2014/06/30

歴史を歩く25

<イラン文明その②>

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ザラスシュトラ(ゾロアスター教の開祖)

(2)イラン文化

 パルティアは文化的に初期ではギリシア・ヘレニズム文化の影響を強く受けました。
しかし1世紀頃からイラン伝統文化が復活し始めます。

 ササン朝は、イラン伝統文化の復興を図り、イラン民族文化を確立しました。
このことはイランの民族的宗教であるゾロアスター教を国教としたことに良く現れています。
ゾロアスター教の経典である「アヴェスター」の成立年代は不明ですが、現存の経典はササン朝の時代に編集されたものです。

 しかし、その地理的な位置から周辺諸国、諸地域の宗教が流入し、国教であるゾロアスター教の他にユダヤ教・キリスト教・仏教等も信仰され続けました。
特にネストリウス派キリスト教は比較的自由な活動が許されたことから発展し、中国にもシルクロードを経由して伝播し、唐代の中国では景教と呼ばれるほどの隆盛を見せています。

 バビロニアに生まれたマニ(216年頃~276年)は当初ゾロアスター教徒であったものの、神の啓示を受け、30才頃、預言者であることを自覚し、ゾロアスター教を基礎にしてキリスト教・仏教の諸要素を融合した新宗教であるマニ教を創始し、シャープール1世の即位に際して、公然と布教を始め、広い地域にわたって布教活動を行いましたが、異端として迫害を受け、276年に磔の刑に処せられました。
マニ教はササン朝では異端とされ弾圧されましたが、後にローマ帝国・中央アジア・インド・中国に迄その信仰は広まったのです。

 マニ教と同様に弾圧された宗教にマズダク教が在ります。
マズダク教はゾロアスター教の一派で極端な禁欲と平等を主張したため異端とされ、開祖のマズダクはホスロー1世によって処刑されています。

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法隆寺獅子狩文錦

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白瑠璃碗

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正倉院御物漆胡瓶

 ササン朝では美術・工芸が独自の発達を遂げます。
ペルシア固有の技法にギリシア・インドの要素を加えた銀器、青銅器、ガラス器、陶器、毛織物、絹織物等のササン朝美術はシルクロードを通じて東方に伝えられました。

 ササン朝美術は南北朝・隋・唐の中国を経て、飛鳥・奈良時代の日本にまで伝来します。
法隆寺の獅子狩文錦、正倉院御物の漆胡瓶、白瑠璃碗等はその代表例としてよく知られています。

余談:紀元前・紀元後、西暦のお話

 「21世紀は2001年から始まる」、日本では常識になっていますが、世界的には必ずしもそうではないようです。

 イタリア、オランダ、フランス、韓国などの国民的常識は「2000年から」だそうで、オーストラリアは2000年のシドニーオリンピックを「今世紀最初のオリンピック」とアピールしていました。

 同じような「新世紀論争」は百年前にもあり、ドイツの皇帝ウィルヘルム二世は「1900年が20世紀の始まり」と宣言し、1901年説の大英帝国と激しく対立したそうです。
公式にはグリニッジ天文台が「21世紀と新ミレニアムは2001年1月1日から」と発表しているので、一応の決着はついているのですが、「西暦」という観念の不安定さを物語っています。
 
 「西暦(キリスト紀元)」が、イエスの生誕に基づくことはよく知られていますが、この「西暦」が、現在のような形で使用されるようになったのはいつ頃からでしょうか。
『聖書VS.世界史』(岡崎勝世著)によれば、キリスト紀元の発案者は、6世紀のローマの修道士ディオニシウスで、「主の体現より(ab incarnatione Domini)」ということばで表したのが始まりです。
このことばは、現在のA.D.(anno Domini)のもとになっています。
この年号はカール大帝によって一般的に使用され、10世紀末には西ヨーロッパで定着したと言われています。

 しかし、この時代には、「キリスト前(B.C.)」の年号がありませんでした。

 では、B.C.の使用はいつから始まるのでしょう。
マイヤーの百科事典によると、パリ大学の神学教授であったD.ペタヴィウスが「17世紀に創始し18世紀に一般に使用されるようになった」ということです。

 しかし、今日的な意味での「西暦」を使用した最初の人物はヴォルテールでしょう。彼は「通俗紀元」ということばを用い、「キリスト」や「主」ということばをはずして、歴史から宗教的な意味を剥奪して年号表記の「世俗化」をはかったのです。

ジョークはいかが?

赤の広場で行われたメーデーのパレード。
スターリンを称えるスローガンが書かれたプラカードの波の中で
老婆がひとり「神様ありがとう」と書かれたプラカードを持っていた。

青年:ばあさん、それは「神様ありがとう」じゃなくて「同志スターリンありがとう」と書かなきゃだめだよ。

老婆:では同志スターリンがこの世を去ってしまったら、それからはなんて書けばいいんだい?

青年:そのときは「神様ありがとう」と書けばいいんだよ。

続く・・・
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2014/06/26

歴史を歩く24

<イラン文明その①>

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エデッサの戦い・ローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜としたシャープール1世

(1)パルティアとササン朝

 インド=ヨーロッパ語族のイラン(ペルシア)人は、南ロシアからイラン高原に移動し、遊牧民や農耕民として定住しました。
イラン人最初の国家はメディア(紀元前8世紀末~紀元前550年 )、次いで大帝国アケメネス朝ペルシア(紀元前550年~紀元前330年)を建国しましたが、この国はアレクサンドロス大王によって滅ぼされます。
アレクサンドロス大王の死後、イラン高原はギリシア系のセレウコス朝シリア(紀元前312年~紀元前63年)の支配下に置かれ、セレウコス朝はアレクサンドロス大王の政策を継承し、イラン各地にもギリシア人植民市を建設し、ギリシア人を移住、入植させました。

セレウコス朝シリア
セレウコス朝シリアの版図

 しかし、セレウコス朝の支配力の低下とともに、各地の有力者が王朝を築いて独立します。
最も早く離反した地域は、アム川上流域のバクトリアで、紀元前3世紀半ばにギリシア人総督が独立して王国を形成します。
このギリシア人が中央アジアに建国したバクトリア王国(紀元前255年頃~紀元前139年)は、インドのマウリヤ朝の衰退に乗じて、西北インドにまで進出して最盛期を迎え、その後、西方のパルティアや北方のスキタイ系遊牧民の圧迫を受けて弱体化し、紀元前139 年スキタイ系のトハラ人によって滅ぼされました。

バクトリア・パルティア
バクトリア。パルティアの版図

 バクトリア王国の建設に刺激されてイラン系遊牧民パルニの族長であったアルサケス(ティリダテス1世)(生没年不明)が弟とともにセレウコス朝に反乱を起こし、イラン北東部のホラサーンの地に逃れ、遊牧民、定住農耕民をまとめて紀元前248 年頃建国した国がパルティア(紀元前248年~後226年)です。
中国ではアルサケスの名の音訳から安息と呼ばれました。

 パルティアはセレウコス朝を圧迫して領土を広げ、紀元前2世紀ミトリダテス1世(アルサケス6世)(在位紀元前171年頃~紀元前138年頃)は、西はユーフラテス川から東はインダス川に至る大帝国を築き、東西貿易路(シルク・ロード)の要所を押さえ、最盛期を迎えました。
都は最初ヘカトンピュロスに置かれ、メソポタミアに進出後はティグリス川流域のクテシフォンに定められ、ローマがセレウコス朝を滅ぼし(紀元前63年)更に東方に進出してくるとメソポタミア地方を中心にローマ帝国と激しい攻防をくり返します。
ローマとの200 年にわたる激しい攻防によってパルティアの国力は次第に衰え、3世紀に入るとササン朝の攻撃を受け、紀元後226年首都クテシフォン陥落、王国は30代で滅亡しました。

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ミトリダテス1世時代のコイン

 パルティアは文化的には、当初ギリシア・ヘレニズム文化の影響を強く受け、ミトリダテス1世の治世前半に鋳造された貨幣には「ギリシア文化の愛好者」の銘が刻まれています。
しかし紀元後1世紀頃からはイランの伝統文化の復活の風が強くなっていきました。

 パルティアは実に約500年間にわたって存続しましたが、ギリシア・ローマ・中国に比較して日本人の知名度は高く在りません。
此れは、彼等が遊牧民で文字による記録を残してないことも原因の1つであろうと思われます。

ササン朝ペルシア
ササン朝ペルシアの版図

 ササン朝ペルシア(226年~651年)の創始者であるアルデシール1世(在位226年~241年)は、アケメネス朝の都であったペルセポリス付近の貴族から次第に勢力を拡大しパルティア王と対立するように成りました。
226 年パルティア王を破り、首都クテシフォンを占領し、全ペルシアの王となります。
彼はイランの民族的宗教であるゾロアスター教を国教とし(230年)、彼等の力を統治に利用して国の統一を図りました。

 第2代皇帝シャープール1世(在位241年~272年)は有能で有ると同時に秀でた武人でした。
彼は「イラン人及び非イラン人の諸王の王」という称号を名乗り、中央集権国家の建設に努め、東方のクシャーナ朝を破ってアフガニスタンに進出、西方ではローマ帝国と連年にわたって抗争を繰り返します。
特にエデッサの戦い(260年)ではローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜とし、ヴァレリアヌスがシャープールに跪くレリーフが岩壁に刻まれた戦勝記念碑に残されています。

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エデッサの戦い・ローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜としたシャープール1世

 第10代皇帝シャープール2世(在位310年~379年)も英主として知られ、ローマ帝国と抗争は一段と激しいものに成りました。
ササン朝は5世紀後半、中央アジアのイラン系遊牧騎馬民族であるエフタル(中国名は白匈奴)の侵入を受けて東方の領土を失い、国家と社会は混乱に陥りますが、混乱を鎮め国を再興した人物が、ササン朝最大の名君とされる第21代皇帝のホスロー1世(在位531年~579年)です。
対外的にはビザンツ皇帝のユスティニアヌス1世とシリアをめぐって激しく抗争し、562 年にはアンティオキアを攻略して講和を結び、更に当時中央アジアで急速に台頭してきた突厥と同盟して、今まで苦しめられてきたエフタルを東西から挟撃し(566年~567年)、終にはこれを滅ぼしてバクトリア地方を奪回しました。
国内では貴族を押さえて専制体制を強化し、地租制度の確立・灌漑・農業に力を注ぎ国を繁栄させ、ササン朝の黄金時代を築いています。

 しかし、その後内紛が続き、国力は次第に弱体化し、最後の皇帝ヤズディギルド3世(在位632年~651年)の治世642年ニハーヴァンドの戦いでアラブに敗れ、ササン朝は事実上崩壊し、王は651年に中央アジアのメルヴで殺害され、ササン朝は名実ともに滅亡しました。

ジョークは如何?

働かざる者食うべからず!

いまやソ連は共産主義に向かって行進しているのに、なぜ相変わらず食料が欠乏しているのでしょうか?

「行進中に、ものを食ったりはしない。」

続く・・・
2014/06/22

歴史を歩く23

 キリスト教の成立と発展

キリスト降生まれる
イエス生誕

(1) キリスト教の成立

 キリスト教の始祖はイエスですが、その生誕についてははっきり分かっていません。
現在では研究の結果、その誕生は紀元前4年頃となっています。
「新約聖書」の「福音書」(新約聖書の中のイエスの言行を記録した部分で、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4者によるイエスの伝記)ではナザレ(パレスティナの北部)の大工ヨセフを父とし、母マリアとの子としてベツレヘム(イェルサレムの南)の馬小屋で生まれたとされています。
マリアが聖霊によって懐妊したこと、処女懐胎はよく知られていますが、幼少時代についてはほとんど解明されておらず、30才頃まで小村ナザレで成長し、そこで生活していたと思われます。

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イエスの教え

 30才の頃ユダヤの預言者ヨハネによってヨルダン川で悔い改めの洗礼を受け、メシア(救世主)であることを自覚し、「神の国は近づいた。悔い改めて福音(よい知らせの意味)を信ぜよ」と説き、ガリラヤ(ナザレのある地方)を中心に至る所で集まってくる群衆に教えを説いきました。
彼は、神は罪を自覚し、救いを求める全ての人々を救ってくれるという神の絶対愛と敵をも愛せよという隣人愛を説き、ヘブライ人(ユダヤ人)のみが救われるとする選民思想と律法(ユダヤ教の戒律)の形式的な遵守を排し、律法学者やパリサイ人(宗教儀礼を極端に重視したユダヤ教徒の一派)と対立したのです。

 彼の説教と病気を直す等の数々の奇跡によってイエスの名声は高まり、彼の教えはローマ帝国と富裕者の重圧に苦しむユダヤの民衆に受け入れられ、多くの人々が彼につき従うように成って行きます。彼の説教のなかでも、「マタイによる福音書」第5章「こころ貧しき人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」に始まる「山上の垂訓」は特に有名です。

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イエスと使徒

 イエスはペテロ・ヤコブ・ヨハネ等の12人の弟子を選び(12使徒)伝道を助けさせ、ガリラヤからイェルサレムに入ってその神殿の内外で説教を行い、当時のユダヤ教の指導者たちを批判しました。ユダヤ教の祭司・律法学者・パリサイ人等はイエスを捕らえ、審問にかけようとしたが、彼はそのことを悟り、12人の弟子と共に「最後の晩餐」を囲み、この中に裏切り者がいること、その訴えにより自分は捕らえられるであろう事を弟子たちに告げます。(情景を描いた絵画が有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」)そしてユダの手引きによって捕らえられ、ユダヤ評議会の審問で神への不敬罪とされ、ローマ帝国への反乱を企てる者としてローマ帝国ユダヤ総督ポンティウス・ピラトゥスに訴えられ、紀元後30年頃、イェルサレム郊外ゴルゴタの丘で十字架の刑に処せられました。
ティベリウス帝(第2代ローマ皇帝)の時代でした。

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ゴルゴタの丘へ

 ところが処刑され、いったん墓に葬られたイエスが三日後に復活するとする信仰が弟子達の間に生まれ、彼こそ「メシア(救世主)」(そのギリシア語訳がキリスト)である、神のひとり子が全ての人々の罪をあがなう為に十字架に架けられて死んだと信じられ、「主キリスト」を礼拝するキリスト教が成立したのです。

(2) キリスト教の発展

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ローマの大火を見るネロ

 キリスト教は以後、ペテロ、パウロ等の使徒達によってシリア、小アジア等パレスティナ以外の地に広められていきました。
特に「異邦人の使徒」とよばれるパウロは、当初熱烈なユダヤ教徒でキリスト教徒を弾圧していのですが、ダマスカス城外で天からの光に打たれ、復活したイエスの声を聞いて回心し、以後熱心な伝道者となり、小アジアからギリシアに伝道し、61年頃には首都ローマに行き、ペテロと共にローマ伝道に力を尽くします。

 64年、「ローマの大火」があり、ローマは数日間燃え続け、当時人口100万人と言われたローマの市街の大半が消失したのは、有名な「暴君ネロ」の治世の時でした。
この時ネロが新しい、そして自分の名前を付けた新しい都を建設する為、ローマ旧市街に放火させ、焼き払わせたという噂がたち、民衆が暴動を起こしそうに成りました。
ネロはこの噂を消す為に放火をキリスト教徒に被せ、多くの信者を捕らえ、十字架の刑、火あぶりの刑、更には獣の皮を被せて猛犬にかみ殺させる弾圧を行います。

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聖ペテロの殉教

 当時、キリスト教信仰はもちろん許されておらず、信者達はカタコンベと呼ばれる古代ローマ人の地下納骨墓に夜ひそかに集まって礼拝を行っていました。
ローマには総延長560kmに及ぶカタコンベが存在したと云われ、しかもローマ人は墓所を神聖視し、役人も立ち入らなかった為、キリスト教徒達が集会・礼拝所として利用するには、格好に場所だったのです。
その為一般のローマ人から誤解され、魔術を行う、幼児の血を吸う、人肉を食べる、果ては近親相姦、獣姦を行っている等、悪いイメージばかりが噂に上り、ローマの良き伝統を汚す者である云われていました。
ネロはこの流言飛語を巧み利用し、放火の罪を被せることによって彼らを弾圧したのです。

 このネロの迫害の時、難を逃れてローマ市街を出たペテロは朝霧の中でキリストの姿を幻視し、「クオ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、いずこに、行きたもう)と尋ねると、「私はローマへ行き、十字架に掛かるのだ」と答えられたので、ペテロは今の自分の行いを恥じ、ローマへ戻り、やがて逆さ吊りの十字架に掛かって殉教した伝説が生まれました。
この物語を題材とした作品が、ポーランド人シェンキェヴィッチの名作「クオ・ヴァディス」(1896刊)で1905年にノーベル文学賞を受賞しています。(第1回ノーベル賞は1901年)

 キリスト教は当時のローマの多神教と相いれず、又ローマ皇帝を神として崇拝する皇帝崇拝をも拒否した結果、度々迫害を受けることと成り、多くの殉教者を出しています。
しかし、度重なる迫害にも拘わらず、まずこの世の生活になんら希望を見だせない奴隷をはじめとする下層民の間に普及し、次第に上流社会にも広がって行き、この間に各地に信者の団体である教会が生まれて行きました。

 又マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによるイエスの言行を記録した「福音書」、使徒の活躍を述べた「使徒行伝」、書簡集を集めた「新約聖書」がヘレニズム世界で広く使われたギリシア語(コイネーと呼ばれる)で2世紀中頃迄に書物の姿に集約されます。
しかし、現在の形の「新約聖書」が正式に公認されるのは397年のことなのです。

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コンスタンティヌスの洗礼

 歴代の皇帝の迫害にもかかわらず、キリスト教徒は増大の一途を極め、4世紀初頭、ディオクレティアヌス帝による大迫害の後、もはやキリスト教徒を敵としてはローマ帝国の統一は困難であると悟らせるに至り、キリスト教徒の団結を帝国の統一に利用しようと考えた人物が、コンスタンティヌス帝でした。
当時、西の副帝であったコンスタンティヌス帝は、6人と帝位を争っていましたが、順次政敵を破り、特にイタリア半島を支配していたマクセンティウスとの戦いの際、天に十字架と「汝これにて勝て」との文字を眺め、それを旗印に戦って勝利を得た結果、翌313年にリキニウス帝とミラノで会見し、属州総督宛の書簡の形でキリスト教の信仰を公認します。
これが有名な「ミラノ勅令」です。

 コンスタンティヌス帝はキリスト教徒の団結を国家統一の為に利用しょうとしたのですが、この時代になると教会内にも教義の対立が生じ始め、教義の統一を計る為小アジアのニケーアに全教会の司教、長老など約300人を集め、「ニケーアの公会議」を開き、激しい論争の末、「父なる神と、子なるキリストおよび聖霊とは、三つでありながらしかも本質的には同一である」という三位一体説を唱えたアレクサンドリアの助祭のアタナシウス(295年頃~373年)の説を正統とし、アレクサンドリア教会の長老のアリウス(250年頃~336年)のキリストの神性を否定し、人性を重んじる、いわゆるアリウス派を異端としました。
この為ローマ帝国から追放されたアリウス派は以後ゲルマン人の間に広まって行く結果と成ります。

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ニケーアの公会議

 キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の甥に当たるユリアヌス(在位361年~363年)はギリシア文化に心酔し、ミトラ教等の密儀宗教を崇拝し、即位後異教に改宗し、キリスト教を弾圧したため「背教者」と呼ばれました。

 その後379年に皇帝となったテオドシウス1世は、380年にアタナシウス派キリスト教を国教とし、392年には他の宗教を厳禁とします。

 その後もさまざまな教説が現れ異端とされた。特に431年に開かれたエフェソス公会議でコンスタンティノープルの総大司教であったネストリウス(?~451年頃)は、イエスと聖母マリアの神性説に反対し、イエスについては神・人両性説をマリアについては非聖母説を唱え、異端を宣告され、国外追放となりました。
彼の説はササン朝ペルシアを経て唐代の中国に伝わり、景教と呼ばれ栄えた様子は、長安の大秦寺内に建立された「大秦景教流行中国碑」に詳しく書かれています。

 この頃迄に教会の組織化が進み、聖職者身分が成立すると共に、「教父」と呼ばれるキリスト教の正統教義の確立に努めた多くの学者が現れました。
特にアウグスティヌス(354年~430年)は最大の教父・神学者で在り、彼の母は熱心なキリスト教徒でしたが、彼は放縦な生活に溺れ、肉欲に苦しみ、一時マニ教に帰依したものの、後に母の祈りに心を動かされ、回心を決意して、回心してからは異教や異端との激しい論争を通して正統教義の確立に努めました。

彼の著書「神の国」(神国論)はアラリックのローマ荒掠をキリスト教の責任と非難したのに対して擁護したものでキリスト教歴史哲学の基礎と成りました。
又「告白録」は三大告白録の1つとして有名です。

ジョークは如何?

共産党の地区オルグ。中央から派遣された委員が共産主義社会の成果について得々と語る。
 「わが国の肉や小麦生産は飛躍的に向上している。」

 会場から質問。
 「その肉や小麦は何処に行ったんですか?」
 演説に水を差された委員がみるみる不機嫌そうに・・・

 次の月のオルグ。
 あいかわらず景気のいい演説。すると会場から「質問」の声が。
「なんだ?ここの地区は質問が多いな?肉や小麦の質問なら先月回答したはずだ。」

質問者。
「いいえ、同志委員。肉や小麦のことはいいんですけど、先月質問した奴は何処に行ったんですか?」


続く・・・
2014/06/18

歴史を歩く22

<ローマ帝国 番外編>

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生死をかけた見世物

◎グラディエーター

 Russell Crowe主演の「グラディエーター」は、哲人皇帝マルクス・アウレリウスの晩年を描いています。
これまでも「シーザーとクレオパトラ」「ベン・ハー」等、ローマ時代を映画化した作品は数多く、リバイバル作品も多数存在しています。

 gladius とは短剣の意味で、gladiator とは剣闘士を指します。
「剣奴」等とも訳され、彼らはコロッセウムの5万人の観衆の前で「真剣」勝負を演じました。
市民達の慰めものとして皇帝等が主催したイベントですから、残酷、かつ刺激的なショーでなければならかったのでしょう。

 では一体どの様な人達がグラディエーターに成ったのでしょうか?
多くは戦争捕虜や犯罪者達で、彼らは厳しい訓練を受けて拳闘士としてデビューを果たしました。
あまり有能でない、つまり見せ物にならない様な犯罪者は、時には素手でライオンと戦わされてその餌にされた事も在った様です。
更に女性がこの見世物に出演していたという珍しい記録も残っています。

 グラディエーターはある意味で貴重な財産ですから、殺される直前にストップをかけ、次の試合にもう一度使うといった選択肢もありました。
記録では一日の試合に18人が出演し、半分は勝者、9人の敗者の内、生かされたのは6人で、残る3人は実際に死亡している、割合だった様です。

 勝ち続けて人気の在る勝者となった成功者は、解放され自由の身となりましたが、しかし、あえて「職業」として舞台に立ち続けた人も結構存在したのです。
一度味わった大観衆の熱狂が忘れられなくなってしまったとしたら、どこか現代スポーツに通ずるものがあります。

ローマ風呂
テルマエ・ロマエより

◎ローマの風呂

 遠くの山の水源から都市に水を供給する技術を持っていたローマ人は、900もの公共浴場を作りました。
しかも風呂だけでは無く、サウナ、トレーニングルーム、ファストフード店(!)も完備し、少なくとも一日に1回はここへ足を運ばなければ気が済まなかった市民たちの社交場でした。
 
 同時に彼らは温泉の効用にも精通しており、各地に温泉を見つけては、保養所、療養所を作りました。
イギリス南西部のバース(Bath)はかつてこの地に進出したローマ人が開いた温泉地です。
今も1日に120万リットルもの温泉が涌き出ますが、bath(風呂)という言葉がこの町の名前から生まれたことは良く知られています。
 
 bath がドイツ語の bade になり、ドイツのBaden Baden、スイスのBaden、オーストリアのBaden Bei Wien 等の都市名に成りました。
フランスのAix-Les-Bains、ルクセンブルクの Mondorf-les-bains などもbain(風呂)とともに発展した町で在り、いずれもローマ時代ゆかりの温泉地です。
ハンガリーにはローマ時代の温泉地が、ブダペストを中心に100以上残っており、ルーマニアにもローマ人が開いた温泉が今なお多くの人を集めています。
 
 ベルギー東部のリエージュ州にスパという町があります。
ローマ時代に人がよく訪れるようになり、温泉地になりました。
温泉を指す「スパ」という言葉はこの町の名前から生まれたと云われています。
因みにクアハウス(Kurhaus)はドイツ語で温泉療養所を意味し、kur はラテン語の「cura」(心配、心遣い、配慮、世話)から来ており、「manicure」(マニキュア、 manus(手) のcura)と同語源の「療養」、「養生」、「治療」を意味する言葉だそうなので、これもまたローマとの深いつながりを暗示しています。

ジョークは如何?

石原莞爾の東条英機への痛恨の一撃

 極東軍事裁判といえば、戦後敗戦国となった日本の指導者を戦勝国の側から裁いた国際法廷であるが、日本側証人として石原莞爾という軍人が出廷した。米国の検事が「証人は当時の東条首相と意見が対立していたと言われているが・・・」と質問したときに、石原は胸を張って「私は意見を持っていたが、東条には思想や意見などなかった。意見のない者と私の見解が対立することはありえない。」と答えたそうである。

つまり、東条英機を定見のないバカと暗にこき下ろしているわけである。

続く・・・
2014/06/14

歴史を歩く21

<ローマ帝国その⑧>

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南フランス・ガール橋

(5)ローマ文化
 
 ローマ人は、ギリシア人のような独創的な文化を創り出すことができず、ギリシア文化・ヘレニズム文化の模倣に終始しましたが、古代文化を集大成し、後世に伝えた点では功績を残しました。
又法律・土木建築等の実用面に長所を発揮しています。

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「狩をする少女の姿でアエネアスの前に現れるヴィーナス」

 文学、哲学、歴史学等の分野は、ギリシア・ヘレニズム文化の影響を強く受け、是等の分野では、哲学者のエピクテトス、歴史学のポリビオス、プルタルコス、地理学のストラボン、更に天文学のプトレマイオス等多くのギリシア人が活躍しています。

 文学の分野はギリシア文化の模倣としての色合いが強いのですが、ラテン文学でアウグストゥスの時代に黄金時代を迎えました。
ヴェルギリウス(紀元前70年~紀元前19年 )は古代ローマ最大の詩人で、ローマ建国伝説を詠った叙事詩「アエネイス」はその最高傑作です。
ホラティウス(紀元前65年~紀元前8年)は多くの叙情詩を残していますが、「征服されたギリシア人は、猛きローマを征服した」と云う有名な言葉も残しています。
オヴィディウス(紀元前43年~紀元後17年頃)には「転身譜」「恋愛歌」等の代表作が在ります。

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『カティリナ(右端)を追及するキケロ(左側手前)』、(Cicerone denuncia Catilina・チェーザレ・マッカリ1888年作)

 キケロ(紀元前106年~紀元前43年)は政治家・雄弁家・散文家として知られており、第1次三頭政治に反対して追放され、後に帰国してポンペイウスを支持してカエサルに疎まれて引退し、彼の死後政界に復帰、第2次三頭政治では反アントニウスの立場をとって彼の部下に暗殺されました。
彼はギリシア思想のローマへの移入・普及に大きく貢献し、その文体はラテン散文の模範として19世紀に到る迄、ヨーロッパ文学に大きな影響を与え続けました。

 哲学の分野では、ヘレニズムの哲学を継承し、ストア派の哲学が上流社会の実践倫理として流行します。
若きネロの家庭教師で「幸福論」を著したセネカ(紀元前4年頃~紀元後65年)、ギリシア人の解放奴隷で「語録」を著したエピクテトス(55年頃~135年頃)、哲人皇帝として有名なマルクス・アウレリウス・アントニヌスは代表作の「自省録」を陣中で執筆しました。

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ロムルスとレムス・セバスティアーノ・リッチ(1659-1734)

 歴史学もギリシアの歴史学を継承発展させます。
古代ローマのギリシア人歴史家ポリビオス(紀元前203年頃~紀元前120年頃)は、ローマの国家体制の熱烈な支持者で政体循環史観に立つ「歴史」(ローマ史)を著し、ローマの発展をギリシア史との比較しながら記述しました。
アウグストゥスの恩顧を受けたリヴィウス(紀元前59年~紀元後17年)は40年を費やして大著「ローマ建国史」(ローマ史)を著し、アウグストゥスの時代を賛美しています。

 有名なカエサルは歴史家としても名を残し、「ガリア戦記」は当時のガリア(現フランス)の事情やゲルマン社会を覗い知る為の貴重な資料で、原始ゲルマンについての最重要の史料はコンスル等を歴任した政治家・歴史家のタキトゥス(55年頃~120年頃)が著した「ゲルマニア」が在ります。
他に「年代記」(アウグストゥスからネロの時代)も有名です。

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Vercingetorix throwing his weapons at the feet of Caesar" リオネル・ロワイヤル1899年

 プルタルコス(46年頃~120年頃)の著「対比列伝」(英雄伝)は聖書、エウクレイデスの「幾何学原本」と並ぶ永遠の名著でナポレオンを初め多くの人々に読まれました。
ギリシアとローマの類似の生涯を送った政治家・将軍等の伝記を対比させ、50人の伝記を纏めたものです。

 地理学者としては古代ローマのギリシア人であるストラボン(紀元前64年頃~紀元後21年頃)が知られており、彼は当時のローマ帝国全土の地理・歴史を纏めた「地理誌」を著しています。

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天動説概念図Wikipediaより

 自然科学の分野では、天文学・地理学者のプトレマイオス(2世紀)が天動説(地球中心説)を体系化し、その天動説は16世紀にコペルニスクの地動説が現れる迄1000年以上にわたって人々に信じられて来ました。
又、彼の作成した世界地図は15世紀迄当時の人々の世界観に大きな影響を及ぼします。
プリニウス(23年~79年)は自然全般にわたる百科全書、「博物誌」(項目数2万と云われます)を著し、自然科学を集大成しました。

 芸術や学問の分野ではギリシア文化を模倣したと云われるローマ人ですが、法律や土木事業等の分野では独創性を発揮しています。

 特にローマ法はローマ人が後世に残した最大の遺産であり、後世に大きな影響を与え、ローマ最初の法律は紀元前5世紀半ばに制定された十二表法ですが、以後共和制・帝政の時期に多くの法律が制定されました。

 当初はローマ市民権を持つローマ市民にのみ適用される市民法でしたが、都市国家ローマの発展に伴いローマ市民権を持たない人々に適用される万民法が生まれます。
ローマは紀元前89年に全イタリア諸都市の自由民にローマ市民権を与え、更にカラカラ帝が212年にアントニヌス法を発布し、帝国全土の自由民にローマ市民権を与えた結果、市民法は世界的な性格を持つに到り、帝国内のあらゆる民族に共通な万民法が成立し、ローマ市民にも外国人にも等しく適用されるようになりました。

 後にビザンツ皇帝のユスティニアヌスが、法学者トリボニアヌスを中心に編纂させた「ローマ法大全」(歴代皇帝の勅法集、学説集、法学提要の三部から成り、534年に完成)によって集大成されます。

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アッピア街道

 土木建築はローマ人が最も得意とした分野で、アッピア街道(全長540km)に代表される道路(軍道)はローマから各地に延び、「全ての道はローマに通ず」との諺を生み、その総延長は85000km(地球の2周以上)に達したと云われています。
水道も各地に作られ、特に南フランスのガール橋は有名で、現在もその美しい姿を残し、更に5万人を収容したコロッセウム(円形闘技場)は今もローマ市内にその巨大な姿を留めています。
浴場を中心とした一大社交場である公共浴場、カラカラ帝が造ったカラカラ大浴場は有名ですが、その他トラヤヌス・コンスタンティヌスが建造させた凱旋門もまた有名です。

 暦法の分野で、カエサルは紀元前46年にエジプトの太陽暦を修正したユリウス暦を制定しました。このユリウス歴を改良発展させた暦が、今日世界的に採用されているグレゴリウス暦(1582年に教皇グレゴリウス13世が制定)なのです。

ジョークは如何?

ウィストン・チャーチルの言葉より、
「期待される政治家とは、明日なにが起きるかを、国民に予告できなくてはならない。そして、次の日、何故自分の予言通りにならなかったかを国民に納得させる能力がなくてはならない。」

続く・・・

2014/06/10

歴史を歩く20

<ローマ帝国その⑦>

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分割統治

(4)古代の終末

 ディオクレティアヌス(在位284年~305年)はダルマティア(旧ユーゴスラヴィア西部)の貧農、解放奴隷の子として生まれ、一兵卒から皇帝の親衛隊長となり、皇帝ヌメリアヌスが暗殺された後、ニコメディア(小アジア西北部の都市)で軍隊に推されて帝位に就きました。
彼は広大な帝国を統治する為に同じ軍団のマクシミアヌスを第2の正帝に任命し、更に2人の副帝を置き、帝国の「四分統治」を成立させ、自らは東の正帝としてトラキア・アジア・エジプトを直轄し、さらに全帝国をも治めました。

 再び統一と秩序を取り戻した帝国では、皇帝は「ドミヌス」(奴隷の主人の意味)と呼ばれ、市民は臣民となり、臣民は皇帝の前に出る時はペルシア風の跪拝(ひざまずいて拝礼をすること)をしなければ成りませんでした。
彼は又ローマ皇帝を現神として崇拝する皇帝崇拝を強要し、このような専制君主政を「ドミナートゥス」と呼称します。
彼は軍制の改革、行政改革、税制・幣制改革を推進し、更にインフレを抑制する為に最高価格令を発布したのですが、その効果は期待に反したものでした。

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ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス( Gaius Aurelius Valerius Diocletianus、 244年12月22日 - 311年12月3日・ローマ帝国皇帝(在位:284年 - 305年))

 新しい政治体制を確立したディオクレティアヌスは、一方で古いローマの伝統の復活を図り、宗教の面では伝統的な多神教を崇拝します。
キリスト教に対して、即位以来20年間は寛大でしたが、303年~305年にわたって突然全帝国内で最後の、しかも今迄に記録された中で最も激しい大迫害を実行します。
キリスト教徒が皇帝崇拝を認めなかったことが最大の原因ですが、キリスト教を根絶する事は不可能で、その大迫害の中305年病気の為に退位します。

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キリスト教徒迫害

 四分統治は中心人物ディオクレティアヌスを失い崩壊が始まり、各地に実力者が現れ帝位を争う事と成りました。
四分統治時代の西の副帝であったコンスタンティウス1世の子であるコンスタンティヌス1世(大帝)(在位306年~337年)は、父の死後副帝に任じられ(306年)帝位争いに終止符が打たれます。
当時帝位を争う人物は6人に及び、彼は312年にマクセンティウスを、そして324年には最後の競争者のリキニウスを破って単独皇帝となり、ローマ帝国の再統一に成功しました。
312年にマクセンティウスとの戦いの時、天に十字架と「汝これにて勝て」との文字が浮かび、これを旗印に戦って勝利したと伝えられています。

 コンスタンティヌス1世は、翌年の313年、「ミラノ勅令」を発布して総ての宗教に対し信仰の自由を認め、禁教令を廃止し、ここにキリスト教は公認される事と成りました。
又リキニウスを破って単独皇帝となった頃から、ギリシア時代の都市ビザンティウムに新都の建設を始め、330年に治世25年を記念して遷都します。
新しい都は「コンスタンティヌスの都市(ポリス)」と名づけられ、コンスタンティノープル(現イスタンブル)と呼ばれるように成ります。
遷都の理由は千年の伝統を持ち、異教的伝統の強いローマのキリスト教化に見切りをつけた事、帝国にとってバルカン半島・小アジアの属州の重要性が強まっていた事、東方のササン朝ペルシアの侵入に備える為等が考えられます。

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 コンスタンティヌスはキリスト教を国家統一の為に利用する事を考えますが、当時のキリスト教会内には多くの教理対立が存在し、統一を欠いていた事から、その教義の統一を図る為、325年小アジアのニケーアに司教、長老等約300人を集め公会議を開催しました。
このニケーア公会議(宗教会議)では、キリストの神性を否定するアリウス派(アリウスはアレクサンドリア教会の長老)を異端とし、キリストを神の子とするアタナシウス(アレクサンドリアの助祭)の主張する「父なる神と、子なるキリストおよび聖霊とは、三つでありながらしかも同一である」とする「三位一体説」を正統教義として教義の統一を図ります。

 内政ではドミナートゥスを確立し、官僚制度の整備、幣制改革を行い、又332年にコロヌスの土地緊縛令を発布し、本来自由な小作人であったコロヌスと呼ばれる農民を耕作している土地からの離散を無くし、逃亡した場合は連れ戻す権利を地主に与えました。

 コンスタンティヌスの死後、三人の子が帝国を分けて統治しますが、長男と三男が非業の死を遂げ、次男が再び単独統治を行います。
彼は父の死の翌年に一族を皆殺しにしますが、この時難を逃れたコンスタンティヌス大帝の甥であるユリアヌスが、追放された後、副帝となりガリア遠征で戦績を上げ軍隊によって正帝に推戴され、コンスタンティウスの急死によって即位しました。
彼は即位すると公然と異教に改宗し、キリスト教徒を弾圧した為「背教者」と呼ばれ、内政では善政を行うものの、ササン朝遠征中に没しました。

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ゲルマン民族のヨーロッパ大移動

 ユリアヌスの死後、ローマ帝国の衰退は加速し、東方、北方から異民族が侵入を繰り返す様に成ります。
ヴァレンヌ帝(在位364年~378年)等は帝国の防衛に全力を注ぎますが、375年にはフン族の圧迫を受けた西ゴート族がドナウ川を越えてローマ領内に移動し、此処に「ゲルマン民族の大移動」が始まり、ヴァレンヌ帝はアドリアノープルの戦いで戦死します。

 ヴァレンヌ帝の死後、共同統治者となったのが、テオドシウス1世(大帝)(在位379年~395年)で、彼はゴート族を破った後和解し、394年には帝国最後の統一に成功しました。
その間、380年にはアタナシウス派キリスト教を信奉する事を命じ、キリスト教を国教とし、392年には他の全宗教を厳禁しました。
395年、彼は死に際して帝国を二人の子に分与した為、ローマ帝国は東西分裂は決定的と成り、西ローマ帝国は476年、ゲルマン民族大移動の混乱のなかで滅亡し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は以後1000年以上存続し、1453年に滅亡します。

 ローマ帝国滅亡の直接的な原因はゲルマン民族の大移動ですが、ローマ帝国は内部から崩壊した事も事実です。
ゲルマン人の侵入を防ぐ為に辺境の防衛に当たっていた軍隊はゲルマン人や異民族の傭兵に依存する事が多く、長い国境線を防備する為には多くの軍隊を必要とし、これら軍隊や官僚を雇う為に莫大な財源を必要とし、その財源を得る為に、都市に重税をかけたことから都市の没落を招いた事が要因として挙げられます。
その一方で都市から地方に移った有力者の大所領が国家から独立の傾向を示し、中央政府の支配力を弱体化させ、地方分権化が進む等、社会は次第に封建社会に近づきつつ在りました。

 大所領経営にも大きな変化が発生しています。
共和制の末期から帝政の初期にかけて盛んであったラティフンディア(奴隷制農業にたつ大所領)は、奴隷制による経営が非能率である事(奴隷は鞭が怖くて働く振りをするだけで、奴隷が自ら進んで本気で働くとは思えない)、「ローマの平和」によって奴隷の流入が減少し、奴隷の価格が上昇した事、奴隷反乱の危険が絶えずある事等の理由から奴隷の大量使役は困難に成っていました。

 そこで奴隷所有者は奴隷の地位を向上させ、没落した自由農民を労働力として使役するようになります。
彼等はコロヌスと呼ばれ、土地と共に売買され、相続されるように成ります。
彼等は、コンスタンティヌス大帝が332年に発布した土地緊縛令によって移動を禁止され、土地に縛りつけられた隷属的農民の性格を強めていきました。
このコロヌス制(コロナートゥス)は中世農奴制の先駆であり、有力者の大所領の独立と合わせて古代から中世への変化を示すものです。

 都市の没落に伴い、商工業も衰退し、貨幣経済も次第に衰退して自然経済(物々交換)へと後退した結果、社会の頽廃、治安の悪化、人口の減少等ローマ帝国を衰退・滅亡へと向かわせる事と成ります。

ジョークは如何?

イギリスのチャーチルは議会で何かと物議をかもしだす人物であったことで有名である。
チャーチルが首相の時に議会である議員と言い合いになった。その議員は勢い余ってこう言ってしまった。
「あんたは酒のみの大馬鹿ものだ!」
チャーチルは激怒してこう言った。

「お前を裁判所へ訴えることにする。罪名は国家重要機密漏洩罪だ!」

これは実話であるという噂がある。


続く・・・


2014/06/06

歴史を歩く19

<ローマ帝国その⑥>

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ローマの火災を見つめるネロ アルフォンス・ミュシャ(Alfons Maria Mucha)1887年作

(3)帝国の成立②

 アウグストゥスの死後、後継者として第2代目の皇帝となったのは皇后の連れ子であるティベリウス(在位14年~37年)でした。
次いで彼の甥の子のカリグラ(在位37年~41年)が皇帝と成ったものの即位後、病を患い狂人の暴君となり、臣下に暗殺され、第4代皇帝はカリグラの叔父、クラウディウス(在位41年~54年)で、この時期にブリタニア遠征が行われ、ブリタニアは属州と成ります。

 第5代皇帝が、クラウディウスの後妻の子であり「暴君」として名高いネロ(在位54年~68年)せした。
ネロは初期の5年間、哲学者の家庭教師であったセネカらの後見で善政をしいたのですが、セネカの引退後、暴虐の性格を現わし、母・妻を殺害し、又64年のローマの大火の罪をキリスト教徒にかぶせ大迫害を加えたことは有名です。
しかし、ガリアの反乱を発端として反乱は各地の軍隊に広まり、近衛軍団にも見捨てられたネロはローマを脱出したのち自ら命を断ちます。

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キリスト教徒迫害

 ネロの死によってユリウス・クラウディウス家(カエサル、アウグストゥスの系統)は断絶し、68年から69年にかけて4人の皇帝が入り乱れた内乱となりますが、このなかからヴェスパシアヌスが帝位についてフラヴィウス朝が始まり、ティツス、ドミティアヌスと続くものの、ドミティアヌスが暗殺されフラヴィウス朝が絶えると、穏和で名門出身の元老院議員のネルヴァ(在位96年~98年)が元老院に推されて66歳の高齢ながら皇帝に即位しました。
彼は元老院との協調を図り、救貧制度の確立などに成果を上げるのですが、嗣子がなかったために、トラヤヌスを養子にして、有能な人物を後継者に選ぶ先例を開き、いわゆる「五賢帝時代」(96年~180年)の幕開けと成りました。

 トラヤヌス(在位98年~117年 )はスペインに生まれ、軍人として活躍、コンスルを経てネルヴァの養子となり翌年に即位しました。
彼は寛容・質素な性格で内政でも実績を上げますが、特に対外政策ではアウグストゥス以来の守勢から積極策に転じ、ドナウ川を渡ってダキア(現在のルーマニア)を属州とし(106年)、更に東方に進み、パルティアの首都を占領し、ローマ帝国の領土は史上最大と成ります。

 トラヤヌスの後即位したハドリアヌス(在位117年~138年)もスペイン出身で、トラヤヌスの甥にあたり、トラヤヌスの死で皇帝に推されました。
彼は内政を重視し、対外政策は再び守勢に転じますが、彼は帝国全土を2度にわたって巡察し、ブリタニアにも渡り(122年)、「ハドリアヌスの長城」を築いて北方への防備としました。

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ハドリアヌスの長城・Wikipediaより

 ハドリアヌスの養子となり帝位を継いだアントニヌス・ピウス(在位138年~161年)は、即位に際して「ピウス(敬虔な者)」の称号を与えられ、穏健で仁慈に富み、国内は平安な時代を迎えます。彼もハドリアヌスの意向に従い、マルクス・アウレリウス・アントニヌスとヴェルスを養子に迎え、帝政を迎えて初めて、二人の皇帝による共同統治と成りました。

 五賢帝最後の皇帝であるマルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位161年~180年)は、スペイン名門貴族の子としてローマに生まれ、11歳で早くもストア派の哲学者として知られ、ピウス帝の娘と結婚し、帝の死後ヴェルスと共同統治となり、ヴェルスの死後(169年)単独の皇帝と成りました。
彼は「哲人皇帝」として有名であり、寛仁な性格で善政を施したが、当時は「パックス・ロマーナ」も最終時期で、パルティアやゲルマン人の侵入に悩まされ続け、20年に及ぶ治世中の大部分をバルカン北方・シリア・エジプト等の辺境陣営で過ごし、最後は出征地のウィンドボナ(現在のウィーン)の陣中で病没しました。

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「マルクス・アウレリウスの死」ウージェーヌ・ドラクロワ (1798-1863)

 彼の著書「自省録」は、ストア派の哲学者であった彼の自己反省の記録です。
又中国の「後漢書」に大秦国王(ローマ皇帝の意味)安敦の使者と称する者がヴェトナム中部に到着し、入貢したと記録されていますが、安敦はマルクス・アウレリウスを注していると考えられています。

 マルクス・アウレリウスは慣習を破って不肖の子、コンモドゥス(在位180年~192年)を後継者としましたが、彼は「第2のネロ」と呼ばれた暴君と成り、政治は側近に任せ、日夜遊楽に溺れ、元老院を無視し、近衛軍団の俸給を増額しその機嫌を取り、結果として国家財政、政治は大きく乱れ、コンモドゥスは近衛長官らが雇った剣奴によって暗殺されます。

 コンモドゥスの死後近衛軍団の暴走が顕著になり、近衛軍団や属州の軍隊に推挙された4人の皇帝が分立しましたが、アフリカ出身で上パンノニア(現在のオーストリア、ハンガリー、スロヴェニア、クロアティア)総督であったセプティミウス・セヴェルス(在位193年~211年)が対立皇帝を破って帝位に就きます。
最初の軍人皇帝(軍隊に擁立された皇帝)であるセヴェルスは、従来イタリア人が独占していた近衛軍団をすべての属州民に開放し、地方軍団の兵で新しい近衛軍団を編成し、近衛長官の権限を強化しました。
対外遠征も数度に及びましたが、ブリタニア出征中に病没します。

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カラカラ帝・ローレンス・アルマ=タデマ(1836~1912)オランダ

 セヴェルスの死後、弟と共同統治皇帝となり、後に弟を暗殺して単独の皇帝となったのがカラカラ(在位211年~217年)です。
彼は軍隊の支持を得るために給与を増額し、租税の増徴を図って帝国内の全自由民にローマ市民権を与えるアントニヌス法を発布しました(212年)。
また彼が建設したカラカラ大浴場は有名ですが、そこで淫楽に耽り、パルティア遠征の途中に近衛長官に命を奪われます。

 235年に皇帝となったマクシミヌス(在位235年~238年)はトラキアの農民出身で、一兵卒から身をおこし、巨体と怪力で軍隊の人気を集めた人物ですが、彼は元老院の承認を得られず、イタリアに向かって進軍中に、部下に殺され、それ以後は帝国各地に駐留する軍隊が、その軍司令官を勝手に皇帝に擁立したので、235年~284年の約50年間に26人の皇帝が乱立しました。
しかもそのうち25人は治世の半ばで暗殺、戦死し、是等大多数の皇帝は軍隊がかつぎ上げた皇帝であり軍人皇帝と呼ばれ、235年~284年の約50年間を軍人皇帝時代と呼びます。
広義には193年~284年を指す場合も在ります。

 この内乱のため辺境の防備は弱まり、これに乗じて北方のゲルマン人、東方のペルシア人が国境を越えて侵入を繰り返し、ヴァレリアヌス(在位253年~260年)は東方から侵入してきたササン朝ペルシアのシャープール1世と交戦するものの捕虜となります。
このような内外の混乱のなかにあってローマ帝国を立て直そうとする動きは存在したのですが、軍人皇帝時代の混乱に終止符を打ち、帝国を新しい組織の上に再発足させたのはディオクレティアヌスでした。

ジョークは如何?

フルシチョフの没落。
「クズモヴィッチ、どうして党を除名になったんだ?」
「フルシチョフの引き下ろしに協力しなかったからだとさ」
「だけど、きみはそんなに大物じゃないだろう?」
「ある日、党の書記がおれの部屋にやってきて、
『そのごろつきの写真を壁から降ろすんだ』って言ったんだ。
 で、おれはつい、こう尋ねてしまってね。
『どの?』」


続く・・・