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2015/05/25

歴史を歩く110

15-5西ヨーロッパ中央集権国家の成立⑥

4百年戦争とばら戦争②

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 ランカスター朝の第2代国王ヘンリ5世(在位1413年~22年)は、フランスの内乱に乗じてフランスでの勢力回復をはかりノルマンディーに出兵しました(1415年)。
アザンクールの戦い(1415年)で大勝し、トロアの和約(1420年)を結び、フランス王太子シャルル(後のシャルル7世)の王位継承権を否認し、イギリス王太子ヘンリのフランス王位継承権を認めさせます。

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アザンクールの戦い

 1422年にヘンリ5世とシャルル6世が相次いで没し、イギリスの幼王ヘンリ6世(在位1422年~61年)が英仏両王を称しました。

 フランス王太子シャルル(後のシャルル7世)は、アルマニャック派によって王位継承者とされましたが、ブルゴーニュ派の反対もあり非合法の王で、その勢力範囲はロワール川流域とギュイエンヌを除くロワール以南の南フランスに限定されていたのです。

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シャルル7世

 イギリスは、このような情勢をみて、ロワール川以南への領土拡大を図り、ブルゴーニュ公と結んでアルマニャック派の拠点オルレアンを包囲します(1428年)。
もしオルレアンが陥落すればフランスは滅亡の危機に晒される時に現れた人物が、有名なジャンヌ・ダルクです。

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ジャンヌ・ダルク、オルレアン進軍

 ジャンヌ・ダルク(1412年~31年)は、フランス東部ドンレミ村の農家に生まれ、信仰心の篤い少女でした。
13歳の時に「フランスへ行け、フランスに行って国王を救え」と云う神のお告げを聞いたとされています(1425年)。

 オルレアンが包囲された後、「フランスへ行け、オルレアンを救え」という神の声にせき立てられたジャンヌ・ダルクは、近くの守備隊長の所へ出かけ、王太子シャルルのもとへ送り届けてくれるよう頼み込みます。
最初は全く相手にしてもらえなかったが、少女の信仰心と熱意は隊長を動かし、その援助によって500km離れた王太子の居城へ到達、シャルルに謁見し、シャルルの許可を得て数百の兵を率いてオルレアンに向けて進軍しました。

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シャルル7世即位

 ジャンヌ・ダルクの熱烈な信仰心はフランス軍兵士の士気を鼓舞し、ついにオルレアンの包囲を破ってイギリス軍を撤退させ (1429年)、ジャンヌの軍勢はその後破竹の進撃を続け、ランス(代々フランス国王の戴冠式が行われた町)に進撃し、そこでシャルルの戴冠式が挙行され、シャルル7世(在位1422年~61年)は正式にフランス王になることが出来たのです。

 しかし、その後コンピエーニュへの救援に赴いたとき、ブルゴーニュ派に捕らえられ、シャルル7世が身代金を支払わなかったためにイギリス側に引き渡されます。
この時、ジャンヌに大恩のあるシャルル7世は「小娘一人の命ですめば安いものだ」と発言したと伝えられています。

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ジャンヌ・ダルク火刑執行

 ジャンヌ・ダルクはルーアンの宗教裁判で「異端、魔女」の判決を受け、1431年5月31日にルーアン市の広場で火刑に処せられます。
ジャンヌ・ダルクについては、後に名誉復権裁判が行われ、無罪、復権の判決が出され(1456年)、1920年には聖者に列せられました。

 その後の戦局は、フランスが各地で圧倒的な勝利をおさめ、ノルマンディー(1449年)、ギュイエンヌ(1451年~53年)を回復し、1453年にはボルドーを占領し、カレーを除いてフランス国内から完全にイギリス勢力を駆逐し、百年戦争はついに終結したのでした(1453年)。

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ジャック・クール

 シャルル7世は、百年戦争末期から戦後にかけて大商人ジャック・クールを財政監督官に起用して財政改革を行い、叉常備軍創設や官僚制整備を行い、王権の強化と中央集権化を進めました。

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英国王朝家系図

 百年戦争に完敗してカレーを除くフランスの領土を全て失ったイギリスでは、間もなくランカスター家とヨーク家による王位争奪を巡る大内乱が始まり、この内乱はランカスター家が赤ばらを紋章とし、ヨーク家が白ばらを紋章としたことから、ばら戦争(1455年~85年)と呼ばれています。
ばら戦争は、この両家の王位争いに国内の諸侯が両派に分かれて争った結果30年に及ぶ大内乱に成りました。

 ランカスター家(ヘンリ3世の子エドモンドを祖とする)のヘンリ4世(在位1399年~1413年)は、従兄のリチャード2世の圧政に反抗し、これを破って議会の承認を得て即位し、ランカスター朝(1399年~1461年)の創始者となり、その後ヘンリ5世、ヘンリ6世と続きますが、ヘンリ6世(在位1422年~61年)とヨーク公リチャード間の争いが契機となってばら戦争が始まります。

 ヨーク家(エドワード3世の5男エドモンドが祖)のエドワード4世(在位1461年~70年)は、父ヨーク公リチャードの戦死後、ランカスター派を破り、ヨーク朝(在位1461年~85年)を創始しました。

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ヘンリ・テューダー(ヘンリ7世)

 ヘンリ・テューダー(後のヘンリ7世)は、ランカスター家の血を引いていた為、ヨーク朝の成立以来フランスに亡命していたのですが、フランス王の援助を受けて帰国し、ボズワースの戦い(1485年)でリチャード3世(ヨーク朝第3代の王)を破って敗死させ、即位してヘンリ7世(在位1485年~1509年)と成りました。
これによってばら戦争は終結し、テューダー朝(1485年~1603年)が成立します。

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エリザベス

 ヘンリ7世は、翌年ヨーク家のエリザベス(エドワード4世の娘)王妃に迎え、ランカスター家とヨーク家の合同が叶います。

 ヘンリ7世はばら戦争によって没落した貴族の領地を没収して王領を拡大し、叉星室庁(国王直属の特別裁判所、ウェストミンスター宮殿の星の間に設置されたのでこう呼ばれた)を利用して貴族を抑圧し、イギリス絶対王政の基礎を築きました。

ジョークは如何?

16世紀、スペイン宣教師バルトロメ・デ・ラス・カーサスは、
南米アンチル列島の地獄さながらの金鉱で働いている
インディオ奴隷にいたく同情し、ときのスペイン女王
カルロス5世に手紙を書いた。

「あまりに可哀想で見ていることが出来ません。
 私は人道的な見地から、彼らは解放されるべきだと信じます。
 どうか、国王陛下のお力で、金鉱で働いているインディオと
 同数の黒人奴隷をお送り下さい。」


続く・・・

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2015/05/20

歴史を歩く109

15-5西ヨーロッパ中央集権国家の成立⑤

4百年戦争とばら戦争

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 イギリスは、ノルマン朝、プランタジネット朝の成立によってフランスに広大な領土を持つこととなり、その奪回をはかるフランスとの間で抗争が繰り返されました。

 フランスでフィリップ2世からフィリップ4世の時代に王領の拡大と中央集権化が進むとフランス国内のイギリス領をめぐる英仏の抗争はますます激しくなっていきます。

 フィリップ4世はフランドル、ギュイエンヌ地方に対するイギリスの影響力を排除し、その王領化を企ててエドワード1世と両地方をめぐって激しく争いました。

 フランドル地方は中世ヨーロッパで最大の毛織物の産地でしたが、その原料である羊毛の大部分を当時のヨーロッパ第一の羊毛生産国であるイギリスから輸入していました。

 フィリップ4世は、フランス国王の封建的臣下であるフランドル伯領を直接支配下に組み入れることを画策しますが、イギリスは経済的に緊密な関係にあったフランドルにフランス王の勢力が及ぶことを阻止しようとします。
百年戦争の発端は王位継承問題ですが、最大の原因はこのフランドルをめぐる英仏の争いでした。

 又、ギュイエンヌ地方はぶどう酒の特産地として知られ、ボルドーからイギリスに輸出され、イギリスの王侯、貴族に愛飲されていたのです。

 フランスではカペー朝断絶後、フィリップ4世の甥のフィリップ6世(在位1328年~50年)が即位し、ヴァロア朝(1328年~1589年)を創始しました。

 フィリップ6世は、イギリス王がギュイエンヌに関して、フランス王の封建的臣下であることを利用し、口実を設けてギュイエンヌの領地没収を宣言しました(1337年)。

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「エドワード3世のソンム川の渡河」1788年製作

 これに対してイギリス国王エドワード3世(在位1327年~77年)は、母イサベラがフィリップ4世の娘であることから、甥のフィリップ6世に王位継承権が存在するなら、孫の自分にも当然王位継承権が存在すると主張し(1337年)、その一方でフランドル諸都市に対しては羊毛輸出禁止を発令して対仏反乱を誘導し、百年戦争(1339年~1453年)が始まります。

 王位継承権に関する書簡を送った翌年、イギリス軍がノルマンディーに上陸し、その翌年に戦争が始まります。
近年、この戦争開始の年(1339年)をもって百年戦争の開始としています。

 百年戦争と呼ばれていますが、百年間絶えず戦争が続けられた訳では無く、休戦期間も長く、時折決戦が行われたのでした。

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エドワード黒太子

 百年戦争の最初の決戦となったのがクレシーの戦い(1346年、クレシーは北仏、カレーの南)です。この戦いではエドワード黒太子(エドワード3世の長男、黒い鎧を着用していたことからBlack Princeと呼ばれた)の率いるイギリス長弓隊が活躍し、重装騎兵とジェノヴァの傭兵からなる弩(いしゆみ)隊に完勝しました。
又、イギリス軍が初めて大砲を使用した戦いとしても有名で、クレシーの戦いの翌年、イギリス軍はカレーを占領してこの町を大陸への足がかりとしました。

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ポワティエの戦い(1356年)
 
 エドワード黒太子は、1355年にイギリス領ギュイエンヌに渡り、翌年北上してロワール川流域に進出し、戦利品を獲得して引き上げようとしていた時、ノルマンディーから南下してきたフランス国王ジャン2世(在位1350年~64年)の軍勢と遭遇し、ここにポワティエの戦い(1356年)が始まりました。
この戦いは激戦の末にイギリス軍の勝利に終わり、敗れたジャンは捕虜と成ります。

 これより前に西ヨーロッパではペストが大流行し(1346年~50年)、フランスでも人口の3分の1が病死したと云われており、更に大農民反乱であるジャックリーの乱(1358年)が起こるなどフランス国内は大混乱に陥りました。

 こうした状況の中でブレティニーの和約が結ばれ、イギリスはポワトゥー・ギュイエンヌ・ガスコーニュ・カレーを獲得する代わりに王位継承権を放棄、ジャン2世を釈放、一時休戦と成りました。

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シャルル5世

 フランスでジャン2世の死後、名君シャルル5世(在位1364年~80年)が即位すると、イギリスに占領された地を次々に奪回し(1369年~75年)、75年にはイギリスはカレー・ボルドー・バヨンヌ(フランス南西部)を残すのみと成ります。

 シャルル5世の死後、長男シャルル6世(在位1380年~1422年)が11歳で即位しますが、不幸にもブルターニュ地方に遠征した際に発狂し、以後長い狂気と短い正気を繰り返したのでブルゴーニュ公が摂政となりました。

 以後、フランス国内の諸侯は、オルレアン公(シャルル6世の弟)を中心とするアルマニャック派(国王派)とブルゴーニュ公(シャルル6世の叔父)を中心とするブルゴーニュ派に2分され、対立、抗争を続けます。
ブルゴーニュ公は、当時フランドルを併合し、フランス東部に強大な勢力を打ち立てていましたが、後にイギリスと手を結びます。

 一方、イギリスではエドワード3世の後、リチャード2世(在位1377年~99年、エドワード黒太子の子)が即位しますが、一族のランカスター家のヘンリ(後のヘンリ4世)と争い、捕えられて廃位後に暗殺され、プランタジネット朝は断絶し、ランカスター朝(1399年~1461年)が成立しました。

ジョークは如何?

エッフェル塔の展望階にあるカフェにて

係員:「貴方は毎日エッフェル塔に来てらっしゃる。よほどここがお好きなんですね」
老人:「わしはエッフェル塔など好きではない。むしろ嫌いだ」
係員:「何故嫌いなのに来てらっしゃるのですか?」

老人:「ここからはエッフェル塔が見えん」


続く・・・

2015/05/15

歴史を歩く108

15-5西ヨーロッパ中央集権国家の成立④

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百年戦争・クレシーの戦い

3イギリスとフランス②

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ヘンリ3世

 ジョンの死後、子のヘンリ3世(在位1216年~72年)が幼少で即位します。
当初は摂政が国内を上手く統治したのですが、親政を始めるとフランスから王妃を迎え、フランス人を重用し、又対仏戦での戦費が多額に成り、マグナ=カルタを無視して重税を課したため、貴族の不満を招き、一度はオックスフォード条令(1258年)で貴族の特権を認めたものの、まもなくこれを無視したことから、シモン・ド・モンフォール率いる貴族の反乱が起き、身柄を拘束されます(1264年)。 後に王太子エドワード(後のエドワード1世)に救出されますが(1265年)、以後政治の実権はエドワードに移って行きました。

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シモン・ド・モンフォール

 シモン・ド・モンフォール(1208年頃~65錬)はノルマンディーでフランスの名門貴族の家に生まれ、父はアルビジョワ十字軍に参加して功績があり、母がイギリス人であったことからレスター伯領を相続してイギリスに渡り(1229年)、ヘンリ3世の妹と結婚したものの(1238年)、ヘンリ3世に対する貴族の不満が増大すると、その指導者に選ばれ、オックスフォード条令を王に認めさせます。

 ヘンリ3世が条例を無視すると反乱を起こし(1263年~65年)、王を捕らえ、翌1265年に従来の大貴族、高位聖職者の集会に州騎士(地方の小領主)と都市の市民代表を加えて諮問議会を召集しました。
この諮問議会(シモン・ド・モンフォール議会)はイギリス議会(下院)の始まりとされています。しかし彼は王太子エドワードとの戦いで敗死します(65年)。

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エドワード1世

 エドワード1世(在位1272年~1307年)は即位すると多くの法令を発布し、制度を整えました。彼が1295年に召集した議会は模範議会(大貴族、高位聖職者の他に、各州2人の騎士、各都市2人の市民で構成)と呼ばれ、その後の議会構成のモデルと成ります。

 エドワード3世(在位1327年~77年)の治世に、議会は上院(大貴族、高位聖職者で構成)と下院(騎士と市民構成)に分かれ、課税には下院の承認を必要とすることになり、議会は諮問議会から立法機関へと発展して行きました。

 このエドワード3世の時に有名な百年戦争が勃発します。

 フランスでは10世紀末にカペー朝(987年~1328年)が成立しますが王室領はパリ周辺に限られており王権は弱く、典型的な封建制の下で国王より遥かに広大な領地を持つ大諸侯(ノルマンディー公、ブルターニュ公、アンジュー伯、アキテーヌ公等)の勢力が強かったのです。

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フィリップ2世

 カペー朝第7代の王が有名なフィリップ2世(尊厳王、在位1180年~1223年)です。
フィリップ2世は王領の拡大と中央集権化に努め、封建諸侯と戦って王権を伸張し、フランス王権の基礎を固めて行きました。

 前王ルイ7世(在位1137年~80年)の時代にイギリス領となったフランス西半分の領土の奪回をはかり、ヘンリ2世、リチャード1世と抗争を繰り返します(1187年~)。

 第3回十字軍(1189年~92年)に参加したものの、リチャードと対立して途中から帰国し、後にノルマンディーの領有をめぐってリチャードと戦い(1194年~99年)、更に次王ジョンとも衝突し、ノルマンディー、アンジュー等大陸のイギリス領の大半を奪回、王領を一挙に拡大し(1204年)、その後ジョンはドイツ皇帝と結んで失地奪回を図りますがが、フェリペ2世は連合軍を破って領土を確保します(1214年)。

 当時、南フランスのアルビ地方を中心にアルビジョワ派が盛んとなり、南フランスの諸侯の間に信仰されました。
アルビジョワ派は、マニ教の影響を受け現世は苦と罪のみであると考えて肉体を罪悪視し、禁欲を唱えたカタリ派系キリスト教の一派で異端の宣告を受けていました。
フィリップ2世はアルビジョワ派討伐のためにアルビジョワ十字軍(1209年~29年)を起こし、アルビジョワ派の諸侯を討って南フランスにも王権を拡大します。

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ルイ9世

 フィリップ2世の孫でカペー朝第9代の王位に就いたルイ9世(在位1226年~70年)は敬虔なカトリック教徒で聖王と渾名され、12才で即位したため、最初の10年間は母后が摂政を務め、この間南フランスのアルビジョワ派を根絶して(1229年)、南フランスに王権を拡大しました。

 イギリス王ヘンリ3世との間にパリ条約を結び(1259年)、ノルマンディー、アンジュー、ポワトゥー等の諸地方を獲得し、代わりにギュイエンヌ地方を与えて英仏間の紛争を解決し、内政にも力を尽くしたので、長い治世の間国内は安定し、カペー朝の全盛期を現出しました。

 ルイ9世は第6回十字軍(1248年~54年)、第7回十字軍(1270年)に参加しましが、第7回十字軍の際チュニスで病没しています。

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フィリップ4世

 ルイ9世の孫でカペー朝第11代の王が中世フランスを代表する偉大な王フィリップ4世(在位1285年~1314年)で、彼は王権の強化と国家統一を強力に押し進め、当時のヨーロッパで最初に国家統一を実現しました。

 フィリップ4世は、当時親英、反仏的だったフランドル諸都市(イギリスから羊毛を輸入していたのでイギリスとの繋がりが強かった)とギュイエンヌ(ボルドーを中心とする地方でイギリスにぶどう酒を輸出していた)へのイギリスの影響力を排除し、王領化をはかるために出兵しますが失敗に終わっています。

 フィリップ4世はこの戦争の戦費による財政難を打開するために聖職者への課税を企てて教皇ボニファティウス8世と対立し、三部会を召集し(1302年)、国民の支持を背景にアナーニ事件(1303年)を引き起こし、ボニファティウス8世をアナーニに幽囚して憤死させ、更にフランス人教皇を擁立して教皇庁をアヴィニョンに移し(教皇のバビロン捕囚、1309年~77年)、教皇をフランス王の監視下に置く端緒を開きます。

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フィリップ6世

 フィリップ4世の死後、3人の子供達が後を継ぎますが、シャルル4世の死(1328年)によってカペー朝は断絶し、ヴァロア朝のフィリップ6世即位が有名な百年戦争(1339年~1453年)が起こる発端と成ったのです。

ジョークは如何?

「いいか諸君、われわれにはバターがない。しかし、私は質問したい。諸君はバターと大砲のいずれを欲するか?ラードを輸入するか、それとも金属部品を輸入するか?いいか諸君、バターは我々を太らせるだけだ。」(1936年)

笑いのコツ:ヘルマン・ゲーリングの立派な体格


続く・・・

2015/05/15

歴史を歩く107

15-5西ヨーロッパ中央集権国家の成立③

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ヘースティングズの戦い

3イギリスとフランス

 イギリスでは、ノルマン征服(1066年)によってノルマン朝が成立しました。

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ノルマンディー公ウィリアム

 ノルマンディー公ウィリアムは、イギリスでエドワード懺悔王が崩御し、義弟のハロルドが王位に就くと、王位継承権を主張してイギリスに侵入し、ヘースティングズの戦い(1066年)でハロルドを破りウィリアム1世(在位1066年~87年)として即位しノルマン朝(1066年~1154年)の開祖と成りました。

 ウィリアム1世は5年間でイギリスの統一をはたし、全国で検地を行いドゥームズデー・ブック(全国的な検地帳、土地台帳)を完成させ(1086年)、全国の土地所有者をソールズベリに集めて忠誠を誓わせ(ソールズベリの誓約、1086年)、又カンタベリ大司教を自ら任命するなど集権的封建制でイギリスを統治しました。
この様にノルマン朝では当初より王権の強い王朝でした。

 ウィリアム1世はイギリス国王ですが、フランス領(ノルマンディー公国)に関してフランス王の臣下です。
この様にフランス王の臣下がイギリス王となり、主君より強大に成ることは、以後英仏間で抗争が続く原因と成りました。

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アンジュー伯アンリ(プランタジネット朝ヘンリ2世)

 ノルマン朝は4代続き、ウィリアム1世の孫スティーブンの死によって断絶し、フランスのアンジュー伯アンリ(ウィリアム1世の曾孫、母はスティーブンの従妹にあたるマティルダ)がヘンリ2世として即位し、プランタジネット朝(1154年~1399年)を創始します。
ヘンリ2世は、即位する以前に既に父からアンジュー伯領を継承し(1151年)、その翌年にフランス王ルイ7世と離婚したエレオノールとの結婚によってアキテーヌ(=ギュイエンヌ)公領等を継承していました。
そのヘンリ2世がイギリス王と成った結果、フランスのほぼ西半分がイギリス領となり、ヘンリ2世はイングランド・ノルマンディーと合わせて当時の西ヨーロッパで最も広大な領土を支配することと成ります。

 しかし、ヘンリ2世の晩年は悲劇でした。
フランス王と結んだ息子達(後のリチャード1世やジョン)の反乱に苦しめられ、最後はリチャードに攻められて、フランスの陣中で没します。

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リチャード1世

 リチャード1世(在位1189年~99年)は、ヘンリ2世の3男として生まれ、母からアキテーヌ公領を受け継ぎ、父王に2度反乱を起こし、父の死後イギリス王と成りました。

 即位後間もなく、フランス王フィリップ2世、ドイツ皇帝フリードリヒ1世と共に第3回十字軍(1189年~92年)に参加し、単独でサラディンと勇戦し、「獅子心王」とあざなされます。
帰途、ドイツ皇帝の捕虜と成ってしまいますが莫大な身代金を払って釈放され帰国を果たします(1194年)。
帰国後、弟のジョンから王位を奪い返し、諸侯の反乱を鎮圧した後、フランスに出兵してフィリップ2世との戦いの臨みますが、戦場で討たれてしまいます。

 リチャードは10年の治世の間、イギリスに留まったのは半年余りであったと云われ、戦いに明け暮れた、勇猛な武将で、中世騎士道の典型的な人物と称えられますが、一方政治的には無能であったと云われています。

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ジョン王「欠地王」

 プランタジネット朝第3代の王、ジョン(在位1199年~1216年)はヘンリ2世の末子で兄達にはそれぞれ領地が分け与えられたのですが、ジョンだけには与えられなかったことから「欠地王」と渾名され、兄リチャードの死後イギリス王位を継承し、引き続いてフェリペ2世と大陸で戦いますが(1204年~06年)結果的にフランス国内の多くの領地を失っています。

 又カンタベリ大司教の任命をめぐって教皇インノケンティウス3世と争った結果破門され(1209年)、全領土を一旦教皇に献上し、改めて封土として受け、教皇の封建的臣下となりました。

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「マグナ=カルタ(大憲章)」署名

 翌年、再び大陸に出兵してフェリペ2世と戦うものの敗退、国内では戦費の負担に苦しんだ貴族の反乱を招き、帰国後有名な「マグナ=カルタ(大憲章)」に署名しました(1215年)。
しかし、ジョンはインノケンティウス3世に訴えてマグナ=カルタ無効の宣言を受け、更に反乱を起こした貴族達を破門させた結果、再び内乱が勃発し、貴族軍と交戦中に病没しました(1216年)。
  
「マグナ=カルタ(大憲章)」はジョンの悪政に対して貴族が団結して王に認めさせたもので全63条から成っていいます。

権利の請願(1628年)や権利章典(1689年)と共にイギリス憲法を構成する重要な文書であり「イギリス憲政のバイブル」とも云われています。

 主要条項は以下、
第1条 まず第一に、朕は、イングランドの教会は自由であり、その権利を減ずることなく、その自由を侵されることなく有すべきことを、神に容認し、この朕の特許状によって、朕及び朕の後継者のために永久に確認した。・・・

第12条 如何なる軍役免除金又は御用金も、王国全体の協議によるのでなければ、朕の王国において課せられるべきでない。・・・

第13条 又ロンドン市は、全てのその古来の特権と、水路陸路を問わず自由な関税とを有すべきである。更に朕は総ての他の都市、市邑、町、港が総てその特権と自由な関税を有すべきことを望み、又認可する。

第16条 如何なる者も、騎士の封、又如何なる自由な封の保有についても、その封に付帯する以上の奉仕をおこなうことを強制されることはない。

第39条 如何なる自由人も、彼と同輩の者の判決によるか、又は国法による以外には、逮捕され、監禁され、又自由を奪われ、又法の保護外に置かれ、又追放され、又如何なる方法にてもあれ侵害されることはなく、又朕は彼に敵対することなく、彼に対して軍勢を派遣することはない。

第41条 凡ゆる商人は、古来の正当な慣習により、如何なる悪税をも課せられることはなく、売買のため、水路陸路を問わず、安全かつ無事にイングランドに入国出国し、イングランド内に滞在し、通行することが出来る。・・・                      
(山川出版社「世界史史料・名言集」より)

 此処で第39条の様に国民の権利に関する条項も存在しますが、全体としては僅かで、その大部分は封建社会において教会、貴族、都市等が慣習的に持っていた特権を再確認させたものでした。
しかしマグナ=カルタは国王が臣下の要求に屈した最初ものであり、イギリス憲政史上画期的な出来事でした。

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12世紀〜13世紀のイギリス・フランス

ジョークは如何?

イギリスのチャーチルは議会で何かと物議をかもしだす人物であったことで有名である。
チャーチルが首相の時に議会である議員と言い合いになった。その議員は勢い余ってこう言ってしまった。
「あんたは酒のみの大馬鹿ものだ!」
チャーチルは激怒してこう言った。

「お前を裁判所へ訴えることにする。罪名は国家重要機密漏洩罪だ!」


続く・・・


2015/05/11

歴史を歩く106

15-5西ヨーロッパ中央集権国家の成立②

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2封建制・荘園制の崩壊

 封建制は自給自足を本質とする荘園制の上に成り立っていましたが、十字軍以後商業や都市が発達し、貨幣経済が進展する中で荘園制や封建制も崩れ始めました。

 貨幣経済が広まるに連れて、領主層もその賛否には関係なくその中に取り込まれていきます。
領主としての体面を保つためにより多くの貨幣を必要とした領主は、賦役を止め、直営地を農民に貸し与え、地代を生産物や貨幣で受け取る様に成ります。

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農奴の賦役

 賦役は、農奴が領主の直営地で、週に2~3日、無償で働くことで、労働地代とも呼ばれました。農奴は賦役を嫌いましたが、領主から土地を借りるためには賦役に出て行かねば成りませんでした。

 賦役による直営地の収穫物は全て領主の物となり、農奴達が如何に一生懸命働いても自分達の物にならなかった為、農奴達は本気で働こうとしませんでした。
その為、同じ面積当たりから取れる収穫物は、農民の保有地(領主から借りた土地)の方が遥かに多く、言い換えれば賦役は非能率だったのです。

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農作業

 その為、領主は非能率な賦役を止めて、賦役を金納化し、場合によっては直営地を分割して農奴に貸し与えるように成りました。
領主から土地を借りた農奴は、収穫物の一定割合を作物で納めた結果、この税は貢納又は生産物地代と呼ばれます。

 この様に地代形態は、労働地代から生産物地代、貨幣地代へと変化していったのです。

 この地代形態の変化は、農奴にとっても有利で、生産物、貨幣で納める場合、その割合が一定で在る場合や定額の場合、農奴達が一生懸命働き収穫量を増やせば増やす程、農奴の手元に残る量も多くなり、農奴の一部には貨幣を蓄えて次第に富裕になっていく者も存在したのです。

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黒死病死者の搬送

 当時、1348年に黒死病(ペスト)が全ヨーロッパに流行し、農村人口が激減すると領主の直営地経営は更に困難を極め、賦役の金納化(売却)が促進され、農奴の身分的束縛が緩んで行きました。

 ペストは歴史上何回も猛威をふるい、多くの人々の命を奪ったおそろしい伝染病ですが、特に14世紀中頃ヨーロッパ襲ったペストの流行は歴史上最も有名です。

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ヨーロッパのペスト感染経路

 この時のペストはアジアで猛威をふるっていたのですが、東方貿易に従事していたイタリア商人等が感染し、イタリア、フランスの港に入り(1347年)、1348年には全西ヨーロッパに拡大しました。ペストには腺ペストや肺ペスト等の種類が在りますが、この時ヨーロッパで流行したのは腺ペストの方で、その症状については有名なボッカチオの「デカメロン」(1348年~53年の作)の冒頭に次のように書かれています。
「東洋では鼻血がでたら死が疑い無しでしたが、それとは違って罹病の初期にはこわばったはれものが出来て、そのうちのあるものは普通のりんごぐらいに他のものは鶏卵ぐらいに大きくなり・・。命取りのはれものはまたたく間に全身にわたってところかまわず吹き出し盛り上がってまいりました。こうなってからあとはそのはれものは黒色かなまり色の斑点に変わり出しました。たいていの者には両わきだの、両足だの体中いたるところにあらわれてくるのです・・・あのペストのはれものが死の到来のきわめて確かなしるしであったように、この斑点はそれが出てきた人にとって同じく死の徴候でした。こうした病気の治療には、医者の診察もどんな効能のある薬もききめがあるようには見えませんでした・・・徴候があらわれて3日以内に、多少遅い早いはあってもたいていは少しの熱も出さず、そうかといって別に変わったこともなく死んでいきました。このペストはそれは驚くべき力をもっておりました。・・・」

 このペストの大流行によって、イギリス、フランスでは人口の3分の1が病死したと云われています。
農村人口も激減して領主の直営地経営が困難となり、貨幣地代の普及が促進され、農奴は賦役や領主裁判権等の身分的束縛から解放される様に成りました。

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独立自営農民

 この様な動きを農奴解放と呼び、農奴解放によって農民の地位は向上し、嘗ての農奴は家族労働によって保有地を耕作し、僅かな地代を担いますが、身分的にはほとんど自由に成りました。
この様な農民を独立自営農民(ヨーマン)と呼びます。

 こうして自立化していく農民に対して、貨幣経済の進展で窮乏化した領主が再び束縛や搾取を強化しようとすると(この様な動きを封建反動と云う)、彼等は激しく反抗し、農奴制廃止等の要求を掲げて農民一揆を起こしました。

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ジャックリーの乱

 フランスでは、1358年にジャックリーの乱と呼ばれる大農民反乱が起こります。

 百年戦争初期のポワティエの戦い(1356年)後の無給傭兵達の村荒らしや領主の身代金調達の為の重税賦課が直接の原因となり、フランス北東部の農民達がギョーム・カール(カイエ)を指導者として立ち上がります。
ここでジャックとは当時の貴族が農民達を軽蔑して呼んだ呼び方ですが、反乱軍は諸侯軍に破れ、カールは処刑され、徹底的に弾圧されました。
この反乱は規模や処刑の厳しさでフランス史上最大と云われています。

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「アダムが耕し、イブが紡いだ時、誰がジェントリ(郷紳、地主)であったか?」

 イギリスでも、1381年にワット・タイラーの乱が起こります。

 百年戦争の戦費調達の為に15才以上の国民に人頭税がかけられると、これに反対してワット・タイラーはイングランド東南部の農民、手工業者を率いて立ち上がり、ロンドンに進撃し、国王に農奴制の廃止や地代の引き下げを約束させますが、更に教会財産没収や農民への土地分配等の新たな要求を行った際に殺害され、指導者を失った反乱軍は各地で敗れて一揆は鎮圧されました。

 このワット・タイラーの思想的指導者で、巡回説教師としてウィクリフの教会革新の説を広めていたジョン・ボールは「アダムが耕し、イブが紡いだ時、誰がジェントリ(郷紳、地主)であったか」と唱え、社会的平等思想を説いて、農民や下層民を引きつけますが、一揆の失敗で彼も処刑されます。

 この様にジャックリーの乱やワット・タイラーの乱は鎮圧されましたが、再発防止の為に農民の要求の多くは次第に実現され、自由化が進んでいくことに成ります。

 荘園制、封建制の崩壊は諸侯、騎士の没落を促進し、諸侯、騎士は十字軍による軍事的、経済的な負担によって没落しつつあったのですが、荘園制崩壊は彼等の経済的な基盤を失わせ、又火砲の使用等による戦術の変化は諸侯、騎士の没落を決定的にしました。

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弩(いしゆみ)

 14世紀に出現した弩(いしゆみ)と長弓は戦争の様相を大きく変えたのです。
弩はハンドルで弓弦を引きしぼり、引き金を引いて矢をとばす武器で、矢の飛ぶ力が強く殺傷力は格段に高まったのですが、発射迄に時間を要することが難点でした。
一方の弓の長さが1.7mもある長弓は速射が可能で、鎧(よろい)を突き通す力も備えていたのです。

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長弓

 この様な武器の出現と共に重装騎士が出現します。
彼等は強い矢に対抗する為に、全身を鋼の板金を重ねた鎧に身を包みましたが、鎧の重さは50~60kgに達したと云われ、その為まっすぐに立つことも難しく、一人で馬に乗ることも出来ず、落馬すれば起きあがることも出来ませんでした。
その為、重装騎士は限られた力しか発揮できず、騎士による一騎打ちは意味を失い、軽装騎兵や歩兵が戦闘で大きな役割を果たすように成りました。

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14世紀から15世紀頃の大型大砲

 更に14世紀以後、火砲の出現は戦術を一層大きく変化させていきます。

 14世紀中葉には大砲が使用される様に成ります。
初期の大砲は、砲身長1m程の鉄製筒で、弾丸は石や鉄、鉛等で作られ、筒の一端に火薬をつめ、長い棒の先につけた種火で点火して発射したのですが、平均10発で砲身が破裂し、発射速度は1時間に1発位であったと云われ、破壊力、飛距離は期待出来るものでは無かったのですが、大音響で人馬を驚かせて混乱させる方に効果が在ったようです。
15世紀になると進歩の度合いも大きく進み、射程距離は約1kmに伸び、砲身の寿命も約100発に向上していました。

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オーストリア・マスケット銃部隊

 鉄砲は、大砲より遅れて15世紀後半に使用される様に成ります。
初期の鉄砲は発射と照準を合わせることが面倒で命中率も悪かったのですが、16世紀初頭にはいわゆる火縄銃が発明され、発射と照準が容易になり急速に普及して行きました。
射程距離は約300mでしたが、100m以内が有効とされ、重装騎士に対しても十分に威力を発揮します。しかし、2分に1発程度と発射に時間がかかることと、雨によって火縄が濡れて不発火になる欠点が大きな問題でした。

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戦国時代


 日本には1543年、種子島に渡来したポルトガル人によって伝えられますが、ヨーロッパで鉄砲が盛んに使われる様に成って間もない事で、鉄砲の使用が織田信長、豊臣秀吉等の天下統一に大きな役割を果たした事は良く知られています。

 火砲の使用等による戦術の変化は騎士の役割を低下させ、彼等の没落を早め、諸侯や騎士は、当時中央集権化を進めていた国王の廷臣となり、農民からは地代を取り立てるだけの地主になっていったのです。

ジョークは如何?

ロシアにある「赤の広場」で、男が「スターリンは馬鹿だ」と叫びながら走り回っていた。
当然男は逮捕され、裁判の結果懲役25年が言い渡された。

刑期のうち5年は侮辱罪、残りの20年は国家機密漏洩罪であった。


続く・・・

2015/05/08

歴史を歩く105

15-5西ヨーロッパ中央集権国家の成立①

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テンプル騎士団最後の総長:ジャック・ド・モレー (Jacques de Molay、1244年? - 1314年3月18日)

1教会勢力の衰微

 十字軍が教皇の提唱で起こされ、一時的にせよ聖地を回復したことは、教皇の権威を益々高め、教皇権は13世紀初頭のインノケンティウス3世の時代に絶頂期を迎えました。

 しかし、最終的には聖地を回復することは叶わず、その一方で十字軍の指揮者として活躍した国王の権力が伸張するにつれて、教皇の権威は低下して行きます。

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ボニファティウス8世

 13世紀末に在位した教皇ボニファティウス8世(在位1294年~1303年)は、ローマ有数の名門出身で、政治家、法律家として優れた才能を有していましたが、尊大で激情に走りやすく、政治的柔軟性に欠けていました。

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フィリップ4世

 フランスのフィリップ4世(在位1285年~1314年)は、13世紀末に起こった英仏間のフランドルとギエンヌをめぐる戦いの戦費を調達するために、教会法に反して聖職者、修道院に課税したことぁら、聖職者達は教皇に訴えを起こします。

 ボニファティウス8世は聖職者課税禁止の教書を発して、教皇の同意なく教会財産に課税する者を破門することを宣言し、フィリップ4世を激しく非難したのです(1296年)が、これに対してフィリップ4世は、フランス国内の一切の貴金属を国外に持ち出すことを禁止します。
この行為は、フランスの聖職者が教皇に差し出す租税、献金の禁止を意味したため、最終的に教皇は、聖職者課税禁止を緩和してフィリップ4世と妥協する結果と成りました。

 ところが、更にフィリップ4世が、ナルボンヌ司教の知行権を削り、臣下のナルボンヌ伯に与えたことから両者に2回目の衝突が発生します。

 司教が教皇に訴えたため、ボニファティウス8世は司教を使節として派遣しましたが、その司教の傲慢な態度に怒ったフィリップ4世は司教を逮捕して審問し、司教職剥奪を教皇に要求します(1301年)。

 これに憤ったボニファティウス8世は、フィリップ4世に対して、司教の釈放を命ずると伴に、国王は教皇権に従うべきであることを主張する教書を発し、破門で脅しながらフィリップ4世を屈服させようと試みました。

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フィリップ4世による三部会招集
 
 しかし、フィリップ4世はこれに屈せず、ノートルダムに聖職者、貴族と初めて参加した市民代表を加えた「三部会」を召集し(1302年)、教皇の教書を歪曲して発表し、臣下に教皇弾劾の演説を行わせたため、フランス国民は国王を支持し、教皇を非難する決議を行いました。
この時召集された「三部会」がフランス議会の始まりとされています。

 これに対して、ボニファティウス8世が発した教書が有名な「唯一の聖なる教会」です(1302年)
「教会及びその権力には二振りの剣、すなわち聖界のものと俗界のものがある。・・・いうまでもなく聖界の剣及び俗界のそれはともに教会の権力のうちにある。後者は教会のために、前者は教会によって行使される。・・・しかも一つの剣が他の剣の下に従属し、また俗界の権威は聖界の権威に服従せしめられることは当然である。」(史料世界史、山川出版社)

 フィリップ4世は、これに対して再び聖職者、貴族をルーヴルに集め、ボニファティウス8世を異端、売官者として告発し、その廃位を要求しました(1303年)。

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アナーニ事件

 ボニファティウス8世は、更に教書を発し、フィリップ4世は破門されることになったのですが、その直前にアナーニ事件が発生します。

 フィリップ4世は、教皇の廃位を要求する一方で、ひそかに腹心の部下の一隊をイタリアに派遣し、たまたまボニファティウス8世が滞在していたアナーニを急襲させます。
不意をつかれた教皇は捕らえられて幽閉され、その挙句にアナーニの町は略奪されました。
これがアナーニ事件(1303年)です。

 ボニファティウス8世は、その後市民の手で解放されますが、受けた屈辱がもとで持病の胆石が悪化し、1ヶ月後に急逝します。

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クレメンス5世(在位1305年~14年)

 その後、フランスの貴族出身でボルドー大司教であったクレメンス5世(在位1305年~14年)が教皇に選出されます。
クレメンス5世は、リヨンで戴冠し、ローヌ河沿いの町で一時を過ごした後、フィリップ4世に強制されて教皇庁を南仏のアヴィニョンに移しました(1309年)。

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アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口

 以後、7代70年間にわたって教皇庁は南仏のアヴィニョンに置かれ、7人の教皇(7人ともフランス人)はフランス王の監視下に置かれることになります。

 この有名な出来事は、「アヴィニョン捕囚」(1309年~77年)、あるいは古代のユダヤ人のバビロン捕囚の故事になぞらえて「教皇のバビロン捕囚」と呼ばれています。

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ウルバヌス6世

 7代目のアヴィニョン教皇、グレゴリー11世(在位1370年~78年)が、ローマ帰還(1377年)の翌年に逝去したため、ローマではウルバヌス6世が選出されましたが、フランス人枢機卿はこれに反対し、アヴィニョンにクレメンス7世を擁立します。

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クレメンス7世

 このため、以後イタリア・ドイツ・イギリスが支持するローマ教皇とフランスが支持するアヴィニョン教皇がともに正統を主張して対立することに成り、これを教会大分裂(シスマ)(1378年~1417年)と呼び、15世紀初頭には、この事態を解決するためにローマ・アヴィニョン両教皇を廃して新しい教皇が擁立されますが、両教皇はこれを認めず、この3人の教皇が鼎立する事態となりました(1409年ピサ公会議)。

 教会大分裂によって教皇の権威は著しく失墜し、又ヨーロッパ中の教会は、支持する教皇に献金するために金集めに狂奔した結果、教会や聖職者の世俗化、腐敗が一層進み、こうした状況のなかで教会革新の声が高まって行きました。

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ジョン・ウィクリフ

 イギリスの神学者、聖職者であったウィクリフ(1320年頃~84年)は、オックスフォード大学に学び、後に同大学神学教授に就任します。
彼はイギリス教会に対する教皇の干渉を排除し、イギリスの教皇からの宗教的、政治的独立を主張しました。

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ワット・タイラー

 彼は、カトリック教義が聖書から離反していると説き、聖書こそが信仰と救済の最高の根拠であるとする聖書中心主義を唱え、教会の世俗化や腐敗を激しく攻撃し、それ迄ラテン語で書かれていた聖書の英語訳を行い、自説の普及に努めるとともに、国王保護の下で教会改革を推進しますが、ワット・タイラーの乱(1381年)が起こると関係を疑われて大学を辞職します。
又彼の説はベーメン(ボヘミア)のフスに大きな影響を及ぼしたのです。

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刑場に引かれるフス

 ベーメン(ボヘミア、現在のチェコ共和国)のフス(1370年頃~1415年)は、貧農の子に生まれ、プラハ大学に学び、同大学教授(1398年)、後に同大学総長に就任します(1409年)。

 大学教授を勤めると同時に、プラハ市のベツレヘム教会の説教者となり、ウィクリフの説に共鳴して聖書中心主義の立場からカトリック教会を批判し、教皇の世俗的権力を否定し、教会改革を主張しました。
このためローマ教会と対立を深め、破門されたものの(1411年)、これに屈せず、各地で活動を続けます。

 フスの説を支持する者はボヘミアだけでなく、全ヨーロッパに広まった結果、ローマ教会はコンスタンツの公会議(1414年~18年)を開き、フスを召喚し、彼に学説の撤回を迫りますが、フスがこれを拒否したため、彼の説は異端とされ、フスは火刑に処せられました(1415年)。

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ドイツ皇帝ジギスムント

 ドイツ皇帝ジギスムントの主宰で開かれたコンスタンツの公会議(1414年~18年)には約5万人が参加したと言われていますが、この会議はシスマの解決と異端の審議を主目的として開かれました。

 シスマについては、ローマ教皇を正統と認め、分裂中の3教皇を廃し、統一教皇としてマルティヌス5世(在位1417年~31年)を選出してシスマを解決し、又異端の審議については、フスの説を異端として火刑に処すとともに、ウィクリフの説も合わせて異端として彼の遺体を掘り起こし、彼の著書とともに焼却しテムズ川に投じています。

 フスの処刑後、ドイツ皇帝ジギスムントは、プラハ市とプラハ大学を迫害したため、市民はフスの説の承認を求めて反乱を起こしました。
このフス戦争(1419年~36年)は、チェック人のドイツ支配に対する抵抗でもあったのです。

 こうして教皇権はかつての栄光を失って衰退に向かい、教会の世俗化や腐敗に対する教会革新運動は後を絶たず、ついに近代初頭にドイツのルターよる宗教改革が起こることと成ります。

ジョークは如何?

共産党の地区オルグ。中央から派遣された委員が共産主義社会の成果について得々と語る。
 「わが国の肉や小麦生産は飛躍的に向上している。」

 会場から質問。
 「その肉や小麦は何処に行ったんですか?」
 演説に水を差された委員がみるみる不機嫌そうに・・・

 次の月のオルグ。
 あいかわらず景気のいい演説。すると会場から「質問」の声が。
「なんだ?ここの地区は質問が多いな?肉や小麦の質問なら先月回答したはずだ。」

質問者。
「いいえ、同志委員。肉や小麦のことはいいんですけど、先月質問した奴は何処に行ったんですか?」


続く・・・

2015/05/05

歴史を歩く104

15-4十字軍と都市の発達⑦

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ドイツの造幣所風景

5市民の自治

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パン工房

 「都市の空気は自由にする」と云うドイツの諺があるように、封建的束縛から解放され自由を手に入れた都市の市民は、様々な束縛にあえぐ不自由な農奴から見ると羨ましい存在でした。
そのため荘園の農奴達のなかには何とかして都市へ逃げ込み、自由を求め様と試みる者も多かったのです。
ドイツでは農奴が都市に逃げ込み、1年と1日経過すれば自由な身分になれるという慣習が存在しました。

 しかし、都市の自由は封建領主からの自由であって、無制限の自由ではなく、都市の内部には厳格な支配と規制が存在していました。

 自治都市は、市民が市政を運営する特権を持っていたが、市政は商人ギルドの親方層である一部の大商人に握られていました。

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鍛冶屋

 ギルドは、中世都市の商人、手工業者の同業・同職者の組合であり、同業者の共存共栄・相互扶助・市場の独占を目的とした組織です。
ギルド内では、組合員(親方)の平等は尊ばれましたが、労働時間、製品規格、品質、製造方法、価格等に様々な規制が設けられており、自由競争は禁じられ、生産統制や 技術保持が図られ、更にギルド組合員になれる資格は親方だけであり、親方の権威は絶対でした。

 手工業者ギルドは同職ギルド(ツンフト)と呼ばれ、同職ギルドでは親方、職人、徒弟の間に厳重な身分関係が保たれていました。

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マイスター:フェルディナント・ボル(1616年-1680年)画

 一人前の手工業者になるためには、まず徒弟として親方の家に住み込み、無給で7年間辛抱し、家事手伝いや仕事場の掃除その他の雑用をしながら奉公します。
この間は一切技術は教えられることは無く、この修業の後に職人と成ります。
職人になると親方から給料をもらい、ひたすら技術習得に打ち込みました。
職人として腕を磨いた後、他の親方の下で更に腕を磨き、職人の期間が終わると組合が決めた通りの製品を作成して組合に提出し、審査に合格した者のみが親方を名乗ることが可能と成りました。
しかし、人数に制限もあり親方になることは大変困難なことでした。
従って職人が親方になるために作成した製品には優れた物が多く、英語のmasterpiece(傑作の意味)は、この親方作品に由来します。
親方になるとギルドに加入し、製品販売権を持つことが出来たのでした。

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中世手工業者

 ギルドは、最初、商人ギルドで、手工業者も範疇にふくまれており、商人ギルドの運営は大商人が独占し、その彼等が市政に参加し、市政を独占していました。

 この状況に不満を持つ手工業者は、12世紀前半頃から同職ギルドを作って分離し、大商人と争いながら次第に市政への参加を実現して行きました。
この商人ギルドと同職ギルドとの対立、抗争をツンフト闘争と呼んでいます。

 13世紀中頃から各都市でツンフト闘争が展開され、それによって手工業者の親方も市政に参加できるように成りますが、この闘争は特にドイツの諸都市で激しかったのです。

 ギルドは当初、市民活動を保障し、生産面でも一定の役割を果たしていましたが、様々な統制は後に生産の発達を妨げるものとなりました。

 商工業、都市の発達に伴い、中世末期から近代初頭にかけて大商業資本家が出現し、彼等は市政を独占し、皇帝の即位さえ左右する存在に成りました。
その代表がフィレンツェのメディチ家やアウグスブルクのフッガー家ですが、両家については都市の成立の所でも触れましたので、ここでは両家を代表する二人に人物に紹介します。

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ロレンツォ・デ・メディチ

 ロレンツォ・デ・メディチ(1449年~92年)は、フィレンツェの名門メディチ家の長男に生まれ、祖父コジモ・デ・メディチや父の後を継いでメディチ家とフィレンツェ共和国の全盛期を築きました。市政では反対派を抑えてメディチ家の専制体制を樹立し、又学芸の保護に努め、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの活動を援助しています。
又彼の長男が教皇レオ10世です。

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ヤコブとシビレのフッガー夫妻

 ヤコプ・フッガー(1459年~1525年)は、アウグスブルクの金融資本家フッガー家の7男として生まれ、フッガー家の全盛期を築き、父の遺産を受け継いで東方貿易に従事し、又銀山の独占権を獲得し、ドイツ皇帝や教皇に巨額の融資を行うなど国際金融資本家として巨万の富を築きました。
このため15世紀末から16世紀の中頃迄は「フッガー家の時代」とも呼ばれます。

ジョークは如何?

マルタ島から敵イタリア基地に向って出撃したRAF(英国空軍;Royal Air Force) のパイロットが敵地で撃墜され、辛くもパラシュートで脱出したが捕虜となった。

夜となり、牢獄に入れられた彼のもとに夕食が届けられたが、これが前菜から始まって、
パスタに肉料理、食後の果物にワインまで付く不自然なまでに豪華な食事。
補給が絶たれろくな食事をしていなかったパイロットは思った。
「これが俗にいう最後の晩餐、ってやつか…」

明日は銃殺されるんだ…と思ってまんじりもせずに迎えた翌朝、彼の繋がれている
牢獄の前に階級の高そうな将校が従卒を伴ってあらわれた。
こいつが銃殺を指揮するやつなのか?と思っているとその将校が何事かを彼に向って
話し始めた。連れの従卒が通訳する。

「昨日は間違って将校である貴殿に一般兵卒の食事を出してしまった。
決して捕虜虐待のつもりはない。私の顔に免じて看守を許してやってくれないか?」


続く・・・

2015/05/02

歴史を歩く103

15-4十字軍と都市の発達⑥

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領主の館と農民

4都市の自治権獲得

 中世ヨーロッパの封建社会は、「聖職者、王侯貴族、労働者」の三つの階級から成り立っていました。
「労働者」の大多数を占めるは、荘園内で働く自由を束縛された農奴達でした。
又荘園の中には少数ですが手工業者達も存在しましたが、10世紀頃迄は「働く人」の中に商人存在しませんでした。

 11世紀以後の商業、貨幣経済の発達は商人と云う新しい階級を生み出し、商人と荘園から移り住むようになった手工業者の居住地帯として、都市が成立し発展するようになりました。

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帝国都市ネルトリンゲン(ドイツ)

 中世ヨーロッパでは、都市のほとんどは城壁で囲まれ、この城壁の中に居住する人々は市民と呼ばれましたが、その市民のほとんどは農奴出身でした。

 荘園の中で交換が始まり、市(いち)が立つようになったとき、商業に従事した者は耕作する土地を持たなかった農奴や農業の片手間に商売をした人々であった思われます。
やがて取引の規模が大きくなり、取引の範囲が広くなるにつれて 商業や手工業に専念する人々が現れてきますが、彼等は封建領主の支配を受け、移動の自由がなく、賦役等の束縛を受けていました。その様な状況では、商売等に専念できないことは当然で、その為、彼等は封建的束縛から解放されて自由な身分になることを望み、領主の支配からの独立に努めたのです。

 貨幣経済の進展に伴い領主も貨幣を必要とするようになり、都市への課税を強化すると、都市の市民は是れに対抗し、場合によっては領主との闘争によって自由を獲得する場合も発生しましたが、多くの場合は封建領主である諸侯や騎士を抑えようとしていた国王や皇帝と結び、彼等に金銭的な援助を行う代わりに、その保護を受け、国王、皇帝から特許状を得て自治権を獲得していったのです。

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農民の婚宴

 その例えとした、イギリス、ブリストル市の特許状(1155年)の一部を紹介します。
「イングランド王にしてノルマンディー公、アキテーヌ公、アンジュー伯たるへンリーは(ヘンリー2世)、(中略)以下のことを告げる。 すなわち、余は、余のブリストルの市民達に、イングランド、ノルマンディー、ウェールズを通じて、彼等と彼等の商品の行くあらゆる場所において、すべての取引税、通行税、関税を免除することを認めた。したがって余の自由かつ忠誠なる臣下に対すると等しく、彼等(市民)が、彼等のすべての特権、免税権、自由な関税を有すること、又、彼等が取引税、通行税、全ての他の関税を免除されることを望み、これを厳命する。更に余は、この特許状の命に反して、彼等をさまたげる者については、10ポンドの罰金をもってこれを禁じる。」 (世界史史料・名言集、山川出版社より)

 封建領主の支配から自立し、市民自身が市政を運営する権利(自治権)を得た都市は自治都市と呼ばれましたが、自治権は都市によって強弱の差が存在したのです。

 ヴェネツィア、ジェノヴァ等、北イタリアの自治都市は、周辺の地域まで含んだ都市共和国となる例が多く、領主等外部権力からは完全に独立し、市民自身で市政を運営しました。
これに対してリューベック、ハンブルク等のドイツの都市は、皇帝から特許状を得て自治権を獲得し、皇帝直属の自由都市(帝国都市)として諸侯と同じ地位に在りました。
しかし、一部の有力な都市を除く多くの都市は、封建領主の保護のもとで納税の義務を負っていたのです。

 中世都市は、自立こそしていましたが、人口や規模の小さな都市が多く、皇帝、国王、封建領主の圧迫に単独で対抗することが困難であったため、周囲の都市と都市同盟を結び、共通の利害のために戦いました。

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ハンザ同盟の勢力圏

 都市同盟としては、北ドイツ諸都市を中心とするハンザ同盟や北イタリアのロンバルディア同盟が有名です。

 ハンザ同盟は、北欧商業圏を支配した北ドイツ諸都市を中心とする都市同盟で、ハンザは団体を意味します。
13世紀にリューベックとハンブルクが防衛同盟を結んだことに始まり、14世紀中頃には約80余りの都市が、最盛期には100を超える年が加盟し、リューベックを盟主としました。
ロンドン、ブリュージュ、ベルゲン(ノルウェー)、ノヴゴロド(ロシア)には四大在外商館がおかれ、ハンザ同盟の活動範囲は中部ヨーロッパに留まらず東ヨーロッパにも及びました。
又通商の安全を確保するために、共通の陸、海軍を保有しましたが、海軍は北欧の強国デンマーク海軍を撃破して(1370年)、北海、バルト海を制圧し、14世紀末には最盛期を迎えますが、16世紀以後次第に衰え、三十年戦争後に解散しました(1648年)。

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 ロンバルディア同盟

 ロンバルディア同盟は、ミラノを中心とする北イタリア諸都市の間で、ドイツ皇帝フリードリヒ1世の南下に対抗して結成され、皇帝軍を2度にわたって撃破し、最盛期には約30の都市が加盟していました。 

ジョークは如何?

スターリンが死んだ。この独裁者を厄介払いすべくフルシチョフは海外に埋葬場所の提供を求めた。
英国「わが国にはすでにチャーチル卿がおられます。大戦の英雄は1人で十分です」
ドイツ「わが国にはすでにヒトラーがいます。独裁者は1人でたくさんです」
そこへイスラエルから提供してもよいという応えが入った。だがそれを聞いたフルシチョフは青ざめた顔で猛反対した。
「あそこは以前に復活があったんだ!」


続く・・・