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2013/12/31

歴史のお話その297:語り継がれる伝説、伝承、物語84

<ゾルゲ事件:その④>

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◎一斉検挙

 迎えた1941年9月、御前会議に於いて日本軍の南進策が決定し、任務を遂行し終えたゾルゲと尾崎は、ようやくその任務を解かれようとした矢先の10月、期せずして組織は国防保安法、治安維持法違反等の罪状で逮捕されます。
当に日米開戦前夜の為に「国民の士気に影響する」との理由で逮捕情報は秘匿され、数年経ってからようやく発表されるという秘密裏の事件とでした。

 検察側の調査によれば、ゾルゲ情報団は、ソ連擁護の為にコミンテルンの手により日本国内に設置され、ソ連共産党中央委員会及び赤軍第四本営に直属して日本の政治、外交、軍事、経済等の機密を探知し、これをソ連共産党最高指導部すなわちソ連政府最高指導部に提報していた秘密諜報集団であり、その主要な任務は、日本の対ソ攻撃からのソ連の防衛乃至、日本の対ソ攻撃の阻止に役立つ諜報の探知蒐集でした。
その中には、1933年末ゾルゲの来日前にソ連首脳から与えられた一般的任務、35年ゾルゲが報告のため約20日間モスクワに滞在した際に上部から与えられた具体的任務、随時無電によって与えられた指令、及び対日諜報機関設置後、日本国内に発生した重要事件に基づいて本機関自ら課した任務が在りました。
収集した情報を無選択にモスクワに通報した訳ではなく、適確な資料を集め、総合分析判断した結果、一定の結論を出し、それに意見を付して報告していたのです。

 収集した主要情報は1934年7月から1941年10月迄、100項以上(約400件)におよび、これを無電又は伝書使による写真フィルムの手渡しによって行なっていたと云います。
無電による発信回数(及び語数)は1939年50回(約23、000語)、1940年60回(約29,000語)、1941年21回(約13,000語)に登りましたが、東京の各地から発信される是等暗号電報は、情報団が検挙に到る迄、日本の官憲はついに本体をつきとめることが出来ませんでした。

 日本に於ける活動期間は、1933年から1941年まで約8年にわたり、情報団が強力な組織と成り、その機能を十分に発揮出来る様に成ったのは1936年の秋頃からと思われます。
組織のメンバーは総て、如何なる国の共産党員でもなく、又諜報活動以外、政治的性質を持った宣伝や組織機能に従事することを固く禁じられており、如何なる個人や団体にも一切の政治的な働きかけを行わない方針は忠実に守られました。
只一つの例外は、近衛内閣の中で対ソ平和政策を選択させ様と努力した、尾崎秀実の積極的な行動でした。
検察側が事実に反して、ゾルゲ情報団の構成員をコミンテルン本部の指令に基づく諜略組織と決めつけたのは、赤軍やソ連を治安維持法の条文に云う処の結社とすることが不可能な為であったと云われています。

 関係者の検挙は1941年9月28日、警視庁特別高等警察第一課と同外事課の共同により、和歌山県下での北林トモ夫妻の検挙に端を発し(伊藤律による密告であったと云われているが、謀略の可能性が高い)、10月10日宮城与徳、10月13日秋山幸治と九津見房子、10月15日尾崎秀実、10月17日水野成、10月18日リヒャルト・ゾルゲとブランコ・ド・ヴーケリッチ、10月22日川合貞吉が検挙されています。
引き続き1942年4月28日迄に合計35名(うち外国人4名、女性は6名)が検挙投獄され、この中には、犬飼健、西園寺公一などの知名人士も含まれていたのです。

 この時、ゾルゲは、同盟国で在るドイツ駐日大使オットー(陸軍武官)の私設秘書を務め、尾崎秀実は、時の近衛文麿首相のブレーンの一人でした。 
(事件後、オットーは1942年にドイツ大使の地位を失い、北京に家族と共に移り住みました。)
内務省警保局によれば、このうち「諜報機関員」17名、「情を知らざる者」18名とされています。
ゾルゲの訊問調書によれば、彼の直接の協力者は尾崎秀実・宮城与徳・ブランコ・ド・ヴーケリッチ、一時期在籍したギュンター・シュタイン、無線技師としてマックス・クラウゼンだけであったと言います。
尚この事件に関連して、1942年6月、上海に於いて「中国共産党諜報団事件」として中西功、西里竜夫ら10名(うち中国人3名)が検挙されました。

続く・・・
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2013/12/31

歴史のお話その296:語り継がれる伝説、伝承、物語83

<ゾルゲ事件:その③>

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◎北進論対南進論

 1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻を契機に第2次世界大戦が勃発すると、ゾルゲはモスクワ発緊急指令として、独ソ戦に関する日本軍の動向を探る命を下されます。
重大指令を粛然と受け止めたゾルゲと尾崎は、あらゆるルートを駆使して日本の対ソ戦回避を画策し、その成果として、ヒトラーのソ連侵攻や日本の南進政策決定を事前に捕捉してモスクワに打電していました。

 当時ナチス・ドイツは、電撃作戦を持ってイギリスを除く全ヨーロッパを支配下に収め、その矛先をソ連侵攻に向けていました。
初戦で、尽くソ連軍は撃破され独ソ戦はドイツの優勢のままに推移し、ソ連はウラル山脈西部のほとんどの地域を失い、首都モスクワさえ、占領の危機に陥っていました。
ドイツと日本は、イタリアを含めた三国同盟を結び枢軸国として世界を席捲しつつ在る中、ソ連は、西側でドイツ、東側で日本との闘いに挟撃される結果となり、ソ連指導部は、対ドイツ・日本との二正面作戦を避け、対ドイツ戦に的を絞る必要が最重要課題でした。

 ゾルゲ情報団に対して、モスクワは「独ソ開戦で、ドイツの同盟国である日本は、如何に動くか?」改めて日本の対ソ参戦決意を探る旨の指令が届き、ゾルゲは、謀報団のメンバー全員に命令を発し、日本の最終意志決定の方向を全力をあげて探らせたのでした。
在京の各国大使館や海外から派遣された外国人のジャーナリストも、対ソ戦に引き込もうとするドイツの働きかけに対して、日本はどう反応するのか、必死の謀報活動を展開したのです。

 この戦略には、先にも少し触れましたが、当時の日本陸海軍内部の対立が大きく関係しており、太平洋戦争の方針を巡って陸軍は「北方進出論」、海軍は「南方進出論」を主張していたのですが、この問題が如何に決着するのか、如何なる手段を講じても知りたい情報で在ったことは確かです。
「北方進出論」とは、共産主義国ソ連との闘いを最優先せねばならないとする理論であり、「南方進出論」とは、資源小国の日本は多種多様な資源の供給路を確保するために南洋諸島へ進出すべしとする理論ですが、この問題に決断を下す為、政府は御前会議を数次開催し、最終的に南方進出を決定します。

 「日本は南方進出を最終決定。日本にソ連攻撃の意図なし」。
ゾルゲはこの情報を尾崎秀実から入手し、モスクワに向けて打電しました。
これこそ、モスクワの知りたい情報でした。
ウラル山脈に舞台を移した独ソ戦で、当時絶望的な戦いを強いられていたソ連はこの情報により、日本の侵略に備えて極東に配置していた精鋭部隊をウラル戦線に移動させることが可能と成り、やがて1942年、冬の訪れとともにソ連はウラル山脈の麓、スターリングラードでの激戦の末ドイツ軍を敗走させます。
これが転機となり、独ソ戦の戦局は一気にソ連に傾き、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの敗北を決定づけたとされています。

 スターリンはゾルゲ情報の活用については異説が存在しています。
「当面日本がソ連に進撃しないという報告」は1941年6月22日に始まった、ドイツの侵攻作戦への対抗策として、戦略上最高級の情報でしたが、この報告に対してスターリン指導部はその価値を見出し得なかった、とも云われています。
「スターリンは日本の南進を知り、シベリア狙撃兵軍団を東送しモスクワ前面でヒトラーを阻止したとされるが不確かである。スターリンは実際には極東に大戦中40個師団を継続して配置していた。これは関東軍のいずれの時期をも上回る」と云う指摘も存在し、ゾルゲの情報は生かされなかったと云うことになり、その悲劇は計り知れないものが在ります。

続く・・・

2013/12/29

歴史のお話その295:語り継がれる伝説、伝承、物語82

<ゾルゲ事件:その②>

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◎ゾルゲ情報団(コードネーム・ラムゼイ)と尾崎秀実

 1930年1月、リヒャルト・ゾルゲがドイツの社会学雑誌記者ジョンソンと名乗り、上海に現れます。この当時、中国のコミンテルン組織は1927年の蒋介石による上海クーデター及び武漢政府の弾圧により破壊されており、その再建の為の中国入国という背景が在り、彼の身分はコミンテルンから赤軍参謀本部第4局に移されていたのです。

 1933年2月11日、フランス共産党員ブランコ・ド・ヴーケリッチはコミンテルンの密命を受け、
フランスの写真雑誌ラ・ヴュウ及びユーゴスラビアの日刊紙ポリチイカの東京特派員という職名を持って横浜より入国。

 1933年5月、ゾルゲはモスクワからベルリンへ向かい、フランクフルト・ツァイツング紙の日本特派員の資格を取得し、ナチス党員と成りました。
アメリカに渡り、組織との連絡を取った上、カナダ・バンクーバー経由で日本に向い、1933年9月6日、フランクフルト・ツァイツング紙の東京特派員という名目で、横浜に上陸、東京麻布区永坂町30番地に住居を得て、日本に於ける諜報活動を開始したのです。

 1933年9月、尾崎秀実は日本に戻り、大阪朝日新聞社の外報部に入社。

 1933年10月初旬、アメリカ共産党員、画家の宮城与徳がロスアンゼルスから横浜に到着。
12月下旬、ヴーケリッチの仲立ちでゾルゲと宮城与徳が会談し、連絡体制を構築していきました。
 
 1934年2月11日、天津から大阪に戻った川合貞吉が、尾崎秀実と連絡を取り、至急組織の連絡体制の構築を要請。

 2月、ゾルゲと尾崎秀実が奈良の若草山で再会、本拠を日本に移したゾルゲと会談し、親密な関係を構築しました。

 ゾルゲ諜報団は、各国から送り込まれたコミンテルン・メンバーに加え、国際共産主義運動の実現に燃える日本人活動家達によって構成され、中でもゾルゲが絶大の信頼を寄せた人物、当時朝日新聞記者であった尾崎秀実は、近衛文麿首相の側近として日本政府の中枢まで潜り込み、決死の覚悟で次々と国家機密をゾルゲに通報して行きます。
その中には日独防共協定、第2次上海事変、ノモンハン事件、そして、最高国家機密である御前会議の内容迄が含まれていました。
ゾルゲは、こうした情報に独自の分析を加え、無線やソビエト大使館員を通じてモスクワのスターリンへ送り続け、やがて、日本の対ソ参戦回避と南方進出を暴露し、ソ連の軍事行動をより有利に導いて行く事になります。

 その後、尾崎は、転勤工作で東京朝日新聞本社詰記者となり、東亜問題研究会の新設で東京本社に呼ばれ、中国問題の評論家として頭角を現わして行きます。
1936年末に突発した西安事件の本質をいち早くとらえた事で有名と成りますが、尾崎は当時すでにすぐれたジャーナリストであり、中国問題の専門家として言論界の重鎮に成っていました。

 1937年4月、昭和研究会に参加、風見章の知遇を得、翌年7月、朝日新聞社を退社、第1次近衛内閣の嘱託となり、近衛内閣の有能なブレーンとして首相官邸内に部屋を持ち、秘書官室や書記官長室に自由に出入りし、政界上層部の動向に直接ふれる事のできる地位に在りました。

 1939年1月、尾崎は朝日を退社し、満鉄東京支社調査室へ勤務します。

 1940年7月、第2次近衛内閣の成立前後には、風見の依頼で国民再組織案を練る等、国策に参与する機会を得、36年以来本格化した諜報活動の中で、高度な情報と正確な情報分析を提供して、ゾルゲ情報団の日ソ間に於ける戦争回避とソ連防衛の為の活動を援助します。
中国社会の全体的・動態的把握を試みて、中国の民族解放運動=抗日民族統一戦線の意義を解明した尾崎は、日本自体の再編成を必要と考え、東亜共同体論提起しますが、その根本は帝国主義戦争の停止と日中ソ提携の実現であり、その前提として、戦争の不拡大が当面の目標とされたのです。

続く・・・

2013/12/28

歴史のお話その294:語り継がれる伝説、伝承、物語81

<ゾルゲ事件:その①>

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 ゾルゲ事件とは、世界初の共産革命で在ったロシア革命によるソビエト連邦の成立と、逸れに続くコミンテルン活動、「紅い正義」が信じられていた時代に、その活動に殉じて心身を捧げた革命家達による、第二次世界大戦前夜の「赤色諜報団事件」を云います。
その最高指導者が、ドイツ・ナチス党員、そしてソビエト赤軍諜報部員のリヒャルト・ゾルゲで在り、その日本に於ける最高協力者が、近衛文麿内閣の有能なブレーンとして活動をしていた尾崎秀実でした。
この事件に関係したとして検挙された者は、時の政界、報道、芸術関係者の多く含み、総計34名とされています。

 ゾルゲ事件は「20世紀日本に於ける最大のスパイ事件」と形容され、研究者に拠れば、「太平洋戦争前夜の日本を揺るがせた国際スパイ事件であり、歴史上数多いスパイ事件の中でも、その影響力の大きさは比類無き事件で在り、世界の歴史を変えたスパイ事件であるとの評価は現在でも不動のものである」とされています。

 中心人物である、リヒャルト・ゾルゲは、1930年代より赤軍のスパイとして諜報活動を展開し、1933年9月、ドイツ、フランクフルター・ツァイトゥング紙の記者として来日、ナチス党員として駐日ドイツ大使館に出入りする傍ら、駐日大使オットー陸軍武官の私設情報担当となって活動し、日本の政治、外交、軍部の動向、軍事に関する情報の入手、その通報に尽力しました。 

◎精鋭部隊の移動

 当時ヨーロッパの情勢は、ナチス・ドイツがソ連へ侵略を開始し、独ソ戦に突入していました。
ドイツ軍は首都モスクワに迫りつつ在り、スターリン率いるソ連は、三国同盟を結び強固な関係にあった枢軸国ドイツと日本に、東西から挟み撃ちされる危機に陥っていたのです。
当時日本軍部内では、太平洋戦争の方針を巡って激論が続いており、陸軍は仮想敵勢力をソ連に据えて「北方守備論」を唱え、海軍は同じく仮想敵勢力をアメリカに据えて「南方進出論」を唱えており、その他戦略戦術を廻って決着が着かない状況でした。
この問題に決断を下す為、政府は御前会議を開催し、最終的に南方進出の道を選んだのですが、ゾルゲは、この情報を満鉄(南満州鉄道)調査部嘱託であり、時の近衛文麿首相のブレーンの一人であった尾崎秀実から入手したのです。

 尾崎からの情報を基に「日本は南方進出を最終決定。日本にソ連攻撃の意図なし」と打電したゾルゲの情報が如何に価値をもっていたでしょうか?
日本の南進政策決定を事前にキャッチして、モスクワに打電している事は、以後のソ連の行動に対し多大な功績が在ると思われるのですが、史実を精査すれば、この報告に対してスターリン指導部はその価値を見出し得なかったとも云われています。

 ソ連指導部の解釈が如何で在るにせよ、スターリンはゾルゲからの情報により、日本の侵略に備えて極東に配置していた精鋭部隊をヨーロッパ戦線に移動させる事に成りました。
ソ連は1942年、冬の訪れと共にスターリングラードでの激戦の末ドイツ軍を敗走させ、この戦闘が転機となり、独ソ戦の戦局は一気にソ連に有利に働き、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの敗北を決定づけたのでした。

続く・・・

2013/12/26

歴史のお話その293:語り継がれる伝説、伝承、物語80

<辻 政信氏の失踪:その②>

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◎僧衣に姿を変えて出発

 ビエンチャンのホテルに宿泊していたはずの辻氏は、一体何処に失踪したのでしょうか?
しかし、間もなく謎の一部は明らかに成りました。
辻氏は東南アジア風の黄色い僧衣に着替えて、日本の位の高い僧「高木」と名乗り、同地の有名な寺院であるクンタ寺院の僧侶二人の案内で、4月19日ビエンチャンを出発した事が判りました。

 その情報源によれば、辻氏は最初の二人の僧侶の案内で或る地域に赴き、次には又別の僧侶の案内を受けるという具合に、寺院から寺院をリレーする方法で、奥地に入って行ったと云います。
更に新しい情報では、6月頃ビエンチャンの東北に在る旧都ルアンブラバンに通じる国道13号線上に位置するバンビエンの街で辻氏の目撃証言も得られました。

 是で、辻氏が僧侶の姿をして奥地に進んだらしい事は判明したものの、謎は解けるよりも更に新たな謎が発生しました。
なぜなら、辻氏は何の目的でそんな場所へ行ったのか?何故僧侶に返送する必要が有ったのか?そして、辻氏は其れを誰にも知らせず、なぜ帰らないのでしょうか?

◎各国情報機関も極秘で追跡

 僅かな情報が得られた事で、辻氏失踪の謎は、かえって大きな謎を呼び、一時は日本国中の話題と成りました。
外務省は、関係各国の日本大使館に徹底的な情報収集を指令し、関係諸国にも、又国際赤十字にも強力な捜索活動を要請しました。
無論、アメリカの中央情報局をはじめ、各国の情報機関も、独自の関心から極秘の調査を開始します。

 昭和38年秋、既に失踪から2年以上を経過していましたが、非常に確度の高い情報が届けられます。
自由民主党の森山 欽司代議士と駐在ラオス大使の蓮見氏が、ラオスのフォンバサン内相と会談した時、「1961年4月、私が中立派大使としてバンビエンでラオス三派の停戦交渉にあたっている時、辻氏に会いました。彼は僧衣では無く、背広姿でした。辻氏は自分の身分を証明する為、エジプトのナセル大統領と握手している写真を見せ、是から北ベトナム(当時)のハノイに行きたいとの申し出を受け、私は自分の名刺に署名して、通行証を作成して渡しました。辻氏はその後、徒歩でジャール平原の方面に出発したと聞いています」との証言を得ました。

 確かに辻氏は、ビエンチャンからバンビエンに達しており、この確度の高い情報を基に、改めて捜索が行われましたが、終にバンビエンから先の足取りは、現在でも判明していません。
果たして、バンビエンから辻氏は、何処へ向い、どうしているのでしょうか?

 当時から現在迄多くの情報、推測が成されており、其れを列挙すると、以下

1)ジャール平原からハノイに行き、更に中国領内に入った。
2)中国の吉林省で、ゲリラ部隊の訓練をしている。
3)ラオスから直接中国に入り、北京10日滞在していた。
4)アメリカ軍に何らかの理由で射殺された。
5)キューバでカストロ首相援助の仕事をしている。
6)某西側組織に抑留されている。
7)ビルマ、タイ国境付近にある旧国民政府系残党勢力地帯に潜入している。
8)ラオスから中国昆明に行き、其処で死亡した。

 以上の情報に確証が存在する訳ではなく、当時の国際情勢を反映した憶測も含まれている事が判ると思います。
しかし、辻氏は、冒頭でも述べた様に、かつて連合軍の厳しい追及を逃れて、三千里の潜行をやってのけた人物で、そうむざむざと倒れるとは考え難い事も確かなのです。
当時、かつての辻氏を知る人々は「必ず何処かで想像もつかない様な事をしているのではないだろうか」と其の生存を信じている人も少なく有りませんでした。

 日本議会史上類例の無い、現職国会議員失踪は、果てる事の無い興味をそそる不思議な事件なのです。

続く・・・

2013/12/25

歴史のお話その292:語り継がれる伝説、伝承、物語79

<辻 政信氏の失踪:その①>

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◎「潜行三千里」の主人公

 一国の国会議員が外国で行方不明に成るという事は、その国にとって重大事件です。
海外で行方不明に成った日本人は少なく有りませんが、参議院議員・辻 政信氏が旅行先の東南アジアで謎の様に消えた事件は、日本におけるこの種の事件の中で、最も不可思議な事件なのです。

 現職の国会議員が、国会議員という身分で海外旅行に出て、そのまま行方不明に成ったのですから、国会、政府、公安とあらゆる機関が、最高レベルで捜索活動を行ったものの、辻氏の足取りは、或る一点から先が、全く不明になっており、生存、死亡も当時確認されませんでした。

 辻 政信氏の捜索は、現代日本の人捜しの中でも、最も興味深いケースと思われます。
辻氏は、当時58歳、昭和27年第25回総選挙に石川県一区から最高点で当選以来、衆議院に3回当選、昭和34年には、参議院全国区から当選しました。
しかし、政治家としての経歴より、辻氏にはそれ以前の経歴に一層興味をそそられます。

 陸軍幼年学校から陸軍士官学校、陸軍大学を首席で卒業した秀才中の秀才。
昭和16年、太平洋戦争勃発とともに、日本陸軍が破竹の快進撃をしたシンガポール攻略作戦を、作戦参謀として指揮、一躍その名前を高めました。
更にガダルカナル、インパール作戦等の参謀を務め、戦争終結時には、陸軍大佐でした。

 終戦当時、中国大陸に居た辻氏は、直ちに連合国側から、最重要戦争犯罪人に指定され、アメリカ、イギリス、中国の厳しい追求の中で、中国大陸を縦横に波乱に満ちた逃避行を続け、敗戦後の日本に忽然と姿を現します。

 生死の危機一髪の間を彷徨、冒険に満ちた潜行の手記を、辻氏は「潜行三千里」と題する本に纏めて出版、昭和25年から26年にかけて大ベストセラーに成りました。
辻氏は、日本の国会議員と言うだけでなく、以上の様な経歴から当時世界的にその名を知られた重要人物でもありました。

◎羽田を発って10日間の足取り

 昭和36年4月4日午前9時30分、辻氏は羽田空港を飛び発ちました。
“東南アジア諸国の視察と、戦没者の慰霊”が今回の旅行の目的で、国会には40日間の請暇届を提出していました。
その翌日、辻氏は南ベトナムの首都サイゴン(現・ベトナム民主共和国・ホーチミン)に到着、黒い背広にスーツケース1個の軽装。
「香港経由で此方に来ました。是からプノンペン(カンボジア)、バンコク(タイ)、ビエンチャン(ラオス)方面を訪問する予定です」とサイゴンで関係者に語っています。

 事実、その後の足取りは、サイゴン4泊、プノンペン3泊、バンコク3泊と予定通り印され、そして最後の目的地ラオスのビエンチャンには、4月14日に到着しました。
此処迄の足取りは実に明確なのですが、これから僅か数日後に、辻氏の消息は不明となるのでした。

 日本国内で“辻氏が行方不明”のニュースが明らかにされたのは、4月20日。
同氏の秘書が参議院事務局に「連絡が取れない」と報告、早速調査が開始されました。

続く・・・

2013/12/24

歴史のお話その291:語り継がれる伝説、伝承、物語78

<北京原人化石の行方:その②>

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◎北京⇒天津⇒秦皇島⇒?

 さて、北京を列車で出発した化石は、天津を経由、東海岸の秦皇島へ向い、ここでバージに移され、アメリカ貨物船「プレジデント・ハリソン」号に載せられてアメリカ本土向う予定でした。
この行程の如何なる部分で、“開戦”となったのでしょうか?
列車の運行は、開戦前夜の空気の中で混乱しており、従ってダイヤ通りの運行は望むべくも無く、更に問題の列車は、ダイヤに存在しないアメリカ軍専用特別列車で在ったと云われています。

 もし、まず北京・天津間で列車が、日本軍に接収された(又は、混乱の為、運行不能に陥った)場合、日本軍が略取、非軍事品として廃棄した事が考えられます。
或は、列車は無事天津に到着したものの、天津で押収され、その価値を認められたとすれば、そのまま日本輸送船に移されたと考えられますが、日本の研究者の手には渡っていません。

 満州鉄道を経由して、無事、アメリカ海兵隊と共に秦皇島迄到着したものの、結果的に「プレジデント・ハリソン」号に積み込まれ無かったのは事実とされますので、他の船便若しくは、第三国へ送られた可能性が出てきます。
又、アメリカ海兵隊は、秦皇島で降伏している為、その際日本軍に引渡されたか、所持品として収容所を転々とする間に喪失したとも考えられます。

◎内幕

 “北京原人”の行方をめぐる諸説は、以上の通りですが、何れも確証が無く、又否定する事も出来ません。
以下の様な話も存在しています。
アシャースト大佐の下で軍医をしていた、心臓外科医ウィリアム・フォーリー博士が、昭和46年にニューヨークの自然博物館人類学部へ明らかにした話として、「化石は、実際には木箱に梱包されず、アシャースト大佐と同医師のトランクに分けて納められ、私物として携行した。軍人では無かった為釈放され時、フォーリー博士は自分のトランクの内一個を中国人の友人に、もう一個を天津のパスツール研究所に、更にもう一個を同じスイス系商社の倉庫に預けた」更に「その後、フォーリー博士は上海付近の収容所でアシャースト大佐と再会した際、大佐は化石を納めたトランクと思われる物を所持していた。やがてフォーリー博士は仙台へ、アシャースト大佐は北海道の炭鉱に移送された為、トランクも一緒に北海道迄運ばれたか否かは不明」と云います。

 アシャースト大佐は、戦後間もなく死亡している為、この証言の信憑性を確かめる事は、困難ですが、中国科学院の関係者は、同博士が、戦後26年間も理由無く、口を閉ざしていた事は理解できず、「トランクに納めた」証言は、中国人労働者の「木箱」と矛盾し、真偽の程はおぼつかないと否定的な見解を示しました。

 “北京原人”も戦争犠牲者の一人として、その所在調査は進んでいません。
何処かに現存している事を祈るばかりですが、この化石の貴重さ、重要性を当時の一般の人々は殆んど知らない事から、仮に売却、廃棄されて当時の中国人の手に渡った場合、この化石骨を「竜の骨」として薬用にされてしまう恐れがありました。
事実、古代文字の貴重な資料である、“甲骨文字”の多くも粉砕されましたが・・・。
しかし、その行方、所在を調査する責任の一端は、日本にも課されているのです。

続く・・・

2013/12/23

歴史のお話その290:語り継がれる伝説、伝承、物語77

<北京原人化石の行方:その①>

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◎太平洋戦争の勃発

 北京から南西へ48km、周口店の小高い丘“竜骨山”の上に、中国科学院の博物館が在ります。
1972年10月1日の国慶節に開館しました。

 この山頂部分で、人類学上最大級の発見の一つ、“北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)”が発見されました。
展示館のすぐ外に問題に遺跡が在り、同館の展示物の中心も“北京原人”に関する資料なのですが、ここに展示されている、人骨化石は、レプリカなのです。
貴重な実物は、昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発の日を境に、行方不明に成ってしまいました。

 最初の二本の臼歯発見以来、アメリカ・ロックフェラー財団の資金援助で、大規模な発掘作業が実施され、其れまでに5個の完全な頭蓋骨を含む、約40体分の人骨破片が、動物化石や石器等と共に発見されていました。

◎列車に積まれた三つの箱

 開戦の12月8日、日本軍は北京に入城し、同地の「北京協和医学院(現・首都病院)」も軍によって接収されました。
直ちに、高井冬二東京大学教授(当時・東京帝国大学・人類学教室助手)が医学院に赴き、“北京原人”の現物資料を探しましたが、既に何処かに持ち去られた後で、徹底的な調査の甲斐なく、発見する事は出来ませんでした。

 その発掘資料は、同じく周口店から発掘された“山頂洞人(約1万~2万年前の旧人類)”の三つの頭蓋骨等共々、ロックフェラー財団が運営する「北京協和医学院」に置かれ、アメリカ系の研究者によって調査、研究が成されていましたが、日米関係が、風雲急を告げる雲行きと成った昭和16年、アメリカに帰国します。
化石は、医学院の倉庫に保管されましたが、その場所に保管する事は多大な危険を伴うと判断した、ヘンリー・ホートン院長は、より安全な場所である、アメリカ本国に移送する事を決定します。

 当時、北京駐在アメリカ大使館付武官アシャースト海兵隊大佐が、その責任を引き受け、化石は12月5日早朝、列車に載せられて北京を出発・・・と記録されています。
そして、3日後開戦の混乱が起こり、以降、“北京原人”の痕跡は消滅してしまいました。

 やがて、昭和20年8月15日、以後日本に進駐したアメリカ軍は、直ちに“北京原人”の所在を尋ねて、日本国内の関係機関、施設を調査しましたが、発見するに至らず、僅かに“山頂洞人”の遺品のひとつが東京大学人類学教室に在り、直ちにアメリカ軍が押収したに留まりました。

 勿論、中国政府もこの遺骨捜索に努めます。
その結果、開戦直前、アシャースト大佐の指示で、中国人労働者が化石を三つの木箱に納めて梱包、列車に運んだ・・・との証言が得られた事から、中国の研究者から「“北京原人”はアメリカに持ち出され、ニューヨーク自然博物館のコレクションに加えられている」との抗議が出された事が有りますが、同博物館関係者は、この事実を完全否定しています。
日本にも、少なくとも公にその存在が知られる形では、“北京原人”は存在していません。

続く・・・

2013/12/21

歴史のお話その289:語り継がれる伝説、伝承、物語76

<翼よ、あれがパリの灯だ:②>

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◎離  陸

 5月19日夜、リンドバーグは、大西洋上の天候が回復に向かっているという、報告を受け、ホテルで落ち着かない、仮眠を取った後、敢えて早朝に出発する事に決めました。

 その朝は、憂鬱な雨模様で、ルーズベルト飛行場から、ひどくもたついた離陸を行った“スピリット・オヴ・セントルイス”は、突然力を得て上昇し、機首を北東に向けて、ニューイングランド海岸を目指しました。
彼は、メルカトル投影図法の海図を徹底的にチェックし直し、この海図を基に、北上しつつ弓なりに飛行するルートを設定していました。
そのコースは、ニューイングランドからノバスコシア、ニューファンドランドの上空を通過し、北大西洋上3200kmを一気に横断、アイルランド海岸に達し更に、イギリス本土から英仏海峡を飛び越え、パリ、ル・ブルージュ飛行場に着くと言うものでした。

 離陸後、リンドバーグの飛行は順調に進み、愛機はマサチューセッツ海岸とノバスコシア海岸の間の大西洋上を快調に飛行していました。
その時、彼は激しい疲労感を感じ、この疲労感は、飛行中ずっと彼を悩まし続ける結果と成りました。

 夜の闇が迫り、既に離陸から12時間が経過し、位置を示す地上目標は、全く無くなりました。
是からアイルランドの海岸迄は、羅針盤と海図と鋭敏な勘の頼る他に手段は無く、しかも睡魔との闘いが続いていました。
“スピリット・オヴ・センツルイス”は今回の飛行計画で、最も危険な場所に差し掛りました。
眼下に見える海面には、氷山が浮かび、その進行方向は、濃霧に閉ざされています。

 無言に広がる、一面の広い黒い海上を、風雨と霧をついて飛行した、この長い夜も漸く明けようとしていました。
ニューヨークのロングアイランドを離陸してから、19時間後、空が明るく成り始め、リンドバーグは、高度を下げて、泡立ち騒ぐ大西洋上を低空飛行して、疲労回復を図り、眠気を覚ます為、自分の頬を叩いたりしながら飛行を続けたのでした。

 前方にアイルランドの海岸線が見え始め、ニューファンドランドを後にして16時間が経過し、疲労感に苛まれながら、又長い夜間の盲目飛行を行ったにも関わらず、予定のコースを僅か5km逸脱していたに過ぎませんでした。
しかも、予定よりも2時間30分も早く到達していたのです。

◎翼よ、あれがパリの灯だ!

 “スピリット・オヴ・センツルイス”は終にドービル上空でフランス海岸を通過、再び夜の闇が迫っていましたが、愛機のエンジンは、快調な響きを続け、リンドバーグの睡魔は完全に消え、行く手の柔らかな夜空に、パリの明るい灯火と紛れも無い、エッフェル搭の姿が見えたのです。

 彼は、ル・ブルージュ飛行場が、パリ近郊の北東に位置する以外、詳細は知りませんでしたので、滑走路の灯火を捜しました。
しかし、リンドバーグの眼に入ったのは、ビーコンや警告灯、誘導灯でもなく、何千、何万という光の海でした。
当惑した彼は、飛行場上空をゆっくりと旋回し、是等の光が、飛行場の周辺に集まった、自動車のヘッドライトだと判ってから、初めて降下を開始しました。

 リンドバーグは、飛行場の隅に在る、格納庫の方へ飛行機を移動させようとしましたが、その時、前方から無数の人間が走ってくるの見ました。
飛行機から降りながら、彼は一言だけ言いました。
「私がチャールズ・リンドバーグです」
そして、歓喜に沸き返る群衆に、あっと言う間に飲み込まれてしまったのでした。

続く・・・


2013/12/20

歴史のお話その288:語り継がれる伝説、伝承、物語75

<翼よ、あれがパリの灯だ:①>

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 1927年5月20日、午前8時少し前、一機の銀色の単葉機が、積載した1700Lの燃料の重量に喘ぎながら、ロングアイランドのルーズベルト飛行場を離陸しました。
飛行機の名前は“スピリット・オヴ・セントルイス”、只一人操縦桿を握っているのは、若い飛行家、チャールズ・A・リンドバーグ2世。
是から5800km、大西洋を横断して、パリ迄単独無着陸飛行を行なおうとしていました。
この壮挙は、世界中の人々の夢をかきたて、センセーションを巻き起こしたのです。

 リンドバーグの試みは、航空史上、最も長距離の単独無着陸飛行で、ニューヨークからパリへの飛行は、是が始めてでした。

 リンドバーグが、ニューヨーク・パリ間の単独飛行を成し遂げたいと思ったのは、1年前、セントルイス・シカゴ間の郵便飛行士をしていた時でした。
しかし、当時5800kmの距離を無着陸で飛行可能な機体は、殆んど有りませんでした。
この長距離飛行の為には、機体から余分な重量を容赦なく削り取らなければ成りません。
この条件には、搭乗する人間の数も当然含まれます。

 リンドバーグは当時25歳、既に4年の飛行経験が有り、郵便飛行士、テストパイロット、アメリカ陸軍航空隊予備役として、実績を積み上げていました。

◎ライアン NYP “スピリット・オヴ・セントルイス”

 この若い飛行士の情熱は、他人にも伝染するものに違い無く、1927年2月、彼はセントルイスの実業家達から、資金援助を受ける事に成功し、この飛行に適した飛行機を製作依頼する為、センディエゴに向かいました。
其れから2ヶ月間、彼は、ライアン社の設計技師、ドナルド・ホールと密接に協力して、後に“スピリット・オヴ・セントルイス”として名前を後世に残す、単座、単葉の名機を生み出したのでした。

 最も重要な課題は、後続距離で、その為前方視界の殆んど大部分は犠牲にされ、エンジンとコックピットの間に予備燃料タンクが設置されました。
離着陸時は、ペリスコープの助けを借りて行い、シートはかなり後方に設置された設計になっていますが、是は出来得る限り、余分な空気抵抗を低減させる為でした。

 完成した、NYP型航空機は、燃料タンクが5ヶ所に設けられ、その航続距離、7245km。
是は、当時としては、極めて驚異的な燃料積載量で、大西洋横断には充分すぎる程のものでした。
そして、無駄な部分は、容赦なく削り落とされ、六分儀、ラジオ果ては、懐中電灯や照明弾さえ積まれていませんでした。

 1927年5月10日、リンドバーグはサンディエゴを出発、ニューヨークに向かいました。
他にも2機の機体が既に待機し、天候の回復を待っていたのです。
しかも、大西洋初横断飛行に成功した、飛行士には25000ドルのオーティグ賞が掛かっていたのでした。

 果てしなく思われた天候回復の待ち時間も終わりに近づいた頃、リンドバーグの頭は、最後の準備と天候の事でいっぱいでした。
当時この様な大飛行に天候は、最も重要な成功要因に成っており、リンドバーグがニューヨークに到着以来、大西洋上は、濃霧、嵐の悪天候が続いていたのでした。

続く・・・

2013/12/19

歴史のお話その287:語り継がれる伝説、伝承、物語74

<大いなる遺産>

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 ディケンズの小説「大いなる遺産」に登場する老いた世捨て人、ミス・ハビシャムは、実際に男に捨てられた花嫁の話が、物語の下書きに成っているそうです。

 オーストラリアのシドニーに住んでいた、エリザ・エミリー・ドニーソンと云う女性は、悲劇な事に1856年の結婚式当日、祭壇の前で一人でした。
夫と成るべき男性は、終に姿を見せず、この出来事に彼女は深く傷つき、自宅に篭ってしまい、この悲劇の日から30年の歳月、彼女は一歩も戸外に出る事は在りませんでした。

 婚礼の祝宴が開かれるはずだった部屋の扉には、鍵がおろされ、盛り花や披露宴の食事が、手付かずのままテーブルの上で腐っていきました。

◎小説の中の女性

 チャールズ・ディケンズの小説でも、ミス・ハビシャムはエリザと同じ様に生き、そして死を迎えます。
この驚くべき老婦人に初めて会った「大いなる遺産」の若き主人公ピップは、その印象を次の様に語ります。
「花嫁衣裳を身にまとった花嫁は、衣装そのものと同じに、古い花の様に萎れていた。
落ち窪んだ目の光を覗くと、輝かしさは何処にも残っていなかった。
かつて、若い女性のまろやかな体を包んだ衣装も、今は締まり無く緩み、それをまとう体は骨と皮にちぢんでいるのだった」

 ディケンズが、エリザをモデルにミス・ハビシャムを形作ったという、決定的な証拠は存在しません。
しかし、彼は旅行家や新聞記者等と広い交友が在ったので、地球の反対側に住んでいる世捨て人と成った女性の話をロンドンで聞いた可能性は有るのです。

 エリザの婚約者が姿を消してからちょうど5年後、1861年に小説は脱稿されました。

続く・・・


2013/12/18

歴史のお話その286:語り継がれる伝説、伝承、物語73

<シャーロック・ホームズのモデル>

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イギリス・グラナダTV製作 シャーロック・ホームズの冒険より主演ジェレミー・ブレッド

 20世紀が始まろうとする頃の事、ある晩、スコットランドで週末の狩猟を楽しんだ12人の客は、晩餐の食卓を囲んで、未解決の事件を話題に盛り上がっていました。
客の一人、ジョゼフ・ベル博士は、奇想天外な推理の展開で同席した他の人々を驚嘆させました。
博士は外科医で、その名講義は50年に亘って、エジンバラ大学の学生達を酔わせたのです。
その中には、若き日のコナン・ドイルやロバート・ルイス・スティーブンソンが、居たのでした。

 「殆どの人物は、単に眺めるだけで観察をしない」と彼は言いました。
「人物の容姿を少し見ただけで、その顔立ちに刻まれた国籍や現在の生活が推測され、歩きぶりや癖、時計の鎖についた飾り、衣類に付着した糸屑からその人物の残りの人生も推測されるのです」と付け加えました。

 更に続けて、「私が医学生達に講義を行っていると、教室に一人の患者が入って来た事が有ります。この人物はスコットランド高地連体所属の兵士で、軍楽隊員と思われる」と、私は言った。
「歩きぶりに肩肘を張った様子があり、高地のバグパイプ奏者を思わせたからです。
そして、背が低いので兵士ならば軍楽隊員にしかなれないはずでした。
しかし、男は自分の職業は靴屋で軍隊の経験は無いと言い張ります。
そこで、私は男にシャツを脱ぐ様に命じると、肘の上に焼きごてで付けられた、小さな青いDの印が見て取れたのです。
之は、クリミア戦争の時、脱走兵に付けられた烙印でした。
結局、彼はスコットランド高地連隊の軍楽隊に在籍していた事を、しぶしぶ認めたのでした。
之が、基本なのです」

 誰かが、感嘆の声を上げました。
「ベル先生は、まるでシャーロック・ホームズですね」と。
その言葉に、ベル博士は応えます。
「私が、シャーロック・ホームズです」
ベル博士は、シャーロック・ホームズその人である事を、コナン・ドイルは自叙伝の中で、その様に認めています。

◎枝葉が大切

 推理や分析の為にシャーロック・ホームズが用いる方式は、ベル博士の信条の反映に過ぎませんでした。
「生徒達には常に、小さな違いの大きな意味、些細な事柄の果てしない重要性を私は、強調したのです」と、博士は以前語った事が在りました。
「例えば、手仕事というものは、それぞれ独自の痕跡を残します。
鉱夫の切り口は、石工の其れとは違い、大工の掌は、石工の其れとは異なります。
陸軍兵士と水兵では、歩きぶりが異なります」
観察能力に磨きをかける事は、医師や探偵の必要条件ですが、一般人も其れによって、単調な自分の生活を冒険と興奮の世界に変える事ができると、ベル博士は信じていました。

 或る日の午後、博士がエジンバラ王立病院の自室に居ると、誰かがドアをノックしました。
「どうぞ」と博士が、応えると一人の男性が、ドアを開けて部屋に入って来ました。
博士は、その男性を見つめて、「貴方は何を悩んでいるのですか?」と尋ねました。
男性は驚いて、「私が悩んでいると、何故判ったのですか?」と問うと、「4回ノックしたからです。普通の人間なら2回か、せいぜい3回ですからね」。
確かにこの男性は、悩んでいたのでした。

 この様なエピソードも伝わっています。
一人の外来患者の診察を終えた処で、博士はおもむろに言いました。
「貴方は、スコットランド高地連隊で兵役に就き、最近除隊に成りましたね」
「その通りです。先生」
「貴方は、バルバドス駐在の陸軍下士官でしたね」
「正しく、その通りです」

 ベル博士は、学生達の方に向き直って、「諸君、ごらんの通り、彼は礼儀正しい人間ですが、帽子を取りませんでした。
軍隊では、帽子を取らないものなのです。
もしも、除隊して長い期間が経っておれば、民間の作法に馴染んでいたでしょう。
バルバドスと見当をつけたのは、彼の病気が象被病だからで、この病気は西インド諸島の風土病であるからです」と解説しました。

 コナン・ドイルは、この日の出来事に大変強い印象を受け、後にシャーロック・ホームズの1篇「ギリシア語通訳」で再現しました。

 コナン・ドイルは、1881年にエジンバラ大学を卒業し、眼科医の看板を出したものの、患者に恵まれず、何とかして収入を得る必要から、作家に転向します。
エドガー・アラン・ポーの影響を受け、1887年に探偵小説を創作する為、新しいタイプの探偵像を作りださねば成りませんでした。

 「私は、ジョー・ベル先生の事を考えた」と、コナン・ドイルは自叙伝の中で回想しています。
「先生が探偵であるならば、この仕事をもっと綿密な科学的な仕事にされていただろう。
人間を利口おと言うはやさしいが、読者が望むのは、ベル先生が私たちに見せてくれた様な、具体的実例なのだ。
私は、主人公を何と名づけ様かと考えた」
彼は、シャーロック・ホームズと名づけました。
クリケット仲間の友人と、アメリカの法学者オリバー・W・ホームズの名前を借りたのです。

続く・・・


2013/12/17

歴史のお話その285:語り継がれる伝説、伝承、物語72

<切り裂きジャックその②>

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◎警察署長の不可解な命令

 9月30日の夜、切り裂きジャックは更に2人の女性をその犠牲者に加え、そして唯一の手掛りを残して行きました。
その一人、リズ・ストライドは発見当時、未だ生きていました。
その場所から僅かな場所に、ケート・エダウズの哀れな亡骸が放置され、とある建物の入り口に血痕が続き、其処にチョークで書かれた殴り書きが見つかりました。
「ユダヤ人は、故無くして、責められる民族では無い」
この言葉は、切り裂きジャックが、ユダヤ人で、彼をつま弾きにする、社会に復習している事を意味している様でした。
このメッセージの意味は、極めて重要な筈でしたが、当然成すべき調査は実施されず、不可解な事に、警察署長チャールズ・オーエン卿は、文字を消す様に命じたのでした。

 シティーは一夜に2人の連続殺人事件に戦慄し、流言飛語が増大しました。
切り裂きジャックは、頭の狂った医者だ、ロシア帝国の秘密工作員が、スコットランド・ヤードの信頼を失墜させようとしている、この街の悪徳と憎悪する清教徒だ・・・・・等。
切り裂きジャックの実態は男性ではなく、女性で売春婦に狂信的な憎悪を持った人物とも噂されました。
しかし、誰にも、正体を明かすことなく、11月9日、彼は次の殺人を実行しました。

◎謎の死を遂げた容疑者

 25歳のメアリー・ケリーの生前の姿を最後に見たのは、ジョージ・ハッチンと名乗る通りすがりの男でした。
彼女は、彼に一夜の宿の代金を強請り、それからメアリーは鳥打帽を被った、小柄な身なりの良い男性に近づいて行きました。
翌朝、メアリーの惨殺死体が発見されました。

 メアリー・ケリーは切り裂きジャックの最後の犠牲者で、スコットランド・ヤードの刑事達は、以来彼の痕跡を追跡していましたが、決定的な証拠は見つかりませんでした。
やがて関係機関資料は、1992年迄スコットランド・ヤードに保管され公開されない事に成りました。(2011年現在公開された痕跡は無し)

 さて、切り裂きジャックはその痕跡を殆ど残すことなく、殺人を犯す度に、恐怖に騒ぎ立てる群衆の後ろに姿を消しました。
彼が貧困の中で育ったのであれば、外科的医学知識は何処で身につけたのでしょう?
逆に富裕者なら、何故イーストエンドの貧民窟で、目立たずに溶け込めたのでしょう?
そして、当時の外科医の推測では、数々の恐るべき犯行は、最低でも1時間を要したはずですが、何故、人知れず犯行を繰り返す事が出来たのでしょう?
これ等の疑問は、現在も解けておらず、メアリー・ケリー事件の後、数ヶ月にして事件は迷宮入りしてしまいました。

 切り裂きジャックの素性に関して、最も説得力のある意見は、作家ダニエル・フォーソンの立てた説の様に思われます。
彼は調査の基礎を、メルビル・マクナフテン卿の調査記録に置きました。
マクナフテン卿は、殺人事件の発生した翌年、スコットランド・ヤードに入り、1903年には犯罪捜査部長に成った人物でした。
彼の調査記録によれば、警察は3人の容疑者に捜査を集中させていました。
ミハエル・オストログという、殺人歴を持つロシア人の医師、コスマンスキという、女嫌いのポーランド系ユダヤ人、そして、モンタギュウー・ジョン・ドルイットという、不良弁護士で、警察はドルイットを犯人と断定していました。

 ドルイットの家系を長年に渡って調査した後、ファーソンもこの意見に賛同しています。
そして、ドルイットの一族も、彼が切り裂きジャックであると考えていたと思われます。
ファーソンの指摘によれば、彼の従兄弟、ライオネル・ドルイット博士は、一番遠い殺人現場からでも歩いて10分の場所にオフィスを構えており、加えて、ドルイットの母親は精神病患者で、ドルイット自身、発狂するのではなかと、恐れていたと云います。

 ドルイットは最後の殺人事件が発生して間も無く、行方不明に成り、7週間後の1888年12月31日、テームズ川に彼の死体が浮かんでいました。
ドルイットは自殺したのか?彼も又殺人者の犠牲に成ったのか?その総てを知っているのは、切り裂きジャックだけなのです。
しかし、切り裂きジャックが誰であるにせよ、その恐ろしい秘密は永遠の闇に葬られました。

続く・・・

2013/12/16

歴史のお話その284:語り継がれる伝説、伝承、物語71

<切り裂きジャックその①>

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1888年10月13日、イラストレイテド・ロンドン・ニュースによるイラスト。
「With the Vigilance Committee in the East End: A Suspicious Character」


◎伝説に残るロンドンの連続殺人魔

 霧の渦巻くロンドンの夜に、5度目立たない小男が出歩き、5度、男は町の女に声を掛けました。
そしてその度、女が死んで行きました。
ジャック・ザ・リッパー(切り裂きジャック)と呼ばれた殺人鬼の手口で、切り殺されて・・・。

 この小男が誰なのか、数十人の探偵がさまざまな推理をしましたが、決定的な解明をした者は居ません。
その残念な犯罪は、発生時点から120年余りを経た現在もなお、不可解で興味の尽きない謎なのです。

◎スラム街

 ビクトリア時代のロンドン・イーストエンドは、イギリスの表玄関の恥部でした。
腐臭を放つ通りの両側に小さな家が犇めき合い、塵に埋まっていました。
あばら家の中では、ぎっしり詰め込まれた住人達が、可能な限り自分の場所を確保しようと争い、戸外では男も女も子供達でさえ、惨めな稼ぎを得る為に血眼に成り、当たり前の様に法律を犯し、唯一の憂さ晴らしは、数ペニーのジンを買うことだけでした。
この貧困と悲惨の坩堝へ、切り裂きジャックが1888年の秋に踏み込み、恐怖とパニックが遣ってきました。

◎恐怖時代の幕開け

 メアリー・アン・ニコルスは、齢42歳を数え、男を引き付ける色香は失せかけ、その晩は安宿に一夜のねぐらを求める代金4ペニーさえ、持ち合わせていませんでした。
有り金全部をジンに費やしてしまい、だから狭い路地で男が一人近づいてきた時、メアリーはベッドでゆっくり手足を伸ばして眠る機会が来たとしか、考えませんでした。

 彼が物陰に彼女を引き寄せた時も、メアリーは別に驚くことは有りませんでした。
2~3m先には、通行人が居たのです。

 何か怪しいと彼女が気づいた時には、手遅れでした。
切り裂きジャックは、彼女の後ろに回り、口を手のひらで塞ぎ、それから、彼は女の咽喉を切り裂いたのです。
1888年8月31日金曜日の早朝、荷馬車の御者がメアリーの哀れな死体の発見者でした。
是が、切り裂きジャックの恐怖の始まりでした。

 其れから、1週間後、彼は次の仕事を行います。
犠牲者は、その後の犠牲者がすべてそうであった様に、売春婦で47歳のアニー・チャップマンでした。
彼女は、切り裂きジャックの魔手に掛かった時、重度の肺結核でしたが、その死体の足元には、彼女の指輪や僅かな所持金がきちんと並べられていました。
彼女の死に様も、痛ましいものでした。

◎疑心暗鬼

 イーストエンドには、様々な噂が飛び交い、殺人鬼はナイフを、小さな黒い袋に入れているとの噂が、一番に流れ、そのような袋を持っている人間が居ると、決まってヒステリー状態の群集に追い回される事に成りました。
自警団が組織され、街路を徹夜で巡回し、警察が誤認逮捕した人物も、数十人に上る有様でした。

 しかし、切り裂きジャックは何一つ手掛かり残さず、司法医師が推測出来たのは、犯人が左効きで、医学知識の心得が在ると言う事だけでした。

続く・・・

2013/12/15

歴史のお話その283:語り継がれる伝説、伝承、物語70

<二重スパイ マタ・ハリ>

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 近代史上、最も有名な女スパイ。
マタ・ハリはダンサーとしての芸名であり、本名はマルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ。
若き日の彼女は、教師を志すが失敗、その後結婚し2児を儲けるも離婚した後、パリに移り住みジャワ島からやって来た舞姫と云う触れ込みで、ダンサーと成り人気を得ました。
又、多くの高級士官或は、政治家を相手とする高級娼婦の一面も在りました。

 当時は第一次世界大戦最中、敵対するフランスとドイツの両国が、彼女の美貌と職業柄、高級士官との接触が取りやすいとの点に目をつけ、スパイの話を持ちかけます。
金銭的な魅力に引き付けられた彼女は、この話を受け入れます。
しかし、結果的に二重スパイ行為は明るみとなり、逮捕の直接要因は、彼女が暗号名H-21なるドイツのスパイと交わした通信が、フランスによって解読された事でした。
フランスに於いて、二重スパイと為り第一次世界大戦で多くのドイツ、及びフランス人兵士を死に至らしめた、との容疑で起訴され、彼女は有罪と成り、銃殺刑に処せられました。
是には、当時戦況が不利に成っていた、フランス側に取って、彼女のスパイ活動を誇大に宣伝する事で、国威発揚に好材料と成った事も又、事実なのです。

 処刑についても様々の逸話が伝えられています。
有名な話しでは、処刑の際、銃殺隊は彼女の美貌に惑わされない様、目隠しをしなければならなかったというものや、処刑前の彼女は毅然とした態度を崩さず、気付けのラム酒は受つけましたが、目隠と処刑の木に縛られる事は拒絶した、と伝えられています。
実際、彼女のスパイ活動の詳細は分かっていませんが、実際の処はフランス・ドイツ両国にとって、単なる情報伝達係りでしかなかったのですが、その魅惑的な美貌から伝説的な女スパイとして造り上げられ後世に名を残したのでしょう。

続く・・・

2013/12/13

歴史のお話その282:語り継がれる伝説、伝承、物語69

<参戦にNOと訴えた女性 ジャネット・ランキン>

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 アメリカ合衆国、モンタナ州ミズーラの牧場主と教師の子として生まれた彼女は、モンタナ州立大学を卒業後、ニューヨークに移住、その後シアトルのワシントン大学に入学し、初期の選挙権運動に参加しました。

 1916年下院議員に共和党から出馬し、モンタナ州選出議員として当選を果たしますが、間も無くアメリカは第一次世界大戦参戦への道を進み始めます。
参戦を決める議決において、彼女は他の55名とともに反対し、マスメディアで痛烈に非難され、1918年には無所属候補として立候補しましたが落選してしまいます。

 その後約20年間、ワシントンD.C.でロビイスト(圧力団体の利益を政治に反映させるために、政党・議員・官僚などに働きかけることを専門とする人々)として活動を続け、1940年、彼女は再び政治の舞台を目指します。

 反戦を政策に掲げ、再び下院議員に当選したのですが、日本がアメリカに行った真珠湾攻撃の後に開かれた議会に於いて日本への宣戦布告を採決。
上院 賛成82、反対0、欠席15(採決に間に合わなかった為)
下院 賛成388、反対1、欠席41
アメリカの参戦が決定しました。

 上院・下院を通じてただ一人反対票を投じた彼女は、「私は女なので戦争には行けません。ですから他人を戦場に送ることは拒否します。」と発言したのでした。
轟々たる非難の中、ボディーガードに守られたジャネットは議会を後にします。
もちろん、戦争に突進するアメリカ国内の非難は凄まじく、更にはドイツ・イタリア宣戦布告の採決の際に「インディアンの選抜徴兵反対法案」を提出し全米を敵に回したのでした。

 彼女はマハトマ・ガンジーの穂暴力主義に共感したアメリカ下院初の女性議員であり、国政レベルにおいて投票で選ばれた世界初の女性議員でも在ります。
第二次世界大戦時の反対票を投じたジェネット・ランキンを、カンザス州の地方紙「エンポリア・ガゼット」はこう評していました。
「何という勇気ある行為であろうか。今から100年後のこの国で、道徳的義憤に基づく勇気が、真の勇気が称えられる時、信念のために愚かしくも堂々と立ち上がったジャネット・ランキンの名前が、その業績の故ではなく、その行為故に記念の銅像に刻まれるであろう」
今彼女はアメリカの良心として、モンタナ州・州政庁の前に銅像と碑文が建てられている。
その碑文には、「私は戦争に行くことが出来ません」と刻まれています。

 世界中で未だ戦争は無くなっていません。

続く・・・


2013/12/12

歴史のお話その281:語り継がれる伝説、伝承、物語68

<ヒトラーから10万人を救った外交官>

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ラウル・グスタフ・ワレンバーグ(1912年~?)/スウェーデン

 第二次世界大戦の最中、民族浄化の名の下にユダヤ人への迫害が繰り広げられていたナチス占領下、ワレンバーグはスウェーデン外交官として、ハンガリーへ赴任しました。
この時から「10万人のユダヤ人を救った英雄」としての人生が始まります。
「セーフハウス」と呼ばれる31軒の家を造り、1万5千人ものユダヤ人を保護し、さらにはワレンバーグの写真とスウェーデン国旗を印刷した保護証明書を発行し、これを大量に配布しました。
この保護証明書には、法的な権限は全く有りませんでした、意外なほど効力を発揮し、大勢のユダヤ人が難を逃れることが出来たのです。

 しかし、彼の行動は一外交官の裁量を大きく逸脱する行為で在り、賄賂や脅しなどの手段も躊躇なく使ったと伝えられています。
時には、強制居住地区のユダヤ人抹殺命令を受けていた、ドイツの将軍シュミットフーバーを相手取り「これを実行すれば、戦後責任を取らせて貴方を確実に絞首刑にする」と脅して、未然に計画を阻止し、又10万人ものユダヤ人を180キロの道程を、一切の食料なしで強制移動させた「死の行進」の際には、列車で駆けつけ食料を与え、保護証明書を配布し、世論に訴えかけるという手段によって、これも阻止しました。

 その様なユダヤ人の英雄ワレンバーグは、アメリカ合衆国からの資金援助を受けていた事から、スターリン独裁下のソビエトには、アメリカのスパイと認識されてしまいます。
そして、1945年1月、ナチスを破りハンガリーへと侵攻してきたソ連軍と、以後のユダヤ人保護政策について話し合う為その会見場へと向かった時が、ワレンバーグの最後の姿と成りました。
ワレンバーグはソ連の収容所へと送られ、1947年頃死亡したと言われていますが、ワレンバーグの死は公式には未だ認められていません。
戦後、各地に彼の英雄行為に対する碑が作られ、イスラエルでは栄誉国民を、アメリカでは名誉市民権を与えられています。

続く・・・

2013/12/11

歴史のお話その280:語り継がれる伝説、伝承、物語67

<或る大学教授の悪戯>

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 スコットランド、アバディーン大学物理学教授で、歴代イギリス政府科学顧問を務めた、レジナルド・ジョーンズ博士は、大変な悪戯好きな人物としても知られていました。
小は、謹厳な学究の徒に、電話機を水の入ったバケツに突っ込ませる事から、大はドイツの爆撃機を迷走させる事迄、彼の悪戯歴は輝かしいものなのです。

 1930年代にオックスフォード大学で、研究助手をしていた頃、ジョーンズは或る有名な哲学博士に電話をかけ、しかも相手が電話に出るや否や、電話を切る動作を数回繰り返し後、電話局の技師を装って、かけ直し、電話が故障していると告げました。
哲学博士がどうもそうらしいと答えると、彼は哀れな博士に思いつくまま、ありとあらゆる修理方法を取らせ上、最後に電話機をバケツに入れるように指示したのです。(意図は不明)

 しかし、ジョーンズ博士の悪戯は、時に祖国イギリスに有益でした。
第二次世界大戦の最中、イギリス航空省情報部勤務の際、彼はドイツ軍が爆撃機を方向指示電波で誘導している事を発見し、敵の電波信号をコピーしてロンドンから発信し、ドイツ空軍爆撃機を誘導、無人の荒野に爆弾を投下させました。

 又、連合軍爆撃機に搭載される事と成った、H2Sと呼ばれる対潜水艦探知装置に関する、偽装工作は最も優れたものと言えます。
ドイツ軍情報部に、イギリス軍が何らかの対潜水艦探知装置を開発している事を、早い段階で察知されてしまい、博士は是に対抗して攪乱戦術を考案します。
博士は、潜水艦の位置を探知する赤外線装置を「発明」して、その情報が確実にドイツ軍情報部へ流れる様に計ったのでした。
この「発明」新兵器の能力を恐れたドイツ海軍は、実在しない新兵器の為に、その光学兵器が探知できない様、取得した情報に従って、Uボート全艦の塗装を変更したのでした。

続く・・・
2013/12/10

歴史のお話その279:語り継がれる伝説、伝承、物語66

<ドイツ兵を楽しませた謀略放送>

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 第二次世界大戦の間、ドイツ軍ラジオ放送局、グスターフ・ジークフリート・アインス(以下GSI)は、下級兵士の間で、格別の聴取率を誇っていました。
歯に衣を着せず、下級兵士の気持ちを代弁する独自の番組を放送していた為ですが、やがて、放送の言外の意味を論理的に解釈すると、意外な情報が入手できる事が解かった為でも有りました。

 例えば、「我々の勇敢な軍隊がロシア戦線で、凍死の危機に曝されている間に」不当な利益をむさぼる者を、激しく非難するキャンペーンをGSIが始めた時、兵士達には、「不当な利益」等どうでも良い事で、お陰で東部戦線の冬の厳しさを正確に知る事が出来たのでした。

 又、空襲で損害を受けた、ドイツ諸都市の市民を収容する施設の医師達の活躍を、報道した時も、兵士達はコレラやチフスの死者が週平均60名も出た事を知ったのです。

◎愛国心

 GSIの人気の元と成った明け透けな報道姿勢は、後に大西洋放送とカレー兵士放送に引き継がれ、何れも、ドイツ占領下のヨーロッパ、ドイツ進駐軍向けの放送局でしたが、その熱烈な愛国心は、時として指揮官達の頭痛の種と成りました。

 これらの放送局が、怒りを込めて報道した番組に、脱走兵のニュースが有りました。
祖国を捨てて中立国に逃げ込んだ、不届きな兵士の脱走方法を、番組は怒りと悲しみを込めて、事細かに放送しました。
当然、軍務を離れたいと常々思っていた兵士達は、更に故郷の町が連合軍側の爆撃で、被害を受けた事を知ると、放送で知った脱走方法を実際に応用して、私的な無断休暇を取得したのです。
しかも、放送局の伝える情報の正確さは、何時も前線に空輸されて来る「軍隊ニュース」で裏付けされていました。

◎虚実取り混ぜ

 しかし、これらのドイツ兵士向け放送は、実際にはドイツ軍の手で行われていた訳では無く、ラジオ放送も新聞も、共に連合軍情報部の智恵の産物と言えるものでした。
ラジオ放送の発信地は、イギリス本土で、強力な電波によって本物のドイツ軍放送を傍受不能にしていました。

 偽装放送が成功したのは、情報に虚実を程よく混ぜ合わせ事により、それが結果的に故郷を遠く離れた前線のドイツ兵士達の心理に、効果的な働きをしたのです。
ドイツ軍の本物の新聞に似せた「軍隊ニュース」は、イギリス軍軍用機が毎夜空輸して地上に落としましたが、此方もラジオ放送同様の編集方針を取っていたのです。

 ドイツ宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスは、偽りの情報効果に憂慮しましたが、情報活動家としての彼は、連合軍の戦術に賞賛を惜しまない訳にはいかず、彼は連合軍側にこの新聞を、英訳して脱走や破壊、敵前逃亡を勧める宣伝ビラを仕立てて、連合軍側の後方に投下したのでした。

続く・・・


2013/12/09

歴史のお話その278:語り継がれる伝説、伝承、物語65

<英雄に成った死体・ミンスミート作戦>

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シチリア侵攻(ハスキー作戦・1943年7月10日)

 スペインのある墓地に、1人のイギリス人が眠っています。
この人物は生前、祖国に殆んど何も貢献しなかったかも知れませんが、イギリスの秋の湿気の為、肺炎に罹り死亡した後、ナチス情報部を攪乱させ、数千人の将兵の命を救ったのでした。

 1942年、北アフリカ戦線での戦いが終息を向え様としていた頃、連合軍の次なる作戦がシチリア島攻略作戦である事をドイツ情報部に察知されてしまいます。
大至急、その情報が誤りである事とドイツ側に思わせなければ成りませんでした。

 イギリス海軍情報部は、一計を案じます。
死体を用意し、飛行機事故で死亡したと偽装して、その死体が中立国スペインの海岸に打ち上げられる様にし、死体には、極秘指令書に偽装した情報を忍ばせておき、ドイツスパイが其れを盗み見る様に仕向けました。

 第一の仕事は、溺死体に見える死体探しから始まり、肺炎患者の遺体が、身元を決して明かさない条件で取得されました。
死者は、イギリス海兵隊所属ウィリアム・マーチン少佐に生まれ変わり、彼が携行した書類の中には、イギリス参謀本部副部長がアフリカの第18陸軍師団司令官、アレクサンダー将軍に宛てた手紙が忍ばされていました。
手紙には、彼の意見が通らず、侵攻目標がシチリアではなく、何処か別に場所に変更されたと記されていたのでした。

 マーチン少佐は、マウントバッテン卿が地中海艦隊司令官のサー・アンドルー・カニンガムに宛てた書簡も携えており、其処には、一見不用意に洩らしたと見える言葉が、さり気無く書かれており、予定侵攻地点はサルジニア島で在るかの様に仄めかされていました。

 少佐は1943年4月19日、イギリス海軍潜水艦セラフ号の魚雷室に隠され、最初で最後の任務に出撃しました。
11日後の夜、死体は海中に下ろされ、翌朝、海流がウエルパの海岸に運び、漁師に発見されました。
スペイン当局はイギリス領事館に連絡を取り、少佐は最高の礼をもって軍葬に付されます。
しかし、書類に関するスペイン側の報告は、一切有りませんでした。

 スペインに対して、緊急要請が行われ、書類は最終的に5月13日、イギリスの手に戻されます。
精密調査が行われ、封筒が開けられた事が判明しますが、マーチン少佐の貢献が充分に確認されたのは、終戦の後でした。
ヒトラーは、連合軍の侵攻地点をサルジニア島と断定したいたのです。

 ドイツ軍最高司令部は、勢力を分散し、防衛線に弱点をつくり、連合軍は当にその地点を突いたのです。
シチリア侵攻作戦を迎え撃ったのはイタリア軍と、ドイツ軍の僅か2個師団だけで、その結果、上陸時の連合軍の犠牲は最小限に食い止められ、侵攻作戦は大成功に終わったのでした。

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イギリス海兵隊、ウィリアム・マーチン少佐身分証

続く・・・
2013/12/07

歴史のお話その277:語り継がれる伝説、伝承、物語64

<リリー・マルレーン>

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 第二次世界大戦でヒットした曲と言えば、往年の大女優マレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich)の歌う「リリー・マルレーン」を思い出す人が多いのですが、実はこの「リリー・マルレーン」を最初に歌ったのは、ラーレ・アンデルセン(Lale Andersen)で在る事は余り知られていません。

 この歌は、1915(大正4)年に、ドイツの詩人ハンス・ライプ(Hans Leip)の詩集"Das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht"に収録されていた詩を基に、1938年、作曲家ノルベルト・シュルツェ(Norbert Schultze)が曲を付けたものを、大戦が始まる7ヶ月前の1939年2月、歌手ラーレ・アンデルセン(Lale Andersen)によって録音されました。

 しかしその時には、60枚とも600枚とも言われる”伝説”が在る位売れず、曲も忘れ去られ、レコード会社には多くの在庫が残ったのですが、このレコードの内2枚がどういう経緯か前線慰問用のレコード中に紛れ込み、1941(昭和16)年6月14日21時57分、ベオグラード放送から北アフリカ戦線のドイツ兵向けに、この曲が流されたと伝えられています。

 この曲は、忽ち戦線のドイツ兵の心を捉え、 多くの兵が故郷を思い、涙を流したと云われていますが、 ドイツ兵のみならずイギリス兵の間にも流行した為、ナチスはこの歌を禁止しました。

 なお、ドイツ生まれの大女優マレーネ・ディートリヒは、ナチスを嫌い、アメリカに亡命し、戦時中アメリカ軍兵士の慰問にヨーロッパ各地を巡りました。
彼女は、此の時から「リリー・マルレーン」の歌を歌い、以後、彼女の持ち歌の一つと成りました。

 ラーレ・アンデルセンは、この歌で人生が大きく変わり、「リリー・マルレーン」のヒットに目を付けたナチスは、彼女にベルリンのマンションを与える等の大スター待遇で迎え、前線慰問などに動員しましたが、彼女の「絶頂期」は長くなく、1942年夏、イタリアでの演奏旅行に出かけた彼女は、突然ゲシュタポに逮捕されてしまいます。

 スイスに残してきた夫がユダヤ人で、亡命を図ったからではないかと言われますが、当局の追及に疲れた彼女は、睡眠薬自殺を図るものの、一命を取り留めます。
彼女の命を助けたのは、イギリスBBCのドイツ向けラジオ放送でした。
「貴方方の憧れの”リリー・マルレーン”を歌ったラーレ・アンデルセンは最近収容所に入れられて、そこで死んだ」と報道したのです。
ナチスの非道を宣伝する為の放送だったのですが、ナチスはその放送を否定し、彼女の健在ぶりを示す為、再びドイツ国民の前に出さざるを得ませんでした。
彼女は釈放されましたが、宣伝大臣ゲッベルスは、レコード原盤を持つエレクトローラ社に原盤の破棄を命じ、彼女にリリー・マルレーンを歌う事を禁じたのです。

 その後、全てに疲れ絶望した彼女は、ベルリンを離れ、北海の孤島のランゲウォング島に身を潜めるようにして生活を始めました。
ドイツ敗戦後、彼女は再び歌手に復帰しますが、ドイツ国民は既に彼女の歌を必要とはせず、更に50年代のビート音楽の流行により、古くさい歌謡曲は急速に人気を失いました。
彼女は、民謡歌手に転向しますが、過去の名声は蘇る事なく、1972年8月29日、彼女は自伝のキャンペーン中にウィーンでその生涯を閉じました。

※歌詞(Wikipediaより)

歌詞の内容は、戦場の兵士が故郷の恋人への思いを歌ったもの。
(略訳)
兵営の前、門の向かいに
街灯が立っていたね
今もあるのなら、そこで会おう
また街灯のそばで会おうよ
昔みたいに リリー・マルレーン

俺たち2人の影が、1つになってた
俺たち本当に愛しあっていた
ひと目見ればわかるほど
また会えたなら、あの頃みたいに
リリー・マルレーン

もう門限の時間がやってきた
「ラッバが鳴っているぞ、遅れたら営倉3日だ」
「わかりました、すぐ行きます」
そして俺たちお別れを言った
君と一緒にいるべきだったのか
リリー・マルレーン

もう長いあいだ見ていない
毎晩聞いていた、君の靴の音
やってくる君の姿
俺にツキがなく、もしものことがあったなら
あの街灯のそばに、誰が立つんだろう
誰が君と一緒にいるんだろう
たまの静かな時には 
君の口元を思い出すんだ
夜霧が渦を巻く晩には
あの街灯の下に立っているから
昔みたいに リリー・マルレーン


続く・・・
2013/12/06

歴史のお話その276:語り継がれる伝説、伝承、物語63

<椿  姫>

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マリア・カラス(Maria Callas 1923年12月2日 - 1977年9月16日)「椿姫」

 オペラは、時として荒唐無稽な古代伝説を、題材に選ぶ事があります。
しかし、ベルディの「椿姫」は、パリの街に巣食う実在の浮かれ女と、小説家アレクサンドル・デュマ(子)の才能のもとに生まれました。
ヒロインのモデルは、ローズ・アルフォンシーヌ・プレシと云い、1824年にノルマンディー近郊のノナン村で、生まれました。
15歳の時、彼女は家を飛び出し、一文無しでパリに辿り着きます。
そして、彼女は食べて行く為に、たちまち売春婦と成りました。

 18歳に成る頃には、家族の追及をかわす為、名前をマリー・ヂュプレシと変え、名高い高級売春婦に成っていました。
一等地のマドレーヌ大通りに住居を構え、ロシアの前ウィーン駐在大使ド・スタッケンベルグ伯爵等、大富豪を客に迎えていました。

◎出会い

 デュマが始めて彼女に出会ったのは、プールス広場で、マリーが馬車から降りようとしている処でした。
彼は、たちまちその美しさに魅せられ、パリエテ座のボックス席で再開するや、伝を頼って知り合いと成りました。

 二人のロマンスは、彼女が別の男性と結婚してもなお、彼女の死迄続きました。
慢性の結核に罹っていたマリーは、デュマに言いました。
「私を愛人にすると、ろくな事に成らないわ。神経質で、病弱で、悲しくて、悲しみよりもっと惨めな陽気さに浮かれる女よ。私の恋人達は直に、私を捨てたわ」
しかし、恋に盲目と成っていた若いデュマにとって、彼女の忠告等、耳に入りませんでした。

 彼女の病状は悪化の一途を辿り、デュマは医師の支払いの為、終に破産します。
マリーが、昔の愛人ベルゴーニ子爵と結婚した時でさえ、彼は彼女に忠実でした。
1847年2月3日、マリーは23歳で旅立ちます。
生前、こよなく愛した花椿に覆われて、棺はモンマルトル墓地に埋葬されました。

 マリーの死後、デュマは直ぐに「椿姫」に着手します。
後に彼は、この小説を戯曲に書き改め、その上演を見たベルディが、インスピレーションを得て、1853年オペラ化したのでした。
こうして、マリーは音楽の世界で、永遠のヒロインとなったのでした。

続く・・・


2013/12/05

歴史のお話その275:語り継がれる伝説、伝承、物語62

<組合長ブロディー:ジキル博士とハイド氏のモデル>

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 18世紀半ば、スコットランドのエジンバラに、ウィリアム・ブロディーと云う信望を集める人物が居ました。
厳格な気風の街に在って、彼は市民の模範でした。
富裕な家庭に生まれ、石工ギルドの組合長と市会議員を務めていました。

 しかし、この組合長は、イギリス文学上の最も恐るべき主人公のモデルでも在りました。
ロバート・ルイス・スティーブンソンの精神分裂症を病む科学者ジキル博士は、彼を基に生まれたのです。
ジキル博士と同じく、ブロディーは高潔な仮面の下に、秘密の生活を隠していました。
昼間は実業家の仮面を被り、夜は賭博師、盗賊に成りました。
誰も彼の秘密を知ることは無く、彼との間に5人の子供をもうけた情婦も、お互いの存在さえ気づきませんでした。

 ブロディーが悪の道に入ったのは、27歳の時で、1768年8月、彼は市立銀行の合鍵を造り、800ポンドを盗みますが、それ以来、18年間の間に幾多の建造物侵入を繰り返しましたが、誰も彼を疑う事は有りませんでした。

◎逃亡と逮捕

 しかし、1786年にもなると、さすがの悪運も尽き始め、この年、彼は3人のコソ泥と組み、其れまで以来の大胆な計画、スコットランド間接税務局本部の襲撃に乗り出します。
だが、局員に発見されブロディーは逃走するものの、共犯者の一人が逮捕され、彼の名前を供述します。

 ブロディーは警察に逮捕され、エジンバラで裁判を受けますが、状況は決定的に不利でした。
合鍵、拳銃等、警察側は彼の二面性を明かす証拠を握っており、ブロディーには死刑の判決が下りました。
死刑執行の前夜、彼は絞首台に釣り下がった瞬間の衝撃を緩和する為、首から踵迄の着衣に針金を入れ、縄で窒息しない様に、喉には銀のチューブを入れました。
しかし、結果はこの努力にも拘わらず、1788年10月1日、彼はエジンバラの絞首台で処刑されました。

 2年後、スティーブンソンは同じテーマで、「ジキル博士とハイド氏」を執筆しました。
人間の暗黒面を描いた、彼の代表的短編小説で、その中で、ジキル博士は或る薬の実験を通じて、「人間は1体ではなく、本当は2体なのだ」と悟り、「如何にして私は、人間の根本的、絶対的な二重性を認識するに至ったか」を述べます。

 そうして、実験の虜になった理由を、彼は次の様に言います。
「もし人間一人一人が、異なった人格に成り代わりさえ出来れば、人生の耐え難い苦痛は全て除かれるであろうと、私は考えた。
不正なる魂は、より道徳的なその片割れの向上心や自責の念から解放されて、己の道を行くだろう。
正しい魂は、邪悪な伴侶が犯す不真面目や恥辱にもはや悩まされず、善を為す事に喜びを覚えながら、天に向かう道をしっかりと確実に辿って行く事ができるだろう」

 人間の心に潜む生来の悪が、善良な組合長ブロディーを蝕んだ理由を、スティーブンソンは以上の様に語っています。

続く・・・


2013/12/03

歴史のお話その274:語り継がれる伝説、伝承、物語61

<歴史上最大の紙幣偽造大作戦と史上最低の紙幣偽造②>

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1910年代のニューヨーク下町風景

 史上最大の紙幣偽造作戦、ナイス・ドイツがイギリス経済の混乱を図る為、実行したベルンハルト計画(旧称アンドレアス計画)は、国家を挙げて、持てる最高の設備、技術、資金、そして紙幣偽造の前科者に対して、特赦を条件に動員したポンド紙幣偽造を紹介しましたが、②はその反対、史上最低の紙幣偽造事件です。

◎孤独な老人のささやかな世過ぎ

 通貨偽造を取り締まる、アメリカ財務省の検察部が、1938年11月、奇妙な捜査に着手しました。
ニューヨーク市内の銀行窓口で、1ドル紙幣の偽札が発見されたのです。
更にその1ヵ月間に、合計40ドルの偽1ドル札が出現し、ベテラン捜査官を困惑させました。

 高額紙幣を大量に偽造し、市中に流す、欲深な犯人には、検察部も手馴れたものでしたが、1ドル紙幣ばかり、年間通じて585枚、と言う事は1日僅か2ドル足らずの稼ぎで満足する、犯人等今迄に居たでしょうか?

 偽造技術の幼稚さも、謎の一つで安物の紙を使用し、数字や文字は不恰好に捻じ曲がり、ジョージ・ワシントンンの肖像が擦れていました。
おまけに、本来Washingtonであるべき綴りが、Wahsingtonとスペルミス迄されており、一目見れば誰もがふきだす程、馬鹿げた偽物でした。
しかし、ニューヨークの小売商は、紙幣を正確に確認する事は殆ど無く、経験を積んだ銀行の出納係りの手に渡る迄、発見されませんでした。

 事件は検察部ファイルNo880として記録されました。
事件を担当した検察官は、やがて未知の犯人を「オールド・エイトエイティ」と呼びます。
この犯人には、何処か憎めない処が有った為でした。
5年後、オールド・エイトエイティの1ドル札は、2840枚に成りました。
その後も彼は、独自の紙幣を発行し続け、些細なきっかけで逮捕されたのは、捜査開始から9年の歳月が過ぎていました。

◎無邪気な犯人

 1948年1月、マンハッタンのウエストサイドの空地で遊んでいた7人の子供達が、いろいろなガラクタの中に、亜鉛の印刷原版と30枚程の1ドル紙幣を見つけました。
おもちゃのお札と考えた彼等は、其れを親に見せたところ、親はその札を警察に届け、警察は財務省検察部に通報しました。
3人の捜査官が調査した結果、最近、空地に近いアパートの屋根裏部屋で発生した小火騒ぎの際、消防士がその部屋に在った、印刷機や紙幣を空地に投棄した事が、判明しました。
捜査官が、問題の屋根裏部屋を訪れてみると、紙幣や印刷機、そしてオールド・エイトエイティ本人が居たのです。

 彼の名前は、エドワード・ミューラー。
73歳の男やもめで、青い瞳や、歯の抜けた口元の微笑み、白髪と形の良い口髭からは、どうみても温厚な人当たりの良い、老人にしか見えませんでした。
9年間に渡って偽札を作り続け、彼の慎ましい暮らしの支えに週10枚から12枚の割合で使用したと、彼は愛想よく語りました。
愛妻は1937年に亡くなっていました。
息子と娘は独立し、住居を遠くに移しており、彼自身は、建設工事監督の職を失い、手押し車で街のゴミを拾う仕事をしていました。
自分で食事の用意をし、自分で洗濯を行い、犬を自分で散歩に連れて行く毎日でした。
そして、現金が必要になると、之も自分で作って用意していたのです。

 「作ったのは」と彼は楽しそうに語りました。
「1ドル紙幣だけじゃった。どの店でも1ドル以上使った事はありゃせん。だから、1ドル以上損をした者はおらんよ」と。

 エドワード・ミューラーは自分を善人と信じて疑いませんでしたから、思いやりのある捜査官が、実は自分を逮捕しに来た事を知って本当に驚いたのです。
1948年9月、連邦地方裁判所で彼は罪を認めましたが、高齢を考慮されて、1年の刑期の内4ヶ月を務めた時点で釈放されました。
刑務所に入る前、オールド・エイトエイティは名目的な罰金を1ドル支払いました。
ほんものの1ドル紙幣で。

続く・・・

2013/12/01

歴史のお話その273:語り継がれる伝説、伝承、物語60

<歴史上最大の紙幣偽造大作戦と史上最低の紙幣偽造①>

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映画・ヒトラーの贋札より

 ドイツ第三帝国が、1945年5月に降伏した数日後、2100万ポンドにも上るイギリス紙幣を積んだトラックが、アメリカ軍情報機関に引渡されました。
オーストリアのエンス川には、更に多量の紙幣が浮いているとの情報も流れました。

 イングランド銀行の関係者がフランクフルトに向かい、紙幣を鑑定した結果、やがてナチスドイツによる大規模な紙幣偽造作戦、ベルンハルト作戦の全貌が浮上して来たのです。

 戦時中、本物と殆んど見分けのつかない偽造紙幣が、10万ポンドずつの束で大量にチューリッヒやリスボン、ストックホルム等の中立都市からロンドンに流入していました。
イングランド銀行は、犯罪組織の仕業と考えていましたが、エジンバラで逮捕されたドイツ諜報員の所持品から、其れまで見た事も無い程に精巧な、偽造紙幣が発見されたのでした。

◎陰  謀

 トラック1台分の紙幣が出る迄、銀行側に証拠は無く、トラックを運転してきたドイツ人将校は、オーストリアのレートル・ツィプフ付近で、親衛隊から金を受け取ったと語り、事実、ツィプフ付近の山の山腹に掘られたトンネルに、印刷機が隠されていたものの、原版や用紙、記録の類は一切発見されませんでした。

 偽造作戦を指揮した、ベルンハルト・クルーガー少佐の名前を取ったベルンハルト作戦は、ゲシュタポのハインリッヒ・ヒムラーが考案した計画で、目的は、イギリス経済の破壊でしたが、ドイツ国立銀行は、イギリスが同様の手段で報復する事を恐れて、偽造計画に抵抗します。

 其処で、クルーガーは、製版工と印刷職人を強制収容所の中で、待遇改善を餌に徴用し、彼らは秘密厳守を誓わされ、ベルリン近郊のザクセンハウゼン収容所で偽造作業を始めたのです。

 原版が造られ、イングランド銀行の紙幣が再現されました。
偽造紙幣の第一刷は、中立国に潜伏している諜報員に送られ、現地の金融機関は、其のポンド紙幣を本物と信じて疑いませんでした。

 戦争の行方がドイツに不利になって来た時、ヒムラーは作戦の中止を決定しますが、クルーガーは彼を説き伏せて、製版工場をアルプスへ移動させます。
偽造に関与した、職人達がナチスの脱走兵に、偽造紙幣と証拠の記録を渡す恐れがあると言う理由の為に。

 印刷設備の移動が完了した頃、連合軍のドイツ侵攻は目前に迫り、クルーガーは原版を廃棄したものの、偽造紙幣の山迄処理する事が出来ず、連合軍に摘発されたのでした。
イングランド銀行の見積りでは、偽ポンド紙幣は900万枚、価格にして1億5千万ポンドが印刷されたと見られました。
其の後、ベルンハルト・クルーガー少佐の姿を見た者は居ません・・・。

続く・・・