歴史を歩く77
14-2イスラム世界の発展②

13世紀の東アジア、地中海諸国
2カイロを都とした王朝
ファーティマ朝(909年~1171年)は過激シーア派の一分派、イスマーイール派がチュニジアに建国した国家で、創始者のオバイドゥッラー(在位909年~934年)はムハンマドの娘ファーティマの子孫と称し、アル・マフディー(マフディーは「救世主」の意味)と称しました。
又彼は即位当初よりカリフを称したため、ファーティマ朝は唯一のシーア派王朝として、東のアッバース朝及び西の後ウマイヤ朝と対立しました。

サラディン騎馬像
ファーティマ朝は969年にエジプトを征服し、カイロ市を建設し、この地に遷都(973年)。
更にシリアに進出し、地中海、北アフリカ貿易を独占して繁栄しますが、やがてアイユーブ朝に滅ぼされます。
アイユーブ朝(1169年~1250年、アイユーブはサラディンの父の名に由来)の創始者は有名なサラディン(サラーフ・アッディーン、1138年~93年、在位1169年~93年)です。
サラディンは、トルコ、イラク、イランにまたがって居住する剽悍な少数民族であるクルド人出身です。
クルド人はスンナ派のイスラム教徒で、トルコでは山岳トルコ族とも呼ばれています。
サラディンはイラクに生まれ、初めアレッポ(北シリアの都市)のザンギー朝に仕え、後にエジプトに入り、ファーティマ朝に仕えて宰相となり、ファーティマ朝を廃してアイユーブ朝を開きます。

エルサレム開城を巡るサラディンとキリスト教徒の交渉
サラディンはアイユーブ朝を開くと、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を得て、エジプト、シリア、イラクに領土を拡大し、イスラム勢力を結集して十字軍を破り、イェルサレム王国から聖地イェルサレムを奪回します(1187年)。
このため第3回十字軍の遠征(1189年~92年)が起こされましたが、サラディンはイギリス王リチャード1世の軍と戦い、聖地イェルサレムを守り抜いて休戦条約を結びます。
この時のリチャード1世との勇猛な戦いぶりからサラディンは、イスラム教徒の間で英雄視されているだけでなく、サラディンの武勇や寛容さは当時のヨーロッパ人にも大きな感銘を与え、彼の名声はヨーロッパにも広まったのです。
しかしサラディンの死後(1193年)、広大な領土は諸子に分割され、エジプトのアイユーブ朝はマムルーク朝に、西アジアの各家はモンゴルに滅ぼされていきます。
マムルーク朝(1250年~1517年)は、エジプトのアイユーブ朝の親衛隊長であったアイバク(?~1257年、在位1250年~57年)によって建国されます。

シャジャル・アッドゥッル
アイバクは、トルコ人のマムルーク(奴隷兵士)でアイユーブ朝に仕えてスルタンの親衛隊長となり、7代スルタンの死後、その妃シャジャル・アッドゥッル(宮廷女奴隷出身)を擁立し、またその夫となって実権を握り、マムルーク朝を創始します。
エジプト、シリアを平定し、権力の独占を図りますが、王妃にその意志を見抜かれて入浴中に暗殺されます。
第5代スルタンとなったバイバルス(在位1260年~77年)は南ロシア生まれのトルコ人で戦乱のため奴隷となって各地を転々とし、後にアイユーブ朝に仕え、スルタンの親衛隊長となり、第6回十字軍のフランス王ルイ9世と戦ってルイ9世を捕虜とし、又シリアでイル・ハン国軍の侵入を撃退して頭角を現します。
しかし、期待した恩賞が与えられなかったことからスルタンを殺して即位します。
イル・ハン国に滅ぼされたバグダードのアッバース朝のカリフの親族をカイロに引き取って保護し、カリフ制を復活させ(1261年)、その権威を利用します。
バイバルスは国政の基礎を確立した英主として名高い君主です。

バイバルス
マムルーク朝の首都カイロは東西貿易で繁栄し、バグダード、コルドバとともにイスラム文化の中心地としても栄えます。
歴代のスルタンは東西貿易を国家の統制下に置いて利益を独占し、カイロに多くの美しいモスクや学院などを残します。
ファーティマ朝時代に創建されたアズハル学院(カイロの大学)は、マムルーク朝の時代にはスンナ派イスラム学の最高学府となり、各地から学者が集まります。
マムルーク朝は、インド航路が発見されると独占してきた東西貿易の利益を失うことになり、衰退が始まりやがてオスマン・トルコ帝国に滅ぼされことと成ります(1517年)。
ジョークは如何?
第二次世界大戦勃発のとき、敵地から脱出した英大使館員がホワイト・ホール(外務省)に打った電報。
「全員無事引揚げ完了。ただし、館員13、婦女子5、犬2匹。」
続く・・・

13世紀の東アジア、地中海諸国
2カイロを都とした王朝
ファーティマ朝(909年~1171年)は過激シーア派の一分派、イスマーイール派がチュニジアに建国した国家で、創始者のオバイドゥッラー(在位909年~934年)はムハンマドの娘ファーティマの子孫と称し、アル・マフディー(マフディーは「救世主」の意味)と称しました。
又彼は即位当初よりカリフを称したため、ファーティマ朝は唯一のシーア派王朝として、東のアッバース朝及び西の後ウマイヤ朝と対立しました。

サラディン騎馬像
ファーティマ朝は969年にエジプトを征服し、カイロ市を建設し、この地に遷都(973年)。
更にシリアに進出し、地中海、北アフリカ貿易を独占して繁栄しますが、やがてアイユーブ朝に滅ぼされます。
アイユーブ朝(1169年~1250年、アイユーブはサラディンの父の名に由来)の創始者は有名なサラディン(サラーフ・アッディーン、1138年~93年、在位1169年~93年)です。
サラディンは、トルコ、イラク、イランにまたがって居住する剽悍な少数民族であるクルド人出身です。
クルド人はスンナ派のイスラム教徒で、トルコでは山岳トルコ族とも呼ばれています。
サラディンはイラクに生まれ、初めアレッポ(北シリアの都市)のザンギー朝に仕え、後にエジプトに入り、ファーティマ朝に仕えて宰相となり、ファーティマ朝を廃してアイユーブ朝を開きます。

エルサレム開城を巡るサラディンとキリスト教徒の交渉
サラディンはアイユーブ朝を開くと、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を得て、エジプト、シリア、イラクに領土を拡大し、イスラム勢力を結集して十字軍を破り、イェルサレム王国から聖地イェルサレムを奪回します(1187年)。
このため第3回十字軍の遠征(1189年~92年)が起こされましたが、サラディンはイギリス王リチャード1世の軍と戦い、聖地イェルサレムを守り抜いて休戦条約を結びます。
この時のリチャード1世との勇猛な戦いぶりからサラディンは、イスラム教徒の間で英雄視されているだけでなく、サラディンの武勇や寛容さは当時のヨーロッパ人にも大きな感銘を与え、彼の名声はヨーロッパにも広まったのです。
しかしサラディンの死後(1193年)、広大な領土は諸子に分割され、エジプトのアイユーブ朝はマムルーク朝に、西アジアの各家はモンゴルに滅ぼされていきます。
マムルーク朝(1250年~1517年)は、エジプトのアイユーブ朝の親衛隊長であったアイバク(?~1257年、在位1250年~57年)によって建国されます。

シャジャル・アッドゥッル
アイバクは、トルコ人のマムルーク(奴隷兵士)でアイユーブ朝に仕えてスルタンの親衛隊長となり、7代スルタンの死後、その妃シャジャル・アッドゥッル(宮廷女奴隷出身)を擁立し、またその夫となって実権を握り、マムルーク朝を創始します。
エジプト、シリアを平定し、権力の独占を図りますが、王妃にその意志を見抜かれて入浴中に暗殺されます。
第5代スルタンとなったバイバルス(在位1260年~77年)は南ロシア生まれのトルコ人で戦乱のため奴隷となって各地を転々とし、後にアイユーブ朝に仕え、スルタンの親衛隊長となり、第6回十字軍のフランス王ルイ9世と戦ってルイ9世を捕虜とし、又シリアでイル・ハン国軍の侵入を撃退して頭角を現します。
しかし、期待した恩賞が与えられなかったことからスルタンを殺して即位します。
イル・ハン国に滅ぼされたバグダードのアッバース朝のカリフの親族をカイロに引き取って保護し、カリフ制を復活させ(1261年)、その権威を利用します。
バイバルスは国政の基礎を確立した英主として名高い君主です。

バイバルス
マムルーク朝の首都カイロは東西貿易で繁栄し、バグダード、コルドバとともにイスラム文化の中心地としても栄えます。
歴代のスルタンは東西貿易を国家の統制下に置いて利益を独占し、カイロに多くの美しいモスクや学院などを残します。
ファーティマ朝時代に創建されたアズハル学院(カイロの大学)は、マムルーク朝の時代にはスンナ派イスラム学の最高学府となり、各地から学者が集まります。
マムルーク朝は、インド航路が発見されると独占してきた東西貿易の利益を失うことになり、衰退が始まりやがてオスマン・トルコ帝国に滅ぼされことと成ります(1517年)。
ジョークは如何?
第二次世界大戦勃発のとき、敵地から脱出した英大使館員がホワイト・ホール(外務省)に打った電報。
「全員無事引揚げ完了。ただし、館員13、婦女子5、犬2匹。」
続く・・・
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