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2015/01/28

歴史を歩く77

14-2イスラム世界の発展②

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13世紀の東アジア、地中海諸国

2カイロを都とした王朝

 ファーティマ朝(909年~1171年)は過激シーア派の一分派、イスマーイール派がチュニジアに建国した国家で、創始者のオバイドゥッラー(在位909年~934年)はムハンマドの娘ファーティマの子孫と称し、アル・マフディー(マフディーは「救世主」の意味)と称しました。
又彼は即位当初よりカリフを称したため、ファーティマ朝は唯一のシーア派王朝として、東のアッバース朝及び西の後ウマイヤ朝と対立しました。

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サラディン騎馬像

 ファーティマ朝は969年にエジプトを征服し、カイロ市を建設し、この地に遷都(973年)。
更にシリアに進出し、地中海、北アフリカ貿易を独占して繁栄しますが、やがてアイユーブ朝に滅ぼされます。

 アイユーブ朝(1169年~1250年、アイユーブはサラディンの父の名に由来)の創始者は有名なサラディン(サラーフ・アッディーン、1138年~93年、在位1169年~93年)です。

 サラディンは、トルコ、イラク、イランにまたがって居住する剽悍な少数民族であるクルド人出身です。
クルド人はスンナ派のイスラム教徒で、トルコでは山岳トルコ族とも呼ばれています。
サラディンはイラクに生まれ、初めアレッポ(北シリアの都市)のザンギー朝に仕え、後にエジプトに入り、ファーティマ朝に仕えて宰相となり、ファーティマ朝を廃してアイユーブ朝を開きます。

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エルサレム開城を巡るサラディンとキリスト教徒の交渉

 サラディンはアイユーブ朝を開くと、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を得て、エジプト、シリア、イラクに領土を拡大し、イスラム勢力を結集して十字軍を破り、イェルサレム王国から聖地イェルサレムを奪回します(1187年)。
このため第3回十字軍の遠征(1189年~92年)が起こされましたが、サラディンはイギリス王リチャード1世の軍と戦い、聖地イェルサレムを守り抜いて休戦条約を結びます。
この時のリチャード1世との勇猛な戦いぶりからサラディンは、イスラム教徒の間で英雄視されているだけでなく、サラディンの武勇や寛容さは当時のヨーロッパ人にも大きな感銘を与え、彼の名声はヨーロッパにも広まったのです。

 しかしサラディンの死後(1193年)、広大な領土は諸子に分割され、エジプトのアイユーブ朝はマムルーク朝に、西アジアの各家はモンゴルに滅ぼされていきます。
 
 マムルーク朝(1250年~1517年)は、エジプトのアイユーブ朝の親衛隊長であったアイバク(?~1257年、在位1250年~57年)によって建国されます。

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シャジャル・アッドゥッル

 アイバクは、トルコ人のマムルーク(奴隷兵士)でアイユーブ朝に仕えてスルタンの親衛隊長となり、7代スルタンの死後、その妃シャジャル・アッドゥッル(宮廷女奴隷出身)を擁立し、またその夫となって実権を握り、マムルーク朝を創始します。
エジプト、シリアを平定し、権力の独占を図りますが、王妃にその意志を見抜かれて入浴中に暗殺されます。

 第5代スルタンとなったバイバルス(在位1260年~77年)は南ロシア生まれのトルコ人で戦乱のため奴隷となって各地を転々とし、後にアイユーブ朝に仕え、スルタンの親衛隊長となり、第6回十字軍のフランス王ルイ9世と戦ってルイ9世を捕虜とし、又シリアでイル・ハン国軍の侵入を撃退して頭角を現します。

 しかし、期待した恩賞が与えられなかったことからスルタンを殺して即位します。
イル・ハン国に滅ぼされたバグダードのアッバース朝のカリフの親族をカイロに引き取って保護し、カリフ制を復活させ(1261年)、その権威を利用します。
バイバルスは国政の基礎を確立した英主として名高い君主です。

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バイバルス

 マムルーク朝の首都カイロは東西貿易で繁栄し、バグダード、コルドバとともにイスラム文化の中心地としても栄えます。
歴代のスルタンは東西貿易を国家の統制下に置いて利益を独占し、カイロに多くの美しいモスクや学院などを残します。
ファーティマ朝時代に創建されたアズハル学院(カイロの大学)は、マムルーク朝の時代にはスンナ派イスラム学の最高学府となり、各地から学者が集まります。

 マムルーク朝は、インド航路が発見されると独占してきた東西貿易の利益を失うことになり、衰退が始まりやがてオスマン・トルコ帝国に滅ぼされことと成ります(1517年)。

ジョークは如何?

第二次世界大戦勃発のとき、敵地から脱出した英大使館員がホワイト・ホール(外務省)に打った電報。

「全員無事引揚げ完了。ただし、館員13、婦女子5、犬2匹。」

続く・・・
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2015/01/25

歴史を歩く76

14-2イスラム世界の発展①

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イスラム圏の王朝交代

1東方イスラム世界

 アッバース朝は、全盛期の第5代カリフ、ハールーン・アッラシードの死後(809年)、エジプトやイランで独立の動きが強まり、次第に分裂状態に陥って行きました。

 イランでは、イラン系のマワーリー(非アラブ系の改宗者)でアッバース朝の将軍であったターヒルがホラサーン(イラン東部)で自立し、ターヒル朝(821年~873年)を建国しましたが、サッファール朝(867年~903年)に滅ぼされます。
サッファール朝は、イラン人ライスが創建し、3代続き、一時はイラン各地を支配しバグダードに迫りますが、後にサーマン朝に滅ぼされます。

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ヤアクーブ・イブン・アル・ライス・アル・サッファール( یعقوب لیث صفاری)‎

 サーマン朝(875年~999年)は、中央アジア最初のイラン系イスラム王朝で、ナスルがアッバース朝から独立し、その後サッファール朝を滅ぼしてブハラ(現ウズベキスタン共和国、アム川北岸の都市)を都と定め、最盛期には中央アジアからイラン東部迄を領有し、ブハラ、サマルカンド等の商業都市が繁栄しましたが、10世紀末にトルコ系のカラハン朝に滅ぼされます。

 カラハン朝(10世紀中庸~12世紀中庸)は、中央アジア最初のトルコ系イスラム王朝で、10世紀にカシュガル方面から興り、ベラサグンに都を定め、次第に勢力を伸ばし、960年頃にイスラム教に改宗しました。
サーマン朝を滅ぼし(999年)、東西トルキスタン(中央アジア)を領有する大帝国となり、東西トルキスタンのイスラム化を促進しますが、1008年にガズナ朝に大敗し、パミール高原を中心に東西に分裂(1047年)、カシュガルを中心とした東カラハン朝は1132年に西遼(カラキタイ)に、サマルカンドを中心とした西カラハン朝はホラズムに滅ぼされました。

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東突厥・西突厥・周辺諸国の位置関係

 北アジアを原住地とする遊牧民でアルタイ語族に属するトルコ人は、古くは匈奴、柔然に服属していましたが、6世紀半ばから台頭し、柔然を滅ぼして東は蒙古高原から西は中央アジアにまたがる大突厥帝国を建国しました。
しかし、内紛によって583年に東西に分裂し、東突厥はウイグルに滅ぼされます。

 ウイグルは、同じトルコ系のキルギスの侵入を受けて滅亡し(840年)、ウイグルの国家は四散するのですが、この時多くのウイグル人がモンゴル高原からタリム盆地に移住し、その結果中央アジアのトルコ化が急速に進み、以後中央アジアはペルシア語で「トルコ人の地域」を意味するトルキスタンと呼ばれるように成りました。
ウイグル人は現在もこの辺り(中華人民共和国の新疆ウイグル自治区)に多く居住しています。

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マムルーク兵

 中央アジアに移住したトルコ人は、騎馬戦士として優れており、奴隷、傭兵としてイスラム世界に進出して行きます。
トルコ人とイスラムとの出会いはアッバース朝が、9世紀にマムルークと呼ばれるトルコ人の奴隷兵で親衛隊を組織したことが初めてでした。

 マムルークは黒人奴隷兵に対して白人奴隷兵を指し、トルコ人、スラヴ人、ギリシア人、クルド人等の戦争捕虜や購入奴隷が中心でした。
なかでもトルコ人のマムルークはアッバース朝以後次第にイスラム各王朝の軍事力の中心となり、以後のイスラム世界で軍事、政治の面で大きな力を持つことに成ります。

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セルジューク朝アスカリ

 グッズ・トルコ族と呼ばれた遊牧民の一派が10世紀頃、族長のセルジュークに率いられてキルギス草原からシル川(天山山脈に発し、アラル海に注ぐ中央アジアの大河)下流に移住し、セルジュークの孫のトゥグリル・ベク(993年頃~1063年、在位1038年~63年)のもとでセルジューク朝(セルジューク・トルコ)(1038年~1194年)を建国しました。

 トゥグリル・ベクは、シル川下流域で自立し、1038年にガズナ朝を撃破しその勢力をアフガニスタンに追い、ホラサーン地方(イラン東部)を獲得、更にイラン本土に進出し、レイに都を定めました。
1055年、アッバース朝のカリフの招きでバグダードに入城し、シーア派のブワイフ朝を打倒、アッバース朝のカリフから「スルタン」の称号を得て、スンナ派政権を樹立しました。

 スルタンは、アラビア語で「支配者の地位」を意味する言葉で、カリフに代わってイスラム世界の世俗的(軍事・政治)支配権を握った専制君主の称号として、20世紀初頭迄使われることに成ります。このためアッバース朝のカリフは以後宗教的な権威を保つに過ぎなくなり、政治、軍事の実権を失って行きました。

 トゥグリル・ベクは中央アジアから小アジアにまたがる広大な領域を支配下に置き、東方イスラム世界を統一して、ビザンツ帝国と抗争します。
このセルジューク朝の小アジア進出が十字軍の原因となりました。

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マリク・シャー

 大セルジューク朝(本家セルジューク朝、1038年~1157年)の最盛期は、3代のマリク・シャー(在位1072年~92年)の時代で、彼はイラン人宰相のニザーム・アル・ムルク(1092年没)の補佐のもと、政治、文化の黄金時代を現出しました。
イクター制が整備されたのもこの王の時でした。

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ニザーム・アル・ムルク

 イクター制はブワイフ朝で創始され、セルジューク朝の時に西アジアで広く施行されるようになった土地制度で、イクターは国家から授与された分与地、或いはその分与地での徴税権を意味します。ブワイフ朝では功臣や兵士等に国庫から現金で俸給を支払う代わりに、各人の俸給に見合う金額を徴収できる土地の徴税権を与え、農民や商人から直接徴税させました。
セルジューク朝では分与地での徴税権を与えることは同様でしたが、イクター保有者にその収入で兵士を養い、戦時にはこれらの兵士を率いて参戦する軍事奉仕を義務化します。
そしてニザーム・アル・ムルクが兵士に忠誠を尽くさせるために世襲的領地の分与を制度化したので、イクターは以後世襲化されるように成りました。

 セルジューク朝はマリク・シャーの死後、内紛によって大セルジューク朝の他に、各地の分家である小アジアのルーム・セルジューク朝(1077年~1308年)をはじめシリア、イラクのセルジューク朝など4つの小王朝が分立し、分裂状態に陥いりました。
イラク・セルジューク朝(1117年~94年)がホラズム朝に滅ぼされた1194年をもってセルジューク朝の滅亡とされています。

 ホラズム朝(アラビア語でフワーリズムとも呼ばれる、1077年~1231年)は、ガズナ朝のトルコ系奴隷でホラズムの知事であったアヌーシュ・テギンが、セルジューク朝によってホラズム太守に任じられ、アム川下流域で独立して建てた国です。
その子の時にホラズム・シャー(シャーはイラン語で「王」を意味する語)を称し(1097年)、セルジューク朝からイランを奪い、やがてイラン全土を領有しました。
後に西遼(カラキタイ)を撃破し、イランから中央アジアにまたがる大帝国に成長し第6代のアラー・ウッディーン・ムハンマド(在位1200年~20年)はゴール朝を滅ぼし(1215年)、アフガニスタンを奪取しますが、その直後にチンギス・ハンに討たれ(1220年)、ホラズム朝は事実上崩壊します。その子孫は更にモンゴルに対する抗戦を続けますが、1231年に完全に滅亡しました。

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フラグとその筆頭正妃ドクズ・ハトゥン

 イスラム世界は、トルコ人の活躍によって発展を遂げてきましたが、13世紀に入るとモンゴル人の侵入を受け、やがてその支配下に置かれます。

 チンギス・ハンの孫のフラグ・ハン(1218年~65年)に率いられたモンゴル軍は1258年にバグダードを陥れ、アッバース朝最後のカリフであるムスターシムを殺害し、約500年間続いてきたアッバース朝は此処に終焉を迎えます。

 フラグ・ハン(在位1258年~65年)はイラン、イラクを征服してイル・ハン国(1258年~1353年)の開祖と成ります。
イル=ハン国は初めネストリウス派のキリスト教を保護し、イスラム教徒を圧迫しますが、英主として名高い第7代のガザン・ハン(在位1295年~1304年)は、1万人のモンゴル兵とともにイスラム教に改宗し、イスラム教を国教に定めました。
また彼は学芸・文化を保護し、イル・ハン国の最盛期を現出します。

ジョークは如何?

外国新聞の特派員がチェコ人にきいた。

「あなたはソ連人を友人と考えていますか? それとも兄弟と考えていますか?」

チェコ人は答えた。

「もちろん、兄弟ですよ。友人は自分で選ぶものですからね。しかし兄弟だと選べませんから。」

続く・・・

2015/01/24

歴史を歩く75

14 イスラム帝国の成立④

後ウマイヤ朝
後ウマイヤ朝

4イスラム帝国の分裂

 アッバース朝の成立は、同時にイスラム世界の分裂の第一歩と成りました。

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アブド・アッラフマーン1世

 アッバース朝の創始者であるアブー・アルアッバースは、ウマイヤ家一族の大虐殺を行い、東方世界ではウマイヤ家の血統は絶えましたが、この時ウマイヤ朝第10代カリフの孫であったアブド・アッラフマーン(731年~788年、在位756年~788年)は、かろうじてこの大虐殺を逃れ、シリアからモロッコまでの劇的な逃避行の後、ウマイヤ朝の旧臣の支持のもとでスペイン上陸を敢行し(755年)、アッバース軍を倒して、コルドバに入城し、翌756年にウマイヤ朝を再興しました。
この王朝は後ウマイヤ朝(756年~1031年)と呼ばれます。

アブド・アッラフマーン3世
アブド・アッラフマーン3世

 後ウマイヤ朝の第8代のアブド・アッラフマーン3世(在位912年~961年)は、名君の誉が高く、926年に初めてカリフを称し、アッバース朝、ファーティマ朝に対抗する西カリフとして後ウマイヤ朝の最盛期を現出しました。

 首都コルドバは、人口30万人に達し、西方イスラム世界の政治、経済、文化及び世界商業の一大中心地として繁栄しました。

 後ウマイヤ朝の成立により、イスラム世界は東方のアッバース朝とイベリア半島の後ウマイヤ朝に分裂しましたが、アッバース朝が黄金期を築いたハールーン・アッラシードの死後(809年)、次第に衰退すると、帝国内で各民族の自立の動きが活発となり、アッバース朝は分裂状態に陥っていきます。

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シャルルマーニュよりの使者を迎えるハールーン・アッラシード:Julius Kockert 画

 9世紀後半には、エジプトのトゥールン朝や中央アジアでサーマン朝が自立し、10世紀初頭にはチュニジアで過激シーア派のイスマーイール派がファーティマ朝(909年~1171年)を建国しました。
ファーティマはアリーと結婚したムハンマドの娘の名です。

 ファーティマ朝は、969年にはエジプトを征服し、カイロ市を建設、ここを都と定めました。

 ファーティマ朝の創始者は、建国の当初からカリフを称し、アッバース朝や後ウマイヤ朝に対抗します。
後ウマイヤ朝の君主もファーティマ朝のカリフに対抗してカリフを称したので、10世紀のイスラム世界には3人のカリフが並立することと成り、アッバース朝は東カリフ国、ファーティマ朝は中カリフ国、後ウマイヤ朝は西カリフ国とも呼ばれました。

 ファーティマ朝より少し遅れて、イランではシーア派の軍事政権であるブワイフ朝(932年~1055年)が成立しました。
シーア派のアブー・ジュジャー・ブワイがサーマン朝(875年~999年)から自立して、イランの要地を領有し、その子の時代にバグダードに入城(946年)、アッバース朝のカリフから大将軍(アミール・ル・ウマラー)の称号を受け、イスラム法を施行する権限を与えられ、イスラム世界の実権を掌握しますが、結果としてアッバース朝のカリフは名目的な存在となり、イスラム世界の分裂は益々激しくなっていきました。
ブワイフ朝は100年余り存続しますが、11世紀の半ばにセルジューク朝(セルジューク・トルコ)によって滅ぼされます。 

ジョークは如何?

日本軍がシンガポールを攻めたとき、イギリス人は豪語した。

「なあに、大丈夫さ。イギリス人兵1人は、優に日本兵10人に相当する。」

ところが、あっけなくシンガポールは落ちた。司令官パーシバル将軍が新聞記者に次のように述べた。

「残念、日本兵は11人もやって来た。」

続く・・・
2015/01/22

歴史を歩く74

14 イスラム帝国の成立③

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アッバース朝時代の周辺諸国

3イスラム帝国

 ウマイヤ朝はアラブ第一主義を採用し、征服地の非アラブ系改宗者(マワーリー)を差別した結果、彼らは「アッラーの前に平等である」と説く「コーラン」の教えに反するとして、ウマイヤ朝の政策に不満を抱きます。
特にシーア派を信仰するイラン人がその中心でした。
又アラブ人の中にもウマイヤ朝の政策を批判する者が出てきます。

 こうしたシーア派や非アラブ系の改宗者の不満を利用し、イラン人の協力を得て、ウマイヤ朝を打倒し、アッバース朝(750年~1258年)を開いた人物が、アブー・アルアッバース(サッファーフ(カリフ名)、732年頃~754年、在位750年~754年)です。

 アブー・アルアッバースは、ムハンマドの叔父のアッバースの曾孫で、父の反ウマイヤ運動を引き継いで、サラサーン(イラン東部)で挙兵し、イラクに進出してクーファでカリフに推戴され(749年)、翌年の戦いでウマイヤ勢力を掃討し、750年にアッバース朝を開きました。

 激しい性格の持ち主であった彼は、政権を握るとウマイヤ家の人々を根絶し、又アッバース朝の樹立に協力してきたシーア派の人々をも殺戮し、スンニ派を採用し、自分の近親者で政権を固め、中央集権化を図りました。

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タラス河の戦い(唐軍)

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タラス河の戦い(アッバース軍)

 アッバース朝が成立した翌年(751年)に、イスラム軍は中央アジアのタラス河畔で高仙芝(?~755年、高句麗出身で唐に仕えた武将)の率いる唐軍と戦ってこれを撃破しました。
有名なタラス河畔の戦いで (751年)、この戦いは当時の世界二大強国の激突でもあり、特にこの時イスラムの捕虜となった唐兵の中に紙すき工がいたことから、製紙法が西方へ伝播するきっかけとなった戦いとして有名です。

 8世紀以後、バグダードで製紙業が盛んとなり、製紙法は北アフリカを経て12世紀には西ヨーロッパに伝播することになります。

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マンスール

 兄サッファーフの後を継いで第2代カリフとなった人物がマンスール(在位754年~775年)であい、彼はアッバース朝の中で最も傑出したカリフの一人と言われ、円形都市として有名な新首都バグダードを建設し(762年~766年)、又ササン朝の制度を採用し、イラン人を多く起用して国政の整備を行い、文化面にも力を注ぎました。

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ハールーン・アッラシード

 第5代カリフのハールーン・アッラシード(763年頃~809年、在位786年~809年)は、第3代カリフと奴隷出身の母との間に生まれ、異母兄が暗殺された後カリフの位に就きました。

 ハールーン・アッラシードは歴代のカリフ中最も傑出した君主とされ、彼の時代にアッバース朝は黄金時代を迎えました。

 彼は遠くインド王や有名なフランクのカール大帝と使節や贈り物を交換したと言われており、しばしば小アジア遠征を行い、ビザンツ帝国を圧迫しました。

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「アラビアン・ナイト(千夜一夜物語)」


 この頃、首都バグダードは世界一の大都市として繁栄し、最盛期の人口は100万人を超え(150万人、200万人の記録も存在)、このバグダードの繁栄ぶりは、有名な「アラビアン・ナイト(千夜一夜物語)」に描かれています。

 ハールーン・アッラシードはこの「アラビアン・ナイト」に度々登場することでも有名ですが、彼は中央アジアの反乱鎮圧に向かう途中にトゥーズで病没します。

 ハールーン・アッラシードの時代に最盛期を迎えたアッバース朝も、彼の死後まもなく帝国内の各地で自立の動きが盛んとなり、エジプトやイランには独立王朝が次々に成立し、アッバース朝は次第に衰退して行きます。

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アッバース朝の分裂

 アッバース朝のカリフは、神の代理人としてイスラム法に基づいて政治を行い、官僚制を整備し、中央集権化を進めました。

 アッバース朝のもとで、ウマイヤ朝時代のアラブ第一主義は改められ、イスラム教徒は神の前に平等であるとの原則が確立され、民族による差別が撤廃され、宰相にもイラン人を中心とするマワーリー(新改宗者)が採用されるようになりました。

 又アラブ人の特権は次第に廃止され、イスラム教徒であれば、アラブ人以外の人でもジズヤ(人頭税)は課せられなくなり、一方アラブ人でも征服地に土地を所有する場合にはハラージュ(地租)が課せられるようになりました。

 ウマイヤ朝迄の「アラブ帝国」から、真の意味での「イスラム帝国」への変質がアッバース朝によって実現されたのです。

ジョークは如何?

ヒトラー政権が樹立され、ベルリンに住むたいていのユダヤ人は、毎朝新聞売場でナチスの機関紙を買い、第一面にざっと目を走らせただけで、くずかごに放り込むのがならわしでした。
ある日、不思議に思った新聞売りが理由を聞いてみました。すると、こんな答えが返ってきました。

「いや、死亡広告だけさがしているのさ。」
「死亡広告は最後のページに出ていますよ。」
「おれがさがしてるのは第一面に出るはずさ。」


続く・・・

2015/01/16

歴史を歩く73

14 イスラム帝国の成立②

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イスラム帝国の版図

2アラブ人の征服

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アブー・バクルとムハンマド

 ムハンマドの死後、イスラム教徒は教団の指導者としてカリフを選出しました。
カリフは代理人、後継者を意味し、アブー・バクルが教団の指導者に選ばれた時、最初にこの称号を用い、以後イスラム教徒全体の政治的首長の称号となりました。

 初代カリフに選ばれたアブー・バクル(在位632年~634年)はムハンマドの親友で、早くから彼に従い、片腕として迫害に耐え、メディナに移ってからも教団の長老として重きをなしていました。 彼の娘がムハンマドの妻の一人になっていたので義父にあたります。
初代カリフに選ばれるとアラブ人の団結に力を注ぎ、各地に遠征軍を送り、後の発展の基礎を築いきました。

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 アブー・バクルの死後、彼の遺言で第2代カリフにはウマル(在位634年~644年)が就き、彼は、当初ムハンマドを迫害する側にあったのですが、回心して熱心なイスラム信者となり、教団の重鎮となっていました。
カリフに就任すると大規模な征服戦争(ジハード、聖戦)を継続し、シリア(635年)・エジプト(642年)をビザンツ帝国から奪い、642年のニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアを撃破、これを事実上滅亡に追いやり、イラク、イランを征服して大帝国を形成しました。
征服地から租税の徴収を始め、イスラム暦を採用したのもウマルです。
しかし、最後はイラン人奴隷に暗殺されています。

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コーラン

 第3代カリフには、ウマイヤ家出身のウスマーン(オスマーン)(在位644年~656年)が選出され、彼もムハンマドの教友で彼の娘と結婚していました。
敬虔なイスラム信者であったウスマーンは「コーラン」を現在の形にまとめさせたことで知られています。
彼も征服事業を更に進めたものの、ウマイヤ家出身者を重用したために反対派に暗殺されています。

 第4代カリフに選出されたのがアリー(在位656年~661年)で、ムハンマドは最初の妻ハディージャとの間に3男4女をもうけましたが、男子はすべて早世し、ムハンマドの晩年までただ一人残った娘ファーティマの夫となったのが、ムハンマドの従兄弟であったアリーでした。
アリーはハディージャに次いで2番目に入信したと云われ、ムハンマドから厚い信頼を受けていました。

 アリーは、第4代カリフに選出されたのですが、当時シリア総督であった実力者のムアーウィア(?~680年)は、第3代カリフのウスマーン(ムアーウィアの伯父)の暗殺にアリーが関係しているとして対立し、内乱を起こします。
両者は戦いの後、いったんは休戦しますが、講和に反対するハワーリジュ派の刺客によってアリーはクーファで暗殺されます(661年)。

 ムアーウィアは、アリーの暗殺後、自らカリフを称してウマイヤ朝(661年~750年)を創始します。

 初代のアブー・バクルから4代のアリー迄は、ムスリムの選挙で選ばれたので、この時代を正統カリフ時代(632年~661年)と呼称します。

 暗殺されたアリーの支持者達は、ムアーウィアが樹立したウマイヤ朝のカリフを認めず、ムハンマドの娘ファーティマと結婚したアリーとアリーの子孫だけがイスラムの最高指導者(イマーム)となる資格があるとするシーア派を形成していきます。

 シーア派は、現在のイスラム教徒の約1割を占め、アリーの息子がササン朝ペルシア(イラン人が建てた王朝)の王の娘と結婚したためイラン人の間に広まり、現在のイラン・イスラム共和国の国教となりました。

 これに対して、現在のイスラム教徒の約9割の多数派を占めているのがスンナ(スンニ)派で、スンナ派はウマイヤ朝のカリフを含めて代々のカリフを正統と認める立場を取っています。

 正統カリフ時代に、シリア、エジプト、イランを征服し、東は中央アジアから西は北アフリカ中央部にまたがる大帝国が形成されると、多くのアラブ人は征服地に移住し、今日のエジプトは9割以上がアラブ人で占められています。

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 ウマイヤ朝を創設したムアーウィア(?~680年、在位661年~680年)は、クライシュ族の名門ウマイヤ家に生まれた。彼の父はムハンマドを迫害する有力者の1人でしたが、ムアーウィアはムハンマドがメッカを征服するとイスラム教に帰依し、シリア征服に軍功をあげてシリア総督となり、ダマスクスを中心に勢力を伸ばしました。

 第3代カリフのウスマーン(ムアウィアの伯父)が暗殺され、アリーが第4代カリフとなると、アリーがウスマーン暗殺に関係していると主張し、アリーと対立、抗争を繰り広げ、やがてアリーが暗殺されると、アリーの子にカリフ継承権を放棄させて、カリフとなり、都をメディアからダマスクスに遷して、ウマイヤ朝を開き、以後、ウマイヤ家がカリフの地位を世襲し、ウマイヤ朝は14代続くことに成ります。

 ウマイヤ朝は第6代カリフのワリード1世(在位705年~715年)の時に、東は中央アジア、西北インド迄、西は北アフリカの西迄征服し、更にイベリア半島に進出してゲルマン人の国家である西ゴート王国を滅ぼし(711年)、アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸にまたがる大帝国を建設し、ウマイヤ朝の最盛期を築きます。

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ポワティエの戦い (732年10月25日) シャルル・スチューベン (Charles Steuben)画 1837年

 イスラム軍は、その後フランク王国に侵入しますが、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いでカール・マルテルの率いるフランク軍に敗れ、ピレネー山脈の南に後退しました。

 ウマイヤ朝はアラブ第一主義を採用し、アラブ人を支配者として、彼らに多くの特権を与えました。そして征服地の先住民にだけジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)を課し、彼らがイスラム教に改宗しても免除されることは在りませんでした。

 ジズヤは異教徒の支払う人頭税で、ムハンマドはユダヤ教徒とキリスト教徒(彼らは啓典の民と呼ばれ、他の異教徒とは区別された)に課して、そのかわりに信仰の維持を認めましたが、正統カリフ時代には征服地の異教徒に拡大され、自由身分の成年男子に課し、貨幣で徴収しました。

 ハラージュは地租で、第2代カリフのウマルがイラクで最初に徴収し、アラブの征服が農耕地帯に拡大するにつれて、国庫収入の大部分を占めるように成り、最初は土地面積に応じて一定額を徴収していましたが、8世紀末から実際の収穫の半分を徴収するようになりました。
貨幣又は現物、及びその併用で徴収されています。

 正統カリフ時代からウマイヤ朝にかけては、アラブ人が支配者として特権を持ち、被征服民を差別して支配したので、この大帝国はアラブ帝国とも呼ばれます。

 14代、90年間続いたウマイヤ朝は、750年にアッバース朝に滅ぼされました。

ジョークは如何?

スターリンは天国に行った。
あんなに悪いことをしたのに?

納入業者用の入口から入ったんだ。


続く・・・
2015/01/10

歴史を歩く72

14 イスラム帝国の成立①

1 ムハンマドとイスラム教

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天使ジブリールから啓示を受けるムハンマド

 イスラム教の創始者であるムハンマド(マホメット、570年頃~632年)は、日本の聖徳太子、中国秦王朝の煬帝とほぼ同時代にアラビア半島のメッカに生まれ、40歳頃神の啓示を受けてイスラム教を創始しました。

 イスラム教は、キリスト教(約19億人)、仏教(約3億人)と並ぶ世界の三大宗教で、今日、西アジア、アフリカを中心に約11億人の人々に信仰されています。
 
 ムハンマドの生まれたアラビア半島のメッカは、当時国際的な中継貿易都市として繁栄していました。
アラビア半島は大部分が砂漠で、セム系のアラブ人は古くからオアシスを中心に遊牧や農業そして隊商(キャラバン)による商業活動を営んでいました。

 アラビア半島はこの時代迄世界史の中ではあまり注目されることは殆んど無く、かつてのアケメネス朝ペルシアやローマ帝国の様な大帝国の版図もこの半島に及ぶことはなく、世界史の主流からはずれていました。

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6世紀頃のアラビア半島と隊商路の変化

 そのアラビア半島が脚光をあびるようになるのは、6世紀頃からで、この頃ササン朝ペルシアのホスロー1世(在位531年~579年)とビザンツ帝国のユスティニアヌス大帝(在位527年~565年)がメソポタミアをめぐって激しく争った為に、この地域を通る従来のシルク・ロードは危険性が高まり、キャラバンが危険なルートを避けた結果、シルク・ロードは次第に衰えていきました。

 又、ビザンツ帝国の国力低下とともに紅海貿易も衰えたことから、アラビア半島の西海岸を経由してシリアに至る中継貿易路が繁栄するように成ります。
この国際的な中継貿易を独占して莫大な利益を得ていたのがメッカの大商人達です。

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ムハンマドの家系図

 ムハンマドは、このメッカのクライシュ族の名門ハーシム家に生まれました。
クライシュ族は、古くからメッカの東方で遊牧を営んでいましたが、5世紀にメッカを征服してこの地に定住し、中継貿易に従事するようになり、シリア、エジプトとの貿易を独占しました。
クライシュ族に属する多くの氏族の中で、特にハーシム家とウマイヤ家が有力でした。

 ムハンマドは、幼くして両親と死別し、祖父、伯父に養育され、やがてキャラバンに従事して、アラビア半島・、シリア等を旅する中で見聞を広め、ユダヤ教やキリスト教にも接しました。
25歳頃、メッカの大商人の未亡人ハディージャと結婚し、裕福な生活に入ったのですが、当時のメッカにおける貧富の差の増大等に心を痛め、メッカ郊外の山の洞窟で瞑想に耽ることが多くなりました。40歳頃(610年頃)、天使ガブリエルから「起きて警告せよ」とのアッラーの啓示を受け、やがて預言者(神の言葉を人々に伝える使徒)であると自覚し、唯一神アッラーへの絶対帰依(イスラム)を説き、布教を始めたのでした。

 彼はメッカの一部の大商人達による富の独占を批判し、「アッラーの前に人間は平等である」と説いたので、メッカの下層民の間に信者を得ていきます。
そのため当然ながら、メッカの特権階級である大商人達から迫害を受けるように成りました。

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聖遷

 622年、ムハンマドは少数の信者達とともにメッカを脱出し、ムハンマドの支持者が多かったメディナ(元はヤスリブと呼ばれた)に逃れ、この出来事はヒジュラ(ヘジラ、聖遷)と呼ばれ、イスラム暦の紀元元年とされています。

 イスラム暦はヒジュラの年の年初(西暦622年7月16日)を紀元元年とする太陰暦です。
太陰暦で1年が354日である為に太陽暦の西暦とはずれが生じます。

 メディナへの移住後、ムハンマドに率いられたムスリム(イスラム教徒を意味するアラビア語、アッラーに身を捧げた者の意味)の共同体であるウンマ(イスラム教団)が成立し、それを背景にムハンマドはメディナの支配者となり、敵対者と戦い、周辺の各部族にイスラム教を布教していきました。

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カーバ神殿(現在)

 そして630年1月には1万人の軍勢を率いて、かつて彼を追放したメッカを包囲し、無血占領を果たします。
そこで今迄多神教の神殿であったカーバ神殿の偶像を破壊し、以後イスラム教の聖堂としました。
カーバ神殿はメッカの大モスク(イスラム教の寺院)の中央にあり、石造で高さ15メートルの立方体の建物で、コーランの言葉を刺繍した黒い布で覆われ、東隅の壁の下に神聖視された黒石がはめ込まれています。
イスラム暦の12月には世界中から多くの巡礼者が集まることは有名です。

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ムハンマド、メッカ入城

 その後、アラビア半島の諸部族はムハンマドの支配下に入り、彼が亡くなる632年迄にアラビア半島はほぼ統一されました。
ムハンマドは632年に「別れの巡礼」(メッカへの巡礼)を行った直後に病に陥り、メディナで没し、その地に葬られました。

 イスラム教は、唯一神アッラーへの絶対的服従(イスラム)を教義の中心とする宗教で、聖典の「コーラン」は、ムハンマドに下されたアッラーの啓示を記録したもので、114章から成り、第3代カリフ、ウスマーンの時代、650年頃に現在の形にまとめられ、アラビア語で書かれています。

 イスラム教徒は、六信(イスラム教徒が信ずべきこと)を信じ、五行(イスラム教徒が行うべきこと、義務)を実行し、その他イスラム法によって規定されている様々な禁忌(ハラム)を守らねばなりません。

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メッカ礼拝の作法

 六信とは、
(1)アッラーは唯一絶対の神であり、万物の創造者である。
(2)天使がアッラーと人間の世界との間に存在し、両方の世界を媒介している。
(3)聖典の「コーラン」が最も純粋に神の言葉を示している。
(4)ムハンマドは預言者である。
※アッラーはムハンマド以前にもモーセ、ダヴィデ、イエス等の預言者をこの世に送ったのですが、ムハンマドは最後にして最大の預言者とされています。
(5)最後の審判により、人々は生前の善行、悪行の多少によって天国と地獄にわけられる。
(6)天命、神の意志は人間の意志、行為を通じて現れ、人間の全ての行為はアッラーが創造したものである。
以上6つのことを信ずることです。

 五行とは、
(1) 信仰告白(2)礼拝(3)断食(4)喜捨(5)巡礼の5つの義務を実行することです。

(1)信仰告白は「アッラーの他に神はなし、ムハンマドはその使徒である」という言葉を唱えること。
(2)礼拝は、1日に5回、どこにいてもメッカのカーバ神殿に向かって礼拝を行うこと。
1回目は日の出前、以後正午、日没前、日没後そして寝る前の5回で、一度の礼拝は短い人でも10分位、長い人は1時間以上に及ぶと云います。
(3)断食は、イスラム暦の9月(ラマダーン)に1ヶ月間、日の出から日没まで一切の飲食を断つことで、イスラム暦は太陰暦で1年が354日であるため、年によっては真夏、真冬に当たることもあり、特に真夏の断食は大変な苦行であると思います。
ラマダーン明けには盛大な祭りが行われますが、病人・妊婦・幼児・老人等体の弱い人には免除されます。
(4)喜捨(ザカート)とは、貧しい人々への施しを云い、農作物・家畜・商品・貨幣などの一定額を自発的に差し出すことで、その用途は貧しい人々の扶助に限られています。
後には税の形を取るようになり、救貧税の性格を持つようになりました。
(5)巡礼は、一生のうち一度はメッカのカーバ神殿に巡礼すること。

 この他、成年男子にはジハード(聖戦、異教徒に対するイスラム教の拡大又は防衛の戦い)に参加する義務が課せられています。

 以上の六信・五行の他に、イスラム法によって日常生活に様々な禁忌が規定されています。

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メッカ礼拝

 飲酒の禁止、汚れた動物とされる豚肉を食べることは禁止、又定められた方法以外で処理された肉を食べることも禁止されています。
利子を取ることも禁止され、イスラムの銀行に預金しても利子は付きません。
男は4人迄妻を持つことが可能ですが、但し4人を平等に愛することが条件です。
女は夫以外の男性に顔や肌を見せてはならず、そのためにチャドルを着用します。
左手は不浄とされているので食事や物の受け渡しに使わないなどがよく知られています。

 イスラム教は、このように単に信仰の面だけでなく、社会生活全般にわたってムスリムの日常生活と密接に結びついていることが大きな特色なのです。

※現在でもメッカ、メディナには、非イスラム教徒は入境できません。

ジョークは如何?

1946年、戦後間もない頃、ケルン市の獄房で二人の囚人が話し合っていた。

「お前は何をやらかしたんだ?」

「ユダヤ寺院の壁に“ユダ公出て行け”と書いたのさ。それで、お前は何をやったんだ?」

「俺はただ“ユダヤ人大歓迎”と書いただけさ。ところが、そこはガス炉の壁だったんだ。」

続く・・・
2015/01/06

歴史を歩く71

13 モンゴル民族の発展⑨

6 隣接諸国の変遷

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王建

 王建(877年~943年、高麗の太祖(在位918年~943年)は、新羅末期におこった反乱軍の指導者弓裔(きゅうえい)の部将として頭角を現し、弓裔が人望を失うと諸将に擁立されて王位に就き、高麗(918年~1392年)を建国し、都を自分の出身地である開城に置きました。

 王建は、新羅の諸制度を受け継いで支配体制を整える一方、国内の諸勢力を抑えて統一を達成します(936年)。
彼は新羅の貴族、地方豪族を迎え入れるとともに、自分は高句麗の子孫であるとの意識を持ち、渤海が契丹に滅ぼされると(926年)、渤海の遺民を積極的に受け入れ中央集権体制の確立に努めました。

 6代目の成宗(在位981年~997年)は、唐、宋の制度に倣って官制を整備し、中央集権体制を確立し、以後、12世紀前半迄高麗は全盛期を迎えました。
しかし、その頃から特権官僚の族党間の抗争が激化するなかで、武人が台頭し、12世紀末には崔氏の武人政権が成立しています。

 13世紀に入ると、モンゴルの侵入を受け、高麗は江華島に逃れて抵抗しますが、崔氏の政権没落後、元に降伏してその属国と成り(1259年)、後にフビライの日本遠征の基地となって軍船の建造等に苦しめられ、更に14世紀になると、今度は倭寇の侵入に苦しめられ、国力が更に衰退する中で、武将の李成桂(李朝の太祖)に国を奪われ、高麗は34代、475年で滅びました。

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高麗大蔵経

 高麗では、仏教が国家の保護を受けて盛となり、「高麗版大蔵経」が2回刊行され、2回目は高宗(
在位1213年~1259年)の時代に、モンゴルの侵略下で仏の加護を祈って行われました。

 高宗の時代に、世界最古の金属活字が発明されたと云われ、 又高麗では、宋から学んだ製陶技術が発達し、美しい高麗青磁が作られ、多くの優れた作品が生み出されています。

元時代の東南アジア
13世紀の東南アジア

 ヴェトナムは唐末、五代の時期に、それまでの1000年にわたる中国支配から独立し、いわゆる初期三王朝が成立しました。
呉権は、南漢との戦いに勝利をおさめ、自立して王を称し、呉朝を建国(939年)、丁部領(ディンボーリン)が丁朝(968年~980年)を、黎桓(れいかん)が前黎(れい)朝(980年~1008年)を建てますが、何れも短命に終わっています。
この呉朝、丁朝、前黎朝を総称してヴェトナムの初期三王朝と呼称します。

 この初期三王朝の後を受けて、李公蘊(りこううん、太祖、在位1010年~1028年)によって、ヴェトナム最初の本格的な統一王朝である李朝大越国(1010年~1225年)が建国されました。

 李朝は、中国に倣って中央官制、軍制を整備し、又科挙を取り入れて中央集権国家の樹立をめざします。
李朝では儒学が重視され、仏教も盛んでした。
李朝は宋軍の侵入を撃退し(1075年)、更に南方のチャンパーを侵略して領土の拡大をはかる等国力が充実し繁栄しましたが、7代高宗(在位1175年~1210年)の頃から国内が乱れて衰退に向かい、陳朝によって滅亡します(1225年)。

チャンカイン
陳煚:チャン・カイン

 陳煚(チャン・カイン当時8歳 在位1225年~1258年)は、李朝最後の女帝、仏金(パット・キム、昭皇、昭聖皇后当時7歳)から譲位されて陳朝(1225年~1400年)を建国します。
陳朝も国内諸制度、科挙を継承し、中央集権体制を強化しました。
陳朝はヴェトナム人の民族意識が高揚した時期と云われ、ヴェトナム史の編纂が行われ、字喃(じなん、チュノム)と呼ばれる漢字を利用して作られたヴェトナム固有の文字が創られ、広く使用されました。
 
 13世紀には、フビライの三度にわたる侵入(1257年、84年、87年)を撃退し、南方のチャンパーに侵略する等国力が充実しますが、1400年に権臣に王位を簒奪され滅亡します。

 陳朝の滅亡後、明の永楽帝に征服され、ヴェトナムは再び中国の支配下に置かれ(1400年~28年)、
雲南では、10世紀に南詔国(?~902年)に替わって、タイ人が大理国(937年~1254年)が建国されますが、フビライに征服されています。 

<チンギス・ハンの墓は何処に>

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チンギス・ハンと愛馬ホユルザガル、背後に聖地ブルカン山地

 広大な草原を、一群の人々が、1頭の雌ラクダを引いて現れました。
或る処迄来た時、人々は立止り、雌ラクダを放すと、ラクダは草原の中を歩き周り、やがて一箇所に立止ると、天に向かって、悲しげに嘶きました。
人々は、其処が1年前に造った墓で有る事を知ったのです。

 1年前、この場所に死者は埋葬されたのでした。
埋葬した後、土を被せ、その上を数百頭の馬を走らせて、しっかりと踏み固め、親子のラクダを連れて来ると死者を埋めた真上で、仔ラクダを殺しました。
その時、親ラクダは、子供の死体の匂いを嗅ぎながら、悲しく嘶いたのでした。

 1年が経ち、墓所には、草が一面に茂り、どの位置が墓所で在るのか見当がつきません。
其処で、昨年の親ラクダを連れて来たのですが、親ラクダは、自分の子供の死んだ場所を、永く覚えているからです・・・モンゴル人の埋葬習慣に関する書物には、この様に記されています。

 モンゴル人をはじめ、北アジアの人々は、死者を埋葬しても墓所の目印を、設けませんでした。
従って、王の墓所で在っても、長い年月が経つ内に忘れ去られ、モンゴル帝国の皇帝達の墓所も、現在では確認出来ず、チンギス・ハーンについても同様なのです。

 1227年の夏、チンギス・ハンは、タングート攻略の為、中国西部、現在の甘粛省深くに遠征した折、病に倒れ、
死去は、8月18日の事と伝えられますが、この英雄の死は、厳重に伏せられ、其れは又、チンギス・ハーンの遺言で在ったとも云われています。
遺骸は、モンゴルの兵士に厳重に守られ、粛々と草原の道を北に向かい、その途中で葬列に出会った者は、例外無く命を絶たれました。
かくして、ケルレン河の源に近い本営に達した時、初めて喪は発せられ、遠征中に皇子や将軍達の下にも、使者が急ぎました。
最も遠くに遠征していた者は、3ヵ月の後にようやく、本陣に到着したのでした。

 葬儀の終了後、遺骸は聖なるブルカン山の山中に深く埋葬され、其処は、オノン、ケルレン、トラの3河が源を発する土地でした。
嘗て、チンギス・ハンは、この地で狩猟を試みた時、一本の大樹の陰に休んだ折、左右の者に、自分が身罷ったら此処に葬って貰いたいと語ったと伝えられています。

 チンギス・ハンがこのブルカン山中に埋葬された事は、恐らく事実と推定されますが、場所の特定が全く出来ないのです。
伝えられる話では、やがて墓所には、樹木が繁茂して密林と成り、果たしてどの場所に英雄が眠っているのか、知る者が無くなってしまいました。
又、チンギス・ハンの墓所は、如何なる者も近づく事は禁じられ、彼の死から1世紀後の世でも、モンゴルの人々に神聖視されていました。

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中華人民共和国 内モンゴル オルドス エジンホロ旗のチンギス・ハーン廟

 処で、チンギス・ハンは何歳で、この世を去ったのでしょうか?
是も又、多くの説が在り、72歳、66歳、60歳と分かれているのは、その生年が、1162年とする説と、1167年とする説が現在でも対峙している為で、是等を特定させる資料も存在しませんが、12世紀中葉に生きた人物で在り、日本では、平清盛の時代に相当します。
出生の年では、正確な事例は、存在せずとも出生に関しては、明確です。
尚、源義経が北海道から、シベリアを経てモンゴルの地に至り、チンギス・ハンに成ったと云うお話は、良く耳にされると思いますが、是は後世の創作で、事実無根の俗説です。

 チンギス・ハンの父親は、イェスゲイで在り、モンゴル国の由緒正しい貴族且つ豪傑で、その家系もモンゴル人の間で伝承され、十代前迄正しく辿る事ができます。
母親は、ホエルンと呼ぶ才女で、最初メルキト国の男性に嫁していたところを奪い取られて(略奪婚)、イェスゲイの妻に成ったのです。
ホエルンから、チンギス・ハンの他、4人の弟妹が生れました。
尚、井上靖の「蒼き狼」では、ホエルンがメルキトに居た事から、チンギス・ハンの本当の父親もメルキト人では無いかとの話も在りますが、是は、作品におけるフィクションで、事実とは異なります。

モンゴル民族の発展、終わり。

ジョークは如何?

ヒトラーは、ババリア・アルプスを散歩するのが好きだった。というのは、
オーバーザルツブルクというところに山荘を持っていたのだ。

彼はいつものように山荘を出て、山の中を散策していたとき、川に落ちてしまった。
ヒトラーは泳げなかった。彼は右手をまっすぐに上げて、
「助けてくれ、助けてくれ!」と叫んだ。
すると森の中から一人の男があらわれて、ヒトラーを助けてくれた。

ヒトラーはずぶぬれになりながらも威厳をつくろって言った。
「余は大ドイツ民族の大統領である。よく救ってくれた。礼をいうぞ。
で、おまえの名前は?」
貧相な男は答えた。
「イスラエル・コーエンです。」
「なに?ユダヤ人か!しかし、おまえがユダヤ人であるにしても、たいへん
勇気のあるやつだ。願いがあったら一つだけ叶えてやろう。」
と、ヒトラーは濡れた口髭を、ぬれたハンカチでふきながらいった。
「ああ、それでしたら、たいへん大きな望みがあります。ほんとうにいっていい
でしょうか?」
「よろしい。」とヒトラーは言った。

「私があなたを救ったことだけは、誰にも言わないでください。」


続く・・・

2015/01/04

歴史を歩く70

13 モンゴル民族の発展⑧

5.東西文化の交流と元代の文化その②

 元朝が優遇した色目人には、イスラム教徒が多く、中国でもイスラム教が次第に広まり、天文学、数学等を中心とするイスラム文化が中国に伝えられました。

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 郭守敬

 郭守敬(1231年~1316年)は、フビライに仕えて多くの水利事業を行いましたが、従来の暦が不正確になり、暦法の改革の事業が行われるとこれに参加し、多くの観測機械を製作して精密な観測を行い、授時暦を制定しました(1280年)。

 授時暦はイスラムの天文学に基づいて作られた暦で、1年を365.2425日とする太陰暦です。
日本にも影響を及ぼし、江戸時代に作られた貞享暦(じょうきょうれき)はこの授時暦を基礎として作られた暦で1685年から1872(明治5年)迄使用されました。

 又イラン、インドには、モンゴルの進出によって中国絵画が伝えられ、その影響を受けてミニアチュール(細密画)が盛んとなります。

 モンゴル人は中国を征服する前から西方の高度なイスラム文化に接していた為、中国文化にはコンプレックスを持たず、中国固有の学問、思想には関心を示さなかった結果、儒学は不振をきわめました。
その一方でモンゴル人に理解されやすかった戯曲、小説を中心とする庶民文化は宋代に引き続いて発達します。

 元の庶民文化を代表する作品が、元曲(雑劇)で、宋代から盛んとなった雑劇は、元代に形式も整い元曲として大いに栄え、「漢文・唐詩・宋詞・元曲」と呼ばれ、中国文化史の上で重要な地位を占めています。

 元曲は、琵琶、琴、三弦等の楽器に合わせて俳優が演じ、歌い、語る古典劇で、台詞は全て口語であった為庶民に愛好され、現在約300の脚本が残っています。
代表的な作品としては「西廂記」、「琵琶記」、「漢宮秋」等が有名です。

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西廂記

 「西廂記」は、愛する男女が上流階級の封建的なしきたりの為に離ればなれになるものの、最後は結ばれる恋愛物語です。

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琵琶记•糟糠自厌

 「琵琶記」は、主人公が妻を残して科挙の受験の為に都に出て行き、優秀な成績で合格し、宰相に見込まれて娘と結婚し、出世して幸せな生活を送っていました。
田舎に残された妻は貞節を守り、夫の母を養いながら待つが飢饉で母が亡くなったので、夫を捜す為に都に出て行きます。
上京してみると夫は栄華を極めていて近寄ることもできなかったのですが、苦難の末に夫と再会して幸せに暮らすと云う作品です。

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漢宮秋より王昭君

 「漢宮秋」は、前漢の元帝の宮女、王昭君が匈奴との和親政策の為に、呼韓邪単于に嫁せられ、その地で亡くなる哀話を劇化した作品です。

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国志演義:劉備玄徳、関羽雲長、張飛益德 桃園の儀

 又中国の四大奇書のうち、「三国志演義」、「水滸伝」の原形が出来たのも元代です。
小説は、宋代から流行するように成り講釈が口語による文章として書かれ、庶民の間に広まって行きました。
「三国志演義」を読んでみても、もともと講釈師によって語られていたものであることが、その形式に残っています。

 モンゴル人は、公用語としてモンゴル語を用い、公文書はウイグル文字やパスパによって作成されたチベット文字を基礎とするパスパ文字が使用されました。

<王昭君の歩いた道>

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王昭君

 中国の歴史上、悲劇の美女と言えば、如何なる人物を連想しますか?
私は、第一に王昭君の名前を思い起こします。

 今を遡る、2000年の昔、漢の都長安から、匈奴王の妻と成り、遥か北の方へ去って行く、其処は、寒風吹きすさぶ草原の中、宮殿も玉楼も無く、幕舎を住居として、毛皮を衣とする、口にする物は、羊の肉であり、飲むのは、馬、羊の乳。
絶世の麗容も風雪に拉がれ、故国を思い泣き暮らしつつ、枯骨むなしく、荒野に朽ち果てる。
しかも王昭君が、匈奴に送られた訳は、宮中に画工に金品を贈らず、醜く描かれた為と伝えられています。

 王昭君の哀話は、中国に於いて長く、かつ広く語り継がれ、既に六朝時代(紀元4世紀)には、物語として形創られ、歌曲として謡われ、唐代には、李白、杜甫もその詩の中に詠じたのです。
海を隔てた、日本にも伝わり、王昭君の曲は、雅楽にも収められ、又王昭君の物語絵巻が、王朝貴族に好まれた事は、源氏物語にも現れています。
そして、詩の題材としても好んで、取り上げられました。
「身は化して早く胡の朽骨たり、家は留まってむなしく漢の荒門となる」。
「昭君もし黄金の賂を贈らましかば、定めてこれ身を終うるまで帝王に奉まつらまし」。
之は、和漢朗詠集に収める「王昭君」の詩の一節です。

 時代は進み、元の時代には、戯曲にも脚色され、なかでも傑作は「漢宮秋」で、此処における、王昭君は、匈奴に送られる途中、国境の大河に身を投じます。
其れは、異国の男に身をまかせまいとする、漢族女性の誇りを示すものに違い無く、現実、元の時代、漢民族は、モンゴル族に支配されていたのですから。

 しかし、こうした物語に描かれた王昭君は、必ずしも彼女の真の姿を伝えたものでは有りません。
歴史書に記された彼女は、むしろ別の意味で非情でした。
異民族を懐柔する為、その王に後宮の美女を贈る事は、漢帝国では、政策の一部に過ぎず、皇族の女性でさえ、しばしば、涙を流したものでした。

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呼韓邪単于と王昭君

 王昭君に関して、史書が伝える処は、以下の様で、西暦紀元前33年、匈奴の王、呼韓邪単于の願いに従い、漢の元帝は、五人の宮女を選び、これを賜ったのですが、その中の一人が、王昭君でした。
彼女は、17歳の時、宮中に仕えたのですが、数年を過ぎても皇帝の寵愛を得られず、其れを悲しみ、恨み、自ら求めて匈奴の王に嫁ぐ事と成り、然らば、彼女は、期する処が有って匈奴王の所は行ったのではないでしょうか?
伝えられている物語とは、かなり異なる状況と思います。

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菱田春草:王昭君

 さて、辞去の場に戻り、匈奴の王も長安に来朝しており、元帝は宴を設け、五人の宮女も席を同じくしました。
此処で初めて謁見する王昭君の豊容や、如何に。
その光は、宮廷を明るく照らし、左右も心動かされ、元帝も大いに驚き、彼女を留めんと欲したが、匈奴との約束を違える事は出来ませんでした。

 かくて王昭君は、匈奴に赴き、王の妃となり、一子を産みますが、2年後呼韓邪単于は、世を去ります。
匈奴の風習では、父や兄の死後、後を継ぐ子や弟は、その妻も妃とします。
呼韓邪単于の長子が王となり、王昭君をも妃としますが、ここで、彼女は漢の朝廷に上書し、帰らん事を願いますが、もとより許されず、匈奴の地に留まり、更に2女を産みますが、9年を経て、二度目の夫も世を去りました。

 その後の王昭君が、如何なる人生を送ったのか判りません。
呼韓邪単于の子供達は、次々と王位を受け継ぎましたが、彼女の子供だけは、王位に就く事は叶わず、或るいは、殺害されたとも伝えられますが、二人の娘は、王族に嫁ぎ、おそらく幸せな生涯を送ったと思われます。

 では、王昭君の悲劇とは、如何なる事でしょう。
現在でも、同様な物語が在れば、悲劇、悲話で在るに違い無いのですが、漢の時代に在って、彼女の生涯は、決して最高の悲劇では有りませんでした。
其れが、後世、多くの人々の涙を誘ったのは、歴史の記録が伝えない、更なる悲哀が在るのか、其れとも後世における、王昭君の哀話は、作家達の創作に過ぎないのでしょうか?

 もとより、王昭君の最後は、判りません。
その墓も、黄河の上流に青塚と呼ばれる場所が在り、古くから王昭君を弔った所と伝えられますが、真偽の程は、判りません。
他にも王昭君の墓と伝えられる墓も複数、存在していますので、彼女の名前が有名になった後、付けられた事もあると思います。

ジョークは如何?

『人類の戦いの歴史において、かくも多くの人が、かくも多くのことを、かくも少ない人に委ねたことはいまだかつてなかった。』
 この有名な言葉のシャレが当時のパイロットたちの間ではこんなふうにささやかれた。『多くのことを、少ない人にってのはな、

戦死する前に飲み屋のツケを払っておけってことだよ。』


続く・・・