歴史を歩く110
15-5西ヨーロッパ中央集権国家の成立⑥
4百年戦争とばら戦争②

ランカスター朝の第2代国王ヘンリ5世(在位1413年~22年)は、フランスの内乱に乗じてフランスでの勢力回復をはかりノルマンディーに出兵しました(1415年)。
アザンクールの戦い(1415年)で大勝し、トロアの和約(1420年)を結び、フランス王太子シャルル(後のシャルル7世)の王位継承権を否認し、イギリス王太子ヘンリのフランス王位継承権を認めさせます。

アザンクールの戦い
1422年にヘンリ5世とシャルル6世が相次いで没し、イギリスの幼王ヘンリ6世(在位1422年~61年)が英仏両王を称しました。
フランス王太子シャルル(後のシャルル7世)は、アルマニャック派によって王位継承者とされましたが、ブルゴーニュ派の反対もあり非合法の王で、その勢力範囲はロワール川流域とギュイエンヌを除くロワール以南の南フランスに限定されていたのです。

シャルル7世
イギリスは、このような情勢をみて、ロワール川以南への領土拡大を図り、ブルゴーニュ公と結んでアルマニャック派の拠点オルレアンを包囲します(1428年)。
もしオルレアンが陥落すればフランスは滅亡の危機に晒される時に現れた人物が、有名なジャンヌ・ダルクです。

ジャンヌ・ダルク、オルレアン進軍
ジャンヌ・ダルク(1412年~31年)は、フランス東部ドンレミ村の農家に生まれ、信仰心の篤い少女でした。
13歳の時に「フランスへ行け、フランスに行って国王を救え」と云う神のお告げを聞いたとされています(1425年)。
オルレアンが包囲された後、「フランスへ行け、オルレアンを救え」という神の声にせき立てられたジャンヌ・ダルクは、近くの守備隊長の所へ出かけ、王太子シャルルのもとへ送り届けてくれるよう頼み込みます。
最初は全く相手にしてもらえなかったが、少女の信仰心と熱意は隊長を動かし、その援助によって500km離れた王太子の居城へ到達、シャルルに謁見し、シャルルの許可を得て数百の兵を率いてオルレアンに向けて進軍しました。

シャルル7世即位
ジャンヌ・ダルクの熱烈な信仰心はフランス軍兵士の士気を鼓舞し、ついにオルレアンの包囲を破ってイギリス軍を撤退させ (1429年)、ジャンヌの軍勢はその後破竹の進撃を続け、ランス(代々フランス国王の戴冠式が行われた町)に進撃し、そこでシャルルの戴冠式が挙行され、シャルル7世(在位1422年~61年)は正式にフランス王になることが出来たのです。
しかし、その後コンピエーニュへの救援に赴いたとき、ブルゴーニュ派に捕らえられ、シャルル7世が身代金を支払わなかったためにイギリス側に引き渡されます。
この時、ジャンヌに大恩のあるシャルル7世は「小娘一人の命ですめば安いものだ」と発言したと伝えられています。

ジャンヌ・ダルク火刑執行
ジャンヌ・ダルクはルーアンの宗教裁判で「異端、魔女」の判決を受け、1431年5月31日にルーアン市の広場で火刑に処せられます。
ジャンヌ・ダルクについては、後に名誉復権裁判が行われ、無罪、復権の判決が出され(1456年)、1920年には聖者に列せられました。
その後の戦局は、フランスが各地で圧倒的な勝利をおさめ、ノルマンディー(1449年)、ギュイエンヌ(1451年~53年)を回復し、1453年にはボルドーを占領し、カレーを除いてフランス国内から完全にイギリス勢力を駆逐し、百年戦争はついに終結したのでした(1453年)。

ジャック・クール
シャルル7世は、百年戦争末期から戦後にかけて大商人ジャック・クールを財政監督官に起用して財政改革を行い、叉常備軍創設や官僚制整備を行い、王権の強化と中央集権化を進めました。

英国王朝家系図
百年戦争に完敗してカレーを除くフランスの領土を全て失ったイギリスでは、間もなくランカスター家とヨーク家による王位争奪を巡る大内乱が始まり、この内乱はランカスター家が赤ばらを紋章とし、ヨーク家が白ばらを紋章としたことから、ばら戦争(1455年~85年)と呼ばれています。
ばら戦争は、この両家の王位争いに国内の諸侯が両派に分かれて争った結果30年に及ぶ大内乱に成りました。
ランカスター家(ヘンリ3世の子エドモンドを祖とする)のヘンリ4世(在位1399年~1413年)は、従兄のリチャード2世の圧政に反抗し、これを破って議会の承認を得て即位し、ランカスター朝(1399年~1461年)の創始者となり、その後ヘンリ5世、ヘンリ6世と続きますが、ヘンリ6世(在位1422年~61年)とヨーク公リチャード間の争いが契機となってばら戦争が始まります。
ヨーク家(エドワード3世の5男エドモンドが祖)のエドワード4世(在位1461年~70年)は、父ヨーク公リチャードの戦死後、ランカスター派を破り、ヨーク朝(在位1461年~85年)を創始しました。

ヘンリ・テューダー(ヘンリ7世)
ヘンリ・テューダー(後のヘンリ7世)は、ランカスター家の血を引いていた為、ヨーク朝の成立以来フランスに亡命していたのですが、フランス王の援助を受けて帰国し、ボズワースの戦い(1485年)でリチャード3世(ヨーク朝第3代の王)を破って敗死させ、即位してヘンリ7世(在位1485年~1509年)と成りました。
これによってばら戦争は終結し、テューダー朝(1485年~1603年)が成立します。

エリザベス
ヘンリ7世は、翌年ヨーク家のエリザベス(エドワード4世の娘)王妃に迎え、ランカスター家とヨーク家の合同が叶います。
ヘンリ7世はばら戦争によって没落した貴族の領地を没収して王領を拡大し、叉星室庁(国王直属の特別裁判所、ウェストミンスター宮殿の星の間に設置されたのでこう呼ばれた)を利用して貴族を抑圧し、イギリス絶対王政の基礎を築きました。
ジョークは如何?
16世紀、スペイン宣教師バルトロメ・デ・ラス・カーサスは、
南米アンチル列島の地獄さながらの金鉱で働いている
インディオ奴隷にいたく同情し、ときのスペイン女王
カルロス5世に手紙を書いた。
「あまりに可哀想で見ていることが出来ません。
私は人道的な見地から、彼らは解放されるべきだと信じます。
どうか、国王陛下のお力で、金鉱で働いているインディオと
同数の黒人奴隷をお送り下さい。」
続く・・・
4百年戦争とばら戦争②

ランカスター朝の第2代国王ヘンリ5世(在位1413年~22年)は、フランスの内乱に乗じてフランスでの勢力回復をはかりノルマンディーに出兵しました(1415年)。
アザンクールの戦い(1415年)で大勝し、トロアの和約(1420年)を結び、フランス王太子シャルル(後のシャルル7世)の王位継承権を否認し、イギリス王太子ヘンリのフランス王位継承権を認めさせます。

アザンクールの戦い
1422年にヘンリ5世とシャルル6世が相次いで没し、イギリスの幼王ヘンリ6世(在位1422年~61年)が英仏両王を称しました。
フランス王太子シャルル(後のシャルル7世)は、アルマニャック派によって王位継承者とされましたが、ブルゴーニュ派の反対もあり非合法の王で、その勢力範囲はロワール川流域とギュイエンヌを除くロワール以南の南フランスに限定されていたのです。

シャルル7世
イギリスは、このような情勢をみて、ロワール川以南への領土拡大を図り、ブルゴーニュ公と結んでアルマニャック派の拠点オルレアンを包囲します(1428年)。
もしオルレアンが陥落すればフランスは滅亡の危機に晒される時に現れた人物が、有名なジャンヌ・ダルクです。

ジャンヌ・ダルク、オルレアン進軍
ジャンヌ・ダルク(1412年~31年)は、フランス東部ドンレミ村の農家に生まれ、信仰心の篤い少女でした。
13歳の時に「フランスへ行け、フランスに行って国王を救え」と云う神のお告げを聞いたとされています(1425年)。
オルレアンが包囲された後、「フランスへ行け、オルレアンを救え」という神の声にせき立てられたジャンヌ・ダルクは、近くの守備隊長の所へ出かけ、王太子シャルルのもとへ送り届けてくれるよう頼み込みます。
最初は全く相手にしてもらえなかったが、少女の信仰心と熱意は隊長を動かし、その援助によって500km離れた王太子の居城へ到達、シャルルに謁見し、シャルルの許可を得て数百の兵を率いてオルレアンに向けて進軍しました。

シャルル7世即位
ジャンヌ・ダルクの熱烈な信仰心はフランス軍兵士の士気を鼓舞し、ついにオルレアンの包囲を破ってイギリス軍を撤退させ (1429年)、ジャンヌの軍勢はその後破竹の進撃を続け、ランス(代々フランス国王の戴冠式が行われた町)に進撃し、そこでシャルルの戴冠式が挙行され、シャルル7世(在位1422年~61年)は正式にフランス王になることが出来たのです。
しかし、その後コンピエーニュへの救援に赴いたとき、ブルゴーニュ派に捕らえられ、シャルル7世が身代金を支払わなかったためにイギリス側に引き渡されます。
この時、ジャンヌに大恩のあるシャルル7世は「小娘一人の命ですめば安いものだ」と発言したと伝えられています。

ジャンヌ・ダルク火刑執行
ジャンヌ・ダルクはルーアンの宗教裁判で「異端、魔女」の判決を受け、1431年5月31日にルーアン市の広場で火刑に処せられます。
ジャンヌ・ダルクについては、後に名誉復権裁判が行われ、無罪、復権の判決が出され(1456年)、1920年には聖者に列せられました。
その後の戦局は、フランスが各地で圧倒的な勝利をおさめ、ノルマンディー(1449年)、ギュイエンヌ(1451年~53年)を回復し、1453年にはボルドーを占領し、カレーを除いてフランス国内から完全にイギリス勢力を駆逐し、百年戦争はついに終結したのでした(1453年)。

ジャック・クール
シャルル7世は、百年戦争末期から戦後にかけて大商人ジャック・クールを財政監督官に起用して財政改革を行い、叉常備軍創設や官僚制整備を行い、王権の強化と中央集権化を進めました。

英国王朝家系図
百年戦争に完敗してカレーを除くフランスの領土を全て失ったイギリスでは、間もなくランカスター家とヨーク家による王位争奪を巡る大内乱が始まり、この内乱はランカスター家が赤ばらを紋章とし、ヨーク家が白ばらを紋章としたことから、ばら戦争(1455年~85年)と呼ばれています。
ばら戦争は、この両家の王位争いに国内の諸侯が両派に分かれて争った結果30年に及ぶ大内乱に成りました。
ランカスター家(ヘンリ3世の子エドモンドを祖とする)のヘンリ4世(在位1399年~1413年)は、従兄のリチャード2世の圧政に反抗し、これを破って議会の承認を得て即位し、ランカスター朝(1399年~1461年)の創始者となり、その後ヘンリ5世、ヘンリ6世と続きますが、ヘンリ6世(在位1422年~61年)とヨーク公リチャード間の争いが契機となってばら戦争が始まります。
ヨーク家(エドワード3世の5男エドモンドが祖)のエドワード4世(在位1461年~70年)は、父ヨーク公リチャードの戦死後、ランカスター派を破り、ヨーク朝(在位1461年~85年)を創始しました。

ヘンリ・テューダー(ヘンリ7世)
ヘンリ・テューダー(後のヘンリ7世)は、ランカスター家の血を引いていた為、ヨーク朝の成立以来フランスに亡命していたのですが、フランス王の援助を受けて帰国し、ボズワースの戦い(1485年)でリチャード3世(ヨーク朝第3代の王)を破って敗死させ、即位してヘンリ7世(在位1485年~1509年)と成りました。
これによってばら戦争は終結し、テューダー朝(1485年~1603年)が成立します。

エリザベス
ヘンリ7世は、翌年ヨーク家のエリザベス(エドワード4世の娘)王妃に迎え、ランカスター家とヨーク家の合同が叶います。
ヘンリ7世はばら戦争によって没落した貴族の領地を没収して王領を拡大し、叉星室庁(国王直属の特別裁判所、ウェストミンスター宮殿の星の間に設置されたのでこう呼ばれた)を利用して貴族を抑圧し、イギリス絶対王政の基礎を築きました。
ジョークは如何?
16世紀、スペイン宣教師バルトロメ・デ・ラス・カーサスは、
南米アンチル列島の地獄さながらの金鉱で働いている
インディオ奴隷にいたく同情し、ときのスペイン女王
カルロス5世に手紙を書いた。
「あまりに可哀想で見ていることが出来ません。
私は人道的な見地から、彼らは解放されるべきだと信じます。
どうか、国王陛下のお力で、金鉱で働いているインディオと
同数の黒人奴隷をお送り下さい。」
続く・・・
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