2014/07/31

歴史を歩く32

<9黄河文明③>

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春秋s時代の諸侯分布

3 春秋戦国と鉄器の普及

 東周の前半にあたる春秋時代(紀元前770年~紀元前403年)には、西周時代の封建制度が崩壊し周王室の勢力が衰え、実力のある諸侯が互いに争う時代と成りました。
春秋時代の「春秋」は、有名な孔子の書物に由来し「春秋」は孔子の生国である魯の国の紀元前722年から紀元前481年に至る歴史を書いた書物で、その扱っている時代がほぼ春秋時代と同じである為、この時代を春秋時代と呼んでいます。

 春秋時代の初期には約200余りの国(小さな都市国家も含む)が存在したと伝えられますが、次第に有力な国に併合され、40~50余りの諸侯国にまとめられて行きます。
この内、特に有力な諸侯を覇者と呼び、春秋時代には周王室の権威は衰えましたが、依然として王として尊ばれていた為、有力諸侯は「尊皇攘夷」(周王室を尊び、周辺の異民族(夷)を討ちはらうの意味)を唱えて諸侯の同盟を指導して秩序を維持し、中原(黄河中・下流域)の支配を巡って争いました。

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 覇者のうち代表的な五人は「春秋の五覇」と呼ばれ、誰々を五覇とするかについては諸説ありますが、一般的には以下、
斉の桓公(在位紀元前685年~紀元前643年)
晋の文公(在位紀元前636年~紀元前628年)
楚の荘王(在位紀元前613年~紀元前591年)
呉王闔閭(こうりょ)(在位紀元前514年~紀元前496年)
越王勾践(在位紀元前496年~紀元前465年)
以上を云い、呉と越を除いて秦の穆公(在位紀元前659年~紀元前621年)と宋の襄公(在位紀元前651年~紀元前637年)とする説もあり、楚の荘王にかえて呉王夫差(在位紀元前495年~紀元前473年)とする説も存在しています。

 初めて覇者となったのは斉の桓公でした。
斉は中原から離れた東方の山東省近くに存在しましたが、斉の国力を発展させた人物が桓公を補佐した名宰相として有名な管仲なのです。
彼は商工業を保護奨励する等の富国強兵策をとって斉の国力を充実させました。
桓公は中国の西北部に住む異民族の侵入から中原を守り、又南方の楚の北上阻止に努め覇者と成りましたが、桓公の死後、斉は内乱の為、衰亡して行きます。

 斉に代わって盟主となった国が、山西省を本拠とした晋なのです。
晋は武王(周の初代の王)の子が建てた国で紀元前7世紀前半頃から強国と成りましたが、後継者の相続をめぐる内乱が絶えず起きており、文公も公子の時この内乱を避けて腹心の部下と共に19年間も諸国を彷徨い、秦の援助のもとにやっと帰国し、62歳で即位しました。
やがて紀元前632年に中原に侵入してきた楚軍を城濮の戦いで撃破し、覇者と成っています。

 春秋時代中期以後は、晋を中心とする北方と楚を中心とする南方の国々の対立・抗争と云う様相を呈してきます。
中国文明はもちろん黄河流域から興り、殷から周の初頭迄は、漢民族の勢力範囲が河流域に限られていました。

 漢民族が長江流域に進出し、長江流域が中国民族の文化的領域に入って来るのが春秋時代からなのです。
楚は古くから蛮夷の国とされ、楚の人々は中原の人々とは風俗習慣を異にしており、後に出てくる越を建てた越人は入れ墨・断髪の風習があり、当時華南からヴェトナムに分布していた南方系民族の一派でした。
春秋時代は中国文化圏が長江流域を含む南方に拡大していった時代でも在りました。

 前述した蛮夷の国で長江の中流域を本拠とした楚は、紀元前632年に城濮の戦いで敗れたものの荘王(在位紀元前613年~在位紀元前591年)の時代に再び中原に進出して洛陽に入り、紀元前597年に 晋を破り、荘王は覇者と成りました。

 楚と晋の対立はその後も続くものの勝敗はつかず、紀元前545年に和議を結びます。
その頃長江下流域の江蘇省蘇州を中心にまず呉が興り、次いで浙江省紹興を中心に越が興りました。呉王闔閭(在位紀元前514年~紀元前496年)は、紀元前506年に覇者と成りましたが、越王勾践との戦いに敗れ、臨終の床に子の夫差を呼んで「勾践がお前の父を殺したことを忘れるな」と言い残して崩御します。
夫差は毎夜、薪の中に臥し復讐を誓い、やがて2年目に越に攻め込んで越軍を撃破します。

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「臥薪嘗胆」

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西施

 勾践は降伏し、西施(中国四大美人の一人)を夫差にさしだし、属国となることを誓いますが、この時夫差の謀臣であった伍子胥(ごししょ)は 勾践を滅ぼすよう進言したが、夫差は聞き入れずその降伏を許したのです。
許された勾践は座右に胆をおき、座った時や寝る度に、苦い胆を嘗めて夫差に対する復讐を誓いました。
やがて夫差が中原に進出し晋と覇を争っている隙をついて蘇州を攻め、その知らせを聞いて急遽帰国してきた夫差の軍勢をうち破り、敗れた夫差は自刃しました。

 この話が有名な「臥薪嘗胆」(復讐の志を抱いて長い間艱難辛苦することの意味)の復讐の物語で、又呉と越の抗争にからんで「呉越同舟」と云う言葉も生まれ、現在もよく使われているのは、ご存知の通りです。

 呉を滅ぼした越王勾践は勢いに乗じて中原に進出して春秋時代最後の覇者と成りました。
呉と越の激しい抗争は、次第に実力抗争の時代になったことを示しており、時代は戦国時代へと変わって行きます。

◎ジョークは如何?

ナチスの突撃部隊の将校が、列車でユダヤ人と乗り合わせた。将校はナチスの機関紙を広げて、得々として言った。

「この新聞は非常にためになるので、必読しているんだ。」

彼はついでにユダヤ系の経済新聞を取り出して言った。

「こいつは尻を拭くのにもってこいだ。」

これを聞いたユダヤ人は、揉み手をしながら、嬉しそうに言った。

「将校さん、それじゃ、あんたの尻が頭よりも利口になるのは、もう間近というわけですな。」

続く・・・
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2014/07/25

歴史を歩く31

<9黄河文明②>

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殷の勢力範囲

殷②

 殷墟の発掘により宮殿跡の周辺から竪穴式の住居跡、大小1000以上の陵墓をはじめ、甲骨・青銅器・象牙細工・白陶・子安貝(東南アジア産の貝で貨幣として使用された)・鼈甲等が多数出土しました。
なかでも殷王墓とされる大型地下墳墓は約10メートルの地下に掘り下げて造営されており、19メートルと14メートルの長方形で、中央に王の棺が安置され、その周辺に青銅器、武器、武具が埋められていましたが、特に人々を驚かせたのは数100人にものぼる殉死者でした。

 殷王朝は、伝説によれば夏を滅ぼした湯王から30代続き、紂王(ちゅうおう)の時に周に滅ぼされたと成っています。
しかし、前半の歴史は極めて伝説的であり、第19代盤庚(ばんこう)(殷墟に都を移した王)以後の250年間の歴史が発掘によって究明されています。

王位は当初兄弟相続でしたが、後に父子相続に変わり、殷王は政治・軍事・農業等、国事のすべてを占卜によって決定する神権政治を行ったこと等が判明しています。

 殷の王は黄河中流域の諸都市国家連合の盟主として黄河流域を支配しましたが、次第に専制的に成り、最後の紂王は美女妲己(だつき)を寵愛し、人民から重税を取り立て、宮殿更には大庭園を造営して酒池肉林、連日に及ぶ宴をはり、人民を苦しめたと伝えられています。
その頃、西方陜西省で勢力を伸ばした周の武王が、殷の支配に不満を持つ諸部族と連合して牧野(ぼくや)の戦いで紂王を撃破し、敗れた紂王は自刃したことから、約500年続いた殷は終に滅亡します。

 殷の文化を代表するものは高度な青銅器で、青銅器は当時大変貴重な物でした。
主に祭器や武器に使用されたのですが、殷の青銅器は極めて精巧な作りで、3000年前作られたとは思われない程であり、当時の鋳造技術の高さを想像することができます。

 殷は農業を主体としていますが、農具には貴重な青銅器は使用されず、依然として石器や木器が使われていた結果、その生産力は低かったと思われます。

 殷の後半の都は「商」と呼ばれていましたが、殷の滅亡後「商」の住民は各地に離散し、やがて土地を持たない彼等は物品を売買する事で生計を立てる者が多くなります。
その為「商」の人々が物を商う人、すなわち商人の語源と成ったと伝えられています。

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周の勢力範囲

周①

 陜西の渭水流域から興った周(紀元前1027年頃~紀元前256年)は、当初殷に服属していましたが、有徳者と伝えられている文王が諸侯の信頼を得て、領土を拡大し、都を鎬京(現在の西安付近)に移し、更に東進政策を押し進めますが崩御の後、子の武王(姓は姫、名は発)に引き継がれました。

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太公望呂尚

 武王は、渭水の辺で釣りをしていた太公望呂尚と出会い、彼を軍師・総司令官として牧野の戦いに勝ち殷を滅ぼしたのは有名なお話で、釣りの上手な人を太公望と呼ぶことはここに由来しています。又伯夷・叔斉の兄弟が武王に 「父(文王)の葬りも済ませないうちに戦争を始めるのは孝行といえるか、臣として君を殺そうとするのは仁といえるか」と諫め、周の世になると周の米を食べることを拒み、首陽山に隠れてわらびを採って暮らす中で餓死したと伝えられる有名な話です。

 武王は周王朝を創建し、在位7年で崩御し、その子成王が後を次ぎますが、未だ幼少の為、武王の弟・叔父の周公旦が成王を補佐し、当時東方で起きた殷の反乱及びこの反乱に乗じて結びついた東夷(山東省辺りに住む民族)を征討し、領土を東方から長江流域に迄拡大、東方の統治の拠点として洛邑(現在の洛陽)を建設する等、周の基礎を確立しました。
又彼は、周の封建制度の創始者とされています。

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周の封建制度(概念図)

 周の封建制度は、殷の制度を模倣して、一族・功臣や各地の土着の首長を諸侯とし、公・侯・伯・子・男の五等に分け、この爵位に応じて封土(ほうど)(領地)を与え、その地を支配させるとともに、彼らに軍役(周王の為に兵を率いて戦う軍事的な義務)と貢納の義務を負わせる政治組織を云います。
周の王や諸侯の元には、卿・大夫(上級の家臣)・士と呼ばれる世襲の家臣が居り、それぞれ封土を与えられ、その地の農民を支配しました。

 日本やヨーロッパにも封建制度が存在しました。
ヨーロッパの場合、主君と家臣の間には、家臣は主君に忠誠を誓い、主君は家臣を保護する関係は個人と個人の間での契約(契約だから主君が約束を守らない場合は、家臣も約束を守らなくてもよい)の上に成り立っていたのです。

 これに対して周の封建制度では、主君と家臣の関係は、本家と分家の関係で繋がれており、これが周の封建制度の大きな特色と成っています。
中国では宗族が重視されます。
宗族は父系の同族集団、同じ祖先から分かれてきた同じ姓の家で共通の祖先の祭祀を行い団結する、そして同姓不婚(同じ姓のもの同士は結婚しない)の原則が存在しました。
宗族間では本家が優越し、分家は本家を中心に団結しなければならない宗法(そうほう)決まりごとが在ったのです。

 周の封建制度では周の王(本家)と一族の諸侯(分家)の関係にも宗法が当てはめられ、分家の諸侯は本家の周の王を中心に団結しなければならない社会の決まりを周の支配に利用し、氏族的性格が濃く、血縁関係重視が特色と云われています。

 4代目の昭王は、東南地方に支配権の確立を試みました。
5代目の穆王は西北地方に勢力拡大を目指して、犬戎(けんじゅう、周代に陜西・山西の山地に存在した遊牧系の未開民族)を討伐します。
10代目の厲王(れいおう)は都の反乱の為東方に逃亡し、王位は一時空位と成り、11代目の王宣王は中興の英主とされるが、次の12代目の幽王は西周を滅ぼした暗君とされています。

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傾国の美姫・(幽王と褒姒)

◎幽王の逸話

 幽王は皇后と太子を廃して、寵愛した絶世の美女褒姒(ほうじ)が笑わないのでの笑わせる為に外敵の進入を知らせる狼煙台の狼煙を上げさせました。
一大事と四方から諸侯がはせ参じたのですが、何事も無いので呆気にとられます。
彼らの間抜けな顔がおかしいと褒姒が初めて笑いました。
その笑顔を見たい一心の幽王はその後も何度も狼煙を上げ、当然ながら諸侯達は狼煙を信じなくなります。

 紀元前770年、西北から犬戎の侵入が始まります。
幽王は必死になって狼煙を上げるのですが、諸侯は誰も集まって来ません。
幽王は犬戎の手に掛かって殺され、都の鎬京は犬戎の手に落ちました。
諸侯は都を捨てて東に逃れ、洛邑を都とし、前の皇太子を平王として即位させ、以後は東周の時代と呼ばれます。

 周は800年近く続いた王朝ですが、中国史ではこの紀元前770年の出来事を境に、紀元前1027年頃から紀元前770年迄、都が鎬京に置かれていた時代を西周、そして都が洛邑に移されてから以後の紀元前770年から紀元前256年迄を東周の時代と呼びます。
更に東周を前半と後半に分けて、前半の紀元前770年から紀元前403年迄を春秋時代、後半の紀元前403年から紀元前221年迄を戦国時代と区別しています。

ジョークは如何?

ドイツで、レストランで注文したものがどれも「ありません」と断られた紳士が、「どれもこれもあの一人の男のせいだ!」と叫んで、傍らの席にいたゲシュタポに逮捕される。
調書を取られ、事実を認めた男は、「あの男とは誰のことか」と聞かれると、「むろん、チャーチルのことです」「いったい、あなた方は誰のことだと考えていたのですか。」


続く・・・

2014/07/21

歴史を歩く30

<9黄河文明>

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位置関係図

1 黄河文明

 黄河文明は黄河の中・下流域を中心に栄えた古代文明で、新石器時代の仰韶(ヤンシャオ)文化から竜山(ロンシャン)文化を経て、殷・周の青銅器文化に発展して行きました。
1921年、スェーデンの地質学兼考古学者アンダーソン(1874年~1960年)は、河南省の仰韶村で彩文土器を発掘し、更に翌年の発掘作業によって竪穴住居跡が発見され、又多くの磨製石斧・彩陶等の土器が出土しました。

 アンダーソンは周口店洞穴の発見者でもあり、北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)の発掘の端緒をつくった人物です。

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彩陶

 紀元前5000年~紀元前4000年頃から黄河の中・下流域の黄土地帯で勃興した、中国最初の農耕文化は最初に発見された遺跡にちなんで仰韶(ヤンシャオ)文化と呼ばれ、1954年に発掘された西安の東に位置する半坡(はんぱ)村の集落遺跡は後期に属しますが、こちらも仰韶文化の代表的な遺跡です。

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三足土器

 仰韶文化期の人々は粟・黍を栽培し、豚・犬を飼育し、又鹿等の狩猟も行いました。
主として竪穴住居に居住し、集落を形成し、石斧・石包丁等の磨製石器や彩陶を使用していました。 仰韶文化を代表する出土品は彩陶であることから、仰韶文化は彩陶文化とも呼ばれます。
彩陶は薄い赤色の地に赤・白・黒等の色を使用して文様が施されている素焼きの土器で、甕・鉢・碗型のものが多く、焼成温度は約1000度位です。
尚、彩陶は西アジア、中央アジアから伝来したものとする、オリエント伝来説がアンダーソン以来提唱されています。

 1930・31年に山東省歴城県竜山鎮の城子崖遺跡が発掘され、黒陶文化の存在が明らかになりました。黒陶文化は代表遺跡の竜山に因み竜山文化とも呼ばれます。
黒陶は薄手で精巧に作られた黒色の土器で轆轤も使用され、器形は鬲(れき、湯沸し、蒸す作業に使う)・鼎(てい、物を煮ることに使う)等の三足土器が特徴的ですがその種類は多様です。
焼成温度は約1000度以上とされています。

 竜山文化期(紀元前2000年~紀元前1500年頃)になると農具・農業技術は更に進歩し、その結果、仰韶文化期よりも遥かに大きな集落(邑)が形成されるように成り、この大集落が後に都市国家に発展して行きます。

2 殷と周

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殷墟遠景

殷①

 黄河中・下流域に多くの都市国家(邑)が出現し争う中から、多くの都市国家を支配する有力な王が出現しますが、今日確認されている最古の王朝は殷とされています。

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司馬遷(紀元前145年/135年頃 – 紀元前87年/86年頃)

 中国漢代の著名な歴史家・司馬遷は「史記」の中で、中国史を三皇五帝から始め、(夏)・殷・周・秦・漢王朝の歴史を記述しています。
三皇五帝(中国史上伝説の帝王)の内、三皇は伏羲(ふくぎ、漁労の発明者)・神農(農業の発明者)・燧人(すいじん、火食の発明者)の三人の神を指し、この三皇に続いて五帝を記述しています。

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三皇五帝

 五帝は黄帝(漢民族の祖先)・せんぎょく(黄帝の孫)・帝こく(黄帝の曾孫)・尭・舜で、特に尭・舜は理想の聖君主とされ、尭・舜の世は理想的な政治が行われた時代と讃えられました。
尭は舜に位を譲り、舜は黄河の治水に功のあった禹に位を譲ったとされています。
禹は黄河の治水に成功して、舜から譲位されて帝位に就き夏王朝を創始しました。

 夏王朝は以後17代450年間存続しますが、暴君桀(けつ、殷の紂とならんで暴虐な君主の代名詞となる)が登場し「酒池肉林」に耽り、暴政を行った結果、殷の湯王に滅ぼされたと司馬遷の「史記」には記述されていますが、現在のところその実在を証明する遺跡等は発見されていません。
現在の段階では伝説上の王朝に成りますが、将来実在を証明する遺跡等が発見される可能性はあると思われます。
従って現在確認できる中国最古の王朝は殷なのですが、その殷も実在が証明される様になったのは20世紀に入ってからのことでした。

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「竜の骨」

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甲骨文字

 1899年、王懿栄がマラリヤの持病に悩まされ、「竜の骨」が特効薬で良く効くと教えられ、薬屋からそれを買い求めました。
その「竜の骨」は地中から掘り出された動物の骨で、良く観察すると骨の表面に文字らしきものが刻まれています。
学者である王氏は、薬屋に出向きその出所をやっと聞き出し、「竜の骨」の蒐集に務めたのですが、薬屋は出所の秘密を守る為に他所の地を教えていました。

 王氏と友人の劉氏は苦心の末、安陽県郊外の小屯村(殷の後半の都があった所)を発掘し、そこから甲骨文字(漢字の原型になった文字)を刻印した骨が出土し、改めて王氏と劉氏は甲骨文字を発見したことを知ります。
その解読は羅振玉・王国維の二人の学者に引き継がれ、更に羅振玉は小屯村を発掘し、甲骨の他に青銅器や玉器、骨角器、石器等を発掘することに成功しました。

 羅振玉・王国維は辛亥革命(1911年)後、京都に亡命し、京都大学の学者等と共に甲骨文字の研究・解読を進め、1913年、甲骨文字の解釈に関する本を出版しました。
発見された約3000の甲骨文字の半数近くが彼等によって解読され、その中で羅氏は甲骨に刻まれた王の名が、司馬遷の「史記」等に記述されている殷の系図に出てくる王の名とほぼ一致していること、小屯村が殷の末期の都であること等を論証しました。

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殷墟発掘(現在)

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殷墟発掘(1928年〜1937年)

 1928年から1937年にかけて殷墟(河南省安陽県小屯村を中心とした殷の都の跡、殷の時代には「大邑商」(大きな町、商)と呼ばれていた)の大発掘が中央研究院によって15回行われ、世界中の注目を集めました。
しかし1937年日中戦争の勃発に伴い、戦場となった為に発掘作業はすべて中止されてしまいます。

ジョークは如何?

吉田茂元首相晩年のジョーク

「吉田先生ご長寿でいらっしゃいますな、なにか健康の秘訣でもあるのですか?」

「それはあるよ。だいたい君たちとは食べ物が違う。」

「で、先生は何を食べていらっしゃるのですか。」

「それは君、人を食っているのさ。」

と吉田は笑った。それが、吉田茂がこの世に残した最後のジョークとなった。89歳で昭和42年(1967)の10月20日にその天寿をまっとうした。


続く・・・

2014/07/17

歴史を歩く29

<8東南アジアの諸文明>

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本文に登場する国々の位置関係

◎インド文化の普及と東南アジア文化の形成

 現在の東南アジアの地域では、隣接する2つの文明、中国文明とインド文明の影響を受け、古くから多くの民族により独自の文化・国家が形成されてきました。

 ヴェトナム北部は早くから中国文化の影響を受け青銅・鉄器文化が形成されており、紀元前3世紀頃から紀元前1世紀頃にかけて繁栄したドンソン文化は、1924年に発見されました。
一方インド文化は1世紀頃からインドシナ半島に伝播しています。

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扶南銀銭

 インドシナ半島で最初に栄えた国は、1、2世紀頃から7世紀にかけてメコン川下流域で隆盛を極めた扶南で、この国はクメール人若しくはインドネシア系人種が、インド文化の影響のもとに建国し、支配者はインド系でサンスクリット語が公用語とされました。
宗教はバラモン教と仏教を受け入れています。

 当時のインドシナでは、インド文化を受け入れて国家体制を整えることが、周辺の人々を容易に服属させる原動力であり、支配者層はインド文化の受け入れによって支配の正当性と強化を図ったのでした。

 扶南はカンボジアを中心に、インドシナ東海岸・南部一帯、マライ半島の一部に迄領土を拡大し、1、2世紀頃から盛んとなる東南アジアとインド間の海上貿易の要衝を押さえ、中国の呉やインドのクシャン朝とも外交・通商関係を持っていました。
又海上貿易により莫大な利益を得て、特に3世紀頃から6世紀頃にかけて最盛期を迎えます。
しかし、6世紀頃から真臘の圧迫を受けて衰退し、7世紀中頃滅亡しています。

 カンボジアで扶南が栄えていた頃、ヴェトナム南部を中心に栄えた国がチャムパーで、チャムパーはチャム人(インドネシア系)が建国し2世紀末から15世紀後半迄1000年以上にわたって存続しました。
中国の史書には林邑、環王、占城の名で記録されています。

 林邑は192年に後漢の衰退に乗じて独立し、8世紀中頃交ぜ栄えました。
当初は中国文化、5世頃にインド文化が流入し、その影響を強く受けたのですが、隋の侵入を撃退したものの、唐には朝貢し、林邑も扶南と競合しながら海上貿易で繁栄します。

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チャンパーと周辺諸国

 8世紀中頃になるとチャムパーの中心が南方に移動し、この国は中国では環王と呼ばれ、環王は9世紀中頃には衰退していきます。

 8世紀後半チャムパーの中心が再び中部に戻り、以後のチャムパーは中国で占城と呼ばれます。
10世紀以後ヴェトナムが南下し、特に11世紀以後は李朝の圧迫を受け、しかも11世紀から13世紀初頭には真臘の侵入・支配を受け、13世紀前半にヴェトナムの陳朝の出現により衰退し、13世紀後半にはモンゴルの侵入を受け、15世紀には黎朝の南下により急速に衰退し、1471年に滅亡しました。

 占城も海上中継貿易によって国力を維持し発展しますが、中国では宋・元時代の技術の進歩(羅針盤の実用化、大船の建造など)によって、13世紀頃から中国が海上に進出し、東南アジアやインドと直接取引を行い、チャムパーの経済的基盤が失われ、国力の衰退を招きました。

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アンコール・ワット

 扶南や林邑が繁栄していた頃、メコン川の中・下流域ではクメール人(カンボジア人)の真臘が勃興します。
真臘も扶南やチャムパーと同じく「インド化された国」の1つで、真臘は6世紀中頃に扶南から独立し、7世紀中頃には扶南を滅ぼして大勢力を形成し、8世紀初頭から9世紀初頭にかけて、北の陸真臘と南の水真臘に分裂しますが、9世紀初めに再統一を果たし、9世紀から13世紀にかけてのクメール朝(アンコール朝)時代に全盛期を迎えます。

 12世紀前半に出たスールヤヴァルマン2世(在位1113年~45年)は王都アンコール・トムの南に壮大なアンコール・ワット(首都の寺の意味)を造営しました。
アンコール・ワットはヴィシュヌ神(ヒンドゥー教の神)に神格化された国王を祭り、死後はその墓所と成ります。
完成には約30年間を要したと云えられ、最初はヒンドゥー教寺院として建立され、後に仏教寺院と成り、長らく密林の中に埋没していたのですが1861年に欧米正解に紹介されました。

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アンコール・トム平面図

 12世紀から13世紀初頭に在位したジャヤヴァルマン7世の治世にクメール朝の領土は最大と成り、王は又現存する王都アンコール・トム(大きな都の意味)の造営を行いました。
クメール朝は内陸農業国家の典型で、水の確保・管理は国王にとって最も重要な事業で在り、9世紀から13世紀にわたって繁栄した真臘は、13世紀以後はタイのスコータイ朝の侵入を受けて衰退し、15世紀には同じくタイのアユタヤ朝の侵入を受け、アンコールを占領され、アンコール時代は終焉します。

 メナム川下流域では、7世紀にモン人の国家であるドヴァーラヴァティーが、扶南の弱体化に乗じて自立し、この国は扶南の商業活動の影響を強く受け、銀銭を使用し、又仏教文化も栄えたのですが、 8世紀初頭以後は衰退に転じ、変わってメナム川上流域に同じモン人の国であるパリプンジャヤが興り、8世紀から13世紀頃迄存続しました。
この間の11世紀から12世紀にはクメール朝と対抗しましが、13世紀末にはタイ人の活動が盛んとなるなかで滅亡します。

 同じ頃イラワディ川の中流・下流域ではビルマ・チベット系のピュー(驃)人の国家が現れ、8世紀頃プロームを中心に繁栄しました。
この国では仏教が盛んでしたが、9世紀になると衰え始め、11世紀にはパガン朝(1044年~1287年)に併合されます。

 ミャンマーの沿海地方に定住していたモン人は、9世紀ペグーに都を置くモン人の国家を形成しました。
彼らは早くからインドと文化的関係を持ち、海上貿易に活躍し、又この国では上座部(小乗)仏教が栄えました。

 シナ・チベット族のビルマ人は、7世紀頃から数世紀に渡って南下・定住し、 ピュー人の衰退に乗じて、9世紀頃パガンに中心を置き、その後勢力を拡大、11世紀にはミャンマーのほぼ全域を支配下に置くビルマ最初の統一王朝であるパガン朝(1044年~1287年)が成立します。

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ボロブドゥール仏教遺跡・シャイレーンドラ朝時代

 諸島部では、シュリーヴィジャヤ(中国名、室利仏逝)が7世紀に興り、14世紀迄続きました。
スマトラ島南部から興ったシュリーヴィジャヤは、6世紀から7世紀に扶南が衰退・滅亡していく好機に乗じて海上貿易に進出し、マラッカ海峡を勢力圏下に治めて発展し、唐僧、義浄は7世紀後半にこの国を訪れ、「南海寄帰内法伝」を執筆しています。

 シュリーヴィジャヤは、8世紀から9世紀中頃にかけてシャイレーンドラ朝の興隆に押されて弱体化して行きます。

 シャイレーンドラ朝は8世紀半ばから9世紀前半にかけて、ジャワ島中部を中心に栄え、有名な仏教遺跡であるボロブドゥールを造営しました。
ボロブドゥールは1辺約120m四方の基壇に方形・円形の壇がピラミッド状に重なって出来た石造の大ストゥーパで、多くの石仏・仏塔・回廊の浮き彫りなどで名高い仏教遺跡です。

 一時弱体化したシュリーヴィジャヤは、10世紀には再び繁栄を取り戻し、全盛期を迎えますが、その背景には8~9世紀に東南アジア経由のインドと中国を結ぶ海上貿易が急速に発展したことが挙げられます。
この東南アジア経由のインドと中国を結ぶ海上貿易をほぼ独占した国家が シュリーヴィジャヤでした。
全盛期にはマライ半島の大部分、スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、セレベス島更にフィリピンを含む一大海上帝国と形成します。

 しかし、シュリーヴィジャヤは13世紀にはいると、イスラム商人の進出等により、海上貿易独占の利益を失い、海上帝国の支配組織が崩れ始め、14世紀にはジャワ島のマジャパヒト王国の台頭によって衰亡して行きました。

ジョークは如何?

ナチス時代の地獄のドイツ。
動物園から逃げたライオンが目前、危うし!の少女を一人の勇敢な若者が救った。

新聞のインタビューに答えて曰く「・・・実は私はユダヤ人です.」

翌日の朝刊の第一面トップ「ユダヤ人、無抵抗のライオンを虐殺」

続く・・・
2014/07/13

歴史を歩く28

<インドの古典文明その3>

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シヴァ神とパールヴァティー

(4)ヒンドゥー国家と古典文化②

 グプタ朝のもとで「インド人のインド」という民族意識が隆盛し、インド古典文化が復興したことは宗教面でも大きな変化を生み出しました。

 特に特筆すべきは民衆の間でヒンドゥー教の信仰が拡大し、仏教信仰が急速に衰えたことなのです。
ヒンドゥー教は古代インドの宗教でカースト制とも結びついたバラモン教を継承し、諸地方の民間信仰や、仏教の影響も加え、様々な神々や考え方を吸収し融合して成立した宗教であり、特定の開祖・教義・経典はなく、インド人の独特の思考様式・生活様式・社会習慣の統合した宗教であると説明され、其れは当に「インド人の宗教」であり、我々には理解しがたい宗教であると言うしか在りません。

 ヒンドゥー教は多神教で無数の神々が信仰されているが、そのなかで特に信仰を集めているのが二大神である護持神のヴィシュヌ、そして破壊神のシヴァです。
シヴァは舞踏・性力の神でもあり民衆の間で特に信仰され、創造神のブラフマンも有力な神として崇められています。

 ヒンドゥー教には特定の教義は存在しませんが、霊魂は不滅であり、善い行為には善い報いが、悪い行為には苦の報いがあるとする、因果応報の思想と人間は永遠に生まれ変わり死に変わる輪廻転生の思想は多くの宗派に共通した教義です。
そして、輪廻転生から逃れるには凡ゆる修行を行い、神に縋って輪廻を断ち切ることによって解脱(さとり)の境地に入ることができると信じることも共通した考えです。

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シヴァとヴィシュヌ

 「マヌの法典」はそれ以前の法典を集大成して、紀元後200年頃迄に成立しました。
12章2685詩句から成り、人々の宗教的義務や日常生活の規範が述べられていますが、全編にわたって4つのヴァルナ(カースト)の差別とバラモンの特権的地位を強調している為、カースト制度と深く結びついたヒンドゥー教の経典としての役割をも果たしました。
このインド人の生活指導書とも言うべき「マヌの法典」は、近年までインド人はもちろん東南アジアでも尊重されたのです。

 グプタ朝の時代、ヒンドゥー教の台頭によって民間の仏教信仰は急速に衰えました。
 
 ヒンドゥー教が人々の生活に密接に結びついていたのに対し、仏教の寺院は僧侶の修行の場であり、教義の研究の場であって、民衆との結びつきが殆んど無かったことが大きな原因とされています。
この為、民衆の間では仏教は衰えましたが、仏教教義の研究は依然として盛んでした。

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ナーランダ僧院遺跡

 ナーランダ僧院は、5世紀にグプタ朝のクマラグプタ1世が僧院を建立して以来、仏教教学の一大中心地として発展し、玄奘や義浄等の中国僧をはじめアジア各地から僧侶が集まりました。
玄奘(「西遊記」の三蔵法師のモデル)が6年間を過ごした7世紀前半には約1万人の僧侶が研究に励んでいたと云われています。

 仏教美術の面では、クシャーナ朝時代に栄えたギリシア的な仏教美術であるガンダーラ美術に変わって、純インド的仏教美術であるグプタ様式(グプタ式美術)が完成し最盛期を迎え、にアジャンターやエローラの石窟寺院の仏像や仏画は有名です。

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アジャンター石窟・第26号窟

 有名なアジャンターの石窟寺院は、紀元前3世紀頃から紀元後8世紀頃にかけて、タプティー川の支流に臨む玄武岩丘陵の中腹を掘って造られた29の石窟に僧院が造営され、多くの仏像が刻まれ、壁に仏画が描かれました。
6世紀から7世紀の壁画が多く、その中にはグプタ様式の代表的な作品が多く含まれています。
その画風は中央アジア・中国を経て日本に伝わり、法隆寺金堂の壁画の観音菩薩像はアジャンターの流れを汲むものとして有名です。

 4世紀前半以来、100年余にわたって繁栄したグプタ朝も、5世紀後半には支配下の諸勢力が独立の気運が高揚し、更に中央アジアで強大となった遊牧騎馬民族であるエフタルの侵入を受け、次第にインド北西部の領土を失い、6世紀に入ると領土はビハールとベンガルの北部のみとなり、550年頃に終に滅亡しました。

 グプタ朝の滅亡後、北インドには小国が分立し、こうした状況の中でハルシャ・ヴァルダナ(在位606年~647年)の父と兄はガンジス川の上流域で勢力を伸ばし、西北からガンジス中流域に進出を試みましたが、兄はベンガルの王によって打ち破られます。
ハルシャはその後を継いでガンジス流域を中心として北インドを統一し、カナウジ(カンヤクブジャ)を都として、古代インド最後の強力な統一王朝であるヴァルダナ朝(606年~647年)を築きました。

 ハルシャ王は、当初ヒンドゥー教(シヴァ神)を信仰したのですが、後に熱心な仏教徒となり、国内に多くの仏塔・伽藍を建立し、仏教を保護しました。
彼は文人としても優れ、3編のサンスクリット語の劇を残こしており、学問・芸術を保護した結果、宮廷を中心に文芸が栄えした。

 唐僧、玄奘がインドを訪れ、ナーランダ僧院で学んだのもこのハルシャ王の時でした。
玄奘の旅行記「大唐西域記」(これを元に後に小説化したのが「西遊記」)にハルシャ王は「戒日王」の名で登場します。

 しかし、ヴァルダナ朝はハルシャ・ヴァルダナ一代で終焉を迎えます。
王の死後、王国は急速に崩壊し、インドは再び分裂状態に陥り、やがて8世紀以後はイスラム勢力の侵入を受けることになるのです。

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西遊記より玄奘三蔵

ジョークは如何?

 ヒットラーとゲッベルスが占領後のパリ上空をヘリコプターで視察していた。二人はフランス人の抵抗を最小にする方法について討論していた。金をばらまくのはどうだ?

ヒットラーが言った。「このヘリから百マルク札を撒けば、拾った一人は大喜びするぞ。」

ゲッベルスが言った。「それより、十マルク札を十枚撒けば、十人が喜ぶでしょう。」

操縦士がつぶやいた。「この二人をばらまけば、一億人が大喜びするだろう。」


続く・・・
2014/07/08

歴史を歩く27

<インドの古典文明その2>

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十六王国の位置概念

(3) 新宗教の成立

 紀元前7世紀頃、ガンジス川流域を中心に有力都市国家が出現し、所謂十六王国時代に入ります。これ等の小王国では、形式化した儀式を行うバラモンよりも、現実的な政治・軍事力を持つクシャトリヤや経済力を持つヴァイシャの力が強まり、バラモンの権威が揺らいできます。
バラモンの横暴に苦しんでいたクシャトリヤやヴァイシャは、この様な新しい時代に適応する新しい考え方が求められるように成りました。
こうした状況の中から現れて来た宗教が、ジャイナ教と仏教なのです。

 当時、祭式万能の形式主義に陥っていたバラモン教への反省と批判のなかから、紀元前7世紀頃に、内面的な思索を重視する最古の哲学とも云うべきウパニシャッド(奥義書と訳される、バラモンの哲学書)が発展します。
ウパニシャッドでは祭式の根本意義、宇宙の根本原理、解脱への方法が追求され、宇宙の根源であるブラフマン(梵)と人間存在の根本原理であるアートマン(我)は一つである(梵我一如)と説き、梵我一如によって輪廻から解脱できると説きました。

 ヴァルダマーナ(紀元前549年頃~紀元前477年頃)は、シャカと同時代の人物で、北インドのクシャトリヤ(貴族)の家に生まれ、30才で出家し、10年以上の苦行の末悟りを開きます。
彼はマハーヴィラ(大勇士)、ジナ(勝利者)とも呼ばれ、彼の教えはジナの教えの意味でジャイナ教と呼ばれました。

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ジャイナ教・サモウシャラン図

 ジャイナ教は、霊魂を清く保つ為には物質を遠ざけることが必要であるとして、不殺生を初めとする五つの戒律を遵守し、厳しい苦行を行えば霊魂は浄化され、解脱できると説きました。
ヴァルダマーナは厳しい戒律と苦行によって誰でも解脱できるとし、バラモンの権威とカースト制を否定しました。
又その極端な不殺生主義(彼らは道を歩くとき、小さな虫をも殺さぬようにほうきで道を掃き、また呼吸によって虫を吸いこんで殺さぬようにマスクをして歩いた)の為に、主として商工業者(ヴァイシャ)階級に信仰された。現在も数百万人の信者が存在しますが特に金融業者が多い様です。

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手塚治虫・ブッダよりガウタマ・シッダールタ

 ヴァルダマーナと同じ頃に、ガウタマ・シッダールタ(紀元前563年頃~紀元前483年頃)が仏教を開きました。
彼は釈迦牟尼(シャカ族の聖者)、仏陀(悟った人)、世尊、釈尊とも称され、彼は現在のネパール・ヒマラヤ山麓のカピラヴァストゥで、シャカ族の王子として生まれました。

 父はシャカ族の王、母マーヤーは彼の死後7日目に亡くなり、叔母に育てられた。何不自由のない環境のなかで育ち、17才で結婚し男児にも恵まれ幸せな生活を送っていのですが、城外に出て人間の老・病・死の実際を見て(一説には不可触賤民の生活を見て)、無常観にとらわれ、29才で突然全てを捨てて出家しました。
断食を初めとし、あらゆる苦行を行ったものの悟りの境地に達する事が出来ませんでしたが、35才のときブッダガヤの菩提樹の下で瞑想の末、ついに悟りを開きます。

 ベナレスで初めての説法以後、80才で入滅する迄ガンジス川流域を中心に布教活動を行い、多くの弟子を得ましたが、弟子にはあらゆる階層のカーストの人々が含まれていたのです。

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釈迦・涅槃図

 彼の説の中心は四諦説と八正道です。
四諦説は当に哲学で、四諦とは四つの真理の意味で、苦諦・集諦・滅諦・道諦を云い、苦諦とは人生は生・老・病・死の四苦を初め苦の連続であるという真理を云います。

 では何故人間に苦が生ずるか、それは我々人間が無常のものに執着することにより煩悩(欲望・愛執)に捕らわれてしまうからです。
煩悩のなかで根本的なものが、貪(貪欲)・瞋(怒り)・痴(無知)です(集諦)。
それでは如何にすれば苦から開放されるか、その為には煩悩を捨てされば良く(滅諦)、そして我々凡人でも煩悩を捨て去ることができる方法として八正道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の8つの正しい生活の法)の実践をシャカは説きました(道諦)。

 彼は八正道を実践すれば誰でも悟りの境地(解脱、人生の苦を超越すること)に達する事が可能で、悟りの道は全ての人に平等に開かれているとして、カースト制を否定しました。
この為クシャトリヤやヴァイシャが多く信奉しましたが、特にクシャトリヤの支持を受け、そして後にマガダ国の保護を受けて、インド全域に、更には東南アジア・東アジアに広く伝播してその文化に大きな影響を及ぼし、現在も世界三大宗教の一つとして多くの人々に信仰されているのです。

(4)ヒンドゥー国家と古典文化

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最盛期のグプタ朝版図 

 3世紀になるとクシャーナ朝は衰退し、北インドは分裂状態に陥りました。
4世紀前半、嘗てのマウリヤ朝の都であったパータリプトラのグプタ家(ビハール州の藩王の家)のチャンドラグプタ1世(在位320年~335年頃)がビハール州で台頭し、ガンジス川中流域を征服して、「諸王の大王」と称し、分裂状態にあった北インドを再統一し、グプタ朝(320年頃~550年頃)を開き、パータリプトラを都としました。

 彼は自らが即位した320年2月26日を紀元とする「グプタ紀元」を創設しましたが、この「グプタ紀元」は北インドで以後500年間にわたって使用されます。

 チャンドラグプタ1世を継いだサムドラグプタは領土をパンジャーブ地方に迄拡大し、第3代の王チャンドラグプタ2世(在位376年頃~414年頃)は、更に領土を拡大し、デカン高原を除くほぼ全域を支配下に置き、グプタ朝の最大領域・全盛期を現出しました。

 チャンドラグプタ2世は「武勇の太陽」と名乗り、中国ではその漢訳である「超日王」の名で知られています。
 
クシャーナ族をはじめ、インドに於ける全ての外国人勢力を追い出したグプタ朝のもとでは「インド人のインド」という民族意識が盛上り、グプタ朝はマウリヤ朝の復活を理想としました。
チャンドラグプタ2世の時代にインド古典文化の復興傾向が強まり、インド古典文化は黄金時代を迎え、サンスクリット文学も栄えます。
サンスクリット語は梵語と訳されますが、古代インドで使われた文語であり、俗語に対する雅語に相当します。

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ドフシャンタ王とシャクンタラー

 インドのシェークスピアと今日でも賞賛されるインドの文豪カーリダーサは戯曲「記念の指輪によってめぐりあったシャクンタラー」(たんに「シャクンタラー」とも)によって世界的に有名ですが、彼はチャンドラグプタ2世の宮廷に仕えていた人物でした。

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ラーマーヤナよりラーマとシータ、猿王ハヌマーン

 又インドが世界に誇る二大叙事詩である「マハーバーラタ」・「ラーマーヤナ」(どちらもサンスクリット語)が完成したのもグプタ朝の時代でした。 
「マハーバーラタ」・「ラーマーヤナ」の原形は紀元前4世紀頃迄に形成されますが、題材・背景となっているのは紀元前10世紀頃のバーラタ族の戦争(マハーバーラタ)、コーサラ国の王子ラーマの数奇な運命(ラーマーヤナ)で、活躍する人物はすべてクシャトリヤ(王侯・武士)で、統一以前小国分立・抗争の時代に於けるクシャトリヤの活躍、台頭が反映されています。

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マハーバーラタよりクリシュナ

 「マハーバーラタ」・「ラーマーヤナ」で活躍するクリシュナ(マハーバーラタ)とラーマ(ラーマーヤナ)は共にヒンドゥー教の創造神ヴィシュヌの権化とされているところから、この二大叙事詩はヒンドゥー教の経典とされ、インドは勿論、後にヒンドゥー教が伝播する東南アジアの人々にも愛誦されました。
カンボジアのアンコール・ワットの回廊の浮き彫りに描かれ、インドネシアのバリ島の影絵の題材にも使われています。

ジョークは如何?

ソビエト広場である男が叫んだ
「スターリンは大マヌケ~!」
すぐに当局者が駆け付け彼を連行した
「お前の罪状は二つ。同志への侮辱罪と、国家機密を漏洩したことだ」

続く・・・

2014/07/07

今日は七夕

<今日は七夕>

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 今日は七夕ですが、はたして星空を眺めることが叶うでしょうか?

 こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られ、織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘でした。

 夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルで、夏彦もまた働き者で、天帝は二人の結婚を認め、目出度く夫婦と成りましたが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなりました。
この為天帝は怒り、2人を天の川を隔てて引き離しましたが、しかし年に1度、7月7日の七夕の日だけは会うことが許されたのです。
雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡る事が出来ませんが、そのときはどこからか無数のカササギがやってきて、天の川に自分の体で橋を架けてくれると云います。

 日本古来の年中行事は、1年を半分に分けた時、1月からの行事と7月からの行事で、似通ったものが2回繰り返されると云われます。
例えば7月15日のお盆(新盆)と1月15日の小正月、どちらも祖霊祭に原義が在り、半年を周期に年月の流れを取られていた為と云われています。
では7月7日の七夕は、1月の如何なる行事に似ているでしょうか?
それは、若水汲みになります。

 吉成直樹『俗信のコスモロジー』(白水社1996年)に沿って紹介すると、高知県等での七夕に関する俗信の調査では、「里芋の葉にたまった水を集めて顔を洗うと肌が綺麗になる」「その水でイボや傷・吹き出物につけると直る」と云った事が言われます。
他には「その水で墨をすって字を書くと字が上手なる」と云うものも在りますが、之はこの日に技芸の上達を祈るという中国の乞巧奠の影響だろうということです。
里芋の葉の水とは、天から落ちてきた水だと考えられました。
そして肌や皮膚に関して人が若返るという信仰は、盆に備える為に禊で清めるというものとは異質のものだろうと云います。
皮膚が若返るとは、脱皮を意味するもので、水神=蛇を模したもので、その水神は天に住んでいるのだという信仰なのです。

 同じ調査では、6日の晩に14歳以上の未婚の少女たちが一つの宿に集まって、夜を通して、苧(お)を績(う)む行事があったと報告され、かつては全県で同様の行事があったといいます。「苧を績む」とは麻の繊維から麻糸を作ることです。
辞書によれば「苧績み宿」「糸宿」ともいい「娘宿の一。夜間、娘たちが集まって麻糸を紡いだり糸引きの仕事をしたりする集会所。糸引き宿。よなべ宿。」(大辞泉yahoo版)と説明され、全国的な民俗だったようです。
機織りについて糸を績むことと類似の行為と見てよいと思います。

 七夕とは、神を祭る棚機姫(たなばたつめ)と呼ばれる女性が、水辺の棚の上で、機を織りながら、神の来訪を待つ神事だと云われ、其れは選ばれた特別の女性の様なイメージなのですが、村の総ての少女が集団で行なってきた事でした。

 七夕の伝説が一人の美しい女性の物語と成ったのは、物語だからそう成ったと云えばそれまでですが、神に選ばれたと云う結果から解釈された物語なのかもしれません。
神に選ばれたとは、毎年の糸引きや神祭りを続ける事によって誰もが結婚の資格を得た事を意味しているのでしょう。
未だ学校の無かった時代ですから、娘宿では機織等の他にも学ばねばならない事柄は沢山在り、或は春先に、日中に外へ出て若菜を摘んで自炊したり、様々な経験をする処が娘宿だった様です。

終わり・・・
2014/07/04

歴史を歩く26

<インドの古典文明その1>

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インダス川周辺の遺跡、都市の位置一覧

(1) インダス文明

 四大文明の1つであるインダス文明は、紀元前2300年頃から紀元前1800年頃迄、インダス川下流のモヘンジョ・ダロとパンジャーブ地方のハラッパーを中心に栄えた都市文明です。
当時、インダス川の中・下流域には約60の都市が存在したと云われています。

 1920年インド人考古学者サハニが、仏教遺跡を発掘中にハラッパー遺跡を発見し、次いでイギリス人の考古学者マーシャルは1922年にモヘンジョ・ダロ(「死人の丘」の意味します)を発掘し、遺跡を発見しました。

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モヘンジョダロ遺跡

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ハラッパー遺跡

 その後の発掘調査により、モヘンジョ・ダロからは都市計画に基づいて造られた整然とした都市の遺跡が発掘され、東西南北に直角に交差する広い街路、焼いた煉瓦でつくられた家屋、作業場、穀物倉庫、大浴場などが点在し、特に排水路が完備していたことは驚きでした。
青銅器、彩文土器、印章なども出土し、そして印章や粘土板には文字が刻まれていました。
いわゆるインダス文字(約400種類)と呼ばれるこの文字は未だ未解読です。

 インダス文明には西アジア、特にメソポタミア文明の影響が強くみられ、既にインドと西アジアの間で経済的・文化的な交流があったことが伺えます。

 インダス文明には謎が多く、このすぐれた文明の担い手が未だ明らかになっておらず、現在は南インドに分布するインドの先住民の一つであるドラヴィダ人であろうと考えられています。
更に突如として滅びていく滅亡の原因もよく分かっていません。
インダス川の氾濫によるとする説、インダス川の流路が変わったことによるとする説、気候の変化による乾燥化を原因とする説、そしてアーリヤ人によって破壊されたとする説など諸説が存在しますが、未だ推測の域を出ていません。
いずれにせよ紀元前1800年頃から急速に衰退が始まり、やがて滅亡し、そしてこの文明の存在も忘れ去られ、それ以後のインド文化にも影響を与えていないのです。

(2)アーリヤ人の侵入

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 中央アジアを原住地とするインド・ヨーロッパ語族の東方系、インドやイランに移動して定住した人々はアーリヤ人(高貴な人の意味)と呼ばれます。
彼らは紀元前2000年頃から移動を開始し、氏族・部族単位で紀元前1500年頃迄にカイバル峠を越えて、パンジャーブ地方(インドの北西部、インダス川とその4つの支流によって形成される河間地方で五河地方と呼ばれる)に波状的に侵入・定住していきました。
彼らは先住民(ドラヴィダ人等)を征服して奴隷とし、農業と牧畜を行うように成ったのです。

 農業・牧畜を行う様になったアーリヤ人は太陽、空、山、河、雨、雷等の自然と自然現象を神格化し、これを崇拝しました。
神々への賛歌や儀礼をまとめた文献がヴェーダで、最古のヴェーダである「リグ・ヴェーダ」は神々への賛歌を集めたもので、紀元前1200年から紀元前1000年頃に形作られます。
他に賛歌の旋律を述べた「サーマ・ヴェーダ」、祭式の実務について述べた「ヤジュル・ヴェーダ」、呪術について述べた「アタルヴァ・ヴェーダ」が在ります。
ヴェーダを根本聖典とし、バラモンが祭祀を司ったバラモン教が成立し、司祭者であるバラモンの力が強まっていきました。

 アーリヤ人は紀元前1000年頃から鉄の農具と武器を使い始め、ガンジス川流域に進出するようになりました。
ガンジス川流域は肥沃な平野で、現在では米作の中心地ですが、当時は樹木が繁茂し、虎などの猛獣、毒蛇、猛暑、熱帯病等が人々を脅かしたに違い在りません。
その意味でも鉄器の使用によって初めてガンジス川流域への進出が可能になったと思われます。
そしてガンジス川流域への進出と共に農業生産が高まり、商工業も発展し、村落は都市へと発展し、多くの都市国家が興り、その抗争の中から小国家が形成されて行きました。

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カースト制度の概念

 このような社会の発展とともに、階級の分化が進みました。
社会の変動とバラモン教が結合して、司祭者であるバラモンを最高位とし、クシャトリヤ(王侯、貴族、武士)、ヴァイシャ(庶民、農民や商工業者)、そしてシュードラ(奴隷、大部分は被征服民)という4つの身分を区別するヴァルナ(種姓)制度が、紀元前9世紀頃に成立しました。

 ヴェーダのなかに「創造神の口からバラモンが、両腕からクシャトリヤが、両眼からヴァイシャが、そして両足からはシュードラが生まれた」とあり、ヴァルナ制度はバラモン教、後にはヒンドゥー教と結びついてインド社会に定着して行ったのです。

 この4つのヴァルナは、社会生活の複雑化、職業の細分化とともに、新しいカーストを生じ、現在では約3000あると言われており、これをインドではジャーティと呼びます。

 ジャーティは生まれを同じくする集団の意味で、職業・出身地・言語等による小集団で、カーストとも呼ばれますが、カーストは16世紀に来航したポルトガル人が用いたポルトガル語のカスタ(家柄・血統)に由来します。

 カースト制度のもとでは、職業は世襲です。
各カーストの間には上下・貴賤の別があり、結婚は各カースト内で行われ、飲食も同じカースト内で行われるなど種々の厳格な規律があり、インド社会の近代化を妨げました。

 カースト制度に関するもう1つの大きな問題は、カーストの外におかれる賤民の存在です。
彼らはパリア(ハリジャン)、アウト・カースト、不可触賤民とも呼ばれ、厳しい差別を受け、雑役・清掃・皮革業などの最下賤な職業に従事しました。
現在3000万人以上の人口を要すると云われ、彼らは見ても触れてもけがれるとされ、ある時代の、ある地方では鈴をつけることを強制され、戸外を歩くときは裸でなければ成りませんでした。
服を着ていると他人の衣服に触れる可能性が高いからです。

ジョークは如何?

ソ連時代の話

「君のお父さんは、いつ帰ってくるんだい?」

「僕のお父さんは、宇宙飛行士だから、3日後に帰ってくるよ」

「じゃあ、お母さんはいつ帰ってくるんだい?」

「買い物に出かけたから、いつ帰ってくるかわからないよ」


続く・・・