2014/11/30

歴史を歩く65

13 モンゴル民族の発展③

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2 モンゴル帝国の分裂

 モンゴル帝国は、13世紀の中頃には、東は中国の華北から西は西アジア・ロシアにまたがる空前の大帝国に成長しましたが、この大帝国には遊牧地帯と農耕地帯があり、宗教や文化の異なる民族が多数存在した為、全領土を一つの国家として支配することは本来困難でした。

 チンギス・ハンが西征の後、領土を子供達に分け与えた頃からこの大帝国に分裂の傾向が現れ、フビライが大ハンの位についた(1260年)頃にはモンゴル帝国は、元と西北モンゴルのオゴタイ・ハン国、中央アジアのチャガタイ・ハン国、ロシアのキプチャク・ハン国そしてイラン方面のイル・ハン国の4ハン国に事実上分裂しました。

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 フビライ(1215年~94年)は、モンケ・ハンが即位すると、中国(華北)の大総督に任命され華北経営にあたるとともに、吐蕃(チベット)、大理(雲南)に遠征を行い、これを征服します。

 モンケが南宋攻略中に四川で病没した時、フビライは顎州(現在の武漢)を包囲しており、モンケ・ハンの直属軍は本国に引き揚げたのですが、フビライは安南(ヴェトナム)に出兵している部将を見殺しに出来ず、その北上を待って合流して長江を渡り、上都(開平)に帰還します。

 モンケ・ハンの死後、フビライは次のハンの有力な候補者でしたが、首都カラコルムに残っていた末弟のアリクブガはモンケ・ハンに最も寵愛されていたので、モンケ・ハンの死後、後事を託されていたと唱え、クリルタイでハン位に推戴されるよう画策していました。
これに対してフビライの最も有力な支持者であるフラグは、西アジアに赴いていて頼みにならず、クリルタイにおける選挙の結果は予断を許さない情勢でした。

 そこで南宋攻略のための大軍を握っていたフビライは、実力でハン位を争うことを決意し、有力者の不参加を無視して北京の北方にある上都(開平)でクリルタイを開き、推戴されて大ハンの位に就いたのです(1260年)。

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モンゴル帝位継承戦争

 フビライの即位に対しては方々で反対が起こりました。
アリクブガは、フビライのクリルタイを認めず、反対派から推戴されて大ハンを名乗り、軍備を整えて敵対し、フビライはしばしば敗北しますが、劣勢を盛り返して敵軍を破り、ついにアリクブガを降伏させます(1264年)。
こうしてアリクブガは降伏したものの、今度はハイドゥが反乱を起こします。

 ハイドゥは、オゴタイ・ハンの孫で、グユク・ハンの死後、ハン位がオゴタイ系からトゥルイ系に移ったことに不満を持ち、モンケ・ハンの即位の時に暗殺を謀ったが失敗し、封地を削減されていました。
フビライが即位してアリクブガと対立すると、アリクブガを支持して反乱を起こした(1266年)のですが、これも失敗に終わると、キプチャク、チャガタイ、オゴタイの3ハン国連合の盟主となって元朝に反抗を続けますが、戦傷が原因で没します(1301年)。
 
 この40年近くに及ぶハイドゥの乱(1266年~1301年)によってモンゴル帝国の分裂は決定的となりました。

オゴタイハン
オゴタイ・ハン

 オゴタイ・ハン国(1225年頃~1310年)は、オゴタイ・ハンおよびその子孫がジュンガリア地方に建てた遊牧国家で、首都はイリ川の西北エミールに定められました。
元朝に対してはしばしば反乱を起こし、先にも述べたハイドゥの乱がその最大のもので、後にチャガタイ・ハン国に併合されました。

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チャガタイ・ハン

 チャガタイ・ハン国(1227年~1300年代後半)は、チャガタイがイリ川からシル川にかけて建国した遊牧国家で、イリ川流域のアルマリクを都とし、ハイドゥの乱後まもなくオゴタイ・ハン国を併合したものの、14世紀にイスラム化し、内紛によって東西に分裂しました(1321年)。
このうち西チャガタイ・ハン国はティムールによって滅ぼされます。

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バトゥ・ハン
 
 キプチャク・ハン国(1243年~1502年)は、チンギス・ハンの孫のバトゥが西征の帰途に南ロシアに建てた遊牧国家で、都はヴォルガ下流のサライに置かれました。
14世紀前半に在位したウズベク・ハンはイスラム教を正式に採用し、又商業、貿易を奨励して最盛期を現出します。
しかし、14世紀末にティムールにサライを掠奪されて衰え始め、更に支配下にあったモスクワ大公国が次第に台頭し、そのイヴァン3世の時に独立した(1480年)結果崩壊しました。

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フレグと第一正妃ドクズ・ハトゥン

 イル・ハン国(1258年~1353年(1411年))は、チンギス・ハンの孫のフラグが、1258年にアッバース朝を滅ぼし、イラン地方を支配して建てた国で、都はカスピ海南西のタブリーズに置かれました。イル・ハン国は元朝と友好を保ち、キプチャク・チャガタイ両ハン国と抗争します。

 イル・ハン国は、初めネストリウス派キリスト教徒を保護し、イスラム教徒を圧迫しましたが、第7代の英主ガザン・ハン(在位1295年~1304年)は、イスラム教に改宗し、これを国教としました。又彼はイラン人のラシード・ウッディーンを宰相に任命し、セルジューク朝のイクター制を採用し、学芸、文化を保護するなどイル・ハン国の黄金時代を築きますが、その後はハン位抗争や内乱に苦しみ、14世紀後半には分裂し、その領土はティムールに征服、併合されていきました。

ジョークは如何?

第二次世界大戦でのイタリア軍の話

彼らは一週間かけて60km進軍した・・・・
イギリス軍の反撃を受けて60kmを一日で後退した・・・

イタリアの戦車には前進1速・後進6速の戦車があるらしい。

続く・・・

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2014/11/28

歴史を歩く64

13 モンゴル民族の発展②

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モンゴル帝国の家系図

1 モンゴル帝国の成立その2

 オゴタイ・ハン(太宗、1186年~1241年、在位1229年~41年)は、即位するとチンギス・ハンの宿願であった金攻略に乗り出し、南宋と結んでついに金を滅ぼしました(1234年)。
これによって淮水以北の広大な農耕地帯がその支配下に入りますが、漢人の支配にはチンギス・ハンの遺言に従って遼の王族出身の耶律楚材(1190年~1244年)を用います。

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耶律楚材

 オゴタイ・ハンはオルコン川上流のカラコルムに長方形の城壁に囲まれた中国風の首都を建設しました。
そしてカラコルムと占領地との間に公道を建設し、駅伝制(ジャムチ)を整備し、又甥のバトゥに命じてヨーロッパ遠征(1236年~42年)を行わせるなど領土の拡大に努めます。

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バトゥ

 バトゥ(1207年~55年)は、チンギス・ハンの長男ジュチの次男で、父の死後南ロシアの所領を受け継ぎ、ヨーロッパ遠征の指揮を取り、15万の大軍を率いて東欧に向い、モスクワを陥落させ、ドン川の畔で軍馬を休ませ、1年にわたって兵力を蓄えた後、ロシアの中心都市キエフを攻略(1240年)、全ロシアを征服し、バトゥの本隊はハンガリーに向かいます。

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ワールシュタット(リーグニッツ)の戦い

 副指揮官であるスブタイ率いる別隊はポーランドに侵入し、シュレジェン侯ハインリヒ2世の率いるポーランド・ドイツ連合軍がポーランドのリーグニッツ東南でモンゴル軍との戦いに敗走し、ハインリヒは戦死しますが、後にこの地はワールシュタット(死体の地)と呼ばれた、戦いもワールシュタット(リーグニッツ)の戦い(1241年)と呼ばれます。
ポーランド各地を荒掠した後、南下してバトゥの本隊と合流し、ハンガリーを征服しました。

 次は西ヨーロッパ諸国がモンゴル軍の侵略の恐怖にさらされることと成りましたが、モンゴル軍は翌年俄かに撤退を始めました。
オゴタイの死(1241年)の報が伝えられたためでした。

しかし、バトゥはモンゴル本国に帰国せず、ヴォルガ下流のサライに留まり、父ジュチの封土に南ロシアのキプチャク草原一帯を加えて、サライを都とするキプチャク・ハン国(1243年~1502年)を創建し、その初代のハンと成りました。

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モンゴル遠征図

 オゴタイ・ハンの死後、その皇后が監国となって政務を司ります。
彼女はオゴタイの子のグユクをハン位に就けようと考えたのですが、グユクとかねてより仲が悪かった最長老のバトゥはグユクの即位に反対し、南ロシアに留まってクリルタイに出席しようとしませんでした。

 オゴタイの死から5年後、バトゥ不在の中でクリルタイが開かれ、グユク(在位1246年~48年)が大ハンに選ばれて即位します、グユクは僅か在位2年で病死し、その結果汗位相続争いが再燃します。
バトゥは自等の手でクリルタイを開き、強引にチンギス・ハンの末子のトゥルイの長男モンケを第4代の大ハンに選出しました。

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モンケ・ハン

 モンケ・ハン(憲宗、1208年~59年、在位1251年~59年)は即位すると、オゴタイ系の諸王を処分し、ハンの権威の確立に努め、対外的には弟のフビライ(1215年~94年)を中国(華北)の大総督に任命して華北経営にあたらせるとともに、吐蕃(チベット)、大理(雲南)遠征を行わせ、又同じく弟のフラグをイラン方面の総督に任命し、西アジア遠征を行わせました。

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モンゴル軍、フラグのバグダット包囲

 フラグ(1218年~65年)は中央アジア、カスピ海南岸を経て、アッバース朝の首都バグダードに至ってこれを攻撃し、翌年バグダードを陥れると共に掠奪、虐殺を行い街を焼き払います。
此処に500年間渡って繁栄したアッバース朝は終に滅亡しました(1258年)。

 フラグは次いでシリアを征服し、更にマムルーク朝治下のエジプトへ侵入を試みますが撃退され、イランに戻ったフラグはこの地にイル・ハン国(1258年~1353年)を建国しました。

 フラグ・ハン(在位1258年~65年)は、モンケ・ハンの死(1259年)に際し、帰国を諸事情から断念し、イランに留まり、兄フビライが大ハン位を継ぐと(1260年)元朝と友好関係を保ち、キプチャク・チャガタイ両ハン国と抗争を繰り返しました。

 モンケ・ハンは、自等は南宋攻略に出陣しましたが(1258年)、四川の陣中で病没し(1259年)、
こうしてモンゴル帝国は13世紀の中頃迄には、東は中国の華北から西は西アジア・ロシアにまたがる空前の大帝国へと成長しました。

ジョークは如何?

1941年9月、ドイツ軍がレニングラードに侵攻し、たちまち包囲されてしまった。
ソ連軍の善戦のもと、戦いは膠着状態となった。
1日も早くレニングラードが解放されることが期待されたが、ある日、守備隊長から、至急あるものを送って欲しい、という電報が届いた。
武器が足りなくなったのかと思ったら、
「もっと度数の強いウォッカを送って下さい。戸外の温度は-45度、ここにあるウォッカの度数は40度。とても戦争にはなりません。」


続く・・・

2014/11/25

歴史を歩く63

13 モンゴル民族の発展

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モンゴル帝国最大版図:イェケ・モンゴル・ウルス ”Yehe Monggol Ulus.png Yeke Monγγol Ulus”「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」

1 モンゴル帝国の成立

 モンゴル高原は、東は大興安嶺から西はアルタイ山脈、南は陰山山脈から北はシベリアに至る高原の砂漠、草原地帯です。
ゴビ砂漠によって南北に分けられ、北を外モンゴル、南を内モンゴルと呼びます。

 モンゴル高原では、古くからモンゴル系やトルコ系の遊牧民族が活躍してきましたが、9世紀頃にトルコ系のウイグル人が西方に移動した後は、モンゴル系諸部族の居住地と成りました。

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モンゴル帝国成立以前のモンゴル高原

 10世紀以後、契丹人が遼を建国して強大となると、モンゴル諸部族の多くはこれに服属しますが、12世紀初めに遼は金に滅ぼされ、しかも金の勢力は外モンゴルに及ばなかった結果、モンゴル高原の諸部族はその勢力を拡大しようとして争いを繰りひろげていきます。

 言うまでもなく、遊牧民族の財産は馬、羊等の家畜ですが、その家畜を養うためには水と草が必要で、モンゴル高原には肥沃な草原地帯はそれ程に多く在りません。
古来、豊かな草原地帯として知られてきたのが、外モンゴルの中央部にあるオルコン川やセレンガ川一帯の草原地帯でした。
モンゴル部もオノン川、ケルレン川の畔を根拠地として、西方のオルコン川やセレンガ川流域への進出の機会をねらっていたのです。

 そのモンゴル部に、12世紀後半、一人の英雄が現れます。
世界史上最も有名な人物の一人であるチンギス・ハンです。

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チンギス・ハン

(1162年~1227年、生年については異説が在り)、幼名テムジン(鉄木真)はモンゴル部の有力な部将イェスゲイの子として生まれたのですが、テムジンが13歳の時に、父がタタール部によって毒殺されたため、父の部下の多くが離散してしまい、テムジン一家(母と5人の子)は窮乏のどん底に陥りました。
一家はブルカン山に逃れ、木の実や草の根をも食べながら困窮の生活に耐えたのです。

 こうした逆境の中でテムジンは、草原の戦いに参加して鍛えられながら優れた指導者に成長していきます。
そして同族のジャムカやケレイト部のワン・ハンと同盟して勢力の拡大に努め、やがてモンゴル部の長に推戴され(1188年)、その後、金と協力して父の仇敵であったタタール部を破ります(1196年)。テムジンの勢力が強まるとワン・ハンとは敵対することと成りましたが、これを破ってケレイト部を滅ぼし(1203年)、更にナイマン部、メルキト部を滅ぼしていきました。

 ジャムカはこの時ナイマンの陣営に加わっていたのですが捕らえられて殺され、もはやモンゴル高原にはテムジンに敵対する勢力は存在しませんでした。

 1206年に全モンゴルの部族の長が集まって開かれたクリルタイ(モンゴル語で「集会」の意味、有力者が集まり、ハンの選定、遠征の決定、法令の発布など国家の重要事を合議、決定する)で、テムジンは全モンゴルのハン(カン、汗、突厥、ウイグル、モンゴルの君主の称)に推戴され、チンギス・ハンの尊称を与えられました。
チンギスとは、「強大」を意味する語とも、シャーマニズムにおける最高神「光の神」の意味とも言われています。

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チンギス・ハンと愛馬ホユルザガル、背後に聖地ブルカン山地

 チンギス・ハン(太祖、成吉思汗、在位1206年~1227年)は、全モンゴルを統一すると、モンゴル帝国(1206年~1271年)の建国の功臣88人を千戸長に任命し、95の千戸を編成しました。
この千戸制は、全遊牧民を95の千戸集団に分け、それぞれを更に百戸、十戸に分けて、各々に長を置く軍事、行政組織で、モンゴルの強力な軍事力の基礎となったのです。

 チンギス・ハンは、全モンゴルを統一すると、シルク・ロードの貿易による利益に着目し、これを手中に収めるために侵略の矛先をシルク・ロードの確保、支配に向け、まず西夏に侵入、これを屈服させ(1209年)、更に金を攻撃して和議を結び、多額の金銀、絹、馬を贈らせることを約束させました(1214年)。

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西夏攻略

 この頃、西アジアのホラズム朝が和平の使節を送ってきます。
チンギス・ハンも莫大な贈り物とともに返礼の使節を送ったのですが、その隊商隊がホラズムのオトラルに着いた時、その町の長は使節を殺し、物資を掠奪する事件が起こり、このことがチンギス・ハンの大規模な西征のきっかけと成りました。

 チンギス・ハンは、中央アジアに軍を進め、西遼(カラ・キタイ)を滅ぼしてその故地を奪ったナイマン部を滅ぼし、翌1219年に20万の大軍でホラズム朝に侵入、オトラルついで首都のサマルカンドを陥落、抵抗する住民を皆殺しにした挙句、あらゆる財物を掠奪し、ホラズム朝を事実上滅亡に追い込み(1221年)、更に逃げるホラズムの王子を追って西北インドに侵入し、別働隊はイラン、南ロシアに侵入し、これを征服しました。

 チンギス・ハンは、次男チャガタイ、三男オゴタイ、末子トゥルイとともにモンゴル高原に凱旋したのですが(1225年)、長男のジュチは南ロシアに留まりました。

 チンギス・ハンは、帰国後征服した広大な領域を一族の者に分け与え、長男ジュチに南ロシアを、次男のチャガタイに中央アジア西部を、三男オゴタイに中央アジア東部を、そして末子のトゥルイにはモンゴル本土を相続させようとします。
モンゴル民族をはじめ遊牧民族の間には末子相続の慣習があり、この時点ではチンギス・ハンの所領はトゥルイが相続すると考えられていました。
南ロシアに留まっていたジュチはまもなく亡くなり、その後をジュチの子のバトゥが継承します(1224年乃至25年)。

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オゴタイ・ハン

 チンギス・ハンは帰国後、休む間もなく西夏に遠征し、終に西夏を滅ぼしたのですが、その帰途の陣中で没し(1227年)、チンギス・ハンの死後、モンゴルの慣習に従って末子のトゥルイが国政を執り、次のハンを選定するクリルタイもトゥルイによって召集されました(1229年)。
クリルタイではトゥルイを推す者も多かったのですが、チンギス・ハンの遺言によって三男のオゴタイがハンに推戴されます。
オゴタイは温厚な性格で、仲が悪かった長男ジュチと次男チャガタイの不和をいつも調停する等、人望もあったので、チンギス・ハンはオゴタイを後継者にしたといわれています。

ジョークは如何?

1937年、ロシアの偉大な詩人アレクサンデル・プーシキンの死後百周年を記念して、ソ連政府はプーシキン記念像のコンクールを公布した。様々なアイデアが殺到した。
厳正な選考の結果、次の三つの作品が佳作となった。
「コーカサスの頂きに立ち、はるか彼方を眺めるプーシキン。」
「決闘の敵手の弾丸を胸に受け、まさに倒れんとするプーシキン。」
「ミューズの手から月桂冠を戴くプーシキン。」
 だが、一等賞を獲得したのはこんな作品だった。
「プーシキンを読むスターリン。」

続く・・・

2014/11/23

歴史を歩く62

12中国社会と北方民族⑦

7 宋代の文化

 宋代の文化の特色は、中国的、国粋的な文化でり、士大夫(社会的には農工商に対して読書人、知識人階級を指し、官界では科挙出身の高級官僚を指す)を中心とした学問、文芸が発達し、商工業の発達によって力をつけてきた都市の庶民が文化の担い手となり庶民文化が栄えたことなどがあげられます。

1、学問・思想

 宋は軍事的に弱体で北方民族の圧迫に苦しめられた為、その文化は中国的、国粋的なものとなりましたが、此れは学問、思想の面によく表れていると思います。

 儒学では宋学がおこり、南宋の朱熹によって大成されました。

 宋学は、唐代迄の儒学が経典の字句の解釈を中心とする訓詁学が中心であったことへの批判から、細かい字句の解釈にとらわれず、経典を自由に解釈し、儒学の精神、本質を明らかにしょうとした新しい儒学です。

周敦頤
周敦頤

 宋学は北宋の周敦頤(1017年~73年)に始まり、彼は「大極図説」を著し、大極と名づける宇宙の本体から万物、人間、聖人が生ずるとし、人は学んで聖人になりうると説いて宋学の始祖とされました。
彼の説は弟子の程顥(1032年~85年)、程頤(1033年~1107年)によって更に発展しました。

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程顥、程頤兄弟

 周敦頤、程顥、程頤等の学説を発展させて宋学を集大成した人物が南宋の朱熹(朱子、1130年~1200音)で、彼は19歳で科挙に合格し、後に皇帝の侍講となりましたが、権臣に憎まれてわずか45日で辞職し、以後70歳で辞官する迄、其の殆どを名目的な奉祠の官(道教寺院の管理官)に留まりました。

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朱熹

 朱熹は、「理気説(理気二元論)」(宇宙、万物は、理と気からなり、理は人、物の性(本性・本質)であり、気は物質・存在を意味し、この理と気が結びついて万物が存在するという二元的存在論)に基づいて、これを人間の道徳に応用し「性即理」(心の本体である性は理であるから、気(欲望)を捨てて理にしたがって生きることを理想とする倫理説)を説き、その学問方法として「格物致知」(物の理をきわめて、知をつくすこと)を唱え、従来儒教の聖典とされてきた「五経」よりも「四書」(大学、中庸、論語、孟子)を重んじたのでした。

 漢民族は古くから中華思想を持ち続け、自等を中華と誇り、周辺の異民族を戎狄蛮夷(じゅうてきばんい)と呼んで蔑視してきました。
ところが南宋は華北を金に奪われ、金に臣下の礼をとらざるを得なかったことから、朱熹は北宋の司馬光らも唱えた「大義名分論」(上下関係の秩序を重んじ、君臣・父子の身分秩序を正そうとする思想的立場)、「正統論」を唱え、華夷の区別を論じ、「資治通鑑綱目(通鑑綱目)」を著して君臣、父子の道徳を絶対視して宋の君主独裁制を思想的に支えました。

 宋学は、朱熹によって大成されたので朱子学とも呼ばれ、又程朱学、理学、性理学とも呼ばれます。朱子学はその後長く儒学の正統とされ、朝鮮や日本の思想に大きな影響を与え、李氏朝鮮(李朝)は朱子学を官学とし、江戸幕府も統治理念として朱子学を採用しました。

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陸九淵

 朱熹とほぼ同時代に活躍した南宋の陸九淵(陸象山、1139年~92年)は、朱熹の「性即理」説に対して「心即理」説を唱えます。
彼は宇宙本体の理は個人の心であり、心をさぐれば理が見いだせると説いて朱熹と対立し、朱熹が学問、知識を重んじたのに対し、道徳の実践を重んじます。
その説は明代に王守仁(王陽明)に受け継がれ、陽明学の源流と成ります。

 儒学以外の学問の分野では、民族意識の高まりのなかで歴史学や地理等の学問が重要視され、「新唐書」(欧陽脩らの撰、唐一代を記した紀伝体正史)や「新五代史」(欧陽脩撰、五代の紀伝体正史)等の多くの歴史書が著された中でも、司馬光の「資治通鑑」は特に有名で著作物です。

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司馬光

 北宋の政治家で旧法党の党首であった司馬光が著した「資治通鑑」は、編年体の通史で戦国時代から五代までの1362年間の事跡を本文294巻に編纂した歴史書であり、完成迄に19年を要した大著です。
この歴史書は儒教的大義名分論、正統論の立場で貫かれ、君主治世の参考資料として書かれ、以後学者必読の書とされました。

 朱熹は「資治通鑑綱目(通鑑綱目)」を著し、「資治通鑑綱目(通鑑綱目)」は「資治通鑑」に書かれた事実を大義名分論、正統論の立場から再編纂した歴史書で、後世に大きな影響を及ぼします。

2.宗教
 
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王重陽

 宗教では、仏教が宋代には生活の中に深く根を下ろし、実践的な仏教に成長しました。
その代表が禅宗と浄土宗で、禅宗は官僚層、知識人の間に浸透したのに対し、一般庶民の間には阿弥陀仏の浄土に往生を説く浄土宗が広まっていきました。

 道教も北宋の真宗や徽宗の信仰を得て、北宋時代には仏教をしのぐ隆盛ぶりでした。
金の統治下にあった華北では王重陽を開祖とし、儒、仏、道三教の調和をはかる全真教が道教の革新を唱えて勃興します。

3.庶民文化

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欧陽脩

 庶民文化が栄えたことは宋文化の大きな特色ですが、庶民文化を代表するものが「詞」です。
詞は五言、七言にこだわらず長短の句をつないで楽曲に合わせて歌われた韻文で、「唐詩」に対して「宋詞」と称され大いに流行しました。
詞は詩から変化してきたものですが、唐代の詩が貴族や知識人の文学でしたが、詞は民衆に親しまれ、酒席でも客や芸妓によって唱われたので、民衆にも分かる俗語がふんだんに使われています。
一方、知識人も格調高い詞を作っています。

 詞とともに庶民に親しまれたものが雑劇や口語をまじえた小説で、雑劇は中国の古典演劇で、北宋で歌としぐさを伴う歌劇として成立し、元代に「元曲」として完成します。

 文学では散文が盛んに成り、唐代に韓愈や柳宗元が唱えた古文復興を北宋の欧陽脩が唱えると自由に文章を書くことが流行し、多くの名文家を輩出しました。
唐代の韓愈、柳宗元の二人に宋代の欧陽脩、蘇軾(蘇東坡)、王安石等6人を加えた「唐宋八大家」は名文家として有名です。

 文学的教養と並んで、書、絵画も士大夫(知識人階級)にとって重要な教養でした。

4.美術工芸

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桃鳩図

 美術では、知識人を中心とする文人画や宮廷画家を中心とする院体画がうまれ、文人画は南画とも呼ばれ、士大夫階級の絵画の意味で、山水、自然を題材として水墨で作者の主観的な心境を表現する絵が多く、北宋時代に全盛期を迎えます。
これに対して院体画は院画、北画と呼ばれ、宮廷の画院に属する職業画家の画風で、写実を重んじ装飾的であることが特色で、花鳥、山水、人物等を宮廷趣味に合うように描いきました。
北宋の皇帝徽宗は院体画の代表的な画家としても有名で、「桃鳩図」は徽宗の代表作としてよく知られています。

 文人画と院体画はやがてそれぞれ南宗画(なんしゅうが)、北宗画となり、その伝統は清末迄中国画壇を支配していくことに成ります。

 工芸では青磁、白磁等の陶磁器が発達しました。

5.科学分野

 宋代は中国の科学が発展した時代でも在り、科学技術の面で、いわゆる印刷術、火薬、羅針盤の三大発明が飛躍的な発展をとげて実用化されたのも宋代でした。

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活字印刷考案者・畢升

 印刷術は隋か唐初に発明されたと推定されていますが、宋代になると文治主義が採用され、科挙が盛んになったことから受験参考書の需要が増大し、大都市では民間の出版物も生まれ、大蔵経等の仏教の経典も数多く出版されました。
初期は一枚の版木に一頁分を彫る整板印刷といわれる方法でしたが、11世紀半ばに北宋の畢昇(ひつしょう)が、泥と膠(にかわ)を混ぜたものに文字を刻み、焼き固めて活字を作った(膠泥活字)と伝えられていますが、木版印刷に比べて不便な為あまり利用されませんでした。

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黒色火薬を使用したロケット兵器(12世紀頃)

 硝石、硫黄、木炭等を混ぜ合わせて作ったは唐代錬金の過程で偶然出来たと考えられています。
火薬が実戦に用いられるようになったのも宋代で、最初は点火用、威嚇用に用いられ、手や投石機で投げていたのですが、南宋になると大きな竹筒の中に火薬をつめて発射する火筒(ほづつ)が発明され、金軍との戦闘に使用されました。
元寇時にモンゴル軍が使用したのは筒を銅や鉄で作った火筒であったと云われています。
火薬は13世紀頃イスラムを経てヨーロッパに伝えられました。

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指南魚のイメージ

 磁針が南北を指すことは中国では戦国時代末期に既に知られていたと伝えられています。
それが航海に使われるようになったのも宋代で、北宋の書物に指南魚(魚形の磁鉄を水に浮かべて方角を知る)として用いたことが記されており、南宋の書物には磁針を航海に使用したことが書かれています。
やがて中国に来航したアラビア商人も磁針を利用するようになり、後にヨーロッパに伝わって行きました。 

ジョークは如何?

ジュンブル魂

ドイツ兵の攻撃を受けて追いつめられたイギリス兵(チャーチルの場合もあり)がこういった。

「これでわざわざ敵をやっつけるために遠くへ出かけていかなくてすんだ。」


続く・・・
2014/11/18

歴史を歩く61

12中国社会と北方民族⑥

6 宋代の社会

1.農業

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占城稲

 宋は、北方民族の遼、西夏、金の圧迫を受け、政治的には苦しい状況が続きましたが、経済的には大いに繁栄し、農業生産力が増大、商工業が急速に発展、外国貿易も栄えました。

 宋の南渡以来、南宋には金の支配を逃れて多くの漢人が南下し、江南の人口は急速に増加し、彼等の手で江南の開発が大いに進展しました。
特に長江下流域一帯は米作地帯として発展し、以後中国農業の、ひいては中国経済の一大中心地となりました。

 江南では従来農耕地としては利用できなかった湿地帯や河岸、池等の干拓が盛んに行われ、又水利の便の悪かった処に用水路を引いて水田にするなど新しい水田の開発が盛んに行われたのです。

 又北宋時代に、占城(チャンパー、ヴェトナム南部)から日照りに強い早稲種の占城稲が江南に伝わった事、稲と麦の1年二毛作が普及した事等によって江南の農業生産力が飛躍的に増大しました。
特に長江下流域一帯の米作は中国農業の中心となり「江浙(蘇湖)熟すれば天下足る」と云う言葉がその事を良く示しています。
江浙は江蘇省と浙江省の略であり、蘇湖の蘇は蘇州、湖は湖州の略を意味しています。

 又華北の畑作地帯でも唐の中期以後農業技術が進歩し、小麦、粟、豆等の2年三毛作が行われる様になり、農業生産力が此方も増大しました。

 宋代にも、唐以来の大土地所有制(荘園制)が発展しましたが、荘園の所有者の多くは、従来の貴族に代わって、官戸(科挙に合格して官僚を出した家)、形勢戸(地方の有力地主層)等の新興地主層で、彼等は自分達の土地を農奴的な小作人の佃戸に耕作させます。

 佃戸は、法的には自由民ですが、地主のもとで移転の自由を奪われ、地主の家の仕事にかり出されるなど種々の労役を課せられ、収穫物は地主と折半(2等分)が普通でした。
この様に佃戸は地主に隷属する小作人でしたが、 地主にとっては労働力でも在り、地主の保護も受けられたので、生活が成り立たない程の僅かな耕地しか持たず、重税や借財に苦しんだ零細な自作農より恵まれた一面もあったのです。

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茶の栽培(現在・福建省)

 米作以外の諸産業も大いに発達し、特に茶の栽培、製茶業が盛んとなり、飲茶の風が普及しました。インドのアッサム地方が原産である茶は、中国には漢代に四川に伝わり、魏晋南北朝時代に江南に広まりました。
茶は古くは薬として飲まれていましたが、飲茶の風は唐代に至って中国全土に普及し、庶民の間にも普及します。

 宋代にはこの傾向が益々強まり、庶民にとっても茶は生活必需品となり、都市の至る所に茶を飲ませる茶館が現れ、其れに伴って茶の生産地も江南から福建、雲南、四川等各地に広まっていきました。

 宋代には茶は、塩と並ぶ重要な専売品となり、その利益は国家財政の重要な支えと成りました。
又周辺の北方民族の間にも飲茶の風習が広まり、茶は北方民族との貿易にとって重要な貿易品と成り、外国貿易が盛んになる中で従来の絹と共に重要な輸出品に成長して行きました。

2.産業

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青磁三足壷

 絹織物業の世界に機織り技術が進歩し、宋代には江南が生産の中心地と成りました。

 飲茶の風の普及に伴い、陶磁器産業も大いに発展し、宋代には高い技術を使った美しい白磁、青磁等が官用、輸出品として商品生産されるようになり、明代以後窯業の街として世界的に有名となる江西省の景徳鎮も宋代から生産地として繁栄しました。
(但し、宋時代の景徳鎮は、戦乱で荒廃し、現在に伝わる作品は少ないとのことです)

 製茶、絹織物、陶磁器を中心に諸産業が発達し、各地では特産物が生産され、流通する様になると客商(宋代以後活躍した遠隔地商人)等が活躍するように成りました。

3.通貨

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交子

 商業の発達に伴い貨幣経済が発達し、貨幣の流通量が増大し、銅銭の他に金銀も地金のまま用いられ、世界最初の紙幣である交子、会子が使用されるように成ります。

 交子は、北宋時代に四川の成都で民間金融業者が発行した手形を、後に政府が発行権を奪って紙幣として発行した世界最初の紙幣です。

 会子は、当初開封や臨安(杭州)等の大都市の金融業者が発行した手形を、南宋が銅銭の不足を補う為に発行した紙幣でした。

4.都市の発展

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清明上河図・開封

 商工業の発達、貨幣経済の発達に伴い都市が発達しました。
宋代の都市の特色として、唐代迄の大都市は政治都市の性格が強かったのに対し、宋代の都市は商業都市の性格が強く、北宋の都、開封、南宋の都、臨安(杭州)等の大都市も政治都市の性格よりも商業都市としての性格が強かったのです。

 開封、杭州等の大都市と共に、地方でも鎮、市と呼ばれた地方の小都市が数多く出現しました。
鎮、市は各地に設けられた定期市から生まれた草市(城外の物資の交易場)から発達したものです。

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南宋時代の臨安図

 中国の都市は、周囲を城壁で囲まれ、夜になると城門は閉じられ出入りが出来なり、城壁内でも、夜になると「坊」(大通りによって囲まれた方形の区画)の門が閉じられ、他の坊との行き来も出来ませんでした。
又、都市内では「市」(唐の長安の東市、西市が有名)と呼ばれる一定の区域内でのみ商業が許されたのですが、市の四方の門も朝夕に開閉され、営業が許されたのは門が開いている日の出から日没までと定められていました。

 宋代になり、商工業がますます発達するようになると、こうした「坊」、「市」等の制限が崩れ、商人は都市のどこにでも自由に商店を出せるようになり、夜間営業も許されるようになります。

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南宋時代の杭州(イメージ)

 唐代の長安は夜になると暗闇の中でひっそりと朝を迎えたのでしょうが、宋代の開封(人口60~70万人)、臨安(杭州)(人口100~150万人)等の大都市では、夜も煌々と明るく、大通りに沿って酒楼が建ち並び、小料理店が店を並べ、至る所に市が立つようになっていました。
又、瓦市と呼ばれた劇場、寄席等が集まる歓楽街があり、さまざまな娯楽を楽しむことも出来ました。開封の繁栄ぶりは清明節(清明は春分から15日目で中国では墓参が行われた)の日の開封の様子を描いた「清明上河図」で窺い知ることが出来ます。

 営業の自由を獲得した商人達は、営業の独占や相互扶助を目的として同業者が集まって組合を作ります。
商人の同業組合は「行」、手工業者の同業組合は「作」と呼ばれ、米を扱う商人の米行をはじめ、絹行、銀行の他乞食行(!)迄あったと云われています。
行の運営は選ばれた役員が担当しましたが、役員のほとんどは有力な大商人で占められていました。

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宋時代の交易船

 宋代には外国貿易も盛んとなり、茶、絹、陶磁器等が輸出され、外国の諸物資が輸入されます。
イスラム教徒、東南アジア、朝鮮、日本等の船が広州、泉州、明州(めいしゅう、寧波)、臨安(杭州)等の港市に盛んに出入りして貿易を行い、これらの港市は外国貿易によって大いに繁栄し、主な港市には唐代に引き続いて市舶司(海上貿易に関する事務を司る役所)が置かれていました。

ジョークは如何?

ナチ突撃隊の隊長が列車の中で一人のユダヤ人と向きあう。
「ユダヤ人、言ってみろ。ドイツが戦争に敗れたのは誰のせいか。」
「隊長殿、ユダヤ人の将軍たちのせいです。」
「どうしてだ、われわれの陣営にはユダヤ人の将軍など、いなかったぞ。」
「隊長殿、われわれの方ではなく、相手の方です!」


続く・・・

2014/11/14

歴史を歩く60

12中国社会と北方民族⑤

5 金の侵入と南宋

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女真人

 女真人は、10世紀以来中国東北地方東部の奥地、森林山岳地帯で半猟、半農の生活を営むツングース系民族で、女直とも呼ばれ、女真、女直はジュルチンの音訳です。

 女真は、10世紀以来遼の支配下に在りました。
女真のうち早くから遼と接し、遼東半島迄も南下して遼の支配下で働いた者は熟女真と呼ばれ、これに対し何時までも奥地に留まり半猟、半農生活を送っていた者は生女真(せいじょしん)と呼ばれました。
 現在のハルビン市を流れる混同江(現在の松花江)流域は、当時一面の森林地帯を形成し、現ハルビンの西南の辺りに住んでいた生女真は完顔(わんやん)部と呼ばれていました。
完顔部は古くからの名族で代々傑出した人物が出て首長を務めましたが、 11世紀後半に一人の英雄、完顔阿骨打(1068年~1123年、金の太祖、在位1115年~23年)が出て父、兄の後を継いで首長となりました(1113年)。

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完顔阿骨打

 太祖(阿骨打)は首長となると、其れまでの氏族制を行政と軍事の両面を兼ねた猛安、謀克に改編し(1114年)、女真諸部族を統一して、遼に叛旗をひるがえし(1114年)、皇帝に即位し国号を大金と称したのです(1115年)。
大金を以下、 金と呼びます。

 太祖は、猛安、謀克を組織化し、国家体制を確立して行きました。

 猛安、謀克は行政と軍事を兼ねた制度で、行政面では300戸をもって1謀克とし、10謀克をもって1猛安としました。
その長は謀克、猛安と呼ばれ、軍事面では1謀克から100人の兵を出し、1猛安は1000人で軍団を編成し、行政の長である謀克、猛安が、戦時には軍隊の長を兼ね、その地位を世襲しました。

 太祖が遼から自立して金を建国し、遼軍を圧迫しているとの情報を得た宋は、新興の金と結んで遼を挟撃し、宿願の燕雲十六州を回復しようとして金に同盟を申し入れます(1118年)。

その主な条件は、
(1)宋が今まで遼に贈っていた歳幣、銀20万両・絹30万疋を金に与える。
(2)遼の領土のうち万里の長城以北の地は金の占領に任せ、宋は万里の長城以南の燕雲十六州を自力で回復する。

 この内容に対して金は燕雲十六州のうち 燕京(北京)以下6州だけの割譲を主張し、交渉はまとまりませんでした。

 金は交渉がまとまらないうちに軍事行動を起こして遼軍を破り、燕京周辺を除く遼の領土を占領し、遼最後の皇帝天祚帝を内モンゴル方面に追いやり(1122年)、一方、宋軍による燕京攻略は捗らず、逆にしばしば敗北を重ねて、ついに金軍に援助を要請します。

 太祖は、宋の援助の要請を受けると、たちまち燕京を陥れて(1112年)遼軍を壊滅させ、翌年、金は燕雲十六州の内の6州を宋に割譲する代償として銅銭100万貫と軍糧20万石を要求しました。
宋は已む無くその支給を約束し、太祖は続いて天祚帝の追討を試みますが、その途中で病没しています(1123年)。

 太宗(在位1123年~35年)は、兄の後を継いで帝位に就くと、天祚帝を内モンゴル方面に追撃して捕らえ、ついに遼を滅ぼします(1125年)。
遼が滅びる直前に、皇族の耶律大石が中央アジアに逃れ西遼(1132年~1211年)を建国したことは前述した通りです。

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開封域図

 太宗は、遼を滅ぼして後顧の憂いを除くと、今迄の宋の背信行為を責めて、河北、山西から大挙南下、侵入し宋の首都開封に迫ります(1125)。
金の南下に驚いた徽宗は「己を罪する詔」を下し、勤王軍を募り、欽宗に譲位しました。

 翌1126年、金は開封を包囲し、陥落を前にして宋は金の要求を全て受け入れ、いったん講和条約を結び、

(1) 宋は金の皇帝を伯父として尊ぶ。
(2) 宋は金に金500万両、銀5000万両、牛馬1万頭、帛100万疋を贈る。

以上を約したのでした。

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徽宗

 金はこの約束に満足して兵を引いたのですが、この時またしても宋の背信行為が暴露されたので、再び南下し、40日にわたる攻撃の末、ついに開封を攻略し(1126年)、 掠奪を行った後、徽宗、欽宗、后妃、皇族、官僚、技術者等約3000人を捕虜として北方に連れ去り、この靖康の変(1126年~27年)によって北宋は終に滅亡しました(1127年)。

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南宋初代皇帝高宗

 徽宗の第9子で欽宗の弟であった康王は、靖康の変の際に河北にいて難を逃れ、北宋の滅亡後、河南の応天府(現在の商邱)で帝位につき宋を復興しました。
この人物が南宋の初代皇帝である高宗(1107年~87年、在位1127年~62年)であり、これ以後の宋を「南宋」(1127年~1279年)と呼び、其れ迄の宋を「北宋」(960年~1127年)と区別します。

 高宗は金の追撃を受けて、南に逃れ長江を渡って、江南に拠って金を防ぎ、江南の諸勢力、反乱を平定して南宋の基礎を確立し、都を臨安(現在の杭州)に定めました(1138年)。

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南宋時代の臨安

 金は北宋を滅ぼし、華北を支配下に入れ、更に南下して南宋を圧迫しましたが、まもなく兵を引きました。
当時の金国内には、中国全土の征服を主張する強硬派と、今の金の力では黄河以北を確保するのが精一杯であるから南宋との関係を良くした方がよいという和平派が対立していましたが、和平派は和平工作の為に捕らえていた秦檜を南宋に送り返しています(1130年)。

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秦檜(中央の人物)

 秦檜(1090年~1155年)は、江蘇省出身で科挙に合格し、官僚として昇進しましたが、靖康の変の際北方に連行された人物です。 
秦檜は、金の内情を知る者として高宗の信任を得て宰相となり(1131年)、金の実力を考えると主戦派の唱える開封の奪回は机上の空論に過ぎず、それよりも金と和平を結んで現状を維持する方が得策であると主張し、金との和平交渉を進め、以後、南宋国内でも岳飛等の主戦派と秦檜等の和平派の対立が激化します。

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岳飛

 岳飛(1103年~41年)は、河南省の農民の子に生まれ、北宋末に金が南下すると義勇軍に応募し、金との戦いに軍功をたて一兵卒から将軍に迄昇進したものの、余りに早い昇進や当時の武将としては珍しく学問があったことから諸将の反感をかっていました。

 秦檜は、主戦派によって一時失脚しましたが再び宰相となり(1138年)、翌年金との和議を成立させますが、これは金によって破棄され、金と南宋との間に再び激しい戦いが始まります。
 この戦いでの岳飛の活躍はめざましく、嘗ての宋の都、開封近くにまで進撃し、金軍を大いに悩ませました。
南宋の意外な善戦を見て、金国内で和平の動きが高まり、南宋でも秦檜等の和平派が力を得て和議を進めようとしますが、これに対して岳飛らの主戦派は徹底抗戦を主張します。

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岳飛解任

 秦檜は詔勅によって全軍に作戦行動を停止させ、将軍達を呼び戻したのですが、岳飛は中央の命令に従わず、秦檜は岳飛に謀反の罪をかぶせ投獄の後に処刑します。
悲劇の将軍岳飛は、後に無実が明らかとなると、忠義の士と讃えられ救国の民族的な英雄として「岳王廟」に祀られ、岳飛の墓には現在も参詣する人の列は後を絶たないのに対し、秦檜は無実の岳飛を殺し、後に屈辱的な和議を結んだ奸臣、売国奴として、「岳王廟」の前に縛られた姿の彼の石像が置かれ、その石像は人々に足蹴にされ、唾を吐きかけられるなどの侮辱を受けたと言われています。

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売国奴秦檜

 岳飛の死の翌年、1142年に終に南宋は金との間に屈辱的な和議(紹興の和議)を結びました。
その主な内容は、
(1)両国は、東は淮水から西の大散関に至る線を持って国境とする。
(2)歳貢として宋は金に対して毎年銀25万両・絹25万疋を贈ること。
(3)宋は金に対して臣下の礼を取ること。
(4)金は徽宗の遺体と高宗の母を宋に送り返すこと
等でした。

 この和議によって南宋の領土は北宋に比べて半減しましたが、経済的に豊かな江南を確保し、経済的には大いに繁栄します。
南宋には金の支配を逃れた多くの漢人が南下し、江南の人口は急速に増加し、彼等の手で江南の開発が進展し、以後江南は中国経済の中心地となりました。

 南宋は、9代約150年間続き、金がモンゴルに滅ぼされると(1234年)、南宋は直接モンゴルと境を接することなり、やがてモンゴルでフビライ・ハンが即位すると、全力で南宋攻略に取り掛かります。
南宋は再三講和を申し入れますが拒絶され、ついに首都臨安が陥落しました(1276年)。

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南宋滅亡

 7代皇帝恭帝(当時7歳)は捕らえられて北へ送られましたが、陸秀夫や文天祥らが恭帝の弟を奉じて南に逃げて元に抵抗し、最後は崖山(広州の南の小島)に立て籠します。
モンゴル軍は崖山に迫り、陸秀夫は衛王を抱いて海に身を投じ、ここに南宋は完全に滅亡しました(1279年)。

 金は、1142年の和議によって淮水以北の華北を支配下に治めたので、約600万戸の漢人を統治することと成り、征服王朝である金は漢人統治に苦心しましたが、金も遼にならって二重統治(体制)を採用し、女真人に対しては華北に移住した女真人も含めて猛安、謀克で統治し、漢人に対しては中国風の州県制で統治しています。

 第4代皇帝海陵王(在位1149~61)は中国的な大帝国の建設を目指し、燕京(北京)に遷都し、皇帝権力の強化と中央集権化を図った。また中国統一を目指し、大軍を持って南宋に侵入しましたが(1161年)、宋軍に敗れ、長江沿岸の陣中で部下に殺されます。

 金第一の名君とされる第5代世宗(在位1161年~89年)は、女真人が中国化によって質実剛健の気風を失って弱体化し、また貧困化することを憂い、復古主義、国粋主義政策を取る一方で貧困化した女真人の救済に努め、女真人の自覚を促すために女真文化の復興にも力を入れました。

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モンゴル騎馬軍団

 世宗の後を継いだ章宗(在位1189年~1208年)の頃から、モンゴルの侵入が激しくなり、その防衛のための軍事費や相次ぐ黄河の氾濫によって財政難に陥いります。
その財政難を切り抜けるために交鈔(金、元で発行された紙幣)を乱発してインフレーションを招き、経済が混乱し国力は急速に衰退します。

 13世紀初めモンゴルではチンギス・ハン(在位1206年~27年)が即位し、モンゴル軍の侵入はますます熾烈を極め、終に燕京(北京)が陥落 (1215年)、モンゴルと南宋の連合軍に河南省で包囲された哀宗(9代、在位1223年~34年)は自刃し、9代約120年間続いた金はここに滅亡しました(1234年)。

ジョークは如何?

ナチス政権成立後、まもなくヒトラーがある精神病院を訪ねた。
患者たちはかたまって整列させられ、長い訓練を経てまことに見事に、いっせいに手をあげて「ドイツ式敬礼」を行なった。
しかし、ヒトラーは、まだ二、三人の腕が敬礼のためにあげられていないのをとがめて、なぜ敬礼しないのか尋ねた。
「君たちはどうして敬礼しないのだ!」
「総統!私たちは看護人であります。気が狂っているのではありません。」

続く・・・

2014/11/09

歴史を歩く59

12中国社会と北方民族④

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遼・西夏

4 遼と西夏

 契丹は、5世紀以後、遼河(渤海湾に流れ込む河)の上流シラムレン川流域に現れたモンゴル系にツングース系が混血した遊牧、狩猟民です。
キタイ(Kitai)、キタン(Kitan)の名で呼ばれ、中国では契丹と表記され、Kitaiの名が西方に伝わりCathyと云う中国の別称と成りました。

 当初ウイグル(744年~840年に王国形成)に属しましたが、ウイグルが衰え始めた頃から急速に勢力を強めていきます。

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耶律阿保機

 契丹は多くの部族に分かれていましたが、中国が唐末の混乱に陥っている頃に、民族の英雄である耶律阿保機(太祖872年~926年、在位916年~926年)が登場します。
彼は万里の長城を越えて華北に侵入し、多くの漢人を捕らえて契丹の地に連れ帰り、力ある者を登用して国力を蓄え、やがて契丹諸部族を統合して遼(916年~1125年)を建国しました。

 太祖(耶律阿保機)は西方の突厥、ウイグル、タングートに親征を繰り返して外モンゴルから東トルキスタンを制圧し、東方では中国東北地方東部から朝鮮北部を200年以上支配してきた渤海を滅ぼしました(926年)が、その帰途、扶余で病没します。

 太祖は独自の契丹文字を作成(920年)させるなど、契丹民族の文化の発展にも尽くしました。

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燕雲十六州
 
 次の太宗(在位926年~947年)は、中国で石敬とうが後唐に替わって後晋を建国する際に、彼を援助し、その代償として燕雲十六州を獲得します(936年)。

 遼は北方民族である契丹が本拠地を確保しながら中国の領土の一部を支配した最初の国家です。
この様な性格を持った国家を征服王朝と呼び、征服王朝は、ドイツ人の中国研究家ヴィットフォーゲルが遼、金、元、清をDynasty of Conquestと呼んだ訳で、北方民族が中国の領土の一部又は全部を征服して建国した中国風の王朝国家の意味で使われています。

 初めて中国の地に領土(燕雲十六州)を持った遼は、中国の官制を取り入れて中国風王朝の建設を試みます。
しかし、遊牧、狩猟民である契丹人が農耕民である漢人を支配することは容易な事でなく、漢人の抵抗が各地で起こり始めました。

 その為、遼は漢人を支配するにあたっては二重統治(体制)を採用し、 中央の最高機関である枢密院を契丹人等、遊牧民を統治する北面官と漢人、渤海人等農耕民を統治する南面官に分け、北面官を上位に置き、政治、軍事を担当させました。
そして 契丹人等遊牧民に対しては遊牧民固有の部族制で、漢人等農耕民に対しては中国風の州県制を用いて統治しました。
この統治の仕方を二重統治(体制)と呼んでいます。

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6代皇帝聖宗

 遼第一の名君と謳われている6代皇帝聖宗(在位982年~1031年)は12歳で即位し、治世の前半の20年は母后や名臣、勇将の補佐を得て国力の充実に努めました。

 東方の女真族や朝鮮の高麗を従属させ、西方では中央アジアのウイグル諸国を服従させて後顧の憂いをなくした聖宗は、1004年に自ら大軍を率いて宋に侵入し、黄河北岸の澶州に迫まりました。
これを見た宋の真宗も親征し、両軍は黄河を挟んで南北に対陣したのですが、結局和議が成立し、宋を兄、遼を弟として兄弟の交わりを結ぶこと、宋は遼に毎年銀10万両、絹20万疋を贈ることなどが約された澶淵の盟(前述)なのです。
この和議は以後約100年間にわたって両国によって守られ、両国の間には平和が続きました。

 聖宗治世後半には政治、軍事組織が整備され、中央集権体制が確立された結果、次の7代興宗(在位1031年~55ね)・8代道宗(1055年~1101年)に至る3代約120年間が遼の全盛期と成りました。

 しかし、9代天祚帝(てんそ、在位1101年~25年)の時代に、北方で女真が強大となり遼から独立し金を建国、そして同盟した宋と金の挟撃を受けて敗れた天祚帝は内モンゴルに逃亡し(1122年)、後に反撃に出たが逆に捕らえられ、中国東北地方の奥地に流され、そこで没します(1125年)。
こうして200年続いた遼は終に滅亡しました(1125年)。

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耶律大石

 遼が滅亡する直前に、遼の皇族で太祖から数えて8代目の子孫である耶律大石(1087年~1143年、西遼の初代皇帝、在位1132年~43年)は、天祚帝が内モンゴルに逃亡した時に、外モンゴルに逃れ、自立して王位に就きました(1124年)。
彼の元には多くの部族が集結しましたが、やがて金の圧迫が強まった結果、更に西方に移動し、トルキスタン地方のウイグルを抑え、カラ・ハン朝を倒してベラサグンで即位し、西遼を建国します。
西遼はイスラムからはカラ・キタイ(黒い契丹の意味)と呼ばれました。

 契丹は当初ウイグル文化の影響を受け、次第に中国文化を吸収し、仏教を受け入れ、特に聖宗から道宗の全盛期には皇帝が仏教を保護、奨励した事から仏教が盛んとなり、大寺院や仏塔が建立され、大蔵経も出版される等仏教文化が栄えました。

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契丹文字

 太祖は契丹の言語を書き表すために契丹文字を作成し、これによって契丹人が漢化されることを防ぎ、民族意識を持たせようと試みました。
契丹文字には大字と小字があるが、解読はまだ余り進んでいません。

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西夏・文人、軍人

 宋西北辺境の陜西、甘粛方面にはチベット系のタングート(党項)族が居住していました。
タングートは初め四川、青海方面を中心に活動していましたが、チベットの吐蕃からの圧迫を受けて東遷し、陜西、甘粛に移っていきます。
9世紀頃から陜西の夏州を中心に居住していたタングートの平夏部が強大となり、黄巣の乱の鎮圧に功を立て、唐から李姓を与えられました。

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李元昊

 その子孫の李元昊(1003年~48年、在位1038年~48年)は父の後を継いで平西王となり(1032年)、タングート諸部族を統合して青海の東部や甘粛西部の敦煌にまで領土を拡大しました。
そして宋に倣って官制、兵制等諸制度を整え、宋、遼に対抗して皇帝を称し、国号を大夏と称しました(1038年)。
中国ではこの国を西夏(1038年~1227年)と呼んでいます。

 西夏はシルク・ロードの要衝を押さえ、内陸中継貿易で利益をあげていたましたが、宋と貿易をめぐって対立し、しばしば宋に侵入しました。

 李元昊は大軍を率いて宋に侵入したが、戦いが長期化する中で、両国は1044年に慶暦の和約(前述)を結びます。
この和議によって西夏は宋に臣礼をとり、代わりに毎年銀5万両、絹13万疋、茶2万斤を得、更に国境に貿易場を設けて貿易を行うことを認めさせました。

 李元昊の時代、東はオルドスから西は敦煌迄領土を拡大し、宋、遼の両大国に対抗してよく国を維持します。
又若い時から文武両道に優れ、法律、仏教に通じていた彼は西夏文字の創製に関与し、漢籍の翻訳を行わせるなど西夏の文化の向上にも努めたのです。

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西夏文字

 文化面では、中国文化の影響を強く受けながらも、仏教文化を基調とする独自の文化を発展させました。
漢字の体裁に倣って画数の多い複雑な独自の西夏文字を作り、現在6100余字が知られており、3分の2以上の文字の発音や意味も明らかにされています。
又儒教や仏教も盛んで、「論語」や仏典をはじめ中国やチベットの多くの書物が西夏文字に翻訳されています。

 西夏は、李元昊以来10代約200年間存続しますが、遼に代わって金が強大となるとこれに服属し、最後はチンギス・ハンによって滅ぼされました(1227年)。

ジョークは如何?

「スターリンが死の床に横たわっていた.その周囲を後継者の椅子を狙う 野心家どもが,心配そうにうろつきまわっている. 突然スターリンがフルシチョフを呼んで 耳元でささやいた.
「君はわしのあと釜に座ることになるが,時がたつにつれ,誰もが君に白い眼を向け始めるだろう.もし,そうなった時にはクレムリンの地下室に私が残しておいた2通の封書を1つず つ開いてみるがよい.必ず役に立つはずだから..」
その言葉を聞き終わるや否やフルシチョフはスターリンの命をつないでいた酸素吸入装置のバルブを止めてしまった. 予言通り首相になったフルシチョフは数年後に幹部の信頼を失って苦境にたった.
そこでふと「遺書」を思い出し,地下室に降りて「第一の封筒」を開いた.
そこには「私を悪者にしなさい」とあった. この日から,例のスターリン批判が始まったという.ともかくこれでフルシチョフの人気は小康を保ったが,間もなく再び信頼を失って,首相の地位が危なくなった.

あわてて「第二の封筒」を開くと,「お前も2通の封筒を用意せよ」とあった。

続く・・・

2014/11/02

歴史を歩く58

12中国社会と北方民族③

3 宋の統一(その2)

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 遼が、1004年に黄河北岸の澶州に迫り、真宗が宰相の諫言で自ら親征し、遼軍と対峙した結果、両国間で和議が結ばれました。

 この澶淵の盟(1004年)で、以下
(1)両国は宋を兄、遼を弟とする兄弟の交わりを結ぶ。
(2)宋は遼に歳幣として毎年、銀10万両と絹20万疋を贈る。(両は37.3g、疋は反物2反、1反は約10.6m:漢和辞書)。
(3)宋と遼は国境を保全し、捕虜、越境者は送還することを約す。
以上

 澶淵の盟は、以後100年間にわたって両国によって忠実に守られ、平和が続き両国の繁栄をもたらしたのですが、宋が遼に贈った歳幣は以後宋の財政を圧迫することに成ります。

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周敦頤

 4代目の仁宗(在位1022年~63年)時代は、欧陽脩等の有能な官僚の補佐のもとに、周敦頤、程顥(北宋の儒学者)等の優れた学者が輩出し、北宋で最も国力が充実した時期を現出しましたが、この頃西北辺で李元昊(在位1038年~48年)がタングート族を統合して西夏を建国し(1038年)、宋の北辺を脅かします。

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李元昊:1988年大映制作「敦煌」より渡瀬恒彦演じる李元昊

 その為、慶暦の和約(1044年)を結び、以下
(1)西夏は宋に対して臣下の礼を取る。
(2)宋は西夏に歳幣として毎年、銀5万両、絹13万疋そして茶2万斤を贈る。
(3)国境に貿易場を設けて貿易を行うことを約す。
以上

 宋は和約を結ぶ一方で西北辺に兵力を集中し、又西夏との和約を機に、遼との歳幣も銀20万両、絹30万疋に増額されました。
こうした軍事費、歳幣更に官僚の俸給が増大し、仁宗の治世の後半には宋の財政は急激に悪化しました。 

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王安石

 北宋の第6代皇帝、神宗(1048年~85年、在位1067年~85年)が父英宗の後を継いで即位した頃には、対外的には遼、西夏の圧迫、国内では財政の窮乏、重税による自作農の没落等国家の再建が大きな課題として残されていました。
その為、青年皇帝神宗は政治、財政改革に着手し、地方官であった王安石(1021年~86年)を抜擢して宰相に任命し(1070年)、新法を次々に実施させました。
 
 王安石(1021年~86年)は江西省出身、21歳で科挙に合格して進士となり、地方官を16年間勤めました。
この間、仁宗に政治改革の必要性を説く意見書を提出し、神宗は即位すると政治改革を断行する為に、その王安石を地方官から大抜擢して副宰相(1069年)、更に宰相(中書省と門下省の長官を兼ねる官職)に任命しました(1070年)。

 王安石は神宗の全面的な信頼を得て、軍事、財政の危機を克服する為に「新法」と呼ばれる富国強兵策を次々に実施しました(王安石の改革)

 王安石の「新法」の主なものは、青苗法、均輸法、市易法、募役法等の富国策と保甲法、保馬法等の強兵策です。

1、青苗法

 貧農の中には籾種さえ食い尽くして田植えの出来ない者がおり、彼等は地主から高利で銭を借りてその返済に苦しんでいました。
そのような農民に穀物や銭を低利で貸し付け収穫時に返済させ、大地主の高利に苦しんでいた貧農を救済しようとする政策でした。

2.均輸法

 前漢の武帝も実施しましたが、均輸官を各地に置き、その地の特産物を輸送させ、それを不足地に転売する法で、地域の物価を平均化させると共に、その差額が政府の収入となりました。この法は大商人の利益を奪うものとして彼等の激しい反対を受けました。

3.市易法

 大商人の営利独占、小商人の抑圧等を排し、小商人の商品が売れない時は政府がこれを買い上げ、又はその商品を抵当にして低利で融資を行い、小商人を保護し、商業の振興をはかった政策です。


4.募役法

 徴税、治安維持等の地方の労役が上、中層農民にとって大きな負担となっていた為、労役を免ずる代わりに免役銭を徴収し、一方ではどんなに苦しい仕事でも働いて収入を得ないと生活できない貧しい人々の中から希望者を募り、雇銭を支給し労役に充てた政策です。

5.保甲法

 当時、宋の傭兵制が軍隊の質の低下、軍事力の弱体化、軍事費の増大を招いていた為、民戸10家を保、50家を大保、500家を都保とする民兵制度を組織し、農閑期に農民を集めて軍事訓練を施し、治安維持等にあたらせた兵農一致の政策です。

6.保馬法

 遼、西夏との戦いに必要な軍馬が遼、西夏の輸出禁止策によって入手難となり、軍馬が不足した結果、これを打開する為に民間に官馬又は代価を与え馬を養わせ、平時には使役に使うことを許し、戦時にはこれを徴発して、軍馬を確保しようとした政策です。

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司馬光

 この様に王安石の行った「新法」は貴族、特権官僚、大商人、大地主等の特権、利益を抑え、中小農民や中小商工業者を保護、育成し、財政の再建をはかろうとした政策であった結果、特権階層からは激しい反対を受けました。
彼等は司馬光を中心とする「旧法党」に結集し、王安石の新法を支持する「新法党」を激しく攻撃し、これと対立しました。

 王安石の新法は可也の成果を上げ、財政や治安は好転したのですが、旧法党と新法党の「党争」(官僚間の権力争い)が激しくなる中で、彼は終に辞職し(1076年)郷里に隠退しました。

 神宗が没した翌年に旧法党の司馬光が宰相となり、新法は尽く廃止される中で王安石は亡くなります(1086年)。
彼は文章家としても有名で「唐宋八大家」の一人に数えられています。

 司馬光(1019年~86年)は、山西省の大地主の家に生まれ、20歳で科挙に合格して進士となり、地方官を歴任した後に神宗の時中央政界に入り(1067年)、王安石の改革が実施されると司馬光は急激な改革に反対して中央政界を去り(1070年)、以後編年体の歴史書である「資治通鑑」(294巻)の編纂に専念しました。
神宗が没して哲宗が即位すると(1085年)、 旧法党の党首として中央政界に復帰し、宰相となり(1086年)、王安石の新法を尽く廃したがその数ヶ月後に彼も没します。

 哲宗(在位1085年~1100年)の時代は「党争」(旧法党と新法党の権力争い)に明け暮れ、宋の国力は弱体化しました。

 哲宗の死後、弟の徽宗(在位1100年~25年)が第8代皇帝と成りました。
徽宗は政治にはあまり熱意はなく、学芸に秀で詩文書画をよくし、「風流天子」と呼ばれました。
書に優れ、新画風の院体画を開き、文化の保護、奨励に努め、書画や古器物の収集を盛んに行い、豪奢な宮廷生活によって国費を乱費します。

 こうした宮廷の奢侈の為に国民に負担を強いたので、江南では北宋最大の農民反乱である方臘(ほうろう)の乱が起きました(1120年~21年)。

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南宋と周辺諸民族国家

 この頃、中国東北地方の奥地にいたツングース系女真族が俄かに強大となり、その首長である阿骨打(あぐだ、1068年~1123年、在位1115年~23年)は遼に反旗を翻し、金を建国し(1115年)、次第に遼を圧迫して行きました。

 この情勢を見た宋は新興の金と同盟を結び宿敵遼を挟撃し、宿願の燕雲十六州の回復を図ろうとしましたが、かえって金の華北侵入を招き、金軍は首都開封に迫りました(1025年)。

 徽宗はその事態に驚き、「己を罪する詔」を出し、全国に勤王軍を募ると共に、子の欽宗(在位1125年~27年)に譲位しました。

 宋は一旦金と和を結びましたが、金は翌年宋の違約を責めて再び開封を包囲し、終に開封を陥れました(1126年)。
そして翌1127年、徽宗、欽宗、后妃、皇族、官僚、技術者等数千人を捕虜として東北地方の奥地(現在の黒竜江省の依蘭付近)に連れ去りました。
この出来事は靖康の変(1126年~27年)と呼ばれますが、靖康の変によって北宋はついに滅亡しました(1127年)。

 徽宗はその地に幽閉されたまま帰国の願いは叶わずその地で没し(1135年)、欽宗も幽閉は30年に及び、金と南宋との和平の成立(1142年)後も帰国は許されず、終にその地で没しています(1061年)。

ジョークは如何?

第二次世界大戦、ピンチのときは

新兵器で逆転を狙う ドイツ軍
精神力と自爆攻撃 日本軍
パニックになってしまう フランス軍
督戦隊と囚人部隊の ソビエト軍
すばやく降伏 イタリア軍
物量つぎ込む アメリカ軍
アメリカ軍がやってくるのを待つ イギリス軍
占領された祖国のことを考え頑張る ポーランド軍


続く・・・