歴史のお話その272:語り継がれる伝説、伝承、物語59
<シェークスピアを創作した男>この厳粛な茶番劇はいつ終わるのか

ウィリアム・シェイクスピア( William Shakespeare, 1564年4月26日(洗礼日) - 1616年4月23日)
ドルリー・レーン劇場は、超満員の観客の熱気が渦巻いていました。
1796年4月2日、この夜、新しく発見されたシェークスピアの戯曲「ボーティガンとロウィーナ」が初演を迎えたのでした。
ブリトン族の王ボーディガンとサクソン族族長の娘ロウィーナの恋物語で、ボーディガンには当代の人気役者ジョン・ケンブルが扮していました。
しかし、この新たに発見されたシェークスピアの戯曲は、当時17歳の少年による偽作でした。
その少年、ウィリアム・ヘンリー・アイアランドはロンドンに住む書籍装丁師の息子で、10歳の頃、ウィリアム・シェークスピアの生地、ウトラトフォード・エイボンを訪問し、深い感銘を受けて偽作の真似事を始めたのでした。
エリザベス朝時代の書物から、何も書かれていないページを抜き取り、人工的に古びさせたインクを使用して、彼はまず、シェークスピアの署名のある賃借契約書を作りました。
其れを父に渡し、知り合いの金持ちの男性が、少年の古文書に対する関心を知って、家伝の書類をくれたのだと説明し、父は狂喜しました。
◎専門家の太鼓判
アイアランドはこの成功に味をしめ、1795年にエリザベス朝の書体を使って、「リア王」と「ハムレット」の手稿の一部を作り出し、学者も評論家も一様に、手稿が真筆に間違い無いと証言し、サミュエル・ジョンソン(18世紀のイギリス詩人)の伝記を書いたジェームズ・ボスウェルは、手稿の前に跪いて叫びました。
「我らが大詩人の尊き形見に、今口付けん。神よ感謝す、わが命を永らえさせ、この宝物にまみえ給いし、恩寵を!」
少年が全く新しい戯曲を「創作」しようと思い立ったのは、自然の成り行きでした。
しかし、適当な題材が見つかりませんでしたが、其の時「父の書斎の暖炉の上にかかっていた絵が、不意に私の注意を引いた。ロウィーナがボーディガンに酒をふるまっている構図だった」。
アイアランドは、シェークスピア劇の形式や長さには、全くの素人だったので、適当に1篇を選び、その行数を数えました。
下敷きとした作品を彼は明かす事は、ありませんでしたが、気の毒な事にそれは特別長い作品で、2800行にも及ぶものでした。
劇作家のリチャード・シェリダンがその戯曲を読み「素晴らしい着想は確かに認められるが、生硬でこなれきっていない。非常に若い時の作品と判断せざるを得ない。真に彼の作品で在るか否か、という疑問について言うなら、この原稿を見て、誰が其れを古い物と思わずに居られようか」
シェリダンは300ポンドの即金と、舞台上演の収益から、一定の配当を支払う条件で、戯曲を買い取りました。
主演俳優のジョン・ケンブルは、戯曲を偽物と確信しており、初演をエイプリル・フールの夜に行おうと努めましたが、不成功に終わりましたが、同じ興行中に「この日の嘘」と云う演劇を、上演させることには成功しました。
初日の夜、ケンブルは次の様な、荘厳な死神へのモノローグを朗誦しました。
かくて汝、荒々しき哄笑と奇怪なる術を用いて、汝が騒がしき指を横腹に打ちつけたり。
それからケンブルは一息入れ、対の台詞を「墓穴から聞こえてくる様な声で」述べました。
この厳粛なる茶番劇はいつ終わるのか・・・・・・・
ケンブルの意図は、観客に直感的伝わり、観客席から爆笑が湧き上がって、10分間も続き、この時に模様をアイアランドは後に次の様に述べています。
笑いがようやく静まった時、ケンブルはもう一度舞台中央に戻り、その場を演じ終える前に、同じ台詞を「まじめくさった面で」繰り返しました。
アイアランドのゲームは終わりました。
否定論者が急激に力を増し、著名なシェークスピア研究家のエドマンド・マローンは「ボーディガン」を真っ赤な偽物と公然と非難し、こうしてドルリー・レーン劇場の上演は、初日の1回だけで終了しました。
少年の父親が、偽作の犯人として非難され始め、アイアランドは自白しましたが、多くの人々は、少年が父親をかばっているのだと考え、父親は、息子は誰かをかばって嘘の自白したのだと思っていました。
少年は其れでも尚、ウィリアム征服王からエリザベス1世迄、歴代の王朝を舞台にしたシェークスピア劇を創造する計画を放棄しませんでしたが、彼の「ヘンリー2世」は完全に無視され、1835年にこの世を去る迄、彼は自分の名前で小説と詩を数編発表しましたが、人々の記憶に残ったのは、偽りのシェークスピア劇だけでした。
そして、問題の原稿は現在も尚、大英帝国博物館に展示されています。
続く・・・

ウィリアム・シェイクスピア( William Shakespeare, 1564年4月26日(洗礼日) - 1616年4月23日)
ドルリー・レーン劇場は、超満員の観客の熱気が渦巻いていました。
1796年4月2日、この夜、新しく発見されたシェークスピアの戯曲「ボーティガンとロウィーナ」が初演を迎えたのでした。
ブリトン族の王ボーディガンとサクソン族族長の娘ロウィーナの恋物語で、ボーディガンには当代の人気役者ジョン・ケンブルが扮していました。
しかし、この新たに発見されたシェークスピアの戯曲は、当時17歳の少年による偽作でした。
その少年、ウィリアム・ヘンリー・アイアランドはロンドンに住む書籍装丁師の息子で、10歳の頃、ウィリアム・シェークスピアの生地、ウトラトフォード・エイボンを訪問し、深い感銘を受けて偽作の真似事を始めたのでした。
エリザベス朝時代の書物から、何も書かれていないページを抜き取り、人工的に古びさせたインクを使用して、彼はまず、シェークスピアの署名のある賃借契約書を作りました。
其れを父に渡し、知り合いの金持ちの男性が、少年の古文書に対する関心を知って、家伝の書類をくれたのだと説明し、父は狂喜しました。
◎専門家の太鼓判
アイアランドはこの成功に味をしめ、1795年にエリザベス朝の書体を使って、「リア王」と「ハムレット」の手稿の一部を作り出し、学者も評論家も一様に、手稿が真筆に間違い無いと証言し、サミュエル・ジョンソン(18世紀のイギリス詩人)の伝記を書いたジェームズ・ボスウェルは、手稿の前に跪いて叫びました。
「我らが大詩人の尊き形見に、今口付けん。神よ感謝す、わが命を永らえさせ、この宝物にまみえ給いし、恩寵を!」
少年が全く新しい戯曲を「創作」しようと思い立ったのは、自然の成り行きでした。
しかし、適当な題材が見つかりませんでしたが、其の時「父の書斎の暖炉の上にかかっていた絵が、不意に私の注意を引いた。ロウィーナがボーディガンに酒をふるまっている構図だった」。
アイアランドは、シェークスピア劇の形式や長さには、全くの素人だったので、適当に1篇を選び、その行数を数えました。
下敷きとした作品を彼は明かす事は、ありませんでしたが、気の毒な事にそれは特別長い作品で、2800行にも及ぶものでした。
劇作家のリチャード・シェリダンがその戯曲を読み「素晴らしい着想は確かに認められるが、生硬でこなれきっていない。非常に若い時の作品と判断せざるを得ない。真に彼の作品で在るか否か、という疑問について言うなら、この原稿を見て、誰が其れを古い物と思わずに居られようか」
シェリダンは300ポンドの即金と、舞台上演の収益から、一定の配当を支払う条件で、戯曲を買い取りました。
主演俳優のジョン・ケンブルは、戯曲を偽物と確信しており、初演をエイプリル・フールの夜に行おうと努めましたが、不成功に終わりましたが、同じ興行中に「この日の嘘」と云う演劇を、上演させることには成功しました。
初日の夜、ケンブルは次の様な、荘厳な死神へのモノローグを朗誦しました。
かくて汝、荒々しき哄笑と奇怪なる術を用いて、汝が騒がしき指を横腹に打ちつけたり。
それからケンブルは一息入れ、対の台詞を「墓穴から聞こえてくる様な声で」述べました。
この厳粛なる茶番劇はいつ終わるのか・・・・・・・
ケンブルの意図は、観客に直感的伝わり、観客席から爆笑が湧き上がって、10分間も続き、この時に模様をアイアランドは後に次の様に述べています。
笑いがようやく静まった時、ケンブルはもう一度舞台中央に戻り、その場を演じ終える前に、同じ台詞を「まじめくさった面で」繰り返しました。
アイアランドのゲームは終わりました。
否定論者が急激に力を増し、著名なシェークスピア研究家のエドマンド・マローンは「ボーディガン」を真っ赤な偽物と公然と非難し、こうしてドルリー・レーン劇場の上演は、初日の1回だけで終了しました。
少年の父親が、偽作の犯人として非難され始め、アイアランドは自白しましたが、多くの人々は、少年が父親をかばっているのだと考え、父親は、息子は誰かをかばって嘘の自白したのだと思っていました。
少年は其れでも尚、ウィリアム征服王からエリザベス1世迄、歴代の王朝を舞台にしたシェークスピア劇を創造する計画を放棄しませんでしたが、彼の「ヘンリー2世」は完全に無視され、1835年にこの世を去る迄、彼は自分の名前で小説と詩を数編発表しましたが、人々の記憶に残ったのは、偽りのシェークスピア劇だけでした。
そして、問題の原稿は現在も尚、大英帝国博物館に展示されています。
続く・・・
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