2014/08/31

歴史を歩く40

<9黄河文明⑪>

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後漢の版図

7 後漢の再統一

 王莽(紀元前45年~紀元後23年、在位8年~23年)は、所謂「禅譲」の形をとって皇帝の位につき、国号を「新」と称しました。

 王朝の交替には「禅譲」と「放伐」の2つの形式が在り、「禅譲」は孟子の「易姓革命」説による有徳者に位を譲る、平和的な政権の移譲の形式を言い、これに対して「放伐」は武力による政権奪取の形式を言います。
今迄の中国史での政権交代は「放伐」で、「禅譲」の形式を用いたのは王莽が最初でした。

 王莽は、周政治の復活を掲げ、復古主義的な改革を行い、先ず土地制度については、天下の土地をすべて「王田」とし、「奴婢(ぬひ)」(奴隷)を「私属」と改め、その売買を禁止、一定以上の土地の所有を制限して余分な土地を分与する様命じたのでした。

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後漢初期の群雄割拠図

 前漢末以来、大土地所有制が進み、各地の地主は豪族化していました。
豪族とは広大な土地と多くの奴婢、農民を支配下におき、自分の土地を守る為に私兵を所有した有力者で、彼らは官職を独占し、経済的、社会的、軍事的な有力者に成長し、地方政治の実権を握るようになっていたのです。

 豪族による土地の兼併が進み、多くの農民は土地を失い、土地を離れて流民となり、又身を売って奴婢と成って行きました。
王莽の改革は、このような現状を改めようとしたものでしたが理想的に過ぎ、豪族の強い反発に遭遇します。

 又貨幣制度も、何度となく改め、様々な種類の貨幣を発行した結果、物価の変動が著しく経済は大混乱をきたしました。

 更に儒教思想により、周辺異民族の「王」の称号を奪い、全て「侯」に改めた為、各地の諸部族が反乱を起こし、王莽は、匈奴に対しては30万、南方に対して20万の大軍を送ったものの、戦果は決して成功とは言い難く、軍事費の増大は農民の負担を重くし、各地で農民暴動が発生しました。

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赤眉軍入城

 18年に山東で起こった農民反乱は、たちまち華北一帯に及び、反乱軍は眉を赤く染めて目印とした為、この農民反乱は「赤眉の乱」(18年~27年)と呼ばれ、その頃、南方でも「緑林軍」と称する農民反乱が発生しています。

 劉秀(紀元前6年~後57年)は、前漢6代皇帝景帝の6代目の子孫で、一族は紀元前40年頃に南陽郡(湖北省)に移封され、その地で豪族化していました。
赤眉の乱が起きると、劉秀も南陽で挙兵し、同族の劉玄を擁立し、王莽の大軍を破り(23年)、河北に進出します。

 23年に緑林軍は長安に入城、王莽を殺害した結果「新」は僅か15年で滅亡しました。

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劉秀後の光武帝

 25年には赤眉軍が長安に入城、劉玄を倒し、掠奪と暴行を繰り返し、人心を失うなかで、河北の平定にあたっていた劉秀は人望を集め、劉玄殺害の一報が入ると、豪族の支持を得て洛陽で皇帝の位について漢を復活しました。
これが後漢(25年~220年)で、劉秀は後漢の初代皇帝、光武帝(在位25年~57年)に成ります。
光武帝は、その後赤眉の乱を討ち(27年)、各地に割拠した群雄を破り、全土を統一しました(36年)。

 統一後、光武帝はヴェトナムに出兵、徴(チュン)姉妹の乱(40年~43年)を平定して北ヴェトナムを制圧、又この頃、匈奴が南北に分裂(48年)した機会を逃さず、南匈奴を服属させました(49年)が、その後は対外的には消極策を取ります。

 内政では、豪族と結んで外戚の力を抑え、豪族との衝突を出来るだけ避ける政策を推進し、後漢の官僚や軍人の大部分は豪族出身者で占められていたことからも、後漢は豪族の連合政権という性格が強かったのです。

 光武帝は、民生の安定をはかり奴隷解放令を何度も出しました。
又儒学を復興・奨励した結果、儒教の道徳思想が一般に広く流布したのです。

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漢委奴国王印

 光武帝はその在位33年におよび、西暦57年に63歳で崩御、明帝(在位57年~75年)が即位します。
倭の奴国王が朝貢し、漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)を授かったのはこの年(57年)のことで、この金印は江戸時代に博多の対岸、志賀島で発見されました(1784年)。
  
 明帝の時代には国内が安定し、国力は隆盛に向かい、明帝は従来の対外消極策から積極策に転じ、
73年、竇固(とうこ)等が北匈奴を撃破しますが、この匈奴討伐に従軍して軍功をあげた人物が班超(32年~102年)で、彼は同年西域招撫の任を受けて西域に赴きました。

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班超

 班超は、以後西域に留まること31年、この間、西域都護(西域統治機関である西域都護府の長官)に任じられ(91年)、パミール高原の東西にある50余ヶ国を服属させ、後漢の勢力を西域に及ぼし、102年に老齢に達し帰還を許され、洛陽に帰郷が叶うものの1ヶ月後に亡くなります。
時は既に4代和帝の時代に代わっていました。

 班超は、97年に部下の甘英を大秦国(ローマ帝国)に派遣しましたが、甘英は安息(パルティア)を経て条支国(シリア)に達したものの、大海(地中海説とペルシア湾説の両方がある)の航海が困難であること聞き、引き返したと記録されています。

 明帝の時代の67年に仏教が中国に伝わったと歴史書には書かれることが多いですが、最近の研究では紀元前2年頃に伝来したことになっています。

 明帝の次の章帝(在位75年~88年)迄は、外戚が遠ざけられていましたが、第4代の和帝(在位88年~105年)が10歳で即位したため、竇太后や外戚の竇憲(とうけん)が実権を握るようになりました。
竇憲は89年に北匈奴を討って大功を立て、その専横は目に余るように成り、和帝は宦官と結んで竇氏一族を滅ぼし(92年)、親政を行いました。

 章帝から和帝の時代は、班超の活躍により西域に領土が拡大し、対外的には後漢の勢威が最も隆盛した時期でしたが、国内では以後幼少皇帝が相次ぎ、外戚と宦官の対立、専横が熾烈を極め、政治は乱れ、後漢は次第に衰退して行くことになります。

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後漢時代の西域

 外戚は、母方の親戚を意味しますが、今までに出てきた外戚は皇后一族の意味で使われており、多くの場合、皇帝が崩御し、若い(幼い)子が皇帝位に就いた時、皇后の父或いは兄弟(皇帝から見て、祖父・伯父・叔父)がその地位を利用して実権を握るケースが以後ますますひどくなっていいきます。

 宦官は後宮に仕える去勢された男子であることは有名ですが、古代より西アジア・インドの後宮には多くの宦官が存在し、中国でも古くは宮刑(去勢される刑)に処せられた罪人や異民族の捕虜が宦官として使われていました。
後に宦官が皇帝の身辺に存在して、権力を握るようになると、自ら志願して手術を受け宦官となる者も出てきます。
中国史上では特に後漢と明でその弊害が激しく、古代日本は中国から様々な文化を取り入れましたが、幸いにもこの宦官の制度だけは取り入れられませんでした。

 後漢では、4代和帝(10歳で即位)以来、幼少皇帝が相次ぎ、5代殤帝(生後100余日)、6代安帝(13歳)、8代順帝(11歳)、9代冲帝(2歳)、10代質帝(8歳)、11代桓帝(15歳)、 12代霊帝(12歳)、14代献帝(9歳)と実情でした。

 皇帝交替の度毎に、外戚が権勢をふるい、外戚が排除されると宦官が権力を握り、この間、安帝の即位の翌年に西域都護は廃止され (107年)、後漢の勢力はもはや西域には及ばなくなっていたのです。

 桓帝(在位146年~167年)の治世の終わり頃の166年に、大秦国王安敦(ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使者と称する一行が、日南(ヴェトナム中部)に到着し、入貢したことが歴史書に記録されています。

ジョークは如何?

イラク攻撃に対する反対運動は過激になる一方だった。
毎日毎日、「戦争反対!」「イラクに平和を!」などの声があちこちであがっていた。
中には暴力的手段に訴えるものまで出てきた。
警察は路上でのデモを阻止するために催涙弾まで持ち出す始末だ。

そんなある日、過激派反対グループが決死の最終作戦を行うために集会を開いた。
そして、グループのリーダーはメンバーに向かって開口一番こういった。

「いいか!これはもう戦争だ!」

続く・・・
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2014/08/27

歴史を歩く39

<9黄河文明⑩>

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匈奴討伐

6 漢の内政と外征その2

 武帝がまず取り組んだ政策が、北方から中国を脅かしていた匈奴に対する征伐でした。
匈奴は前述した冒頓単于(?~紀元前174年)が父を殺して2代目の単于となり、諸部族を統一し、更に西は月氏、東は東胡を撃破して遊牧民族最初の大国家を建設、匈奴の全盛期を築きました。
紀元前200年には高祖を白登山に包囲して敗走させます。

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前漢時代の匈奴の勢力範囲(Wikipediaより)

 冒頓単于の後を老上単于(紀元前174年~紀元前160年)が、その後を軍臣単于(紀元前160年~紀元前126年)が継ぎ、武帝が即位した頃の単于が軍臣単于でした。

 武帝が即位した頃、匈奴の捕虜から「月氏(戦国時代には蒙古高原の西半を支配する大勢力でしたが、冒頓単于に敗れ、主力は甘粛方面から敗走西遷、天山山脈の北に移動し、その後更に匈奴の攻撃を受けて西遷し、アフガニスタンの北部にあったバクトリア王国を倒して、その地に大月氏国を建国)が匈奴に敗れ、匈奴は月氏の王の頭蓋骨で杯を作り、それで酒を飲んでいる。月氏はそのことを怨み仇としている。しかし同盟して匈奴を討とうとする国がない」と云う話を聞き、月氏と同盟を結び、匈奴を挟撃できると考え、月氏へ使いする者を募り、これに応じた人物が張騫でした。

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張騫の月氏派遣

 張騫(?~紀元前114年)は武帝から委ねられた100余人の従者を連れ、紀元前139年頃に長安を出発したのですが、張騫一行は河西(甘粛省の黄河以西の地)で匈奴に捕まり、そのまま拘留されました。
その間匈奴の妻をあてがわれ、子供まで産まれましたが、彼は武帝の命令を忘れてしまったわけではなく、すっかり匈奴の人になったと思わせて油断させ、監視が緩んだ隙を見て、10余年後に妻・仲間と共に脱出し、西に走ること十数日で大宛(現在のウズベキスタン共和国のフェルガナ)に辿り着きました。

 ところが月氏は既に、更に西へ移動しており、フェルガナ国王が準備してくれた道案内によってやっとソグディアナ地方(現在のウズベキスタン共和国のサマルカンド付近)に移住していた大月氏国に辿り着いたのでした。
張騫はその地に1年余り留まり、漢との同盟を結ぶことを説得したが、肥沃な土地に安住していた大月氏には遠い漢と同盟して匈奴と戦う気持ちは全くなく、説得は失敗に終わります。
目的を果たせぬままに帰国の途についた張騫は、又も匈奴に捕まり拘留されたのですが、軍臣単于の死による匈奴の内紛に紛れて辛うじて脱出し、13年ぶりに長安への帰還を果たしました。
出発時の100余人の一行は、張騫と匈奴の妻と従者の3人になっていたと云われています。

 張騫の大旅行の目的は達成されませんでしたが、彼がもたらした貴重な情報によって西域(当時の中国では、中央アジア及びそれ以西の地をこう呼んだ)の事情が分かる様になり、後にシルク・ロードが開かれるきっかけと成りました。

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衛青

 武帝は、張騫の帰国前の紀元前129年に衛青(?~紀元前106年)に1万騎の兵を援けて出撃させました。
衛青は武帝の2番目の皇后衛氏の弟で才能に恵まれ、武帝の寵愛を受けていました。
彼は長城を越えて甘粛省に攻め込み匈奴を破り、紀元前127年にはオルドス地方を奪回し、紀元前119年迄に7度遠征軍を率いて匈奴と戦い、多くの軍功を上げたのです。

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霍去病

 衛青と並んで匈奴征討に活躍した人物が、彼の甥の霍去病(かくきょへい、紀元前140年~紀元前117年)です。
霍去病は18歳で武帝に仕え、叔父衛青の匈奴征討に従って軍功を上げ、紀元前119年には衛青と共に其々5万の兵を率いて匈奴の本拠地を襲い、約7万の匈奴兵を倒しました。
敗れた匈奴は遠く漠北に去り、以後20年の間、漢と匈奴の大規模な衝突は生じなかったのですが、霍去病は紀元前117年にわずか24歳で病死します。

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前漢時代の中央アジア(Wikipediaより)

 中央アジアの大宛(フェルガナ)は、汗血馬(血の汗を出すまで走る馬の意味、当時の中国の馬に比べて、背が高く大型の馬で早く走った)の産地として知られていました。
張騫の報告でこのことを知った武帝は匈奴との戦いに必要なこの良馬を獲得する為に李広利(?~紀元前90年)に大宛遠征を行わせます。
李広利は、武帝が寵愛した李夫人の兄で、武帝に重用された人物です。
李広利は紀元前104年の遠征には失敗したのですが、紀元前102年の遠征には成功し、目的であった多くの汗血馬を得て帰国し武帝を喜ばせました。
以後、中国名産の絹と汗血馬を交換する「絹馬貿易」がシルク・ロードを利用して盛んに行われることになります。

 李広利は、紀元前99年・紀元前97年に匈奴遠征を行ったものの失敗に終わり、紀元前90年の第3回遠征の時に外モンゴル迄攻め入ったのですが敗北し、匈奴に捕えられて殺されます。
紀元前99年の遠征の際、李陵は8日間にわたる単于本隊との戦いで部下の殆どを失い、匈奴に降りました。
この李陵の罪が論議された時、李陵を弁護して武帝の怒りをかい、宮刑(去勢される刑)を受け、出獄後執筆に専念し、名著「史記」を著したのが司馬遷(紀元前145年頃~紀元前86年頃)です。

 紀元前119年、匈奴に大打撃を与えて漠北に追いやった漢は、以後南方と東方に領土を拡大して行きました。

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前漢時代の東アジア

 南方では、秦末の混乱に乗じて、南海郡慰(軍事の最高官)であった趙陀(ちょうだ)が南越(紀元前203年~紀元前111年)を建国し、華南からヴェトナム北部を領有、越族を支配していました。南越は漢に服属していたのですが、事実上独立国で漢の入朝の命令に従わず、武帝は南越の内紛に乗じて紀元前111年に南越を滅ぼして9郡を設置し、これにより漢の領土はヴェトナム北部に迄及ぶように成りました。

 東方の朝鮮では衛氏朝鮮(紀元前190年頃~紀元前108年)が存続しており、この国は漢初の燕王の臣であった衛満が北朝鮮に亡命し、箕子朝鮮の王の信任を受けていたのですが、紀元前190年頃に国を奪って建てた国です。
漢は衛満を遼東太守の外臣として周辺の諸部族を服属させました。

 衛氏朝鮮も入朝は無く、紀元前109年に大軍を陸海路から送り込み、その戦いは苦戦の連続でした
が、紀元前108年に衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟(げんと)郡の4郡を設置しました。
このうち楽浪郡は中国文化が東方へ伝播する拠点として栄え、ここを経由して中国文化が古代の日本に入ってきたのです。

 この様にして漢は、東は朝鮮、南はヴェトナム、西は中央アジア、北は長城の北に迄及ぶ中国始まって以来の大帝国に成長しますが、この発展をもたらした度重なる対外遠征により、豊かであった国の財政も苦しく成っていました。
この財政難を解決する為に武帝は様々な政策を展開します。

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五銖銭

 紀元前119年には、塩と鉄を専売とし(後に酒も専売となる)、同年、「五銖銭」(銖は重さの単位)を鋳造させ、貨幣の私鋳と物価高騰を防ごうとします。

 紀元前115年には、均輸法が発布されました。
均輸法は、均輸官を郡国に置き、特産物を税として強制的に貢納させ、これを不足地に転売して物価の平均を図る政策で、物価調節の名の下に国庫の収入増をねらった政策で、更に紀元前110年には平準法を実施します。
平準法は、物資が余り、価格が下がった時に政府が購入して貯蔵しておき、物資が不足し価格が高騰した時に放出して、物価の維持を図るものですが、これも物価調節の名の下に国庫の収入増を図った政策でした。
更に売位・売官迄行ったので、社会不安が増大していきました。

 武帝の死後、昭帝(在位紀元前87年~紀元前74年)が8歳で即位し、若くして亡くなった霍去病の弟の霍光が政敵を倒し、摂政となり独裁権を掌握します。
昭帝は在位13年で崩御、子が無かったので甥にあたる廃帝が跡を継いだのですが、僅か27日で廃位され、武帝の曾孫が宣帝(10代、在位紀元前74年~紀元前49年)として即位します。
宣帝は18歳で即位し、43歳で崩御する迄25年間在位し、その賢明で民間の事情にも通じた人柄から人望も高かったのです。

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呼韓邪単于と王昭君

 当時、匈奴では内紛が起こり5人の単于が並び立ちます。
これを統一したのが14代呼韓邪(こかんや)単于で、やがて兄も単于を称したため、兄と匈奴を東西に二分し(紀元前54年)、後に兄と戦って敗れた呼韓邪単于は南下し、宣帝に拝謁して援助を求めます(紀元前51年)。

 2年後に宣帝は崩御、元帝(在位紀元前49年~紀元前33年)が即位しました。
東匈奴の呼韓邪単于は内モンゴルで漢に服属しており、漢と東匈奴は同盟して西匈奴を攻めて滅ぼし(紀元前36年)、喜んだ呼韓邪単于は紀元前33年にも来朝し公主を賜り、漢と姻戚になりたいと請いました。
この時、元帝が匈奴との和親を保つ為に呼韓邪単于に与えたのが王昭君なのです。

 元帝の頃、後宮には多くの宮女が居り、皇帝は全ての女を見ることが出来ないので、画工に宮女の姿を描かせ、それを見て美しい女を召していました。
王昭君は絶世の美女でしたが、画工に賄賂を送らなかったので醜く描かれ、元帝は匈奴に与える女に王昭君を選んだと云われています。
別れに際して現れた王昭君を見て、元帝は驚き後悔したと伝えられ、王昭君は泣く泣く匈奴に嫁しその地で亡くなります。
この悲話は後に多くの文学作品に取り上げられ、特に元代に書かれた戯曲(元曲)の「漢宮秋」は有名です。

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王昭君

 漢では、武帝の頃から皇帝の秘書の長官(尚書令)が重用され、実権を持つように成りました。
それに伴い、皇帝に近侍する者が政治の実権を持つようになり、その代表が外戚と宦官でした。
特に年少の皇帝が即位した時や皇帝が政治に関心を持たない時等に、その状況が顕著となります。

 元帝のあとの成帝(12代、在位紀元前33年~紀元前7年)が治世の後半に女色におぼれた頃から、元帝の后(成帝の生母)の王氏一族が外戚として権勢を持つようになり、王氏一族の10人が諸侯に封じられました。

 王莽(おうもう、紀元前45年~後23年)は、父が早く死んだ結果、外戚の王氏のなかで最初は不遇でしたが、その間に儒学を学び、後に実力が認められて高官となり、王氏を代表する人物に成りました。

 王莽は、成帝の次の哀帝が在位6年で崩御すると、9歳の平帝(紀元前1年~後5年)を立てますが、後に毒殺し、僅か2歳の孺子嬰を立てて摂政となり、事実上実権を握り、後8年に天命が下ったと称して、孺子嬰を廃して自ら皇帝の位に就き、国号を「新」と称し、ここに15代、約200年間続いた劉邦以来の前漢(紀元前202年~後8年)は終に滅亡します。

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王莽帝位簒奪

ジョークは如何?

日本軍がシンガポールを攻めたとき、イギリス人は豪語した。

「なあに、大丈夫さ。イギリス人兵1人は、優に日本兵10人に相当する。」

ところが、あっけなくシンガポールは落ちた。司令官パーシバル将軍が新聞記者に次のように述べた。

「残念、日本兵は11人もやって来た。」


続く・・・

2014/08/23

歴史を歩く38

<9黄河文明⑨>

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前漢の版図

6 漢の内政と外征

 項羽を滅ぼして中国を統一した高祖(在位紀元前202年~紀元前195年)劉邦は、最初洛陽を、後に長安を都として紀元前202年に前漢王朝(紀元前202年~紀元後8年)を開きました。
高祖は秦の制度・法律をほとんどそのまま継承しましたが、秦が郡県制をはじめとする急激な改革によって反感を招き、短期間で滅亡したことを反省し、漸進主義を採用します。

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劉邦、韓信他漢帝国建国の功臣

 劉邦は皇帝となるや、一族や功臣を諸侯に封じ、郡県制と封建制を併用する郡国制を採用しました。即ち直轄地(都の長安周辺や西部地域)には郡県制を定期用し、中央から官吏を派遣して統治させ、遠隔地(東部・南部を中心)には王国・侯国をつくり、一族や功臣を封じたのです。
劉氏一族以外で王になった者は韓信等7人、列侯となった者は百余人を数えました。
しかし、皇帝支配が安定してくると、高祖は一族以外の異姓の王・侯を殆んど除き、その後に同姓(劉氏)の者を配置していきました。
韓信も反逆の疑いをかけられ、王から侯に下げられ、後に捕殺されます(紀元前196年)。

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冒頓単于:モンゴル国公式切手

 当時、北方では匈奴が冒頓単于(ぼくとつぜんう、単于は匈奴の君主の称号、在位紀元前209年頃~紀元前174年)のもとで大帝国となり、嘗て始皇帝の時代に奪われたオルドス地方を奪回し、漢の北辺にしばしば侵入を繰り返していました。

 中国を統一して意気盛んな高祖は、自ら32万の軍を率いて匈奴討伐に向かい(紀元前200年)、匈奴はほとんど抵抗せずに退却しています。
高祖は追撃体制に入り、平城(現在の大同付近)の白登山迄進撃したのですが、翌朝目を覚ました漢の軍勢は仰天します。
周りは冒頓単于自ら率いた40万騎の匈奴軍によって包囲され、しかもこの包囲は7日間にも及び、逃れられないことを知った高祖は莫大な貢物を単于の妃に送り、単于に兵を引いてもらうように頼み込み、やっと危機から脱出し、命からがらに逃げ帰ったのでした。
以後必ず漢の王室の娘を公主として単于に送り、毎年莫大な絹・米・酒・食糧を送ることを約束する和議を結び(紀元前198年)、これ以後高祖は対外的に消極策を取り、国力の充実に努め、漢王朝の基礎を築き、紀元前195年に崩御しました。

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呂后

 高祖の死後、呂后(高祖の皇后)の子の恵帝(在位紀元前195年~紀元前188年)が即位し、呂后は太后として政治の実権を握ります。
嘗て高祖は気の弱い恵帝を嫌い、晩年寵愛した戚夫人の子を太子に立てようとしたために、呂后は我が子の太子の地位を守るために努力し、戚夫人とその子を憎みましや。
高祖が崩御すると、戚夫人を捕らえ後宮の獄に監禁し、子の趙王を毒殺し、戚夫人に対しては、手足を切り、目をくりぬき、耳を焼き、声の出なくなる薬を飲ませ、厠(かわや)に投げ込み、人豚と名づけます。
数日後、恵帝にその姿を見せられ、ショックを受けた恵帝は以後酒におぼれ、淫楽にふけり、政務を顧みず、終に病床に着き、23歳で亡くなります。

 恵帝には子がなかったので、后に身ごもったふりをさせ、後宮の女官の子を立てました。
これが少帝恭(在位紀元前184年~紀元前180年)で、少帝恭は4年後に殺害され、代わってやはり女官の子であった少帝弘(在位紀元前180年)が立てられました。

 呂后は摂政となり、呂氏一族の者を次々に王や諸侯に封じ、劉氏の一族は次々に殺され、今や呂氏の勢力は劉氏を圧倒するように成りました。
その呂后も紀元前180年に終に逝去、劉氏一族は、この機会をとらえ、高祖の功臣であった陳平や周勃らと謀り、呂氏一族を全滅させ、劉邦の次男、代王劉恒を即位させます。
この人物が5代皇帝の文帝(在位紀元前180年~紀元前157年)です。

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文帝

 文帝は、その在位23年、仁政に励み、連座制等苛酷な刑罰を廃止しました。
文帝は前漢の皇帝のなかで理想的な皇帝とされ、文帝の死後、景帝(在位紀元前157年~紀元前141年)が32歳で父の後を継ぎました。
この景帝の時代に起きた最大の出来事が呉楚七国の乱なのです。

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景帝

 高祖は郡国制を採用し、一族の者を各地に封じて王・侯としまいたが、諸王の勢力は強大で、この頃王国は16を数え、特に広大な領土を有する呉・楚・斉等は中央に反抗的でした。
そこで景帝は諸王・諸侯の勢力を弱める為、その領土を削減する政策を推進します。

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呉楚七国の乱概要図

 紀元前154年、呉王(高祖の兄弟の子)の領土の2郡(銅と塩の産地)を削減することが決まり、呉王は、楚王(高祖の兄弟の孫)・趙王(高祖の孫)他4王に呼びかけて七国が連合して反乱を起こしました。
これが呉楚七国の乱と呼ばれ、主力の呉軍は20万、その勢力は漢を脅かし、呉楚七国軍は長安に侵攻しますが、梁王に西進をくい止められ、周亜夫(周勃の子)は呉楚軍とその本国との連絡を断つ作戦を展開し、糧道を断たれた反乱軍はやむなく退却しますが激しい追撃を受け、呉王はその途中で殺され、七国の連合は崩壊し、この大乱も3ヶ月で鎮圧されました。

 乱後、有力諸王が戦死や自害した結果、諸王・諸侯の領土は細分・削減され、その勢力は著しく弱体化し、逆に中央の皇帝の権力は強大となり、中央集権化が進展していくこととなりました。

 景帝は貨幣の私鋳を禁止して貨幣の鋳造権を掌握し、財政の充実に努め、次の武帝の時代に現出する前漢の全盛期の基礎を築いたのでした。

 景帝の崩御の後、九男の劉徹が16歳で即位し、中国史上有名な、第7代皇帝武帝(在位紀元前141年~紀元前87年)と成ります。
九男の彼が即位した背景には、女性間の争いが在ったようですが、ここでは省略します。

漢武帝
 武帝

 武帝の時代には、呉楚七国の乱平定後、諸王・諸侯の領土の削減が図られた結果、その勢力は完全に抑えられ、漢初以来の郡国制は実質的には郡県制と変わらなくなり、中央集権化が進み、漢は最盛期を迎えたのでした。

 武帝は即位早々に賢良方正の士を推薦するよう命じ、この時推薦を受けた者のなかに儒学者の董仲舒(とうちゅうじょ、紀元前176年頃~紀元前104年頃)が居り、彼は儒学による思想統一を進言して採用され、紀元前136年には五経博士が置かれます。
五経博士は五経(当時の儒学で重んじられた古典である「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記(らいき)」)を教授し、文教政策を司る為に置かれた学官で、以後礼と徳を重視する儒学は統一国家を支える思想となり、官学と成りました。

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董仲舒

 官吏任用についても、儒学が重んじた仁・義等の徳のある者、有能な人物を地方の長官に推薦させて任用する「郷挙里選」と呼ばれる制度を始め、この官吏任用制は次の後漢時代にも行われましたが、推薦されたのは地方豪族(大土地所有者)の子弟がその殆んどを占めていました。

 武帝の名を有名にしているのは、積極的な対外政策を採り、漢の領土を拡大し、中国始まって以来の大帝国を建設したことに在ります。
高祖以来、対外的には消極策を採り、内政を重視するなかで、呉楚七国の乱はあったが、長らく太平が続いた結果、漢の国力は充実していました。
この力を対外発展・領土拡大に向けたのが武帝でした。

ジョークは如何?

「徒歩と船なら、断然船旅が速いだろうね。」
「そうでもないよ。」
「なぜそんなことを言うんだい?」
「インディアンとコロンブス、どちらが先にアメリカを発見したか知っているか?」


続く・・・
2014/08/19

歴史を歩く37

<9黄河文明⑧>

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「陳勝・呉広の乱」

5 秦の統一その2

 始皇帝の死後間も無く各地で反乱が起こりました。
その中で有名な事件が「陳勝・呉広の乱」(紀元前209年 ~紀元前208年)です。
陳勝、呉広も、共に河南省の日傭百姓でしたが、万里の長城の工事に徴発され、北に向かう途中で大雨に合い道が通れず、決められた期限迄にはとうてい間に合わなく成りました。
当時、秦の厳しい法律では期限に遅れれば斬罪でした。
このまま任地に行っても殺される、逃げても見つけ次第殺されるのであれば、同じ死ぬなら大きな事をやって死のうと反乱を起こすことを決意し、同行していた秦の軍人を殺し、反乱に踏み切ったのでした。

 その時陳勝が同じ立場の仲間を集めて言った言葉が「王侯将相いずくんぞ種あらんや」です。
王も諸侯も、将軍も丞相も別種の者ではない(血筋に別はない)、自分達でも時を得れば彼等と同様に成れるとの意味で、生まれを問題にしない戦国時代の下剋上の実力主義の風潮を示す言葉です。
又、平等主義を示す言葉であるとも解釈されています。
陳勝・呉広等は、楚の最後の都であった陳を目指したのですが、陳に到着する頃には秦の政治に反発を抱く人々が加わり数万の大軍にふくれあがっていました。
その陳で陳勝は王位に就き、一時は反乱に加わるもの数10万に達したのですが、統制のとれてない寄せ集めの集団は、秦軍の猛反撃に遭遇して敗れ、陳勝を見限る者が続出する中で呉広は軍中で討たれ、陳勝は乱軍のなかで死亡し、反乱は6ヶ月で鎮圧されました。

 中国最初の大規模な農民反乱であった陳勝・呉広の乱は鎮圧されましたが、この反乱を契機にして秦に対する反対勢力は各地で立ち上がり、その中で最も大きな勢力が項羽と劉邦の軍でした。

 項羽と劉邦の抗争は中国史上最も有名な出来事の一つであり、司馬遷の「史記」のなかでも最も劇的な部分です。

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項羽

 項羽(紀元前232年~紀元前202年)は、代々楚に仕えた将軍の家に生まれました。
彼の祖父は秦軍と戦って戦死しており、秦の時代になって叔父の項梁とともに呉(蘇州)に住んでいましたが、陳勝の挙兵を聞いて挙兵し(紀元前209年)、8000人の楚兵を率いて北上、山東に至って陳勝の死を知りました。
項梁は楚を再興し、西に進んで大いに秦軍を撃破したのですが、増強された秦軍に不意を打たれて敗死します。
項梁の死後、楚の懐王は諸将を集めて「最初に咸陽(秦の都)に入った者が王たるべし」との約束をさせ、項梁の後を受け継いだ項羽は、全軍を率いて北方に向かい、函谷関(かんこくかん、河南省の北西部、東の中原と西の関中とを結ぶ要衝で、秦はここに関を設けた)から関中へ入ろうと試みましたが、この方面で秦の主力軍を相手に激戦を重ねながら進撃する事になり、劉邦に先を越されることと成ります。

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劉邦

 劉邦(紀元前247年~紀元前195年)は、江蘇省の沛(はい)の中流の農家に生まれ、若い時代は 殆ど家の仕事はせず、遊侠の徒と交わり、壮年になって沛県の亭長職を拝命し下級役人と成りました。 その職務は公道の宿舎を管理し、その近辺の警察の様な仕事を行う事が役目でしたが、紀元前209年、陳勝の挙兵の知らせが沛の町にも伝わり、町は動揺していました。
県の役人であった蕭何(しょうか)が劉邦を役所に招き、劉邦が100人程の手下を引き連れて役所へ行くと、沛の人々は県令(県の行政の長、秦の役人)を殺して劉邦を迎え入れ、彼を沛公(県令の尊称)に立てました。

以後、劉邦は沛公と呼ばれ、やがて沛の若い男子が集められて数千の軍ができたので、その兵をもって周辺の地域を攻略していきました。
この時期、名参謀の張良も加わり、劉邦軍は次第に勢力を拡大して行き、項梁が諸将を招いたのに応じてその軍に加わり、項梁の死後、項羽と競いながら秦の都を目指したのです。

 項羽が秦主力軍を相手に戦い、進撃が遅れたのに対し、劉邦は南を進み裏口の武関を攻略、項羽よりも先にしかも楽に関中に入いりました。
秦ではその直前に二世皇帝が殺され、三世皇帝が即位していましたが、劉邦に降伏し紀元前206年、秦は滅亡します。

 都に入った劉邦は三世皇帝の命を助け、軍には略奪を禁じ、秦の財宝には封印し、主だった者を集めて次のように言い渡しました。
「法は三章のみとする。人を殺した者は死刑、人を傷つけた者は罪せられ、物を盗んだ者は罰せられる」。
今迄の秦の刑罰は大変厳しかった為、人々は安心し喜んだのでした。

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鴻門の会

 劉邦が都に入って2ヶ月程遅れて、項羽はようやく函谷関に達しました。
関の門は固く閉ざされており、劉邦は既に都に入った事を聞き大いに怒り、函谷関を破って関中に入り、鴻門に陣を構えます。
項羽の部下の范増が劉邦を殺すように進言し、そこで鴻門で宴会を開いて暗殺する計画が立てられました。
劉邦は百余騎を従えて鴻門に入り、項羽に敵対する気持ちの無い事を釈明し、その後酒宴が開かれるのですが、この時の様子を実にリアルに描いている文章が司馬遷の「史記」に収められた「鴻門の会」です。
中でも樊噲(はんかい)の行動を描いた場面は圧巻で、結局、劉邦は途中で退席して逃げ帰り、 命拾いをしています。(興味の在る方は、是非「史記」読んでみて下さい)

 項羽は数日後、咸陽に入り、三世皇帝(子嬰)を殺し、阿房宮を焼き払いました。
阿房宮は3か月に渡って燃え続けたと云われており、更に秦の財宝を略奪して、東に帰り、彭城(後の徐州)を都として西楚の王と成りました。

 先に都に入った劉邦であったが、当時の兵力は項羽の40万人に対して10万人では如何ともしがたく、項羽が一時覇権を握り、劉邦は巴蜀(四川省)と漢中の地を与えられ、漢中王に封じられました。

 覇権を握った項羽でしたが、狭量な性格が災いし、その評判は悪いものでした。
彼に対する臣民の不満は日増しに高まり、その一方で度量の広い劉邦の人望は益々高まりました。
後に劉邦の危機を救い、項羽との戦いに大活躍する有名な韓信もこの時期に項羽を見限り、劉邦陣営に加わっています。

 劉邦が漢中王になって5年後、項羽に対する反乱が起こりました。
その機を逃がさず劉邦も挙兵、関中に出陣し、函谷関を越えて半年で洛陽に達し、項羽が東方に遠征している間隙を突いて本拠地の彭城を攻略しました。
しかし、項羽はすぐさま取って返し、劉邦軍を破り、以後2年余りの戦いでは項羽は常に優勢を保っていましたが、項羽の優勢をみて項羽側についた魏・趙・斉を次々に破り、劉邦の危機を救った人物が韓信でした。

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垓下の戦い

 紀元前202年、劉邦はついに項羽軍を垓下(がいか)に包囲します。
項羽軍10万人、劉邦軍30万人、主力は韓信が率いていました。
以下、「史記」による「四面楚歌」の場面です。
「四面楚歌」は周りが総て敵で孤立無援の状態を表す言葉としてよく使われます。
垓下を取り囲んだ劉邦軍から聞こえて来るのは楚の歌ばかりでした。
項羽は驚き、漢は既に楚の地を総て奪い取ったのか、何と楚人の多い事よと云い、帳の中で酒を飲み、虞美人(項羽の寵姫)に舞う様命じて、歌を読みました。
「力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う、時に利あらず、騅(すい、愛馬の名)逝(ゆ)かず、 騅の逝かざるは奈何(いかん)すべき、虞や、虞や汝を奈何せん」。
因みに虞美人草は雛罌粟です。

 項羽は夜陰に紛れて脱出し、800余騎が従いました。
終に長江の北の烏口に達した時は、僅か26騎になっていました。
烏口の亭長が江東(長江下流の南)に逃げて再起をはかれと勧めたのですが、「嘗て自分は江東の子弟8000人と供に渡った。今は一人も帰る者がいない、喩え江東の父兄が自分を憐んで王にしてくれても、自分は何の面目あって見(まみ)えん」と言い、追っ手の中に討ち入り、最後は自分で首を切って自決します。

 劉邦は、中国を再び統一し、紀元前202年に漢(前漢)王朝を開き、後に長安(現在の西安)を都としました。
中国史上、農民出身で皇帝になったのは、劉邦と明の太祖(朱元璋)の二人だけなのです。

「垓下の歌」

力拔山兮氣蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可柰何
虞兮虞兮柰若何

力山を抜き 気世を蓋う
時利あらずして 騅逝かず
騅の逝かざる 奈何すべき
虞や、虞や 若を奈何せん

私の力は(動かないものの代表である)山をも動かす程強大で、気迫は(広いものの代表である)この世の中をおおい尽くしてしまう程なのに
時勢は私に不利であり、(愛馬の)騅も進もうとしない。
騅が進もうとしないのを、もはやどうする事もできない。
(それよりも)虞よ、虞美人よ。そなたの事を一体どうすれば良いのか。

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虞兮虞兮柰若何

ジョークは如何?

イタリア船に乗った理由

あるとき、チャーチルがイタリアへ行くことになった。ところが、彼はイギリスの船会社の船に乗らず、イタリアの船を予約した。周りの連中が驚いて、なぜわが国の船を利用しないのかと訊くと、チャーチル曰く

「イタリー船は、まず食い物がうまい。次いで、サービスが行き届いている。最後に、救命ボートに女子供を先に乗せろとは書いていない。」

続く・・・

2014/08/15

歴史を歩く36

<9黄河文明⑦>

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始皇帝

5 秦の統一

 中国を初めて統一した君主が、中国史上最も有名な人物の一人である秦の始皇帝です。
始皇帝 (姓は嬴、読みはえい、名は政)(紀元前259年~紀元前210年)は 「戦国の七雄」の秦の第31代の王で、荘襄王の子として趙の都の邯鄲(かんたん)で生まれました。
母は邯鄲の歌妓で荘襄王の妃となる前は呂不韋(りょふい)の愛人であった為、大商人であった呂不韋が実父であるとも云われています。

 始皇帝の父、後の荘襄王は、秦の強敵であった趙の人質として邯鄲で暮らしていました。
その荘襄王に目をつけた人物が趙の豪商であった呂不韋です。
彼は「奇貨居くべし」(これは掘り出し物だ、買い入れておいたほうがよかろう)として荘襄王に取り入り、その生活を援助し、二人が親しくなるなかで、荘襄王は呂不韋の最愛の歌妓を一目見て気に入りゆずってくれと言い出しました。
呂不韋は内心では可也の葛藤が生じましたが、 せっかくここまで投資したのだからと考えて譲ったと云われています。
この時既に歌妓は身ごもっていたのを隠して嫁ぎ、生まれた子供が後の始皇帝だと云われています。

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 呂不韋

 呂不韋は荘襄王を趙から脱出させ、秦に帰国させる為に、様々な工作を行い大金を使いました。
帰国後、太子となった荘襄王は父の死後秦王と成り(紀元前250年)、即位した彼は呂不韋を宰相に任命し、洛陽の地に10万戸を与えたのです。
  
 荘襄王は在位3年にして崩御、太子の政が秦王と成り(紀元前247年)、まだ13歳であった為に政治は母の太后と呂不韋に委ねられました。
政は親政を始めた翌年(紀元前238年)に呂不韋の職を免じ都を追放、更に流罪の刑に処したのですが、追いつめられた呂不韋はついに自決(紀元前235年)します。
この間、秦は益々東方に進出し、終に韓を滅ぼし(紀元前230年)、次いで魏(紀元前225年)、楚 (紀元前223年)、趙・燕(紀元前222年)、翌紀元前221年には最後まで残った斉を滅ぼし、終に中国を統一しました。

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秦の版図と周辺民族

 中国を統一した秦王の政は、王の称号を廃し皇帝(伝説上の三皇五帝の徳を兼備するの意味)と称し、自らは始皇帝(在位紀元前221年~紀元前210年)と称したのでした。

 大帝国の統治にあたっては、丞相の李斯(?~紀元前210、法家の思想家)の意見を入れて、統一前から秦で行われていた郡県制を実施します。
全土を直轄地とし、全国を36郡(のち48郡)に分け、郡の下に数十の県(1つの県は約1万戸)を置き、皇帝に任命された官吏を中央から派遣して統治させました。

 中央官制、地方行政については、中央に丞相(最高行政官、行政全般を統括する)、大尉(軍事を 統括する最高官)、御史大夫(ぎょしたいふ、官吏の監察を行う最高官)を置き、郡には守(民政を 担当)と尉(軍事を担当)を置きます。

 又、今迄7つの国に分かれていた為、国によって異なっていた度量衡の統一等、中国を一つにまとめるために様々な統一事業を推進します。
まず度量衡を統一し、国が定めた量(ます)や権 (おもり、分銅)を全国に配布、次いで車軌を統一しました。
車が通った等に溝が出来、幅が違うと通り難いので車輪の幅を同じにしたのです。
文字も秦の書体である篆書(てんしょ)に統一され、貨幣も刀貨・布貨等、国、地域によって異なる貨幣が使われていた為、始皇帝は円形で四角の穴の空いた半両銭(重さが半両であった)に統一しました。
この円形で四角の穴のあいた半両銭が後世迄貨幣の基本の形と成ります。

 更に民間の武器を没収し、天下の富豪12万戸を都の咸陽(現在の西安郊外)に強制的に移住させ、都の繁栄を図りました。

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郡県制の概念

 始皇帝は国内の制度を整えると領土の拡大を図り、外征に乗り出します。
中国の北に広がるモンゴル高原には、古くから遊牧民族が住みつき遊牧と狩猟の生活を営んでいたのですが、中国の戦国時代の頃から、蒙古高原で活躍した民族が匈奴です。
匈奴はトルコ系又はモンゴル系と云われる遊牧民族で、戦国以来中国に侵入し、巧みな騎馬戦術で中国の脅威と成っていました。
戦国時代末期には盛んに南下を繰り返し、趙が築いていた長城を突破し、黄河南岸のオルドス地方を占領しました。
このオルドス地方を奪回する為に、始皇帝は名将の蒙恬(もうてん)に30万人の軍を授けて匈奴討伐を実行します(紀元前215年)。

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「万里の長城」の変遷

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蒙恬

 匈奴の侵入に備えて有名な「万里の長城」を構築します。
長城は既に戦国時代に趙や燕等で築かれていましたが、始皇帝はそれを修築、連結して築いたと云われています。
西は甘粛から東は遼東に及び、現在私達が見ることの出来るそれは。明時代15〜16世紀に修復された姿で、秦の長城より可也南に位置しています。

北京郊外、八達嶺の長城は煉瓦造の堂々たる構築物ですが、秦代のそれはもっと簡単な土塁でした。
騎馬民族である匈奴の侵入に備える為には、馬が飛び越せない程度の高さであれば充分だったのです。

 南方遠征も行われ、漢民族は当時、長江流域迄居住地域を拡大していましたが、長江流域から南、 現在の浙江省、広東省、広西省からヴェトナムに到る地域には「越」と呼ばれる民族が住んでいました。
戦国時代の越も彼等が建てた国と考えられています。
現在の華南からヴェトナム北部は、当時「南越」と呼ばれていたますが、ヴェトナムの漢字表記では「越南」と書かれています。
50万人と称する大軍が南越に攻め込み、その地を征服し(紀元前214年)、始皇帝はこの地に南海(現在の広東)、桂林、象郡 (この位置については諸説在り)の3郡を設置します。

 今や秦の領土は、殷や周の時代に比べると比較にならない程に拡大し、漢民族の居住の範囲も 広まり、この中国最初の統一王朝であり、巨大な帝国となった秦(Chin)が中国の代名詞となり、 その音が周辺民族に伝わり、シナ(支那)あるいは英語のChinaの語源と成りました。

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「焚書」

 始皇帝は、丞相李斯の建策をいれ、有名な「焚書・坑儒」と呼ばれる思想言論統制を実行します。 紀元前213年に「焚書」、すなわち医薬・卜筮(ぼくぜい、占い)・農業等の実用書を除く全ての 書物を焼き捨てました。
儒学者が封建制度復活論を説いたことが発端に成ったと伝えられますが、これによって秦以前の貴重な古書の多くが失われてしまいました。

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坑儒

 次いで翌年には「坑儒」が行われ、多くの儒学者が捕らえられ、そのうちの460人が大きな穴に生き埋めにされて殺された出来事でした。
始皇帝が不老長生の薬を求めて東海に探索隊を送るものの、もちろん見つかるはずもなく、失敗に終わった儒学者が始皇帝の悪口を言い触らしたことがきっかけとなったという話しが伝えられています。

 以上記述した数々の事象が、統一後のわずか10年程の間に行われてきたのですが、そのあまりにも急激な改革に対する保守派の人々の反感、又たび重なる外征や大土木事業に動員された人々の反発が強まるのは当然のことでした。

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阿房宮

 大土木事業としては、まず万里の長城があげられますが、そのほかにも六国平定後に始まり未完成に終わった阿房宮の建設が在ります。
阿房宮は、東西700メートル、南北150メートル、1万人を収容できる壮大な宮殿であったと云われ、70万人の囚人が働かされたとも云われています。
秦の滅亡後、項羽によって焼き払われましたが、燃え尽きる迄に3ヶ月を要したと伝えられています。更に始皇帝陵(当時は生前から自分の墓を造る習慣があった)の地下墳墓は死後も生前と同じ生活が送ることが出来るように造られ、地上の陵墓は高さ76メートル、周囲2キロメートルに及ぶと云われ、やはり70万人の囚人が動員されたと云われています。

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兵馬俑

 その始皇帝陵の東方の地下に、死後の始皇帝を守る秦の大軍団が7000余体の実物大陶製の人馬像(俑、よう)で再現されていましいた。
これが1974年に、 付近の農民が畑の中に井戸を掘削中に偶然に発見し、世界的に有名となった「兵馬俑」です。

 始皇帝は、紀元前210年に5回目の行幸を実行しましたが、江南地方を巡り、北上して山東に至って急病で崩御(50才)、李斯は反乱を恐れ、死を隠し、首都咸陽に着いて初めて喪を発しました。
その間宦官の趙高は詔書を書き換え、賢明であった長男の扶蘇(ふそ)を自刃に追いこみ、以前から 親しくしていた凡庸な弟の胡亥(こがい)を太子とします。
やがて即位した人物が二世皇帝で、二世皇帝は趙高の思うがままに、蒙恬を自殺に追いやり、李斯を腰斬の刑に処し、趙高を宰相としました(紀元前207年)。

ジョークは如何?(今回は実話)

 気高き皇后

 時は、「バトル・オブ・ブリテン」。連日のドイツ空軍による空襲でロンドンは大打撃を被っていた。
そして、爆撃の矛先は、イギリス王族の住むバッキンガム宮殿にも及んだ。
周囲の疎開のすすめを断り、国民と労苦をともにしようとした国王ジョージ6世の皇后エリザベス・アンジェラ・マーガリート(現女王エリザベス2世の実母)は、この時、次の言葉を述べたと伝えられている。

「ああ、これでイギリス国民と同じ労苦を経験できた。」

 なお、彼女は、ヒトラーからは「欧州で最も危険な女性」と呼ばれ、国民から一身の敬愛を受けた。
晩年、高齢になっても、慰問や外出先で気さくに言葉を交わし、国民から「クイーン・マザー」と呼ばれ敬愛された。 

続く・・・

2014/08/11

歴史を歩く35

<9黄河文明⑥>

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諸子百家の系図

4 古典思想の開花その2

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荀子

(3)荀子

 戦国末期の荀子(紀元前298年頃~紀元前235年)は趙の国に生まれ、学問修業を続け50歳過ぎて初めて遊説し斉に仕え、後には楚に仕えました。
荀子は孔子の説を継承しましたが、孟子の性善説に反対して性悪説を唱えます。
「人の性は悪にしてその善なる者は偽なり(人の生まれつきは悪で、善は後からの作為的な矯正に よるものだ)」と述べ、人間は生まれつき自分の利益を追求する傾向が在り、又嫉(ねた)み、憎みの傾向がある、だからそのままにしておくと必ず争い、奪い合うことになり、世の中は混乱に陥ると主張しました。

 その為、礼による教化が必要であり、礼によって社会秩序や道徳を維持し、混乱した社会を再建しなければ成らないと説きました。
荀子が強調する礼は、法に近い部分に言及しており、後の法家思想に大きな影響を及ぼしており、法家の代表的な思想家である韓非・李斯は荀子の門下なのです。

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墨子

(4)墨子
 
 儒家の思想を批判し、儒家から攻撃された墨子(紀元前480年頃~紀元前390年頃)を祖とする学派が墨家で、墨子も孔子と同じ魯の国に生まれました。
彼も最初は儒家の思想を学んだのですが満足出来ず、儒家を去って一派を開きます。
墨家の墨は入れ墨の意味で在り、古来、入れ墨は刑罰の1つで徒刑者は顔に入れ墨されました。
墨家思想に勤倹節約が在りますが、彼等はぼろを纏い、夜も昼も休まずに働いたその有様が、徒刑者の様な暮らしを連想させる為、何時しか墨家と呼ばれるようになったと言われています。
墨家思想の中で特に注目されるものが「兼愛」と「非攻」です。

 墨子は儒家の仁愛は家族愛であり、自分の親や兄弟に向けられる愛であり、不徹底な愛であり、差別愛であると批判し、家族愛を越える無差別平等の愛を説きました。
これが兼愛で、更に「我が身を愛するように他人を愛し、我が家を愛するように他家を愛し、我が国を愛するように他国を愛していけば、世界は平和になる」と説きました。

 兼愛思想は、当然のことながら、国家間の戦争を否定する反戦思想に発展していきます。
人間を人間として愛していくと言う兼愛を否定し、人間が人間を殺し合うのが戦争です。
一人の人間を殺しても死刑に成るが、戦争では何千人・何万人と殺して賞賛される様な戦争は罪悪だと主張します。
但し、墨子は戦争に反対しましたが、防御の戦争・自衛の為の戦争はやむを得ないものとし、その為の 軍備も認めました。
つまり自分の方からは絶対に戦争を仕掛けない、それを「非攻」と名付けたのです。

 当時にあっては異端とも言うべき、特徴ある思想を展開した墨家は孟子の頃にはとても盛んでしたが、支配者にとっては都合の悪い思想である等の理由からか、秦・漢以後は全く衰微していきました。

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老子

(5)道家思想

 道家は老子を祖とする学派です。
老子については孔子と同時代の人と考えられていますが、その実在を疑う説もあります。
老子は儒家や墨家の説を人為的な虚礼を説くものとして否定しました。

 「大道廃れて仁義有り」(本当の大道が廃れると仁とか義とかが取沙汰される)、「六親和せずして孝慈あり」(親子・兄弟・夫婦の六親の間に不和が生じてくると、初めて親孝行とか慈愛とかが取沙汰される)「国家昏乱して忠臣あり」等の有名な言葉でこの事を述べています。

 老子は孔子の云う親孝行や墨子の云う兼愛等、人間として当たり前のことであり、それをわざわざ「仁」とか「孝」とかと騒ぎ立てることは無く、それらは全てわざとらしい人為的なものであるとして否定したのでした。

 老子は宇宙の根源・宇宙を動かす力を道と呼びました。
道は知性や感覚では捕らえる事の出来ないものであるとして無とも呼び、私達人間はこの道=無の前ではまったく無力で在り、何事にも小賢しい人為・作為を弄せず、偉大な絶対的な道に逆らわず、素直に従って生きる事、この事を「無為自然」と云う言葉で表し、之こそが人間の理想的な生き方であると考えました。
そして柔和でへりくだり、人と争わない心を持った少数の人々が住む小国家、「小国寡民」こそが理想の社会であると考えたのです。

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荘子

 老子の思想を継承発展させ、道家の思想を確立したのが荘子(紀元前4世紀頃)です。
荘子は宇宙を動かす偉大な力である道は、比喩で直感的に捕らえるしかないと考え、「北の冥(うみ)の魚、名は鯤(こん)、鯤の大きさ幾千里かはかり知れぬ。変じて鳥となる。名を鵬(ほう)という。鵬の背中は 幾千里かはかり知れぬ。」は荘子の著書の「荘子」の中の有名な一説です。

 更に荘子は、道は絶対・無差別であると説き、自然のままの世界では一切の対立・差別がなく、全てが同一であると説きました。
「荘子がある時、夢の中で胡蝶となり、楽しく飛び回った。やがて夢から覚めた時、荘子が夢の中で胡蝶になったのか、胡蝶が夢の中で荘子になったのか分からなくなった」と云う有名な「胡蝶の夢」でこのことを比喩的に説いています。
そしていっさいの欲望や 知から自由になり、無心・無我となり、自然と一体になることが理想的な生き方であると説いたのです。

 道家の思想は老子と荘子の名前を取って老荘思想とも呼ばれ、後に神仙思想や様々な民間信仰と 融合して道教となり、民衆の中に深く浸透し、中国人の思想に大きな影響を及ぼしていくことになります。

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韓非

(6)法家

 法家は他の学派が説く礼や道徳は、実際に国家を統治していく上では無力であると考え、法を重んじ信賞必罰に基づき、君主に権力を集中して国家を統治して行くことを説いた学派です。
管仲を祖とし、秦で改革を行った商鞅や韓非(韓非子)(?~紀元前233年)、李斯等が有名です。

 法家思想を大成したと言われるのが韓非で、彼は韓の王族として生まれ、李斯と共に荀子に学びました。
韓ではしばしば王を諫めたが用いられず、学問に打ち込み「韓非子」(55編)を著し、後に秦に使いし、李斯に計られて自殺します。
彼は乱世にあっては仁義礼智等の徳では支配出来ず、法律や刑罰を重視し、それによって悪人を取り締まらないと世の中は治まらないと主張しました。
法家思想は秦の始皇帝に採用され、李斯は宰相として秦の統一事業を実施していくことと成ります。

(7)その他の学派

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孫子(赤い着物の人物)

 この儒家・墨家・道家・法家の他にも多くの学派が現れました。

 兵家は用兵や戦術を説いた。
孫子・呉子等が有名で、孫子は呉の闔閭・夫差に仕えました。
「彼を知り己を知れば、百戦殆(あや)うからず」、「其の疾(はや)きこと風の如く、其の徐 (しず)かなること林の如く、侵掠は火の如く、動かざること山の如し」等の言葉はよく知られています。 後者の言葉から取った「風林火山」は武田信玄が旗印に掲げた言葉として有名です。

 前述した合従策を唱えた蘇秦と連衡策を説いた張儀に代表される外交策を講じた人々は総称して 縦横家と呼ばれます。

 農家の許行は、君主も民も平等に農耕に従事し、勤労により天下平等であるべきことを説いたが、 この平等思想は彼の死後消滅します。

 公孫竜に代表される名家は、名(言葉)と実(実体)の関係を明らかにしようとする論理学派で、 原初的な弁論術や論理思想が見られますが、後には言葉の概念に囚われ、「白馬は馬にあらず」(白い馬は白い馬であって馬とは違うの意味)等の詭弁に陥いりました。

 陰陽家は陰陽五行説を説く派であり、鄒衍(すうえん)は陰陽説と五行説を集大成した代表的な 陰陽家とされます。
陰陽説は自然及び社会のあらゆる現象を陰と陽で説明する説で、五行説は木・火 ・土・金・水の運行によって万物の変化を説明する説です。
 
陰陽家は天文・暦学に通じ、天体の運行によって起きる現象と人間生活の関係を結びつけて説明しようとした結果、迷信や禁忌とも結びついていきました。
特に陰陽五行説は、後世迄中国人の生活・思考に深く溶け込んで大きな影響を及ぼすことになります。

 この時代には「詩経」や「楚辞」等の文学作品もまとめられました。
 「詩経」は中国最古の詩集で、後にいわゆる「五経」の一つとされ、地方の民謡や周の祭祀 ・儀式の歌等から成り、主に黄河流域の歌が集められています。

 戦国時代の楚の王族であった屈原(紀元前340年~紀元前278年)は王のもとで内政・外交に活躍していましたが讒言によって退けられ、都を追放され、流浪のうちに祖国の滅亡を前に投身溺死したといわれ、詩人としても有名ですが、この屈原らの詩を集めた文書が「楚辞」です。

ジョークは如何?

ヒトラーが星占い師の判断を借りて、政治や作戦の決定を動かしたことは有名である。
ある日、ヒトラーが星占い師に尋ねた。

「私はいつ死ぬだろうか?」

「総裁、あなたはユダヤ人の祭りの日に死ぬことになります」

と星占い師は答えた。ヒトラーはすぐに大きな机の上に乗っているベルを押した。親衛隊の将校服を着た秘書が転げ込んで来て、踵を合わせた。

「ハイル・ヒトラー」と叫んで、右手を上げた。

「すぐにユダヤの祭日の表を持って来い」と、ヒトラーは叫んだ。親衛隊の将校は足が床に水平になるように交互に上げて歩きながら、執務室を出て行った。暫くすると表を持って来た。

「我が総統よ、これがユダヤの祭日です」

ヒトラーは眼鏡をかけて暫く眺めてから、ホッと息をついた。祭日はこんなに少ないのか。

「この日には護衛を百倍にしろ」

彼は安堵した。

「総統」と、星占い師はたしなめた。

「ご安心なさってはいけません。いつお亡くなりになっても、その日がユダヤの祭日になります」

ちなみにこのジョークは、映画「聖なる嘘つき」の冒頭で、主人公(ロビン・ウィリアムズ)によって語られています。

続く・・・

2014/08/07

歴史を歩く34

アメーバブロクの皆さんへ。
今週になりアメーバブロクに接続出来なく成りました、種々対策を試みていますが、今だに接続が不可能です。
何とか、復旧したいと考えておりますので、宜しくお願い致します。


<9黄河文明⑤>

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諸子百家

4 古典思想の開花

 春秋末から戦国時代にかけて、中国社会は大きく変化しました。
そのなかで古い秩序は崩壊し、新しい時代にあった秩序・思想が求められます。
又諸侯は各国の富国強兵を図り、有能な人材を求め、更に実力主義の風潮が広まる中で、多くの思想家・学派が現れ、多くの書物が著されました。
これらを総称して「諸子百家」と呼び、諸子の子は一家の学説を立てた人の尊称で先生を意味します。 男子の尊称として使用され、日本にも取り入れられました。
小野妹子(初めての遣隋使)等はこの例です。
但し、日本では後に女子の名前に使われるようになりました。

 百家の百は多いの意味、家は学派を意味しており、諸子百家のなかで特に重要なのが儒家・墨家・ 道家・法家の4つの学派です。

 諸子百家の中で、以後の中国のみならず、朝鮮・日本等の東アジアの歴史に大きな影響を及ばした学派が儒家で、孔子を祖とする徳治主義に立つ学派です。

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(1) 孔子

 孔子(紀元前551年頃~紀元前479年)は、春秋末の魯(周公の子孫が封じられた国)の曲阜の人です。
孔子は魯の国の祖先である周公旦を理想の人物として尊敬し、魯に伝わる周の制度・文物を学び、 周公がつくった周の制度を復興し、周の礼に帰ることで当時の混乱の世を救おうとしました。
54歳の時、魯の司寇(司法をつかさどる大臣)となり、国制改革に取り組むのですが豪族の反対によって失敗に終わり、紀元前497年頃に衛・陳・蔡・楚等の諸国を巡遊したものの、孔子の政治理念は理解されることは無く、その実現を断念して帰国、以後は弟子の教育と古典の整理に専念しました。

 孔子は混乱した社会秩序(礼)を回復する為に周の礼に帰ることが必要であり、その為には個人の道徳(仁)の修養が必要であると考えたのです。
そして、「修身・斉家・治国・平天下」(天下を 治めるには、まず自分の身を修め、家庭を平和にし、国を治めれば、天下は治まるの意味)を説いたのです。
平和な天下を実現する根源は、一人一人が身を修め、立派な人間になる事、「修身」とは、「仁」という徳を身につける事であると説きました。

 有名な「論語」は、弟子達が孔子の言行を記録した書物ですが、その中にも「仁」という言葉が盛んに使われています。
孔子は弟子の質問に対して様々な言葉で説明しています。
或る箇所では「忠恕」と言う言葉で、又「孝悌」と言う言葉で説明しているのです。
忠恕は真心と思いやりの心、孝は親孝行、悌は兄又は年上の人に使えて従順な事、意味は親孝行をし、兄弟仲良くし、思いやりの心を持つ事が仁の徳の基本であると云う事で、一人一人が仁の徳を身につければ、その集まりである家庭はうまくいく、そうすれば家庭の集まりである国が、そして天下がうまく治まると説いているのです。

 孔子の考えは、徳をもって天下を治めるという徳治主義ですが、春秋末から戦国時代と云う軍事力で覇権を握ろうと考えている諸侯に受け入れられませんでした。
孔子の弟子は3000人と云われ、これはもちろん誇張でしょうが、多くの弟子達によって孔子の思想は受け継がれて行きました。
孔子の弟子の曾子は、その学を子思(孔子の孫)に伝えたのです。

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(2)孟子

 その子思の門人に学んだ人物が、孔子の教えを継承して大成したとされる孟子(紀元前372年頃~紀元前289年頃)です。
孟子が幼少の頃、厳格な母の躾を受けた話は有名ですが、墓の近くに住んでいた時、孟子が葬式の真似をして遊ぶので、母親は市場の近くに引っ越しました。
ところが今度は 商人のまねばかりして遊ぶので、再び引っ越し、今度は学校の近くに住んだところ、孟子は熱心に勉強するようになったと云います。
これが有名な「孟母三遷」の教えです。

 子思の門人に学んだ後、梁・斉・宋などの諸国を遊説し、王道政治を説いたが受け入れられず、晩年は隠退して弟子と政治や人間について問答し、その言行を集めた書が四書の一つの「孟子」です。

 孟子は、人間は誰でも他人の悲しみを見過ごすことの出来ない同情心(人に忍びざるの心)を持っており、よちよち歩きの子供が井戸に落ちそうになっているのを見れれば誰でも助けるであろう、 つまり全ての人間は生まれつきよい心を持って生まれてきていると説きました。
有名な孟子の性善説で、生まれつき持っている人に忍びざるの心(惻隠の心)、羞恥の心(羞悪の心)、謙遜の 感情(辞譲の心)、善悪を判断する心(是非の心)は、それぞれ仁、義、礼、智の徳の基である(この思想は四端説と呼ばれる)とし、特に仁・義の徳を重視しました。

 孟子はその思想を発展させ、仁・義の徳を備えた立派な人物が支配者となって政治を行なえば理想的な政治が実現できるという「王道政治」を唱えました。
天子(天帝の子の意味、皇帝)は、天帝(中国人は天帝がこの宇宙を支配していると考えた)の命令によって天下を治めているのですが、若しその支配者が徳を失えば、別の徳を備えた立派な人物(有徳者)が天命を受けて新しい王朝を開くと云う「易姓革命」の思想を唱えたのです。

 現在、社会主義国家を中心に良く使用される「革命」と云う言葉はここに由来しています。
革命は命(天命)が革(あらたまる)の意味で、「易姓」は姓が易(かわる)の意味で、王朝の交替によって支配者(皇帝)の姓が変わることを意味しています。
孟子が活躍したのは戦国時代の中頃にあたり、「王道政治」と云う徳治 主義の思想は当時の諸侯に受け入れられるはずが在りませんでした。
しかし、「易姓革命」の思想は以後の 中国の歴史の中で大きな役割を果たす事に成ります。

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「孟母三遷」より

ジョークは如何?

あるユダヤ人がさまざまな苦労の末やっとニューヨークに移り住んだ。
彼はすでに一年前に亡命してニューヨークに住んでいた友人のユダヤ人をたずねたら、驚いたことに壁にはヒトラーの肖像画がかけられていた。
「どうしてあんなものがかけられているんだ?」

「ホームシックにかからないようにするためさ。」


続く・・・


2014/08/04

歴史を歩く33

<9黄河文明④>

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戦国の勢力分布

3 春秋戦国と鉄器の普及その2

 戦国時代が何時からかについても諸説が存在しますが、一般的には春秋時代の強国であった晋の六卿(六つの大臣の家)であった韓氏、魏氏、趙氏が晋を3分して自立し、周王室から正式に諸侯として認められた紀元前403年から紀元前221年迄を戦国時代と呼んでいます。
戦国の名称は「戦国策」に書かれている時代に由来しています。

 戦国時代になると、春秋時代迄は衰えてはいましたが、尚も尊ばれていた周王室は全く有名無実化し、周辺の諸侯が強大化し、彼らは公然と王と称して、覇権をめぐって抗争するようになりました。各国は自国領土の拡大を目指して富国強兵に努め、その為に優れた人材を集めようと試みます。
この為実力主義の時代へ、そして下剋上の時代へと移り変わって行きますが、前述の晋が3人の有力な家臣に国を奪われた出来事は当に下剋上の典型でした。

 こうした状況のなかで、春秋時代には200を数えた国が、次第に併合され、戦国時代には7つの有力な国家に統合されて行きます。
7つの有力な諸侯国を「戦国の七雄」と呼び、東から燕、斉、韓、魏、趙、楚、秦の7カ国と成ります。
 
七雄を中心とする激しい抗争の中で、紀元前4世紀に入ると、まず魏・韓・斉等が強盛と成り、更に紀元前4世紀中頃からは秦が勃興していきます。

 秦は、当初甘粛省東部に位置し、紀元前8世紀に周の諸侯と成り、その後渭水(黄河の支流)に沿って東方に進出して行きますが文化も遅れていた後進国でした。
その後進国の秦が、紀元前4世紀の孝公(在位紀元前361年~紀元前338年)の時代に、逃亡してきた衛の国の公子商鞅(しょうおう)を用いて改革(変法)を行い富国強兵に成功し、一躍強国へと躍進していきました。

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 商鞅の変法

 商鞅は国の経済の基盤を農業におき、農地の開拓を押し進め、人民を5家・10家の単位に分け、治安維持に共同責任をとらせます(什伍の制)。
郡県制を採用し、従来の貴族による土地所有・支配を廃止して国の土地とし、中央政府の官吏を派遣して統治させ中央集権化を推進しました。
又これ等の政策を実施する為に厳しい刑法を定めました。

 孝公の死後、商鞅はその反対派に反乱を企んでいると訴えられ国を追われる身と成りました。
国境の関所の宿屋に泊まろうとした際、「商君(商鞅のこと)の法によると、旅券のない者を泊めると、私も同罪になりますので」と断られ、商鞅は「ああ、新法の弊害は、ついにこの身に及んだか」と溜息をついて立ち去り、後に捕らえられて車裂きの刑(左右の手足を2台の車に結びつけ、その車を左右に走らせて四肢を引き裂く極刑)に処せられました。

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蘇秦

 秦の強大化・東方への進出は、中原の諸国にとっては脅威の何者でもありません。
中原の六国が互いに争っていたのでは、秦に対抗できない事は明らかでした。
この時、六国が連合して秦に対抗する政策、合従(がっしょう、縦に連合する意味)策をもって諸侯を説いたのが蘇秦(?~紀元前317年)でした。
彼は洛陽の人で若い時代雄弁術を学んだのですが、貧困から郷里に帰り、親戚から嘲笑されました。発憤した彼は「錐股(すいこ)」(眠気を覚ますために、錐をもって股を刺して一心に勉強すること)して勉強を続けたのでした。

 そして六国の諸侯に 「六国が連合すれば、国土の面積は秦の5倍になり、軍隊の数は10倍になる。連合して秦を攻めれば必ず勝てる。それなのに秦に臣として仕えているのは何事か!」と説いて、ついに紀元前333年に六国の連合を成立させ、六国の宰相と成りましたが、後に張儀の連衡策が成立すると、斉で刺殺されてしまいます。

 蘇秦の合従策を破り、連衡(横に連なるの意味)策を成立させたのが張儀(?~紀元前309年)でした。
彼は魏の人で若いとき蘇秦と同じ先生に学びました。
諸侯に遊説して回った際、楚の大臣の家でご馳走に成りました。
その時、宝玉が盗難に会い、粗末な身なりをしていた張儀が疑われさんざん鞭打たれました。
家に帰ると妻から「貴方が本ばかり読んで勉強したり、遊説しなければ、こんな辱めを受ける事がなかったのに」と嫌みを言われましたが、彼は「俺の舌を見てくれ、まだあるか」と尋ね、妻が「まだある」と返事すると、「舌さえあれば十分だ」と答え、又遊説に飛び出していきました。

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張儀

 張儀は「六国が同盟しても秦には勝てない。それより秦と同盟を結び、その援助を受ける方が得策である」と説き、蘇秦の合従策を壊して行きました(紀元前311年)。
やがて秦の大臣に就任しますが、後に連衡も破れて失脚し、魏に逃れて落命します。

 戦国時代になると戦闘の様子も大きく変わってきます。
従来は貴族を主とする戦車戦が中心でしたが、戦国時代には歩兵の占める役割が増大し、武器も鉄製の武器が広まり、大きな弩(いしゆみ、ねじのような仕掛けで弓を引き絞って発射するので、貫通力が高まった)も発明されました。
更に趙の武霊王が北方の遊牧民と戦う中で、北方遊牧民族の騎馬戦術を取り入れますが、これにより戦争の様相が一変してきます。
そして各国が動員する兵力も30万人を越え、春秋時代では大国の兵力が15万人位で、 普通は2,3万人と云われていましたが、当然死傷者の数も飛躍的に増加して行きました。

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戦国時代の戦闘

 紀元前259年、秦は趙を攻めて、40万人の趙兵を穴埋めにしました。
秦はますます強盛となり、紀元前256年に周を滅ぼし、その後、秦により韓・趙・魏・楚・燕・斉の順に六国を滅ぼし、紀元前221年に初めて中国全土を統一したのは始皇帝の時の事でした。

 春秋時代の末期から戦国時代にかけて、中国の社会が大きく変化した時期でもありました。
中国史の上で、社会が大きく変化する時期が3回あります。
1回目は春秋時代の末期から戦国時代であり、2回目は唐末から五代十国の時代(8世紀後半から10世紀前半)、そして3回目は20世紀の初め清朝の滅亡から中華民国の成立の時期に成ります。

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刀貨と布貨

 春秋時代の末期から戦国時代にかけて中国社会が大きく変化した最大の理由は、中国で鉄器が使用されるようになった事でした。
中国では錫の産出が少なく、銅と錫の合金である青銅器は貴重品で、主に祭器・武器に使われ、農具としては使用されませんでした。
従って春秋時代に成っても農具は石器・木器でしたが、紀元前6世紀から紀元前5世紀頃、鉄の製法が西方から伝わると、鉄の生産は急激に増大していきました。
しかし、鉄の生産には大量の木炭が必要な為、多くの木が切られた結果、華北一帯の緑が失われていったと云われています。
多少の困難は在りましたが、鉄の生産が行われるようになりますが、初期の鋳鉄は脆く武器に適さなかった為、主に農具に使用されました。

 戦国時代には鉄製農具が一般に普及するようになり、又牛に犂(すき)を引かせる牛耕農法が発明されたことと相まって、農業生産力が急速に増大しました。
鉄製農具の使用により、1つは従来より遥かに土地を深く耕す事が可能と成り、深耕によって作物の出来が良くなり、単位面積辺りの収穫量が増えた事、2つ目は大規模な荒れ地の開墾や治水・灌漑用水路を引く事が容易に成り、耕地が飛躍的に増大しました、
これによって農業生産力が大いに高まり多くの農作物が取れるようになると、余剰が生じこの余剰農産物は当然自分の必要な物と交換されるようになり、交換経済が始まってきます。
最初は小規模で物々交換であったと思われます、
やがて規模が大きくなり、商業が盛んとなり、交換の手段として貨幣が使われるようになってきます。

 貨幣経済の発展は益々商業を、そして鍬・鎌等の農具や陶器を生産して販売して生計を立てる手工業者も現れ、更には商人や手工業者の住む都市が発展し、中国社会は大きく変化して行きました。

 貨幣として古くは貝貨(東南アジアで取れる子安貝など)が使われてきました。
その為経済に関係のある漢字には貝扁の文字が多く、貨・債・財・賃・買・貯・費・預等、沢山あります。
ところが貨幣経済の発展と共に、大量の貨幣が必要となり、新しく青銅貨幣が登場してきます。
特に有名なのが刀の形をした刀貨と農具の犂を形取った布貨です。
刀貨は主として燕・斉等で使用され、布貨は韓・魏・趙等で使用され、その他に楚で使われた蟻鼻銭(ぎびせん)や秦などで造られた中央に丸い孔(のちに四角の孔になる)のあいた環銭等が在りました。

 商工業や貨幣経済の発展は王侯と並ぶほどの富を持った富豪を生み出し、従来の農業を中心とする社会では土地が最大の財産でしたが、商工業の発達は貨幣という新しい財産形態を生み出しました。又各地に大都市が出現し、春秋時代の大都市は人口5万人程度でしたが、戦国時代になると商工業の発達により農村の人口が都市に集中し、斉の都の臨淄は人口50万人以上の世界的な大都市でした。趙の都の邯鄲(かんたん)も大都市として有名です。

 こうした社会の変化の中で、周代の封建制度を初めとする古い制度は崩壊し、それまで公有であった土地は私有となり、後に大土地所有者である豪族を生み出すことになります。

◎ジョークは如何?

 ソ連のラジオ放送は三つのカテゴリーに別れている。
すなわち、「真実」「たぶん真実」および「真実でないもの」である。
第一のカテゴリーは時報、第二は天気予報、そして第三カテゴリーには他のすべてが含まれる。

続く・・・