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2013/10/31

歴史のお話その249:語り継がれる伝説、伝承、物語㊳

<ユニオン・パシフィック>

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大陸横断鉄道線路締結!

 大陸横断鉄道建設法案が、アメリカ合衆国議会の承認を得た時、新しい鉄道建設を推進する状況では在りませんでした。
当に南北戦争の最中で、中部平原地帯では、ネイティブアメリカンとの衝突が、頻発していたのです。
しかし、議会は1862年、ユニオン・パシフィック鉄道建設法案を可決しました。

 セントラル・パシフィック鉄道が、カリフォルニアのサクラメントから東に向けて鉄道建設工事に着工し、ユニオン・パシフィック鉄道が、ネブラスカ州オマハから西に向かって、建設工事を推進する事で合意が成立、1863年工事が始められました。

 セントラル・パシフィック鉄道側の工事を指揮したのは、チャーリー・クロッカーでしたが、工事開始地点から130km地点で、早くも大きな障害に遭遇しました。
シエラネバダ山脈の花崗岩の斜面が行く手を塞ぎ、一方、グレンビル・ドッジ将軍が指揮するユニオン・パシフィック鉄道側は、白人に敵意をもつ、スー族やシャイアン族の土地を横断しなければ成りませんでした。

 ドッジ将軍指揮下の建設部隊の大部分は、アイルランド系で占められていましたが、クロッカー隊の主力は、中国系でした。
「東洋人に、鉄道建設の様な仕事は出来ない」と言う者に対して、クロッカーはこの様に返答しました。
「彼らは万里の長城を造った。あれは、石の建造物では世界一である」と。
1866年から67年にかけて、冬の寒波は特に厳しく、多くの作業員が凍死や雪崩によって命を落とし、特に1867年2月の猛吹雪は、12日間に渡って荒れ狂い、作業員小屋が18mの雪の中に埋められてしまう程でした。

 しかし、東西から延びてきた線路は、終にユタ州プロモントリー・ポイントで出会います。
西の基点から1110km、東の基点から1748kmの地点で結ばれ、更にユニオン・パシフィック鉄道は既存の東部の鉄道と結ばれ、大陸横断鉄道は完成したのでした。

 1869年5月、プロモントリー・ポイントには、銀のプレートが打たれたマホガニー製の枕木が置かれ、開通式には、東西を出発した機関車が、ここで出会い、記念の犬釘が打ち込まれました。
この時、本当に西部を開拓したのは、大陸横断鉄道を完成させた、ドッジ将軍指揮下のアイルランド人と、クロッカー指揮下の中国人の人々でした。

続く・・・

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2013/10/30

歴史のお話その248:語り継がれる伝説、伝承、物語㊲

<カナダ太平洋鉄道>

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 カナダの太平洋岸と大西洋岸を結ぶ、カナダ太平洋鉄道は、土木建築工事として特出される事業であるばかりか、1つの国家を形成するに至った事業でも在りました。

 1867年、カナダ東部のオンタリオ、ケベック、ニューブランズウィック、ノバスコシアの4州は、南部に位置するアメリカ合衆国の脅威に対抗する為、連邦を形成しました。
しかし、太平洋岸に位置する、ブリティッシュコロンビアは、依然として陸の孤島であり、サスカッチュワン、アルバータは、ノースウエスト・テリトリーのまま存続していました。
カナダ議会は、ブリティッシュコロンビアを連邦に編入させる為、大陸横断鉄道の建設を承認したのでした。

 6人の資産家によって、カナダ太平洋鉄道会社を設立し、資本金2500万ドル、100万ヘクタールの西部1級地、20年間の免税特権保証の基、鉄道建設工事は着工されたのでした。

 シカゴ出身のウィリアム・コーネリアス・バン・ホーンが鉄道敷設工事を指揮し、建設工事が容易に進んだ草原地帯を越え、スペリオル湖北岸の荒野へ線路を伸ばす為に投入した物資は、1万2000人の建設要員、5000頭もの馬、更に削岩機、火薬等、膨大な物量に上ります。
容易に進行した草原地帯の敷設工事とは対象的に、北岸以降の工事は困難を極め、1kmの区間を進む為に花崗岩の岩盤を切り開く作業には膨大な日数を要し、湿地地帯ではその脆弱な地質の為、作業用機関車が3両も水没する等、予想外の被害を被り、これらの難工事区間では、10cmあたり43ドルの建設費を要しました。

 此処に至り、建設費は予算を超過する2700万ドルに達し、債権者は出資金の返済を要求し始め、バン・ホーンは新たに3500万ドルの追加借款を議会に申し出るものの、議会はこの申し出を却下し、カナダ太平洋鉄道会社は破産の瀬戸際に立たされます。
この事態の最中、ネイティブアメリカンと混血の無政府主義者、ルイ・リエルの煽動で、サスカッチュワンに反政府運動が勃発し、カナダ政府はその鎮圧の為、急遽軍隊を紛争地域に派遣する必要が生じました。

 バン・ホーンは、未完成だった鉄道線路を使って、兵力4000名の軍隊を11日以内に現地に輸送する事を請負、その大任を果たす事が出来ました。
その速達性、確実性がカナダ国民に対し、鉄道建設の重要性を認識させ、是を機会に新たな資金の調達が成されました。

 東西から始まった鉄道建設は、次第に完成に近づき、1886年7月4日両方の線路は、最後の犬釘が打たれ完成したのでした。
この日、モントリオールを発車したパシフィックエクスプレス号が、太平洋岸の終点ポートムーディ迄4675kmの全線を走行します。

 現在、カナダ太平洋鉄道会社は、航空、海運、ホテルと言った関連会社を有する巨大企業となりました。

続く・・・

2013/10/29

歴史のお話その247:語り継がれる伝説、伝承、物語㊱

<太平洋への道>

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 仲間達の見守る中、29歳のスコットランド人は、朱色の絵の具にグリースを混ぜて、岩肌に大きく書き殴りました。

“アレックス・マッケンジー。
 カナダから陸路到着。
 1793年7月22日”


北アメリカ探検史上最大の快挙が、見事に達成された瞬間でした。
この岩石は現在も残り、白人として初めて北米大陸を横断した、マッケンジーの偉業を称えています。

 マッケンジーは1764年、スコットランド西方に位置する、ヘブリジーズ諸島のストーノウェイに生れ、アメリカで育ちました。
母親の死後、父親と共に新大陸アメリカに移住し、学業はニューヨークとモントリオールで納め、モントリオールを根拠地として、毛皮貿易を行っていた、ノース・ウエスト会社に就職し、彼は西の果て、フォートチペワイアンに派遣されました。

◎太平洋の誘惑

 任地迄カヌーで行った事がきっかけと成り、彼の探検熱が目を覚ましました。
当時、ノース・ウエスト社は太平洋に到達して、ラッコの毛皮で利益を上げたいと望んでいましたが、当時、ラッコの毛皮は、シベリアのロシア人が独占しており、太平洋に到達したい願望は、マッケンジーも同様でした。

 一冬を一緒に過ごした事のある、ピーター・ボンドという開拓者が、書き残したラフな水路図やメモを彼はじっくりと研究しました。
北へ流れる川は、最終的には西に転じて、太平洋に注ぐに違いない、其れならば、北西方向に抜け道が存在するはずであると、マッケンジーは考えました。
1789年6月3日、13人の仲間と共に、3隻のカヌーで川を北へと向かいました。
だれ一人として、その川の注ぐ先が何処なのか、解かりませんでしたが、マッケンジーの推測は、間違っていました。
流れは西へと向う事はなく、彼らを北極海へと運んでしまいますが、この河川は今日、カナダの地図に掲載されているマッケンジー河川系でした。

 是も大きな発見なのですが、マッケンジーの本来の目標とは大きく異なり、依然として太平洋への道は、彼に閉ざされていました。

1791年から1792年にかけての冬を彼は、ロンドンで地理、航海術を研究して過ごし、1792年の秋に、フォートチペワイアンで仲間達と再会し、ここで冬を越しました。

◎選  択

 マッケンジーのグループは、5月に成ってやっと動き出す事ができました。
仲間は9人、食料等の携行品は1350kg、是等を全て、カバの木の皮で作った長さ7.5mのカヌーに載せて出発したのでした。
最初は順調でしたが、やがて、ピース川の激流に遭遇し、この激流はロッキー山脈迄の40kmの間続きました。
漸くして、激流を抜けると、川が二股に分かれる処で決断をせまられました。
北西に流れる、広くて安全に思える主流(現:フィンレー川)に乗るか、其れとも南に向う、狭くて流れの速い支流(現:ハースニプ川)にすべきなのでしょうか?
マッケンジーは、以前に、北へ向う川は、険しい山々を抜けていて、誰も通る事が出来ないと、ネイティブ・アメリカンの老人から聞いた事が在りました。
其処で、彼は仲間全員の反対意見を押し切って、南の支流を選んだのです。

 この選択は困難な旅で、カヌーがセニカ族に止められた時、仲間は再び不平を洩らしますが、通訳を介してマッケンジーは、この川が南に流れ、他の川と合流する事、その川は“悪臭を放つ湖”に流れ込んでいる事を知りました。

◎分水嶺を越えて

 一行が塩水の話を耳にした事は、是が最初で、更に進むと、川は分かれて迷路に様になりました。
6月12日、カヌーは水から引き上げられ、小さな湖迄運び上げられました。
白人が終に、北米大陸の分水嶺を越えた瞬間です!

 カヌーを岩の衝突させて壊れた部分を修理した後、一行は、ようやくフレーザー川に到達し、彼らは安全に西へと運ばれて行きました。

 途中、アタバスカ族の領地を通る時、矢を射掛けられた事も有りましたが、マッケンジーは仲間に発砲しない様に命じ、一切の武器を持たずに上陸しました。
この大胆不敵な行動は、アタバスカ族を圧倒し、ビーズやナイフ等の贈り物を受け取ると、フレーザー川が最後に大きな海(太平洋)の注ぐ事、真西に陸路を進めば別の川が在る事を教えてくれたのです。

 真夏でしたが、カヌーを降りて雪の山道を越えた時は、寒さに震え上がり、暖かいベラクーラ川の渓谷に下りる迄、13日を要しました。
友好的なネイティブ・アメリカンが2隻のカヌーを貸してくれた事で、こうして7月20日、一行は迷路の様に入り組んだ島々を抜けて、ディーン海峡に入る事ができました。

 2日後、マッケンジーは岩の南東側に、記念の言葉を殴り書きし、帰路についたのです。
帰路は、33日しか掛からず、8月24日には、フォートチペワイアンに到着する事が出来ました。
彼は、北極海と太平洋の両方を見た上に、一人の犠牲者も出さず、探検を成功させました。

続く・・・


2013/10/29

歴史のお話その246:語り継がれる伝説、伝承、物語㉟

<ロッキー山脈を越えて>

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ルイスとクラークを先導するサカジャウィア

 1804年5月14日、ミズーリ川に堤防で発射された1発の銃声が、歴史的な探検旅行の始まりを告げました。
この探検旅行こそ、アメリカ合衆国政府によって実行された、東部から陸路太平洋に到達した、最初の試みとなりました。
この旅は、全工程129、000kmで、2年4ヶ月を要しましたが、北西部のオレゴンは、アメリカ領土の一部であるとする、アメリカ政府の立場を強める結果となり、当時オレゴンについては、アメリカ、スペイン、ロシアがその領土権を主張していたからでした。

 1803年1月18日、ジェファーソン大統領は議会に、ミシシッピー川の対岸に遠征隊を送る費用を議会に提出しました。
この法案は、目的地がフランス領有地を含んでいる為、密かに実効に移され、議会は2,500ドルの支出を認めました。
しかし、それから数ヶ月後、アメリカ政府は、フランス政府からミシシッピー川からロッキー山脈に至る広大な地域を買収した為、ジェファーソン大統領が、極秘に派遣した調査隊は、国家を挙げての壮挙に変わり、議会は追加支出を承認する結果と成りました。

 ジェファーソン大統領は、既に調査隊の隊長に選定されていた、メリーウェザー・ルイスに隊員の増強を指示し、友人のアメリカ陸軍中尉、ウィリアム・クラークを副官に登用しました。
クラーク中尉は、独立運動に活躍した、辺境指揮官、ジョージ・ロジャーズ・クラークの末弟にあたります。

 この二名程、明確な指令を受けた探検隊は、前例が無いと思われます。
大統領は、彼らに、ミズーリ川とコロンビア川を探検して、「商業目的の為の、最も直接的且つ、実用的な水上交通の便」を突き止める様に命じました。
大まかな地勢や、土地の産物、経緯を記録して、地図の製作が可能な様にすると共に、更には、ネイティブ・アメリカンの研究して、政府に報告する事が、彼らに課せられた使命でした。

 探検隊は、長さ17mの竜骨船と2隻の丸木船に分乗し、セントルイス近郊から出発しました。
この探検隊は、29名から成り、隊員の大部分は、経験豊富な辺境開拓者であると同時に、軍籍を有していました。
この他に、軍人7名が、ネイティブ・アメリカンのマンダン族の町に赴き、荷物の移動援助と現地人でのトラブルに対応する事に成っていました。

 この補助部隊は、ミズーリ川で孤軍奮闘の働きを見せ、順風に助けられる事が少なく、船を漕ぎ、時には船を曳き、テトン・スー族に脅かされ時は、強力な後ろ盾に成りました。

 10月27日、探検隊はマンダン族の町に到着(現:ノースダコタ州ビスマーク付近)し、此処で1804年の冬を過ごし、探検隊がこの町を出発した時には、通訳のツーサン・シャルノボーとその妻サカジャウィア、5年前にミナレタ族に捕らえられた、ショショーニ族の少女も含まれ、総勢32人でした。

 ミズーリ川の滝線地帯では、急流を避けて物資を運ぶのに、1ヶ月の期間を要し、この後ミズーリ川は、3本に分かれ、探検隊は一番西の流れを上りました。
この流れは後に「ジェファーソン」と名付けられ、レムハイ峠で大陸分水嶺を越えました。
サカジャウィアは、ガイドとして有能で、兄弟であるショショーニ族に酋長は、探検隊に馬を提供してくれました。
幸運の後には、苦難の日々が続き、吹雪に襲われ、毎日続く、干し鮭、根菜のスープ、犬の肉のシチューにうんざりしながらも、終には、クリアウォーター川に到達し、此処でカヌーを作り、スネーク川とコロンビア川を下り、1805年11月15日、探検隊は太平洋を望みました。

 1806年3月、探検隊は帰途に付き、大陸分水嶺に近づいた時、ルイスはクラークと別れて、再び太平洋への河川を探索し、クラークは、イエローストーン川を調査しました。
両探検隊は、イエローストーン川とミズーリ川の合流点で再会し、1806年9月23日、セントルイスに到着、今回の探検による犠牲者は、病死した1名のみでした。

 ルイスとクラークは、貴重な学術的資料を多数持ち帰り、又毛皮商人や猟師達に大きな刺激を与え、彼らはアメリカの最西端部を調査し、入植者をオレゴンやカリフォルニアへ導く結果と成りました。

続く・・・
2013/10/26

歴史のお話その245:語り継がれる伝説、伝承、物語㉞

<失われた植民地の子孫達>

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 18世紀初頭、アメリカ、ノースカロライナのランバー川を遡っていた移民達は、灰色の瞳をしたネイティブ・アメリカンと遭遇しました。
しかも、彼らの話した言葉は、訛っていたとは言え、紛れも無い英語でした。

 ネイティブ・アメリカン達は、彼らの祖先は「本で話す」事ができたと語りましたが、開拓民はこの言葉を、読み書きが出来たという意味に解釈しました。
彼らの住んでいた、ローブソン郡には、この神秘的な部族の子孫は現在でも生きています。
ランビー・インディアンと呼ばれ、肌の色は褐色から白色迄と幅が広く、金髪碧眼も珍しく有りません。

 彼らは、ウォルター・ローリー卿の「失われた植民地」ロアノーク島から1590年に一斉に姿を消したイングランド移民の子孫ではないかと、現在では考えられています。
ロアノーク島は、ランバー川から320km程はなれた場所に存在します。

 エリザベス一世が勅許をローリーに与えてから、島の植民地建設は2回に分けて行われ、第一回の試みは、1586年ですが、繰り返し行われる原住民の攻撃と物資欠乏の為放棄され、次いで1587年、ジョン・ホワイトの率いる100人以上の男女がこの地に渡りましたが、その結果は前回と同様でした。
ホワイトは、救援と補給を求める為、15人を連れてイングランドに出発しました。

◎人影の消えた砦

 其の後勃発した、イギリス・スペイン戦争の為、ホワイトは1590年迄島に戻る事ができず、ロアノークに砦が築かれていたものの、ホワイトが戻ってみると、内部は略奪され、人影も消えていました。
手掛かりは只一つ“Croatoan”なる単語のみでした。

 この言葉の意味については、今日なお研究者の間で論議が絶えず、移住地を襲撃した原住民の部族名と推測する研究者も存在しましたが、クロアトアンとは、ロアノーク島の南に浮かぶ島の名前で、其処には、温和で友好的なハテラス族が定住している事を入植者は知っており、彼らがこの島に辿り着いてハテラス族と雑婚したと考えれば、その子孫がランビー・インディアンである可能性が強いと思われます。

 ホワイトは、入植者達が自発的にクロアトアン島に自発的に移住したと考え、彼らと再会を果たせぬままイングランドに帰国しました。
彼の推測を裏付ける確かな証拠が、今日発見されており、1650年頃、ハテラス族は大挙して、本土へ移住し、ランバー渓谷に定住しました。
ロアノークの「失われた入植者」が使用していた95種類の姓の内、サンプソン、クーパー等、41種類がランビー族に確認されています。

続く・・・

2013/10/25

歴史のお話その244:語り継がれる伝説、伝承、物語㉝

<ゼロを発明した民族(中米編)>

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マヤ人が使用した数字

 彼らは農耕民族で、最後迄、車輪の概念を持ちませんでしたが、其れでも古代アメリカの他のどの文明も達し得なかった芸術的、知的文明に到達しました。
彼らは天体の運動を計算し、驚くべき正確さで、遠い未来の天体活動、月食、日食を予想する事ができました。
しかし、一方では、建築工学における、単純なアーチを作る事が出来ず、その文字は、未発達の絵文字でしたが、樹皮を紙の様に加工して、是を折りたたみ、長く繋いで作った書物も存在しています。
又、彼らの数学体系は、古代エジプトでさえ、足元に及ばず、その数の概念は億の単位迄、把握する事が可能で、ヨーロッパ人より1000年も早く0(ゼロ)の概念を持っていました。
中央アメリカのマヤ族は、華麗で、しかも荒削りな文明、急激な没落の為に歴史上最も謎の多い文化を築き上げたと云われています。

◎マヤ文明の謎

 農民や漁民の単純な村落共同体が、如何にして紀元前1000年前後に、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラ、ユカタン半島、メキシコの南部に迄広がる、強力な文化に発展したのかは、現在でも明らかではありません。
しかし、現実にマヤの人々は現実に是等を成し遂げて行きました。

 緩やかにマヤの人々は、階級制度を発達させ、世襲貴族、神官等の支配層、労働する自由な平民層、戦争捕虜である奴隷の区別が存在し、特に他部族の高位の者が戦争捕虜になると、彼らはマヤの神々の生贄とされました。

 マヤの数字は、3種類の記号だけを使用し、点・は1、棒Iは5、貝の形は0を現し、この組合せによって億単位の計算すら可能でした。
如何なる理由が存在したのか、現在では解明も不可能ですが、マヤの人々は紀元前3114年を天文学的事象の計算と時間軸の出発点と定めました。
天文学の水準は極めて高く、当時他の如何なる文明よりも遥かに正確な暦を作り上げ、1年365日は、20日づつ18ヵ月に分けられ、それにセバと呼ばれる5日が加えられました。

 西暦300年頃から900年がマヤ文明の黄金期で、壮麗な都市が築かれますが、建物は驚く程に美しく、最上階に神殿を載せたピラミッドは、密林の木々を背景に空に浮かび上がっていました。

 興味深い点と云えば是等の都市は、支配階層が住む儀式の場で、農民は郊外の農地に住み、商売や宗教的祭礼、球技の試合等の時だけ都市の広場に集まりました。

 しかし、突如10世紀初頭、是等の都市は放置、廃棄され、マヤ文明は崩壊してしまいます。
この終焉を説明する為に、数多くの研究文献が出版されました。
研究者に因れば、土壌の消耗と生産性の低下の為、彼らの農耕制度が崩壊し、都市の急激な人口減少を招いた、或は、地震、疫病、戦争、メキシコ高地人種の侵入を説き、又、被支配階級が支配階級に対して、一種の革命を起こした可能性も提唱されています。

 考古学上、最新の研究に因れば、西暦900年頃、神官階級が支配権を喪失し、社会的、経済的平等化が発生したのではないかと言われています。
祭儀の場所は廃棄され、続く数世紀の間にその繁栄を極めた、マヤ文明は衰退した様に思われます。

続く・・・



2013/10/24

歴史のお話その243:語り継がれる伝説、伝承、物語㉜

<雨の神の花嫁(チェチェン・イッツア)その2>

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雨の神の花嫁(想像図)

◎雨の神の花嫁

 ククルカンの神殿は高さ30m、基礎部分の面積60平方mのピラミッド状をしており、頂上には石造りの神殿が祭られ、この神殿から雨の神の住む聖なる泉に通じる、幅4.5m、全長400mの石畳の道が存在し、両側には有翼の蛇ククルカンの聖像が無数に欄干の如く並んでいます。

 ククルカンの神殿及び、聖なる泉、その石畳はマヤ族の生活に密接な関係が在り、日照りが続き、農作物が干からび始めると、之は雨の神ユムチャクの怒りによるものと信じ、神を宥める為、14歳になる美しい処女を選び、花嫁として聖なる泉に投げ込む風習が在りました。

 生贄の花嫁は、二度と姿を現す事は在りませんが、死にはしないと考えるのが、彼らの信仰であり、生贄と一緒に宝石や雨の神の神殿で生活する為に必要な品物も供物して、投げ込んだのでした。
この雨の神ユムチャクへの生贄については、マヤ族全体が深い関心を持ち、儀式の当日には国中の人々は、生贄を見送る為、この地に参集したのです。

 ククルカンの神殿には、マヤ族の中から選抜された、14歳の美しい処女が、雨の神の花嫁として捧げられる為、美しく着飾り、その時の至る事を待っていました。
その傍らには、マヤ族の中で最も勇敢な若者が、きらびやかな衣装に身を固め、いたいけな花嫁の旅路を守り、雨の神の神殿に無事送り届ける為に控えています。

 やがて夜明けの時間が訪れると、法螺貝の合図と共に、生贄の行列は、司祭長を先頭に、神殿を後に聖なる泉に向かいます。
綺麗に掃き清められた、90段もある急な階段を下り、石畳の上に足を印した時、雨の神の栄光を称える楽隊がその列に加わり、生贄の少女とその警護の勇者は進んでいきます。
石畳の道は、聖なる泉の縁で突然終わり、密林に囲まれた石造りの祭殿に行き当たります。
祭壇の先は、聖なる泉が静まりかえって存在し、周囲の木々の梢から太陽の光が差し込んで来る頃、司祭長は祭壇から、泉に向って手を差し伸べ、雨の神に祈りを捧げ、やがて太鼓の合図と共に花嫁が泉の縁に進み、6人の司祭が彼女を抱えるとゆっくりと前後にゆり動かし、楽隊の旋律は序所に早くなり、それが最高潮に達した時、花嫁は司祭達の手を離れ、暗い泉の中に向っていきました。
警護の若者がその後を追い、さまざまな品物が泉に投げ込れるのでした。
後に「ユカタン事物紀」(Relacion de las cosas de Yucatan)を著したディエゴ・デ・ランダ(Diego de Landa)は、「若し、この国に金が在るとするならば、この泉こそ、その大部分を沈めている筈である」と述べています。

 この儀式も16世紀中頃には終わりを告げ、ユカタン半島がスペイン勢力に落ち、マヤ族の王国が滅亡してからは、一度も行われた事は在りません。
その後、聖なる泉の周囲は自然に戻りつつ在り、僅かに石造りの祭壇や荒れる任せた石畳が、その昔の面影を留めるばかりなのです。

◎ククルカンの墓

 今迄のお話は、ランダ神父の著作に記された事柄ですが、この記録を信じ、聖なる泉を調査、探検しようと志す者も居ます。
1885年から25年間に渡り、この地方のアメリカ領事を務めた、E・H・タムスンは、40年以上をユカタン半島で過ごし、精魂を傾けてマヤ族の遺跡を調査しました。
その長い期間の内に、彼は原住民の仕掛けた、毒ねずみの罠に係り足が不住となり、聖なる泉の調査では水中に潜って耳が不住になり、しかも幾度も風土病に悩まされ続けました。
彼は、チェチェン・イッツアを訪れた時、聖なる泉の伝説を知り、その真偽を確かめ様と考え、友人を口説き落として資金を集め、浚渫機器を揃えスキンダイビングを習得しました。

 タムスンは聖なる泉の最も有望と予想される位置に、浚渫機を設置し、泉の底を浚い始めました。
最初は、汚泥や木々の枝等が殆どで、この状態が長期間に及び流石に楽観主義者のタムスンも、自分の考えに誤りが有るのではないかと疑い始めたます。
しかし、ある日の事、浚渫機は香料の塊をすくい上げ、それから数ヶ月の間に、花瓶、香炉、矢尻、槍の穂、斧、金製の盤、玉の飾り等が次々と発見され、花嫁の伝説を裏付ける若い男女の遺骨も発見されました。
タムスンは潜水服に身を委ね、毎日聖なる泉の底に潜り、調査を続け結果、その発見した黄金の品々は、水鉢と杯、40枚に上る平皿、指輪20個、鈴100個、無数の金塊、金細工300個と膨大な価値のもので、泉の伝説を立証するに十分な発見でした。

 タムスンの発見は、聖なる泉の探索に留まらず、或る日の事、彼はククルカンの神殿の頂上にある祠の床を清掃していた際、その真ん中に、滑らかに仕上げられた大きな石蓋が存在する事に気づき、その石蓋を注意深く動かすと、その下に石壁で囲まれた大きな四角い穴が在り、縦穴の3.5m下の床には、長さ4m余りの大蛇がとぐろを巻いていました。

 彼は、大蛇を始末すると、その下から古い二人の人骨を発見し、その人骨の下には、最初と同様な石蓋が在り、その石蓋の下には更に別の縦穴の墓所が存在していました。
この様に同様な発見を繰り返し、5番目の石蓋を取り除くと、岩をくり抜いた階段が現れ、同じく岩を広げた部屋に辿り着きました。
この場所は、神殿の底部に位置するものと考えられました。

 階段とそれに続く部屋には、木灰が沢山詰まっており、可也の時間を費やして之を取り除き、床の上の石蓋に辿り着き、この下には更に大きな穴が開いており、その深さは15mに達し、其処には宝石の詰まった花瓶、真珠の首飾り、腕輪等が無数に散らばっていました。
ここは、位の高い神官の永久の寝室かも知れませんが、マヤ族の伝説に存在する、彼らの大指導者、有翼の蛇をシンボルとした、文化英雄ククルカンの墓所の可能性も在りました。

 タムスンの発見は、ハワード・カーター(Howard Carter)、カーナヴォン卿(Lord Carnavonn)による1922年11月、王家の谷に於ける、ツタンカーメン王墓の発見とは比べる事は出来ませんが、古代マヤ文明を世界に知らしめた功績は、多大なものと言えるでしょう。

続く・・・
2013/10/23

歴史のお話その242:語り継がれる伝説、伝承、物語㉛

<雨の神の花嫁(チェチェン・イッツア)その1>

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生贄の泉(チェチェン・イッツア)

◎チェチェン・イッツア

 メキシコ合衆国のパナマ地峡に近いユカタン半島は、現在沿岸部を除いて住む人間も殆ど居ない地域と成っています。
しかし、現在から500年程遡ったコロンブスのアメリカ大陸発見当時は、アステカ族よりも更に高度な文明を誇ったマヤ族が居住していました。
マヤ族に関する研究は、アメリカ人ジョン・エル・ステフェンス(John L、Stephens)やイギリス人フレデリック・キャザウッド(F、Catherwood)、探検家のアルフレッド・モーズレイ(A,P,Maudslay)等により、19世紀中葉よりユカタン半島現地に於いて調査が進められた結果、マヤ族の文化が少しづつ判明してきました。

 研究によれば、マヤ族は紀元68年頃、既に都市ウワハクトン(ホンジュラス)を建設していました。
彼等は120年間に渡ってウワハクトンに住み、その後24km離れたティカルに拠点を移動します。
ティカルには西暦5世紀初頭迄、マヤ族が居住した痕跡が、都市内に現存する記念物から推定されています。
ティカルの後、マヤ族は次々と遷都を繰り返し、終には紀元530年より629年の間に、中部メキシコの地域を遺棄して、北方のユカタン半島に移住しました。

 彼等は600年に渡る文化を捨て、地味の悪い地域に何故移住したのでしょう?
疫病の蔓延、戦争、凶作等結果なのかは、現在でも良く判っていませんが、一般には度重なる遷都や、ユカタン半島への大移動は、何れも凶作に起因するものと考えられています。

 マヤ族がユカタン半島に移住した時、農耕に必要な河川は殆ど存在していませんが、ユカタン半島北部には、之に代わる非常に大きなセノテス(自然湧水)が存在していました。
ユカタン半島は石灰質の土壌であり、その地下には無数の湖や河川が存在し、地殻が地下に向って傾斜すると、必ず地下水が湧き出しました。
マヤ族はこの豊かな水源を利用して、農耕を行い、飲料水として利用していきました。

 この地に建設された最大の都市が、チェチェン・イッツア(Chichen itza)で、ユカタン半島のほぼ中央部に位置し都市の近郊には、巨大な遊水地を2箇所も従えていました。
この遊水地は、地殻が40m程陥没した場所に出現した、深水湖であり、その直径は60m余り、両者はお互いに1.6km程離れています。
マヤ族はこの地で、十分な水を得る事が出来る為、都市の建設を開始したのでした。
因みに、チェチェン・イッツアとはマヤ語で「泉の口に在るイッツアの町」を意味しています。

 二つの泉の内一方は、住民の飲料水と田畑の灌漑に利用され、もう一方は神聖なものとして、雨の神ナホチェ・ユムチャックに奉げられました。
この泉は、水深20m、水面に達する為には更に20m以上も壁面を下る必要が在りました。
マヤ人はこの第二の泉が、陰鬱で神秘的な雰囲気に恐れを抱き、雨の神がこの深い泉の底に神殿を構えて住んでいると信じていたのでした。

 マヤ族の間に古くから伝えられた話では、12世紀から13世紀頃、彼等の場所に一人の異邦人が現れ、メキシコ人はこの人物をケツアルコアトルと呼称し、マヤ族はククルカン(有翼の蛇)と呼びました。
ククルカンは戦争捕虜として、チェチェン・イッツアに連行され、雨の神ナムチュ・ユムチャクへ捧げる生贄として、聖なる泉に落とされました。
しかし、ククルカンは溺れる事がなく、マヤ族は古くからの慣わしに従い、彼を救い神の位を授けました。
やがて、ククルカンはチェチェン・イッツアの支配者と成り、ユカタン半島最大勢力を持つ首長と成っていきました。
人々は彼を生き神として崇め、彼の為に神殿を建立したのです。

続く・・・

2013/10/22

歴史のお話その241:語り継がれる伝説、伝承、物語㉚

<マヤ・失われた栄光の文明>

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マヤ時代の村民生活(想像図)

 現在、メキシコ合衆国の一部になっているユカタン半島には、嘗てマヤ文明が栄華を誇っていました。
ヨーロッパ社会が、未だ中世の流血と混乱の暗黒時代に最中で在った頃、ここユカタン半島では、驚くべき文明が繁栄していたのでした。

 マヤの壮大な石造建築や宗教施設は、押し寄せる密林に飲み込まれ、何世紀もの間、人類の目に留まる事は在りませんでした。
マヤの都市は、整備された舗装道路で結ばれていましたが、是は石の擁壁の間に砕石を入れ、重い石のローラーで踏み固めた後、一種のセメントで固めたもので、簡便な方法ではあるものの、長期に渡って使用に耐えるものでした。

 是等の都市群は、現在、密林から整備され、過去を物語る記念物になっており、その中で最も印象的な場所は、チチェン・イツァでしょう。
ユカタン半島は、季節的な雨季を除き、雨量の少ない場所です。
その為、飲料水に不自由しない大きな泉の周辺に都市が発展しましたが、チチェン・イツァの町も5世紀ないし6世紀初頭に、同様な条件で発展した町の一つで、マヤ文明(文化)は、この町で開花したと言えますが、西暦987年頃、トルテカ族の侵入によって没落したと思われます。

 しかし、チチェン・イツァが最も繁栄の頂点に達した時代は、11世紀から12世紀であり、侵入したトルテカ族は、自己の文化とマヤ文化を融合させ、両者の特徴を兼ね備えた、数々の神殿や建物を建設して行きました。
有名な1000本石柱の神殿は、この時代に造営されたものです、

 マヤの都市では、如何なる場所でも存在する、球技場がチチェン・イツァにも在り、ポクアトクと呼ばれたこの球技は激しいゲームで、試合中に選手が、死亡する事もしばしば有ったと伝えられています。
球技場の石壁のレリーフには、選手が首をはねられている図柄が在り、又近くには、杭にかけられた頭蓋骨の図が刻まれている事から、このポクアトクには宗教的な意味合いを持った、儀式的性格を有しており、勝敗の行方によっては、命を奪われる事も有ったと想像されます。

  チチェン・イツァは生贄の井戸でも有名で、中心に在る大広場と270mの舗装道路で結ばれ、旱魃の時には、雨乞いの為、生贄が捧げられたのでした。

そして、チチェン・イツァの栄光の時代は、突然終焉を迎えます。
200年間に渡って、この町はトルテカ族の中心地としての役割を果たしましたが、1224年頃、住民達は突然この町を放棄して、他の部族がその後に入りましたが、彼らも又15世紀半ばに姿を消し、チチェン・イツァは永遠に見捨てられたのでした。

続く・・・
2013/10/21

歴史のお話その240:語り継がれる伝説、伝承、物語㉙

<アステカ族の奇習>

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アステカ帝国首都ティノチティトラン

◎生贄の石

 現在、メキシコ・シティーの国立博物館中庭に、直径約2m程の周囲に彫刻を施した、丸い石が置かれています。
之は、アステカ(Aztecs)族の「生贄の石」で、展示物の中で最も陰惨な物と云われ、この石の上でどれ程多くの人々が、生贄と成り命を落としたか解かりません。

 14世紀中葉、アステカ族は現在のメキシコ合衆国の首都メキシコ・シティーの存在する場所に、ティノチティトランと呼ばれる都を建設していました。
その後15世紀から16世紀初頭にスペイン人によって征服される迄、中部アメリカに於いて強大な国家を建設し、ある面に於いては、征服者スペインよりも高度な文明を誇っていました。
首都ティノチティトランは、当時のスペインの首都マドリードより人口が多く、住民は石造りのしっかりとした住居で生活し、金・銀・銅・石の細工に長け、織物を作り、彫刻にも秀でていました。
又、ピラミッド状の神殿を建立し、国王の宮殿は素晴らしいものであったと、云われています。

 彼等の信仰の世界は、複雑な多神教で、その巨大な建造物や絵画彫刻には、現代人の眼で見るとグロテスな物も多いですが、更に国家の宗教行事に於いて、夥しい人身供養を伴いました。
アステカの聖なる都、チョルーラには、彼等の最高神を賛美する為、一辺の長さが120mに及ぶピラミッド状の壮麗なテオカリ神殿を建立し、その頂上には、彼等の最高神を収めた社を設けます。
そして、毎年繰り返される、祭礼には当時メキシコ湾から太平洋迄広がっていた、アステカ族の全領土から巡礼者が参集し、多数の生贄が奉げられたのでした。
 
 15世紀末、コロンブスがアメリカ大陸を発見する、6年前、ある神殿拡張の為の祭儀には、その為に長期間に渡って蓄えられた、捕虜2万人を一度に生贄として奉げましたが、その犠牲者の列は3kmにも達した(!?)と伝えられています。

 ピラミッド状に成った神殿の階段を生贄となる人々の列が登り、羽根尾の付いた頭飾りを付け、盛装した神官達が進み、その後から大勢の巡礼者がついて行く、頂上の神像の傍らには、生贄の石が既に用意され、生贄と成る者は、一人一人裸にされ、5人の神官がその者の手足、頭をしっかりと押さえ、もう一人の神官が、黒曜石のナイフで胸を裂き、神像を取り出します。

 犠牲者の列は、人身御供と成る者達の悲痛な叫び声に、身も心も擦り減るような思いをしながらも、静かに死の行進を続けていきました。
2万人の捕虜が、生贄として供養される為には、延々4日間を要したと伝えられています。
後にスペイン征服後、あるスペインの調査隊は、アステカ族のテオカリ大神殿の近郊で、この様な方法で非業の死を遂げた、マヤ・モロック族の遺骨13万6千個を発見したと記録しています。

◎コンキスタドール

 スペインの下級貴族ヘルナン・コルテス(Hernan Cortez 1485~1547)は、若くして、キューバに渡り、1518年キューバ総督ディエゴ・ベラルクスの命により、メキシコの探検に向かいます。
彼は兵士400人と馬32頭、大砲を積んだ11隻の帆船に分乗しキューバを出帆、探検先の原住民勢力や土地について全く不案内な中、ベラ・クルスに上陸し、その時乗って来た総ての船を焼却処分しました。
(この話は有名で、映画「レッドオクトーバーを追え」でも紹介されました)
部下達はこの行為によって、完全に退路を絶たれ、原住民を征服するか、自ら死に至るかを選択する事と成りました。

 アステカ族の兵士は、大変良く訓練され、非常に勇敢な軍隊でしたが、コルテス軍の騎兵隊や最新鋭の大砲、戦闘用具に驚き、翻弄され、ひとたまりも無く殲滅されて行きました。
今回の戦いは、スペイン兵士1名対アステカ兵100人に換算される戦果と成り、次々と現れるアステカ軍を打ち破り、首都ティノチティトランに入城します。

しかし、コルテスには独断先行の傾向が強く、キューバ総督は、彼の指揮権を剥奪する事を決め、彼を召還する為、パンフィロ・デ・ナルバスをメキシコに派遣しました。
ナルバスは、スペイン兵の中でも特に勇猛果敢な兵士5名を選抜し、ベラ・クルスに上陸、土地の司令官にコルテス軍より離脱する様勧告しました。

 その司令官は、使者ナルバスの勧告を受入れる代わりに、彼等6人を捕らえ、コルテスの基は送ります。
6人は縄で縛られた上、荷物扱いで首都ティノチティトラン迄逓送しました。(!)
彼等は、飛脚の背中に括り付けられ、昼夜を分かたずベラ・クルスから首都ティノチティトラン迄、約320kmの道程を運ばれました。
その間、厳しい地形を30km毎に移し変えられながら、96時間を費やして、目的地に運ばれました。
人間を荷物扱いで300km以上の道程を運ばれた事実は、前代未聞の出来事で、6人の使者はコルテスの前に引き出され、すぐさま死の宣告を受け無残な最期を遂げます。
その後、アステカ皇帝アウテモクの反乱も鎮圧され、1521年8月、アステカ帝国は歴史的大破壊の後、首都ティノチティトランはコルテス軍の前に陥落しました。

 メキシコ・シティーの西部、ポポカテペトル(煙の山)とイストクシハウル(眠れる乙女)の2山が聳え、東部にはオリサバ山が聳えていますが、何れも5000mを遥かに超え、万年雪を頂く姿は、世界でも美しい山の一つに数えられています。
この3山の内、ポポカテペトルはアステカ族にとって最も神聖な山でした。
この山は何時も煙と轟音を上げており、ちょうどテオカリ寺院の真西に位置し、ピラミッドの頂上から太陽の沈む光景は、あたかも、ポポカテペトルに吹き上げる煙の中、その火口に吸い込まれる様に見えました。
その光景を合図に、祭壇の石の上の生贄に一撃が加えられました。

続く・・・
2013/10/19

歴史のお話その239:語り継がれる伝説、伝承、物語㉘

<エル・ドラード>

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エル・ドラード伝説の基とされる黄金の儀式を模した装飾品(コロンビア、ボゴタの黄金博物館所蔵)

 伝説の黄金の都、アンデスの何処かに隠された宝庫、エル・ドラードは、何世紀もの間、人々の心を虜にし、何百人と云う財宝探しの男達が、探索の途中で死んでいきました。

 驚くべき事に、エル・ドラードは都市の名前ではなく、ある男の名前でした。
エル・ドラードの伝説は最初、1513年という早い時期にバルボアと共に中央アメリカに侵入した、スペイン征服者を通じて、世界に広まりました。

 スペイン人をはじめ、ヨーロッパの人々は、南アメリカ大陸に向かって進む途中、今日のコロンビアの首都ボゴダに近い、標高2600mの高原に住む、太陽崇拝を行っている、チャブチャ族の話を耳にしたのでした。
言伝えによれば、この種族は、黄金を太陽神の金属として崇めており、彼らは黄金の装飾品を身に着け、何世紀にも渡って、建造物を金箔で覆ってきたと云う事でした。

 何人かの原住民は、山中の何処に在ると云う、黄金で満たされた聖なる湖の話を伝えました。
別の者達は、オマグアと呼ばれる都市で、全身金色に輝く族長を見たと語りました。
話が広まるにつれて、エル・ドラードは黄金の都と考えられる様に成り、古い地図には、場所こそ千差万別では在ったものの、エル・ドラードが示された事も有りました。

 1530年代には、ドイツとスペインがエル・ドラードを探索する為に、現在のコロンビアに何回か探検隊を送りこみましたが、山々の殆どは通行不可能で、食料が尽きると彼らは引き返す他に手段が在りませんでした。
隊員の半分以上は、原住民との戦闘で殺され、探検は失敗に終わったのです。

◎黄金の人

 チャブチャ族は太陽だけでなく、湖に住む神も崇拝しており、この神は何世紀も以前に恐ろしい罪から逃れる為、湖に身を投じた族長に妻で、彼女は其処で女神になって生きていると伝えられました。
近在のインディオはここに巡礼の旅をし、湖の女神に貢物を捧げ、そして、少なくとも年に1度は、湖は趣向を凝らした儀式の場所と成りました。

 部族民は、族長の体に、粘着性のある樹液を塗り、金粉を吹き付け、族長は頭から足の先迄、文字通り“黄金の人”と成り、彼は厳かな行列に加わり、湖に岸に置かれた筏迄導かれて行きます。
筏は、聖なるグアタビータ湖の湖心迄進み、族長は氷の様に冷たい湖に飛び込んで金粉を洗い流し、他の人々は、計り知れない程の黄金や宝石を湖に投げ込むのでした。

 グアダビータ湖は自在の湖で、1969年迄“黄金の人”を実証するものは何も在りませんでしたが、この年、二人の農場労働者がボゴダ近郊の小さな洞窟の中で、純金で作られた精巧な筏の模型を発見しました。
筏には8人の小さな漕ぎ手が乗っており、族長の堂々とした金色の像に背を向けて、筏を漕いでいました。

 現在でもこのグアダビーダ湖の調査は進んでいますが、湖水の冷たさと堆積した泥の為、めざましい成果は上がっていません。
岸辺や浅瀬で、若干の黄金やエメラルドが発見されたのみで、湖水の深みには、未だに“黄金の人”の捧げ物は眠っています。

続く・・・
2013/10/18

歴史のお話その238:語り継がれる伝説、伝承、物語㉗

<アンデスの白い人々>

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 スペインの征服者が、南アメリカの西海岸を征服するより、遥かな昔、インカ帝国の建国よりも前、ティアワナコは既に廃墟と成っていました。
其処で、栄華を極めた人々は既に去り、崩れた記念碑だけが残り、石の城郭を空高く築き上げた、偉大な建設者達の力量を物語っていました。

 ティアワナコは、海抜4000m、チチカカ湖の南岸、ボリビア・ペルー国境近くに位置し、この町は、紀元前100年から西暦1000年頃にかけて繁栄したものの、住民は文字による記録を一切残しませんでした。

 現在、私達が彼らについて、知っている事は、殆んど全て400年前、スペイン人によって書き残された伝説の基づいているのです。

 ティアワナコ人は家畜も、車輪も、コロさえも知らず、道具は石で出来た物しか存在しませんでした。
其れでも彼らは、40kmも離れた採石場から巨大な石塊を切り出し、起伏の激しい土地を越え、湖を渡って都迄運んだのでした。
此処で石隗は0.5mmの精度で研磨され、巨大建造物は造営されたのです。

 其処には、今尚、幾つかの大建造物の廃墟が残っています。
最大の物がアカパナで、自然の丘を人工的に削り、石で覆い、縦横それぞれ200m、高さ15mの大きさに仕上げられており、その近くには、130m四方のカラササヤが在り、この壁には推定重量150tの巨石が使用されています。

 カラササヤの門の向こうに、ティアワナコ文明の源を知る手掛かりとなる一つの彫刻が存在し、インカが後にビラコチャと呼んだ、頬に涙を流す創造神コンティキを刻んだものです。
インディオの伝説に因れば、コンティキは人間だったと云い、彼とその部下は、白い皮膚と青い眼をしていて、西暦500年頃ティアワナコにやって来たのでした。
恐らく、彼らは進んだ文明を持った平和な人々だったと思われ、インディヘナ達に建築と農業を教え、石造を建てたのでした。

 其の後500年位後、海岸地方のインディヘナがティアワナコに侵入して来ましたが、その白い人々は殆どが虐殺されましたが、指導者と若干の人々は海岸に逃れ、船に乗って太平洋の彼方に去って行きました。

 もう一つの手掛かりは、カラササヤの近郊に存在する、実物の2倍程の大きさの人物像です。
この像は、現在司教像と呼ばれており、本の様に見える物を持っていますが、1500年代にスペイン人に征服される迄、本という物は知られていませんでした。

 是等の手掛かりと伝説、考古学的検証から研究者によって、ティアワナコの歴史概略を描き出しています。
しかし、ティアワナコをその頂点に押し上げた、白い皮膚を持った外国人の素性も彼らが何処に消えたのか、知る事は出来ませんでした。

 フェニキア人は、キリスト教の時代が始まる遥か以前から、大西洋を航海しており、紀元前500年には、カナリア諸島に植民地も持っていました。
彼らは遠く、現在のブラジル沿岸に到達していた可能性が高く、その子孫が大陸を横断して、アンデス山脈に達した可能性も否定できないのです。
ギリシアの歴史家テオポンプスは、紀元前380年にジブラルタルの西に在る、広大な島の事を記録していますが、フェニキア人の航海者が、彼に南アメリカの事を語ったのでしょうか?

アイルランド伝説によれば、聖プレンダンは、西暦6世紀に大西洋を渡ったと云います。
この聖人が、南アメリカを訪れたと断言する研究者は、存在しませんが、アイルランドの修道士達が、大胆な航海者であった事は事実なのです。
彼らは、若木と獣皮で作られた、小船(コラクル)に乗り、少なくともアイスランドやグリーンランド迄航海しました。
あの司教と呼ばれる像は、祈祷書を手にした敬虔な神父であり、又インディヘナが想像した様に、悲しみの人、コンティキなのでしょうか?

 現実的には、南アメリカの西岸は、ヨーロッパより、アジアの方からが接近しやすく、中国の史書には西暦500年に、仏教の僧侶が太平洋を航海して、遠く離れた土地に赴いた事が記録されており、西暦1000年頃には、日本の漁船が嵐の為に風と潮流に流され、エクアドルの海岸に上陸した痕跡が有ると云われ(?)、当時日本よりも遥かに航海術に秀でていた中国が、その600年前にこの大航海を成し遂げたとしても、不思議では有りません。

 ノルウェーのトール・ヘイエルダールは、ティアワナコの白い人々が何処へ行ったかではなく、最初、何処から来たのかを説明しました。
西暦1480年頃、インカの皇帝とその部下が、アンデスに繁茂する非常に軽い木、バルサで作ったいかだの船団で、太平洋を越える長い航海を行った伝承が有り、その様ないかだは、海岸地方のインディヘナ達が遥か昔から使用していた物でした。
ヘイエルダールは、バルサのいかだを建造してコンティキ号と名付け、ペルーのカイヤオから西へ航海し、タヒチに近いラロイア島に到達しました。
この様にして、彼はティアワナコ人が如何にして、ポリネシアに逃れたかを証明して見せ、ティアワナコ人が実際にこの様な航海をした証拠として、彼は太平洋の多くの島々の石像が、ティアワナコのものと、信じられない程良く似ている事を指摘しています。

 更に1970年には、ヘイエルダールは、古代エジプト人が使用したパピルスの船を造り、ラー2世号と名付け北アフリカから大西洋を渡り、西インド諸島のバルバドスに達しました。
この大胆な航海で、彼は古代の人々が如何にして、東半球から南アメリカへ到達する事ができたかを証明したのでした。
彼らは、最初グアテマラやメキシコに居住し、時の経過と共に、南アメリカを殖民していったと考えられます。
現在、中央アメリカから南アメリカに文明が伝承した事は、学術上も認められ、ヘイエルダールが正しければ、白い人々、つまりは大海を航海する術を持った旧世界に人々が、ティアワナコを造営した事になるのです。

続く・・・

2013/10/18

歴史のお話その237:語り継がれる伝説、伝承、物語㉖

<太陽の処女その②>

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◎太陽の乙女達

 ピサロが、現在のペルーの地に上陸し、アンデス山脈を登り始めた時、初めて白人に遭遇したインカの民は、彼らを伝説の白い人ビラコチャと思い、友好的な態度を示しました。
ピサロはこのインカ人の心情を巧みに利用し、インカ帝国第13代皇帝アタワルパ(Atahuallpa)を姦計にかけました。

 時に1533年11月16日、現在のペルー共和国北部に位置する、カハマルカ(Cajamarca)の町でピサロとアタワルパは会見の時を持ちます。
ピサロとビンセント・デ・バルベルデ神父らの随行者は、皇帝アタワルパとの会見に臨み、バルベルデ神父は通訳を通し、スペイン本国への服従とキリスト教への改宗とを要請した文面を読み上げますが、通訳障害の為、アタワルパは神父によるキリスト教の説明に困惑し、使節の意図を完全に理解できてはいなかったと言われています。
アタワルパは、ピサロの使節が提供したキリスト教信仰について更に質問を試みたが、スペイン人達は皇帝の随行者を倒し、皇帝アタワルパを人質として捕らえたのでした。

 後日、皇帝アタワルパは、ピサロ一行がインカ帝国を訪れた本当の理由は、黄金に在ることを知り、今自分が軟禁されている部屋いっぱいの黄金と引き換えに、自由の身とされる事を申し出ます。
アタワルパが軟禁されていた部屋は、幅5.1m、長さ6.6m、高さ2.7mあり、1ヶ月後には、クスコの王宮や神殿、貴族から持ち込まれた黄金で、いっぱいに成りました。

 しかし、皇帝アタワルパはピサロの命令により、自由の身と成る代わりに、カハマルカの町の広場で、火刑の処せられましたが、インカ人は、皇帝をインカ=太陽神(神)と信じていた為、皇帝がスペイン人に殺されたのは、インカの民を見捨てて逃げ去ったのだと解釈し、反抗を止めてしまいます。

 ピサロの勢力は、先の13人に加え兵士154人、重火器1門、馬27頭でしたが、その戦力は皇帝アタワルパの率いる8万人のインカ軍を完全に凌駕していました。
ピサロを含めた14名の侵略者は、飽くことを知らず、略奪を繰り返して行きましたが、常に飢え、乾き、苦汁を強いられ、少しも状況は変わる事無く、彼らの内で最後まで生き残ったのは、3名に過ぎず、ピサロ本人は、アタワルパの身代金の内、57,000ペソの分け前を受けたものの、故国の土を踏む事は叶いませんでした。

 例えば、レギサーノと云う一騎兵は、戦利品の分け前として、インカ帝国の太陽神をかたどる、黄金品を手に入れましたが、たった一晩の博打ですっかり消えてしまい、以来スペインでは「フェサ・エル・ソル・アンテス・ケ・アマネスカ」(日の出前に太陽を使い果たす)と云う諺が有名に成りました。

 さてこれより先、クスコには一生を太陽神インカに仕える為、上流階級から選抜された清純な乙女達100人から成る「太陽の尼僧院」が存在していました。
ピサロの一隊は、クスコに入場するや、まずこの尼僧院を襲い、彼女達を虜にして隷属させ様と考えましたが、彼等がその場所に到着した時、既に一切の人間は残らず何処かに移動した後でした。
彼女達が、何処に身を隠したのか、全くの秘密とされ、誰も知る者も無く、恐らく太陽神の導きにより、何を逃れたのだろうと伝えられていました。

 其れから400年の歳月が経過し、100人の乙女達の事も伝承の彼方に消え去ろうとしていた頃、1911年、偶然の事から、この伝承が真実として語られる時が、やって来ました。
1911年7月、アメリカ合衆国エール大学考古学教授 ハイラム・ビンガム博士(Dr Hiram Bingham)と同僚のハリー・ワード・フォート(Harry Word Foote)、ウィリアム・G・アービング(Willam G,Erving)と共に、ウルバンバ渓谷のインカ時代の遺跡を調査した際、現地人ガイド、メルコール・アルテガに導かれて、マチュ・ピチュ(老いたる峰の町)を発見しました。

 ガイドは、「或る古い高台」を望見する為に、博士一行を禁断の山の頂上に案内します。
ビンガム博士一行は、道の険しさに、幾度もその希望を棄て様と考えましたが、熱心なガイドに励まされ、ようやく禁断の山の山頂に立つ事が出来ました。
その場所こそ、インカの伝承に在る「天使の建てた町」でした。
町の中央に在る神殿に近い神聖な墓地から、什器備品に混じって173体にも及ぶ遺骨が発掘されましたが、その内150人迄が女性であり、彼女達こそ太陽神インティに仕えた「太陽の乙女達」であると信じられています。

 1533年、ピサロの一隊がクスコに入城した時、身の危険を察した「太陽の乙女達」は、太陽神インティに仕える神官の案内で、神殿からウルバンバ渓谷に逃れ、更に険しい山道を辿ってマチュ・ピチュに至り、下界との一切の交渉を断ち、その生涯をこの町で終えたのだと考えられています。

伝説は次の様に伝えています。
太陽の乙女達は、年と供にその美しさも衰え、次第に年を重ね、一人又一人と此の世を去って行き、やがては数人を残すのみと成りました。
更に年月は流れ、疲れ、衰え、世を忘れ、世に忘れられ、終に残った二人の内の一人が世を去って行きました。
たった一人に成ったその人は、最後の墓に友を葬ると、既に語る友も無く、廃墟の中にただ一人、遠くの川の囁きを聞きながら、その時を待つばかりでした。

 帝国の最盛期、人口1,100万人を誇ったインカの民も現在その人口は、極めて少数に成っています。
彼らは、嘗ての首都クスコ(現在の人口30万人)で、彼ら本来の言葉であるケチュア語もスペイン語に変わりましたが、そのインカの昔話はケチュア語で、伝承されています。
現在のクスコは、インカ時代の基礎の上にスペイン式の建造物が並ぶ街で、嘗ての黄金で装飾された神殿や王宮は存在しませんが、モロッコのフェス、インドのバラナシ、サウジアラビアのメッカ、イスラエルのエルサレムと同じく、「太陽神の都」であり「聖都」なのです。

 スペイン人は彼らから、全ての物を奪い去って行きました。
土地、自由、富、信仰の対象である太陽さえも。

続く・・・


2013/10/16

歴史のお話その236:語り継がれる伝説、伝承、物語㉕

<太陽の処女その①>

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フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro、1470年頃 - 1541年6月26日)

◎太陽の王国

 コロンブスがアメリカ大陸に到達した頃、現在のメキシコから中央アメリカにかけてアステカ王国が、ユカタン半島を中心にマヤ王国が、そして南アメリカのアンデス山脈一帯にはインカ帝国(タワンティン・スーユ)が繁栄し、非常に高度な独自の文明を営んでいました。
インカの起源についての研究は、現在でも進められており、未だその成り立ちが確立されておらず、ケチュア族、アイマラ族の古くからの伝承によって、幾つかの説話が知られていますが、勿論歴史的事実として正式に認められている訳では在りません。

 ペルー共和国とボリビア共和国の国境を跨ぎ、アンデス山脈のアルティプラノ南部に位置するチチカカ湖(神の黄金の鉢)は、全長176km、最大幅46km、面積8,280平方km、標高3,810mに在り、南アメリカ大陸最大の湖であるばかりでなく、世界最高地点に位置する湖なのです。
古来、この湖はインカ人にとって、最も神聖な地域の一つに数えられました。
この天上の湖の中に大小40余りの島が存在していますが、伝説によれば、インカ初代皇帝マンコ・カパック(Manco Capac)とその妻ママ・オクリョが、太陽神の命令でインカの国を建設する為、地上に降臨した際、初めて第一歩を踏み出した場所であり、嘗てこの二つの島は、金と銀で固められていたと云います。
太陽神の子として、国民から尊敬されたインカ皇帝は、この島に宮殿と太陽神の神殿を建立し、黄金の太陽神像を創り、朝夕2回、聖なる湖に捧げものを投じたと伝えられており、現在、島には考古学上重要な遺跡が存在していいます。

 湖畔の土地は、耕作に十分は雨量を確保し、湖水の存在が冬季並びに昼夜の寒暖差を緩和する為、現在も多くのインティヘナが居住し、麦、ジャガイモ、とうもろこしを栽培し、リャマ、羊等を飼育しています。
ヨシの一種トトラ(バルサ)で作られた舟が一般に移動手段として用いられ、更に食料にも成っています。
チチカカ湖では、漁業も行われていますが、固有種は小魚が中心で、日本の援助でニジマスの養殖が行われています。

◎マチュ・ピチュ

 古代インカ人は、優れた民族で太陽を神と崇め、偉大な文化を築き上げて発展しました。
9世紀初頭、ヨーロッパ全土が暗黒時代の頃、インカ人はアンデス山脈の東側に居住し、標高3,000m余りの高地に、石造りの都市を建設し、この場所を「マチュ・ピチュ(老いたる峰の町)」と名づけました。

 町には400戸程の家々や神殿、宮殿も造営され、神殿の祭壇は100トンを越える、一枚岩で造られています。
石材の組立てには、モルタル等の接着剤を用いず、石と石の隙間が殆ど判らない位、巧みに組み上げられ、1,000年以上を経過した現在も、少しの狂いも生じていません。
これ等の石材を採掘した石切り場は、600m下の峡谷の底に在り、その巨大な石材を階段状のテラスを持つ町の頂上に運び上げたのか、又、鉄製品を知らない彼らが、如何なる方法で石材を切断し、組み上げたのか、近代建築史上大きな疑問なのです。
この地に古くから住んでいる、インティヘナの人々は、古代インカ人は「天使の建築家」が作業を援助し、魔法の技術で峡谷を横切り、巨大な石を断崖の頂上まで運んだと云います。

 200年の間、インカ人はマチュ・ピチュに居住しましたが、人口の増加に比例して、食料が不足した為、46km離れたアンデス山脈の西側に位置するクスコ高原に移住します。
スペイン人の記録によれば、12世紀初頭、マンコ・カパックの子シンチ・ロカ(Sinchi Roca)が、その妹ママ・クーラ(Mama Cura)を妻に迎え、当事クスコ渓谷に居住していたケチュア族(Quichua)の統治者と成り、彼もまた両親の様に、もはや神話上の人物では無く、既に歴史上の人物と成っていました。
ロカの孫マイタ・カパック(Mayta Capac、1195年~1230年)の時代と成ると、統治面積は更に広大と成り、更に第9代ハイナ・カパック(Huayna Capac,1438年~1471年)の時代、その領土は北部コロンビアから南はアルゼンチン北部乃至チリに達し、インカ帝国の最盛期を向かえ、人口は1,100万人を数えました。

 インカには文字が存在しませんでしたが、彼らは縄の結び目で数を記録する「キープ」と呼ばれる結縄文字を用い、その結び方や色で、意味を表しましたが、この方法を理解する為には、特別に教育を受けた専門家(キープカマヨ)が必要で、その数は限られたものでした。

 インカは、道路、つり橋、灌漑設備、城砦、宮殿、神殿を設計し建造し、鉱物資源である金を用いて、色々な細工物や神像を創り、更にインカ人の崇拝する太陽に見立て、金の持つ光を太陽神の象徴として扱い、神殿には大量の黄金製品を置きました。
スペイン人はこの噂を伝え聞き、黄金を手中に収め様と考え、この事がインカや先のアステカ侵略の大目的でした。

 1531年1月、スペインのコンキスタドール、フランシスコ・ピサロは、三隻の帆船に165名の兵士と27頭の馬を乗せ、パナマを南下しペルーに向う途中、現在のエクアドル沖で遭難し、辛うじて小島に上陸して難を逃れます。
スペイン国王は、直ぐに二隻の帆船を急派し彼らを救助しますが、ピサロの求めたものは、救助ではなく征服への糸口でした。
彼は、海岸の砂の上に剣で一本の線を引くと其れを眺める部下達に言いました。
「諸君!この線の向こう側には、辛苦と空腹、不毛の地と暴風雨、荒廃と死が待ち構えている。しかし、其れを乗り越えたなら、計り知れぬ富を擁した場所が待っている。線のこちら側は、安易と快楽、家庭と貧困が待っている。諸君!祖先を辱しめぬ立派なカスティリア人(スペイン人)と成る最善の道を選べ!私は言う迄も無く南に行く!」
ピサロに続いて、13人の若者が之に従いました。

 本国からの救助船は、ピサロを含めた14名を残し、旅立ちますが、大海原に浮かぶ小さな島には、食料も陸地に渡る舟すら無く、衣類も無ければ、武器も無く、更には之から向うインカに対する知識さえ在りませんでした。
只、インカ帝国に対して、自らが十字軍と成る事であり、ピサロは万難を排して13名の部下と共に海を渡り、インカ帝国攻略に立ち向かいます。

続く・・・
2013/10/15

歴史のお話その235:語り継がれる伝説、伝承、物語㉔

<老いたる峰の町>

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 ペルーのアンデス山中に在ると云う、インカの失われた都市の話しは、300年以上もの間、民間伝承以上の話しでは無いと、考えられていました。
伝承に因ると、インカの生き残りに人々は、スペイン人征服者の手による虐殺を逃れて、1533年、人間の近寄り難い、アンデス山中に逃れたと云う話しは、実際に信じられる話では有りませんでした。

 探検家は、長年この町を捜し求めましたが、その全ては徒労に終わります。
彼らはインカ帝国の首都で在ったクスコ近郊の未開な密林地帯を探索しましたが、大きな発見に繋がる痕跡を見つける事は出来ませんでした。

 しかし、エール大学の若いラテンアメリカ史助教授だったハイラム・ビンガムは、其れまでの探索が間違っている事を証明しようと決心し、1911年6月、彼は二人の友人と数名のインディヘナを伴い、別ルートを辿って、ウルバンバの渓谷沿いに、ロバの隊列を進めました。

 7月の或る雨の朝、ビンガム隊は侘しい気持ちで座り込み、失敗に終わりそうに思われた探検を、今後も継続するか議論していました。
その時、宿の主が川向こうの山腹を真直ぐに指差し、そこに行けば遺跡が見られる事を教えてくれたのです。

 常に楽観的な彼は、宿の主だけを連れて出発します。
二人はロバを引き、川を渡り、600mの斜面を攀じ登りました。
途中、別の二人連れのインディヘナに出会うと、彼らは水を分けてくれた上、「直ぐ近くに在る」段丘や古い家々のことを口にしたのでした。
度々の失望を重ねてきた後で在ったので、ビンガムはまだ半信半疑でしたが、それも長い事では有りませんでした。
丘を回ると、其処には彼が想像したより、遥かに美しい、失われた町が在ったのです。

 高さ約3m、長さ数百mにも及ぶ、見事な段丘が100段程も並び、築かれた雛壇には、苦労して谷間から運び上げた土が盛られていました。
この町マチュピチュは、下からの攻撃には難攻不落ですが、この町がなぜ、何時造られたのか不明のままですが、1400年代初頭、新しく帝国に加えられた地域の中心に砦として、造営されたと推定されます。

 この町は、建築学上の傑作でも在り、今から数世紀も前に、インカは車輪も使用せず、花崗岩の塊を、山上に運び上げ、その石塊はそれぞれ不規則な形に加工され、一つ一つが正確に組み合わされていきました。

 この町に最後に住んだ人々の運命は、永遠に謎のままでしょうが、不思議な事に人口の殆どは、女性で在ったらしいのです。
後にビンガムが再び此処を訪れた時、調査隊は埋葬窟で174体の遺骨を発見しましたが、其の内150体は女性のものでした。

 インカでは、其の帝国の至る所に多数の女子修道院を建て、もっとも美しい女性を集めて、貴族に仕え、宗教儀式を手伝う訓練をしていました。
スペイン人が、侵入した時、この「選ばれた女性達」と呼ばれた乙女達を安全の為に、マチュピチュに移動させたものとビンガムは考えました。
しかし、1533年、インカ帝国最後の皇帝アタワルパが、スペイン人によって処刑され、インカは征服された民となりました。
時が経ち、女性達も歳を重ね、やがて死んでいき、彼女達を守っていた男達は逃亡し、密林は再びマチュピチュを覆い、その挫折した歴史を語る人間は、誰も残りませんでした。

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続く・・・
2013/10/14

歴史のお話その234:語り継がれる伝説、伝承、物語㉓

<誤って発見された新世界>

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 「イエロ島は、カナリア諸島の最西端の島だ。
今その島が船尾の彼方に見えている。
そのイエロ島の島影が、ますます小さくなり、ついにかき消す様に水平線に消えた時、船乗り達は、信心深く十字を切った。
彼らの前には、見渡す限り島の一つも無い、大海原が広がり、夢と共に未知と恐怖の世界が、行く手に広がっていた」。

 しかし船長だけは、平静を装っていました。
彼は、昼夜の別なく船首を真西に向けて航海する様に命じ、4000km以上を航行したのでした。
そして、其れでも陸地が見えないと、船長は、偽の航海日誌をつくり、実際より短い距離を記載して、ヨーロッパ大陸から其れほど遠く無いように見せかけ、乗組員を安心させました。

 船は2隻の随伴船を伴い、際限なく広がる大海原を進んで行きました。
船の名前はサンタ・マリア号、船長の名前は、クリストバル・コロンでした。

 日増しに故国スペインは遠くなり、生きて再び故郷に帰れるのか、未知の土地に向かって航海の日々を重ねるにつれ、乗組員の心配は、増長して行きました。
しかし、クリストバル・コロンだけは、彼らの心配を他所にあくまでも航海を続け、反乱を起こすと言う彼らの脅迫にも怯みませんでした。

◎地球は丸い

 陸地が見えなくなってから32日、スペインを出帆した、1492年8月3日から69日目に、彼らは緑の葉がついた枝を海面からすくい揚げました。
翌日(10月12日)、この小艦隊は、原住民がグアナハニと呼ぶ島に到着し、コロンはこの島をサン・サルバドル(救世主)と命名し、スペインの領土である事を宣言しました。

 コロンは、自分が発見したのはアジア大陸東海岸沖の島々であると、死ぬまで固く信じていましたが、彼は、ヨーロッパの冒険家達に新世界を開いてみせた人物として、歴史に名前を刻んだのです。

 さて、この大航海について、多くの人々が事実として受け取っている多くの事柄には、誤りがあります。
例えば、この時代“地球は丸い、平坦では無い”と信じていたのは、なにもコロン一人ではなく、既に大部分の地理学者、知識人は知っていた事なのです。
彼が、インド亜大陸への新しい航路を発見する計画について、スペイン国王である、フェルナンドやイザベル女王に援助を申し出た時、是を拒否したのは、彼らが世界を平坦であると信じていたのでは無く、当時ムーア人の脅威と常に背中合わせで在ったので、果たして成功するか否かも解からない冒険にも近い行動に、国庫を傾けたく無かった事が事実なのです。

◎法外な要求

 コロンは、ついでポルトガルのホアン二世に、同様な働きかけを行いましたが、此方も了解を得られず、1491年再び、イザベル女王に援助を求めたものの拒絶されました。
女王が拒否した最大の理由は、彼の要求が余りにも法外であったからで、コロンは、この大航海が成功した時には、自分を大洋提督と発見した国土全部の総督に任命し、更に航海で発見した財宝の10%を自分の物とする権利を求めたのでした。

 その後、女王は心変わりして、彼のこの要求を受諾しますが、是は当時、スペインとポルトガルが、新世界発見をめぐって激しく競り合っていたからに他なりません。

 こうして、サンタ・マリア号はピンタ号とニーナ号の2隻の随伴船を伴い、世界で最も有名な航海に出帆したのでした。
総勢約90名、船毎も1名の医師が乗り、通訳も1名居ました。
コロンは、この通訳のアラビア語が、中国や日本(!)で役立つと考えたのです。

 さて、最初の航海で新世界に到達した彼は、美しいカリブ海の島々の間を航海して、数週間を過ごし、帰国の途に就きます。
彼は其の後も、この新世界へ三度の航海を経験しました。

 結果的に、余りにも野望が大きすぎた為、彼は女王に嫌われ、世の中に忘れ去られ、ひどい失意と落胆の内に、関節炎に苦しみながら、1506年5月20日に死亡しました。
皮肉な事に、彼が発見した大陸は、彼の友人で冒険家のイタリア商人、アメリゴ・ベスプッチの名前に因み、アメリカと命名されましたが、クリストバル・コロンの死から1年後の事でした。

補遺・クリストバル・コロン 流離の航海

 彼は、1506年5月20日、スペインのバリャドリードで死去、その地の教会に埋葬されました。
しかし、3年後、彼の棺はセヴィーリア近郊のトリアナに移され、それから更に32年後、遺体はサントドミンゴ(現:ドモニカ共和国)に埋葬し直されます。
しかし後年、ハバナに移され、更には1902年には又、安息を乱されセヴィーリアに移されたと考えられていました。

 1877年、サントドミンゴ大聖堂の地下に、新たな納骨堂が発見され、此処には”C,C,A”とイニシャルの付いた棺が在り、「クリストバル・コロン・アドミランテ(提督)」の頭文字と推定されました。
碑銘には、「輝く、有名な紳士、ドン・クリストバル・コロン」と書かれており、現在では、サントドミンゴ大聖堂の遺体が、本人の遺骸で或る事に間違いないと信じられています。

続く・・・


2013/10/13

歴史のお話その233:語り継がれる伝説、伝承、物語㉒

<アメリカ大陸の発見>

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 アメリカ大陸程、幾度も“発見”された土地は殆んど無いと思います。
諸説を総合すると、クリストバル・コロンが1492年にカリブ海の島に辿り着くよりも遥かな昔に、フェニキア人、アイルランド人、バイキング、ウェールズ人、中国人が“新世界”に到達している事になります。
特にアジア人は数千年前にアメリカ大陸を“発見”した点においてほぼ学会の説は一致している様です。
アジア人は、狭いベーリング海を越えてアラスカに渡り、北アメリカの南部と東部に広がり、更に南アメリカへと南下しています。

 中国人説は、近年、北京大学の研究者から提起された学説で、西暦459年、5人の中国人が太平洋を横断して、メキシコに到達し、6世紀の伝承では一人の仏教僧が、日本から東に7400km航海し、扶桑(フサン)と呼ばれる大陸を発見したと云います。
是は現在のアメリカ大陸で在るか否か、結論は出ていませんが、船が風と潮流の関係で、アメリカ沿岸に到達する事は在ったかも分かりません。
現在、その様な船や乗組員を物語る資料は、一切存在していません。

◎アイルランド人はアメリカに到達したのか?

 旅や旅行者の年代史研究の第一人者、サミュエル・エリオット・モリソンは、ノルウェーの伝承の中で、グリーンランドの近くの何れかの土地が、「白い国」「アイルランド大国」と呼ばれていると記述しています。
ビョルンと名乗るアイスランド人が、10世紀の終わり頃、船で西に向かったまま姿を消してしまいました。
それから長い年月が過ぎた頃、同じアイスランド人、グドリエフ・グンラングソンが、強い西風の為、何処かの土地で身動きが取れなくなり、原住民に捕らえられました。
彼らは、アイルランド語を話す様ですが、長老と思わしき人物が、彼を「粗野なアイルランド人」から救い出し、帰国させてくれました。
グドリエフはこの長老と思わしき人物が、ビョルンであると語りました。

 この話とは別の北欧伝説によると、西の国で捕らえられた男が、「白い衣服をまとい、大声で叫ぶ、布切れをつけた長い棒を持った」白人達を見たと報告しています。
この話をモリソンは次の様に解説しています。
「アイルランド人の宗教儀式の行列が、この人物の眼にどのように写ったか推測して欲しい。しかしながら、アイルランド人が9世紀や10世紀に、現在アメリカ大陸と呼ばれている土地に辿り着いたとしても、彼らは帰ってこなかったし、それを物語るものを、何一つ残しはしなかった。将来何時の日か、アイルランド人が、アメリカに到達した確実な証拠となる異物が発見されるかもしれない。しかし、その時が到来するまで、我々は掴み所のないアイルランド植民地の話を立ち込める霧を通して、垣間見る事しか出来ない」。

◎ウェールズ人説

 これ以上に捕らえどころの無い話が、ウェールズ人の話で、マドク・アプ・オウェイン・グイネス殿下が、1170年にモビール湾に上陸、ウェールズ語を残した事に成っています。
ミズーリ川上流の色白のインディアン、マンダン族はこのウェールズ人の子孫であるとの説も存在しますが、これは単なる空想に過ぎず、研究者はこの説の矛盾、誤りをはっきりと指摘しています。

◎スカンジナビア人の発見

 スカンジナビアの人々が、“新世界”を発見した事は、資料や遺跡、グリーンランドで発見された墓地、ニューファンドランドの考古学的発見から、しっかりとした根拠が存在します。
しかし、スカンジナビアの人々が、北アメリカに定住したという、確実な証拠は、存在していません。

 伝承によれば、ノルウェー人ビジャーニ・ヘルユフソンが、986年にグリーンランドに向かう途中、強風の為針路を外れ、アメリカに達したと云います。
それから約15年後、グリーンランドを発見し、殖民地にしたレイブ・エリクソンは、ビジャーニの語った、平坦な森林地帯を見つけてやろうと決意し、やがて彼は、「野生の葡萄や自生の小麦が育っている場所」に行き着き、この場所を「良き国・ビンランド」と名付け、ここに小屋を建てて冬を越し、又船に乗ってグリーンランドに帰って行きました。

◎ビンランドの謎

 其れから7年後、グリーンランドの商人、ソーフィン・カールセブニが、レイブのビンランドに植民地を建設しようと試み、約250人の入植者と共に、レイブの入植地に上陸しました。
しかしながら、後に原住民と衝突し、グリーンランドに引き上げます。

 このビンランドが何処の場所を指すのか、この問題を廻って研究者の果てしない憶測が繰り返されました。
レイブが野生の葡萄を見つけたのなら、ノバスコシアか、ケープコッド付近と思われますが、ニューファンドランドのランソー・メドウズでの発掘調査から、この土地が、レイブの入植地で在った事は保々確実と考えられています。

◎遺物か?ジョークなのか?

他の遺物の発見を根拠として、スカンジナビアの人々が更に内陸へ進んだとする説も存在します。
西暦1000年頃オンタリオに、1362年にはミネソタのレッド川渓谷に入ったとする説で、オンタリオの墓地で発見された、バイキングの剣、斧、楯の鉄製品は、研究者から本物と鑑定されました。
しかし、サミュエル・エリオット・モリソンは是等の遺物をジョークであるとして、一笑に付しています。

◎クリストバル・コロンの登場

 終に1492年、クリストバル・コロンが大西洋を横断して“新大陸”に到達しました。
最も彼には、その場所が何処か分からず、それをアジアの一部と思い続けていました。

現在でも研究者の間では、アメリカ発見について、調査研究が進んでいますが、当時の混乱ぶりをマーク・トォーエンは次の様に語りました。
「多くの研究者は、既にこの問題の実態をひどくぼかしてしまった。もし彼らが今後もこの様な事を継続すれば、我々はやがて、この事象について何一つ解明できない事になるだろう」。

続く・・・


2013/10/12

歴史のお話その232:語り継がれる伝説、伝承、物語㉑

<リビングストン博士とアフリカ大陸>

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リビングストンとスタンレー

 デービット・リビングストン博士は、地球上の未知の世界に次々と新しい光を当てて行きました。
博士程、多くの地域を人類に紹介した人物は、他に居ないと思います。
博士の成功の鍵は、強烈な信仰心と薬箱と、誰に対しても変わらぬ態度でした。

 博士が、アフリカにやって来たのは、全くの偶然に過ぎませんでした。
1813年、スコットランドのブランタイアで生れ、10歳の時、紡績工場に働きに出され、1日12時間も労働して、学費を稼ぎ、グラスゴーの医学校を卒業すると、医療伝道師として中国に渡りました。

 しかし、博士の夢と希望は、アヘン戦争の前に空しく消し飛び、この戦争の結果、中国に於いて、医療伝道活動を続ける事は不可能で、1840年、彼はアフリカ行きを決心します。
この時、27歳でした。

 19世紀に於いても、広大なアフリカ大陸のその大部分は、未知に世界で有り、欧米の人々にとって、其れはまさしく「暗黒大陸」で、人が足を踏み込む事が出来ない、疫病のはびこるジャングルに、原住民や未知の猛獣が住んでいる世界だったのです。

 博士が初めて、アフリカに赴いた時、探検に関心は有りませんでした。
キリスト教伝道団を組織して、医療奉仕を行う事がその第一目的でしたが、数年の内に“旅行熱”に取り付かれました。
後に博士が書いている言葉を借りれば、「未開、未探検の国を旅するという単なる喜びが、非常に大きかった」のです。

◎未知の世界の探検

 徒歩で、又はカヌーに乗り、時には水牛の背に跨り、アフリカ大陸南部の各地を巡り、この旅にはいつも薬箱と聖書、そして伝道に使用する、幻燈機を携えていました。

 博士は素晴らしい語学力を持ち、観察力や洞察力も鋭く、アフリカの人々とも、当時の白人としては、極めて親密でした。
この様な人柄でしたから、知性豊で同情的な眼で、アフリカの文化に接する事が出来、其れを外部の世界に、初めて紹介する事が出来たのだと思います。

 彼は、アラブやポルトガル商人が行っていた、おぞましい奴隷売買の実情を世界に知らせ、自分の眼で見た、この悲惨な実情にショックを受け、生々しい実地報告を行い、ヨーロッパの世論を湧き立たせ、奴隷商売廃止の運動を起こさせました。

 その上、博士は、詳細な海図や地理学的な報告を、ロンドンの王立地理学会に送った他、珍しい病気や保健問題に関しても、詳細な記録を作りあげました。
やがて、博士は、アフリカをキリスト教の土地にする為には、アフリカ人自身に行わせる以外の方法は無いと確信する様に成りました。
白人の成すべき事は、利益の大きな奴隷商売に変わる商売を、アフリカに持ち込んでやる事であると考えたのです。

 博士は、医療伝道師としての役割を放棄した訳では在りませんでしたが、1851年のザンベジ川発見は博士の生涯における、大きな転機と成りました。

 博士は、1844年に伝道団仲間の女性と結婚し、数人の子供を設けましたが、その内の一人が、まだ幼児のまま熱病に感染して死亡すると、心配の種を根絶する為、家族をケープタウンに連れて行き、其処からイギリスに送り返してしまいます。

◎アフリカ横断

 一人に成り、自由の身に成った博士は、六分儀とクロノメーターの使用方法を学ぶと、航行可能な大きな水路を探索し始めました。
この様な水路が、発見出来れば、ヨーロッパ人の前にアフリカの門戸は開き、キリスト教も商売も活発に成ると考え、其れから数年間に、博士は、大西洋岸のアンゴラからモザンビーク海岸迄行き、アフリカ大陸を横断した最初の白人と成りました。
1856年、イギリスに一時帰国した時は、熱狂的な歓迎を受け、初めての著書「南アフリカ伝道旅行記」は、忽ちの内にベストセラーと成ります。

 間もなく、博士は、アフリカに戻り、今回は、東アフリカ担当の”陛下の領事“として、伝道団と離れ、産業化を目的とした大遠征隊を率いていました。

 しかし、博士は、遠征隊の数々の問題を抱えて、身動きが取れなく成り、荷物を運ぶ人員の大部分が脱落した事や、何トンにも及ぶ食料、装備、更には政府から給付された、大きな川舟が隊の足枷に成ったのです。
最大に問題は、リビングストンに指導力が欠落していたうえ、頑固で仲間のイギリス人との関係は、崩壊寸前迄に成っていました。
遠征隊は、終に1863年、解散してしまいます。

◎ナイルの源流を求めて

 1866年、博士は再び、王立地理学会の依頼でナイルの源流を探索する、探検に出発します。
博士は一人に成れた事を喜び・・・もっとも極少数のアフリカ人従者が居ましたが・・・ましたが、博士自身の体がマラリア、赤痢等の病気に罹り、衰弱していきます。
しかし、ナイルの源流を突き止め様とする、決意は変わらず、タンガニーカ湖周辺の分水嶺を調査中に食料も尽きはて、博士一行は、ウジジの町で休養を取らざるを得なく成りました。

◎スタンリーの登場

 其れまで定期的に送られていた、手紙が止まり、博士の消息を危ぶむ声が日増しに増大する中、1871年2月、ヘンリー・モートン・スタンリー記者が、ニューヨーク・ヘラルド紙の特派員として、リビングストン博士捜索に旅立ちました。
スタンリーは、食料を始めとする資材、物資を充分に準備し、キャラバンを編成して、ザンジバルを出発し、リビングストンの消息を知らせる手掛かりを追って、ほぼ9ヶ月後の11月10日、ウジジの町に到着しました。

 スタンリーは、其処で探検家リビングストンの疲れきった姿を見ました。
彼は、幕舎の前の空き地に建ち、自分を救出する為に、こんなにもはるばる遣って来てくれた事に驚き、救援隊を見つめていました。
二人のこの出会いを、スタンリーは自伝の中で、次の様に書いています。

 “私は、彼の所へ歩いて行き、ヘルメットを取り、お辞儀をしておずおずと言った。
「リビングストン博士でいらっしゃると思いますが?」
如何にも誠実な笑いを浮かべて、彼は帽子を脱ぎ、ただ一言「イエス」と答えた。
是で私の疑念は一切消え去り、顔には隠し様も無い、心からの満足感が広がった。
私は手を差し出し、「お会いできる様にして下さった神様に感謝します」と言った。
彼は暖かく私の手を握り、優しい声で話をした。
私も彼も心から感動している事を感じた。
彼は言った。
「貴方をお迎えできて、本当に有り難く、感謝しています」と。“

◎遣り残した多くの仕事

 スタンリーの救いの手が、早すぎた訳では決してなく、博士の病状は、非常に重く成っていたのでした。
ロンドンに帰れば、歓呼の声で迎えられる事は確実ですが、スタンリーが帰国を勧めても、決して耳を貸そうとしませんでした。
「私は、まだたくさんの仕事をしなければ成らないのです」と博士は語り、4ヶ月後スタンリーは引き上げました。
医薬品や食料を充分に補給して貰った博士は、再びナイル源流探索の旅に出かけました。

 しかし、博士に残された寿命は、もう長く有りませんでした。
数ヶ月の内に、体力は更に低下し、担架で運ばれる事も有りました。
1873年5月1日の朝、従者が博士の小屋に入って行くと、博士はベッドの側に跪き、両手の上に額を載せ、ちょうどお祈りをしている様な姿でしたが、いくら起こしても、二度と目覚める事は有りませんでした。

 村から村へと、この悲報は伝わり、何千人ものアフリカ人が遣って来て、最後のお別れしました。
博士の従者である、スージーとチューマは、博士の故国の人達が遺体を引取り、埋葬したいと思っている事を知っていましたから、二人は、博士の心臓だけを取り、其れが属する場所、アフリカの大地に埋めたのです。
そして、遺体はザンジバルから故国に運ばれ、ウェストミンスター寺院に安置されたのでした。

続く・・・




2013/10/10

歴史のお話その231:語り継がれる伝説、伝承、物語⑳

<レオナルド・ダ・ヴィンチの裏文字>

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 ルーブル美術館にある「モナ・リザ」或は「ジョコンダ」と云われる美しい女性の肖像画は、描かれている唇の両端を僅かに上げた微妙な表情は“謎の微笑”と呼ばれています。
「モナ・リザ」を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチと云う名前を聞くと、私達は天才画家と連想しますが、彼は画家とは一口で言えない人物でした。

 ダ・ヴィンチの活躍した15世紀から16世紀の頃、イタリアは「ルネサンス(文芸復興)」と云われ、ミケレンジェロ、ラファエロ、ボッティチェリ等、天才的な画家や彫刻家達が、次々と登場した時代で、芸術の分野のみならず、建築、文学、科学にも多くの人物が、登場した時代でした。
その上、この当時の人々の才能は、一つの方面にだけ特に優れて発揮されたのでは無く、一人の人物が多方面に、同時に才能を示したので、彼等を「万能の人」と呼び、ダ・ヴィンチもその一人でした。

 彼は、ミラノのロドヴィゴ公に仕える時、自分の推薦状を自ら書きます。
その推薦状は、10ヶ条から成り、自分は橋、攻城機、大砲、船舶の設計制作に優れ、最後の部分に、彫刻、絵画も得意であると書きました。
以上から推察される様に、ダ・ヴィンチは彫刻、絵画を自分の才能の一部と思っていた様です。

 彼は、あらゆる事象に関心が有り、見聞した事や自分の発想を記録していました。
現在でも是等の記録は、6000ページに相当する数が現存し、イタリア、フランス、イギリス等の図書館、博物館に所蔵され、又その大部分は、文献として出版され、私達も見る事ができます。

 処が、この文書は、大部分が不思議な文字で書かれ、行は右から始まり左方向に向かっており、その一文字一文字が、裏返しに成っていて、鏡に写して見ると、普通の文字として判読できるの事から「鏡書き」等と呼称される事も有ります。
その上、短い単語が組み合わされたり、長い単語を短く切断したりされており、文節、文法も無視され、省略は至る処に存在する為、大変読み難く、理解し難いものと成っています。

 なぜ、ダ・ヴィンチは裏文字を書いたのでしょうか?
彼は晩年、リューマチか神経痛で右手が不住に成ったと云われていますが、問題の裏文字は、20歳代から既に始まっており、最初の頃は、所々に少し混じる程度ですが、見受けられるので、単純に病気の為だけでは成さそうです。
彼の生きた時代は、教会勢力の強い時代で、異端審問も可也の頻度で行われていましたから、彼自身の本当の考えが外部に洩れる事を恐れて、わざと読み難い文字を使用したのではないか?と考える説も在ります。
当時は、捕らわれない心で自然を見、理性で物事を判断する人間が現れはじめましたが、その様な人々の中には、正統な神を信じない人は“異端者”とされ、処刑される者も多数に上りました。
ダ・ヴィンチは、異端者と疑われる事の無い様に、自分の手記記録を他の人物に読まれる事が無い様に、判り難い文字で書いたのだと思われます。

 もう一面として、彼は多分、“左利き”で在った為この様な文字を書いたのではないか?との疑問も存在します。
美術書に因れば、彼のデッサン類を深く見聞すると、陰影の部分に引かれた細い影付けの線が皆、左上から右下に向けて描かれています。
普通は、右上から左下へ線を引きますが、是は彼が左利きの為左で描いた為で在り、先に述べた記録は、他人に見せる事を前提にしていないものなので、書き易い左手を使った為、裏文字に成ったと推測されます。
その為、他人に読んで貰う書面、先の10ヶ条の推薦書は、普通の文字で書かれています。

続く・・・
2013/10/09

歴史のお話その230:語り継がれる伝説、伝承、物語⑲

<ロスチャイルド>

ロスチ~1

 まずは、映画の1シーンとして想像してみて下さい・・・。
“1815年6月20日、ロンドンの証券取引所に、ある男が入って来た。
その男の首は短く太く、腹は突き出していたが、青ざめた顔色をし、肩をがっくりと落し、疲れきった様子をしていた。
取引所の人々は、「ロスチャイルドだ。ロスチャイルド」だと囁いた。
当時、ロンドンの金融業界で、このロスチャイルド家の三男、ネイサンを知らない者は居なかった。
又、彼がイギリス政府を財政的に援助し、ナポレオンの野望を砕く為に、その膨大な財力を傾倒している事も、人々は良く知っていた。“ (参考:オスチャイルド家-世界を動かした金融王国-)

 1815年6月18日、イギリスのウェリントン将軍指揮下の同盟軍とナポレオン軍が、ベルギー、ブリュッセル郊外のワーテルローで、早朝から激戦を繰り返し、その日没に成ってもその勝敗は決定しませんでした。
証券取引所に居た人々は、ネイサンが一言も言わなかったのに、彼のやつれた表情を見て、イギリス軍は敗北したのだと勝手に解釈した結果、公債や為替相場は、大暴落し、恐慌状態に落ち入りました。

 しかし、実際に勝利を掴んだのは、イギリス軍を中心とした同盟軍で、その勝敗は18日夜に決定したのでした。
イギリスの中で、このニュースを一番初めに掌握したのは、ネイサン・ロスチャイルドで、時のイギリス政府に公報が入るよりも1日早かったのです。
イギリス政府がワーテルローの結末をしったのも、公式の使者が到着する以前に、まず彼から聞かされたのでした。
当時は、電話も電信も無く、更にワーテルローの戦いの日は、風雨が強く、夜には暴風雨に成り、英仏海峡を渡る船は在りません。

 ネイサンは、情報を入手すると、証券取引所に出向いて、暗い表情をして見せ、裏では部下に命じて、為替や公債を出来得る限り買い集めさせます。
やがて、イギリス軍勝利の公報が入り、一般に広まると、相場はぐんぐん上昇し、こうして、ネイサンは、1日にして巨額の金を手にしました。
是がネイサンの常套手段で、良いニュースをいち早く手に入れ、まず派手に売りに出、裏で密かに買い込み、やがて、ニュースが一般に広まると、相場は上昇し、彼は、ごっそり儲かる寸法です。

 ロスチャイルドの早耳は、こうして有名に成り“この一族には、不思議な予知能力が有る”とさえ言われました。
又、伝書バトを利用したとも云われており、昭和の初期、まだカラー作品が少なかった頃「ロスチャイルド」と言う映画が作られ、その中では、伝書バトがワーテルローの戦果を知らせていました。
当時、ネイサンは、実際にワーテルローの戦いを見に行った等と言う、デマも飛び交った程、驚異であったと思います。

 ロスチャイルド家は、以前ロートシル家と云い、その初代マイヤーは、ドイツのフランクフルトのユダヤ人街に住んで、両替や貴金属売買の商売し、その後金融業を始めて、瞬く間に成功をおさめ、諸侯や貴族に迄、融資を行う様に成り、1806年ナポレオンが大陸封鎖令を出すと、その法律をかいくぐり密輸でも成功します。
マイヤーの五人の息子達は、長男をフランクフルト、次男をウィーン、三男をロンドン、四男をナポリ、五男をパリにと、ヨーロッパの主要都市に居住し、手を結び協力し合って、家業である金融業を大きなものにしていきました。

 彼らの金儲け手段の一つは、徹底した賄賂戦術で、各国の重要な地位を占めている者には、惜しみなく金銭を贈り、利益を無視して、便宜を図り関係を深くして、結局、裏でごっそり儲けるのです。
もう一つは、通信網を作り上げ、ニュースを他よりもいち早く知る事でした。
ロスチャイルド家は、ヨーロッパの主要都市に部下を配置して、必要が有れば彼らの間を、何時でも飛脚が走り、この様な独自の通信網の他に、ヨーロッパの駅馬車組織を独占していた、テュルテン・タキシス家と深い関係を結んでいました。

 各国の高官には、賄賂で取り入り、重要なニュースは直ぐ彼らから伝えられ、その上、ロスチャイルド家は密輸を行っていたので、英仏海峡には、船がいつでも配備され、どんな悪天候にも耐えられる、多数の水夫が雇われていました。
当然、ロスチャイルドも伝書バトを使ったかも知れませんが、ワーテルローの戦いの夜が、暴風雨であったなら、伝書バトは余り役に立たず、以前よりロスチャイルド家が、熱心の作り上げた通信網の成せる技で在ったと思われます。

続く・・・

2013/10/08

歴史のお話その229:語り継がれる伝説、伝承、物語⑱

<アンクル・サム>

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 食肉缶詰工場を経営する、ウィルソン兄弟は、日頃から自分たちの工場は、1日に牛150頭を処理し、缶詰にする能力が有るので、ニューヨーク州一だと自慢していました。
その様な時、アメリカとイギリスが1812年に戦争に突入した時、自身満々の兄弟は軍隊に樽で、牛肉と豚肉を供給する契約を取り付けました。
兄のサミュエル・ウィルソンは得意満面で、その陽気な性格から、可也の人気者で、アンクル・サムと呼ばれていたのです。

 或る日、彼の工場を訪問した人物が、樽の総てにE.A.-U.S(政府側の契約者エルバート・アンダーソン、アメリカ合衆国の頭文字)のスタンプが押してある事に気づき、工員の一人にこの文字が何を意味するか尋ねました。
「知らないよ」と工員は答えましたが、訪問者はすかさず、「エルバート・アンダーソンとアンクル・サムの事かね?」と言ったと云います。

 之は、後に長く語り継がれるジョークと為り、訪問者や工員が、この話を周囲に広めて行きました。
1830年代に漫画家が、題材として選び始め、サムは1854年にこの世を去りましたが、ついに議会が彼の名前を、国民の心に永遠に残すように取り計らい、1861年、サミュエル・ウィルソンをアメリカ合衆国のシンボルと公式に認める決議が採択されました。

 因みに、イギリスのまるまると太った陽気なマスコット、ジョン・ブルには、アンクル・サムの様なモデルになった実在の人物は存在しません。
1712年に「法律は底なしの穴」の題名で出版されたジョン・アーバスノットの不器用な政治風刺文学で、ジョン・ブルは誕生したのでした。

 この本は後に「ジョン・ブル」の歴史と呼ばれる様に成りましたが、その中でジョン・ブルがイギリス人を、リュイス・バブーンがフランス人を、ニコラス・フラッグがオランダ人を代表していました。
しかし、ジョン・ブルだけが、歴史家、評論家、漫画家の心を捕え、彼らによって不朽の存在となったのでした。

続く・・・


2013/10/07

歴史のお話その228:語り継がれる伝説、伝承、物語⑰

<ロンドン搭の二王子>

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 17世紀末にロンドン搭の階段の下で、少年の遺骨が2体発見された時、古い伝説がようやく立証されたたかに見えました。
残忍な王リチャード三世は、幼い甥達を暗殺したこの上なく非常な叔父と、語り継がれています。
しかし、この伝説を誰かがによって、確証されている訳では有りません。
リチャードとロンドン搭に幽閉された王子殺しを描いた、シェークスピアの戯曲を通じて、王の悪名は広く知られる事となりました。

 しかし、ながら歴史家の一部には、もしリチャードを今日の裁判にかけたら、証拠不十分で不起訴になるという意見があります。
確かに新しい証拠によっては、事件は全く違った展開を見せる可能性もあるのです。

 1483年にエドワード四世が崩御した時、弟のリチャードは国王の摂政と成り、エドワードの王子達、幼い国王のエドワード五世とその弟、ヨーク公リチャードの後見人を任命されました。

 エドワード五世の載冠式の準備がロンドンで進められていた時、リチャードはノーザンプトン近くのストーニー・ストラトフォードに馬を走らせ、少年王をロンドン搭に連れ戻しました。
弟のヨーク公も母親の手でウエストミンスター寺院の内陣に匿われていましたが、程なく兄の居るロンドン搭に移されました。

 搭の中庭で兄弟の遊ぶ姿が、幾度か見かけられましてが、その後少年達は、公衆の面前から永遠に姿を消してしまいます。
トーマス・モアはリチャード三世伝の中で、彼が少年達を枕で窒息死させたと書き記しましたが、其れは30年以上後の噂話でしか有りません。

 リチャードが王子達を暗殺して、得をするような立場にあったかについて、確かな証拠は存在せず、父王の死後、僅か2ヶ月目に少年達はロンドン搭の説教師達から、正統な嫡子ではないと指弾されていました。
彼らの母親、エリザベス・ウッドビルと1464年に結婚する以前、エドワード四世はシュロウズベリー伯爵家の娘と婚約しており、当時、この様な正式の婚約には、結婚そのものと同様の拘束力が存在した為、王の結婚は法律的には無効でした。
つまり、合法的な王位継承者はリチャードだったのです。

 しかし、リチャードが少年達を暗殺したのでは無いとすれば、誰が手を下したのでしょうか?
少なくともそうする動機を持っていたのは、誰なのでしょう?
研究者の間では、ヘンリー・チューダーであった可能性が強いとする意見が多いのも事実なのです。
後に、1485年ボスワースの戦いでリチャード三世を倒し、ヘンリー七世となった人物、其の人です。

 ヘンリーはエドワード七世の庶子の曽孫で、其の為、王位継承順位から締め出されており、王位に就く為には、力に頼らねば成らず、彼は自分の地位を築く為に、ロンドン塔の王子達の姉、エリザベスと結婚し、エリザベスを王位継承者として布告します。

 しかしながら、リチャードの場合同様に、ヘンリーの有罪を立証する証拠も又存在しないのです。
只、少年達は叔父の手によって殺されたと、ヘンリーが公表したのは、ようやく1486年7月16日、リチャードの死後ほぼ1年を経過してからでした。
ヘンリーは、王座を獲得するやいなや、リチャードの残忍さと暴君ぶり暴き立てた彼が、なぜ幼児殺しの告発をそれ程にも遅らせたのでしょう?

続く・・・
2013/10/05

歴史のお話その227:語り継がれる伝説、伝承、物語⑯

<ブルボン家の継承者>

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 フランスの皇族、ブルボン家の正統な継承者が、今も世界の何処かで、富と名声を相続する権利が、自分に有るとも知らず、ひっそりと暮らしているかも知れません。
ルイ16世とマリー・アントワネットの間に生れた皇太子ルイ・シャルルは、1795年に“死亡”したと成されていますが、彼が子孫を残した可能性も有るのです。

 国王夫妻が1793年に処刑された時、ルイ・シャルルは投獄されて、革命政府の処置を待っていましたが、17ヶ月後、彼は10歳で死亡したと発表されました。

 遺体を検証した5人の人物は、皇太子に間違いないと証言しましたが、生前の皇太子を見た人物はその中に存在せず、又一緒に投獄されていた彼の姉は、死亡後の皇太子の顔を見ていません。
葬儀が行われた時、年端の行かない少年を入れるにしては、棺が大きすぎるとして、人々は不思議がりましたが、その後、様々な事柄を繋ぎ合わせてみると、遺体のすり替えが在ったのではないかという、疑惑が発生したのでした。

◎身代わり

 皇太子の牢番を命じられていた夫婦者が、職を離れる時、皇太子は悪戯盛りの9歳でした。
処が、それから7ヶ月後、後にフランスの独裁者と成ったポール・バラス将軍が獄舎を訪れた時、少年は重い病の床に在りました。
少年の健康状態が驚く程に急変した事情を、牢番をしていた女性が20年後、尼僧の前で懺悔したのです。
牢番夫婦が密かに、別の少年を牢へ連れ込んだのでした。
夫婦は職を離れる日に、皇太子と身代わりの少年を入れ替え、その女性は一言最後に付け加えました。
「私の王子様は、死んでいません!」

 ポール・バラス将軍の獄舎訪問に続いて起こった出来事が、女性の話しをある程度裏付けたのです。
新しい牢番が、将軍に皇太子は偽者であると告げ、バラス将軍は直ちに、皇太子捜索の手配を下したのでした。

 一方、革命政府の役人も牢を訪れ、少年が皇太子と似ても似つかぬ人物である事を証明する人物も居り、銀行家プチチバルは、皇太子の死亡証明書を偽造であると非難する程でした。
しかし、それから1年も経たない間に、プチチバルは一家皆殺しに成ってしまいます。
バラス将軍は、政府報告書の中でプチチバル家の者は、「諸君等も御承知の例の少年を除いて」全員死んだと述べています。

 この事から、バラス将軍は皇太子探索に成功し、少年がプチチバル家に居た事を将軍の同僚や、一部の高級官僚は知っていたのだと考えられます。

 其れならば、獄中で死亡した少年は、誰だったのでしょう?
1846年、遺体の再検分を行った医師は、10歳と云うよりは、15歳から16歳の少年のものである事を証言し、更に1894年に再度司法解剖され、16歳から18歳の年齢の少年と鑑定され、棺の中の遺体は皇太子では在り得ませんでした。

◎自称皇太子

 1815年のナポレオン・ボナパルト失墜と共に、ブルボン王朝は復活しましたが、自称「皇太子」の引きも切らぬ認知要求に悩まされる事と成りました。
勿論、その殆どが一目で分かる、偽者で在った事は、言う迄もありません。

 そのような中、カール・ウィルヘルム・ナウンドロフが登場します。
彼は、自分が失われた世継ぎで在ると称し、その主張を裏付ける極めて有力な証拠を持っていました。
皇太子の乳母も、ルイ16世の司法官も彼の主張を認め、皇太子の姉は、ナウンドロフが自分の家族に良く似ていると聞かされましたが、彼との面会は強く拒んだのでした。
彼の支持者は、皇女の拒絶をナウンドロフの主張が正しい証拠と見なしました。
皇女は、正統の王位継承者として、叔父のシャルルを推していたからです。

 ナウンドロフの主張で一つ特異な点は、牢番によって救出されたのではない事で、バラス将軍が彼を牢内の別の場所に移し、身代わりの少年を引き入れたとされていました。
そして、身代わりが死亡した日に、皇太子は密かに連れ出されてイタリアを経由したプロイセンに送られ、其処でナウンドロフの名前を改めて付けられたと主張しました。
認知要求を更に押し進める為、彼は民事訴訟を起こしたものの、直ちに逮捕されフランスから、国外追放に成りました。

 9年後、彼はオランダで死亡し、死亡証明書には、“ルイ16世とマリー・アントワネットの子 ルイ・シャルル・ド・ブルボン、享年60歳”と記載されました。
今日尚、ナウンドロフの子孫はフランスの法廷に認知請求を申し立てていますが、彼も又詐欺師で在ったなら、別の推測が成り立ちます。
即ち、本当のルイ・シャルル・ド・ブルボンは人目に立たない市井に暮らし、身元が明らかになる事を好まなかったかも知れません。
革命の時代に在って、王家の相続人である事は危険すぎると、彼が考えたとしても不思議では在りません。

続く・・・


2013/10/04

歴史のお話その226:語り継がれる伝説、伝承、物語⑮

<ウィリアム・テルは実在したのか:英雄の誕生>

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 その命令は、屈辱的なものでした。
スイス、ルトドルフ村の住民は、村の広場に在る柱の上に置かれたオーストリア代官の帽子に、頭を下げなければ成らないのです。
唯一人の男だけが、勇敢にも一礼を拒否しました。
その男の名前は、弓の名人ウィリアム・テルだったのです。

 代官のゲスラーは、テルを残忍な罰にかけました。
彼に「息子の頭上に置いた林檎を射抜け」と言うもので、此れを拒んだり、失敗した場合は処刑するとも言ったのです。

 村の外れで、テルは息子と向かい合い、石弓に矢をつがえ、帯にもう一本の矢を挟めました。
矢が空を切った其の時、林檎は砕け散ります。
代官は「なぜ2本の矢を準備したのか?」とテルに問うと、彼は答えました。
「もし、最初の1本がわが子の髪の毛1本でも傷つけた時は、貴方の心臓を射抜くつもりで在った」と。

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 ゲスラーは叫びました。
「奴を城へ連れて行け!」
テルは縛られ、舟でウーリ湖対岸のゲスラーの古城へ、連行される事に成りました。

 湖の半ばに達した頃、突然の嵐が起こり、ゲスラー達はテルの戒めを解き、安全な湖岸迄水先案内をさせます。
岸に着くや否や、テルは舟から飛び降り、舟を湖に押し戻しました。
その時、ゲスラーの部下達は湖に沈みましたが、ゲスラー本人は何とか岸に辿り着く事が出来ました。
テルは、2本目の矢をつがえて待っていました。
矢は放たれ、スイスはオーストリアの頸木から解放されたのです。

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 ウィリアム・テルの物語は、テルが生存したと思われる時代よりも200年後に、16世紀の作家エギーディウス・チューディのスイス年代記で、初めて伝えられました。
しかし、テルやゲスラーが実在したという同年代の証拠は、発見されていません。
チューディの報告は、11世紀頃の伝説を面白く改作したものと思われ、やがて、この物語がテルをスイス民間伝承の英雄にしたのでした。

続く・・・

2013/10/03

歴史のお話その225:語り継がれる伝説、伝承、物語⑭

<ルードヴィッヒ二世その②>

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◎ノイシュヴァンシュタイン城:Neuschwanstein

 中世の騎士に強い憧れを抱いた孤高のバイエルン王ルードヴィッヒ二世の夢の凝縮した絢爛豪華なおとぎの城。
ドイツ南部・バイエルン州の南方、森に囲まれたホーエンシュヴァンガウに建設され、緑豊かな自然の景観の中に溶け込んだ白亜の城のシルエットは溜息が出るほどの美しさ。
バロック、ゴシック、ルネサンスなどあらゆる建築様式を取り入れられ、ディズニーランドのシンデレラ城のモデルにもなり、ロマンチック街道の終点フュッセンの近くにあり、ヨーロッパでも有数の観光地です。
 
 ルードヴィッヒ二世は、即位から4年目の1868年に新しい城の築城を命じ、その新しい城の構想は、ホーエンシュヴァンガウ城で過ごした幼年期に傾倒を深めた、中世の騎士道の伝統に沿って、ルートヴィッヒの頭の中に生み出されたものでした。
 其れにふさわしい場所としてルートヴィヒが選んだのは、生まれ育ったホーエンシュヴァンガウ城を目の前に臨む岩山の上でした。
ホーエンシュヴァンガウ城は、ルートヴィヒの父マクシミリアン2世が1830年代に再建したものでしたが、ルートヴィヒが新しく城の建築を考えたのは、まさに再建される前のホーエンシュヴァンガウ城があった場所でした。
その岩山に1869年9月、新たなルートヴィヒの城の建設が始められました。

 初めに王宮建築主任のエドゥアルト・リ-デルに城の建築が任されましたが、実際に城全体の設計を行うよう指名されたのは宮廷劇場の舞台装置・舞台美術を担当していたミュンヘンの画家クリスティアーン・ヤンクでした。
この城はメルヘン王ルートヴィヒの夢の実現の為に作られたものなので、城全体が建築としてよりも一つの物語の舞台としてみなされ、徹底的に王の追い求めるメルヘンの世界を作り出すことが優先されました。
従って、本来王城の中心となる聖堂や礼拝堂、玉座を後回しにしても人工の洞窟を造るといった具合で、王自身が納得いくまで何回も変更を加えました。
そして、ノイシュヴァンシュタイン城は、元々、ルートヴィヒ2世が敬愛するリヒャルト・ワーグナーに捧げる殿堂として造られ、ワーグナーのオペラ「トリスタンとイゾルデ」「タンホイザー」「ローエングリン」などの世界が描き出されました。

 城の建築には何百人もの職人が従事していましたが、この時代には革新的な社会制度もあったそうです。
建設従事者が病気や傷害で働けなくても賃金を保証する「職人協会」が存在し、王自身が多額の援助をしていました。
ルートヴィヒは多額の建築資金を王室費などの私財をつぎ込んで調達しましたが、それでは十分ではなく、多額の借金をしました。

 ノイシュヴァンシュタイン城の建築には約620万マルクかかった事が記録されていますが、物価などを考慮して算出すると現在の250億円程の金額に相当します。
建築熱にとりつかれたルートヴィッヒは、ノイシュヴァンシュタイン城の建築中にリンダーホーフ城とヘレンキムゼー城の建築も始め、それらを合わせると膨大な費用になり、お金に頓着のないルートヴィッヒは次から次に多額の借金をしていきました。

 ルードヴィッヒ二世は若い頃は国政に対する意欲もありましたが、次第に政治的にも孤立し、心の拠り所だったワーグナーもこの世を去ると、極度の人間嫌いになって何より孤独を好むように成りました。
数人の侍従以外は人を寄せ付けず、空想の世界に閉じこもり、ホーエンシュヴァンガウ城から建設中のノイシュヴァンシュタイン城を見上げ、その完成を心待ちにしました。
1880年頃には城の主な部分の建設が終わりましたが、ようやく実際に住める状態になったのは1884年頃でした。そして、城はまだ工事中だったにもかかわらず、1884年5月から6月にかけて13日間、ルートヴィヒ2世が最初の滞在をしたとされています。
 
 それから 2年後の1886年、ルードヴィッヒ二世は失意の中、退位を余儀なくされ、謎の死を遂げましたが、その間にこの城滞在したのは計172日だと云われており、そして、王の死後もノイシュヴァンシュタイン城の工事は続けられ、工事がすべて終了したのは1892年のことでした。

 注目すべきは、城は工事中だったにもかかわらず、1886年8月にはすでに城は一般公開されたという事です。
王の死から数週間後の事で、入場料は当時の生活水準からするとかなり高価だったようですが、それでも公開後半年で1万8千人もの見学者が訪れました。
やはり、現実の世界とかけ離れたメルヘン王ルートヴィヒの夢の城は、当時の人々にとっても一度は訪問してみたい夢の世界なのでした。

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◎ウィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー

 1813年5月22日ライプチヒに生まれました。ウェーバーの「魔弾の射手」とベートーヴェンの 「第9交響曲」 を聴いて感動し作曲家となることを決意します。
 1842年、ドイツのドレスデン宮廷歌劇場で自作のオペラ「リエンツィ」を初演し、大成功を収め、この成功により宮廷楽長となったワーグナーは、ロマン的オペラ「タンホイザー」や「ローエングリン」を完成させますが、 1849年にドレスデン蜂起に荷担して逮捕状を発せられ、スイスに亡命を余儀なくされます。

 このスイス亡命時代に総合芸術論「オペラとドラマ」と「ニーベルングの指輪」四部作を書きあげ、ロマン的オペラから楽劇への決定的一歩を踏み出しました。亡命時代を経て、1860年からはヨーロッパを演奏旅行します。このときリストの娘で指揮者ビューローの妻コジマと恋愛関係になります。

 経済的困窮は極まるばかりでしたが、 64年バイエルン国王ルードヴィッヒ二世の強力な援助を受け、作曲に没頭し、70年にはコジマと正式に結婚、その後自作上演のためのバイロイト祝祭劇場を建て、念願の「ニーベルングの指輪」四部作などを上演していきました。
その後「パルジファル」 を完成してバイロイトで初演しますが、翌年83年2月13日、ヴェネツィアにおいて心臓発作に襲われ息を引き取りました。

 ワーグナーの芸術は、作品の規模の大きさばかりでなく、土台となっている知識の広さによっても特徴づけられます。
彼は自分で舞台作品の台本を書きましたが、そこでは一般にいわれるゲルマン神話ばかりでなく、ギリシア神話をはじめとして、シェークスピア劇などありとあらゆる世界文学が下敷きとなっています。
そうした台本がそのまま作曲上の試みとして音楽に移し変えられているところに彼の作品の特徴があるといえます。

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◎バイエルン王国の歴史

 現在ドイツ連邦共和国を構成している16州の中で、最大の面積をもつバイエルン州は、神聖ローマ帝国を構成するひとつの公国として1180年からヴィッテルスバッハ家という一族が治めてきました。
1806年から王国に昇格し、1918年迄バイエルン王国(Königreich Bayern/ケーニックライヒ バイエルン)と呼ばれていました。

 ヴィッテルスバッハ家(Wittelsbach)は、ドイツのバイエルン地方を発祥とするヨーロッパの有力な君主、諸侯の家系、バイエルンの君主の家系として有名ですが、その他にもプファルツ選帝侯(ライン宮中伯)、ブランデンブルク辺境伯(選帝侯)、スウェーデン王の家系として続いており、又神聖ローマ皇帝やボヘミア王、ハンガリー王、ギリシャ王も一族から輩出しています。

 1329年以降はバイエルン系とプファルツ系に分かれ、分割統治と成りますが、1777年バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフが世継ぎを残さず崩御した為、バイエルン系は断絶してしまいます。
そこで遠戚でプファルツ選帝侯カール4世フィリップ・テオドールが、バイエルン選帝侯も継承することにより、再統合されました。(バイエルン選帝侯としてはカール・テオドール)

 しかし、カールも世継ぎがないまま1799年崩御したため、その遠戚にあたるマクシミリアンがバイエルン及びプファルツ両選帝侯を継ぐことになりました。(バイエルン選帝侯としてはマクシミリアン4世ヨーゼフ)

 1800年のナポレオンの侵攻により神聖ローマ帝国が崩壊すると、選帝侯マクシミリアン4世ヨーゼフは、ナポレオンの承認を得て近隣の領土を併合した上で、ライン同盟に加盟、バイエルン王国を興し、1806年1月1日、自らマクシミリアン1世として即位しました。
 バイエルン王国は、ライン同盟に加盟していた王侯国々の中でも最も重要な国で、ナポレオンとの同盟をライプツィヒの戦いの直前まで維持しましたが、オーストリア帝国に地位と領土が保証された事で反ナポレオン側に回り、1815年には一時手放していた旧ライン・プファルツ選帝侯国を回収・併合した後、ライン同盟を脱退し、ドイツ連邦に参加しました。

 1871年1月18日、プロイセンのホーエンツォレルン朝のドイツ帝国が成立する際にも、バイエルン王国は維持したまま、帝国の一領邦となりました。

 1918年、ドイツが第一次世界大戦で敗北すると、混乱の中で勃発したドイツ革命により、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世はオランダ亡命し、ドイツ帝国は11月9日をもって崩壊しました。
バイエルン王国も混乱に陥り、11月13日、国王ルートヴィヒ3世が退位・亡命し、バイエルン王国も終焉を迎えます。
王権を手放し、共和制のドイツの一州となったバイエルンで、ヴィッテルスバッハの家系は現在も続いています。

続く・・・

2013/10/02

歴史のお話その224:語り継がれる伝説、伝承、物語⑬

<ルードヴィッヒ二世>

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 王の馬術訓練は、午後8時から午前3時迄と決まっていました。
王立馬術訓練所や王宮の周囲で行われるこの訓練を、王は「ミュンヘン・インスブルック間の速駆け」と呼称し、付き従う従者も、彼らなりにこの深夜の速駆けを楽しんでいました。
時折、馬を変えるだけで良いし、途中で味わう食事は、館の中で取る其れよりも楽しく、それに速駆け伴走の褒美は、金時計でした。

 「バイエルンの狂王」と呼ばれたルードヴィッヒ二世の楽しみは、馬術訓練所周囲の距離を計りながら駆け、空想の旅を楽しむ事でした。
只、ルードヴィッヒ二世は昼夜反対の生活を行っていたので、「旅」はどうしても、不自然な時間に行わざるを得ませんでした。

 この様な王にも、1864年3月10日、父王マクシミリアン二世の跡を継いだ時、前途は明るい希望に満ち溢れていたのです。
確かに王家の歴史には、暗い過去も有りました。
祖父リードヴィッヒ一世は、60歳の時、スペイン人の踊り子ローラ・モンテス、実はアイルランド女性エリザ・ギルバートと恋に落ち、国の財政を傾け、叔母のアレクサンドラ公女は、才能豊な女性でしたが、神経を病み、健康に異常な関心を持っていました。

 18歳で即位した、美男の新王は、バイエルン国民の心を捕らえましたが、しかし彼らは、新王が15歳の時、ワーグナーの歌劇「ローエングリン」を聞いて以来、ワーグナーの虜になっている事迄は知りませんでした。

 即位すると直ぐに、王は廷臣を遣って、ワーグナーを探します。
ワーグナーはその頃、巨額の負債を抱えて身を隠していましたが、王は彼の負債の全てを支払い、一生苦労無く作曲活動に打ち込める様、経済的な保証を申し出ます。
こうして、王と作曲家の厚い友情が、開花し、王は作曲家に夢中になり、作曲家の為に様々な芸術的な催しを企て、おぼれ込んで行きます。

 ワーグナーの散財は桁外れで、彼の天才がどれ程金を食うのか、と国民は囁き、或る時、ワーグナーが愛人を銀行に遣って、王の口座から現金を引き出そうとした事が有りましたが、その額は、辻馬車2台を雇わなくてはならない程で、ワーグナーに対するバイエルン国民の反感は、いっそう強いものに成って行きました。

 しかも作曲家は政治にも介入した為、王は友情と公的義務の二者選択を迫られる破目に陥り、ルードヴィッヒ二世は、しぶしぶながら王としての責任を果たす道を選び、ワーグナーにミュンヘン退去を命じますが、王のワーグナー傾倒は、作曲家がこの世を去る迄続きました。

◎逃  避

 其れまで、王は特に変わった振舞いを見せた訳では有りませんが、只、宮殿の衛兵が疲れているに違いないと、ソファーを与えると言った事が有るそうです。(?)
王は国事に関心を持とうと努め、女性に魅力を感じなかったにも関わらず、結婚はしませんでしたが、従妹のゾフィーと婚約さえ行いました。
王が、彼の名前を歴史に残した築城に、情熱を向け始めたのは、この頃でした。
母のマリー王妃は、彼が幼い頃、積み木遊びに夢中であった事を伝えています。

 1868年、王はワーグナーに手紙を送ります。
「ポラート瀑布の近くに在るフォルダーホーエンシュワンガウの古城跡を、私は古代ゲルマン騎士の城と全く同様に改修するつもりでいる。
そこに住むと思うと、いまから血が騒ぐ事を告白しなければ成らない。
其処で“タンホイザー”や“ローエングリン”の精神に生きるのだ」と彼は述べています。
改修建設の工事が、始められました。
是が後の“ノイシュヴァンシュタイン城”、目も眩む急斜面の中腹に建つ、おとぎの城でした。
彼は他にも、バロック式の華麗なリンダーホーフ城と、ベルサイユ宮殿を手本とした、ヘレンキュームゼー城を建てます。
そして、王は遠く国政から離れて、自ら作った城の夢の世界に閉じこもりました。

 王の空想の旅も、馬術訓練所の周辺では終わらなく為り、冬の夜毎、黄金のロココ風馬橇に乗って、危険な雪山を駆けました。
付き添う御者や従者達は、ルイ14世様式の衣装を着けさせられていました。

政治を忘れ、浪費を続ける彼の生活が、何時までも許されるはずも無く、1886年6月、叔父のルイトポルト公は、王に禁治産者の宣告を下し、摂政として、彼の跡を継ぎました。

 ルードヴィッヒ二世の生涯は、悲劇的で謎めいた終局を迎えます。
6月12日、ミュンヘン郊外のシュロッス・ベルグに幽閉され、翌日彼は、お抱え医師ベルンハルト・フォン・グッテン博士と散歩に出掛けましたが、何時まで経っても二人が戻って来ない為、捜索隊が編成され、やがて岸から20m程の浅瀬に二人の遺体が浮かんでいる処を発見されました。
暗殺、自殺、事故死と様々な憶測、推測が成されましたが、ルードヴィッヒ二世の数奇な生涯が如何にして悲劇の幕を閉じたのか、その謎を解明した者はまだ居ません。

続く・・・
2013/10/01

歴史のお話その223:語り継がれる伝説、伝承、物語⑫

<革命を呼んだネックレス>

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 歴史上で最も厚かましい、取り込み詐欺が始まったのは、1772年の事でした。
発端は、老王ルイ15世の愛人デュバリー夫人が、世界一高価なダイヤモンドを愛欲に目の眩んだ国王に強請った事でした。

 ルイ15世は彼女の言いなりでしたから、王室御用達の宝石商ベーメルに、ヨーロッパ中を探して、最も高価なダイヤを持参するように命じたのでした。
ベーメルは張り切ります。
彼は600個のダイヤを買い、そのダイヤを用いてネックレスに仕立てました。
こうして200万リーブル(現在の価格で700万ドル、6億3千万円)という、価格の面でも、見かけの悪さでも、目を剥く様な装飾品が完成したのでした。

 ベーメルは意気揚々と、ベルサイユ宮殿からの呼び出しを待っていました。
しかし、タイミング悪くルイ15世は、天然痘で崩御し、破産の危機が宝石商に迫っていました。
新王ルイ16世も、20歳に王妃マリー・アントワネットも、「スカーフの様な」外観のネックレスをひどく嫌っていたのです。

 ベーメルは、何年間もベルサイユに参内し、王妃に子供が生まれる度に、彼女が気まぐれを起こして、子供の洗礼用にと、ネックレスを購入してくれる様にと儚い望みを抱いていました。
しかし、王妃は1度も気まぐれ等、起こしませんでした。

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◎枢機卿と伯爵婦人

 マリー・アントワネットがそのネックレスよりも嫌っていたものは、少女時代の彼女の母、オーストリア女王の宮廷にフランス大使として駐在していたド・ロアン枢機卿でした。
彼女の嫌いなこの二つは、背俗臭が強く、不道徳と云う点で共通していました。
ド・ロアンの情事は、ヨーロッパに於いて知らない者は、まず居ませんでしたが、廷臣であると同時に教会の権力者として、彼は賄賂で私腹を肥やし、其れを殆んど愛人の為に費やし、王妃に嫌われている事を本人は、十分承知していたので、彼は王妃のご機嫌取りに懸命でした。

 自称伯爵夫人のジャンヌ・ド・ラ・モットが物語りに登場するのは、この時からで、彼女は旧姓をジャンヌ・ド・サンレミと云い、古いフランス王家バロア家の直系子孫とも云われていました。
夫のド・ラ・モット伯爵は一文無しの陸軍将校で、伯爵の称号が得られたのは、ひとえに女房の血筋のお陰でした。

 ジャンヌは、人を説いて如何なる事でも、信じさせてしまう不思議な能力が在ったと云い、彼女は王妃に影響力が在り、従ってド・ロアン枢機卿に対する王家の不興を解く力があると、あらゆる手段を用いて枢機卿に信じさせようと努めました。
物腰の柔らかなその説得は、数ヶ月間も続き、共犯者を使って王妃の筆跡を真似た手紙を何通も偽造し、マリー・アントワネットが枢機卿に対して、心を和らげたと見せかけました。

 其れから彼女は、愈々大仕事に取り掛かります。
マリー・アントワネットに良く似た少女を見つけ出し、枢機卿と偽王妃を、ベルサイユ宮殿内の暗い木立で、深夜に引き合わせる手はずを整えました。

 ド・ロアン枢機卿が見たのは、王妃と同じ背丈と体つきのシルエットだけでしたが、彼が跪いて敬礼すると、彼女は1輪のバラをその手に渡し、身を翻して闇の中に消えました。
枢機卿は狂気しました。
王妃は彼を許したばかりか、明らかに彼を愛してさえいたのでした。
その為、彼女の為にネックレスを買い取って欲しいと云う手紙を受け取った時、彼は喜んで承諾しました。
当然、買い上げは秘密にしなければならず、只一人の仲介人は王妃の信頼する、親友ド・ラ・モット伯爵夫人以外に在りませんでした。

 枢機卿はネックレスを買い、ジャンヌに手渡しました。
ジャンヌの夫は其れを持って、直ぐにロンドンに渡り、その地でネックレスを分解して、宝石商に売り飛ばします。
伯爵は賢明にもイギリスに残りましたが、ジャンヌはパリに住み続け、夫が送って遣した金で、自分の情夫たちを持成したのでした。

◎王妃の激怒

 枢機卿が勇気を奮い起こして、何故ネックレスを身に着けられないのかと、王妃に尋ねる迄に6ヶ月の期間を要しました。
当然の事ながら、マリー・アントワネットは激怒します。
事件は議会の知る事と成り、ジャンヌは有罪と成って「ボルーズ(泥棒)」を意味するVの烙印を押され投獄されました。

 事件は落着したかに思われましたが、民衆の間に嵐を呼びます。
マリー・アントワネットは民衆の人望を失っており、枢機卿を彼女の愛人で、彼女はフランスの人民が飢えているにも関わらず、高価な贈り物を要求したと、大衆は容易に信じたのです。
暴動が勃発し、無実の生贄と見なされたジャンヌは、イギリスに逃れ、自分の無実を主張する手紙を新聞に公表しました。

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◎二人の女性の死

 ネックレスの事件は、疑いなくフランス革命の導火線に成りました。
1793年、マリー・アントワネットは革命裁判に引き出された時、ジャンヌとの関係も尋問されました。
王妃は彼女に会った事は、一度も無いと抗弁しましたが、その声は怒号にかき消され、大衆の人望を失った王妃は、断頭台の露と消え、ジャンヌはその2年前、ロンドンで客死していました。
債権者から逃れる為に、エッジウェア・ロードの宿の窓から転落したのでした。

続く・・・

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