2014/04/30

歴史を歩く10

<ギリシア世界その6>

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アテナイの学堂(全景)

(6)ギリシア文化②

 ギリシア文化の中で特に重要な位置を占める分野が哲学と歴史です。
哲学とは「人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問」とされ、ギリシア語のphilo(愛する)・sophia(知、叡智)が英語の philosophy(哲学)の語源であることは良く知られており、今日、「人間とは何か」「人は如何に生きるべきか」を追求する学問である哲学の根源は、自然哲学と呼ばれる分野に成ります。

タレス
タレース

 自然哲学は紀元前6世紀頃、ミレトスを中心とするイオニア植民市で、万物の根源を追求する学問として成立しました。
その最初の有名な学者がタレース(紀元前624年頃~紀元前546年頃 )で、紀元前585年に観測された皆既日食を予言し、ピラミッドの高さの測定等、ギリシアの「七賢人」の一人として知られており、彼は「万物の根源は水である」と考え、自然哲学の祖とされている人物です。

 アナクシマンドロス(紀元前611年頃~紀元前547年頃)は、「万物の根源は特定できない無限なるもの」と考えました。

ピタゴラス
アテナイの学堂よりピタゴラス

 「ピタゴラスの定理」で現在でも有名な数学者・哲学者であるピタゴラス(紀元前582年頃~紀元前497年頃 )は「万物の根源は数である」と考えます。

 アナクシメネス(紀元前580年頃~)「万物の根源は空気である」と考え、ヘラクレイトス(紀元前544年~?)は宇宙の根源を「永遠に生きている火」で在り、一切の物は火に発して火に還ると説き、「万物は流転する」と云う言葉を残しています。

 アナクサゴラス(紀元前500年頃~紀元前428年頃)は、総ての物体は微小なスペルマタ(種子)に分けられ、それが混沌の状態から知性によって整理され世界を形成したと説きました。
そしてエンペドクレス(紀元前493年頃~紀元前433年頃)は、土・水・火・風の4元素による結合・分離から万物の生成・消滅を説明します。

 自然哲学の大成者とされる人物が、デモクリトス(紀元前460年頃~紀元前370年頃 )です。
彼は、同質・不可分・不変不滅の小粒子であるアトム(原子)こそが実在で、無数のアトムが結合・分離して万物が生成・変化・消滅する「原子論」初めてを唱えました。
この原子論によって万物の根源の追求には終止符が打たれたのです。

 彼が活躍した時代は、アテネの民主政治の全盛期で在り、アテネでは弁論・修辞を教え、報酬を受け取る職業教師とも言える人々が活躍していました。
彼らは自ら、「知恵のある者」と称したのでソフィストと呼ばれたのです。

 その代表的な学者がプロタゴラス(紀元前485年頃~紀元前415年頃 )で、彼は「人間は万物の尺度である」とする有名な言葉を残しています。
現在、この言葉は色々に解釈されていますが、普遍的な真理の存在を否定して全てを相対化する、ソフィストの相対主義を表わしており、又哲学の主流を従来の自然哲学、自然論哲学から人間論哲学、現代哲学の様に「人間とは何か」「人は如何に生きるべきか」を追求する学問に転換させる契機になったとされています。

死ソクラテスの
ソクラテスの死

 このソフィストの相対主義に対して、絶対的真理の存在を説いた人物が、ソクラテス(紀元前469年頃~紀元前399年)で、彼は彫刻家(または石工)を父に、助産婦を母としてアテネに生まれましたが正確な前半生は不明です。
後半はペロポネソス戦争の時期に相当し、3回従軍して国外に出た他はアテネで暮らしていました。 デルフィの神託の「ソクラテスより賢者は無し」と云う神託の真意を確かめる為、当時ソフィスト(知恵のある者)を尋ね、問答を行いました。

 その結果、「何も知らない事も知らない」ソフィスト達よりは「何も知らない事も知っている」自分が勝っていると確信しますが、之が彼の唱えた「無知の知」です。
其処で「汝自身を知れ」、無知を自覚せよ、無知を自覚した上で、真理を追求しようとして、街頭で「問答法」によって人々を真理に導こうとしました。
この時、ソフィストの相対主義を批判し、絶対的真理(真なるもの・善なるもの)の存在を説いた結果、ソフィストの反発を招き、更に衆愚政治に堕した民主政治に反対したので、ペロポネソス戦争に敗れたアテネで、青年を害し、堕落させた要因がスパルタに敗れた原因であるとの理由で告発され、死刑の判決を受けました。

 1ヶ月間の入獄中に脱走を進められたのですが、「悪法といえども国家の法に従うべし」と述べ、 毒盃を飲み死を選びましたが、彼の死は弟子達に衝撃を与えたのでした。
彼は著書を一切残していませんが、私達はプラトンの「ソクラテスの弁明」「クリトン」「饗宴」、クセノフォンの「ソクラテスの思い出」等から彼の哲学を知ることができます。

プラトンとアリストテレス
アテナイの学堂よりプラトンとアリストテレス

 ソクラテス最大の弟子がプラトン(紀元前427年~紀元前347年 )で、アテネの名門に生まれ、10代の終わり頃からソクラテスに師事し、10年間教えを受けました。
ソクラテスの死後、一時国外に亡命するものの後年帰国を果たし「ソクラテスの弁明」等を執筆します。
後にシチリアに旅した時、同市の僭主と親交を持ち、「国家論」で知を愛する哲学者(哲人)が支配者に成る事で、理想的な政治が実現できると説く「哲人政治」を唱え、実現を期待しますが、結果は裏切りと奴隷に身を落とす寸前で逃れ帰国します。
帰国後、「アカデメイア」(学園、英語 academyの 語源)を創設し、弟子達の教育に専念したのでした。

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洞窟の喩え

 彼は「イデア論」によってギリシア最高の哲学者と称され、イデアこそが完全な、真の実在であり、 現実の世界にある個々の事物は不完全な「イデアの影」にしか過ぎないと説きました。
其れでは、何故人間は見た事も無い完全なものに憧れるのでしょう?
その訳は、人間の魂が以前イデアの世界に住んでおり、完全なものを知っているのですが現実の世界に生まれ肉体に閉じ込められ、不完全なものしか見えない状態に在るのです。
当然ながら魂がイデアを想起し、完全なもの、真なるものに憧れるのだと説きました。
最高のイデアは「善のイデア」であるとし、善は人間の最高目的であり、実現すべき最高目標であると説いたのです。

 プラトン最大の弟子が、アリストテレス(紀元前384年~紀元前322年 )で、 彼は、17才の時アテネに出て、プラトンの「アカデメイア」で20年間学び且つ教えました。
プラトンの死後、各地を遍歴し、マケドニアのフィリッポス2世に招かれ、王子のアレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)の家庭教師を勤めた事は有名です。
フィリッポス2世の死後、アテネに戻り、学園「リュケイオン」を開きました。

 彼は、哲学・政治・倫理・歴史・経済・心理・ 論理・美学・生物等あらゆる「学問の祖」であり、「万学の祖」と云われ、古代学問の集大成者でした。
彼の哲学は後世、イスラムや中世のヨーロッパの学問に大きな影響を及ぼす事と成ります。

 自然哲学は、現在の学問の分野では自然科学に近く、その意味からも自然哲学から自然科学が起こったのも当然です。
「ピタゴラスの定理」で有名な数学者・哲学者であるピタゴラス(紀元前582年頃~紀元前497年頃 )、「医学の父」ヒッポクラテス(紀元前460年頃~紀元前375年頃 )等が活躍しました。
ヒッポクラテスは、宗教的・迷信的であった当時の医学に対し、人体の自然治癒力を重んじ、病気の原因を科学的に追求しようと努めました。

 古代オリエントにも、王の業績等事実を記録した年代記は存在しましたが、本当の意味での歴史はギリシアに始まります。

 「歴史学の父」と呼ばれるのは、古代ギリシアの歴史家ヘロドトス(紀元前485年頃~紀元前425年頃 )で、彼は小アジアのハリカルナソスの名家に生まれたものの、同市を追われ紀元前445年頃アテネに移り、南イタリアの植民市の建設に参加し、そこで亡くなりました。
その間、彼は北アフリカ、エジプト、フェニキア、バビロン、黒海北岸を遍歴します。

 彼は、ペルシア戦争と、それに至る背景を叙述する事を生涯のテーマとし、「ヒストリアイ」(「歴史」)、或いはその内容から「ペルシア戦争史」と訳される書物を執筆しました。
「Historiai」は、英語historyの語源となった言葉で、本来の意味は探求です。
「歴史」は、ペルシア戦争の原因・背景に始まり、紀元前479年迄を叙述しています。
旅から得られた見聞を豊富に用い、伝承もそのまま取り入れる等、 読んで興味深い物語風の歴史書に成っています。

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ヘロドトス

 ヘロドトスの物語的歴史に対して、徹底的に史料批判を行い「科学的歴史の祖」とされている人物がトゥキディデス(紀元前460年頃~紀元前400年頃 )です。
彼は、ペロポネソス戦争が始まると「この戦乱が史上特筆に値する大事件に発展する事を予測して、直ちに記述を始めた」と自等記しています。

 又「実際に自分で見聞した事、本当に確かだと思える事のみを記述する」として、事実を正確に伝えようと試みました。
しかし、紀元前424年、彼自身将軍の一人として戦争に参加し、作戦失敗の責任を問われて国外追放となり、トラキアに移り、「歴史」(「ペロポネソス戦争史」)の著述を行いました。
ペロポネソス戦争の終結で帰国を許されましたが、数年後に没しています。
「歴史」は、紀元前411年の部分迄となり未完に終わりました。

 クセノフォン(紀元前430年頃~紀元前354年頃 )は、アテネに生まれ、後アケメネス朝ペルシアの王子キュロスのギリシア人傭兵隊に参加(紀元前401年)、バビロン付近の戦闘でペルシア王ダレイオス2世軍に敗れ、キュロスも戦死し、彼は1万人のギリシア兵を率いて黒海沿岸に脱出し帰国します。
この体験を「アナバシス」として著述しました。
又「ギリシア史」7巻の初め2巻で、トゥキディデスの後を継いでペロポネソス戦争の終結迄を叙述しています。

 最後にイギリスの歴史学者E.H.カーは「歴史は、過去と現在との対話である」と述べています。
歴史は過去の具体的な出来事を扱う学問で在り、過去の事実が不確かであってはならず、従い正確な事実を突き詰める事がまず大切です。
しかし、何れ程正確な事実で在っても、単にそれを積み重ね、列挙しただけでは歴史とは言えません。事実を取捨選択し、意味のあるものに組み立てる史実の解釈が不可欠なのです。
我々が歴史を学ぶのは、単に過去の事実を知る為だけでは無く、過去を知る事によって社会全体の発展の過程を学び、現在の社会をより良く理解する為なのです。
現在の問題を知る為に学ぶ事が無ければ、歴史は単に好奇心を満たす対象となってしまいます。
是等の意味を込めて、カーは「歴史は、過去と現在との対話である」と述べたのでした。

ジョークは如何?

 時は、1940年ドイツのフランス侵攻。ドイツ軍は予想以上の戦果をあげ、フランスは崩壊しつつあった。
これを見たイタリアは、このままでは分け前にあずかることが出来なくなるとし、火事場泥棒同然に、フランスに宣戦布告。

 執務室で書類を決裁しているヒトラーのもとに副官が駆け込んできた。

副官:「総統閣下、イタリアが参戦いたしました!」 (ヒトラーは、イタリアがドイツに宣戦布告したと勘違いして)
ヒトラー:「そうか。ならば2、3個師団送って対応すればよい」
副官:「いいえ、イタリアは我々の側に立って参戦したのです!」
ヒトラー:「何と言うことだ! 2、3個軍団送って守ってやらねばならんではないか!」

 つまり、敵にすると心強いが、味方にすれば侮りがたい(裏切るから)という”戦えば必ず負ける”イタリア軍をからかったジョーク。
事実イタリア軍は明らかに劣勢なフランス「アルプス軍団」相手にこてんぱんにやつけられました。


続く・・・
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2014/04/25

歴史を歩く9

<ギリシア世界その5>

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(6)ギリシア文化①

 ギリシア人は、東方の先進文化であるオリエント文化の影響を受けながらも、自由なポリスの市民生活の営みの中から、独自の人間中心的、現実的、合理的文化を創造しました。
広義でのヘレニズム(ギリシア風文化)は、ヘブライズム(キリスト教)と共にヨーロッパ文明の二大潮流として後世に大きな影響を及ぼしたのです。

トティティスゼウス
ゼウスとティティウス

 ギリシア人はゼウスを主神とするオリンポスの12神等、多くの神々を信仰し、彼らが信仰した神々は、人間と同様な系図を持ち、喜怒哀楽の感情を持ち、恋愛をし、時には嫉妬もする人間的な神々ですが、人間との最大の違いは不老不死であることでした。
この人間的な神々の姿はギリシア神話に生き生きと描かれています。

 文学では、神話の中から生まれ、神々や英雄の活躍を描いた叙事詩が紀元前8世紀から紀元前7世紀頃に盛んと成り、最古の大叙事詩である「イリアス」と「オデュッセイア」の 作者であるホメロス(生没年不明、紀元前8世紀頃 )は盲目の詩人でした。

ホメロス礼賛
ホメロス礼賛

 「イリアス」はトロヤ戦争が10年目を迎えた時、その49日間の出来事を総指揮官アガメンノンと第1の勇者アキレウスの対立を軸に描いています。
「オデュッセイア」はその後編に位置し、トロヤ戦争が終わって諸将が帰国した後も、イタカの王オデュッセウスはトロヤの神の怒りに触れ、10年にわたって海上を漂流し、様々な冒険・苦難の末に帰国に成功するまでが描かれています。
この二大叙事詩は、今日に至るまで世界中の多くの人々に愛読されています。

 ヘシオドス(紀元前700年頃)は、「労働と日々」で知られていますが、この作品は小土地所有農民であった彼が、怠惰な弟への戒めの形で書かれたもので、人間は額に汗して働くべきであると、勤労の尊さを歌いました。
彼には、神々系譜を扱った「神統記」があり、ホメロス以来の大叙事詩人とされています。

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サッフォー

 紀元前7世紀から紀元前6世紀の貴族政の末期になると、人々の感情を歌った叙情詩が盛んと成り、有名な女流詩人のサッフォー(紀元前612年頃~? )は、レスボス島の富裕な家に生まれ、少女時代をシチリアで過ごし、帰郷後、宗教団体をつくり、少女達と生活を共にし、詩や音楽を教えたとされています。
恋愛詩が現在でも残っていますが、 少女達への激しい情熱を歌っているところから、「レスボスの女」からレスビアン(同性愛)なる単語が派生しました。
後に彼女の詩は情熱の明白な描写から禁書と成ります。

 更に恋と酒を歌ったアナクレオン(紀元前560年頃~? )、オリンピアの競技祝勝歌で有名なピンダロス(紀元前518年~紀元前438年)等が活躍しました。

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ギリシア時代の劇場風景

 紀元前5世紀のアテネ民主政全盛期に盛んとなったのが演劇です。
演劇はギリシア文化を代表する分野であり、優れた作品は今日でもしばしば上演されています。
演劇は、元来はぶどうの神、ディオニソス(バッカス)に捧げる祭礼でしたが、国家の祭典に伴う行事となり、この頃からコンクールの形を取るように成りました。
市民から選挙と抽選で選ばれた5人の審査員の投票により順位が決められ、優勝者にはオリンピア競技の優勝者と同様の称賛が与えられたので、多くの劇作家が競って優れた作品を発表したのです。

 その為に立派な野外劇場が建設され、現在迄保存されており、その音響効果のすばらしさで有名なペロポネソスの「エピダウロスの劇場」、アテネの「ディオニソスの劇場」が特に有名です。
多くの劇作家の劇が上演され、競いあったなかでもアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスは三大悲劇詩人と現在でも讃えられています。

縛られたプロメテウス
縛られたプロメテウス

 アイスキュロス(紀元前525年~紀元前456年)は、マラトン、サラミスの戦いにも参加している人物ですが、悲劇作家として活躍し、約90の作品を書いたと伝えられますが、その殆んどは散逸し、現在に伝えられる作品は7編のみです。
「ペルシア人」「アガメムノン」「縛られたプロメテウス」等が代表作品とされ、先に記述した悲劇のコンクールでもしばしば優勝の記録が残っています。

 ソフォクレス(紀元前496年頃~紀元前406年)は、処女作で優勝を果たし、以後120編以上の作品を書き、24回の優勝を経験し、代表作の「オイディプス王」他7編が現存している。

エウリピデス (紀元前485年頃~紀元前406年頃 )新しい手法を模索した結果、優勝回数は5回と少ないものの、18編が現存しており、特に「メディア」は代表作とされています。
彼以後、悲劇は急速に衰え、紀元前5世紀から紀元前4世紀には喜劇が隆盛と成っていきました。

 悲劇とは、不老不死の神と違い、いつか死ぬ運命にあり、しかも神の意志によって運命が決められる人間そのものが悲しみで、神に操られる人間の運命を題材としましたが、これに対して喜劇は、権力や金に固執する人間や社会の批判・風刺を題材としています。

 代表的な喜劇作家がアリストファネス(紀元前445年頃~紀元前385年頃)で、彼の青年時代はペロポネソス戦争の時代で、戦乱に明け暮れた期間に辺り、アテネは当にデマゴーグの時代、ポリス社会が腐敗・衰退していく時期でした。
その様な中で彼は平和を念願し、デマゴーグを徹底的に批判したのです。
喜劇44編の内、現存する作品は11編で、「女の平和」「女の議会」「雲」「蜂」等が代表作品として知られています。
紀元前411年に上演された「女の平和」は、アテネとスパルタ双方の女達が、夜の営みを拒否する事によって戦争を中止させる反戦劇でした。

 美術の分野では、絵画は壺絵等に盛んに描かれましたが、後世で云う処の絵画は発達せず、彫刻が中心となりました。
背景として、ギリシアでは彫刻に適した大理石が用意に取得できた事も1つの要因と考えられます。

 最も代表的な彫刻家はフェイディアス(紀元前490年頃~紀元前430年頃 )で、彼はアテネ在住の人物で神像彫刻に優れ、ペリクレスの知遇を得て、パルテノン神殿造営の監督を引き受けました。
パルテノン神殿の「アテナ女神像」は代表作なのですが、現在ではコピー作品が伝わるのみです。

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アテナ女神像

しかし、フェイディアスは、パルテノン神殿造営で不正があったとして摘発され、獄死したと伝えられています。
更に「円盤投げ」で知られるミュロン(紀元前5世紀)、「オリンピアのヘルメス像」で有名なプラクシテレス(紀元前4世紀)等が活躍しました。

 ギリシア美術を代表するものの一つが、神殿を中心とする建築分野で在り、特にパルテノン神殿は荘重なドーリア式建造物の代表で、ペリクレス時代に建立され、先にも記した様にフェイディアスが造営監督を務めました。
現在もアテネのアクロポリスの上にその姿を留めていますが、ギリシア政府はその保存に相当な苦労を強いられていると云われています。
神殿建築様式は時代と共に変化しており一般的には、ドーリア式からイオニア式、そしてコリント式へと変化し、特に列柱形式にその特色が顕著に表れています。
優雅なイオニア式、華麗且つ技巧的なコリント式と表現されています。

ジョークは如何?

1990年から2000年までの10年は「失われた10年」と呼ばれている。何が失われたか?
それは
アメリカにとっては政治的威信が
ロシアにとっては軍事的威信が
日本にとっては経済的威信が
失われたのである。

2014/04/22

歴史を歩く8

<ギリシア世界その4>

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(3)ポリスの発展(その③)

 ペルシア戦争はギリシア的なヨーロッパとアジアとが衝突し、ギリシア的自由市民国家がオリエント的専制国家に対して勝利し、以後のギリシアのみならず、後世のヨーロッパの歴史にも大きな影響を及ぼす出来事でした。

 第3次ペルシア戦争後も、ペルシア再来の可能性は依然として存在しており、この様な状況の中で、従来のスパルタに替わって「ギリシア連合」の中心と成ったアテネを盟主として、紀元前477年にデロス同盟が結成され、エーゲ海周辺の数百のポリスが加わります。
参加したポリスには、ペルシアの脅威に対抗する為の軍船・兵員を提供するか若しくは、軍事費捻出の為、貢租を納める義務を課せられました。
この同盟資金は、最初はエーゲ海の小島デロスに置かれましたが、紀元前454年に同盟の金庫がアテネに移され、資金がアテネ財政に流用されるようになり、アテネは盟主として他の同盟国を支配下に置き、以後アテネは事実上の「アテネ帝国」として繁栄していく事に成ります。

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 サラミスの海戦で活躍した無産市民は、自分達がギリシアの自由を守ったと(当然)主張し、政治的権利の要求を強めて行きます。
この様な状況の中で、紀元前462年に、母はクレイステネスの姪であり富裕な名門出身のペリクレス(紀元前495年頃~紀元前429年)が一種のクーデターにより、元老院から実権を奪取し、政治・司法における実権を五百人評議会、民会、民衆裁判所に委ねました。

 特に民会が政策決定の最高機関として、民衆裁判所が最高の司法機関としての力を持つように成りましたが、結果的にアルコン(最高官職、執政官、任期1年)の権威は失墜し、任期は1年のまま重任、再任が認められていた将軍職の地位が極めて高くなり、その様な背景の中15年間連続で将軍職に重任したペリクレスが台頭し、紀元前443年に保守派の中心人物が陶片追放で退けられると、「名目上は民主政、事実は独裁」と称された、ペリクレス時代(紀元前443年~紀元前429年)が現出しました。
このペリクレス時代にアテネ民主主義が完成したと云っても良いと思います。

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ペリクレスの演説

 国家の最高決定機関は民会で、民会は500人評議会が提案した議案のみを審議しました。
民会には成年男子市民であれば誰でも出席し、自由に発言ができ、民会への出席者には日当が支給されました。
民会は年に40回位開催されましたが、出席率等不明な部分も多く、又将軍・財務官等の一部官職を除いて、一般官職が市民に開放され、抽選で決められたのです。
官職抽選制も古代ギリシアの民主主義の特色で、この様に庶民迄が役人と成る課程に於いて、官職就任時には、報酬が支給されるように成りました。

 これ等諸制度を現代民主主義と比較すると、幾つかの相違点が存在します。

1)現代の間接民主制に 対して直接民主制である事。
2)成年男子市民による民主制で在って、女性には参政権が無かった事。
3)民主主義に最も相反する奴隷制の上に成立した民主主義である事。
4)官職抽選制が取り入れられた事。
5)政党が存在しない事。

 ペリクレスは、市民の日当を公金から支払う政策を取って市民の歓心をかい、その資金はデロス同盟の資金を流用し、同じくデロス同盟の資金でアテネ海軍の増強にも務めました。
対外的には、ペルシアとスパルタを同時に敵にまわす事の不利を悟り、紀元前449年にはペルシアと「カリアスの和約」を結び、紀元前446年にはスパルタと30年間の和約を結びます。
又ペルシア戦争の際、破壊された神殿の跡にパルテノン神殿を再興し(紀元前447年着工~紀元前432年完成)、文化を奨励し、アテネの全盛期を築いた反面、晩年には専横な行動も多かったと伝えられ、嫡子2人をペストで失い、自らもペスト患い他界します。

(4)奴隷制度

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市民生活(この中に何れ程の奴隷階級が居るのか?)

 奴隷制は古代社会では、普通に存在する制度形態ですが、ギリシアのポリス社会は、古代ローマと共に、世界史上最も奴隷制が発達した社会でも在りました。
奴隷とは、他人への隷属性が最も強い人間であり、人格が認められず、所有者の意のままに労働を強制され、譲渡・売買された人々です。
一般的に、その発生の原因は、戦争捕虜・略奪・世襲・債務の不払い等ですが、ギリシアでも債務の為に転落した市民の他、捕虜、奴隷として輸入された異民族が奴隷として売買されたのでした。

 アテネには、人口の約3分の1に相当する約8万人の奴隷が存在したと考えられています。
その多くは異民族の奴隷であり、その中で債務奴隷はソロンの立法以後は禁止されました。
アテネの場合、奴隷の多くは召し使い等の家内奴隷ですが、 銀山(ラウレイオン銀山等)をはじめ鉱山でも大量の奴隷が使用され、その生活は最も悲惨を極めました。
又陶器の製造をはじめとする手工業でも奴隷が労働力となり、市民の生活を支えたのでした。
スパルタでは被征服民が奴隷とされ、ヘロット(ヘイロタイ)と呼ばれ、農業労働に従事しています。

 有名な哲学者アリストテレスは「奴隷は生きた財産である。・・・ 奴隷と家畜の用途には大差がない。なぜなら両方とも肉体によって人生に奉仕するものだから。・・・」と述べています。
当時のギリシアでは奴隷制度はその経済基盤上必要不可欠な制度であり、大学者で在ってもその存在に疑問の余地を挟む問題では無かったのです。

(5)ポリス社会の没落(その①)

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 アテネは、デロス同盟の盟主として、その地位は強化され、紀元前449年のペルシアとの和約によって存在理由が無意味と成ったデロス同盟の加盟ポリスから、貢租金を取り立て、その財源をアテネの為に流用し、又アテネの民主制を加盟ポリスに強要する等、種々の干渉、強制を加え、反乱に対しては武力で弾圧を行いました。
ペリクレス時代のアテネは、当に「アテネ帝国」として、エーゲ海周辺に確固たる覇権を確立した時代でした。

 当然ながら、このアテネの繁栄を快く思ってなかったのがスパルタです。
スパルタはその強力な武力を背景に、紀元前6世紀末迄に、ペロポネソス半島一帯の諸ポリスから成るペロポネソス同盟の盟主となり、ギリシア随一の強力なポリスと自他ともに認められる存在に成っていました。

 スパルタは、少数のスパルタ人が多数のペリオイコイやヘロットを支配している貴族政のポリスで、従い他のポリスの貴族政や寡頭政を支持していました。
アテネのような民主政治を導入する事は、スパルタの崩壊につながると考え、民主派を弾圧こそが国是で在り、アテネが興隆し、その影響が周辺に広まることはスパルタにとって当に政治的脅威でした。
その意味でも、いずれ両陣営間の激突は避けられないことも当然の成り行きでした。
その様な中、紀元前446年に30年間の和約が結ばれますが、約15年で条約は破綻し、ギリシア世界を二分する、ペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)が勃発することになります。

 紀元前431年3月、スパルタ側のテーベ軍がアテネ側のプラタイアに侵入しました。
この事件は以後27年間に及ぶペロポネソス戦争の発端と成り、スパルタはペロポネソス同盟軍を動員して、アッティカ(中部ギリシア東部のエーゲ゙海面した半島部、アテネはこのアッティカ地方に位置)に侵入し、耕地を破壊します。

 当時、ペロポネソス同盟側の兵力は、約5万人の重装歩兵とそれを上回る軽装歩兵、約100隻の三段櫂船であり、対するデロス同盟側は 約3万人の重装歩兵、数千の軽装歩兵、約300隻の三段櫂船を持ち、陸軍ではペロポネソス同盟に劣るものの、海軍力では圧倒的な戦力を有していました。
当然ながらペリクレスは陸戦を避け、海戦に持ちこむ作戦を展開し、アッティカの田園地方を放棄して、籠城戦術を選択します。
ペリクレスは艦隊をペロポネソス半島に出動させますが、スパルタ軍は耕地並びに周辺村落を破壊するに留まり、第1年目はアテネ側がやや優勢のうちに集結します。

 翌年の紀元前430年、アテネでは戦死者の国葬が営まれ、ペリクレスが有名な葬礼演説を行ったのですが、そのなかで、民主政治、自由、勇気、理性等「ギリシアの模範」としてのアテネが優越する 点を列挙して、次のように言っています。

「われらの政体は他国の制度を追従するものではない。人の理想を追うのではなく、人をして我範を習しめるものである。その名は、少数者の独占を廃し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と 呼ばれる。」

 紀元前430年、スパルタは再度アッティカに侵入、40日間に及ぶ破壊行為を行います。
この侵入の直後アテネに、ペストが大流行します。
ペストはアテネの外港ピレウスで発生し、すぐ様アテネに飛び火しました。
当時のアテネは過密で、不衛生な籠城生活であることが災いし、この恐ろしい疫病は非常な勢いで広まり、2年間で全人口の3分の1を死に追いやります。

 現在、ペストは地球上からほぼ消滅しましたが、歴史的には20世紀初頭迄何度も大流行し、多くの人々の命を奪いました。
主な症状は、高熱、激しい嘔吐、下痢、腫物で、大多数は発病後 7日から9日目で死亡します。
幸い一命を取りとめた者も、末端部の機能喪失、盲目、健忘症に悩まされました。
死体は街路にも神殿にも積み重ねられ、その死肉を食べた鳥獣も同じ運命を辿ったのです。
人々は自暴自棄に陥り、ペリクレスに非難が集中し、彼は罷免され、紀元前429年に再び将軍に選任されますが、彼自身ペストに罹災し、この年に亡くなります。
ペストは紀元前430年~紀元前429年に猛威をふるい、一時は沈静化の兆しが見えたものの、紀元前427年に再度の流行が発生し、紀元前426年迄続く災難と成りました。

(5)ポリス社会の没落(その②)

 ペリクレス亡き後のアテネの政治を導いたのは、所謂デマゴーグ達でした。
このデマゴークの意味は本来「民衆を指導する者」なのですが、一般には「煽動政治家」と説明されており、民衆に迎合してこれを煽動し、土地や戦利品獲得の夢を煽り、貧しい民衆達の好戦機運を盛り上げることによって、彼等の支持を得ることで政権を維持しようとした人々を指します。
今日の「デマ」と言う単語は、このデマゴークから派生した言葉です。
民主政治は当に衆愚政治へと堕落して行いきました。

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 紀元前426年、アテネ軍はピロスを占領し、スパルタ軍を包囲しました。
その為スパルタは現状維持を条件に和平を申し入れたのですが、有名なデマゴーグのクレオン(皮なめし業者)は、この和平提案に強硬に反対を唱え、法外な要求を繰り返し、更なる戦争による利益を要求する民衆を煽動し、交渉を決裂させ、和平の好機を逃がしてしまいます。

 その後、スパルタはトラキアに出兵し、同地の諸都市をアテネから離反する様画策した結果、紀元前422年、クレオンはトラキアに派兵を行うものの大敗を喫し、自らも戦死します。
その現実を受けて、アテネでもようやく和平の機運が強まり、紀元前421年、双方占領地を返還する条件で「ニキアスの和約」が締結されました。

 ニキアスはクレオン亡き後の最も有力な政治家であり、銀山の採掘を営み、千人の奴隷を所有する富豪でした。
彼はスパルタとの和平を続ける努力を継続するのですが この様な状況のなかで、アルキビアデスが急速に頭角を現してきます。
彼も又富裕な名門出身で、後見人であるペリクレス家で育てられ、ソクラテスに愛された、美貌、才気煥発の人物でした。
紀元前420年、30才の時に将軍に選ばれた彼はニキアスと対立し、ニキアスの和平主義に対して、スパルタの仇敵アルゴスと同盟し、紀元前418年にスパルタと交戦し大敗を喫します。

 この頃、シチリア島のアテネの同盟国がアテネに救援を求めていました。
アルキビアデスは第1人者となる絶好のチャンスと考え、大衆はその勇ましい計画に魅せられ、空前の大遠征が決議され、アルキビアデスとニキアスが指揮官に抜擢され、紀元前415年60隻の三段櫂船を含む100隻の大船隊と約6000人の歩兵からなる大遠征隊が出陣しました。
ところがシチリア到着後、アルキビアデスにたいする本国への召喚命令が届けられ、彼はその召喚の途上、脱出し、寝返る様にスパルタへ逃亡します。

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 シチリア遠征軍は、シラクサを包囲しますが、スパルタからの増援軍到着によって、アテネ側包囲軍は次第に劣勢に陥り、紀元前413年の陸戦で惨敗を喫し、撤退を余儀なくされるものの、退路を封鎖され、その封鎖突破試みた海戦でも敗れ、約4万人の退却は悲惨を極めました。
約7千人が戦争捕虜となり、更に多くの将兵が病気や飢えで死んでいきました。
アテネはこの遠征で莫大な艦隊と兵員を失い、資金面でも大打撃を被ったのです。

 シチリア遠征の失敗以後、小アジアのポリスが次々とアテネから離反し、スパルタと結んだ結果、以後小アジアをめぐる攻防戦は続くのですが、スパルタはペルシアと同盟を結び、度重なる海戦を繰り返し、紀元前405年最後の海戦に敗れたアテネは海上から封鎖され、食料も尽き、翌年紀元前404年にアテネは終に降伏し、ギリシア全土に惨禍をもたらしたペロポネソス戦争はスパルタの勝利で幕を降ろしました。

 ギリシアの覇者となったスパルタは、各国に監督官と守備隊を派遣し、寡頭政を強要しますが、鎖国政策を放棄した影響がすぐに現れ、貨幣経済が普及し、市民間に貧富の差が生じてきます。
スパルタの覇権奪取を巡って、アテネ、テーベ、アルゴス、コリントが同盟してコリント戦争(紀元前395年~紀元前386年)が勃発します。
その背後にはペルシアの策謀が存在し、ペルシアはスパルタが強大になることに大いなる警戒心を持ち、ギリシアに分裂・抗争を起こさせることを狙い、アテネその他のポリスを経済的に援助し、ギリシアの政局を左右したのでした。

この頃テーベが急速に勃興してきます。
テーベは、アテネの北方ボイオティア地方に位置し、早くからギリシア中部の中心ポリスでしたが、 ペロポネソス戦争ではアテネ攻撃の先鋒と成りました。
しかし、戦後はスパルタと対立し、紀元前4世紀前半にエパメイノンダス(エパミノンダス)(?~紀元前362年)指導のもとで国力を充実させ、紀元前371年のレウクトラの戦いで、エパメイノンダスの考案した斜線陣戦法で、スパルタに対して決定的な勝利を得ることが出来ました。

 これによってギリシアの覇権はスパルタからテーベに移つり、 エパメイノンダスはスパルタに対抗して諸ポリスの解放に努めますが、紀元前362年にスパルタとの戦いで戦死し、テーベの覇権も、 彼の戦死と共に急速に失われ、以後ギリシアは慢性的な戦争状態に陥り、ギリシア世界全体が衰退していきました。

 この頃、北方ではマケドニアが勃興し、その王フィリッポス2世 (紀元位前359年~紀元前336年)が、ギリシアに侵入します。
アテネとテーベは連合して、紀元前338年カイロネイアの戦いに敗れ、全ギリシアはマケドニアの支配下に置かれることと成りました。

ジョークは如何?

ソビエトの収容所で三人の元労働者が何故捕まったのかを話していた。
「俺は一分遅れただけでぶち込まれたんだ。職務怠慢で。」
「俺なんか一分早かったんでぶち込まれたんだ。スパイ容疑で。」
「お前らはまだましさ。俺なんか時間きっかりに着いてぶち込まれたんだ。
西側製の時計を持っている容疑で。」

続く・・・

2014/04/18

歴史を歩く7

<ギリシア世界その3>

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第1次、第2次ペルシア戦争に於ける、ペルシア軍の作戦行動

(3)ポリスの発展(その②)

 小アジア西岸のイオニア地方には、ミレトスを中心とする多くの植民市が建設されていました。
当時、東方ではアケメネス朝ペルシアが隆盛を極め、小アジアにその膨張の矛先を向け、イオニア諸都市を支配下に置いて行きます。
ペルシアはこのイオニア諸都市に専制政治・僭主政を強制し重い課税制度を押し付けたのです。

 これに対して、紀元前500年にミレトスを中心とするイオニア諸都市に反乱(イオニアの反乱)が勃発します。
イオニア諸都市はギリシア本土へ救援を依頼するものの、スパルタはこの要請に応じず、結果として紀元前494年、ペルシアはミレトスを占領・破壊し、反乱は鎮圧されますが、このイオニアの反乱に際して、アテネが20隻の軍船を派遣した事が、ペルシアがアテネに対する懲罰軍を派遣する口実を与える結果となり、此処に歴史に残るペルシア戦争(紀元前500年~ 紀元前449年、狭義的には紀元前492年~紀元前449年)が始まります。

 第1次ペルシア戦争に於いて紀元前492年、ダレオイス1世はトラキア、マケドニア遠征を行いますが、アトス岬で猛烈な北風の為、艦艇300隻、兵員2万人を喪失、遠征そのものは失敗に終わったものの、エーゲ海北岸に対するペルシアの支配権を確立する事ができました。

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マラトンの戦い

 第2次ペルシア戦争は紀元前490年、ダレイオス1世は、アテネ・ エレトリアに対する報復の大軍を動員します。
エレトリアもイオニアの反乱の際、アテネと共に軍船を派遣した経緯が在り、ペルシア軍はまずエレトリアを攻撃、これを陥落させ、直様アテネに進軍、9月初めアテネの東北方面のマラトンへ上陸しました。
この時ペルシア軍を導いた人物が、20年前にアテネを追放されたヒッピアスなのです。
何故アテネ近郊に上陸作戦を敢行しなかったのかは現在でも軍事行動上の大きな謎ですが、アテネではマラトンへ出撃をめぐって意見が対立し、結果的に積極作戦を主張するミルティアデスの意見が通り、アテネ軍はマラトンにペルシア軍を迎え撃つ事に成ります。

 数日間の小さな戦闘が在りましたが、終に全面戦闘が始まり、10万人のペルシア軍(実際は3万乃至4万)を 約1万人のアテネ軍が激突したのです。
有名なマラトンの戦いは、夜明け前に始まり午前中には集結しますが、その結果は、アテネ軍重装歩兵の密集隊(ファランクス)の目覚しい活躍でアテネ側の勝利に終わり、ペルシア軍の大敗走と成りました。
戦死者は、ペルシア軍約6400名、アテネ軍約200名と云われています。

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「我ら勝てり!」

この有名な戦いは、今日「マラソン競技」として記念されています。
激戦が終わった直後、エウクレスが完全武装のままでアテネまで「35km」を力走、「我ら勝てり」と一言いうなり息が絶えたと伝えられています。
この故事を記念して、第1回オリンピック・アテネ大会で現在のマラトン村からアテネまでの約40kmの競技が行われ、後に42.195kmとなり現在に至っています。

  第3次ペルシア戦争で、マラトンの敗戦を知ったダレイオスは直様、より大規模な遠征の準備に着手しますが、4年後の紀元前486年に崩御し、王子クレルクセス1世(在位紀元前486値~紀元前465年)が王位を継承します。
クレルクセスは紀元前480年、空前の大遠征軍を率いてギリシアに侵攻しました。
この為、陸上部隊を全員船で輸送する事は事実上不可能となり、陸上部隊はエーゲ海の北岸沿いに進み、海軍がこれを援護しながらの行軍と成りました。
紀元前492年のアトス岬の悲劇を避ける為、半島の付け根部分に運河を開鑿し、ペルシア軍の兵力について、ヘロドトスは陸軍210万人と記録していますが、実際は約30万人、海軍は三段櫂船約1200隻と考えられています。

 マラトンの戦い以後、ペルシアの再来が予測される中でも、未だギリシアは統一されていませんでした。
アテネでは、クセルクセスによる対戦準備が本格化していた紀元前483年に大規模な銀山が発見され、アテネ市民は慣例に従い、これを市民の間で分配しようと試みますが、この時テミストクレス(紀元前528年頃 ~紀元前462年頃 )は、その分配を差し止め、200隻の三段櫂船の新造させ、ペルシアの侵攻に備えたのです。

 ペルシアの侵攻が始まった頃、アテネはデルフィの神託を求めました。
最初、巫女はアテネの壊滅を予言し、更なる神託を求めた時「ゼウスは、女神(アテナ)に木の壁(艦船の意味)を与え給う。これぞ唯一つ難攻不落にして汝と子に益さん。」とのお告げを得たとされています。

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テルモピレー・スパルタ守備隊

 ペルシア軍はマケドニア方面から南下し、ギリシア連合軍も之を迎撃する形で、テルモピレー(海沿いの土地で山が迫り、隘路になっている場所)でペルシアの南下を阻止する作戦でした。
紀元前480年8月、ここに現代でも語り継がれる有名なテルモピレーの戦いが始まります。

 テルモピレーのギリシア軍守備隊は、スパルタ王レオニダス指揮下に、スパルタ市民の精鋭300人を中心とした総勢約6000人がこの任務に従事していました。
守備隊は、ペルシア軍弓兵の威力が発揮できないように、隘路の断崖に展開します。
守備隊はペルシアの大軍を相手に奮戦するのですが、地元ギリシア人がペルシア軍に迂回路を教えた為、背後を突かれる形となり、挟撃の激戦の末、300人のスパルタ兵は全員戦死しました。
この戦場跡に建てられた墓碑の詩には以下の碑文が刻まれています。
「旅人よ、ラケダイモン(スパルタのこと)の国人に行き伝えよ。御身らが命に服して、我らここに死にしと」

 テルモピレーの戦い後、ペルシア軍勢はほとんど無抵抗状態の中を南下、9月にはアテネのアクロポリスを占領しますが、この時アテネでは、「テミストクレスの決議」に従って大部分の市民は、アテネの南にあるサラミス島へ疎開しており、少数の者達が籠城していただけでした。

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ギリシア連合艦隊出撃

 テミストクレスは、軍船の数でペルシア海軍に劣る為、広い水域での戦闘を避け、狭い水道での戦闘に戦術を変え、内通者を装った使者をペルシア軍に送り、ギリシア海軍がサラミスから撤退しようとしていると告げさせます。
クセルクセスはサラミスを封鎖する作戦に出て、500隻のペルシア海軍主力艦隊が狭い水道に侵入しました。
この時、ギリシア連合艦隊の三段櫂船の総数は約310隻と伝えられています。

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サラミスの海戦俯瞰図

 夜明けと共に狭い水域で、海戦史上名高い「サラミスの海戦」(紀元前480年9月下旬)が始まりました。
機動力に優るギリシア海軍は追い風を利用し、衝角戦法(出来るだけ直角に近い角度で相手の船に船首の衝角「ラム」を突入させ、吃水線以下に穴を開け打撃を与える戦法)で、狭い水域に大艦隊で突入し混乱に陥ったペルシア海軍を攻撃し、敵艦の多数撃沈したのでした。

 サラミスの海戦はペルシア戦争の勝敗を決定づけた戦いであるだけでなく、ギリシアのその後の歴史を考える時、大変重要な戦いであったと考えられています。
特に三段櫂船の漕ぎ手として多数の無産市民が活躍した事は、後の民主主義の発達に大きな影響を及ぼしました。
三段櫂船の漕ぎ手は1隻あたり170名から200名で、アテネの軍船200隻には漕ぎ手だけでも3万4千人以上が必要になります。
当時、アテネの重装歩兵階層以上の市民が約1万5千人、無産市民が約2万人と推定されていますので、全市民が乗り組んだであろうと思われます。
特にマラトンの戦いでは活躍出来なかった無産市民(文字通り財産が無い為、武器・武具を自分で買うことができず、重装歩兵部隊に入れなかった人々、当時は武器・武具は、ポリスから支給されず、自分で 調達しなければ成りませんでした)の活躍が大きな比重を占めました。
この為ペルシア戦争後、従来参政権を与えられなかった無産市民も参政権を要求し、その要求は認められて行くなかで、ギリシアの民主主義が完成して行く発端に成った戦いでした。

 サラミスの敗戦後、クセルクセスはサルディスに退却しましたが、約15万人のペルシア精鋭部隊はギリシア半島の北方で越冬待機しており、ギリシアは依然として大きな脅威に曝されていました。

 紀元前479年、アテネ・スパルタ連合軍はプラタイアに進撃してペルシア陸軍を撃破し、同じ頃、イオニアのミカレー岬ではギリシア連合艦隊がペルシア艦隊を撃破し、ギリシア側の勝利が確定します。
紀元前449年に「カリアスの和約」でアテネとペルシア間の和平条約が結ばれ、小アジアのギリシア植民市の独立が承認され、ペルシア戦争は正式に終焉を迎えました。

ジョークは如何?

米同時多発テロの翌日、中国の首相がブッシュ大統領に電話をかけてお見舞いを言った。
「大変な悲劇でしたね。いろいろお困りでしょう。
 わが国にできることがあれば何でも言って下さい」
「はい、ありがとうございます」
「ブルドーザーが足りないなら、こちらにはたくさんあります」
「はい、ありがとうございます」
「ガレキを埋める場所がないなら、こちらには広い土地もあります」
「はい、ありがとうございます」
「ペンタゴンの機密書類が見つからないなら、こちらにはコピーもあります」

続く・・・


2014/04/14

歴史を歩く6

<ギリシア世界その2>

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ギリシア主要ポリスの位置

(3)ポリスの発展(その①)

 ミケーネ時代の小王国は暗黒時代(紀元前12世紀~紀元前8世紀頃)に消滅、滅亡し、王権は衰退、ポリスが成立する頃には、王は貴族の中の一人と成っていました。
従って、最初王を頂いていた各ポリスでは、紀元前7世紀頃には広い支配地域と 多くの家畜を保有し、馬を飼育し、高価な武具を備え、騎兵としてポリス防衛に重要な役割を果たした貴族が、ポリスの政治・軍事の実権を掌握し、貴族政治が確立したのでした。
アテネでも、貴族出身の9人のアルコン(執政官、任期1年)が政治運営の実権を握っていました。

 紀元前750年から紀元前550年の約200年間の間に、ギリシア人は地中海・黒海沿岸にかけて活発な植民活動を行いますが、その主要な動機は第一にポリス内部での人口の増大の結果、土地獲得の要求、第二に商業活動への関心がそれに拍車をかけました。

 この植民活動の結果、新しいポリスが次々に誕生し、その中にはその後発展を遂げ、現在まで続いている都市が存在します。
代表的な都市として、マッシリア(現在のマルセイユ)、ネアポリス(現在のナポリ)、ビザンティオン (現在のイスタンブール)等を上げる事ができます。

 植民活動による植民市の建設は、単にポリスの数が増加しただけではなく、ポリス内部にも大きな変化を引き起こし、本国のポリスと植民市のポリス間の商業・貿易が盛んに成るに従い、貨幣の使用が現れます。
鋳造貨幣の使用は紀元前7世紀頃、リディアで始まり、小アジアとの交易を通してギリシアに伝わり拡大して行きました。
更に商業の発達に伴い、手工業の発達も著しく、陶器、ブドウ酒、オリーブ油、金属器等が作られこれらの商品は輸出される様になります。
この様な商業・貿易・手工業の発達、貨幣経済の進展により、貴族の様な大規模土地所有が無くても、貨幣財産では彼らに匹敵する富を蓄えた豊かな平民が出現し、「貨幣こそは人」と云う諺は当時の状況をよく現していると思います。

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重装歩兵密集隊(ファランクス)

 商工業の発達に伴って武器製造も盛んとなり、安価な武器が普及すると、豊かな平民の中には、武器・武具を手に入れ、重装歩兵となり、ポリスの防衛に参加する者も出現しました。
従来、貴族が政治を独占出来た最大の理由は、彼らが騎兵としてポリスの防衛の主体だったことに在りましたが、平民の重装歩兵から成る密集隊(ファランクス)が戦術の中心へと変化し、騎馬の貴族の役割が低下していく事になります。
その為「国防の主体である貴族が政治を独占するのは当然である」という論理は崩壊し、今や自分たちもポリス防衛に重要な役割を果たしている現実を直視すれば、当然政権に参加する権利があると主張する平民との対立・抗争が激しく成っていきます。

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 従来の貴族政治の時代には、慣習法は成文化されず、貴族側に都合の良い様に自由に解釈されてきた為、平民は慣習を成文化する事を要求し、アテネではドラコン(生没年不明 )が、紀元前621年頃、従来の慣習法を整理・改正してギリシア最初の成文法を編纂します。
内容は刑罰が非常に厳しく、死刑の適用が多かった結果「血で書かれた」と評された成文法でした。

 貨幣経済の発展によって、平民の経済的地位が向上したのですが、もちろん全ての平民が豊かになった訳では在りません。
一方では貨幣経済の進展によって没落していく者も多く、農民の中には、借財に苦しみ、土地を失い、 奴隷に地位を落とす者も次第に増えて行きました。
借財を払えない者は土地を債権者に差押さえを受け、生産物の6分の1を債権者に納め、それが滞納になった場合や、身体を抵当として借金をした返済不能者は、奴隷として外国に売られてしまう事が当時の慣習法でした。

 貴族と平民の対立・抗争が激しくなり、一方で農民の困窮が急速に進み、奴隷に転落する者が急増していくという、アテネ内政の危機に「調停者」として登場してくる人物がソロン(紀元前640頃~紀元前560頃 )です。
「調停者」とは、ポリスが危機に陥った時、市民の合意により一定の期間全権を委ねられ、相争う党派の調停に当たり、重要な立法を行う人を云います。

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ソロン・紀元前639年頃 - 紀元前559年頃

 王家の血筋を引き名門生まれのソロンは紀元前594年に「調停者」に選ばれ、有名な「ソロンの改革]を断行しました。
まず最大の問題であった没落する市民を救う為に、「重荷おろし」と云われた借財の帳消しを行い、今後は身体を抵当とする借財を禁止しました。
次に国政の改革を行い、「財産政治」を実施します。
これは市民を 土地・財産によって4等級に分け、参政権や軍事上の義務をそれぞれの等級に応じて定めたもので、第1級(富者、500メトロンの土地)はアルコンなどの最高官職に、第2級(騎士、300メトロンの土地)はその他の官職に、第3級(農民、 200メトロンの土地)は重装歩兵、その他の官職に、第4級 (労働者、無産者)にも民会への参加を認めたものでした。

 財産政治は生まれでなく、土地・財産によって官職を定めているところから、平民にも最高官職への道が開かれ、その意味で、貴族政治は終焉を迎えます。
しかし、当然ながら借財の帳消しに対しては貴族・富裕者が強い不満を持ち、一方土地の再分配、言い換えれば、大土地所有者の土地を接収し、貧しい農民に分けることを期待していた貧農も不満を持ちました。
又身体を抵当とする借財の禁止によって、借金の道を閉ざされた人々の生活も問題でした。
双方から不満を聞いたソロンは、国外に出て各地を見聞し帰国後、僭主出現の警告を発したものの効果なく、改革法案が実行に移されない事を悲しみながら亡くなります。

 ソロン改革後の30年間は、アテネは混乱の連続で、当時3つの党派が存在し対立していました。これは地域的な対立でもあり、中央の平野を地盤とし寡頭政治を求めた平野党、中庸の政体を求める海岸党、そして山地党は貧しい者の党で民主政治を要求していたのです。

 山地党の首領であった名門出身のペイシストラトス(紀元前600年頃~紀元前528年)が、紀元前560年に山地党を率い、親衛隊と共にアクロポリスを占領して僭主となり、政権を奪取します。
僭主とは貴族と平民の対立を利用して非合法手段で独裁権を握った者を示す言葉です。

 彼は、後に反対派によって2度の亡命を余儀なくされますが、三度僭主として政権を担当し、彼の政権は手工業者・商人の支持を背景に中小農民を支柱とし、農業奨励と小農民保護を政策の中心としました。
又5%の地租を課してアテネの財政力を高め、更に手工業や海上発展にも力を注いだのです。
彼の人柄は穏和で親しみやすく、ソロンの国政を変更せず巧みな政治運営を行い 、後世の人々からは理想の政治と賛辞されました。

 しかし、一方で彼は自分の一族を高官に就任させ、又彼の二人の子の時代には、僭主政治は暴政と化し、僭主は英語のtyrant(暴君)の語源と成りました。
ペイシストラトスの長男ヒッピアスは弟が暗殺された後、暴政が顕著と成り紀元前510年にはスパルタ軍がアクロポリスを包囲し、約50年間続いた僭主政治は終わりを告げます。
ヒッピアスは国外に追放され、後のペルシア戦争の際には、ダレイオス1世の案内役を務めています。(!)

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オストラコン
 
クレイステネス(生没年不明 )は名門出身で、民衆の支持を得てヒッピアスを打倒し、貴族派がスパルタ王と結んで寡頭政治の樹立を画策した時、民衆と手を結んで民衆の力でスパルタ王を退去させ、紀元前508年に最高官のアルコンに就任し、後世に残る「クレイステネスの改革」を行いますが、そのなかで最も有名な政策が、陶片追放(オストラシズム)です。

 この政策は市民が僭主に成る恐れの在る人物の名前を陶器の破片(オストラコン)に書いて投票し、 投票総数が6000票以上あった場合、最高得票者1人が10年間、国外に追放される制度でした。
紀元前487年に初めて施行され、後には政敵を陥れる手段に悪用される事がしばしば起こり、有能な政治家が追放された結果、紀元前5世紀末以降中止されました。

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貴族の生活風景

 もう1つの重要な改革が、従来の貴族の権力基盤となっていた古い血縁的な4部族制を改めて、市域・海岸・内地の3つの地域に分け、各々を更に10の小地域に分割、機械的に組み合わせて地域別による10部族制を創設し、各部族から50人ずつの代表を選出し、「500人評議会」を創設しました。又毎年各部族から1名、計10名の将軍を新たに選出し、将軍はアテネ民主政下で最重要官職と成って行きます。
以後、人々は居住地域によって部族が決まり、家柄を表に出させず、「500人評議会」は、世界史上最も古い比例代表制で、この制度によってアテネの 民主政の基礎が確立したのでした。

ジョークは如何?

「王妃。わが国も核兵器を保有しませんか?」
「これ以上ギリシアに廃墟はいらないわ」
2014/04/10

歴史を歩く5

<ギリシア世界その1>

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(1)エーゲ文明

 古代文明の中で最も早く成立したオリエント文明は、周辺の地域に多大な影響を及ぼして行きますが、特にオリエントに近く、地中海で結ばれていたギリシアを中心とする地中海東部でヨーロッパの古代文明が開闢しました。
これがエーゲ文明で、エジプトの新王国、古バビロニアと時を同じくして繁栄します。
19世紀頃までは、エジプト文明が直接ギリシア本土に伝播し、ギリシア文明が成立したと考えられていたのですが、19世紀の後半にエーゲ文明がその媒介の役割を果たしていたことが明らかになりました。

 エーゲ文明は紀元前20世紀頃から紀元前12世紀頃まで、エーゲ海を中心に繁栄を極めた青銅器文明で、前期のクレタ文明と後期のミケーネ文明から構成されています。
エーゲ文面の研究は、19世紀の後半にドイツ人シュリーマン(1822年~90年)、イギリス人エヴァンズ(1851年~1941年)の調査発掘によって明らかになったのです。

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Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann, 1822年1月6日 - 1890年12月26日

 シュリーマンは幼少の頃読んだ本文中に挿入された、トロイ落城の挿し絵を見た事が、その後の遺跡発掘を生涯の念願として追い続け、ついに実現したのでした。
貧しい牧師の子として生まれ、生家の没落で雑貨屋の小僧に始まり、船の給仕を経て商店に勤め、苦労しながらもその間、十数カ国語を学び、24才頃ロシアに移住、クリミア戦争や南北戦争の状況を巧みも利用し、インド藍や木綿の交易で成功し巨万の富を築きます。
40才過ぎに 事業から一切手を引き、ギリシア語と考古学の研究の後、1870年に少年時代からの夢であった3回にわたるトロイ発掘(1870年~90年)に取りかかったのです。

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トロイ落城

 トロイはホメロス(紀元前8世紀頃)の叙事詩「イリアス」に歌われたトロヤ戦争の舞台となった場所で、「イリアス」には、トロヤ王子パリスがスパルタ王妃ヘレネを誘拐したことから、ミケーネ王アガメンノンを指揮者とするギリシアの英雄達(例えばアキレウス)がトロヤに遠征し、10年の包囲の末、有名な「トロイの木馬」の計略を持ってトロイを落城させたと書かれていいます。

 シュリーマンはこのホメロスの詩を真実であると確信していましたが、当時の常識於いては同物語は伝説であると考えられており、更にシュリーマンが学界の定説に反して海に近いヒッサリクの丘をトロイと考えて発掘を始めたので、学者たちは冷ややかな目で傍観していたのです。

 第1回目の発掘で城壁、宮殿址と財宝を発見し、学者たちを驚愕させた上、更にシュリーマンは、総指揮官アガメンノンがミケーネ王であった事実、ホメロスが「黄金に富むミケーネ」と謳っている 事、古代記録に多くの墓所の存在が記録されている事から、1876年以来ミケーネの発掘に取りかかり、夥しい副葬品、特に「黄金の仮面」をはじめとする黄金製品は人々を驚かせたのでした。
彼はクレタ島の調査発掘も計画実行に移すのですが、その結果を見る事なく1890年に亡くなります。

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Sir Arthur John Evans、1851年7月8日- 1941年7月11日

 シュリーマンの後を受け継ぎ、クレタ文明を調査発見した人物がエヴァンズで、彼は新聞社に勤務しバルカンを旅行した際に、シュリーマンに会ってその指導を受けた後、オックスフォード大学博物館の館員として考古学を教鞭します。
やがてギリシア旅行中に見た出土品が、クレタ起源と推定してクレタ島に渡り、1900年以降クノッソス王宮遺跡の発掘を始めました。
伝説上のミノス王の宮殿跡、陶器、壁画、金銀工芸品等を発見し、この文明がそれまで知られていない青銅器文明である事、エーゲ文明の中心がクレタである事を証明したのです。

 シュリーマンやエヴァンズによる是等遺跡の発掘により、エーゲ文明の存在が実証されました。
クレタ(ミノス)文明は、紀元前20世紀頃から紀元前15世紀頃、クレタ島を中心に地中海の海上貿易によって繁栄した海洋文明、青銅器文明であり、クノッソス大宮殿の遺跡から強い権力を持った王の存在が推定されますが、この文明を築いた民族系統等は現在も不明で、最古の海洋文明として繁栄したものの、紀元前15世紀頃アカイア人(ギリシア人)の侵入によって滅亡したと考えられています。

 ミケーネ文明は紀元前15世紀頃から紀元前13世紀頃、最も繁栄した文明で、その中心はシュリーマンの発掘で有名なギリシア本土のミケーネ・ティリンスです。
この文明の小国家群は、巨石で用いて造られた城壁を持っているところから小規模ながら、専制国家であったと考えられ、アカイア人がオリエントやクレタ文明の影響を受けて形成した青銅器文明ですが、ギリシア的な要素も色濃く、紀元前12世紀頃、ドーリア人の侵入を受けて滅亡したと考えられています。

(2)ポリスの成立

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アクロポリス俯瞰図

 ギリシアは日本と同様に平野に乏しく、山々が連なり、大小多くの島々が点在し、海岸線は非常に複雑で、その面積は九州の約1.5倍に相当します。
夏は少雨で乾燥し、冬は温暖で雨が多い、典型的な地中海性気候で、穀物農業よりもオリーブ、ぶどう、いちじく等の果樹栽培に適しています。

 ギリシア人はインド・ヨーロッパ語族に属し、本来中央アジア・ 南ロシアを出身地としますが、大多数が西に進みヨーロッパに入って行くなか、途中から分派しバルカン半島を南下した部族は、紀元前20世紀頃からギリシアの半島部分に南下し、定住して行きました。

 そのギリシア人の南下・定住は二度に別れ、紀元前20世紀頃の第1次移動で南下・定住したギリシア人をアカイア人と総称し、彼らは後に方言の違いからイオニア人、アイオリス人に分別されますが、一部はクレタ島に進出、クレタ文明を滅ぼし、その影響のもとでミケーネ文明を築きました。

 第2次移動は紀元前12世紀頃、ドーリア人が鉄器文明を携えて南下、ミケーネ文明を滅ぼし、半島南部からクレタ島に侵入、先住民を征服し定住していきました。
ドーリア人が鉄器を持ち込んだ事から、以後ギリシアは鉄器時代に入り、このドーリア人の侵入によって先住民であるイオニア人、アイオリス人は本土を追われて、エーゲ海の島や小アジアにも移住する事になります。

 ドーリア人の侵入とミケーネ文明の滅亡後、長い混乱時代(暗黒時代)が到来し、この混乱は紀元前8世紀頃には収拾されますが、ギリシアには1000或いは 1500以上のポリスが成立しました。

 ポリスの成立過程は様々ですが、多くは集住(シノイキスモス)によって成立し、アテネ(アッティカ)型 ポリスと呼ばれ、その代表的ポリスはアテネで在り、地域毎に有産者(貴族)が中心となり、軍事的・政治的・経済的要地へ全住民を強制的に移住させました。
ポリスの中心部をアクロポリスと呼称しますが、一般的には小高い丘で主に貴族が住み、政治・宗教の中心で、その周りの麓にあった公共広場はアゴラ(アゴラエクレシア)と呼ばれ、商業・集会・裁判などが行われ、更にその周囲を城壁で取り囲んだのです。

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スパルタ・勇将レオニダス像

 もう1つの典型はスパルタで、スパルタはドーリア人が先住民を征服して建てたポリスで在り、これをスパルタ型ポリス、征服型ポリスと呼称します。
スパルタでは、スパルティアタイと呼ばれる5000人程の完全市民=戦士が貴族を構成し、支配階級で官職を独占しました。
そして征服された先住民は、ヘイロタイ(ヘロット)と呼ばれて国有奴隷とされ、農業労働を強制され、その数は約5万人、更に約2万人のペリオイコイ(周辺に住む者の意味)と呼ばれた劣格市民が存在しました。
彼らは、同じドーリア人ですが、何等かの理由でこの身分とされ、主として商工業に従事し、従軍の義務は在ったものの、参政権は存在しませんでした。

 数の上で少数の完全市民は、十倍以上の人口を数えるペリオイコイ、ヘイロタイを支配する為に、全員が強い戦士であることを要求され、その為に現在にその名前を残すスパルタ教育が実行され、軍国主義が形成されました。
二人の王、長老会(30人)、民会(30才以上全員)を国の基本制度とし、独特の軍国主義、鎖国的諸制度を定めたのはスパルタの伝説的立法者のリュクルゴス(紀元前9世紀頃)であるとされています。

 完全市民であるスパルタ人の一生は以下の様に伝えられています。
新生児のうち虚弱、奇形の場合は山に遺棄され、7才で家庭を離れ、共同生活に入り、12才から肉体的訓練を中心に本格的な訓練を受け、18才で軍隊に編入され、20才で主力軍となり、30才で兵営を離れ、家庭を持つものの兵役義務を負い、60才で兵役が解除となりました。

 古代ギリシアの歴史は、ポリスの発生・発展・没落の歴史です。
ポリスは独立した都市国家で、その間には戦争が絶える事が無く、又ギリシア全体が一つに統一される事も在りませんでしたが、その一方でギリシア人は一つの民族としての意識を失わなかったのです。

 彼らは自らをヘレネス (英雄ヘレンの子孫の意味)と呼び、異民族をバルバロイ(聞き苦しい言葉を話す者の意味、この単語から英語のbarbarian=未開人、野蛮人が生まれました)と呼んで軽蔑の対象としました。
尚ギリシア人と云う表現は、後のローマ人が使用した呼び方です。

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オリンポス十二神

 宗教では、ギリシア神話で有名な主神ゼウス、その妻ヘラをはじめポセイドン(海と大地の神)、アポロン(太陽の神)、アテナ(知恵の神)、アフロディテ(美の女神)等オリンポス十二神が 信仰され、オリンポス山に神々が住んでいると考えられていました。
又神託を信じ、各ポリスは守護神の神託を求めたが、特にデルフィの守護神アポロン神の神託は有名で、全ギリシアのポリスが宣戦・講和・植民の是非などを尋ね、神殿と祭礼を同じくするポリス間では 隣保同盟が結ばれていきます。

 ギリシア文学で現在も読み続けられる、ホメロスの二大叙事詩「イリアス」、「オデュッセイア」は当時から全ギリシア人に愛誦されました。

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オリンピア神殿とその聖域

 オリンピアの競技は、紀元前776年から4年毎に行われ、紀元後393年まで実に千年以上続いたのです。
近代オリンピックは1896年にクーベルタンによって提唱され、1996年のアトランタ大会でやっと100年が経過しただけなのです。
4年毎の真夏に行われるオリンピックの期間中は、選手や見物人の往来安全の為に一切の戦争行為が停止されたことはよく知られており、その参加選手は男性だけで、全裸で競技を行い、競技には競争(短距離、中距離、長距離)と五種競技(走り幅跳び、槍投げ、短距離走、円盤投げ、レスリング)そして レスリング、ボクシング、競馬、戦車競争等が記録されていますが、当時の体育目的が強靭な戦士の養成にあった事をよく示していると思います。

ジョークは如何?

田舎者のフルシチョフがステーキを手掴みでかぶりつきながら食べているのを見かねたスターリンが言った。
「同志フルシチョフ、ナイフを使いたまえ。」するとフルシチョフが答えた。
「今度は誰を殺るんですか??同志。」


続く・・・
2014/04/06

歴史を歩く4

<古代オリエントその4>

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アッシリアの版図 Wikipediaより

(4)古代オリエントの統一

 古代オリエント史は、紀元前2000年から紀元前1500年頃、諸民族の大移動とそれに続く新国家の建設の混乱期を経て、諸国が統合されて行く時代へと変化して行きます。

 その古代オリエントを初めて統一した民族がアッシリアです。
アッシリア人はセム系民族で、紀元前2000年頃、北メソポタミアに都市国家を建設しました。
アッシリアの名称は、彼らが最初の都を、民族神アッシュールの名に因み、「アッシュール神の都」アッシュールと命名したことに由来します。

 しかし、紀元前1500年頃からミタンニに服属、紀元前14世紀頃ミタンニから独立、以後次第に国力を発展させ、紀元前9世紀頃から大発展を遂げて行きました。
アッシリアがその発展段階に於いて、非常な成功を納めた理由はヒッタイトから学んだ鉄器の利用によるものです。
優秀な製鉄技術を持ち、鉄製武器で装備された勇猛果敢な軍隊を率いて、次々と周辺の諸民族・諸国家を征服、紀元前8世紀のティグラトピレセス3世、サルゴン2世(在位紀元前722年~紀元前705年)の時代には大帝国として君臨しました。

 特にサルゴン2世は、イスラエル王国を滅亡させ、エジプトからパレスティナを奪取し、バビロンを陥落させます。
その子セナケリブ(在位紀元前704年~紀元前681年)は、都をニネヴェに遷都、アッシュール・バニパル(在位紀元前669年~紀元前626年)の父の時代、紀元前671年に終にエジプトをその軍門に下し、史上初めて全オリエントを統一したのでした。

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アッシュール・バニパル

 「大征服王」と称されるアッシュール・バニパル治世の頃、史上空前の大帝国に発展、彼はニネヴェに壮大な王宮を造営します。
アッシリア歴代の王は、猛獣狩りを非常に好み、当時シリアからメソポタミア北部に多く群生していたライオン狩りが盛んに行われ、その様子がレリーフに描かれています。
王は又世界最初の図書館を建て、1850年から行われたニネヴェの発掘により、2万点以上の粘土板文書(楔形文字)が発見されアッシリア学成立の基礎と成っています。

 アッシリア王は、専制君主として、軍事・ 政治・宗教を統括し、帝国を州単位に分け総督を派遣して統治させ、又強力な軍事力による圧政と重税、被征服民の強制移住、情け容赦のない大殺戮、大略奪を行い、被征服民族の反乱に絶えず悩まされる結果と成りました。
アッシュール・バニパル治世の時代には、その兄との内紛も発生して帝国は衰退し、紀元前612年、メディア・新バビロニア連合軍の前に首都ニネヴェは陥落、帝国は滅亡しました。

 アッシリア滅亡後、オリエントにはエジプト、リディア、新バビロニア、メディアの4ヶ国が分立群雄割拠し、この時代、エジプトには最後の第26王朝が成立するものの、過去の栄光を取り戻すことは叶いませんでした。
小アジアに建国されたリディア(紀元前670年頃~紀元前546年) は、経済的に繁栄を遂げ、紀元前7世紀後半、世界で最初の鋳造貨幣が使用されました。

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バビロン・イシュタール門

 アッシリアの滅亡後、オリエント諸国の主導権を握ったのは新バビロニア(カルデア)(紀元前625年~紀元前538年)です。
新バビロニアの支配階級はセム系のカルデア人ですが、被支配民は古い伝統をもつバビロニア人でした。
王国の最盛期は、治世40年に及んだネブカドネザル2世(紀元位前604年~紀元前562年)の時代で、侵入したエジプト軍を撃破しシリアを割譲、ユダ王国を滅ぼし「バビロン捕囚」を行い、フェニキア人の都市ティルスを滅ぼし、首都バビロンに壮大な宮殿を造営、経済的繁栄をもたらし、その繁栄は「バビロンの栄華」と呼ばれ、空中庭園やバベルの塔の伝説も生まれたのです。
新バビロニアはオリエント第一の強国に成長しました。

 しかし、ネブカドネザル2世崩御のあと、帝国の勢力は急速に衰退し、紀元前538年アケメネス朝ペルシアによって滅ばされます。

メディア(?~紀元前550年)は、紀元前9世紀頃ペルシア北西部の山岳地帯に入ったインド・ヨーロッパ語族(アーリア人)のメディア人が、紀元前8世紀末に建国、紀元前7世紀に新バビロニアと連合してアッシリアを滅ぼし、イラン高原を支配下に治めて大帝国を建設しました。

 メディアに臣従する王として、イラン高原の南西部のペルシス (パールス)地方(ペルシアの名の起源)を支配していたキュロス2世 (紀元前600年頃~紀元前529年)は、やがてメディアに反旗を翻し、紀元前550年終に盟主であったメディアを滅ぼして、アケメネス朝ペルシア帝国(アケメネスはキュロス2世の4代前の王国の始祖の名)を興し、次いで紀元前546年にはリディアを滅ぼし、紀元前538年には 新バビロニアを滅ぼし、ここに「バビロン捕囚」からユダヤ人を解放しました。結果、エジプトを除く全オリエントを統一、以後200年以上続く大帝国と成る、アケメネス朝ペルシア帝国の基礎を築いたのです。

 2代目カンビュセス2世 (在位紀元前530年~紀元前522年) は、紀元前525年に、父以来の宿敵エジプト征服を完遂します。

 アケメネス朝3代目の王が、史上有名なダレイオス1世(大王)(在位紀元前522~紀元前486年)です。
彼は王家の中では分家の出身ですが、キュロス2世の娘と結婚し、カンビュセス2世死後の反乱を鎮圧して即位しました。
彼は治世の間に、東はインダス川流域から西はエジプト、マケドニアまでを征服し、アジア、アフリカ、ヨーロッパの3つの大陸にまたがる世界史上始まって以来の空前の大帝国を築きあげます。

 この大帝国の統治にあたっては、全土を20の州に分け、王が任命するサトラップ(知事、総督)を派遣して統治させ、更にサトラップの監視のために「王の目」「王の耳」と呼ばれた直属の監察官をも派遣し、州を巡察させました。
首都スサに大宮殿を造営、新都ペルセポリスにも壮大な宮殿を建設し、首都と各都市を結ぶ軍道 (「王の道」)を建設するとともに、駅伝制を確立しました。
因みに、スサと小アジアのサルディス間は2600km、途中111の駅を設置、役人と馬を常に配置し、 隊商隊が90日かかるこの距離を7日で連絡したと云われています。

 更に彼は大帝国を統治する財源を確保するため、ダレイオス金貨を鋳造して貨幣を統一し、 税制を整備、フェニキア人の海上貿易を保護して税収の増大を図りました。

 宗教については、彼自身はゾロアスター教を信仰したが強制せず、服属した異民族には固有の信仰を認め、また風俗・習慣も認める等寛容な統治を行い、その結果アケメネス朝は200年以上にわたって存続したのです。

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ギリシア・ポリス連合軍重装歩兵

 しかし、 商業圏をめぐる争いから小アジアのギリシア植民市が反乱を起こし、 ギリシア遠征を行います。
これが有名なペルシア戦争(紀元前500年~紀元前449年)であり、 第1回目の失敗の後、第2回目の遠征でもマラトンの戦い(紀元前490年)に敗れ、更なる遠征を準備中にダレイオス1世自身が病没します。

 彼の死後、7代、8人の王が150年間帝国を支配しますが、最後の皇帝ダレイオス3世(在位紀元前336年~紀元前330年) は、 アレクサンドロス大王の侵入を受け、アルベラの戦いに敗れた後、バクトリア (中央アジア)に逃れますが、同地のサトラップに暗殺され、ついにアケメネス朝 ペルシア帝国は紀元前330年に滅亡します。

 ペルシア人は、ゾロアスター(ツァラトゥストラ)(生没年不明、 前7世紀頃)が30才頃、天啓を得て預言者となり、伝統的信仰の改革を進めて創始したといわれるゾロアスター教を信仰しました。
その教義は、善神アフラ・ マズダ(光明・善神)と悪神アーリマン(暗黒・悪神)の対立を前提とする 二元論で、善神アフラ・マズダと悪神アーリマンの抗争で善神が勝利すれば、それが我々の世界に反映されこの世は平和で良い世界に成り、反対の場合は この世は乱れ悪いことが起きると考える、善神と悪神の優越は3000年毎に交替し、9000年または12000年目に決定的戦闘の結果、善神が勝利し善の世界と成り、人々の霊魂が救われると教えました。
従って人間は善神に味方しなければならず、そのためには厳しい戒律が必要とされました。

 善神アフラ・マズダは光明神であるので、火が神聖視され、儀式には盛んに火が起こされ、後に中国に伝来した時、「けん教」「拝火教」と呼ばれ、ゾロアスター教の最後の審判、天国と地獄、天使と悪魔の思想はユダヤ教やキリスト教にも影響を及ぼしています。

 イランのベヒストゥーン碑文は、ダレイオス1世が戦勝を記念して刻んだものであり、捕虜を引見する王とアフラ・マズダ神の浮彫、そして銘文が楔形文字でペルシア語、エラム語、バビロニア語をもって書かれています。
これをローリンソンが転写研究し、楔形文字解読に成功したことは最初に書いた通りです。
アケメネス朝の時代にはペルシア語を表すために楔形文字が採用され、いわゆるペルシア文字がつくられました。

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アッシリア軍団

◎アッシリア人

 世界史の教科書で、アッシリア人は、ペルシア人に先立って紀元前7世紀に古代オリエントを最初に統一した民族として紹介されています。
王都ニネヴェには世界最古の図書館があって、くさび形文字で書かれたおびただしい数の粘土板文書が出土した事は、本文でも紹介しました。
圧政がたたって支配下にあった諸民族の反抗を招き、帝国はわずか数十年で滅亡、以降アッシリアという名が歴史の表舞台に登場することはありませんでした。

 しかし、2500年という時を経て、アッシリアの人々は歴史の生き証人のごとく生きていました。
チグリス川の遥か上流、現在のイラク西北部を中心に彼らはたくましく生き続けてきたのです。
かつての栄光の民の末裔であることを誇りにして。

 14世紀のティムール軍による大虐殺、まだなお生々しい第一次大戦中のトルコによるジェノサイド。これらを乗り越えてきた彼らの歴史は凄まじものが在ります。

ジョークは如何?

ソビエトにて、ソフホーズ(国営農場)の看板が2枚。
「民主主義は今や崖っぷちに立たされている!」
「社会主義は民主主義の一歩先を行っている!」
2014/04/02

歴史を歩く3

<古代オリエントその③>

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古代地中海世界

(3)地中海東岸の諸民族

 地中海東岸のシリア・パレスチナ地方は、エジプトとメソポタミアを結ぶ通路として、 又東地中海への出入口として重要な地方であり、民族の興亡が著しい地域ですが、「海の民」の侵入でエジプトとヒッタイトの勢力が後退した前12世紀頃から、セム系の3民族(アラム人、フェニキア人、ヘブライ人)が特色ある活動を開始しました。

 アラム人はセム系の遊牧民で、紀元前12世紀~紀元前8世紀にシリアを中心に諸小王国を形成しました。
ダマスクスはアラム人の商業活動の最大の中心地となり、現在に至るまで存続しています。
アラム人は西アジア一帯の内陸中継貿易に活躍し、彼らの話すアラム語は西アジアの共通語となり、アラム文字は西アジアのみならず、東方の諸民族文字の源流となりました。

 フェニキア人もセム系の民族で、紀元前2000年頃、現在のレバノン海岸に居住し、フェニキアの語源はエジプト人が彼らをフェンク(船を造る者)と呼称したことに由来します。
当時、レバノン山地は良質の杉材の産地で在り、その杉材を資材として船を建造し、クレタの海上貿易衰退後、地中海貿易をほぼ独占します。

 本国ではシドン (現在のサイダ)・ティルスなどの都市国家が栄え、地中海沿岸各地(北アフリカ、スペイン南部が中心)に植民市を建設し、そのなかでも紀元前814年に建設されたカルタゴは、後にローマと地中海の覇権をめぐって争うことに成ります。

 フェニキア人は紀元前12世紀頃から地中海貿易を独占しますが、アッシリア・ 新バビロニアが支配した時代には一時衰退し、アケメネス朝ペルシアの貿易保護政策のもとで、再び繁栄の時代を迎えることとなります。

 商業民族であったフェニキア人の文化史上最大の功績は、エジプトの象形文字から発達したシナイ文字を原型としてつくられた世界最古の表音アルファベットを発明し、それをギリシア人に伝授し、現在使われているアルファベットの起源となったのです。
又ガラスを発明・発見したのもフェニキア人と云われ、ガラス細工も発達しました。

 ヘブライ人は、セム系の遊牧民族で、古くはユーフラテス川上流域で遊牧を営み、紀元前1500年頃パレスティナに定着、飢饉が起きたとき一部は エジプトに移住します。
ヘブライ人は外国人による呼び名で、自らはイスラエル人と称し、バビロン捕囚以後はユダヤ人とよばれることが多い民族です。

 エジプトに移住したヘブライ人は、新王国の外国人排斥機運がつよいなかで、奴隷として酷使され、悲惨な境遇
に在りましたが、そのヘブライ人を「約束された 理想の地、カナン」へ同胞たちを導いたのが映画「十戒」の主人公モーゼ(紀元前1350年頃~ 紀元前1250年頃 )なのです。
モーゼついては、実在を疑う説も多数存在しますが、実在の人物と思われます。
 ヘブライ人の子としてエジプトに生まれたモーゼは、神の声に従い、 エジプト第19王朝のラムセス2世の頃、ヘブライ人を率いてエジプトを脱出、 紅海を渡り、シナイ山半島に到り、シナイ山で神ヤハウェ(ヤーヴェ、エホバ とも)から「十戒」を授けられました。

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十戒

 有名なモーゼの「十戒」は、神(名の無い神:以下ヤハウェ)よりエジプト脱出後に授けられたものです。
内容として、
(1) お前には私以外に神があってはならぬ。
(2) お前は偶像を彫ってはならぬ、拝んでもならぬ。
(3) お前の神ヤハウェの名をみだりに唱えてはならぬ。
(4) 安息日を忘れず、聖く保て。
(5) 父母を敬え。
(6) 殺すなかれ。
(7) 姦淫するなかれ。
(8) 盗むなかれ。
(9) 隣人に対して偽証するなかれ。
(10)隣人のものを欲しがるなかれ。

 ユダヤ人がこの契約を守れば、ヤハウェはユダヤ人を守る云う約束をモーゼはヤハウェと結びますが、これが「旧約」です。
モーゼはその後、約40年に及ぶ荒野での彷徨の間の苦難を強い指導力で切り抜け、カナンを目前に没したとされている。
この物語が有名な「出エジプト(Exodus)」で、映画でも再現され、特に紅海の海水が真中から割れて、海底が姿を現すシーンは圧巻ですね。

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ソロモンの栄華

 しかし、目指すカナンの地には、ペリシテ人等が既に定着しており、ヘブライ人がこの地に移住・定住するのは彼らとの激しい抗争に勝利した後のお話です。
この様に他民族との抗争の為には、ヘブライ人が結束する必要があり、そうした状況の中から王政が出現し、ヘブライ王国が形成されました。

 ヤハウェの祭司の支持によって、紀元前1010年頃サウルが初代王に就きました。
サウルの武将で牧人のダヴィデ(在位紀元前1000年頃~紀元前960年頃)がサウルの戦死後、第2代目の王と成ります。
彼の最大の功績はペリシテ人を駆逐し、エルサレムに都を定めます。
ダヴィデの次王ソロモンの頃がヘブライ王国は最盛期を迎えますが、因みに国民的英雄である若き日のダヴィデを刻んだ彫像が、有名なミケランジェロ作の「ダヴィデの像」なのです。

 ダヴィデの死後、子のソロモン(在位紀元前960年頃~紀元前922年頃)が第3代の王となり、「ソロモンの知恵」、「ソロモンの栄華」と後に語り継がれる様に、彼は官僚制を整え、軍事力を強化し、経済発展に力を注いだのです。
シバの女王との話しも対外交渉が盛んであったことを物語っています。
しかしながら、外国文化の吸収に熱心で、外国から異教の神が入りこみ、信仰された為、風紀も乱れが生じ始め、又経済の発展に伴いイスラエル人の間にも貧富の差が生じ、王国内部での南北の対立も生じて来ました。

 この様な状況の中、ソロモン王の死後、ヘブライ王国は南北に分裂し、北にイスラエル王国(紀元前922年頃~紀元前722年)と南のユダ王国 (紀元前922年頃~紀元前586年)が成立しました。両国の抗争の間に、北ではアッシリアの台頭が顕著となり、特にイスラエル王国はその脅威に真っ向から晒されることに成り、紀元前722年に終にアッシリアに征服されます。

 南のユダ王国は、この後150年ほど国を維持し、一時はアッシリアの勢力下に置かれることも在りましたが、アッシリア自体の衰退によって滅亡の危機を逃れています。

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バビロン捕囚

 この頃から 多くの預言者(神の言葉を預けられ、それを人々に示して警告するもの )が現れ始めますが、その言葉は国王や国民に受け入れられず、やがて新バビロニアのネブカドネザル王が侵略し、エルサレムを陥れ、王と多数の住民をバビロンへ強制移住させました。
これが歴史上名高い「バビロン捕囚」(紀元前586年~紀元前538年 )で在り、強制移住させられた人々の生活は、必ずしも奴隷状態と成った訳では無く、その多くは農業に従事しました。
こうした状況のなかでユダヤ人の多くは、地域に同化され民族性を失っていく一方で、故郷を慕って帰国を祈願するものも多く、彼らはこの時はじめてヤハウェ信仰と一体になり、ヤハウェによって解放され、何時の日か帰国できるという希望のもとで試練に耐えたのでした。

 その期待は約50年後に、 アケメネス朝ペルシアのキュロス2世の発した「民族解放令」によって叶えられ、 イスラエル人の帰国が許されます。
しかし、バビロニアに留まったものも多く、帰国したものは一部に過ぎませんでしたが、帰国した彼らは、イェルサレムにヤハウェの神殿を再興し、「モーゼの律法」の遵守と儀式を定め、ユダヤ教を確立していきました。

 ユダヤ教は、多神教が一般的であるオリエントでは例外的なヤハウェの一神教です。
ユダヤ人は、出エジプト・亡国・バビロン捕囚等の民族的苦難のなかで、ヤハウェとの契約を守れば、神はユダヤ人だけを救ってくれると云う、排他的な選民思想や神は何時か自分達を苦難から救い出してくれる、メシア(救世主)をこの世に送ってくれると云う、メシア待望の信仰を生みだしたのです。

 しかし、バビロン捕囚から解放された後も、彼らは国を再建することは叶わず、民族的苦難はさらに続いて行き、この様な中からモーゼの律法遵守を極端な形式主義を重視するパリサイ人が現れます。この極端な形式主義を批判し、選民主義を排し、神の絶対愛を唱えた人物が、イエス・キリストであり、そうした意味で、ユダヤ教はキリスト教の母体なのです。
この為、ヘブライ人の歴史、預言者の言葉を編纂したユダヤ教の経典である「旧約聖書] が、イエスの言行を伝える「新約聖書」と共に、キリスト教の経典と成っています。

◎フェニキア人

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フェニキア船

 フェニキア人は紀元前3千年ごろから交易、商業、航海の民として地中海で活躍。ローマに破れて忽然と姿を消しましたが、彼らがつくりだしたアルファベットや造船、航海技術、染色、ガラス加工の技術はその後の歴史を変えました。

 フェニキア人の交易の目玉はレバノン杉。古代都市ビブロスの背後に広がるレバノン山脈は杉の名産地で、木材の乏しいエジプトなどへの貴重な輸出品になりました。
逆にエジプトの金やパピルスがこの町を経てギリシャへ。
「ビブロス」(Byblos)とはギリシア語の「パピルス」のこと、「バイブル」(Bible)の語源にもなりました。

 杉はまた船材として使われました。
シチリアのマルサラ考古学博物館には、1979年に発見されたフェニキア船の船底の一部が展示されています。
けっこう大きなもので40人近い漕ぎ手を乗せました。
船底の曲面は当時の技術水準の高さの証、これを駆って、遠くアフリカ大陸を周航し、北米にも達していたのではとする説も在り、北極星を発見したのも彼らでした。

 シドン、ティルスは、「ムレックス」という巻き貝から採取した紫色の染料の産地。
太陽の光に晒すと発酵して紫色に成り、ローマ帝国では皇帝だけが着用できる「帝王紫」に、イギリスでは今も「ロイヤルパープル」として、皇室のオフィシャルカラーとなっています。

 紀元前5世紀には、彼らの植民地はキプロスからスペイン東部にまで広がりました。
現チュニジアのカルタゴは、ローマと争ったポエニ戦争で有名ですね。ハンニバルが象を引き連れてアルプス越えをし、8万のローマ軍をカンネーで殲滅した話はよく知られていますが、その象は彼らがファームで飼育したもの。

いっぽうで「幼児生け贄」や「cannibalism(人食い)」という、マイナスのイメージも根強くヨーロッパで流布されてきました。
ポエニ戦争で痛めつけられたローマの文化人たち、例えばウェルギリウスやキケロが彼らのことをよく書かなかったからだといわれています。

 フェニキア人の故地レバノンはイスラム化され、今ではアラビア語が公用語ですが、文化的には人口の30%を占めるキリスト教徒が古代との絆を保っているようです。
特に山脈側に多い東方教会の一つマロン派教会はフェニキア文化の数少ない伝承者で、かつてのフェニキア語はマルタ島で話されているていどだとか。

 「フェニックス」は椰子の1種ですが、古くからエジプト人たちによって豊かさのシンボルとされてきました。フェニックス(phoenix)の語源はフェニキア人(Phoenician)。
地中海を縦横に駆け抜けたフェニキア人によって広められたところからこう呼ばれるようになりました。

ジョークは如何?

ヒトラーがフランスに勝って、ドーヴァー海峡の岸に立ち、言った。
「この忌々しい海を、どうやって渡ったらいいだろう」
ゲッベルスは答えた。
「ユダヤ人を連れてきて、紅海を渡ったトリックを聞き出しましょう」

強制収容所をくまなく探した末、モーセが見つかったので連れてこられた。
その時の問答。

「お前は、どうやって紅海の水を分けたのかね」
「一本の杖によってです」
「それだ!その杖はどこだ!」
「ロンドンの大英博物館です」

続く・・・