歴史を歩く2
<古代オリエントその②>

(2)エジプトの統一国家
「エジプトはナイルの賜物」、と良く語られますが、この有名な言葉はギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉です。
ナイル川の上流は、サバンナ気候の為、雨季に降った雨により毎年7月~10月に増水し氾濫をおこすのですが、この洪水によって上流から肥えた土が運ばれ、下流では肥料等を与えなくとも1年に2回~3回の収穫が可能と云われています。
この洪水にそなえる治水事業、ナイルの洪水との攻防がエジプト史を形勢したと言えると思います。
しかし、この治水事業と灌漑事業には、巨大な労働力と大規模な共同作業を必要とし、彼らを統率する強い指導者のもとで、紀元前4000年頃までには上エジプトに22、下エジプトに20のノモス(小部族国家、 都市国家)が成立し、やがて上流の上エジプトと下流の下エジプトの二つに統合されました。
紀元前3000年頃、メネス王(ナルメル、エジプトの伝説的初代ファラオ) によって統一が果たされ、ここに第1王朝が開闢します。
後にペルシアに滅ぼされる迄の約2500年間を大分類で、3つの時期(詳細的には7時期)に分けることが可能です。
この間に約30の王朝が交替を繰り返しました。
1、古王国時代、紀元前3000年頃から紀元前2135年頃、第1王朝から第10王朝。
2、中王国時代、紀元前2135年頃から紀元前1570年頃、第11王朝から第17王朝。
3、新王国時代、紀元前1570年頃から紀元前525年迄、第18王朝から第26王朝迄。

古王国時代は第3王朝から第4王朝の時代に最盛期を迎えますが、第3王朝から第6王朝の時代に有名なピラミッドが建設され、カイロ郊外の第4王朝、クフ王のピラミッド (最大のピラミッド)、カフラー、メンカウラーの三大ピラミッドとスフィンクスは特に有名です。
ピラミッドはファラオ(「大きな家」を意味しエジプトの神権的専制君主の称号)の遺体(ミイラ)を保存する為の巨大な墳墓です。
最大のピラミッドであるクフ王のそれは、底辺の一辺約230m、高さ約137m、平均2.5tの石を230万個を積み上げ、10万人の労働者を用い20年の歳月を要したと云われています。
ファラオの絶大な権力を推察出来ますが、建設当時は莫大な金銀財宝がファラオの遺体と共に副葬されていたと思われるのですが、大部分の王墓は、時には埋葬直後、時には数世紀後に盗賊等よって盗掘されていきました。

こうしたなかで世界を驚嘆させた発見が、1922年に発掘されたツタンカーメン王墓の発見なのです。
ナイルの中流域に位置するテーベの「王家の谷」と呼ばれる王墓の集中した谷間から、奇跡的に盗掘されてないツタンカーメンの墳墓が発見され、墳墓からは有名な「黄金のマスク」他の膨大な財宝が発見されたのです。
ここでツタンカーメンの墳墓は歴代ファラオの中でも小規模であることから、当然ながら大ピラミッドに納められた財宝の数は想像を絶するものと思われます。
尚ツタンカーメン墳墓発掘に従事した多くの関係者が次々に死亡し、「ファラオの呪い」が有名になりましたが、此れは都市伝説の一つで在り、発掘の中心人物であるカーターは発掘後も16年間生きていました。
エジプト人は霊魂不滅・再生の信仰を持ち、王墓に副葬されたパピルスに書かれた「死者の書」にはエジプト人の宗教観、来世観が強く現れています。
その為、死体を可能な限り生前そのままに残したいと熱望し、ミイラを作ったのですが、その技術は驚愕に値します。
ヘロドトスの伝える最上級のミイラの製法は次の通りです。
「ミイラ師はまず、鉄の鈎で鼻穴を通じて脳を摘出する。・・・それから、鋭いエチオピア石をもってわき腹に沿って切開し腹部を完全に取り出し、・・・その後、腹中につき砕かれた純粋な没薬や桂皮やその他乳香以外の香料を詰め、元通りに縫い合わす。 ・・・それを終えると、70日間ソーダの中に置いてミイラにする。・・・ミイラ師は遺体を洗い、その全身を上製亜麻布を裂いて作った包帯で巻き包み、その上にエジプト人が普通、膠の代わりに用いるゴムを塗りつける。」
古王国第7王朝の頃から国内は混乱・分裂の時代に成って行きました。
この様な状況の中からナイル川中流域、テーベ付近の豪族が勢力を伸ばし、再び全エジプトを統一、テーベを都として第11王朝を建て、中王国時代が始まります。
しかし、13王朝の頃から再び分裂・混乱状態に陥り、紀元前1674年頃セム系遊牧民を中心とするヒクソスがシリア方面から侵入、馬と戦車でエジプトを圧倒し中王国を征服、以後約100年間にわたりエジプトは、初めて異国人の支配下におかれることと成りました。
ヒクソス支配に対抗を示すエジプトは、テーベを中心とする上エジプトが其の根拠と成り、やがてテーベから興ったアーメス1世は、ナイルを下りヒクソスをエジプトから撃退、国内統一を果たして第18王朝を打ち立てました。
この第18王朝3代目の王、トトメス3世(在位紀元前1504年~在位紀元前1436年)は20年間に17回の遠征を行い、エジプトとして初めて西アジアに進出、シリアからユーフラテス川の上流域まで領土を拡大、エジプト世界帝国を建設したのです。
第18王朝に始まる新王国の時代は「帝国時代」とも呼ばれ、 アメンホテプ3世の後継者、子のアメンホテプ4世(在位紀元前1380年頃~在位紀元前1360年頃)は10代で王位に就き、首都テーベの守護神アモンの神官勢力が強く、王権を凌ぐ権力を有していた為、在位6年で テル・エル・アマルナに遷都し、自らイクナートン(アトンに愛されるものの意味)と称し、アモンに変わる太陽神で唯一神であるアトンを創造して宗教改革を目指します。
しかし古来より多神教であるエジプト人に一神教は違和感が多く、王の死とともに新宗教は終わりをつげ、再びアモン信仰が復活、更には国内紛争が激化し、再びヒッタイト勢力が南下、エジプト勢力はアジアから後退を重ねることに成ります。
但し、アメンホテプ4世の治世には、自由、写実的な芸術が開花して「アマルナ芸術」と後に呼ばれます。
アメンホテプ4世の後ファラオの位に就いた人物が、「黄金のマスク」で有名なツタンカーメン (在位紀元前1358年頃~1349年頃 )で、彼はアメンホテプ4世の甥でかつ娘婿でした。
しかし、 病弱な年少のファラオで在ったため、テーベのアモン神官の勢力が復活し、王の権威は衰えて行ったのです。
第19王朝ラムセス2世(在位紀元前1290年頃~1224年頃 )は、父王の政策を引き継ぎヒッタイト殲滅の為パレスティナに進出したものの、カデッシュの戦い(紀元前1286年)で敗北を喫し、講和条約を結び、エジプトはアジア圏から撤退することになります。
第20王朝ラムセス3世の活躍を最後に帝国は急速に衰退、その後紀元前12世紀以後「海の民」の侵入に常に脅かされ、更には公然と侵入を繰り返すエチオピアやリビア人に政権を簒奪され、ついには紀元前671年にアッシリアに下ることと成りました。
間もなく独立を回復したのも束の間、紀元前525年にはアケメネス朝ペルシアに征服され、以後長期間にわたって外国の支配下におかれることに成ります。

エジプト人は、ナイル川の洪水との攻防から、極めて実用的な文化を生み出しました。
そのなかには、現在の私達が恩恵を受けているものも多数存在します。
太陽暦もナイルの氾濫と恒星の運行の定期性から発見され、ユリウス暦を経て現在のグレゴリウス暦へと連綿と繋がっています。
十進法は現在も使われていますが、メソポタミアの六十進法は難解ですが、十進法は人間の指が10本であることから生じたことは容易に想像できます。
その他、測地術、天文学が発達しました。
エジプト人の宗教も多神教で在り、主神は太陽神ラー、後にアモン神と結合してアモン・ラーとなり広く普及しました。
エジプト人は霊魂不滅とオシリス神が支配する死後の世界を信じてミイラをつくり、「死者の書」を 残したことは前に解説した通りです。
エジプト人が使用した文字には主として神殿や墓に使われた神聖文字(ヒエログリフ)と最も簡略化された民衆文字(デモティック)が知られており、墓所の壁面等に刻まれ、装飾と考えられていたヒエログリフが文字であることが解明されるきっかけを作ったものが有名な 「ロゼッタ石」です。
1798年、ナポレオンのエジプト遠征の際、ナイルのロゼッタ河口で要塞の修復中に偶然、黒い石碑が掘り出されました。
ロゼッタ石は、後にイギリス軍がフランス軍から接収し、現在は大英博物館に展示されていますが、上段にヒエログリフ、中段にデモティック、下段にギリシア語で同一の内容が書かれており、これをもとにフランス人のシャンポリオン(1790年~1832年)が1822年に解読に成功したのでした。
◎シャンポリオン
フランス人シャンポリオンは、ヒエログリフの最初の解読者としてあまりに有名です。
一般的には、彼の少年時代、ナポレオンがエジプト遠征から持ち帰ったロゼッタストーンのニュースを聞いて解読の決意をし、それから数カ国語を学び、大変な努力の末30歳頃についに解読に成功した教えられています。
裏話として、ナポレオン失脚後、その影響で彼まで職を失っていたとは知りませんでした。
激しい解読競争の中で、彼が最後の手がかりにしたのがコプト語との音韻比較で、そのなかでついにヒエログリフの文字の一つ一つが、表意文字のように見えて、実は表音文字であることが解明されていきました。
ジョークは如何?
肉屋の行列に朝から並んでいたイワノフ。夕方になってもまだ肉は買えない。
あまりに腹が立ち、
「くそ~、こんな目にあうのもクレムリンのお偉い阿呆のせいだ!殺してやる!」
と、いきり立ちながら列を離れて走っていった。
ずいぶんたって、肩を落としたイワノフがとぼとぼ戻ってきた。
肉屋の主人が、
「どうしたい、イワノフ。クレムリンに行ったんじゃないのか?」
と声をかけると、イワノフ、
「だめだあ、あっちも行列だあ」
続く・・・

(2)エジプトの統一国家
「エジプトはナイルの賜物」、と良く語られますが、この有名な言葉はギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉です。
ナイル川の上流は、サバンナ気候の為、雨季に降った雨により毎年7月~10月に増水し氾濫をおこすのですが、この洪水によって上流から肥えた土が運ばれ、下流では肥料等を与えなくとも1年に2回~3回の収穫が可能と云われています。
この洪水にそなえる治水事業、ナイルの洪水との攻防がエジプト史を形勢したと言えると思います。
しかし、この治水事業と灌漑事業には、巨大な労働力と大規模な共同作業を必要とし、彼らを統率する強い指導者のもとで、紀元前4000年頃までには上エジプトに22、下エジプトに20のノモス(小部族国家、 都市国家)が成立し、やがて上流の上エジプトと下流の下エジプトの二つに統合されました。
紀元前3000年頃、メネス王(ナルメル、エジプトの伝説的初代ファラオ) によって統一が果たされ、ここに第1王朝が開闢します。
後にペルシアに滅ぼされる迄の約2500年間を大分類で、3つの時期(詳細的には7時期)に分けることが可能です。
この間に約30の王朝が交替を繰り返しました。
1、古王国時代、紀元前3000年頃から紀元前2135年頃、第1王朝から第10王朝。
2、中王国時代、紀元前2135年頃から紀元前1570年頃、第11王朝から第17王朝。
3、新王国時代、紀元前1570年頃から紀元前525年迄、第18王朝から第26王朝迄。

古王国時代は第3王朝から第4王朝の時代に最盛期を迎えますが、第3王朝から第6王朝の時代に有名なピラミッドが建設され、カイロ郊外の第4王朝、クフ王のピラミッド (最大のピラミッド)、カフラー、メンカウラーの三大ピラミッドとスフィンクスは特に有名です。
ピラミッドはファラオ(「大きな家」を意味しエジプトの神権的専制君主の称号)の遺体(ミイラ)を保存する為の巨大な墳墓です。
最大のピラミッドであるクフ王のそれは、底辺の一辺約230m、高さ約137m、平均2.5tの石を230万個を積み上げ、10万人の労働者を用い20年の歳月を要したと云われています。
ファラオの絶大な権力を推察出来ますが、建設当時は莫大な金銀財宝がファラオの遺体と共に副葬されていたと思われるのですが、大部分の王墓は、時には埋葬直後、時には数世紀後に盗賊等よって盗掘されていきました。

こうしたなかで世界を驚嘆させた発見が、1922年に発掘されたツタンカーメン王墓の発見なのです。
ナイルの中流域に位置するテーベの「王家の谷」と呼ばれる王墓の集中した谷間から、奇跡的に盗掘されてないツタンカーメンの墳墓が発見され、墳墓からは有名な「黄金のマスク」他の膨大な財宝が発見されたのです。
ここでツタンカーメンの墳墓は歴代ファラオの中でも小規模であることから、当然ながら大ピラミッドに納められた財宝の数は想像を絶するものと思われます。
尚ツタンカーメン墳墓発掘に従事した多くの関係者が次々に死亡し、「ファラオの呪い」が有名になりましたが、此れは都市伝説の一つで在り、発掘の中心人物であるカーターは発掘後も16年間生きていました。
エジプト人は霊魂不滅・再生の信仰を持ち、王墓に副葬されたパピルスに書かれた「死者の書」にはエジプト人の宗教観、来世観が強く現れています。
その為、死体を可能な限り生前そのままに残したいと熱望し、ミイラを作ったのですが、その技術は驚愕に値します。
ヘロドトスの伝える最上級のミイラの製法は次の通りです。
「ミイラ師はまず、鉄の鈎で鼻穴を通じて脳を摘出する。・・・それから、鋭いエチオピア石をもってわき腹に沿って切開し腹部を完全に取り出し、・・・その後、腹中につき砕かれた純粋な没薬や桂皮やその他乳香以外の香料を詰め、元通りに縫い合わす。 ・・・それを終えると、70日間ソーダの中に置いてミイラにする。・・・ミイラ師は遺体を洗い、その全身を上製亜麻布を裂いて作った包帯で巻き包み、その上にエジプト人が普通、膠の代わりに用いるゴムを塗りつける。」
古王国第7王朝の頃から国内は混乱・分裂の時代に成って行きました。
この様な状況の中からナイル川中流域、テーベ付近の豪族が勢力を伸ばし、再び全エジプトを統一、テーベを都として第11王朝を建て、中王国時代が始まります。
しかし、13王朝の頃から再び分裂・混乱状態に陥り、紀元前1674年頃セム系遊牧民を中心とするヒクソスがシリア方面から侵入、馬と戦車でエジプトを圧倒し中王国を征服、以後約100年間にわたりエジプトは、初めて異国人の支配下におかれることと成りました。
ヒクソス支配に対抗を示すエジプトは、テーベを中心とする上エジプトが其の根拠と成り、やがてテーベから興ったアーメス1世は、ナイルを下りヒクソスをエジプトから撃退、国内統一を果たして第18王朝を打ち立てました。
この第18王朝3代目の王、トトメス3世(在位紀元前1504年~在位紀元前1436年)は20年間に17回の遠征を行い、エジプトとして初めて西アジアに進出、シリアからユーフラテス川の上流域まで領土を拡大、エジプト世界帝国を建設したのです。
第18王朝に始まる新王国の時代は「帝国時代」とも呼ばれ、 アメンホテプ3世の後継者、子のアメンホテプ4世(在位紀元前1380年頃~在位紀元前1360年頃)は10代で王位に就き、首都テーベの守護神アモンの神官勢力が強く、王権を凌ぐ権力を有していた為、在位6年で テル・エル・アマルナに遷都し、自らイクナートン(アトンに愛されるものの意味)と称し、アモンに変わる太陽神で唯一神であるアトンを創造して宗教改革を目指します。
しかし古来より多神教であるエジプト人に一神教は違和感が多く、王の死とともに新宗教は終わりをつげ、再びアモン信仰が復活、更には国内紛争が激化し、再びヒッタイト勢力が南下、エジプト勢力はアジアから後退を重ねることに成ります。
但し、アメンホテプ4世の治世には、自由、写実的な芸術が開花して「アマルナ芸術」と後に呼ばれます。
アメンホテプ4世の後ファラオの位に就いた人物が、「黄金のマスク」で有名なツタンカーメン (在位紀元前1358年頃~1349年頃 )で、彼はアメンホテプ4世の甥でかつ娘婿でした。
しかし、 病弱な年少のファラオで在ったため、テーベのアモン神官の勢力が復活し、王の権威は衰えて行ったのです。
第19王朝ラムセス2世(在位紀元前1290年頃~1224年頃 )は、父王の政策を引き継ぎヒッタイト殲滅の為パレスティナに進出したものの、カデッシュの戦い(紀元前1286年)で敗北を喫し、講和条約を結び、エジプトはアジア圏から撤退することになります。
第20王朝ラムセス3世の活躍を最後に帝国は急速に衰退、その後紀元前12世紀以後「海の民」の侵入に常に脅かされ、更には公然と侵入を繰り返すエチオピアやリビア人に政権を簒奪され、ついには紀元前671年にアッシリアに下ることと成りました。
間もなく独立を回復したのも束の間、紀元前525年にはアケメネス朝ペルシアに征服され、以後長期間にわたって外国の支配下におかれることに成ります。

エジプト人は、ナイル川の洪水との攻防から、極めて実用的な文化を生み出しました。
そのなかには、現在の私達が恩恵を受けているものも多数存在します。
太陽暦もナイルの氾濫と恒星の運行の定期性から発見され、ユリウス暦を経て現在のグレゴリウス暦へと連綿と繋がっています。
十進法は現在も使われていますが、メソポタミアの六十進法は難解ですが、十進法は人間の指が10本であることから生じたことは容易に想像できます。
その他、測地術、天文学が発達しました。
エジプト人の宗教も多神教で在り、主神は太陽神ラー、後にアモン神と結合してアモン・ラーとなり広く普及しました。
エジプト人は霊魂不滅とオシリス神が支配する死後の世界を信じてミイラをつくり、「死者の書」を 残したことは前に解説した通りです。
エジプト人が使用した文字には主として神殿や墓に使われた神聖文字(ヒエログリフ)と最も簡略化された民衆文字(デモティック)が知られており、墓所の壁面等に刻まれ、装飾と考えられていたヒエログリフが文字であることが解明されるきっかけを作ったものが有名な 「ロゼッタ石」です。
1798年、ナポレオンのエジプト遠征の際、ナイルのロゼッタ河口で要塞の修復中に偶然、黒い石碑が掘り出されました。
ロゼッタ石は、後にイギリス軍がフランス軍から接収し、現在は大英博物館に展示されていますが、上段にヒエログリフ、中段にデモティック、下段にギリシア語で同一の内容が書かれており、これをもとにフランス人のシャンポリオン(1790年~1832年)が1822年に解読に成功したのでした。
◎シャンポリオン
フランス人シャンポリオンは、ヒエログリフの最初の解読者としてあまりに有名です。
一般的には、彼の少年時代、ナポレオンがエジプト遠征から持ち帰ったロゼッタストーンのニュースを聞いて解読の決意をし、それから数カ国語を学び、大変な努力の末30歳頃についに解読に成功した教えられています。
裏話として、ナポレオン失脚後、その影響で彼まで職を失っていたとは知りませんでした。
激しい解読競争の中で、彼が最後の手がかりにしたのがコプト語との音韻比較で、そのなかでついにヒエログリフの文字の一つ一つが、表意文字のように見えて、実は表音文字であることが解明されていきました。
ジョークは如何?
肉屋の行列に朝から並んでいたイワノフ。夕方になってもまだ肉は買えない。
あまりに腹が立ち、
「くそ~、こんな目にあうのもクレムリンのお偉い阿呆のせいだ!殺してやる!」
と、いきり立ちながら列を離れて走っていった。
ずいぶんたって、肩を落としたイワノフがとぼとぼ戻ってきた。
肉屋の主人が、
「どうしたい、イワノフ。クレムリンに行ったんじゃないのか?」
と声をかけると、イワノフ、
「だめだあ、あっちも行列だあ」
続く・・・
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