2015/03/29

歴史を歩く94

15-2西ヨーロッパ封建社会の発展⑤

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サント・フォワ教会

4教会の権威②

 ハインリヒ4世は、父の後を継いで6歳で即位したため、最初の10年間は母后が摂政と成りました。
やがて親政を始めますが(1065年)、ドイツ(神聖ローマ帝国)は成立当初から大移動の際の単位であった嘗ての部族の勢力が強く、ザクセン、フランケン、ロートリンゲン、シュヴァーベン、バイエルン等の部族公領の勢力が維持されていました。
そのため、オットー大帝以来歴代皇帝は、国内に多く存在する教会や修道院を利用し、世襲のおそれのない(妻帯が禁止されていたので独身)司教や修道院長等を王国の要所に置いて皇帝の忠実な官僚としてドイツの統一を維持しようと試みます。
皇帝は帝国内の司教、修道院長の任命権を握っていたため、信頼できる家臣を司教、修道院長に送り込むことが可能で、絶えず教会や修道院に土地を寄進し、それに対して経済的、軍事的な義務を負わしていました。

 従って、教皇が聖職叙任権を握り、教皇の息のかかった人物がドイツの司教、修道院長に任命されるようになると、ドイツの教会支配政策は崩壊し、皇帝権力の弱体化を招くことになる事から、ハインリヒ4世は、グレゴリウス7世の改革に強く反対しました。

 ハインリヒ4世はヴォルムスで国会を開き、グレゴリウス7世の廃位を決議させます(1076年1月)。これに対してグレゴリウス7世は逆にハインリヒ4世の破門を宣告しました(1076年2月)。

 破門はローマ・カトリック教会の罰則の1つで、破門されると教会共同体から除外され、君主が破門された場合は、臣下の封建的義務が解かれるので、破門は事実上の君主の廃位を意味していました。
ドイツ諸侯は、マインツの南に位置するトリブールに集まり、ハインリヒ4世の破門が1年以内に解除されなければ、ハインリヒ4世は教皇が主催するアウグスブルグの国会で王位を追われると決議します(1076年10月)。

 窮地に追い込まれたハインリヒ4世は、王妃や王子を伴い、数名の従者を連れて厳冬のアルプスを越えてロンバルディアに入ります(この年は異常な寒波がヨーロッパを襲った年だったためアルプス越えは命がけでした)。
この地は反教皇派の勢力が強かったので、ハインリヒ4世に付き従う軍勢の数が増え、遠征軍と変わらない程に成ります。

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カノッサで屈辱を受けるハインリヒ4世

 グレゴリウス7世は、アウグスブルグの国会に赴く途中で、イタリアを北上していたましが、ハインリヒ4世が軍勢を率いて此方に向かていると云う噂を耳にして、トスカナに在る女伯マティルダの要害、カノッサ城に立籠ります。
1077年1月25日、ハインリヒ4世は少数の家来を連れてカノッサ城を訪れ、教皇への面会を求めますが、教皇はこれを拒絶します。
しかし、マティルダとクリュニー修道院長の取りなしで、悔悛の実を示すことを条件に譲歩し、只一人で三重の城門の第二門の中に入ることを許されたハインリヒ4世は、無帽、はだし、粗毛の修道衣をまとい、降り積もった雪の上に3日間立ちつくし、涙ながらに教皇に赦免を乞い求めたと云われています。
こうしてハインリヒ4世はやっと城内で接見を許され、諸侯との争いの解決を教皇の裁定にゆだねることを条件に破門を解かれますが、これが聖職叙任権闘争の過程で、皇帝権が教皇権に屈した事件として、後に歴史上有名に成る「カノッサの屈辱」(1077年)です。

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トスカナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)に教皇へのとりなしを頼むハインリヒ4世(中央)

 破門を解かれたハインリヒ4世は直ちにドイツに帰り、グレゴリウス7世のドイツ来訪を阻止し、反国王派の諸侯が擁立した対立国王のルドルフと戦います。
ハインリヒ4世はグレゴリウス7世にルドルフの破門を要求したが、グレゴリウス7世はハインリヒ4世を再び破門し(1080年)、これに対してハインリヒ4世はドイツとロンバルディアの司教を集めて公会議を主催し、グレゴリウス7世の廃位を決議させ、対立教皇を擁立、国内で反国王諸侯と戦い、ルドルフを敗死させます(1080年)。

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ロベール・ギスカール(ロベルトゥス・グイスカルドゥス)

 翌年、軍を率いてアルプスを越え、イタリアに出兵したハインリヒ4世は、ローマの聖アンジェロ城に立てこもったグレゴリウス7世を包囲し、自分の意のままになる聖職者を教皇の位に就け、クレメンス3世と名乗らせ、彼の手からローマ皇帝の帝冠を授けられました(1084年)。
グレゴリウス7世は、その後南イタリアのノルマン人騎士ロベール・ギスカールに救出されましたが、配流地のサレルノで翌年没します。

歴史の流れを見れば、最終的な勝利者はカノッサで屈服したハインリヒ4世の方であるように思えますが、ハインリヒ4世も、一時ドイツで権威を回復しますが、教皇ウルバヌス2世(十字軍を提唱した教皇)からも破門され(1094年)、諸侯と結んだ子供の反乱に苦しめられ、失意のうちに世を去っています(1106年)。

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皇帝(カエサル)のものは皇帝(カエサル)へ、神のものは神に

 ハインリヒ4世の子、ハインリヒ5世(在位1099年~1125年)の時、教皇カリクトゥス2世との間で「ヴォルムス(ウォルムス)の協約」が結ばれ、聖職叙任権闘争は一応終結しました。
ヴォルムスの協約の内容は、「司教選挙において俗権と聖権を分離し、皇帝側には選挙への出席と選ばれた者への俗権の授与を認め、教会側には選挙の自由と司教職への叙任権を認める」のですが、まさに妥協の産物で、とても分かりに内容です。
平滑に説明すれば、皇帝は司教を任命する権利(叙任権)を放棄するが、司教領を皇帝の知行とし、これを司教に授封する権利を確保したと云うことで、「皇帝(カエサル)のものは皇帝(カエサル)へ、神のものは神に」の精神に帰ったことに成ります。

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第1回十字軍のエルサレム攻撃

 その後、教皇権はウルバヌス2世が提唱した十字軍の初期の成功により、ますます隆盛に向かい、13世紀の初頭のインノケンティウス3世(在位1198年~1216年)の時、教皇権は絶頂期に達しました。

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インノケンティウス3世

 インノケンティウス3世(1160年頃~1216年、在位1198年~1216年)はイタリアのアナーニ出身で、ボローニャ大学、パリ大学で学んだ後、若くして枢機卿(ローマ・カトリック教会の高級聖職、教皇の最高顧問として教皇庁内で要職を占めた)となり、わずか37歳で教皇に選出されました。
彼は、教会内部の改革を断行し、教皇至上権を唱え、ラテラノ公会議(1215年)では「教皇は太陽、皇帝は月である。月が太陽に従うように、皇帝が教皇に従うのは当然である」と云う有名な演説を行っています。

 この間、ドイツの帝位争いに介入し、自分の後見下にあったフリードリヒ2世を帝位に就け、フランス王フィリップ2世には離婚問題を縦にインターディクト(ローマ・カトリック教会における罰則の一つ、祭式や洗礼等秘蹟の授受を停止する、破門とは異なり、教会の一員である資格は失わない)を下し、アルビジョワ十字軍(後出)を強要し続け、又カンタベリー大司教の叙任権をめぐってイギリス国王ジョンと争い、ジョンを破門して(1209年)、封建的臣下としました。
更に第4回十字軍(1202年~1204錬)を提唱しますが、これは「本来の意味とは大きく異なる十字軍」に成ります。

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インノケンティウス3世と謁見するフランチェスコ一行

 インノケンティウス3世が行った政策の中で最大の成功は、托鉢修道会(乞食僧団)を修道会として認可したことであるいわれています。
イタリア人のフランチェスコ(1181年頃~1226年)が始めたフランチェスコ修道会、スペイン人のドミニコ(ドミニクス、1170年頃~1221年)が創始したドミニコ修道会です。

 フランチェスコは、富裕な織物商人の子供としてアッシジに生まれ、若い頃は放蕩の生活を送っていましたが、あることで投獄され、重病を患ったことから回心し、以後一切の財産、所有物と家族を捨て、清貧の共同生活に入りました(1206年)。
あばら家に住み、乞食やハンセン氏病の患者の世話をしていましたが、3年後に粗末な農夫の服を着て、縄の帯を締め、はだしの姿で、12人の仲間とローマに出て教皇インノケンティウス3世に面会を求め、修道会設立を願い出ました(1209年)。
教皇の認可を得て「小さな兄弟たち」と云う団体をつくり、労働と清貧の修道生活を始めます。
彼等は労働の報酬として食べ物を求めただけで、食べ物がないときは喜捨を乞うて歩きました。
所有しているものは首からかける袋とお椀1つだけで、その他の物は一切持たなかったのです。
このため彼の創設した修道会は托鉢修道会とか乞食僧団と呼ばれました。
彼等はフランス、スペイン、遠くはエジプトまで、民衆の中に入り込んで説教、布教活動をして回ったのでし。

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ドミニコ

 同じ頃、スペインのカスティリア地方に生まれたドミニコも、司祭となってローマに出て、教皇の命令を受けてアルビジョワ派(当時南フランスで盛んとなった異端の一派)の説得に努めました。
その後、フランスのトゥールーズ付近にドミニコ修道会を創設し(1215年)、翌年教皇から認可を受け、施し物によって衣食を得るという托鉢修道会に改め(1220年)、 フランチェスコ派と並んで、民衆の信仰に新しい風を吹き込み、学問研究の面でも優れた業績を残し、カトリック精神の支柱となります。

 こうして教皇権は、11末から隆盛を続け、13世紀初頭インノケンティウス3世の時代に絶頂期を迎え、以後やや衰えながらも、14世紀初頭まで教皇権の強い時代が続くことに成ります。

ジョークは如何?

日中戦争の泥沼化で、国家総動員法公布(1938.4.1)や配給制度開始などに始まる一連の統制経済政策により、日本の国民生活が圧迫されつつある中、「贅沢は敵だ」という有名なスローガンが出た。
ある人は、このスローガンにある一文字を入れて鬱憤を晴らしたという。
それは、「敵」の前に、「素」を入れ、「贅沢は素敵だ」という具合に。いつの世にもお洒落な人はいるもんですねえ。 


続く・・・

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2015/03/22

歴史を歩く93

15-2西ヨーロッパ封建社会の発展④

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リンデスファーン修道院の廃墟:Wikipediaより

4教会の権威①

 フランク王国と結びついて発展をとげてきたローマ・カトリック教会は、ノルマン人やマジャール人の侵入によって大打撃を受けました。
特に彼等の侵入を受けた地域では、多くの修道院が持つ富をねらう掠奪の格好の餌食となり、破壊されます。
しかし、その後の修道士達の布教活動によって10~11世紀にマジャール人やノルマン人もキリスト教化し、ローマ・カトリック教会は西ヨーロッパの全域にわたって精神的な権威を確立していったのです。

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封建制度と教会の階層制度

 この間、多くの領主が、来世での救済を願って土地を寄進した結果、教会や修道院は広大な所領(荘園)を所有するようになり、大司教や修道院長等は支配階級として、政治的にも大諸侯に匹敵する力を持つようになり、又封建社会の発展に伴い、ローマ・カトリック教会内にも、教皇を頂点とし大司教・司教・司祭と続く聖職者の階層制度が生まれ、修道院でも修道院長を頂点とする序列が出来ました。

 教会や修道院が広大な荘園を持ち、そこから得られる税収入や、信者からの寄進、賽銭、供物等によって経済的に豊かになるにつれて、教会の世俗化、聖職者の腐敗、堕落が大きな問題となってきます。

 当時のヨーロッパでは、いかなる建造物も、それが建てられている土地の所有者に帰属する、教会や修道院を管理する権限も、その土地の所有者に属すべきであるという考え方が存在していました。従って司教や修道院長の任命権(聖職者叙任権)や教会や修道院の財産管理権も世俗の支配者(国王や諸侯)が握っていたのです。
聖職者叙任権を世俗の支配者が握っていたことが教会や聖職者の腐敗、堕落の根本的な原因でした。

 国王が領主として大司教等を任命する場合、聖書に対する学識よりも武勇や政治的な能力が重んじられました。
こうした世俗の支配者に任命された聖職者の生活は俗人と変わりなく、多くの聖職者達は妻帯しており、更に当時の聖職者は社会的な地位が高く、その上収入が良いため、大司教、司教の地位を金で買い取ることが行われ、聖職が財産の一部として扱われ、世襲も盛んに行われていました。
こうして金で聖職の地位を手に入れた聖職者の中には聖書もろくに読めない人も存在したと伝えられています。

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クリュニー修道院

 こうした聖職売買や聖職者の妻帯等の弊害を取り除こうとする教会粛正運動の中心となった組織がクリュニー修道院です。

 クリュニー修道院は、910年にアキテーヌ公が、その所領であるフランス東部のクリュニーに建設した修道院で、あらゆる世俗権力の支配から自由であること、修道院長の選挙は自由に行われること等の権利をフランス王、教皇の特許状で獲得し、ベネディクト戒律を厳格に励行し、典礼(祈り)と読書、研究等の知的活動に励みました。

 「ベネディクトへ帰れ」を基本とし、厳格な修行に励むクリュニー修道院の名は、当時多くの教会や修道院が腐敗、堕落していた西ヨーロッパの宗教界に新風を吹き込み、その名声がヨーロッパ中に広まり、多くの人々がクリュニー修道院で学び、その中から多くの優れた人材が生み出されました。各地の国王や諸侯は資財を寄進して、クリュニーの支修道院をつくり、その会則を取り入れた結果、最盛期の12世紀初頭には約1500の分院を擁するヨーロッパ第1の修道会に発展したのです。

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シトー修道院

 このクリュニー修道院と並んで教会刷新運動の中心となったもう一つが、1098年にブルゴーニュに建設されたシトー修道院です。
シトー修道院もベネディクト戒律の厳格な実行と清貧、労働を重視し、クリュニー修道院では祈りや読書等の知的活動が重んじられ、労働に当てられる時間がほとんどなかったのに対し、シトー修道院では自等の労働で自等の生活を維持するための労働が重視されました。
彼等は荒野の開墾に従事し、開拓者の役割を果たし、経済的な面でも注目されたのです。
12世紀に全盛期を迎え、シトー派修道会は約1800の修道院を擁する一大修道会に成長しました。

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開墾にはげむ修道士

 クリュニー修道院出身で、後に教皇となったグレゴリウス7世(1020年頃~1085年、在位1073年~1085年)で、彼はイタリア、トスカナ地方の市民の家に生まれ、聖職者になり、後にクリュニー修道院に入って修行し、その影響を強く受けました。
教皇レオ9世に従って教皇庁に入り、6代20年間にわたって教皇を補佐し、教皇に選出されるとレオ9世以来の改革を徹底する、いわゆる「グレゴリウス改革」を断行しました。

 まず聖職売買と聖職者の妻帯を禁止し、違反者を容赦なく追放しました。
最初の頃、聖職売買で追放された人物は金銭の授受によって聖職者となった者でしたが、聖職売買は聖職叙任権を世俗の支配者が握っている限りなくならないと考え、金銭の授受とは関係なく俗人によって任命は全て聖職売買であるとして、聖職の叙任を世俗人から受けることを禁止し、聖職叙任権は教皇に帰属すべきであることを主張しました(1075年)。
これは世俗勢力による支配と干渉から教会を解放することが目的でした。

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ハインリヒ4世

 このグレゴリウス7世の俗人による聖職者の叙任禁止が、神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世(1050年~1106年、在位1056年~1106年)との衝突を引き起こします。

ジョークは如何?

太平洋戦争で日本が負け、ボツダム宣言を受諾した。

玉音放送を聞き、多くの日本人が涙したが会津では皆が快哉を叫んだ。

「薩長の政府が負けたぞ~~~!!」

続く・・・

2015/03/16

歴史を歩く92

15-2西ヨーロッパ封建社会の発展③

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封建社会のピラミッド構造

3封建社会の成立

 中世西ヨーロッパは、イスラム、マジャール人、ノルマン人等の圧迫によって絶えず苦しめられていました。
この様な状況の中で、西ヨーロッパに封建制度、封建社会が成立します。
人々は外民族の侵入から自分の土地を守る為に、今迄の様に遠くの王や皇帝を頼るのではなく、近くの有力者に保護を求め、主従関係を結ぶ様に成りました。
この為、有力者は多くの家臣を従えて勢力を持つ様になり、各地で自立していく中、その一方で王や皇帝は、地方の一有力者に過ぎなくなって行きました。

 封建制度と云う言葉は、狭義では封土(ほうど)の授受を中心に形成された主従関係を指す言葉として使われ、広義では、荘園制を基礎とする社会組織一般を指す言葉として、封建社会と同義に使われます。

 西ヨーロッパでは、8~9世紀頃迄に、封土の授受によって結ばれた主従関係による階層組織を持つ社会、封建制度に基づく社会、すなわち封建社会が成立しました。

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騎士叙任

 西ヨーロッパの封建制度は、ローマの恩貸地制度とゲルマン人の従士制度が結びついて成立したとされており、恩貸地制度は、土地所有者が自分の土地を守って貰う為に、有力者に土地を献じてその保護下に入り、改めてその土地を恩貸地として受け、土地の使用権を与えられる代わりに有力者に奉仕する慣習でローマ帝国末期に形成されました。

 一方、古ゲルマンの慣習である従士制度は、自由民の子弟が有力者の下で、衣食、武器等(これを封と云う)を与えられて扶養と保護を受けながら、一人前の戦士に育て上げてもらう、その代わりに一生涯その有力者に対して服従し、奉仕、忠誠を尽くす制度でした。

 これらの制度が基になり、フランク王国の下で長期間の内に、王・諸侯・騎士の間で、主君が臣下に封土を与え、臣下は主君に忠誠を誓い、軍役(従軍)等の義務を負う、封建的主従関係が幾層にも出来上がって行きました。
特に、カール・マルテルがイスラム教徒の侵入に対抗する為に騎士軍を創設する際、教会領地の一部を騎士に与えた事が、西ヨーロッパに於ける封建制度の成立に大きな影響を与えたと云われています。

 この封土の授受を媒介とする主従関係は次第に世襲化されていき、封土も世襲化されて行きました。しかし、西ヨーロッパの場合、この主従関係は個人と個人の双務的な契約関係であって、一方的な支配と従属の関係では在りませんでした。
この関係が西ヨーロッパ封建制度の大きな特色なのです。

 双務的な契約関係とは、主君と臣下の双方に契約を守る義務があると云う事で、主君といえども臣下に絶対的無条件の服従を強いる事は出来ず、臣下には主君の無理な要求には服従を拒む権利があったのでした。

 臣下の義務の中で最も重要な義務である軍役についても、12世紀のフランスの場合、遠征は年40日、近隣の諸侯との戦闘は歩いて24時間で行ける距離迄で1週間が原則でした。
又臣下は義務さえ果たせば複数の主君を持つ事が出来、2人以上の主君を持つ場合も多く、中には45人の主君を持った例も在ったと云われています。

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領主と農民

 イスラムをはじめとする外民族の侵入による混乱によって交通や商業が衰え、人々は農村で自給自足の生活を営む様に成り、西ヨーロッパは自給自足(自然経済)による農業中心の社会に移っていきます。
別の表現を借りれば、西ヨーロッパ全体が巨大な農村に成ったのでした。

 こうした中で、諸侯、騎士は封土として与えられた土地を所領として支配する領主として、そこに住む農民を支配する様に成りました。
彼等が領主として支配した土地は荘園と呼ばれ、中世ヨーロッパでは教会や修道院も寄進や開墾によって多くの荘園を持つ様に成り、大司教や修道院長らの聖職者も、諸侯や騎士と共に領主として荘園の農民を支配したのでした。

 一般的な荘園の場合、領主の館(大諸侯の場合は城)、教会、農民の住居等が中心に位置し、その周辺に領主の直営地、農民の保有地からなる耕地と農民が共同で使用できる牧草地や森林が広がり、水車小屋やパン焼き小屋等の施設も設けられていました。

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農民の生活

 荘園内の農民の大多数は、農奴と呼ばれる不自由な隷農でした。
農奴は移転の自由が無く、生涯その土地に拘束され、職業選択の自由も存在せず、更には領主裁判権に服さねば成らない等様々な身分的な束縛を受けました。
しかし、奴隷とは違って、家族を持つ事が可能で、住居や農具等の所有は認められていました。

 この様な農奴になった人物は、ローマ末期のコロヌスや解放奴隷、そして民族大移動の混乱の中で土地を失った農民、有力者に隷属する様になった、没落ゲルマン自由民等でした。

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農民兵

 農奴は、身分上の束縛を受けると共に、領主に対して様々な経済的な義務(税の負担)を負っており、その内特に重要なものが賦役と貢納でした。

 荘園の耕地は領主が直接経営する直営地と、農奴に貸し与えた農民保有地からなっていました。
その領主の直営地で週の内2~3日間労働する行為が賦役です。
しかし、その全収穫物は領主の物と成る為、農奴は無報酬で働く事によって税を負担しているのと同じ行為になる為、賦役は労働地代とも呼ばれます。
農奴はこの賦役を嫌悪しますが、この賦役と引き替えに領主から保有地を支給されました。
農奴は保有地を耕作し、その収穫物の一部や鶏卵、チーズ等現物を納めます。
此れが貢納で、生産物地代とも呼ばれます。

 更に十分の一税が存在しました。
これは農奴が荘園内にある教会に納めた貢納で、その名の通り、あらゆる収穫の十分の一を納めました。
この他、結婚税、死亡税を納めます。
死亡税によって保有地の世襲が認められ、水車小屋、パン焼き釜等の使用料(小麦を粉にしたり、パンに焼くには領主が経営する水車小屋、パン焼き釜を使用せねば成りませんでした)の負担等有りとあらゆる税負担を強いられました。
農奴からの搾取によって領主階級の生活が成立していたものが荘園制であり、その上に成り立っていたものが封建社会でした。

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農耕風景

 この様な中で農奴達は必死に働いたのでした。
特に保有地での労働は、領主に納めた後の残りは自分の物に成る為、賦役に比べて労働意欲が高く、直営地に対して保有地側の生産性が高かったのは当然の成り行きでした。
更に生産性の向上に様々な工夫が為され、その中で特に有名ものが三圃制です。
これは耕地を三分し、春耕地、秋耕地、休閑地とし、3年で一巡する農法で、休閑地を設けて、そこでは家畜等を飼い、休ませる事と家畜の糞等で地力の回復を図ったのでした。
この三圃制は、二圃制(1年おきに休閑する)に代わって、10~11世紀頃から始まり、地力の低い地域では19世紀初頭迄続きました。
又、牛馬に犂(すき)を引かせる為に、各耕地は細長い地条に分けられていました。

 本来、封土であった荘園には、国王の官吏が立ち入り、裁判や課税等の行為を行いましたが、封建制(荘園制)の発展と共に、その権限が荘園領主の手に渡り、国王の官吏は荘園に立ち入る事自体出来なくなり、徴税も不可能に成りました。
之は、荘園領主が不輸不入権を手中に収め、その結果益々封建社会の分権化が進み、11~13世紀の封建制度の最盛期には、一般に権力が分散して分権化し、王権は極めて弱かった時代でもあったのです。

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岐路に立つ騎士

 封建社会の支配階級である王・諸侯・騎士の間には、キリスト教の発展と共に、騎士道と呼ばれる新しい道徳が生まれてきました。
日本の武士道に相当しますが、戦士としての騎士の性格から、武勇と忠誠を中心にキリスト教的な神への奉仕、弱者への保護、特に婦人への献身的な奉仕が強調されました。

ジョークは如何?

米国軍がイタリア本土に進行、イタリア軍と対峙していた
しかし敗戦濃厚のイタリア軍に戦意は無く
アメリカ軍もその気配を感じ、攻撃を控えていたという
ドイツ軍の観測機が通りかかったときは
ドイツ軍に来られたらたまらないと
ちゃんと戦っている風を装って
アメリカ軍へ発砲していた
アメリカ軍もやる気無く反撃
その戦いを観測機はこう見ていた
「すごい!イタリア軍が米軍の攻勢を食い止めている」

その後にドイツ軍が救援に現れ、激戦になってしまったという。

続く・・・

2015/03/10

歴史を歩く91

15-2西ヨーロッパ封建社会の発展②

2ヴァイキングの活動

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ヴァイキングの活動

 ノルマン人はゲルマン民族の一派(北ゲルマン)で、スカンディナヴィア半島、ユトランド半島を原住地とし、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーの3つの部族に分かれていました。
彼等は狩猟や漁労を営んでいましたが、又造船と航海に優れた技術を持っていたのです。

 ノルマン人が遠征に用いた舟は長さ約20m、40~60人程度の人を乗せ、高い舳先(へさき)を持ち、甲板はなく、櫂と帆で走り、時速は約10ノット、吃水は約1mで河川の遡行に適していました。

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ヴァイキング船

 ノルマン人は8世紀頃から活動を開始し(人口増加と耕地不足が原因と考えられています)、ヨーロッパ各地に侵入、移動しました。
初めは商業活動を行っていたのですが、しばしば掠奪や海賊行為を働き、「ヴァイキング」(入り江の民の意味、後には海賊を意味するようになった)と呼ばれて怖れられました。
彼等は、海岸を荒らし、河川を遡って町や村、修道院等を襲撃、掠奪し、掠奪を免れようとする領主等からは賠償金を徴収し、彼等の襲撃を受けた人々は町や村を捨て、ひたすら奥地に逃げ込むしかなかったのです。

 ノルマン人は、初期には西ヨーロッパ各地の海岸付近を襲い掠奪を行ったが、やがて内陸部に入り込み、土地を奪って定着し、建国する様に成ります。

 ノルマン人の西フランク(フランス)への侵入は、8世紀末のカール大帝の頃には既に始まっていました。
西フランクには大西洋に注ぎ込む河川が多い為、彼等の侵入には好都合で、9世紀に入るとノルマン人の侵入は一層活発と成り、885年にはパリが包囲されたことは前に記述した通りです。

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ノルマン人ロロ

 ノルウェーのノルマン人首長であったロロ(860年頃~933年)は北フランスを蹂躙し、セーヌ川の河口地帯を占領しました(890年頃~910年)。
このロロの侵入に苦しんだシャルル3世(西フランク6代目の王、在位893年~923年)は、ロロがキリスト教に改宗することを条件に、セーヌ川下流のノルマンディーに領土を与えて定住を許し、ノルマンディー公に封じ(911年)、このノルマンディー公国は13世紀にフランスに併合される迄存続します。

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ヴァイキング貴族

 ノルマンディーに定着したノルマン人下級貴族の或る家に12人の武勇に優れた兄弟が居ました。彼等は遠く地中海に迄進出し、最初は東ローマやロンバルドの傭兵と成りますが、後に自立し、掠奪と征服に乗り出し、南イタリアに地盤を築いていったのです。
ルッジェーロ(ロジェール)1世(1031年~1101年)は、教皇からイスラム教徒が支配するシチリア島の討伐を命じられた兄のロベール・ギスカールを助けて、シチリア島に侵入、征服し(1061年~)教皇からシチリア伯の称号を授与され(1072年)、兄の死後(1085年)は南イタリアをも支配しました。

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ルッジェーロ1世

 父ルッジェーロ1世の後を継いでシチリア伯になったルッジェーロ2世(在位1130年~1154年)は、南イタリアを含むノルマン諸勢力を統合してシチリア王となり、両シチリア王国を建国します(1130年)。

 フランスと並んでノルマン人の侵入に苦しんだ地域がイングランド(イギリス)です。
ゲルマン民族大移動時、イングランドにはアングロ・サクソン族が移住し(5世紀中頃以後)、先住のブリトン人を征服し、部族毎に多くの小王国を建設しました。
これら小王国は6世紀末にケント、エセックス、サセックス、ウェセックス、イースト・アングリア、マーシア、ノーザンブリアの七王国(ヘプターキー)に統合されました。

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七王国(ヘプターキー)

 七王国は、相互の長期にわたる抗争の末、ウェセックス王のエグバート(エグベルト)(ウェセックス王、在位802年~839年、イングランド王、在位829年~839年)が七王国すべてを支配下においてイングランドを統一しました(829年)。

 イングランドが統一に向かっていた8世紀末からデーン人の侵入が始まり、9世紀に入ると、その侵入はいっそう激しさを増して行きました。
デーン人はデンマークからイギリスに侵入したノルマン人の一派を指す名称ですが、イギリスではノルマン人、ヴァイキングがデーン人と呼ばれました。
デーン人は、イングランドを次々に征服し、9世紀後半には南西部のウェセックスがわずかに独立を保っているに過ぎない状態と成りました。

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アルフレッド大王

 こうした状況の中、イングランド王に即位したのが、エグバートの孫アルフレッド大王(848年頃~899年、在位871年~899年)です。
アルフレッド大王は、デーン人との激しい戦いの中から彼らの戦術を学び、それを利用してデーン人を打ち破り、彼らの勢力をデーンロー地方(イングランドの東部)の北部に限定することに成功したのでした。
又、彼は海軍の拡張等、軍制改革、行政制度の整備等に尽くし、イングランド王国を再建し、このようにアルフレッド王はイングランドをデーン人から守ったアングロ・サクソン族の最も偉大な王としてイギリス国民から尊敬され、大王の名で呼ばれています。

 アルフレッド大王の死後、約1世紀はデーン人の侵入も比較的少なく平和な状態が続きましたが、11世紀の初め、イングランド王が反乱を口実に国内のデーン人を虐殺したことから、再びデーン人の大規模な侵入が始まります。

 デンマーク王の第2子、クヌート(カヌート)(イングランド王、在位1016年~1035年、デンマーク王、在位1018年~1035年)が父と伴にイングランドに侵入、征服し(1013年、1015年)、1016年にはイングランド王となり、デーン朝(1016年~1042年)を開きました。
彼は兄の死によりデンマーク王をも兼ね、更にノルウェーとスウェーデンの一部を征服し(1028年)、北海を取りまく大海上帝国を建設しましたが、彼の死後、大帝国はまもなく崩壊し、デーン朝は3代で滅びます。

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「ノルマン征服」(ノルマン・コンクェスト)

 その後、イングランドでは再びアングロ・サクソン王朝が復活しましたが(1042年)、1066年の「ノルマン征服」(ノルマン・コンクェスト)によって再びノルマン人に征服され、ノルマン朝(1066年~1154年)が建てられることに成ります。

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ノルマンディー公ウィリアム

 ノルマンディー公ウィリアム(1027年頃~1087年、ノルマン朝創始者、イギリス王としてはウィリアム1世(在位1066年~1087年)は、ノルマンディー公ロロ5代目の子孫で、父の後を継いでノルマンディー公と成りました(1035年)。
イングランドでエドワード懺悔王(在位1042年~1066錬、デーン朝が断絶するとノルマンディーから帰国して即位、ウェセックス家最後のイングランド王、母はノルマンディー公家出身)が亡くなり、義弟のハロルドが即位するとノルマンディー公ウィリアムは、エドワード王の従兄弟の子として王位継承を要求してイングランドに侵入しました。
彼は約750隻の船に約15000人の兵を分乗させ、ヘースティングス付近に上陸し、ヘースティングスの戦い(1066年)で大勝してハロルドを敗死させ、イングランド王に即位してウィリアム1世と称し、ノルマン朝を創始しました。
この出来事が「ノルマン征服」と呼ばれる出来事です。

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ヘースティングスの戦い

 ウィリアム1世は約5年でイギリスを統一し、フランスの封建制度を移入し、ノルマン貴族を各地に封じて統治させました。
全国的な検地を行い、ドゥームズデー・ブックと呼ばれる検地帳(土地台帳)を作成させ、全国の土地所有者を集めて王への忠誠を誓わせました(「ソールズベリーの誓約」1086年)。
又、カンタベリー大司教を任命する等、集権的封建制度でイギリスを統治しました。

 「ノルマン征服」によって、ノルマンディー公国はイギリス領となり、イギリスはヨーロッパに領土を持つことと成り、又フランス王の家臣であったノルマンディー公がイギリス王になり、主君のフランス王よりも強大な力を持つことになったことが、以後の英仏関係複雑にし、長期にわたる英仏抗争の原因と成りました。

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リューリク

 北ヨーロッパでは、スウェーデンのノルマン人であるルーシ(ルス)族の族長であったリューリク(ルーリック)(?~879年)に率いられたノルマン人一派(ルーシ族)が、スラヴ系の諸部族の要請を受けて兄弟でロシアに入り、ロシア最古の都市の1つであるノヴゴロドに入り、ノヴゴロド公国を建てました(862年)。
この公国が、ロシア最初の国家とされ、ロシア(Russia)の呼称はルス(Russ)に因むと云われています。

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公国の成立

 その後、リューリク一族のオレーグに率いられたルーシ族は更に南下し、ロシア最大の都市キエフを中心にキエフ公国を建国しました(882年)。

 ノルマン人の現住地にはデンマーク、スウェーデン、ノルウェーの3王国が成立しました。
デンマークでは、8世紀頃、デーン人がユトランド半島を中心に王国を形成しました。
11世紀前半のクヌート王の時代にはイギリス及びスウェーデン、ノルウェーの一部を統一し、北海帝国を建設しました。
ノルウェーでは、ノルマン人によって9世紀末に初めて統一国家が形成されましたが、11世紀前半にはデンマークのクヌートの支配下に置かれた。スウェーデンにも、10世紀頃ノルマン人によって統一国家が形成されました。

 ノルマン人の一部は、9世紀にアイスランドを発見して移住し、アイスランドは13世紀末にノルウェーに併合されます。
ノルマン人の一部は大西洋を越えて、10世紀末にグリーンランドに達し、又1000年頃には北米のヴィンランド(カナダの東部)にも達したと云われています。
之が事実ならコロンブスの発見よりも500年も前のことに成りますが、名前も伝わっておらず、記録も無く、最初にアメリカ大陸に到達したヨーロッパ人はコロンブスと歴史上は認められています。

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ヴァイキングのイメージ:小さなバイキング、ビッケ

ジョークは如何?

「ヒトラー、ゲーリング、ゲッベルス、ヒムラーの四人が、1機の飛行機に乗って出発した。事故が起きて、飛行機は墜落した。さて誰が助かったんでしょう?」
→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→「ドイツ国民」


続く・・・


2015/03/08

歴史を歩く90

15-2西ヨーロッパ封建社会の発展①

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フランク王国の分裂

1フランク王国の分裂

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ルートヴィヒ1世

 カール大帝には約20人の子供を授かりましたが、男子で彼の死後迄生きたのは第3子のルートヴィヒ1世(ルイ1世、敬虔王、在位814年~840年)だけだったので、彼がカール大帝の後継者と成りました。
彼は敬虔王の別名の通り、信仰心が厚く各地に教会や修道院を寄進したのですが、政治力、決断力に欠けていたと云われています。

 ルートヴィヒ1世は、817年に王国をロタール、ピピン、ルートヴィヒの3人の子供に分配しましたが、829年に再婚して生まれた末子のシャルルに再分配を考えた結果ロタール等の反乱を招き、ルートヴィヒを攻撃中に死去しています。

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ロタール1世

 父の死後、長子ロタール1世が全土の支配を図ったのに対し、次子ルートヴィヒ2世と末子シャルル2世(ピピンは早死)が結んでロタール1世を破り、843年にヴェルダン条約を強制して、王国を3分割しました。
長子ロタール1世(在位840年~855年)は中部フランク(中フランク、東・西フランクの中間地帯とイタリア)を獲得し、次子ルートヴィヒ2世(在位843年~876年)は東フランク(ドイツ、ライン川以東の地)を、そして末子シャルル2世(在位843年~877年)は西フランク(フランス)を獲得しました。

 ロタール1世は、西ローマ皇帝の地位と中部フランクを得たのですが、3人の中で一番早く亡くなり、後を継いだロタール2世も没すると(869年)、ルートヴィヒ2世とシャルル2世は再び結んで、870年のメルセン条約で、兄の領土であったイタリアを除く中部フランクをほぼ均等に分割して、それぞれ東・西フランクに併合しました。

 メルセン条約による国境が、その後長い変遷を経て、今日のドイツ、フランス、イタリアの国境になって行く事から、その意味で、このメルセン条約によって後のドイツ、フランス、イタリアの基礎がつくられたと言えます。

 このフランク王国が分裂していった時期は、ヨーロッパが外部からの侵入に脅かされ、苦しめられた時期でもあります。
北からはノルマン人、東からはマジャール人、南からはイスラム教徒がヨーロッパ世界を脅かし、この外部からの侵入は以後のヨーロッパの歴史に大きな影響を及ぼしていきました。

 イタリアでは、ルイ2世(ロタール1世の子)の死によってカロリング家が断絶した(875年)結果、その後イタリアでは諸侯や都市が分立し、北イタリアは東フランク(962年以後は神聖ローマ帝国)やビザンツの介入を受け、南イタリアはイスラムやノルマン人の侵入を受けていきます。
この為、イタリアは分裂状態に陥り、中世の「イタリア」は地理的名称として、留まるだけに成っていました。

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ルートヴィヒ4世

 東フランクでは、ルートヴィヒ4世(東フランク第4代の王)が若くし死去し、911年にカロリング朝が断絶すると、カロリング家と血縁関係にあったフランケン公コンラート1世が有力諸侯達によって国王に選出されました。
しかし、コンラート1世はマジャール人(ハンガリー人)の侵入と国内各部族の分立に苦しめられ、王として力は弱く、こうした状況の中で、人々は血統よりも実力のある人物が王となり、王国が再建されることを願う様に成りました。
そこでコンラート1世は、後継者に有力諸侯の1人であったザクセン公ハインリヒ1世(在位919年~936年)を指名します。

 ハインリヒ1世は辺境の防備に力を注ぎ、ノルマン人やマジャール人、スラブ人の侵入を撃退して、国内の結束を固め「ドイツ王国」の名称を用いたため、ハインリヒの即位をもって国家としての「ドイツ」が成立したと見なしています。
彼は国内各部族の分立を抑えることは叶いませんでしたが国民の信頼を得ていたので、彼の死後、子のオットー1世が諸侯の選挙によって東フランク王に選ばれました。

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オットー1世

 オットー1世(912年~973年、東フランク王(在位936年~973年)、神聖ローマ帝国初代皇帝(在位936年~973年))は即位すると、国家統一に力を注ぎ、外敵のマジャール人を討ち、国内では敵対する諸侯を抑えて中央集権体制の確立に努めました。

 マジャール人は、アジア系遊牧民で、現在のハンガリー人の祖先です。
ウラル語族に属し、原住地はウラル山脈の西南部の辺りと考えられており、5世紀頃から西南方に移動を開始し、カフカース地方(黒海とカスピ海に挟まれた地方)に数世紀間定住していましたが、9世紀初頭隣接民族の移動に刺激され、再び西方に移動しハンガリー平原に入り、以後ここを拠点としてドイツ、イタリア、ギリシアに連年にわたって侵入しました。
彼等は騎馬戦術に優れ、その凶暴さと残忍さで周辺の人々に恐れられたのです。

レッヒフェルトの戦い
レヒフェルトの戦い

 オットー1世は、933年と特に955年のレヒフェルトの戦いでマジャール人を撃破し、その西方進出を阻止すると共に、オストマルク辺境領(後のオーストリア)を置いてその後の侵入に備えました。

 国内では大諸侯を抑えるために一族の者を諸侯として各地に配置しましたが、一族の者が各地の部族勢力と結んだため目的を果たすことができず、その為「帝国教会政策」を採用して中央集権体制の確立を図ろうとします。
帝国教会政策は、教会や修道院領を王領とし、司教や修道院長の任命権を握り、聖職者を国王の官僚とし、彼等を王権の支柱とする政策です。

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オットー1世と会見するヨハネス12世(14世紀の描画)

 オットー1世は、帝国教会政策を進めるために、3回にわたってイタリア遠征を行い(951年~952年、961年~964年、966年~972年)、この2回目の遠征の時、教皇ヨハネス12世から「ローマ皇帝」の帝冠を授けられます(962年)。
ヨハネス12世(教皇在位955年~964年)は、トスカナ公家出身で、教皇領の拡大を図り、イヴレア侯と争い、オットー1世に助けを求め、彼が軍を率いてイタリアに入るとローマ皇帝の冠を授けたのでした。

 この桂冠が「神聖ローマ帝国」(962年~1806年)の起源と成りました。
当初は単に「ローマ帝国」と呼ばれていましたが、13世紀中頃以後「神聖ローマ帝国」と呼ばれるように成ります。

 ここにドイツからイタリア中部にまたがる大帝国が出現したのですが、その後のドイツ王は代々「ローマ皇帝」の称号を受けたことから、歴代の神聖ローマ皇帝(ドイツ王)は本国の統治よりもイタリア支配に熱中した為、ドイツ国内は分裂状態に陥って行きます。
この歴代神聖ローマ皇帝のイタリア支配政策は「イタリア政策」と呼ばれています。

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パリ伯ウード

 西フランクは、8世紀末以来の度重なるノルマン人の侵入に苦しめられていました。
特に885年から86年に、約700隻の船に分乗した約3万人にも及ぶノルマン人の大軍がセーヌ川を遡りパリを包囲しました。
この時、無能なカロリング家の西フランク王に代わってパリを死守し、名声をあげた人物がパリ伯ウードでした。

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ユーグ・カペー

 ウードの甥、パリ伯ユーグの長子として生まれた人物がユーグ・カペー(938年頃~996年、在位987年~996年)で、ルイ5世の死によってカロリング家が断絶すると、カロリング家の女性を妻としていたユーグ・カペーは、国王選挙で対立候補であったロレーヌ公シャルル(ルイ5世の叔父)を破って王位に就き(987年)、カペー朝(987年~1328年)を開きました。

 しかし、カペー家の王領はパリとオルレアンを含む狭い地域に限られ、また各地に分散していたため、その王権は大変弱いものでした。

ジョークは如何?

アメリカでは肥満だと管理職にはなれない。

が、マックを訴えることはできる。


続く・・・

2015/03/03

歴史を歩く89

15西ヨーロッパ世界の成立⑤

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モンスニー峠を越えるカール大帝

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 小ピピンの子が、中世西ヨーロッパの歴史を代表する人物、カール大帝(カール1世、シャルルマーニュ、742年~814年、在位768年~814年)です。
彼は、父ピピンの後を弟と共に継承しましが、弟の死で単独の王と成りました(771年)。
3年後に教皇の要請でイタリアに出兵し、今迄教皇を圧迫してきたロンバルド王国を滅ぼします(774年)。

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シャルルマーニュ・カール大帝

 ゲルマン民族の一派で、北ドイツのエルベ川流域に居住していたサクソン(ザクセン)族の一部はアングル人と共にブリタニアに渡たりますが、残りは北ドイツに居住していました。
カール大帝は、サクソン族との5回以上30年に及ぶ戦いの末、ザクセン(サクソニア)地方を征服し、サクソン族のキリスト教化に成功しました。

 この間、中央ヨーロッパに侵入してきたアジア系のアヴァール人と戦い(791年~799年)、これを撃退、ドナウ川の中流域に迄領土を拡大しました。
アヴァール人は、モンゴル系とも云われ、かつては突厥に服属していましたが、その一部が西に移動し、6世紀以後、中央ヨーロッパに侵入、パンノニア(ハンガリー)を中心に勢力を拡大しますが、東ローマ軍に大敗し(601年)分裂した後、更にカール大帝にも敗れ(791年)、その首長はフランクに服属しますが、時代が過ぎるに連れてアヴァール人はスラヴ人やマジャール人に同化して行きました。

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サクソン族の移動

 南部では、イスラム教徒と戦い(778年~801年)、スペイン辺境領を設置し、スペイン東北部に迄領土を拡大しました。
このイスラムとの戦いの帰途、ピレネー山中ロンスヴォーで騎士ローランがバスク人の戦いに敗北し、この出来事が11世紀末に完成する「ローランの歌」の題材となりました。
「ローランの歌」は、カール大帝の甥のローランの活躍を歌った、中世ヨーロッパの代表的な騎士道物語の一つであるが、カール大帝は200才を越える老騎士として登場します。

ローランの歌
騎士ローランの死

 こうして、西はスペインのエブロ川、東はドイツのエルベ川、南はイタリア中部にまたがる西ヨーロッパの主要部を統一する大フランク王国を建設したカール大帝は、この大国の統治に当たって、中央集権化を推進し、全国を多くの州に分け、、各州に伯を置いて統治させました。
伯にはそれぞれの地方の有力者を任命し、巡察使を派遣して伯を監督させ、カール大帝は更に、学問や文芸の復興をはかり、イギリスの神学者のアルクィン等を招いて、教育や文化を保護、奨励し、所謂カロリング・ルネサンスを現出しました。

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「カールの戴冠」

 800年のクリスマスの日、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で、ローマ教皇レオ3世は、カール大帝にローマ皇帝の帝冠を与え、この「カールの戴冠」は西ヨーロッパ中世世界の成立を象徴する出来事でした。

 カール大帝の父ピピン以来、教皇とフランクの結びつきは強くなっていましたが、教皇レオ3世は、カール大帝が西ローマ帝国の旧領をほぼ統一したのを見て、カール大帝をローマ皇帝の帝冠を与える事によって、その結びつきをますます強固なものとし、東ローマ皇帝と対等の権威をつくり出そうと考えます。

しかし、カール大帝は、教皇が皇帝を任命すり前例がなく、皇帝を任命出来るのは東ローマ皇帝だけであると考え、東ローマ皇帝と交渉し、ようやく812年にヴェネチアその他を東ローマ皇帝に譲ることを条件に自分の地位を東ローマ皇帝に認めさせたのです。

 「カールの戴冠」は、政治的、宗教的、文化的意義を持つ重要な出来事でした。

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8世紀の世界

 政治的意義は、ゲルマン民族の大移動以来混乱していた西ヨーロッパ世界がビザンツ(東ローマ)帝国に対抗できる一つの政治的勢力としてまとまり、東ローマ帝国から独立し、西ヨーロッパ世界が成立したことです。
その意味から、ゲルマン(フランク)人であるカール大帝に与えられたのは、西ローマ皇帝の帝冠であり、これによって「西ローマ帝国」が復活したと見倣されます。

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アンリ・ビエンヌ

 今迄見てきた様に、西ヨーロッパ中世世界の成立にイスラム教徒は大きな影響を及ぼしました。
そのことを、ベルギーの歴史家ピレンヌ(1862年~1935年)はその著「マホメットとシャルルマーニュ」の中で「マホメット(ムハンマド)なくしてカール大帝(シャルルマーニュ)なし」と云う有名な言葉を述べています。

 宗教的意義は、フランク王国を後ろ盾としてローマ・カトリック教会がビザンツ帝国(東ローマ)皇帝から独立した地位を得たことでした。
726年の「聖像禁止令」発布以後、対立を深めていたローマ教皇を首長とするローマ・カトリック教会(西方教会)とビザンツ皇帝を首長とするギリシア正教会(東方教会)は、1054年に相互に破門(教会共同体から除外すること)し合い、完全に分離します。
以後、ローマ・カトリック教会は西ヨーロッパ世界で、ギリシア正教会は東ヨーロッパ世界で勢力を持つことに成りますが、この東西両教会が和解するのは、実に1965年12月のことでした。
この年、ローマ・カトリック教会とギリシア正教会は相互に破門を取り消し、和解を達成したのです。

 文化的意義としては、ギリシア・ローマの古典文化の要素とキリスト教的要素に、新たにゲルマン的要素が加わり、ヨーロッパ文化圏が成立したことがあげられます。
当に 、「カールの戴冠」は西ヨーロッパ中世世界の成立を象徴する重要な出来事でした。

ジョークは如何?

行列で思い出すのが、モスクワでの経験やな。十二年くらい前の話
だけれども、ある日わたしはボロージアという通訳の学生と、モスクワ
の街を歩いてたのよ。例によってあちこちに行列ができてるわけ。
それでわたしが皮肉のつもりで、彼にいったんだ。
「いま、モスクワで一番よく使うロシア語を教えてよ」
「どういう意味ですか?」と訊くから、
「つまり『これは何の行列ですか?』っていうロシア語だよ」っていったの。
そしたらボロージアがにっこり笑って、
「それよりもっといい言葉がありますよ。『クトー・パスレードニ』っていうんです」
だって。「どういう意味?」って訊いたら、
「『最後は誰ですか?』」


続く・・・


2015/03/02

歴史を歩く88

15西ヨーロッパ世界の成立④

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ローマ・カトリック教会5本山

3ローマ・カトリック教会の成立

 フランク王国の発展と共に勢力を伸ばしたのがカトリック教会です。
教会は、元来はキリスト教徒の団体を指す言葉でしたが、後には建物をも意味する様に成りました。教会は3世紀頃迄に、ローマ帝国内の各地に成立し、そして増大して行きました。
その中から、ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、イェルサレム、アレクサンドリアの五本山、総大司教座が置かれた5つの教会が重要と成りました。

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『聖ペテロへの天国の鍵の授与』

 この内、ローマ教会は、第1の使徒であるペテロの殉教の地に建てられた教会であり、ペテロがイエスから信者の救霊を託されたとして早くから首位権(五本山中の首位教会たる権利)を主張していました。
ローマ帝国が東西に分裂する(395年)と、ローマ教会は唯一の西方教会となり、7世紀以後アンティオキア、イェルサレム、アレクサンドリアの各教会がイスラム教徒の支配下に入いった結果、ローマ教会とコンスタンティノープル教会が首位権をめぐって争います。

 ローマ教会は、西ローマ帝国の滅亡(476年)後、西ヨーロッパに於いて精神的権威を持つことになりますが、教皇(ローマ教皇、ローマ・カトリック教会最高首長、初代ペテロを継ぐ者とされる、ラテン語ではPapa、英語ではPope)の地位に就くには東ローマ皇帝の承認が必要であり、東ローマ皇帝が存在する限り、キリスト教保護者は東ローマ皇帝でした。
しかも、西ローマ帝国滅亡後は、アリウス派を信仰するゲルマン諸族に周囲を包囲され、ローマ教会が頼れる存在は東ローマだけでした。
この様な状況の中で、コンスタンティノープル教会はローマ教会の首位権を認めず、東ローマ皇帝を後ろ盾としてローマ教会に対して優位に立っていたのです。

 修道院は、修道士、修道女が共同生活しながら修行する場です。
4世紀頃のエジプトに登場し、シリアに伝播、更にヨーロッパに伝えられました。
この修道院を改善し、西ヨーロッパ独自の修道院制度を創始した人物がベネディクトゥス(480年頃~543年頃)です。

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 聖ベネディクトゥス

 ベネディクトゥスは、イタリア貴族の家に生まれ、ローマで哲学、法学を学びましたが、退廃したローマの生活に失望し、17才頃サビニ山中の洞窟で修行します。
その後、祈りの他に労働や学問を日課とし、強い信仰心と高い教養をもつ聖職者の養成を目指して、ローマ南方のモンテ・カッシノに修道院を建てました(529年)。

 ベネディクト派修道院は、貞潔、清貧、服従を旨とし、「祈り、働け」をモットーとする聖ベネディクトゥス会則(戒律)を作り、これを厳格に守らせ、修道士達は午前2時に起床し、午後8時に就寝するまでに、毎日4~5時間の祈りと6~7時間の労働を行い、2時間の読書、写本に励みました(シトー派修道会、6月の例)。
修道院生活は自給自足の為、生活に必要な物資は全て修道士の労働によって作り出されます。
そのため修道院は、民衆教化という宗教的な面や開墾等の経済的な面だけでなく、学問研究等の文化的な面でも大きな功績を残したのでした。

 聖ベネディクトゥス会則は、その後急速に西ヨーロッパ各地に広まり、ベネディクト派修道院は多くの優れた聖職者を生み出しました。
彼等はゲルマン諸族の王をアタナシウス派に改宗させ、辺境や異教の地での布教に活躍します。
「大教皇」と呼ばれたグレゴリウス1世もベネディクト修道院で修行した1人でした。

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 聖グレゴリウス1世

 グレゴリウス1世(540年頃~604年、在位590年~604年)は、ローマ貴族の家に生まれ、ローマの総督にも就任しますが、後にベネディクト修道院に入り、修道院長から教皇に選出されました。
彼は、ローマ教会をロンバルド王国の圧迫から守り、コンスタンティノープル教会に対してはローマ教会の首位権を主張して譲らず、教皇権の確立に務め、又ゲルマン人の改宗に努力し、特にアングロ・サクソン族の改宗に力を尽くしています。

 これより少し前、ユスティニアヌス帝(在位527年~565年)統治下のビザンツ(東ローマ)帝国は、東ゴート王国を滅ぼし(555年)、一時イタリアを回復しますが、その後イタリアに南下してきたロンバルド族によって再度イタリアを失います(568年)。
以後、ローマ教会もゲルマン諸族の中で最も野蛮で在ると伝えられ、アリウス派を信仰するロンバルド族の圧迫を受けることに成りました。
この様な状況の中で、グレゴリウス1世は東ローマ勢力がイタリアから後退したのを見て、従来の東ローマを後ろ盾する方針を改め、ローマ教会は以後ゲルマン国家との繋がりを強めるべきだと考える様に変化して行きます。

 その上、7世紀前半にイスラム教徒は東ローマ帝国からシリア、エジプトを奪い、コンスタンティノープルに迫り、更に北アフリカからイベリア半島を征服し、地中海は「イスラムの湖」と化したのでした。
ローマ教会はもはや東ローマ帝国の保護、援助を期待することは叶わなく成っていたのです。

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コンスタンティノープル包囲

 イスラム教徒によるコンスタンティノープル包囲(717年~718年)に耐え、これを撃退したビザンツ(東ローマ)皇帝のレオン3世(レオ3世、在位717年~741年)は、726年に「聖像禁止令」を発布しました。

 当時、キリスト教徒の間では、イエス、マリア、殉教者の聖像(偶像)や聖遺物を崇拝する風潮が盛んとなっており、偶像を否定するユダヤ教を母胎とするキリスト教は元来聖像(偶像)崇拝を厳禁する宗教でした。
更に偶像崇拝を禁止するイスラム教の影響を受けて、レオン3世は一切の聖像の制作、所持、礼拝を禁止し、破壊を命じます。
この勅令が「聖像禁止令」です。

レオン3世
レオン3世

 しかし、この「聖像禁止令」は、聖像をゲルマン布教の手段に利用していたローマ教会の反発を招き、ローマ教会との対立を引き起こし、強いては東西教会分裂の契機と成りました。
この対立にあたり、東ローマ皇帝は強硬な態度を取り、今迄対立していたロンバルド族と結び、ロンバルド王にローマ教会に対する圧迫をますます強めさせます。

 ローマ教会が、「聖像禁止令」をめぐって東ローマと対立し、ロンバルドの圧迫に耐えている時に発生した事件が、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでした。
イスラム軍を撃退したフランクの軍事力に着目したローマ教皇は、従来の政策を転換して、東ローマと絶縁、フランクと結ぶことを決意し(739年)、カール・マルテルに接近を図りますが、この策略は失敗に終わったことは前述の通りです。

 カール・マルテルの後を継いだ小ピピン(在位751年~768年)は、751年にメロヴィング朝の皇帝を廃し、教皇の支持を得て王位につき、カロリング朝(751年~987年)の開祖と成りました。

 この時、フランクに保護を求めようとしていた教皇は、「王の力のない者が王たるよりは、力のある者が王たるべきである」と述べ、小ピピンの王位継承を認め、次の教皇はロンバルドの圧迫からローマ教会を守ってくれるよう小ピピンに望みを託します。

 これを受けて、小ピピンは754~755年にイタリアに出兵し、教皇の為にロンバルド族を討伐し、ロンバルドから奪い取ったラヴェンナ地方を教皇に寄進します。
この「ピピンの寄進」によって教皇とフランクの結束は大変強く成りました。

ジョークは如何?

第二次世界大戦、ピンチのときは

新兵器で逆転を狙う ドイツ軍
精神力と自爆攻撃 日本軍
パニックになってしまう フランス軍
督戦隊と囚人部隊の ソビエト軍
すばやく降伏 イタリア軍
物量つぎ込む アメリカ軍
アメリカ軍がやってくるのを待つ イギリス軍
占領された祖国のことを考え頑張る ポーランド軍


続く・・・