2013/11/29

歴史のお話その272:語り継がれる伝説、伝承、物語59

<シェークスピアを創作した男>この厳粛な茶番劇はいつ終わるのか

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ウィリアム・シェイクスピア( William Shakespeare, 1564年4月26日(洗礼日) - 1616年4月23日)

 ドルリー・レーン劇場は、超満員の観客の熱気が渦巻いていました。
1796年4月2日、この夜、新しく発見されたシェークスピアの戯曲「ボーティガンとロウィーナ」が初演を迎えたのでした。
ブリトン族の王ボーディガンとサクソン族族長の娘ロウィーナの恋物語で、ボーディガンには当代の人気役者ジョン・ケンブルが扮していました。

 しかし、この新たに発見されたシェークスピアの戯曲は、当時17歳の少年による偽作でした。
その少年、ウィリアム・ヘンリー・アイアランドはロンドンに住む書籍装丁師の息子で、10歳の頃、ウィリアム・シェークスピアの生地、ウトラトフォード・エイボンを訪問し、深い感銘を受けて偽作の真似事を始めたのでした。

 エリザベス朝時代の書物から、何も書かれていないページを抜き取り、人工的に古びさせたインクを使用して、彼はまず、シェークスピアの署名のある賃借契約書を作りました。
其れを父に渡し、知り合いの金持ちの男性が、少年の古文書に対する関心を知って、家伝の書類をくれたのだと説明し、父は狂喜しました。

◎専門家の太鼓判

 アイアランドはこの成功に味をしめ、1795年にエリザベス朝の書体を使って、「リア王」と「ハムレット」の手稿の一部を作り出し、学者も評論家も一様に、手稿が真筆に間違い無いと証言し、サミュエル・ジョンソン(18世紀のイギリス詩人)の伝記を書いたジェームズ・ボスウェルは、手稿の前に跪いて叫びました。
「我らが大詩人の尊き形見に、今口付けん。神よ感謝す、わが命を永らえさせ、この宝物にまみえ給いし、恩寵を!」

 少年が全く新しい戯曲を「創作」しようと思い立ったのは、自然の成り行きでした。
しかし、適当な題材が見つかりませんでしたが、其の時「父の書斎の暖炉の上にかかっていた絵が、不意に私の注意を引いた。ロウィーナがボーディガンに酒をふるまっている構図だった」。

 アイアランドは、シェークスピア劇の形式や長さには、全くの素人だったので、適当に1篇を選び、その行数を数えました。
下敷きとした作品を彼は明かす事は、ありませんでしたが、気の毒な事にそれは特別長い作品で、2800行にも及ぶものでした。

 劇作家のリチャード・シェリダンがその戯曲を読み「素晴らしい着想は確かに認められるが、生硬でこなれきっていない。非常に若い時の作品と判断せざるを得ない。真に彼の作品で在るか否か、という疑問について言うなら、この原稿を見て、誰が其れを古い物と思わずに居られようか」

 シェリダンは300ポンドの即金と、舞台上演の収益から、一定の配当を支払う条件で、戯曲を買い取りました。
主演俳優のジョン・ケンブルは、戯曲を偽物と確信しており、初演をエイプリル・フールの夜に行おうと努めましたが、不成功に終わりましたが、同じ興行中に「この日の嘘」と云う演劇を、上演させることには成功しました。

 初日の夜、ケンブルは次の様な、荘厳な死神へのモノローグを朗誦しました。

かくて汝、荒々しき哄笑と奇怪なる術を用いて、汝が騒がしき指を横腹に打ちつけたり。

それからケンブルは一息入れ、対の台詞を「墓穴から聞こえてくる様な声で」述べました。

この厳粛なる茶番劇はいつ終わるのか・・・・・・・

 ケンブルの意図は、観客に直感的伝わり、観客席から爆笑が湧き上がって、10分間も続き、この時に模様をアイアランドは後に次の様に述べています。
笑いがようやく静まった時、ケンブルはもう一度舞台中央に戻り、その場を演じ終える前に、同じ台詞を「まじめくさった面で」繰り返しました。

 アイアランドのゲームは終わりました。
否定論者が急激に力を増し、著名なシェークスピア研究家のエドマンド・マローンは「ボーディガン」を真っ赤な偽物と公然と非難し、こうしてドルリー・レーン劇場の上演は、初日の1回だけで終了しました。

 少年の父親が、偽作の犯人として非難され始め、アイアランドは自白しましたが、多くの人々は、少年が父親をかばっているのだと考え、父親は、息子は誰かをかばって嘘の自白したのだと思っていました。

 少年は其れでも尚、ウィリアム征服王からエリザベス1世迄、歴代の王朝を舞台にしたシェークスピア劇を創造する計画を放棄しませんでしたが、彼の「ヘンリー2世」は完全に無視され、1835年にこの世を去る迄、彼は自分の名前で小説と詩を数編発表しましたが、人々の記憶に残ったのは、偽りのシェークスピア劇だけでした。
そして、問題の原稿は現在も尚、大英帝国博物館に展示されています。

続く・・・
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2013/11/29

歴史のお話その271:語り継がれる伝説、伝承、物語58

<人類の祖先を創作した男>ピルトダウンの人骨の正体

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 チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を発表した以来、彼の学説を証明する「ミッシング・リンク(類人猿と人類の中間に位置すると仮定される生物)の探求が科学界の課題と成りました。
ヒトとサルは、共通の祖先を持つ、とダーウィンは主張しました。
其れならば、とダーウィン批判論者は問いました。
なぜ、その様な古生物の化石が発見されないのか?と。

 何年も無益な探索が続きましたが、ダーウィン派の学者は1912年に漸く、面目を保った様に見えました。
イングランドのイースト・サセックスのピルトダウン共有地近くの砂利坑から、人骨の断面と歯が出土し、約50万年前に存在した、サルとヒトの中間動物の物と考えられました。

◎ミッシング・リンク接続?

 発見者は、チャールズ・ドーソンという弁護士で、アマチュアの地質学者、化石収集家でも在りました。
ピルトダウンの出土品・・・先史時代の打製石器、歯の化石、異様に分厚い人間の頭蓋骨の断片を、ドーソンは大英帝国博物館の知人、古生物学者のアーサー・スミス・ウッドウォート博士に送りました。
博士は、直ぐにドーソンに面会し、発掘史上稀に見る緊密な、連携作業が始まりました。

 頭蓋骨が発掘された場所の近くで、サルの顎をドーソンが発見した時、彼と博士は興奮を隠す事が、出来ませんでした。
なぜなら、その歯の減り方が、人間の顎特有の磨り潰し運動で生じたとしか、見えなかったからなのです。
ミッシング・リンクの条件を総て満たす証拠が、目の前に存在していました。
ヒトの頭脳と使用道具の能力を有しながら、サルの外観をした動物の化石が出土したのでした。

◎名誉をもたらした化石

 細心の注意を込めて、二人の研究者はピルトダウン原人の生前の姿を復元しました。
この原人は、女性の特徴は見受けられたものの、頭蓋骨には発声筋を固定する、窪みが存在しない為、話す事ができず、歯の摩滅の具合から、彼女は草食性活をしていたと、ウッドウォート博士は判断しました。

 ドーソンには、科学界で最高の栄誉が、与えられる事に成りました。
ウッドウォート博士が大英帝国博物館当局と計り、ピルトダウン人に発見者の名前を冠した学名を付ける事に成り、化石は「エオアントロプロス・ドウソニ」、つまり「ドーソンの原人」の正式学名で記録されました。

 ドーソンの幸運は更に続き、次の3年間に歯と骨、石器が出土し、1915年には最初の発見場所から3km離れた原野で第二のピルトダウン人の化石が発見されました。

1916年ドーソンは、52歳で他界し、代わってウッドウィード博士が発掘作業を続けましたが、出土品は2度と発見されませんでした。

 発見に関して、不信の声が上がり始めたのは、実はそれよりも以前の事でした。
1913年には、早くもケンブリッジ大学キングス・カレッジの解剖学教授デービット・ウォーターストンが、ピルトダウン人の顎の骨はチンパンジーの其れと、事実上一致すると主張していました。

おまけにスキャンダラスな噂も伝えられていました。
或る日の事、ドーソンの研究室を訪問した人物が、ノック無しで部屋に入ると、彼は骨を坩堝で焼いて、古色を付ける事に夢中に成っていたと云います。
しかし、ほとんどの学者は、顎の骨と頭蓋骨が同一固体のものであると認め、懐疑論者が削り取って検査等行わない様に、骨は厳重な監視下に置かれました。

◎科学のメス

 骨が科学的な検査を受けたのは、ようやく1949年に成っての事でした。
この年、大英帝国博物館の若い地質学者ケネス・オークリーが、新しい科学的検査法で年代を測定する為に、サンプルを取る許可を得ました。
骨は地中に埋まっている間、土中にフッ素を吸収するので、フッ素の含有量が、地中に埋まっていた期間を測定する決め手に成ります。

 検査の結果、頭蓋骨と顎の骨は、僅か5万年前のものと測定され、ミッシング・リンクより遥かに進化した、ネアンデルタール人と同年代ものでした。

 オックスフォード大学の人類学者J・S・ワイナー博士も実証的な解明を試みた一人です。
博士はピルトダウン人に対する疑問を一つ一つ個別に洗い直し、分厚い人の頭蓋骨と、サルに似た顎骨に生えたヒトの歯(ヤスリをかけたかの様に、平らに磨り減っている)・・・答えは其処に在りました。
チンパンジーの歯を手に入れて、ワイナー博士がやすりをかけ、古さびをつけてみると、ピルトダウン人の歯のほぼ完璧な複製が誕生しました。
オークリー博士は、1953年にもピルトダウン人の骨の調査を再度実行し、ワイナー博士の検証を援護しました。
検査の結果、頭蓋骨は本物の化石であるものの、顎の部分は巧妙に細工された偽物であることが、決定的に証明され、其れは現在のチンパンジーの骨であり、歯は、古びた姿に加工されていました。

 偽造は誰の手で行われたのか、現在でも判明していませんが、あらゆる点からドーソンと判定せざるを得ない様です。
彼は、化石を取得し易い立場の居り、ピルトダウンで出土した骨の破片を改ざんし、古色を付けるに十分な解剖学と化学の知識を十分に持っていました。
彼の死後、発見が停止し、この様な芝居を演じて、何等かの利益を売る人物は、ドーソンだけでした。
彼には金は、必要在りませんでした。
しかし、ピルトダウン人は、彼に金以上に貴重な富、「名声」をもたらしたのです。

続く・・・

2013/11/28

歴史のお話その270:語り継がれる伝説、伝承、物語57

<エトルリアの像の親指> 古美術を贋作した名人の失策

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 古代エトルリア戦士を模ったその粘土塑像は、高さ2m余り、重さは少なくとも500kg近くも在りました。
像に上塗りと着色が施され、周囲の足場がゆっくりと取り外されました。
3人のイタリア人彫刻家達は、後ろへと下がり、作品の出来栄えをほれぼれと眺めていましたが・・・と思うと、彼らはやにわに像を押し倒しまし、砕け散りました。
彼らは次に、破片を拾い集めて、又ひとつひとつと繋ぎ合わせ、やがて、罅と亀裂が無数に走る古代エトルリア像が出現しました。

 この像をニューヨークのメトロポリタン美術館4万ドルで購入しまた。
時に1921年、当時としては、空前の価格でした。

◎専門家を24年間欺く

 美術館が偽造に気づいたのは、それから40年後でした。
偽造は家族ぐるみの仕事で、ピオ・リッカルディとアルフォンソ・リッカルディの兄弟、彼らの3人の息子達の協力で始められました。

エトルリアはイタリア中部に繁栄した古代文明で、後にローマに征服されますが、その遺品は現在も発見される事があり、博物館や個人収集家の人気も高いものでした。

 「大戦士」の名で有名に成った巨像の偽作を計画したのは、ピオの長男リッカルドで、しかも偽作はこの仕事が最初ではありませんでした。
ローマ在住に古美術商ドメニコ・フスキーニと組んだ彼らの腕には、年季が入っていました。

◎「老戦士」の誕生

 一家の手がけた最初の大作は、青銅製の2輪戦車でした。
1908年12月、中部イタリアのオルピエート近くのエトルリア遺跡で、完全な「ピガ(2頭立て戦車)」が発掘されたと云う知らせが、大英帝国博物館に届きました。
2500年間土に埋まっていたと思われ、汚れを洗う作業はリッカルディ一家が行っているとの事でした。

 博物館がピガをフスキーニから購入したと公表したのは、1912年の事でした。
同年、リッカルディ一家は、仕事場をローマの場末からオルビエートに移します。
その後間も無く、ピオが死亡しましたが、一家はすぐに仕事を再開しました。
今回はアルフレード・フィオランパティと云う、腕のよい彫刻士の協力を得て「老戦士」と呼ばれる像を製作しました。
この像は、高さ2m、羽根兜と胸甲、具足を付け胸甲からひざ下までは裸で、右腕と左手の親指が有りませんでした。
右腕については、如何なる姿勢をとらせるかで、製作者の意見が分かれ、結局付けない事にしたのでした。

◎マンガンと通気孔

 「老戦士」は、完成するなり、メトロポリタン美術館に購入され、同美術館は、一家の大作「巨人像頭部」と呼ばれる作品も買い上げました。
この作品は、顎の下から兜の頂上迄、1.4m余りの高さが在り、この作品を見た専門家は、本来の像の高さは7m程度在ったと考えましたが、この2点の買取価格は僅か数百ドルでした。

 その次に作られたのが「大戦士」で、一家が完成できた最後の作品です。
リッカルド・リッカルディは、この像が完成する直前に、落馬事故で他界し、像がメトロポリタン美術館に売れた後、一家は仲間割れを起こし、チームとしての共同作業は終わりを告げました。

 メトロポリタン美術館は、3点の像を1933年2月に展示を開始しましたが、多くのイタリア人専門家は偽物の疑いをかけ、1937年に美術館がこれ等3点に関する論文を出版すると、論争は表面化したのでした。

 しかし、美術館側が弁明の為の調査を開始したのは、実に22年の歳月が過ぎてからでした。
徹底的な調査の結果、3点の像の上塗りにマンガンが含まれている事が判明し、紀元前800年頃に繁栄したエトルリアでは、マンガンを発色剤として、使用されていませんでした。

 美術館当局は、まだ詐欺に遭遇したとは信じていませんでした。
決定的な証拠は、1年後、本物のエトルリア古美術を調査した専門家によって発見されました。
エトルリア人は、常に塑像を始めから完成した姿で作り、焼いていました。
従って、炉に入れた時、焼きにムラが出来ない様に、塑像には通気孔を開ける習慣が在ることが、判明したのでした。

 リッカルディ一家は、塑像を部分ごとに焼き上げ、通気孔を作っていなかったので、塑像が巧みな模造品である事を、この失策が証明しました。

 そして、問題に異論の余地の無い決着を付けたのは、像の制作に協力した彫刻師アルフレード・フィオラパティでした。
1961年1月5日、当時75歳の老匠は、ローマのアメリカ大使館に出向き、自分の所業を統べて語り、自分が真実を語っている証拠に、彼は「老戦士」の左親指を提出したのでした。
彼は、仕事の記念品として、其れを保管していたのでした。

続く・・・


2013/11/27

歴史のお話その269:語り継がれる伝説、伝承、物語56

<パリ万国博の悪夢>

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1889年パリ万国博覧会(第4回)

 1889年のパリは、折から開催中の万国博覧会で、ごった返し、ホテルは何処も満室でした。
5月の或る日、イギリス人の母娘が、マルセイユからパリに遣って着ました。
インドからの帰途、マルセイユに上陸したのです。
母娘は、パリでも取分け名高いホテルにシングル・ルームを2部屋とりました。

 二人は宿帳にサインを済ませると、部屋に上がっていきました。
母親の部屋は342号室、ディープパープルのベルベットの重々しいカーテン、背もたれの高いソファー、楕円形のマホガニー製のテーブル等、豪華な部屋でした。

 処が、部屋に入るとほとんど同時に、母親は突然発病して、ベッドに伏せてしまいました。
診察を行ったホテル付の医師は、娘を呼んで幾つかの質問をした後、医師はホテルの支配人と部屋の片隅で、なにやら慌ただしく相談をしました。

 医師は娘に指示を与えます。
「母上は重病にかかっておられ、特別の薬が必要なのだが、その薬は、パリのこのホテルから反対側に在る、私の診療所にしか、置いていない。
私は、患者の傍を離れる事ができないので、私の馬車を使って取って来て貰えないだろうか?」

 娘を乗せた馬車は、腹立たしい程のろのろと走り、漸く到着した診療所でも長時間待たされ、帰途も往路と同様苛立たしい速度で走り、彼女が漸く、薬を手にホテルに戻って来た時は、4時間と云う時間が過ぎていました。

 馬車を飛び降りると、ロビーに駆け込み、「母の具合はどう?」と彼女は支配人に問いかけました。
支配人は、彼女をまじまじと見つめ、「どなた様の事でございましょうか?お嬢様」。
娘は口ごもりながら、時間が酷くかかった理由を説明しますが・・・。
しかし、「お嬢様、母上の事は何も存じ上げません。あなたはお一人で、お着きに成ったのですから」。

 娘は、半狂乱に成って抗議し、「でも、たった数時間前に、宿帳にサインしたばかりじゃないの!確かめて下さい!」。
支配人は宿帳を開いて、ページに指を走らせました。
中ほどに彼女のサインが在り、しかしすぐ上の、母親が記帳した場所には、別人のサインが書かれていました。
「私と母は、二人ともサインをしたわ!」と娘は言い張り、「母は342号室に入ったわ、今もその部屋に居るはずよ!母にすぐ会わせてちょうだい!」と懇願しました。

 ホテルの支配人は、その部屋にはフランス人が宿泊していると答えましたが、娘は部屋へ向かいました。
342号室には人気は無く、見知らぬ人物の所持品が置かれ、ディープパープルのカーテンも、背もたれの高いソファーも、総て消えうせており、廊下で彼女は、ホテルの医師に出会い、母親の事を尋ねましたが、彼も又、娘に会ったことは無く、ましてその母親を診察した覚えは無いと主張しました。

 娘は、事の次第をイギリス大使館に訴えたものの、大使館側はまともに取り合わず、警察も新聞社も反応は同様で、最後に娘は、精神病尾に隔離されました。

 さて、この奇怪な事件の真相は、娘と母親の出発地がインドであり、当時インドでは、ペストが猛威をふるっていたのでした。
母親を診察した医師は、すぐさまその症状からペストに気づき、この事実が表に出る事は、万国博覧会が台無しになる事を恐れ、事実を隠蔽した結果と思われます。
但し、母親がその後どうなったのか?遺体等の問題等、謎は依然残っています。

続く・・・

2013/11/26

歴史のお話その268:語り継がれる伝説、伝承、物語55

<イズミル行き急行列車>

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イズミル、ギリシャ時代のアゴラ跡

◎同席の少女

 イスタンブールからの車中で、向かい側の席に乗り合わせた黒髪の少女を、考古学者ジェームス・メイラートは最初全く気に留めていませんでした。
しかし、彼女の腕輪が目に入ると、無関心では居られなく成りました。
腕輪は明らかに数千年の歳月を経た、純金の品でしたが、この腕輪を目に留めた事がメイラートを膨大な宝の山へ、そして誹謗、中傷から身を守る長い闘いへと導く結果と成りました。

 全てはペテンなのか?其れともメイラートの名声を損なおうと企てられた、罠に落ちたのか?何れにせよ、事の発端では、彼は突然現れた幸運に、我目を疑うばかりでした。

 その腕輪を見て無関心で居られる考古学者は、一人として居なかったでしょう。
トルコの田園をゆっくりと走る列車の中で、メイラートは少女に話しかけました。
腕輪は自宅に在る物の一つで、他に在るから見せてあげましょうと答えました。

 エーゲ海に面するイズミル(スルミナ)が近く成った頃、メイラートは期待の余り、正気を失いそうに成りました。
1958年の或る夕べの事、気も漫ろにフェリーとタクシーを乗り継いで少女の家へと急ぎ、其処で彼は衣装棚から取り出される宝物を目の当たりにしたのでした。

 メイラートは仰天しました。
ツタンカーメンの王墓発見に等しい大発見が、目の前に展開されているのです。
写真撮影を少女は断ったものの、スケッチなら構わないと答え、その間、自宅に滞在する事を許したのでした。
当然の様にメイラートは、その申し出に飛びつき、数日間、寝食を忘れて夢のような財宝の調査に没頭しました。
不雑な文様を模写し、象形文字の拓本を取り、あらゆる細部を記録していきました。

◎歴史を書き変える発見

 メイラートにとって、発見の意味は呆然とする程、大きなものでした。
宝物は4500年前、青銅器時代の遺物であり、ギリシアの詩人ホメロスが、叙事詩「イーリアス」に詠った古代都市トロイの近くに、大海上交易都市が栄華を極めた事を立証する、初めての証拠に、自分が行き会った事を彼は知ったのでした。
この都市の発見は、考古学者の永年の悲願でも在りました。

 或る夜遅く、彼は漸く調査を終えて、少女の自宅をあとにしました。
彼が少女とその宝物を見たのは、其れが最後で、発見の鍵を握る少女自身の事について、殆ど何も知らない事にメイラートが気づいたのは、相当後に成ってからでした。
彼女がアメリカ訛りの在る、英語をしゃべっていた事位しか、彼には思い出せませんでした。
住所はカジム・ディレク通り217番地、名前はアンナ・バストラーティと少女は名乗っていました。

 裏づけを一切取らず、彼女の言い分を鵜呑みにしたのが、メイラートの躓きの第一歩で、後にトルコ政府の調査官が調査した処、少女の存在もそして彼が数日を過ごした住所も存在しない事が明白に成りました。

 更に、アンカラのイギリス考古学協会の上司シートン・ロイド教授に報告した時、メイラートは第2の失敗を犯ししました。
ロイド教授の助手をしていた彼は、6年前に秘密を発見したが、今迄発見を公表する許可が得られず、伏せていたと嘘を報告したのでした。
彼は4年前に結婚したいたので、他の女性と数日間、一つ屋根の下で暮らした事がゴシップと成り、妻を悩ませたく無いと言う事なのですが、他愛の無い理由からとは言え、嘘を報告した事に変わりは在りませんでした。

◎着かなかった手紙

 1959年11月「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」紙上に発見を公表した後、自分に浴びせられた汚名を雪ぐ長い苦しい闘いの期間を通じて、メイラートは2つの失敗を返す返す、悔やまなくては成りませんでした。
彼は事前にトルコ共和国の考古局に、発表計画を通知していましたが、その手紙は配達されませんでした。

 メイラートのスケッチが掲載された記事が、公表されると、当然ながらトルコ当局は激怒します。
宝物は何処にあるのか?何処で発見されたのか?なぜ是まで隠匿されていたのか?当局は返答を要求してきました。
貴重な国家の文化財が失われたとして、関係者はメイラートを責め立てます。
メイラートは、知りうる限りの情報を提供したものの、アンナと名乗る少女と宝物は、忽然と消え失せていました。

◎非難

 宝物の喪失にメイラートが何らかの形で、関与していた証拠は見つかりませんでした。
にもかかわらず、トルコの新聞各紙は、人身攻撃のキャンペーンを展開します。
「宝物は、第一次世界大戦直後、ドラクと云うギリシアの寒村で発見されたと少女が語った」と云うメイラートの話は彼の創作で、事実は謎の少女とイズミルに居た、1950年代に発掘されたのだと。
新聞の憶測記事は、直ぐに否定されましたが、個人攻撃と敵視は続きました。
トルコ公安機関の取調べは終了したものの、メイラートの其れまでの貢献は無視され、それ以後トルコの考古学的遺跡での一切の調査を禁止されてしまいます。

 背後に有力な敵が動いている様子が存在しました。
彼らはメイラートが自分の出世の為に、この話を仕組んだと思わせて、彼の信頼を失墜させようと仕組んだのでしょう。
メイラートは既に考古学の世界で、世界的な名声を得ており、改めて自己宣伝の策略を弄する必要は在りませんでした。

 では、アンナと名乗る少女は何者なのでしょう?
あの日、列車にメイラートと乗り合わせたのは、全くの偶然ではなく、身に着けた腕輪が考古学者の関心を引かずには置かない事を十分に心得た何者かが、少女を向かい側の席に座らせたのではないのでしょうか?

◎組織の標的

 メイラートは、古美術品の密売グループが仕掛けた、巧妙な罠の餌食に成ったとも考えられます。
彼らはドラクの財宝を隠し、売却する機会を窺がっていたのではないのでしょうか?

 メイラートの様な名声の高い専門家の鑑定が在れば、闇市場での商品価値は上昇し、当然ながらその値段も急上昇する事を密売グループは、十分知っていました。

 権威有る、「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」紙の記事は、密売グループに取って、品質保証書に匹敵する価値あるものでした。
其れゆえ、宝物は既に世界各国に存在する、コレクターの元に送られてしまったのかもしれません。
若しも、この推測が正しいなら、少女アンナと失われた財宝の真相は、永遠に封じられた事に成ります。

続く・・・

2013/11/24

歴史のお話その267:語り継がれる伝説、伝承、物語54

<モナ・リザ盗難事件>

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 レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作「モナ・リザ(ジョコンダ)」は、謎の微笑みで有名ですが、是と供に、今から100年近く前に発生した、「モナ・リザ盗難事件」も不可解な部分が多く、コナンドイルもシャーロック・ホームズ作品の一部に取り入れています。

 ルーブル美術館の「モナ・リザ」が盗難に遭遇した事が判明したのは、1911年8月21日の事で、この日は、美術館の清掃日でした。
しかし、何故か直ぐに警察に届けられず、まず館内がくまなく捜索されたのですが、関係者は盗難と思わなかったのでしょうか?
美術館関係者から、警察沙汰にする事で、犠牲者が発生する事を、避け様としたのだと考えられます。

 結果として「モナ・リザ」は発見されず、翌朝、警察に通報され、ルーブル美術館は、三日間休館と成り、徹底的な調査が行われ、その日の午後、額だけが発見され、展覧室に通じる扉のノブが、近くの側溝から発見され、犯人は扉のノブを内側から分解して、逃走した事が推測されたものの、そのほかに手掛かりは発見されませんでした。

 事件が公表されるとフランス国内は、大騒ぎとなり、時の議会で関係者は質問を受け、主要な新聞は、発見者に賞金提供を申し出ました。
中には犯人を占った、占い師に賞金を出す(!)と迄公表した新聞社も在った程、フランス国民の関心事に成りました。

 犯人の手掛かりも無いまま、ルーブル美術館は再開されましたが、館長のオユーモ氏は休職と成り、当時の美術館責任者の多くは、交替と成り、職員の数に比較して、美術館が広すぎる事から一部の施設を閉鎖する結果となりました。
11月に成り、ルーブル美術館の警備関係者7名が、裁判所に召喚され、無断外出の1名と居眠りをしていた1名はは有罪とされ、その間、パリ警視庁には犯人に関する密告も多数寄せられ、捜査も進み、取り調べを受けた人物も多数に及びました。

 その中で特に有名なのは、詩人のアポリネールで、彼の参考人として、あのパブロ・ピカソも警察に呼ばれています。
当時アポリネールが、秘書として雇用していた、ゲリー・ピュレェは「ルーブル位、泥棒するのに楽な所は無い」と言い、時々小さな彫刻等を盗みだしましたが、その頃のルーブル美術館は、監視人も少なく、その気に成れば、小さな物を盗み取る位、容易で在ったらしいのです。

 ゲリーは盗んだ彫刻等を、アポリネールやピカソに贈った上に、自分の泥棒稼業を或る雑誌に投稿した程でした。
アポリネールとピカソは、ゲリーからの“贈り物”を鞄に入れて、セーヌ川に捨てようと、二人で真夜中に川の辺を歩き続けます。
しかし、誰かに尾行されている様な気配がして、とうとう鞄を捨てられず、一晩中歩き回りました。
やがて、終に二人は警察に呼び出され、その時、気の強そうなピカソも、警察と聞いて脅え、“振るえてズボンもなかなか履く事が出来なかった”と伝えられています。
問題の彫刻は、ルーブル美術館に既にこっそりと戻していた事、事件も可也昔の事で在った為、二人は無事に許されて家に帰る事ができました。

 「モナ・リザ盗難事件」は、迷宮入りした様に思われましたが、1913年12月12日、急転直下解決します。
フィレンツェの古美術商に、レオナルディと名乗り「モナ・リザ」を売りに来た男がいました。
古美術商は、「専門家に立会いを求め、本物で有ったら購入しよう」と告げ、レオナルディはこの条件を受入ました。
専門の鑑定士は、この「モナ・リザ」を本物と鑑定し、レオナルディはその場で身柄を現地の公安当局に束縛されます。

 この男の本名は、ヴィンセンコ・ペルージアで塗装工でした。
イタリア人ですが、フランスに出稼ぎに行き、事件当時はルーブル美術館で絵にニスを塗る作業を行っていました。「ナポレオンが、イタリアから絵画や彫刻を幾つも略奪していったから、その仇を討ったのだ」と彼は証言したと伝えられています。
やっと「モナ・リザ」はルーブル美術館の本来に場所に戻り、翌年1月4日から公開されました。

 この事件は、結末が余りにも“間の抜けた”終結で、その発見直後から疑問を呈していた様です。
古美術商に持ち込めば、公安関係者(イタリアには、美術専門の特捜警察組織が現在も存在します)に通報され、拘束される事は明らかであり、2年近くも隠匿しながら、何故その様な安易な行為を行ったのでしょうか?
この2年の間に精巧な模写が描かれ、ルーブル美術館に戻った「モナ・リザ」は贋作の方で在ると考える人物も多く存在しています。

補遺

 森鴎外には、外国新聞からおもしろいニュースを見つけて翻訳し、「椋鳥通信」「水のあなたより」等と題して、海外からの便りの形をとって、雑誌「ずばる」等に連載したものが在り、「鴎外全集」にも収録されています。
その部分を読むと、モナ・リザ盗難事件の発生から解決迄を辿る事ができます。

続く・・・


2013/11/23

歴史のお話その266:語り継がれる伝説、伝承、物語53

<琥珀の間の行方>

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 ドイツ第三帝国が、1939年のポーランド侵攻以来、電撃作戦の名の基に破竹の快進撃と続けた時期、ヨーロッパは当に暗黒の時代でした。
非占領地の人々は、レジスタンスを組織し、抵抗を繰り返しましたが、大きな効果を上げる事は出来ませんでした。
ナチスは、その侵略占領地域の美術工芸品を次々と、ベルリンに移送しました。
“琥珀の間”は、東部戦線の開戦後、ソビエト連邦内に侵攻したドイツ軍よって、ソビエト領外に持ちさられた、当時時価5千万ルーブル(180億円以上:資料が古く現在の時価は不明、昭和48年時)と見積もられる国家的財宝です。

 ドイツ軍は、レニングラード(現:サンクトペテルスブルグ)郊外24kmに位置するプーシキン(現ツァールスコエ・セロ(皇帝の小さな村の意)に侵攻、ここには、エカテリーナ宮殿が在ります。

 女帝エカテリーナ2世と言えば、帝政ロシア華やかなりし頃、その絶大な権力を誇った皇帝であり、エカテリーナの王冠は、頂上に小さな十字架を立て、高さ27cmのドーム型に金銀、ダイヤモンド、ルビー、真珠等総計実に2858カラットの宝物で構成されています。
又、女帝が身に付けていた、巨大ダイヤ“オルロフ”は196カラットと言う比類無い大きさの宝物は、インドで発見され、1773年にアルメニア商人を通じて、ロシアのオルロフ伯爵の手に渡り、翌年、女帝に献上されました。

 以上2点を含む、諸々の財宝は、何れも現在、クレムリン最高会議場近くの宝物貯蔵庫“オルジェイナヤ・バラータ”に収蔵されていますが、此処には、南ウラルで産出した世界最大の自然金塊“大三角”の他ダイヤモンド“皇帝”等の貴石名玉が収納されています。

エカテリーナ宮殿の踏み込んだドイツ軍が、最初に目をつけたのは、“琥珀の間”でした。
此処は、55㎡に及ぶ室内の壁面全体が、精巧な琥珀の彫刻によって埋められており、部屋そのものが財宝で有り、美術品でした。
琥珀の間に使用された琥珀の総重量は6トン、約10万個に及ぶが、エカテリーナ2世が祝典応接室の名目で1770年に完成させた。

 本来は、1700年代の初め、プロシアのヴィルヘルム一世が自分の書斎として造営を命じ、後にロシアのピョトール大帝に献上した、歴史的宝物で、大帝の没後は、エカテリーナ宮殿の一室に移設されていました。
エカテリーナ2世はこの部屋をこよなく愛し、自らの許しがなければ入室を認めない禁断の部屋でした。
ドイツ軍は“琥珀の間”をそっくり取り外して、他の貴重品と共に、遥かは離れた東プロイセンのケーニヒスベルグ(旧:カリーニングラード)へ移送してしまいます。
この作業を指揮したのは、ナチス幹部のエーリッヒ・コッホでした。
独ソ戦終結後、ソビエト共産党は、この為の国家調査委員会まで設置し、関係者に対する懸命な追求を行ったものの“琥珀の間”が一端ケーニヒスベルグの美術館に、隠匿されたところ迄は解明できましたが、其処から先の情報を得る事が出来ませんでした。

 最大のキーパーソンであると思われた、同美術館の館長 ロード博士が、ソビエト国家調査委員会の厳しい尋問のも屈せず、突如、その婦人と共に死体となって発見される事件迄発生しました。

 そして、もう一人の証人、ナチス幹部のエーリッヒ・コッホは、潜伏先のポーランドで逮捕され、重要戦争犯罪人として、死刑宣告を受け、刑務所に収監されました。
しかし、“琥珀の間”については頑強に口を閉ざし、戦後20年を経過した頃、僅かに「ユダヤ人を使い、市内ボナルト地区に在った教会地下室に収納した。作業後、教会を爆破して地下室を塞ぎ、作業したユダヤ人を全て銃殺した」と伝えられています。
肝心の教会の名前や、所在地に関しては「全く忘れてしまって、思い出せない」との言葉で結ばれていました。

 ケーニヒスベルグは、旧ソビエト連邦領でも、ポーランド国境に接した、バルト海に臨む町で、戦火と戦後の都市復興計画で、町の様相は細部に至る迄変貌しています。
現在でも、この町の何処かに・・・?

 現在のエカテリーナ宮殿にある琥珀の間は、ロシアが国家を挙げて復元しました。
サンクトペテルブルクに建都300年、ドイツ軍に持ち去られてから62年後の2003年5月の事でした。
復元には24年間の歳月を要し、この式典がフランス、エビアン サミットの前だったこともあり、小泉首相はじめ各国首脳が集まった事はまだ記憶に新しいと思いますが、その際琥珀の間も各国首脳に披露され日本のテレビでも紹介されたのでご覧になった方もいらっしゃるのと思います。
もちろん招待された首脳の中にはシュレーダー独首相も含まれており、確かにドイツによって持ち去られた琥珀の間ですが、復元に際し、大きな資金提供をしたのもドイツなのです。

続く・・・

2013/11/21

歴史のお話その265:語り継がれる伝説、伝承、物語52

<エルミタージュ>

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 ロマノフ朝第8代ロシア皇帝、夫はロマノフ朝第7代ロシア皇帝ピョートル3世。
ドイツで貴族の娘として生まれ、父はドイツ小邦領主、母も地方貴族出身という裕福な家庭で育ち、2歳の時から家庭教師カルデル嬢に育てられ、フランス語に堪能で合理的な精神を持った少女に成長しました。
乗馬も達者でしたが、其れほどの美貌では無かったと伝えられています。

 ドイツで育った為、ロシア文化に不慣れではありましたが、エカチェリーナは努力してロシア語を学ぶ等、ロシア貴族間の人気を得て行きました。
エカチェリーナ2世は、当時ヨーロッパで流行していた啓蒙思想の崇拝者で、教育や社会制度の改革に取り組みましたが、国内で特筆すべき成果を上げる事は出来ませんでした。
やがて勃発たフランス革命には、強い脅威を感じ、晩年には国内を引き締め、自由主義を弾圧していきます。

 豪放磊落で、派手好みのエカチェリーナ2世は、積極的な外交政策を推進し、オスマン・トルコ帝国との露土戦争や3回のポーランド分割など通してロシア帝国領土を大きく拡大し、ボリショイ劇場や離宮エルミタージュ宮殿(現在のエルミタージュ美術館)の建設にも熱心でした。
様々な分野で才能を発揮したエカチェリーナ2世は、芸術にも強い興味を持っていたのです。
ロシア国内はもとより、ヨーロッパ各地から名画・彫刻・陶器等々を買い続け、現在エルミタージュ美術館の所蔵作品は300万点、展示室は400室と云われ、世界的にも最大規模の美術館となっています。
このエルミタージュ美術館の名前の由来は、フランス語で「隠れ家」を意味する「エルミタージュ」。
当初は王侯貴族の収集品を収めるだけで、一般向けの開館はしていませんでしたが、19世紀末に一般向けに開館しました。
美術品コレクターとして有名なエカチェリーナ2世ですが、私生活面でも数百ともいわれる男性愛人をコレクションし、夜毎人を変えて寝室をともにしていたとか。
恐るべし、・・・ですね・・・!

 因みに、ロシア民謡(ソビエト歌謡)「カチューシャ」の名前は、エカチェリーナの愛称です。

続く・・・
2013/11/20

歴史のお話その264:語り継がれる伝説、伝承、物語51

<全ての道はローマに通ず>

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 ローマ帝国は、その最盛期、版図はペルシア湾からブリテン島のルンバーに迄広がり、ヨーロッパ大陸とイギリスには、8万kmに及ぶ幹線道路が造られていました。
その為、帝国内の移動は、極めて迅速且つ安全に行われ、更に砦、軍団駐屯地、町や村、港、駅が設けられ、幹線道路の間には、地方道も整備されてその総延長は40万kmにも及びました。

 アウグストウス帝が創設した、郵便制度をはじめ、ローマ帝国のあらゆる産業活動が、この幹線道路を利用したのです。

 当時、定期郵便は、1日160kmの速度で運ばれ、現在のスコットランド国境に近い守備隊が投函した手紙は、5日以内に現在のロンドンに到着しました。
重要な通信文は、早馬でリレー式に運ばれ、1日320kmの速度で運ばれたのです。

 ローマ帝国では、道路建設が国家建設と同様に重要な事業と位置付けられ、道路の建設や保守管理工事は、政府高官で無ければ行う事が、事実上不可能でした。
道路工事は、当時、膨大な費用を要し、有名なアッピア街道を建設する為に要した費用は、現在の円に換算して1km当たり200万円以上と推定されています。

 ローマの技術者は、地形を無視して、定規で引いた様な一直線の道路を建設しましたが、山を切り開き、又谷を埋め、沼地に橋を掛け、海に達すると、その対岸に道路が姿を現したのでした。
ローマ市から29本の主要幹線道路が放射状に延び、辺境地域迄及んでいました。
道は、1.2mから1.5mの高さに土盛を行い、石で固められ、排水効果に優れ、何世紀もの使用に耐えました。
道幅は、4.4m乃至4.8mで、現在の大型車両でも十分対面交通が可能な幅員を持ち、更に道路の両側には1段高い歩道が設けられていました。

 道路設営は、十分な計画を練った上で行われ、まず表土を取り除き、重い石を敷き詰め、その上に小石、破砕タイル、煉瓦を入れ白亜をモルタルで固めた層を作り、表面は排水の為、中央が高い形にし、板石をセメントで固定して両側に縁石を設置しました。

 道には、距離標を設けて、最寄りの街迄の距離を示し、一定の距離間に駅舎を設けて、早馬を準備し、宿舎の施設も設けられました。
ローマの道路網は、基礎計画が大変優れていた事から、更に工事技術が極めて高度で在った為、2000年間に渡ってヨーロッパ都市間交通の主要手段と成り、鉄道が登場する迄、この道路網が最も早い交通手段だったのでした。

歴史の皮肉

 ローマ帝国が、最も繁栄した時代において、ロンドンからローマ迄の旅は、わずか13日を要するだけでした。
其れから、ほぼ2000年後、イギリスの新首相に決定した、ロバート・ピールが、イタリアからイギリスに召還された時、帰国に要した日数が、2000年前と同じ13日でした。

 イギリスでは、ローマ時代の道路が、何本か現在でも使用されています。
元来、征服者が、敵意に漲るイギリス人を支配する目的で、造った道路が、2000年後の今日、そのイギリス人に恩恵を与えているのですから、歴史は何と皮肉な事なのでしょう。

続く・・・
2013/11/20

歴史のお話その263:語り継がれる伝説、伝承、物語㊿

<ナポレオンの財宝その2>

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◎歴代ロシア皇帝による探索

 これまでの経過から、ロシアの地の何処かに“財宝”は隠匿される事と成りましたが、この事実が現実のものとして明るみに出たのは、第二次世界大戦終結後、当時のソビエト政府が旧帝政ロシア外務省の未発表資料を公開した時の事でした。

例1
 1815年10月21日付、元プロイセン首相エンゲルハルトより、同国国王宛書簡
1812年3月、エンゲルハルト私邸にロシアから生還したフランス人将校2名が止宿した。その2名の目撃談として、「コブノ市(現:リトアニア共和国カプナス市)郊外の教会付近で、土木作業中のフランス砲兵を見かけた。彼らは財宝を詰めた木箱を地中に埋め隠したが、80万フランに相当する金額であると言っていた」。
同書簡はプロシア国王から、ベルリン駐在ロシア大使を通じて、当時のロシア皇帝に渡されているものの、発掘作業が実際に行われたか否かについては、記録されていません。

例2
 1823年10月付、近衛兵本部副官フリデリクスより、本部宛書簡
「ナポレオン軍に徴兵され、捕虜と成ったドイツ人傭兵の告白により、大ダル4個に分納された財宝の隠匿先が判明した為、その証言に基づき旧ミンスク・ボリゾフ市近郊のベレジナ川流域探索を行った」。
この書簡も結果については、不明ですが、皇帝の特令によって、発見の暁には、その半額が下賜される旨、明記されています。

 この後、侍従武官長ペンケンドルフの指揮の基行われた大捜索(1839年~1840年)迄、歴代皇帝は、度々“ナポレオンの財宝”捜索を実施し、又は半額下賜の夢を追って、ロシアへの入国申請を行う者も多数に上りました。

◎黄金の湖

 さて、木箱、大ダルと説は様々ですが、それが分散隠匿されて可能性も充分に在り、その総領は判りません。
その所在地も、ビリノ(リトアニア共和国・ヴィリニュス市)、ロシア共和国スモレンスク・オルシャ(ベラルーシ)間、ボリゾフ近郊と様々ですが、この何れもが、ナポレオン軍のモスクワ遠征軍退却路上に位置する事も確かで、何れかが正しいなら、他は間違いと言う意味では有りません。

 この中で最も可能性が高い場所が、モスクワ・スモレンスクのほぼ中間に位置する付近。
1812年11月2日、クツゾフ将軍の追撃を受けた際、「“財宝”をスモレンスク街道に沿った小さな湖水に沈めた」との通説が最有力候補なのです。

 ナポレオン軍のモスクワ撤退開始は、10月19日、スモレンスク到着は、11月中旬です。
逆算すれば、先之11月2日は、恐らくモスクワ・スモレンスクの中間に位置するロシア共和国ウイジマ市付近と推定されています。

 先に記述した、ソビエト政府によって水質、土質調査されたストヤーチエ湖は、ウイジマ市から39kmの場所に位置し、勿論、セント・ヘレナ島の改修工事では、この種の記録は発見されませんでしたが、同湖を基準点と判断するのは無謀な事とは、思えません。

 はたして、同湖水の高濃度銀含有量は、“財宝”の場所を暗示するものでしょうか?
例え、発見された時は、他にも多くの“ナポレオンの財宝”が、現実に隠匿埋蔵されている事の証明にも成ります。
古くから云われる様に、スモレンスク街道は、“黄金の街道”なのでしょうか?

続く・・・


2013/11/18

歴史のお話その262:語り継がれる伝説、伝承、物語㊾

<ナポレオンの財宝その1>

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 昭和27年(1952年)の年末、アフリカ南部の大西洋に浮かぶセント・ヘレナ島で、遺構の修築工事が開始されました。
ナポレオン・ボナパルトが、失意の生涯を終えた島で、島自体はイギリス領ですが、ナポレオンが晩年を終えた建物はだけは、フランスの所有で、その建物が長年の風雨と白蟻に侵食された為、フランス政府がイギリス人建築家バシル・ハート氏にその修築を依頼したのでした。

 遺構の修築と言う、現在なら良く伝えられる事柄なのですが、別の観点からこの作業を注目した人々が、存在したのも事実です。

 昭和36年(1961年)11月、旧ソビエト連邦の青年共産同盟機関紙「コムソモリスカヤ・プラウダ」が、モスクワ・スモレンスク間に位置する、ストヤーチエ湖についての報告書を掲載しました。
同湖の銀含有率が、通常の湖水の100倍に達し、又水底調査の結果、湖底に“伝導性の高い硬い物体”が存在している事が判明しました。

 ナポレオンの遺構の修築工事と、ソビエト領内の湖水の銀含有量調査結果が、どの様な関係にあるのでしょうか?
つまり、遺構修築工事において、ナポレオンがロシア遠征のおり、ロシア領内から略奪した貴金属品の埋蔵場所を印す何かが発見されるのでないか?と期待された上、上述のソビエトの新聞発表が余りにも符合するのです。

 このお話が、事実なのか、虚構なのかは判りませんが、2世紀近くを経過しても尚、存在し続ける歴史の謎なのです。
一代の英雄偉人には、まず必ずと言って良い程、財宝伝説がまといつきます。
其れは、英雄偉人その人に抱く尊敬や懐かしさの念の変形であり、一攫千金の夢の仮託なのでしょう。
しかし、“ナポレオンの財宝”に関する限り、其れは明らかに「史実」と云われています。

◎悲劇のモスクワ撤退

 私達が、ナポレオン・ボナパルトに関して抱くイメージは、戦争、軍隊と云った荒々しい面ですが、一方、国民投票によって皇帝に就任した彼は、カトリック信仰を解禁し、フランス銀行を設置し、初等・中等教育拡充の為学校を大々的に増設し、メートル法を制定し、個人の自由平等を柱とする民法典を作りと云った面は、佳麗な戦闘記録に隠されて、つい見落とされがちです。

 同様にモスクワからの雪の退却についても、もっぱら彼の悲劇的運命のみが強調され、モスクワで“取得した物”については、語られる事は少ないのも事実ですが、“奪われた人々”に取っては、忘れる事は出来ない事も事実なのです。
帝政ロシアに在っては、“ナポレオンの財宝”探索の長い歴史が存在します。

◎史実に残る財宝

 ナポレオンが、ヨーロッパ各国から徴兵した、大混成遠征軍が、アレクサンドル一世統治下の都モスクワに入城したのは、1812年9月15日、ロシア軍は焦土作戦を展開し、火を放ってモスクワから撤退します。

 缶詰と言う“近代食品”はナポレオンがこの遠征の為に、携行用保存食のアイデアを公募して生まれたものと云われています。
しかし、結果的に食料欠乏が、ナポレオン軍の致命的失策となり、途中の町にもモスクワにも、ロシア軍の撤退した後には、一粒の麦も残されていませんでした。
そして迫り来る“無敵の冬将軍”後年、ナチス・ドイツ機械化部隊を尽く破滅に持ち込んだロシアの冬。
飢えと寒さに追われて、ナポレオン軍は空しく、モスクワから撤退します。
ニーメン川を渡って進軍を開始した時、60万人を数えた遠征軍は、モスクワ撤退時10万人、兵站基地と成ったスモレンスク迄到達した時5万人、ベレジナ川を渡ってロシアの勢力圏を脱した時には、3万人に満たない数でした。

 この数字は、遠征軍の帰路が如何に悲惨なものだったかを、物語っていますが、ナポレオンがモスクワ撤退にあたって、膨大な数に及ぶ、美術品、宝石、什器、武具等を略奪したのも、史実に明らかなのです。

 飢えと寒さによって疲弊した軍隊、激しい追撃を行うロシア軍、900kmを越す長い道程、この状況で多量の“財宝”を加える事は到底無理な話で、ナポレオン軍は、略奪した是等を、廃棄若しくは、隠蔽するしかないのでした。
恐らく、敗走時には、フランス士官によって管理運搬されたのでしょうが、やがて“荷物”となり部下の将兵に預けられ、更には“厄介物”としてプロイセン、オーストリア、オランダ、バイエルン、ポーランド等の外国人傭兵にリレーされ、最後は命に替え難いとされ、遺棄乃至隠匿されたと推察する説が大部分なのです。

続く・・・


2013/11/16

歴史のお話その261:語り継がれる伝説、伝承、物語㊽

<トロイを求めて・少年時代の夢に捧げた半生>

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 彼の生涯を決定付け、考古学の歴史に、重要な一章を書き加えるきっかけと成った、クリスマス・プレゼントを父親から贈られた時、ハインリッヒ・シュリーマンは、僅か7歳の少年でした。
その贈り物とは、挿絵の入った本で、古代ギリシアの軍勢に攻め落とされ、火炎に包まれるトロイの情景が描かれていました。

 この絵を見た瞬間から、シュリーマンの幼い心は激しく、直向な思いに捕らわれたのです。
トロイの遺跡を見つけ、疑い深い世間に、ホメロスのトロイ攻略の話が全くの真実であり、単なる詩的な空想ではない事を、証明してやろうと思ったのでした。
此れは、雑貨屋の使い走りをしている、貧乏牧師の息子には、殆んど不可能な目標に見えましたが、来るべき仕事に備えて、古代ギリシア語を独学し、40歳代の初めには、仕事をやめても十分生活していけるだけの蓄財を築き上げたのでした。
その上、1869年には、理想的な妻となる、ギリシア人の花嫁を見つけました。
彼女は、ソフィアといい、まだ10代のアテネ娘でした。

◎トロイの地

 頭の中を駆け巡る、ヘクトル、アキレス、アイアスの名前を片時も忘れる事はなく、47歳のシュリーマンとソフィアは、ホメロスの「風強きトロイの野」を求めて、ダーダネルスに向けて旅立ちました。
彼は、100人余りの作業員を雇い、発掘作業を開始したのです。
シュリーマンは、トロイがヒッサリックという、標高49mの丘に存在したと云う、地方の伝承を信じ、この話は、ホメロスに関する彼の知識と一致していました。
その丘には、何らかの遺跡が埋蔵されている事は、現地では既に知られていましたが、当時、考古学は現在の様に学問として確立された分野ではなく、又シュリーマン自身も、実際に発掘に携わるのは初めての経験でした。

 作業員達は、ヒッサリックの地下に何が存在するのか確認する為、北側の急斜面に深い溝を掘りました。
一行は、直ぐに何時の時代に属するのかも判らない、入り組んだ遺跡に到達しましたが、後日、この複雑な遺跡は、9個の異なる都市の痕跡が、階層を成して互いに重なり合っているものである事が判明したのです。

 シュリーマンは発掘作業を継続し、終に失われた都市の、高さ6mは在ったと推定される、城壁後に行き着いたのでした。
嘗て、ヘレネの誘拐に報復する為、ギリシア軍の進行をパリスが見守っていたのは、当にこの城壁に上からのはずでした。

◎ヘレネの財宝?

 2年間に及ぶ作業の後、1873年6月14日、彼の目の前には、目も眩む様な財宝が広げられていました。
8700点にのぼる、感嘆すべき金の装飾品の数々で、中でも特に注目に値する出土品は、16,000個の純金の小片で作られた、額から肩まで届く宝冠でした。

 喜びの涙を浮かべながら、彼は美しい妻に宝冠を被せ、彼女を抱きしめて叫んだのです。
「私達の生涯で最も素晴らしい瞬間だ!お前はトロイのヘレネの生まれ変わりだ!」と。
この発見は、発掘作業のロマンティックな終焉に相応しいものでしたが、シュリーマンの判断は間違っていたのです。
彼が発見した古代の都市は、トロイではなく、もっと古い時代に属する都市で、問題に宝冠は、紀元前2300年頃の物であって、ヘレネが生れる1000年以上も昔の、別の王族が身に付けた物でした。

 現在、考古学の定説では、ホメロスによって詠われたトロイは、紀元前1200年頃、ギリシア軍の侵略によって滅亡したものと推定されており、9層に堆積した都市遺構の上部から3層目の都市遺構が、此れに当たるとされています。
シュリーマンは、作業員達がこの層を掘り抜いてしまった為、この都市遺跡を見逃したのでした。

◎夢を追って

 彼が発見した財宝は、ヒッサリックの丘の低部に近い部分に埋没した、他の時代に属する都市の物で、後に彼はその間違いを認めています。
其れでも、現在の研究者達は、ホメロスのトロイ発見の功績と、同じく、更に古い先史青銅器文化の属する古代都市の発見者の名誉を、ハインリッヒ・シュリーマンのものとして彼の功績を称えています。
此れは、夢を追う事に生涯を捧げ、終に其れを成し遂げた、雑貨屋の使い走りの少年に相応しい碑銘でした。

続く・・・
2013/11/15

歴史のお話その260:語り継がれる伝説、伝承、物語㊼

<王家の谷>

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発見時の玄室扉の封印

 ハワード・カーターは、次第に絶望的になって行きました。
彼は25年近くも、少年王ツタンカーメンの墓を探し続けてきましたが、発掘の資金は、既に尽き様としていました。
更には、仲間達の間からも、次第に疑問の声が、上がり始めたのです。

 この英国人考古学者は、その墓が古都テーベの地に在る、王家の谷の何処かに存在する事に、間違い無いと確信していました。
彼がそう信じた理由は、近郊のルクソールの神殿に、ツタンカーメンに関する碑文が存在する事、又、その王墓は依然として略奪を受けていないと考えました。
是まで、ツタンカーメン王の遺品が、何一つ報告されていない為でしたが、発掘を開始してから10年間に発見された物は、壺が数個と王に名前が入った、衣類程度に過ぎませんでした。
その後には、谷を隈なく掘り返しても、何の成果も在りませんでした。

 カーターは明け方の涼しい砂の上を、発掘現場に向かって、ゆっくりと歩きながら、彼の後援者で、アマチュア考古学者のカーナボン卿の事を考え、イギリス、ハンプシャーの館での最後の話し合いを思い出していました。

 カーナボン卿は、発掘の中止を望んでおりましたが、カーターはもう一度、最後の費用を捻出する事を訴えたのでした。

 カーナボン卿は彼に語ります。

「先生、私は賭博師のようなものだ。
もう一度、君に賭けよう。
もし、失敗したら、それで終わりだ。
何処を掘ろうと言うのかね?」

 カーターは、王家の谷の地図を見せながら、ラムセス6世の墓への出入口になっている為、未だ未調査の小さな区画を示して言いました。

「此処です!残っている最後の場所です!」

 今、発掘現場に近づきながら、カーターは此れが、彼の夢の侘しい結末らしいと考えており、彼と作業員は、此れまで3ヶ月間、その場所を掘り返したものの、何も発見できませんでした。

 しかし、彼がその場所についた時、作業員頭のアリが走ってきて言いました。
「岩を刻んだ階段が出てきた!」
そして、2日目、封印された扉に通じる急な階段が掘り出され、カーターは直ぐに、カーナボン卿に電報を打ちました。

 「終に、谷で素晴らしい発見、盗掘の痕跡の無い封印のある壮大な王墓。到着迄は、元通り埋め戻しておきます。おめでとう」

 日付は、1922年11月6日の事でした。

 カーナボン卿の到着を待ち、数日かかって扉を壊し、石が詰まった通路を整備し、そして二人は第二の封印された扉の前に立ちました。
其れは、考古学者ハワード・カーターにとって、重大な瞬間でした。
カーナボン卿が肩越しに覗き込んでいる間に、カーターは扉の一部を削り、明かりを差し込んで、中を覗けるだけの穴を開けました。
彼は次の様に書き残しています。

 「初め、私は何も見えなかったが、内部から流れ出す熱い空気が炎をゆらめかせた。
しかし、目が明かりに慣れるにつれ、靄の中から、ゆっくりと部屋の中の細かい様子が見えて来た。
奇妙な動物、彫像、そして黄金、あたり一面、黄金が輝いていた。
少しの間、私は驚きにあまり、口が聞けなかったが、側に立っている人々には、その時間が永遠と感じられたに違いない。
カーナボン卿は、この沈黙に耐えられず、心配そうに訪ねた。
『何かみえますか?』
私は只、『ええ、素晴らしいものです』と呟く事しか出来なかった。」

 王墓は、4つの部屋からなり、其処には宝石箱、壺、宝石のはまった金張りの玉座、家具、衣装、武器等が詰まっていました。
埋葬室には、2体の黒い彫像に側面を守られ、4重の金色の厨子と、内側に3重の棺を納めた石棺が在りました。

 いちばん内側の棺は純金で、作られており、宝石を散りばめた経帷子に包まれて、ツタンカーメン王のミイラが納められており、顔は水晶とラピスラズリを象眼した、黄金のマスクで覆われ、首から胸にかけて、ヤグルマギク、ユリ、ハスの花で作られた、花輪が置かれていました。
3300年の時を経過したにも関わらず、その花は、まだ微かな色合いを残していたのです。

 王墓の中には、キリストがこの世に現れる、1350年前のエジプトの伝説的なファラオの日常生活が、そっくりそのまま納められていたのです。
この発掘作業は、考古学史上の発見の内でも、もっとも素晴らしいものの一つでした。

続く・・・


2013/11/14

歴史のお話その259:語り継がれる伝説、伝承、物語㊽

<ベスビオの麓で・ポンペイ>

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ポンペイ最後の日・紀元79年8月25日

 1人の男性は、石を敷き詰めた通りに倒れており、その手には、一握りの金貨を確りと握り締めていました。
この男性が、如何なる処遇の人物で在ったのかは、永遠に判らない事でしょう。
男性の身の上は別にしても、1500年以上もの間、金貨を掌に握り締めたまま、18世紀にその遺体が発見される迄、灰と溶岩に埋もれている事になるのが、彼の運命でした。

 彼は、ポンペイの市民で、この町はナポリ湾に近い、金持ちのローマ人の為の、夏の保養地でしたが、ベスビオ火山の噴火した、西暦79年8月24日を境に、地上から抹消されてしまいました。
しかし、火山は町を破壊しましたが、一方では、保存し続けて来たのです。

 商店の主人達は、昼食の為に、木製の鎧戸を閉めようとしており、少女達は街角の泉で、おしゃべりをしていました。
パン屋はちょうど釜戸に、81個のパン種を入れたところでしたし、酒場では客が代金を支払っていたその時、町を大きな地震が襲ったのでした。
殆どの人々は直ぐに町を離れましたが、地震は、危険の最初の合図に過ぎませんでした。
しかし、どうしても町を離れる事が出来ない人々も居たのでした。

 ある一団は、友人の葬儀の席にかしこまって座ったままの姿で発見され、貴重品を埋める為に穴を掘っていた人物は、その穴に自分が埋まる結果となり、或る者は自宅に隠れました。
可也の人々が家財道具を車に積み込みましたが、此れはポンペイの狭い門の処で身動きが出来なく成っていました。
この時、ベスビオ火山は静になっていましたが、28時間後、ポンペイの町は、厚さ6mの溶岩に埋まり、2万人の人口の内2000人が犠牲と成りました。

 ポンペイの町を襲った悲劇は、其の後幾世紀の間、殆んど忘れ去られていましたが、1748年、ナポリの水道技師アルクビエルレが、彼の時代から150年程前、近郊のサレルノ川から水を引く為に掘られたトンネルの調査を行いました。
全く、偶然の幸運によって、彼が掘った竪穴は、ポンペイの中心街と思われる箇所に到達し、彼は其処で素晴らしい壁画を発見し、他に金貨を握り締めた、冒頭の男性の遺骸を発見したのです。

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19世紀の発掘作業

 1763年には、ドイツ人ヨハン・ピンケルマンが、ポンペイの秘密に魅せられ調査に取り掛かり、彼は苦労して身に付けた学識をもとに、雑多な碑文を集めて、そこから、古代ローマの海辺の保養地における6世紀にもわたる生活の記録をまとめ上げたのでした。

 イタリアの考古学者ジョゼッペ・フィオレルリが、現在の様な科学的な発掘方法を確立する為には、更に1世紀の期間を要しました。

 現在、発掘作業は家から家へ、通りから通りへとゆっくりと進行し、発掘作業中に発見した物が一切失われる事が無い様に、細心の注意を払った作業が続いています。
そして、ポンペイは、現在全面積の5分の2しか調査が成されておらず、未だ溶岩に閉ざされた中には、今までの発見よりも更に重要な遺産が、発見される十分な可能性を秘めているのです。

続く・・・

2013/11/13

歴史のお話その258:語り継がれる伝説、伝承、物語㊼

<密林の中の都>

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 1861年、フランス人博物学者アンリ・ムーオは、カンボジア北部の密林の中を進んでいました。
突然、木々の梢越しに3基の高い搭を認めたのです。
是がアンコール・ワットの小尖搭で、アンコール・ワットは、アジア屈指の壮麗な寺院で、この発見は、失われた伝説の都、アンコール・トムが発見された事を告げるものでした。
アンコール・トムは、偉大なクメール帝国の首都で、500年前に放棄され、熱帯の密林に閉ざされ、忘れ去られていたのでした。

 アンコールは、廃墟に成った現代でも、私達に驚きを与えてくれる存在で、周囲を堀が取り囲み、この堀には嘗てワニが入れられており、その後は土を築いた高い防塁となっていました。
アンコール・トムを建設した王は、ジャヤバルマン2世(在位770年~850年)でしたが、彼は、自らを神と称し、自らの権力と帝国の富を誇示する為に、首都建設に邁進したのです。

 堀は正方形で、一辺の長さは約3km、城壁の内側には、古代ローマ市がそのまま納まって余りある広さでしたが、ここに暮らしたのは、王家で在って、一般の市民は城壁の外に暮らしたのです。
この場所は、宗教と政治の中心地であり、4本の広い舗装道路が、堀を渡り、大きな関門を通って市内と結ばれていました。

◎ライ王のテラス

 4本の道路は、街の中心部の大広場で交互に繋がり、この広場は、彫刻のある二つのテラス、王家のテラスとライ王のテラスと名付けられた場所に接しています。
その正面には、精巧な彫刻が施された、踊り子のテラスが在り、ここアンコールで壮麗なのは、砂岩で造られた彫刻群で、舗装道路は何れも、架空の動物を支えた巨人や神の姿を彫った、欄干が造られています。
市内と城内を隔てる関門にも精巧な彫刻が、一面を飾り、搭の上には、頭を三つ持った象の紋章が、掲げられています。

 王家のテラスは、国王や王妃、王子や王女、ライオンや象、ヒンズーの宗教物語の人物像で満たされ、極めて高度な文明社会のあらゆる活動を題材にした、彫刻も多数に及びます。
その造詣は、見事で一瞬、動きを止めた様に見える程なのです。

◎記念碑

 しかし、アンコールの最も崇高な記念碑は、城壁から1.5kmの処に在る、アンコール・ワット(大寺院)で、スールヤヴァルマン2世(在位1112年~1152年)によって建立されたこの寺院は、世界の寺院の中で、最も壮麗な寺院の一つに上げられています。
この国王の時代、クメール帝国はその繁栄の頂点に達しました。
アンコール・ワットは、全長6.5kmの正方形の堀に囲まれ、寺院は池や回廊、露台、廟、階段が複雑に入り乱れ、中央の礼拝堂を囲む回廊には、伝説やヒンズー教の聖典に題材を選んだ、躍動する様な彫刻を施された壁が、高さ2.5mで約800mの回廊を取り囲み、その上に三段の階層を成した寺院がそそり立ち、中央の65mの搭を含めて5基の搭が立っています。
この搭群が、アンリ・ムーオをアンコールの廃墟へと導いたのでした。

◎衰退

 スールヤヴァルマン2世の崩御から、25年後の1177年、現在のラオス方面から帝国に侵入した、チャム族によって、アンコールは占領され、略奪の対象と成り、その2年後、チャム族はヤショヴァルマン7世によって討伐されるものの、帝国の情勢は不安定なものに成って行きました。

 是から150年の間、クメール帝国は西方のタイ族(シャム族)北方のモンゴル族の侵入を受け、特にタイ族はアンコールを1369年、1388年、更に1431年の3回に渡って占領し、都市が如何なる防塁を築いても、既に防衛する事が不可能だったのです。

 アンコールを支えていた、米作の為の複雑な灌漑設備もその時破壊され、やがて首都機能は、1434年現在のプノンペン近郊に移され、アンコールは密林に遺棄されたのでした。

続く・・・

2013/11/10

歴史のお話その257:語り継がれる伝説、伝承、物語㊻

<シャクルトン調査隊の生還その2> 

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 翌日、彼らは島に上陸して横断し、反対側に在る捕鯨事務所迄行こうと提案しました。
しかし、サウスジョージア島の雪山や氷河の向こうに何が在るのか、誰一人として、其れを知る者など居ませんでしたが、シャクルトンは断固としてこのルートを試みました。
もし、海上を進んで、難破等の事態になれば、エレファント島に残してきた仲間は、死を待つのみと成るからです。

 彼らはキングホーン湾に上陸、洞窟を見つけ、アホウドリの雛を捕らえて食べた時は、余りの空腹に骨まで食べてしまった程で、近くに流れる河の水は、まるで蜜の様な味に感じました。
木の葉や苔を集めてベッドを作り、やっと2週間ぶりに安眠する事も出来ました。

 1916年5月19日、空が晴れて月が輝き、シャクルトン、クリーン、ウォースリーの三人は、同行する事が出来ない三人を残して、島の横断に出発しました。
ウォースリーが磁石で方角を調べ、行く先を示すと、三人は安全の為ロープでお互いの体を結んで進み、時には深さ60m以上も在る大きな谷に危うく、転落しそうになった時も有ったのです。

 終に三人は、尾根に到達、そこは鋭く切り立った場所で、足を両側に垂らす事が出来る程でした。
夜に成ると、霧と闇に退路を断たれ、もし動かなければ、間違い無く凍死してしまいますが、凍った岩肌に足場を作りながら降りて行く事は、時間が掛かりすぎてしまいます。
シャクルトンは言いました。
「是は、とんでもない一か八かの勝負だが、やるほか無い。滑って行こう」

 ウォースリーは後日、この時の事を次の様に話しています。
「我々は、ロープを巻いて、それぞれ小さな座布団を作り、是を敷いて斜面を滑ろうという訳だ。
シャクルトンは、氷を削って、足場を作り、其処に腰を降ろした。
私は、彼の後ろに付き、彼の首を抱える様にしてしがみついた。
クリーンが私の後ろに付き、同様な姿に成り、私達は一塊になって、シャクルトンの一蹴りを合図に滑り始めた。

 我々は、空間目指して打ち出された様な気分で、私は恐怖に髪の毛が逆立ったものの、突然満足感を覚え、自分が笑っている事に気が付いた。
本当の話、楽しんでいたのだ。
我々は、急斜面の山腹を、時速100km近い猛スピードで滑り下りた。
私は興奮の余り、大声で叫んだ。
気が付くと、シャクルトンもクリーンも、大声で叫んでいた。
私は、この滑降が途方も無く安全な様に思われた。

 徐所に速度が落ちて、我々は雪の吹き溜まりの処で止まった。
我々は、起き上がって、真面目くさった顔で、やたらと握手を繰り返した」

 3人は36時間掛かって、サウスジョージア島を横断、ついに捕鯨事務所に辿り着いた時には、あまりに酷い姿だったので、所長は彼らが誰なのか、見分けが付きませんでした。
シャクルトンの頭髪は銀色に変わっていたのです。
ウォースリーが、残してきた3人を救出する為、キングホーコン湾に帰った時には、この3人も、ウォースリーを見分けられませんでした。
もっとこの場合は、風呂に入り、髭を剃ってましな服装をしていた為、外見が全く変わっていたからでした。

 一方、エレファント島の隊員達は、転覆した2隻の船の下で、ハリケーンと氷に苦しめられながら、4ヶ月半を過ごしたのでした。
こうして、アーネスト・シャクルトン最後の長い遠征は終わりました。

 彼の海と陸の長い冒険旅行の記録は、現在でも歴史上、もっとも偉大な南極探検とされています。
彼の業績は、仲間の探検家が語った、次の言葉に、見事に象徴されています。
「科学的な面でのリーダーならスコットだ。
迅速で効率的な旅行ならアムンゼンを取る。
しかし、絶体絶命の立場におかれ、八方塞がりになったなら、跪いてシャクルトンを祈る」

続く・・・
2013/11/08

歴史のお話その256:語り継がれる伝説、伝承、物語㊺

<シャクルトン調査隊の生還その1>

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 1916年3月、絶望にうちひしがれたイギリス人が28人、南極海に在る氷の島の海岸で震えていました。
1914年以来、彼らは南極横断調査隊の隊員でしたが、2900kmにわたる、流氷と雪の荒地との闘いにすっかり弱りはてていました。
彼らの船「エンデュアランス」号は、5ヶ月前に流氷群に囲まれ沈没し、それ以来、彼らは流氷上で暮らして来ましたが、数日前、残っていた3隻の小船で、流氷を後にしたのでした。
リーダーは、ホーン岬南東のエレファント島を行き先に選びました。

 しかし、エレファント島では吹きさらしの浜辺を襲う強風がテントをズタズタにし、ペンギンの肉や海草等の食料の蓄えも底をつき、寒さに凍え、飢えに苦しむ彼らは、今度もサー・アーネスト・シャクルトンを頼りにしていました。
「我々は、船が手に入る場所に行かなければ成らない」と彼は言い、小船で長旅を行うのは、決死的行動でしたが、彼が志願者を募ると、全員が志願しました。

 5人が選ばれて、シャクルトンに同行する事と成り、行く先はフォークランド諸島のサウスジョージア島、世界最悪の大洋を僅か7m足らずの小船で、越えなくては成りません。
この時、選ばれた5人は、沈没した彼らの船の船長ウォースリー、水夫長ビンセント、大工マクニーシュ、他にトム・クリーンとティモシー・マッカーシーで、彼らは、ジェームズ・ケアード号を苦労して修理し、何とか出発できる様に準備を整えました。

 苦難の航海が始まり、突然の強風に船は危うく流氷群迄押し戻されそうに成りました。
もし、その様な事態に成れば、其れは重大な後退を意味しますが、船は波を切って進み始めました。
キャンバスのデッキの下には、狭いものの寝る為の空間が在り、食料やバラストの上を無理に通って行かない限り、その場所には、行き着く事は出来ませんでしたが、終には、濡れた寝袋が唯一の慰めと成りました。
もっとも、この寝袋に彼らが、疲れ果てて潜り込んではみたものの、安眠を約束されているはずも無く、起きている事と同じで、あまり気分の良い事では有りませんでした。
シャクルトンは、後に次の様に書いています。
「我々に向かって寄せて来る大波は、まるで巨大な壁のアーチが、覆い被さって来る様な感じだった。我々は3,4分毎にびしょぬれに成った。大波が我々の頭上で崩れ、我々はまるで滝の真下に居る様だった。そして次の大波が来る迄に、小波が数回襲って来た。小波は、船を乗り越え、我々はまたびしょぬれに成った。是が昼も夜も続き、寒さはとても厳しかった」。

 シャクルトンは、坐骨神経痛で酷く苦しんでいましたが、快活に振舞っていました。
ウォースリーが六分儀を使っている時は、両側から支えていなければならず、そうしないと、六分儀もろとも、船から落ちてしまいそうでした。
霧の為、太陽は何時もぼんやりと浮かんでいるだけでしたが、或る日の夕方近く、その霧の向こうに島影を発見しました。
サウスジョージア島でした!

続く・・・

2013/11/08

歴史のお話その255:語り継がれる伝説、伝承、物語㊹

<北極海に挑んだ船乗り>

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 極北の海に舞う水飛沫は、空中で凍り、船の外部は凍りついており、氷片は刃物の様に鋭利で、衣類を切り裂き、手袋をはめずに不用意に手すり等を握ろうでもしようなら、手のひらの皮が手すりに張り付きました。
勿論、船から海中への転落は、間違いなく死を意味していました。

 この海は、現在バレンツ海と呼ばれ、ほぼ400年前、この海に挑んで死んだ、オランダ人探検家ウィレム・バレンツの名前と取って名付けられました。

 1597年6月13日、激しい西風が、凍てついた島に吹き付け、間に合わせの避難小屋の中で、一人のオランダ士官が、この様に記録しました。
「我々の中で、もっとも優秀で頑強な者でさえ、長期間耐えてきた厳しい寒さや病気の為、すっかり衰弱し、半分の力しか出せなくなっている。これから先、長期の航海を強いられる事を考えれば、事態は良くなるよりも、ますます悪くなると思われる。食料は、せいぜい8月の終わり迄しか持たないだろう」
この手紙の署名は、船長ヘームスカーク、水先案内人ウィレム・バレンツと乗組員一同となっていて、小屋の煙突に詰め込まれていました。
この後、15人は2隻の小船に分乗して、海へと漕ぎ出したのです。

 この手紙は、それからほぼ300年後の1871年、ノルウェー捕鯨船の乗組員が、ノバヤゼムリャ島に上陸して発見しました。
そして、手紙の内容は、冷酷無残な北極海を相手に闘った、人間の苦闘の歴史を、改めて思い起こさせるものでした。

 バレンツは、インド亜大陸に至る、幻の「北西航路」を発見する仕事を、オランダ商人から依頼され、水先案内人となり、2隻の船で1596年5月に出帆しました。
スピッツベルゲン諸島を通過した所で、流氷群が北への道を閉ざしていた為、針路を東に転身し、ノバヤゼムリャ島の北端を回る事にしましたが、このルートを以前にも1度経験していた、もうい1隻の船の船長ヤン・ライプは、この針路転身を危険として、同行を断りました。

◎氷  海

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 バレンツの船がただ1隻、ノバヤゼムリ島の北端を回った時、ライプ船長の主張が正しかった事が、恐ろしい程はっきりとして来ました。
8月という時期にも関わらず、バレンツとその乗組員達は、如何にして北極の海を生き抜くか、という問題に直面したのでした。
まず、彼らは流木で島に小屋を建て、そして氷に閉じ込められた船から、食料等の物資を移し、キツネを殺して食肉にし、雪を溶かして飲料水としました。

 しかし、寒さは悪夢の様でした。
ストーブを昼夜の別無く焚きつづけ、その周りに寄り添うように固まっても、温まるのはストーブに面したのみで、背中はいつも一面の霜でした。
ベッドは、熱した石で暖め、こうして二人を除く全員が、何とか冬を越す事が出来ました。

 春が訪れ、太陽の光が戻って来て、1日の内の数時間は陽が差しましたが、その頃、船は難破船同然と成り、残った2隻のボートで脱出するしか方法は有りませんでした。
其処で彼らは手紙を書き、自分達の遭難を世界に伝え様としたのでした。

 小さなボートは、悪戦苦闘しながら島の北端を通り、南へ向かいました。
嵐が2隻のボートを襲い、彼らは大きな流氷にボートを引き上げて、非難しなければ成らない事も度々でした。
6月20日、壊血病で体力が低下していた、バレンツは、寒さと飢えに苦しみながら此処で死亡しましたが、彼は既に自分の運命を予感していたに違い有りません。

 嵐が静まると、残った人間は、猛進し、北極海を2900kmも横断し、九死に一生を得たこの一行は、終にムルマンスクに近い、コラ半島に到達し、其処には、ヤン・ライプ船長とその船が待っていました。
この慎重な船乗りは、恐ろしいバレンツ海に、それに相応しい敬意を払っていたのでした。
その為、生き長らえて、又新しい航海に船出する事が出来たのでした。

続く・・・
2013/11/06

歴史のお話その254:語り継がれる伝説、伝承、物語㊸

<北への航海> 

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 紀元前300年頃、北への航海から帰還した、ギリシアの探検家ピュティアスは、イギリス(ブリテン島)についてこの様に説明しました。
「この島は、人口が多く、気候は冷涼であり、又その国民は稀に見るほど、親切で礼儀正しい」
「彼らの食事は質素で、金持ちの贅沢とは全く異質であり、多くの国王や実力者が居るが、大抵はお互いに平和を保っている」

 しかし、彼の言葉を信用した者は、殆んど居ませんでした。
ピュティアスの著書「大洋」は、今日では全く現存していませんが、彼の同時代の人々は、この本の存在は知っていても、大部分の人々は“でっち上げの傑作”と思っていました。
何故なら、何世紀もの間、著名な研究者が彼の書物を紹介する時は、何時もからかい半分であったからなのです。

 紀元前1世紀のギリシアの歴史家、ディオドロスと、地理学者のストラボンが、ピュティアスの旅について、紹介しているので、どの様な旅で有ったのか、再現する事が出来ます。
ピュティアスは、ギリシア人としては初めてイギリスを訪れ、イギリスとイギリス人について報告しました。
又、恐らく、アイスランドの海岸が望める付近を航海した、最初のギリシア人であった公算が高い人物です。

 ピュティアスは、「イギリス人は素朴で、現代人の様に欲望にとらわれない。彼らはワインを飲まず、大麦から作った発酵酒を好む。彼らはこの酒をクルミと呼んでいる」と報告しています。

 彼の時代、人々の知識は、地中海の暖かい海に限られていましたから、北部大西洋に関する知識は皆無でした。
氷の塊が大洋に浮かんでいる光景を彼が説明しても、どうして信用する事が出来るのでしょうか?
増して、更に北上すれば、海全体が凍っている事や、太陽が水平線に沈まない事に関する話は、全く信じて貰えなかったのでした。

 ピュティアスの航海は、12000kmを超え、イギリスを一周し、色々な場所に上陸して、現地の人々が、穀物を収穫したり、牛を飼っている処を見学したりしています。
コーンウォールでは、錫の鉱山を訪れ、デンマークの海岸では、琥珀を探す為に船を寄せた事も有りました。

 この大航海から帰国した、ピュティアスは、アイルランドはイギリスの西に在ると報告しますが、そんなピュティアスを嘲笑した一人である、ストラボンは、「そんなばかな話は無い。スコットランドの北に在る」との主張を壊しませんでした。
当時は、このストラボンの説が正しいと信じられていたのでした。

 しかし、時が流れるにつれて、ピュティアスは偉大な探検家として認められ、又北の海に到達し、その事実を紹介した人物として、歴史に名前を刻む事と成りました。

続く・・・

2013/11/05

歴史のお話その253:語り継がれる伝説、伝承、物語㊷

<フェニキア人のアフリカ大陸周航>

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フェニキア人の活動範囲

 ポルトガル人の西アフリカ探検に先立つ2000年前の事、“スエズからジブラルタル海峡迄、アフリカ大陸を周航した”と云う、フェニキア人の言葉を信じる人物は誰も居ませんでした。

 フェニキア人の話の中で、最も信用されなかったのは、アフリカの南端を回った時、真昼の太陽が自分達よりも北側に位置していたと云う部分で、古代社会では、太陽は常に自分達の位置から南側と、誰も信じて疑わなかったのです。
北半球で生活する人間に取っては、当然の常識でした。

 偉大なギリシアの歴史家ヘロドドスは、このフェニキア人の話を紹介していますが、彼でさえ、こんなばかげた話は無いと一笑に伏しています。
しかし、フェニキア人の冒険家が、その言葉とおりにこのアフリカ周航をやってのけた事は、事実なのでした。

 フェニキア人は、「喜望峰を回って西へ進んだ時、真昼の太陽が右手に見えた」と語り、古代人達は、この話しを聞いて、彼らの話は、嘘の固まりだと信じましたが、古代人がフェニキア人の嘘の証拠とした証言が、現代から見れば、彼らが本当にアフリカを回ったと信じる根拠になっている事が、大変興味深く思われます。

◎古代エジプト人の思考

 地中海と南回帰線の南では、太陽の位置が反対に成ります。
いくら、冒険家のフェニキア人でも、この様な事実を考えつく事は、不可能に違いなく、実際に自分の眼で検分しない限り、思いも因らぬ事なのでした。

 この航海自体は、古代エジプト王 ネコ二世が紀元前600年頃に計画した事でした。
エジプトの東海岸の紅海から、西海岸のアレクサンドリア迄航海する事が可能であれば、人の交流、物資の交流がより便利になるに違いないと考えたのでした。
紅海からアレクサンドリア迄、船で行くには、砂漠に運河を掘る手段が在りますが、ネコ二世は、アフリカ南海岸を回って現在のモロッコに行く方法が、最も簡便な方法と考えたのでした。

 しかし、エジプト人は航海に秀でた民族では無かったので、ネコ二世は、当時地中海を縦横に航海していた、フェニキア人を雇い入れます。
50本の櫂を持ったガレー船で船団を組み、紅海を南下し、アフリカの南端を回って、現在のジブラルタル海峡である「ヘラクレスの柱」迄行くように命じたのでした。

◎未知への船旅

 フェニキア人の船乗り達も、この冒険を大変喜んで引き受けました。
当時、ライバルで在ったギリシア人が押さえている海域を通過する事無く、西に向う海路を捜していたのでした。
しかし、此処で最大の問題は、ネコ二世もフェニキア人も、是から向うアフリカ大陸が、如何なる形で、如何に広大なのか、知る術は無かったのです。

 彼の航海を際限してみると、出帆は11月、アフリカ東端のグアダフイ岬に向かい、此処で船首を南西に向け、季節風に乗りました。
海岸線が西に曲がる日を今日か、今日かと期待しながら、航海を続けましたが、その日は一向にやって来ません。

 太陽が次第に北へ北へと移って行く事を彼らは、気づきながら船を進めました。
航海に目安となる、北極星は今や全く姿を消し、彼らも途方にくれた或る日、海岸線は大きく西へと曲がりました。
船は、アフリカの南端部分を900km進み、出帆の翌年5月、現在の喜望峰を回り、針路を北へと変えたのです。

 アフリカの北西部は大きく張り出しています。
この部分を回る為に、更に10ヶ月の苦しい航海を続けなければ成りませんでしたが、終にジブラルタル海峡を望み見る事が出来ました。

 紅海を出帆してから、2年以上の歳月と24000kmの航海を成し遂げた船団は、順風満帆、地中海をエジプトへ向かいました。
しかし、彼らの偉業が認められるには、其れから更に、2000年の時間が必要でした。

続く・・・

2013/11/05

歴史のお話その252:語り継がれる伝説、伝承、物語㊶

<最初のアメリカ人>

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 ホセ・コルテスが排水溝を掘っている時、シャベルに何か、硬い物があたりました。
土を払い除けると、曲がった大きな牙が、二本出て来ましたが、此れは遥かな昔に絶滅したマンモスの物でした。
彼の農場は、メキシコ・シティーから、北東に30km程離れたテペスパンに在り、1950年の事でした。
2年後、メキシコ人研究者が、この化石を調査中に、その胸骨に矢じりを発見して、驚愕したのです。
其れから数日後、衣類にする皮を仕上げる為の道具、スクレーパーと呼ばれる石器も出土しました。

◎狩人とマンモス

 明らかにマンモスは、沼地にはまり込み、石や槍で武装した狩人の一団に、仕留められたのです。
しかし、マンモスと同じ位昔にアメリカ大陸に人間が、生活していたのでしょうか?
発掘作業が終了すると、発見の報告が、考古学会に発表されました。

 この発見は、人類学者ヘルムート・デ・テラが、以前に行った報告を裏付けるもので、彼は、1947年に同じ地域を発掘していて、人間の骨格を発見しました。
その骨が、1頭のマンモスの骨の側に在ったので、デ・テラは、後に彼がテペスパン人と命名したこの人類は、1万1000年程以前の人類ではないか、と言う結論を下しました。
しかし、デ・テラの発表に対し、発掘方法や年代測定法に関する疑問が、数多く主張され、彼の報告は学会に於いて無視されていたのです。

◎アジアから来た人々

 新しい発見が成された事により、彼の主張が正しかった事が証明され、北アメリカ大陸への移住について、新しい研究が一斉に開始されました。
現在、最初の人類がアジアからアメリカ大陸に移動して来たのは、4万年前の事で、当時陸橋となっていたベーリング海峡を徒歩で渡り、現在のアラスカに到達したものと考えられます。

 この説は、近年ユーコン地域、アラスカ、メキシコ等で、石や動物の骨で作られた、簡単な道具類が発見された事を根拠としています。
是等の道具は、矢じり、ナイフ、スクレーパー等で、研究者は3万年から3万5000年前のものと考えています。

 彼らは、動物を狩り、快適な環境を求めながらゆっくりと南下し、恐らく8000年以上昔に、南アメリカの最南端部迄到達し、そして、1万2000年程前に氷河が溶け去ると、次第に北アメリカ全土に広がっていったと思われます。

 世界で最初の農耕は、紀元前1万年頃アジアに現れ、続く2000年から3000年の内に、旧世界の多くの地域で、定住生活が始まりました。
古代のアメリカ人が、何時頃農業を始め、共同体を作って生活する様に成ったのかは、現在でも正確な時代は判定されていません。
しかし、紀元前5000年には、中央アメリカとアンデス高地で、カボチャ類やその他の作物が、栽培されていた痕跡が確認されています。

 魚や肉を、安定して手に入れる事のできる地域では、人類は半定住生活様式を取り入れました。
その頃には、マンモスや他の大型動物は、絶滅していましたが、是等の動物に比較して、人類は移り変わる生活環境に適応する能力を持っていたので、現代迄、子孫を残す事ができたのでした。

補遺
アメリカのストーンヘンジ


 ボストンの北60km程の場所にあたる、ニューハンプシャー州セーレムの5ヘクタール程の地域に、石造りの蜂の巣構造や壁が22基、雑然と点在しています。
この場所に、重さ5t近い、水平な花崗岩の板が発見されました。
古代の儀式の際に、この石板の上で生贄が捧げられたのではないのかと推測される事から、「生贄の板」と呼ばれています。
付近を調査すると、高く尖った石が壁沿いに見られ、その配置は、イギリスのストーンヘンジの配列に従っている様にも見えます。
此れは、ヨーロッパのドルイド教徒と同じ年代に建てられた、宗教施設の廃墟と考える研究者も存在します。
ニューイングランドでも、同様な環状列石が、数多く発見されています。

続く・・・

2013/11/03

歴史のお話その251:語り継がれる伝説、伝承、物語㊵

<ネイティブアメリカンの英雄・ジェロニモ>

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 アパッチ族の勇敢な戦士ジェロニモは、ネイティブアメリカンの代名詞的な人物ではないでしょうか。
本名はゴヤスレイ「アクビをする者」という意味でした。

 彼が30歳の時に、メキシコで暮していた彼等の集落をメキシコ軍が襲撃し、彼の母親と妻、3人の子供を虐殺しました。
怒りと復讐に燃えたジェロニモは数ヶ月後、大勢の仲間と共にメキシコ人の町を襲い、一躍勇名を馳せたのですが、猛り狂うジェロニモの勇猛果敢な戦い振りに恐れをなしたメキシコ人達が「ジェロニモ!!」と叫び、それ以来、彼は仲間内でも「ジェロニモ」と呼ばれる様に成ったと云われています。
 
 何故、メキシコ人が彼を見て「ジェロニモ」と叫んだのかは、はっきりとした記録は在りませんが、一説では、聖ジェロームの加護を求めて「ジェローム」と叫んだ声が、ジェロニモに聞こえたのだとの伝えが残っています。

 1848年2月、其れまでメキシコの領土だった南西部は、アメリカ・メキシコ戦争の結果、ガダルーペ・イダルゴ条約により、アメリカ合衆国の領土となりました。
やがて、合衆国政府は、アパッチ族を居留地に押し込めようと画策しましたが、ジェロニモは仲間と共に自由を求めて居留地からの脱走を繰り返します。
ジェロニモと仲間達は旅人や、開拓者達から、食料や毛布、馬、武器などを略奪しながら逃亡生活を続け、その様子を新聞や雑誌が誇大に伝えた結果、アメリカ中に彼の名を知らしめる結果と成りました。

 アメリカ陸軍は、この40人足らずのジェロニモ達に対して苦戦を強いられます。
そして3度の失敗を繰り返したあげく、4度目の追撃戦では、実に約5000人の兵士を動員し、当時の新聞には「残忍で血に飢えたインデアン、ジェロニモがアメリカ軍に降伏」と大きく報じたのでした。

 アメリカ中の感心を集めた、野獣のような戦士ジェロニモの肖像を描く為、収容所に移送されたジェロニモの元に、シカゴの博物館から派遣された画家がやって来ました。
しかし画家はジェロニモに接し、イメージと大きく違う彼の本性に戸惑います。
画家は
「私には彼が野蛮なアパッチのリーダーにはとても見えなかった。非常に気持ちのやさしい男だったからだ」と語ったと云います。
居留地でも冗談を言っては、周囲を和ませるジェロニモは、白人達にも人気が有り、オクラホマ州フォート・シルに在る彼の墓は、アメリカ陸軍兵士達の募金によって造られたもので、どの部族の酋長の墓よりも大きかったと云います。

 勇敢な戦士ジェロニモ、もし白人達の迫害が無ければ、この世に名前を残す事も無かったかもしれなません。
少なくても勇敢な戦士としては・・・。

続く・・・
2013/11/02

歴史のお話その250:語り継がれる伝説、伝承、物語㊴

<ドレイクの併合宣言>

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サー・フランシス・ドレーク(Sir Francis Drake, 1543年頃 - 1596年1月28日)

◎カリフォルニアはイギリス領?

 サンフランシスコに住むペリル・ジンは、1936年の夏、ゴールデンゲイトブリッジの北側の浜辺にピクニックに出掛けました。
何気なく岩を持ち上げると、その下に汚れた古い真鍮版が隠れていました。
彼は車を修理する時に役立つかもしれないと考えて、その板を自宅に持ち帰りました。

◎女王陛下の名に於いて

 彼は板を自宅のガレージに置いたまま、8ヶ月間程忘れていました。
そして1937年の初め、改めて板の存在に気づき、石鹸水で磨いてみると、大きさは縦13cm、横20cm程の板で、底部に凹凸の窪みが在り、表面には線文字が刻まれ、微かに「ドレイク」の文字は判読出来ました。

 この真鍮版の発見が、アメリカ史研究家や冶金学者、中世英語学者を巻き込む国際的な騒動に発展したのでした。
板に刻まれていたのは、フランシス・ドレイク(1540年~1596年)による1579年のカリフォルニア併合宣言だったからです。

 ペリル・シンは板をカリフォルニア大学のハーバート・ボルトン教授に送り、博士は慎重に汚れを取り除き、その全文を解読しました。

1579年6月17日、本証書により全人民に告ぐ。
神の恩寵と、イングランド女王エリザベス陛下及びその後継者の名に於いて、余はこの王国の領有を宣告する。
ノバ・アルビオンと余が命名し、あまねくこの名で呼ばれるべきこの国は、今後女王陛下に属し、王と人民は全地域に於ける権利と資格を自発的に陛下に貢納するもの也。
フランシス・ドレイク


 カリフォルニア歴史学会の席上、唖然とする会員達にボルトン博士は、意気揚々と報告します。
「357年間の喪失から蘇えったドレイクの板だ!この真鍮版こそ、カリフォルニア最大の考古学的遺産だ!」

◎カリフォルニアに降臨した神

 白熱した議論が巻き起こりました。
フランシス・ドレイクが1579年、世界周航の途中カリフォルニアに立ち寄った事は知られています。
南アメリカ南端を回り太平洋を北上した時の事でした。

 現在のカナダ北部で太平洋と大西洋が繋がっている、と古い時代の航海者は信じていました。
伝説の北西航路に向かおうとしていたドレイクは、現在のカリフォルニアのサンフランシスコに近い場所に上陸しました。
一行は現地のネイティブアメリカンの暖かい歓迎を受け、ドレイク達を神の降臨と思い、太平洋岸の彼らの土地をドレイクに提供したのでした。

 航海日誌に拠れば、ドレイクは申し出を礼儀に従って受け入れ、海岸に領有宣言の告知文を掲示し、この国がエリザベス女王の領地と成り、以後ノバ・アルビオンと呼ばれる事を宣言したのでした。

 当然のことながら、学会は大騒動と成り、真鍮版を偽物と決め付けた学者も居ました。
当時の航海日誌にドレイクは、「白い岸と崖」が目印の場所に上陸したと、記録されている事が、論争の中心に成りました。
真鍮版の発見場所には、その様な地形が存在しない上、板に刻まれた日付の信憑性が問題に成り、ドレイクの上陸は6月17日ですが、ネイティブ・アメリカンは6月26日迄領土を譲らなかったと航海日誌は述べているのです。

◎科学の投げた疑問

 真鍮版を分析した結果、16世紀の物にしては、当時の標準より亜鉛の含有量が多い事が、判りました。
更に板の表面には、大量の炭素が含まれている事が、実験で証明されました。
恰も、火で焼いて古びさせた、模造の骨董品と同様に・・・。

 しかし、攻撃の中心は、失われた文字と書体に集中し、記されている文字は全て、エリザベス朝時代に一般的であった装飾的なチューダー書体よりもむしろ、学者しか使用しなかったローマン書体でした。
更に言葉の綴りが一定せず、ページによって変化する場合の多かった時代の文章にしては、全て揃っている事が疑惑を呼びました。

 しかも16世紀にしばしば使用された古い綴り、例えば“Yngland”(イングランド)”Kyng”(王)“Quene”(女王)と言った単語が全て現代綴りで記されていました。
そして、否定論者達は決定的な部分として、碑文中の”herr”(彼女)の綴りは当時存在しなかったと主張しました。

 ボルトン博士は、加えられたこれ等の批判の全てに反論し、ネイティブ・アメリカン達は、公式に領土を6月26日迄譲渡しなかったかも知れませんが、航海日誌には「我々の到着したその日に」に告知文書が刻まれたと述べられているのでした。

 更に新たな科学的な分析によって、真鍮版は新しい物ではなく「いく歳月を経て形成された」皮膜で自然に覆われており、窪みの部分に在った植物の花粉は「疑いなく炭化し」ており、この事実は板が相当長い時間、空気中に曝された場合にのみ生じうる現象でした。

 書体と綴りについては、ボルトン博士の支持者達が、否定論者に反論しました。
ドレイクの船には、一人も学者が乗船していなかったのでしょうか?
或いは少なくとも、ローマン書体の手本になる本が一冊も積まれていなかったのでしょうか?
これ程短い文章なら、綴り文字が統一されるのは、むしろ自然であると思われます。

 そして間も無く、別の領土建設趣意書の中でドレイクが”herr”の文字を使用している事が、明らかに成りました。
今や反論できない批判はただ一つ、ドレイクが白い岸と崖の近くに上陸した点に絞られて行きました。
そして、驚くべき報告が齎されたのでした。

 ペリル・シンの発見のニュースが公表されると、一人の人物が名乗りを上げました。
彼はシンの発見から4年前、ラグーナビーチで主人の帰りを待っているとき、暇つぶしに靴の先で地面を蹴っていると、地中から真鍮版が姿を現し、その上の文字を彼は中国語と思ったが、「ドレイク」の署名だけははっきり読む事が出来ました。

 彼は暫くその真鍮版を手元に置いていましたが、数ヶ月前ペリル・シンが板を発見した場所から、然程遠く無い場所に板を投げ捨てました。
その場所は、以前からドレイクの上陸した地点と伝えられる場所で、その最も目立つ地形的特長は、高い白い崖でした。
真鍮版の汚名は、無事に晴れ、ドレイクの不動産権利証書はカリフォルニア大学に納められましたが、イギリス本国は寛大にも、領土権の主張をしていません。

続く・・・