歴史を歩く94
15-2西ヨーロッパ封建社会の発展⑤
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サント・フォワ教会
4教会の権威②
ハインリヒ4世は、父の後を継いで6歳で即位したため、最初の10年間は母后が摂政と成りました。
やがて親政を始めますが(1065年)、ドイツ(神聖ローマ帝国)は成立当初から大移動の際の単位であった嘗ての部族の勢力が強く、ザクセン、フランケン、ロートリンゲン、シュヴァーベン、バイエルン等の部族公領の勢力が維持されていました。
そのため、オットー大帝以来歴代皇帝は、国内に多く存在する教会や修道院を利用し、世襲のおそれのない(妻帯が禁止されていたので独身)司教や修道院長等を王国の要所に置いて皇帝の忠実な官僚としてドイツの統一を維持しようと試みます。
皇帝は帝国内の司教、修道院長の任命権を握っていたため、信頼できる家臣を司教、修道院長に送り込むことが可能で、絶えず教会や修道院に土地を寄進し、それに対して経済的、軍事的な義務を負わしていました。
従って、教皇が聖職叙任権を握り、教皇の息のかかった人物がドイツの司教、修道院長に任命されるようになると、ドイツの教会支配政策は崩壊し、皇帝権力の弱体化を招くことになる事から、ハインリヒ4世は、グレゴリウス7世の改革に強く反対しました。
ハインリヒ4世はヴォルムスで国会を開き、グレゴリウス7世の廃位を決議させます(1076年1月)。これに対してグレゴリウス7世は逆にハインリヒ4世の破門を宣告しました(1076年2月)。
破門はローマ・カトリック教会の罰則の1つで、破門されると教会共同体から除外され、君主が破門された場合は、臣下の封建的義務が解かれるので、破門は事実上の君主の廃位を意味していました。
ドイツ諸侯は、マインツの南に位置するトリブールに集まり、ハインリヒ4世の破門が1年以内に解除されなければ、ハインリヒ4世は教皇が主催するアウグスブルグの国会で王位を追われると決議します(1076年10月)。
窮地に追い込まれたハインリヒ4世は、王妃や王子を伴い、数名の従者を連れて厳冬のアルプスを越えてロンバルディアに入ります(この年は異常な寒波がヨーロッパを襲った年だったためアルプス越えは命がけでした)。
この地は反教皇派の勢力が強かったので、ハインリヒ4世に付き従う軍勢の数が増え、遠征軍と変わらない程に成ります。

カノッサで屈辱を受けるハインリヒ4世
グレゴリウス7世は、アウグスブルグの国会に赴く途中で、イタリアを北上していたましが、ハインリヒ4世が軍勢を率いて此方に向かていると云う噂を耳にして、トスカナに在る女伯マティルダの要害、カノッサ城に立籠ります。
1077年1月25日、ハインリヒ4世は少数の家来を連れてカノッサ城を訪れ、教皇への面会を求めますが、教皇はこれを拒絶します。
しかし、マティルダとクリュニー修道院長の取りなしで、悔悛の実を示すことを条件に譲歩し、只一人で三重の城門の第二門の中に入ることを許されたハインリヒ4世は、無帽、はだし、粗毛の修道衣をまとい、降り積もった雪の上に3日間立ちつくし、涙ながらに教皇に赦免を乞い求めたと云われています。
こうしてハインリヒ4世はやっと城内で接見を許され、諸侯との争いの解決を教皇の裁定にゆだねることを条件に破門を解かれますが、これが聖職叙任権闘争の過程で、皇帝権が教皇権に屈した事件として、後に歴史上有名に成る「カノッサの屈辱」(1077年)です。

トスカナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)に教皇へのとりなしを頼むハインリヒ4世(中央)
破門を解かれたハインリヒ4世は直ちにドイツに帰り、グレゴリウス7世のドイツ来訪を阻止し、反国王派の諸侯が擁立した対立国王のルドルフと戦います。
ハインリヒ4世はグレゴリウス7世にルドルフの破門を要求したが、グレゴリウス7世はハインリヒ4世を再び破門し(1080年)、これに対してハインリヒ4世はドイツとロンバルディアの司教を集めて公会議を主催し、グレゴリウス7世の廃位を決議させ、対立教皇を擁立、国内で反国王諸侯と戦い、ルドルフを敗死させます(1080年)。

ロベール・ギスカール(ロベルトゥス・グイスカルドゥス)
翌年、軍を率いてアルプスを越え、イタリアに出兵したハインリヒ4世は、ローマの聖アンジェロ城に立てこもったグレゴリウス7世を包囲し、自分の意のままになる聖職者を教皇の位に就け、クレメンス3世と名乗らせ、彼の手からローマ皇帝の帝冠を授けられました(1084年)。
グレゴリウス7世は、その後南イタリアのノルマン人騎士ロベール・ギスカールに救出されましたが、配流地のサレルノで翌年没します。
歴史の流れを見れば、最終的な勝利者はカノッサで屈服したハインリヒ4世の方であるように思えますが、ハインリヒ4世も、一時ドイツで権威を回復しますが、教皇ウルバヌス2世(十字軍を提唱した教皇)からも破門され(1094年)、諸侯と結んだ子供の反乱に苦しめられ、失意のうちに世を去っています(1106年)。

皇帝(カエサル)のものは皇帝(カエサル)へ、神のものは神に
ハインリヒ4世の子、ハインリヒ5世(在位1099年~1125年)の時、教皇カリクトゥス2世との間で「ヴォルムス(ウォルムス)の協約」が結ばれ、聖職叙任権闘争は一応終結しました。
ヴォルムスの協約の内容は、「司教選挙において俗権と聖権を分離し、皇帝側には選挙への出席と選ばれた者への俗権の授与を認め、教会側には選挙の自由と司教職への叙任権を認める」のですが、まさに妥協の産物で、とても分かりに内容です。
平滑に説明すれば、皇帝は司教を任命する権利(叙任権)を放棄するが、司教領を皇帝の知行とし、これを司教に授封する権利を確保したと云うことで、「皇帝(カエサル)のものは皇帝(カエサル)へ、神のものは神に」の精神に帰ったことに成ります。

第1回十字軍のエルサレム攻撃
その後、教皇権はウルバヌス2世が提唱した十字軍の初期の成功により、ますます隆盛に向かい、13世紀の初頭のインノケンティウス3世(在位1198年~1216年)の時、教皇権は絶頂期に達しました。

インノケンティウス3世
インノケンティウス3世(1160年頃~1216年、在位1198年~1216年)はイタリアのアナーニ出身で、ボローニャ大学、パリ大学で学んだ後、若くして枢機卿(ローマ・カトリック教会の高級聖職、教皇の最高顧問として教皇庁内で要職を占めた)となり、わずか37歳で教皇に選出されました。
彼は、教会内部の改革を断行し、教皇至上権を唱え、ラテラノ公会議(1215年)では「教皇は太陽、皇帝は月である。月が太陽に従うように、皇帝が教皇に従うのは当然である」と云う有名な演説を行っています。
この間、ドイツの帝位争いに介入し、自分の後見下にあったフリードリヒ2世を帝位に就け、フランス王フィリップ2世には離婚問題を縦にインターディクト(ローマ・カトリック教会における罰則の一つ、祭式や洗礼等秘蹟の授受を停止する、破門とは異なり、教会の一員である資格は失わない)を下し、アルビジョワ十字軍(後出)を強要し続け、又カンタベリー大司教の叙任権をめぐってイギリス国王ジョンと争い、ジョンを破門して(1209年)、封建的臣下としました。
更に第4回十字軍(1202年~1204錬)を提唱しますが、これは「本来の意味とは大きく異なる十字軍」に成ります。

インノケンティウス3世と謁見するフランチェスコ一行
インノケンティウス3世が行った政策の中で最大の成功は、托鉢修道会(乞食僧団)を修道会として認可したことであるいわれています。
イタリア人のフランチェスコ(1181年頃~1226年)が始めたフランチェスコ修道会、スペイン人のドミニコ(ドミニクス、1170年頃~1221年)が創始したドミニコ修道会です。
フランチェスコは、富裕な織物商人の子供としてアッシジに生まれ、若い頃は放蕩の生活を送っていましたが、あることで投獄され、重病を患ったことから回心し、以後一切の財産、所有物と家族を捨て、清貧の共同生活に入りました(1206年)。
あばら家に住み、乞食やハンセン氏病の患者の世話をしていましたが、3年後に粗末な農夫の服を着て、縄の帯を締め、はだしの姿で、12人の仲間とローマに出て教皇インノケンティウス3世に面会を求め、修道会設立を願い出ました(1209年)。
教皇の認可を得て「小さな兄弟たち」と云う団体をつくり、労働と清貧の修道生活を始めます。
彼等は労働の報酬として食べ物を求めただけで、食べ物がないときは喜捨を乞うて歩きました。
所有しているものは首からかける袋とお椀1つだけで、その他の物は一切持たなかったのです。
このため彼の創設した修道会は托鉢修道会とか乞食僧団と呼ばれました。
彼等はフランス、スペイン、遠くはエジプトまで、民衆の中に入り込んで説教、布教活動をして回ったのでし。

ドミニコ
同じ頃、スペインのカスティリア地方に生まれたドミニコも、司祭となってローマに出て、教皇の命令を受けてアルビジョワ派(当時南フランスで盛んとなった異端の一派)の説得に努めました。
その後、フランスのトゥールーズ付近にドミニコ修道会を創設し(1215年)、翌年教皇から認可を受け、施し物によって衣食を得るという托鉢修道会に改め(1220年)、 フランチェスコ派と並んで、民衆の信仰に新しい風を吹き込み、学問研究の面でも優れた業績を残し、カトリック精神の支柱となります。
こうして教皇権は、11末から隆盛を続け、13世紀初頭インノケンティウス3世の時代に絶頂期を迎え、以後やや衰えながらも、14世紀初頭まで教皇権の強い時代が続くことに成ります。
ジョークは如何?
日中戦争の泥沼化で、国家総動員法公布(1938.4.1)や配給制度開始などに始まる一連の統制経済政策により、日本の国民生活が圧迫されつつある中、「贅沢は敵だ」という有名なスローガンが出た。
ある人は、このスローガンにある一文字を入れて鬱憤を晴らしたという。
それは、「敵」の前に、「素」を入れ、「贅沢は素敵だ」という具合に。いつの世にもお洒落な人はいるもんですねえ。
続く・・・
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サント・フォワ教会
4教会の権威②
ハインリヒ4世は、父の後を継いで6歳で即位したため、最初の10年間は母后が摂政と成りました。
やがて親政を始めますが(1065年)、ドイツ(神聖ローマ帝国)は成立当初から大移動の際の単位であった嘗ての部族の勢力が強く、ザクセン、フランケン、ロートリンゲン、シュヴァーベン、バイエルン等の部族公領の勢力が維持されていました。
そのため、オットー大帝以来歴代皇帝は、国内に多く存在する教会や修道院を利用し、世襲のおそれのない(妻帯が禁止されていたので独身)司教や修道院長等を王国の要所に置いて皇帝の忠実な官僚としてドイツの統一を維持しようと試みます。
皇帝は帝国内の司教、修道院長の任命権を握っていたため、信頼できる家臣を司教、修道院長に送り込むことが可能で、絶えず教会や修道院に土地を寄進し、それに対して経済的、軍事的な義務を負わしていました。
従って、教皇が聖職叙任権を握り、教皇の息のかかった人物がドイツの司教、修道院長に任命されるようになると、ドイツの教会支配政策は崩壊し、皇帝権力の弱体化を招くことになる事から、ハインリヒ4世は、グレゴリウス7世の改革に強く反対しました。
ハインリヒ4世はヴォルムスで国会を開き、グレゴリウス7世の廃位を決議させます(1076年1月)。これに対してグレゴリウス7世は逆にハインリヒ4世の破門を宣告しました(1076年2月)。
破門はローマ・カトリック教会の罰則の1つで、破門されると教会共同体から除外され、君主が破門された場合は、臣下の封建的義務が解かれるので、破門は事実上の君主の廃位を意味していました。
ドイツ諸侯は、マインツの南に位置するトリブールに集まり、ハインリヒ4世の破門が1年以内に解除されなければ、ハインリヒ4世は教皇が主催するアウグスブルグの国会で王位を追われると決議します(1076年10月)。
窮地に追い込まれたハインリヒ4世は、王妃や王子を伴い、数名の従者を連れて厳冬のアルプスを越えてロンバルディアに入ります(この年は異常な寒波がヨーロッパを襲った年だったためアルプス越えは命がけでした)。
この地は反教皇派の勢力が強かったので、ハインリヒ4世に付き従う軍勢の数が増え、遠征軍と変わらない程に成ります。

カノッサで屈辱を受けるハインリヒ4世
グレゴリウス7世は、アウグスブルグの国会に赴く途中で、イタリアを北上していたましが、ハインリヒ4世が軍勢を率いて此方に向かていると云う噂を耳にして、トスカナに在る女伯マティルダの要害、カノッサ城に立籠ります。
1077年1月25日、ハインリヒ4世は少数の家来を連れてカノッサ城を訪れ、教皇への面会を求めますが、教皇はこれを拒絶します。
しかし、マティルダとクリュニー修道院長の取りなしで、悔悛の実を示すことを条件に譲歩し、只一人で三重の城門の第二門の中に入ることを許されたハインリヒ4世は、無帽、はだし、粗毛の修道衣をまとい、降り積もった雪の上に3日間立ちつくし、涙ながらに教皇に赦免を乞い求めたと云われています。
こうしてハインリヒ4世はやっと城内で接見を許され、諸侯との争いの解決を教皇の裁定にゆだねることを条件に破門を解かれますが、これが聖職叙任権闘争の過程で、皇帝権が教皇権に屈した事件として、後に歴史上有名に成る「カノッサの屈辱」(1077年)です。

トスカナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)に教皇へのとりなしを頼むハインリヒ4世(中央)
破門を解かれたハインリヒ4世は直ちにドイツに帰り、グレゴリウス7世のドイツ来訪を阻止し、反国王派の諸侯が擁立した対立国王のルドルフと戦います。
ハインリヒ4世はグレゴリウス7世にルドルフの破門を要求したが、グレゴリウス7世はハインリヒ4世を再び破門し(1080年)、これに対してハインリヒ4世はドイツとロンバルディアの司教を集めて公会議を主催し、グレゴリウス7世の廃位を決議させ、対立教皇を擁立、国内で反国王諸侯と戦い、ルドルフを敗死させます(1080年)。

ロベール・ギスカール(ロベルトゥス・グイスカルドゥス)
翌年、軍を率いてアルプスを越え、イタリアに出兵したハインリヒ4世は、ローマの聖アンジェロ城に立てこもったグレゴリウス7世を包囲し、自分の意のままになる聖職者を教皇の位に就け、クレメンス3世と名乗らせ、彼の手からローマ皇帝の帝冠を授けられました(1084年)。
グレゴリウス7世は、その後南イタリアのノルマン人騎士ロベール・ギスカールに救出されましたが、配流地のサレルノで翌年没します。
歴史の流れを見れば、最終的な勝利者はカノッサで屈服したハインリヒ4世の方であるように思えますが、ハインリヒ4世も、一時ドイツで権威を回復しますが、教皇ウルバヌス2世(十字軍を提唱した教皇)からも破門され(1094年)、諸侯と結んだ子供の反乱に苦しめられ、失意のうちに世を去っています(1106年)。

皇帝(カエサル)のものは皇帝(カエサル)へ、神のものは神に
ハインリヒ4世の子、ハインリヒ5世(在位1099年~1125年)の時、教皇カリクトゥス2世との間で「ヴォルムス(ウォルムス)の協約」が結ばれ、聖職叙任権闘争は一応終結しました。
ヴォルムスの協約の内容は、「司教選挙において俗権と聖権を分離し、皇帝側には選挙への出席と選ばれた者への俗権の授与を認め、教会側には選挙の自由と司教職への叙任権を認める」のですが、まさに妥協の産物で、とても分かりに内容です。
平滑に説明すれば、皇帝は司教を任命する権利(叙任権)を放棄するが、司教領を皇帝の知行とし、これを司教に授封する権利を確保したと云うことで、「皇帝(カエサル)のものは皇帝(カエサル)へ、神のものは神に」の精神に帰ったことに成ります。

第1回十字軍のエルサレム攻撃
その後、教皇権はウルバヌス2世が提唱した十字軍の初期の成功により、ますます隆盛に向かい、13世紀の初頭のインノケンティウス3世(在位1198年~1216年)の時、教皇権は絶頂期に達しました。

インノケンティウス3世
インノケンティウス3世(1160年頃~1216年、在位1198年~1216年)はイタリアのアナーニ出身で、ボローニャ大学、パリ大学で学んだ後、若くして枢機卿(ローマ・カトリック教会の高級聖職、教皇の最高顧問として教皇庁内で要職を占めた)となり、わずか37歳で教皇に選出されました。
彼は、教会内部の改革を断行し、教皇至上権を唱え、ラテラノ公会議(1215年)では「教皇は太陽、皇帝は月である。月が太陽に従うように、皇帝が教皇に従うのは当然である」と云う有名な演説を行っています。
この間、ドイツの帝位争いに介入し、自分の後見下にあったフリードリヒ2世を帝位に就け、フランス王フィリップ2世には離婚問題を縦にインターディクト(ローマ・カトリック教会における罰則の一つ、祭式や洗礼等秘蹟の授受を停止する、破門とは異なり、教会の一員である資格は失わない)を下し、アルビジョワ十字軍(後出)を強要し続け、又カンタベリー大司教の叙任権をめぐってイギリス国王ジョンと争い、ジョンを破門して(1209年)、封建的臣下としました。
更に第4回十字軍(1202年~1204錬)を提唱しますが、これは「本来の意味とは大きく異なる十字軍」に成ります。

インノケンティウス3世と謁見するフランチェスコ一行
インノケンティウス3世が行った政策の中で最大の成功は、托鉢修道会(乞食僧団)を修道会として認可したことであるいわれています。
イタリア人のフランチェスコ(1181年頃~1226年)が始めたフランチェスコ修道会、スペイン人のドミニコ(ドミニクス、1170年頃~1221年)が創始したドミニコ修道会です。
フランチェスコは、富裕な織物商人の子供としてアッシジに生まれ、若い頃は放蕩の生活を送っていましたが、あることで投獄され、重病を患ったことから回心し、以後一切の財産、所有物と家族を捨て、清貧の共同生活に入りました(1206年)。
あばら家に住み、乞食やハンセン氏病の患者の世話をしていましたが、3年後に粗末な農夫の服を着て、縄の帯を締め、はだしの姿で、12人の仲間とローマに出て教皇インノケンティウス3世に面会を求め、修道会設立を願い出ました(1209年)。
教皇の認可を得て「小さな兄弟たち」と云う団体をつくり、労働と清貧の修道生活を始めます。
彼等は労働の報酬として食べ物を求めただけで、食べ物がないときは喜捨を乞うて歩きました。
所有しているものは首からかける袋とお椀1つだけで、その他の物は一切持たなかったのです。
このため彼の創設した修道会は托鉢修道会とか乞食僧団と呼ばれました。
彼等はフランス、スペイン、遠くはエジプトまで、民衆の中に入り込んで説教、布教活動をして回ったのでし。

ドミニコ
同じ頃、スペインのカスティリア地方に生まれたドミニコも、司祭となってローマに出て、教皇の命令を受けてアルビジョワ派(当時南フランスで盛んとなった異端の一派)の説得に努めました。
その後、フランスのトゥールーズ付近にドミニコ修道会を創設し(1215年)、翌年教皇から認可を受け、施し物によって衣食を得るという托鉢修道会に改め(1220年)、 フランチェスコ派と並んで、民衆の信仰に新しい風を吹き込み、学問研究の面でも優れた業績を残し、カトリック精神の支柱となります。
こうして教皇権は、11末から隆盛を続け、13世紀初頭インノケンティウス3世の時代に絶頂期を迎え、以後やや衰えながらも、14世紀初頭まで教皇権の強い時代が続くことに成ります。
ジョークは如何?
日中戦争の泥沼化で、国家総動員法公布(1938.4.1)や配給制度開始などに始まる一連の統制経済政策により、日本の国民生活が圧迫されつつある中、「贅沢は敵だ」という有名なスローガンが出た。
ある人は、このスローガンにある一文字を入れて鬱憤を晴らしたという。
それは、「敵」の前に、「素」を入れ、「贅沢は素敵だ」という具合に。いつの世にもお洒落な人はいるもんですねえ。
続く・・・
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