2015/02/27

歴史を歩く87

15西ヨーロッパ世界の成立③

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2フランクの発展

 フランク族は、3世紀の頃10数個の支族に分かれ、ライン川右岸(ライン川東岸)の中、下流域に定住しました。
4世紀にはライン川を越えて北ガリアに広がり、他のゲルマン諸族が本来の居住地を離れ、遠距離を移動したのに対して、フランク族の移動距離は短く、しかも本来の居住地を維持しながらその範囲を拡大して行きますが、この拡大傾向が以後のフランク族発展の1つの特徴と成ります。

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クローヴィス1世

 この頃、フランク族の中ではサリ族とリブリア族の2つの支族の勢力が強まっていました。
フランドル地方(現在のベルギー)を支配していたサリ族の小王国の王家に生まれ、王位に就いた後、フランクの他支族を次々と支配下に治め、フランク族を一つに統一した人物がメロヴィング家のクローヴィス(465年~511年、在位481年~511年)です。

 クローヴィスは粗野で残忍、猜疑心が強く、陰謀と奸計に明け暮れたと云われていますが、彼はアッティラを撃退したローマ将軍の子、シアグリウスをソワソンの戦いで破り(486年)、以後アラマン族、ブルグンド族、西ゴート族を次々に撃破し、ライン川下流からピレネー山脈にまたがる大王国を建設しました。

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クローヴィスの洗礼

 フランク族がこのような大発展をとげた最大の理由は、他のゲルマン諸族がニケーアの公会議で異端とされたアリウス派を信仰していたのに対し、フランクはゲルマン諸族の中でいち早く正統のアタナシウス派に改宗した(496年)ことでした。

 クローヴィスの改宗については、彼がアラマン族との戦いで不利な状況に陥った時、カトリックの信者であった妻の言葉を思い出し神に祈って勝利を得ることが出来たことから、家臣3000人とともに洗礼を受けたと云われています。
この改宗によって、ローマ系住民と親密な関係を保つことが出来、カトリック教会の支持を得ることも可能となりました。

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クロタール1世

 フランク族の間では分割相続の習慣が在り、クローヴィスの死後、フランク王国は4人の子によって分割されました。
その後、フランク王国を再統一したのは、4人の中で最後まで生き残ったクロタール1世(在位511年~561年)でした。
クロタール1世の死後、再びフランク王国は4人の子に分割され、クロタール1世の孫にあたるクロタール2世(在位584年~628年)によってフランク王国は再度統一されました(613年)。

 メロヴィング家には、残忍と好色の血が流れていたと云われています。
クロタール1世も、2世も好色の血を受け継ぎ、以後の王も怠惰で贅沢な後宮生活に溺れ、その結果、多くの王は10代の前半で父親となり、若死にしたいます。
彼らは「無為の王」と呼ばれています。

 このため、フランク王国ではこの頃から「宮宰」(マヨル・ドムス、家政長官の意味)の力が強くなり、行政、財政の実権を握るように成りました。

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 カロリング家の祖である大ピピン(?~639年)は、クロタール2世の再統一を支えた有力な豪族の一人で、クロタール2世治下のアウストラシア(フランク王国の東北部を支配したフランクの一分国)の宮宰であり、アウストラシアでは大ピピン以後カロリング家が宮宰を世襲するように成りました。

 彼の孫である中ピピン(ピピン2世、?~714年)の時にはカロリング家がフランク王国の実権を掌握しました。

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トゥール・ポワティエの戦い
 
 中ピピンの子が、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム教徒を撃退したことで知られるカール・マルテル(689年~741年)で、彼は父の後を継いでアウストラシアの宮宰となり(在任714年~741年)、720年には全フランク王国の宮宰に就任しました。
 
 その頃、アフリカからジブラルタルを渡りイベリア半島に侵入したイスラム(ウマイヤ朝)軍は西ゴート王国を滅ぼし(711年)、更に北上してガリアに侵入(720年)、732年10月、ポワティエとトゥール間で7日にわたってイスラム教徒とキリスト教徒との間で一大決戦が行われました。
この戦いが有名なトゥール・ポワティエ間の戦い(732年)で、カール・マルテルは重装騎兵を中心とするフランク軍を率いてイスラム軍を撃退し、ヨーロッパとキリスト教世界をイスラムから守ったのでした。
この時、カール・マルテルが教会領を没収して家臣に与えたことが、封建的主従関係の成立を促進することと成りました。

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カール・マルテル

 カール・マルテルは、イスラム軍を撃退した後、ブルゴーニュ地方(フランス東部)からラングドック地方(フランス南部)を征服しました。
この行動によってフランク王国の領土はフランスの全土に拡大します。
彼は、737年~742年までは、正統の国王が不在と云う理由で国王を置かないままフランク王国を統治し、今やフランク王国の実権は事実上カロリング家に握られることと成りました。

 726年にビザンツ(東ローマ)皇帝レオン(レオ)3世が聖像禁止令を発布して以後、ビザンツ皇帝と対立していたローマ教皇は、ビザンツ皇帝にかわる保護者としての有力な政治勢力を求めていました。

 トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク軍の強さを知ったローマ教皇は、フランクとの提携を図ります。
ローマ教皇はカール・マルテルに使節を送り、彼がロンバルド族から教皇を守護するなら、教皇は東ローマ帝国と断絶し、フランクをローマ教皇の保護者に認めることを申し出たますが(739年)、カール・マルテルはこれを断わります。
それから2年後に彼は亡くなっています。

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「ピピンの寄進」

 カール・マルテルの死後、兄と共に父の後を継いで宮宰となった人物が、小ピピン(ピピン3世、714年~768年、在位751年~768年)です。
彼は兄が修道士になって隠退したあと、全フランク王国の実権を掌握し、751年にメロヴィング朝の最後の皇帝ヒルデリヒ3世を廃し、教皇の支持を得て王位に就き、カロリング朝(751年~987年)の開祖と成りました。

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教皇ザカリアス

 この時、フランクに保護を求めようとしていた教皇ザカリアスは、「王の力のない者が王たるよりは、力のある者が王たるべきである」と述べ、小ピピンのクーデターを承認します。
ザカリアスの次の教皇の時、教皇はロンバルドの圧迫からローマ教会を守ってくれるよう小ピピンに頼み込んでいます。

 これを受けて、小ピピンは754年~755年にイタリアに出兵し、教皇のためにロンバルド族を討伐し、ロンバルドから奪い取ったラヴェンナ地方を教皇に寄進しました。
この出来事は「ピピンの寄進」と呼ばれ、この土地が教皇領の起源と成り、又この出来事によって教皇とフランクの結びつきが強まったのです。

ジョークは如何?

クリミアのヤルタで三巨頭会談が開かれた。
 戦後処理について会議が終わり、車で郊外へドライブに出かけた。
その途中、道の真ん中に大きな牛が寝そべっていて動こうともしない。
 そこで、雄弁家のチャーチルが牛のそばに行って、なだめすかしたりして説得を試みようとしたが、牛は頑として動かない。
 次にルーズヴェルトが出ていって、「どいてくれたら褒美をやる」といって、ドル紙幣をちらつかせたが、見向きもしない。怒ったルーズヴェルトは「原爆を落としてやる!」といきり立つ始末。
 そこで最後にスターリンが車を降りて、牛の耳元に、一言、二言ささやきかけると、牛は驚いて立ち上がり、逃げていった。
 ルーズヴェルトとチャーチルが、不思議に思って、いったい何と言ったのかと訪ねると、スターリンはすまして、こう答えた。「そこをどかないと、コルホーズに入れちゃうぞって、言ったのさ。」

続く・・・

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2015/02/25

歴史を歩く86

15西ヨーロッパ世界の成立②

1ゲルマン民族の大移動②

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オドアケル万歳

 オドアケル(434年頃~493年)はゲルマン諸族スキリア族の名門の出身で、彼の父はアッティラの宰相でした。
オドアケルは西ローマ帝国皇帝親衛隊に入隊し、やがてその司令官となり、475年の皇帝交替の際にゲルマン人傭兵隊長に推され、ゲルマン人傭兵にイタリアの土地を要求して拒否されると、翌476年最後の西ローマ皇帝となるロムルス・アウグストゥスを追放してイタリア王を称しました。

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イタリアと周辺地域

 オドアケルは東ローマ皇帝から総督の称号を受け、イタリアとダルマティア(旧ユーゴスラヴィアのアドリア海沿岸地方)を支配しますが、東ローマ帝国の内政に干渉したため、東ローマ皇帝は東ゴート族のテオドリック大王にオドアケル追討を命じます。
オドアケル軍は度重なる戦闘で敗退を続け、オドアケルは最後にテオドリックに命を絶たれました(493年)。

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テオドリック

 東ゴート族は、フン族に征服され、その支配下に置かれ、アッティラのガリア遠征にも従軍させられました。
アッティラ急死、大帝国崩壊によってその支配から解放され、東ローマ皇帝からパンノニアに建国を認められました。

 東ゴート族の王家に生まれたテオドリック大王(454年頃~526年、在位473年頃~526年)は、人質としてコンスタンティノープルに送られ、その地で少年時代を過ごし、成人後帰国、東ゴート族の王位に就きます。
西ローマ帝国がオドアケルによって滅ぼされると、東ローマ皇帝はテオドリックにオドアケル追討を命じ、東ゴート族のイタリア移住を許し、テオドリックはイタリアに進出してオドアケルを破り、彼を暗殺しました。
その後イタリア半島に東ゴート王国(493年~555年)を建国、彼は親ローマ政策を行い、ローマ人を重用し、ローマの習慣を尊重しましたが、アリウス派(ローマ帝国で異端とされたキリスト教の一派)を強制したために、アタナシウス派を信仰するローマ人の支持を得ることが出来ませんでした。
東ゴート王国は、ユスティニアヌス帝治下のビザンツ(東ローマ)帝国によって滅ぼされます(555年)。

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ローマを略奪するガイセリック

 ヴァンダル族は、オーデル川とヴィストラ川に挟まれた地域(現在のポーランド西部)に居住していましたが、4世紀前半にローマ皇帝コンスタンティヌス帝からパンノニアへの移住を許され、アリウス派のキリスト教に改宗、5世紀初頭に東方からフン族が迫ってくると、西へ移動してガリアに入り、さらにイベリア半島に移動しました。

 ガイゼリック(390年頃~477年、在位429年~477年)の時代に北アフリカに渡り(429年)、北アフリカのローマ領を征服して、チュニジアを中心としてヴァンダル王国(429年~534年)を建国し、更にシチリア、サルジニア島からイタリア半島に進出し、一時地中海を制圧します。
455年にはローマに侵入して掠奪を行い、アタナシウス派を信仰するローマ系の住民を圧迫し、掠奪、暴行を働いたため、ローマ人の間では現在でも悪名が高い人物です。

 ヴァンダル王国は、ガイゼリックの死後内紛によって衰退し、ユスティニアヌス帝治下のビザンツ(東ローマ)帝国によって滅ぼされます(534年)。

 ブルグンド族は、ポメラニア東部、バルト海沿岸(現在のポーランドの西北部)に居住していましたが、4世紀頃西南に進み、ライン川上流のヴォルムス付近に移住しました。
ローマと同盟関係を結んでその地に留まっていましたが、やがてローマはフン族の傭兵を使ってブルグンド族を攻撃させ、ブルグンド族はフン族との激戦に敗れ、王を失って四散します。

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ニーベルンゲンの歌

 この出来事を背景に書かれた作品が、13世紀に完成する大叙事詩「ニーベルンゲンの歌」です。

 ブルグンド族の多くは南に向かい、現在のスイスのジュネーヴ付近にブルグンド王国(443年~534年)を再建し、その後ブルグンド族はローマの傭兵としてローマ帝国の戦力に一部を担いますが、西ローマ帝国が滅亡するとその混乱に乗じて、現在のフランス、リヨンを中心にフランスの東南部一帯に勢力を伸ばしますが、当時発展しつつあったフランク族によって滅ぼされます(534年)。

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 多くのゲルマン諸族が地中海方面を目指したのに対し、ユトランド半島から北ドイツに居住していたアングロ・サクソン族(アングル人・サクソン人・ジュート人等の諸部族の融合体)は、5世紀前半に北海をわたってブリタニア(イギリス)に侵入して先住民のケルト人を征服し、部族毎に小王国(ヘプターキー(七王国))を建てました。

 ローマ時代にブリタニアと呼ばれていた現在のイギリス(ブリトン島)は、以後イングランド(Angle's land、アングル人の土地の意味)と呼ばれるように成ります。

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『ロンゴバルド王アルボイーノの暗殺』

 ゲルマン諸族の多くが4世紀に移動を開始しているのに対し、遅れて移動したのがロンバルド(ランゴバルド)族です。
エルベ川、オーデル川の上流付近に居住していたロンバルド族は、ビザンツ(東ローマ)皇帝のユスティニアヌス帝からパンノニアの土地を与えられ、イタリア半島の東ゴート王国の討伐を助けます(526年)。

 時代を下りアルボイン王(在位561年~572年)の治世にイタリアに入り、ロンバルド王国(568年~774年)を建国、イタリア半島の北部、中部を征服して一時的な繁栄期を迎えます。
ゲルマン諸族の中で最も野蛮であったと云われているロンバルド族は、アリウス派を信仰し、ローマ教会を圧迫しました。

 現在ミラノを中心とする北イタリア一帯を指すロンバルディアは、ロンバルド王国の中心がこの付近に在った為です。
しかし、ロンバルド王国も、8世紀にはいるとフランク族の進出によって次第に領土を奪われ、ついにカール大帝の時代にフランク王国に併合されました。

 西ローマ帝国の滅亡(476年)後の西ヨーロッパには、いくつかのゲルマン民族による王国が建国されましたが、その中からフランク族が次第に発展し、後にヨーロッパの主要部を統一する大フランク王国が成立します。

 又ゲルマン民族が西に移動した後のエルベ川以東の地域やバルカン半島には、同じインド・ヨーロッパ語族のスラヴ民族が移住し定着していきます。

ジョークは如何?

社会主義という列車が走っていると、急に止まった。

 スターリンが部下を見にやらせると、レールがなかった。
スターリンは鉄道関係者を全員粛清した。

 ブレジネフが列車に乗っていると、急に列車が止まった。
ブレジネフはレールがないことがわかると、窓のカーテンを全部閉めさせ、
車両をゆすらせて、列車が動いているように見せかけた。

 ゴルバチョフが列車に乗っていると、急に列車が止まった。
ゴルバチョフはレールがないことがわかると、全てのカーテンを開けさせ、
外に向かって、「レールがない、レールがない」と大声で叫んだ。

続く・・・

2015/02/21

歴史を歩く85

15西ヨーロッパ世界の成立①

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1ゲルマン民族の大移動①

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フン族の侵入

 アジア系の遊牧民族であるフン族は、1世紀中頃迄ヴォルガ川流域に定着していましたが、4世紀後半カスピ海の北を西進し、ドン川を越えて黒海北岸に居住していた東ゴート族を征服 (375年)、更に西ゴート族に迫った結果、西ゴート族は375年に南下を開始、翌年ドナウ川を渡ってローマ帝国領内に侵入しました。
これが有名なゲルマン民族大移動の発端と成りました。

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ゲルマン民族の家族

 インド・ヨーロッパ語族に属するゲルマン人は、紀元前1000年頃からバルト海沿岸に居住していましたが、ケルト人を圧迫しながら、紀元前後頃迄にはライン川からドナウ川の北岸一帯に迄進出し、ローマ帝国と境界を接するように成りました。

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ガリアとブリタニアのケルト人

 ケルト人もインド・ヨーロッパ語族に属し、紀元前10世紀~8世紀頃から紀元前6世紀~4世紀頃迄には原住地のライン川、エルベ川、ドナウ川流域からアルプス山脈以北のヨーロッパの広い地域に広がっていました。
しかし、ガリア(現在のフランス)は紀元前1世紀に、ブリタニア(現在のイギリス)は紀元後1世紀にローマ帝国の支配下に置かれます。
ケルト人は現在ではアイルランド、ウエールズ(イギリスの南西部)、スコットランドやブルターニュ(北フランス)等に居住しています。

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タキトゥス

 民族大移動が始まる以前のゲルマン人社会、いわゆる原始ゲルマン社会を知る上で重要な史料としては、カエサルの「ガリア戦記」とタキトゥスの「ゲルマニア」が在り、特に「ゲルマニア」は、ローマの政治家、歴史家であったタキトゥスが100年頃のゲルマン民族について記録した最も重要な史料です。

 「ゲルマニア」は、第1部「ゲルマニアの土地・習俗」と第2部「ゲルマニアの諸族」の2部46章から成っており、ゲルマン民族は数十の部族に分かれ、狩猟、牧畜、農業によって生活していました。
第11章「会議(民会)」には「小事には長老達が、大事には邦民全体がこれに掌わる。しかしその決定権が人民にあるごとき問題もあらかじめ長老達の手許で精査せられるという風にしてである」(岩波文庫)とあり、重要な問題は民会で決定されていました。

 ゲルマン人はローマと生活圏を接するようになると、一部のゲルマン人は傭兵、下級官吏、コロヌス(小作人)としてローマ帝国内に移り住むように成りました。
特に五賢帝時代頃からローマ帝国で兵員が不足するようになると、ゲルマン人を屯田兵としてだけでなく正規軍の中にも採用し、民族移動の時期になると、兵士だけでなく、ローマの将軍や宰相にまでゲルマン人が登用される結果と成りました。
ローマ帝国末期には、ローマはまさに内から「ゲルマン化」していたのです。

ゲルマン民族移動
ゲルマン民族移動

 ゲルマン民族は狩猟、牧畜を主としていましたが、次第に農業が重要な位置を占める様になります。しかし、当時の農業は施肥や輪作を知らなかった為、彼らは農地の地力が衰えるとその土地を捨て、新しい農地を求めて移動します。
このためゲルマン人社会での人口の増加と共に土地不足が深刻となり、これが民族移動の内部要因となったのでした。

 フン族は東ゴート族を征服し、更に西ゴート族に迫ったので、西ゴート族が375年に南下を開始し、ドナウ川を渡ってローマ帝国領内に侵入したことがゲルマン民族の大移動の発端になったことは先に記述しました。

 ゲルマン民族の大移動は、部族全体が王に率いられて家族と全財産を牛車に乗せ、これも重要な財産である家畜の群を従えての文字通りの大移動であり、固有の部族制を維持しながらの移動でした。

 しかし、ゲルマン人の数はローマ人に比べると圧倒的に少数で、ローマ系住民の約3パーセントほどであったと云われており、移動に際してはローマに対して移住の許可を求めるのですが、それが認められない場合は流浪し、更には生きるために戦闘や略奪、暴行に訴えざるを得なかったのです。

 以下、主な部族の動きを記してみると、

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アラリック1世の宴

 西ゴート族は、376年にドナウ川の南に移住しましたが、ローマ帝国役人の収奪に対して反乱を起こしました。
トラキア(現在のブルガリア)を略奪した挙句、討伐に遠征したローマ皇帝ヴァレンスを378年アドリアノープルの戦いで敗死させますが、その後コンスタンティノープルに向かわず、アラリック(370年頃~410年、在位395年~410年)に率いられてトラキア、マケドニア、ギリシア、イタリアを蹂躙し、409年には三度イタリアに侵入、翌410年にはローマを占領して歴史に残る掠奪を行い、更にイタリア半島を南下してアフリカを目指したものの、艦隊が難破したために、アフリカに渡ることをあきらめ、イタリア半島を再び北上する途中に没しています(410年)。

 アラリックが目指したのは地中海沿岸ですが、多くのゲルマン人にとって憧れの土地は地中海に近い場所、特にローマの穀倉地帯であったアフリカのチュニジア(かってカルタゴが栄えた地)でした。

 アフリカ攻略に失敗した西ゴート族は更に西進し、ワリア王(在位415年~419年)の代にイスパニアを攻略、最初の西ローマ皇帝であるホノリウス帝との協約によって、イベリア半島の大半と南ガリアを含む西ゴート王国(415年~711年)を建国して定住しました。
西ゴート王国は300年間にわたってイベリア半島を支配しますが、8世紀にイスラム(ウマイヤ朝)によって滅ぼされます。

 この間、ゲルマン民族の大移動の原因をつくったフン族は東ゴート族を征服した後、ドナウ川北岸を西進してパンノニア(現在のハンガリー)付近に定着しました。
このフン族が匈奴であるか否か長く論争されていますが、現在では北匈奴がフン族であるとの同族説が有力になっています。

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 433年頃、叔父の跡を継いでフン族の王となった人物が、ヨーロッパ人から「神の禍」として非常に怖れられたアッティラ(406年頃~453年、在位433年頃~453年)で、彼は東ローマ帝国に侵入し (441年頃)貢納金を奪い、その後カスピ海からライン川にまたがる大帝国を建設します。

 アッティラの相次ぐ貢納金の要求に耐えられなくなった東・西ローマ帝国がこれを拒否すると、アッティラはこれを口実に、451年に大軍を率いて西に進撃し、ガリアに侵入、メッツを攻略してオルレアンに迫まります。
しかし、パリ東北のカタラウヌムの戦いでアエティウス(西ローマ帝国の将軍)の率いる西ローマ(フランク人が主体)と西ゴート連合軍に敗走します。

 勢力をもり返したアッティラは、翌年イタリアに侵入し、ローマに迫りましたが、ローマ教皇レオ1世がアッティラと会見してローマ破壊をやめるように必死に説得し、是れを受け入れてハンガリーに引き返します。
アッティラはその翌年、結婚式の翌日に急死し、彼の死とともにフンの大帝国は急速に崩壊し、更に混乱の中で、476年に西ローマ帝国はオドアケルによって滅亡します。

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オドアケルに西ローマ皇帝に冠を差し出すロムルス・アウグストゥス

ジョークは如何?

人類初の有人宇宙旅行から帰還したガガーリンが、休暇をもらって
故郷の村に凱旋した。村の人々は大歓迎でガガーリンを迎えた。
大勢の懐かしい顔に囲まれたガガーリンの前に、村一番の古老が
進み出てきた。

「おお、あの小さかったガガーリン坊やがこんなに立派になって。
空の上のはるか宇宙にまで行ったんだそうじゃな。それほどの遠くに
まで行った坊やならきっと分かるじゃろうか。いったいどこに行けば
マッチが買えるかのう?」


続く・・・
2015/02/15

歴史を歩く84

4-3イスラム文明の発展③

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イブン・バトゥータの旅路

2イスラム教徒の学問③

 「外来の学問」は、自然科学以外の分野では哲学、地理学等も発達しました。

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イブン・バトゥータ
 
哲学では、ギリシア哲学、特にアリストテレス哲学の研究が盛んに行われました。
前述したイブン・ルシュドはアリストテレス哲学の研究家として知られ、彼の注釈は後の西ヨーロッパに大きな影響を与えています。
イブン・ルシュドと同じく医学者として有名なイブン・シーナーも又哲学者としても有名です。

 地理学の分野では、大旅行家イブン・バトゥータ(1304年~68/69年或いは77年)が有名です。今までにもイブンの名の付く人物が多く登場していますが、イブンは長男に多くつけられる名前である為です。

 イブン・バトゥータはモロッコのタンジールに生まれ、22才の時にメッカへの巡礼の旅に出ました。カイロ、ダマスクス等を経てメッカに巡礼しますが、その後更に足を延ばしてエジプト、シリア、小アジアを経て南ロシアに至り、クリミア半島、キプチャク・ハン国を訪れ、その後中央アジアを南下してインドに入り、トゥグルク朝で法官となり約10年間デリーに滞在しました。
後に中国の元朝への使節団に加わり、海路中国に至り(1345年)、泉州、広州、杭州、大都(北京)を訪れた後、海路で帰国しています(1349年)。
その後もスペインやサハラ砂漠を越えてニジェール川流域を旅行し、マリ王国も訪れた記録が残されています。

 彼の口述筆記による旅行記「三大陸周遊記」(原名は「町々の珍しさと旅の奇異への観察者に対する贈り物」)は1355年頃に脱稿されましたが、マルコ・ポーロの「世界の記述」(東方見聞録)と並ぶ旅行記として有名です。

 文学では、アッバース朝以後、ペルシア文学の影響を受けて散文学が盛んとなり、その代表作「千夜一夜物語」(アラビアン・ナイト)は、8世紀にアラビア語に訳されたペルシア古来の「千物語」が骨子になり、それにインド、アラビア、ギリシア、エジプト等の説話が融合され、16世紀初頭迄に現在の形に発展したものです。

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アリババと40人の盗賊

「アリババと40人の盗賊」「船乗りシンドバットの冒険」「アラジンと魔法のランプ」等私達が子供の頃からよく知られた話も多く存在しますが、イスラム教徒の生活や風俗を知る上でも貴重な書物です。

又フィルドゥシー(940年頃~1025年)が約25年を費やして完成した「シャー・ナーメ」(「王の書」)は、イラン建国から7世紀迄の神話、伝説、歴史を詠んだペルシアの大叙事詩です。

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アルハンブラ宮殿

 建築は、ドームとミナレット(光塔、この上から人間の声で礼拝の時が告げられる)を特色とするモスク(イスラム教の礼拝堂)が中心で、イェルサレムにある金色に輝くドームを持つ「岩のドーム」は初期の代表的なモスクです。
又スペインのグラナダに残るナスル朝の宮殿である「アルハンブラ宮殿」は、イスラムの代表的な建築で、世界で最も美しい建築の一つと云われています。

 イスラム教は偶像崇拝を厳禁する宗教である為、絵画、彫刻の分野はあまり発達しませんでしたが、ミニアチュール(細密画)が書物の挿し絵として始まり、後に中国絵画の影響を受けて盛んと成りました。

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モスクドーム天井のアラベスク模様

 偶像崇拝禁止のイスラム圏で大いに発達した細工物が、アラベスクです。
アラベスクは植物や文字を図案化して幾何学的に連続配置した装飾文様ですが、モスク等のイスラム建築では見事なアラベスクが使われています。

3人と物の東西交流

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イスラム商人による香料の取引

 広大なイスラム世界の成立に伴い、ムスリム商人による遠隔地貿易が盛んとなり、人と物の交流は文化の交流を促進しました。

 ムスリム商人は、より多くの利潤を求めて、イスラム世界の外へも積極的に進出しました。
「アラビアン・ナイト」に描かれている「船乗りシンドバットの冒険」はその事実をよく示しています。

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イスラム交易船(ダウ船)

 遠隔地貿易には、陸上の隊商貿易と海上の商船貿易が在り、駱駝の背に荷物を積んだ隊商は遠くは中国、南ロシア、内陸アフリカを往来し、イスラム教徒の商船は地中海、インド洋を縦横に航行し、遠く東南アジアや中国にも到達しました。
主要な取引品は、インドや東南アジアの香辛料、宝石、綿布、染料等、中国の絹織物、陶磁器等、又アフリカの金、奴隷、象牙等でした。

 中国、東アフリカ、東南アジアの海港等には、ムスリム商人の居留地が設けられ、唐、宋代の中国ではアラビア、アラビア人はタージー(大食)と呼ばれ、ウマイヤ朝は白衣大食、アッバース朝は黒衣大食と呼ばれていました。

 こうした人と物の交流と共に文化の交流も盛んで、中国で発明された製紙法がタラス河畔の戦い(751年)で捕虜となった唐軍の中に居た紙すき工によってバグダードに伝わり、更にイベリア半島とシチリア島を経て12世紀頃西ヨーロッパに伝えられたことは前にも述べました。

 同じく中国起源で宋代に実用化されていた火薬と羅針盤もイスラム世界を経由してヨーロッパに伝えられます。

 インドから西アジアに伝わった木綿や砂糖は、十字軍の兵士達によってヨーロッパへ伝えられ、又元の郭守敬によって作成された「授時暦」にはイスラム天文学の成果が取り入れられており、「授時暦」は江戸時代に作成された「貞享暦」に影響を及ぼしており、1年を365.2425日とする精密な陰陽暦です。

ジョークは如何?

医者と大工と政治家が議論している。

医者「神はアダムのあばら骨からイブをつくった。外科手術を施す医者こそ世界最古の職業だ」
大工「いや、神はカオス(混沌)からこの世界を建設した。だから大工が世界最古の職業さ」
政治家「そのカオス(混沌)を作り出すものは誰かね?」


続く・・・
2015/02/13

歴史を歩く83

4-3イスラム文明の発展②

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イスラム女性の風俗

2 イスラム教徒の学問②

 「外来の学問」は、ギリシア、インド等非アラブの学問で、哲学、論理学、地理学、医学、数学、天文暦学、工学、錬金術等、自然科学分野を中心に発達しました。

 これ等の「外来の学問」は、9世紀初頭にギリシア語の文献が組織的にアラビア語に翻訳されるようになって飛躍的に発達しますが、特に自然科学は大いに発達しています。

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イブン・シーナー

 医学、薬学は、ギリシア、インドから学び、特に外科、眼科分野等が発達していたと云われています。
有名な医学者としてはイラン系の医学者、哲学者で「医学典範」の著者であるイブン・シーナー(ラテン名アヴィケンナ、980年~1037年)とコルドバ生まれの大哲学者、医学者で「医学大全」を著したイブン・ルシュド(ラテン名アヴェロエス、1126年~98年)がよく知られています。

 イブン・シーナーは、サーマン朝の高官の子弟としてブハラに生まれ、17歳頃サーマン朝君主の病気を治療し、その宮廷図書館で学究生活を送った後、各地を遍歴した後、ハマダーンのブワイフ朝君主の宰相となり、その保護のもとで14年間を過ごしました。
その学問は医学、哲学、神学、数学、天文学に精通し、彼の著作は100を越え、「学問の長老」と称されました。
特に「医学典範」はアラビア医学の集大成で、ラテン語に翻訳され、12~17世紀にかけて西ヨーロッパの大学、医学部で権威あるテキストとして重用されました。
イスラム世界では現在でも利用されていると云われています。

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イブン・ルシュド

 イブン・ルシュドは、コルドバの名門に生まれ、法学、医学、哲学を学び、その天分を発揮し、27歳の頃モロッコのマラケシュに赴いてムワッヒド朝のカリフに謁見し、コルドバで法官となり、晩年にはムワッヒド朝のカリフの主治医と成りました。
この間多くの著書を残しましたが、特にアリストテレス哲学の研究家、注釈家として有名で、中世ヨーロッパにおけるアリストテレス哲学の研究に大きな影響を与えています。

 数学も、ギリシアの幾何学やインドの数学を学び、特にインドから学んだ数字、十進法とゼロの観念を発達させました。

 現在我々が使用している算用数字はアラビア数字と呼ばれ、インド数字を原型として、イスラム世界で完成し、後にヨーロッパに普及し、現在は世界中で使用されています。
このアラビア数字最大の長所は、インドから学んだゼロの観念をアラビア数字、十進法と結びつけた処に在ります。

 ローマ人はアルファベットを用いて数字を表記した(1=I、5=V、10=X、50=L、100=C等)のですが、大きな数字単位を表記する事に大変な苦労が必要でした。
例えば1999はCIC(1000) IC(500) CCCCLXXXXVIIII(1000と500の右端のCは、Cを裏返して左右を逆にした記号になる)と表記しました。
これをアラビア数字では1999で表す事が可能で、更に0を付け加えるだけで無限大の数字を表す事が出来るように成り、当に画期的な記数法でした。

 従来の数学は、例えばギリシアの場合も発達した分野は代数学でなく幾何学でした。
代数学が発達せず、幾何学が発達した理由はやはり数字の問題と推定され、この計算に便利なアラビア数字の発明によって、イスラムでは、代数学、三角法が発達しました。
イラン系のフワーリズミー(780年頃~850年頃)は、ホラズムに生まれ、アッバース朝に仕えました。
アラビアの数学を確立し、代数学の創始者と成り、更に彼は天文学者としても有名でした。

 天文暦学は、古代オリエントでも盛んであった占星術がイスラムでも大いに発達し、この分野から天文観測、暦学が発達し、正確な暦も作成されたのでした。

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 オマル・ハイヤーム

 オマル・ハイヤーム(1048年~1131年)は、イランの詩人、数学者、天文学者で、セルジューク朝のスルタンの命により、極めて精密な一種の太陽暦である「ジャラーリー暦」制定に従事しました。数学者としては3次方程式解法を体系化していますが、彼の名を有名にしているのはペルシア語の「四行詩集」(「ルバイヤート」)の作者として伝わっている為です。
ルバイヤートは19世紀に英訳されて世界的に有名に成りました。

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錬金術の寓意画

 錬金術は、古代エジプトに起源を持つ、卑金属を貴金属に変えようとする技術です。
もちろん実現する可能性は皆無に等しいですが、そのためにあらゆる実験、観察が繰り返され、その中から様々な元素記号が生まれ、化学反応式更に酸とアルカリの区別等が発見されました。
このイスラムの実験、観察のデータを基礎に、近代ヨーロッパで化学が発達することに成ります。

 ヨーロッパ人が、イスラムから様々な学問、知識を受け入れていく際、当時のヨーロッパ人には知られておらず、対象物(現象)を表す単語が存在しない場合には、アラビア語がそのまま使われました。
このため、今日の英語単語の中にも多くのアラビア語を起源とする単語が、存在することはよく知られています。

例えば科学用語として、
alcohol・alkali・algebra・alchemy・alembic・amalgam

一般の単語として、
Sugar・cotton・syrop・check・tambourine・luteそしてzero等が在りますが、科学用語にalの付く単語が多いのは、alはアラビア語の定冠詞である為です。

ジョークは如何?

ソ連の将軍とドイツの将軍とフランスの将軍が会合して、どの軍隊が一番勇敢かという話になった。
そこで、それぞれの部隊に崖から飛び降りるように命令を下すことにした。

フランスの部隊は将軍に命令されると、泣いて命乞いを始めた。
ドイツの部隊は命令される、「なんでそのような命令をするのか、納得のいく説明をしてほしい」といって将軍に食って掛かった。
ソ連の部隊は命令されると、「ダー(はい)」と答えて飛び降りていった。


続く・・・
2015/02/10

歴史を歩く82

4-3イスラム文明の発展①

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「スルタンの楽しみ」 Edouard Frederic Wilhelm Richter 画 1900年

1イスラム文明の特徴

 イスラム文明の特徴を一言で表現すれば、融合文明です。
イスラム教とアラビア語を基調とし、それにギリシア、イラン、インド等の先進文明を取り入れ、融合させた文明で、例えば様々な色の液体を1つの容器に入れて混ぜ合わせると全く別の色になるように、様々な文明が融合して全く別の文明が作り出された文明がイスラム文明なのです。

ペルシアの説話を骨子としてインド、アラビア、ギリシア、エジプト等の説話を集大成した「アラビアン・ナイト」(千夜一夜物語)等は諸文明の融合を示すよい例であると思います。

 イスラム文明は、イスラム教を核とする普遍的文明で、イスラム世界の各地に伝播し、その地域、民族の特色が加わり、イラン=イスラム文明、トルコ=イスラム文明、インド=イスラム文明等多様な文明が形成されました。
又、中世ヨーロッパではイスラム教徒の著作がアラビア語からラテン語に翻訳され、ヨーロッパにおける学問の発達を促し、後のルネサンスの開花にも大きな影響を及ぼしたのです。

 自然科学が発達したこともイスラム文明の特色です。
自然科学は近現代のヨーロッパ文明で大いに発達し、現代の我々の豊かで便利な生活を実現させましたが、近代以前の文明のなかで自然科学が発達したことは稀で、僅かにヘレニズム文化とこのイスラム文化をあげることが出来るのみなのです。

 又、イスラム文化は都市文明で、その主な担い手は商人や手工業者等であり、美術、工芸等の分野も発達しました。

2イスラム教徒の学問

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ガザーリー

 イスラム教徒の学問は、「固有(自国)の学問」と「外来の学問」に大別することが出来ます。
「固有の学問」は、アラブ固有の学問分野でイスラム教、アラビア語、ムハンマド、「コーラン」研究から発達した分野で、法学、神学、言語学、歴史学等が含まれます。

 言語学、文法学は「コーラン」の研究から発達した分野で、「コーラン」はアラビア語で表わされており、他言語への翻訳は禁止されている為、「コーラン」を正しく理解し、伝達する為にはアラビア語の言語学や文法学が大切な学問分野でした。

 法学、神学も「コーラン」の解釈を中心に発達した分野です。
イスラム法は、「神の定めた掟」の意味でシャリーアと呼ばれ、行政法、身分法、家族法、商法等社会生活全般に関わる規定を含んでいる事から、法学は最も重要な学問と見なされていました。
イスラム神学、法学に精通した人物はウラマーと呼ばれ、神学、法学上の問題の裁定を行います。
従ってウラマーのイスラム社会での発言権は強く、社会のエリートとして大きな影響力を持ちました。神学者としてはイラン系のイスラム神学者のガザーリー(1058年~1111年)が有名です。

 歴史学は、ムハンマドの伝承研究から発達しました。
イラン系の神学者、歴史家タバリー(839年~923年)は年代記的世界史「預言者と諸王の歴史」を著しています。

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イブン・ハルドゥーン

 イブン・ハルドゥーン(1332年~1406年)はイスラム世界最高の歴史哲学者として有名で、チュニス出身で法学を学び、政治家となり若くして北アフリカのハフス朝(1228年~1574年)の高官と成りますが、妬まれて各地を転々とし、又投獄される等波乱の半生を過ごしました。
43才で政界を引退し、歴史書の執筆に従事し、「世界史序説」を著し、遊牧民と定住民との関係、交渉を中心に王朝興亡の歴史に法則性があることを論じました。
50才の時エジプトに移住し、マムルーク朝に仕えてカイロの大法官となり、その後カイロで没しました。

ジョークは如何?

ユダヤ系でナチスドイツから亡命した物理学者フリッツ・ハウターマンスが同僚のドイツ人に良く聞かせたジョーク

「君たちは自分等を優秀というが、君等の先祖が森でイノシシ追いかけてたときに俺たちの先祖はもう小切手の偽造をしてたんだぜ」

続く・・・


2015/02/09

歴史を歩く81

14-2イスラム世界の発展⑥

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アッバース朝時代の交易通商路

2東南アジアのイスラム化

 ムスリム商人は、既に8世紀後半のアッバース朝時代から盛んに海上に進出し、インド洋から東南アジアを経て中国の海港都市でも活躍していました。
イスラム教の中国への伝播は、アラブ人が7世紀後半に海路経由で伝え、広州、揚州、泉州等の港市にはイスラム寺院も建てられていますが、東南アジアにイスラム教が広まるようになるのは13世紀以後のことでした。

 東南アジアでイスラム教が広まる時期が遅れた理由として、初期のムスリム商人達が布教に余り熱心でなかった事、東南アジアの住民達にも受け入れる気運が無かった事等が考えられます。
13世紀に入って東南アジアにイスラム教が広まる様に成った主因は、神秘主義教団の活動によってインドのイスラム化が進んだことが深く関係していると考えられています。

 イスラム社会では、10世紀頃から神との一体感を求める神秘主義(スーフィズム)が盛んと成りました。
スーフィズム教団の修道者は、羊毛で作った粗末な衣服(スーフ)をまとい、贅沢な生活を排し、苦行と瞑想によって神との一体感を求めました。
12世紀になるとスーフィズム教団の組織化が進み、多くの神秘主義教団が結成され、教団員は貿易路に沿ってインド、東南アジア、中国に進出し、イスラム教の布教に熱心に従事したのです。

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東南アジア地域交易路

 こうした状況の中で、13世紀末にはスマトラ島の西北部、14世紀後半から15世紀にかけてジャワ島の東北部にイスラム教徒の小国が形成されて行きました。

 東南アジア諸島部では、7世紀にスマトラ島東南部にシュリーヴィジャヤ王国が興り、海上交通の要衝であるマラッカ海峡を押さえて繁栄し、10世紀に最盛期を迎えましたが、14世紀に入るとジャワ島のマジャパヒト王国の台頭から衰退に向かって行きます。

 シュリーヴィジャヤ王国が衰退した14世紀の末頃、マライ半島南西部に東南アジア最初のイスラム国家であるマラッカ王国(14世紀末頃~1511年)が成立しました。

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 マラッカ王国の建国者であるパラメーシュヴァラはマジャパヒト王国(1293年~1520年頃、ジャワ島中部を中心に栄えたヒンドゥー教の王国)の王女の夫にあたり、シャイレーンドラ朝(8世紀中頃~9世紀前半、中部ジャワを支配した王朝)王家の子孫と伝えられています。
彼は14世紀末にマジャパヒト王国で王位継承争いが発生した時、難を逃れ、後にマラッカに定着しました。
中国の明朝に朝貢し、タイのアユタヤ朝(1350年~1767年)の南下を防ぎ、独立を維持しました。パラメーシュヴァラは晩年にイスラム教に改宗しています。

 その後、マラッカ王国は東南アジア最初のイスラム国家として、又東南アジアの国際貿易の中心として繁栄し、最盛期の15世紀後半にはその領域はマライ半島南部全域と対岸のスマトラ島の東部に及ぶ大勢力と成りましたが、1511年にポルトガル人によってマラッカが占領され滅亡します。

 イスラム教は、マラッカの貿易のルートに沿ってインドネシアやフィリッピンの南部にも拡大し、ミンダナオ島等フィリッピン南部諸島の住民は16世紀末頃には、イスラム化しモロ人と呼ばれています。

 ジャワ島ではマラッカ王国成立の影響を受けて、北部ジャワにイスラム諸都市が分立し、内陸部の米作地帯にはヒンドゥー教国のマジャパヒト王国に代わって、イスラム教国であるマタラム王国(16世紀末~1755年)が成立しました。 

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マラッカに上陸するイスラム使節

ジョークは如何?

昔ロシアである男が兵役を逃れようと必死で言い訳をしていた。
「私は結核なのです。」
「ボロシロフ将軍は結核だが立派な軍人だぞ。」
「私の目は片方見えないのです。」
「イワノフ将軍を見ろ。片目だが軍人の鑑だ。」
「私は精神薄弱なんです。」
「バカをいえ。皇帝様をそれでも職務を果たしておられるぞ。」

続く・・・
2015/02/06

歴史を歩く80

14-2イスラム世界の発展⑤

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イスラム世界の王朝変遷

3インド・東南アジアのイスラム化
 
1インドのイスラム化

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第7代スルタン、マフムード

 イスラム教徒は、8世紀の初めウマイヤ朝の時代に、一時シンド(インダス川下流域:インドの語源とも云われる)地方を征服しましたが、その支配は長く続かず、イスラム教徒による本格的なインド征服が始まったのはガズナ朝(ガズニ、962年~1186年)の時からです。

 ガズナ朝は、サーマン朝(875年~999年)に仕えていたトルコ人奴隷のアルプテギン(?~963年)がアフガニスタンのガズナに建国したトルコ系イスラム王朝で、第7代スルタン、マフムード(在位998年~1030年)は、サーマン朝から独立し、1000年頃から10数回にわたって北インドに侵入を繰り返し、北インドのイスラム化の道を開くとともに、アフガニスタン、中央アジア、イラン、北インドにまたがる大帝国を築き、都のガズナは大いに栄え、フィルドゥシー等の文人を優遇する等、ガズナ朝の全盛期を現出しました。
しかし、12世紀中頃からゴール朝の圧力が強まり、セルジューク朝とゴール朝によって滅亡します(1186年)。

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シハーブッディーン・ムハンマド(شهاب‌ الدين محمد ):ムハンマド・ゴーリー(ゴール朝のムハンマド)

 ゴール朝(1148年頃~1215年)は、ガズナ朝の支配下でアフガニスタンのゴールを拠点として台頭し、ムハンマド・ゴーリー(?~1206年)は、兄王と共にゴール朝の独立に活躍し、ガズナ朝を滅ぼし(1186年)、以後30年間にわたってインドに侵入し、ラージプート族(好戦的なヒンドゥー教徒)の軍を破り、北インドのほぼ全域をイスラムの支配下に置きました。

 このため北インドのイスラム化が一層進み、兄を継いで王と成りますが(1202年)、インド遠征の帰途、インダス河畔で暗殺され(1206年)、その後、ゴール朝は部下の将軍の内紛によって分裂弱体化し、ホラズム朝によって滅ぼされます(1215年)。

 中央アジア、トルコ人のマムルークであったアイバク(?~1210年、在位1206年~1210年)はゴール朝のムハンマド・ゴーリーに部将として仕え、そのインド遠征に従事して功績をあげ、インド方面総司令官に任命され、北インドの実権をほぼ掌握し、ムハンマド・ゴーリーが暗殺されると、インドの支配権を握り、インド最初のイスラム王朝である奴隷王朝(1206年~90年)を創始し、都をデリーに定めました。

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ガズナ朝、ゴール朝の位置関係

 ガズナ朝、ゴール朝共にアフガニスタンに拠点を持ち、インドに侵入して北インドを支配した王朝で、インドのイスラム王朝とは言えず、インド最初のイスラム王朝はアイバクが創始した奴隷王朝と考えられています。

 アイバクの死後、彼の奴隷でアイバクの養子となったイレトゥミシュがデリーでスルタンとなり、北インドにおけるイスラム王朝の支配権を確立しました。
彼をはじめ王位に就く者に奴隷出身者が多かったため、この王朝は奴隷王朝と呼ばれます。

 奴隷王朝は、北からのモンゴル人の侵入を防ぎ、内政に意を注ぎますが、末期には党争と内乱が相次ぎ、同じトルコ系のハルジー朝(1290年~1320年)に交代を余儀なくされます。

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トゥグルク朝3代目国王フィーローズ・シャー・トゥグルク(1309-1388)

 ハルジー朝最後の王が暗殺されると、将軍のトゥグルク(父はトルコ人、母はインド人)が暗殺者を倒してトゥグルク朝(1320年~1414年)を建国します。
トゥグルク朝については有名なイブン・バットゥータの旅行記「三大陸周遊記」に記述が在りますが、ティムールの侵入を受け(1398年)、以後衰退して行きました。

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ティムール

 ティムール軍が引き上げた後、命を受けてデリーの統治に当たったティムールの部将が独立して建国した国家がサイイド朝(1414年~51年)ですが、サイイド朝の支配地域はデリー周辺に限られ、4代でロディー朝に王朝そのものが交代します。

 サイイド朝末期に、パンジャーブ地方(インド西北部)で勢力を得たアフガン系のロディー族のハバロールがデリーに迎えられ、サイイド朝に代わってスルタンとなり創始した王朝がインド史上最初のアフガン系王朝であるロディー朝(1451年~1526年)ですが、ロディー朝もパーニーパットの戦い(1526年)でティムールの子孫のバーブルに敗走し、最後はムガール帝国(1526年~1858年)に滅ぼされました。

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デリー・スルタン朝

 インド最初のイスラム王朝である奴隷王朝からムガール帝国の建国迄の約300年間に北インドにはデリーを都とする5つの王朝(奴隷王朝→ハルジー朝→トゥグルク朝→サイイド朝(以上トルコ系)→ロディー朝(アフガン系))が続いた事から、この時代をデリー・スルタン朝(1206年~1526年)と総称します。

 インドに侵入したイスラム王朝は、当初民衆にイスラム教を強制し、ヒンドゥー教の寺院や神像を破壊したのですが、デリー・スルタン朝の時代になるとヒンドゥー教徒に対しても比較的寛大な態度をとり、インド人の伝統的な社会の上に立って君臨する政策を採るように変貌します。

2月5日ジロくん9歳の誕生日

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氏神様の参道にて
2015/02/03

歴史を歩く79

14-2イスラム世界の発展④

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メロエ王国小ピラミッド群

4 アフリカの諸国

 現在知られている最古の黒人王国は、ナイル上流のクシュ王国(紀元前920年頃~紀元後350年頃)です。
エジプト中王国末期に一時エジプトの支配から独立したクシュ人は、新王国の初めに再びエジプトの支配下に置かれました。

クシュ王像
復元クシュ王像

 クシュ人は紀元前10世紀に再びエジプトの支配を脱し、紀元前8世紀には逆にエジプトを征服し、都をテーベに遷して繁栄しますが、紀元前7世紀にアッシリアのエジプト侵入で後退し、都をテーベからナイル中流域のメロエに遷都し、メロエ王国(紀元前670年頃~紀元後350年頃)としてその後も繁栄を続けます。

 メロエ王国はアッシリアから製鉄法を学び、製鉄と商業によって繁栄していましたが、4世紀にエチオピアのアクスム王国によって滅ぼれます。
メロエ王国の滅亡は鉄の製法がアフリカ各地に伝播するきっかけと成り、又彼等はエジプトの文字と異なるメロエ文字を用いていましたが、このメロエ文字は今日まだ未解読のまま残されています。

 アクスム王国(紀元前120年頃~紀元後572年)は、アラビア半島の南端から移住してきたセム系アクスム人がアビシニア高原に建てた国家で、エチオピア王国とも呼ばれました。
2~3世紀頃最盛期を迎え、メロエを圧迫し続け、350年頃ついにメロエ王国を滅ぼします。

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アスクム王国(エチオピア王国)人

 アクスム王国には4世紀にキリスト教(コプト派)が入り、キリスト教化が進み、キリスト教が国教とされました。
西ヨーロッパでは中世から近代初頭にかけてプレスター・ジョン伝説が信じられており、アジア(後にはアフリカになる)の何処かにキリスト教の司祭王が存在するとされていました。
15世紀以後はエチオピアの皇帝がプレスター・ジョンであるとする考え方が一般化して行きましたが、エチオピアに早くからキリスト教が広まっていたことがその背景になっていと思われます。

 西スーダン(スーダンはアラビア語で「黒い国」を意味し、ほぼ北緯10度から北緯20度辺り迄のアフリカ地域)のニジェール川、セネガル川流域ではアラブ人の間で「黄金の国」として知られていたガーナ王国(8世紀以前~1076年)と呼ばれる黒人王国が栄えていました。
ガーナは豊富に産する黄金を、サハラ砂漠を縦断して往来するムスリム商人がもたらす岩塩と交換する交易によって繁栄しており、交易ルートの安全を確保する為に軍事、政治機構を確立し、20万人以上の常備軍を持っていたと云われ、西スーダン一帯に勢力を及ぼしていました。

 しかし、11世紀にベルベル人のムラービト朝によって滅ぼされますが、このムラービト朝によるガーナ王国の征服は西アフリカのイスラム化を促進する発端に成りました。

 13世紀にマンディンゴ族は初代王のスンジャータ(1240年頃~1260年頃)のもとで、近隣の国々との戦いに勝利をおさめ、嘗てのガーナ王国の金産地を支配下に治め、金と塩の交易ルートを確保し、西スーダンの大半を支配下に置きました。
これがマリ王国(1240年~1473年)で、マリ王国では早くからイスラム教が受け入れられ、支配階級はイスラム教徒でした。

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マンサ・ムーサ(カンカンムーサ)

 マリ王国の最盛期の王がマンサ・ムーサ(カンカンムーサ)(在位1312年~37年)で、彼の名はメッカ巡礼で有名に成りました(1324年)。
その帰途カイロに滞在したときに使った金は13トンにも達したと云われ、このためカイロでは金の価値が下がり、インフレが起こったと迄云われています。
マンサ・ムーサの名はヨーロッパに迄伝わり、14世紀にヨーロッパで作成された地図にはマリ王国とマンサ・ムーサの姿が書き込まれていました。

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 14世紀には有名なイブン・バトゥータがこの国を訪れて、その繁栄ぶりについて記述しています。しかし、マリ王国は、15世紀後半ニジェール川流域で急速に勢力を伸ばしてきたソンガイ王国によって滅ぼされました。

 西スーダンの黒人ソンガイ族は、15世紀後半に勇猛、好戦的な王のもとで、隊商交易の終点として繁栄していたトンブクトゥを奪い、マリ王国を滅ぼし、西アフリカの大部分を支配下に治めます。
ソンガイ王国(1473年~1591年)は北アフリカとの交易によって栄え、15~16世紀に全盛期を迎え、その経済、文化の中心として栄えたトンブクトゥには16世紀に黒人による最初の大学が創設されました。

 ソンガイ王国は、16世紀末に「黄金の國」伝説を信ずるモロッコ軍の南下によって滅ぼされたのですが、モロッコ軍は期待に反した西スーダンの貧しさに落胆し、激しい略奪を行って引き上げています。
この結果、西スーダンは壊滅的な打撃を受け、交易の中心も西スーダンからチャド湖周辺のカネム王国(9世紀頃~14世紀末)やボルヌ王国(14世紀末~17世紀、カネム王国が本拠をボルヌに遷して再興した国)等に移っていく事に成ります。

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グレート・ジンバブエ遺跡

 アフリカ東岸、赤道以南のマリンディ、モンバサ、ザンジバル、キルワ等の海港都市には、10世紀以降イスラム商人が移住し、彼等のインド洋貿易で繁栄していました。
この為、これ等の地域ではスワヒリ語(スワヒリはアラビア語で「海岸地帯の人々」の意味、アラビア語の影響を受けた言語)が普及しており、更にその南方のサンベシ川流域では、15世紀にモノモタパ王国が繁栄していたことがポルトガル人によって伝えられています。
その中で述べられているジンバブエの壮大な石造遺跡が19世紀後半に発見され、その後の研究によってジンバブエには高度な文明が存在していた事、そしてインド洋貿易によって繁栄していた事が明らかに成りました。
モノモタパ王国は、15世紀中頃から15世紀末にかけて領土を拡大し栄えていましたが、16世紀には小国に成って行きます。

ジョークは如何?

レーニンが死んで、スターリンと共に彼の後任について論議していた。
「わたしには1つ、心配事があるのだ。」
レーニンが言った。
「人々は君についていくだろうか? スターリンよ。君はどう思うかね。」
「きっとついていくでしょう。それが彼らの意志ですから」
スターリンは自信たっぷりに言った。
「ふむ。わたしもそう期待している」
「しかしだ。もしも君に誰もついていかなかったとしたら。」
「心配には及びませんよ。」
スターリンは言った。
「その時は、彼らはあな文字色たについていくでしょうから。」

(この後行われる大粛正にひっかっけています。)


続く・・・

2015/02/01

歴史を歩く78

14-2イスラム世界の発展③

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マグリブ地方

3西方イスラム世界

 アフリカ北岸のモロッコ、アルジェリア、チュニジア地方はマグリブ地方と呼ばれます。
マグリブは、アラビア語で「西」を意味し、エジプト以東のイスラム世界に対して西方イスラム世界を指しています。

 このマグリブ地方の先住民はベルベル人と呼ばれ、ハム系を主にネグロ、セム系の混血民族で、彼らは7世紀以来アラブ人の支配を受け、そのイベリア半島攻略の主力をなし、ヨーロッパ人からはムーア人と呼ばれたのです。



 西サハラでラクダの遊牧を行っていたベルベル人のサンハージャ族の族長が、1039年にメッカに巡礼しました。
その帰途、イスラム法学者の教説を聞いて深い感銘を受け、その弟子の1人を伴って帰り、彼の教えを受けたのでした。
彼の教えに動かされたサンハージャ族は宗教的な結社を政治運動に転化して軍団を結成し、西サハラにムラービト朝(1056年~1147年:スペイン語でアルモラビド朝とも呼ばれる)を樹立しました。

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イブン・ターシフィーン

 初代アミール(アラビア語で「指揮者」の意味、武将、総督の称号として用いられる)となったイブン・ターシフィーン(在位1061年~1106年)のもとで、首都マラケシュを建設するとともに、聖戦(ジハード)をおこし、北に軍を進め、モロッコからアルジェリアの肥沃な農耕地帯をその支配下に治めました。
更に南下して西アフリカのガーナ王国(8世紀頃~1076年)を一挙に滅ぼしました。

 その頃、イベリア半島では後ウマイヤ朝が内紛で分裂、衰退の一途を辿り1031年に滅亡し、以後アンダルシア地方(イベリア半島南部、アラブ人はアンダルスと呼んだ)はイスラム系諸小王朝が乱立する分裂時代を迎えていました。
同じ頃、キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ、キリスト教徒によるイベリア半島からのイスラム勢力の駆逐運動)が展開されています。

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 国土回復運動によってトレドを失ったムスリム諸侯がイブン・ターシフィーンに援軍の派遣を求め、彼はこれに応えてイベリア半島に渡り(1086年)、カスティリャの軍を破り、グラナダ、コルドバ、セビリアを次々と攻略し、アンダルシア地方をムラービト朝の領土としました。
しかし、ムラービト朝では、世代が変わると熱狂的な宗教的な情熱が衰え、部族間の団結も緩んできました。

 この頃、北アフリカのアトラス山中で、同じベルベル人のムワッヒド朝が台頭していました。
アトラス山中で定住生活を営むマスムーダ族のイブン・トゥーマルト(1091年頃~1130年)は、メッカに巡礼した際に(1106年)、イスラム神秘主義を学び、宗教や道徳を改革する情熱に駆られて故郷に戻ります。
イブン・トゥーマルトは自らマフディー(イスラム教で「救世主」の意味)と称し、教説を説いて回りベルベル人のイスラム化を促進しました。

 アブド・アルムーミン(在位1130年~63年)は、イブン・トゥーマルトの死後、彼の思想、運動を継承し、ムワッヒド朝(1130年~1269年、スペイン語でアルモハド朝)を創始しました。
彼はマスムーダ族をまとめて勢力を拡大し、ムラービト朝を滅ぼし(1147年)、占領したマラケシュを都と定め、更に東に転じてチュニジア、トリポリまで領土を拡大し、イベリア半島南部と北アフリカにまたがる大帝国をつくりあげました。

 しかし、ムワッヒド朝もムラービト朝と同じように宗教的な情熱が冷めてくると国内は分裂し、同じ頃モロッコに興ったマリーン朝に領土を奪われ、吸収される形で滅亡します(1269年)。

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グラナダ王国:アルハンブラ宮殿

 一方、イベリア半島では国土回復運動(レコンキスタ)が進展する中で、かって後ウマイヤ朝の首都として、当時世界最大の都市の一つとして繁栄してきたコルドバがキリスト教徒のカスティリャによって占領されました(1236年)。

 この頃成立したナスル朝(グラナダ王国、1230年~1492年)は、コルドバ陥落後グラナダを首都としました(1238年)。
グラナダはヨーロッパにおけるイスラムの政治、軍事、文化の拠点として栄え、イタリアや東方との貿易で経済的にも繁栄しました。
有名なアルハンブラ宮殿は西方イスラム世界のみならず世界的にも最も美しい建築の一つと言われています。

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グラナダ陥落 カトリック王がグラナダ王国最後の国王ボアブディルからアルハンブラ宮殿の鍵を受け取る

 ナスル朝はキリスト教国の進出に対して最後まで抵抗しましたが、1492年にスペイン軍に敗れ、グラナダは陥落し、ナスル朝は滅亡しました。
これによって国土回復運動(レコンキスタ)は完了し、イスラム教徒はアフリカに押し返されます。この年は奇しくもコロンブスがアメリカ大陸に到達した年と同じ年でした。 

ジョークは如何?

シベリアの強制収容所にて。
「きみは、どうしてここにいるんだい?」
「1939年に同志ポポフの悪口を言ったからさ。で、きみは?」
「ぼくは1943年に同志ポポフを誉めたからだよ」
二人はもう一人の囚人に問いかけた。
「きみは?」

「私はポポフだ」

続く・・・