歴史を歩く10
<ギリシア世界その6>

アテナイの学堂(全景)
(6)ギリシア文化②
ギリシア文化の中で特に重要な位置を占める分野が哲学と歴史です。
哲学とは「人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問」とされ、ギリシア語のphilo(愛する)・sophia(知、叡智)が英語の philosophy(哲学)の語源であることは良く知られており、今日、「人間とは何か」「人は如何に生きるべきか」を追求する学問である哲学の根源は、自然哲学と呼ばれる分野に成ります。

タレース
自然哲学は紀元前6世紀頃、ミレトスを中心とするイオニア植民市で、万物の根源を追求する学問として成立しました。
その最初の有名な学者がタレース(紀元前624年頃~紀元前546年頃 )で、紀元前585年に観測された皆既日食を予言し、ピラミッドの高さの測定等、ギリシアの「七賢人」の一人として知られており、彼は「万物の根源は水である」と考え、自然哲学の祖とされている人物です。
アナクシマンドロス(紀元前611年頃~紀元前547年頃)は、「万物の根源は特定できない無限なるもの」と考えました。

アテナイの学堂よりピタゴラス
「ピタゴラスの定理」で現在でも有名な数学者・哲学者であるピタゴラス(紀元前582年頃~紀元前497年頃 )は「万物の根源は数である」と考えます。
アナクシメネス(紀元前580年頃~)「万物の根源は空気である」と考え、ヘラクレイトス(紀元前544年~?)は宇宙の根源を「永遠に生きている火」で在り、一切の物は火に発して火に還ると説き、「万物は流転する」と云う言葉を残しています。
アナクサゴラス(紀元前500年頃~紀元前428年頃)は、総ての物体は微小なスペルマタ(種子)に分けられ、それが混沌の状態から知性によって整理され世界を形成したと説きました。
そしてエンペドクレス(紀元前493年頃~紀元前433年頃)は、土・水・火・風の4元素による結合・分離から万物の生成・消滅を説明します。
自然哲学の大成者とされる人物が、デモクリトス(紀元前460年頃~紀元前370年頃 )です。
彼は、同質・不可分・不変不滅の小粒子であるアトム(原子)こそが実在で、無数のアトムが結合・分離して万物が生成・変化・消滅する「原子論」初めてを唱えました。
この原子論によって万物の根源の追求には終止符が打たれたのです。
彼が活躍した時代は、アテネの民主政治の全盛期で在り、アテネでは弁論・修辞を教え、報酬を受け取る職業教師とも言える人々が活躍していました。
彼らは自ら、「知恵のある者」と称したのでソフィストと呼ばれたのです。
その代表的な学者がプロタゴラス(紀元前485年頃~紀元前415年頃 )で、彼は「人間は万物の尺度である」とする有名な言葉を残しています。
現在、この言葉は色々に解釈されていますが、普遍的な真理の存在を否定して全てを相対化する、ソフィストの相対主義を表わしており、又哲学の主流を従来の自然哲学、自然論哲学から人間論哲学、現代哲学の様に「人間とは何か」「人は如何に生きるべきか」を追求する学問に転換させる契機になったとされています。

ソクラテスの死
このソフィストの相対主義に対して、絶対的真理の存在を説いた人物が、ソクラテス(紀元前469年頃~紀元前399年)で、彼は彫刻家(または石工)を父に、助産婦を母としてアテネに生まれましたが正確な前半生は不明です。
後半はペロポネソス戦争の時期に相当し、3回従軍して国外に出た他はアテネで暮らしていました。 デルフィの神託の「ソクラテスより賢者は無し」と云う神託の真意を確かめる為、当時ソフィスト(知恵のある者)を尋ね、問答を行いました。
その結果、「何も知らない事も知らない」ソフィスト達よりは「何も知らない事も知っている」自分が勝っていると確信しますが、之が彼の唱えた「無知の知」です。
其処で「汝自身を知れ」、無知を自覚せよ、無知を自覚した上で、真理を追求しようとして、街頭で「問答法」によって人々を真理に導こうとしました。
この時、ソフィストの相対主義を批判し、絶対的真理(真なるもの・善なるもの)の存在を説いた結果、ソフィストの反発を招き、更に衆愚政治に堕した民主政治に反対したので、ペロポネソス戦争に敗れたアテネで、青年を害し、堕落させた要因がスパルタに敗れた原因であるとの理由で告発され、死刑の判決を受けました。
1ヶ月間の入獄中に脱走を進められたのですが、「悪法といえども国家の法に従うべし」と述べ、 毒盃を飲み死を選びましたが、彼の死は弟子達に衝撃を与えたのでした。
彼は著書を一切残していませんが、私達はプラトンの「ソクラテスの弁明」「クリトン」「饗宴」、クセノフォンの「ソクラテスの思い出」等から彼の哲学を知ることができます。

アテナイの学堂よりプラトンとアリストテレス
ソクラテス最大の弟子がプラトン(紀元前427年~紀元前347年 )で、アテネの名門に生まれ、10代の終わり頃からソクラテスに師事し、10年間教えを受けました。
ソクラテスの死後、一時国外に亡命するものの後年帰国を果たし「ソクラテスの弁明」等を執筆します。
後にシチリアに旅した時、同市の僭主と親交を持ち、「国家論」で知を愛する哲学者(哲人)が支配者に成る事で、理想的な政治が実現できると説く「哲人政治」を唱え、実現を期待しますが、結果は裏切りと奴隷に身を落とす寸前で逃れ帰国します。
帰国後、「アカデメイア」(学園、英語 academyの 語源)を創設し、弟子達の教育に専念したのでした。

洞窟の喩え
彼は「イデア論」によってギリシア最高の哲学者と称され、イデアこそが完全な、真の実在であり、 現実の世界にある個々の事物は不完全な「イデアの影」にしか過ぎないと説きました。
其れでは、何故人間は見た事も無い完全なものに憧れるのでしょう?
その訳は、人間の魂が以前イデアの世界に住んでおり、完全なものを知っているのですが現実の世界に生まれ肉体に閉じ込められ、不完全なものしか見えない状態に在るのです。
当然ながら魂がイデアを想起し、完全なもの、真なるものに憧れるのだと説きました。
最高のイデアは「善のイデア」であるとし、善は人間の最高目的であり、実現すべき最高目標であると説いたのです。
プラトン最大の弟子が、アリストテレス(紀元前384年~紀元前322年 )で、 彼は、17才の時アテネに出て、プラトンの「アカデメイア」で20年間学び且つ教えました。
プラトンの死後、各地を遍歴し、マケドニアのフィリッポス2世に招かれ、王子のアレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)の家庭教師を勤めた事は有名です。
フィリッポス2世の死後、アテネに戻り、学園「リュケイオン」を開きました。
彼は、哲学・政治・倫理・歴史・経済・心理・ 論理・美学・生物等あらゆる「学問の祖」であり、「万学の祖」と云われ、古代学問の集大成者でした。
彼の哲学は後世、イスラムや中世のヨーロッパの学問に大きな影響を及ぼす事と成ります。
自然哲学は、現在の学問の分野では自然科学に近く、その意味からも自然哲学から自然科学が起こったのも当然です。
「ピタゴラスの定理」で有名な数学者・哲学者であるピタゴラス(紀元前582年頃~紀元前497年頃 )、「医学の父」ヒッポクラテス(紀元前460年頃~紀元前375年頃 )等が活躍しました。
ヒッポクラテスは、宗教的・迷信的であった当時の医学に対し、人体の自然治癒力を重んじ、病気の原因を科学的に追求しようと努めました。
古代オリエントにも、王の業績等事実を記録した年代記は存在しましたが、本当の意味での歴史はギリシアに始まります。
「歴史学の父」と呼ばれるのは、古代ギリシアの歴史家ヘロドトス(紀元前485年頃~紀元前425年頃 )で、彼は小アジアのハリカルナソスの名家に生まれたものの、同市を追われ紀元前445年頃アテネに移り、南イタリアの植民市の建設に参加し、そこで亡くなりました。
その間、彼は北アフリカ、エジプト、フェニキア、バビロン、黒海北岸を遍歴します。
彼は、ペルシア戦争と、それに至る背景を叙述する事を生涯のテーマとし、「ヒストリアイ」(「歴史」)、或いはその内容から「ペルシア戦争史」と訳される書物を執筆しました。
「Historiai」は、英語historyの語源となった言葉で、本来の意味は探求です。
「歴史」は、ペルシア戦争の原因・背景に始まり、紀元前479年迄を叙述しています。
旅から得られた見聞を豊富に用い、伝承もそのまま取り入れる等、 読んで興味深い物語風の歴史書に成っています。

ヘロドトス
ヘロドトスの物語的歴史に対して、徹底的に史料批判を行い「科学的歴史の祖」とされている人物がトゥキディデス(紀元前460年頃~紀元前400年頃 )です。
彼は、ペロポネソス戦争が始まると「この戦乱が史上特筆に値する大事件に発展する事を予測して、直ちに記述を始めた」と自等記しています。
又「実際に自分で見聞した事、本当に確かだと思える事のみを記述する」として、事実を正確に伝えようと試みました。
しかし、紀元前424年、彼自身将軍の一人として戦争に参加し、作戦失敗の責任を問われて国外追放となり、トラキアに移り、「歴史」(「ペロポネソス戦争史」)の著述を行いました。
ペロポネソス戦争の終結で帰国を許されましたが、数年後に没しています。
「歴史」は、紀元前411年の部分迄となり未完に終わりました。
クセノフォン(紀元前430年頃~紀元前354年頃 )は、アテネに生まれ、後アケメネス朝ペルシアの王子キュロスのギリシア人傭兵隊に参加(紀元前401年)、バビロン付近の戦闘でペルシア王ダレイオス2世軍に敗れ、キュロスも戦死し、彼は1万人のギリシア兵を率いて黒海沿岸に脱出し帰国します。
この体験を「アナバシス」として著述しました。
又「ギリシア史」7巻の初め2巻で、トゥキディデスの後を継いでペロポネソス戦争の終結迄を叙述しています。
最後にイギリスの歴史学者E.H.カーは「歴史は、過去と現在との対話である」と述べています。
歴史は過去の具体的な出来事を扱う学問で在り、過去の事実が不確かであってはならず、従い正確な事実を突き詰める事がまず大切です。
しかし、何れ程正確な事実で在っても、単にそれを積み重ね、列挙しただけでは歴史とは言えません。事実を取捨選択し、意味のあるものに組み立てる史実の解釈が不可欠なのです。
我々が歴史を学ぶのは、単に過去の事実を知る為だけでは無く、過去を知る事によって社会全体の発展の過程を学び、現在の社会をより良く理解する為なのです。
現在の問題を知る為に学ぶ事が無ければ、歴史は単に好奇心を満たす対象となってしまいます。
是等の意味を込めて、カーは「歴史は、過去と現在との対話である」と述べたのでした。
ジョークは如何?
時は、1940年ドイツのフランス侵攻。ドイツ軍は予想以上の戦果をあげ、フランスは崩壊しつつあった。
これを見たイタリアは、このままでは分け前にあずかることが出来なくなるとし、火事場泥棒同然に、フランスに宣戦布告。
執務室で書類を決裁しているヒトラーのもとに副官が駆け込んできた。
副官:「総統閣下、イタリアが参戦いたしました!」 (ヒトラーは、イタリアがドイツに宣戦布告したと勘違いして)
ヒトラー:「そうか。ならば2、3個師団送って対応すればよい」
副官:「いいえ、イタリアは我々の側に立って参戦したのです!」
ヒトラー:「何と言うことだ! 2、3個軍団送って守ってやらねばならんではないか!」
つまり、敵にすると心強いが、味方にすれば侮りがたい(裏切るから)という”戦えば必ず負ける”イタリア軍をからかったジョーク。
事実イタリア軍は明らかに劣勢なフランス「アルプス軍団」相手にこてんぱんにやつけられました。
続く・・・

アテナイの学堂(全景)
(6)ギリシア文化②
ギリシア文化の中で特に重要な位置を占める分野が哲学と歴史です。
哲学とは「人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問」とされ、ギリシア語のphilo(愛する)・sophia(知、叡智)が英語の philosophy(哲学)の語源であることは良く知られており、今日、「人間とは何か」「人は如何に生きるべきか」を追求する学問である哲学の根源は、自然哲学と呼ばれる分野に成ります。

タレース
自然哲学は紀元前6世紀頃、ミレトスを中心とするイオニア植民市で、万物の根源を追求する学問として成立しました。
その最初の有名な学者がタレース(紀元前624年頃~紀元前546年頃 )で、紀元前585年に観測された皆既日食を予言し、ピラミッドの高さの測定等、ギリシアの「七賢人」の一人として知られており、彼は「万物の根源は水である」と考え、自然哲学の祖とされている人物です。
アナクシマンドロス(紀元前611年頃~紀元前547年頃)は、「万物の根源は特定できない無限なるもの」と考えました。

アテナイの学堂よりピタゴラス
「ピタゴラスの定理」で現在でも有名な数学者・哲学者であるピタゴラス(紀元前582年頃~紀元前497年頃 )は「万物の根源は数である」と考えます。
アナクシメネス(紀元前580年頃~)「万物の根源は空気である」と考え、ヘラクレイトス(紀元前544年~?)は宇宙の根源を「永遠に生きている火」で在り、一切の物は火に発して火に還ると説き、「万物は流転する」と云う言葉を残しています。
アナクサゴラス(紀元前500年頃~紀元前428年頃)は、総ての物体は微小なスペルマタ(種子)に分けられ、それが混沌の状態から知性によって整理され世界を形成したと説きました。
そしてエンペドクレス(紀元前493年頃~紀元前433年頃)は、土・水・火・風の4元素による結合・分離から万物の生成・消滅を説明します。
自然哲学の大成者とされる人物が、デモクリトス(紀元前460年頃~紀元前370年頃 )です。
彼は、同質・不可分・不変不滅の小粒子であるアトム(原子)こそが実在で、無数のアトムが結合・分離して万物が生成・変化・消滅する「原子論」初めてを唱えました。
この原子論によって万物の根源の追求には終止符が打たれたのです。
彼が活躍した時代は、アテネの民主政治の全盛期で在り、アテネでは弁論・修辞を教え、報酬を受け取る職業教師とも言える人々が活躍していました。
彼らは自ら、「知恵のある者」と称したのでソフィストと呼ばれたのです。
その代表的な学者がプロタゴラス(紀元前485年頃~紀元前415年頃 )で、彼は「人間は万物の尺度である」とする有名な言葉を残しています。
現在、この言葉は色々に解釈されていますが、普遍的な真理の存在を否定して全てを相対化する、ソフィストの相対主義を表わしており、又哲学の主流を従来の自然哲学、自然論哲学から人間論哲学、現代哲学の様に「人間とは何か」「人は如何に生きるべきか」を追求する学問に転換させる契機になったとされています。

ソクラテスの死
このソフィストの相対主義に対して、絶対的真理の存在を説いた人物が、ソクラテス(紀元前469年頃~紀元前399年)で、彼は彫刻家(または石工)を父に、助産婦を母としてアテネに生まれましたが正確な前半生は不明です。
後半はペロポネソス戦争の時期に相当し、3回従軍して国外に出た他はアテネで暮らしていました。 デルフィの神託の「ソクラテスより賢者は無し」と云う神託の真意を確かめる為、当時ソフィスト(知恵のある者)を尋ね、問答を行いました。
その結果、「何も知らない事も知らない」ソフィスト達よりは「何も知らない事も知っている」自分が勝っていると確信しますが、之が彼の唱えた「無知の知」です。
其処で「汝自身を知れ」、無知を自覚せよ、無知を自覚した上で、真理を追求しようとして、街頭で「問答法」によって人々を真理に導こうとしました。
この時、ソフィストの相対主義を批判し、絶対的真理(真なるもの・善なるもの)の存在を説いた結果、ソフィストの反発を招き、更に衆愚政治に堕した民主政治に反対したので、ペロポネソス戦争に敗れたアテネで、青年を害し、堕落させた要因がスパルタに敗れた原因であるとの理由で告発され、死刑の判決を受けました。
1ヶ月間の入獄中に脱走を進められたのですが、「悪法といえども国家の法に従うべし」と述べ、 毒盃を飲み死を選びましたが、彼の死は弟子達に衝撃を与えたのでした。
彼は著書を一切残していませんが、私達はプラトンの「ソクラテスの弁明」「クリトン」「饗宴」、クセノフォンの「ソクラテスの思い出」等から彼の哲学を知ることができます。

アテナイの学堂よりプラトンとアリストテレス
ソクラテス最大の弟子がプラトン(紀元前427年~紀元前347年 )で、アテネの名門に生まれ、10代の終わり頃からソクラテスに師事し、10年間教えを受けました。
ソクラテスの死後、一時国外に亡命するものの後年帰国を果たし「ソクラテスの弁明」等を執筆します。
後にシチリアに旅した時、同市の僭主と親交を持ち、「国家論」で知を愛する哲学者(哲人)が支配者に成る事で、理想的な政治が実現できると説く「哲人政治」を唱え、実現を期待しますが、結果は裏切りと奴隷に身を落とす寸前で逃れ帰国します。
帰国後、「アカデメイア」(学園、英語 academyの 語源)を創設し、弟子達の教育に専念したのでした。

洞窟の喩え
彼は「イデア論」によってギリシア最高の哲学者と称され、イデアこそが完全な、真の実在であり、 現実の世界にある個々の事物は不完全な「イデアの影」にしか過ぎないと説きました。
其れでは、何故人間は見た事も無い完全なものに憧れるのでしょう?
その訳は、人間の魂が以前イデアの世界に住んでおり、完全なものを知っているのですが現実の世界に生まれ肉体に閉じ込められ、不完全なものしか見えない状態に在るのです。
当然ながら魂がイデアを想起し、完全なもの、真なるものに憧れるのだと説きました。
最高のイデアは「善のイデア」であるとし、善は人間の最高目的であり、実現すべき最高目標であると説いたのです。
プラトン最大の弟子が、アリストテレス(紀元前384年~紀元前322年 )で、 彼は、17才の時アテネに出て、プラトンの「アカデメイア」で20年間学び且つ教えました。
プラトンの死後、各地を遍歴し、マケドニアのフィリッポス2世に招かれ、王子のアレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)の家庭教師を勤めた事は有名です。
フィリッポス2世の死後、アテネに戻り、学園「リュケイオン」を開きました。
彼は、哲学・政治・倫理・歴史・経済・心理・ 論理・美学・生物等あらゆる「学問の祖」であり、「万学の祖」と云われ、古代学問の集大成者でした。
彼の哲学は後世、イスラムや中世のヨーロッパの学問に大きな影響を及ぼす事と成ります。
自然哲学は、現在の学問の分野では自然科学に近く、その意味からも自然哲学から自然科学が起こったのも当然です。
「ピタゴラスの定理」で有名な数学者・哲学者であるピタゴラス(紀元前582年頃~紀元前497年頃 )、「医学の父」ヒッポクラテス(紀元前460年頃~紀元前375年頃 )等が活躍しました。
ヒッポクラテスは、宗教的・迷信的であった当時の医学に対し、人体の自然治癒力を重んじ、病気の原因を科学的に追求しようと努めました。
古代オリエントにも、王の業績等事実を記録した年代記は存在しましたが、本当の意味での歴史はギリシアに始まります。
「歴史学の父」と呼ばれるのは、古代ギリシアの歴史家ヘロドトス(紀元前485年頃~紀元前425年頃 )で、彼は小アジアのハリカルナソスの名家に生まれたものの、同市を追われ紀元前445年頃アテネに移り、南イタリアの植民市の建設に参加し、そこで亡くなりました。
その間、彼は北アフリカ、エジプト、フェニキア、バビロン、黒海北岸を遍歴します。
彼は、ペルシア戦争と、それに至る背景を叙述する事を生涯のテーマとし、「ヒストリアイ」(「歴史」)、或いはその内容から「ペルシア戦争史」と訳される書物を執筆しました。
「Historiai」は、英語historyの語源となった言葉で、本来の意味は探求です。
「歴史」は、ペルシア戦争の原因・背景に始まり、紀元前479年迄を叙述しています。
旅から得られた見聞を豊富に用い、伝承もそのまま取り入れる等、 読んで興味深い物語風の歴史書に成っています。

ヘロドトス
ヘロドトスの物語的歴史に対して、徹底的に史料批判を行い「科学的歴史の祖」とされている人物がトゥキディデス(紀元前460年頃~紀元前400年頃 )です。
彼は、ペロポネソス戦争が始まると「この戦乱が史上特筆に値する大事件に発展する事を予測して、直ちに記述を始めた」と自等記しています。
又「実際に自分で見聞した事、本当に確かだと思える事のみを記述する」として、事実を正確に伝えようと試みました。
しかし、紀元前424年、彼自身将軍の一人として戦争に参加し、作戦失敗の責任を問われて国外追放となり、トラキアに移り、「歴史」(「ペロポネソス戦争史」)の著述を行いました。
ペロポネソス戦争の終結で帰国を許されましたが、数年後に没しています。
「歴史」は、紀元前411年の部分迄となり未完に終わりました。
クセノフォン(紀元前430年頃~紀元前354年頃 )は、アテネに生まれ、後アケメネス朝ペルシアの王子キュロスのギリシア人傭兵隊に参加(紀元前401年)、バビロン付近の戦闘でペルシア王ダレイオス2世軍に敗れ、キュロスも戦死し、彼は1万人のギリシア兵を率いて黒海沿岸に脱出し帰国します。
この体験を「アナバシス」として著述しました。
又「ギリシア史」7巻の初め2巻で、トゥキディデスの後を継いでペロポネソス戦争の終結迄を叙述しています。
最後にイギリスの歴史学者E.H.カーは「歴史は、過去と現在との対話である」と述べています。
歴史は過去の具体的な出来事を扱う学問で在り、過去の事実が不確かであってはならず、従い正確な事実を突き詰める事がまず大切です。
しかし、何れ程正確な事実で在っても、単にそれを積み重ね、列挙しただけでは歴史とは言えません。事実を取捨選択し、意味のあるものに組み立てる史実の解釈が不可欠なのです。
我々が歴史を学ぶのは、単に過去の事実を知る為だけでは無く、過去を知る事によって社会全体の発展の過程を学び、現在の社会をより良く理解する為なのです。
現在の問題を知る為に学ぶ事が無ければ、歴史は単に好奇心を満たす対象となってしまいます。
是等の意味を込めて、カーは「歴史は、過去と現在との対話である」と述べたのでした。
ジョークは如何?
時は、1940年ドイツのフランス侵攻。ドイツ軍は予想以上の戦果をあげ、フランスは崩壊しつつあった。
これを見たイタリアは、このままでは分け前にあずかることが出来なくなるとし、火事場泥棒同然に、フランスに宣戦布告。
執務室で書類を決裁しているヒトラーのもとに副官が駆け込んできた。
副官:「総統閣下、イタリアが参戦いたしました!」 (ヒトラーは、イタリアがドイツに宣戦布告したと勘違いして)
ヒトラー:「そうか。ならば2、3個師団送って対応すればよい」
副官:「いいえ、イタリアは我々の側に立って参戦したのです!」
ヒトラー:「何と言うことだ! 2、3個軍団送って守ってやらねばならんではないか!」
つまり、敵にすると心強いが、味方にすれば侮りがたい(裏切るから)という”戦えば必ず負ける”イタリア軍をからかったジョーク。
事実イタリア軍は明らかに劣勢なフランス「アルプス軍団」相手にこてんぱんにやつけられました。
続く・・・
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