歴史を歩く117
1ルネサンス③
2文学②

ジェフリー・チョーサー
イギリス・ルネサンスの先駆者であるチョーサー(1340年頃~1400年)は、エドワード3世に仕え、イタリア、フランスに派遣された時、イタリアではボッカチオ、ペトラルカに会いイタリア・ルネサンスの影響を強く受け、イギリスに帰国後、「カンタベリー物語」(1391年頃)を著し、イギリス国民文学の祖と呼ばれました。

カンタベリー物語(チョーサー本人の登場箇所)
「カンタベリー物語」は、同じ宿に泊まり合わせたカンタベリー大聖堂への巡礼者達が一人ずつ話をする形式で24の物語から成っています。
形式的にも内容的にも「デカメロン」の影響が強く現れている作品です。

エラスムス
エラスムス(1469年~1536年)は、ネーデルランドのロッテルダムに生まれ、パリで学び、しばしばイギリスを訪れ、トマス・モアと親交を結び、イギリス滞在中に「愚神礼讃」(1509年)を著しました。

痴愚礼賛より「ろばがろばをこする」;意味「馬鹿が馬鹿にお世辞を言う」、「たいしたことのない者どうしが大げさに褒めあう」
「愚神礼讃」は、痴愚の女神の口を借りて聖職者等の腐敗・悪徳を痛烈に風刺した作品で、活版印刷で印刷され、当時のベストセラーとなり、宗教改革にも大きな影響を与えます。
「宗教改革という毒蛇はエラスムスが卵を生み、ルターがそれをかえした」と云われた様に、彼の弟子達からは多くの宗教改革者が登場しますが、エラスムス自身は過激なことを好まず、宗教改革には中立の姿勢を貫き、ルターとは対立しました。
又、エラスムスはギリシア語の新約聖書を世に広め、ギリシア劇のラテン語訳等古代ギリシア語の研究にも優れた業績を残し、最大のヒューマニスト(人文主義者)と呼ばれています。
トマス・モア
エラスムスの友人であったトマス・モア(1478年~1535年)は、ロンドンで弁護士の家庭に生まれ、オックスフォード大学で神学を学んだものの、父の希望に従って弁護士に成りました(1501年)。
その頃エラスムスと知り合い(1499年)、以後親交を結ぶことに成ります。

「ユートピア」の挿絵よりユートピア島
ヘンリー8世の信任を得て、外交使節としてヨーロッパ大陸に渡り、この旅行中に「ユートピア」(1515年~16年)を執筆します。
後に大法官に就任し(1529年)、熱心なカトリック教徒であったことから、ヘンリー8世の離婚には終始反対を唱え、ロンドン塔に幽閉され(1534年)、反逆罪に問われて翌年処刑されました。
「ユートピア」は、アメリゴ・ヴェスプッチ(4回にわたって新大陸を探検したフィレンツェの航海者)の航海に同行したヒュロダエウスが訪れたユートピア島(架空の島、ユートピアとは何処にも存在しないの意味)での理想的な社会の様子を描くことによって、当時のイギリス社会を痛烈に批判した作品で、特に「囲い込み」を批判した箇所は有名です。
以後ユートピアは理想郷の意味に使われる様に成りました。
第1次囲い込み(エンクロージャー)は、15世紀末から17世紀中頃にかけて、特に16世紀に最高潮と成りました。
毛織物市場の拡大に伴い羊毛の需要が増大し、羊毛価格が上昇した結果、牧羊のために領主や地主が小作人から農地を取り上げ、生け垣や塀で囲んで羊の牧場としたことから、土地を追われた農民達は浮浪人となって都市に流れ込み、犯罪が増大する等、社会不安が生じ、時の政府は何度も禁止令を出しますが効果は期待出来るものでは在りませんでした。
以下「ユートピア」の一部を抜粋。
「しかし、これだけが人々に盗みを働かせる唯一の原因ではありません。私の考えるところでは、もう一つ、あなた方イギリス人に特有の原因があります。」「それはなんですか」と枢機卿はたずねました。「それはあなたの国の羊です。羊はとてもおとなしく、とても小食だったということですが、この頃では聞くところによると、とても大食で乱暴になったそうで、人間さえも食い殺し、畑や家屋や町を荒廃させて人影を絶やしてしまうほどです。」(山川出版社、世界史史料・名言集より)

ラブレー
トマス・モアは、「羊が人間を食い殺す」という有名な言葉で金儲けのために農民を犠牲にする領主、地主を激しく非難し、彼と同じ頃に、フランスにはラブレー(1494年頃~1553年)が、「ガルガンチュア物語(ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語)」(1532年~64年)を著して人気を博しました。
ラブレーは、修道士として各地の修道院を遍歴し、その間ギリシア語と医学を学んで医者となり、学術書を著すかたわら「ガルガンチュア物語」を著します。

ガルガンチュア物語
「ガルガンチュア物語」は、中世フランスで語り継がれた伝説の大食巨人ガルガンチュアとその子パンタグリュエル(ラブレーはガルガンチュア伝説とは別のパンタグリュエル伝説をつなぎ合わせて、パンタグリュエルをガルガンチュアの子に仕立て上げた)の奇想天外な遍歴の物語ですが、ラブレーはヒューマニストの理想と痛烈な社会風刺を奇想天外な話に託しました。

モンテーニュ
ラブレーと並ぶフランスの代表的なヒューマニストであるモンテーニュ(1533年~92年)は、南フランスのボルドー近郊に生まれ、幼い時からラテン語・ラテン文学・法律を学び、ボルドー高等法院判事(1557年~70年)等を歴任した後、生家に隠棲し、「随想録(エセー)」を出版しました(1580年~88年)。
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『随想録』表紙
その後、ボルドー市長に選出され(1581年~85年)、市長として活躍後、再び隠棲生活に戻り、「随想録」の加筆、訂正に専念します。
この間、ユグノー戦争(1562年~98年、フランス国内の新旧両教徒間の内戦)が勃発し、モンテーニュはカトリック教徒でしたが、ユグノー戦争の調停、新旧両教徒の融和に努力します。
「随想録」は、彼自身の公私にわたる生活を省みて、「私は何を知っているか(Que sais-je?)」との懐疑主義をもって人間の内面や社会生活を観察し、人間本来のあり方を追求した随筆集です。
ジョークは如何?
赤軍の精鋭部隊がアフガニスタンに侵攻!
現地のイスラム教徒を解放しつづけていたが、みるみる士気が減ってきた。
不思議に思った将校が、そのへんにいた一兵卒に聞いた。
将校「どうしてやる気がないんだ? 銃殺するぞ!」
兵卒「やる気もなくなりますよ。こいつ(アフガン難民)ら、おれたちが
ほしいソニーのラジカセとカラーテレビを持ってやがる。我々より裕福だなんておかしいぜ」
将校「だったら、奪って故郷に持って帰れ」
兵卒「べつにいりませんよ。持って帰っても見る番組がないですから」
続く・・・
2文学②

ジェフリー・チョーサー
イギリス・ルネサンスの先駆者であるチョーサー(1340年頃~1400年)は、エドワード3世に仕え、イタリア、フランスに派遣された時、イタリアではボッカチオ、ペトラルカに会いイタリア・ルネサンスの影響を強く受け、イギリスに帰国後、「カンタベリー物語」(1391年頃)を著し、イギリス国民文学の祖と呼ばれました。

カンタベリー物語(チョーサー本人の登場箇所)
「カンタベリー物語」は、同じ宿に泊まり合わせたカンタベリー大聖堂への巡礼者達が一人ずつ話をする形式で24の物語から成っています。
形式的にも内容的にも「デカメロン」の影響が強く現れている作品です。

エラスムス
エラスムス(1469年~1536年)は、ネーデルランドのロッテルダムに生まれ、パリで学び、しばしばイギリスを訪れ、トマス・モアと親交を結び、イギリス滞在中に「愚神礼讃」(1509年)を著しました。

痴愚礼賛より「ろばがろばをこする」;意味「馬鹿が馬鹿にお世辞を言う」、「たいしたことのない者どうしが大げさに褒めあう」
「愚神礼讃」は、痴愚の女神の口を借りて聖職者等の腐敗・悪徳を痛烈に風刺した作品で、活版印刷で印刷され、当時のベストセラーとなり、宗教改革にも大きな影響を与えます。
「宗教改革という毒蛇はエラスムスが卵を生み、ルターがそれをかえした」と云われた様に、彼の弟子達からは多くの宗教改革者が登場しますが、エラスムス自身は過激なことを好まず、宗教改革には中立の姿勢を貫き、ルターとは対立しました。
又、エラスムスはギリシア語の新約聖書を世に広め、ギリシア劇のラテン語訳等古代ギリシア語の研究にも優れた業績を残し、最大のヒューマニスト(人文主義者)と呼ばれています。
トマス・モア
エラスムスの友人であったトマス・モア(1478年~1535年)は、ロンドンで弁護士の家庭に生まれ、オックスフォード大学で神学を学んだものの、父の希望に従って弁護士に成りました(1501年)。
その頃エラスムスと知り合い(1499年)、以後親交を結ぶことに成ります。

「ユートピア」の挿絵よりユートピア島
ヘンリー8世の信任を得て、外交使節としてヨーロッパ大陸に渡り、この旅行中に「ユートピア」(1515年~16年)を執筆します。
後に大法官に就任し(1529年)、熱心なカトリック教徒であったことから、ヘンリー8世の離婚には終始反対を唱え、ロンドン塔に幽閉され(1534年)、反逆罪に問われて翌年処刑されました。
「ユートピア」は、アメリゴ・ヴェスプッチ(4回にわたって新大陸を探検したフィレンツェの航海者)の航海に同行したヒュロダエウスが訪れたユートピア島(架空の島、ユートピアとは何処にも存在しないの意味)での理想的な社会の様子を描くことによって、当時のイギリス社会を痛烈に批判した作品で、特に「囲い込み」を批判した箇所は有名です。
以後ユートピアは理想郷の意味に使われる様に成りました。
第1次囲い込み(エンクロージャー)は、15世紀末から17世紀中頃にかけて、特に16世紀に最高潮と成りました。
毛織物市場の拡大に伴い羊毛の需要が増大し、羊毛価格が上昇した結果、牧羊のために領主や地主が小作人から農地を取り上げ、生け垣や塀で囲んで羊の牧場としたことから、土地を追われた農民達は浮浪人となって都市に流れ込み、犯罪が増大する等、社会不安が生じ、時の政府は何度も禁止令を出しますが効果は期待出来るものでは在りませんでした。
以下「ユートピア」の一部を抜粋。
「しかし、これだけが人々に盗みを働かせる唯一の原因ではありません。私の考えるところでは、もう一つ、あなた方イギリス人に特有の原因があります。」「それはなんですか」と枢機卿はたずねました。「それはあなたの国の羊です。羊はとてもおとなしく、とても小食だったということですが、この頃では聞くところによると、とても大食で乱暴になったそうで、人間さえも食い殺し、畑や家屋や町を荒廃させて人影を絶やしてしまうほどです。」(山川出版社、世界史史料・名言集より)

ラブレー
トマス・モアは、「羊が人間を食い殺す」という有名な言葉で金儲けのために農民を犠牲にする領主、地主を激しく非難し、彼と同じ頃に、フランスにはラブレー(1494年頃~1553年)が、「ガルガンチュア物語(ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語)」(1532年~64年)を著して人気を博しました。
ラブレーは、修道士として各地の修道院を遍歴し、その間ギリシア語と医学を学んで医者となり、学術書を著すかたわら「ガルガンチュア物語」を著します。

ガルガンチュア物語
「ガルガンチュア物語」は、中世フランスで語り継がれた伝説の大食巨人ガルガンチュアとその子パンタグリュエル(ラブレーはガルガンチュア伝説とは別のパンタグリュエル伝説をつなぎ合わせて、パンタグリュエルをガルガンチュアの子に仕立て上げた)の奇想天外な遍歴の物語ですが、ラブレーはヒューマニストの理想と痛烈な社会風刺を奇想天外な話に託しました。

モンテーニュ
ラブレーと並ぶフランスの代表的なヒューマニストであるモンテーニュ(1533年~92年)は、南フランスのボルドー近郊に生まれ、幼い時からラテン語・ラテン文学・法律を学び、ボルドー高等法院判事(1557年~70年)等を歴任した後、生家に隠棲し、「随想録(エセー)」を出版しました(1580年~88年)。
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『随想録』表紙
その後、ボルドー市長に選出され(1581年~85年)、市長として活躍後、再び隠棲生活に戻り、「随想録」の加筆、訂正に専念します。
この間、ユグノー戦争(1562年~98年、フランス国内の新旧両教徒間の内戦)が勃発し、モンテーニュはカトリック教徒でしたが、ユグノー戦争の調停、新旧両教徒の融和に努力します。
「随想録」は、彼自身の公私にわたる生活を省みて、「私は何を知っているか(Que sais-je?)」との懐疑主義をもって人間の内面や社会生活を観察し、人間本来のあり方を追求した随筆集です。
ジョークは如何?
赤軍の精鋭部隊がアフガニスタンに侵攻!
現地のイスラム教徒を解放しつづけていたが、みるみる士気が減ってきた。
不思議に思った将校が、そのへんにいた一兵卒に聞いた。
将校「どうしてやる気がないんだ? 銃殺するぞ!」
兵卒「やる気もなくなりますよ。こいつ(アフガン難民)ら、おれたちが
ほしいソニーのラジカセとカラーテレビを持ってやがる。我々より裕福だなんておかしいぜ」
将校「だったら、奪って故郷に持って帰れ」
兵卒「べつにいりませんよ。持って帰っても見る番組がないですから」
続く・・・
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