<コロセウムとセントピエトロ寺院>
ポーランドの作家ヘンリク・シャンキェビッチの「クォ・ヴァディス(何処へ行く)」は、「ネロの時代の物語」と副題が付きますが、この作品は初代教会時代(使徒時代)のクリスチャンの殉教を描いたもので、皇帝ネロによって、多くのクリスチャンが猛獣の荒れ狂うコロセウムの中で、衆人環視のもと猛獣の餌食と成り、又敬虔な彼等がネロの迫害を逃れ、アッピア街道沿いに在るカタコンベ(地下墓所)で、密かに神を拝し、祈り、神の道を伝えた事が記されています。
ローマのコロセウムは紀元1世紀の初期に建設され、およそ5万人の観客を収容出来ました。
此処では、ライオンやトラの戦い、グラディアトル(剣奴)と猛獣、そしてグラディアトル同士の決闘を見せる等の催しをしていました。
皇帝ネロの時代、多くのキリスト教徒がこの場所で、猛獣の餌食に成ったと云われていますが、是は後世の作り話で、真実では在りません。
聖書に書かれていない、キリストにまつわる伝説によれば、紀元67年の或る日、青年時代、ガリラヤ湖の畔で漁師をしていた老人が、永遠の都ローマに於いて、余にも熱心にキリスト教の伝道を行った故を持って、その師と同じく十字架による磔刑を宣告されました。
100歳の高齢に達していた彼は、まず法律の定めに従い体罰を受け、次の日城外のヴァティカヌスの丘に引き出され、十字架の刑を受ける事に成りましたが、自分は師たる、イエス・キリストと同じ方法で死ぬだけの資格は無いので、逆さ磔にしてくれる様頼み、その願いが聞き入れられたと伝えられています。
この高齢の殉教者は、キリストの12使徒の一人、シモン・ペテロで、彼は聖パウロと共にローマで伝道し、神の教えを広めました。
処で使徒ペテロは、一度迫害の激しいローマを見捨てて逃げ去ろうとします。
「クォ・ヴァディス」は次の様に記述されています。
「次の明け方、二つの黒い影がアッピア街道をカンパニアの平原を目指していた。
一つは少年ナザリウス、一つは使徒ペテロ、ローマと其処で苦しみを受けている信者達を後にして行くのだ。・・・・
やがて太陽は山の狭間から登ったが、たちまち不思議な光景が使徒の眼を捕らえた。
金色の珠が空を上へ上へと登らず、かえって高みから降りて来て道の上に転がった。
ペテロは立ち止まっていた。
“此方に向かって近づいて来る明るいものが見えるか?・・・・”
“いいえ、何も見えません”ナザリウスは答えた。
暫くして使徒は、手のひらで目を覆い、叫んだ。
“誰か人の姿が日光の中を此方に歩いて来る!”しかし、二人の耳には微かな足音さえ聞こえ無かった。
周囲は静寂そのもので、ナザリウスの目に映ったのは、唯、木々が遠くで誰かに揺すられている様に震えているだけで、光は次第に広く平原に注いでいた。
ナザリウスは使徒を見ておどろいた。
“ラビ(師)、どうかなさいましたか?”
彼は不安そうに尋ねた。
ペテロの手から杖が離れて地面に落ち、眼はじっと前方を眺め、口は開いたまま驚きと歓喜と恍惚とが、ありありと見えた。
突然、跪いて前方に手を伸ばし、大声で叫んだ。
“おお、キリスト・・・・キリスト!”
それから頭を地面につけ、誰かの足にキスをしている様子だった。
長い間、沈黙が続いた。
やがて、静けさの中に咽び泣く老人のとぎれがちな言葉が響いた。
“クォ・ヴァディス・ドミネ・・・・”(主よ何処へ行き給うか)
ナザリウスには、其れに対する答えは聞こえなかったが、ペテロの耳には悲しい甘い声でこう聞こえた。
“汝、我が民をすつるとき、我ローマに往きたふたたび十字架に架けられん”
使徒は顔を埃にうずめ、身動きも言葉もなく、地面に身を伏せていた。
ナザリウスには使徒が、気絶したか、死んだかと思った。
だが、やがて使徒は立ち上がり、震える手で巡礼の杖を上げ、無言のまま七つの丘の街(ローマ)の方に向いた。
少年はそれを見ると、こだまの様に繰り返した。
“クォ・ヴァディス・ドミネ・・・・”
“ローマへ!”
使徒は低く答え、そして戻って往った」(河野与一訳より)
◎殉教と復活 コロセウムの外側には、火刑に処せられ、虐殺されたクリスチャンの遺体を葬った墓所が在り、ペテロの遺体も其処に投げ込まれ、使徒パウロも同じ運命を辿ります。
しかし、彼等の殉教は、結果勝利に繋がり、パウロは自らこの様に述べています。
「我、良き戦いを戦い、走るべき道のりを果たし、信仰を守れり。
今より後の義の冠、我為に備われり」(テモテ後書4の7より8)
ペテロやパウロの殉教は、決して無駄では有りませんでした。
彼等の殉教によって、多くのキリスト教徒が生まれ、250年後にはローマ皇帝コンスタンティヌス自身の改宗により、キリスト教は、ローマ帝国の国教と也、ペテロの墓の上に教会堂を建立しました。
聖ピエトロ寺院と呼ばれるこの寺院は、歴代教皇の菩提寺院と也、全ヨーロッパの元首が使徒ペテロの墓所の前で載冠式を行いました。
1450年頃からこの歴史的建築物も崩壊の兆しを見せ始め、1506年その全てを取り壊し、時の教皇ユリウス2世が、建築家ブラマンテ(1444年~1514年)の進言を入れ、同じ場所に新しい聖堂を建立しました。
この聖堂は、最初の聖堂に比べて倍近い大きさと荘厳さを兼ね備え、完成の暁にはローマ市の全人口(当時8万人)を収容する事が出来る程でした。
新聖堂は、幅135m、全長210m有り、フランス・ランスの大伽藍は地上37.5mですが、聖ピエトロ寺院の伽藍は7.5mも高いものでした。
聖堂はに、44の祭壇が在り、ドームを支える窓間は18m、屋根を支える柱は750本を必要とし聖像の数390体、中には210cmに達する像も多々存在します。
尤も聖ピエトロ寺院も、最初から此れほど巨大な建物であった訳ではなく、次々と拡大されていった結果が現在の姿なのです。
この大寺院が完成するまでに教皇も代を重ね、ブラマンテを始め、12人の建築家が次々と、この大寺院を完成させる為、その生涯の大半を費やしました。
ラファエロ、サンガルノ、ジョコンド、ミケランジェロ等の巨匠と呼ばれる人々も関係し、聖堂の中心になる、直径41mの中央ドームは、ミケランジェロの設計に成り、齢70歳を超えてからの仕事で、彼は完成を観る事無く他界します。
ミケランジェロの描いた、システィナ礼拝堂の壁画には、以下の様なエピソードが伝わっています。
建築家のブラマンテは、ミケランジェロの名声を嫉み、教皇ユリウス2世を唆して、壁画の経験の無いミケランジェロに、システィナ礼拝堂の壁画を描かせて失脚を企てました。
ミケランジェロは「自分は彫刻家であって、画家では無い」と頑強に拒みましたが、この事態をどうしても避けられないと悟ると、彼はヴァチカン宮殿の裏に在る教皇の庭園に行き、ショベルで赤土と黄土を掘り起こし、水と油脂で混ぜ合わせ、何度も試した結果、満足のいくものが出来ると、猛然と製作に取り掛かり、長さ40m、幅13mの円弧状の天井に、高さ20mの足場を組み、その上で仰向けになり作画を始め、4年間の歳月で「天地創造」から「ノアの洪水」迄、旧約聖書に登場する物語を描きだしました。
何れの作品も迫力に満ちた画風で、今日でも観る者の心を捉えて放しません。
聖ピエトロ寺院は、基礎の石が置かれてから、120年目の1626年に一応の完成を見ます。
更に噴水や環状に立ち並ぶ、円柱で囲まれた大広場が完成するまでに、40年の歳月が過ぎ去りました。
広場の中央に高さ36mのオベリスクが有り、遥かな昔、エジプト女王クレオパトラが、ユリウス・カエサルに送る為、エジプトから運ばれ、最初コロセウムの中に在った物を大聖堂が完成した時に現在の場所に移設し、頂上に金色の十字架を新たに付け加えました。
完成した聖ピエトロ寺院は、ルネサンスの代表建築の一つに数えられます。
続く・・・