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2014/10/30

歴史を歩く57

12中国社会と北方民族②

2 宋の統一(その1)

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宋・遼の時代(10世紀)

 宋(北宋)の建国者の趙匡胤(太祖、927年~976年、在位960年~976年)は、後唐の武将の子として生まれ、後周の世宗に仕えて軍功をあげ、精鋭を誇った禁軍(皇帝の親衛軍)の最高司令官となりました。
世宗が崩御し、7歳の恭帝が擁立されると、この機に乗じて契丹と北漢が侵入します。
趙匡胤は、これを迎え撃つために出動命令を受けて出陣したのですが、その途中、陣中で酒に酔って眠っているところを起こされ、無理矢理に天子の着る黄袍を着せられ、いくら固辞しても部下の将兵が納得せず、やむを得ずこれを受けたと伝えられています。

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趙匡胤

 こうして部下の将兵によって皇帝に推戴され、恭帝から禅譲を受けた趙匡胤は宋王朝(960年~1279年、北宋(960年~1127年)を樹立し、開封を都と定めました。

 趙匡胤は即位すると、これまで藩鎮(節度使)の強大な勢力が皇帝の権力を弱体化させたことに鑑み、藩鎮(節度使)の勢力の削減を図り、藩鎮(節度使)から統帥権を剥奪し指揮権のみを与え、 一方で藩鎮の精鋭兵士を禁軍(皇帝の親衛軍)に吸い上げて禁軍を強化して行きました。

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禁軍騎兵

 こうして唐末、五代の藩鎮(節度使)の武断政治を廃し、科挙合格者で学識のある文人官僚によって政治を行う文治主義を押し進め、君主独裁中央集権体制の確立を目指したのです。

 中央官制では、唐代以来貴族の牙城であった門下省を廃止して中書省に吸収、その長官(宰相)に六部を統轄させ、優秀な官僚を確保するために、隋、唐以来の科挙を改革し、従来の地方、中央の試験に殿試を加えて、州試、省試、殿試の三段階としました。

 殿試は、省試合格者に対して皇帝自らが出題する最終で最高の試験あり、太祖が創設し、上位合格者には高官への道が約束されました。
又殿試によって、合格者である官僚は皇帝の学問上の弟子を意味し、皇帝に絶対的な忠誠を誓うようになり、皇帝権力の強化すなわち君主独裁制の確立に大きな役割を果たしたのです。

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 科挙は隋代に始まり、唐に受け継がれ、宋代に完成されました。
宋代には前述のように太祖によって殿試が創設され、州試(第1段階としてに地方試験)、省試(第2段階として州試の合格者に対して中央の尚書省が行う試験)、殿試(省試の合格者に対して皇帝自らが行う最後で最高の試験)の三段階が確立しました。

 宋代、科挙に合格して官僚になった者を出した家は官戸と呼ばれ、戸籍に明記され、役の減免や裁判上でも特権が与えられ、又科挙に合格して官僚になった者には、将来の出世、高官への道が約束され、その上莫大な収入があったので3年勤めると孫子の時代迄も安楽な生活が出きると云われました。
この為、科挙には受験者が殺到し、競争は熾烈を極め、なかには何度も受験に失敗し、70歳を過ぎてようやく合格した者もいたと伝えられています。

 科挙にはいくつかの科目があり、試験科目も異なっていました。
唐代には秀才(科)が重視されましたが、宋代には進士(科)が最も重視され、宋代中頃には進士に一本化されます。

 進士の試験科目は経義(経書の暗記)、詩賦(作詩)、策論(時事問題についての意見書)でした。経義では論語等儒学の重要な書物の内容暗記がテストされましたが、暗記しなければならない文の文字数は62万字に及んだと伝えられています。

 進士を優秀な成績で合格した者(トップ合格者は状元と呼ばれます)が宰相以下の高官を独占した。
科挙は3年に1度実施され、その合格者は極めて少数で、進士は太祖の時は年平均9人、太宗の時は50人、真宗の時に78人となり、仁宗の時代は最も多かったのですが、其れでも113人に過ぎなかったのです。
受験者は太宗の時の例で見ると、州試に合格して省試を受験した者5300人(976年)、多いときは17300人にも達しました。

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 科挙の受験資格は広く庶民にも開かれていましたが、このように超難関試験であった結果、合格するには長年にわたって科挙だけを目的に脇目もふらず勉強しなければならず、従って合格することは勉強に十分な時間とお金が充てられる富裕な家の出身者でないと不可能であり、貧乏な家の者は受験など思いも寄らぬことでした。
この様な事情から、科挙合格者は特定の富裕な階層の者に限られて来ます。

 多くの合格者を出した富裕な階層の代表は、当時「形勢戸」と呼ばれた地方の有力地主層でした。科挙に合格者し官僚を出した家は「官戸」と呼ばれ様々な特典を与えられ、宋代には、唐代迄の旧貴族に代わって、「形勢戸」、「官戸」が新しい社会の支配層、新しい貴族階級を形成するように成ったのです。

 官僚になるには科挙に合格する以外にも、例えば高官の子弟や親戚の者とか、政府に多額の献金をした者、役所の書記を長く勤めた者などが、その職に就くことが可能でした。
官僚になると高額の俸給を与えられた結果、官僚の増加は政府の財政を圧迫する原因となり、有資格者の増加の為、合格しても官僚になれない者も続出し、彼らは官僚になるために賄賂を送る等の不正行為を行った結果、官界の腐敗を招くことになりました。

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 太祖は契丹の南侵をくい止め、呉越、北漢を除く五代以来の地方政権を滅ぼしましたが、中国統一を見ることなく崩御(976年)、尚、この崩御に関しては諸説在り、弟の趙光義(後の太宗)に殺されたとも云われています。

 太祖の後を継いだ太宗(939年〜997年、在位976年~997年)は、太祖の弟で、兄の建国を助けて大きな功績が在りましたが、太祖の2人の子を飛び越えて2代目の皇帝となり、兄の遺業を継いで呉越、北漢を滅ぼし中国の統一に成功しました(979年)。
更に勢いを駆って遼(契丹)に出兵したものの此方は失敗に終わり、燕雲十六州の回復は叶いません。

 内政でも、太祖の文治主義を継承し、君主独裁中央集権官僚制の確立に努めます。

 太宗は節度使の財政権を奪う等、節度使の権限を更に縮小し、又節度使に欠員が出る度に文官を任命した結果、節度使は単なる地方の行政官に過ぎなくなり、藩鎮体制は解体されましたが、節度使の軍隊の弱体化は同時に辺境防衛力も著しく弱体化させる結果を招き、以後契丹、西夏等の侵入に苦しめられる新たな問題を生じさせます。

 太祖、太宗は伴に、節度使の権限を奪い、文治主義を採用し、文官を重く用いて、君主独裁を強化し、中央集権の体制を作りあげました。
この体制を支えた文官(官僚)は科挙によって登用された人材です。
 
 太宗の死後、真宗(在位997年〜1022年)が即位し、当時国内には平和が訪れ、宋は安定、発展期に入っていたのですが、対外的には国力を充実させた遼(契丹)がしばしば宋の北辺に侵入し、この防御に苦しめられていたのです。

ジョークは如何?

 スターリンが死んだ。この独裁者を厄介払いすべくフルシチョフは海外に埋葬場所の提供を求めた。
英国「わが国にはすでにチャーチル卿がおられます。大戦の英雄は1人で十分です」
ドイツ「わが国にはすでにヒトラーがいます。独裁者は1人でたくさんです」
そこへイスラエルから提供してもよいという応えが入った。だがそれを聞いたフルシチョフは青ざめた顔で猛反対した。
「あそこは以前に復活があったんだ!」


続く・・・

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2014/10/29

歴史を歩く56

12中国社会と北方民族

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唐代・藩鎮の分布

1 五代の形勢

 唐代、玄宗は異民族の侵入に備えて辺境に十節度使(辺境の防備のために置かれた軍団の司令官)を設置しましたが、安史の乱(755年~763年)後は内地にも置かれるように成ります。

 節度使は、当初皇帝に任命され、強力な軍隊を預かり、州を支配し、州の租税を徴収して軍隊にかかる費用に充て、その残高を中央に送りました。
しかし、唐末になると強力な節度使は中央に送るべき租税を私有化し、又本来は皇帝の軍を私兵として、中央から自立して行きました。
こうして節度使はその地方の軍事、財政、民政権を握り、地方で自立して地方軍閥となり藩鎮と呼ばれるように成ります。

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朱全忠・Wikipediaより

 節度使(唐末五代では藩鎮と同じ意味に使われることが多い)は数州を領有し、その数は唐末で40~50、五代で30~40に及んだと云われています。
唐末の大農民反乱である黄巣の乱(875年~884年)に加わり、後に唐に降って節度使に任命された朱全忠(852年~912年)は、黄巣の乱の鎮圧の功績によって梁王となり(901年)、衰退した唐の皇帝昭宗を暗殺、哀帝に禅譲を迫り、やがて唐を滅ぼし、自ら帝位について後梁(907年~923年)を建国、都を汴州(開封)に定めます。

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五代十国

 以後、約50年間に華北では後梁、後唐、後晋、後漢、後周の5つの王朝が交替し、これを五代と総称します。
又その間に、その他の地方でも多くの節度使(藩鎮)がそれぞれ自立し、10前後の国が興亡した結果、之を十国と呼び、唐の滅亡から宋の中国統一迄の(907年~979年)この時代を五代十国(時代)と呼びます。

 唐を滅ぼした朱全忠(太祖、在位907年~912年)が建てた後梁(907年~923年)の勢力範囲は黄河中、下流域に限られ、李克用等の藩鎮が各地に割拠していました。
朱全忠はこれ等の敵対勢力との戦いに明け暮れる中で次男に殺され、後梁は2代16年で滅びたのでした。

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李克用

 朱全忠と対立した李克用(856年~908年)は、突厥の沙陀(さだ)部の出身で、黄巣の乱の鎮圧の功によって節度使となり、朱全忠と華北の覇権をめぐって激しく対立し、その攻撃を受けて応戦中に病死します。
しかし李克用の子が後梁を滅ぼし、後唐(923年~936年)を建国したのも束の間、後唐も4代13年で滅亡してしまいました。

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石敬瑭

 後晋の建国者である石敬瑭(高祖、在位936年~942年)も突厥出身と云われています。
後唐最後の皇帝の妹婿であった彼は皇帝と対立し、契丹の援助を受けて後唐を滅ぼし、後晋(936年~946年)を建国しました。

 石敬瑭は契丹の援助を受ける際に契丹に臣礼をとって歳貢を贈り、燕雲十六州(北京(燕州)、大同(雲州)を中心とする万里の長城の南に沿った十六の州)を割譲しました。
この燕雲十六州の回復が漢民族の宿願となり、宋と遼との抗争の大きな原因となって行きます。
しかし、その後晋も2代10年で滅びて行きます。

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劉知遠

 後晋を倒して後漢の建国者と成った人物も突厥の沙陀(さだ)部出身の劉知遠(高祖、在位947年~948年)です。
彼は後唐に仕え、後晋の建国を助けて禁軍(皇帝の護衛兵)を掌握し、各地の節度使を兼ねて有力者となり、後晋が契丹の侵入を受けて滅亡すると、自ら帝位につき後漢(947年~950年)を興したものの、翌年に病没し、後漢は2代僅か3年で部将の郭威に滅ぼされます。

郭威
郭威

 後周の建国者、郭威(太祖、在位951年~954年)は、劉知遠の建国を補佐し、その子隠帝が殺されると、軍隊に擁立されて即位し、後周(951年~960年)を建国しました。

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世宗

 後周の第2代皇帝、世宗(在位954年~959年)は五代第一の名君と称され、契丹や南唐等の諸国を討ち、国内政治を整えましたが、中国史上大規模な仏教弾圧事件を「三武一宗の法難」と呼びますが、一宗の宗は彼を指しています。
後周も3代9年で滅亡して行きました。

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開封府・天下一首府

 五代のうち、後唐(都は洛陽)を除く四王朝は開封を都と定めました。
開封は古くから水陸交通、軍事の要衝でしたが、特に隋代の大運河の開通により、都の長安と江南を結ぶ大運河の分岐点となり、以後交通、商業の中心地として大いに発展し、次の北宋も開封を都としたのです。

 華北で五代が興亡を繰り返した間、江南では呉(902年~937年)・呉越(907年~978年)・荊南(907年~963年)・楚(927年~951年)・南唐(937年~975年)が、 四川では前蜀(907年~925年)・後蜀(934年~965年)が、福建のびん(門のなかに虫)(909年~945年)、 華南の南漢(917年~971年)、そして華北の北漢(951年~979年)等の国々が興亡します。

以上の国々が十国に数えられ、この十国の中で最も強勢だった国が、江南の富を背景に栄えた南唐であり、唐の文化を継承し、文化が大いに栄えました。

 唐末五代の時代は中国史上、春秋戦国時代と並ぶ社会の大変革期でした。

 政治的には、魏晋南北朝時代から隋唐の時代に国家の支配層であった貴族が、特に黄巣の乱やうち続く戦乱と下剋上の風潮の中で、経済的な基盤であった荘園を失って没落し、旧貴族に変わって藩鎮や形勢戸と呼ばれる新興地主等が支配層にのし上がって行きました。
彼等は唐末の戦乱によって荒廃した土地の開発を進め、新たに荘園の所有者となり、佃戸制に基づく大土地所有制を発展させ、また諸産業の回復、開発に努めたのです。

 こうした社会の変化の中で、従来の都を中心とした貴族文化は衰退し、代わって庶民文化や地方にも特色ある新しい文化が興るなど社会は大きく変動を遂げて行きました。

ジョークは如何?

スターリンがチャーチルと電話で話し合っている。
「ニェート…、ニェート…、ニェート…、ニェート…、ニェート…、ニェート…、ダー」
特派員「スターリン同志、どんな質問にあなたが「ダー」とお答えになったか、おききしてもよろしいでしょうか?」
「チャーチルがきいたのさ、彼の声がこっちによく聞こえるか、とね。」

(注)「ニェート」はロシア語で「いいえ」、「ダー」は「はい」の意味。

続く・・・
2014/10/27

歴史を歩く55

11東アジア文化圏の形成⑨

6 唐文化の波及と東アジア諸国②

2、チベット、ベトナム

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四川省松潘 松潘古城 文成公主・ソンツェンガンポ像

 チベットでは、ソンツェン・ガンポ(?~649年、在位629年~649年)が、6世紀末から7世紀初めにかけて、一代でチベット諸族を統一して統一国家を建国します。
この国は中国では吐蕃(とばん、7~9世紀)と呼ばれました。

 ソンツェン・ガンポは、唐とは太宗以来親交を続け、641年には唐から文成公主をめとり、唐文化を盛んに取り入れ、彼はその一方でネパール王女を妻として仏教を取り入れ、又インド文字をもとにチベット文字を作ったと云われています。
チベットに入ったインド系仏教は、チベットの固有の民間信仰と融合し、独自のチベット仏教、いわゆるラマ教となり、吐蕃の国家的宗教と成りました。

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吐蕃騎兵

 その後、吐蕃は680年頃から東トルキスタン(中央アジア東部)に進出しますが、この行動が唐と対立する結果と成り、玄宗の時代に吐蕃を攻撃しています。
しかし、安史の乱に乗じて763年には吐蕃が一時長安を占領したことも在りました。
その後も対立関係が続いたものの、9世紀に入って和平の機運が生まれ、821年に長安で、翌822年にはラサで会盟が行われ、唐は吐蕃の甘粛領有を認めています。

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唐蕃会盟碑・チベット自治区ラサ市大昭寺

 この会盟の内容を漢字とチベット文字で記したのが唐蕃会盟碑で、823年にラサに建てられました。吐蕃は王が殺されて以来(843年)内紛で急速に衰退して行きました。

 唐と吐蕃の争いに乗じて、雲南ではチベット・ビルマ系の民族が大理を中心に南詔(なんしょう)国を建国しました。
南詔は唐と友好関係を結んで周辺を統一します(739年)。
南詔は後に唐と対立して吐蕃と結んだものの、8世紀末には再び唐と結んで吐蕃を圧迫しています。

 南詔も唐文化を取り入れ、9世紀前半に最盛期を迎えますが、9世紀後半以後内紛によって衰え、902年に宰相の漢人に国を奪われて滅亡しています。

 ヴェトナム北部は、始皇帝による征服から一時自立しましたが、前漢の武帝による征服以来、約1000年間の長期にわたって中国の支配下に置かれ、中国文化の影響を受けてきました。

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徴姉妹の乱

 この間、ヴェトナムのジャンヌダルクと呼ばれる「徴(チュン)姉妹の乱」をはじめとする抵抗運動が度々起きています。

 チュン・チャク(徴側)、チュン・ニ(徴弐)姉妹は後漢の漢人太守の搾取、暴政に対して40年に反乱を起こし、象にまたがって太守の軍と戦い、太守を追放して自立し、一時は王を称しました。
太守の収奪に苦しめられていた交趾、九真2郡の住民に2年間の免税を行いますが、2年後、後漢の討伐軍に敗れ、捕らえられ処刑されています。

 唐は、622年にハノイに交州大総管府を置き、679年に安南都護府と改称した結果、中国では以後ヴェトナムは安南と呼ばれるように成ります。

 唐は907年に滅亡し、中国は五代十国と呼ばれる分裂時代を迎え、十国の一つに数えられる南漢(917年~971年)が広東、江西を支配し、ヴェトナムの支配者の地位を継承しました。

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白藤江(バックダンザン)の戦い

 呉権(ゴークエン)は、南漢との戦いに勝利をおさめ、自立して王を称し、呉朝を樹立します(939年)。
ヴェトナムは1000年間にわたる中国の支配から独立の第一歩を踏み出し、 呉権の死後、20年に及ぶ分裂を再統一した丁部領(ディンボーリン)が丁朝(968年~980年)の開祖と成りました。
丁朝も短命に終わり、前黎(れい)朝(980年~1008年)が続きますが、この呉朝、丁朝、前黎朝を総称してヴェトナムの初期三王朝と呼びます。

 この初期三王朝の後を受けて、李公蘊(りこううん、太祖、在位1010年~1028年)によって、ヴェトナム最初の本格的な統一王朝である李朝大越国(1010年~1225年)が建国されました。
 
 李朝は都をハノイに置き、中国の諸制度・文化を取り入れて中央集権国家の樹立をめざしました。李朝では儒学が重視され、仏教も国教とも言うべき地位を与えられ、道教も行われ、更に科挙も取り入れられています。
李朝は、1075年から2年続いた宋軍の侵入を撃退し、更に南方のチャンパーを征服して国力が充実し栄えましたが、13世紀に陳朝によって滅ぼされます。 

ジョークは如何?

ハンス・フォン・ゼークトの組織論について

 人間は4種類に大別できる。

「勤勉で頭の良い者」「怠け者で頭の良い者」「勤勉で頭の悪い者」「怠け者で頭の悪い者」。

 軍隊で一番必要なのは「勤勉で頭の良い者」。
参謀に適任だ。勝つ為の戦術を立案できる。

 次に「怠け者で頭の良い者」。
前線指揮官にすべきだ。生き残る為に必死で的確な指揮をするだろう。

 次に「怠け者で頭の悪い者」。
命令された事しかできないがそれで十分だ。全ての障害を打ち倒す。

 最後に「勤勉で頭の悪い者」。
そういう奴はさっさと軍隊から追い出すか銃殺にすべきだ。
なぜなら間違った命令でも延々と続けてしまい、気が付いたときには取り返しがつかなくなってしまうからだ。


続く・・・
2014/10/24

歴史を歩く54

11東アジア文化圏の形成⑧

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8世紀の東アジア

6 唐文化の波及と東アジア諸国

1.日本、朝鮮半島、中国東北部

 唐の国際的な文化は、周辺の諸民族に大きな影響を与えました。
周辺の諸民族は唐文化を受け入れながら、それぞれの民族の文化を発展させ、東アジアには唐を中心に広大な東アジア文化圏が成立したのです。

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遣唐使船

 日本は、早くから中国文化を受け入れてきましたが、隋、唐が勃興すると遣隋使、遣唐使を送って中国文化を盛んに輸入し、遣隋使は3回派遣されましたが、特に聖徳太子によって派遣された小野妹子は有名です。

 遣唐使は630年に開始され、894年に菅原道真の建議によって廃止されるまで16回派遣されています。
大使以下の随員と伴に留学生、留学僧も加わり、通常は総勢500人前後、4隻の船に分乗して中国に渡り、文化の輸入に努めました。
遣唐使が中止された894年は、黄巣の乱が鎮圧されて10年後なのが、9年に及ぶ中国全土を巻き込んだ黄巣の乱による中国内地移動の危険性も廃止の大きな理由であったと思います。

 645年の大化改新によって、唐の律令制にならって班田収授法(唐の均田制にならって実施された土地制度)、租庸調制等を実施し、律令国家体制を整えていきました。

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高句麗遠征

 朝鮮半島では、4世紀に辰韓を統一した新羅が、法興王(新羅23代の王、在位514年~540年)の頃から国家体制を整えて、急速に発展していきます。

 しかし、7世紀には百済、高句麗の侵入に悩まされ、642年に百済は高句麗と結んで新羅を攻略します。
新羅は唐に救援を求め、唐の太宗は645年から行った3回の高句麗遠征が尽く失敗に終わり、鉾先を百済に転じ、660年に水軍を派遣します。

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白村江の戦い

 新羅の武烈王(29代、在位654年~661年)は唐と結んで百済を挟撃し、百済はついに滅亡します。この時、日本は百済救援の為、水軍を派遣しますが、663年の白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦いで唐、新羅水軍に大敗し、日本勢力は朝鮮半島から一掃されることと成りました。
 唐は、667年についに高句麗を攻め滅ぼし、更に朝鮮半島をその勢力下におこうと考えます。
唐と結んで百済を滅ぼした新羅はこれに反抗し、675年、唐軍を撃退し、ついで朝鮮半島の大半を支配下に置いて、676年についに朝鮮民族による初めての統一国家を樹立しました。

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仏国寺:大韓民国・慶州

 新羅は、7世紀中頃から唐の律令制を取り入れ、律令国家体制を整え、統一後も唐の制度、文化を盛んに輸入して栄えました。
新羅では仏教が盛んに成り、都の慶州(金城)を中心に大規模な仏教建築や仏教彫刻が盛んにつくられ、仏教美術が発達します。
慶州近郊にある仏国寺は現在の10倍の規模を誇っていたと云われる新羅時代の代表的な仏教寺院です。

 新羅では骨品(こっぴん)と呼ばれる身分制度が行われ、出身氏族によって身分が5段階に分けられ、これにより位階、官職をはじめ婚姻等が制約されました。

 貴族勢力が強かった新羅では、9世紀頃から中央における王位継承や貴族間の闘争、地方でも貴族や農民の反乱が相次ぎ、国力は急速に衰退し、新羅末の動乱のなかから一部将であった王建が頭角を現し、高麗王となり(918年)、935年に新羅を滅ぼしました。

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大祚栄

 中国東北地方の東北部を中心に活動していたツングース系の靺鞨(まつかつ)族の一部は高句麗に支配されていましたが、高句麗滅亡後は唐の支配下に置かれ、696年に唐に対する契丹人の大規模な反乱が起きると、靺鞨族や高句麗の遺民もこれに参加し、靺鞨族はこの反乱を機に唐の支配から脱しました。

 靺鞨族の首長の一人であった大祚栄(?~719年)は、靺鞨族や高句麗の遺民を率いて中国東北地方の東部に移り、敖東城(ごうとうじょう、現在の吉林省の敦化市)を都として「震国」を建国(698年)し、唐から渤海郡王に任じられ(713年)、国号を渤海と改めます。

 渤海は15代約200年間にわたって中国東北地方を中心に沿海州から朝鮮北部を支配し、唐に留学生を派遣し、盛んに唐の政治、制度、文化を取り入れ律令国家体制を整え、仏教文化が栄えました。9世紀頃には最盛期を迎え、「海東の盛国」と呼ばれ、日本とも交渉があり、8世紀以後滅びるまでの200年間に30回を越える使節を送り交易を行っています。
その渤海も9世紀末には王位継承に関する混乱や外圧によって衰え、926年、契丹によって滅ぼされました。

ジョークは如何?

あるドイツ人が牧師に懺悔してどうしたらよいか尋ねました。
彼はすすり泣きながらこう言います。「懺悔することがあります。第二次世界大戦の最中、私は難民を天井裏に匿ったのです。」

牧師が答えます。「それは、罪とは言えませんよ。」

男が告白します。「だけど、彼に家賃を払わせたのです。」

「それはさすがによろしく無いことだ。しかし君自身もリスクを背負ったのだ。」

「本当にそう思いますか?ああ、牧師様、ありがとうございます。あなたがそう言ってくれた事でどれだけ私の良心が救われたことか。しかしながら、もう一つだけ質問があります。」

「それはなんでしょうか?」

「彼に戦争が終わったことを教えてあげなくちゃだめでしょうか?」

続く・・・
2014/10/18

歴史を歩く53

11東アジア文化圏の形成⑦

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呉道玄:八十七神仙図巻(部分)

5 唐代の文化②

(3) 文化

◎儒教
 
 儒教も、唐初期から儒教の興隆に力をそそいだことに加え、特に儒教の古典が科挙の必修科目になったことから盛んでした。

 太宗に仕えて国子監(中央の諸学校を統轄した機関)の長官や皇太子の教育係等を歴任した孔頴達(574年~648年)は、太宗の命をうけて、儒教の重要な経典である五経(詩経・書経・易経・春秋・礼記)の国定注釈書ともいうべき「五経正義」を編纂し(653年完成)、科挙試験の標準とされました。

 しかし、国家によって五経の解釈が統一された為に、訓詁学(特に儒教の字句解釈を主とする儒学)が発達し、自由な学問の発達が阻害されることに成ったのです。

◎詩・文

 唐詩は、単に唐代の文化を代表するだけでなく、中国文化を代表するものと考えて良く、五言絶句や七言律詩の形式が完成し、多くの優れた詩人が輩出しました。

 盛唐時代の王維(701年頃~761年)、李白(701年~762年)、杜甫(712年~770年)や中唐の白居易(772年~846年)等は特に有名です。
王維は自然詩人として、画家としても有名です。

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李白

 李白は、富裕な商人の子として生まれ、少年時代は四川で過ごし、25歳頃四川を出て、生涯のほとんどを放浪に過ごします。
知人の推薦で玄宗に仕えましたが(742年~744年)、その後また各地を遍歴しました。
杜甫が「李白一斗、詩百編」と言ったように、酒を愛し、あびるように飲んでは、その間に詩を読んだと言われ、「詩仙」と称されました。

杜甫
杜甫

 杜甫は、官僚の家に生まれ、何度の科挙に失敗し、職もなく妻子を連れて放浪し、40歳頃知人の推薦で下級官吏になったのですが、安史の乱に遭遇、反乱軍の捕虜となった後に脱走し、粛宗のもとで官職に就きますが、2年後に免職となり、妻子と伴に各地を遍歴し、四川の成都に至り、6年間この地に留まりました。
この時期が杜甫の生涯の中で最も良い時代で、その後長江を下って放浪し、59歳で亡くなります。
杜甫は「兵車行」に見られる様に社会の不正を暴露、批判する詩を多く歌い、「詩聖」と称されました。

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白居易

 白居易、字は楽天、白楽天の名で知られ、29歳で進士に合格し、刑部尚書(司法長官)にまで昇進します。
玄宗と楊貴妃の恋愛を歌った「長恨歌」で有名となりますが、政治や官吏の腐敗を批判した詩を作ったため、二度左遷され、後政界を嫌って官吏の地位を捨てます。
唐代最多と言われる程多くの詩を残しましたが、平易な詩が多く、早くから日本に伝わり広く愛誦され、「白氏文集」は平安貴族の必読書で、日本の文学に大きな影響を及ぼしました。

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韓愈

 文章では韓愈(768年~824年)と柳宗元(773年~819年)の二大文豪が有名です。
伴に進士に合格し、官僚となり出世しましたが、後に左遷された。文章家としては、当時流行していた六朝以来の四六駢儷体(対句を多く使い、韻を踏んだ華麗な美辞を用いた文、内容より文章の美しさを重んじた)を排し、漢代の「古文」復興を主張し、古文復興運動の中心人物となり、伴に「唐宋八大家」(唐・宋の8人の代表的な文章家)に数えられています。

◎書画・工芸

 絵画では、六朝に始まる山水画が進歩し、呉道玄(8世紀頃)、李思訓(651年頃~718年)、王維等が現れました。

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呉道玄

 呉道玄は、玄宗に仕え、人物、鬼神、山水を描き、仏寺や道観の壁画も多く描いています。

 李思訓は、唐の王室の出で、玄宗に仕え、山水画に優れた作品を残しています。

 書道も盛んになり、多くの優れた書家が輩出しました。
唐代の官吏は科挙合格者だけでなく、科挙合格者以外でも官吏に登用されましたが、官吏の任用にあたっては、言(ことばづかい)、書(習字)などの試験があり、綺麗な文字を書くことは官吏になる必須の条件であったことからも書道は盛んでした。

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褚遂良

 初唐の三大書家と呼ばれる欧陽詢(557年~641年)、虞世南(558年~638年)、褚遂良(596年~658年)や盛唐の書家、顔真卿(709年~786年頃)等が有名です。

 褚遂良は、王羲之の書風を継いで書に巧みであった為、太宗の書道顧問となって信任を得て、中書令(宰相)に就任しますが、次代の高宗が武昭(則天武后)の皇后擁立に反対して左遷され、3年後に没しました。

 顔真卿は、前述の様に、安史の乱の際、平原(山東)の太守として義勇軍を率いて反乱軍と戦いました。
彼の書は従来の王羲之風の典雅な書を一変させ、男性的な力強い書風を始め、一世を風靡します。

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唐三彩:馬俑

 工芸の分野では、唐三彩が有名。
唐三彩は緑・褐・白の三色で彩色して焼き上げた陶器で、人物、動物を題材として作られ、葬具に用いられた他、胡人の風俗等も題材として多く用いられ、当時の華やかな貴族文化、異国趣味等を知る資料としても重要です。

ジョークは如何?

ヒトラーは、ババリア・アルプスを散歩するのが好きだった。というのは、
オーバーザルツブルクというところに山荘を持っていたのだ。

彼はいつものように山荘を出て、山の中を散策していたとき、川に落ちてしまった。
ヒトラーは泳げなかった。彼は右手をまっすぐに上げて、
「助けてくれ、助けてくれ!」と叫んだ。
すると森の中から一人の男があらわれて、ヒトラーを助けてくれた。

ヒトラーはずぶぬれになりながらも威厳をつくろって言った。
「余は大ドイツ民族の大統領である。よく救ってくれた。礼をいうぞ。
で、おまえの名前は?」
貧相な男は答えた。
「イスラエル・コーエンです。」
「なに?ユダヤ人か!しかし、おまえがユダヤ人であるにしても、たいへん
勇気のあるやつだ。願いがあったら一つだけ叶えてやろう。」
と、ヒトラーは濡れた口髭を、ぬれたハンカチでふきながらいった。
「ああ、それでしたら、たいへん大きな望みがあります。ほんとうにいっていい
でしょうか?」
「よろしい。」とヒトラーは言った。

「私があなたを救ったことだけは、誰にも言わないでください。」

続く・・・
2014/10/17

歴史を歩く52

11東アジア文化圏の形成⑥

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4 唐の盛衰(その5)

 唐の都、長安は人口100万人と云われ、政治都市であると同時に、国内商業の中心地であり、世界商業の中心地でもありました。
但し、長安では商業区は東市と西市に限定され、他の地域での商業は許されず、その営業も正午から日没迄と定められていました。

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長安の街角

 唐帝国の領土拡大によって、中央アジアではイスラム帝国と領土を接する事に成り、シルク・ロードを利用しての東西貿易が発達し、中央アジアの商権を握っていたソグド人をはじめ、ペルシア人、アラブ人等が長安に来住し、中国人も西方に進出します。
長安の住民中、外国人の数は1万人を越えていたと云われ、なかでも胡人(主に西方の外国人)の占める割合が高く、胡人の来住と共に西方の文物が盛んに流入し、彼等の生活様式である胡風が流行しました。

 胡人だけでなく、遣唐使として唐を訪れた日本人をはじめ、東アジアの人々も多かったと思われます。
長安は当に国際都市であり、当時世界の二大都市(当時世界最大の都市はバグダードで人口は150~200万人と云われている)として繁栄しました。

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「絹の道」と「海の道」

 又「海の道」による貿易は、1世紀頃からインドとローマの間で、季節風を利用した貿易が盛んとなり、やがてインドと中国を結ぶ航路も開け、中国の商船が活躍していましたが、7世紀以後、イスラムの勃興に伴い中国人に替わって、アラブ人が航海権を握るようになり、アラブ人は広州、泉州(福建省)、揚州(江蘇省)等の海港に盛んに来航し、貿易に従事しました。
広州、泉州、揚州も国際都市として繁栄し、広州には唐中期以降、市舶司(海上貿易事務を司る役所)が置かれ、又広州、泉州には蕃坊(外国商人の居留地)が在ったのです。

 商業、産業の発達に伴い、遠隔地との取引が拡大するなかで、飛銭と呼ばれる銭を遠方に送る送金手形が利用されるように成りました。

 魏晋南北朝以来開発が進んだ江南では、茶や綿花の栽培が盛んとなり、喫茶が流行してくるのも唐代からなのです。
  
5 唐代の文化

(1) 風俗

 唐の文化は、西のイスラム文化と並んで、当時の世界に於ける最高水準の文化でした。
唐文化の特徴は、その広大な大帝国の成立によって、特に西方からの外国文化が流入して国際的な文化が成立した事、貴族を中心とする貴族文化であった事、そして唐の文化が東アジア全般に影響を及ぼし、東アジア文化圏が形成された事なのです。

 唐代には、東は朝鮮半島、日本から、西は中央アジア、ペルシア、インド等から多くの留学生、商人をはじめ、様々な人々が往来し、長安や広州等の港市は異国情緒に満ち、異国趣味が流行しました。 長安には1万人以上の外国人が居住したと云われ、特に中央アジア、イラン方面から来朝した、所謂「胡人」には商売人や芸人をはじめ、様々な職業の人達がいたのです。

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胡姫の舞

 酒場では、容姿端麗で顔立ちの美しいイラン人の娘さん達が(彼女達は「胡姫」と呼ばれていた)お酒を注ぎ、踊り舞っていました。
長安の若い女達は、「胡姫」の服装や化粧を真似て「胡服」を新調して町を歩き、細い乗馬ズボンをはいて長安の町を馬で走り回ったのです。
西方から入ってきた家具や絨毯等が珍重され、西方から入ってきた音楽や楽器が盛んに演奏されました。

(2) 宗教

 人々の往来と共に、特に西方から様々な文化が流入し、其れと共にキリスト教、ゾロアスター教、イスラム教等の諸宗教も伝来します。

 ネストリウス派キリスト教は、431年エフェソス宗教会議で、聖母マリアは神でないとする説を唱えて異端とされ、ササン朝を経て唐に伝わり、中国では景教と呼ばれた、中国に伝来した最初のキリスト教です。

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長安(現西安・)崇聖寺で発見された大秦景教流行中国碑

 ペルシア人の阿羅本が、635年に長安に来朝し、太宗に布教を許され、各地に波斯寺(波斯はペルシアの意味)が建てられたのですが、玄宗の時代に大秦寺(大秦はローマの意味)と改称されました。長安の大秦寺内に建立された「大秦景教流行中国碑」(781年に建立、明末に発見された高さ2.8mの碑)には、伝来の経過や盛衰の経過が記録されていますが、景教は、唐の武宗の廃仏(会昌の廃仏、845年)時に禁圧されました。

 ゾロアスター教も伝来し、けん(示へんに夭)教と呼ばれ、ゾロアスター教は古くからペルシア人に信仰された宗教で、ササン朝では国教とされた宗教です。
ゾロアスター教は、既に北朝の頃に伝来していましたが、唐代に入ってペルシア人(当時、胡人と呼ばれた人々の多くはペルシア人でした)が盛んに往来した結果、各地に寺院が建てられ繁栄しますが、その信者の多くは胡人で、けん教も会昌の廃仏時に禁圧を受けました。

 ペルシアからは、マニ教も伝来し、摩尼教と呼ばれました。
マニ教は、ササン朝時代に、ゾロアスター教、キリスト教、仏教を融合した教えを説き、ササン朝で異端とされ禁止された宗教です。
国外に流布し、中国には7世紀に伝来し、8世紀には長安に寺院も建てられたのですが、信者の多くは胡人で在り、やはり会昌の廃仏時に禁圧を受けました。

 イスラム教は、7世紀後半、高宗の時代、アラブ人によって海路伝えられ、華南の港市に寺院が建てられ、信仰され後に華北にも広まっていきます。
中国では回教、回回(ふいふい)、清真(せいしん)教とも呼ばれ、その寺院は清真寺と呼ばれ、因みに清真料理と言えば豚肉を使ってない料理のことです。

 中国の三大宗教である儒教、仏教、道教もそれぞれ栄えました。

 道教は、祖とされる老子の姓名が李耳(りじ)で、唐室の李氏と同じであった事から、唐室祖宗の教えとされ、特別の地位を与えられて仏教の上位に置かれたのですが、寺院、僧侶の数や財力では仏教に遥かに及びません。

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玄奘

 仏教も、帝室や貴族の保護を受けて大いに栄え、唐代の仏教史上、最も有名な出来事は玄奘のインド訪問です。
玄奘(602年~664年)は、13歳で出家し、各地の師の下で仏教の教義の研究を行いましたが、仏典が十分揃っておらず、多くの疑問を解く事が出来ませんでした。
その解決の為にどうしてもインド渡航を考え、インド渡航を朝廷に請願したが許されません。
仲間の僧は諦めましたが、玄奘は諦めることが出来ず、国外に出る事を禁止する国禁を犯して、単身密出国を犯して玉門関を通過しました(629年)。

 玄奘は、高昌(現在のトルファン)で大歓迎を受け、帰路立ち寄ることを約束して高昌を出発し、天山南路を経てパミール高原を越えるという大変な難行の末、北インドに入り、インド各地を巡った後に、ナーランダ学院(5世紀、グプタ朝の時建立された仏教教学の一大研究所)で5年間学び、この間ハルシャ・ヴァルダーナ王にも謁見します。

 膨大な経典とともに再び陸路を経て、太宗の貞観19年(645年)に帰国を果たしました。
太宗はその知らせを聞いて大いに喜び、彼に玄奘三蔵の号を贈り、仏典の翻訳に援助を与えたのです。
玄奘は、帰国の翌年(646年)に、この大旅行の様子を「大唐西域記」として著し、この書物は当時の中央アジア、インドの状況を伝える貴重な史料として現在に至っています。
この旅行記をもとに、16世紀、明の呉承恩が書いた長編小説が、孫悟空等の活躍で有名な「西遊記」で在り、三蔵法師のモデルが玄奘なのです。

 玄奘は勅命によって、大慈恩寺(648年に建立)に迎えられ、インドから持ち帰った仏典の翻訳にあたり、亡くなるまでの18年間に「大般若経」など75部1335巻の漢訳を行いました。
大慈恩寺内に建てられた大雁塔は、これらの仏典、仏像を火災から守るために建てられた(652年)塔なのです。

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義浄の仏典翻訳の場所となった小雁塔(薦福寺)

 玄奘の死から7年後の671年、義浄(635年~713年)も、広州から海路インドに向かい、25年の間に東南アジア、インド等30カ国を訪れ、インドではナーランダ学院で学び、多数の仏典を携えて、再び海路帰国(695年)しました。
則天武后の出迎えをうけて洛陽に入り、勅をうけて仏典の翻訳にあたり、54部221巻を漢訳し、著書の「南海寄帰内法伝」は、旅行中の681年~691年、シュリーヴィジャヤ滞在中に、それまでの見聞を記したもので、当時の東南アジア諸国、インドの様子を知るための貴重な史料となりましした。

 唐代の仏教では、禅宗、浄土宗、密教が普及するようになり、後に日本に伝えられ、平安、鎌倉仏教に大きな影響を及ぼすことになります。

ジョークは如何?

 第二次世界大戦の頃である。イギリス軍は北アフリカ戦線において「砂漠の狐」と呼ばれたドイツ軍のロンメル将軍に散散な目にあわされていて、本国のイギリス議会では「司令官を更送せよ」という声が高まっていた。

 時の首相チャーチルは「責任者としてどうするつもりだ!」と叫弾をぶつけてきた議員に、「君ならどうするかね?わが大英帝国の北アフリカ司令官として、誰が最も適任だと考えているかね?。」と鋭く切り返した。

 よく文句ばかりつけるが何の代案ももっていない人間がいる。
チャーチルの切り返しは実に見事だったが、それに負けない名答が返されたのだ。

「ロンメル将軍!。」

続く・・・
2014/10/12

歴史を歩く51

11東アジア文化圏の形成⑤

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4 唐の盛衰(その4)

 安史の乱は平定されましたが、長安、洛陽等の都市や農村は荒廃し、唐を支えた三本柱である均田制、租庸調制、府兵制は崩壊し、この反乱を機に国力は衰退して行きました。

 唐は、安史の乱をウイグルの援助で平定した為、以後北からのウイグルと西からの吐蕃の侵入に脅かされる結果となり、特に吐蕃には一時長安を占領され (763年)、 西域地方は彼等の支配下に置かれ、唐は其れまでの征服地の大半を失いました。

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 唐の弱体化に乗じて異民族の侵入が繰り返される中で、当初辺境にのみ置かれていた節度使が、内地にも置かれる様になり、その数は40から50にも及びました。
彼等は、その地方の軍事権のみならず、政治、財政権も掌握した上に軍閥を形成し、中央から独立した勢力となり、次第に藩鎮と呼ばれる様に成っていきます。

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宦官

 中央では、宦官が財政、軍事権を握るようになり、宦官は憲宗(11代、在位805年~820年)を殺害して穆宗(ぼくそう)を擁立し以後、宦官は皇帝を殺害、追放して次の皇帝を立て、継承権の在る皇太子を廃しては意のままになる人物を皇太子に立てて行きます。
文宗(14代、在位826年~840年)は宦官の排除に失敗し、宦官勢力は以後益々強まって行きました。

 この間、徳宗(9代、在位779年~805年)は、安史の乱後の回復を図り、楊炎(727年~781年)の献策によって両税法(後述)と呼ぶ新税法を実施します(780年に全面実施)。
画期的税制改革を断行した結果、財政は一時好転したものの、後に再び財政難に陥り、財政の立て直しの為の増税、宦官や節度使の横暴、外民族の侵入による軍事費の増大等は、結局人民に負担増としてのしかかってきます。

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人民と黄巣

 こうした中で、逃亡して流民となる農民が続出し、貧富の差は益々大きくなり、社会不安が増大していきました。
この様な状況の中で黄巣の乱(875年~884年)が勃発します。

 黄巣(?~884)は、山東省に生まれ、科挙を目指しましたが数度受験に失敗し、後に塩の密売人となって富裕となり、多くの侠客を養っていました。

 塩は言うまでもなく生活必需品ですが、唐はこれを専売とし、重要な財源でした。
唐の財政が窮乏する中で、塩の価格は上昇に上昇を続け、750年に1斗10銭であったものが、788年には370銭にも成りました。
塩の密売人は、政府の価格より安く売っても大きな利益を得ることが出来、貧しい人々からは喜ばれました。
彼等は大規模な組織を作り、自ら兵を養って武装して行商を行い、貧しい農民や流民を養っていきます。
 
 同じ塩の密売人の王仙芝(?~878年)が、河北で挙兵し(875年)、山東に進出してきました。
黄巣はこれに呼応して河南、山東を荒らし回ったものの、王仙芝が唐の官職につられて投降しようとした結果、これと別れ王仙芝が敗死した後、その軍を吸収して江南、福建を経て広州を陥れ、そこから北上して長江流域に進出し、北上して洛陽、長安を占領 (880年)、帝位に就いて国号を大斉と称しました。

 長安に入った時、反乱軍は60万に達していました。
しかし、唐の反攻に遭遇して長安を撤退し(883年)、故郷の近くの泰山で自害 (884年)しました。

 黄巣の乱は略10年にわたり、四川以外の殆ど全中国を荒掠しました。
唐が安史の乱後も150年間近く続いたのは、経済の中心である江南が荒廃を免れた為ですが、その江南が荒掠された事は、唐に決定的な打撃を与える事となり、唐は衰退の一途をたどります。
日本からの遣唐使が廃止(894)された理由の一つは、黄巣の乱によって中国への渡航が危険になった事でした。

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 朱温(852年~912年)は黄巣の乱の有力な部将の一人で、彼は安徽省に生まれ、早く父を失い、母と貧しい生活を送っていたましたが、黄巣の乱が起こるとこれに加わります。
しかし、黄巣軍が長安を占領したものの略奪、放火、殺人等で人心を失うと、黄巣を見限って唐に寝返り、「全忠」の名を与えられ(以後、朱全忠と呼ばれる)、開封の節度使に任じられました(883年)。朱全忠は、黄巣の乱鎮圧の功によって着々と力をつけ、昭宗(19代、在位888年~904年)を殺害して、哀宗(20代、唐最後の皇帝、在位904年~907年)を即位させ、哀宗に迫って禅譲させ、907年遂に皇帝となり、国号を梁(後梁:こうりょう)と改め、都を開封に定めました。
こうして20代、約290年間続いた唐は終に滅亡しました。
 
5 隋・唐の社会

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均田制、租庸調制の概念

 隋の文帝は、国家権力の強化に努め、貴族の力を弱める為に均田制を施行して大土地所有を制限し、租庸調制、府兵制を行いました。

 唐も隋の制度を継承し、均田制、租庸調制、府兵制を実施し、この3つの制度は、唐を支える三本柱であり、お互いに密接に関連しており、その一つが崩れると全部が崩れる性格のものでもあったのです。

 唐の均田制は、高祖の代に隋の制度をもとに制定され (624年)、丁男(21歳から59歳)と中男(16歳から20歳)に口分田(穀物を植える土地)80畝と永業田(桑、麻を植える土地)20畝、計100畝を支給しました。
100畝は、日本の5町5反で約5.5haの相当し、1haは10000平方メートルである為、日本の農地の規模から見ると広大な土地でした。
日本の班田収授の法に於ける口分田は2反(約23a)で、口分田はその人一代に限って使用が認められ、死ねば国家に返還させましたが、永業田は子孫への世襲が認められていました。

 この他に、官人永業田(高級官僚への永業田、官位により広さは異なるが、大きなものは1万畝)、職分田(官職に応じて授ける土地)、公廨田(こうかいでん、官庁の公費にあてるための土地)等が在り、老男、身体の不住な人、寡婦、丁男のいない戸主、商工業者、僧侶、道士(道教の僧)・特殊身分への給田もあったのです。

 均田制が始まった北魏では、妻、奴婢更に耕牛に迄土地が支給されましたが、隋では奴婢や耕牛への支給がなく、更に唐では妻への支給もなくなり、成年男子が支給の対象とされました。

 政府は農民に土地を均等に与える事によって、自作農を増加させ、土地への定着を図り、均田農民に租税と兵役を負担させ、同時に貴族の大土地所有を制限しようと試みたのですが、全国で土地の支給と返還がどの程度行われたかは良くわかっていません。

 土地を支給される代わりに均田農民には租・庸・調が課せられました(624年制定)。
 唐の租は粟(ぞく、外皮がついたままの穀物)2石(1石は26.73kg)、庸は年間20日の無償労働又は1日絹3尺(1尺は31.1cm)・布(あさぬの)3.5尺の割で換算した代償、そして調は絹2丈(1丈は10尺)と綿(まわた)3両(1両は37.3g)又は布2.5丈と麻3斤(1斤は222.7g)でした。
この他に雑徭(ざつよう、ぞうよう)と呼ばれ地方での土木事業等に労役を提供する制度が在り、年間40日以内(50日説も存在)とされていました。

 府兵制は、西魏で始まり隋、唐で整備された兵農一致の兵制です。
唐では全国に折衝府(せつしょうふ、全国の約600カ所に設置された軍営、その8割は長安、洛陽周辺に在り、府兵の徴集、訓練、動員などを司った)を置き、丁男中から強健な府兵を選び農閑期に訓練し、国都の衛士及び辺境の防人になりました。兵役期間中の租庸調は免除されましたが、武器、衣服は自弁でした。
636年に制定されましたが、均田制崩壊による均田農民の没落と共に、募兵制に変化し、749年に廃止されました。

 唐に於いて、貴族は父祖の官位に従って任官する蔭位(おんい)の制によって官僚となり、上級の官職を独占していました。
しかも、唐の均田制では、官人永業田や職分田等官僚を優遇する制度が存在し、高級官僚では永業田だけで100頃(けい、1頃は100畝)、下級官僚でも職分田と永業田を合わせると4頃在りました。
従って高級官僚を出した一族は、数代経つと永業田が蓄積されて大土地所有者となり、貴族による大土地所有制が事実上認められていたのです。

 元来、国家から支給された土地を売買することは禁止されていましたが、高宗の頃には土地の売買が行われるようになり、貴族、官僚、寺院等による土地の兼併が進み、大土地所有制が進展しました。これ等の貴族等の所有地(私有地)は荘園と呼ばれ、貴族は荘園を奴婢や半奴隷的な小作人に耕作させたのです。

 均田制は、8世紀の初め頃から行きづまりだしました。
人口が増加し、土地が不足する様になり、土地の支給や返還が上手く行かなくなり、農民や官僚に与えられた永業田が売買されていきました。
更に、産業や商業が発達して貧富の差が大きくなり、貴族や新興の地主等は、山林、沼沢、辺地を開発して荘園を広げ、貧しい農民の土地を奪い荘園をいっそう広げていったのでした。

 均田農民の負担のうち、租、調の負担はあまり重くありませんでしたが、農民を苦しめたのは庸と徴兵でした。
玄宗の時代、外征に多くの農民が狩り出され、農地は荒廃し、特に安史の乱後、政治的混乱の中で、土地を捨てて、当ても無くさまよう流民の群が各地にうまれました。
その一方で、没落して逃亡した農民を労働力とする荘園が益々発展していきました。
均田制が上手く行かなくなると、府兵制は実施困難となり、募兵制が行われる様になりました。
玄宗は723年に12万人の兵を募集したとの記録が在ります。
募兵制の発達により、府兵制は749年に廃止されました。

 又均田制の崩壊と共に、租庸調の税制も行われなくなり、唐の財政は窮乏します。
こうした状況を打開する為に実施された税制が両税法と呼ばれる新税制です。

 徳宗(9代、在位779年~805年)は、安史の乱後の回復をはかり、楊炎(727年~781年)を宰相に任命し、楊炎の意見を入れて、780年に両税法を全面的に実施しました。

 両税法は、現住地で(土地を捨てて移動した農民を、元の土地に戻す事を放棄し、現に居住する場所で課税)、実際に所有している土地や資産の額に応じて(均田制では租は粟2石というように税は均等でしたが、両税法では多くの土地、資産を所有する人からは多くの税を徴収しようとした。これは唐が大土地所有制を認めた事を意味します)、 夏6月(麦の取り入れ期)と秋11月(稲の取り入れ期)の年2回徴収する(ここから両税法の名が来ている、両は二つの意味)税法で、銭納を原則とし(実際の納入には、粟や布帛などの代納を認めた)、単税主義(今までは租庸調以外にも雑多な税があったが、税を一本化した)を採りました。

 この両税法の施行によって、唐の国家財政は一時的に好転します。
しかし、楊炎は、政敵を暗殺し、独断専行した為、徳宗の信任を失い、又藩鎮(節度使)の反感を受け、宰相の地位を追われ、左遷されて赴任する途中で自害を命じられます。

 両税法は、その後、土地税の性格を強め、宋、元、明に受け継がれ、明の中期に一条鞭法が実施される迄、ほぼ800年に亘って続く事になる画期的な税法でした。

 こうして、唐を支えた三本柱である均田制、租庸調制、府兵制は、安史の乱後、完全に崩壊し、行われなく成りました。

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ジョークは如何?

外国新聞の特派員がチェコ人にきいた。

「あなたはソ連人を友人と考えていますか? それとも兄弟と考えていますか?」

チェコ人は答えた。

「もちろん、兄弟ですよ。友人は自分で選ぶものですからね。しかし兄弟だと選べませんから。」

続く・・・

2014/10/07

歴史を歩く50

11東アジア文化圏の形成④

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玄宗皇帝と楊貴妃

4 唐の盛衰(その3)

 睿宗は2年後に、位を皇太子の李隆基に譲り、李隆基は28歳で即位しました。
李隆基こそが中国史上有名な皇帝である玄宗(685年~762年、唐王朝6代、在位712年~756年)で、玄宗は、翌年、年号を開元(713年~741年)と改めました。

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玄宗

 玄宗は、即位すると名臣、賢臣の助けを得て、不要の官職を除く等の官僚機構の整理を実行し、土地を不法に占有している者からその土地を取り上げ、流民を戸籍に編入して、空き地を与えて耕作に従事させ、又府兵制(徴兵制)に変えて、募兵制を採用(723年に始まり、府兵制の廃止は749年)ます。
更に異民族の侵入に備えて、辺境に募兵から成る軍団を置き、この軍団の総司令官は節度使と呼ばれ、710年に置かれた河西節度使(甘粛省西部)が最初で、玄宗の時代に10の節度使が置かれました(後には40~50を数える)。
この様な諸改革に取り組み、唐の支配体制の立て直しに専念したことから、玄宗治世前半の善政は「開元の治」と呼ばれます。

 しかし、長い治世の後半には、次第に政治に倦(う)み、特に寵愛した武恵妃を失ってからは(737年)、失意の生活を送る一方で、美女を捜す使いを全国に出したのですが、そのような時、玄宗の目にとまった人物こそが有名な「世界三大美女」の一人である楊貴妃(719年~756年)なのです。

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楊貴妃と玄宗

 楊貴妃、本名は楊玉環、父は四川省の県役人でしたが早く亡くなり、叔父に養われ、その美貌をかわれて、玄宗の第18子の寿王の妃となり、玄宗が華清宮(長安の東、驪(り)山の温泉宮)に行幸したときに見初められます(740年)。

 玄宗は、楊玉環を寿王と離別させ、道観(道教の寺院)に入れて女道士とし、やがて宮中に召します(744年)。
この時、玄宗は59歳、楊貴妃は25歳で、翌年、楊玉環は貴妃(女官の最高位)となり(745年)、玄宗の寵愛を一身に受け、楊一族は高位、高官に抜擢されますが、その一人が楊国忠です。

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楊国忠

 楊国忠(?~756年)は楊貴妃の従祖兄の間柄でしたが、若い時は素行が修まらず、酒や博打に凝るならず者で、一族から爪弾きにされていました。
楊貴妃を頼って長安に出てくると、たちまち高官に抜擢され、財政手腕を認められて、玄宗の信任を得て、ついに宰相となります(752年)。

 今や役人は楊氏一族の為に奔走し、人々は楊氏一族に取り入ろうとし、楊家の門前には賄賂を積んだ車がひしめき合ったと云われています。

 玄宗と楊貴妃は、華清宮に遊び、玄宗は政治を省みず、国政は乱れました。
玄宗と楊貴妃のロマンスは白居易(白楽天)の有名な「長恨歌」に歌われています。

 権勢を誇る楊国忠と対立するようになった人物が安禄山(705年~757年)で、安禄山は、ソグド人(現在のウズベク共和国の辺りに居住した人々)の父とトルコ人(突厥)の母の間に生まれた雑胡(混血児)でしたが、父が早く亡くなり、母が突厥人の安氏と再婚したので安姓を名乗ります。
成長して蕃市(外国商品を取り引きする市場)の仲買人となったことから、安禄山は6カ国語を自由に操ったと云われています。

 後に范陽節度使(北京付近に設置)に仕え、中央の官吏に賄賂を送り、次第に位を上げ、終に平盧(へいろ)節度使(現在の遼寧省に設置)となりました(742年)。
翌年、玄宗に謁見し、以後玄宗、楊貴妃に取り入り(後に楊貴妃の養子となる)、范陽節度使を兼任し、更に河東節度使(洛陽の西に設置)となり(751年)、3つの節度使を兼ねて、約20万人の大軍を擁する大軍閥に伸上りました。
安禄山は晩年になるに従って肥満し、体重は330斤(約200kg)あり、腹は膝の下まで垂れていたと云われています。

 楊国忠は、強大な軍を擁するようになった安禄山を警戒し、両者は次第に対立を深めて行きます。玄宗が安禄山を宰相に任命しようと考えた時、楊国忠は激しく反対しこの人事は流れますが、これを恨んだ安禄山が反乱に踏み切ったとも云われています。

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安禄山の乱

 755年11月、安禄山は「姦臣楊国忠を除く」と称して、范陽で挙兵、(安史の乱、755年~763年)、20万の安禄山軍は、破竹の勢いで進撃し、僅か1ヶ月で洛陽を陥れ、安禄山は大燕皇帝と称します(756年)。
唐軍は、高仙芝(こうせんし、高句麗出身で唐に仕えた武将、西域に遣わされ、751年に中央アジアのタラスでイスラム軍と戦って敗れる)や顔真卿(709年~786年、唐の政治家、特に書家として有名、安史の乱の際、平原(山東)の太守であったが、義勇軍を率いて奮戦)等の抵抗も虚しく、安禄山軍は潼関(どうかん、長安の東の関所)を占領します。

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顔真卿

 長安陥落を目前にして、玄宗、楊貴妃、楊国忠らは蜀への逃亡を図りますが、一行が長安の西、馬嵬(ばかい)に辿り着いた時、飢えた兵士達は楊国忠を殺し、更に楊貴妃を殺せと要求します。
玄宗はやむなく宦官の高力士に命じて、楊貴妃を仏堂の中において絹で絞殺させました(756年)。

 その頃、洛陽に居た安禄山は眼病を患って失明し、皮膚炎に悩まされ、遊楽にふけり、粗暴な振る舞いが多くなり、ついにその子、安慶緒に殺され (757年)ますが、安慶緒も安禄山の部下であった史思明(?~761年)に命を絶たれます。

 史思明も、ソグド人と突厥の混血児で、安禄山と同郷の出身で、早くから安禄山と親しく交わり、その反乱に従いました。
史思明は、安禄山が殺されると安慶緒と合わず、唐に降ったものの再び叛いて安慶緒を殺し、大燕皇帝を称しました(759年)。
しかし、史思明も末子を溺愛し、長子の史朝義に殺され(761年)、その史朝義も、唐を援助したウイグル軍に敗れて自害します。

 唐は、安史の乱(755年~763年、安禄山と史思明の名を取って呼ばれる)の鎮圧に苦労するものの節度使を増強し、ウイグルの援助を得て、反乱軍の内紛にも乗じて、9年に及んだ反乱をやっと平定することが出来ました。

 この間、玄宗は蜀に逃れて、子の粛宗(7代、在位756年~762年)に位を譲り、長安が回復されると、長安に戻ったものの(762年)、粛宗との間がうまくいかず、幽閉同然の余生のうちに没しました(762年)。

長恨歌・白居易

漢 皇 重 色 思 傾 国    御 宇 多 年 求 不 得
漢の天子は女色を重んぜられすばらしい美人を得たいと思っておられたが
天下を治めている間長年求められずにいた

楊 家 有 女 初 長 成    養 在 深 閨 人 未 識
楊家に娘がいてちょうどその時年頃になっていたが
奥深い女性の部屋で養育されていて誰もまだ知らなかった

天 生 麗 質 難 自 棄    一 朝 選 在 君 王 側
生まれつきの麗しい素質はそのままほおっておかれはしない
ある日選ばれて天子の側に侍る身となった

迴 眸 一 笑 百 媚 生    六 宮 粉 黛 無 顔 色
ウインクしにっこり笑うと様々な艶めかしさが表れる
天下の後宮の女官たちは見劣りがした

春 寒 賜 浴 華 清 池    温 泉 水 滑 洗 凝 脂
春なお寒きとき天子が沐浴を賜る華清宮温泉
温泉の水は滑らかにむっちりした肌に注ぎかかる

侍 児 扶 起 嬌 無 力    始 是 新 承 恩 沢 時
侍児が左右から抱え起こすとなよなよとして力無く
天子のご寵愛を受けたばかりのその時の風情である

雲 鬢 花 顔 金 歩 揺    芙 蓉 帳 暖 度 春 宵
豊かに美しい髪花のかんばせ黄金のかんざし
寝室の蓮のカーテンの中は暖かで春の夜は過ぎていく

春 宵 苦 短 日 高 起    従 此 君 王 不 早 朝
春の夜が短いのを嘆き日が高くなってからお起きになる
それからというもの君主は朝の政務をお執りにならなくなった

承 歓 侍 宴 無 閑 暇    春 従 春 遊 夜 専 夜
天子の寵を受け楊貴妃は宴席に侍り天子の側につきっきり
春は春の遊びにお供し夜は夜で天子の時間を独り占めする

後 宮 佳 麗 三 千 人    三 千 寵 愛 在 一 身
後宮には麗しい美人が三千人もいたが
三千人分の寵愛は楊貴妃一人に集まった

金 屋 妝 成 嬌 侍 夜    玉 楼 宴 罷 酔 和 春
立派な御殿で化粧を繕ってはあだめいて夜の席に侍り
玉の台(うてな)に宴の終わった後は陶然と春の雰囲気にとけ込んだ

姉 妹 弟 兄 皆 列 土    可 憐 光 彩 生 門 戸
姉妹兄弟はみなそろって諸侯に封ぜられ
なんとみごとなことよ彼らの門戸には後光がさしている

遂 令 天 下 父 母 心    不 重 生 男 重 生 女
遂に天下の父母の心は
男を生むを喜ばず女を生むのを喜ぶようにさせてしまった

驪 宮 高 処 入 青 雲    仙 楽 風 飄 処 処 聞
華清宮は高いところに有りはるか雲の中に入り込み
仙人の音楽は風に漂いあちこちに聞こえる

緩 歌 慢 舞 凝 糸 竹    尽 日 君 王 看 不 足
緩やかなテンポの歌と舞楽器の粋を凝らし
ひねもす天子は見飽きることがない

漁 陽 ヘイ 鼓 動 地 来   驚 破 霓 裳 羽 衣 曲
漁陽の陣太鼓が地をどよもして攻め来た
霓裳羽衣の曲をかき乱した

九 重 城 闕 煙 塵 生    千 乗 万 騎 西 南 行
宮城は兵乱による煙と塵が沸き立つ
天子の行列は西南をさして落ち延びていった

翠 華 揺 揺 行 復 止    西 出 都 門 百 余 里
天子の旗は揺らぎ進んでそして止まる
西の方都門を出て百余里

六 軍 不 発 無 奈 何    宛 転 蛾 眉 馬 前 死
天子の率いる軍隊は出発しようともせずどうにもならず
すんなりと麗しい眉の美人は天子の馬前で死んだ

花 鈿 委 地 無 人 収    翠 翹 金 雀 玉 掻 頭
螺鈿のかんざしは地に捨てられそれを拾い上げるものもなく
翡翠のかんざし黄金作りの雀形のかんざし玉のこうがい

君 王 掩 面 救 不 得    迴 看 血 涙 相 和 流
天子は手で顔を覆ったまま救うこともできず
振り返り見つめるそのお目には地と涙が混じり合って流れた

黄 埃 散 漫 風 蕭 索    雲 桟 エイ 紆 登 剣 閣
黄色の砂塵が一面に立ちこめ風がわびしい
蜀の桟道をうねりつつ剣閣に登る

蛾 眉 山 下 少 人 行    旌 旗 無 光 日 色 薄
蛾眉山の麓道行く人も少なくなり
旗は色あせ太陽の光までも薄い

蜀 江 水 碧 蜀 山 青    聖 主 朝 朝 暮 暮 情
蜀の川は深緑の色をたたえ蜀の山は青々とし
帝は朝な夕な心が晴れやらぬ

行 宮 見 月 傷 心 色    夜 雨 聞 鈴 腸 断 声
仮の皇居で見る月は心を傷める色をしており
夜雨に聞く鈴の音ははらわたがちぎれんばかりの音に響く

天 旋 日 転 迴 竜 馭    到 此 躊 躇 不 能 去
天下の形勢が一変しそのお車を都に向けられることになったが
楊貴妃の最期の地にたどり着くと足踏みし立ち去りかけた

馬 嵬 坡 下 泥 土 中    不 見 玉 顔 空 死 処
馬嵬の堤の下泥土の中
玉なすかんざせは見えず死んだ場所だけが空しく存在する

君 臣 相 顧 尽 霑 衣    東 望 都 門 信 馬 帰
天子も家来も楊貴妃が死んだ場所を振り返り皆涙で衣を濡らす
東の方都門を望みながら馬の歩みにまかせて帰る

帰 来 池 苑 皆 依 旧    太 液 芙 蓉 未 央 柳
宮中に帰ってみれば池も庭も昔のままである
太液池の蓮も未央宮の柳も

芙 蓉 如 面 柳 如 眉    対 此 如 何 不 涙 垂
蓮は楊貴妃の顔のようだし柳は眉のようだ
これに向かい合ったときどうして涙を流さずにおられよう

春 風 桃 李 花 開 夜    秋 雨 梧 桐 葉 落 時
春風が吹いて桃やスモモが花を開く晩
秋の雨にアオギリの葉が落つる時

西 宮 南 苑 多 秋 草    宮 葉 満 階 紅 不 掃
西の宮殿と南の庭園の秋草が茂り
御殿の庭の落ち葉は階に積もっても落ちた紅葉をだれも掃除しない

梨 園 弟 子 白 髪 新    椒 房 阿 監 青 娥 老
宮中で養成した舞楽員は近頃白髪が目立つ
皇后の部屋で宮中の取り締まりをしていた女官の若く美しい女も老いた

夕 殿 蛍 飛 思 悄 然    孤 灯 挑 尽 未 成 眠
夜の御殿を蛍が飛ぶのを見てはしょんぼりと物思いにふけり
わびしい灯心の燃えかすを切り尽くしてもまだ寝付かれない

遅 遅 鐘 鼓 初 長 夜    耿 耿 星 河 欲 曙 天
ゆったり響く鐘と太鼓がようやく秋の夜長を迎えようとする晩
きらきら輝く天の川やがて夜は明けようとする

鴛 鴦 瓦 冷 霜 華 重    翡 翠 衾 寒 誰 与 共
おしどり形の瓦は冷ややかで霜の花は重く結び
カワセミの刺繍をした掛け布団は冷え冷えとして共に寝る人もいない

悠 悠 生 死 別 経 年    魂 魄 不 曾 来 入 夢
はるかに隔てられた生と死別れてすでに年久しいが
たましいは一度も天子の夢に訪れなかった

臨 キョウ 道 士 鴻 都 客  能 以 精 誠 致 魂 魄
臨キョウの道士で長安の客人となっている人が
真心を凝らした精神力で死者の魂を呼び寄せることができる

為 感 君 王 展 転 思    遂 教 方 士 殷 勤 覓
天子が夜も眠れずに止めどなく思い煩うことに感じ
方術の士に命じて念入りに楊貴妃の魂を求めさせた

排 空 馭 気 奔 如 電    昇 天 入 地 求 之 遍
大空を押し開き大気に乗り稲妻のように突っ走り
天に昇り地に潜りて楊貴妃の魂を隅なく探し求めた

上 窮 碧 落 下 黄 泉    両 処 茫 茫 皆 不 見
上は青空の果て下は黄泉まで探した
どちらも果てしなく広く見あたらなかった

忽 聞 海 上 有 仙 山    山 在 虚 無 縹 緲 間
海上に仙人が住む山があるとふっと聞こえてきた
山は何もない空間にあった

楼 閣 玲 瓏 五 雲 起    其 中 綽 約 多 仙 子
楼閣は透き通るように美しく輝き五雲がわき起こり
その中に体つきが柔らかな仙人がたくさん住んでいる

中 有 一 人 字 太 真    雪 膚 花 貌 参 差 是
中の一人に字は太真というものがいた
雪のような白い肌花を思わせる美しい顔立ちはほぼ楊貴妃に近い

金 闕 西 廂 叩 玉 ケイ   転 教 小 玉 報 双 成
黄金作りの正殿の西側の棟の玉のかんぬきを叩く
侍女の小玉に取り次ぎさらに双成にと順次に取り次がせ

聞 道 漢 家 天 子 使    九 華 帳 裏 夢 魂 驚
漢家の天子の使いの人だと聞いて
美しい花模様を織りなした帳の中夢うつつの魂は目が覚める

攬 衣 推 枕 起 徘 徊    珠 箔 銀 屏 リ イ 開
上衣をつまみ取り枕を押しのけ立ち上がって部屋の中を歩き回る
たますだれ銀の屏風と次から次へ続いているのを開く

雲 鬢 半 偏 新 睡 覚    花 冠 不 整 下 堂 来
雲なす鬢の毛は半ば傾き崩れたった今眠りから覚めた風情
美しい冠もきちんとしないまま奥の部屋から降りてきた

風 吹 仙 袂 飄 エウ 挙   猶 似 霓 裳 羽 衣 舞
風は仙女の袂を吹いてひらひらと舞い上がり
ちょうどかつての霓裳羽衣の舞に似ている

玉 容 寂 寞 涙 闌 干    梨 花 一 枝 春 帯 雨
美しい顔立ちで寂しげに涙がはらはらと流れる
梨花一枝春雨がそぼ濡れる

含 情 凝 睇 謝 君 王    一 別 音 容 両 渺 茫
思いを込め瞳を凝らして君主にお礼を申し上げた
お別れして以来声と姿ともにはるかに遠い

昭 陽 殿 裏 恩 愛 絶    蓬 莱 宮 中 日 月 長
昭陽殿でいただきましたお恵みも絶え
蓬莱宮で長い月日が経過しました

迴 頭 下 望 人 寰 処    不 見 長 安 見 塵 霧
振り返ってはるか下界の人間の世界を望みましても
懐かしい長安は目に入らずただ一面に塵ともやが目にはいるばかり

惟 将 旧 物 表 深 情    鈿 合 金 釵 寄 将 去
ただ昔の思い出の品を取り出して切ない思いを示し
螺鈿の小箱金銀製の二股かんざしをことづけつ持って行かせた

釵 留 一 股 合 一 扇    釵 擘 黄 金 合 分 鈿
かんざしは一股を残し小箱は箱のふたと身のどちらか片方を残した
かんざしは黄金を引き裂き小箱は螺鈿を引き裂いた

但 令 心 似 金 鈿 堅    天 上 人 間 会 相 見
私たちの心をかんざしや小箱の堅固に保ちますならば
一方は天上にあり他方は俗界にあるともいつかきっとお目にかかれましょう

臨 別 殷 勤 重 寄 詞    詞 中 有 誓 両 心 知
別れるにあたって懇ろに重ねて言葉を寄せる
その詞の中には二人の心のみが知る誓いの詞があった

七 月 七 日 長 生 殿    夜 半 無 人 私 語 時
七月七日長生殿
夜更けて人影もなく二人がささやき交わしました時

在 天 願 作 比 翼 鳥    在 地 願 為 連 理 枝
天上にあっては比翼の鳥となりたいもの
地上にあっては連理の枝となりたいもの

天 長 地 久 有 時 尽    此 恨 綿 綿 無 絶 期
天地は悠久であるといってもいつかは尽きるときがある
この互いに慕い合う切ない恋はいついつまでも続いて絶えるときはないであろう

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ジョークは如何は今回休みます。

続く・・・

2014/10/03

歴史を歩く49

11東アジア文化圏の形成③

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西遊記より玄奘三蔵

3唐の盛衰(その2)

 有名な玄奘(三蔵法師)が西域を経てインドに赴き、経典等を持ち帰った時も太宗の時代のことでした。

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高宗

 太宗の子は14人居ましたが、皇后との間に生まれた3人が皇位継承権を持っていました。
長子は奇行、愚行が多かった為廃され、太宗は第4子の李泰を太子に立てようとしましたが、皇后の兄で重臣であった長孫無忌(ちょうそんむき)が強く推した第9子の李治が太子となり、太宗の崩御の後、即位して第3代皇帝、高宗(628年~683年、在位649年~683年)となります。
高宗はおとなしく、心やさしい人物でした。

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白村江の戦い

 対外的には、新羅と結んで百済(660年)、高句麗(668年)を滅ぼしますが、この時、日本は百済の復興を助けるために援軍を送ったものの、白村江の戦い(663年)で、唐、新羅連合水軍に大敗し、日本勢力は完全に朝鮮半島から一掃されました。

 西方では、西突厥を討って(657年)、中央アジアを支配下におさめ、南方でもヴェトナム中部にまで進出し、安南都護府を置いて支配します。

 こうして高宗の時代には唐の領土は最大となり、東は朝鮮から西は中央アジア、北はモンゴル高原から南はヴェトナムに及ぶ空前の大帝国となりました。

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唐最大版図

 唐は征服した周辺諸民族を統治する為に、六つの都護府を置いて統治し、太宗から高宗の時代にかけて、安南都護府(622年、ヴェトナムのハノイ)、安西都護府(640年、中央アジア)、安北都護府(647年、外モンゴル)、単于都護府(650年、内モンゴル)、安東都護府(668年、朝鮮の平壌)、北庭都護府(702年、中央アジア)を設け、都護は中央からの派遣でしたが、その部下にあたる都督、刺史(長官)には服属した在地の族長を任命するという間接統治を行いました。
このような唐の懐柔策は馬を繋ぎ止めるの意味の「覊縻(きび)政策」と呼ばれました。

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則天武后

 高宗は、長孫無忌や褚遂良(ちょすいりょう、唐の政治家、書家)等の反対を押し切り、武照を皇后とします(655年)。
武照は、中国史上唯一の女帝となる則天武后(624年/628年?~705年、在位690年~705年、武則天)です。

 則天武后の父は、山西で木材業によって一代で富をつくり、李淵が山西で挙兵したとき、これに従って長安に出て工部尚書にまで出世し、娘の武照は14歳で太宗の後宮に仕えました。
武照は、太宗の死後、尼となり世俗を離れていましたが、その寺に参詣した高宗と会い、後に後宮に迎え入れられ、たちまち高宗の心をとらえ、王皇后と蕭淑妃を失脚させ、ついに皇后の座に就きます(655年)。

 皇后となった則天武后は、反対派を除き、一族の者を重用して政権の基盤を固め、そして元来、病弱で激しい頭痛もちであった高宗が30歳を過ぎた頃から激しいめまいや頭痛に悩み、政務を則天武后に任せたことから(660年)、則天武后が高宗に代わって一切の政務を取り仕切り、次第に独裁権力を握るように成ります。

 高宗崩御の後(683年)、子の中宗(683年~684年、在位705年~710年)を第4代皇帝としますが、まもなく廃し、次いでその弟の睿宗(えいそう、684年~690年、在位710年~712年)を立て、武后の専横に対して李敬業の反乱(684年)を鎮圧した後は、密告政治によって反対派弾圧を強化、ついに690年、睿宗を廃し、自ら皇帝の位につき、国号を「周」(690年~705年、通称は武周)と改めました。
この時、則天武后は既に67歳の高齢に成っていました。

 即位後、仏教を保護し、大土木事業を盛んに行い、新しい人材の登用を行い、漢字改革も行いますが、83歳となりついに病床に付きます。
その時、臣下が決起して則天武后に譲位を迫って同意させ、地方に幽閉されていた中宗が呼び戻されて復位し、国号は再び唐に戻り、その年の終わりに則天武后は逝去します(705年)。

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韋后

 中宗の復位後、そして則天武后の没後、今度は中宗の皇后の韋后(?~710年)が政治に介入し、韋氏一族が政治の実権を握り、政権をねらった韋后は娘と謀り、中宗を毒殺します(710年)。

 しかし、中宗の死から18日後に、睿宗の三男の李隆基がクーデターを起こし、韋后とその娘を斬り、父の睿宗を復位させました。

 則天武后と韋后が政権を奪い、唐の政治を混乱させたことを「武韋の禍」若しくは「女禍」と呼びますが、これは女性は政治に口出しすべきではないとした、封建的歴史家の立場からの呼び方です。

ジョークは如何?

演壇でヒトラーがアジっている。

ヒトラー「民衆は豚だ!」

子供「父ちゃん、民衆って何?」
父「壇の上に立っている人さ」


続く・・・