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2014/02/26

歴史のお話その325:語り継がれる伝説、伝承、物語113

<コロセウムとセントピエトロ寺院>

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 ポーランドの作家ヘンリク・シャンキェビッチの「クォ・ヴァディス(何処へ行く)」は、「ネロの時代の物語」と副題が付きますが、この作品は初代教会時代(使徒時代)のクリスチャンの殉教を描いたもので、皇帝ネロによって、多くのクリスチャンが猛獣の荒れ狂うコロセウムの中で、衆人環視のもと猛獣の餌食と成り、又敬虔な彼等がネロの迫害を逃れ、アッピア街道沿いに在るカタコンベ(地下墓所)で、密かに神を拝し、祈り、神の道を伝えた事が記されています。

 ローマのコロセウムは紀元1世紀の初期に建設され、およそ5万人の観客を収容出来ました。
此処では、ライオンやトラの戦い、グラディアトル(剣奴)と猛獣、そしてグラディアトル同士の決闘を見せる等の催しをしていました。
皇帝ネロの時代、多くのキリスト教徒がこの場所で、猛獣の餌食に成ったと云われていますが、是は後世の作り話で、真実では在りません。

 聖書に書かれていない、キリストにまつわる伝説によれば、紀元67年の或る日、青年時代、ガリラヤ湖の畔で漁師をしていた老人が、永遠の都ローマに於いて、余にも熱心にキリスト教の伝道を行った故を持って、その師と同じく十字架による磔刑を宣告されました。
100歳の高齢に達していた彼は、まず法律の定めに従い体罰を受け、次の日城外のヴァティカヌスの丘に引き出され、十字架の刑を受ける事に成りましたが、自分は師たる、イエス・キリストと同じ方法で死ぬだけの資格は無いので、逆さ磔にしてくれる様頼み、その願いが聞き入れられたと伝えられています。
この高齢の殉教者は、キリストの12使徒の一人、シモン・ペテロで、彼は聖パウロと共にローマで伝道し、神の教えを広めました。

 処で使徒ペテロは、一度迫害の激しいローマを見捨てて逃げ去ろうとします。
「クォ・ヴァディス」は次の様に記述されています。
「次の明け方、二つの黒い影がアッピア街道をカンパニアの平原を目指していた。
一つは少年ナザリウス、一つは使徒ペテロ、ローマと其処で苦しみを受けている信者達を後にして行くのだ。・・・・
やがて太陽は山の狭間から登ったが、たちまち不思議な光景が使徒の眼を捕らえた。
金色の珠が空を上へ上へと登らず、かえって高みから降りて来て道の上に転がった。
ペテロは立ち止まっていた。
“此方に向かって近づいて来る明るいものが見えるか?・・・・”
“いいえ、何も見えません”ナザリウスは答えた。
暫くして使徒は、手のひらで目を覆い、叫んだ。
“誰か人の姿が日光の中を此方に歩いて来る!”しかし、二人の耳には微かな足音さえ聞こえ無かった。
周囲は静寂そのもので、ナザリウスの目に映ったのは、唯、木々が遠くで誰かに揺すられている様に震えているだけで、光は次第に広く平原に注いでいた。
ナザリウスは使徒を見ておどろいた。
“ラビ(師)、どうかなさいましたか?”
彼は不安そうに尋ねた。
ペテロの手から杖が離れて地面に落ち、眼はじっと前方を眺め、口は開いたまま驚きと歓喜と恍惚とが、ありありと見えた。
突然、跪いて前方に手を伸ばし、大声で叫んだ。
“おお、キリスト・・・・キリスト!”
それから頭を地面につけ、誰かの足にキスをしている様子だった。
長い間、沈黙が続いた。
やがて、静けさの中に咽び泣く老人のとぎれがちな言葉が響いた。
“クォ・ヴァディス・ドミネ・・・・”(主よ何処へ行き給うか)
ナザリウスには、其れに対する答えは聞こえなかったが、ペテロの耳には悲しい甘い声でこう聞こえた。
“汝、我が民をすつるとき、我ローマに往きたふたたび十字架に架けられん”
使徒は顔を埃にうずめ、身動きも言葉もなく、地面に身を伏せていた。
ナザリウスには使徒が、気絶したか、死んだかと思った。
だが、やがて使徒は立ち上がり、震える手で巡礼の杖を上げ、無言のまま七つの丘の街(ローマ)の方に向いた。
少年はそれを見ると、こだまの様に繰り返した。
“クォ・ヴァディス・ドミネ・・・・”
“ローマへ!”
使徒は低く答え、そして戻って往った」(河野与一訳より)

◎殉教と復活

 コロセウムの外側には、火刑に処せられ、虐殺されたクリスチャンの遺体を葬った墓所が在り、ペテロの遺体も其処に投げ込まれ、使徒パウロも同じ運命を辿ります。
しかし、彼等の殉教は、結果勝利に繋がり、パウロは自らこの様に述べています。
「我、良き戦いを戦い、走るべき道のりを果たし、信仰を守れり。
今より後の義の冠、我為に備われり」(テモテ後書4の7より8)

 ペテロやパウロの殉教は、決して無駄では有りませんでした。
彼等の殉教によって、多くのキリスト教徒が生まれ、250年後にはローマ皇帝コンスタンティヌス自身の改宗により、キリスト教は、ローマ帝国の国教と也、ペテロの墓の上に教会堂を建立しました。
聖ピエトロ寺院と呼ばれるこの寺院は、歴代教皇の菩提寺院と也、全ヨーロッパの元首が使徒ペテロの墓所の前で載冠式を行いました。

 1450年頃からこの歴史的建築物も崩壊の兆しを見せ始め、1506年その全てを取り壊し、時の教皇ユリウス2世が、建築家ブラマンテ(1444年~1514年)の進言を入れ、同じ場所に新しい聖堂を建立しました。
この聖堂は、最初の聖堂に比べて倍近い大きさと荘厳さを兼ね備え、完成の暁にはローマ市の全人口(当時8万人)を収容する事が出来る程でした。

 新聖堂は、幅135m、全長210m有り、フランス・ランスの大伽藍は地上37.5mですが、聖ピエトロ寺院の伽藍は7.5mも高いものでした。
聖堂はに、44の祭壇が在り、ドームを支える窓間は18m、屋根を支える柱は750本を必要とし聖像の数390体、中には210cmに達する像も多々存在します。
尤も聖ピエトロ寺院も、最初から此れほど巨大な建物であった訳ではなく、次々と拡大されていった結果が現在の姿なのです。
この大寺院が完成するまでに教皇も代を重ね、ブラマンテを始め、12人の建築家が次々と、この大寺院を完成させる為、その生涯の大半を費やしました。
ラファエロ、サンガルノ、ジョコンド、ミケランジェロ等の巨匠と呼ばれる人々も関係し、聖堂の中心になる、直径41mの中央ドームは、ミケランジェロの設計に成り、齢70歳を超えてからの仕事で、彼は完成を観る事無く他界します。

 ミケランジェロの描いた、システィナ礼拝堂の壁画には、以下の様なエピソードが伝わっています。
建築家のブラマンテは、ミケランジェロの名声を嫉み、教皇ユリウス2世を唆して、壁画の経験の無いミケランジェロに、システィナ礼拝堂の壁画を描かせて失脚を企てました。
ミケランジェロは「自分は彫刻家であって、画家では無い」と頑強に拒みましたが、この事態をどうしても避けられないと悟ると、彼はヴァチカン宮殿の裏に在る教皇の庭園に行き、ショベルで赤土と黄土を掘り起こし、水と油脂で混ぜ合わせ、何度も試した結果、満足のいくものが出来ると、猛然と製作に取り掛かり、長さ40m、幅13mの円弧状の天井に、高さ20mの足場を組み、その上で仰向けになり作画を始め、4年間の歳月で「天地創造」から「ノアの洪水」迄、旧約聖書に登場する物語を描きだしました。
何れの作品も迫力に満ちた画風で、今日でも観る者の心を捉えて放しません。

 聖ピエトロ寺院は、基礎の石が置かれてから、120年目の1626年に一応の完成を見ます。
更に噴水や環状に立ち並ぶ、円柱で囲まれた大広場が完成するまでに、40年の歳月が過ぎ去りました。
広場の中央に高さ36mのオベリスクが有り、遥かな昔、エジプト女王クレオパトラが、ユリウス・カエサルに送る為、エジプトから運ばれ、最初コロセウムの中に在った物を大聖堂が完成した時に現在の場所に移設し、頂上に金色の十字架を新たに付け加えました。
完成した聖ピエトロ寺院は、ルネサンスの代表建築の一つに数えられます。

続く・・・

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2014/02/23

歴史のお話その324:語り継がれる伝説、伝承、物語112

<アレクサンドリアの灯台>

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◎古代アレクサンドリア

 アレクサンドリアは、エジプト第二の都市、地中海とマレオティス湖に挟まれた狭い陸地に存在し、エジプト第一の港湾都市でも在ります。
アレクサンドリアとは「アレクサンドロスの都」の意味でマケドニアのアレクサンドロス大王(紀元前356年~紀元前323年)が、紀元前322年のエジプト征服後、ナイルデルタの西側、ラコティスの漁村に近く、北にファロス島を控え、西にマレオティス湖を湛えた地を選び、建築家のディノクラティスに命じて都市を建設した事が発端に成ります。

 大王は将来、この都市を世界貿易の中心とする考えでした。
都市の建設は、クレオメネス、更にはプトレマイオス朝エジプトに継承され、やがては同王朝の首都と成り、プトレマイオス2世の治世に完成しました。
完成したアレクサンドリアの街は、アレクサンドロス大王の意思に違わず、東西の接点として機能し、地中海貿易とアラビア、インド貿易の中心地と成り、数世紀に渡り、「人の住む世界最大の貨物集散地」としての地位を確保し、「アレクサンドリアに無い物は雪だけ」と言われる様に成ります。

 プトレマイオス王朝末期に於ける、最盛期の同市の人口は100万を超え、プトレマイオス・ソテルスの創設した、アレクサンドリア図書館はその蔵書数70万巻と云われ、古代に於ける図書館としては最大規模の図書館のひとつでした。
図書館はムセイオン(ムーサイ学園)に付属し、プトレマイオス3世エウエルゲテス(善行者)は、書物を持ってアレクサンドリアを訪問した者は、原本を図書館に寄進し、変わりに写本受け取る様に命じたので、アレクサンドリア図書館は、別名、略奪図書館との異名を冠する程に成りました。
当時、小アジアのペルガスムス(ペルガモン)にも、ユーメネス2世が創った有名な図書館が存在し、同図書館の司書アリストファネスの争奪をめぐって、アレクサンドリア図書館と紛争が起こり、其れが原因と成ってペルガスムスは、エジプトから製本に必要なパピルスの供給を停止され、その代用としてパーチメント(羊皮紙)が発明された程でした。

 紀元前48年~紀元前47年のアエクサンドリア戦役の折、ユリウス・カエサルの率いるローマ軍の戦火で消失したものの、その後、クレオパトラとの恋物語で名を留める、将軍アントニウスが、ペルガスムス図書館の蔵書を送りアレクサンドリア図書館は再建されました。
同図書館の最大の加害者は、キリスト教徒による破壊活動ですが、13世紀頃以下の様な逸話が広く語られる様になりました。
「アレクサンドリア図書館は640年、サラセン人のアレクサンドリア攻略の時、再び灰燼に帰す事に成ります。
その時、サラセンの将アムルーが、アレクサンドリア図書館の処遇に関して、国王オマル1世の意向を質した処、「もし図書館の書物がコーランの趣旨に反する物ならば有害である、コーランと同一であれば不要である」として、焼却を命じ、その膨大な蔵書は、市内4箇所の浴場で燃料として使用され、全てを焼却するのに半年もの期間を必要としました。」(以上はキリスト教徒による逸話)

◎灯台

 古代アレクサンドリアでは、紀元前3世紀半ばに70人訳(セプトゥアギンタ)と称する、ギリシア語訳「旧約聖書」の完成したことでも知られていますが、ヘレニズム文化の中心地にあるユダヤ人達の必要に基づくものと思われますが、ヘブル語辞書の初めての外国語翻訳として特に有名です。

古代アレクサンドリアは、ファロス島とは、ヘプスタディオンを呼ばれる1km余りの堤防で結ばれ、島の東側には、古代技術の精を尽くした、高さ180mにも及ぶ大灯台が建設されていました。
プトレマイオス2世フェラデルフォス(姉弟愛王 紀元前285年~紀元前247年)の命令で、ディノクラティスの子供、ソストラトスが建設指揮にあたりました。

 灯台の大部分は大理石で造られ、上部に向かって少しずつ細くなる現代の灯台ではなく、高層ビルの様な姿をした建造物でした。
最上階には、大きな火桶が設けられ絶えず火が燃やされており、その燃料が木材なのか、油類なのかは現在でも解明されていませんが、ランプの後部に強力な光を反射する巨大な反射鏡が存在していたことは、はっきりとしています。
この構造物こそ、現在の灯台(ファロス)の原型であり、ヨーロッパでは、現在でも「ファロス」の単語が灯台を意味しているのです。

 この灯台は単なる標識塔ではなく、300室以上を有する、軍隊の駐屯施設で城砦の一部を成していたとも云われています。
この大灯台は180mの高さが有ったにも関らず、階段は存在せず、燃料の補給や人間の移動は、緩やかな螺旋状通路によって行われていました。

 灯台の最上階に在る展望台から、数10kmも離れた地中海を望め、そのむこうの小アジアも望見できたと云い、明るく燃える灯台の光は、遥かな海上からもはっきりと確認でき、インドからジブラルタルに至る、地中海全ての船乗りの間で評判に成りました。

◎灯台に纏わる伝説

 アラブ人は7世紀以後エジプトを支配しましたが、彼等の語る処によれば、燃える炎が反射鏡で照らし出されると、43km先の海上を見る事が可能で、晴れた日には、マルマラ海の対岸、コンスタンティノープル(現イスタンブール)の町の様子が反射鏡に映り、又日光を反射させると、160km先の船舶を焼く事ができたと云います。
残念ながら、当時の研磨技術では、上記の様に太陽光を集約する事は不可能でしょうが、ソストラトスがある種の強力な光を反射するレンズ乃至反射鏡を考案した事は間違いなく、近代レンズ乃至反射鏡の創意を先見した事は疑う余地が有りません。

 ファロスの灯台は、長い期間現存し、カエサルやクレオパトラ、アントニウスの船の為の道しるべと成ったに違いなく、その崩壊を早めたのはアラビア人の軽挙と貪欲に他なりませんでした。
エジプトがアラブの支配下に入っても、ファロスの灯台は大切に維持管理されて、海上交通の力強い助けに成っていましたが、850年頃、神聖ローマ帝国とイスラム勢力の間に抗争が始った時、その存在は、イスラム勢力にとっては好都合でしたが、神聖ローマ帝国側には、不都合極まり無い存在でした。
神聖ローマ帝国は、当時アレクサンドリアを支配していたカリフ、アル・ワリドの許へ密使を送り、灯台の下に莫大な財宝が埋蔵されていると云う、デマ情報を流しまし、欲深なカリフは、この策謀に填りすぐさま部下に灯台の解体を命じたのです。
カリフが罠に填ったと気づいた時には、灯台は大方解体されてしまい、その再構築の命令も当時のアラブ人の手に余る仕事だったのです。
その心臓部とも言える反射鏡を元の場所に戻す作業が、大失敗し反射鏡は地面に落下、しかも新しく造る術を彼等は知りませんでした。
後年、反射鏡を失った灯台の建物は、イスラム教のモスクとして利用されるだけでした。

 時代が下り、アレクサンドリアはカイロ市(エル・カーヘラ)の建設と共に寂れ、灯台は基礎部分がその面影を残していましたが、1375年ナイル・デルタを襲った地震の為、完全に破壊されその残骸を取り片付けるだけで、100年もの時間を要したと云われています。
その後、灯台の事は忘れられ、ファロスの名前のみが残り、遺跡自体の位置さえ判らなく成りましたが、20世紀初頭、ドイツの考古学者によって、カイトバイ堡塁近郊で灯台の所在を確認し、現在ではその位置が、アレクサンドリアのファロスの跡と認められています。

続く・・・


2014/02/21

歴史のお話その323:語り継がれる伝説、伝承、物語111

<ヘリオスの巨神像>

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 ロードス島はエーゲ海の南東部、小アジア半島近海に浮かぶ島で、常に戦略的、商業的な要地でした。
出土品等によって、既にミケナイ時代(紀元前15世紀)頃には、繁栄していた事が判明しています。
このロードス島にヘリオス(アポロン)の巨像が建設された経緯には、次の様な話が伝えられています。
ロードス島は、先の霊廟で登場した、カリア王マウソロスの支配下に入った事も在りましたが、その後ペルシアの征服者ダレオス王により支配されました。
紀元前340年、アレクサンドロス大王によって開放され、エジプトのアレキサンドリア(アルイスカンドリア)が地中海交易の中心地になった時、ロードス島はその中継となり、船舶は東方の財貨をこの島に運び、エジプトの産物を地中海全域に配分しまし、島は富み栄えたのでした。

 その後、エジプトのプトレマイオスがマケドニアと戦火を交えた時、ロードス島の人々は船舶を提供してプトレマイオスを援助したのです。
この様な事実から、紀元前307年、マケドニアは4万の軍勢と370隻の軍船を伴い、北部ギリシアからロードス島に侵攻し、攻撃軍は城壁を破壊する為、当時最も強大な青銅製の攻城機、斧、石弓を持ち込みました。
当時のロードス島の人口は、全てを集めても侵略軍の軍勢に及ばず、大変な苦戦を強いられたものの、勇敢に戦いマケドニア軍の攻撃を撃退して、1年間も島を死守しました。
歴史家の記述によれば、ロードス島の島民は、奴隷達にも武器を与え、戦争の終了した暁には自由人となる事を約束し、女性は弓の弦を作る為に髪の毛を差し出し、食物、衣類、武具を昼夜分かたず作り続け、島民は城壁の補強の為に神殿の石材さえを用いたと云います。
しかし、外部からの応援が望めない限り、これ以上の持久戦は不可能でした。

 その様な折、プトレマイオスがロードス島救援の為、大艦隊を急派し、マケドニア軍は沢山の武器を遺棄して本国へ撤退を余儀なくされたのでした。
ロードス島の人々は、プトレマイオスを「ソーテール(救い主)」として仰ぎ、感謝の印としてマケドニア軍が遺棄した青銅製武器を集めて、自分達の守護神ヘリオスの像を造る事にしました。

◎巨像の建立

 巨像の製作に従事したのは、有名な彫刻家リュシッポスの弟子で、リンドウスのカレスです。
カレス自身、ロードス島防御の為に勇敢に戦った一人でも在り、彼はこの記念像を建立する場所として、ロードスの港と外海の間に防波堤の様に突き出ている小さな岬の端を選びました。

 白い大理石の台座部分だけでも、15mの高さが有ったと云います。
その上に巨大な青銅の足を据え、胴、腕、頭部と付け加えて行き、空洞になった足首と脚部を安定させる為に、多量の石材が注ぎ込まれました。
カレスはこの巨像を完成に漕ぎ着ける迄に、12年の歳月を要しました。
像の高さは33m、胴回り18m、脚の太さ3.3m、足首だけでも1.5mもあり、ヘリオスの像は台座の高さを加えると48mにもなり、其れは現在のニューヨーク、リバティ島に聳え立つ自由の女神像に匹敵するものでした。
若し現代に現存していたならば、ヘリオス像と自由の女神像は双子の像と見られたかも知れません。
ヘリオス像は青銅製、自由の女神像は銅製で、何れも頭の周りに太陽の光を模った冠を戴き、自由の女神像は燭台から光を放ち、ヘリオス像はその眼から光を放ったと云われています。
高さから言えば、自由の女神像は台座を別にしても、腕を高く差し上げている分だけ、12m程高いのですが。

 処で、ヘリオス像には足から腰、胴、胸、肩、首、頭部と螺旋階段が設けられ、開いた眼のすぐ後部迄続き、夜間はこの台の部分に火が灯され、この眼の光は遥か遠くから観る事が出来ました。
この眼の部分には、いくつかの部屋も設けられ、遠方を観測する事も出来たと云われ、眼下の港や町、雪に覆われた小アジアの山々、そして真蒼な地中海が広がっていました。
港の背後の緑の丘の上には、堅固な城壁に囲まれた白い町も見渡せと思われ、港に出入りする無数の艦船も手に取る様に見えた事でしょう。

◎像に纏わるお話

 ロードス島のヘリオス像は、正しく当時の地中海世界で驚異の眼差しで見られ、世界の七不思議を選んだフィロによれば「ヘリオスの巨像は、単に巨大であるばかりでは無く、人間によって造られた神像の内で、最も完全な形の像であった」と述べていますが、一方では、神像をほぼ完成させたカレスは、設計計算の誤りに気づき、自殺を企てたとも云われ、又カレスが、作品の出来栄えを自慢したとき、ある人物から構造上の弱点を指摘され、誇りを傷つけられたとして、自殺したとも伝えられています。

 ヘリオスの巨像に設計上の不具合が存在したか否かについては、現在では検証のしようも在りませんが、この膨大な資材と人力と歳月を持って建立された巨像は、僅か半世紀程でこの地上から永遠に姿を消す事に成りました。
紀元前227年、この地方を襲った大地震の為に、ロードス島は甚大な被害を被ったのですが、ヘリオスの巨像は無残にも、巨大な両足の部分を残し、膝の部分から倒壊しました。
しかし、倒壊した青銅部分は海中に落下せず、その破片は7世紀後半迄、そのまま岩盤の上に残り、ファラオの一人はもし巨像を再建する計画が在るのなら、それに必要な金銭を提供しても良いと申しでたものの、ロードス島の人々は、おそらく、我々の神は其れを喜ばないだろうとして、断ったと云われています。
 
 巨像に関する記録は、倒壊してからもその残骸を見た人々によって伝えられ、その残骸の姿でもなお、見る人々を驚嘆させるに十分なものとの事でした。
ローマの博物学者プリニウスが、1世紀の頃、ロードス島を訪れた時、崩れ落ちた巨像を調査した結果、親指の周りを両腕で回せる成人男性は殆ど無く、指の長さは普通の神像よりも長く設計され、崩壊した脚部の中は空洞に成っていたと報告されています。

 巨像の残骸は、800年以上に渡って、地面に横たわっていましたが、672年、アラブによるロードス島占領の際、破片やその他をスクラップとしてユダヤ商人に売却してしまい、ユダヤ商人は300t程の青銅を900頭の駱駝に乗せて運び去り、現在では一切の痕跡を残さず、ヘリオス像がどの位置に建っていたか正確に伝える物は存在しません。
フィロの世界に七不思議にその名前が、残るだけなのです。

 処で、ヘリオスの巨像は、プリニウスが述べている様に、高い台座の上に両足を揃えて立っていたのですが、何時の頃から、港の入口の両方の岬を両足で踏まえ、その下を船が出入りしたと云う伝説が生まれました。
シェクスピアは、この話を信じていたのか、「ジュリアス・シーザー」の中で、カッシウスに、「あの男は狭い世に足を踏みはだけている。まるでコロッサス(巨像)の様に。そして我々人間どもは、あの大きな男の股の下をくぐって、みじめな墓地を探し回っている」と言わせ、ジョナサン・スイフト(1667年~1745年)も同じ様に伝説を鵜呑みにして、「ガリヴァー旅行記」(1726年初版)の中でガリヴァーをリリパトの首都の広場に大股を広げて立たせ、その下をくぐって軍隊を行進させ時、「コロッサスの様に」との単語で形容しています。
事実、これ等の伝説から、ヘリオスの巨像の両足を広げた姿に描いているものも散見されますが、事実に基づかない想像に過ぎません。
ギリシアの芸術家は、だれ一人として、その様な品位の無い姿で、神の像を設計するはずは無く、現実問題として、幅60mを超える港湾の入口を跨がせるなら、その像は少なくとも120m以上の身長が必要となり、其処まで巨大な像が青銅で建造されたとは、考えられません。
やはり、ヘリオスの巨像は、ギリシア伝統の立像として、石の台座に両足を真直ぐ踏み揃えて立っていたのでしょう。

続く・・・


2014/02/19

歴史のお話その322:語り継がれる伝説、伝承、物語110

<ハリカルナッソスの霊廟>

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 紀元前4世紀の半ば、小アジアに栄えたカリア王国の首都ハリカルナッソスは港町で、マウソロス王によって統治されていました。
マウソロス王は、精力的、好戦的な性格でロードス島を征服し、暫くは隣国リュキアの領主となった事意外、現在に伝えられる事は、殆ど存在していません。
霊廟が、彼の名前に由来しマウソレウムと云う単語に成ったのは、彼の妃アルテミシアの献身の賜物と言わなければ成りません。

 紀元前353年、マウソロス王が崩御すると、王妃アルテミシアは、亡き王の霊を慰める為、霊廟を建立する事としました。
王妃は、ギリシアから建築家サテュロス、ピュティアス、彫刻家スコパス、レオカレス、プリュアクシス、ティモティオス等、著名な芸術家を招集し、世界で最も壮麗な墓を造る様に命じたのでした。
彼等はエジプトのピラミッドや、ファロスの灯台に比較すれば小規模では在るものの、構造の美しさ、彫刻装飾の豊かさ、技巧の巧みさに於いて、当時知られる如何なる建造物よりも、優れた建物を造る事としたのです。

 不幸にも王妃アルテミシアは、その完成を見る事無く、王マウソロス崩御の2年後に世を去りますが、王妃の遺志に従い霊廟の建立作業は、継続されたのでした。

 霊廟は、ハリカルナソスの町の中央部に在る広場に造られ、まず四角の大理石の基礎が置かれ、それぞれの四隅には、馬に乗った戦士達の彫像が置かれ、金白色の大理石で造られた36本のイオニア式円柱が立ち並び、円柱と円柱の間には、男神と女神が交互に置かれました。
36本の円柱の上には台輪が載せられ、其処から急傾斜の高いピラミッドが組み立てられ、更に頂上には金箔を貼った青銅の馬具をつけた、4頭立ての2輪馬車に、大理石で造られたマウソロス王と王妃アルテミシアの像が載せられました。
霊廟の高さは42m、周囲123mの巨大な建造物に成りました。

◎霊廟の復元

 マウサロスの霊廟は、エフェソスのアルテミス神殿と異なり、1500年以上もその姿を留めていたと考えられます。
しかし「形在る物は、時来れば滅す」の喩え通り、この地上から姿を消す時が来ました。
1402年イスラム勢力によってエルサレムを奪回された、十字軍はハリカルナッソス(当時の名前はブドルム)の戦略上の重要性を認め、その地に城砦を築きます。
資材には、霊廟の石材を使い、破片は更に粉砕して、石灰を作る材料となり、その場所に巨大な霊廟の痕跡すら残しませんでした。

 時は流れて1859年イギリスの考古学者チャールズ・ニュートン卿は、霊廟の存在した土地を整備し、地中深くに埋没した、石のライオンや、円柱の破片、彫像等を発掘し、ロンドンの大英大国博物館の特別室(マウソレウム室)に陳列されて、その部屋には、霊廟の復元模型も展示されていますが、その考察の巧みさから、恐らく失われた霊廟に最も近いものと云われています。

 マウソロスの町は、現在ブドルムと呼ばれる漁村で、栄華を誇った当時の面影を伝える物は一切存在せず、霊廟の存在した場所も、雑草の茂る窪地に過ぎません。
21世紀に生きる私達は、居ながらにして世の事柄を見聞きし、必要とあれば数時間で現地に赴く事も可能です。
巨大産業文明の中で生活する私達ですが、歴史上黄金時代の古代ギリシア人の様に美を愛し、美を理解し、美の為に生活する時間を持っているでしょうか?
疑わしい事と思います。

続く・・・

2014/02/17

歴史のお話その321:語り継がれる伝説、伝承、物語109

<オリンピアのゼウス像>

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 紀元前5世紀の頃、ギリシアには著名な建築家や芸術家が、多数存在していました。
フェイディアス(Pheidias)もその一人でした。
彼は、アテネの画家カルミデスの子供として、紀元前490年頃に誕生し、後年優れた彫刻家に成りました。
ギリシア彫刻古典期を代表する巨匠で、残念ながら原作と立証できる作品は、現存していませんが、パルテノンの装飾彫刻からその作風を伺い知る事が出来ます。
文献に由れば、アテネのパルテナス像、オリンピアのゼウス像等何れも彼の手に成る事が明らかなのです。
オリンピアのゼウス像は、フィロの世界の七不思議に名前を連ねています。

 オリンピアはギリシアのペロポネソス半島北西のエリス地方に位置し、その地のゼウス神殿の前で4年毎に開催される協議(古代オリンピック)は、古くから知られていました。
昔から、ギリシアで最も美しい処と称えられ、宗教的にも崇拝の一中心地に成っていました。
近郊には、ガスの出る地域が在り、このガスを利用して一種の卜占が行われ、最初クロノスやヘラ等の大地母神、女性神が崇拝されていましたが、後年ゼウス崇拝に変わり、紀元前457年に雷神ゼウスの神殿が建立され、フェイディアスの作となるゼウス像が安置されました。

 神殿は台地の上に聳え、両側に13本ずつ、両端に6本ずつの巨大なドーリア風列柱に囲まれ、緩い傾斜の屋根を頂いていました。
フェイディアスの製作したゼウス像は、神殿の中央、高さ90cm、幅6.6mの石の台座に安置され、像其のものの高さは12m、殆ど天井に達する高さで、全体はクリュセレファンティンと呼ばれる、象牙と木組みに貼り付けた金の板で形作られていました。
湿気の為に気が収縮しない様に、常に油が注がれ、このゼウス像の保守は、フェイディアスの子孫の手に何世紀も委ねられてきました。

◎黄金の像

 ゼウス像は、宝石、黒檀、象牙によって象嵌された金の玉座に安置され、両足は参拝者のほぼ目の高さにあたる金製の足台に乗せられ、右手は上に伸ばし、金と象牙の勝利の女神ニケを支え、左手には黄金をはめ込んだ王尺を持ち、その上に鷹がとまっていました。
ぞうげに彫られた力強い両肩には、花や動物で飾られた金製のマントルがひだを広げていました。

 この像を見た当時の人々は、次の様に感想を述べています。
「重荷を負える人も、不幸と悲しみの盃を飲み干した人も、もし立ってこの像を眺めるならば、この不可解な世界の辛く気だるい重さを忘れるであろう」と。

◎オリンピア

 オリンピアの言葉を聞くと、現代の人々は誰も、4年毎に開催されるオリンピック競技を連想する事と思います。
伝説では、ヘラクレスによって初めて開かれたと、云われています。
第一回は、紀元前776年、以後217年迄4年毎に開催されました。
最初は、地方単位の小さな行事に過ぎませんでしたが、やがて全ギリシアの行事となり、後にはマケドニア人やローマ人も参加する様に成りました。

 競技種目も最初は、ランニングとレスリングだけでしたが、最終的には24種目迄増加し、演説や絵画迄加わりました。
開催前後の1ヶ月は、「神聖な休戦」と呼ばれ、ギリシア周辺で行われている、如何なる戦争も休戦とされ、ペルシア戦争の折でさえ、この誓いは守られたのです。
競技の勝利者には、神域に在る神聖なオリーブの枝で作られた冠(月桂冠)与えられ、更に勝利者となる事は大変な名誉で、その彫像や記念碑は神域の中に建てられ、帰国後は名誉市民として、その一生を国費で賄われたのでした。

 オリンピアの競技は、ギリシアがその覇権を喪失した後も、長く開催され続けましたが、394年ローマ皇帝テオドシウス1世が、オリンピア競技の禁止に関する勅令を公布し、426年には異教の神殿破壊令が出され、ゼウス神殿は破壊され、更に522年と551年の震災でクロノスの丘は崩壊し、グラディオス川の氾濫により、その神域は3m~5mの砂の層に埋没する事と成りました。

 しかしながら、古代より文明の発展した地域に在ったお陰で、この周辺には神殿、公共施設、競技場等の建造物が多数埋没している事が知られており、18世紀頃から発掘を志す者が多数存在しました。
1829年ギリシアが独立を果たすと共に、フランスによってゼウス神殿跡の発掘が開始され、メトーブ、柱、屋根等の破片が発見されました。1875年~81年にかけて、ドイツ政府により本格的な発掘作業が再開され、オリンピアの全体像が解明され、ゼウス神殿の跡もほぼ確定されたのでした。

続く・・・

2014/02/15

歴史のお話その320:語り継がれる伝説、伝承、物語108

<エフェソスのアルテミス神殿その②>

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アルテミス神殿復元CG

◎エペソ人の手紙

 エフェソスの名前は、私達に新約聖書の「エペソ(エフェソス)人の手紙)を連想させます。
使徒パウロがエフェソスに居る、キリスト教徒に与えた手紙で、ヨハネの黙示録では、次の様に綴られています。
「私は、貴方の技と苦労と忍耐を知っている・・・貴方は忍耐をし続け、私の名の為に忍び通して、弱りはてる事がなかった。
しかし、貴方に対して責むべき事が在る。貴方ははじめの愛を離れてしまった。そこで、貴方はどこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの技を行いなさい。もし、そうしないで、悔い改めなければ、私は貴方のところへ来て、貴方の燭台をその場から取り除け様」(ヨハネの黙示録第二章)
この文章から忠告を受けている事が判りますが、パウロの手紙では「キリスト・イエスにあって忠実な聖徒達」、「主イエスに対するあなた方の信仰と、全て聖徒に対する愛とを耳にし」等信頼と愛情を受けています。

 私達は、使徒パウロがエフェソスで、偶像崇拝の迫害に抗しながら、神の道を解く様を、使徒行伝第十九章を通して見る事ができます。

 使徒パウロはエフェソスの街に二か年も留まり、神の道を説き、悪魔を追い出し、病を治したので、多くの者が信者となり、其れまで「魔術を行っていた多くの者が、魔術の本を持ち出してきては、みんなの前で焼き捨て、その価値は、銀5万にも上る事が判った」と在りますが、この行為は、秦の始皇帝が行った「焚書坑儒」と共に焚書のはしりと云われています。

 聖パウロがエフェソスで神の道を説き、人々に偶像崇拝を止める様に勧めた時、激しい抗議を受けた事が、使徒行伝第十九章に記されています。

 「デメテリオと云う銀細工職人が、銀でアルテミス神殿の模型を造って、職人達に少なからぬ利益を得させていた。この男がその職人達や、同業者達を集めて言った。“諸君、我々がこの仕事で、金儲けしている事は、ご承知の通りだ。然るに、諸君も見聞きしている様に、あのパウロが、手で造られたものは神様ではない等と言って、エペソ(エフェソス)ばかりか、殆どアジア全体に渡って、大勢の人々を説きつけて誤らせた。是では、お互いの仕事に悪評が立つ恐れがあるばかりか、女神アルテミスの宮も軽んじられ、ひいては全アジア、いや全世界が拝んでいるこの女神様のご威光さえも、消えてしまいそうで有る”
是を聞くと人々は怒りに燃え、大声で“大いなるかな、エペソ人のアルテミス”叫び続けた。そして街中が大混乱に陥り、人々はパウロの同行者である、マケドニア人ガイヤオとアリスタルコを捕らえて、一斉に劇場へなだれ込み、全員が“大いなるかな、エペソ人のアルテミス”と二時間ちかくも叫び続けた。終に、市の書記役が群集を押し沈めて言った。“エペソの諸君、エペソ市が女神アルテミスと、天下ったご神体の守護役である事を知らない者が、一人でも居るだろうか?是は否定できない事実であるから、諸君はよろしく静かにしているべきで、乱暴な行動は、一切してはならない。諸君はこの人達をこの場所に引き立てたが、彼等は神殿を荒らす者でも、我々の女神を謗る者でもない。だから若し、デメテリオなりその職人仲間なりが、誰かに対して訴え事が有るのなら、裁判の日は有るし、総督も居るのであるから、それぞれ訴え出るがよい”」

◎ゴート人の侵入

 エフェソスのアルテミス神殿は、聖パウロが同地を訪れて後、約100年の間、栄光に満ちた姿を見せていましたが、260年~268年、ヨーロッパからアジアに侵入したゴート人によって、略奪と破壊を余儀なくされました。
そして、神殿跡は採石場と化し、屋根、台座、円柱は破砕され、石灰を作る為の資材となり、建築材料として運び去られました。

 その結果、神殿の構造物で満足な姿で現存する物は、全く存在せず、その廃墟の上に時の経過と共に、土や草木が覆い、終には神殿の存在した場所その物の痕跡が、地上から消滅してしまいました。
12世紀の事、かねてよりアルテミス神殿の壮麗さを聞かされていた、十字軍の軍団がこの地を通過した時、当時の町の住人の神殿の事を尋ねても、住人の記憶からもアルテミス神殿は消えていたのでした。

◎神殿の発掘

 1863年、イギリスの考古学者J・T・ウッドが登場する迄、1600年という時間が流れていました。
ウッドは、プリニウス(23年~79年:ローマ時代の博物学者)や、ディオゲネス・ラエルティオス(紀元前3世紀頃:ギリシア哲学史家)、ストラボン(紀元前63年~紀元前21年:地理学者・歴史家)等の著作を読み、エフェソスのアルテミス神殿の廃墟を探索し、発掘する決意をしたのでした。

 大英帝国博物館の後援を得つつも、11年の歳月と、常に資金不足に悩みながら、終に地下7mの付近から、大神殿の痕跡を掘り当て、発見した建設用の石材や、円柱の破片を基に、芸術家の援助によって、かなりの正確さで、神殿の姿を復元したのです。

 かつてタイア(古代フェニキアの港湾都市)からの商船を迎え、カルタゴからの艦隊を迎えて、大いなる繁栄を謳歌したエフェソスも、現在は過去の栄華を偲ぶものは一切無く、20軒程のトルコ系住民の住む寒村に過ぎません。

続く・・・

2014/02/13

歴史のお話その319:語り継がれる伝説、伝承、物語107

<エフェソスのアルテミス神殿>

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 エフェソス(エペソ)の街は、小アジアに実在した、古代イオニア地方12の都市の一つで、紀元前6世紀頃、既に西アジアに於ける商業の中心地として繁栄し、最も富裕な都市と成っていました。
この街から「万物は流転する」と説いた、哲人ヘラクレイトス(紀元前535年~紀元前475年)や、詩人ヒッポクラテスが登場しましたが、この街を最も有名にしたのが、アルテミス(ディアナ)の神殿なのです。

 当時、世界最大の富豪と称えられた、リディア王クレッソス(在位紀元前560年~紀元前546)の提唱で、アルテミス神殿は建立されました。
高さ20mにも及ぶ、壮麗なイオニア風の白亜大理石の円柱を127本使用し、完成迄に120年を費やしたと云われています。
次の世紀にヘロドドスが、エフェソスを訪問した時、この神殿に感歎しエル・ギザのピラミッドやモエリス湖、ラビュリントスに劣らずの、賛嘆の言葉を送っています。

 ヘロドトスのエフェソス訪問から、1世紀ばかり後、この壮麗な神殿は一人の心無い者の仕業によって焼失してしまいます。
紀元前356年10月、ギリシア人ヘロストラトスは、「どうせ悪事を行うなら、後世迄語り告がれる様な悪事を働こう」と云い、神殿に放火したのでした。

 しかし、神殿は、ディノクラティスの手によって再建され、エフェソスの女性達は、修築資金を募る為、自ら宝石類を売却しました。
諸国の王達も、クレッソス王に見習い、円柱を寄進したのです。
アレクサンドロス大王は、アジア遠征の折、完成半ばのアルテミス神殿の壮麗さに感動し、「若し、エフェソスの民が、この神殿を自分の名前で寄進させてくれるなら、建立の全費用を受け持っても良い」と申し出ましたが、「ある神が、他の神の神殿を建立する事は適当では在りません」として固辞したと伝えられています。

 野心の強いエフェソス人は、自分達の神殿を、是までに建立された如何なる神殿よりも、壮麗な物にしようと考え、太陽が月よりも輝く様に、アテネのパルテノン神殿を凌駕する神殿にしようとしました。

 パルテノン神殿は、長さ69m、幅30m、高さ10mであり、大理石の円柱58本で取り囲まれていたので、エフェソス人は自分達の神殿を、何れもパルテノン神殿の2倍とし、長さ120m、幅60m、高さ18m、大理石円柱127本で取り囲む事としました。
神殿の建設資材は、最も純度の高い白亜大理石を用い、その規模の巨大さ、壮麗さは、地中海、アジアに広まっていました。

 紀元前250年頃のエフェソスの街は、非常に巨大で誇りに満ち、全市は殆ど大理石で造られ、人口20万人、13kmに及ぶ城壁に囲まれ、港には、ギリシアやフェニキアの商船が、諸外国の物資や旅行者を乗せて、寄航していました。
彼等はもちろん、商売の為にこの街を訪れているのですが、驚異のアルテミス神殿に詣でる事も又、目的の一つでした。

 神殿に祭られているのは、ギリシア人に取ってはアルテミス神であり、ローマ人に取ってはディアナ神で在る処の貞節の女神でした。
活発な若い女神で、露にした両肩に弓を投げかけ、処女達の守護神でもあり、月の神でも在りました。
同時に大地母神、すなわち母なる大地の神、豊作と繁殖を司る神としても知られ、豊かさを表すこの女神は太っていて、一番目に留まる部分は、幾つもの乳房を下げている事でしょう。
この女神は、東方と西方の融合であり、この豊穣の神は、太古から信仰の対象に成っていました。

続く・・・

2014/02/11

歴史のお話その318:語り継がれる伝説、伝承、物語105

<バビロンの栄華その②>

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バビロンの空中庭園

◎空中庭園

 「空中庭園」は、新バビロニア王国のネブカドネザル2世が造営したと、伝えられる建造物で、浮かんでいるという意味ではなく、平地に土を盛り上げ、小山の様に形造った一種の人工の山ですが、草、花、木々を数多く植え、あたかも遠距離から望見すると、天井から吊り下げられた庭に見えるところから、その名前が生まれたのでした。

 ネブカドネザル2世がなぜ「空中庭園」を造ったのかについては、以下の様なお話が、現代に伝わっています。
「ネブカドネザルが、バビロンの王に即位した時、北方のメディア王、キアクセレスの王女を妃に迎えました。
メディアは山国で、果実と花に溢れる土地でしたから、その地で生まれ育った王妃は、平坦でしかも雨の降らないバビロニアが退屈で、何時も生まれ故郷であるメディナの緑の丘や木々、咲き乱れる花々の美しさを懐かしがっていたのでした。
其処で、王は王妃を幸せにする為に、故郷のメディナに在る如何なる種類の庭園よりも、美しい庭園をバビロンの地に造ろうと決心します。
王は優秀な建築家、技術者、工匠を各地から集め、その構想を実現しようと努めます。
王宮の広場の中央に縦横400m、高さ15mも土台を築き、その上に階段状の建造物を建てました。
最上階は、60平方m位の広さですが、高さは、105m(!?)、現在の30階建てのビルに匹敵するものでした。

 雛壇が完成すると、その上に何tもの土壌を運び上げ、一種の花壇を造り夥しい種類の草木を植えたのでした。
処で、この雨の殆ど降ることの無い、乾燥した地方で、此れほど大規模な庭園に水を供給することは、大問題でした。
王は建造物の最上部に水槽を置き、ユーフラテス河の水を汲み上げ、その水を最上階から低部に向けて流したのでし、水は、絶えず花壇に適度な湿り気を与え、更に庭園の低い部分の内側は、常に涼しい状態に保たれた、幾つかの部屋が設けられていました。
この部屋の上部からの水漏れを防いだのは、瀝青を敷き詰め物と云われています。

 二千数百年の昔、メディアの美しい王女を喜ばせた「空中庭園」は、現在、バベルの塔と供に現存していません。
ネブカドネザル2世の名前は、旧約聖書に留められていますが、美しいメディア王女の名前は、現在に伝わっていません。
このお話も一種の、伝説なのです。

◎栄華の跡

 「バベルの塔」も「空中庭園」もその痕跡を現在に留める物では在りませんが、古都バビロンの廃墟は、現在もその面影を残しています。
古都バビロンの発掘は、ドイツの考古学者ロベルト・コルデヴェーの手により、1899年より開始され、20世紀に入ると供に発掘作業は更に、進行したのでした。
メソポタミアで最も著名な都の栄華を極めた時代の宮殿、イシュタール門、城壁等が次々に姿を現したのでした。

 長い時間、人間の世界から全く忘れ去られたバビロンの都は、再び太陽の下に姿を現し、かつての征服者がキャリオットに乗り通った道は、修復され、ライオンを模った色彩タイルは、再びその輝きを取り戻し、イシュタール門も修復され、神殿、宮殿、塔楼の跡も明らかにされました。

 紀元前586年、ナブカドネザル王は、イスラエルの都エルサレムを攻略し、ソロモンの神殿は破壊され、イスラエル人はバビロンに捕囚の身となりました。
その中で、予言者ダニエルは、異邦の神に従わぬ故を持って、ライオンの穴に投げ込まれましたが、神の助けにより何の危害も受けず、無事ライオンの穴から脱出することが出来たと、旧約聖書ダニエル書第六章は伝えています。

 ダニエル書第五章の伝える処によれば、ネブカドネザル王の王子ペルシャザルが、1000人の臣下と大宴席を設け、エルサレムの神殿から略奪した、金杯、銀杯で酒を酌み交わし、偶像を賛美した処、ペルシャザルの前の壁に「メネ、メネ、テケル、ウルバシン」と云う文字が現れ、ダニエルがその言葉の意味を解き明かし、その言葉の通りにペルシャザルは、その夜の内に殺され、バビロニア滅亡の発端と成りました。

 発掘が進み始めた当時、バビロンの廃墟を訪れた旅行者は次の様に述べています。
「かつては、バビロニアの精鋭軍を送り迎え、諸国からの公益で多くの富を積んだ車で賑わったイシュタール門も、今はひっそりとして、薄気味悪い影が漂い、至る処に不気味な静けさが満ち溢れている。
夜更けの冷たい風が、荒廃した城壁の間を吹き抜け、野犬の遠咆が、夜の静寂を破って聞こえて来るばかりである」

続く・・・


2014/02/09

歴史のお話その317:語り継がれる伝説、伝承、物語104

<バビロンの栄華その①>

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ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel de Oude, 1525年-1530年頃生 - 1569年9月9日没)作「バベルの塔」(1563年)

 今を遡る7000年の昔、現在のイラクとイランの南西部にあたる付近には、シュメール人の文化が栄えていました。
この地方には、チグリス河とユーフラテス河が流れ、地味豊かで農耕に適した地方です。
この地方一体はメソポタミアと呼ばれ、ギリシア語で「河と河の間の地」と云う意味なのです。

 シュメール人は、このメソポタミアの地に、最初の都市ウルを建設しました。
メソポタミア地方には、殆ど石が無い為、粘土を固めてレンガを作り、家屋や神殿を建設して行きました。
又、粘土版に楔形の文字を刻み、記録する術を知っており、やがて、メソポタミア地方には数多くの都市国家が生まれ、長期間に渡って異民族の侵入をうける事も無く、独自の文化を営む事が可能でした。

 やがて、セム族のアムル人がメソポタミアに侵入し、バビロンを中心に統一国家バビロニアを建国します。
ハンムラビ法典で知られる、ハンムラビ王(バビロン第一王朝)の時代(紀元前1729年~紀元前1686年)が最大の繁栄期であり、後世からも模範とされた古典時代を現出しました。

 後の時代、北方に勢力を伸ばしたアッシリアが、次第に勢力を拡大し、メソポタミアの地に侵入を繰り返します。
紀元前7世紀に至り、ネブカドネザル2世(在位紀元前605年~紀元前562年)の時代から再び栄光の時代を取り戻し、新バビロニアと成ります。

 新バビロニアが最も繁栄した時代は、先のネブカドネザル2世の時代で、その当時のバビロニアは「全ての国の中で、最も美しい国」称されました。
首都のバビロンは、その面積が現在のロンドンに匹敵する程の広さを誇り、日干し煉瓦で造られた城壁は、総延長64kmに及び、夥しい塔楼と青銅造りに門が存在し、中でも有名な物が現在に残る、イシュタール門なのです。

 城壁は広く、当時戦闘に使用された四頭立てのシャリオットが、自由に走行出来たと云われ、この都を訪れたキャラバンは南の門から入り、北の門に辿り着く為に1日を費やしたと記録が残されています。
強力な軍隊に警護され、難攻不落を誇ったバビロンもやがては、度重なる戦火によって破壊され、廃墟と化しました。
記憶に残るこの華麗なる都は、多くの伝承によって何時しか伝説の都と成り、「バベルの塔」「空中庭園」の話が現在に伝えられているのです。

◎バベルの塔

 バビロンの都の近く、ユーフラテス河から1km程の平原の中に、山の様にそびえる巨大な建造物が存在し、現在の人々は此れを「バベルの塔」と呼んでいます。
バベルの塔は、明らかに神を祭った神殿ですが、なぜこの様な大建造物を建立したのでしょう?
話は、創世記に伝えられるノアの洪水迄、遡ります。
聖書に由れば、この洪水は神の怒りにより、地上の悪を滅ぼす為に起こされたもので、信仰心の厚いノアの家族だけが、箱舟に乗ってこの災いを逃れる事が出来ました。
この箱舟に乗っていた、ノアの三人の息子、ハム、セム、ヤペテがやがてメソポタミア地方を支配する事に成り、ハムは、バビロンの都を築いたと云われ、子孫のニムロデは、バビロンの王に成りバベルの塔を築いたと云われます。

 「さあ、町と塔を建てて、その頂きを天に届かせよう。そして我々の名を上げて、全地の表に散るのを免れ様」(創世記十一章四節)
聖書が塔の建立者の口を借りて、語らせたことばです。
バベルと云うことばは、「神の門」の意味ですが、高い塔を空高く積み上げる事は、取りも直さず、天の神に近づく事であり、人々はこの為に高い塔を建て、天に昇る入口を造ろうとしたのでした。

 伝承に由れば、工事は一日に30cmずつ、レンガを積上げ、塔の頂きは雲に隠れる程であったと云い、その影の長さは、3日も掛かる長さに伸び、頂上に行き着く迄には、半日を要したと云われます。
私達は、現在その偉容に直接接する事は、永久に出来ませんが、バベルの塔が跡形も無く消滅してしまったかについて、聖書は語りません。

 伝説には、ニムロデが巨大な塔を完成させた時、人々は天の神に近づく事が出来ると言って喜び、ニムロデは「今こそ、自分は神に勝る強大な存在であり、天地を支配する権力を握る事が出来た」と豪語したと云います。
神は、人間の傲慢な振る舞いに怒り、そして言いました。
「見よ、彼らは皆同じ言葉を持った一つの民である。そして、その最初の仕事が此の有様だ。今に彼らが行おうとする事は、何事も留められなくなるだろう。彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じない様に仕向けよう」
神は、嵐を巻き起こし、塔の上部を吹き飛ばし、稲妻は激しい炎を放ち、塔を焼き尽くして、地上の人間を散らしてしまったので、彼等は、町を造る事を止めました。
其処でその町の名前は「バベル(混迷)」と呼ばれ、神が全ての土地の言葉を乱し(バーラル)、其処から彼等を全ての土地に散らせたのでした。

 その後、塔はセミラミス女王とネブカドネザル2世の時代に再建され、紀元前460年頃、バビロンを訪れたハリカルナッソスの歴史家ヘロドトスは、再建されたバベルの塔について、次の様に述べています。
「聖域の中に、縦横とも1スタディオン(185m)の堅固な塔が造られ、塔の上に第二の塔が存在し、この様にして8層の塔が積重ねられている。外側は、回転式の一種の休息所が在り、塔を上る者は腰を降ろして休息した。
最上部には、大きな神殿が在るものの神像の類は存在しなかった・・・神は時々神殿に来て、其処で休んだのだろう」

 バベルの塔は、現在その姿を想像する以外に方法は有りませんが、12世紀、ロマネスク時代の鐘楼にその在りし日の姿が描かれた事をはじめ、ヘルツォーク(15世紀)、ブリューゲル(16世紀)、マシュウ・メリアン(17世紀)等の手によって、今日に姿を知らしめています。
尚、メソポタミア地方には、現在でも階層を成したバベルの塔を小さくした粘土の塔が、沢山存在しますが、此れはジグラットと呼ばれ「山の家」の意味なのです。

続く・・・
2014/02/07

歴史のお話その316:語り継がれる伝説、伝承、物語103

<スフィンクス>

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オイディプスとスフィンクス

 何時も大ピラミッドの陰に隠れ、余り話題にされる事が少ないですが、若しエジプト以外の土地に存在したのであれば、現在でも話題に欠く事は無いと思われます。

 スフィンクスは、古代オリエントの神話に登場する、人間の頭とライオンの体を持った半人半獣の怪物で、その起源はエジプトに在り、王者の権力の象徴した姿を現しているとされました。

 ギゼーの大ピラミッドの傍に存在するスフィンクスは、大ピラミッドとほぼ同時代に創建された物と推定され、世界最古の像の一つと云われています。
岩山を利用して、造営された物で、前足から尾の先までの長さは、73.5m、高さ21m、顔幅は4mに達します。
頭部には、王権の象徴である頭飾りを付け、前額には王者のシンボルであるコブラを付け、現在は失われてしまいましたが、立派な顎鬚も付けていました。
表面は漆喰と彩色仕上げが、成されていたと推定され、スフィンクスの顔は、第四王朝ケフレン王(カフラー王)のものと云われています。

 このスフィンクスは、18世紀乃至20世紀迄の間、頭部だけを地表に出し、体の部分は砂の中に埋まった状態でしたが、之はむしろ幸運であったと言わざるを得ません。
永年の砂嵐や異民族の侵入による、破壊、略奪から、守られたと思われるからです。

 スフィンクスの頭部は、長い年月風雨に曝され、自然に侵食された他、一時エジプトがイスラム勢力に飲み込まれた頃、之を異教の神像と見なした彼等は、無残にもその頭部を破壊し、更に近代では、大砲等の標的となり損壊が進みました。

 20世紀に成り、古代エジプトに関する研究が進むと、スフィンクスも砂に覆われた部分が発掘され、その姿を太陽の下に見せたのでした。
この発掘作業で、両前足の間に碑文が存在する事が確認され、第18王朝のトトメス4世(在位紀元前1422年~紀元前1413年)が記したものでその内容は、「王が即位する以前、狩の途中現在のスフィンクスの傍で休息をしている時、日の神ハルマチスの化身と考えられるスフィンクスが、夢に現れて、もし王子がこの砂に埋もれた体を清掃してくれたならば、2国の王にする事を約束した」事が記されています。

 カルナック神殿の参道の両側には、第19王朝ラムセス2世(在位紀元前1301年~紀元前1234年)が建立したと伝えられる、多数のスフィンクスが並んでいます。

 処で、このスフィンクスは、何のために造られたのでしょう?
顔はファラオ、体は百獣の王ライオンを模しているのですから、国王の権威を広く世に広めようとしたのだと、考えられています。

 スフィンクスは、エジプト以外の土地でも広く知られており、特にギリシアでは、幼児をさらう怪物として知られ、ギリシア神話に登場する女神ヘラが、テーベに送り込んだスフィンクスは、人々に謎をかけ(朝は4つ足、昼は2本足、夜は3本足で歩く動物は何か)、解けない者をさらい食ったと云います。
やがて、オイディプスが「其れは人間」と答え、謎を解かれた、スフィンクスは死んだと云います。

続く・・・
2014/02/05

歴史のお話その315:語り継がれる伝説、伝承、物語102

<ピラミッドのお話>

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 エル・ギザ(ギゼー)のピラミッドは、何れも第四王朝(紀元前2600年~紀元前2480年)に造営されたもので、最大のピラミッドは、ケオプス(クフ)王のものと云われています。
次位がカフラ(ケフレン)王、三位に位置するものがメンカウレ(ミュケリノス)王のものと云われています。


 ケオプス王のピラミッドはその底辺の長さ233m、夫々の面が東西南北に面し、その誤差は最大1度につき12分の1の過ぎず、四つの角は、ほとんど完全な直角をなしています。
入口の通路と小さな内室を除けば、総ては石灰岩で形作られています。
このピラミッドを構成する、石灰石のブロックの総数は、230万個とも250万個とも推定され、その総重量は684,万8千tに達すると計算されています。

 これ等の石灰石は、ナイル河の東岸、カイロ近郊のモッカタム丘陵の採石場から、切り出されました。
モッカタム丘陵には、洞窟の様な砕石場所の跡が、現在でも存在しています。
後世のアラブの人々は、大変迷信深かったので、この場所に足を踏み入れる事は、殆ど無かったと伝えられています。
この洞窟の奥で、葦を用いて作られた長い網が発見され、当時のエジプト人作業員の残した遺物として、貴重な遺産と成りました。

 「歴史の父」と呼ばれるギリシアの歴史家ヘロドトス(紀元前484年~紀元前425年)は、このケオプス王のピラミッド造営について次の様に、推測しています。
「石を切り出し、筏で運び、工事用の道路を作り、ピラミッドの基礎工事を行うだけでも、少なくとも10万人の奴隷が10年を費やし、更にその形に組み上げる迄に20年以上の歳月を経たであろう」と。

 ピラミッド造営の頃、エジプトには車輪、動物を動力にすると云った運搬方法は皆無で、梃子とコロ以外は人力に頼らざるを得ませんでした。
何百人もの人力によって、採石場から運ばれた、巨大な石材は、筏に乗せられて河を渡り、対岸に到着すると再び人力によって、造営地点に運ばれました。
陸上では、丸太を利用したコロを使用し、石材の重量でコロが沈み込まない様、その道路は石畳によって、一種の舗装道路とされました。

 石材を階段状に積み上げる作業は、傾斜路と滑車を用いて、ロープの力で引き上げて行きましたが、階を重ねるに従い、傾斜路をより遠方から整備したと云います。
この作業だけで10年以上、いったい犠牲者の数はどれ程に成るのでしょうか?
唯、ピラミッドの様な巨大建造物が、紀元前のこの時代に造営された事は、驚異であり21世紀現在の土木、建築技術を駆使しても同規模のものを造営する事に、どれ程の時間が掛かるのでしょう?

 230万個とも250万個とも推定された石の1個当たりの重量は、平均2500kg。
総重量は684,万8千tに達すると計算される建造物ならば、長い年月の間に基礎が沈下し、崩壊や歪が発生するのでしょうが、エジプトのそれは、何の狂いも無く聳え立っているのです。

 では、何の為に、ピラミッドは造営されたのでしょう?
一人の権力者の墓所、そして現在エジプトに残る70基余りのピラミッドも其れであると云います。
唯、権力者の遺骸を収容する為に、膨大な物的人的資源を利用し、極めて長期間に渡って働いた事実も現在では、奇跡に近いお話なのです。
只、一つの遺体を保護する事意外、特別な目的を持たず、膨大な資材と10万人とも云われる労働者を動員し、しかも20年間も働かせ続ける事は、現在の私達から考えても奇跡に近いと思われます。

 当時のエジプトで広く信じられていた宗教では、人間の霊魂は一度死ぬとその肉体を離れるものの、後に再び元の体に返って生き返ると考えられていました。
当然、エジプト人は、遺体をミイラにして大切に保管しました。
ミイラの製造方法には、庶民の行い方から、貴族、聖職者、ファラオと夫々に違った工程が存在し、特にファラオは、崇拝されていたので、最高の方法でミイラにされ、ピラミッドに収められたと考えられています。
ファラオが崩御した後、黄泉の国での生活に困る事が無い様、身の回りの考えられる全ての物や、黄金、宝石が収められたのでした。

◎墓泥棒

 ピラミッドの玄室は、入口を厳重に塞ぎ、その入口自体も更に厳重に偽装されましたが、盗掘の被害を免れる事は、殆ど不可能でした。
西暦818年、イスラムの支配者 ハルン・アル・ラシッドの息子、アル・マモウムがエジプトのカリフに成った時、彼はピラミッドの中には、膨大な金銀宝石がケオプス王のミイラと供に、眠っていると聞き、その古えからの伝承を信じて、発掘作業を実行しました。

 ピラミッドは、厳重に封印されている様子で、本来の入口は発見出来ませんでしたが、彼は多くの労働者を動員して、石のブロックに横穴を穿ちながら、前進して行きました。
石の硬さと道具の貧弱さから、何度も諦め掛けた時、偶然の一撃が本来の回廊の壁を打ち抜いていたのでした。
結果は、残念ながら金銀宝石も巨大な墳墓の主の遺骸も既に遥かな昔、略奪されていたのですが、アル・マモウムの努力は、現在の私たちに取って、全くの無駄ではなく、彼の穿った通路のお陰でピラミッドに内部に入る事が出来るのです。

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今日はジロくん、8歳の誕生日です。

続く・・・





2014/02/03

歴史のお話その314:語り継がれる伝説、伝承、物語101

<戦艦ヴァーサ号>

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 スウェーデン王家の名前をとった、巨大な戦艦ヴァーサ号が、愈々出港するという知らせが広まり、1628年8月10日、ストックホルムの町は興奮した群集で、あふれていました。

 国王グスタフ・アドルフ2世は自ら、この船の建造を命じ、133人の乗組員と300人の戦闘員を乗せるこの戦艦は、全長55m、排水量14,000tに達するもので、3層の甲板には64門の青銅製大砲が設置された強力な戦闘艦でした。

 時刻は午後4時、既に巨大な戦艦の出港準備は完了し、岩壁に詰め掛けた群衆の歓声と、艦隊の礼砲の轟く中、ヴァーサ号は錨を上げ、優雅に岸を離れたのでした。

 その時突然、湾内を突風が吹き抜け、思いがけない悲劇が発生したのです。
その風に、左舷が大きく傾き、乗組員のバランス補正も間に合わず、最下層甲板の開かれた四角い砲門から、大量の海水が一斉に流れ込み、数分の内に海はヴァーサ号を飲み込み、生存者は僅かな人数だけでした。

 さて、ヴァーサ号の悲劇から300年程が過ぎた頃、1人の青年が、二つの手掛かりに導かれて、水中探検史上、最も目覚ましい成果を上げる事になるのです。
第一の手掛かりは、フナクイムシでした。
1930年代も終わりに近い頃、20歳に成ったばかりのアンデルス・フランセンは、スウェーデンの西海岸沖を帆走している時、フナクイムシが穴だらけにした流木を見つけました。
バルト海の帆走に長けていた彼は、是ほどまでに食い荒らされた流木を、其れまで見た事が無かったので、大変不思議に思い、調べてみると、バルト海は塩分が少ない為、ムナクイムシが、其れほど盛んに繁殖しない事が分りました。
彼は、戦艦ヴァーサ号が、現在もバルト海の海底に存在していると推定したのでした。

 古い沈没船を調査する事を夢見ていたフランセンは、第二次世界大戦後、バサ号とその沈没場所について、出来得る限りの情報を収集し、4本爪の錨と牽引ワイヤーで港の底を浚いましたが、4年間全く手掛かりになる様な物品は発見できませんでした。

1956年、終に第二の手掛かりとなる、古い黒く変色した樫材の破片を引き上げ、フランセンは水中で、樫材がこの様に変色するには、100年以上の歳月がかかる事を知っており、古い沈没船に遭遇した事は、間違い有りませんでした。

 彼の推察は的中し、ヴァーサ号は水深35mの海底で、喫水線迄厚さ5mの泥の中に埋まっていたのです。
引き上げの第一段階では、泥の中にトンネルを堀り、船体の下に鉄製ケーブルを潜らせ、沈没船を浮きドックから吊り下げ、浮きドックを上下させる事によって、船を泥から引き出し、浅瀬迄移動させる事に2年の時間を費やしました。

 第二段階では、ダイバーが砲門並びに開口部を全て遮蔽し、ケーブルと浮きドック、水圧ジャッキの力を借りて、1961年4月24日、終にヴァーサ号を水面に引き上げたのでした。

 現在、戦艦ヴァーサ号は、ストックホルムに特別に建設された、博物館に納められており、木材が歪まない様に、絶えず蒸気と薬品が吹き付けられており、博物館には、乗組員の所持品も納められ、衣装箱、武具、道具類、貨幣等が、17世紀の海員生活の素晴らしい縮図を示しています。

続く・・・


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