派キリスト教徒は、モンゴル出身の侵略者イェール・タシーの来襲に力を貸しました。
司教はその為、侵略者がキリスト教徒であるかのように見せかけ、報告を粉飾したと思われます。

 そして1165年、ヨーロッパの全宮廷にプレスター・ジョンの直筆と称する、偽造の手紙が出回り、その何通かは現存しており、大英帝国博物館にも1通が保管されています。
手紙は、ビザンチン皇帝マスエル宛で、プレスター・ジョンはインドの支配者、並びに「王の中の王」と自称しています。

 1177年、法王アレクサンドロス3世は、「著名にして崇高なるインドの王ジョン」に手紙を送りました。
プレスター・ジョンにローマに神殿を建設し、かくしてキリスト教会を統一することを認める勅許状でした。

 その後、伝説には何ら新しい事が知られませんでしたが、1221年に高名な聖職者、アクレ(イスラエル)の司教から、ローマに情報がもたらされます。
インドのダビデ王はジョンの孫とされていると語り、司教はこの謎に新たな光を与えましたが、このダビデとは、他ならぬチンギス・ハーンその人の事と考えられます。

 14世紀には、探検の焦点はエチオピアに絞られ、ジョンはその地のキリスト教王だった、と信じられる様になりました。
現在の研究者は、「ジョン」はエチオピアの王を意味する「ザン」の読み違えであり、この国は西暦4世紀以来キリスト教国で、革命迄存続した王家は、1270年頃に勃興した一族であり、ソロモン王とシバの女王の子孫と称していました。

蒼き狼の帝国・番外編:続く・・・

2013/09/11

歴史のお話その207:蒼き狼の帝国・番外編①

<チンギス・ハーンの墓は何処に>

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中華人民共和国 内モンゴル オルドス エジンホロ旗のチンギス・ハーン廟

 広大な草原を、一群の人々が、1頭の雌ラクダを引いて現れました。
或る処迄来た時、人々は立止り、雌ラクダを放すと、ラクダは草原の中を歩き周り、やがて一箇所に立止ると、天に向かって、悲しげに嘶きました。
人々は、其処が1年前に造った墓で有る事を知ったのです。

 1年前、この場所に死者は埋葬されたのでした。
埋葬した後、土を被せ、その上を数百頭の馬を走らせて、しっかりと踏み固め、親子のラクダを連れて来ると死者を埋めた真上で、仔ラクダを殺しました。
その時、親ラクダは、子供の死体の匂いを嗅ぎながら、悲しく嘶いたのでした。

 1年が経ち、墓所には、草が一面に茂り、どの位置が墓所で在るのか見当がつきません。
其処で、昨年の親ラクダを連れて来たのですが、親ラクダは、自分の子供の死んだ場所を、永く覚えているからです・・・モンゴル人の埋葬習慣に関する書物には、この様に記されています。

 モンゴル人をはじめ、北アジアの人々は、死者を埋葬しても墓所の目印を、設けませんでした。
従って、王の墓所で在っても、長い年月が経つ内に忘れ去られ、モンゴル帝国の皇帝達の墓所も、現在では確認出来ず、チンギス・ハーンについても同様なのです。

 1227年の夏、チンギス・ハーンは、タングート攻略の為、中国西部、現在の甘粛省深くに遠征した折、病に倒れ、崩御は、8月18日の事と伝えられますが、この英雄の死は、厳重に伏せられ、其れは又、チンギス・ハーンの遺言で在ったとも云われています。
遺骸は、モンゴルの兵士に厳重に守られ、粛々と草原の道を北に向かい、その途中で葬列に出会った者は、例外無く命を絶たれました。
かくして、ケルレン河の源に近い本営に達した時、初めて喪は発せられ、遠征中に皇子や将軍達の下にも、使者が急ぎました。
最も遠くに遠征していた者は、3ヵ月の後にようやく、本陣に到着したのでした。

 葬儀の終了後、遺骸は聖なるブルカン山の山中に深く埋葬され、其処は、オノン・ケルレン・トラの3河が源を発する土地でした。
嘗て、チンギス・ハーンは、この地で狩猟を試みた時、一本の大樹の陰に休んだ折、左右の者に、自分が身罷ったら此処に葬って貰いたいと語ったと伝えられています。

 チンギス・ハーンがこのブルカン山中に埋葬された事は、恐らく事実と推定されますが、場所の特定が全く出来ないのです。
伝えられる話では、やがて墓所には、樹木が繁茂して密林と成り、果たしてどの場所に英雄が眠っているのか、知る者が無くなってしまいました。
又、チンギス・ハーンの墓所は、如何なる者も近づく事は禁じられ、彼の死から1世紀後の世でも、モンゴルの人々に神聖視されていました。

 処で、チンギス・ハーンは何歳で、この世を去ったのでしょうか?
是も又、多くの説が在り、72歳、66歳、60歳と分かれているのは、その生年が、1162年とする説と、1167年とする説が現在でも対峙している為で、是等を特定させる資料も存在しませんが、12世紀中葉に生きた人物で在り、日本では、平清盛の時代に相当します。
出生の年では、正確な事例は、存在せずとも出生に関しては、明確です。
尚、源義経が北海道から、シベリアを経てモンゴルの地に至り、チンギス・ハーンに成ったと云うお話は、良く耳にされると思いますが、是は後世の創作で、事実無根の俗説です。

 チンギス・ハーンの父親は、イェスゲイで在り、モンゴル国の由緒正しい貴族且つ豪傑で、その家系もモンゴル人の間で伝承され、十代前迄正しく辿る事ができます。
母親は、ホエルンと呼ぶ才女で、最初メルキト国の男性に嫁していたところを奪い取られて(略奪婚)、イェスゲイの妻に成ったのです。
ホエルンから、チンギス・ハーンの他、4人の弟妹が生れました。
尚、井上靖の「蒼き狼」では、ホエルンがメルキトに居た事から、チンギス・ハーンの本当の父親もメルキト人では無いかとの話も在りますが、是は、作品におけるフィクションで、事実とは異なります。

続く・・・

2013/09/10

歴史のお話その206:蒼き狼の帝国⑫

<モンゴル帝国の衰退>

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◎元朝の衰退と滅亡

 元は14世紀中頃から、宮廷内での内紛が激しくなります。
又、チベット仏教に対する信仰が深く成り、大規模な寺院の造営が相次ぎ財政を圧迫しました。
財政難を乗り切る為に交鈔を濫発した結果、中国経済は混乱して各地で反乱が続発します。

 特にマニ教と仏教を混合した白蓮教が、一般民衆に浸透していて、この白蓮教を中心にした反乱が大きく、これを紅巾(こうきん)の乱と呼びます。
赤色の頭巾を巻いていたのでこの様に呼ばれました。

 元は当初、各地で起こる反乱を鎮圧しているのですが、その内、鎮圧行動が消極的に成っていきました。
中国人から搾取の為に支配しているにも関わらず、反乱鎮圧に明け暮れていたのでは、中国支配の意味が在りません。

 1368年、モンゴル人達は中国を放棄して、モンゴル高原へ退去しました。
元は滅んだのではなく、去って行ったのです。

 代わって漢民族の王朝である明が成立するのですが、その後も元は、北元、タタールと呼ばれてモンゴル高原に存在し続けて行くのです。

 では、元以外の諸ハーン国はどの様に成って行ったのでしょうか?

 オゴタイ・ハン国は14世紀初頭にチャガタイ・ハン国に併合されて消滅し、後年そのチャガタイ・ハン国は東西に分裂、特に西部ではイスラム化と定住化がすすんでいきます。
政治的にも解体が進み、ティムールによって滅ぼされた。

 キプチャク・ハン国は、イスラム化して14世紀前半には最盛期を迎えますが、15世紀末には領内のスラブ人国家モスクワ大公国が独立、又配下の部族がそれぞれにハン国を形成し自立していき16世紀には消滅しました。

 イル・ハン国は13世紀末に即位したガザン・ハンの時にイスラム教に改宗し、大臣ラシード・アッディーンが行政・財政で国家運営を支えました。
ラシード・アッディーンは歴史家としても有名で、モンゴルの歴史を軸にして『集史』と云う世界史の本を書いています。
イル・ハン国は14世紀中葉には、フラグの血統が絶え分裂しました。

 諸ハーン国では、モンゴル人の数は圧倒的に少数でした。
その為、広い地域を統治する為には土着勢力と協力しなければ上手く行きません。
婚姻関係を結び、その土地の宗教を取り入れ、具体的にはイスラム教ですが、信仰した方が上策です。こうして何世代か経つうちに、モンゴル王族の血統も土着勢力の中に吸収され、なし崩し的にモンゴル帝国は衰退していったのでした。

蒼き狼の帝国:終わり・・・

2013/09/09

歴史のお話その205:蒼き狼の帝国⑪

<モンゴル帝国の発展⑦>

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◎元の侵略行為その②

 神風が吹いた、と一般には云われています。
 しかし、失敗の原因は元軍の構成にあるようです。
元寇を防ぐ為に戦った竹崎季長(たけさきすえなが)が、自分の活躍を描かせた『蒙古襲来絵詞』という絵巻物があります。
モンゴル軍の貴重な絵画資料なのですが、攻めてくるモンゴル兵は歩兵で、迎え撃っている鎌倉武士が騎兵です。
モンゴル軍は騎馬軍団だからこそ強かったのですが、これでは反対です。
モンゴル軍が騎兵ではないのは、船に乗ってきたから当たり前なのですが、理由はそれだけでしょうか?

 私達は、元寇と聞くと、直接モンゴル人が攻め込んで来た様に思ってしまいますが、当時のモンゴル人人口はどの程度なのでしょう。
チンギス・ハーンの時代に70万人と云われていますから、フビライの時代には、領土も増え、当然純粋なモンゴル人の人口も増えているとして100万人位でしょうか?
この人口で、西はロシア、シリアから東は朝鮮半島に至る迄、インドとインドシナ半島を除く全ユーラシア大陸を支配していると云うことは、広大な領土に彼等は分散しており、日本遠征に純粋モンゴル人が何人位参加していたのでしょう。

 司令官階級には、モンゴル人も多くいたと思いますが、一般兵士の殆どモンゴル人ではないと思った方が実体に近いと思います。
モンゴル軍は、モンゴル帝国が拡大するに従って、雑多な民族の混成軍に成っているのです。

 例えば、『蒙古襲来絵詞』の中に顔の黒いモンゴル兵が何人か出てきますが、これは明らかに意識的に黒く描いています。
顔つきはモンゴロイドですが、何故、黒いのでしょう?
中国では宋の時代、犯罪者は顔に入墨を入れられ、刑罰代わりに強制的に兵士にされていたのです。
黒い顔に描かれているのは多分彼等ですから、金朝か南宋の出身と見て間違い在りません。

 第一回遠征軍の主力は高麗人です。
高麗の三別抄軍はその前の年までモンゴル軍と戦っており、遠征軍の中身がとても上手く行われているとは思えず、しかも、海軍の経験のないモンゴル人が司令官です。
 
 第二回になると旧南宋の軍人も大勢混じり、彼等は、遠征軍とは名ばかりで棄民に近い為、士気が高かったとは思えないのです。

 モンゴルに服属したばかりの諸民族の混成軍が朝鮮半島、中国大陸別々の場所から出発して対馬沖で合流し、陸上生活と違って、船上ですから、各軍団の司令官同士の意志疎通や連絡も上手く行きませんでした。

 一言でいえば、元寇のモンゴル軍は「烏合の衆」、ということです。
しかも、水軍に不慣れで、遠征軍の乗った船が第二回では4400隻と云いますが、その多くは突貫工事で、高麗の船大工につくらせたものです。
急造の粗悪船が多く、その為、記録にも残らない様な、僅かな風でも船が大きい被害を受けたり、司令官達が混乱したりしたのではないでしょうか?

 フビライは1287年にはビルマ遠征とヴェトナム遠征、1292年にはジャワ遠征を行いますが、全て失敗しています。
拡大し続けてきたモンゴルの勢いが、人的にも経済的にも限界に近づいていたのかもしれません。

蒼き狼の帝国:続く・・・


2013/09/08

歴史のお話その204:蒼き狼の帝国⑩

<モンゴル帝国の発展⑥>

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◎元の侵略行為

 元は、元寇で日本と大いに関わりが在ります。
鎌倉時代、二度の侵略行為が行われていますが、一回目が1274年、文永の役、二回目が1281年、弘安の役なのです。

 何故、この時期に日本侵略が行われ、そしてフビライの目的は何処に在るのでしょうか?

 朝鮮半島に位置する高麗が、モンゴルに服属したのが1259年、高麗王朝は江華島に逃れて徹底交戦を続けていたのですが、最終的にモンゴルの属国に成り、高麗王はモンゴルの皇族から妃に迎えて王室にモンゴルの血が入り込むようにさえなるのです。

 処が王朝がモンゴルに降伏しても、軍隊は納得せずに半島の南西海岸を転々としながらモンゴル軍に抵抗を続けました。
この高麗軍を三別抄(さんべつしょう)軍と呼び、三別抄軍は海上の島々を根拠地にしたので、モンゴル自慢の騎馬隊も苦戦したのです。

 この三別抄軍が最後に殲滅された年が1273年、ようやくモンゴルは朝鮮半島を平定できたわけで、その翌年に第一回目の日本遠征、文永の役となります。

 フビライは1271年と1273年に女真族出身の政治家、趙良弼(ちょうりょうひつ)を外交使節として日本に派遣していますが、趙良弼は鎌倉幕府の回答をもらえないまま、帰国している。
その時の鎌倉幕府の対応は、外交としては実に無礼なもので、完全にモンゴルを無視する態度でした。フビライはそれに怒って日本遠征をした・・・・・訳ではないのです。

 当時元は、南宋攻略の真只中に在り、日本へ兵を動員すれば、東シナ海経路で南宋を攻めることも可能となる為、日本を含んだ対南宋包囲網形成が第一回遠征の目的でした。
しかし、この遠征は失敗に終わりました。

 その後1279年に南宋は滅亡し、その二年後に第二回日本遠征です。
ではこの時の目的は?
南宋を滅ぼした後、元は旧南宋軍の処理に戦後処理に行き詰まりました。
南宋は元との戦争で大軍を抱えており、南宋が滅んでも、その兵士達は相当な規模の人間が残っており、彼等に仕事を与える為の日本遠征と考えられています。

 フビライにとって第二回遠征は成功すれば日本を属国化できますし、負けて大軍が消滅すれば、それはそれで南宋問題に終止符が打てることに成ると考えていた様子が在るのです。

 第二回の遠征軍の兵士達は船の中に鋤、鍬等の農具を持ち込んでおり、彼等は日本を征服した後、そのまま故郷には帰らず、日本に住み着いて農業をする予定だったとも考えられます。

 この二回目の遠征も失敗するのですが、二回も続けて失敗した原因は何故なのでしょう?

蒼き狼の帝国:続く・・・


2013/09/07

歴史のお話その203:蒼き狼の帝国⑨

<モンゴル帝国の発展⑤>

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マルコ・ポーロ(Marco Polo、1254年9月15日 - 1324年1月9日)

◎元朝の中国支配

 フビライ・ハーンから始まる元は、中国の王朝となるのですが、モンゴル人は如何にして中国を支配したのでしょうか。
 
「モンゴル人第一主義」
一番の身分がモンゴル人、二番目が色目人(しきもくじん)、三番目が漢人、最後が南人という序列がつくられました。

 支配者はモンゴル人なのですが、人口は圧倒的に少なく、定住農耕民を統治する行政的な技術や経験が少ない為、行政技術者として主に西方出身のイラン人等を官僚として採用していました。
彼等のことを色目人と呼び、雑多な民族の人達を意味します。
目の色が青いからの意味では無く、マルコ・ポーロ等は、まさしく色目人です。

 漢人とはこの時代の特殊な使い方で、旧金朝支配下の漢民族、女真族、契丹族、高麗人を呼ぶ言い方です。
最下位の南人は旧南宋治下の漢民族のことです。

 モンゴルは中国の伝統的な官僚登用試験である科挙を廃止します。
儒学的教養に価値を認めず、中国の経済に寄生して、吸い取れるものは吸い取ろうという考えでした。

 マルコ・ポーロの『東方見聞録』を読んでみると、マルコは中国各地を旅するのですが、中国人とはほとんど接触していません。
中国語を話している形跡が余り無く、同じ色目人同士でペルシア語等で会話を交わし、日常の用は十分に足りていたのではないかと思われます。

 モンゴル人が中国を支配していながら、中国人や中国文化に全く無関心だった具体例です。
税金等を徴税出来れば其れで良しとした風潮が伝わります。

 元の税収の中心は塩の専売税です。
更に交鈔(こうしょう)と呼ぶ紙幣を大量発行して中国経済から金銭を掠め取っていきました。
「モンゴルの平和」によって安全を確保され、中国に往来する商人からの税収も多かったのです。

「東方見聞録」より

 「五日目にザイトン(泉州)と呼ばれる、大変に立派な大都市に着く。
ここは海港で、インドから船は皆高価な商品、貴重な宝石類、大きな真珠を満載してここへ入港する。又、マンジ(中国)の諸地方の商人たちもこの港に集まって来る(中略)。
さて、大汗(フビライ)はこの都会と港から実に莫大な税収を得ているが、これはインドから来る船は総て10%、すなわち彼らが持ってくる総ての商品、宝石、真珠の価格の10分の1を納めることになっているからである。
(中略)
こうして、税と船賃とで商人は載んできたものの半分は差し出さねばならぬことになる。
しかし、残りの半分でも膨大な利益をもたらすので、更に沢山商品を持って、もう一度来ようと考える。
これをみても、大汗がこの都会から取りたてている税収が如何に莫大なものであるか、容易に信じられるはずである。」

 モンゴル帝国と言えば陸の大帝国というイメージが強いですが、インド洋から南シナ海でも安定した海の交易路が出来ていたことの注目です。

 さて、元の時代、科挙が中止に成り、受験勉強をしていたエリート達の中には生活の為に小説や芝居の台本を書く者が出てきました。
それまでエリートは庶民の楽しみ、芝居・小説の類は関心の範疇に在りませんから、中国史上前代未聞の出来事で、本当の知識人が小説を書くので、質の高い作品が生まれたのは当然です。

 この時代の芝居を元曲(げんきょく)又は雑劇と呼び、有名作品としては『西廂記(せいしょうき)』『琵琶記(びわき)』、前者は若い男女の恋愛、『琵琶記』は夫婦の愛を描いたもので、内容的には女性観客向けの作品に思われます。

 劇は元の宮廷でも演じられたとも云われ、面白い作品は誰が見ても面白いのでしょう。

 小説の分野では、『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』の原型が成立し、盛り場での講談が次第にまとめ上げられて行きました。

 文字文化は、契丹族、女真族、タングート族と中国周辺の新興民族は、漢字に対抗して独自の文字を作り上げて来ましたが、フビライもチベット人パスパ(パクスパ)に命じてモンゴル語を書き写す文字を制定しました。
これが、パスパ文字で元朝の公式文書に用いられます。

 学問分野では西方からイスラム科学が導入されました。
フビライの時代の郭守敬(かくしゅけい)は、運河の建設や水利工事も実績があるのですが、天文学者として有名です。
イスラム暦を基礎にして「授時暦」と呼ばれる暦を創り、後に江戸時代の「貞享暦」の原型に成りました。

余談ですが、月の裏側には彼の名を付けた「郭守敬」クレーターが在り、火星と木星の間の小惑星帯に存在する小惑星2012号は、別名「郭守敬」と命名されています。

蒼き狼の帝国:続く・・・

2013/09/05

歴史のお話その202:蒼き狼の帝国⑧

<モンゴル帝国の発展④>

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上都が存在した内モンゴル自治区シリンゴル盟正藍旗南部の風景

◎モンゴル帝国と東西交流

 フビライの大ハーン即位に反対して、オゴタイの孫に当たるハイドゥが反乱(1266年~1301年)を起こしていますが、この事件はモンゴル帝国分裂の象徴的出来事でしたが、実際には大きな戦闘は一度しかなかったといいます。

 処でフビライは、チンギス・ハーンの一族の中では変わり者と見なされていました。
彼のどこが変わっているかと言えば、一言で中国寄りなのです。
代々、モンゴルの王侯達は中国文化には関心が薄く、イラン文化に代表される西方の文化に興味を持つことが普通でした。
ところが、フビライは長い間南宋攻略の為、彼の地に赴いていた結果、自然と中国人と接触する機会も多く、中国文化を好む様に成ったのでしょう。

 大ハーン即位後、モンゴル帝国の首都をモンゴル高原のカラコルムから中国北部の大都(モンゴル名 Khān Bālīq / Qan-balïq:ハンバリーク・カンバリーク、現在の北京)に冬の都を建設し更に夏の都である上都(モンゴル名Shàngdū :ザナドゥ)を建設しました。

 余談ですが、上都は、イギリスの詩人サミュエル・テイラー・コールリッジによって、1816年に『クブラ・カーン、あるいは夢で見た幻影:断片』として発表され、その中でザナドゥを取り上げました。
マルコポーロの「東方見聞録」とコールリッジの作品で、ヨーロッパ人は、上都に関する想像を抱いたと云います

 更に、国号を元と中国風に改め、1279年には南宋を滅ぼして東アジア全域を支配下に入れました。

 日本、ビルマ、ヴェトナム、ジャワや更に遠方に遠征軍を送り出しますが、これらは総て失敗に終わっています。
この様な遠征を行った意味は、モンゴルがそれまでに作り上げた陸上の連携に海上の連携を結びつけ様とする試みだったという説もあります。

 フビライ以後、元は中国の王朝と成りました。

 西はロシア、シリアから東は中国本土迄、ユーラシア大陸の大部分を支配し、モンゴル帝国は歴史上空前絶後の領土を持つ国家に成長しました。
ユーラシア大陸全体が、一つの国家に成った為、戦争行為は消滅しこれを「タタールの平和」と呼びます。
此処でタタールとはモンゴルを意味しています。

 モンゴル帝国は東西交易路の安全を確保する為に、駅伝制を整備し、この駅伝のことをモンゴルではジャムチと云い、モンゴル政府発行の通行証が牌子(はいず)で、この通行証を持っていれば街道沿いにある宿駅で宿泊し、馬を交換等と便宜を受けながら旅をすることができました。

 駅伝を利用できなくても、交易路の安全はモンゴルによって守られていますから、商人は安全に遠隔交易をすることが可能で、ムスリム商人と呼ばれるイスラム教徒の商人達が特に活躍します。

 安全な交通路を通ってヨーロッパからの外交使節もモンゴル帝国に赴きます。
ローマ教皇インノケンティウス4世から派遣されたプラノ・カルピニ。
フランス王ルイ9世もルブルクを派遣し、彼等の使命はイスラム教徒の勢力と対抗する為にモンゴルと同盟を結ぶことでした。
カルピニはグユク・ハーン、ルブルクはモンケ・ハーンの時代ですが、モンゴル側は同盟を結ぶ気持ち等、本来持ち合わせていない為、適当にあしらった様です。

 ルブルクもカルピニもジャムチを利用してカラコルム迄往来しました。
ルブルクは、フランスを出発してロシアに向かいますが、当時、その地はもう遊牧の世界で、テントを張った人達が遊牧しています。
カルピニは、彼等にキプチャクの大ハーンの所に案内してもらい、そこで通行許可証、牌子の発行を受け、その後は一切の障害もなくカラコルム迄旅行できました。

 興味深い点は、彼は旅の途中のオアシスやカラコルムで結構ヨーロッパ人に会っているのです。
モンゴルの遠征で捕虜となって連れてこられたのか否か、事情はわかりませんが、旅行記等を残さない職人や女性達が可也ユーラシア大陸を大移動していることがわかります。

 又、モンゴルの宮廷にはキリスト教徒がいました。
古代ローマ帝国時代に異端とされたネストリウス派キリスト教が西アジアから中央アジアにかけて拡がっており、モンゴル王族の女性達にも信者が存在したのです。
ハーンの妻の中にも当然居り、モンゴル人は宗教に関しては余り神経質にならず、政府の批判や住民扇動等行わない限り自由に布教もさせていたようです。

 フビライの時代に、ローマ教皇から宣教師モンテ・コルヴィノが派遣されるのですが、彼は大都で三十年間も布教しています。

 そしてモンゴル時代の旅行者で一番有名な人物はマルコ=ポーロですが、詳しいお話は、別にしたいと思います。

彼の家系は、イタリアのヴェネツィア商人で、父親が遠隔貿易商人でした。
16歳で父と叔父に連れられて旅に出でて、中国に着き、フビライ・ハーンに会った時には20歳になっていました。
若くて賢く、フビライに気に入られ、元の役人として中国各地で17年間働きます。

 最後にイタリアに帰国する時は、イル・ハン国に嫁ぐ王室のお姫様を中国から、南シナ海、インド洋を回って船で送り届ける役目を仰せつかっています。
イタリアに帰国後、都市間戦争で捕虜に成り収監されますが、牢の中の暇つぶしに同室の囚人ルスチケロに自分の体験を話すのですが、余りに面白い話なのでルスチケロはこれを書き留めて本にしました。
これが『東方見聞録』、『世界の記述』とも云います。

 因みジパングの話ですが、黄金の国等、全く虚構で、マルコ=ポーロの本の中には明らかな間違いも結構あるのですが、権力中枢に居た者しか知り得ない情報も多々存在し、研究すればするほど実に不思議な本と云われています。

 現在、研究者の中にはマルコ=ポーロは中国旅行と元朝での役人生活を否定し、マルコ・ポーロは実在せず、複数の旅行者の情報をマルコ・ポーロという名前に託して作り上げたのが『世界の記述』である、と説く説も存在しています。

蒼き狼の帝国:続く・・・
2013/09/04

歴史のお話その201:蒼き狼の帝国⑦

<モンゴル帝国の発展③>

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◎モンゴル帝国の発展その③

 第四代モンケ・ハーンの時代に成り、モンゴル帝国は遠征を再開しました。
モンケは二人の弟、フビライとフラグにそれぞれ東と西の遠征をおこなわせたのです。

 フラグの西アジア遠征は、イスラムのアッバース朝を滅亡させました。
アッバース朝は500年も続いたイスラム教の中心的王朝の為、滅亡の事実は西アジアのイスラム世界に大きな衝撃を与えました。

 フラグの遠征軍の一部はエジプト迄侵入したのですが、この時モンケ・ハーンが崩御し、フラグには帰還命令がでます。
フラグも先のバトゥと同様にモンゴル高原迄帰還せず、イランに留まり、この地にイル・ハン国を建国し、西アジア全体を勢力範囲におきました。

 一方、もう一人の弟フビライはチベット、雲南方面の吐蕃、大理を征服し、西南方面から中国の南宋を攻略します。
この対南宋戦にモンゴルは大軍を投入し、各方面から作戦を展開しており、モンケ・ハーン自身も出陣して南宋戦を指揮していての病死でした。

 モンケの出陣中、カラコルムに居残り国政を任されていた人物が、フビライ、フラグ達の更に下の弟、アリクブケなのですが、彼がモンケの死後大ハーンになる最有力者でした。
即位の為のクリルタイを召集し、フラグも同様なのですが、フラグの場合は余りにもカラコルムから遠く離れており、モンゴル高原に帰って政争に巻き込まれるより、西アジアに自分の国を建国する選択をしたのです。

 しかし、フビライは対南宋戦で指揮下にある大軍を背景にして、強引に大ハーンに就こうとしました。
彼は、アリクブケのクリルタイに参加せず、自分の支持者だけでクリルタイを開き、大ハーンに即位します(1260年)。
アリクブケは、フビライに対抗してカラコルムで別にクリルタイを開き大ハーンに即位しますが、彼は政治的にも、軍事的にもフビライの敵ではなく、4年後にはフビライに降伏しました。

 こうしてフビライが、正式な第五代目の大ハーン(在位1260年~94年)に成りました。

 モンゴル帝国は、モンゴル人の支配地域が拡がるという意味では、急速に発展しています。
しかし、一方で内部ではチンギス・ハーン一族の結束は次第に緩くなり、或いは対立する様にも成って来ました。
一族が建国した国を見ていくと、チンギス・ハーンの長男ジュチ家は、バトゥが南ロシア平原にキプチャク・ハン国を建国。
次男チャガタイ家は中央アジア(トルキスタン)を中心にチャガタイ・ハン国と呼ばれる支配地域を形成しています。
三男オゴタイ家は、西北モンゴリアにオゴタイ・ハン国を建国。
四男トゥルイ家は、フラグが西アジアにイル・ハン国を建国。
そして、フビライが大ハーンとして四つのハン国を束ねると同時にモンゴル高原から中国北部、チベット方面を直接支配しています。

 モンゴル帝国はこの段階でチンギス・ハーンの孫達がそれぞれ支配している所領の緩やかな結合体に成っているのです。

蒼き狼の帝国:続く・・・

2013/09/03

歴史のお話その200:蒼き狼の帝国⑥

<モンゴル帝国の発展②>

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ワールシュタットの戦い

◎モンゴル帝国の発展その②

 次男のチャガタイは、大勢の前でジュチの出生のことを口に出すような軽々しいところがあって、人望が無く、残る三男と四男、オゴタイとトゥルイが本命だったのですが、チャガタイがオゴタイと組んでオゴタイ即位となりました。

 生前、チンギス・ハーンはジュチに西方へ遠征させるつもりで、「西の方どこまでもモンゴルの馬蹄で蹂躙できるすべての土地をおまえにやろう。」と約束していました。
ところが遠征実行前にチンギス・ハーンもジュチも他界してしまい、そこで、オゴタイはジュチの息子バトゥに対して、同遠征を命じました。

 これが「バトゥの西征」、1236年から大遠征軍がロシア平原に出陣し、バトゥを総大将にするモンゴル軍は向かう処に敵は無く、ロシア平原を制圧してそのままポーランドに侵入したのです。

 いきなり東方から現れた騎馬軍団に驚愕したのがヨーロッパの諸侯達です。
ドイツ、ポーランドの諸侯連合軍一万騎が、バトゥ軍別動隊三万騎から四万騎を迎え撃ったのですが、結果はモンゴル軍の圧勝に終わりました。
これをリーグニッツの戦い、又は、ワールシュタットの戦いと呼びます。
ワールシュタットは、この戦いの後で付いた地名で「死体の森」と云う意味なのです。

 モンゴルが圧勝した理由は、前回に説明した機動力と、もう一つは集団戦法にヨーロッパ諸侯軍が対応できなかった結果です。

 モンゴル騎馬軍団は整然とした隊列を組んで集団で攻めて来ます。
これに対して、ヨーロッパの軍隊は名誉と武勲を重んじる騎士の集まりの為、集団戦を行いません。平家物語の頃の武士と同じで、戦う前に「やあやあ、我こそは・・・・・」の口上を述べた後、一騎打ちして勝敗を決める戦法が基本です。
そのつもりで騎士達が構えていると、鎧甲らしい甲冑も付けず、ヨーロッパの騎馬に比べれば小さな馬に跨った軍団が集団で突入して来るのですから、これでは、ひとたまりもありません。

 この後もモンゴル軍が進撃を続けていれば、ヨーロッパもモンゴル帝国の一部に成り得たと思われるのですが、ここで大事件が起きました。
オゴタイ・ハーンの急死です。
次の大ハーンを決める為のクリルタイに参加せよ、と云う連絡がモンゴル本国より来るのです。
バトゥは兵を引き戻し、但し、彼はモンゴル本国まで帰らず、ロシア平原に留まってこの地を自分の本拠地にします。
これがキプチャク・ハーン国と呼ばれ、モンゴル帝国の一部となります。

 オゴタイ・ハーンの跡を継いだのは、その子のグユクですが、彼の即位には反対が多く、正式に大ハーンに成る迄に何年もの時間が必要でした。
更には、即位してまもなく亡くなり、オゴタイの死からグユクの死迄はモンゴル帝国の混乱期です。

 グユクの死後、再度、大ハーンの位を巡って一族の間で争いが起き、第四代大ハーンになったのはモンケ(在位1251年~59年)、彼はチンギス・ハーンの末子トゥルイの子で、オゴタイ家からトゥルイ家に大ハーン位が移ったのには一族の長老バトゥの後押しがあった為でした。
チャガタイ家、オゴタイ家の連携に対して、ジュチ家、トゥルイ家は互に連合していたのです。

蒼き狼の帝国:続く・・・

2013/09/02

歴史のお話その199:蒼き狼の帝国⑤

<モンゴル帝国の発展①>

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モンゴル軍のポーランド侵攻

◎モンゴル帝国の発展

 チンギス・ハーンの死後大ハーンの位を継いだのが、オゴタイ・ハーン(在位1229年~41年)です。
彼の時代に金国を征服し(1234年)、モンゴル帝国は一層の発展を遂げました。

 国家建設が進むに従い、統治機構を整える必要が当然ながら発生します。
金国を征服することにより、それ迄経験しなかった大規模な農耕地域を支配することにも成り、先に紹介した契丹族の耶律楚材等を登用して中国人を支配する機構を整えて行きました。
契丹族も非農耕民でありながら中国を支配した経験がある民族です。

 又、オゴタイ・ハーンの時代にモンゴル高原北部に都カラコルムを建設しました。
しかし、都を造りましたが、オゴタイ・ハーンは壁に囲まれた宮殿に住むことが窮屈で仕方が無く、宮殿脇の草原で相変わらずテント暮らしをしていたと記録されています。
外交上の式典等必要な時だけ宮殿に出向いたと云います。

 チンギス・ハーンの子供達、特にオゴタイが第二代大ハーンに成った経過は次の通りでした。

 チンギス・ハーンには四人の男児が居ました。
年嵩から順番にジュチ、チャガタイ、オゴタイ、トゥルイで、必ず長男が相続する中国の様な、制度化された相続制度は、モンゴル人には存在せず、末子相続が一般的だったと思われます。

 理由として考えられるのは、農耕民族の様に土地を相続するということは無い為、子供は成長したらある程度の馬や羊を親から分けてもらって一人立ちをしていきます。
長男から次々独立していく為、最後に末子が残り、親が死んだ時残った家畜の群を末子がそのまま相続することになります。

 この形式をハーン位継承に当てはめれば、トゥルイが大ハーンになるのですが、それに関しては、はっきりした決まりが無く、遊牧民の指導者としてふさわしい者を有力族長会議であるクリルタイで決定することになります。

長男のジュチは、暗黙のうちに、最初から跡継ぎとしては除外されていました。
何故なのでしょう?
彼の出生には因縁が在り、未だ弱小勢力だった頃、チンギス・ハーンは対立部族に襲われて新婚早々の妻を略奪されたことが在り、一年後に、彼は復讐を果たし、奪われた妻を取り返すのですが、そのとき妻は懐妊しており、その結果、生まれたのがジュチでした。

 チンギス・ハーン自身、そのことでジュチを差別したりはしません。
他の息子と同じように扱っていまが、この話は公然の秘密でした。
誰も口には出さないけれど皆が知っていた為に、ジュチの相続はありえませんでした。
因みにジュチと云うのは「客人」の意味で、出生を考えると、意味深長な名前ですね。

蒼き狼の帝国:続く・・・