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2015/04/25

歴史を歩く102

15-4十字軍と都市の発達⑤

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領主と農民

3中世都市の成立

 西ヨーロッパでは、イスラム教徒・マジャール人・ヴァイキングの侵入が相次いだ8世紀以後、荘園制を基礎とする封建制度に基づく社会、すなわち封建社会が成立しました。

 相次ぐ外民族の侵入による混乱の中で、人口は減少し、商業、交通は衰え、其れに伴い都市や貨幣経済も衰退し、人々は荘園内で自給自足の生活を営むように成っていました。

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重量有輪犁による開墾作業

 しかし、11世紀以後封建社会が安定して人口も増大する中で、所謂大開墾時代(11~13世紀頃)が始まり、森林や荒地の開墾、沼沢地の干拓等によって耕地が拡大し、又三圃制や有輪犁を馬や牛に引かせて深く耕す農法が普及し、農業生産力が高まっていったのです。

 荘園内で生産力が増大すると、余剰生産物が生じ、その余剰生産物を交換する市が始まりました。市は当初小規模で不定期にしか開かれませんでしたが、次第に定期市へと発展して行きました。
市では初期では物々交換が主流でしたが、次第に貨幣による交換が盛んとなり、自給自足の自然経済から貨幣経済に移行して行きました。

 このような変化はイスラム教徒、ヴァイキングの商業活動、大量の人と物が動いた十字軍によって促進され、貨幣経済、商業の発達は商人や手工業者という新しい階級を生み出しました。
そして商人や手工業者の居住地域としての都市が成立、発展したのです。

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中世ヨーロッパの商業圏

 西ヨーロッパでは、11~12世紀に変革期を迎え、都市や市民の発展は「商業ルネサンス(商業の復活)」と呼ばれています。

 中世都市の多くは定期市から発展しましたが、その成立の由来からローマ都市、司教都市、城砦都市、建設都市等に分類されます。
ローマ都市は古代ローマ都市の跡に建てられた都市、司教都市は司教座がおかれた街の教会を中心に発達した都市、城砦都市は封建領主の城を中心に発達した都市、そして建設都市は港、河口、市場など交通の便のよい処に建設された都市です。

 商業はごく初期に於いては小規模で、取引の範囲も都市と周辺の農村との近距離商業でしたが、十字軍等の影響で交通が発達すると東方貿易や北海貿易に代表される遠隔地商業が盛んに成りました。遠隔地商業の発達に伴ってヨーロッパには地中海商業圏と北欧商業圏の二大商業圏が成立しました。

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ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサの位置関係

 北イタリアのヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサ等の海港都市は早くから地中海で活躍していましたが、十字軍時代以後はイスラム商人との東方貿易によって繁栄しました。
東方貿易で手に入れた胡椒等の香辛料、絹、宝石等アジアの特産物をアルプス以北に運んで銀と交換し、その銀でイスラム商人から香辛料等を購入しました。

 特にヴェネツィアは、第4回十字軍以後東地中海に商権を拡大し、東方貿易によって莫大な富を手にして繁栄しました。
ジェノヴァも十字軍を利用して東地中海に商権を拡大し、ヴェネツィアと海上の覇権をめぐって激しく争ったのです。

 内陸のフィレンツェは、13世紀以後毛織物生産と貿易、金融業によって大いに繁栄しました。
フィレンツェの大富豪メディチ家は商業、金融で巨富を得て15世紀前半には市政を握り、一族からは二人のローマ教皇を輩出しました。
又文芸の保護に努めた結果、フィレンツェはイタリア・ルネサンスの一大中心地となったのです。

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中世期のミラノ

 北イタリアの内陸都市ミラノも毛織物、商業で繁栄しました。

 北イタリアと同じ頃、北ドイツ・フランドル地方でも都市が発達し、この地域では北海、バルト海を中心に北欧商業圏が成立し、北海貿易が盛んとなり、穀物、海産物、毛織物、木材等の生活必需品がヨーロッパ内で取り引きされました。

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リューベック

 北ドイツでは、リューベック、ハンブルク、ブレーメン等の都市が栄えました。

 リューベックは12世紀に建設されて以来、北海、バルト海貿易の中心となり、後にハンザ同盟の盟主と成ります。
エルベ川河口の港湾都市であるハンブルクも北海貿易で栄え、ハンザ同盟の中心的な都市として繁栄し、又ブレーメンもハンザ同盟の重要な都市として栄えたのです。

 ライン川河口に近いフランドル地方(ほぼ現在のベルギーにあたる地方)では、10世紀頃から毛織物生産が盛んとなり、ガン、ブリュージュ等、毛織物生産都市として成長して行きます。

 イギリスでは、ロンドンが北海貿易で繁栄しハンザ同盟の4大在外商館の1つが設置されました。
 北イタリア都市と北ドイツ都市の発展によって、地中海商業圏と北欧商業圏とを結ぶ交通路に沿って、シャンパーニュ地方や南ドイツでも都市が発達していきました。

 フランス東北部のシャンパーニュ地方は、二つの商業圏の中間に位置し、諸国からの交通路が集中する交通の要地であった為、トロアを中心とする6都市で順に年6回の定期市が開かれました。
「シャンパーニュの大市」として知られ、全ヨーロッパから商人が集まり、東方貿易、北海貿易によってもたらされる商品が取引され、12~13世紀かけて大いに繁栄しました。

 南ドイツではアウグスブルクやニュルンベルクが同様に成長して行きます。

 アウグスブルクは、初代ローマ皇帝アウグストゥスが設置した要塞が起源で、中世ヨーロッパ最大の銀、銅の産地として有名でした。
商業、交易の中心地としても栄え、15世紀には大富豪のフッガー家が台頭します。

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スペイン王カルロス一世の金銭消費貸借証書を焼き捨てるアントン・フッガー

 フッガー家は、15世紀にイタリアとの香辛料、羊毛取引で産を成し、15世紀末から銀山、銅山の採掘権を独占して巨万の富を築いて一躍国際的な金融資本家にのし上がり、16世紀には皇帝や教皇への融資を通じてヨーロッパの政治に大きな影響を及ぼしていきます。

 ニュルンベルクは、15世紀頃にはイタリアとの遠隔地貿易の要地として栄え、当時のドイツで最大規模を競う大都市と成り、更にニュルンベルクの商人達は、その活発な商業活動でも知られ、「ニュルンベルク市民なきところ大市なし」と言われるほどでした。

 その他ドイツでは、ライン川に沿う地域でケルンやマインツが繁栄し、ケルンとマインツには大司教座がおかれ、10世紀以後交易の中心地としても繁栄しました。

 フランスでは、ルーアン、ボルドー、マルセイユ等の港湾都市や内陸のリヨン等も繁栄しボルドーはぶどう酒の輸出港として、リヨンは絹織物生産で知られています。

 今迄多くの都市を紹介しましが、ヨーロッパ中世都市は現在の都市の規模より遥かに小さく、人口は1000~5000人位であり、1500年頃に人口が5万人を越えていたのはロンドン、パリ、ヴェネツィア、パレルモ、ミラノ、フィレンツェ、ブリュージュ、ガンの8つだけでした。

ジョークは如何?

あるイタリア人がドイツ軍の捕虜になり、縛り上げられ、拷問にかけられました。そのイタリア人はどんな厳しい拷問にも屈せず、ついに何も喋りませんでした。さすがのドイツ軍も根負けして、縛っていた両腕を解きました。すると、とたんそのイタリア人は身振り手振りも軽やかにぺらぺらとしゃべり始めたというのです。ドイツ人は顔を見合わせ言いました。

「そうか!こいつらは身振り手振りしないと喋れないんだ。早く縄をほどくんだった!」


続く・・・

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2015/04/20

歴史を歩く101

15-4十字軍と都市の発達④

2十字軍とその影響④

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神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世

 インノケンティウス3世の支持を得て神聖ローマ帝国皇帝となった フリードリヒ2世(在位1215年~50年)は、教皇から十字軍を派遣するように迫られていましたが、口実を設けては引き延ばしていました。
グレゴリウス9世が教皇になると、 新教皇は直ぐに派遣を実行するように強く迫り、フリードリヒ2世はやむを得ず出発したものの、マラリアにかかり引き返し、教皇はこれを仮病として彼を破門します。
破門をもって脅されたフリードリヒ2世は翌年聖地に赴いきました。

 この様な背景で始まったものが第5回十字軍(1228年~29年)です。
フリードリヒは、アイユーブ朝の内紛につけいり、外交交渉によってスルタンと協定を結び、一戦も交えることなくイェルサレムを回復しました。
協定の内容は、イェルサレムは返還するものの信仰上は共同統治とし、10年間の休戦を約束したものでした。

 しかし、その後イェルサレムは再びイスラム教徒の手に落ち(1244年)、イェルサレムは 20世紀迄イスラム教徒の支配下に置かれることに成ります。

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アルビジョワ十字軍

 敬虔なキリスト教徒で「聖王」と呼ばれたフランス王ルイ9世(在位1226年~70年)は、国内ではアルビジョワ十字軍(1209年~29年)を起こし、南フランスの異端アルビジョワ派を討伐し、根絶しました。
ルイ9世は単独で第6回十字軍(1248年~54年)・第7回十字軍(1270年)を起こしています。

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ダミエッタ攻撃

 第6回十字軍は、目標をアイユーブ朝の都カイロに定め、ダミエッタを占領してカイロに進撃しましたが、イスラム教徒の反撃にあって包囲され、捕虜となったルイ9世(1249年)は、莫大な身代金を支払って釈放されますが、帰国後も聖地回復の夢を捨てず第7回十字軍を起こします。

 第7回十字軍は、北アフリカを攻めて、そこに十字軍の新しい拠点を築くためチュニスに上陸しますが、彼はそこで病没し、この第7回十字軍が最後の十字軍となりました。

 これより前、マムルーク朝(1250年~1517年)は、アイユーブ朝を滅ぼし、エジプト、シリアを領有し、アンティオキア公国を滅ぼし(1268年)、トリポリ伯国も滅ぼした上(1289年)、更に十字軍最後の拠点アッコンも1291年に陥落させ、シリア、パレスチナの地は完全にイスラム教徒の支配下に置かれました。
この年をもって十字軍時代の終わりを告げます。

 約200年の間に前後7回の十字軍が派遣されたことは、当然のことながらヨーロッパ世界に大きな影響を及ぼし、中世ヨーロッパ世界を大きく変化させることと成りました。

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聖地を去る

 宗教面では、十字軍が教皇の提唱で起こされ、一時的にせよ聖地を回復したことから、教皇の権威はますます高まり、13世紀初めのインノケンティウス3世の時に教皇権は絶頂期を迎えました。
しかし、結局聖地を回復できなかったことは逆に教皇に対する信頼を失わせることとなり、宗教熱は冷却し、更には教皇権の衰退を招くことになりました。

 政治面では、諸侯、騎士が没落する原因を作ります。
長期間の遠征によって多くの諸侯、騎士が命を落とし、家系の断絶が起こり、又莫大な遠征費の負担は彼等の経済的な没落の原因と成りました。
その一方で国王による中央集権化が進展し、国王は十字軍の指揮者として活躍し、諸侯、騎士の没落によってその地位は相対的に強化され、又諸侯、騎士が戦死し、家系が断絶した場合はその遺領を王領に 編入し財政面での強化を図り、各国では国王による中央集権化が進展して行きます。
 
 経済面では、十字軍によって最大の利益を得たヴェネツィア、ジェノヴァ等の北イタリア海港都市がイスラム世界との遠隔地貿易(東方貿易)によって大きな利益を得て発展しました。
又ヨーロッパ内部でも遠隔地商業や貨幣経済が発展し、都市が発達します。

 文化面では、十字軍によって多くの人々が東方との間を往来したためヨーロッパ人の視野が広まり、ビザンツ文化やイスラム文化が流入し、特にイスラムから未知の学問や技術がもたらされ、近代以後のヨーロッパ文化発展の基礎が形成されました。

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騎士時代の終焉

ジョークは如何?

クリミアのヤルタで三巨頭会談が開かれた。
 戦後処理について会議が終わり、車で郊外へドライブに出かけた。
その途中、道の真ん中に大きな牛が寝そべっていて動こうともしない。
 そこで、雄弁家のチャーチルが牛のそばに行って、なだめすかしたりして説得を試みようとしたが、牛は頑として動かない。
 次にルーズヴェルトが出ていって、「どいてくれたら褒美をやる」といって、ドル紙幣をちらつかせたが、見向きもしない。怒ったルーズヴェルトは「原爆を落としてやる!」といきり立つ始末。
 そこで最後にスターリンが車を降りて、牛の耳元に、一言、二言ささやきかけると、牛は驚いて立ち上がり、逃げていった。
 ルーズヴェルトとチャーチルが、不思議に思って、いったい何と言ったのかと訪ねると、スターリンはすまして、こう答えた。「そこをどかないと、コルホーズに入れちゃうぞって、言ったのさ。」


続く・・・

2015/04/20

歴史を歩く100

15-4十字軍と都市の発達③

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インノケンティウス3世

2十字軍とその影響③

 第3回十字軍も結果的に聖地イェルサレム奪回と云う目的を達成することは出来ませんでした。
それから6年後に教皇の座についた人物が、教皇権の絶頂期の教皇として 有名なインノケンティウス3世(在位1198年~1216年)でした。
彼の提唱によって第4回 十字軍が起こされます。

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第4回十字軍によるコンスタンティノープル攻略

 第4回十字軍(1202年~1204年)は、北フランスの諸侯、騎士を中心に編成され、目標をアイユーブ朝の本拠地であるエジプトと定め、海路による遠征を決定し、海上輸送をヴェネツィアに依頼しました。
ヴェネツィアは兵士、物資の輸送と1年分の食料調達を銀貨8万5千マルクで請け負ます。

 十字軍軍団はヴェネツィアに集結したものの、約束の船賃が6割しか調達できず、交渉が難航したやさきのこと、ヴェネツィア側がハンガリー王に奪われたツァラ (アドリア海沿いの海港都市)を取り戻してくれるなら船を出す、不足分の支払いは後でよいとの提案を出します。

 十字軍側は止むを得ずこの条件を受け入れ、ツァラの町を襲い占領して略奪を行い(1202年)ましたが、ここで十字軍が同じキリスト教徒の町を襲ったと云う報を聞いた教皇インノケンティウス3世は激怒し、第4回十字軍参加者全員を破門した結果、「破門された十字軍」と云う前代未聞の事態となりました。

 翌年、破門された十字軍軍団を乗せた艦隊はツァラからコンスタンティノープルに向けて出航し(1203年)、ヴェネツィア商人と亡命中のアレクシオス (ビザンツ帝国の内紛により廃位させられたイサアキオス2世の子、後のアレクシオス4世)が同行します。

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第4回十字軍イスタンブール攻略

今回の十字軍指導者の間で、廃位させられたビザンツ皇帝を復位させ、その代わりにビザンツ皇帝は十字軍のヴェネツィアに対する負債を肩代わりし、更にエジプト遠征の費用を負担するとの密約が結ばれていました。
ヴェネツィアの商人達は十字軍を利用して商敵であったコンスタンティノープルに打撃を与え、東地中海へ商権を拡大することを企てていたのです。

 十字軍側は強く反対したが、結局ヴェネツィア商人と十字軍指導者の説得により同意し、コンスタンティノープルを攻略し、これを占領しました(1203年)。

 幽閉されていたイサアキオス2世が復位し、アレクシオス4世と共同皇帝となり、十字軍はコンスタンティノープルに駐留することに成ります。
ヴェネツィア商人達は新皇帝に密約履行を強硬に迫りますが断られ、更に密約の内容が漏れ、激高した市民達は皇帝の廃位を宣言し、アレクシオスを絞殺し、イサアキオスを毒殺しました。

 この宮廷クーデターを挑戦と受け取った十字軍側は、再びコンスタンティノープルを占領し、徹底的に略奪を行い、略奪品は十字軍とヴェネツィアで折半されたのです。

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フランドル伯ボードワン1世

 十字軍は「ラテン帝国(1204年~61年)」を建国し、フランドル伯ボードワン1世を皇帝に選出し、ヴェネツィアはコンスタンティノープルの一部と多くの島々や沿海地域を手に入れ目的を果たし、内陸部の土地は主立った十字軍諸侯、騎士に分け与えられました。

 ラテン帝国に対して、小アジアに逃れて抵抗したテオドロス1世を創始者として「ニケーア帝国(1204年~61年)」が建国され、ビザンツ帝国はここで一時消滅しました。

 この様に第4回十字軍は、本来の目的から全くはずれてしまい、正に 「脱線した十字軍」となり、ビザンツ帝国を消滅させ、ヴェネツィアの商権拡大と諸侯、騎士の領土獲得欲のみを満足させる結果となった上に、更に東西教会の対立が深まり、十字軍に対する不信感はますます強まったのです。

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少年十字軍

 第4回十字軍が失敗に終わったため、教皇インノケンティウス3世は新しい 十字軍を起こすために全ヨーロッパに説教師を派遣しました。
こうした説教師に接していたであろう北フランスの寒村に住む羊飼いの少年エティエンヌはある日巡礼の姿をした神を垣間見、神は聖地回復を記した手紙を少年に渡したと云います。
エティエンヌは神の使命を覚り、一心に神のお告げを説いて回り、やがて数千人の少年少女が彼の伝道に従うように成りました。

 少年達の親は、彼等の冒険を必死に思いとどまらせようとしたものの脱落者は少なく、彼等はリヨンからマルセイユへ到達します。
もちろん彼等は船賃も持っておらず、この時マルセイユの船主が「お前達の殊勝な心がけに免じて聖地迄、無償で船に乗せてやろう」と申し出、彼等はその甘言を信じて7艘の船に分乗してマルセイユを出帆し、7艘のうち2艘はサルデーニャ島付近で難破し、残る5艘の船に乗った少年達はアレクサンドリアに運ばれ、奴隷として売り飛ばされる悲劇となりました。

 この出来事は少年十字軍(1212年)と呼ばれており、同じような動きはドイツでも見られました。度重なる十字軍の失敗、その度に説教士達によってかきたてられた社会の興奮から引き起こされた悲劇的出来事でした。
  
 教皇インノケンティウス3世は、第4回ラテラノ公会議(1215年)で新たな十字軍を提唱したものの、その翌年に亡くなっています。

ジョークは如何?

実話
ハンス・フォン・ゼークトの組織論について

人間は4種類に大別できる。

「勤勉で頭の良い者」「怠け者で頭の良い者」「勤勉で頭の悪い者」「怠け者で頭の悪い者」。

軍隊で一番必要なのは「勤勉で頭の良い者」。
参謀に適任だ。勝つ為の戦術を立案できる。

次に「怠け者で頭の良い者」。
前線指揮官にすべきだ。生き残る為に必死で的確な指揮をするだろう。

次に「怠け者で頭の悪い者」。
命令された事しかできないがそれで十分だ。全ての障害を打ち倒す。

最後に「勤勉で頭の悪い者」。
そういう奴はさっさと軍隊から追い出すか銃殺にすべきだ。
なぜなら間違った命令でも延々と続けてしまい、気が付いたときには取り返しがつかなくなってしまうからだ。


続く・・・


2015/04/13

歴史を歩く99

15-4十字軍と都市の発達②

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第1回十字軍のエルサレム攻撃

1十字軍とその影響②

 第1回十字軍(1096年~99年)は、フランスの諸侯、騎士を主力として、4軍団に分かれて出発し、翌年コンスタンティノープルで合流し、ビザンツ皇帝に臣従の礼をとった後、ビザンツ軍と共に小アジアに進出します。

 騎兵5千、歩兵1万5千の大軍は、緒戦で勝利をおさめ、トルコ軍と小競り合いを繰り返しながら小アジアを横切り、北シリアのアンティオキアに至り、半年に及ぶ攻城戦の末にこの地を陥れました(1098年)。

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十字軍の進路

 アンティオキア攻略に功があった南イタリアのノルマン騎士ボエモンは、アンティオキア公国(1098年~1268年)の君主に治まり、もはやイェルサレムには向かうことは在りませんでした。
これより前、エデッサを攻略したボードアンもエデッサ伯国(1098年~1146年)を建国しその地に留まりました。
十字軍の要因の一つに諸侯、騎士達の領土獲得欲が存在することが この例によく現れています。

 アンティオキアからイェルサレムに向けて進撃し、6週間にわたる攻囲戦の後についに イェルサレムを陥落させます(1099年)。
この時、十字軍兵士達は殺戮と掠奪をほしいままにし、老若男女を問わず住民約7万人を虐殺しました。
虐殺と掠奪が終わると彼らは血にまみれた手を洗い、衣服を改めて喜びの涙にむせびながら聖墓に詣でたとキリスト教徒の年代記家が記しています。

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エルサレム包囲戦、グリエルモ・エンブリアコ率いるジェノヴァ石弓部隊

 当時のイスラム教徒がキリスト教徒に寛大であったのに対し、キリスト教徒の狂信、不寛容ぶりが際ってます。
この違いは当時のヨーロッパが異文化に接する機会に乏しく、封鎖された世界の中にあったので、 キリスト教の隣人愛はキリスト教徒に対するものだけであったことが原因です。

 結果的に第1回十字軍は聖地の回復に成功した数少ない十字軍でした。
回復した聖地を確保するためにイェルサレム王国(1099年~1291年)が建設されました。

 イェルサレム王国は、フランスに範をとり、ロレーヌ(ロートリンゲン)公ゴドフロアを統治者に選び、 残留した戦士達に封土を与えて建てられた封建国家でした。
イェルサレム王国は、前述したエデッサ伯国、 アンティオキア公国、トリポリ伯国(1102年~1289年)に対して宗主権を持っていまいしたが、この三国は事実上独立していました。

 イェルサレム回復後、多数の十字軍兵士達は目的を達成したとして帰国し、又西ヨーロッパから来る増援隊は少数だったことから、現地軍は絶えず兵員不足に悩まされました。
このために設立された部隊が宗教騎士団なのです。

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テンプル騎士団

 聖地の守護を目的として設立された(1119年)テンプル騎士団の団員は騎士と修道士の役割を兼ね、武器を持ってキリストに奉仕する誓いを立てていまいした。
第1回十字軍時代に成立し、ロードス島を本拠地に活躍したヨハネ騎士団、そして第3回十字軍の際に組織され活躍したドイツ騎士団は合わせて三大騎士団と呼ばれています。

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テンプル騎士団(左)ヨハネ騎士団(右)

 宗教騎士団は、帰国後は護教活動や辺境の開拓に活躍しました。
特にドイツ騎士団は、ドイツの東方植民の先頭に立ち、後のプロイセンの基礎となりました。

 第1回十字軍が成功をおさめたのは、セルジューク朝が分裂し内紛のために連合して十字軍と戦うことが出来なかったことが大きな理由でした。
しかし、セルジューク朝はその後勢力を回復し、モスル太守のザンギーが北シリアを回復し、エデッサ伯国を滅ぼし(1146年)、その翌年に第2回十字軍が派遣されました。

 第2回十字軍(1147年~49年)には、ドイツ皇帝、フランス王が参加し、救援におもむき、アッコンに到達し、ダマスクスを攻撃したものの失敗に終わり、解散して帰国しました。

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サラディン

 この後のイスラム側の失地回復はめざましく、ザンギーの子ヌレディンがダマスクスを奪回し、このザンギー朝に仕え、後のエジプト、ファーティマ朝の宰相となり、ついでファーティマ朝を倒してアイユーブ朝を興した人物が有名なサラディン(サラーフ・アッディーン、1138年~93年 (在位1169年~93年))です。
彼はエジプト、シリア、イラクを支配下におさめて十字軍国家を包囲し、ついにイェルサレムを奪回しました(1187年)。

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リチャード1世(獅子心王)

 イェルサレム陥落はヨーロッパに大きな衝撃を与えました。
こうした状況の中で、ドイツ皇帝フリードリヒ1世(在位1152年~90年)、フランス王フィリップ2世(在位1180年~1223年)、イギリス王リチャード1世(獅子心王、在位1189年~99年)等当時の列強君主が教皇の求めに応じて十字軍士の誓いを立て、軍団の名にふさわしい、最も十字軍らしい十字軍と称される第3回十字軍(1189年~92年)が結成されました。

 しかし、当時英仏は本国間で領土をめぐって激しく争っていた結果、協定が整わず出発が遅れ、フリードリヒのみが小アジアのルートを進行しますが、小アジア東南部を流れるサレフ川渡河の際に溺死してしまい、この結果一部はアンティオキアに達したものの、その大部分は帰国してしまいました。

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アッコン陥落

 フィリップ2世とリチャード1世は、同時に出発し(1190年)、シチリア島で合流し冬を過ごしたましたが、その時も反目は続き、その後は別行動を取り、再びアッコンで合流してアッコン攻城戦に加わりました。
アッコンは イェルサレムの北方に位置するシリアの港市で、イェルサレム王国の事実上の首都であり、十字軍の最後の拠点となった町でした。
第1回十字軍が占領したもののが、サラディンが奪回し、英仏王が再び占領しますが、アッコンが陥落すると、フィリップ2世は病気を口実に本国に離脱します(1191年)。

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アッコンの降伏を受け入れるフィリップ2世(尊厳王)

 リチャード1世だけがイェルサレムを目指しました。
サラディンはリチャードと各地で戦い、リチャード軍に悩まされながらもイェルサレムを死守しますが、この時のリチャードとサラディンと勇敢な戦いぶりは後世に長く語り継がれることになりました。

 リチャードは「獅子心王(Lion-hearted )」の異名をとり、中世騎士道の典型的人物とされました。 一方のサラディンもその武勇、勇猛さを知られたばかりでなく、その博愛、寛容の精神によってヨーロッパ人に多大な感銘を与えたのです。

 結局リチャードとサラディンは和を結び、リチャードは聖地イェルサレムへの巡礼のための自由な通行権を得て帰国の途に着きます(1192年)。

 リチャードは、帰途ウィーン近くでオーストリア大公の捕虜となりドイツ皇帝に引き渡されて幽閉され、 莫大な身代金を払って釈放され(1194年)やっと帰国を果たしました。
帰国後、弟のジョンを逐って王位を取り戻し、国内の反乱を鎮圧した後、フランスに出兵しフィリップ2世との戦闘中、流れ矢にあたって戦死しています(1199年)。
一方のサラディンはそれより6年前にすでに病死していました。

 かくして第3回十字軍もイェルサレムを回復することは出来ませんでした。

ジョークは如何?

 若いメキシコ人が職業安定所にやってきて、彼はまっすぐカウンターに向かった、”おい、仕事が欲しいんだ”

担当官 「ちょうどいいときに来たな。いま金持ちのオヤジから娘を守る屈強な運転手兼ボディーガードの募集がある。
      娘は結構イケてるらしいぞ。でかい黒ベンツを運転するんだ。制服のスーツは全て支給される。
      長時間勤務になるからな、食事もつくぞ。
      娘の休暇に海外にもつれてってやらなきゃならん。年俸は20万ドルだ」

メキシコ人 「おい、からかってるのか?」

担当官  「おまえが始めたんじゃないか」


続く・・・

2015/04/13

歴史を歩く98

15-4十字軍と都市の発達①

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十字軍騎士

1十字軍とその影響①

 西ヨーロッパ世界は、中世を通じて絶えず外部からの圧迫、侵入に苦しめられてきました。
特に8~9世紀以来、イスラム勢力やアジア系マジャール人、そしてヴァイキングの侵入が相次ぎ、西ヨーロッパは守勢を余儀なくされ、ひたすらその圧迫に耐えてきました。
しかし、封建社会が安定し、 さらに発展するなかで力を蓄えてきた西ヨーロッパ世界はそれまでの守勢から反撃に転ずるように成ります。

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レコンキスタの変遷

 イスラム教徒の支配下に置かれていたイベリア半島では、キリスト教徒によるイスラム勢力をイベリア半島から 駆逐する運動、すなわち国土回復運動(再征服、レコンキスタ)が早くから起こっており、又ドイツ人によるエルベ川以東のスラヴ人居住地への植民活動(東方植民)も12世紀以後盛んに成ります。
こうした西ヨーロッパ世界が、外への発展を示す最大の活動が有名な十字軍です。

 当時、イスラム世界では、中央アジアから興ったセルジューク朝が急速に発展し、バグダードに入城し(1055年)、イスラム世界における政治、軍事の実権を握るとともに更に西進し、ビザンツ帝国軍を撃破し(1071年マンジケルトの戦い)、海岸地帯の一部を除く全小アジアを占領してビザンツ帝国を東方から圧迫しました。
このためビザンツ皇帝アレクシオス1世はローマ教皇に救援を求めます(1095年)。

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ウルバヌス2世

 フランス人でクリュニー修道院出身の教皇ウルバヌス2世(在位1088年~99年)は、フランス東部のクレルモンで公会議を開き有名な演説を行いました。
ビザンツ帝国がしばしば救援を求めており、聖地イェルサレムでの巡礼者が悲惨な状況にあることを語った後、「西方のキリスト教徒よ、高きも低きも、富める者も貧しき者も、東方のキリスト教徒の救援に進め。神は我らを導き給うであろう。神の正義のための戦いに倒れた者には罪の赦しが与えられよう。この地では人々は貧しく惨めだが、彼の地では富み、喜び、神のまことの友となろう。いまやためらってはならない。神の導きのもとに、来るべき夏こそ出陣の時と定めよ」と聖地イェルサレム回復のためにイスラム教徒に対する聖戦を起こすことを提唱しました。
この演説に感激した聴衆は「神、それを欲し給う」と叫び、演説はしばしば中断されたと言われています。

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十字軍の結成

 こうして翌1096年に多数の諸侯、騎士から成る第1回十字軍が出発し、以後約200年間にわたって前後7回の十字軍が派遣されることと成ります。

 十字軍はヨーロッパのキリスト教徒がイスラム教徒から聖地イェルサレムを奪回するために起こした遠征ですが、イェルサレムがイスラム教徒の手に落ちたのは7世紀のことで、350年も前のことであり、何故この時期に十字軍が行われたのか、当時のヨーロッパの内部要因としては次のようなことがあげられます。

(1)封建社会が安定し、三圃制や11~12世紀頃から始まった有輪犂を用い数頭の馬や牛に引かせて土地を深く 耕す農法の普及など農業技術の進歩とともに農業生産力が高まり、人口が増大するなど、西ヨーロッパ世界内部の 力が充実し、対外的発展の機運が生まれてきました。

(2)ローマ=カトリック教会による民衆の教化が進み、当時のヨーロッパの人々は熱心なカトリック信者と なり、宗教的な熱情が高まっており、是等が背景にないと十字軍という最も中世らしい出来事は起こり得ませんでした。

(3)教皇の権威が著しく高まっていたことも大きな理由です。
このことは有名なカノッサの屈辱(1077年)が、十字軍が始まる 20年程前の出来事で在り、教皇は十字軍を利用して東西教会を統一しようとしていました。

(4)諸侯、騎士の中には、封建制の完成によってもはやヨーロッパでは領地を獲得することが困難となっていたことから、ヨーロッパの外部で領地や戦利品を獲得して領主になろうとする者も居た事実が在ります。

(5)当時次第に勃興してきた都市の商人達は十字軍を利用して商権の拡大をはかり、香辛料をはじめとする 東方の商品を獲得して利益を得ようと画策していました。

(6)農民達は十字軍に参加することによって、負債の帳消しや不自由な農奴身分から解放されることを望んでいました。

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十字軍とユダヤ商人
 
 十字軍はこのような様々な要因、人々の利害が複雑に絡み合っていた結果、経過とともに宗教的な要因が薄れ、 経済的な要因によって動かされるように成りました。

 ウルバヌス2世の演説は大きな反響を引き起こし、この様な状況のなかで隠者ピエール(1050年~1115年)と呼ばれた北フランス生まれの修道士・説教士は、各地で十字軍への参加を呼びかける熱烈な説教を行いました。
彼の元には数万の熱狂者が集まり、ピエールはこの群衆を率いて、バルカン半島を南下し、コンスタンティノープル から小アジアに進出しますが、トルコ軍に殲滅されます。
第1回十字軍に先立つこの十字軍は民衆十字軍(1096年~97年)と呼ばれており、民衆十字軍の失敗は、聖地の回復には烏合の衆でなく、武力を持った軍隊が必要であることを実証したのです。

ジョークは如何?

チャーチルとスターリンの会話。

チャーチル「ローマ法王は全世界のカトリック教徒に絶大な影響力を持っている。そしてローマ法王は、、、、、」
話を続けようとするチャーチルにスターリンが一言。
スターリン「そのローマ法王とやらは、戦車師団をいくつ持っているのかね?」


続く・・・

2015/04/13

歴史を歩く97

15-3東ヨーロッパ世界③

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ヨーロッパの民族移動

2スラヴ民族の自立

 インド・ヨーロッパ語族に属するスラヴ民族は、6世紀頃、原住地のカルパティア山脈一帯から、ゲルマン民族が移動した後の東ヨーロッパ各地に、東スラヴ族、西スラヴ族、南スラヴ族に分かれて移住、定住しました。

 このうち西方に拡大したポーランド人、チェック人、スロヴァク(スロヴァキア)人等の西スラヴ族は、ゲルマン民族の移動で空白となったドイツに隣接する地域に移住した為、西ヨーロッパの影響を受け、ローマ・カトリックを信仰しました。

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改宗

 ポーランドでは、10世紀にポラーニ人(農耕の人々の意)を中心に統一され、ピアスト朝(960年~1370年頃)が成立し、ピアスト朝は、神聖ローマ帝国に接近し、ポーランド人はローマ・カトリックに改宗します(966年)。

 13世紀に入ると、モンゴル人の侵入とドイツ人の東方植民による進出に苦しめられ、特にポーランドのリーグニッツの東南で、ドイツ・ポーランド連合軍がバトゥの率いるモンゴル軍に大敗したワールシュタットの戦い(1241年)は有名です。

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カジミェシュ3世(カシミール大王)

 しかし、14世紀に入るとカジミェシュ(カシミール)大王(在位1333年~70年)の下で王権が伸張し、ポーランドは大いに繁栄しましたが、彼の死によってピアスト朝は断絶してしまいます。

 この頃、バルト海東南岸に居住していたバルト系リトアニア人は、ドイツ騎士団の進出に対抗して統一国家を形成し、14世紀には大公国となりました。

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リトアニア大公ヤゲウォ(ヤゲロー)

 リトアニア大公ヤゲウォ(ヤゲロー)(1351年~1434年、在位1386年~1434年)は、ポーランド女王と結婚し(1386年)、ポーランド王とリトアニア大公を兼ね、ヤゲウォ(ヤゲロー)朝(1386年~1572年)を創設します。
彼はドイツ騎士団を破り、リトアニア・ポーランド王国の全盛期を築き、リトアニア・ポーランド王国は東欧の強国として繁栄しました。

 同じ西スラヴ族のチェック人とスロヴァク(スロヴァキア)人は、6世紀頃現在のチェコ共和国とスロヴァキア共和国地方に定着しました。
チェック人とスロヴァク(スロヴァキア)人は、東欧革命後の1993年に、現在のチェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離独立する迄チェコ・スロヴァキア連邦を形成していたことは記憶に新しいと思います。

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ベーメン(ボヘミア)王国国章

 10世紀初頭にチェック人を中心にベーメン(ボヘミア)王国が建てられましたが、11世紀には神聖ローマ帝国に編入されます。
チェック人は、7世紀頃にローマ・カトリックに改宗しています。

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ヤノ・フス

 14世紀末にプラハ大学神学教授となり、後に同大学の学長となったボヘミアのフス(1370年頃~1415年)は、イギリスのウィクリフ説に共鳴し、ローマ教会を攻撃した為に、当時開かれていたコンスタンツの公会議で異端とされ、火刑に処せられます(1415年)。

 フスの処刑後、神聖ローマ皇帝ジギスムントがプラハ市とプラハ大学に対して迫害を加えると、チェック人はフス説の承認を求めて反乱を起こし、この反乱はフス戦争(1419年~36年)と呼ばれますが、宗教上の争いであると同時に、チェック人のドイツ人の支配に対する反乱でもあったのです。

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フスの火刑

 一方、スロヴァク人は、10世紀以来マジャール(ハンガリー)人の支配下に置かれていました。

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コソボの戦い(1389年)

 南スラヴ族のセルビア人は、6世紀にバルカン半島を南下して、半島の南西部に定着しましたが、東ローマ帝国の支配下に入り、9世紀頃迄にギリシア正教に改宗し、ビザンツ文化を吸収します。

 12世紀中頃、東ローマ帝国から独立、14世紀前半にはバルカン北部を統合して大セルビア王国を形成して最盛期を迎えますが、コソボの戦い(1389年)に大敗し、以後オスマン・トルコ帝国の支配下に置かれました。

 同じ南スラヴ族のクロアティア人は、9世紀頃ローマ・カトリックに改宗し、10世紀には東ローマ帝国から独立して侯国を形成しましたが、12世紀以後はハンガリーに従属しました。

 同じく南スラヴ族のスロヴェニア人もローマ・カトリックに改宗し、14世紀以降はオーストリアのハプスブルグ家の支配下に置かれます。

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正教に改宗したボリス1世

 アジア系のブルガール人は、7世紀末にバルカン半島東南部に侵入し、東ローマ皇帝の許可を得て自立し、9世紀にギリシア正教に改宗した。9世紀末にマケドニア、アルバニア、セルビアを征服し、第1次ブルガリア王国(893年~1018年)を建国し、10世紀前半に最盛期を迎えましたが、内紛で衰え、東ローマ帝国に併合されます。

 12世紀末に再び独立を果たし、第2次ブルガリア王国(1187年~1393年)が建国されますが、14世紀末にオスマン・トルコ帝国に敗れ、以後その支配下に置かれ、この間ブルガール人は先住の南スラヴ族に同化されて行きました。

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リューリク(ルーリック)

 ロシア人、ウクライナ人等の東スラヴ族が定着したロシアの地には、リューリク(ルーリック)(?~879年)に率いられたノルマン人(ヴァイキング)の一派が、9世紀にノヴゴロド国、次いでキエフ公国を形成します。

 スラヴ人が住む地域に入ったノルマン人をスラヴ人はルーシ(ルス、Rus)と呼びました。
Russiaの名はRus’由来すると言われています。
しかし、ルーシはまもなく同化され、スラヴ化して行きました。

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ノヴゴロド:ロシア1000年記念碑銅像(八端十字架を掲げる ウラジーミル1世)

 キエフ公国(9~13世紀)は、ウラディミル1世(在位980年~1015年)の治世に最盛期を迎えました。
ウラディミル1世は、周辺の東スラヴ諸族を討って領土を拡大し、土着勢力に代わってルーシ族を各地に封じ、農民から移動の自由等を奪い、農奴制を強化していきます。

 ウラディミル1世は、ビザンツ皇帝の妹アンナと結婚し(988年)、ギリシア正教に改宗し、国教とした上、ビザンツ文化を盛んに受け入れ、文化面で後進地域であったロシアの面目を一新しました。

 その後もキエフ公国は、ヤロスラフ1世(在位1019年~54年)の時代にかけて繁栄しましたが、その死後は、領土の分割相続をめぐって内紛が続き、国内は多くの諸侯が分立して封建化、農民の農奴化が進み、更に周辺遊牧民の侵入も重なって国力は衰退します。

 こうした状況のなかで、13世紀にバトゥ(チンギス・ハンの孫)の率いるモンゴルの侵入を受け、キエフを占領され(1240年)、キエフ公以下の諸侯はこれに従属し、ロシアの地は以後250年にわたってモンゴルの支配に服することと成りました。

 しかし、14世紀頃からモスクワ大公国が強力となり、モスクワ大公イヴァン3世(在位1462年~1505年)の治世にモンゴルの支配から完全に自立して行きます(1480年)。

ジョークは如何?

ナチ党の管区指導者の来校が予告された。党の地区のリーダーは、教師たちにたいして、あらかじめ生徒たちに発言の仕方を教えて
おくようにと指示した。そのとおり忠実に教師は生徒たちに説明した。
「あす管区指導者が来られて、君たちのお父さんは誰か、と尋ねられたら、『私たちの総統』と答えなさい。また、君たちのお母さ
んについて聞かれたら『ナチス運動』と答えなさい。分かりましたか?」
子どもたちはうなずいた。

さて翌日、管区指導者がやって来た。彼は最初の生徒にむかって質問した。
「君のお父さんは誰かね?」
「私たちの総統です。」
「君のお母さんは誰かね?」
「ナチス運動です」
「君は将来、何になりたいかね?」

「みなし児です!」

続く・・・

2015/04/07

歴史を歩く96

15-3東ヨーロッパ世界②

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末期のビザンツ帝国

1ビザンツ帝国②

 この様に、東ローマ帝国はユスティニアヌス帝の時に最盛期を迎えましたが、彼の死(565年)から3年後にロンバルド族が北イタリアに侵入し、又東方はササン朝ペルシアの脅威に曝され、北方からはアヴァール人やスラヴ諸族の侵入に脅かされました。

 アフリカ総督の子、ヘラクレイオス1世(在位610年~641年)が、ユスティニアヌス帝の死後の混乱を収拾し、クーデターによって帝位につき、ヘラクレイオス朝を開闢します。

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ビザンツとイスラム勢力との戦い

しかし、名君と称えられたヘラクレイオス1世の時代でも首都コンスタンティノープルの周辺と小アジアを確保する事が精一杯で、ササン朝ペルシアによってエジプト、シリアを奪われ(611年~616年)、アヴァール人の侵入にも苦しみますが、やがて反撃に転じ、エジプト、シリアを奪回(623年~627年)、アヴァール人の撃退に成功します(626年)。
晩年にはササン朝ペルシアに代わって台頭してきたイスラム教徒によって、シリア(635年)、次いでエジプト(642年)を失います。

 この様な対外的危機にあたって、国境防衛の為に、軍管区制(テマとも呼ばれる)と屯田兵制を施行しました。
軍管区制は、帝国全領域を幾つかの軍管区に分け、屯田兵を置き、軍団司令官に駐屯地の民政を兼ねさせる制度です。
屯田兵制は、軍管区制の下で、司令官の指揮下に兵士に土地を与え、代わりに兵役を課した制度です。軍管区制は、625年頃ヘラクレイオス1世によって確立され、11世紀頃迄行われました。

 東ローマ帝国は、首都コンスタンティノープルが古くはビザンティウムと呼ばれていた事から、ビザンツ帝国とも呼ばれます。
ギリシア的、ヘレニズム的な東方地域を中心とした東ローマ帝国は、西ヨーロッパがフランクの発展と共に一つのまとまった世界を形成していく中で、西ヨーロッパとは異なる独自の世界を形成していました。

このビザンツ的な独自の世界が形成されていく時代が、7世紀のヘラクレイオス1世以後のことであるとされています。

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コンスタンティノープル包囲

 シリア、エジプトを征服し、ササン朝ペルシアを滅亡に追い込んだイスラム教徒は、ビザンツ帝国艦隊を撃破し(655年)、コンスタンティノープルを包囲しました(673年~678年)。
しかし、軍管区制等の国政改革が実を結びつつあったビザンツ帝国は「ギリシアの火」(一種の火薬、硝石、硫黄、松脂を混合した発火性物質で、水では消化不可能)を使ってイスラム軍を苦しめ、撃破しますが、イスラム教徒は717年に再度コンスタンティノープルを包囲します。

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レオン3世

 ビザンツ帝国は、この年に即位したレオン3世(675年頃~741年、在位717年~741年)の基で1年間の包囲に耐え、終にこれを撃退します。

 レオン3世は、北シリアの下層民の家に生まれ、後に軍隊に入って軍管区の司令官に迄昇進し、軍隊に推されて、テオドシウス3世を廃して即位、イサウロス朝を創始しました。
前述のイスラム教徒によるコンスタンティノープルの包囲に耐えて、これを撃退しました。
そして偶像を否定するイスラム教徒に刺激され、国内の富裕化した教会、修道院を抑える為に、726年に「聖像禁止令」を発布します。
この聖像禁止令がローマ教会を巻き込んで、聖像崇拝の大論争に発展し、後に東西教会に分裂する(1054年)きっかけになったことは前述の通りです。

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異民族を服従させるバシレイオス1世

 イサウロス朝に代わった、バシレイオス1世(在位867年~886年)によって創始されたマケドニア朝(867年~1057年)の時代はビザンツ帝国中期の最盛期です。
特にバシレイオス2世(在位963年~1025年)の時には、クレタ島を占領して東地中海の海上権を握って経済的に繁栄し、更にブルガリアを滅ぼしてこれを併合し、南イタリアも一時奪回し、ユスティニアヌス帝以来最大の領土を誇ったのです。

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ウラディミル1世

 キエフ公国のウラディミル1世の改宗(989年)によって、ロシアの地にギリシア正教を中心とするビザンツ文化が伝播するのもこの時代です。
 
 しかし、11世紀中頃からセルジューク朝の侵入を受け、小アジアの殆どを失います。

 マケドニア朝断絶後の混乱を鎮圧して即位したアレクシオス1世(在位1081年~1118年)は、プロノイア制によって軍隊の再建を図りました。
プロノイア制は、11世紀頃から行われた土地制度で、奉仕、勤務の代償に、皇帝が地方領主に国有地の官吏、監督を任せる制度でしたが、13世紀以降世襲化され、社会の封建化を促進し、帝国解体の要因と成りました。

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第1回十字軍

 アレクシオス1世は、セルジューク朝の脅威を訴える書簡をローマ教皇ウルバヌス2世に送り、西ヨーロッパに救援を要請し、これに応えて、1096年に第1回十字軍が派遣されることに成ります。
しかし、13世紀初頭に行われた第4回十字軍によってコンスタンティノープルが占領されます。
フランドル伯ボードアン1世(在位1204年~05年)によるラテン帝国(1204年~61年)が建設され、ビザンツ帝国は一時崩壊しました。

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第4回十字軍

 この時、小アジアに逃れて抵抗したテオドロス1世(在位1204年~22年)は、小アジアの北西部ニケーアを中心にニケーア帝国(1204年~61年)を建国し、セルジューク朝やラテン帝国に対抗します。
ニケーア帝国5代目皇帝ミカエル8世はコンスタンティノープルを奪回して、ビザンツ帝国を再建しました(1261年)。

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メフメト2世

 しかし、その後のビザンツ帝国は、帝位争いや傭兵反乱、オスマン・トルコ帝国の圧迫によって国力は全く振るわず、15世紀に入ると領土はコンスタンティノープルの周辺、ギリシアの一部、クレタ島、黒海南岸の一部に僅かに残るのみとなり、メフメト2世にコンスタンティノープルを占領され、1000年以上続いたビザンツ帝国は、1453年についに滅亡しました。

 ビザンツ文化は、ギリシア文化を継承、保存し、周辺のスラヴ人の開化や後の西ヨーロッパルネサンスに大きな影響を及ぼしました。

 西ヨーロッパ世界の文化が、ローマ文化とローマ・カトリック教会を基調としているのに対し、東ヨーロッパ世界の文化(ビザンツ文化)は、ギリシア文化とギリシア正教を基調としています。

 ビザンツ帝国の領域では、ヘレニズム時代以後コイネーと呼ばれるギリシア語が使用されてきましたが、6世紀頃からはギリシア語はビザンツ帝国の公用語として使用されるように成りました。

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現在のセント・ソフィア大聖堂の夜景

 美術の分野では、独自のビザンツ式が栄え、ビザンツ式は、ドーム(円屋根)とモザイク壁画を特徴とする教会建築の様式で、ユスティニアヌス帝がコンスタンティノープルに建立したセント・ソフィア大聖堂がその代表です。
セント・ソフィア大聖堂は、ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン・トルコ帝国の占領後、イスラム教のモスク(寺院)に改装され、今日に至っています。
その他、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂やヴェネツィアのサン・マルコ聖堂も有名です。

 ビザンツ文化の中で後世に最も大きな影響を及ぼしたものがユスティニアヌス帝が編纂させた「ローマ法大全」です。

 ビザンツ帝国によって継承され、発展したギリシア古典文化は、ビザンツ帝国の滅亡前後からビザンツの学者達によってイタリアにもたらされ、西ヨーロッパのルネサンスに大きな影響を及ぼしたこともよく知られています。

ジョークは如何?

昔ロシアである男が兵役を逃れようと必死で言い訳をしていた。
「私は結核なのです。」
「ボロシロフ将軍は結核だが立派な軍人だぞ。」
「私の目は片方見えないのです。」
「イワノフ将軍を見ろ。片目だが軍人の鑑だ。」
「私は精神薄弱なんです。」
「バカをいえ。皇帝様をそれでも職務を果たしておられるぞ。」


続く・・・
2015/04/02

歴史を歩く95

15-3東ヨーロッパ世界①

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1ビザンツ帝国①

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ユスティニアヌス1世

 ゲルマン民族の大移動の開始(375年)から、20年後のテオドシウス帝の死後、ローマ帝国は東西に分裂しました。
その後の混乱の中で、西ローマ帝国が滅亡(476年)した後も、東ローマ帝国はコンスタンティノープル(現イスタンブール)を都として、1000年以上も存続したのです。
西ローマ帝国滅亡後は、東ローマ皇帝が唯一のローマ皇帝として、西ヨーロッパのゲルマン諸王に権威を認められていましたが、この間ドナウ川はもはや防衛戦でなくなり、ビザンツ帝国はドナウ川の南に移住したゲルマン諸族や、ドナウ川の北に進入したフン族、スラヴ族、ブルガール人、そして東方からはササン朝ペルシアの侵入に絶えず脅かされていました。

 また国内では、カルケドン公会議(451年)で異端とされた単性論(イエスは神と人の2つの性質を持つ正統アタナシウス派の主張を認めず、イエスには神としての単一の性質しかない)が、シリア、エジプトの教会で主流を占め、これ等の地域は東ローマ帝国から離反する傾向が強くなりました。

 この様な時期、マケドニアの農家に生まれ、マケドニアの将軍で後に皇帝となった叔父のユスティヌス1世(在位518年~527年)の養子となり、その死後、帝位に就いた人物が有名なユスティニアヌス1世(483年~565年、在位527年~565年)です。

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ホスロー1世

 彼は、国内では「ニケ(ニカ)の反乱」(532年にコンスタンティノープルで起こった反乱、蜂起した民衆の”ニカ(勝利)という叫び声によってこう呼ばれる)を鎮圧し、対外的にはホスロー1世(在位531年~579年)の即位後激しくなったササン朝ペルシアの侵入を、将軍ベリサリウス(494年頃~565年)等の活躍によって撃退し、休戦条約を結びましだ(533年、545年)。

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ベリサリウス

 この間、西方では「地中海帝国(ローマ帝国)の復活」をめざし、北アフリカのヴァンダル王国で親ローマ的な皇帝が廃されたことを口実に、将軍ベリサリウスにヴァンダル征討を命じ、ベリサリウスは、ヴァンダル王国を滅ぼし(534年)、更にシチリア島、ナポリを占領してローマに入城(536年)、一時東ゴート王国を制圧しますが、東ゴート王国は更に抵抗を続け、ベリサリウスがペルシアと戦っている間に勢力を取り戻し、イタリア全土を回復します。
ベリサリウスに代わって東ローマの将軍となったナルセス(478年頃~568年)は、3万の軍を率いてイタリアに遠征し、終に東ゴート王国を滅ぼします(555年)。
更にその間、西ゴート王国とも戦い、ヒスパニア(スペイン)南部を領有しました。

 この「ユスティニアヌスの再征服」によって、今や東ローマ帝国の領土は、バルカン半島・小アジア・シリア・エジプト・北アフリカ・イタリア・シチリア・スペイン南部に迄及び、地中海は再び「ローマの湖」と成りました。

 「再征服」と並んでユスティニアヌス帝の名を不朽にしているものが「ローマ法大全(ユスティニアヌス法典)」編纂事業(529年~534年)です。
彼は、ローマ人が後世に残した最大の文化遺産と云われるローマ法の研究を奨励し、トリボニアヌス(?~546年)ら10名の法学者に命じ、ローマ法の大編纂事業を行わせました。

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ハドリアヌス帝

 「ローマ法大全」は、ハドリアヌス帝(在位117年~138年)以後に発布された皇帝立法を集めた「勅法集(ユスティニアヌス法典)」、法学者の学説を集めた「学説集」と、この2つの抜粋である「法学提要」の三部から成り立っており、534年に完成しました。

 現在のヨーロッパ各国の法はローマ法の影響を受けています。
その影響はドイツ、フランスの法を通じて明治時代の日本の法にも及んでおり、その意味でも、「ローマ法大全」の歴史的意義は計り知れないほど大きいなものです。

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ソフィア大聖堂

 又ユスティニアヌス帝は、大土木事業を盛んに行いましたが、その最大の事業がセント・ソフィア大聖堂です。
セント・ソフィア大聖堂は、コンスタンティヌス大帝によって建立されますが後に焼失し、これを再建した建造物がユスティニアヌス帝のセント・ソフィア大聖堂で、高さ56メートルのドーム(円屋根)と美しいモザイク壁画で飾られたビザンツ式建築の代表的建築物として有名です。

 ユスティニアヌス帝は、このセント・ソフィア大聖堂の建立によって、東ローマ皇帝が政教両界の最高支配者であることを示しました。
この皇帝が同時に教会の首長であるという東ローマ帝国の政治理念は皇帝教皇主義と呼ばれますが、彼の宗教政策は、東方のシリア、エジプトで盛んであった単性論と西方のローマ教皇の間に立って一定せず、帝国内を一つの信仰で統一することは出来ませんでした。

 更にユスティニアヌスの時代に、中国から中央アジアを経由して蚕と養蚕の技術が伝来し、以後絹織物業は東ローマ帝国の代表的な産業に成長していきます。

ジョークは如何?

日露戦争の時、露西亜の教会は日本に天罰が下る様に祈った。
だが露西亜は負けた。
19年後に関東大震災が起きた。
結論。
神は我々から九光年半以内にいる。


続く・・・