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2014/12/29

歴史を歩く69

13 モンゴル民族の発展⑦

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伝説のプレスター・ジョン

5 東西文化の交流と元代の文化

 モンゴル帝国の成立によって、ユーラシア大陸の大部分がモンゴル民族の支配下に置かれたこと、モンゴル帝国は駅伝制を整備して通商路の安全の確保に努めたこと、又元朝がモンゴル人第一主義をとり色目人を重用したこと等から、シルク・ロードを往来する隊商の数は著しく増加し、中央アジア、西アジア、ヨーロッパから多くの商人、宣教師、旅行家等が中国を訪れ、人と物の移動に伴って東西文化の交流も盛んとなりました。

 当時のヨーロッパは十字軍の時代で、又アジアにキリスト教の司祭王が存在すると云う「プレスター・ジョン」伝説が信じられていた頃で、イスラム教徒を征服したモンゴル帝国に関心を持ち、司祭王を探し出してイスラム教徒を挟撃する目的で教皇やフランス王の使節がモンゴル高原に送られたのです。

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キリスト教中国伝道700年記念切手:バチカン発行

 イタリア人のフランチェスコ会修道士のプラノ・カルピニ(1182年頃~1252年)は、バトゥのヨーロッパ侵入に驚いた教皇インノケンティウス4世の使節としてカラコルムに派遣されました。
彼はモンゴル人への布教とモンゴル国内の偵察を目的にフランスのリヨンを出発し(1245年)、キエフ、サライ(キプチャク・ハン国の首都)を経てカラコルム付近に至り、教皇の親書を手渡し、返書を得て翌年帰国しました。
彼の報告書(旅行記)はヨーロッパに初めてモンゴルの実状を伝えたものとして重要な史料となっています。

 ウィリアム・ルブルック(1220年頃~93年頃)はフランスのフランチェスコ会修道士で、フランス王ルイ9世の使節としてキリスト教の布教とイスラム教徒に対する十字軍への協力を要請することを目的にカラコルムへ派遣されました。
彼はコンスタンティノープルを出発し(1253年)、南ロシアを経てカラコルムに到着、モンケ・ハンに会見を許されます(1254年)。
彼も後に旅行記を著しましたが、カルピニの旅行記と共に当時のモンゴル、中央アジアを知る貴重な史料となっています。

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イタリア:25リラ切手

 有名なマルコ・ポーロ(1254年~1324年)は、ヴェネツィアの豪商の子として生まれ、17歳の時に、フビライの宮廷を訪れて帰国した父と叔父の二度目の旅行に同行して中国へ向けて出発しました(1271年)。
彼等は中央アジアを経て上都(開平)に至り、フビライに謁見を果たし(1275年)、やがて大都の宮廷でフビライに仕えることに成ります。

 マルコ・ポーロはフビライの厚い信任を受け、地方官として各地に赴任し、又フビライの使節として各地を訪れました。
彼の中国滞在は17年間に及び、望郷の念にかられた彼は帰国の許可を願い出たがなかなか許されず、
元朝の皇女がイル・ハン国に嫁ぐ際にやっと帰国を許されて随行を認められ、ザイトン(泉州)を出航し(1290年)、マラッカ海峡、インド洋を経てイランのホルムズに上陸、イル・ハン国の宮廷にしばらく滞在したのちコンスタンティノープルを経てヴェネツィアに帰国しました(1295年)。
帰国した彼はジェノヴァとの戦いで捕虜となり(1298年)翌年釈放されましたが、獄中での旅行の見聞談を同囚の友人ルスチアーノが筆録したものが有名な「世界の記述(東方見聞録)」です。

 「世界の記述(東方見聞録)」の中には日本の記述もあり、「黄金の国ジパング」として紹介されています。
その一節に「ジパング(日本)は東海の一島で、大陸或いはマンジ海岸から約1500哩(マイル)の処にあり、この島は可也の大きさで、住民は皮膚の色が美しく、姿がよく、礼儀正しい。宗教は偶像崇拝である。彼らはいかなる外国勢カにも服さず、彼ら自身の王達の支配のみを受けている。黄金が非常に多く、無尽蔵であるが、王がその輸出を許さないので訪れる商人は僅かしかない。・・・王宮の屋根は凡て黄金の板で葺いてある。・・・広間の床も同じく黄金で、沢山の部屋にはかなりの厚さの純 金のテーブルがあり、窓にも黄金の飾りがついている。・・・この島の富はこれほど有名であつたので,現王フビライ汗の胸中に、この島を征服し領土としようとする欲望がかき立てられた。・・・この島の住民は敵を捕虜にした時、その者が身代金を調達できないと、家に親類や友人を招き、捕虜を殺して料理し、酒宴を開き、人肉ほど美味いものはない と言って食べる(!?)・・・。」と記述されています。

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イブン.バトゥータの足跡

 イブン.バトゥータ(1304年~68年/69年 或いは77年)はモロッコのタンジールに生まれ、22才の時にメッカへの巡礼の旅に出ました。
メッカに巡礼を終えた彼は、更にキプチャク・ハン国を訪れ、その後中央アジアを南下してインドに入り、約10年間滞在した後、中国の元朝への使節団に加わり、海路中国に至り(1345年)、泉州、広州、杭州、大都(北京)を訪れた後、海路で帰国しました(1349年)。

 大都生まれのウイグル人でネストリウス派の司祭であったバール・サウマ(ラッバン・ソーマ)(?~1294年)は、イェルサレムへの巡礼の後イル・ハン国王(イル・ハン国は初めネストリウス派キリスト教を保護した)の使節としてローマ、パリを訪れ、教皇やフランス王に謁見し、その時教皇に西ヨーロッパキリスト教徒とモンゴル人との提携を説き、教皇がモンテ・コルヴィノを大都に派遣するきっかけをつくっています。

 モンテ・コルヴィノ(1247年~1328年)はイタリア人のフランチェスコ会修道士で、教皇の命を受けてイル・ハン国を経て海路中国へ向かい、更に泉州を経て大都に到着しました(1294年)。
後に教皇から大都教区大司教に任命され(1307年)、30余年間に亘って大都で布教に従事し、大都で病没しています。

 中国には、唐代にネストリウス派キリスト教が伝わり景教と呼ばれましたが、ネストリウス派キリスト教はヨーロッパでは異端とされたキリスト教であり、西ヨーロッパで信仰されていたローマ・カトリック教が中国に伝わったのはこの時が初めてです。

ジョークは如何?

ヒットラーとゲッベルスが占領後のパリ上空をヘリコプターで視察していた。二人はフランス人の抵抗を最小にする方法について討論していた。金をばらまくのはどうだ?

ヒットラーが言った。「このヘリから百マルク札を撒けば、拾った一人は大喜びするぞ。」

ゲッベルスが言った。「それより、十マルク札を十枚撒けば、十人が喜ぶでしょう。」

操縦士がつぶやいた。「この二人をばらまけば、一億人が大喜びするだろう。」


続く・・・
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2014/12/25

歴史を歩く68

13 モンゴル民族の発展⑥

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平山郁夫 『月明の砂漠』

4 交通・貿易の発達

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13世紀、モンゴル人徴税官バスカクがロシアの市場をおとずれた光景を描いた絵画(1902年画)

 モンゴル高原や中央アジアで活躍した遊牧騎馬民族は、古くから中継貿易による利益を重視し、通商路を攻略して支配下に治め、商人の通商の安全を守る代償として商品に課税し利益を得てきました。
チンギス・ハンも、モンゴル高原を統一すると、中継貿易の利益に目をつけ、中央アジアから西アジアに進出します。

 モンゴル帝国は、初期から通商路の安全を重視し、その整備や治安の確保に努め、駅伝制を施行しました。

 チンギス・ハンは、遼、金の制度を継承して駅伝制(モンゴル語:ジャムチ、站赤)を創設し、オゴタイ・ハンの時代に制度化され、元朝で完備されました。

 元の駅伝制は、大都を中心とする主要道路に沿って、10里ごとに站(たん、駅)を置いて、民戸100戸を站戸とし、官命で旅行する官吏、使節等に人馬、食料を提供させました。
この駅伝制によって帝国内の交通が安全性、利便性は向上し、主にムスリム(イスラム教徒)商人の隊商による陸路貿易が盛んとなり、それにともなって東西文化の交流も盛んとなって行きます。

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杭州(臨安)

 またインド洋経由の海上貿易も宋代に引き続いて盛んに行われ、杭州、泉州、広州等の港市が繁栄しました。

 マルコ・ポーロは杭州(臨安)をキンザイと呼び、有名な「世界の記述(東方見聞録)」の中で、キンザイは世界一の都市であると記述し、杭州の当時の人口は約160万人と伝えられています。

 又泉州をザイトンと呼び、「ザイトンの港には、あらゆるインド船が入港し、香料その他の高価な商品を運んでくる。そしてマンジ(南宋の旧領)の諸地方の商人もこの港に集まってくる。(中略)ここからあらゆる商品がマンジ各地に送られていく。キリスト教徒の需要を満たすために、アレクサンドリアその他の港に胡椒船一隻が入港するのに対し、ザイトンの港には百隻、あるいはそれ以上の胡椒船が入ってくると言えよう。この港は世界における二大貿易港の一つである。(後略)」と記述しています。
二大貿易港のもう一つがどこかは記述が無く不明ですが、彼の故郷のヴェネツィアとの説も存在します。

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京杭大運河

 元の首都大都には、多数の官僚や商人が集まっていましたが、この付近では食料が自給できなかったので江南から運ばれていました。
そのため食料を初めとする江南の物資を華北に運ぶために、隋代以来の大運河を補修するとともに、華北から江南に会通河、済州河、揚州河、江南運河等の新運河が開削されます。

 又これとは別に長江下流から山東半島を回って大都に方面に至る海運も発達します。
そのため山東半島を南北に縦断する膠莱河も開かれました。

 貨幣として、はじめ銅銭、金、銀が用いられましたが、やがて交鈔(紙幣)が発行されます。
この交鈔は多額の取引や輸送に便利であった為、交鈔は元の主要通貨となり、フビライは交鈔を唯一の通貨と定めました。

<マルコ・ポーロの旅>

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マルコ・ポーロ( Marco Polo、1254年9月15日〜 1324年1月9日)

 やっと20代に成ったばかりの青年にとって、それは思わず息を飲む光景でした。
其れまでに見た、如何なる都市よりも壮麗でした。
青年は、是ほど美しい都会に住んでいる人達は、天国で暮らしている様な気持ちではないかと、考えたのです。
美しく整備された街路、公園、港、運河が在り、運河には、アーチ橋が何本も掛り、その多くは大変高く、帆柱を立てた船が、その下を通る事が出来、下水道設備、警察、消防、郵便も在ったのです。

 700年前のこの青年の名前は、史上最も偉大な旅行家の一人、マルコ・ポーロです。
そしてこの大都会、杭州は中国の多くある都会の一つに過ぎませんでした。
マルコ・ポーロはその日誌に、杭州が世界中の如何なる都市よりも素晴らしいと書き、彼の意見では、首都の北京や、彼の故郷ベネチアと比較してさえ、更に美しい都だったと言います。

 マルコ・ポーロの一族は、世界中を広く旅行しており、父ニコロと叔父マティオは、既に当時の中国を訪問していました。
二人がベネチアに帰る時、皇帝は二人に、又戻ってくると約束させ、二人はこの約束を1272年に実行しましたが、この時に、当時17歳だったマルコを同行させたのでした。

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マルコ・ポーロ帰国700年記念 1995 イタリア 1996/3/22 発行

 この旅行は、3年もの日数を要する、困難を極めたものでした。
一行は、まず船でトルコ南東部の港、アヤスルに着き、この町でキャラバンを組んで、アジアを横断する旅に出発したのでした。
彼らの隊商路は、現在のイラン、アフガニスタンを通過し、パミール高原を越え、天山南路を進み、ゴビ砂漠を横断して、中国(当時:元朝)に至り、1275年5月、終にフビライ汗のもとに到着したのでした。
この時、皇帝は万里の長城の北に在る、夏の宮殿に居ましたが、その秋、マルコ・ポーロ一行も皇帝と一緒に冬の都、北京に戻りました。

 マルコ・ポーロは、凍った山を登り、豪雨、砂嵐、洪水、雪崩に悪戦苦闘した、長い旅の記録を残しています。
アフガニスタンでは、マルコ自身が病気になり、まる1年足止めされ、盗賊の出没する地域や紛争の起こった地域を避け、幾度もコースを変更し、計画を練り直した事が、詳細に認められています。

◎燃える石

 彼は後に、彼らが見聞した驚くべき光景や、出会った風変わりな人々について書き残しました。
彼は、「火を点けると、木炭の様に燃え、可也の熱を発する黒い石の鉱脈(石炭)」に驚き、「地中から噴出し、ランプの火を燃やす事に使用する物質(石油)」も見て、「紡いで糸にし、織って布にする事が出来、火中に投じても燃えない布(石綿)」を試しています。
ワニの事を「長さが10歩(約7.6m)の巨大なヘビで、その顎は人間を飲み込めるほど大きい」と説明し、ヤクは、「象に匹敵する野牛」と書き、ココナッツは「人間の頭位の大きさで、味が良く、ミルクの様に白い」と書き残しました。

 皇帝は、この若い客に非常な感銘を受け、象に乗って、狩にも同行させ、豪華な宮殿や夏の避暑先に、自由に出入する事を許したのでした。
マルコは、金色に輝く彫刻や、美術品、皇帝を取巻く優雅な廷臣達に感嘆しています。
彼の記録に因れば、100人或はそれ以上の美しい側室を探し、皇帝の後宮に入れる為、特使が2年に1度、帝国の各地に派遣されたと云います。

 マルコ・ポーロは、中国とその近隣諸国についても記録を残した最初のヨーロッパ人です。
アジア大陸を横断するルートについて語ったのも、太平洋を見たのも、ヨーロッパ人では彼が最初と言う事が出来ます。

 彼の父と叔父は、交易で巨万の富を得ましたが、マルコは17年間皇帝の為に働き、皇帝は彼を皇帝自身の特使として、帝国の各地に送りました。
この時、彼はベトナム、ビルマ、チベットを訪問し、後に3年間、楊州を治め、その管轄した都市は24に及んだと云います。

 しかし、この時皇帝フビライ汗は、既に70歳を越しており、皇帝が崩御すれば、どの後継者が後を継いでもマルコ達の身が安全である保証は有りませんでした。
1292年、彼らは、皇帝の命を受け、特別に仕立てた船で泉州を出帆します。
そして、ほぼ25年ぶりに、彼らが故郷ベネチアに帰り着いた時、本人達が生きて帰ったと信じてくれた人物は、一人も居ませんでした。

 自分達が決して、ペテン師で無い事を納得させる為、3人は宴席を設け、まだ疑わしそうな眼差しを向ける客達の前に、旅でぼろぼろに成った、ダッタンの衣装を見せ、その縫い目を切ると、煌めく宝石が滝の様にこぼれ落ちました。
是は、彼らの話が真実である事を証明する、絶対の決め手と考えられ、中国の皇帝以外にこの様に多量の財宝を与える事が出来る者が存在するはずがない、と当時の人々は信じていたからでした。

 だが、もし戦争が起こらなければ、マルコ・ポーロの旅が、世界に知られる事は無かったでしょう。
彼らがベニチアに帰還してから3年後、ベネチアは商業上の競争相手である、ジェノバと衝突します。
ガレー船の指揮を取っていた、マルコは捕虜となり、ジェノバの監獄に収監されました。
其処で、マルコは時間を賢明に使ったのです。
皇帝の為に書き留めておいた記録を使って、記憶を呼び覚ましながら、仲間の囚人に思い出話を書き取らせたのです。
こうして、彼の旅行記「東方見聞録」が完成したのですが、この記録が書物として出版されると、嘘の固まりであるとさんざん非難されました。

 1324年、彼が死の床についた時でさえ、或る司祭は彼に、ホラ話を取り消す様に勧めましたが、最後の息の下で彼はこの様に語ったと伝えられています。
「私は、自分の見た事の半分しか、まだ話してはいない」と。

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マルコ・ポーロ帰国700年記念 1995 イタリア 1996/3/22 発行

ジョークは如何?

ある男が酔っ払って赤の広場で「スターリンの馬鹿野郎!」と叫んだ。
すぐに飛んできた民警につかまり、シベリヤ送りに。

男「罪状は?」
警「国家元首侮辱罪と、国家機密漏洩罪だ」


続く・・・
2014/12/12

歴史を歩く67

13 モンゴル民族の発展⑤

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元朝宮廷風俗

3 元の中国支配(統治政策)

 南宋を滅ぼし中国全土を支配下においた元朝は、人口の8割以上を占める漢人統治にあたってはモンゴル人第一主義を原則とし、 従来の州県制に基づく統治を行いました。

 モンゴル人第一主義は民族差別に基づく身分制度で、人々をモンゴル人、色目人、漢人、南人に分け、中央政府の首脳部と地方行政機関の長はモンゴル人が独占しました。

 色目人は諸色目人(色々の目の色をした人々の意)の略で、中央アジア、西アジア出身の異民族を指し、モンゴル人に次いで重用され、モンゴル人とともに支配階級を形成し、主として経済、財政面で活躍し、ヨーロッパの人々もこの範囲に入ります。
 
 支配階級であるモンゴル人と色目人を合わせて人口は約200万人、その人口構成比は約3%でした。

虢国夫人游春图
虢国夫人游春图

 漢人は、金の支配下にあった人々の総称で女真、契丹、高麗、渤海の人々と淮河以北に居住していた漢人等が含まれ、人口は約1000万人、人口構成比は約14%でした。

 南人は南宋の支配下にあった漢民族を指し、人口は約6000万人、人口構成比は約83%を占め、漢人、南人は被支配者階級であり、特に人口の大部分を占める南人は最下層に置かれ徹底的に差別されたのです。
僅か3%の支配階級が97%の漢民族、女真人、契丹人等を支配したのがモンゴル人第一主義です。

 モンゴル人第一主義のもとでは、重要官職はすべてモンゴル人と色目人が独占した結果、従来の官吏任用制である科挙は一時停止されたのですが、中国文化に理解を示した第4代仁宗の時に復活したのですが(1313年)、モンゴル人、色目人と漢人には別々の試験が課され、しかも試験の難易度に差が付けられており、モンゴル人や色目人に有利になっていました。

 こうしたなかで、今迄の中国社会では人々から尊敬されてきた士大夫階級、特に儒学者は冷遇されました。
当時の人々の社会的地位を順にあげている記録によれば「官・吏・僧・道・医・工・匠・娼・儒・丐」であり、儒学者は9番目におかれ、辛うじて丐(乞食)の上に 置かれる存在でした。

 支配階級で貴族階級であるモンゴル人の数は極端に少なく、その上彼等は大土地を所有したのですが遊牧民族である彼等は、中国の農耕社会に根をおろすことは最後迄在りませんでした。
彼等の所有する大土地は宋代と同様に佃戸によって耕されたことを考えれば、モンゴル人は中国社会に寄生しているに過ぎませんでした。

 世祖フビライ・ハンの死後、孫の成宗(在位1294年~1307年)が継ぎ、世祖の方針を守り、国内、対外的にも平和を維持しましたが、次の武宗(在位1307年~11年)の時代になるとチベット仏教(ラマ教)信仰による莫大な出費、交鈔(紙幣)の乱発等により財政が混乱します。

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パスパ(パクパ・ロテ・ギャンツェン・གྲོ་མགོན་ཆོས་རྒྱལ་འཕགས་པ・八思巴)

 チベット仏教(ラマ教)は、フビライがチベット仏教の教主パスパを国師に迎えて保護した為、元朝で大いに栄えます。

 パスパ(1235年(39年)~80年)はチベット仏教(ラマ教)のサキャ派(紅帽派)の教主であり、幼い頃から聡明でパスパ(聖者)と呼ばれました。
即位前のフビライの信任を得て授戒し、フビライの即位とともに国師となり、モンゴル帝国内の仏教の統治権を与えられます。

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パスパ文字

 又パスパはフビライの命を受けて、チベット文字を基礎とするパスパ文字を考案し(1269年に公布)、パスパ文字は正式の国字となり、公文書に使用されましたが、読み書きが困難を極めた為にあまり普及していません。

 元朝では、以後チベット仏教(ラマ教)が大いに栄え、ラマ僧は尊崇され、又壮大なラマ教寺院が次々に建立され、豪華な法要が営まれ、そのために莫大な国費が費やされていきました。

 宮廷貴族の贅沢な生活やチベット仏教(ラマ教)の信仰による莫大な出費等により、元の財政は窮乏します。

 財政難を切り抜けるために、元朝は塩、茶、酒の専売制を強化し、交鈔を乱発しました。
交鈔は元の主要通貨となった紙幣で、フビライは交鈔を唯一の通貨と定めていましたので、フビライの時代、交鈔は銅銭の代用として使用され、銅銭2貫文が銀1両と定められ、交鈔の発行高に見合う銀が国庫に用意されていたのですが、その乱発により銀の準備不足に陥り、通貨の価値が暴落、激しいインフレを引き起こし、物価の上昇は民衆の生活を直撃しました。

 第4代仁宗(在位1311年~20年)は中国文化を尊重し、科挙の復活等を行い、次の英宗(在位1320年~23年)は禁軍の強化等、皇帝権の強化に努めたのですが、その急激な改革に反対する勢力によって暗殺されてしまいます。

 その後、元朝内部ではハン位の相続争いが続き、一方で財政は窮乏し、交鈔の乱発によるインフレは民衆の生活を圧迫し、社会不安が増大します。

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朱元璋

 第11代ハンに順帝(在位1333年~70年)が即位ますが、順帝は権臣に政権をゆだね、政治から逃避して逸楽に溺れた結果、国内は乱れ、紅巾の乱(白蓮教徒の乱、1351年~66年)等の反乱が相次ぎます。

 紅巾の乱から身を起こして明(1368年~1644年)を建国した朱元璋(明の太祖洪武帝)が北上して大都を陥れ、元を滅ぼし(1368年)、順帝は、大都から上都へ、更に応昌に逃れますがその地で病死し、順帝の子、昭宗(在位1371年~78年)は、モンゴル高原に退いて北元(1371年~88年)を建国しましたが、その子の時に明の遠征軍に敗れ、北元は2代で滅亡します。

ジョークは如何?

地獄には嘘つきが沈みこむための大きな沼がある。生涯のなかで多くの嘘をついているほど深く沈み込むという。ヒトラーとゲーリングは首まで沼に沈んでいる。そして自分達より背の低いゲッペルスがまだ腹の線までしか沈んでいないのをみて羨ましく思った。
 「君はこの世にいた最大の嘘つきだったのにどうしてもっと深く沈まないのかね?」

 「私はムッソリーニの肩に足を載せているんです。」


続く・・・
2014/12/07

歴史を歩く66

13 モンゴル民族の発展④

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フビライ・ハン

3 元の中国支配(侵略)

 フビライ・ハン(世祖、在位1260年~94年)は、兄モンケ・ハンの死後、上都(開平)でクリルタイを開き大ハンの位に就き(1260年)、都をカラコルムから大都(現在の北京)に遷都(1264年)、国号を中国風に元と称しました(1271年)。

 フビライは、彼の即位に反対するアリクブガの反乱を平定すると、全力を傾けて南宋攻略に着手し、南宋の重要な拠点である襄陽を5年にもわたる長期包囲戦で陥落させると(1273年)、更に南下して長江中流の要衝である顎州(現在の武漢)を占領し、長江を下り、蕪湖で南宋軍を劇は、首都臨安を包囲しました。

 南宋では文天祥らが抗戦を唱えましたが、皇太后は幼い恭帝(在位1274年~76年)を伴って元に降伏しますが、主戦論を唱えた陸秀夫等は恭帝の庶兄である端宗(在位1276年~78年)を擁立し、彼の死後は弟の帝昞(ていへい、在位1278年~79年)を擁立して海上に逃れ、福州、泉州を経て、最後はマカオの西南の崖山島に逃れましたが、元軍の総攻撃を受けて南宋軍が壊滅する中で、陸秀夫は幼い皇帝を背負って入水し、南宋は終に滅亡します(崖山の戦い、1279年)。

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南宋滅亡・崖山の戦い

 文天祥は、講和の交渉の為に元の陣中に赴いたものの、そのまま抑留され、後に脱走して各地を転戦して元軍と戦いますが、最後には捕らえられて大都に送られた後、死刑と成りました(1282年)。

 南宋を滅ぼし中国全土を支配下に置いた元の領土は、フビライ治世時に最大となり、その領土は中国、モンゴル、満州に及び、チベット(1252年に服属)、朝鮮(高麗)、ミャンマー(ビルマ)を属国としました。

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高麗軍将兵

 高麗(918年~1392年)は、オゴタイ・ハンの時代に元軍の侵入を受けて降伏した(1231年)のですが、その翌年都を開京から江華島に移し、モンゴルに背いた結果、モンゴルは再び大軍を送り込みます。
以後連年にわたる侵略、掠奪と破壊を続け、高麗は再び降伏し、モンゴルの属国となりました(1259年)。
モンゴルはダルガチ(占領地の統治官、長官)を派遣して高麗を直接支配し、以後モンゴルの文化、制度を強制していきます。

 このモンゴルの占領下で三別抄(別抄、強兵軍団)が反乱を起こしました(1270年~73年)。
別抄3軍団は、最後に耽羅(済州島)に篭って抵抗続けましたが終に鎮圧され、高麗は完全に属国となり、フビライは此処高麗を拠点とし、更に日本を服属させようと画策します。

 これより前、フビライの使節が太宰府に来て国書を持参していました(1268年)。
更に翌年にも使節を対馬に派遣したものの目的を果たせず、2年後に3度目の使節を遣わしたのですが(1271年)、この使節も使命を果たせずに帰国しています。

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文永の役

 フビライは高麗に軍船900隻の建造と兵員、水手の徴発を命じ(1274年初頭)、その完成を待って、モンゴル、高麗の連合軍28000人の大軍が900艘に分乗して合浦を出発し、対馬、壱岐を襲い博多沖に攻め寄せました(1274年10月)。
しかし、暴風雨に遭遇して軍船の多くを失い、溺死した者約13500人と云われています(文永の役)。
 
フビライは、その翌年4度目の使節を派遣しましたが、時の執権北条時宗は全員を竜の口で斬り捨てました。
フビライは再度の侵略準備を進めましたが、南宋攻略軍が臨安に迫っていた時期でもあった為、軍船の建造も一時中止していました。
間も無く、南宋は臨安陥落の前に降伏(1276年)、崖山の戦いで滅亡したのは上述に通りです(1279年)。

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弘安の役・神風

 フビライは、南宋を滅ぼすと南宋、高麗に軍船の建造を命じ、1281年今度は軍を二つに分け、一つは高麗から4万人の軍勢が900艘に分乗し、もう一つの軍は征服した南宋軍を主力とした10万人の大軍が3500艘に分乗して江南を発し、7月、4400艘が博多湾に集結、博多付近へ上陸を試みましたが日本側の激しい反撃に遭遇し、鷹島に退いたこの時も再度台風(大風)に遭い、軍船の多くは覆没し、約10万人が溺死したと伝えられています(弘安の役)。

 フビライは三度目の遠征を企てますが、江南の反乱、ヴェトナムの反抗更にハイズの乱とそれに呼応するモンゴル東部、満州での反乱が続発し、フビライは終に日本遠征を断念せざるを得なくなりました。

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元の東アジア遠征

 フビライは日本、ヴェトナム、ジャワに遠征軍を送ったのですが、その遠征は強い抵抗にあって総て失敗に終わっています。

 ヴェトナム南部チャンパの反抗に対して、海路大軍を送り込み王城を占領しますが、ここでも暴風に襲われ多くの軍船を失って撤退(1283年~84年)。

 又ヴェトナム北部陳朝(1225年~1400年)に2回(1284年、87年)にわたって陸路侵略しますが、酷暑と泥濘に苦しみ、ヴェトナム人の粘り強い反抗に遭遇して撤退。

 ジャワ島シンガサーリ朝(1222年~92年)の国王が元からの使者を追放したことから、ジャワ遠征を行ったものの、此方も失敗に終わっています(1292年)。

 しかし、ミャンマー(ビルマ)ではパガン朝(1044年~1287年)を滅ぼし、これを属国としました。

ジョークは如何?

第二次世界大戦下のドイツ。

ある町のカトリック教会にナチ党の役人がやってくると、司祭にこう告げた。

「この度、ドイツ国民すべてが党への忠誠心を忘れないように、あらゆる公共の場所で総統ヒトラーと国家元帥ゲーリングの肖像を掲げることとなった。その法令に従い、この教会の礼拝堂にもお二人の肖像を掲げるように」

その次の日曜になって、教区の信者が教会に礼拝にやってくると、あろうことかキリストの磔刑像の両側にヒトラーとゲーリングの肖像画が掲げられているではないか。あまりの事に信者達は言葉もなかったが、先日命令を告げに来た役人だけは司祭が命令に従ったことに満足して意気揚揚と帰っていった。

そこに現れた司祭は、役人が帰っていくのを見送ると説教壇に上がって、呆然の呈を示したままの信者達に向かって厳かに説教を始めた。

「今日は皆さんに、主イエス・キリストの最後のときのお話をいたしましょう。茨の冠を戴き、十字架を背負い、ゴルゴダの丘まで登ってきた主イエス・キリストは、2人の強盗と共に磔に…」


続く・・・