2014/09/29

歴史を歩く48

11東アジア文化圏の形成②

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唐時代のモンゴル、シベリア

2突厥の活動

 モンゴル高原では、鮮卑が華北に移動後の5~6世紀に、モンゴル系の柔然が強大と成り、モンゴル高原を中心に南満州からタリム盆地を支配下に置き、北魏と対立しました。
しかし、5世紀後半に支配下にあった高車が独立した後、次第に衰退し、6世紀中頃にトルコ系の突厥に滅ぼされます。

 アルタイ語族に属するトルコ人は、古くはモンゴル高原の北方、バイカル湖の南からアルタイ山脈にわたる地域で遊牧生活を営んでいました。

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突厥の兵士

 中国史に登場する丁零(ていれい、紀元前3世紀~後5世紀頃、初め匈奴に属し、後に独立、匈奴に対抗)、高車(こうしゃ、丁零の後身、柔然に属していたが、5世紀後半に独立、柔然と対立)、鉄勒(てつろく、丁零・高車の後身、隋・唐時代に中国人が突厥以外のトルコ人を呼んだ総称、バイカル湖の南からカスピ海にわたる広い地域に分布)等は何れもトルコ系民族です。

 トルコ系遊牧民のうち、アルタイ山脈の西南に居住した人々は、初め柔然に服属していましたが、6世紀中頃から強大となり、柔然を滅ぼし、モンゴル高原にトルコ人による統一国家を建国します。この国は中国では突厥(とっけつ、トルコの正しい音のテュルクの音訳)と呼ばれました。

 遊牧国家の君主はハガン(可汗)の称号を用い、国を保つ王の意味で、柔然の王が初めて用いたとされていますが、突厥の君主もこの称号を用いました。
 突厥の建国者は伊利(いり)可汗(552年~553年)と号し、その子3代の王、木杆(もくかん)可汗(?~572年)の時、ササン朝ホスロー1世と同盟しエフタル(5~6世紀に中央アジアで活躍した遊牧騎馬民族)を挟撃して滅ぼし(566年)、東は満州から西は中央アジアに跨る大帝国となりました。
そしてシルク・ロードを押さえて巨利を得て繁栄しますが、6世紀末内紛が発生、当時成立したばかりの隋の文帝はこの内紛を利用して離間を図ったので、突厥はモンゴル高原の東突厥と中央アジアの西突厥とに分裂しました(583年)。

 その後間も無く東突厥は隋に朝貢する事と成り、その後も内紛が続いたのですが、7世紀初頭の隋末の混乱に乗じて、再び勢いを取り戻しますが、630年に唐によって滅ぼされます。

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突厥文字

 19世紀末、ロシアの考古学者ニコライ・ヤドリチェフがオルホン川(モンゴル高原からバイカル湖に注ぐ川)の流域で碑文(ホショ・ツァイダム碑文)を発見し、デンマークの言語学者ウィルヘルム・トムセンによって解読されました。
この碑文は、東突厥の可汗の功績を讃えたもので、732年~735年に建てられたものであることが分かり、そこから8世紀のトルコ語を記録した突厥文字が、北方遊牧民族の最古の文字であることが明らかに成りました。
  
3唐の盛衰(その1)

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李淵

 隋末、煬帝の高句麗遠征の失敗を機に各地で農民反乱が勃発しますが、これに各地の豪族が加わり、各地に国を建て皇帝を称し、中国全土で激しい抗争が続きました。
その混乱を収め、唐(618年~907年)を建国する人物が、山西で挙兵した李淵、即ち唐の高祖(565年~635年、在位618年~626年)です。
李淵の先祖は、隋を建てた楊氏と同様に鮮卑が多く居住した武川の軍閥で、祖父は西魏、北周の「八柱国」(府兵を指揮する軍人貴族)である最高官職に就いていました。
この為、李氏は鮮卑族であると云う説も存在しています。

 李淵は7歳で父の後を継いで北周に仕え、楊堅(文帝)が隋を建てると、李淵の母が楊堅の皇后の姉にあたる(李淵と煬帝は従兄弟)ことから、隋に仕えて八柱国と成りました。
しかし、煬帝に警戒され、中央の官職に就くことは叶わず、地方長官等を歴任し、隋末の混乱期には、突厥防衛の為に山西の留守(りゅうしゅ、非常時に皇帝から文武の大権を委任された官職)の地位に在りましたが、次男の李世民(後の2代皇帝太宗)の勧めで挙兵し(617年)、突厥の援助を得て長安を占領します。

当時、煬帝は江都に在り、李淵は孫の恭帝を擁立して即位させ、煬帝が暗殺されると、恭帝に禅譲させ、唐王朝(618年~907年)を樹立し、首都を長安に定め、唐の基礎を固めました。

 しかし、唐は成立しましたが、未だ長安の地方政権にすぎず、各地には皇帝を称する群雄が割拠し、唐は群雄平定に10年近くの歳月を費やし、次の太宗の時代にやっと中国統一を達成しました(628年)。この間、次男の李世民の活躍は目覚しく、皇太子であった長男の李建成はこれを妬み、三男の李元吉と結んで李世民暗殺を企てますが、反対に殺さます(玄武門の変、626年)。

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李世民

 これを見た高祖は、李世民に譲位し、李世民は即位して太宗(在位626年~649年)となり、年号を貞観(じょうがん)と改めました。
太宗の治世は「貞観の治」と呼ばれ、房玄齢や杜如晦(とじょかい)らの名臣に補佐されて、国内はよく治まり、理想的な政治が行われた時代とされます。
唐は、隋の制度をほぼそのまま継承し、高祖、太宗の2代にわたって律令体制を整備、確立しました。

 中央官制としては、三省・六部(りくぶ)を置き、ここで三省とは中書省(詔勅の立案・起草を司る)・門下省(詔勅の審議を行う、修正や拒否の権限があったので、貴族勢力の牙城となった)・尚書省(詔勅を実施する行政機関)であり、尚書省の下に、吏部(官吏の選任を担当)・戸部(財政を担当)・礼部(祭祀、教育を担当)兵部(軍事を担当)・刑部(裁判を担当)・工部(土木を担当)の六部が置かれました。
そして官吏の監察機関として御史台(ぎょしだい)が置かれました。

 又、地方統治制度としては州県制を施行し、全土を10道に分け(627年)、その下に州(隋、唐は従来の郡を廃して州とした)、県を置き、長安、洛陽、太原の重要都市には府を設置しました。

 唐は律、令(れい、りょう)を整備し、成文法に基づいて政治を行うしくみ、いわゆる律令体制を完成しました。
律は刑法、令は行政法ないし民法典を意味します。
他に補充改正規定である格(かく、きゃく)と施行細則である式が存在し、この律令体制は日本をはじめ東アジア諸国に大きな影響を及ぼしました。

 官吏任用制度としては、隋で始まった科挙制を受け継いで強化します。
唐代の科挙科目には秀才、明経、進士、明法、明算等が在り、唐初期には政治についての意見や時事問題についての対策等の論文を課す秀才が最高のものとされましたが(学才を持つ人を秀才と呼ぶ語源)、中期以降は明経と進士が主要な科と成りました。

 明経は儒教の古典である「五経」が課せられ、進士は文章と詩賦によって作文能力をためすものでした。
次第に進士が重視されるようになり、合格者は将来の栄達が約束されたも同然でですが、当然、狭き門となり、進士科の毎年の合格者は、1000~2000人の応募者に対して10人前後であったと云います。

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東突厥討伐

 対外的には、それまで北方で強大な勢力を持ち、隋・唐にとって脅威であった東突厥を討って可汗(かかん、突厥の王の称号)を捕虜としました(630年)。
当時、異常気象が突厥の地を襲い、連年の雪害で大量の家畜が死に、可汗が税を厳しく取り立てたために諸部が離反した時に乗じて討伐軍を派遣し、可汗を捕虜とする大勝利を得て、長年の北方の脅威を取り除くことに成功し、後に安北都護府を置いて統治します。

 更に青海地方にあった吐谷渾(とよくこん)を服属させ(635年)、639年には中央アジアのトゥルファン地方にあって栄えていた漢人系の高昌(こうしょう)に遠征軍を送り、640年にこれを滅ぼし、安西都護府を設置して(640年)西域地方を支配下におさめました。

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文成公主

 当時、チベットにソンツェン・ガンポ(?~649年)が出て、640年頃迄にチベット高原全体を征服して吐蕃(とばん)を建国、唐の西辺に侵入しました。
そのため唐の太宗は、文成公主(?~689年)を降嫁させ(641年)、親和関係を成立させます。
文成公主は唐と吐蕃の和平に尽力し、又中国の文物がチベットに入るきっかけをつくるなどの功績により、現在もラマ教(チベット仏教)の尊像に刻まれてチベット人に敬愛されています。

 東方では高句麗遠征を行ますが(645年)、これは大失敗に終っています。

 太宗時代に度々の対外遠征により、唐の領土は拡大し、大帝国となり、次の高宗の時代に唐の領土は最大と成りました。

ジョークは如何?

シベリアの強制収容所にて。
「きみは、どうしてここにいるんだい?」
「1939年に同志ポポフの悪口を言ったからさ。で、きみは?」
「ぼくは1943年に同志ポポフを誉めたからだよ」
二人はもう一人の囚人に問いかけた。
「きみは?」

「私はポポフだ」


続く・・・
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2014/09/26

歴史を歩く47

11東アジア文化圏の形成

アメーバブロクを利用されている皆様へ

グーグルクロームが、アメーバブロクを一切受け付けなく成り、こちらからの返信も出来なく成りました。
復旧しましたら、改めて訪問させていただきます。


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煬帝時代の版図と周辺諸国・諸民族:Wikipediaより

1 隋の統一

 隋の建国者である楊堅(文帝、541年~604年、在位581年~604年)の父は、北周建国の功臣の一人で重臣でした。
楊堅は父の後を継いで、北周の将軍から最高官職である「八柱国」(府兵を指揮する貴族)となり、娘が北周4代皇帝宣帝の妃となったため外戚と成ります。
そして宣帝崩御の後、幼い静帝が即位すると後見となり、これに反対する政敵を倒し、静帝に迫って禅譲させ、隋王朝(581年~618年)を開きました。

 尚、楊堅には鮮卑族の血が濃いとの説が在ります。
都は前王朝に引き続いて長安とし、その名を大興城と改め、588年南朝陳討伐の軍を起こし、翌589年に陳を滅ぼし、西晋の滅亡以来、約270年ぶりに中国を統一を果たしました。

 文帝は、魏、晋、南北朝以来勢力を伸ばしてきた貴族の権力を弱め、皇帝の権力を強化し、中央集権的国家の樹立を図って行きます。

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楊堅(隋王朝初代皇帝 文帝

 その為、北朝の律令制度を継承しながら国家体制の整備を推進し、まず軍事面では府兵制を全国に実施しました(590年)。
府兵制は、西魏に始まり北周で行われた兵農一致の兵制で、均田農民から徴兵し、かわりに租庸調を免じる制度です。

 更に経済面では、北斉に倣って、北魏以来の均田制をまず華北で、次いで全国で実施します(592年)。18歳~59歳の丁男に露田80畝・永業田20畝を支給し、租庸調の税を徴収しましたが、煬帝の時に北魏で行われていた妻や奴婢への給田を廃止し、官位に応じて官人永業田を与える制度に改めます。
これにより豪族、貴族は大土地を所有し、権威を保つためには隋の官位に就かなければならなくなりました。

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科挙試験の風景

 文帝が行った改革の中で最も重要な政策は、従来の九品中正にかわって科挙(選挙、官吏を選択推挙するの意味)と呼ばれる官吏任用制を始めたことです。

 中正官の推薦による九品中正では「上品に寒門なく、下品に世族なし」といわれたように、上級官職を豪族が独占し、家柄は良いが無能な官吏がのさばり、家柄の低い貧しい家の才能ある者の進出を妨げることになったので、中正官を廃止し(598年)、学科試験の成績によって官吏を採用し、官吏への道を能力に応じて平等に開き、豪族、貴族による高級官職独占の弊害を除き、君主権の強化を図ったのです。

 南北を統一した隋は、江南の米をはじめとする物資を運ぶために運河の開削を始め、文帝時代の584年に広通渠(長安と黄河を結ぶ運河)、更に587年に邗溝(淮河と長江を結ぶ運河)が開通します。是等運河延伸を更に大規模に行ったのが、次の煬帝です。

 対外的には、当時北方で突厥が強大と成っていましたが、文帝は内紛に乗じて離間策をとり、そのため突厥は東西に分裂 (583年)、東方では高句麗が隋領に侵入してきたことを口実に30万の遠征軍を送りますがこの作戦は大失敗に終わります(598年)。

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煬帝

 文帝は、当初長男の楊勇を皇太子として指名していましたが、武将として優れた才能を持っていた次男の楊広は母に取り入り、兄を皇太子の位から追い落とし、自ら皇太子と成ります(600年)。
しかし、文帝が再び長男の勇を皇太子に立てようとしたことから、楊広は機先を制して父を毒殺し皇帝の位に就いたと言われています。
楊広は中国史上にその名前を残す第2代皇帝、煬帝(569年~618年、在位604年~618年)と成ります。

 煬帝の煬は「天に逆らい、民を虐げる」の意味であり、上述の通り父を毒殺したとの説もあり、人民を酷使し、豪奢な生活を営なむ等、暴君とされ、中国史上の評判は余り良くは在りません。

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隋朝時代の運河

 煬帝は即位すると、毎月200万人を使役して洛陽に東都を造営しました。
 煬帝は大運河の建設と結びつけて語られることが多いですが、大運河建設は煬帝の業績の中で最も有名であり重要な政策で、大運河は、幅30m~50mの水路で華北と江南の各地を結び、当時次第に開発が進み米作の中心となってきた江南(長江の中・下流域)の米を中心とする物資を、人口が多い華北へ運ぶために建設され、全長1500kmに及ぶ大運河は以後華北と江南を結ぶ大動脈となり、中国経済発展に大きく貢献し、現在もなお人々に恩恵を与えています。
大運河の建設は、既に文帝の時に始まっていましたが、大規模な建設を進め完成させたのが煬帝です。

 煬帝が大運河を建設したのは、物資の輸送が主目的ではなく、彼が好んだ江都(揚州)への豪遊のためであるとも云われていますが、真実は解りません。

 最初100万人を動員して黄河と淮水を結ぶ通済渠(つうさいきょ605年)を開削し、既に開通している邗溝を通って黄河と長江が結ばれることと成り、次いで永済渠(えいさいきょ、黄河~天津608年)、江南河(長江~杭州610年)が開通しました。

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煬帝の龍船を引く民

 通済渠が開通すると、最初の江都行幸が行われ、その時使用された煬帝の「竜舟」は長さ200尺(約60m)、高さ45尺、4層づくりで100数十の部屋が設けられ、更に諸王、百官、女官等10万人の随従の人々を乗せた舟が数千隻が続き、200里(1里は約560m)の列をなしたと云われています。
この為に舟の引き手として8万人が農村からかり出された、この江都行幸は3回行われますが、3度目の時煬帝はその地で殺害されます。

 煬帝は対外的にも積極策を取り、北方の突厥に備えて「万里の長城」を修築しますが、この為に100万人の男女を徴発し、突貫工事で完成させ、又西の吐谷渾(とよくこん、青海省を中心に鮮卑系の人々が建てた国)を討って青海地方を併合し、西域諸国へも勢力を伸ばしました。
更に南の林邑(ヴェトナム南部にあったチャム人の国)を討ち、琉球(現在の台湾)を征服します。

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遣隋使派遣

 この頃、聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣し (607年)、その時の国書に「日出(い)づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや、云々」の文書に、煬帝が怒ったと云う話は有名です。

 高句麗は、周辺諸国が朝貢する中で、煬帝の入朝の要求に従わなかったことから、突厥と結ぶことをおそれた煬帝は大規模な高句麗遠征を強行します。

 第1回の遠征(611年)には、113万人を越える水陸の大軍が集められ、輸送にあたる者230万人が徴発され、行軍の長さは1000里にも達したと云われる程ですが、陸軍は遼河(遼東半島の西の河)の線で高句麗軍の頑強な抵抗に遭遇し6ヶ月も前進できず、一方水軍は陸軍の到着を待たずに高句麗の首都平壌から60里まで迫ったものの伏兵に遭遇して大敗、4万の兵は数千に迄消耗しました。

 遅れて陸軍が平壌から30里まで迫った結果、高句麗は偽りの降伏を行い、やがて隋軍が撤退をはじめた処を強襲して大勝利を得ることに成りますが、隋軍30万5千のうち遼東まで脱出できた者はわずか2700人だったと伝えられています。

 翌年(612年)、第2回目の遠征が行われますが、遼河を渡ったところで隋内地に楊玄感の反乱が起こり、全軍が反乱討伐にあたり2ヶ月で鎮圧します。
第3回の遠征が614年に行われ、今回は高句麗が実際に降伏したことから、軍は遼東から引き上げた。
 
 高句麗遠征の失敗を機に、大土木事業や度重なる外征に徴発されて苦しんでいた農民が立ち上がり、各地で反乱が相次ぎ、こうした状況の中で自暴自棄となった煬帝は江都に移り(616年)、遊興にふける日々を送ることに成ります。
617年に李淵は長安に入り、煬帝の孫を擁立、終にクーデターが起こり、煬帝は近衛軍の兵士に殺され(618年)、隋は滅亡しました。

ジョークは如何?

ウィストン・チャーチルの言葉より、

「期待される政治家とは、明日なにが起きるかを、国民に予告できなくてはならない。そして、次の日、何故自分の予言通りにならなかったかを国民に納得させる能力がなくてはならない。」


続く・・・

2014/09/24

歴史を歩く46

10 北方民族の活動と中国の分裂④

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5 朝鮮・日本の形成

 朝鮮の歴史は、伝説的王朝である箕子(きし)朝鮮(?~紀元前190年頃、殷が滅亡した時、王族の箕子が朝鮮に入って建国したと伝えられる)と衛氏朝鮮(紀元前190年頃~紀元前108年、燕から亡命した衛満が箕子朝鮮に仕え、紀元前190年頃にその国を奪って建国したといわれる)に始まります。

 前漢の武帝は、紀元前108年に衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の4郡を設置しました。
以後約400年にわたって中国の支配が続きます。

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広開土王

 高句麗(?~668年)は、ツングース系(中国東北地方、東シベリアで狩猟・牧畜を主業としていた民族)の夫余(扶余)族が紀元前後の頃に、中国東北地方に建てた国です。
高句麗は、後漢末に、当時遼東半島で自立した公孫氏の討伐を受けて、鴨緑江中流域の北に移り(209年)、丸都城を築きますが、公孫氏を滅ぼした魏(220年~265年)の遠征軍に丸都城を奪われ(244年)、国王は東方に逃れました。
その後国力を立て直し、中国の混乱期に乗じて、313年に楽浪郡を滅ぼし、朝鮮北部を領有、そして高句麗は第19代の王、広開土王(好太王、在位391年~412年)、長寿王(在位412年~491年)、文咨王(在位491年~519年)の3代の時に最盛期を迎え、半島の大半と遼東を領有する強国と成りました。

 広開土王は、396年以来4度にわたって朝鮮半島南部に遠征し、百済を攻め、百済救援に北上した日本軍を撃破します。
この物語が有名な好太王(広開土王)碑文に書かれており、倭(大和政権)が朝鮮半島に進出していたことを裏付ける史料とされてきました。

 朝鮮半島南部では、3世紀頃、韓族の馬韓(南西部)、辰韓(南東部)、弁韓(南部)が分立し、総称して三韓と呼ばれ、三韓の内部は更に多数の小国に分かれ、楽浪郡、帯方郡の間接的支配を受けていました。

 3世紀頃には56の国に分かれていた馬韓は4世紀中頃統一され、百済(4世紀中頃~660年)が成立、3世紀頃12の国に分かれていた辰韓は4世紀中頃に統一され、新羅(4世紀中頃~935年)が成立しました。

 弁韓は、3世紀頃には12の国に分かれていたのですが、4世紀中頃日本が進出し、任那(4世紀後半~562年、加羅(から)・伽耶(かや)とも)を支配下に置きます。

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4世紀頃の朝鮮半島

 こうして4世紀から7世紀にかけて、朝鮮には高句麗、新羅、百済の三国が分立し、抗争を続けたので三国時代と呼ばれます。

 6世紀にはいると百済、新羅が勢いを強め、南方の任那(加羅)諸国を次々に支配下に入れたので、大和政権は任那(加羅)に持っていた勢力の拠点を失い、朝鮮半島から事実撤退します(562年)。

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 有名な「魏志倭人伝」(「三国志」の一つ、「魏志」の「東夷伝」の倭人の条の通称)に「倭人は帯方郡の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧(もと)百余国、漢の時朝見(朝貢し謁見するの意味)する者有り。・・・其の国、本(もと)亦(また)男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴(へ)たり。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼という」と記述されています。

 邪馬台国の卑弥呼は239年に、魏の皇帝に使いをおくり、「親魏倭王」の称号と多くの銅鏡を贈られました。

 4世紀に入ると大和政権による統一が進み、5世紀には朝鮮半島における政治的、軍事的立場を有利にするために、中国皇帝の権威を利用しようと試み、そのために倭の五王はたびたび中国の南朝に使いを送り、皇帝から高い称号を得ようとしたのです。

 倭の五王とは、中国の史書に出てくる讃、珍、済(せい)、興、武で、讃は応神天皇、仁徳天皇、履中天皇、珍は仁徳天皇、反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇にあたると考えられています。
5世紀の初めからほぼ1世紀の間に9回朝貢した記録が「宋書」などの史書に残されています。

 このような朝鮮、中国との交渉を通じて、5世紀から6世紀にかけて鉄器、土器を初めとする技術や漢字、儒教(513年)・仏教(538年、一説には552年)などの学問、宗教も伝わり、文化が進みました。   

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邪馬台国(イメージ)

ジョークは如何?

『人類の戦いの歴史において、かくも多くの人が、かくも多くのことを、かくも少ない人に委ねたことはいまだかつてなかった。』
 この有名な言葉のシャレが当時のパイロットたちの間ではこんなふうにささやかれた。『多くのことを、少ない人にってのはな、

戦死する前に飲み屋のツケを払っておけってことだよ。』

続く・・・


2014/09/20

歴史を歩く45

10 北方民族の活動と中国の分裂③

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4 六朝時代の文化

 魏、晋、南北朝時代の文化に関して最も重要なことは、中国において仏教が社会一般に普及したことでした。

 仏教の伝来については、従来は「後漢の明帝のとき(67年)、二人のインド僧が中国に仏教を伝え、洛陽に白馬寺が建てられた。」とされていましたが、最近は「紀元前2年、前漢時代、長安の朝廷へ大月氏王(クシャーナ朝)の使節が来朝し、仏陀の教えについて語った。」 と云う記録から、年表等にも紀元前2年と記述されていますが、紀元前後の頃に西域から伝えられたと考えてよいと思います。

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 しかし、当初は一部の人々の間で外国趣味として扱われ、シルク・ロード周辺を中心とした西域の人々に信仰されていたに過ぎませんでした。

 後漢末から五胡十六国時代、明日の命さえ知れない混乱、戦乱が続く中で人々は否応なしに死について考え、救いを求めました。
こうした状況の中で仏教が人々の心を捕らえ、4世紀後半から民衆の間にも広まって行きました。

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仏図澄

 仏教が急速に盛んとなっていく上で大きな役割を果たした人物が仏図澄(?~348年)です。
仏図澄は西域の亀茲(きじ、天山山脈南麓のオアシス都市、仏教が盛ん、付近にキジル千仏洞が存在)に生まれ、本名はブドチンガ、310年に洛陽に来て、後趙(五胡十六国の一つ、羯族が建てた国)の石勒と石虎(暴虐な王として有名)の信頼を得て、混乱の華北で仏教を広めました。
寺院893カ所を建立し、その門下生は1万人に達したと云われています。

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鳩摩羅什

 仏図澄と同じ亀茲の出身で、仏典の漢訳に大きな功績を残した人物が鳩摩羅什(くまらじゅう、344年~413年)、本名クマラジーヴァ、父はインド人、母は亀茲王の妹で熱心な仏教徒でした。
7歳で出家し、中央アジア、インドで仏教の教理を学び、前秦、苻堅の亀茲遠征時に捕らえられ涼州(甘粛省)に移り、その地で中国語を学びました。
後に後秦王の国師として長安に迎えられ(401年)、布教に努めると共に「妙法蓮華経」をはじめとする仏典35部294巻を漢訳しています。

 以後、仏教は華北に於いて北魏朝廷の保護を受け(太武帝は弾圧しましたが)盛んとなり、又東晋から南朝にかけて、江南でも仏教は非常に盛んでした。
多くの仏寺、仏像が造営され、僧尼の数は激増し、特に南朝の梁の武帝は仏教に傾倒し、多くの名僧が輩出して南朝仏教の黄金期を現出しました。

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法顕

 東晋の僧、法顕(337年?~422年?)は出家生活に必要な戒律の原典を求める為に、60余歳の老齢で数人の同志と共に長安を出発 (399年)、敦煌を通り6年かかってインド(グプタ朝)に入り、仏跡を巡拝し、仏典を得てセイロン(現スリランカ)に渡り、インド、セイロンに約5年滞在した後、海路帰国の途につき412年に帰国します。
帰国後は仏典の漢訳に従事し、その旅行記「仏国記」は、当時の西域、インド、南海諸国(東南アジア)の事情を知る上で貴重な文献と成りました。

 仏教の隆盛と共に仏寺、仏像が盛んに造られ、又各地に石窟、石仏が掘られましたが、特に敦煌、雲崗、竜門の各石窟は中国仏教遺跡として有名です。

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敦煌莫高窟

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敦煌・莫高窟第112窟壁画「反弾琵琶」. 唐(618~907年). 胡旋舞を踊る舞人

 敦煌莫高窟(千仏洞)は五胡十六国時代の366年頃から鳴沙山の麓で開鑿され始め、元代(14世紀)迄の間に約1000窟が掘られ、492窟が現存しています。
仏像が約2400体、壁画(仏画、仏陀の生涯、仏陀の伝説等)が約4万5千平方メートルにわたって描かれており、1900年にその一窟の壁の中から5万点に及ぶ経典類、古写本、古文書が発見されました。
何故大量の経典等が窟の壁の中に隠されていたのかは、現在でも謎ですが11世紀の西夏の侵入による兵乱を避け、仏典を守る為に隠したとの解釈で書かれた作品が、井上靖氏の「敦煌」で、映画化されましたので見られた方も多いことでしょう。

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雲崗石窟の第5・6窟

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雲崗石窟第20窟 露天大仏

 雲崗石窟は、鮮卑族が建国した北魏初期の都があった平城(現在の大同)の西20kmの所に位置する大石窟寺院で、3代太武帝の廃仏(仏教弾圧)の後に即位した4代文成帝(在位452年~465年)が仏教を復興し、5窟の大仏を造らせてから、6代孝文帝が洛陽に遷都する(494年)迄に大小53の石窟が東西1kmにわたって造営され、ガンダーラ、グプタ様式の影響を受けた仏像が並んでおり、特に有名な大仏は高さ14mに達します。

 孝文帝の洛陽遷都の後、孝文帝の子、宣武帝が雲崗の石窟にならい、洛陽の南13kmの伊水に沿う竜門に、父と曾祖母の為に2窟を開き、更に自らの為に1窟を開きました。
完成に23年間、80万人の労働力が投じられたと云われています。
以後、唐の玄宗皇帝(在位712年~756年)迄の約250年間に2100余の石窟が開かれましたが、その仏像様式は雲崗に比べると中国化しています。
 
 仏教の隆盛に刺激され、この頃道教が成立しました。
道教は後漢末の太平道(黄巾の乱の指導者である張角が始祖)や張陵の始めた五斗米道(天師道、祈祷によって病気を治し、謝礼に米5斗を取った)を起源とし、それに当時貴族の間に流行していた不老長生を願う神仙術と老荘思想、更には易、呪術、占卜等の様々な要素を含む宗教です。

 北魏の寇謙之(363年~448年)は、河南省嵩山(すうざん)に20年間篭って修行し、天神の啓示を受けて、今迄の五斗米道を改革して新天師道を創始し、太武帝の尊信を受けて、道教を国教とし (442年)、更に太武帝に廃仏を行わせました。

 道教は初めて国家公認の宗教となり、形式も整えられ、道士(道教の僧)・道観(道教の寺院)等の言葉や教団組織が確立されます。
道教の不老長生と現世的利益を願う教えが中国人に受け入れられ、以後長く民衆に信仰され、儒教、仏教と伴に中国の三大宗教のひとつと成りました。

ジョークは如何?

市民たちは密告やささいな咎で次々に逮捕、処刑され、だれもが次は自分の番だと恐れおののいて暮らしていた。

ある晩のことアパートをドンドン叩く音がして、その住人は震え上がり声も出ないようすで誰もドアを開けることができなかった。
とうとう、ひとりの老人が立ってドアを開けた。そして、すぐにうれしそうな顔で戻ってきて言った。

「みんな、安心しろ。ただの火事だ。」


続く・・・

2014/09/15

歴史を歩く44

10 北方民族の活動と中国の分裂②

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江南地方の風景

2 五胡十六国と南北朝その2

 一方、江南では司馬睿によって建国された東晋(317年~420年)が約100年間続き、この間華北の五胡十六国の戦乱を避けて、華北の漢人の貴族、豪族をはじめ多くの農民も江南に移住してきました。この為、江南の人口は急激に増加し、華北との人口比率もほぼ1:1に成りました。

 華北を五胡に奪われ、江南に移住、定着した漢人は江南の開発を進めた結果、三国の呉以後、長江の中・下流域では土地の開墾、灌漑用水路が引かれ、耕地が拡大し、水田耕作が普及して農業生産力が急速に増大したことにより以後、中国の経済の中心は江南に移っていくことと成ります。

 東晋の皇帝は、華北から移住してきた名門貴族と土着の豪族との対立、調整に苦心しました。
東晋では皇帝の力が弱く、華北の名族出身の王氏や桓氏の政権争いが続き、その間北方の五胡の侵略にも苦しめられ、特に前秦の苻堅の南下は最大の危機でしたが、淝水の戦い(338)でこれを撃退しています。

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劉裕後の武帝(在位420年~422年)

 東晋末期に道教教徒の孫恩が指導する民衆の反乱が起こり、これに乗じて軍閥の桓玄が帝位簒奪を試みましたが、軍人の劉裕(356年~422年)が桓玄を討って安帝を復位させ政治の実権を掌握します。
後に安帝を暗殺し恭帝(東晋11代、最後の皇帝)を擁立、翌年に禅譲によって帝位につき、建康(現在の南京)を都として、宋(420年~479年)を建国し、宋の武帝(在位420年~422年)と成りました。

 宋は、439年に華北を統一した北魏の圧迫を受け、やがて皇族、武将の反乱が続く中で武将の蕭道成(しょうどうせい)が実権を握り、順帝から禅譲を受けて斉を建国、宋は8代約60年で滅びます。

 斉(せい、479年~502年)も皇族の蕭衍(しょうえん)に国を奪われ7代で滅びました。

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蕭衍後の梁、武帝(在位502年~549年)

 梁(りょう、502年~557年)の創始者である武帝(蕭衍、在位502年~549年)の48年間にわたる治世は南朝及び南朝文化の最盛期でしたが、末年に侯景(東魏の武将、梁に帰属したが、後に反乱を起こし、建康を陥れ、国号を漢と称し、後に敗死)の乱が起こり大打撃を受け、武帝の死から僅か8年後に武将の陳覇先に滅ぼされます。

 梁を滅ぼし、陳(557年~589年)を建てた陳覇先(ちんはせん、武帝、在位557年~559年)は微賤の出でしたが、侯景の乱に功があり、後に禅譲を受けて即位します。
陳は5代続いて隋に滅ぼされ (589年)、その滅亡によって南朝が終わり、隋による中国の統一が達成されたのでした。

 宋、斉、梁、陳の4王朝をまとめて南朝(420年~589年)と呼び、華北で興亡した北魏以後の5王朝と江南の4王朝が併存し、対立した時代を南北朝時代(439年~589年)と呼びます。

 後漢が滅び、三国が分立した時代から隋によって統一されるまでの約370年間を魏、晋、南北朝時代(220年~589年)と総称します。

3 大土地所有の発達

 中国では、大土地所有制が漢代から盛んとなり、広大な土地と多くの奴婢(奴隷)や小作人を使って耕作させる豪族が各地に現れました。

 彼等は、前漢の武帝の時代に始まった郷挙里選と呼ばれる官吏任用制を利用して官職を独占するようになり、経済的、社会的のみならず政治的にも力を持つようになり、地方の実力者と成っていきます。

九品中正
九品中正法の概念

 豪族は後漢末から魏、晋、南北朝を通じて、各地で益々力を強め、三国の魏の文帝は、豪族の子弟ばかりが推薦される等の弊害が目立ってきた従来の郷挙里選に代わって九品中正と呼ばれる官吏任用制を始めます(220年)。

 九品中正(きゅうひんちゅうせい)は中央から任命される中正官と呼ばれる役人を州郡に置き、中正官が郷里の評判によって人物を九品(9段階)にわけて中央に推薦し(これを郷品(きょうひん)という)、中央では郷品に基づいて相応する官職に任命するという官吏任用制で、魏、晋、南北朝を通じて行われました。

 郷品に基づいて相応する官職に任命するやり方とは、官職を上・中・下に分け、更にその中を上・中・下に、計9段階に分ける、そして上の上を一品とし、下の下を九品とした。そして丞相や大将軍を一品とし、大臣級は三品、地方長官は四品と決めておき、三品に推薦された者は4ランク下の七品の役に任命され、累進すれば最後は三品の役に就くようにしました。
尚ここから上品、下品の語が生まれたと言われています。

 この九品中正の鍵を握るのは中正官です。
彼等がしっかりした人物評定をすれば、優れた人物がふさわしい地位・官職に就けるのですが、そこに賄賂や情実等が入り込み、人物評定が正しく行われないことになれば本来の役割を果たさなくなってしまいます。
ところが当時は豪族の全盛時代で中正官に就任する人物は、殆どその地方の豪族であった為に、結果的には豪族の子弟が上級官職を独占する事となりました。

 「上品に寒門なく、下品に勢族なし」という有名な言葉が有りますが、寒門は貧乏で社会的に無力な低い家柄のことであり、勢族は有力な豪族の意味なので、つまり貧乏で低い家柄の人はどんなに才能があっても上品に推薦されず、従って高い官職につけない、下品に推薦されている人の中には勢族の人は見あたらない、豪族の子弟は才能がなくても上品に推薦され高い官職に就くことが出来た、豪族が高級官職を独占した様子をなげいた言葉なのです。 
この様にして中央に進出して政治的権力を握り、上級官僚の地位を世襲的に占めるようになった豪族達を、この頃から貴族と呼ぶ様になりました。
魏、晋、南北朝から次の隋、唐の時代は当に貴族の時代であったのです。

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屯田制(イメージ)
  
 後漢末から五胡十六国時代の戦乱や豪族による土地兼併によって土地を失った農民は流民となって各地を彷徨い、或いは豪族の奴婢と成って行きました。
このことを放置すれば、国家が直接支配する土地と人民を減少させ、軍事面での破綻や税収の減少にともなう国家財政の破綻を引き起こすことになるので、各王朝は何とかして豪族の大土地所有を抑えようとして様々な対策を行ったのです。

 三国の魏は屯田制を実施しました。
屯田制は国家が耕作者の集団を置いて官有地を耕作させる制度で、軍屯と民屯があります。
軍屯はおもに辺境の軍隊が食糧を自給する為に、兵士とその家族が耕作する方法であり、民屯は農民に官有地を耕作させる方法でした。
魏の曹操は一般の農民を招いて耕作させ、収穫の5~6割を納めさせ、これは魏の有力な財源となり、魏の経済力を増大させたのです。

 西晋は占田・課田法を採用します。
これは武帝が呉を滅ぼして天下を統一した直後(280年)に発布した土地制度で、占田は土地所有の最高限度を定めたもので、男子70畝、女子30畝とされましたが、官人には官職や位階(一品から九品)に応じて50頃(けい、1頃は 100畝=約5.5ha)から10頃の所有が認められました。
課田は農民に官有地や戦乱による無主の土地を割り当てて耕作させたものといわれています。
占田・課田法については内容や実施の程度などはよく分かっていませんが、大土地所有の制限と税の確保を目的としたものであることは間違いないでしょう。

 東晋に始まり南朝で行われた政策に土断法があります。
これは当時、華北の戦乱を逃れて多くの農民、流民が江南へ移動してきたものの、彼等は戸籍につかず、租税を納めず、豪族の私有民(奴婢)となる者が多かった為、彼等を現住地の一般の戸籍に登録させた政策でした。

 北魏では均田制が行われ、第6代皇帝の孝文帝が実施した均田制は、土地所有額を制限し、国家の土地を貸し与え、国家による土地と人民の支配および税収の確保を図った制度でした。
北魏が与えた土地には露田(穀物を栽培する土地)、麻田(麻を作る田)、桑田(桑を植える田)があり、露田と麻田は死亡又は70歳で返還しなければ成りませんでしたが、桑田は世襲され、丁男(15~69歳)には露田40畝、麻田10畝、桑田20畝が支給されました。

 尚、北魏では妻(丁男の半分が支給された)、そして奴婢(丁男と同じ)や耕牛(1頭につき30畝、4頭まで支給)に迄、土地が支給された結果、豪族には大変有利な政策だったのです。

 均田制によって土地を支給された均田農民には租(穀物)・調(特産物)・役(労役)の税が課せられました。
良く知られているように、この北魏の均田制は隋、唐に受け継がれて行くことになりますが、各王朝が行った大土地所有抑制政策は、国家が農民を確保するにはある程度役に立ったのですが、豪族の大土地所有を抑制するうえではほとんど無力で効果はなく、豪族は前述の九品中正を利用して中央政界に進出して政治的権力を握り、貴族階級を形成していくことに成ります。

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江南地方の風景②

ジョークは如何?

国会の答弁が面白くなかった時にウイスキーを飲んでいて、見つかった時にチャーチルは

「こんなくだらない議論より私は国家に貢献している。何よりも酒税を払って。」

と話した。


続く・・・

2014/09/12

歴史を歩く43

10 北方民族の活動と中国の分裂②

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五胡十六国時代

1三国と晋その2

 武帝は統一の直後に占田・課田法と呼ばれる土地制度を施行しました。
武帝の死後(290年)、恵帝(290年~306年)が即位したものの暗愚で、外戚の政権争いが頻発、これに乗じて八人の王(王に封じられていた司馬一族の者)が政権をめぐって争う八王の乱(290年~306年)が起こります。
このとき諸王が周辺民族の兵力を利用した結果、五胡の侵入を招く事態となりました。

 五胡とは、当時中国の北辺又は西北辺で活躍していた匈奴、鮮卑、羯、氐、羌の5族を指しています。

 匈奴は、前漢末の紀元前1世紀中頃に東西に分裂し、分裂後、西匈奴は漢と東匈奴に滅ぼされ、更に東匈奴は後漢初頭の48年に南北に分裂、分裂後、北匈奴は後漢の攻撃を受けて中央アジア方面に移動し、更に西進してヨ-ロッパに進出、ゲルマン民族の大移動の発端をつくったフン族は北匈奴であるとの説が有力です。

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八王の乱

 一方の南匈奴は後漢に服属して長城付近に定着し、その南匈奴の劉淵は八王の乱に乗じて漢(後に前趙と称す、304年~329年)を建国しました。

 劉淵は、308年に皇帝を称し、洛陽攻略をめざしましたが、その直前に死去(310年)、子の劉聡の時に、洛陽を陥れ(311年)、懐帝(武帝の子、晋の第3代皇帝)を捕らえ、更に316年には長安の愍帝(びんてい、武帝の孫、晋の第4代皇帝)を降して西晋を滅ぼします。
この匈奴を主とする兵乱を当時の年号から永嘉(えいか)の乱(307年~312年)と呼ばれます。

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司馬睿(元帝)

 司馬懿の曾孫にあたる司馬睿(しばえい、元帝、在位317年~322年)は、当初琅邪(ろうや、山東半島)王でしたが、八王の乱を避けて江南(長江の中・下流域)に逃れ、西晋が滅ぼされると土着の豪族と華北から移住してきた名門貴族の支持を受け、皇帝に即位し東晋(317年~420年)を建国し、晋を復活させ、都を建康(現在の南京)に置きました。

2 五胡十六国と南北朝

 西晋末、匈奴兵の乱(永嘉の乱)をきっかけに、中国の北辺や西辺からモンゴル系又はトルコ系の匈奴、鮮卑、匈奴の別種族である羯、チベット系のてい(氏の下に一)、羌が一斉に華北に侵入し、相次いで国を建て、この匈奴、鮮卑、羯、氐、羌を五胡と呼びます。

 華北では、4世紀初頭から5世紀初頭迄の約100年間に、匈奴の劉淵が建てた前趙(304年~329年)を初めとして13の国が五胡によって建国されました。
これに漢民族の建国した3つの国を合わせて五胡十六国と言い、この時代を五胡十六国時代(304年~439年)と呼びます。

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淝水の戦い

 この間、チベット系の氐族が建国した前秦(351年~394年)第3代目の王、苻堅(在位357年~385年)は、漢人宰相を用いて内政を整え、華北を統一し、中国の統一をめざして100万と称する大軍で南下したものの、淝水の戦い(383年)で東晋軍に大敗し、以後国内は分裂、その結果鮮卑族の勢力が増大します。

 鮮卑族は、モンゴル高原の遊牧民で匈奴に服属していましたが、匈奴滅亡後の2世紀に一時統一されモンゴル高原で強大な勢力を誇りました。
その後、再び分裂し各地に諸部族が割拠し、五胡十六国時代には、諸部族の一つの慕容氏等が華北に侵入し、4世紀以後16国のうちの5つの国を建国します。

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拓跋圭

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北魏の版図

 鮮卑族の一部族である拓跋氏は2世紀後半から鮮卑の中心氏族となり、拓跋圭(371年~409年、道武帝、在位386年~409年)の時、前秦崩壊に乗じて拓跋部を統一し、魏王の位に就きます(386年)。後に華北に侵入、制圧し、平城(現在の大同)に遷都、国号を北魏(386年~534年)と称し(398年)、部族制を解散して中国的王朝を創始しました。

 北魏第3代皇帝の太武帝(在位423年~452年)は、北涼を滅ぼし華北の統一を完成し(439年)、五胡十六国時代に終止符を打ちました。
又鮮卑が華北に移動した後にモンゴル高原で強大となり、北魏の北辺を脅かしていた柔然(モンゴル系の遊牧民族)を討ち、南下して宋(南朝)に打撃を与えます。
太武帝は道士の寇謙之(363年~448年)を信任して道教を信じ、仏教を弾圧して廃仏を行い(446年)。これは中国史上「三武一宗の法難」と云われる仏教の四大弾圧最初の弾圧と成りました。

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孝文帝

 北魏第6代皇帝が有名な孝文帝(在位471年~499年)で、5歳で即位し、486年迄は祖母の太皇太后が執政を司りました。
その間に官吏の俸給制、均田制(485年)(後述)、三長制(486年)(5家を隣、5隣を里、5里を党とし、隣長、里長、党長(三長)を置いて戸口調査、徴税、均田制の実施を担当させた村落制度)等が実施されました。

 孝文帝は、幼少の時から読書を好み、儒教の教養を身につけ、中国文化に憧れます。
親政を始めるや徹底した鮮卑族の中国化政策を推進、平城から洛陽に遷都し(494年)、鮮卑人の胡服を禁止(鮮卑族は遊牧に適した筒袖・ズボンを着用していたが、それを禁止してゆったりとした中国服に改めさせた)、胡語を禁止(鮮卑語の使用を禁止し中国語を使用させた)、胡姓を禁止してすべて中国風に改めさせ、更に鮮卑と漢人の通婚を奨励しました。
又洛陽郊外の龍門に大石窟が開かれていくのも洛陽遷都以後の時代です。

 孝文帝の徹底した鮮卑族の中国化政策は、北魏を急速に文化国家に変貌させて行きましたが、その一方で今迄の素朴質実な鮮卑族の生活が贅沢に替り、其れと同時に軍事力が衰え、鮮卑族はその後、漢人に同化され歴史上から姿を消していくことと成ります。

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東魏・西魏の位置関係

 孝文帝の死後、30数年で北魏は分裂、東魏(534年~550年)と西魏(535年~556年)が成立しました。
東魏は、将軍の高歓が孝文帝の曾孫を擁立して建てた国であり、西魏は同じく将軍の宇文泰(うぶんたい)が高歓のもとから逃げてきた北魏最後の皇帝を殺害して、孝文帝の孫を擁立して建てた国です。

 高歓の子で東魏の宰相であった高洋は、東魏から禅譲により北斉(ほくせい、550年~577年)を建国しますが、北斉は6代続いた後に北周に滅ぼされました。

 宇文泰の子が西魏から禅譲により建国した国家が北周(556年~581年)で、北周は北斉を滅ぼして華北を統一し5代続いた後、外戚の楊堅に国を奪われますが、この楊堅こそは隋の創始者です。
北魏、東魏、西魏、北斉、北周の5王朝を総称して北朝(439年~581年)と呼びます。

ジョークは如何?

工場の財産を労働者たちがくすねるのを防ぐために、門では守衛が見張っている。その守衛が、手押し車に袋を乗せて通り過ぎようとするイワンに目を付けた。
「袋の中はなんだ? イワン」
「おがくずでさ。こいつをうちでたき付けにするのを監督さんが許可してくれたんだ」
しかし、守衛はイワンの言葉を信用しない。
「開けるんだ!」
袋の中味がぶちまけられる。本当におがくずしか入っていない。
次の日も同じ場面が繰り返される。
「今度はだまされないぞ。開けろ!」
イワンは袋を開ける。やはり、おがくず以外なにもない。三日目、四日目と、同じことが繰り返される。
七日目、ついに守衛は根負けしてしまった。
「なあイワン、お前が何かくすねてるってことはわかってるんだ。だけど、もうおれは検査しないよ。おれは見て見ぬふりをする。
誰にも言わない。だから、こっそり教えてくれ。いったい何をくすねてるんだ?」

「手押し車。」

続く・・・

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2014/09/10

歴史を歩く42

10 北方民族の活動と中国の分裂

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魏・蜀・呉 三国時代の勢力図

1 三国と晋

 後漢末西暦184年に起こった「黄巾の乱」の中心勢力は、同年末迄に後漢と地方豪族によって鎮圧されましたが、その後も残党は各地で反乱を起こし続け、その結果、後漢の勢威は失墜し、討伐に従事した地方豪族が各地に割拠することとなりました。

 「三国志演義」は古くから多くの日本人に愛読されてきましたが、黄巾の乱の鎮圧に立ち上がる劉備、関羽、張飛の「桃園の義」から始まります。

 黄巾の乱から5年後に霊帝が崩御(189年)、14歳の少帝(弘農王)が即位しました。
外戚と宦官の争いが続く中、残忍、凶暴な董卓が甘粛の兵を率いて洛陽に入り、少帝を廃し、9歳の皇太弟を即位させ、この人物が後漢最後の皇帝となる献帝(在位189年~220年)です。

 袁紹(えんしょう)を盟主とする反董卓連合軍が挙兵すると、董卓は長安遷都(190年)を強行しますが、後に部下の呂布に殺され、献帝は洛陽に逃げ帰ったものの(196年)、その献帝を本拠地の許(河南省)に迎えたのが曹操(155年~220年)でした。

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曹操

 曹操は、宦官の養子であった曹嵩(そうすう)の子として、沛国(安徽省、劉邦の故郷の近く)に生まれ、20歳で後漢に仕え、黄巾の乱の鎮圧に功績をあげて頭角をあらわし、反董卓軍に加わって挙兵し、そして献帝を許に迎えることに成功しました。
官渡の戦いで袁紹を破り(200年)勢力を強め、後漢の実権を握り、丞相と成ります(208年)。

 華北を支配下に置いた曹操は全土の統一をめざし南下、荊州に攻め込みました。

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劉備

 「三国志」の英雄のなかで日本でも人気がある劉備(161年~223年)はその頃荊州の劉表の下に居ました。
前漢6代皇帝景帝の子孫と称した劉備は、父を早く亡くし、母との苦しい生活のなかで初め儒学を志したのですが読書を好まず、侠客らと交わっていたと云います。
黄巾の乱が起こると、関羽、張飛と義兄弟の契りを結び、討伐軍に加わり次第に勢力を伸ばして行きました。

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諸葛亮

 その後、曹操の客将となっていた時、献帝の側近が曹操打倒を図り、劉備等に密書を出したものの、この計画が漏れ、劉備は袁紹の下へ逃亡しますが、その袁紹が曹操に敗れると、荊州(湖北省)の劉表の下に身を寄せたのでした。
この荊州時代に有名な「三顧の礼」によって諸葛亮(孔明)(181年~234年)を得ます(207年)。

 南下した曹操軍に敗れた劉備は夏口(現在の武漢)に逃れ、孔明の意見に従って、孫権(後漢末の群雄の一人で孫堅の次子、父・兄(孫策)の死後、江南を支配)と同盟を結び、有名な「赤壁の戦い」で曹操軍を破ります(208年)。

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赤壁の戦い

 赤壁の戦いは、80万と称する曹操軍(実数は約15万位)に対して、劉備・孫権連合軍は約3万人と云われており、偽って降伏した黄蓋(呉の武将)の「連環の計」(水上戦の経験がなく、船酔いに苦しむ曹操軍に大船同士を繋ぎ合わせる事を進言)と「火攻の計」によって曹操軍は大混乱に陥り、大敗したのでした。

 赤壁の戦いの後、荊州の領有をめぐって、劉備と孫権は対立しますが、結局劉備の領有が認められ (210年)、劉備は、孔明の「天下三分の計」に従い、荊州を足がかりとして益州(現在の四川省)への進出を図り、劉璋から益州を奪います(214年)。

 こうして中国には、華北の曹操、江南(長江の中・下流)の孫権、四川の劉備に三分され、三国が鼎立することと成りました。

 220年、曹操が亡くなり、曹丕(文帝、在位220年~226年)が魏王となり、同年献帝から禅譲を受けて帝位につき魏王朝(220年~265年)を樹立しました。

 曹丕の即位の知らせを聞くと、劉備(昭烈帝、在位221年~223年)は成都で即位し、蜀(221年~263音)を建国します。

 その翌年、孫権(182年~252年、在位222年~252年)も呉王として自立し呉(222年~280年)を建国し、後に皇帝を称して都を建業(現在の南京)に置きました(229年)。

 三国のなかでは魏の国力が飛び抜けて強大であり、人口は、魏が約440万人、呉が約230万人、蜀は約94万人なので、その国力は人口に比例すると考えて良いと思います。
蜀では劉備が、呉に捕らえられ殺された関羽の復讐の為に、呉に出兵したものの大敗を喫して逃げ帰り、白帝城で死去します(223年)。

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五丈原の位置

 劉備亡き後、子の劉禅(無能な暗君といわれる)を助けて蜀を支えたのが諸葛亮(孔明)ですが、彼は「出師(すいし)の表」を現し、宿敵魏との戦いに出陣 (227年)、以後幾度もの出兵を繰り返しますが華北を回復する事は叶わず、五丈原で陣没しました(234年)。
孔明亡き後の蜀は急速に衰え、263年に魏に滅ぼされます。

 魏では文帝が崩御(226年)、司馬懿(179年~251年)の権力が更に強まりますが、五丈原で孔明と戦い守り抜いたのが司馬懿でした。
彼は曹操以来4代にわたって仕えた権臣で、249年のクーデターで丞相となり、魏の実権を掌握、子の司馬昭は反抗する魏の4代皇帝を暗殺し、曹操の孫にあたる元帝を即位させました。
司馬昭は265年に死去しますが、同年、子の司馬炎(武帝、在位265年~290年)が元帝から禅譲を受けて帝位に即き、晋(西晋)(265~316)を建国します。

 武帝は、魏が滅びた最大の訳として、王族に有力者が不在で在った為と考え、司馬一族の者27人を王に封じ、軍事力を持たせ、司馬氏以外の諸将を押さえ、晋王室の守りとし、武帝は280年、南下して呉を滅ぼし、中国を再び統一したのでした。
呉は孫権から4代約60年で滅亡します。

ジョークは如何?

アメリカ訪問中にブロードウェイに招待されたフルシチョフ。生まれてはじめてみる華やかなステージが忘れられない。
若い頃から共産主義社会の建設一筋に生きてきた身。若くきれいな女性たちの踊りなんてのは無縁だったんだからなおさら。

 「帰国したらソビエトにも負けないものを作ろう。文化ってやつでも西側に遅れをとってはダメだ」

 「最高のものを結集せよ」。号令のもと早速大規模な劇場が建設され、人員が集められた。
そのこけら落としの日。来賓として招待されたフルシチョフは上機嫌。前座のボードビルやオーケストラも最高。

 そしていよいよお楽しみのレディ達の舞台が始まる。
「これが楽しみだったんだ。当然踊り子たちは粒選りなんだろう?」と横にいた責任者にフルシチョフが尋ねる。

「はい、もちろんです同志書記長。」
「最高の人材を。ということでしたので、1917年以来の共産党員のなかから選抜いたしました」


続く・・・

2014/09/04

歴史を歩く41

<9黄河文明⑫>

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黄巾の乱

8宦官と外戚、内政の崩壊

 8代順帝の皇后梁(りょう)氏が外戚としてほぼ20年間にわたって権力を掌握してきましたが、桓帝の時に一族が滅ぼされ(159年)、以後宦官の勢力が強まり、朝廷は宦官とその推薦で役人となった者によって占められ、この宦官の横暴に対して儒教学派の清廉な官僚達(党人)が朝廷で宦官排斥を計画しますが、逆に宦官によって拘束され、出身地での終身禁錮を申し渡されました(166年)。
この出来事を「党錮(とうこ)の禁」と呼びます。

 第2次「党錮の禁」は霊帝時代の169年に起きました。
宦官皆殺しの計画を知った宦官達は、軍隊を動かして機先を制して首謀者の陳蕃(ちんばん)を襲い、竇武(とうぶ)を自殺に追い込み、更に党人100余名を殺害、600名~700名を禁錮とし、党人を支持した太学の書生(学生)1000人以上を逮捕、投獄しました。

 二度にわたる「党錮の禁」によって、党人派は壊滅し、宦官全盛の時代を迎えましたが、宦官に操られた霊帝(167年~189年)治世の184年に、ついに大農民反乱が発生します。
この反乱が「黄巾の乱」なのです。

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張角(現代中国イラスト)

 有名な「三国志演義」は冒頭「この度の乱の源をただせば、およそ桓・霊二帝より始まったといえる。桓帝は正義の士を弾圧し、宦官を重用した。桓帝崩じ、霊帝即位するや、大将軍竇武・太傳陳蕃両名が相ともに輔佐に当った。折しも宦官曹節らが権力を壟断しており、竇武・陳蕃これを誅せんと謀ったが、事破れて却って殺害され、これよりして宦官はいよいよ専横をきわめることとなった。」と「党錮の禁」について触れ、次いで張角が黄巾の乱を起し、その討伐に劉備、関羽、張飛が立ち上がる「桃園の義」へと進んで行きます。

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桃園の義

 政治の乱れ、国家財政の窮乏は租税の増徴となって農民に重く圧し掛かってきました。
多くの農民が土地を捨てて逃亡し、流民と成って行きました。
その様な彼等の心を捉えた思想が「太平道」です。

 黄巾の乱の指導者張角は、河北省に生まれ、秘密宗教結社の「太平道」を組織します。
張角は、神仙説を受けて、呪文で病人に懺悔させ、護符を沈めた水を飲ませて、病気を治すと称して信者を集め、太平道は生活に苦しむ河北・山東の農民の間にたちまち広まり、10年余りで数十万人の信者を集めたのでした。

 184年、張角は河北で政府打倒を掲げて挙兵しました。
彼は自ら天公将軍と称し、信者を36の軍隊組織に編成し、目印に黄色の布(巾)を着けさせたので、この反乱は「黄巾の乱」と呼ばれます。
張角自身はこの年に病死し、乱の中心勢力は同年末迄に後漢に協力した地方豪族によって鎮圧されたのですが、その残党や呼応した反乱が各地で相次いで起こり、討伐に従事した諸将が各地に割拠し、後漢は崩壊に向かっていきます。

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曹操

 曹操の長子、曹丕が魏王になると、後漢最後の皇帝献帝(14代、在位189年~220年)は曹丕に禅譲し、曹丕は魏王朝を樹立し、14代約200年間続いた後漢は、220年に終に終焉の時を迎えました。
 
9 漢の社会と文化

 戦国時代頃から始まった大土地所有制は漢代に盛んとなり、各地に広大な土地を所有し、多くの奴婢(ぬひ、奴隷、奴は男奴隷・婢は女奴隷)や小作人を使って耕作させる豪族が現れます。
漢代の農民の多くは彼等の支配下に入り、半奴隷的な状態と成って行きました。

 前漢の末、哀帝の時(紀元前7年)に、大土地所有の制限と奴婢を制限し、小農の保護を目的とした限田策が考案されたのですが、反対が強く、実施されることは在りませんでした。

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郷挙里選のイメージ

 当時の官吏任用制度は「郷挙里選」(有徳者を地方長官が推薦し官吏とする方法)と呼ばれ、「郷挙里選」で推薦された人物は、ほとんど地方豪族の子弟でした。
こうして豪族は経済的、社会的だけでなく、政治的にも官職を独占して権力を握る様に成り、特に後漢は地方豪族が劉秀を押し立ててつくった連合政権の性格が強いものでした。

 漢代文化の上で特に重要なのは、儒学の官学化、歴史書の編纂、製紙法の発明です。
 漢代初期、法家、道家思想が支配的でしたが、前漢の武帝は、董仲舒の献策を入れ儒学を官学とし、当時儒学の重要な古典とされた五経(「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記」(らいき))を教え、文教を司る為に五経博士を置きました。

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鄭玄

 儒学が官学とされ、官吏に成る為には儒学の教養が必要とされた結果、漢代を通して儒学が盛んで、学者達は儒学の古典(特に五経)の復旧と訓詁学(古典の字句解釈・注釈を主とする学)に努めました。
後漢の馬融(79年~166年)や鄭玄(じょうげん、127年~200年)はその代表的な学者として知られています。

 中国は歴史の盛んな国で、古くから多くの歴史書が書かれてきました。
そのなかで「正史」と呼ばれる歴史書は、中国の古代から明迄の各時代について正統と認められてきた紀伝体の歴史書で25種あり、「二十五史」と呼ばれています。
中国では、一般的に前の王朝の歴史を次の王朝が記録し、唐以後は勅命で前王朝の正史が編纂されるようになります。

 正史は、「史記」、「漢書」、「後漢書」、「三国志」・・・と続くのですが、このうち漢代に書かれたものは「史記」と「漢書」です。

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司馬遷(木巻に注意)

 「史記」の著者は司馬遷(紀元前145年頃~紀元前86年頃)、陜西省西安出身、代々史官の家に生まれ、10歳頃から古典を読み、20歳で修史の記録収集の為各地を旅行し、23歳頃武帝に仕えました。父の遺志に従って太史令(天文・暦学・修史を扱う役所の長官)と成り(紀元前108年)ますが、前述した李陵を弁護して、武帝の怒りに触れて死刑判決を受けたものの(紀元前99年)、宮刑(去勢されて宦官になる刑)によって死を免れ、出獄後修史に励み、「史記」130巻を完成させました(紀元前91年)。

 「史記」は、五帝から武帝の時代迄を、「本紀」、「表」、「書」、「世家」、「列伝」に分けて書かれており、この記述の形式を「紀伝体」と呼び、以後の「正史」はこの形式で記述されていきます。

 「本紀」は、王、皇帝の事績をもとに王朝の歴史を描いたもので、「五帝本紀」、「夏本紀」、「殷本紀」、「周本紀」、「秦本紀」、「始皇本紀」、「項羽本紀」、「高祖本紀」、「呂后本紀」、「孝文本紀」、「孝景本紀」、「孝武本紀」の12から成っています。
項羽は皇帝には成ることは在りませんでしたが、司馬遷はあえて彼を本紀に入れており、ここに司馬遷の項羽に対する評価が伺えます。
2代皇帝の恵帝でなく実権を握っていた呂后本紀を入れ、以後の文帝、景帝、武帝と続いています。

 「表」は系図、年表で10巻から成り、「書」は、制度、音楽、兵法、暦、天文、治水土木技術、貨幣を主とする経済史等が8巻にまとめられています。
「世家(せいか)」は、列国や諸侯の歴史を30巻にまとめたものであり、「列伝」は重要人物の伝記で70巻から成っており、「史記」のなかでも特に興味深い書物が「列伝」です。
「史記」は正史の第1とされ、司馬遷は「中国歴史の父」と呼ばれています。

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班固

 班固(32年~92年)は、陜西省出身、先祖は楚の名族、司馬遷と並ぶ後漢の有名な歴史家であり、西域経営に活躍した班超の兄にあたります。
父の遺志(司馬遷の「史記」に続く歴史書の編纂)を継いで、20余年の歳月をかけて「漢書」(かんじょ)120巻を著しますが、実際には彼は獄死した為、その妹が補って完成させました。
班固は和帝の時代に行われた竇憲(とうけん)の匈奴征伐に従軍し(89年)、後に竇憲以下、外戚の竇氏が滅ぼされるなかで、連座して捕らえられ獄死しています。

「漢書」120巻は、前漢の高祖から王莽滅亡迄、前漢一代の歴史のみを扱っていますが、1つの王朝の歴史だけを書くという記述形態が以後の正史に受け継がれることになりました。

 この「漢書」の地理志に初めて倭のことが書かれています。
「夫(そ)れ楽浪海中に倭人有り、分かれて6余国と為る。歳時を以って(定期的に)来たり献見すと云う」。これが日本に関する最古の記録です。

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蔡倫

 蔡倫(さいりん、?~121年頃)は、紙の発明者として知られ、彼は明帝の時、宦官として宮廷に入り、宮中の諸道具製作の長官と成りました。
樹皮、麻布、漁網、ぼろきれ等で紙をつくり、105年に和帝に献上しました。
これが紙の始まりとされていますが、それ以前にも原始的な紙が造られていた記録は存在するのですが、筆記用の紙は蔡倫に始まるとされています。
従って最近の教科書には、蔡倫は製紙法の改良者として記載されています。

 それまでは書写の材料としては木簡、竹簡が使用されていました。
薄く削った木片や竹片の表面を平らにし、両側に小さな穴をあけ、ひもで繋ぎ合わせ、保存するときは巻いて束にしたことから、1巻、2巻という言葉が生まれました。

 書体としては、隷書が漢代を通じて広く使われましたが、後漢末に隷書から楷書が作られて一般化していきました。   

ジョークは如何?

ナチス時代のドイツの男女が結婚することになった。
その時、秘密警察に、結婚に至る履歴を提出しろ、と要求された。
「偉大なる我らが父、ヒトラー総統の推薦で知り合った。」
また、夫婦はヒトラーの恩も忘れずにこう書いた。
「国民は総統を心から慕っておられる」

次の日、彼らは秘密警察に連行された。罪状は以下の通り。
「公文書不実記載罪」


続く・・・