2014/03/30

歴史を歩く2

<古代オリエントその②>

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(2)エジプトの統一国家

 「エジプトはナイルの賜物」、と良く語られますが、この有名な言葉はギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉です。
ナイル川の上流は、サバンナ気候の為、雨季に降った雨により毎年7月~10月に増水し氾濫をおこすのですが、この洪水によって上流から肥えた土が運ばれ、下流では肥料等を与えなくとも1年に2回~3回の収穫が可能と云われています。
この洪水にそなえる治水事業、ナイルの洪水との攻防がエジプト史を形勢したと言えると思います。

 しかし、この治水事業と灌漑事業には、巨大な労働力と大規模な共同作業を必要とし、彼らを統率する強い指導者のもとで、紀元前4000年頃までには上エジプトに22、下エジプトに20のノモス(小部族国家、 都市国家)が成立し、やがて上流の上エジプトと下流の下エジプトの二つに統合されました。

 紀元前3000年頃、メネス王(ナルメル、エジプトの伝説的初代ファラオ) によって統一が果たされ、ここに第1王朝が開闢します。
後にペルシアに滅ぼされる迄の約2500年間を大分類で、3つの時期(詳細的には7時期)に分けることが可能です。
この間に約30の王朝が交替を繰り返しました。

1、古王国時代、紀元前3000年頃から紀元前2135年頃、第1王朝から第10王朝。
2、中王国時代、紀元前2135年頃から紀元前1570年頃、第11王朝から第17王朝。
3、新王国時代、紀元前1570年頃から紀元前525年迄、第18王朝から第26王朝迄。

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 古王国時代は第3王朝から第4王朝の時代に最盛期を迎えますが、第3王朝から第6王朝の時代に有名なピラミッドが建設され、カイロ郊外の第4王朝、クフ王のピラミッド (最大のピラミッド)、カフラー、メンカウラーの三大ピラミッドとスフィンクスは特に有名です。

 ピラミッドはファラオ(「大きな家」を意味しエジプトの神権的専制君主の称号)の遺体(ミイラ)を保存する為の巨大な墳墓です。
最大のピラミッドであるクフ王のそれは、底辺の一辺約230m、高さ約137m、平均2.5tの石を230万個を積み上げ、10万人の労働者を用い20年の歳月を要したと云われています。
ファラオの絶大な権力を推察出来ますが、建設当時は莫大な金銀財宝がファラオの遺体と共に副葬されていたと思われるのですが、大部分の王墓は、時には埋葬直後、時には数世紀後に盗賊等よって盗掘されていきました。

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 こうしたなかで世界を驚嘆させた発見が、1922年に発掘されたツタンカーメン王墓の発見なのです。
ナイルの中流域に位置するテーベの「王家の谷」と呼ばれる王墓の集中した谷間から、奇跡的に盗掘されてないツタンカーメンの墳墓が発見され、墳墓からは有名な「黄金のマスク」他の膨大な財宝が発見されたのです。
ここでツタンカーメンの墳墓は歴代ファラオの中でも小規模であることから、当然ながら大ピラミッドに納められた財宝の数は想像を絶するものと思われます。

 尚ツタンカーメン墳墓発掘に従事した多くの関係者が次々に死亡し、「ファラオの呪い」が有名になりましたが、此れは都市伝説の一つで在り、発掘の中心人物であるカーターは発掘後も16年間生きていました。

 エジプト人は霊魂不滅・再生の信仰を持ち、王墓に副葬されたパピルスに書かれた「死者の書」にはエジプト人の宗教観、来世観が強く現れています。
その為、死体を可能な限り生前そのままに残したいと熱望し、ミイラを作ったのですが、その技術は驚愕に値します。

 ヘロドトスの伝える最上級のミイラの製法は次の通りです。
「ミイラ師はまず、鉄の鈎で鼻穴を通じて脳を摘出する。・・・それから、鋭いエチオピア石をもってわき腹に沿って切開し腹部を完全に取り出し、・・・その後、腹中につき砕かれた純粋な没薬や桂皮やその他乳香以外の香料を詰め、元通りに縫い合わす。 ・・・それを終えると、70日間ソーダの中に置いてミイラにする。・・・ミイラ師は遺体を洗い、その全身を上製亜麻布を裂いて作った包帯で巻き包み、その上にエジプト人が普通、膠の代わりに用いるゴムを塗りつける。」

 古王国第7王朝の頃から国内は混乱・分裂の時代に成って行きました。
この様な状況の中からナイル川中流域、テーベ付近の豪族が勢力を伸ばし、再び全エジプトを統一、テーベを都として第11王朝を建て、中王国時代が始まります。

 しかし、13王朝の頃から再び分裂・混乱状態に陥り、紀元前1674年頃セム系遊牧民を中心とするヒクソスがシリア方面から侵入、馬と戦車でエジプトを圧倒し中王国を征服、以後約100年間にわたりエジプトは、初めて異国人の支配下におかれることと成りました。
ヒクソス支配に対抗を示すエジプトは、テーベを中心とする上エジプトが其の根拠と成り、やがてテーベから興ったアーメス1世は、ナイルを下りヒクソスをエジプトから撃退、国内統一を果たして第18王朝を打ち立てました。

 この第18王朝3代目の王、トトメス3世(在位紀元前1504年~在位紀元前1436年)は20年間に17回の遠征を行い、エジプトとして初めて西アジアに進出、シリアからユーフラテス川の上流域まで領土を拡大、エジプト世界帝国を建設したのです。
第18王朝に始まる新王国の時代は「帝国時代」とも呼ばれ、 アメンホテプ3世の後継者、子のアメンホテプ4世(在位紀元前1380年頃~在位紀元前1360年頃)は10代で王位に就き、首都テーベの守護神アモンの神官勢力が強く、王権を凌ぐ権力を有していた為、在位6年で テル・エル・アマルナに遷都し、自らイクナートン(アトンに愛されるものの意味)と称し、アモンに変わる太陽神で唯一神であるアトンを創造して宗教改革を目指します。

 しかし古来より多神教であるエジプト人に一神教は違和感が多く、王の死とともに新宗教は終わりをつげ、再びアモン信仰が復活、更には国内紛争が激化し、再びヒッタイト勢力が南下、エジプト勢力はアジアから後退を重ねることに成ります。
但し、アメンホテプ4世の治世には、自由、写実的な芸術が開花して「アマルナ芸術」と後に呼ばれます。

 アメンホテプ4世の後ファラオの位に就いた人物が、「黄金のマスク」で有名なツタンカーメン (在位紀元前1358年頃~1349年頃 )で、彼はアメンホテプ4世の甥でかつ娘婿でした。
しかし、 病弱な年少のファラオで在ったため、テーベのアモン神官の勢力が復活し、王の権威は衰えて行ったのです。

 第19王朝ラムセス2世(在位紀元前1290年頃~1224年頃 )は、父王の政策を引き継ぎヒッタイト殲滅の為パレスティナに進出したものの、カデッシュの戦い(紀元前1286年)で敗北を喫し、講和条約を結び、エジプトはアジア圏から撤退することになります。

 第20王朝ラムセス3世の活躍を最後に帝国は急速に衰退、その後紀元前12世紀以後「海の民」の侵入に常に脅かされ、更には公然と侵入を繰り返すエチオピアやリビア人に政権を簒奪され、ついには紀元前671年にアッシリアに下ることと成りました。
間もなく独立を回復したのも束の間、紀元前525年にはアケメネス朝ペルシアに征服され、以後長期間にわたって外国の支配下におかれることに成ります。

切手-Egypt

 エジプト人は、ナイル川の洪水との攻防から、極めて実用的な文化を生み出しました。
そのなかには、現在の私達が恩恵を受けているものも多数存在します。
太陽暦もナイルの氾濫と恒星の運行の定期性から発見され、ユリウス暦を経て現在のグレゴリウス暦へと連綿と繋がっています。
十進法は現在も使われていますが、メソポタミアの六十進法は難解ですが、十進法は人間の指が10本であることから生じたことは容易に想像できます。
その他、測地術、天文学が発達しました。

 エジプト人の宗教も多神教で在り、主神は太陽神ラー、後にアモン神と結合してアモン・ラーとなり広く普及しました。
エジプト人は霊魂不滅とオシリス神が支配する死後の世界を信じてミイラをつくり、「死者の書」を 残したことは前に解説した通りです。

 エジプト人が使用した文字には主として神殿や墓に使われた神聖文字(ヒエログリフ)と最も簡略化された民衆文字(デモティック)が知られており、墓所の壁面等に刻まれ、装飾と考えられていたヒエログリフが文字であることが解明されるきっかけを作ったものが有名な 「ロゼッタ石」です。

 1798年、ナポレオンのエジプト遠征の際、ナイルのロゼッタ河口で要塞の修復中に偶然、黒い石碑が掘り出されました。
ロゼッタ石は、後にイギリス軍がフランス軍から接収し、現在は大英博物館に展示されていますが、上段にヒエログリフ、中段にデモティック、下段にギリシア語で同一の内容が書かれており、これをもとにフランス人のシャンポリオン(1790年~1832年)が1822年に解読に成功したのでした。

◎シャンポリオン

 フランス人シャンポリオンは、ヒエログリフの最初の解読者としてあまりに有名です。
一般的には、彼の少年時代、ナポレオンがエジプト遠征から持ち帰ったロゼッタストーンのニュースを聞いて解読の決意をし、それから数カ国語を学び、大変な努力の末30歳頃についに解読に成功した教えられています。

 裏話として、ナポレオン失脚後、その影響で彼まで職を失っていたとは知りませんでした。
激しい解読競争の中で、彼が最後の手がかりにしたのがコプト語との音韻比較で、そのなかでついにヒエログリフの文字の一つ一つが、表意文字のように見えて、実は表音文字であることが解明されていきました。

ジョークは如何?

肉屋の行列に朝から並んでいたイワノフ。夕方になってもまだ肉は買えない。
あまりに腹が立ち、

「くそ~、こんな目にあうのもクレムリンのお偉い阿呆のせいだ!殺してやる!」

と、いきり立ちながら列を離れて走っていった。

ずいぶんたって、肩を落としたイワノフがとぼとぼ戻ってきた。
肉屋の主人が、

「どうしたい、イワノフ。クレムリンに行ったんじゃないのか?」

と声をかけると、イワノフ、

「だめだあ、あっちも行列だあ」

続く・・・
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2014/03/26

歴史を歩く1

<古代オリエントその①>

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(1)メソポタミアと小アジア

 オリエントの意味は「光は東方より」の意味で古代ローマ人から見た東方を意味します。
日本では中近東と呼ばれることも多いですが、これはヨーロッパ人が東方をNear East、 Middle East、Far Eastを合わせた使い方なのです。
「極東」はFar Eastの訳なので、日本人が東アジアを「極東」と呼ぶことは本来おかしなことなのです。
「極東」はまさにヨーロッパ史観の現われであり、 現在の日本おいて、オリエントはエジプト、西アジア、小アジアを含む地域を示す 言葉として使われています。

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 メソポタミアとは「川の間の地方」の意味であることは有名ですが、ティグリス川・ユーフラテス 川の流域地方で、現在のイラクに相当します。
メソポタミアの南部では、紀元前3500年頃 から集落が村落となり、次第に都市に発展し、都市は独立して都市国家が形成されました。

 メソポタミアで活躍した最初の民族はシュメール人で在り、彼らは紀元前2700年頃迄に ティグリス川・ユーフラテス川下流にウル、ウルク、ラガシュ等の多数の都市国家を形成したのです。
シュメール人の民族系統は減現在に到る迄不明ですが、すぐれた青銅器や彩文土器をつくり、 特に楔形文字を発明し、粘土板に記録を残したことは特筆されます。
楔形文字は以後2000年以上 にわたってメソポタミアで使用されることになりました。

 楔形文字の解読の緒を発見した人物はドイツ学者、グローテフェントですが、解読に成功したのはイギリスのローリンソンです。
軍人であったローリンソンがペルシアに赴任した際、彼は磨崖碑であるベヒストゥーン碑文(古代の街道の120mの所に位置)を最初は望遠鏡で調査しましたが、 やがて断崖を登り、岩にしがみつきながら碑文を数年がかりで模写し、ペルシア、 エラム、バビロニアの楔形文字で書かれた碑文の解読に没頭し、1847年ペルシア文字の解読に成功したのでした。

 しかし、絶え間ない都市国家相互の戦争により、シュメール人都市国家は衰退、荒廃し、セム系のアッカド人によって征服されます。

 アッカド人はメソポタミアの北部から興り、特にサルゴン1世(在位紀元前2350年頃~ 紀元前2294年頃)はシュメール人の都市国家を次々にその支配下に治め、メソポタミア最初の統一国家を建設したのですが、その後急速に衰退し滅亡します。

 次にセム系のアムル人がバビロンを都としてバビロン第1王朝(古バビロニア王国) を建設、この王朝の第6代目の王が、有名なハンムラビ王(在位紀元前1729年頃~紀元前1686年) で、彼は30年に及ぶ征服戦争によってメソポタミア地方を統一し、中央集権国家を建設しました。
現在でも彼を有名にしているのが「ハンムラビ法典」で、同法典は 1901~02年にペルシアのスサで発見され、高さ2.2mの黒い円柱の石に刻まれた全282条の法令でした。
シュメール法等それ以前にも法令は存在しましたが、断片的にしか現存しておらず、完全な形で残る最古の成文法であることは間違い在りません。

 シュメール法を継承し、集大成した成文法で刑法は、「目には目を、歯には歯を」の言葉通り復讐法の原則が貫かれ、身分によって刑罰に違いがあることも特色なのです。
例えば、
196条「もし人が自由民の眼を 潰したときは、彼の眼を潰す」
199条「もし人の奴隷の眼を潰し、或いは人の奴隷の 骨を折たるときは、彼はその価の半分を支払う」とあるのはその好例でしょう。

 しかし、バビロン第1王朝もハンムラビ王の死後いっきに衰退し、紀元前1530年頃、ヒッタイトの侵入によって滅ぼされたのでした。
ハンムラビ王統治のバビロン第1王朝の繁栄は、周囲の諸民族を多いに刺激し、彼らはその富を奪う目的で侵入をくりかえし、イランや小アジアの牧畜民、特に中央アジアや南ロシアのインド・ヨーロッパ系の遊牧民は紀元前2000年頃から紀元前1500年頃に大移動を行ったのです。

 なかでもヒッタイトは、紀元前1650年頃ヒッタイト帝国を形勢し、紀元前16世紀初頭にはバビロン 第1王朝を滅亡させ、以後ミタンニ、エジプトと抗争しながら、紀元前14世紀頃最盛期を迎えます。
ヒッタイトは紀元前1400年頃、世界史上初めて鉄製武器を使用したことで歴史にその名前を残し、 優秀な鉄製武器と馬の引く戦車で他の諸民族を圧倒し繁栄の頂点に達します。
紀元前1190年頃、「海の民」(紀元前13世紀末から紀元前12世紀に東地中海一帯の諸国家・諸都市を攻略し、広い地域を混乱に陥れた諸民族の総称)の侵略を受けて滅亡します。

 ヒッタイトの滅亡後、それまで極秘にされていた製鉄技術は周辺に広まり、オリエントの諸民族を 経て、更にヨーロッパ、アフリカ、アジア各地に伝播し、鉄器時代を迎えることになります。

 ヒッタイトの他に同じインド・ヨーロッパ系のミタンニ人は北メソポタミアに、カッシート人は南メソポタミアに侵入して、一時強大な国家を建設し、オリエント地域では紀元前15世紀から紀元前14世紀に、エジプトの新王国、ヒッタイトを筆頭とする諸王国が並立する政治状況が生じ、数世紀にわたって混乱状態が続いて行きました。

 この間、メソポタミアでは独自の文化が繁栄し、宗教は多神教が崇拝され、民族の興亡と共に信仰される最高神も変化していきます。
文字はシュメール人が創設した楔形文字が使用され、粘土板に記録され、又六十進法、太陰暦、閏年、占星術、法律等実用的学問・文化が発達したことが大きな特色なのです。


ジョークは如何?

キューバ危機の裏話

ホットライン開通後、米ソ首脳は電話会談をした

ケネディ「私は5回核ボタンに手を掛けたが、すべてマクナマラに
     説得されて結局ボタンを押せなかったよ」

フルシチョフ「わたしは5回核ボタンを押したが、発射ボタンが
    壊れていてすべて不発に終わったよ」

続く・・・
2014/03/25

歴史のお話その337:語り継がれる伝説、伝承、物語131

<ロマノフ家最後の1年>

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 嘗て、全ロシアに君臨した皇帝ニコライ・ロマノフは、「数えきれない邪悪な罪」によって処刑された、と1918年7月末、モスクワのボリショビキ革命政府は発表しました。
公式発表に続いて、皇后や皇太子、王女達が秘密の場所に移された事も告げられました。

 革命政府は、しかし処刑の報告を一度ならず訂正し、真相そのものに強い疑惑を残したのです。
皇帝一人が死刑に処されたか否か、歴然とした証拠は歴史家も把握していません。
皇帝と一緒に王家の一族も銃殺されたのか、其れとも一族全員が秘密裏に亡命したのか、当時判然としていなかったのです。

 ニコライ2世は1917年春、ロシア革命で権力の座から追われ、皇后アレクサンドラと5人の子供達(アレクセイ・オリガ・マリア・タチアーナ・アナスタシア)共々セントペテルブルグ郊外のツァールスコエ・セロの宮殿に革命政府によって幽閉されました。

◎白軍の脅威

 1917年8月、皇帝一家は、シベリアの寒村、トボリスクに移送されました。
ここは、辺鄙な田舎町で、皇帝支持派からの救援は、ほとんど期待できませんでした。
1918年に成ると、皇帝一家は再び、ウラル山脈に近い町、エカテリンブルグの一軒家に移されます。
エカテリンブルグの住民は、革命政府派で皇帝一家に冷たく接しました。
その間、皇帝支持派は、幾度か皇帝奪還を試みたものの、成功しませんでした。

 モスクワの革命政府が、皇帝処刑を決意(現在も諸説在り)したのは、皇帝が自由を得て、白軍の指導者になる危険を恐れた為であったと思われ、その脅威が無ければ、皇帝死亡を公表して事実を隠匿する可能性も考えられます。

◎地下室の惨劇

 1918年7月の革命政府発表は世界に、とりわけロマノフ家と血縁関係にあるヨーロッパ王室に衝撃を与えました。
しかし、数ヶ月後更に恐ろしいニュースが伝わり、皇帝一家は全員、1918年7月19日の夜、銃殺隊によって処刑されたと革命政府が発表したのでした。
報告によると、処刑命令はモスクワ(ウラル州革命政府説在り)から届けられ、ユーロフスキーの指揮の下、死刑宣告が成され、一家殺戮の最初の引き金は、彼自らが執行したのでした。

 皇帝一家は、事前に何も知らされず、彼らは階段を下りて地下室へ行き、其処で一列に椅子に座らされ、ユーロフスキーの射撃命令を合図に、一斉射撃が行われました。
彼らが使用した銃は、この非常な任務の為に、特に兵器庫から持ち出した、当時最新の連発銃でした。

 皇帝一家には、宮廷医ボトキン博士、3人の召使が付き添っていました。
彼らは全員、皇帝一家と行動を共にする様、命じられており、射撃が終了した時、床には11人の遺体が転がり、兵士達は、銃剣とライフル銃の台尻で、一人一人その死亡を確認したのです。

 明け方、死体は待機していたトラックに積まれて、エカテリンブルグから23km離れた“四人兄弟鉱山”へ運ばれ、其処でガソリンを撒かれ火葬にされ、焼き尽くされた遺体と、手回り品は硫酸で溶かされ鉱山の廃坑に遺棄されました。

 4日後の7月23日、エカテリンブルグが白軍によって陥落しましたが、地下室の壁の一部は既に洗い落とされていましたが、部屋にはまだ血痕が残っていました。
しかし、其れが皇帝一家のものであるか否か、当時確認する術は在りませんでした。

◎密  約

 住民のうち革命主義者28人が、皇帝一家殺害に加担した罪に問われ、5人が処刑されました。
しかし、決定的な証拠は何一つ発見されず、今日尚、ロマノフ家の末路の真相は疑惑に包まれたままなのです。
廃坑の坑道から発見されたのは、歯、眼鏡、衣類の断片だけで、後に眼鏡はボトキン博士の所持品と判明しまし、衣類は使用人のものと推定されました。
 
 革命政府には、皇帝を生かしておかなければならない理由が在ったのです。
彼らは、ドイツと既に皇帝を無傷で亡命させる密約を結んでおり、前皇帝を釈放すれば、革命派の方針が西欧世界を始め多くの国の共感を呼ぶはずでした。

◎イギリス国王の不可解な態度

 地下室で銃殺されたのは、果たして誰なのでしょう?
この部分は、現在、ロシア政府の正式発表と言う形では、皇帝一家であるとされていますが、大きな疑問でもあるのです。
白軍が発見したのは、ボトキン博士と使用人のものだけだったと推察する、研究者も存在し皇帝一家の殺害を偽装し、秘密の亡命を知る人物を抹消する必要から、彼らが殺害されたとも解釈されるのです。

 アメリカとイギリスが革命政府と協定を結んだとの噂も、根強く伝えられ、余談に成りますが1919年に「皇帝救出作戦」と題する書物が出版されましたが、本文において、その著者が皇帝一家を革命政府から救い、亡命させたと述べました(?)。
当然ですが、この本の内容を本気で信じた、研究者や歴史家は皆無です。

 しかし、時代が下るに従って、皇帝一家が生き延びているのではないかと思われる、不思議な出来事が幾つか発生します。
ロンドンで皇帝の追悼式典が執り行われた時、時のイギリス国王 ジョージ5世は自らの出席も代理人の派遣も断りましたが、イギリス国王は、皇帝一家の生存を知っていたのではないか?との憶測を呼び、又アメリカ国務省は、現在尚、ロマノフ家のオープンファイルを保持しているとの事です。

 1961年、ポーランドの情報機関員、ミハウ・ゴレニエフスキーがアメリカに亡命しますが、自分は皇帝の長男アレクセイであると主張し、3年後、ニューヨークで行われた彼の結婚式に出席した2人の女性が、オリガとタチアーネの名前で署名しました。
ゴレニエフスキーはその後、長い間、ロシア皇帝継承権を主張し続けます。

 しかし、ゴレニエフスキーにも、血友病患者ではない自分が、なぜ最後のロシア皇帝の子息で在り得るのか、説明する事は出来ませんでした。
アレクセイは、周知の事実として、遺伝する血友病を患っていたからです。
エカテリンブルグで起きた事件の証人は、すでに存在しておらず、ロマノフ家の秘密は、彼らと共に葬られたのでしょう。

番外編

 帝政ロシア最後の皇帝「ニコライ2世」の名誉回復が成されました。
ロシア連邦最高裁は、2008年10月1日、ニコライ2世とその家族の名誉を回復しました。

 一家は、ロシア革命初頭の1918年7月、エカテリンブルクでボリシェビキ(のちのソ連共産党)のメンバーにより、裁判も罪状もないままに軟禁されていた家で、医師、従者共々銃殺されたのです。
殺害されたのは、ニコライ2世、アレクサンドラ皇后、そして5人の子供達。
すなわち長女オリガ、次女タチアーナ、三女マリア、四女アナスタシア、皇太子アレクセイ。
末の皇女アナスタシアだけが生き延びとの噂もあり、「私は、アナスタシア・ニコライヴナ」と名乗る女性が出現した為、依然、特定する事は困難な様に思えますが・・・。

 さて皇帝ら5人は、処刑されたエカテリンブルク郊外で1991年に遺骨が発掘され、1998年、時のエリツィン大統領主導で、歴代の皇帝が眠るサンクトペテルブルクのペトロパブロフスク大聖堂に移され、埋葬されました。
更に、マリアとアレクセイとみられる遺骨もその後発掘され、此れまでに本人である事が、ほぼ確認されています。
皇帝一家は2000年にロシア正教会の聖人にも列せられ、「ロシア社会の和解の象徴」とされ、「事実上の名誉回復は終えている」と冷静に受け止める市民も多いのです。

 一家について、最高裁判所はロマノフ王家の子孫達の上告に対し、「根拠無しに迫害された」「政治弾圧の犠牲者」と判断し、名誉回復するとの裁定を下したのでした。

 ニコライは皇太子時代、1891年4月27日、ロシア海軍軍艦アゾフ号で長崎に来航し、各地を訪問した後、5月11日、琵琶湖遊覧から京都の宿舎に戻る為、滋賀県大津市内を通過中、警備の津田三蔵巡査による襲撃に遭い、怪我をしました(大津事件)。

 この事件の重大さに、時の松方正義首相は無論、明治天皇も急遽、京都の常磐ホテル(現京都ホテルオークラ)に滞在していた皇太子ニコライをお見舞いした程で、当時の国際情勢下では、日露開戦となれば、当為は、日本が惨敗していた可能性が強いとされています。

終わり


2014/03/22

歴史のお話その336:語り継がれる伝説、伝承、物語130

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその④>

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◎英雄の末路

 ナポレオンは、ロシア皇帝アレクサンドル一世と講和を望みましたが、ロシア皇帝は、侵略軍がフランス本国から全く孤立し、飢餓と寒さの為、急激に消耗しつつある事を知っていたので、最後まで講和を拒否します。
ナポレオンのモスクワ撤退の物語は、世界史に残る、最も凄まじく、最も悲惨な出来事の一つとして、永遠に語り継がれる事に成りました。
(第二次世界大戦に於ける、ドイツ軍のスターリングラード(現:ボルゴグラード)の敗退も、ナポレオンの逸れに匹敵しますが)
ナポレオンは、ロシア軍の姦計に翻弄され、命からがら逃げるより、他に道は残されていませんでした。

 厳しいロシアの冬に襲われ、全身傷つき、飢餓に瀕した10万人の敗残部隊は、食料、援軍、弾薬もそれら一切が補給される望みは無く、10月19日、モスクワを退却しました。
その内7万人は、未だロシア軍が退路を閉塞している地点にすら到達しない間に、寒気と飢餓で倒れて行きました。
ベレジナ河では、ロシア軍の激しい砲撃の中、強行渡河を試み、更に犠牲者は増えていきます。
敵陣を突破し得たナポレオンと敗残部隊は、僅かな人員に過ぎず、ナポレオン自身も危うく捕虜となる処でした。

 エイメは見事に復習を遂げたのでした。

 エイメ自身は、最後迄、自分の素性を明らかにせず、彼女の事を知っていたのは、ハミット一世とマフムト二世だけかも知れません。
従姉妹のジョセフィーヌにさえ、彼女の境遇を知らせた痕跡は無く、二人の間に私信の遣り取りが、行われた事も無かったと思われます。
エイメは、なぜ自分の境遇を従姉妹にすら、秘密にしていたのでしょう?
ジョセフィーヌの注目さえ、避ける事が、エイメの意識的な終始変わらぬ考え方でした。
彼女は、常に人目を避け、ベールの陰に隠れ、大臣、外国使節の一人にさえ姿を見せず、政府の干渉も、国民からの尊敬、時には敵意さえうける事無く、マフムト二世に忠告を与え、自由に支配する事が出来たのでした。
之には、エイメ自身が、宮廷内部でも外部でも、殆ど誰にも知られる事が無く、一般の人々が近寄る事の出来ない地位に居り、そして、一見幽閉されたような境遇に置かれた事に、その力が根ざしていたのでした。

◎余談

 マルティニク島生まれのフランス女性エイメが、海賊に囚われ、オスマン・トルコ帝国の後宮に送られ、後のトルコ皇帝の妃に成った様に、この時期よりも少し早く、アイルランド出身の女性が、アフリカの首長の妃に成った事が在りました。

 アイルランドの南部、コーク州エメラルド生まれの女性、マリー・ソンプスンは、同島の出身で、スペインのカディスで商人として成功した一人の男性から、墓参の為に帰国した折、見初められて結婚の申し出を受けました。
彼女は、暫し考える時間を求め、男性は後ろ髪を引かれる思いで、スペインに帰国する事にしました。

 マリーは熟慮を重ねた末、男性の申し出を受入れる事を決め、単身、カディスに向う事としスペイン行きの船に乗り込みました。
天気はよく晴れ渡り、波も静かで、彼女の前途を祝福するかの様に思える程、順調に航海も進み、船旅の終盤、間も無く目的地に着くと思われた時、突如、バルバリア海賊船の襲撃を受け、彼女は捕らえられ、モロッコの奴隷市場に送られました。
彼女の美貌を伝えるニュースは、メクネス(モロッコ)の宮廷の主、シディ・マホメッドの下にも伝えられていました。
宮廷の主は早速、大金を投じて、彼女を自分の物とし、その美貌に見せられて妃とします。
かくて、マリーは首長と王座を分ける事30年(1760年~1790年)に及び、その懸命さと、慈悲深さにより、臣民から敬愛されました。

 その頃、エイメは既にトルコ皇妃として、イスタンブールの宮廷の奥深く、ベールに包まれていたのでした。

終わり・・・



2014/03/20

歴史のお話その335:語り継がれる伝説、伝承、物語123

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその③>

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◎モスクワ遠征の失敗

 その時、突然パリから劇的な知らせが・・・トルコ宮廷を180度急転回させる知らせがもたらされました。
皇帝ナポレオン一世が皇后ジョセフィーヌを離婚したのです。
理由は、ジョセフィーヌが容貌の衰えを恐れ、ナポレオンの後継者である実子を産もうとしなかったとの事ですが、この時既に、ナポレオン一世はオーストリア皇女マリー・ルイズとの政略結婚を画策していたのでした。

 この一報を聞いたエイメの目は険しく成りました。
「そんな不条理な事を!そんな恩知らずな事を!しかも愛する貞節な婦人の対してこの様な、仕打ちをするとは。この報いはきっとナポレオンに受けさせてやる。」
之まで、エイメは彼の栄誉をそのまま我が栄誉と思うほど、秘密の同盟者をもって任じてきましたが、其れも終わりの時が来たのでした。
彼女は直ちに其れまでのフランス同盟主義を捨てて、今迄彼の為に成るように尽くしてきた努力を、今日以後は、彼の為に成らない様に努力し、従姉妹ジョセフィーヌの為に報復する事でした。

 そして、エイメは侮辱されてのが、彼女自身であったとしても、とてもこれ以上の方法で計画的に返報は不可能であると思われる方法で、ナポレオン皇帝に当たったのでした。
その時期の来るまで、すなわち1812年・・・おそらく1814年迄の近代史上、最も多彩な年・・・迄彼女は3年待ちました。
彼女はナポレオンに思い知らせる日が、間近で在る事を感じ取っていました。

 1812年、帝政ロシアはトルコ帝国との戦いを交えており、軍隊の大部分をトルコ領土内に進駐させていました。
ナポレオンはこの事実を良く考慮した上で、同年5月、好期を得たとして、モスクワ遠征を開始したのでした。
ナポレオンは、この作戦の為に歴史上に於いて、最大かつ最も装備された、60万人を超える大部隊をもって、モスクワ攻略に向いました。
フランスは、ナポレオンの賭けとも言える作戦に、あらゆる資源を総動員し、投入します。
しかし、ナポレオンにとってこの作戦は、賭けでもなく、十分な勝算が有っての事であり、この大軍を止める軍隊がヨーロッパ大陸に存在しない事を知っていたのです。
ロシア陸軍の主力は、遥か南方に展開していたので、彼はトルコ帝国皇帝マフムト二世に対し、ロシア軍に対する一層激しい陽動作戦を展開する事を条件に、巨額の反対給付を提供する事を申し出ます。

 之に対してマフムト二世は、一切の約束をせず、ナポレオン軍がドレスデンを出発し、ロシア国境に向った日、トルコ皇帝は、あらゆる情報からロシア軍が、崩壊寸前に陥っているとの確証を握っているにも係わらず、ロシア皇帝と秘密講和条約に調印し、その要求に従ったのでした。
この条約の為に、訓練された5万人のロシア精鋭部隊は、後退の自由を得て、直ちにフランス軍の補給線を遮断する為に、北方へ移動を開始しました。

 この情報は、ナポレオンには察知されず、彼の軍隊は更にロシア領内深く進攻して行きます。
最も、彼は全くロシア軍の抵抗を受けない訳ではなく、フランス軍の侵攻を阻止しようとするロシア軍の間には、砲火を交え数万人の戦死者をだしていました。
ナポレオン軍は損害を顧みず、ロシアの防衛軍を押し返しながら進軍を続けました。
ロシア軍は退却の際、焦土作戦を展開し、残された食料や家屋に火を放ち、少しでも侵略者の利益になる物資を尽く破壊していきました。

 食料を絶たれたフランス兵は、病気や飢えの為、毎日多数が命を失いましたが、ナポレオンは凍土の地を奥深く前進し、パリから東方へ2560km(鹿児島県鹿児島中央駅から本州を経由し、北海道函館本線小沢駅に達する距離)の、モスクワを一望できる場所に到達した時、60万人の大部隊は15万人程度にまで減少していました。
しかもその間にトルコ帝国との講和により、移動可能となった5万人のロシア精鋭部隊は、ナポレオン軍の伸びきった補給路線を中央から、遮断する為に強行軍を続けて北上していたのでした。

 ナポレオンが残存部隊を引き連れて、モスクワに進駐した時、街の中は殆ども抜けの空で、僅かの残っている人間は、動かすことの出来ない、病人、負傷者だけで、当時30万の市民は、食料、牛馬、馬車、更に芸術品や貴重な品々を移動可能なものは全てを伴って退却した後であり、間髪をいれず、市内十数か所から、一世に火の手が上がり、モスクワは三日三晩燃え続け、四日目に降りだした雨の為に漸く鎮火したものの、市内の7割は灰燼に帰しました。
ロシア人による、焦土作戦の成果でした。

 9月30日、一つの報告が、ナポレオンの本営に壊滅的な報告をもたらします。
ルーマニアで、トルコ軍と交戦していると信じていた、ロシア軍5万人が、モスクワの西方640kmの地点に到達し、フランス軍の補給線を遮断、ベレジナ河の西岸に陣地を構築し、退路を絶たれた事を知ったのでした。

 ナポレオンは、この恐るべき報告を聞いた途端、困惑と絶望の色を浮かべ、黙然とその場に座り込んだと云われています。
この報告は、彼の前途に対する、死刑宣告に等しいものでしたが、あれ程迄に信頼していたオスマン・トルコ帝国が、なぜその方針を転換したのか、彼はジョセフィーヌの離婚と、従姉妹エイメの心情を推し量る事など、到底出来ませんでした。

 エイメが、この重大な一国の向背に、決定的な役割を演じた事を証明する文書は、フランス、ロシア、トルコの何れにも残されてはいません。
彼女がジョセフィーヌの報復の為、ロシア側に寝返った話は、推測に過ぎませんが、歴史の上で今まで対抗関係に在ったトルコが、その時敗色濃いロシアと急転直下、講和する理由を見つける事が出来ないのです。

 エイメは、ベールの陰に隠れ、密かに行動を起こしましたが、其の為彼女は、一層効果的な役割を演じたのでした。
彼女は如何なる公職にも就く事なく、只、息子を擁護するのみでしたが、その息子・・・オスマン・トルコ帝国第30代皇帝 マフムト二世・・・を通じて、トルコ帝国を我が物とし、政治外交軍事一切を支配していました。

続く・・・


2014/03/18

歴史のお話その334:語り継がれる伝説、伝承、物語122

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその②>

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◎オスマン・トルコ皇妃

 オスマン・トルコ宮廷のハレムに伴われたエイメは、此処でトルコ皇帝アブドル・ハミット一世(1774年~1789年)の心を捕らえました。
ハレムには、既にギリシア、アルメニア、サルカシア(コーカサス南西部1829年ロシア帝国に併合)の女性達が、数えきれぬ程居ましたが、その殆どは、無教育な女奴隷に過ぎませんでしたが、エイメは違っていました。
高等教育を受け、読み書きが出来る事、教養が有り文明社会から来た彼女は、事実、何百と居るハレムの女性内で、容貌ばかりではなく、最も知性に溢れていました。
エイメは、皇帝ハミット一世の寵愛を一身に集め、やがて金髪の皇子を産みました。

 エイメは、ハレムに入ると共に、其処からの脱出、マルティニク島への帰還、ジョセフィーヌとの再会の希望を全て捨て去ります。
事実、トルコ帝国のハレムに入った女性で、今だ嘗て自由の身に成った者は、皆無でした。
其処で彼女は後半生を「壮大で壮麗な宮殿」に住み、「出来得る限りの権力を振るう身と成る」事を決意します。
其れは、幼い日、占い師が予言した事そのものでした。

 この間に、従姉妹のジョセフィーヌも幾つかの冒険をしていました。
彼女は1779年ボ-アルネ-子爵に嫁ぎ、二児をもうけましたが、フランス革命の際、夫は断頭台の露と消え、革命後、彼女は美貌と才知をもって、パリ社交界の花形となり、1795年3月、ナポレオン・ボナパルトと云う、コルシカ生まれの精力的な英才に富んだ三歳と歳下の青年将校と結婚しました。
やがて、ボナパルト婦人の人生は、変化に富むものと成り、彼女の夫はフランスの為に、次々と軍事上の勝利をおさめ、彼女はその妻として、同様の栄誉を受ける身と成りました。

 一方、エイメはイスタンブールに在って、トルコ皇帝の皇妃として、それ以上に身辺多事の日々を送っていました。
皇位継承問題の中、彼女とハミット一世との間に誕生したマフムトは、第三皇子にあたり、トルコ後宮では、当然の成り行きと思われる、マフムトに対する命がけの陰謀が企てられていました。

 異母兄弟の長男セリム、次男ムスタファは共に宿敵となり、その母親達は、一層の敵意を燃やし、隙あらば、相手の子供を毒殺し、政敵側の勢力を失墜させようと画策していました。
しかし、エイメは三人の母親の内で、最も機知に富み、息子の身辺に迫る敵の魔手を最後迄防ぎおおせます。

 1789年、皇帝アブドル・ハミット一世は逝去し、正当な後継者である、第一皇子のセリムが即位しました。
しかし、第二皇子ムスタファの母親は、決して野心を捨てず、執拗に廷臣達を操り、1807年、終にセリムを退位に持ち込みムスタファを皇位に就ける事に成功します。

 この事態にセリム派の怒りを買い、彼らはムスタファを殺害し、セリムを復位させる為、宮殿を強襲しますが、その強固な扉は硬く閉ざされます。
ムスタファ派は刺客を放ち、セリムだけでなく、エイメの息子のマフムト皇子をも亡き者にしようと図ります。
この計画が成功すれば、後継者問題も一機に解決される筈でした。
刺客達は、セリムの殺害に成功しますが、マフムトはその時、煙突に登り、屋根伝いに逃れ、やがてマフムトの警護隊が駆けつけて彼を助け、一方ムスタファとその母親一味は逮捕され、処刑されました。
ムスタファが皇位に就いた期間は、1年に過ぎず、マフムト皇子は、オスマン・トルコ帝国第30代皇帝の位に就き、(母エイメと共に)インド洋からアドリア海に跨る、大帝国を統治する事に成りました。
終にエイメは、「壮大にして華麗な宮殿で、権力を振るう」事と成ったのです。

 皇帝マフムトの母親エイメに対する感情には、母への愛情以上のものが在りました。
其れは正しく崇拝と言うに相応しいもので、エイメは若きマフムトの賢明にして、献身的な相談相手でした。
そして、23歳の若さでトルコ皇帝になったマフムトは、彼女を実質的な摂生として、国政の一切を委任する結果と成りました。

 トルコ政府の実際の頭であるエイメが、生粋のフランス人であり、彼女の愛する従姉妹ジョセフィーヌが、フランス皇帝ナポレオン一世の皇后に成っていたので、フランス対残余のヨーロッパ諸国との戦争に於いても、トルコは全力を上げてフランス側に組します。
フランス軍将校はトルコ軍を訓練する為に派遣され、フランス海軍将兵は、トルコ海軍艦艇に配備され、フランスの砲兵は、イギリス艦隊をイスタンブールから駆逐したのでした。

 フランスの流行、フランスの学校、フランス語がトルコ人の間に風びし、ナポレオン一世自身も、このトルコのフランス一辺倒には驚いたに違い在りません。(現在でも、トルコ共和国において、最も普及している外国語はフランス語です)
イギリスは完全にトルコ帝国領内から、閉め出された格好に成りました。
誰も、トルコ女性のベールを被り、後宮のカーテンの後ろで物静かに控えめに座っているエイメ・・・トルコ皇帝マフムドの生母が、生粋のフランス人・・・祖国フランスを愛するフランス婦人・・・であり、長く異教の地に在りながら、ジョセフィーヌやマルティニク島を夢見ている人物で在る事に、気づきませんでした。
この状況は、1809年迄続き、エイメは46歳に、そして皇帝マフムトは24歳に成っていました。

続く・・・


2014/03/16

歴史のお話その333:語り継がれる伝説、伝承、物語121

<ナポレオンを敗退させた女性・トルコ皇后エイメその①>

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トプカピ宮殿のハレム・Wikipediaより

◎始めに

 1812年5月、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト(1769年~1821年)は、60万人の大軍を率いて、モスクワ遠征に赴き、同年9月同市を占領したものの、ロシア軍は焦土戦術を展開し、決戦を回避したので、ナポレオン軍はロシアの冬に悩まされ、10月19日モスクワから退却、その大軍を全滅に近い状況に追い遣りました。
この敗退は、ナポレオンの運命を変える一大転機と成ります。

 ナポレオン軍のモスクワ敗退は、ロシアの冬の到来が大きな原因でしたが、この敗北を決定的にした陰に、一人の女性の大きな魔手、報復の手が伸びていた事を見逃しては成りません。
その女性エイメ・ジュビュク・リベリは、一度ナポレオン一世の皇妃となり、やがて離婚の憂き目を見たジョセフィーヌの従姉妹にあたり、「ベールをかけた皇后」(The Velled Empress)として、後のトルコ皇后と成った人物です。

 イスタンブールの観光案内に登場する、一番高い丘の頂上からは、この連綿と続く歴史的は古都の隅々迄見渡す事が出来ます。
1400年前から造営が続いた「教会の母」聖ソフィア教会、更にマホメット二世寺院のドームやミナレットが聳えていますが、そのマホメット寺院の中庭の一角に、殆ど訪れる者もない墓所が存在しています。
その中には、200年を経た、一人の女性が安置されています。

 この墓の主こそ、これから紹介するエイメ・ジュビュク・リベリであり、この女性程数奇な運命を辿った人物は居ないと思われます。
其れは、アラビアン・ナイトの中で語られる如何なる物語よりも波乱に富み、一層空想的な生涯を過ごし、その美貌を持って大帝国を覆し、自分の頭脳で国家を統治し、征服者を屈服させ、世界史の潮流を変えたのでした。
しかも、この女性を一層注目させる存在としたのは、この人物の存在が歴史の陰に隠れ、極めて少数の人物にしか知られていなかった事なのです。

 この女性の存在を始めて発見したのは、ニューヨークに在る銀行の副頭取を務めるベンジャミン・A・モートンで、彼は、フランス領西インド諸島のマルティニク島に渡り、この島で生まれ、少女時代を送った、ナポレオン一世の皇后ジョセフィーヌの事跡を追跡調査中、偶然にも彼女の従姉妹エイメの事跡に遭遇し、然もジョセフィーヌの其れよりも、遥かに波乱万丈な物語を発見したのでした。
この調査記録は後に、「ベールをかけた皇后」と題してプトナム書店から刊行されました。

◎生い立ち

 西インド諸島東部、小アンティル諸島の中にマルティニク島が在ります。
1635年以来のフランス領で、人口約20万人、サトウキビ、バナナ、パイナップル、ココア、コーヒー等の農産物、牛、豚などの畜産物が在りますが、食料的には不足気味で、米、トウモロコシを輸入している現状です。

 1763年、後にフランス皇后となるジョセフィーヌ・タスシェは、マルティニク島のサトウキビ農場主の娘として生まれました。
父親は、フランス守備隊将校として同地に従軍し、除隊後もそのまま同地に留まり、在住のフランス人女性と結婚して、二人の間にジョセフィーヌを得ましたが、二人とも病がもとで、相次いで世を去りました。

 幼くして両親を失ったジョセフィーヌは、同じく同地で農園を営む伯父夫婦のもとに引き取られました。
伯父の家には、ジョセフィーヌより二歳年上のエイメ・ジュビュクが居ました。
エイメはジョセフィーヌの父ジョセフ・タスシェが独身の頃、現地のマイノリティに生ませたとの説も存在しますが、現実は良く判っていません。
この二人の少女は、大変仲が良く、夫妻のヨーロッパ風な厳格な内にも温情溢れた中で成長していきました。

 ジョセフィーヌが10歳の頃、エイメと一緒に、村で評判の占い師を訪問した際、面白半分に自分達の将来を占って貰った事が有りました。
占い師はまず、ジョセフィーヌの左の手の平を見つめていましたが、やがて、「貴女は、二度結婚する事に成りますが、二度目の夫は、この世界を自分の栄誉で満たし、多くの国々を征服します。貴女も一国の皇后よりも高い地位に昇りますが、後に之を失い、嘗てマルティニク島で過ごした、幼い平和な日々を愛しく思う様に成るでしょう」。
占い師のエイメに対する予言は、更に奇怪なものでした。
「海を渡る時、貴女の船は異教徒の海賊に襲われ、貴女は異教国の後宮に送られるが、その国の皇帝は貴女を見初め、皇帝の後継者を産む事になる。その後貴女はその半生を通じて、壮大華麗な宮殿を我が物として、其処で強大な権力をふるう事に成る」と。

 二人の少女は、自らがこの様な波乱万丈の運命になると言われても、全く本気にする事なく、笑いに興じて聞き捨てました。
しかし、占い師の予言は、エイメの場合、この後彼女に起こる様ざまな事柄の半分も、表現していませんでした。

◎受難

 エイメは13歳に成った時、母国ナントの修道院学校で教育を受ける為、故郷のマルティニク島を後にしました。
その後勃発した英仏戦争は、彼女の帰国を妨げ、8年の歳月が流れていきました。
1784年、漸く戦争も終結し、故郷に帰る事に成ったエイメは、芳紀正に21歳、青みがかった金髪と、黒い瞳を持つ、美しい女性に成長していました。
しかし、エイメはその時も、それから後も、終に再び故郷の土を踏む事は在りませんでした。
彼女を乗せて、マルティニク島に向った船は、歴史上屈指の勇猛果敢さで名を馳せた、アルジェリアのバルバリア海賊船の襲撃を受けます。
彼等は、地中海沿岸、大西洋東部を襲い、又非武装の民間商船を略奪し、その全てを虜にしていたのでした。

 今回、拉致された人々の中で、エイメは一際目立つ存在でした。
多年に渡り、フランスで身に着けた、深い教養は異常な魅力となって、その動作に現れます。
海賊の頭目は、彼女を滅多に見る事の出来ない「上玉」と眼を付け、アルジェリアの太守に引渡しました。

 彼女の体験は、之で終わりに成る事は無く、アルジェリアの太守は、エイメを一目見て、自分の傍に置くには恐れ多いと考えて、自分の主君であり、財政と武器の援助を受けていたオスマン・トルコ皇帝の下へ送る事にします。
当時、アルジェリアは、名目上、尚オスマン・トルコ帝国の一部であり、この美しい異教徒を虜として皇帝に献上し、今までの援助に報いるだけでなく、彼女を元手に新たな援助を得ようと考えたのでした。

 エイメは再びバルバリア海賊船に乗せられて、地中海を東に向かい、ギリシアを過ぎ、エーゲ海に入り、トロイの遺跡を遠くに眺めながら、ダーダネルス海峡を通り、ボスポラス海峡の岸に建つ、首都イスタンブールに運ばれていきました。

続く・・・


2014/03/14

歴史のお話その332:語り継がれる伝説、伝承、物語120

<パルミュラ:砂漠の女王ゼノビアその②>

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◎パルミュラの盛衰

 しかし、彼女には心の平安を迎える時は無く、ローマ帝国は着々と戦力を整備し、機会を見てパルミュラを攻略し東方世界の覇権を復活させんとしている事を感じていました。
ゼノビア自身も準備を怠ること無く、戦力を増強し、占領地には強固な要塞を設け、来るべきローマ帝国との戦闘に国全体の防御を固めたのでした。

 その日は終に訪れました。
ローマ帝国は、最精鋭の軍団を派兵し、ゼノビア軍を一気に殲滅する事を目的に、そのローマ軍の指揮にあったのは、当時第一の武人としての誉れの高い、アウレリアヌス将軍でした。
将軍の手により、西暦270年エジプトはローマ帝国に奪還され、翌271年愈々アジアにその鉾先を向け、ゼノビアは駱駝騎乗隊を持って、之を迎え撃ちます。

 両軍はアンチオケで対峙し、第二回目の会戦はホムスで行われ、彼女は何時も軍団の先頭に立ち「ダイアナの如く武装し、ヴィーナスの様に輝いて見えた」と云われています。
ゼノビア軍は善戦し、ローマ軍騎兵隊の間中に突入する事も厭わず、勇敢でした。
一方、ローマ軍は姦計を巡らし、軍団を急遽反転させ、ゼノビア軍にはあたかも軍団が敗走しているかの様に思わせ、その追撃に疲れさせる戦法を取りました。
合図と共にローマ軍は再び反転し、ゼノビア軍を蹂躙します。

 この様な作戦は、アンチオケでも、ホムスでも試みられ何れも成功しています。
アウレリアヌス将軍の為に敗走したゼノビアは、戦線を縮小し、残存兵力をパルミュラに後退させ、城門を硬く閉ざし、敵に降伏するよりはむしろ死を選ぶ覚悟で、パルミュラを死守する道を選んだのでした。

 アウレリアヌス将軍は、降伏を求め、若し平和の内に城門を開き、街を引き渡すならば、街に危害を加えず、ゼノビアの命も保証しようと申しいれますが、彼女は頑強にこの申し出を拒否しました。
ローマ軍の強烈な包囲攻撃が火蓋を切り、昼夜を分かたぬ猛烈な攻撃には、流石の武勇を持って聞こえたゼノビア軍も、一歩一歩と絶望の淵に追い詰められて行きます。
ゼノビアは、勇敢にも城壁を見回り、兵士達を励ます一方、自ら槍を取ってローマ軍に立ち向かう事もしばしばでした。

 この様なゼノビアの鼓舞激励にも関わらず、守備軍の士気は日一日と衰え、食料も極度に欠乏し、このままでは全員餓死するより他に術の無い処迄、追い詰められ、何処からか援軍の手が差し伸べられない限り、パルミュラの運命は当に風前の灯でした。

 この様な事態を打開する為、彼女は包囲されたパルミュラを脱出し、仇敵ペルシアに救いを求める事にしました。
暗夜、城壁からロープを垂らし、其れに蔦ってローマ軍の野営陣地の真ん中に降り立ち、予ねてより準備した、一つコブの駱駝に跨り、数名の従者を従えて、ローマ軍の最前線を脱出しました。
其れからは、砂漠に光る星の位置を頼りに、東方の国ペルシアに向けて駱駝に鞭を入れたのです。

 ゼノビア一行は、夜間に駱駝で移動し、昼間は谷間に姿を隠して、周囲が暗くなる時間を待ちました。
一行はローマ軍の追撃を恐れ、人家の在る町や村を避け、喉の渇きに苦しめられながら、人目をはばかり夜間の旅を続けたのでした。

 5日目の明け方、東の空が白く成り始めた頃、駱駝の背に跨るゼノビアの勇士が見られました。
彼女は昨夜から一睡もせず、駱駝を進め、その体は綿の様に疲れていたが、寸刻を惜しみ片時もその歩みを止めませんでした。
明け方の光を通し、遥か前方にユーフラテス川の姿が見え始めます。
其処こそ、ゼノビアの目指す終着地であり、対岸には彼女が助けを求めるペルシアが在ります。

 太陽が昇ると3km程先にシュロの並木が見えました。
川の土手に沿って植えられたものです。
目的地は目前ですが、その直ぐ後方200mにはローマ軍の追撃部隊が、急速に近づいて着ます。
もはや一刻の猶予も無く、ゼノビアは全力を振り絞り、疲れきった駱駝に鞭を入れました。
既に追撃部隊の声が近づき、此処で捕らわれては万事休す、何が何でも川迄、行き付かなければ成りません。
ユーフラテス川の岸に着くや否や、駱駝を飛び降り、岸に下りて小船を捜し求めます。
見れば岸から少し離れた場所に、漁夫を乗せた小舟が一艘浮かんでいます。
ゼノビアは在らんばかりの声で、自分たちを乗せてくれる様に頼み、漁夫は舟を巡らし大急ぎで彼女の処に急ぎました。

 ローマ軍追撃隊と漁夫の競争に成りましたが、残念な事にローマ軍の方に軍配が上がってしまいます。
小舟が岸に着いた時、追撃隊の兵士達は土手を乗り越えて岸に下り、ゼノビアの従者を倒すと彼女を捕らえたのでした。
小舟があと1分早く岸に着いていたら、彼女は逃れその後の歴史も変わっていたかも知れません。
パルミユラに篭城し、飢餓に苦しみ、援軍の到着を一日千秋の思いで待ち望んでいた人々も、ゼノビアがローマ軍に捕らえられた事を知ると、総ての希望を失い、城門を開いてローマの軍門に降ったのでした。
アルレリアヌス将軍は、優れた政治家でも在った為、パルミュラの市民には慈悲を足れ、ゼノビアを捕える事で、一般市民を罰する必要は無いと考え、降伏した市民を許し、僅かな守備兵を残すとゼノビアを連れてローマに凱旋しました。

 しかし、彼等がローマへ船団を出航させようとしていた時、パルミュラで市民蜂起が起こり、ローマ軍守備隊を殲滅させる事件が発生してしまいます。
将軍は踵を返してパルミュラを攻略し、火と剣で反乱を鎮圧し、砂漠の中に光り輝いたパルミュラに終末が訪れたのでした。

◎栄華の終焉

 ローマ帝国に捕えられた、ゼノビアの最後については、諸説が存在します。
一説には、彼女はパルミュラがローマ軍に蹂躙された事を知ると、30日間の間、食を断ち絶命したと云い、別の話では、アウレリアヌス将軍が、凱旋した時、彼女を捕虜として連れ帰り、将軍が市内を凱旋行進する時、宝石で飾られた彼女を黄金の鎖で戦車の後ろに繋ぎ、市中を引き回したとも云われています。
その後のゼノビアについても二つの伝承が存在し、第一は、彼女は砂漠の故郷と消え去った栄華を偲びながら、寂しく、捕囚の内に死んで行ったと云うもの。
第二は、更に散文的で、後に彼女は許され自由人と成り、アウリアヌスはティベル河畔に邸宅を与え、静かな晩年を送ったと云うものですが、最近の研究では、第二説が正しいとの見解が発表されています。   

 現在のパルミュラは、シリアを通過する国営イラク石油会社のパイプラインが、地中海に向けて3本敷設されていますが、その1本はシリア砂漠の中央をパルミュラ、ホムスと進み、バニヤス港に抜けています。 
パルミュラの廃墟は、東西1.5kmに及び、かつて栄華を誇った頃、街の主要道路は、巨大な円柱が1500本以上立ち並んでおり、ローマ侵攻時その多くは倒壊してしまいましたが、それでも尚若干の円柱が現在でも往時を偲ばせています。
ゼノビアの建立した、ヴェール神殿には370本の円柱が用いられ、その栄華を誇りましたが、今日でもその数本が現存し、当時の面影を留めています。
巨大な建造物の装飾や形態は、ローマの影響よりもむしろエジプトの其れの名残を留めています。

 第二次世界大戦以前、シリアにはフランスの委任統治領として、外人部隊が駐留していました。
パルミュラ近郊に駐留した部隊の兵士に因れば、シリア人は日が暮れると決して廃墟に近づく事は有りませんでした。
幾世紀にも渡って、夜が更けると、女王ゼノビアの亡霊が一つコブの駱駝に跨り、大路を闊歩し、彼女は黄金の兜を冠り、腕も顕にマントを風に靡かせながら、道行く人々の黒い瞳を注ぎ、槍を取って彼女に従い、城壁を取り囲むローマ軍を打ち破る手助けをしてくれる様、懇願している様に思えてならず、シリア人はその恐ろしさ故に、夜間、廃墟に近づく事はしないと云う事なのです。
  
続く・・・

2014/03/12

歴史のお話その331:語り継がれる伝説、伝承、物語119

<パルミュラ:砂漠の女王ゼノビア>

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 「荒野のタドモル」と呼ばれ後にギリシア人によってパルミュラ(パルム→ナツメヤシ→ナツメヤシの都)と改名した街で、シリア砂漠の中央部に位置します。

3世紀初頭、東部シリアの砂漠にゼノビアと名づけられた、女の子が誕生しました。
父は、アラブのベドゥインの首領ザッパイ、母はクレオパトラの末裔と称される程の美貌を持った、ギリシア女性でした。
彼らの住居は、シュロの葉陰のオアシスに設けられた、駱駝の皮で造った幕舎で、多くの家畜と共に牧草を追う遊牧の民でした。
ゼノビアは子供の頃から、才色とも優れザッパイの部下達も「これ程に美しい少女を見た事が無い」と感心する程で、彼女は父に似て、アラブ人特有の青褐色の肌を持ち、母に似てギリシア風の輝かしい黒い瞳を持っていました。
「その内にきっとクレオパトラの様に美しい娘になる」、母は何時も自慢げに話しをしていたそうです。
しかし、ゼノビアは単に美しいというだけで無く、学問の秀でた才能を見せ、強靭な身体と勇敢さを兼備えていました。
12歳の時には既に、もはや如何なる男達にも負けない程に駱駝を乗りこなし、若くして父ザッパイに変わってベドゥインを率いたのでした。

 その当時、シリア砂漠の中に、際立って有名なオアシスが在りました。
オアシスの名前は、パルミュラと云いシリアの東半分をその勢力化に置き、又この地域はキャラバンの要衝にも辺り、中国の絹、インドの宝石、ペルシアの真珠、アラビアの香料等東方の物資は一旦、パルミュラに集積し、バザールが立ち、ダマスクス(当時の人口200万人)や、ローマをはじめとする裕福な地中海世界へ運ばれて行きました。
大海原に浮かぶ緑の島の様なパルムの都には、ギリシア、アラビア、ユダヤ、シリア等の商人が多数居住し、豪邸を構え、絹、絨毯、ナツメヤシ、多様な穀物、香辛料を蓄える倉庫も多数立ち並んでいたと云います。

 街に住む彼等は、パルミュラを防護する為に、街の周囲11kmに及ぶ城壁を築き、城門から城門を石造りの円柱に支えられた回廊で結びアーケードを形作りました。
神殿、宮殿もその建築は多くの円柱を用い、その円柱にはどれも優れた彫刻が成され、3世紀中葉、荒涼とした砂漠の中央部に、シュロの葉陰と円柱の回廊に囲まれた、パルミュラの街こそは当時世界に比類ない富み栄えた都市国家であったのです。

 当時、東方世界にその版図を広げつつ在ったローマ帝国は、パルミュラの繁栄を我物にする為、軍団を遠征させ、この豊かなオアシス国家を併合し、帝国の領土に編入しました。
最もパルミュラは、ローマの主権を認めながらも、その独立は放棄しませんでした。
しかも、パルミュラの住民の内には、自由をこよなくするアラブ人が多数を居り、彼等は機会を伺いながら反乱を起こし、ローマ帝国からの束縛を跳ね返そうと考えていたのでした。
時のローマ皇帝ティベリウスから元老の位を授けられ、ローマ帝国の名の下にパルミュラを統治していた、アラブ系の若い貴族オディナトウスもその様な一人で、彼は反乱分子を指導訓練する為に、密かに街を離れ砂漠に来た折、其処で図らずも、ベドゥインの首領ザッパイとその娘ゼノビアに出会ったのです。

◎東方の女王

 オディナトウスは美貌で気高く、才にたけ、駱駝乗りの名人でもあるゼノビアを一目見て求愛し、父ザッパイの許しを得て彼女を妻としました。
二人は程なく、パルミュラの館に移り住みます。
歴史上、ゼノビアの様に優れた女王に恵まれた国は殆ど無く、彼女は当時18歳に成ったばかりでしたが、美人の多いパルミュラの街でも、一際目立つ存在でした。
黒い瞳の彼女に勝る美しい女性を探す事は困難でしたが、国事に関しても大臣達は彼女の知恵に驚き、将軍達は彼女の勇敢さに舌を巻きました。

 トレベリウス・ポリオは、彼女の美しさについて「肌の色は暗褐色で瞳は黒く、ただならぬ輝きを放ち、顔立ちは神のごとく表情豊かで、人格は挙措優雅で、歯は真珠の様に白く、声は澄み力強かった」と記録しています。
又、「ローマ帝国衰亡史」の著者エドワード・ギボン(1743年~1794年)は「彼女は言葉の知識だけでも、彼女が勤勉な習慣を身につけさせられた事を示し、又彼女が読んだ、ラテン、ギリシアの文学から、将軍達やオディナトウスよりも世界について深い知識を持っていただろう。彼女はロンギノスの指導の基に、ラテン、ギリシアの作家研究を続け、ロンギノスは同時代の哲学者及び古典学者間でも卓越した人物だった」と述べています。
レオナード・コットレルは「彼女はラテン語、ギリシア語、シリア語に加えてエジプト語にも通じていた。多分、彼女はアレクサンドリアで育ったのだろう」と述べ、更に「美しい才女は、数少ないとは言え、居ない事は無いが、優れた騎手で、軍団の先頭に立って遠征し、将兵と寝食を共にし、将軍としてローマの軍勢を破った才女の如きを聞いた事は無く、ゼノビアは正にその通りで、其れも一時はナイル川からユーフラテス川迄の広大な帝国を支配しながらの事だった」とも書き残しています。

 ゼノビアはローマの専横を極度に憎んでいたので、オディナトウスの妻と成ったその日から、夫を助けてパルミュラをローマの圧制から解放する為に、密かに指導的な役割を演じていました。
例えばアラブ兵の訓練に従い、軍事計画に加わり、馬上で幾日も過ごす事を学び、野営に参加し、士官達と食事を共にしました。
間もなくゼノビアは、自らの手で訓練した精鋭を直接指揮する機会に恵まれます。
ペルシア王シャープルがユーフラテス川を越えて侵入し、ローマ辺境守備隊の一軍団を壊滅させ、パルミュラに侵攻する矛先を向けた時、オディナトウスはゼノビアにペルシア軍迎撃を命じたのでした。

 ゼノビアは長年に渡って訓練した精鋭を率い、暗夜に密かに砂漠を行軍し、ペルシア軍の野営地に夜襲を敢行します。
寝込みを襲われたペルシア軍は、戦意を喪失してユーフラテス川を越えて退却させる事に成功し、ゼノビアはパルミュラに凱旋します。
ローマ皇帝ガリエヌスは、オディナトウスの功績を称え、東方総督の称号を与えて是に報い、ローマ東方帝国の支配を彼に委ねました。

 今やパルミュラは、世にも優れた国王と女王を戴き、近隣にその比を見ぬ程の強国に成りました。
その絶頂にあった時、オディナトウスとその息子の一人が、マエオニウスに暗殺されました。
マエオニウスは、以前国王が狩猟に出かけた折、無礼な行いが有り、罰せられたことを恨み暗殺を企てたのでした。
気丈なゼノビアは、夫の死をいたずらに嘆く事なく、その意思を継ぎ、自ら絶対君主と成って「東方の女王」を名乗ったのでした。

新たにシリアの独裁者に成ったゼノビアは、新しく征服する国を探し求め、遥か西方に地味豊かな文化の進んだエジプトが在り、その地は彼女の祖先クレオパトラの国でもありました。
彼女は7万の軍勢の先頭に立ってパルミュラを離れ、オディナトウスが既に平定していたアラビアを超え、シナイ半島のネゲブ砂漠を横断し、エジプトに向かいました。
僅か一度の戦いで勝利を収め、長子のワハブ・アルラートが「王」の称号でエジプト全土を支配しました。

 今やゼノビアに立ち向かう国は、もはや存在しない様に思われました。
彼女は純白の駱駝に跨り、紫色のマントを翻しながら、砂漠を縦横に駆け巡り、戦いにつぐ戦いをもって、勝利を収め、シリア、パレスチナ、バビロニア、アラビア、ペルシア、小アジア、エジプトはかつての遊牧の民ゼノビアの前に膝を屈し、彼女を最高君主として受け入れたのでした。
ローマ帝国は、かつて領有していた領土の大半を、彼女の強靭な褐色の手で奪われ、それもたった一人の女性で此れほどの広い領土を支配した者は無く、その後にも見出す事はできません。

 かくしてパルミュラは、尊敬と富と栄光に満ち、アジアに於けるローマたる事が約束されたかの様に見えました。
新しい宮殿が建ち、寺院や神殿が建立され、城門の内外には東西の富を満載したキャラバンが集まり、ゼノビアの宮殿には東西の優れた芸術家や学者が大勢おとずれ、ゼノビアはこれ等全ての栄華と光輝を一身に集めていました。
黄金の兜を被り、槍を携え、戦車に乗り、大理石で造られた市内を巡視し、市民は我等の女王に心からの賛美を捧げ拍手を送りました。
特に兵士達の間の人望は、非常に高く彼女の姿在る処、賞賛の歓声は絶える事が在りませんでした。

続く・・・

2014/03/10

歴史のお話その330:語り継がれる伝説、伝承、物語118

<テーベ・ネクロポリス>

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 上エジプトのナイル河畔、ルクソールにはテーベ・ネクロポリスと呼ばれる岩盤をくり抜いた、3000年前の墓所が在ります。
古代エジプト人が「永遠の家」と呼んだ貴人達の墓です。

 現在、エジプトを旅行する人々にとって、王家の谷はピラミッドと並んで人気のある観光地で、現地を訪問してこの両者を見学しない者はまず居ません。
しかしながら、本当にエジプトの歴史に興味を持つ人物に因れば、王家の谷は前評判ばかりが先行し、ラフミラやメンナ等貴人の墓の方が、遥かに興味深いものが在ると云います。
ファラオの陵墓と違い、そこには絵画や浮彫が在り、古代エジプト人の日常生活が再現されているからだと云われています。

 確かに、王家の谷に関する研究書や写真等は、数多く見る事が出来ますが、「貴人の墓」について書かれた文献が少ないと思われます。
貴人の墓には、先に名前を出しましたラフミラの墓が在り、ラフミラは十八王朝トトメス3世(紀元前1502年~紀元前1448年)の宰相を務めた人物でした。
彼の墓は、一般人の墓よりも大きく、見事な壁画で飾られています。
彼の使えたトトメス3世は戦士王で、しばしば遠征を行いましたが、その留守を預かり政務を代行する職がラフミラでした。
彼の墓所の壁画には、朝貢使節から貢納品を受け取る、姿が描かれています。
その姿は、アーサー・エヴァンズがクノッソスで発見したミノア宮殿のフレスコ画に見られる、衣装を身につけ、同様な髪型をし、「杯を持つ人」に描かれた人物と同じ、上品な横顔をしています。
又其処には、ミノア特産の杯、壷、銀製の牡牛の頭を運ぶ姿も描かれています。
この壁画に描かれた人々は、クレタ島の商人で、長い航海の後、ナイル川をルクソール迄遡って来たのでした。

 貴人の墓でもう一人名前が登場した、センネフェルは下エジプト(テーベ)の長官でアモン神の穀倉・庭園・家畜の監督者でもある人物でした。
陵墓の低い天井には、葡萄の葉とたわわに実る葡萄の実が描かれ、センネフェルの精霊は墓の主と成りながらも、尚もかつての葡萄園を監督者として、見回る姿を彷彿とさせます。

 ファラオの書記役で在ったメンナの陵墓の壁には、メンナがパピルスの小船に乗り、沼で狩をする姿が描かれています。
右手に棍棒を持ち、空に向かって飛びたたんとする鴨に向かって、投げつけようしているその傍らで、妻が彼のバランスを保つ為に、両足を支えて助ける様を描いた壁画は、描き出された色彩に驚くほどの光沢を持ち、メンナの健康的な姿は青銅色に輝き、妻の肌は繊細なアラバスター色を示しています。
メンナ夫妻は老齢に達し、ここの埋葬されたのでしょうが、壁画では、若き貴公子とその妻が、鴨狩りに興じる様を見事に描きだしているのです。

 王家の谷の様にファラオの墓は、大変良く紹介されますが、そのファラオ支えたより一般人に近い人々の陵墓にも当時の生活感が存在すると思われます。

続く・・・


2014/03/08

歴史のお話その329:語り継がれる伝説、伝承、物語117

<クレタ島のミノス宮殿>

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◎神話の世界

 エジプトとギリシアの中間、地中海とエーゲ海が接する処にクレタ島(ギリシア領)が在ります。
地中海で4番目に大きな島で、エーゲ海文明の中心地として繁栄し、首都クノッソスにはミノス王の宮殿が在り、数多くの伝説が生まれて処でも在ります。

 ミノス王は聡明な統治者であり、その強力な海軍力は地中海世界を席捲し、首都クノッソスは当時人口8万人を要し、当時地中海世界最大の都市でした。
ミノス王には、アンドロゲオスとアドリアネの二人の子供が居り、アンドロゲオス王子は成人に達する頃、国一番の競技者と成り、当時競技の盛んなアテナイに出かけて競技に加わり、ギリシア本土の選手を皆負かしてしまいます。
この事は当時、アテナイを支配したアイゲウス王に伝わり、王はその事実を大変悔しがり、帰国途中のアンドロゲオス王子を殺害してしまいました。

 この事件は、ミノス王を激怒させると供に、その大艦隊はアテナイを攻略し、更に9年の間、毎年12人の貴族出身の若い男女を貢物として、クノッソスに献上する様に命じました。
この男女は、この世で最も残酷な運命が待ち受けているのでした。

 伝説によれば、ミノス王の妃パーシファエは性行に飽く事を知らず、終には己が欲望を満たす為、職人の長ダイダロスを説き伏せて牝牛の形を作らせ、その中に妃が身を潜めて、牡牛と交わったと云います。
かくして生まれたのが、ミノタウロスと云う半身牡牛、半身人間の怪物で、ミノス王は之を恥じ、ダイダロスに命じて造らせた宮殿の真下の地下室、迷宮に閉じ込めたのでした。
迷宮は、多くの通路、階段、部屋、袋小路を伴い、一度この中に入った者は、二度と再び地上に出る事は不可能で、アテナイから貢物として、毎年送られた12人は、この迷宮の中でミノタウロスの餌食と成って行きました。

 毎年、毎年アテナイの若い男女が命を失って行く中、終にアイゲウス王の一人息子、テセウス王子が生贄となる順番が巡って来ました。
テセウス王子は、クレタ島に着くとミノス王の御前に引き出されます。
その時、ミノス王の傍に居た栗色の髪をした、アドリアネ姫がテセウス王子を見初め、何とかしてミノタウロスの餌食に成る事から助けたいと思い、彼に密かに短剣と糸玉を渡します。
「テセウスは土牢に入るにあたり、密かに糸玉の端を戸口に止め、糸を引きつつ内に入りぬ。ラビュリントスの最奥にミノテウロスの姿を見出し、隠し持てる短剣にて怪物の首を突き刺し、糸玉を手繰り戻り、迷宮を抜け出し、アドリアネ姫を伴い、島を逃れ、アテナイに戻りぬ」

◎神話から現実へ

 以上のお話は、ギリシア神話のお話として有名ですが、後世の人々は此れを荒唐無稽のものとしていました。
しかし、ギリシアの人々は古くからこの話を真実とし、アテナイではテセウス王子を第一の勇者と称え、物語や詩歌に詠われ、大理石や青銅の像と成り、しばしば陶磁器の絵柄と成りました。

 19世紀、啓蒙の時代、批判的な歴史家が隆盛するに従い、伝説を史実と見なさない事が科学的な考え方であるとする風潮が一般的と成り伝説は単なる空想的産物に過ぎないと考える様に成りました。
この時代の風潮に相対したのが、ドイツの富豪で探検家のハインリッヒ・シュリーマン(1820年~1890年)で、彼は幼少の頃から、ホメロスの「イリアス」と「オデッセイア」について、事実を詠ったものであると信じ、トロイの発掘を決意し、実行し、成功を修めます。
幼い時代、想像をかきたてたアガメムノンの城壁に内に在った武具、黄金装飾品を発掘し、ホメロスの「黄金のミケナイ」が真実で或る事を世に示しました。
そして、ミケナイ、ティリンス、オルコメノス等、ギリシア黎明期の文明を明らかにすると供に、これ等文明の源を成しているのが、クレタ文明であると考え、シュリーマン自身もクノッソスの発掘を計画し、現地調査迄行いましたが、実現する事無く世を去ります。

◎クノッソスの発掘

 19世紀も終わりに近い頃、イギリス人アーサー・エヴァンズ(1851年~1941年)がクノッソスを訪れました。
彼は既に著名な考古学者で古銭学に造詣が深かったものの、シュリーマンの様にホメロスやミノス王に纏わる伝説には関心を持ちませんでした。
彼は、この島から発掘された、古代エジプトの聖刻文字に似た、線状文字の粘土板に興味を持ち、その発掘・発見に努めます。

 1900年、19世紀最後の年、同様な粘土版が発掘された、カンディアと呼ぶ都市の近傍、「紳士の頭」(トウ・シェンビ・イ・ケファラ)の丘を買収して発掘を開始しました。
間もなく、数百枚の粘土版を収めた、石造りの貯蔵庫を掘り当て、その貯蔵庫は更に大きな建造物の一部で、広間、通路、階段、柱廊、ホール等が太陽の下に姿を現しました。
彼は25年間の長期に渡り、発掘を続行し、6エーカーに及ぶミノス宮殿の全貌を明らかにします。

 ホメロスは、クレタ島にはクノッソスと呼ぶ大都市が存在し、偉大なるゼウス親友ミノスがその内に在って、九つの海を支配したと述べていますが、人々はこの話を伝説として、誰も信じようとしませんでした。
しかし、ミノス王はもはや伝説ではなく、実在の存在となり、壮麗な王宮の遺跡からヨーロッパ最古の文明の中心地を見ることが出来ます。

ホメロスは、クレタ島を「葡萄酒の様に濃い大洋の最中、周囲に水を回らした美しい豊かな島」と讃えていますが、その中に建てられた、壮大な王宮には数多くの通廊や中庭、真っ暗な回廊、大小幾多の小部屋、そしてそれらを取り巻く通路、階段が点在しこの場所を間違う事なく通る事が出来るなら、当に奇跡と言える程でした。
現在、王宮の大部分は復元され、この為にエヴァンスは私財25万ポンド(当時2億2千万円)を投じたと云われています。
クレタ文化の特徴を示す、下部の細い円柱、部屋、テラスが幾重にも連なり、宮殿の壁面には牛の角、牛と闘牛士、グリフォン、庭を散策する貴公子、宝石と花に彩られた少女等の壁画が、色彩鮮やかに再現されています。

 王宮の地下は文字通り、迷宮の姿を示し、ミノス王自身の玉座の間には、恐らく現存する世界最古の玉座が、4000年の時間を経て存在しています。
ミノス王はこの石造りの玉座に腰を下ろし、妃が半身半獣の怪物を出産した報告を受け、ダイダロスにミノタウロスを幽閉する迷宮を建設する事を命じ、アンドロゲオス王子がアテナイで刺客に倒れ、報復としてアテナイ侵攻を命じ、更にはアテナイの12人の若者を謁見し、アドリアネ姫の逃避行を知ったのでしょう。

 テセウス王子とミノタウロスの伝説が、一定の真理を含んでいる事は間違い在りません。
クレタ島を支配したミノス王は実在し、このミノスの名称はエジプトの「ファラオ」と同じく、王朝全体を意味する言葉でした。
ミノタウロスは神話的な話で在る事には、異論無く、牡牛は力と豊饒の象徴でクレタ島を中心とした信仰が在ったと考えられています。
アテナイから貢物として送られた貴公子達は、この伝説に解答を与える壁画が宮殿の大広間に存在し、大きな牡牛と対峙する男女の闘牛士と関連づけられています。
ラビュリントスの意味は、「ラビュリス(二重の斧)」を意味し、このシンボルはクノッソスにしばしば散見されるもので、更にクレタ文明が紀元前1400年頃滅亡してから、遥か後この地に侵入したギリシア系のドーリア人が、巨大な地下排水設備をラビュリントス(迷宮)と同一視したと考えられています。

続く・・・

2014/03/06

歴史のお話その328:語り継がれる伝説、伝承、物語116

<聖ソフィア寺院>

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◎寺院建立の由来

 トルコ共和国の古都イスタンブールは、遥かな昔コンスタンチノーブル(コンスタンティノポリス)と呼ばれ、更に昔は、ビザンチウムと呼ばれていました。
4世紀初頭、ローマ帝国皇帝コンスタンチヌス1世(紀元274年~337年)は、其れまで邪教として禁令を出していたキリスト教の禁を解き、自らもキリスト教に帰依し、ローマ帝国全土をそれ以前の古い異教から解放して、都を古都ローマからビザンチウムに遷都し、自らの名前を冠してコンスタンチノーブル(コンスタンチヌスの都)と改名し、この街をキリスト教の本山と成る様、尽力したのでした。

 200年程後、皇帝ユスチニアヌス1世(紀元483年~565年)が、ビザンチン帝国の帝位に尽くと、主イエスの栄光を表す為、其れまで異教の神の為に建立された如何なる寺院・神殿よりも大きく、壮麗な寺院を建立しようと考え、西暦530年から造営工事が開始されたのですが、16,000人に上る労働者は、この寺院建設の為、他にも進められていた、全ての公共工事を中断して動員されました。
また、資材は当時、最高の物資を得る為、ヨーロッパ、アジア、アフリカ等ローマ帝国の版図全てが、厳密に調査が行われ、これ等の資材を得る為、財宝を満載した船を各地に派遣しました。

 ユスチニアヌス1世は、聖ソフィア寺院建立の為、皇室宝庫を空に(国家財政を傾け)しましたが、悔やむ事無く、国の官吏の給与を抑え、学校を閉鎖し、軍隊を無報酬で労働させました。
この様にして捻出した金員で、寺院の祭壇を飾る18tの銀と50万個に上る真珠を購入し、寺院の内部は大理石が張り巡らされ、巨大なドームが被せられたのでした。

聖ソフィア寺院は、キリスト教の寺院として916年間存続し、其れまでに多くのキリスト教寺院が建立されましたが、何れも壮麗さ、豪華さの点で聖ソフィア寺院に比較される物は存在しませんでした。
現在ならば、セントピエトロ大聖堂が上げられるのではないでしょうか?
只、歴史の上では、聖ソフィア寺院とセントピエトロ大聖堂では、1000年の隔たりが存在します。

◎寺院の変遷

 嘗て、フランスの一歴史家が、十字軍に従軍しビザンチウムを通過した折、聖ソフィア寺院を見て以下の様に記述しています。
「之は美のパラダイスであり、神の栄光の冠である。其れは天に迄達し、地上の驚異である」と。

 しかし、当時最も文明の進んだ、偉大な都市ビザンチウムにも運命の日が訪れました。
預言者マホメットの教えを信奉するトルコやアラブの国々は、キリスト教の本山と云うべきビザンチウムを嫉み、奪取する事を考えたのでした。

 1453年、イスラム勢力の台頭により、東ローマ帝国が滅亡し、首都ビザンチウムと聖ソフィア寺院もイスラム勢力の手中と成りました。
彼らは、寺院を破壊する事はせず、モスクに改修したのでした。
キリスト教を表わす物は、建造物とその周辺から尽く排除され、聖人の肖像画の描かれた天井には、コーランの一節が記され、銀の祭壇や真珠の装飾も取り除かれ、ドームの頂上に在った十字架は、イスラム教のシンボルである三日月に交換され、更に寺院の四隅にはミナレット(尖塔)が加えられました。

 聖ソフィア寺院は、一時期イスラム勢力によって、イスラム教の寺院として存在しましたが、その後トルコに革命が起こりスルタン制から共和制に移行すると供に、イスラムの僧侶は寺院から追放されます。
現在、トルコ共和国は、聖ソフィア寺院を博物館として維持管理し、イスラム風の絨毯、祭壇、装飾は撤去され、コーランの詩句も削られて、ユスチニアヌス1世時代のキリスト教風の装飾に変更されてその姿を残しています。

続く・・・
2014/03/04

歴史のお話その327:語り継がれる伝説、伝承、物語115

<ストーンヘンジ>

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◎巨石文化

 イギリス、ソールズベリーに在るストーンヘンジは、石垣と言った意味で、先史時代の巨石記念物の一つに数えられます。
元来、巨石記念物は、北部ヨーロッパに多数現存していますが、北部ヨーロッパに限らず、フランス、スペイン、シリア、インド、中国等にも類似のものを見る事が出来、イースター島の巨人石像もこのグループに数える事も可能と思います。

 巨石記念物には、メンヒルの様に自然石を一本の柱の様に立てたものや、アリニュマンと呼ばれる多数のメンヒルを直線状に配列したもの、ストーンサークルに様に、立石を環状に配置したもの、ドルメンと呼ぶ平らな石を天井石として、その下に支えと成る柱石を配置し、一見棚の様に組み立てたものが知られています。

 これ等の巨石記念物は、如何なる目的で造営されたのでしょうか?
勿論、宗教的目的が在ったと思われますし、ドルメンには現在の墓石の一種と見なす研究者も存在します。

 人類の知恵が進むに連れて、生死に区別が生じ、霊魂の事を考える様に成りました。
最初、人間は死んでも、その場所にそのままに残され、鳥や獣に食い荒らされるままにされていました。
処が、霊魂の事を考える様に成ると、死んだ者をそのままにしておけず、その死体を丁寧に埋葬しその上に大きな石を置きました。
死んだ人物の魂の存在を恐れた結果だと考えられ、その為膝や腕を折り曲げて埋葬したのでした。
ドルメンもその一つであり、その発展した形態がエジプトや中南米のピラミッドと云う事が出来るのでしょう。

◎ストーンサークル

 ストーンサークルでは、イギリスのヴィルトシャーに現存する物が、有名で構造的には直径114mの土手を廻らせた濠に囲まれ、現在四重の石のサークル(環)が存在しています。
第一のサークルは30本の支柱列が円形を造り、その上に置かれた横石を渡した構造に成っています。
支柱石の高さは約4m、第二のサークルは高さ1.8mの小型の石を円形に配列し、第三のサークルは高さ6m乃至7mの大石を組んだトリリトン構造が5組、馬蹄型に配置されています。
その内部に同じく馬蹄型に19個の立石が並び、更にその内部の中心に平石1個が設置されています。
これ等のサークルは必ずしも同時期に建設されたものでは無く、何れにしても太陽信仰に起因した宗教的な物と考えられ、放射性同位元素の測定により、紀元前1840年前後に建設されたものと考えられています。

続く・・・
2014/03/01

歴史のお話その326:語り継がれる伝説、伝承、物語114

<万里の長城>

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万里の長城(明代)Wikipediより

◎長城の起源

 或る天文学者が、宇宙空間から地球を観測した時、人間の眼に映る人工物体は、万里の長城だけであると言ったそうです。
万里の長城は中華人民共和国の北辺、モンゴル地域との間に築かれた城壁で、東は河北省の山海関から西は甘粛省嘉峪関に至る2750kmの総延長を誇り、この造営には凡そ100万人以上の人員が命を失い、巨額の費用に国は傾いたと云われています。

 万里の長城が築かれたのは、春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前403年)ですが、紀元前3世紀に秦の始皇帝が天下を統一すると供に、北辺に築かれていた土塁を繋ぎ合わせ、匈奴に対する防衛線を形作り、東は遼東(遼陽)から西は臨洮に至る長さ、万余里と云われ、現在の長城の場所よりも遥か北部に位置していました。
漢の時代、長城は敦煌の西、玉門関迄延長され、現在に位置迄南下したのは、6世紀頃、北斉、隋が契丹や突厥等の侵入を警戒して築いた為でした。
しかし、現在見られる様な堅固な城壁は、明代に成ってからの造作で、強力な蒙古の攻勢に対応する為、歴代の皇帝によって修築を繰り返した結果なのです。

◎長城の構造

 長城の構造は、古くはその殆どが土塁であり、通常板築法を採用していますが、部分的には日干し煉瓦か石積みを施し、地形によっては、自然の断崖を利用し、要所には煉瓦を用いて補強する場合も在りました。
この地上に現存する人間の手になる物の内、実際の大きさ、積み重ねた土砂、煉瓦、石等の量、建設の為の労力等、何一つ長城に勝る物は存在しないと、思われます。

 万里の長城に使用した資材で、高さ2.5m、厚さ1mの城壁を築くと地球の赤道面4万kmを1周する事が可能と云われています。

 北京北西の八達嶺付近の長城は、高さ9m、幅上部4.5m底部9m在り、壁上は北側(満州・蒙古側)に向かって、銃眼が開き、下方からの攻撃を食い止める工夫が成されて、100m毎に望楼が設けられ、周囲の山の起伏に沿って延々と続いています。
城壁の3m幅の通路に成っていますが、車両も荷馬車も通る事はできず、僅かに動物と健脚を誇る人間だけがこの傾斜通路を通る事ができます。
通路は急傾斜の場所は、階段が造られ、川で遮られた場所のみ長城は途切れ、その場所は砦に成っています。

◎受難の民

 万里の長城が最初に構築されたのは、春秋戦国時代ですが、その工事が本格化したのは、秦の始皇帝の時代からなのです。
当時、中国は既に高い文明を有し、繁華な都市は常に侵略者の対象に成り、その侵略者は主に、北方の蒙古や満州方面からの侵入でした。
その地には、女真族、匈奴等の遊牧民族が暮らし、実りの季節に成ると当時中国の最も豊穣な地域を略奪し、都市や其処に住む民を疲弊させたのです。

 其処で秦の始皇帝は、北方からの異民族の侵入を防衛する目的で、万里の長城を築いたと云われています。
始皇帝は、あらゆる自然的、財政的、人的障害を乗り越えて城壁の建設に邁進しました。
遥か東部の海岸線から始まった巨大防塁は、西へ西へと進み、高山の頂きや深い谷を横切り、外敵の防御に最も都合の良い、最も険しい場所を選んで築城されて行きました。
伝説に因れば、始皇帝は翼を持った馬に跨り、馬の導くままに長城を築いたと云われています。
工事が進むに従い、多くの石工や労働者が必要に成り、止む無く秦の国軍に工事を従事させ、更には国土内の牢獄につながれている囚人達も動員して、石切り場、煉瓦工房、城壁の築城現場に派遣したと云われています。
当時、秦の国に如何程の人口が在ったのか定かでは有りませんが、人口の3人に1人の割合で建設に徴用されたものと思われます。

 何万人と云う、過酷な労働者達は、十分な水も食料も無い不毛の山地や砂漠の中で、牛馬の様に使役され、その飲料水や食料は山頂や砂漠の工事現場迄、何里もの道のりを運ばざるを得ませんでした。
この様な過酷な状況の中で、膨大な人数の人間が死んで行き、その死者達は、長城の人柱として無慈悲に長城内に埋められて行き、その上に土が盛られ長城は築かれて行きました。
その為、万里の長城は世界で最も長い墓場であると云う人も居ますが、犠牲者の数は少なくとも100万人に達したと推定されています。

 この様に多大な犠牲を払って造られた長城ですが、実際には異民族の侵入を阻止する事は不可能で、彼等は何も無かった時と同じ様に、何時でも自由に乗り越えたのでした。
秦の人々は「中国人には万里の長城に払った人命と財が重いので、之を乗り越える事は出来ないが、異民族には如何なる負担にも成らないので、容易く乗り越える事が出来る」と揶揄したのでした。

◎その後

 紀元前218年、秦の始皇帝が万里の長城を築いて以来、1600年の間に北方の異民族は、しばしば長城を乗り越えて中国本土に侵入しました。
特に蒙古(後の元)の猛将チンギス・ハーンが13世紀初頭、長城以南の中国本土を支配したばかりではなく、遠くヨーロッパの東部迄侵攻し、当時のスラブ諸国を恐れさせた事は有名です。

 その後、漢民族による中国支配が再び始まり、明の太祖が150年に渡る元朝の支配に終止符を打ち、14世紀の終わりに長城の再建を行いました。
従来から存在した長城を補強修理したばかりでは無く、首都北京の北方を強固に防衛する為、この付近を二重に整え、望楼を追加し、火器を備えさせ北方からの異民族の侵入を阻止しようとしました。
この時の工事でも10万人以上の犠牲者を生じたと云われています。
これ程の大事業でも、200年後にはその効力を失い、1644年ヌルハチに率いられた満州族は、長城を越え中国本土に再び侵攻し、全中国を支配して国号を清と改め、北京を首都としましたが、満州族に支配された中国本土に於いて、満州族を防御する長城は無用の長物なり、1912年に清朝が滅亡する300年間の間、荒廃するがままに放置されました。
現在、万里の長城は、北京周辺や敦煌近郊等極々一部が修復され、往時を再現していますが、航空機や長距離砲、更には大陸間弾道弾迄発達した現代の兵器に対して、長城は余りに無力な存在に成りました。

続く・・・