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2014/01/31

歴史のお話その313:語り継がれる伝説、伝承、物語100

<二つの大陸を結ぶ電信線>

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ビクトリア女王からアメリカ合衆国第17代大統領 アンドリュー・ジョンソンへのメッセージ

 大西洋横断電線の敷設工事が、初めて成功したのは、1866年の事でしたが、この快挙は、ニューイングランド出身の実業家、サイラス・W・フィールドが、その事業の先見性と不屈の精神に因るものでした。
彼は、ニューヨークの紙商人として非常な成功をおさめ、可也の資産を築きました。
1852年、33歳で実業界から身を引いたフィールドが、大西洋横断海底電線敷設の可能性に興味を抱き始めたのは、1854年の事でした。

 フィールドはまず、初めて実用となる電信機を発明した、サミュエル・F・B・モースと、ワシントンの国立気象台に勤務する、当時、海洋学の第一人者マシュー・フォンティン・モーリーに手紙を送り、両者は熱烈な賛意を示したのでした。
特にモーリーは、その頃行われた北大西洋海域の調査に結果、ニューファンドランドとアイルランドの間には、海底台地がある事が判明し、海底電線敷設に適した地形である事を教えたのです。

 フィールドはこの吉報を持って、資金調達に奔走し、彼の人を説得する才能は、正に驚くべきもので在った様で、約1年間でイギリス海軍から、電線敷設ルートの調査と、電線敷設作業に対する協力を取り付け、更にイギリス大蔵省から、海底電線が完成するまで、毎年1万4000ドルの補助金支出の約束を得て、民間機関からの資金調達にも成功しました。

◎問題

 しかし、フィールドの母国アメリカの人々は、イギリス人程熱心では在りませんでしたが、其れでも1857年、アメリカ合衆国議会は、電線敷設を援助する為、毎年の補助金支出と、作業船提供に関する法案を僅かな差で可決したのでした。

 一方イギリスでは、電線の製造が進められ、1857年7月に完成を見ます。
電線は膨大な量になり、その重量は1kmあたり600kgという重い物だった為、敷設にはイギリス海軍のアガメムノン号とアメリカ海軍砲艦ナイアガラ号が、使用される事に成りました。

 8月6日、二隻はアイルランド沿岸のバレンシア湾を出港、計画では、ナイアガラ号が積み込んだ電線を敷設しながら、大西洋中部迄進出し、其処でアガメムノン号が積んだ電線に接続の上、アメリカ西海岸のニューファンドランド迄の敷設作業を完了させる事に成っていました。
しかし、二隻のケーブルを送り出す装置が、極めて脆弱な上、ナイアガラ号担当区間の540km進んだ地点で、電線が切断、50万ドル相当の電線が、海底に沈んでしまいます。
二隻は、残った電線を積んだまま、アイルランドに帰還しました。

 1858年には、再度違った方法が採用され、二隻は大西洋の中間地点で会合し、両方に積まれた電線を接続の上、アメリカ艦はニューファンドランドへ、イギリス艦はバレンシア湾に向かって航行する予定でしたが、この方法も3回の切断事故に見舞われてしまいます。

◎束の間の成功

 イギリスで開かれた、大西洋海底電線会社の重役会は、陰気な空気に包まれ、重役の幾人かは辞任してしまいますが、其れでも、もう一度挑戦する事で、役員会議は収拾されました。
7月29日、アガメムノン号とナイアガラ号は、大西洋の中間地点で会合し、最後の電線の送り出しを開始します。
乗組員、関係者の中で作業が成功すると、思っている人間は皆無でしたが、幾度か事故寸前迄行った事もあったにも関わらず、1858年8月5日、ニューファンドランドのナイアガラ号から、バレンシア湾のアガメムノン号へ、初めて信号が打電されます。

 是は、全く予想外の成功で、両国は大変な興奮に包まれました。
9月1日には、フィールドの栄誉を称えて、ニューヨーク市民の歓呼の下、盛大な祝賀会が挙行されます。
しかし、式典の参加者には知らされていませんでしたが、当初から完全に作動していなかった、海底電線が、正に式典の当日、機能停止を起こしてしまいました。

 この事実が公にされると、一般の反響は手厳しいものでした。
電線等最初から敷設されておらず、この事業全体が、フィールドの大掛かりな陰謀だと非難する人物も登場し、イギリスでは、商務省が調査委員会を設置します。
1860年に提出された報告書には、新しい電線の製造、敷設、維持に適切な注意が払われるなら、この事業は成功するとの見解が示されます。

◎最後の勝利

 幾たびも電線の設計と試験を繰り返し後、1865年に新しい電線が製作され、長さ3680km、直系2.5cm以上の太さを有し、中心部の電線は最初期の電線の3倍近く、頑丈に保護され、総重量はその2倍近いものと成りましたが、浮揚性は、遥かにすぐれたものでした。
更に5000トンにも及ぶ資材を1隻で積載出来る、当時世界最大の蒸気船、グレート・イースタン号の使用が可能と成りました。

 1865年7月23日、グレート・イースタン号がバレンシア湾を後にした時、フィールドも乗船しており、今回、彼が抱いている成功への期待は大きかったのです。
しかし、依然として次々と難題が持ち上がります。
電線の表皮に使用した鉄製皮膜が、強度不足で剥がれ易く、3回にわたって電気的事故を誘発し、3回目の事故では、度重なる事故で疲労していた電線が、終に切断され1600km分の電線が海底に没してしまいました。

 今回の失敗は、以前に比べると技術的な面では軽微なものでした。
新たに電線の製造方法を改良し、亜鉛メッキした鉄製皮膜で、電線を包みこむ事で、3850km分の電線を1866年1月に発注、1866年7月13日の金曜日、グレート・イースタン号は、再びアイルランドを出港しました。
13日の金曜日という、ジンクスにも関わらず、今回の作業は終始順調に進み、7月27日グレート・イースタン号は、ニューファンドランド沿岸のハーツ・コンテント(心の満足)に姿を現し、電信局の前に錨を降ろしました。

 今回の航海で、グレート・イースタン号は海底電線の敷設の成功したばかりでは無く、1865年に沈んだ電線の回収にも成功、しかも4000mの深海から回収して、新しい電線と接続するという快挙も成し遂げました。
この結果、2本の海底電線で、イギリスとアメリカは結ばれたのでした。

終に信念の正しさを証明した、フィールドは、感謝の意を込めて、次の様な電文をニューファンドランドからニューヨーク宛てに送信しました。
「ハーツ・コンテント、7月27日、今朝9時現地到着。全て良好。電線敷設完了し完璧に作動中。神に感謝。
サイラス・W・フィールド」

続く・・・

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2014/01/29

歴史のお話その312:語り継がれる伝説、伝承、物語99

<グレート・イースタン号>

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 イザンバード・ブルーネルは、燃料補給無しにオーストラリア迄、往復できる大きさの船を建造する構想に取組み、グレート・イースタン号、グレート・ウエスタン号の2隻を設計し、みごとな成功を収めました。
彼が見つけた後援者は「イースタン・スティーム・ナビゲーション社」で、インド・オーストラリア・極東諸国との通商を目的として、1851年に創立された企業でした。

 グレート・イースタン号は、当時の造船界の常識を覆す設計の船で、全長211m、外輪部の船幅36m、2基の蒸気エンジンが、直径17mの外輪と直径7mのスクリューを駆動させ、排水量3万2000トンに達する文字通り巨船でした。
船体は、箱形はり構造で造られ、フレームと外殻は2重構造になっており、其の上10区分からなる、防水区画に仕切られていました。

 この巨船は、ロンドンのデビット・ネイピア造船所で建造が開始されましたが、造船所付近では、テームズ川が狭くなっている為、川に向けて直角に進水させる事が出来ません。
その為、船は川と平行に建造が開始されたものの、この巨体を動かして、川に浮かべる事そのものが、大変な難問で、幾週間も陸上に置かれたままになる程でした。
建造費は、果てしなく増え続け、ブルーネルは、心労と過労で倒れてしまいます。

 1858年1月31日、進水作業に伴う事故や困難を乗り越えて、船体は漸く水面に浮かびました。
しかし、是で全ての問題が片付いた訳ではなく、1859年9月、ウェイマス迄の洋上公試では蒸気管が破裂して、煙突部分を破壊し5名の犠牲者を出してしまいます。
この事故の一報は、ブルーネルの病状悪化に拍車を掛けてしまい、彼は其れから、数日後の1859年9月15日に死去します。
 
 「イースタン・スティーム・ナビゲーション社」は、船の就航が延滞した為、資金収支が悪化、船は新しい船会社「グレート・シップ社」の手に渡ります。
この新会社は、グレート・ウエスタン号を大西洋航路に投入したものの、その定員1400名が満席に成った事は、一度も無く、更に船は2度の航海で、大きな損傷を受けていました。

 この二つの事故に伴う修理額は、65万ドルの高額となり、船体は売却され、新たに船主になったのは、「グレート・シップ社」の元株主3人で、彼らは船体を「テレグラフ・コンストラクション社」にリースし、海底電線敷設船に転用される事となります。

 こうして、「グレート・イースタン号」は本来の能力を発揮し、1865年7月、最初の敷設作業に従事するものの、1600km地点で電線切断事故が発生、回収の試みは全て失敗、翌1866年再挑戦で見事に成功を納めると同時に、前年回収出来なかった電線の回収に成功します。
この実績を認められ、この後もフランスからアメリカ、ボンベイからアデン、紅海沿岸の海底電線の敷設に活躍します。
1888年現役を引退し、船体は解体されますが、この巨船の排水量を越える船が建造されたのは、20年後の事で、その船が、1915年ドイツ軍Uボートに撃沈された、豪華客船ルシタニア号でした。

続く・・・

2014/01/27

歴史のお話その311:語り継がれる伝説、伝承、物語98

<シベリア出兵その②>

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シベリア出兵時のハバロフスク

◎兵士にとっての大義

 兵士は出兵目的を理解していたのでしょうか?
領土獲得が本意としても、事実を広言できる時代では既に無く、当然兵士は何も説明を受けていません。
多くは同盟、日本は連合国(当時イギリス、フランスはその様に呼称しましたが、日本、アメリカではあまり一般的では無く、アメリカは参戦が遅いから理解も出来ますが、日本に関しては、不可解です)の一部に属しており要請されたからだと受け取りました。
従って、シベリア出兵は他国の戦争で、これでは防衛戦争(敵国内で戦うにせよ)に比べ士気も上がりません。
問題として当時の日本軍はドイツ式の徴兵の軍隊で在り、会計上も外征の為、徴兵軍を使用すると特別の費用支出という認識が弱く成ります。

 イギリス、フランスは同盟、外征の為には志願兵の部隊又は、傭兵を使用しました。
志願と徴兵の2本立ての軍組織で在り、アメリカは現在でも外征には原則全員志願の海兵隊を第一義に使用します。一方、日本には徴兵軍しか存在せず、当初ハルビン特務機関は、この隘路を打開する為日本人義勇軍を編成しますが、失敗に終わります。

 シベリア出兵は、連合国の大義に従った出兵と大半の人間は理解し、領土獲得も地図獲得も徴兵軍を納得させる目的が欲しいが為の口実の様に思えます。
第1次大戦で、この様に抽象的な理由で参戦した国にイギリスが在り、イギリスはベルギーの中立侵犯を理由に参戦し、結果として100万人の戦死者を出し、戦後イギリスには絶対平和主義が流行しましたが、被害の少ない日本には、その様な世論も起こりませんでした。
同盟を理由として参戦する事は、普通次の戦争でその同盟国が味方と成り、戦う事を期待します。
ところがシベリア出兵以降、極東で唯一の大国と成った日本に、同盟国は不必要と認識され、本来最大の目的、連合国の一員としての行動は忘れ去られ、また将来の味方として期待する事も放棄したのでした。
現在でも他国の紛争に巻き込まれるな、という声が存在しますが、その声に従うと双務的な軍事同盟や中立保障条約を全て否定する事に成ります。
その事実を如実に表すのが、シベリア出兵が終了(同時にワシントン会議)後、1936年の日独防共協定成立の間であると思います。

 シベリア出兵は日本人側で無く、ロシア人側に有利に働きました。
そして軍人も日本の歴史家も取り上げず、この出兵で貢献できた事は、この4年3ヶ月シベリアに飢饉が生じなかった事でした。
この全期間を通じて、ヨーロッパロシアは人肉市場ができるまでの食料不足に喘ぎ、少なくとも1000万人以上が1919年から1925年迄の間に餓死しました。
この事態は、ヨーロッパロシアの南部穀倉地帯で発生し、この事実は不思議に思えますが、飢饉は穀倉地帯の方が発生しやすく、日本でも米騒動は富山県から発生しました。
歴史的に見れば、飢饉になると首都等には、強制力をもって穀物が集約され、また首都に住む人間は流通ルートを熟知しており購買力が高く、穀倉地帯の周辺の都市にはそのいずれもが欠落しています。

 シベリアの食料は、満州を通過して得ており、東支鉄道は白軍が一貫して保持し、その先は南満州鉄道に接続しています。
日本軍の補給もボルシェビキの協力(!)も在り順調で、食料はシベリア全土でほぼ円滑に流通し、また治安も悪くは無く、結果として白系の人々の脱出に大いに貢献しました。
帝政ロシア軍の将校で白軍に加わった人々の60%はシベリアを経由し脱出し、またその後もパリの将校団がボルシェビキのスパイと化した事実と比較して、誇りを持って生きる環境は、極東の方により存在したのでしょう。
多くのロシア人将校、貴族は上海へと向かい、その後渡米しました。
日本軍が撤退した後、シベリアはラーゲリ(強制収容所)と軍事基地の集積地へと変貌していきます。

 この戦いに参加した日本兵は延べ約22万人、参加した兵士は参戦の理由に納得がいかなかったと、戦後も長く語り継がれます。
日本軍の兵士は国の要請に従い、それが義務だと思い戦い、或る者は極北の地に倒れ、彼らはおそらく第1次大戦で最後に倒れた兵士でした。
彼らを描写する言葉は、全てが始まった時1914年9月ロイドジョージの演説がふさわしいと思われます。
「国家にとって必要な永久に続く偉大なこと、それは平和の時代には忘れられている。名誉、義務、愛国心だ。輝く白衣に包まれて、犠牲の偉大な尖塔は遥かなる、天空を指している。」
そして4年3ヶ月は、シベリアが流刑地でなかった短い一瞬でも在りました。

続く・・・
2014/01/25

歴史のお話その310:語り継がれる伝説、伝承、物語97

<シベリア出兵その①>

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 1918年8月、日本はシベリアに出兵しました。
直接の目的はチェコ軍の救出でしたが、実際はザバイカル州以東に白色傀儡政権を樹立する事でした。
後に1922年10月、4600人の戦病死者を出し撤兵、・・・最盛時3個師団(7万人)で4年3ヶ月、実戦としては軽微な損害でした。
この4年3ヶ月は第1次大戦と同じ長さに成ります。

◎出兵への評価

 当時の日本の世論も出兵を支持せず、そして現在でも何の益もない出兵であったと評価されています。
しかし出兵に益が伴われなければ成らないか否か、益とは不動産や資金を意味するのか?日本が出兵する時は領土、賠償金、駐兵権が必要なのか?そして同盟に加わるとは何か?昭和陸軍はシベリア出兵を政略出兵が故に失敗したと結論付けています。
政略出兵とは政治上の要請で、日本の防衛範囲(生命線と定義)以外に出兵する事を意味します。
逆は軍略(戦略)出兵で、優れた作戦計画に基づき攻勢に出る事を指します。

 陸軍は、この頃から出兵は、通常文民政府の要請に従って行われるという認識が欠如していました。
それを隠蔽する言葉が無益、政略という言葉なのです。
もちろん文民政府は出兵が可能か否か、軍部のアドバイスを求めるべきですが、最終的な決定と責任は文民政府に存在します。
当時、権力の分散が顕著と成り統制が取れず、第1次大戦の参戦は外相の加藤高明が決定し、シベリア出兵は参謀本部次長の田中義一が決定したものです。
更に、政党政治家にも問題が種々存在し、まず語学で見劣りし、漢文は理解可能でも当面の相手国、英米独露とコミュニケーションが不可能に近いものでした。
従って欧米コンプレックスの為か、大アジア主義者が多く、当時この種類のコンプレックスを持たないのは、留学経験のある薩長藩閥出身者と外交官、エリート軍人だけでした。
相互に対立すると国としての政策が打ち出せず、日本の問題は独裁では無く、常に過度の権力分散で、これは現在でも変わっていません。

◎原 敬の果たした役割

 この出征期間4年3ヶ月のうち、原敬は3年4ヶ月に渡って首相を務めました。
原は農商省及び外務省に在籍経験の有る、官僚出身なのですが、実質初めての政党政治を開始した人物でした。
志半ばにしてテロに倒れますが経綸、人格共に一流の人物で在った事は疑い在りません。
その様な人物がトップに居ながら、なぜシベリア出兵が長期化したのでしょう。
理由として、この時代国民の意識と離れて政治を行う事が困難に成った事、軍部・外務省の情報判断の失敗と其視野の狭さを部門の長が補う事が出来なかったのです。
そして出兵を長期化させたのが、尼港事件でした。

 外交上の問題はアメリカの存在でした。
イギリス、フランスは日本にシベリア出兵を要請しますがアメリカが反対し、少数の陸軍軍人の内心は、将来的に沿海州での傀儡政権樹立をアメリカに見抜かれたと考えていたのでした。
更には、一部アメリカ鉄道資本がシベリア鉄道に関心がある為であると考えたのです。
軍人の欠陥は、外国を善意で見ず、常に敵愾心で眺める事でした。

 当時、今日から見れば興味深い現象ですが、イギリスを軽視しアメリカを重要視する傾向が、大衆の中に存在していました。
現実の問題として、既に世界経済の中心がアメリカに移行している事を大衆の方が理解していたのかもしれません。
この時、アメリカはボルシェビキとの協調を思考していました。
以後の政策から意外にも感じますが、第1次大戦でアメリカは、途中での部分講和を禁止する1914年のロンドン協約に参加していません。
この為、イギリス、フランスや日本と異なり、ボルシェビキ政権の違約=ブレストリトウスク講和に異議を唱える事は在りませんでした。
又アメリカの根本的外交政策の立脚点に孤立主義が存在し、他国に軍事介入する事へ常に警戒的で在った事も事実なのです。
そして介入するのであれば、日本と共同歩調を選択したかったのでした。

 この点はウィルソンの14ヶ条提案の前文に良く表現されており、この前文は、当時新聞報道も殆ど無く、当時の外務官僚も大きな注意を払いませんでした。
外務官僚の最大の注意点は、国際連盟の提案でアソシエーション(Association)を如何に翻訳するかで在り、アメリカにとってツアー反動政権が崩壊した事は、歓迎すべき事態でした。
勿論マルクス主義が、アメリカ社会に影響を与える事も無く、脅威も存在せず、この時点で既にアメリカ社会は日本やヨーロッパと異質で在った事が分かります。
アメリカは現在に至る迄、共産主義イデオロギーに全く脅威を感じない唯一の大国なのです。

 田中義一は撤兵後、出兵についての利益を尋ねられ、「地図(兵要地誌)を作った」と語りました。
現在でもアメリカ軍の使用する、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)以西バイカル湖迄の地図は、全て旧日本軍が作成したもので(航空写真では地名まで判別できない)あり、確かに後世に於いても役立つ物に異議は在りませんが、当初の目的は違っていました。
本来の目的はシベリア東部3州(沿海州、黒龍州、ザバイカル州)を領土化する事で在り、留意すべきは既にこの様な考え方は時代遅れで在って、第1次大戦の戦後処理でも、国際連盟の委任統治という考えが途上しています。時代は暴力的手段で、不動産の搾取を実行する事自体、文明的で無いと考えられ、そして植民地保有が直接利益を生まなくなった事を人々は理解し始めていたのでした。

続く・・・


2014/01/23

歴史のお話その309:語り継がれる伝説、伝承、物語96

<アドルフ・ヒトラーの最後>

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 1945年4月、第二次世界大戦も終結に近づいていました。
4月27日には、ファシスト共和国首相 ベニト・ムッソリーニが逃亡先のコモ湖畔で、パルチザンに逮捕され、ミラノ市に連行、即日銃殺刑に処された後、その広場で、愛人のクララ・ぺタッチ他数人の側近と供に逆さまにつるされ、多くの人々から屈辱を受けました。
この姿は、映画フィルムに納められ、現在でも見ることができます。

 しかし、この同じ月の30日午後に自殺した、ドイツ第三帝国総統 アドルフ・ヒトラーの死に関しては、曖昧な点が数多く存在し、その死亡を疑う研究者は、現在でも存在します。

 第二次世界大戦が終結した、1945年秋の段階でも、ヒトラーの戦死説、暗殺説、航空機、潜水艦による逃亡説が流布し、バルト海の孤島への逃亡、スペインの修道院、南アメリカの農場等、諸説紛々になる程、彼の最後の状況は、解かり難いものでした。

 1945年4月末、ドイツ第三帝国の首都 ベルリンは、ジューコフ将軍指揮下のソビエト軍に完全包囲され、陥落は時間の問題と思われましたが、残留ドイツ軍やヒトラーユーゲントの頑強な抵抗に遭遇し、ソビエト軍は市街地の建物を一つ一つ制圧するような形で、侵攻せざるを得ませんでした。
5月2日、ベルリンはソビエト軍によって制圧され、ライヒスタークに赤旗が翻り、ソビエトは正式にベルリン占領を発表、ここにドイツ第三帝国は崩壊し、ヨーロッパの戦いは終結します。

 ヒトラーの後継者、フィヨドール・デーニッツ元帥は、ヒトラーの戦死を発表したものの、この後死亡報道が二転三転し、ソビエト側の死亡疑問⇒死体発見・解剖と歯型鑑定⇒イギリス亡命説と混乱を呈します。

 イギリス軍情報部とアメリカ軍情報部は、協力体制を取り、ヒトラー死亡の真相を調査にあたります。
この中心人物が、歴史学者で、当時イギリス軍情報部に勤務していた、トレヴァー・ローパーでした。

 ローパーは、1945年4月30日、ヒトラーの死に至る時迄、彼の側に居合わせた人々を入念に調査し、彼らからの聞き取り調査を繰り替えし、ヒトラーの最後を克明に知る事ができました。
ローパーは後に、この時の調査結果を「ヒトラー最後の日」と題して出版し、我国でも翻訳された事から、私達は、1945年4月30日ドイツ第三帝国総統官邸における、ヒトラーの最後の様子を知る事ができます。

 1945年4月29日、アドルフ・ヒトラーは、盟友ベニト・ムッソリーニ死亡報告を受けます。
その時、彼はベルリンに在る総統官邸の地下防空壕に踏み止まり、戦闘指揮を続けていました。
しかし、ベルリンはソビエト軍によって、殆んど制圧占領され、戦闘の勝敗は既に絶望的な状況でした。
その日、ヒトラーは、愛人エヴァ・ブラウンと結婚式を挙げ、明けて4月30日、彼は側近の者を集めて昼食の後、その会席者一人一人と握手を交わして、別れを告げます。
その後、ヒトラーは自室に入り、後にエヴァ・ブラウンが続き、間もなく一発の銃声が轟きました。
ヒトラーは、ピストルにより自殺を遂げ、エヴァは毒薬を飲んで、彼の側で事切れていました。
銃弾は、ヒトラーの口から、頭部を貫通しており、ソファと背後の壁は、紅く染まっていたと云われています。
ヒトラー夫妻の遺骸は、総統官邸の庭で、180リットルのガソリンをかけて荼毘に伏されました。

 その時、既にソビエト軍の先遣部隊は、総統官邸の直ぐ近く迄接近しており、機関銃弾や砲弾は、標的を誤らずバラバラと官邸周辺に降り注ぎます。
その極めて危険な状況の中で、夫妻の火葬は遂行されたのでした。
ヒトラーはムッソリーニの悲惨な死に様を聞き、昔から独裁者の最後を知っていた彼は、自分の遺骸を跡形も無くする事で、はずかしめを受けない事を望んだのだと思います。
そして、後継者フィヨドール・デーニッツ元帥は、ヒトラー総統の戦死を発表するのです。

 1945年5月2日、総統官邸を占領したソビエト軍は、即座にヒトラーの遺骸を掘り返します。
官邸の庭には、ヒトラー夫妻以外にも、爆撃や戦闘で死亡した多くの将兵の死体も在りました。
総統官邸占領直後、その管理は、ソビエト軍からソビエト情報機関の手に移り、以後連合軍がベルリンに入城した時は、総統官邸に残された物は殆んど無く、内部情報は殆んどソビエト情報部によって持ち去られた後でした。
さて、占領直後から、ソビエト情報部は、ヒトラーの歯科医や技工士を拘束し、ヒトラーの遺骸を確認し、是をモスクワに送ります。

 しかし、時のソビエト連邦最高指導者 ヨゼフ・スターリンは、自ら“最悪の宿敵”と称したアドルフ・ヒトラーの死亡を信じておらず、その為も有ってソビエト連邦政府は、ヒトラーの死亡確認を公表せず、又ヒトラーの遺骸の所在は、現在でも発表されていません。
第二次世界大戦終結後、西ドイツ首相アデナウワーは、最高裁判所にアドルフ・ヒトラーの死亡確認書を発行させ、亡き総統の失われた遺骸の埋葬という行事を挙行しましたが、ヒトラーの遺骸が旧西ドイツ側に存在する訳では有りません。
現在においても尚、熱狂的なヒトラー崇拝者が存在している以上、現ロシア政府も発表を躊躇い続ける理由の一部
ではないでしょうか?

 20世紀末、ヨーロッパの社会主義国家群は、その社会体制の激動激変期を迎え、ソビエト社会主義共和国連邦も民主化の要求に屈し、独立国家共同体と成った現在、アドルフ・ヒトラーの最後は、ローパーの著作のお陰で判明しました。
しかし、近年でも元ナチスの高官がアルゼンチンで逮捕された事例も存在し、第二次世界大戦当時中立国であった、フランコ総統統治下のスペインに、逃亡した事例も多々存在する事から、戦争末期のヒトラー生存説は根強く、是に拍車を掛けるように、遺骸の場所すら公表されない事も何時しか、アドルフ・ヒトラーを伝説中の人物にしたのではないでしょうか?

続く・・・

2014/01/21

歴史のお話その308:語り継がれる伝説、伝承、物語95

<シベリアの悲劇②>

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◎道標

 オムスク市付近の冬の平均気温は、氷点下20度(最低記録は氷点下49度)ですが、コルチャーク提督に率いられた、125万人の大部隊が、8000kmに及ぶ大移動にその第一歩を踏み出した時、シベリアに住む住民さえ、体験した事の無い猛烈な寒気が、シベリアを襲います。

 氷点下40度前後を上下した寒気は、更に20度低下したと云われており、この地球上で一番の寒気を記録したのはベルホヤンスクですが、この気温に成ると弱い風が吹いただけでも、吐いた息は、そのまま音を立てて凍り、大きく喘ぐと呼吸困難や窒息すら起こり得る過酷な環境と成ります。
その様な場所に、防寒装備も無いに等しい状態では、僅か5分程度でも凍死は免れず、ゴム製品は薄いガラスに様に脆く成り、水銀は鋼鉄の様に硬くなり、寒暖計は使用できなくなります。

 この様な厳しい寒さの中に、125万人(多くの婦女子を含む)が突入するのは、結果として明らかなのです。
うなりを伴う烈風と猛吹雪は、正に刃物の様に、鋭く身を切り、この歴史上最大の人類の大移動に、計り知れない苦難を与えました。
そして間も無く、シベリアの雪の荒野には、凍死した人間や、橇、馬が墓標の様に連なり、降りしきる雪は、これ等屍に上にも積もり、あたかも万里の長城の様に、シベリアの道を何処までも印付けました。

 嘗て、ナポレオン軍が、ロシアの冬将軍に破れ、モスクワを後にした時、死体の列がその後に続いたと言いますが、コルチャーク提督のシベリア退却は、それ以上のものが在りました。

◎125万人の凍死

 1919年1月13日から、翌年の2月迄、3ヶ月に渡りこの空前の人類の受難劇が、1日も休み無く続いたのでした。
そして終に、500トン近い金塊を放棄する日が訪れます。
既に28両にも上る装甲車両の燃料を使い果たし、止む終えず金塊を馬橇に積み替える事としました。
しかし、猛烈な寒気は、橇を引くシベリア産の馬達を次々と、凍死させて行き、結果、帝政ロシア政府から継承した、金塊はシベリアの荒野に遺棄せざるを得ませんでした。
退却時に空しく遺棄された金塊は、その後どの様に成ったか誰も知らない、謎の一つと成りました。

 しかし、この行為で行軍が終わった訳では無く、殉教者の群れは、尚も西へ西へと無意味な旅を続けますが、人々は唯死んだ様に、脚を前後に動かしているだけでした。
雪は猛烈な風を伴い、止む事を知らず、その雪の中を足取りも重く歩いていると、不思議と眠りを誘います。
この誘いに負け、体を少しでも横にして休んだ者は、再び醒める事の無い永遠の眠りに落ちて行きました。

 最初は、指導者達も、声を嗄らし「眠ってはけない」と叫び続け、人々を励ましましたが、最後にはその指導者達も自らその眠りに誘い込まれました。

 退却の群れは日毎日毎に、加速度的に減少していき、そして辛うじて寒気に耐え得た残存者達も、更に気温の下がる凄まじい寒さの中に、一歩一歩と重い足を運び、過去に記録さえないシベリアの寒さは、残酷極まりない苦痛と成って、人々を苦しめ続けました。
余りの寒さに、氷柱が瞼の回りできはじめ、大きな氷の叢林が睫毛から下がって行きました。
涙がそのまま凍り、目も開けられない程、雪は荒れ狂い、ノボ・ニコライエフスク市近郊では、一晩で20万人が凍死したのは、この時でした。

◎氷上の出産

 2月の終わり近く、125万人は、25万人に減少していました。
これ等の人々は、万難辛苦に耐え、ようやくオムスクから2000kmのバイカル湖畔に辿り着く事が出来ましたが、彼等の消耗は凄まじいものでした。
最後の安全を図るため、バイカル湖を横断する必要が在り、80kmに及ぶ広さ、3mの厚さで覆われた氷の上を25万人の生きた亡霊が進みます。
過去3ヶ月間の苦難は、この世のものと思えないものでしたが、この悲劇の退却最大の事態がバイカル湖上に待ち受けます。
硬く結氷した、バイカル湖上の寒さは頂点に達し、氷点下69度を記録し、受難者を死に導くような猛吹雪が唸りを上げて吹き始めます。
熊やアザラシの毛皮を身に纏っても、何の意味も無く、極限の寒さは彼等を翻弄し、次々と死に追い遣っていきました。
この様な最中、貴族の夫人の一人が氷上で出産したのですが、誰一人、手を貸す者も無く、無表情にその前を通り過ぎて行き、その夫人はお産の最中に凍死し。妻の姿を傍目から隠そうとした、夫もそのまま凍り付いていきました。

 バイカル湖の湖上を生きて脱出した者は、皆無であり、その上を真っ白な雪が覆って行きました。
バイカル湖上の25万人の遺体は、翌年の夏、湖面の氷が解ける迄、倒れたそのままの姿で残されました。
氷が解けた時、この恐るべき、そして痛ましい風景は、静かに視界から消え失せて湖底深く沈み去って行きました。
彼等こそ、近代史最大級の悲劇に違い在りません。

 アレクサンドル・コルチャーク提督は、バイカル湖畔に逃れる以前に、革命軍に拘束され、1919年2月イルクーツクで、反革命罪に問われ、刑場の露と消えましたが、50万人の兵士、75万人の民を極度の苦難に遭遇させた末、死に至らしめた彼の罪は、万死に値いする事でしょう。

続く・・・


2014/01/19

歴史のお話その307:語り継がれる伝説、伝承、物語94

<シベリアの悲劇>

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◎10月革命

 第一次世界大戦も終焉が近く成った頃、1917年3月、ロシア帝国内に革命が発生し、ロマノフ王朝が崩壊、帝政ロシアの時代は終わりました。(当時ロシアは太陰暦の為、「2月革命」とロシア国内では呼ばれています)

 革命で成立したケレンスキー率いる臨時政府は、連合軍側に加わり、戦闘継続を主張しましたが、疲弊に苦しむ工場労働者、農民、更には兵士も合流して、臨時政府に反抗します。
スイスに亡命していた、レーニンも封印列車で帰国し、労働者、農民を鼓舞しました。
人民は、「戦争継続の即時停止、人民に食料を!農民に土地を!全ての権力をソビエトへ!」と叫び、同年11月6日再び革命を起こしました。

 ケレンスキーの臨時政府は打倒され、それに代わって、トロツキー、レーニン等によるソビエト政府が誕生しますが、之が「ロシア革命」であり旧暦10月25日にあたる事から、「10月革命」と呼んでいます。

 10月革命以後、ソビエト政権が列国の予想に反して、堅実な歩みを示し、革命が着々と成功しつつある事を知り、アメリカ、イギリスを始めとする資本主義国家の恐怖が次第に増大し、1918年2月イギリス海軍によるムルマンスク上陸をきっかけに、ロシア国内の反革命勢力の援助と、革命政府打倒を目的に、16ヶ国による共同干渉が組織されました。

 日本の「シベリア出兵」もその一環であり、シベリアに駐留するチェコ軍支援を名目に、アメリカ、フランス、イギリス、中国との共同派兵の形式で行われました。

 日本は、他国との協定を無視し、2個師団73,000人にも及ぶ大軍を派遣しますが、この様な干渉にも関らず、ソビエト軍の勇敢な抵抗に遭遇し、アメリカ、イギリスは短期間で撤収したものの、日本は執拗にシベリア占領の希望を放棄せず、軍隊の増強を図り、極寒の土地で苦しい戦闘を続けました。
巨額の戦費と多数の犠牲者を出し、軍事的にも、政治的にも、外交的にも、経済的にも最大限の失敗を重ねた上、1922年、4年間に及ぶ派兵を中止しました。
その間、1920年1月、「尼港事件」が発生して、石田領事以下、多数の在留邦人の命を失います。

◎尼港事件

 尼港(ニコライエフスク)は、黒竜江下流の漁業中心地として繁栄し、1918年、日本がシベリア出兵を行った頃は、400人前後の居留民が存在し、領事館も設置されました。
1920年1月下旬、パルチザン部隊の襲撃を受け、日本政府は直ちに、第7師団の混成部隊と海軍軍艦三笠を派遣しましたが、厳冬に阻まれて現地に到着できない間に、領事館は砲撃を受け、石田領事以下邦人350名、守備隊将兵330名、海軍将兵40名、合計720名が非業の死を遂げました。

 当時、日本国民の多くは、尼港事件の悲劇が、我国の無謀なシベリア出兵に起因する事を知らず、世論は怒りに震え、政府を鞭撻しロシア窈窕の気勢を上げたのでした。
この尼港事件は、我国の虐殺遭難史に残る大きな事件である事は間違い在りませんが、この事件と前後して、シベリアの地に、歴史上稀に見る悲劇が展開されていました。
失われた人命125万人、その上5億ドルと伝えられる、巨額の金塊事件迄、発生しています。

◎始まり

 事件の発端は、1919年11月13日、西シベリアのオムスク市に始まりました。
ロシアの10月革命後、帝政ロシアの海軍提督アレクサンドル・コルチャークは、強大なロシア帝国の残存者を集めて、反革命軍を組織し、イギリスの援護の下にオムスク市に独立政府を擁立します。

 コルチャーク提督(1875年~1920年)は、日露戦争当時、旅順港の戦いで名声を受け、我国でも良く知られた人物でした。
日露戦争後、日本海海戦で壊滅した、バルチック艦隊(第2、第3太平洋艦隊に艦艇を捻出)の再建にも努力し、第一次世界大戦前には、極地探検家として名を成し、第一次大戦海戦後は、バルト海で駆逐艦隊を指揮し、ドイツ艦隊を翻弄殲滅し、後に黒海艦隊司令官に任命されました。

 第一次世界大戦末期、共同作戦を展開する為、アメリカに派遣、その帰途10月革命の報を聞き、日本を経由してシベリアに入り、イギリスの援助の下に、1918年11月、オムスク市に反革命独立政府を樹立しました。
一時はその勢力も強大でしたが、1919年11月、首都オムスクは革命軍に占領されるに至ります。

 コルチャーク提督は、再起を後に託し、ひとまず5000マイルに近いシベリアを横断して、太平洋岸に引き下がる事を決意しました。
其処には、友邦日本にも近いと云う思惑が有ったかも知れません。

 コルチャーク提督に従う軍隊は50万人を数え、更に75万人の亡命者を伴いました。
亡命者は、何れも革命政府の政治を忌み嫌い、帝政時代に親しみを持つ人々で、25人の司教と12000人の僧侶、4000人の修道士、45000人公安関係者、20万人以上のロシア貴族の女性、それに驚くほど多くの年少者を含んでいました。

 遥かな昔、イスラエルの指導者モーゼは、エジプトで奴隷と成っていたイスラエル人数百万人を引連れ、エジプトを逃れ、紅海を渡り、シナイ半島の荒野を40年に渡って彷徨い、苦難の末ようやく神の約束の地、カナンに達する事が出来ました。
(但し、カナンの地に達したのは、モーゼを始めエジプトを脱出した彼等の子孫で或る事に注意)
コルチャーク提督のシベリア大移動は、モーゼの出エジプトの苦難に、勝るとも劣らないものが在りました。

 このコルチャーク提督の膨大な随伴者の中でも、最も重要な物が在りました。
反革命政府の軍資金として、帝政ロシア政府から引き継いだ、5億ドルにも及ぶ500トン近い金塊で、是を28両の装甲車両に分散して積込みました。

続く・・・

2014/01/15

歴史のお話その306:語り継がれる伝説、伝承、物語93

<ロマノフ家最後の1年>

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左からタチアナ、オリガ、マリア、アナスタシア(1906)

 嘗て、全ロシアに君臨した皇帝ニコライ・ロマノフは、「数えきれない邪悪な罪」によって処刑された、と1918年7月末、モスクワのボリショビキ革命政府は発表しました。
公式発表に続いて、皇后や皇太子、王女達が秘密の場所に移された事も告げられました。

 革命政府は、しかし処刑の報告を一度ならず訂正し、真相そのものに強い疑惑を残したのです。
皇帝一人が死刑に処されたか否か、歴然とした証拠は歴史家も把握していません。
皇帝と一緒に王家の一族も銃殺されたのか、其れとも一族全員が秘密裏に亡命したのか、当時判然としていなかったのです。

 ニコライ2世は1917年春、ロシア革命で権力の座から追われ、皇后アレクサンドラと5人の子供達(アレクセイ・オリガ・マリア・タチアーナ・アナスタシア)共々セントペテルブルグ郊外のツァールスコエ・セロの宮殿に革命政府によって幽閉されました。

◎白軍の脅威

 1917年8月、皇帝一家は、シベリアの寒村、トボリスクに移送されました。
ここは、辺鄙な田舎町で、皇帝支持派からの救援は、ほとんど期待できませんでした。
1918年に成ると、皇帝一家は再び、ウラル山脈に近い町、エカテリンブルグの一軒家に移されます。
エカテリンブルグの住民は、革命政府派で皇帝一家に冷たく接しました。
その間、皇帝支持派は、幾度か皇帝奪還を試みたものの、成功しませんでした。

 モスクワの革命政府が、皇帝処刑を決意(現在も諸説在り)したのは、皇帝が自由を得て、白軍の指導者になる危険を恐れた為であったと思われ、その脅威が無ければ、皇帝死亡を公表して事実を隠匿する可能性も考えられます。

◎地下室の惨劇

 1918年7月の革命政府発表は世界に、とりわけロマノフ家と血縁関係にあるヨーロッパ王室に衝撃を与えました。
しかし、数ヶ月後更に恐ろしいニュースが伝わり、皇帝一家は全員、1918年7月19日の夜、銃殺隊によって処刑されたと革命政府が発表したのでした。
報告によると、処刑命令はモスクワ(ウラル州革命政府説在り)から届けられ、ユーロフスキーの指揮の下、死刑宣告が成され、一家殺戮の最初の引き金は、彼自らが執行したのでした。

 皇帝一家は、事前に何も知らされず、彼らは階段を下りて地下室へ行き、其処で一列に椅子に座らされ、ユーロフスキーの射撃命令を合図に、一斉射撃が行われました。
彼らが使用した銃は、この非常な任務の為に、特に兵器庫から持ち出した、当時最新の連発銃でした。

 皇帝一家には、宮廷医ボトキン博士、3人の召使が付き添っていました。
彼らは全員、皇帝一家と行動を共にする様、命じられており、射撃が終了した時、床には11人の遺体が転がり、兵士達は、銃剣とライフル銃の台尻で、一人一人その死亡を確認したのです。

 明け方、死体は待機していたトラックに積まれて、エカテリンブルグから23km離れた“四人兄弟鉱山”へ運ばれ、其処でガソリンを撒かれ火葬にされ、焼き尽くされた遺体と、手回り品は硫酸で溶かされ鉱山の廃坑に遺棄されました。

 4日後の7月23日、エカテリンブルグが白軍によって陥落しましたが、地下室の壁の一部は既に洗い落とされていましたが、部屋にはまだ血痕が残っていました。
しかし、其れが皇帝一家のものであるか否か、当時確認する術は在りませんでした。

◎密  約

 住民のうち革命主義者28人が、皇帝一家殺害に加担した罪に問われ、5人が処刑されました。
しかし、決定的な証拠は何一つ発見されず、今日尚、ロマノフ家の末路の真相は疑惑に包まれたままなのです。
廃坑の坑道から発見されたのは、歯、眼鏡、衣類の断片だけで、後に眼鏡はボトキン博士の所持品と判明しまし、衣類は使用人のものと推定されました。

 革命政府には、皇帝を生かしておかなければならない理由が在ったのです。
彼らは、ドイツと既に皇帝を無傷で亡命させる密約を結んでおり、前皇帝を釈放すれば、革命派の方針が西欧世界を始め多くの国の共感を呼ぶはずでした。

◎イギリス国王の不可解な態度

 地下室で銃殺されたのは、果たして誰なのでしょう?
この部分は、現在、ロシア政府の正式発表と言う形では、皇帝一家であるとされていますが、大きな疑問でもあるのです。
白軍が発見したのは、ボトキン博士と使用人のものだけだったと推察する、研究者も存在し皇帝一家の殺害を偽装し、秘密の亡命を知る人物を抹消する必要から、彼らが殺害されたとも解釈されるのです。

 アメリカとイギリスが革命政府と協定を結んだとの噂も、根強く伝えられ、余談に成りますが1919年に「皇帝救出作戦」と題する書物が出版されましたが、本文において、その著者が皇帝一家を革命政府から救い、亡命させたと述べました(?)。
当然ですが、この本の内容を本気で信じた、研究者や歴史家は皆無です。

 しかし、時代が下るに従って、皇帝一家が生き延びているのではないかと思われる、不思議な出来事が幾つか発生します。
ロンドンで皇帝の追悼式典が執り行われた時、時のイギリス国王 ジョージ5世は自らの出席も代理人の派遣も断りましたが、イギリス国王は、皇帝一家の生存を知っていたのではないか?との憶測を呼び、又アメリカ国務省は、現在尚、ロマノフ家のオープンファイルを保持しているとの事です。

 1961年、ポーランドの情報機関員、ミハウ・ゴレニエフスキーがアメリカに亡命しますが、自分は皇帝の長男アレクセイであると主張し、3年後、ニューヨークで行われた彼の結婚式に出席した2人の女性が、オリガとタチアーネの名前で署名しました。
ゴレニエフスキーはその後、長い間、ロシア皇帝継承権を主張し続けます。

 しかし、ゴレニエフスキーにも、血友病患者ではない自分が、なぜ最後のロシア皇帝の子息で在り得るのか、説明する事は出来ませんでした。
アレクセイは、周知の事実として、遺伝する血友病を患っていたからです。

 エカテリンブルグで起きた事件の証人は、すでに存在しておらず、ロマノフ家の秘密は、彼らと共に葬られたのでしょう。

番外編

 帝政ロシア最後の皇帝「ニコライ2世」の名誉回復が成されました。
ロシア連邦最高裁は、2008年10月1日、ニコライ2世とその家族の名誉を回復しました。

 一家は、ロシア革命初頭の1918年7月、エカテリンブルクでボリシェビキ(のちのソ連共産党)のメンバーにより、裁判も罪状もないままに軟禁されていた家で、医師、従者共々銃殺されたのです。
殺害されたのは、ニコライ2世、アレクサンドラ皇后、そして5人の子供達。
すなわち長女オリガ、次女タチアーナ、三女マリア、四女アナスタシア、皇太子アレクセイ。
末の皇女アナスタシアだけが生き延びとの噂もあり、「私は、アナスタシア・ニコライヴナ」と名乗る女性が出現した為、依然、特定する事は困難な様に思えますが・・・。

 さて皇帝ら5人は、処刑されたエカテリンブルク郊外で1991年に遺骨が発掘され、1998年、時のエリツィン大統領主導で、歴代の皇帝が眠るサンクトペテルブルクのペトロパブロフスク大聖堂に移され、埋葬されました。
更に、マリアとアレクセイとみられる遺骨もその後発掘され、此れまでに本人である事が、ほぼ確認されています。
皇帝一家は2000年にロシア正教会の聖人にも列せられ、「ロシア社会の和解の象徴」とされ、「事実上の名誉回復は終えている」と冷静に受け止める市民も多いのです。

 一家について、最高裁判所はロマノフ王家の子孫達の上告に対し、「根拠無しに迫害された」「政治弾圧の犠牲者」と判断し、名誉回復するとの裁定を下したのでした。

 ニコライは皇太子時代、1891年4月27日、ロシア海軍軍艦アゾフ号で長崎に来航し、各地を訪問した後、5月11日、琵琶湖遊覧から京都の宿舎に戻る為、滋賀県大津市内を通過中、警備の津田三蔵巡査による襲撃に遭い、怪我をしました(大津事件)。

 この事件の重大さに、時の松方正義首相は無論、明治天皇も急遽、京都の常磐ホテル(現京都ホテルオークラ)に滞在していた皇太子ニコライをお見舞いした程で、当時の国際情勢下では、日露開戦となれば、当為は、日本が惨敗していた可能性が強いとされています。

続く・・・
2014/01/13

歴史のお話その305:語り継がれる伝説、伝承、物語92

<アナスタシア②>

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 帝政ロシアの謎を語るときに良く出てくる皇女アナスタシア。

 最近ではディズニーアニメでも取り上げられ、古くには映画「追想」の中でイングリット・バーグマンがアナスタシアを演じています。

 1917年の二月革命以後、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世とその家族は臨時政府によってサンクトペテルスブルク郊外、ツァールスコエ・セローの離宮に幽閉されていましたが、7月に就任した首相ケレンスキーは一家を流刑地シベリア(トボリスク)送りにします。

 ニコライ2世の妻アレクサンドラは、イギリスのヴィクトリア女王の孫娘に当たりますので、親戚に当たる英国王室からの救援を最後まで期待していたと云われています。
後に十月革命が勃発してボルシェビキ政権が確立したとはいえ、当時のロシアは赤軍と白軍の勢力が拮抗していた時代で、皇帝一家の存在が情勢を大きく左右させる可能性も在り、当時の政府で皇帝一家の命運を握っていたのがスヴェルドロフで、彼は皇帝一家をモスクワに移送する途中、自分の故郷エカテリンブルクに立ち寄らせ商人イパーチェフの館に滞在させます。

 そして運命の1918年7月16日、館にボルシェビキ軍が押し寄せ、皇帝夫妻、4人の皇女と皇太子アレクセイ、従者4人を含む11人が銃殺されたのでした。

 現在考えられているのは、皇帝一家虐殺でヨーロッパ諸国からの非難を恐れたスヴェルドロフは、対外的には自分の故郷エカテリンブルクの狂信的なボルシェビキの一方的な仕業として、本人はモスクワ移送を計画していたとして、スヴェルドロフはこの時処刑したのは、皇帝ニコライ2世一人と表向きに公表しそれ以降、この問題を語る事自体、党内部ではタブーに成りました。

 虐殺から数日後、白軍がエカテリンブルクを奪回し、皇帝一家が処刑された事実を調査しましたが、遺体は何処に埋められたのか判明せず、難を逃れた皇女達が何処かに生きていると云う噂が広まり、一説にはシベリアを横断し日本に逃げたと言う説まで存在しました。

 1928年ドイツからアメリカに移住したアンナ・アンダーソンが、自分はロマノフ王朝の第4皇女アナスタシアだと主張したことからアナスタシア生存説のミステリーが生まれ、ペレストロイカ以降、タブーとされていた皇帝一家処刑についてもグラスノスチ(情報開示)で明るみに成り始めました。

 皇帝一家のものと思われる遺体がエカテリンブルグの郊外から発見され、奇しくもアンナ・アンダーソンが死んだ1991年DNA鑑定の結果皇帝一家のものと確認されましたが、当時確認されたのは処刑された11人の遺体の内9体だけで、皇女マリアと皇太子アレクセイの遺体は発見されませんでした。

 1998年7月17日殺害から80年、遺体はサンクトペテルスブルグのペトロパブロフスキー寺院にあるロマノフ家の墓に埋葬されますが、単なる偶然か、ロシア大統領がエカテリンブルグ出身のボリス・エリツィンです。

 ロマノフ王朝の始まりは1613年、コストマのイパーチェフ修道院でミハイル・ロマノフがモスクワ大公国の君主として戴冠した時から始まり、1918年ニコライ2世とその家族がエカテリンブルクの商人イパーチェフの館で処刑され幕を閉じます。

 皇帝エカテリーナ1世の名を刻んだエカテリンブルクも、共産党時代には皇帝一家処刑を影で指揮したスヴェルドロフの名を刻みスヴェルドロフスクと呼ばれ、現在はエカテリンブルクに戻りました。
皇帝一家終焉の場となったイパーチェフの館は1975年KGB議長アンドロポフの命令で解体され、その指揮を取らされたのが当時スヴェルドロフスク共産党第一書記だったボリス・エリツィンで後にこの男によって共産党支配の歴史も幕を閉じます。

 皇帝一家処刑についてはソビエトのタブーだったのですが、アナスタシア生存の謎から西側の研究者達がエカテリンブルク(当時のスヴェルドロフスク)を訪れるように成った為に、市民に皇帝一家処刑を知られる事を恐れた共産党が証拠隠滅したのでしょう。
 DNA鑑定では皇女アナスタシアの遺体は確認されていることになりますが、アンナ・アンダーソンが別人だったかと云うミステリーについてはまだ疑問の余地が残るのだそうです。

続く・・・

2014/01/11

歴史のお話その304:語り継がれる伝説、伝承、物語91

<アナスタシア>

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20世紀FOX、1956年度作品、追想よりアナスタシナ(イングリッド・バーグマン)皇太后(ヘレン・ヘイズ)

 ロマノフ家の末路を包んだ霧の中から、是までに色々な人物が登場し、皇帝一家の一員であると主張してきましたが、その大部分はロマノフ家の莫大な遺産目当ての人物達でした。

 しかし、1920年2月17日にベルリンの運河から、半ば気を失って救い上げられた10代の少女の語った物語は、可也の真実性を帯びて、人々に聞き入れられました。
多くの亡命ロシア貴族も、彼女を本物と認めた程で、彼女は皇帝ニコライ2世の末娘、アナスタジア・ニコライブナであると語ったのです。

 話は、大変複雑で、ロマノフ家の財産の殆どは革命直前、密かにロシア国外に持ち出され、西側の銀行に預けられたとの噂が存在し、同家の財産は、現金だけで40億ドルに上ると見積もる事が出来、その他、ドイツには莫大な不動産が存在していました。

◎救  出

 1918年、革命政府の発表では、皇帝自身は処刑されたが、彼の家族は処刑を逃れ、他の場所に送られ事に成っていました。
其れが事実で在るならば、皇太子か皇女が実際に後年、出現しても不思議な事では在りません。

 ベルリンの運河から救い上げられたその少女は、アンナ・チャイコフスキー名義の証明書を所持しており、収容された病院で元気を回復した直後から、自分はアナスタシアであると主張し、処刑を逃れた模様を詳細に物語ました。
彼女は家族と共に、エカテリンブルグの地下室へ処刑の為に連れて行かれたと話し、銃撃を受けて負傷し、彼女は気を失いました。
しかし、意識を取り戻してみると、男女二人ずつが引く、農夫の荷車に隠されていたと云います。

◎ボリショビキ兵に救われて

 二人の男性は、ボリショビキ兵の兄弟で、名前をチャイコフスキーといい、処刑には参加していませんでした。
兄弟が彼女に語ったところでは、少女は死亡したものとして、地下室に床に放置されており、兄弟が死体を地下室から運び出す事になっていました。
兄弟は、彼女にまだ息がある事に気付き、少女を密かにロシア国外へ救い出そうと決心したのだそうです。

 真珠にネックレス、ドレスに縫い込まれていたエメラルドの原石を売却してお金で、少女と救出者達は、ようやくルーマニアの首都ブカレストに辿り着き、其処で一行は、チャイコフスキーの親類宅に身を寄せました。
少女は、革命政府を恐れる余り、隠れ家から一歩も外出する事なく、やがて兄弟の一人と結婚して、子供を一人もうけました。
その後、間もなく、夫は路上で革命政府の通報者によって、脱走兵として射殺され、彼女もまた病に倒れ、子供は養子に出されてしまいます。

 義弟セルゲイ・チャイコフスキーは、彼女をベルリンへ連れて行く事とし、其処ならば革命政府の目からより安全と思われたからです。
しかし、恐怖に満ちた旅路の果てに辿り着いたベルリンで、セルゲイは姿を消し、少女は疲れ果て、絶望の余り運河にみを投じて自殺を図ったのでした。

 その後10年間、彼女はロマノフ家の一員として、資格回復と帝室財産の相続権を主張し続け、皇帝支持者との接触を繰り返します。

◎真偽論争

 ベルリンのロシア人社会は、完全に二分され、多くは彼女を皇女アナスタジア・ニコライブナと認めましたが、一方ペテン師との非難も少なく無かったのです。
皇女をはっきりと見覚えている人物は、既にほとんど鬼籍に入っており、彼女の主張が認められれば、ロマノフ家の財産の分け前を失う人物も多く存在した事も事実なのです。

 皇帝一家のフランス語家庭教師で在った、ピエール・ジャリールは、彼女を偽者と確信しました。
なぜなら、彼女はロシア語を解さず、ロシア正教の流儀より、ローマ・カトリックの流儀で十字を切る、と言う事がこの論拠に成っていました。

 皇帝の従兄弟で、生き残ったロマノフ一族の長老シリル大公は、彼女との会見も、其の問題に触れる事すらも拒否した程でした。

◎法廷の判断

 皇后の妹、プロイセンのイレーネ公女は、彼女の額と目が、当にアナスタシアのものであると断言しましたが、イレーネ公女がアナスタシアを最後に見たのは、10年以上も昔の事でした。

 皇帝の従兄弟、アンドレーエフ大公は、彼女を完全に承認し、「彼女は真の皇女」であると公言しました。
アンナ(アナスタシア)は後に、叔父のヘッセン大公エルンストが、1916年、ロシアとドイツが交戦していた時に、ロシアを訪問したと主張しますが、大公はこの事柄を完全に否定し、アンナは「ずうずうしい嘘つき」と公言したと伝えられています。
しかしながら、1949年の事、元ロシア皇帝連隊の一人、ラルスキー大佐がアンナの主張した時期に大公が、確かにロシアを訪問した事を宣誓した上で供述しました。

 1933年、ベルリン法廷は、アナスタジア・ニコライブナの死亡を正式に認め、ドイツにある皇帝財産を生存する縁者6名に相続させる証書を認定します。
こうして、アンナの認知への闘いは、振出しに戻りました。

◎その他諸々の証拠

 アンナは病院で、精密な医学検査を受け、X線検査で、銃の台尻による打撲傷と見える傷跡が、頭部に発見され、足には、皇女と全く同じ場所に、黒子が存在し、更に黒子を取った肩の傷跡は、アナスタジア・ニコライブナのカルテに記載されたものと同じでした。

 左手の中指に残る小さな傷跡は、幼い頃、下僕が不用意に馬車の扉を閉めて、彼女の指を挟んだ為に出来たものであるとアンナは語り、この話しは彼女の元侍女の一人が、其の話しを立証します。

 1938年、彼女の弁護士が1933年の証書認定を破棄するよう申し立てますが、第二次世界大戦の勃発で、法廷の審議は行われずに終わり、1968年5月、ハンブルグの法廷は、アンナに不利な裁決を下しましたが、その後も法廷での審議は続いたのです。

続く・・・
 
2014/01/10

歴史のお話その303:語り継がれる伝説、伝承、物語90

<開戦前夜:ハルノート補遺その②>

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◎「事変」と「戦争」の違い

 現在、「日中戦争」と呼ばれる戦いは、勃発当初「支那事変」や「日支事変」等と呼ばれていました。
この「戦争」と「事変」の違い、「事変」とはいったい何であるのかについて調べてみました。

 「事変」とは、広範の非常事態や騒乱の事を指し、「事件」よりも規模が大きい騒乱を意味し、「宣戦布告なしの戦争状態」に用いられます。
 宣戦布告の有無で「事変」、「戦争」呼称が決まるのですが、では上記の日本と中国との騒乱を「事変」と云う名称を用いたのは、日本・中国双方の思惑が存在しからに他なりません。

 日本の場合、国際連盟規約やパリ不戦条約により、国際紛争の解決手段に戦争を遂行する事は。禁じられていたので、「戦争ではない」として国際的な批判を回避したいと云う日本政府の思惑が存在していました。

 一方の当事国である、中国の場合、「戦争」とすれば、戦時国際法によって、交戦国以外の第三国(中立国)が交戦国に援助することが禁止される為(中立義務)、当時中立国であるアメリカからの援助に、大きく依存していた中国にとって、著しい不利と成る為でした(日本も、原油をアメリカに大きく依存していた為、同様な事が言えます)。

 因みに、「戦争」と名称変更に成ったのは、日米開戦によって中立義務の存在を考慮する、必要が無く成った為でした。

(参考)
今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時間ニ付テ
閣議決定(昭和十六年十二月十二日)

一、今次ノ対英米戦争及ビ今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ、支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス
二、給与、刑法ノ適用等に関スル平時戦時ノ分界時期ハ、昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス[以下省略]

 此処に云う『支那事変をも含め』とした表現は、1937年7月7日に勃発した〈支那事変〉迄、遡って含めるのではなく、1941年12月8日以後、中国地域での戦争を含めるという意味であり、関係法律としては、昭和十七年二月十七日、法律第九号で、 「勅令ヲ以テ別段ノ定ヲ為シタル場合ヲ除クノ外、各法律中支那事変ヲ『大東亜戦争』ニ改ム」と定められ、一般にも「大東亜戦争」の呼称が定着しました。

続く・・・

2014/01/09

歴史のお話その302:語り継がれる伝説、伝承、物語89

<開戦前夜:ハルノート補遺>

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◎太平洋戦争勃発時系列

 太平洋戦争の勃発までの時間の流れを整理してみました。

●12月1日
 御前会議、米英蘭に対して開戦を決議
●12月2日
 奇襲攻撃日を12月8日と決定し、午後5時30分「12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」という意味の暗号電報「ニイタカヤマノボレ1208」が船橋海軍無線電信所から送信された。

●12月6日午前6時30分(ワシントン時間、以下同じ)
 901号電発信。内容は「ハルノートに対する対米覚書を別電902号で送る。長文なので14部に分ける。極秘。アメリカ側通告時間は追って指示。いつでも手交しうるよう準備せよ」、通称パイロットメッセージ。           
時間不明 :「機密漏洩防止の為覚書作成にはタイピストを使わぬ事」の指示。
12月6日午前6時30分:902号電1部目発信、
12月6日午後0時30分:902号電13部目発信、
12月7日午前2時00分:902号電14部目発信
12月7日午前2時30分:904号電発信 内容は「7日午後1時(ホノルル時間7日7時30分、日本時間8日午前3時)に野村大使よりハル国務長官に本件対米覚書を直接手交せよ」
この最後の904号電が大使館に配達されたのは7日の午前7時頃。
電信員が解読してタイプが終わったのが午前10時30分、902号電14部目が午前11時30分。
しかし、ここで大使館員の不手際により、暗号解読、タイピング作業に予想以上の時間がかかり、開戦後のワシントン時間午後2時20分頃に宣戦布告文が手交された。

●日本時間12月8日午前1時30分(ホノルル時間7日午前6時00分、ワシントン時間7日午前11時30分)
 日本軍第25軍は、英領マレーの北端コトバル東岸に敵前上陸、太平洋戦争の最初の戦闘は実はここで起こったのである。

●日本時間12月8日午前1時30分(ホノルル時間7日午前6時00分、ワシントン時間7日午前11時30分)
 真珠湾攻撃隊発進。

●日本時間12月8日午前2時22分(ホノルル時間7日午前6時52分、ワシントン時間7日午後0時22分)
 オアフ島最北端(ホノルルの北西四十五キロ)のカフク岬にある陸軍オパマ対空レーダー監視所は、北から近づく大編隊の目標を百三十マイルの距離で探知。レーダー監視兵からの報告に対して陸軍の当直将校は、接近コースが北と東からでは大きく異なるにもかかわらず、当日に北米本土からハワイに飛来する予定の B-17爆撃機の12機であるとみなして、何の措置も取らず。

●日本時間12月8日午前3時10分(ホノルル時間7日午前7時40分、ワシントン時間7日午後1時10分)
 攻撃隊、オアフ島北端のカフク岬沖に到達

●日本時間12月8日午前3時19分(ホノルル時間7日午前7時49分、ワシントン時間7日午後1時19分)
 日本軍がハワイ真珠湾空襲を開始する。攻撃部隊総指揮官 淵田大佐機から攻撃隊全機に全軍突撃を命じるト・ト・トのト連送が打電される。続いて艦隊司令部宛の隠語電文「トラ・トラ・トラ」(我奇襲二成功セリ)が打電された。

●日本時間12月8日午前4時(ホノルル時間7日午前8時30分、ワシントン時間7日午後2時)
 米英に宣戦布告の詔勅を発表

●日本時間12月8日午前4時20分(ホノルル時間7日午前8時50分、ワシントン時間7日午後2時20分)頃
 野村大使、ハル国務長官に合い、宣戦布告文を手交。日本の最後通牒を受けたアメリカの国務長官ハルは、「かくの如き歪曲と虚偽に満ちた恥知らずの文章を見たことがない」と日本を非難する。

●日本時間12月8日午前7時(ホノルル時間7日午前11時30分、ワシントン時間7日午後5時)
 「臨時ニュース」のチャイムの後、『臨時ニュ-スを申し上げます。臨時ニュ-スを申し上げます。大本営陸海軍部午前6時発表、帝国陸海軍部隊は本8日未明、西太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。』伝えられた。アナウンスを担当したのは宿直勤務をしていた館野守男アナウンサーだった。

●日本時間12月8日午前7時(ホノルル時間7日午前11時30分、ワシントン時間7日午後5時)
 首相官邸にて緊急臨時閣議がおこなわれ、いわゆる「大東亜戦争」宣戦布告の件、政府声明文など重要案件を付議し、決定した。

●日本時間12月8日午前7時30分、(ホノルル時間7日午後12時00分、ワシントン時間7日午後5時30分)
 同枢密院は臨時緊急全体会議を開き、政府側から宣戦布告の件を議題にして、情勢分析、政府の所信など、さまざまな問題について協議した。

●日本時間12月8日午前9時45分(ホノルル時間7日午後2時15分、ワシントン時間7日午後9時45分)
 続いて天皇をまじえて本会議を開催し、宣戦布告を決定した。

●日本時間12月8日午前11時10分(ホノルル時間7日午後3時40分、ワシントン時間7日午後9時10分)
 枢密院本会議終了。

●日本時間12月8日午前11時40分(ホノルル時間7日午後4時10分、ワシントン時間7日午後9時40分)
 宣戦の詔書が発せられる。

●ワシントン時間12月8日正午直前(ホノルル時間8日午前5時30分、日本時間9日午前2時00分)
 アメリカ大統領ルーズベルトは、日本の奇襲を国際法違反と決めつけ、上下両院の合同会議に次の教書を送った。大統領がこの教書を議会に送った1時間後に、上院は82対0で、下院は388対1で「日本帝国政府と米国の政府および国民の間に戦争状態の存在することを宣言する共同決議文」を承認。

●ワシントン時間12月8日午後4時10分(ホノルル時間8日午前6時10分、日本時間9日午前10時40分)
ルーズベルト、対日宣戦布告書に署名。

続く・・・

2014/01/09

歴史のお話その301:語り継がれる伝説、伝承、物語88

<開戦前夜:ハルノートその④>

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◎アメリカ政府の意図その②

 12月4日、シカゴ・デーリー・トリビューン紙は一面トップで「ルーズベルトが戦争計画」と云う見出しで「500万人の米軍がドイツに向けて動員される。しかも、動員総数は145658人にのぼり、二つの海洋と三大陸にわたる全面戦争」と報じ、この報道にルーズベルトは激怒します。
ヨーロッパ戦線にアメリカが介入する事にアメリカ国民の世論は、反対一色で在り、又海軍も開戦に消極的でした。

 12月5日、ソ連軍反攻、モスクワ近郊のドイツ軍が撤退を開始、この事はルーズベルト大統領に日米開戦を確信させました。

 12月6日、東京の外務省からワシントンの大使館に長文の電文が続々と送られ、電文は13部に分けられ、最後の部分は別途届く手筈に成っていました。
もはや、誰の目にも日米開戦は不可避だったのです。

 アメリカ戦略情報局は、フェルディナンド・メイヤーに日本大使館の状況を探る様指示し、彼は日本大使館の来栖大使を訪ねたのです。
メイヤーは驚来ます。
確かにこの日は土曜日で在り、しかも日米開戦にとって重要な日で在る事は間違い在りません。
日本本国からの暗号電文が、続々と送られて、メイヤーは日本大使館がその対応に追われ、騒然となっていると思っていました。
しかし、日本大使館は驚くほど静かで、その時、日本大使館員は南米に赴任する職員の送別会の準備で、大使館を離れていたのです。

 その頃、アメリカ情報局は続々と送られてくる、日本本国からの暗号の解読に忙殺されていました。午後8時30分、米陸海軍省に解読分が届けられ、午後9時30、清書された翻訳文がホワイトハウスに到着します。
戦線布告になる筈の14部目の電文は翌7日未明、ワシントンに到着、午前5時頃迄に解読を完了し、ルーズベルト大統領がその文章に接したのは午前10時頃であったと云われています。

 ルーズベルトは軍情報部から送られた電文を前に「遂にその時がきた」と云います。
しかし、その後ルーズベルト大統領は思わぬ発言をしたのです。
「ハル国務長官、直ちに天皇に、親電を送るように手配してくれ」。
其れは、日本軍のよる真珠湾攻撃の僅か29時間前でしたが、ルーズベルト大統領は以前から、日本特命全権大使である来栖から次の様に依頼されていました。
「もし、大統領が天皇陛下に親電を送達して頂ければ、陛下は日本と中国の和平の仲立を大統領に依頼されるでしょう。大切な事は対話を続ける事であり、大統領の側近のハリー・ホプキンズ氏の様な特使を派遣してもらうのも良い方法だと思います。現在、対米開戦を避ける事が出来る人物は、アメリカ大統領と天皇陛下の御二人しか存在しません。御二人が決められた事は、誰にも妨害できません。御願いです、日米の平和の為に大統領閣下から天皇陛下に直接連絡を取ってもらえないでしょうか。」

 しかし、この来栖大使の頼みを、ルーズベルトは無視して来ました。
ルーズベルトはハル国務長官に親電を打電する事を依頼すると、その夜、ホワイトハウスの2階にいた妻のエレノア婦人に語りました。
「人の子である私は、ほんの少し前、神の子に最後のメッセージを送った」。

 午後9時(日本時間7日午前11時)ハル国務長官は大統領の親書を打電したのですが、グルー駐日大使が受け取ったのは11時間半も過ぎた、7日午後10時30分(日本時間)でした。
之には日本陸軍が、電文の配達を妨害したと云われています。

 結果、グルー大使が東郷外相に電文を手渡したのは、8日午前3時で在り、この時間は日本が宣戦布告文書をアメリカのハル国務長官に手渡す予定時間で在って、真珠湾に第一発目の爆弾が投下される僅か25分前だったのです。

 ルーズベルトの親書はあまりにも遅く、この為にルーズベルトが、後世に自分が最後迄戦争を回避しようと親書を送ったとの説も存在あいますが、暫定案を僅か半日で撤回、最後通牒とも言えるハルノートを日本に渡したルーズベルト大統領の性格と、妻であるエレノア婦人に語った言葉を考えると、ルーズベルト自身は、土壇場で日米開戦を避けようとしたのであると思われるのです。

続く・・・

2014/01/08

歴史のお話その300:語り継がれる伝説、伝承、物語87

<開戦前夜:ハルノートその③>

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◎アメリカ政府の状況(ハルノートの提示経緯)

 アメリカ政府は日本の乙案に対し11月21日協議し対案を示す事としましたが、その原案はそれ以前に検討されており22日迄に更に協議され以下の様に修正されました。

『アメリカ政府の暫定協定案』

1、日本は南部仏印から撤兵し、かつ北部仏印の兵力を25000人以下とする。
2、日米両国の通商関係は資産凍結令(7月25日)以前の状態に戻す。
3、この協定は3ヶ月間有効とする。

 この案は3ヶ月間の引き延ばしを意味しており、当時軍部から要望されていた対日戦準備迄の交渉による引き延ばしに沿った案で在り、アメリカ政府はこの暫定協定案についてイギリス、中国、オランダにも連絡をしており、反対する多くの電報を受け取っています。
しかも25日迄はこの暫定協定案が検討されており、推定によれば26日早朝迄に、ハル国務長官とルーズベルト大統領の協議によりこの案は放棄され、26日午後ハルノートが手交されたと思われます。
なぜ急に暫定協定案を放棄しハルノートを提示したかは現在迄、明確では在りません。

 ハル国務長官は、個人の日記で25日に中国からの抗議により暫定協定案を放棄したような記述が存在しており、ルーズベルト大統領については26日午前、スティムソン長官からの日本軍艦艇が台湾沖を南下している情報に激怒し「日本側の背信の証拠なのだから、全事態を変えるものだ」と云えられています。

 一般的な推測では、25日午後乃至26日早朝、ルーズベルト大統領はスティムソン長官からの知らせを受け、日本は交渉を行いながらも軍の南下を行っていると受け取り、暫定協定案を放棄しハルノートを提示したと思われています。
この情報は日本軍の特別な移動を伝えるものでは在りませんが、それまでの過程でルーズベルト大統領、ハル国務長官は日本へ不信を高めており、感情的に譲歩の姿勢を放棄したと思われます。

 ハルノートの原案は、モーゲンソウ財務長官が18日にハル国務長官に示したものであり、それは更に彼の副官ハリー・ホワイトの作成によるものでした。
これは建設的な案として事前に閲覧、暫定協定案と平行して検討されており、暫定協定案が維持されていても同時にこの協議案が日本に提示されていた可能性は存在します。
ホワイト原案はハルノートにかなり近いと思われますが、中国については原案では明確に満州を除くという記述が存在していました。

◎アメリカ政府の意図

 現在、ハルノートでアメリカ政府が何を意図していたか明確では在りません。
ハル国務長官はハルノートを野村・来栖両大使に渡す際には、難色を示す両大使に「何ら力ある反駁を示さず」、「説明を加えず」、「ほとんど問答無用という雰囲気」であり、「投げやりな態度」であったと云います。

 更に両大使と会見したルーズベルト大統領は、態度は明朗であるにも関わらず、案を再考する余地はまったくないように思われたと云います。
ハルノートの提示は陸海軍の長官にも知らされておらず、スティムソン陸軍長官はハル国務長官に電話で問い合わせたときに、「事柄全体をうち切ってしまった、日本との交渉は今や貴下たち陸海軍の手中にある」と伝えられたと答えています。

 又ハルノートはアメリカ議会に対しても十分説明されていません。
ルーズベルト大統領は、暫定協定案でも日本が受諾する可能性はあまりないとイギリスに語っており、ハルノートが受諾される見込みはないと考えていたのでしょう。
しかし攻撃を受けた翌日開戦を決議する為の12月8日議会演説ではハルノートにより交渉を進めていたように演説をしているのです。

 スティムソン陸軍長官は、真珠湾攻撃10日前の日記に、ルーズベルト大統領との会見時の発言として「我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして彼ら(=日本)を先制攻撃する立場に操縦すべきか」と記録しています。

 以上を考察すれば、日米開戦はアメリカが巧妙に仕組んだ罠とも思えます。
日本が1937年に中国大陸を攻撃した早い段階で、東南アジアに植民地を持つ西洋列強と会合を持ち、日本の行動予測を行なっています。
西洋列強も日本が中国大陸で泥沼状態になれば、次は東南アジアを狙うと予測していたのですが、西洋諸国はヒトラーの台頭で、一切の余裕を欠き、アメリカに頼るしか他に道がなかったのです。
そこでルーズベルトは議会にはからず、独断で日本を戦争におびき寄せる計画を進めました。
当時のアメリカ議会は保守的で、ヨーロッパの危機にはほとんど無関心でした。

続く・・・


2014/01/06

歴史のお話その299:語り継がれる伝説、伝承、物語86

<開戦前夜:ハルノートその②>

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択捉島単冠湾の南雲艦隊

◎ハルノート

 太平洋戦争直前の日米交渉末期、ハル国務長官により1941年(昭和16年)11月20日の日本の野村吉三郎大使による打開案(乙案)に対する回答として提示され、同時に口頭で乙案を拒否しています。
ハルノートでは、アメリカが日本と大英帝国、中華民国、オランダ、ソ連、タイとの包括的な不可侵条約を提案する代わりに、日本が日露戦争以降に東アジアで築いた権益と領土、軍事同盟の全てを直ちに放棄することを求めています。

 内様は以下の10項目から構成されています。

1.アメリカと日本は、大英帝国、中華民国、オランダ、ソ連、タイ間の包括的な不可侵条約を提案する。
2.フランス領インドシナからの日本の即時撤兵。
3.日本の中国及び印度支那から即時の撤兵、中国(原文China)が、日本の傀儡国家とされる満州国を含むかには議論があり、アメリカ側は満州を除いた中国大陸を考えていたと言う説があるが、満州国は法律上、中国からの租借地であるという歴史があり、日本側も満州を含んだ中国大陸と考えていたと思われる。
4.日米が(日本が支援していた汪兆銘政権を否認して)アメリカの支援する中華民国以外の全ての政府を認めない 。
5.日本の中国大陸における海外租界と関連権益全ての放棄。
6.通商条約再締結のための交渉の開始。
7.アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除。
8.円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立。
9.第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄。
10.本協定内容の両国による推進。

◎日本の反応(攻撃までの経緯)

 東郷茂徳外相はハルノートに大変失望し外交による解決を断念しました。(以下東郷外相の言葉)
「自分は目も暗むばかりの失望に撃たれた」
「長年に渉る日本の犠牲を無視し極東における大国たる地位を捨てよと言うのである、然しこれは日本の自殺に等しい」
「この公文は日本に対して全面的屈服か戦争かを強要する以上の意義、即ち日本に対する挑戦状を突きつけたと見て差し支えないようである。少なくともタイムリミットのない最後通牒と云うべきは当然である」

 当時、東郷外相は中国の暗号を解読することで、アメリカ側に於いて日本の乙案よりも緩やかな暫定協定案が検討されている事を知っていた可能性が指摘されています。
東郷外相の失望はそれ等を合わせものとも考えられ、日本政府は最後通牒であると受け取り、当時総理大臣であった東条英機も「これは最後通牒です」と述べています。

 この結果、12月1日御前会議で対英米との開戦が決議され、ハルノートが提示される前に択捉島の単冠湾を出航していた機動部隊に向けて、12月1日5時30分「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の攻撃命令が発せられたのでした。

◎日本政府の状況

 日本政府内では当初妥協派が優位でしたが、この条件を提示されたことで、軍部の中に強硬意見が主流になり、その影響で天皇も「開戦やむなし」と判断されたと云われています。
海軍を中心にアメリカとの戦争には勝てない、とする意見が根強く存在したのですが、ハルノートに書かれた条件を受け入れることが出来ない陸軍が、強引に押し切り開戦に踏み切ったとの評価が一般的です。
(但し、当時の日本の石油消費者の半分が海軍であり、残りの3分の2が陸軍、3分の1が民間であること、また日露戦争以来、対米戦だけを念頭に戦備を整えてきたのも海軍であることも事実です。更に開戦直前、石油の備蓄量は海軍が2年半分、陸軍と民間が僅か半年分の確保が成されているに過ぎませんでした。)

 尚、日本がアメリカに提示した交渉の為の乙案は以下の通りです。

1、日米は仏印以外の諸地域に武力進出を行わない。
2、日米は蘭印(オランダ領インドシナ)において石油や錫などの必要資源を得られるよう協力する。
3、アメリカは年間100万キロリットルの航空揮発油を対日供給する。

備考

A交渉が成立すれば日本は南部仏印進駐の日本軍は北部仏印に移駐する。
B日米は通商関係や三国同盟の解釈と履行に関する規定について話し合い、追加挿入する。

続く・・・

2014/01/05

歴史のお話その298:語り継がれる伝説、伝承、物語85

<開戦前夜:ハルノートその①>

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 1941年11月26日、ハル国務長官は野村駐米大使にハルノートを提示しました。
この書簡には、モーゲンソウ財務長官の経済案もルーズベルト大統領の暫定案も記されておらず、日本に対する一切の妥協は存在しませんでした。
この案では日本は中国、フランス領インドシナからの完全撤兵、満州国の承認も無く、日本がこのような提案を承諾する等有り得ない事を、ハル国務長官は知っていたと思われます。
親日家として知られるハル国務長官が、一夜にしてこのハルノートを提出した背景には、ルーズベルトの強い要請乃至命令が存在したと思われます。
野村大使は「暫定案は如何に」との質問に、ハル国務長官の返答は無く、野村大使が部屋を出ると国務長官は陸軍長官スティムソン次の様に語ったと云います。
「私の仕事は終わった。後は君とノックス海軍長官の出番だ」。

 同日アメリカがハルノートを提示する直前の午前10時30分、マーシャル陸軍参謀総長は幹部の将軍たちを集めて「日米交渉が停止した時点で、日本軍がフィリピンを攻撃する可能性が強まる」ことに言及しました。

 しかし一方、マーシャル国務長官は大型爆撃機ボーイングB17を既にフィリピンに派遣していることから、「日本もフィリピン攻撃という危険は犯さないであろう」と楽観的な見通しを持っていたのです。
しかし、同時にフィリピンの軍備強化が完了するまでは、日本に対する挑発的な行動を出来るだけ控えるようにと、米極東軍司令官マッカーサーに伝え、以下の開戦準備警告を発したのです。
「戦争状態突入以前であっても、日本軍の輸送船が接近する等の状況下にあってはそれを攻撃し、撃沈する。将来の攻撃目標である台湾の日本軍基地に対する偵察飛行を早急に実施する。その際、空中戦も辞さない。海軍は太平洋艦隊の2隻の空母を使って早急にウェーキ、ミッドウェー両島の戦闘機配備を完了し、フィリピンのB17爆撃機編隊を支援する。」

 この司令でアメリカ太平洋艦隊の空母は、ウェーキ島、ミッドウェー島に戦闘機を配備する為に真珠湾を離れます。
山本五十六が目指した真珠湾には、空母は1隻も停泊していませんでした。

 余談ですが、この当時アメリカ軍部は日本の暗号解読に成功しており、その解読器はパープルと呼ばれ、8台が完成していました。
ワシントンに4台、ロンドンに3台、そしてフィリピンに1台を配置していたのですが、太平洋戦争勃発時に、最も最前線で戦うべきアメリカ太平洋艦隊司令部のある、真珠湾には1台も配置が無かったのです。

 ハルノートは直ちに東京に打電されました。

 ハルノートを読んだ東郷外相は「目も暗むばかりの失望に撃たれた」と書き残しています。
アメリカのグルー駐日大使は「ハルノートは最後通牒ではない」ことを強調し、日本は一縷の希望を抱いたのですが、グルー駐日大使は一夜にして暫定案を断念した、ルーズベルト大統領の意向を未だ知らされていなかったと思われます。

 11月27日、ハルノートが日本に手渡されると、イギリス諜報部員は本国に「対日交渉終了、2週間以内に戦争となるであろう」との打電を行いました。

 11月28日正午、ハル国務長官は「東京の駐日大使グルーに大使館と領事館閉鎖に伴う職員の引き揚げ準備を早急に検討してほしい。勿論この事は極秘で行わねばならない」との暗号電文を送付、この時グルー駐日大使は、明確にハルノートが日本に対する最後通牒と知ったのでした。

 12月1日、御前会議で対米蘭に対して開戦を決定し、もはや外交交渉での決着は完全に閉ざされたのです。

続く・・・