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2014/05/31

歴史を歩く18

<ローマ帝国その⑤>

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「ブルータス、お前もか!」

(3)帝国の成立①

 カエサルはコリントやカルタゴに貧民を送り込み、植民市を建設することによって無産者や老兵へ土地を分配し、属州での徴税請負制の廃止、100万都市ローマの都市計画に取り組むのですが、後世に大きな影響を及ぼしたのは、エジプト起源の太陽暦採用でした。
ユリウス暦と呼ばれるこの暦は、1年365日に加えて4年に一度閏年を置き、1582年に現在のグレゴリ暦に変わるまで使用されたのです。

 しかし、カエサル個人の神格化が進み、王位に就くことを画策したことから独裁に対する反感が強まり、ブルートゥス、カッシウスを首謀者とする60人以上の同志による共和派の暗殺計画が進められ、紀元前44年3月15日にカエサルは元老院内で23ヶ所刺され、ポンペイウスの立像の下に倒れます。
「ブルートゥス、お前もか」の一節は、この時のカエサルの発した言葉として有名です。

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凱歌を挙げる閥族派と横たわるカエサルの遺骸

 共和政擁護の英雄とされるブルートゥス(紀元前85年~紀元前42年)、カッシウス(紀元前?年~紀元前42年)の目論見は見事に外れ、市民の反発は日増しに高まり、終に彼らはローマから脱出せざるを得なくなります。

 カエサルの死後、彼の姪の子で遺言によって養子となったガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌス(紀元前63年~紀元後14年、在位紀元前27年~紀元後14年)とカエサルの部将であったアントニウス(紀元前82年~紀元前30年)、キケロを中心とする元老院の三者による抗争が1年半続きますが、紀元前43年、オクタヴィアヌスは元老院と対立し、ローマに進軍して自らコンスルに就任し、カエサルの部将であったレピドゥス(?~紀元前13年頃)の仲介によってアントニウスと和解し、紀元前43年11月末に第2回三頭政治が始まります。

 彼らはバルカン半島に逃れて再起を計っていたブルートゥス、カッシウスと紀元前42年にマケドニアのフィリッピで戦闘を交え、カッシウス・ブルートゥスを破り、両者を自刃に追い込みます。

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ブルートゥスとカエサルの亡霊

 この戦いで功績をあげたアントニウスの声望は上り、再びオクタヴィアヌスとの抗争が起こるのですが、紀元前40年に再び協定が結ばれ、オクタヴィアヌスはガリアとイスパニアを、アントニウスは東方の属州を、レピドゥスはアフリカを支配地とすることとなり、その時にアントニウスの妻が亡くなったので、オクタヴィアヌスの姉で寡婦であったオクタヴィアと結婚し、両者は結束を強めます。

 アフリカを得たレピドゥスはシチリアを要求してオクタヴィアヌスと対立後失脚し、政界から引退し(紀元前36年)、閑職の大神官の地位に左遷されます。
オクタヴィアヌスはレピドゥスの支配地と部下を継承した結果、三頭政治は崩壊、オクタヴィアヌスとアントニウスの対立は三度避けがたいものとなって行きます。

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クレオパトラの祝宴

 東方を支配下に置いたアントニウスは、パルティア遠征の軍費を獲得するためにエジプトを巻き込み、カエサルの死後エジプトに戻っていたクレオパトラをタルソスに呼び寄せます。
彼女の美貌に魅せられたアントニウスはクレオパトラと結ばれ(紀元前41年)、翌40年にかけてエジプトに滞在しました。

 帰国後、オクタヴィアヌスの姉のオクタヴィアと結婚し(紀元前40年)、オクタヴィアヌスとローマを東西に分割する協定を結びます。
しかし、紀元前36年のパルティア遠征が大失敗に終わり、以後彼は益々クレオパトラに傾倒し、所謂「アレクサンドリアの寄贈」でキプロス島等をクレオパトラに与える約束を交わします。
紀元前34年「アレクサンドリアの寄贈」が公けにされ、アントニウスのローマ市民に対する裏切りが明らかとなり、更に紀元前33年アントニウスがクレオパトラと正式に結婚し、オクタヴィアを離婚したことからオクタヴィアヌスとの対立は決定的となりました。

 紀元前32年、オクタヴィアヌスはクレオパトラに対して宣戦を布告、アントニウスは約7万の歩兵、1万2千の騎兵、500隻の艦隊を、翌紀元前31年までにギリシアに侵攻させます。
これに対してオクタヴィアヌスは歩兵8万、騎兵1万2千、400隻以上の艦船を擁して東に進み、アントニウスの海陸軍を4ヶ月にわたって包囲しました。

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アクティウムの海戦

 紀元前31年9月、アントニウスの艦隊が行動を開始し、有名なアクティウムの海戦が始まりました。
オクタヴィアヌス軍とアントニウス・クレオパトラ連合軍、双方約500隻以上の艦船が文字どうり衝突した戦闘は、結局1回の激突で終わり、10~15隻の艦船を喪失したアントニウスの艦隊は逃亡、あるいは降伏し、クレオパトラはその艦隊を率いていち早くエジプトに脱出、アントニウスもクレオパトラを追い、その旗艦に便乗してアレクサンドリアに退却します。

 翌年の紀元前30年夏、オクタヴィアヌス軍はシリアからエジプトに迫り、アントニウスの対抗虚しく敗れ、クレオパトラの死の誤報を聞き、8月1日自害し、アレクサンドリアは陥落、そしてアントニウスの死を知ったクレオパトラも毒蛇にその腕を噛ませて命を断ち、その後カエサリオン(カエサルとクレオパトラの子 )がオクタヴィアヌスに暗殺され、ここに300年間続いたプトレマイオス朝エジプトはついに滅亡します。

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クレオパトラの死

 ローマに凱旋したオクタヴィアヌスに、元老院は「プリンケプス(第1の市民)」の称号を(紀元前29年)、ついで「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を紀元前27年に送ります。
アウグストゥス(オクタヴィアヌスは以後アウグストゥスと呼ばれるようになる)は軍隊の命令権、護民官の職権、宣戦・講和の大権、コンスルの指名権などあらゆる権限を掌握しますが、養父カエサルの失敗に鑑み、共和政の伝統を尊重し、属州は元老院と分けて統治するなど元老院との共同統治の形を選択します。

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オクタヴィアヌス

 事実上は君主政・帝政なのですが共和政の伝統を尊重した彼の政治は「プリンキパトゥス」(元首政)と呼ばれ、一般的にはこの時から「帝政ローマ(ローマ帝国)」が始まるとされ、彼は初代のローマ皇帝(在位紀元前27年~紀元後14年)とされます。
彼は「内乱の1世紀(紀元前133年~紀元前27年)」と呼ばれた混乱の時代を収拾し、社会秩序の確立・財政の整備に力をそそぎ、又当時人口100万人の巨大都市ローマの美化にも努め、彼の治世にラテン文学は黄金時代を迎え、ヴェルギリウスを初めとする多くの文人が活躍しました。

 対外的には、紀元後9年にトイトブルグの戦いでゲルマン民族に大敗北を喫し、2万人のローマ軍が全滅、以後ローマはゲルマニア経営を断念せざるを得なくなり、帝国の防衛線をライン・ドナウ川の北境とし、東方では強国パルティアと講和してユーフラテス川を国境としました。
このため以後200年間にわたって、一応の平和が保たれることに成り、アウグストゥス時代から180年までの約200年間を「ローマの平和(パックス=ロマーナ)」と呼んでいます。

ジョークは如何?

チャーチルが米国を訪問しホワイトハウスに滞在した時のくだりがあります。
チャーチルが入浴中にたまたま緊急な事件が起き、大統領秘書官が浴室をノックして「ご入浴中大変恐縮ですが、火急の問題が起きまして...」とかなんとか云ったのでしょう。
するとチャーチルはなにも隠さぬ全裸姿で顔を出し、いきなり、「イギリス首相はアメリカ大統領に何一つ隠し立てするものはありません。」


続く・・・
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2014/05/27

歴史を歩く17

<ローマ帝国その④>

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『スパルタクスの最期』(ヘルマン・フォーゲル画、1882年)

(2)ローマの発展と内乱(その3)

 スラの死後、台頭してきた人物がポンペイウス(紀元前106年頃~紀元前48年 )でした。
彼はマリウスとスラの争いではスラを支援して名をあげ、スラの後継者と成りますが、特にスパルタクスの反乱鎮圧に功績をあげ、紀元前70年にコンスルに選出されました。

 スパルタクスの反乱(紀元前73年~紀元前71年)は当時ローマを揺るがした大事件でした。
中心人物であるスパルタクスは兵士から盗賊の首領となり、捕らえられて剣奴(グラディアトール)と成ります。
ローマ人は有名なコロッセウム(円形闘技場)で奴隷に生死をかけた決闘を行わせ、それを見て楽しむ娯楽を好んだのですが、そのために養成された奴隷が剣奴でした。

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『Pollice Verso〈指し降ろされた親指〉』ジャン=レオン・ジェローム

 紀元前73年、カプアの剣奴養成所から78人の剣奴がスパルタクスを頭として脱走し、ヴェスヴィオス山に立てこもり反乱を起こします。
奴隷制度廃止を宣言したことから、多数の逃亡奴隷や貧民も合流し、その数は急増、最盛期には12万人に達しました。
当初、奴隷たちが生まれ故郷に帰ることを目的にした為、南イタリアを占領した後、北イタリアに矛先を向けました。
北イタリアに進出した理由は奴隷の中にはガリア(現在のフランス)やトラキア(現在のブルガリア辺り)の出身の者が多かった為ですが、彼らが帰郷よりも掠奪を望んだので、再び南下してシチリア島に向かう途中から敗走が始まり、スパルタクスは南イタリアでクラッスス軍と戦って戦死、そのため大反乱も既に当初の目的を失っていた為、総崩れとなった残党はポンペイウスに討伐され、捕虜の約6千人がアッピア街道で磔にされました。

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グナエウス・ポンペイウス・マグヌス( Gnaeus Pompeius Magnus, 紀元前106年9月29日 - 紀元前48年9月29日)

 スパルタクスの反乱の鎮圧に功績をあげ、紀元前70年にコンスルに選出されたポンペイウスは、スラの政策を是正し、次第に平民派に接近して行きます。
更に地中海の海賊討伐にあたっては、元老院から強大な権限を与えられ、それに成功し(紀元前67年)、ついでミトリダテスを破り(紀元前66年)、セレウコウ朝シリアを征服(紀元前63年)、エジプトを除く東方を平定する偉業を為し遂げたのでした。

 しかし、その後私兵でもある軍隊への土地分配等をめぐって元老院と対立した結果、彼はカエサル(紀元前100年頃~紀元前44年)とクラッスス(紀元前114年頃~紀元前53年)と組んで元老院への対抗を企てます。
単独では元老院の権力に対抗できない為、三人が団結して政権を独占するために密約を結んだのですが、これを第1回「三頭政治」(紀元前60年)と呼びます。
ポンペイウスはイスパニア、クラッススはシリア、カエサルはガリアの特別軍令権を得てそれぞれ勢力圏としました。

 クラッススは名門の出身で、マリウスとスラの対立ではスラを支持し、スラが行った市民の財産没収に乗じて巨富を得て「富裕者」と呼ばれ、スパルタクスの反乱鎮圧に成功しコンスルに選ばれ(紀元前70年)、紀元前60年にはポンペイウス・カエサルとともに第1回三頭政治を成立させました。紀元前55年コンスルに再選され、翌年パルチィア遠征を行いますが、パルチィア軍に苦戦し、紀元前53年にカラエで息子とともに戦死します。

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ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Julius Cæsar[1]、紀元前100年 - 紀元前44年3月15日)

 カエサルはローマの古い名門ユリウス家の出身、最初の妻が平民派の政治家の娘であったことなどから平民派と見なされ、スラの迫害を受け各地を転々とした後、スラの死に乗じて、ローマに帰り政界に入り、財務官等を歴任し大神官に就任しますが(紀元前63年)選挙で派手な買収を行い、又剣奴の試合の費用等で巨額の負債を背負いました。
この為紀元前62年にイスパニア総督として赴任する時には、債権者たちに阻止され、クラッススの保証によってやっと出発出来たといわれています。

 イスパニア遠征で功績を上げ、ローマに帰国、ポンペイウス・クラッススと結んで第1回三頭政治を開始(紀元前60年)、紀元前59年にコンスルに就任し、国有地分配法案を可決させ、その他さまざまな法案を民会で成立させました。
コンスルの任期終了後5年間ガリア総督に就任することを承認させたうえ、紀元前58年から紀元前51年にガリア遠征を行い、これを平定しました。

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Vercingetorix throwing his weapons at the feet of Caesar" リオネル・ロワイヤル1899年

 このガリア征討については「ガリア戦記」を自ら著しています。
最初の3年間はケルト諸族や侵入してきたゲルマン人の討伐、紀元前55年にライン川を渡ってゲルマニア(現在のドイツ)にも進出し、この間の紀元前55年、紀元前54年にはブリタニア(現在のイギリス)にも侵攻しました。
紀元前52年、アルウェルニ族のヴェルキンゲトリクスを中心とする大反乱では、絶体絶命の窮地に追い詰められたものの、脱出に成功、紀元前51年には全ガリアを平定し、アルプス以北をローマの版図とし、征服した異民族に課税し、戦利品と課税によって巨額の軍資金を手に入れたのでした。

 紀元前54年にカエサルの娘でポンペイウスの妻となっていたユリアが亡くなり、翌紀元前53年にクラッススが戦死すると、カエサルとポンペイウスの対立が表面化してきます。
紀元前49年、ポンペイウスと結んだ元老院が、カエサルに対して軍隊の解散と属州の返還要求を決議し、更にローマへの召喚を決議しました。
これに対してカエサルは「骰子は投げられた」という有名な言葉と共に、自分の任地の属州と本国イタリアとの境を流れるルビコン川を渡ってローマに進撃しました。
この時のカエサルの軍団は11箇軍団(1軍団は約4200人)を擁していたのですが、実際には多くの軍団はアルプスの北に位置していたのです。

 一方、「国家防衛の大権」を与えられていたポンペイウスは、イタリアで13万人の兵士を動員する権限を得ており、スペインには7箇軍団を擁していました。
カエサルは5箇軍団を率いてルビコン川を渡って進撃、ポンペイウスは南イタリアに退き、更にイタリアでの決戦を避け、バルカン半島に渡り、東方の軍を結集してカエサルに対抗する作戦でしたが、テッサリア(北部ギリシアの一地方)のファルサロスの決戦(紀元前48年)に敗れ、エジプトのプトレマイオス朝に保護を求めます。

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進軍(イメージ)

 しかし、エジプト側はローマの内乱に巻き込まれることを極端に恐れ、港に着いたポンペイウスを出迎えると見せて暗殺します。
当時、エジプトのプトレマイオス朝は、王家内部の争いと原住民の反抗によって衰退の一途を辿っていました。
プトレマイオス12世の死後、クレオパトラ7世(紀元前69年~紀元前30年、在位前51年~在位紀元前30年)が慣習により、弟のプトレマイオス13世と結婚して共同統治者に成ります。

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クレオパトラ(イメージ)

 絶世の美女として有名なクレオパトラは、マケドニア系のギリシア人でエジプト人の血は入っていないと云われています。
弟と共同統治者になったものの、弟と廷臣のために一時エジプトを追われ、ポンペイウスを追ってエジプトに現れたカエサルの寵愛を一身に受け、王位に復し、プトレマイオス13世がカエサルと戦って戦死した後は、単独統治を行いました。
カエサルとの間にはカエサリオン(小カエサルの意味、後のプトレマイオス15世 )をもうけ、ローマに赴きますが、カエサルの暗殺後はエジプトに戻っています。

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『クレオパトラをエジプト女王へ据えるカエサル』"Cesare rimette Cleopatra sul trono d'Egitto"、ピエトロ・ダ・コルトーナ1637年

 ポンペイウスを追ってエジプトに進軍したカエサルはクレオパトラの虜となり、プトレマイオス13世側についたアレクサンドリア市民との間のいわゆる「アレクサンドリア戦役」(紀元前48年~紀元前47年)に勝利し、クレオパトラを王位に就けることに成功、更に小アジアのポントス王を破り、紀元前47年にはアフリカの元老院派を破り、紀元前46年7月にローマへ凱旋しました。
そして終身ディクタトル兼インペラトール(最高軍司令官、皇帝emperorの語源)となり独裁権を掌握(紀元前44年)したのです。

ジョークは如何?

ドイツ空軍の猛爆が終わり、さる婦人が防空壕から出てくるとわが家は跡形もない。

「well it makes a change!」(まあ、気分が変わっていいわ )


続く・・・
2014/05/22

歴史を歩く16

<ローマ帝国その③>

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奴隷市

(2)ローマの発展と内乱(その2)

 第2次ポエニ戦争の勝利より、ローマは海外に広大な属州(プロウィンキア、一般的にはポエニ戦争以後にローマが獲得したイタリアの外の海外領土を指す )を獲得し、地中海支配が実現しました。ヒスパニア(スペイン紀元前197年)、3回にわたるマケドニア戦争でマケドニア(紀元前168年)、そして紀元前146年にカルタゴ、ギリシア、更に紀元前133年には小アジアを征服、属州として総督を派遣し直接支配しました。
この属州から安い穀物が大量に流入し、おびただしい安価な奴隷が流入したことは、ローマ社会に大きな影響を及ぼすこととなります。

 最大の問題は中小土地所有農民の没落でした。
彼等は重装歩兵として征服戦争に永年にわたって従軍し、その負担と戦争による農地の荒廃の為、離農する者も多く、次第に窮乏の度を高めて行きます。
その為、これ迄ローマ発展を支えてきた重装歩兵を中心とするローマ軍の編成が維持出来なくなり、傭兵制に変わらざるを得なくなって行きました。

 中小土地所有農民の没落のもう一つの大きな原因は、ラティフンディア (ラティフンディウム、広大な土地を意味するラテン語)の発展です。
ローマの発展に伴う占領地は国有地とされましたが、未分配の公有地は資力のある者から地代を徴収して占有を許可しました。
最初期は単に彼らの占有地であった土地が次第に私有地化され、大規模に果樹栽培や牧畜を経営するようになり、労働力として当時大量に安価に手に入れることができた奴隷を使用します。
この奴隷制大農場経営をラティフンディアと呼び、このラティフンディアの発展に伴って没落しつつあった中小農民の私有地は次々に買い占められ、これが中小土地所有農民の没落を一層促進して行きました。

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奴隷商人

 もう一つの大問題は、奴隷制度の問題です。
ローマがイタリア半島を統一し 地中海へと発展していくなかで、相つぐ戦勝は膨大で安価な奴隷を供給しました。
紀元前2世紀から紀元前1世紀は奴隷制の最盛期で在り、多くの奴隷が家内奴隷や手工業・鉱山労働、 大規模な農場での穀物・果樹栽培に使用されます。
奴隷反乱もしばしば発生し市民を脅かしましたが、特に紀元前135年シチリアの奴隷反乱は全島を巻き込む大反乱となりました。

 紀元前3世紀頃から元老院を中心に政権を独占してきたのは、新貴族(ノビレス、ノビリタス)と呼ばれる人々で、新貴族は富裕なプレブス(平民)とパトリキ(貴族)の両身分の最上層部が融合し、最高官職(コンスルなど)に就任した者の直系の子孫で形成され、少数の家柄の者が主要な官職を独占します。
彼らは、政治的決定は元老院によってなされるべきだと考え、閥族(オプティマテス)と呼ばれ閥族派を形成し、貴族中心の元老院支配を守ろうとしました。

 ローマ市民のなかで貴族に次ぐ階級としてのし上がり、経済的には第一の勢力となったのが騎士(エクィテス)階級です。
彼らは元来、騎乗で戦う騎兵の身分であり、従ってある程度富裕な階級ですが、ローマの属州が増えるに従い、元老院議員が商業に従事することを禁止されているのに乗じて、商業・貿易・公共事業の請負、特に属州における徴税請負によって財を成し、一部は政治家、元老院議員など政界に進出して行きます。

 一方で中小農民は没落して離農し、「遊民」となって各地を放浪、ローマに流れこみ、「パンとサーカス(見世物)」を要求しました。
又遊民とならず有力者の傭兵となり、一部はラティフンディアの小作人になっていきます。

 こうした状況のなかで、下層民の権利と利益を守ると口実のもとに貧困者の支持を得て、民会の多数決によって政治が成れるべきだと唱え、民会を足がかりに政権を握ろうとする政治家、及びそのグループが現れ、彼らは平民派(ポプラレス)と呼ばれます。

 ローマでは平民の間にも貧富の差が拡大し、そのなかで閥族派と平民派の争いが激しくなって行き、ローマの危機、「内乱の一世紀」(紀元前133年~紀元前30年)に、没落していく中小土地所有農民を何とか救済し、もう一度嘗ての重装歩兵である平民を中心とする社会を再建しようと努力した人物がグラックス兄弟でした。

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グラックス兄弟

 兄、ティベリウス・グラックス(紀元前162年頃~紀元前132年)は、政治家・将軍の父とスキピオ(大アフリカヌス)の娘を母として生まれ、若い頃軍務に就いた後、中小農民の没落・貧民化が大問題になってきた頃の紀元前133年に護民官に選ばれました。
彼は、リキニウス・セクステイウス法を復活させ大土地所有を125haに制限し、制限以上の占有地を取り上げて土地のない市民に分ける土地法案を成立させ、自ら土地分配委員の一人となり、実行に移します。

しかし、土地問題などで 元老院と対立し、その上政策をやり遂げる為、伝統を無視して護民官の再選を企てた結果、翌年暗殺(撲殺)され、遺体はティベル川に投げ込まれました。

 彼は貧民のために論じるときはいつも「イタリアの野に草を食む野獣でさえ、 洞窟を持ち、それぞれ自分の寝座とし、また隠処としているのに、イタリアの為に戦い、そして斃れる人たちには、空気と光の他何も与えられず、彼らは、家もなく落着く先もなく、妻や子供を連れて彷徨っている。・・・」と論じました。

 弟、ガイウス・グラックス(紀元前153年頃~紀元前121年)は、兄と共に土地分配委員と成りましたが、兄は暗殺されましたが彼は紀元前123年、紀元前122年と続けて護民官と成り、兄の改革運動を受け継ぎ、土地法で大土地所有を制限すると共に、穀物法で貧民に対して穀物を一定の安い価格で販売することを定め、更にはカルタゴに植民市を建設する法案を通過させたのですが、全イタリア人に市民権を拡大しようとして元老院と激しく対立し、やがてそれは武力闘争に発展、最後は自殺に追いこまれます。

 グラックス兄弟の改革が失敗に終わった後、ローマでは閥族派と平民派の党争が激しく成りました。その中で登場してきたのが平民派のマリウス(紀元前157年~紀元前86年)です。
一兵士から身を起こした彼は紀元前119年に護民官に就任、更に紀元前107年にはコンスルと成りました。
アフリカのヌミディア王とユグルタ戦争(紀元前111年~紀元前105年)に勝利をおさめ、以後亡くなる迄7回コンスルと成ります。
彼は中小農民が没落し従来の兵制が維持出来ず、無産市民を志願兵として採用し国費で武装させる傭兵制を採用しますが、これは「私兵」の始まりとされています。

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ローマ兵

 紀元前100年、兵士への土地分配をめぐって閥族派と結んだ部下のスラとの抗争が激しく成り、一時閥族派が平民派を押さえます。
この時期に勃発した抗争が同盟市戦争(紀元前91年~紀元前88年)で、イタリア半島の同盟市がローマ市民権を要求して反乱を起こしたのですが、スラが元老院の了解のもとに市民権の付与を約束して平定しました。
しかしこの結果、ローマ市民権は全イタリア半島に広がり、イタリアは一つの領土国家と成ったのです。

 同盟市戦争が平定された紀元前88年にミトリダテス戦争(紀元前88年~紀元前63年)が始まります。
小アジアのポントス王ミトリダテスが、3回にわたってローマと抗争を繰り返し、このミトリダテス討伐権をめぐってマリウスとスラは激しく争い、マリウスは紀元前87年にスラの不在の最中にローマでスラ派に対して大虐殺を行ったのですが、翌年に天罰を受けたのか病死しています。

 マリウスの後ローマで、一時独裁権を掌握した人物がスラ(紀元前138年~紀元前78年)で、貴族に生まれ、最初マリウスの部下であった彼は、ユグルタ戦争等で功績を上げ、閥族派の巨頭となり、ミトリダテス戦争から帰国後、マリウス派を全滅させ、無期限のディクタトル(独裁官)に就任して(紀元前82年)、独裁政治を断行しますが、後に突然ディクタトルを辞し、翌年没しています。

ジョークは如何?

社会主義下のソ連、コンビナートの職場集会にて。
講師が大きな声で問う。
「資本主義の本質とは何だろうか!」

黙っている労働者たち。講師は自ら答える。
「それは、人間の人間による搾取そのものである!」

労働者の1人が質問。
「それでは共産主義の本質は何ですか?」
「その逆である!」


続く・・・

2014/05/18

歴史を歩く15

<ローマ帝国その②>

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(2)ローマの発展と内乱(その1)

 ローマのイタリア半島征服に最後の抵抗をみせた地域が、南イタリアのギリシア人植民市タレントゥムでした。
タレントゥムは紀元前8世紀スパルタ人の植民市として建設され、紀元前5世紀から紀元前4世紀にマグナ・グレキア(ラテン語で大ギリシアの意味、南イタリアのギリシア植民市群を指す)の中心都市として繁栄しました。
そのタレントゥムがギリシアのエピルス王ピロスの援助を得てローマと戦い、紀元前272年に敗北しローマの支配下に置かれます。
これによってローマの100年以上に渡る、イタリア半島統一が終焉を迎えました。

 ローマが短期間にイタリア半島征服に成功した理由は、訓練された重装歩兵、軍道建設、要所に植民市を設置したこと等も在りますが、最大の理由はローマ以外の都市、部族に対する統治政策が賢明・巧妙であったことです。
市民権賦与について寛大であり、また「分割統治」と呼ばれるように100以上の「同盟者」(ローマに服属した都市、部族 )の待遇に格差を設け、団結して反抗することを防いだ巧みな統治方法を選択しました。

 イタリア半島を統一したローマは西地中海の覇権をめぐりカルタゴと勢力逃走を行うことになります。
これが三回に及ぶポエニ戦争(紀元前264年~紀元前146年)です。

 カルタゴは現在のチュニス近郊に位置したフェニキア人の植民市で、紀元前9世紀頃ティルスによって建設され、紀元前6世紀に西地中海の商業権を掌握、シチリア・ サルディニア・イスパニアにも進出し、紀元前5世紀~紀元前4世紀にはシチリアをめぐってギリシアと激しく争いました。
ポエニとはラテン語でフェニキア人を意味します。

 当時のシチリア島はカルタゴが西半分を勢力範囲に治め、東半分にはギリシア人勢力がシラクサを中心に残存していました。
そのシチリア島東北部のメッサナを拠点としていた傭兵隊のマメルス隊に対して、シラクサのヒエロンがカルタゴと結んで討伐を行い、その結果として、マメルス隊はローマに救援を求め、ポエニ戦争勃発の引き金になりました。

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 第1時ポエニ戦争(紀元前264年)でローマは艦隊を派遣し、カルタゴが宣戦を布告して戦いが始まります。
シチリア島をめぐる戦いでは、ローマはカルタゴの拠点のアグリジェントを陥落させ、シチリア全土を支配下に置きますが、カルタゴは地中海西部では無敵を誇る五段櫂船120隻から成る海軍を擁し、ローマ軍に相対します。
この為 決定的勝利を得るにはカルタゴ本国を攻撃しなければならず、その為には海軍の存在が不可欠と成り、軍船の建造を開始し、紀元前260年春迄に120隻の艦隊を編成しました。

 当時の海戦は、ギリシア時代と変わらず船首に装着された衝角(ラム)を、相手の船に突入させて沈没させる戦法が中心に成っていたのですが、急造のローマ軍船には、船首に跳ね橋(桟橋)が装備され、強力な鉄の鉤が装備されていました。
相手の船に接近した時、跳ね橋を降ろし、鉄の鉤で繋ぎ止め、敵の甲板に乗り移り、陸上の戦闘と変わらない白兵戦を計画していたのです。
紀元前260年シチリア島東北沖のミレ岬海戦で、その新戦法は効果をあげ、敵船の半分に相当する約50隻を撃沈・拿捕する大勝利を得て、一躍ローマは海軍国に成りました。

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 その後、ローマは直接カルタゴ本国を攻撃しますが、その反撃は凄まじく、シチリア攻防戦も熾烈を極めるのですが、紀元前241年終にカルタゴ海軍は壊滅し講和条約が結ばれ、第1次ポエニ戦争は集結しました。
この結果ローマは、シチリア・サルディニア・コルシカ島を獲得し、巨額な賠償金を課し、20年賦とします。



 第2次ポエニ戦争(紀元前218年~紀元前201年)ハミルカル・バルカスは第1次ポエニ戦争後半からカルタゴ軍の指揮を執るもののローマに敗れます。
彼は紀元前236年に部隊を率いてカルタゴを出兵、北アフリカを西進し、北上してスペインに入り、紀元前228年に亡くなる迄スペイン経営に専念しました。

 その父の後を継いだのが、名将ハンニバル(紀元前247/246年~紀元前183年)で、紀元前221年、26才のハンニバルは全スペイン軍の指揮官に就任、紀元前219年、スペインに在ったローマの同盟都市を包囲陥落させますが、この戦闘が第2次ポエニ戦争の発端と成りました。

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 イタリア遠征の準備を整え、紀元前218年春、歩兵9万、騎兵1万2千、アフリカ象37頭を率いて陸路イタリアに向い、ピレネー山脈を越え、ローヌ川を渡り、8月から9月に有名なアルプス越えを行いました。
しかし、9月に入ってから雪も降り初め、道に迷う者、谷に転落する者も続出し、9月半ば北イタリアの平原に達した時点での兵力は歩兵5万、騎兵9千と大きく兵力を失っていました。

 北イタリアに侵入したハンニバル軍は南下を開始し、ローマ帝国の勢力圏にせまりますが、ローマを中心とするイタリア同盟都市の固い結束から、アペニン山脈を越えて南下しカンネーを奪取します。ローマ軍もハンニバル軍の侵攻を阻止する為、歩兵8万、騎兵6千を配置しますが、対するハンニバル軍は歩兵4万、騎兵1万の戦力でした。
カンネーの戦い(紀元前216年)は、ハンニバル軍の大勝利に終わり、ローマ軍の戦死者は7万人に達します。

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 ハンニバルは更にカプア(ナポリの北)に侵攻、そこに本営を置きました。
カンネーの戦いに敗れたローマは、中・北部のイタリア諸都市が依然として忠誠を誓う中で、軍の再建に努力を払い、紀元前215年には逆にハンニバル軍とカプアを包囲、一方ハンニバル軍は、彼を支援すべきカルタゴ本国が動かず兵力・兵器の補充が不可能に成り、スペインから援軍を率いてイタリアに向かった弟もスキピオ軍に完敗して戦死(紀元前207年)し、同盟していたマケドニア軍も来援せず、イタリアの戦闘は膠着状態に陥るなかで、戦いは次第にシチリア、スペインにも拡大していきました。

 この時スペイン遠征の指揮を自ら志願した人物が、スキピオ(大アフリカヌス紀元前236年~紀元前184年)で、彼はカンネーの戦いで辛うじて死を免れた後、紀元前210年にスペイン遠征を行い、 紀元前206年迄にスペインは完全にローマ領となりました。
スペインから帰国した彼は、紀元前205年コンスルに就任、元老院の反対を押し切ってカルタゴ遠征に踏み切ります。

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 紀元前205年シチリアで艦隊を準備し、遠征軍を整備、紀元前204年、彼はアフリカに向かい、カルタゴ近郊に上陸、カルタゴ軍を撃破します。
カルタゴ本国はハンニバルを急遽イタリアから呼び返し、直ちにハンニバルは北アフリカに上陸、西進、紀元前202年春、ザマの戦いが始まりました。
両軍の死闘末、騎兵の活躍でローマ軍が勝利を得て、ハンニバル戦争と呼ばれた第2次ポエニ戦争はようやく終結、この結果カルタゴは一切の海外領土を喪失し、以後50年間の賠償金を課せられ、北アフリカ 以外では戦闘行為を行わないこと、アフリカでの戦闘行為もローマの許可を必要とすることと成りました。

 ハンニバルは、敗戦後国政改革に当たりますが、親ローマ派の政敵に陥れられ、シリアに亡命(紀元前196年)、更にローマの追求を逃れて小アジアへ逃れ、ローマの身柄引き渡し要求もあり、終に自決します。

 第3次ポエニ戦争(紀元前149年~紀元前146年)は、第2次ポエニ戦争敗戦後もカルタゴの経済力は衰えず、50年賦の賠償金を10年で一度に支払い、この様なカルタゴの潜在力に対してローマのなかでは、「カルタゴを滅ぼすべし」の声も高まった中で発生します。
この頃、カルタゴは西隣りのヌミディア王の侵入に悩まされていました。
紀元前150年にカルタゴは、終にヌミディア対して開戦したのですが、これは「アフリカでの戦闘行為もローマの許可を必要とする」という規約に違反するものでした。
翌年のローマの宣戦に対してカルタゴは和議を求め、ローマ軍は無抵抗のうちに上陸し、武装解除を行い、更に全住民の立ち退きと内地移住を命じたのでした。
その結果カルタゴは抗戦に踏み切り、ゲリラ戦でローマ軍を悩ませることに成ります。

 こうした状況の中でスキピオ(小アフリカヌス紀元前185年~紀元前129年)が登場します。
彼は大アフリカヌスの長男の養子で、紀元前147年、若くしてコンスルに就任、カルタゴ遠征軍を率いて、紀元前146年カルタゴを陥落させ、カルタゴの町は徹底的に破壊された上、17日間にわたって焼き払われ、捕虜は奴隷として売却され、カルタゴは終に滅亡します。

 このカルタゴが滅びた年に、他のギリシア都市が衰退していくなかで繁栄を続けていたコリントがローマに反旗を翻しますが敗北、コリントの町は徹底的に破壊され、婦女子は奴隷として売られ、ギリシアはローマの支配下に置かれました。

ジョークは如何?

ミュンヘン会談でチェコの領有権を見事に手にしたヒトラーが会談後チェンバレンにこう話しかけた。
「チェンバレン殿、この度の会談の成功を祝ってひとつ記念にあなたの山高帽を頂きたいのだが、どうだろうか?」
「とんでもない。だめです。」
 とりつくしまもない返事にヒトラーは機嫌を損ね声を荒げた。
「私は断固要求する!」
「・・・困ったな、この山高帽はチェコと違って私の物なのですよ。」


続く・・・

2014/05/14

歴史を歩く14

<ローマ帝国その①>

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アエネイスよりトロイ落城

(1)共和政ローマ

 インド・ヨーロッパ語族に属するイタリア人は、ギリシア人とほぼ並行してイタリア半島に、2回に渡って南下しました。
第1回目は紀元前16世紀頃、第2目は紀元前11世紀頃、半島中部西側に定着して農業を営みます。
イタリア人の第2回南下でラティウム地方に定住した人々がラテン人と呼ばれ、彼らはイタリア半島の中央を流れるティベル川下流、ティベル川北岸を中心に少数の都市国家を建設しました。

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ロムルスとレムス

 ローマはラテン人がティベル河畔に建設した都市国家が起源となります。
ヴェルギリウス(紀元前70年~紀元前19年)が叙事詩「アエネイス」で建国伝説を唱い、その伝説によればトロヤの英雄アエネイス(アエネアス)がトロヤ落城後、 長い流浪を経てラティウムにローマ建国の基礎を築き、その子孫ロムルスは双子の兄弟レムスとティベル川に流されますが、牝狼に拾われ育てられ、後に協力して、紀元前753年にローマ市を建設、ローマ初代の王となり、39年間在位したと伝えています。

 ロムルスに続き7代の王が即位しますが、7代目の王は傲慢で、貴族達の力によってローマから追放され、紀元前509年に共和政が打ち立てられたと伝えられています。

 エトルリア人は古代イタリア北部に住んだ民族ですが、現在に到る迄その民族系統は不明です。
小アジアからイタリア半島に入り、彼らは早い段階から都市に分かれて定住し、12の都市国家が分立していました。
紀元前7世紀から紀元前6世紀頃に最盛期を迎え、イタリア半島南部のギリシア植民地を除けば、最も進んだ文化を持った民族でしたが、紀元前5世紀以後衰退が著しく、紀元前3世紀にローマに征服されます。
しかし、その芸術・宗教・習俗はローマに大きな影響を及ぼしたのでした。

 王政時代のローマもエトルリア人の支配下に置かれ、7人の王の最後の3代はエトルリア人と考えられています。
紀元前509年に王政を廃止し、共和政を樹立したと伝えられていますが、この出来事はエトルリア人の支配から解放され、貴族共和政を樹立したことを意味しています。

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エトルリアの壁画より風俗

 貴族共和政のもとでは、貴族が重要な官職を独占し、当時のローマではパトリキ(貴族、名門)とプレブス(平民、中小農民)の二つの身分差が明確でした。
2名のコンスル(執政官、統領と訳し、最高政務官、任期1年、無給)やディクタトル(独裁官、非常時に臨時に置かれ、元老院の提案でコンスルの1名が任命される。任期は半年で重任は認められない。)、そして 300人の元老院議員はすべて貴族から選ばれました。
元老院は最高の立法・諮問機関で、議員の任期は終身、定員は最初300人、後に600人(一時900人)で構成されました。

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元老院

 共和政が成立して間もない、紀元前494年に貴族に対する平民の不満が爆発し、平民達は団結してローマを退去し、北方の聖山と呼ばれた丘に籠城、ローマとは別に自分達の国(都市)を創ろうとしました。
之が聖山事件で、平民の強硬な態度に対して、平民を国家の中に留めて置く為に貴族達は譲歩し、護民官の設置を認めたと言われています。

 護民官は平民の生命・財産を守る為に生まれた官職であり、平民会の投票で選出されました。
任期は1年、定員は当初2名、紀元前449年以降は10名に増員されます。
身体は神聖不可侵でコンスルや元老院の決定に拒否権を行使する権限を持ち、その権限が拒否権に留まったとは言え、平民の権利伸長に果たした役割は大きなものでした。

 護民官の設置を認めさせた平民が次に要求したのは、成文法の制定でした。
従来パトリキ(貴族)とプレブス(平民)間の身分的差別が厳しく、法知識もパトリキが独占していたのに対し、プレブスは平等を求めてパトリキと論争を繰り返し、紀元前450年頃従来の慣習法を成文化したローマ最初の成文法である十二表法を制定させました。
内容は私権の保証、強大な家父長権、身分差別等原始法的色彩が強いものですが、成文法を公布させたことはプレブスにとって大きな勝利でした。

 ケルト人はインド・ヨーロッパ語族に属し、紀元前10世紀~紀元前8世紀頃に原住地のライン・エルベ・ドナウ川を離れ、紀元前5世紀~紀元残4世紀にはガリア(現フランス)、ブリタニア(現イギリス)に広まり、紀元前3世紀には小アジアにも侵入します。
鉄製武器を使用し、好戦的で中央ヨーロッパでは最も有力な民族でしたが、ガリアは紀元前1世紀に、ブリタニアは紀元後1世紀にローマに征服され、ケルト人は21世紀の現在では、アイルランドに於いて民族独立を保っていますが、イギリス・ウェールズ地方、フランス・ブルターニュ地方にも分布しています。

 ケルト人によるローマの劫掠後の貧しい農民の没落、ローマが獲得した公有地を貴族の有力者が勝手に占有する問題等多くの弊害が生じ、こうした状況のなかでプレブスの間から、単にパトリキの施政に反対するのではなく、プレブスのなかからコンスルを選出する運動が、紀元前370年頃から激しさを増してきます。

 護民官のリキニウス(紀元前376年~紀元前367年)とセクスティウス(紀元前376年~紀元前367年)がこの運動の先頭に立ち、パトリキの激しい抵抗を排除して、紀元前367年にリキニウス・ セクスティウス法を成立させ、終にコンスル職のうち一人はプレブスから選出することを認めさせ、又同法によって、一人の占有地は500ユゲラ(約125ha)以下とし、そこに放牧される家畜は牛・馬は100頭まで、羊・山羊なら500頭に限ると定められました。
コンスル職が平民に開放された後、ディクタトル(独裁官)・ 法務官・神官職にも平民が就けるようになり、紀元前300年迄には官職上での身分差は完全に撤廃されました。

 最後迄残った問題が、平民会の決議の取り扱いで在り、当時ローマは近隣ラテン人のラティウム諸都市と戦い(紀元前340年~紀元前338年)、東南方のサムニウム人と3回にわたるサムニウム戦争(紀元前343年~紀元前290年)にも苦戦しながら、これに勝ち有名な軍用道路であるアッピア街道の建設(紀元前312年)等が相次いでいたものの、一方で中小農民の負債問題(征服戦争に駆り出され、武器・武具・遠征費の負担が重くなり、借金が支払えず、奴隷に転落する物が多かった )から貴族・平民の対立が激化していました。
プレブスはティベル川対岸のヤニクルム丘に拠ってローマからの分離も視野に入れた行動を起こします。

 この危機を乗り切る為にディクタトルに選出されたのが、プレブス出身のホルテンシウス(生没年不明 )で、彼は有名なホルテンシウス法(紀元前287年)を成立させました。
ホルテンシウス法は「平民会の決議を元老院の承認が無くとも国法とする」と言う内容で、貴族と平民は法的に完全に平等と成りました。
この身分闘争で貴族が譲歩したのは、当時最終段階を迎えていた半島の征服戦争で重装歩兵として活躍した平民の協力が必要としたからに他成りません。

ジョークは如何?

金正日が街外れを散歩している最中にちょうど八百屋を通りかかった。
八百屋の親父は将軍様の突然の訪問に感激して言った。
「ようこそおこしいただきました将軍様。
 どうか好きな野菜を選んで持っていってください。もちろんお代はいりません」

金正日は気をよくして店に入っていったが、数分後カンカンになって出てきた。
「どういうことだ同志? この店にはまったく売り物がないじゃないか!
 あるといえば、腐ったジャガイモが1つだけだ! これでどうやって選べって言うんだ!!」

八百屋は金正日の剣幕に驚きながら言った。

「ちょうど、選挙のように」

続く・・・


2014/05/10

歴史を歩く13

<ヘレニズム世界その②> 

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ヘレニズム時代の地中海世界

(1)ヘレニズム時代②

 アレクサンドロス死後、ディアドコイ(「後継者」)と呼ばれたマケドニアの武将達が、領土をめぐって争い、紀元前323年から紀元前301年(若しくは紀元前281年、紀元前276年)迄「ディアドコイ戦争」の時代と呼ばれます。

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ディアドコイ戦争(イメージ)

※主なディアドコイは以下、

 カッサンドロス(紀元前358年~紀元前297年)
大王の死後、マケドニアとギリシアの大部分を領有し、大王の異母弟のフィリッポス3世・母・子のアレクサンドロス 4世・妻を次々に暗殺、紀元前301年のイプソスの戦いではリュシマコスと結んで命の尽る迄マケドニアを死守しました。

 アンティゴノス1世(紀元前382年頃~紀元前301年)
マケドニアの下級貴族に生まれ、部将として東方遠征に従軍、翌年小アジアペリギア総督に任命され、 支配地を拡大、大王の死後、マケドニア、小アジアを領有し、紀元前306年に王を称し、エジプトに侵入するものの、紀元前301年のイプソスの戦い(アンティゴノス、 デメトリオス父子対セレウコス、リュシマコス連合軍 )に敗れて戦死、その領土は勝者に分割されました。
後年、孫のアンティゴノス2世がケルト人を撃退し、マケドニア王に承認され、アンティゴノス朝(紀元前276年~紀元前168年)の開祖と成ります。

 セレウコス1世(紀元前358年頃~紀元前280年)
マケドニア貴族出身、部将として東方遠征に従軍、大王の死後バビロニア総督、大王領のうちシリアから中央アジアを領有、王を称しセレウコス朝(紀元前312年~紀元前63年)の開祖と成ります。
紀元前301年のイプソスの戦いではアンティゴノス1世を、紀元前281年にはリュシマコスを破るものの、マケドニア遠征中にプトレマイオス1世の子に暗殺されます。

 プトレマイオス1世(紀元前367年頃~紀元前283年)
マケドニア貴族出身、大王の部将、大王死後エジプトに赴き、大王が任命した総督を追放しエジプトを支配下に治め、紀元前304年に王を称し、プトレマイオス朝(紀元前304年~紀元前30年)を打ち立て、以後東地中海に領土を広め、アレクサンドリア市の運営に努め、王朝の基礎を築きました。

 「ディアドコイ戦争」の後、それ迄のアレクサンドロス大王領はシリアから中央アジア迄を領有するセレウコス朝シリア、エジプトのプトレマイオス朝 エジプト、マケドニア、小アジアの諸王国の4つに固まります。

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アレクサンドリア図書館
 
 プトレマイオス朝エジプトは、「ヘレニズム三国」の中で最も繁栄した国家と成り、王は全国土を所有し、神として専制政治を行いました。
その首都アレクサンドリアは、ヘレニズム時代を通じ、人、物の集積地として栄華を極めた都市でした。

 プトレマイオス1世はアレクサンドリアに「ムセイオン」(Museion、英語の museum(博物館)の語源)を建設し、学者を集め、付属大図書館を設け、文化を保護奨励した結果、アレクサンドリアはヘレニズム文化の一大中心地に成長し、自然科学研究の中心と成ります。
一方アレクサンドリアは大貿易港でもあり、インド、アラビア、アフリカの産物が集まり、小麦等が地中海に輸出され、当時の人口は100万人を超えたとも云われており、「アレクサンドリアにないものは雪だけである」の言葉は今でも有名です。

 プトレマイオス朝エジプトはヘレニズム世界の中心として、約300年間存続しましたが、紀元前30年、最後の女王クレオパトラ7世の死と共に滅亡します。

 セレウコス朝シリアは、嘗てのアレクサンドロス大王領の大部分を支配下に治めましたが、その領土は余りにも広大に過ぎ、民族構成上でも複雑な内部事情でも在った為、王朝初期の段階から領土の分裂作用が発生し、首都も最初ティグリス河畔のセレウキアに定められますが、やがてシリアのアンティオキアに遷都され、この出来事はシリアが王国の中心となったことを示しています。

 セレウコス1世の死後約30年後、中央アジアに移住していたギリシア人が独立してバクトリア(紀元前255年頃~紀元前139年)を建国し、同様に遊牧イラン人もパルティア(紀元前248年頃~紀元後226年)を建国します。
セレウコス朝は 紀元前2世紀に入ると、パルティアに次々と領土を奪われ、シリアを領有するのみとなり、紀元前63年にはローマのポンペイウスによって滅亡します。

(2)ヘレニズム文化

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ラオコーン

 ヘレニズム時代、ギリシア人が盛んに東方に移住した結果、ギリシア文化が広く普及し、東西文化が融合し、新しい文化が生まれました。
これをヘレニズム文化と呼びます。

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ミロのヴィーナス

 美術は、華麗・技巧的・誇張的な面が強くなり、建築ではコリント式がこの時代に流行します。
1820年にミロ島で発見された「ミロのヴィーナス」、ギリシア神話に題材を取った「ラオコーン」が有名です。

 ヘレニズム時代には、ポリスが崩壊し、ギリシア人の民族意識が衰えるなかで、従来、人々の行動の規範となっていた「ポリスの人間として如何に行動するか」、「ポリスの為に何を成すべきか」と云うポリス社会の規範が無意味となり、人々の思考・行動の規範は「個人として如何に生きるべきか」 と云う個人主義、「ヘレネス(ギリシア人)もバルバロイ(野蛮人、ギリシア人以外の人々)も無い、同じ世界の人間だと云う「世界市民主義 (コスモポリタニズム)」の風潮が強まりました。

 この風潮を反映して、哲学も政治から逃避し、個人の安心立命を求める、エピクロス派や ストア派が盛んとなった。

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アテナイの学堂よりエピクロスとゼノン

 エピクロス(紀元前342年頃~紀元前271年頃 )はサモス島に生まれ、紀元前306年にアテネに移住し弟子を教えました。
彼は、哲学について幸福を得る手段と考え、幸福=快楽=善と考える快楽主義を唱えたのですが、ここで彼の言う快楽とは、 死や神への恐怖を免れ、肉体に苦痛がなく、心が平穏な状態を快楽と呼びました。
節度のある快楽、精神的な快楽こそが幸福であると考えたのです。

 ストア派の祖、ゼノン(紀元前335年~紀元前263年)は、キプロス島に生まれ、純粋のギリシア人でなく、フェニキア人との混血とも言われています。
22才の時アテネに出て学び、35才頃から講義をして絶大な人気を得ました。
彼は幸福とは「心の平静」な状態にあるとし、そのために理性による欲望のコントロールを主張します。

 ヘレニズム時代には、自然科学が盛んと成り、自然科学研究の中心地であったアレクサンドリアでは多くの学者が活躍しています。

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エウクレイデス

 有名な数学者エウクレイデス(ユークリッド)(紀元前300年頃)はアテネで学び、アレクサンドリアのムセイオンで活躍しました。
彼が大成した平面幾何学は「ユークリッド幾何学」として、現在に至るまで学校で学ばれており、「幾何学に王道なし」は彼の言葉として有名です。

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アルキメデス

 数学者・物理学者として有名なアルキメデス(紀元前287年頃~紀元前212年)もシチリアに生まれ、アレクサンドリアのムセイオンで学問を修め、円周率の近似値を求め、梃子や浮力の原理(「アルキメデスの原理」)、比重の原理を発見したことでも有名です。

 ムセイオンの館長を務めたエラトステネス(紀元前275年頃~紀元前194年)は地球周囲の長さを測定したことで有名で、彼は約45000kmと測定しましたが、これは現在の約40000kmにほぼ近い数値です。

 更に天文学者のアリスタルコス(紀元前310年頃~紀元前230年頃)は地球は太陽を中心にして円軌道を描いて回転する太陽中心説・地動説を唱えました。
しかし、この説は当時は受け入れられず、16世紀のコペルニクス、ガリレイの時代にやっと認められることになります。

ジョークは如何?

現代とは何か?

過去も未来もない韓国の象徴である。

続く・・・

2014/05/06

歴史を歩く12

<ヘレニズム世界その①> 

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(1)ヘレニズム時代

 ヘレニズムに意味は、広義と狭義の2義に使われます。
広義にはヘブライズムと共に、ヨーロッパ文明の二大基調であるギリシア精神を意味し、狭義には純粋のヘレネス文化に区別される紀元前4世紀末以後の文化を指し、政治的にヘレニズム時代という場合は、紀元前334年から紀元前30年の約300年間を指します。
狭義のヘレニズムは、ドイツの歴史家ドロイゼン(1808年~84年)が、新しい時代と文化に意義を見だして以来普及しました。

 ギリシアのポリス社会が衰退に向かっていた頃、ギリシア北方でマケドニアが勃興します。
マケドニア人は、紀元前12世紀頃、この地に侵入したドーリア人の一派で、当初部族的な原始王政の形態を取っていましたが、ギリシア世界と交渉を持つに至ったのは、ペルシア戦争の頃からとされています。

 紀元前359年に即位したフィリッポス2世(在位紀元前359年~紀元前336年)は、15才から3年間テーベで人質としての生活を強いられますが、その間エパメイノンダスの斜線陣戦法を学びました。
帰国後、摂政を経て王位に就き、エパメイノンダスの斜線陣戦法を採用し、農民による長槍歩兵のファランクス(密集隊形、古代ギリシアの隊形で、重装歩兵を横長の長方形に密に並べる兵法)を完成し、巧みな外交政策によりマケドニアを強国にすると友にギリシア・ポリスの抗争に介入しました。

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長槍歩兵・ファランクス

 当時、アテネではイソクラテス(紀元前436年~紀元前338年)が、ペルシア征討の為ポリス統一をフィリッポス2世に期待したのですが、これに対してデモステネス(紀元前384年~紀元前322年 )は、フィリッポス2世を弾劾する反マケドニア演説を行い、マケドニアがギリシア世界に於けるポリスの自由にとって脅威である事を力説し、彼はテーベに赴き、同盟を作りあげます。

 この状況を見定めたフィリッポス2世は、2千の騎兵と3万の歩兵を率いてギリシアに侵攻、紀元前338年カイロネイアの戦いで約3万5千のアテネ・テーベ連合軍を撃破し、この戦果を背景にフィリッポス2世は紀元前337年ヘラス同盟を成立させ、自らその盟主となり、全ギリシアを統一したのでした。
続いて対ペルシア攻略準備を進めている最中、娘の結婚式の場で部下に暗殺されます。

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カイロネアの戦い

 父王暗殺後、20才で王位に就いた人物がアレクサンドロス3世(大王)(紀元前356年~紀元前323年、在位紀元前336年~紀元前323年)です。
彼は、父王の暗殺直後に国内の反対勢力を平定し、動揺したギリシア諸市の反乱を鎮め、テーベを徹底的に破壊し全市民を奴隷としました。
そしてヘラス同盟の盟主として、紀元前334年に父王の遺志を継いでペルシア遠征に出陣、この時のマケドニア・ギリシア連合軍の兵力は、騎兵5千・重装歩兵2万4千・補助部隊8千から成る計3万7千でした。

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アレクサンドロスⅢ世(大王)

 遠征軍はヘレスポントス(現在のダーダネルス海峡)を渡り、小アジア西岸から東方に進撃します。当時、アケメネス朝ペルシアは、克つて繁栄は失われていましたが、其れでも尚老大国として体面を保っており、その最後の王として紀元前336年に即位したダレイオス3世(在位紀元前336年~紀元前330年)は、小アジア防衛の為に約4万の軍を小アジア西北端に集結させました。
紀元前334年グラニコス川の戦いで、ペルシア軍を撃破したアレクサンドロス軍は、小アジア西岸を南下、サルデス、ミレトス等の諸都市を占領、小アジアを平定しながら其の東南に達します。

 ダレイオス3世はバビロンに軍団を終結させ、シリア北部に進出し、地中海東岸北部で両軍は激突します。
時に紀元前333年11月、有名なイッソスの戦いが繰り広げられます。
騎兵5千・歩兵4万からなるアレクサンドロス軍は、60万(明らかに誇張された数字、アレクサンドロスの軍より遥かに多い)のペルシア軍を破り、ダレイオス3世を敗走させ、母・妃・子を捕虜としました。
この戦いによって、メソポタミアへの進出の道が開かれたのですが、彼はシリアを南下し、フェニキア人の都市ティルスを攻略し、更に南下を続け紀元前332年にエジプトに達します。

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イッソスの戦い

 エジプト人はペルシアからの解放者としてアレクサンドロスを歓迎しました。
その地に半年滞在し、その間ナイル河口にティルスにかわる商港・軍港を建設し、自分の名に因んで アレクサンドリアと命名します(紀元前331)。

 北上を開始したアレクサンドロスは、新たな兵を遠征軍に加え、騎兵7千、歩兵4万の軍を率いて、いよいよペルシア中心部のメソポタミアへ 侵攻し、ダレイオス3世はこれを迎え打つベく、4万の騎兵、1万6千の重装・軽装歩兵と大鎌を備えた新式戦車200両、象15頭を準備し、ティグリス川の上流ガウガメラに進出しました。
紀元前331年10月1日、アルベラ (ガウガメラ)の戦いが始まります。
激戦の末、ペルシア軍が次第に不利となり、ダレイオス3世は戦車で敗走します。
アレクサンドロス軍は追撃に転じ、翌朝アルベラを占領したのですが、既にダレイオス3世はイラン高原に逃亡した後でした。

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ダレイオスⅢ世

 アレクサンドロスは直ちにバビロン、スーサに兵を進め、紀元前330年 ペルセポリスを占領、膨大な財宝を捕獲し、その壮大な王宮を焼き払い、彼はこの地に於いて東方遠征終了を宣言したのでした。
しかし、彼はダレイオス3世がエクバタナに逃れたことを知り、ペルセポリスから西北のエクバタナに進出しましたが、ダレイオス3世は逃亡した後でした。
既にペルシア帝国の首都・副首都をことごとく陥れ、ペルシア戦争の復讐戦としての遠征は目的を達した為、アレクサンドロスはエクバタナに入ると、ヘラス同盟軍を解散し、一部の部隊を本国に帰還させます。

 新しく編成された軍団は、マケドニア人中心ですが、彼ら自身も傭兵としての身分に留まり、更に各地の原住民を傭兵として採用しました。
こうして軍団を再編成して、残るペルシア帝国の領土征服と、逃げるダレイオス3世の後を追い、東に軍を進め、パルティアからバクトリア(中央アジア)に到達します。
しかし、ダレイオス3世はバクトリアのサトラップ(総督)に暗殺され、ついにアケメネス朝ペルシア帝国は紀元前330年に完全に滅亡しました。

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青年時代のアレクサンドロスとアリストテレス

 アレクサンドロスが次に目指した場所がインドでした。
若き日の大王は家庭教師であったアリストテレスからインドに関する知識を得ており、インド征服は彼の夢であったと言われています。
今や「アジアの王」と成ったアレクサンドロスにとって、彼の征服事業はインド征服なしには完成しないと考えていたのでした。

 紀元前327年初夏、アレクサンドロスは、マケドニア出陣時を上回る大軍を率いて、ヒンドゥークシ山脈を越え、西北インドのパンジャープ地方へ侵入、翌年の紀元前326年春、インダス川を渡り、更に東へ進み、雨季に悩まされ、反抗する諸部族の抵抗を受けながら、更にはガンジス川流域に進出しようとしていました。

 しかし、既に出発以来の行程は約1万8千km(地球の周囲が 約4万km )に及び、軍隊の疲弊は大きく、帰国を望む声は日増しに高まり、終に将兵はそれ以上の行軍を拒否したのです。
やむなく、軍団を水路と陸路に分け、紀元前326年11月インダス川を下り、両岸の抵抗部族を鎮圧しながら、インダス河口に紀元前325年の7月に到達、そこで季節風を待ち、9月スサへ向かいました。
彼自身は、約1万の軍隊を率いて陸路を進み、暑さ、飢え、砂に悩まされ、惨憺たる状態で西に進み、一方海路も、現地人の妨害、逆風、嵐、水と食料の不足に悩まされながら80日を要してペルシア湾に到達し、陸路、海路を進んだ軍団は、共に紀元前324年の春、スサへ到着したのです。

 スサでは、歴史に残る集団結婚式が行われます。
彼自身は、ダレイオス3世の娘スタテイラ(2世)を伴侶とし、マケドニア貴族約80人にペルシアの高貴な女性が割り当てられました。
紀元前323年初頭、彼はバビロンに帰還、次の地中海西部への遠征、アラビア半島の周航の準備に取り組むのですが、7月宴席での過剰な飲酒の翌日、熱病に襲われ、10日後の紀元前323年6月13日に32才で波乱の生涯を閉じました。

 アレクサンドロスは、大帝国にオリエント的専制君主として君臨しました。
彼は東方を統治する必要上、諸民族の文化や制度を尊重する融和政策が必要であることを心得ており、ペルシアの行政組織や儀礼を継承し、東西の民族・文化の融合を図りました。
前述の集団結婚式はその現われと言え、又自身の名を冠したアレクサンドリアを70余り建設し、ギリシア人の東方移住を進めたのです。
その結果、ギリシア文化とオリエント文化が融合し独特の文化が生まれた。
これがヘレニズム文化で在り、大王は金・銀貨を鋳造し結果、貨幣経済が普及し、東西貿易も活発となりました。

 アレクサンドロスの後継者となったのは、フィリッポス2世が下位の身分の女に生ませたフィリッポス3世、アレクサンドロスとソグディアナの豪族の娘との間に生まれた子供で、共治を行ったのですが、紀元前310年迄に王家は断絶、ディアドコイ(「後継者」)は自ら王を称し始めます。

ジョークは如何?

 毛沢東がルクセンブルクを訪れ、閣僚一人一人に挨拶をしていた。
毛沢東は国防長官の前に来て首を傾げた。「失礼ですが、どうしておたくのような小さな国にそんなポストがあるのですか??」
国防長官は答えた。「何をおっしゃるんです。あなたの国にも裁判所があるじゃないですか。」


続く・・・

2014/05/01

歴史を歩く11

<ギリシア世界番外編>

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オイディプス王

◎ギリシア悲劇

 ギリシア人は「悲劇」を創作した最初の民族です。
オリンピックと同様、男性しか舞台に上がれなかったと云いますので、本来は宗教上の儀式的な意味も在ったのでしょう。
しかし、何時しか宗教的意味合いが薄められ、「悲劇」という様式美に迄高められました。
2500年前の人間のギリシアは、その様な感性が磨かれていたのです。

 現在もギリシア本土やシチリア島等には、すり鉢状の劇場(跡)が多数残っています。
小さくまとまった物から、アテネ郊外、エピダウロス劇場の様に1万数千人を収容できるもの迄、大きさの違いは在りますが、どの劇場も半円形をしているのは、音響効果を最大限引き出す為の理想の型なのです。

 舞台の真中で落としたコインの音が、最上段に迄届いたと云われています。
知らずに父を殺し、母を妻としたオイディプス王の物語。
裏切った夫に復讐する為、愛する我が子を殺したメデイア。
ソフォクレスやエウリピデスの作品は現代劇でも十分通用する程、練られた作品と思います。
人は何故「悲劇」を好むのか、考えてみたいものです。

ベンハーガレー船
映画「ベン・ハー}より

◎ガレー船

 私は、ガレー船から、映画「ベンハー」の海戦場面を連想してしまいます。
地中海がヨーロッパ文明の母体ならば、ガレー船は2千年の長きに渡って、動脈として海上交通の主役でした。

 ガレー船とはオールで漕ぐ軍船の形式で、原型はフェニキア時代に形造られました。
ペルシャ戦争で活躍したギリシアの三段櫂船は何度も今回のギリシア文明で紹介しましたが、その形や大きさを少しずつ変化させながら、ローマ、ビザンティン、オスマン・トルコに受け継がれていきました。

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ギリシア式ガレー船

 かなり大きな船を動かす動力で在るオールの長さは十数メートル、重さは100㌔以上云われています。
その巨大なオールを近世のガレー船では、5人乃至6人で動かしましたが、うまくリズムに乗れなければ隣のオールに頭をぶつけて大怪我をする事もしばしばでした。
全力走行すると時速12キロぐらいは出せたと云いますが、この船速では15分が連続走行の限界でした。
通常はその半分位の船速で、しかも2交代制で船を進め、長距離を移動する時はなるべく帆を張り、風の力を利用する様に成ります。

 ガレー船を改良し商船として利用したのは、ジェノヴァとヴェネチアで、人件費が多少高く成るとしても、香辛料等の貴重品を安全且つ確実に輸送する手段としては、当時の帆船より優れていました。
13世紀末になると黒海沿岸からベイルート、アレクサンドリア、ブリュージュを結ぶ定期航路が開かれ、地中海交易は全盛期を迎えます。

 ヴェネチアは arsenale (海軍工廠・英語では arsenal、イングランドのサッカーチーム「アーセナル」の名前の由来) という自前の造船所を持ち、更にその語源を辿るとアラビア語の「ダルセナア」に至り、ギリシア語からビザンティン経由で継承された言葉です。
最盛期には3千人が働き、2ヶ月で100隻のガレー船を進水させた記録も残されています。

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レパントの海戦

 そのヴェネチアを中心とするキリスト教連合艦隊が、1571年ギリシア西南沖でオスマン艦隊と激突、有名なレパントの海戦で、双方で450隻のガレー船が死闘を繰り広げる、海戦史に残る大海戦で在り、この海戦はガレー船がその存在を誇示した最後の海戦でもありました。

 17世紀末、既に時代遅れのガレー船に執着し、徒刑囚を漕ぎ手とする船団を育てたのはルイ14世。
「国王の偉大さを示す最良の方法は、強力なガレー船団を所有すること」(コルベール)との言葉も在りますが、18世紀半ばそのフランスガレー船団も廃絶に追い込まれ、二度と蘇ることはありませんでした。

 今日ではオールを漕ぎながら地中海を駆け巡る事自体、想像もできませんが、コロンブスがジェノヴァ人であった事からも判る様に、その技術と経験の蓄積が、やがて迎える大航海時代に即応する事が出来たと言えるのではないでしょうか。

ジョークは如何?

 時は、「バトル・オブ・ブリテン」。連日のドイツ空軍による空襲でロンドンは大打撃を食らっていた。
しかし、前日に入り口を爆撃されたある店が、翌日には早速開店していた。その入り口の札には、こう書かれていた。

 「本日開店。なお、入り口は少々大きくなりましたが。」

続く・・・