2015/06/29

歴史を歩く117

1ルネサンス③

2文学②

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ジェフリー・チョーサー

 イギリス・ルネサンスの先駆者であるチョーサー(1340年頃~1400年)は、エドワード3世に仕え、イタリア、フランスに派遣された時、イタリアではボッカチオ、ペトラルカに会いイタリア・ルネサンスの影響を強く受け、イギリスに帰国後、「カンタベリー物語」(1391年頃)を著し、イギリス国民文学の祖と呼ばれました。

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カンタベリー物語(チョーサー本人の登場箇所)

 「カンタベリー物語」は、同じ宿に泊まり合わせたカンタベリー大聖堂への巡礼者達が一人ずつ話をする形式で24の物語から成っています。
形式的にも内容的にも「デカメロン」の影響が強く現れている作品です。

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エラスムス

 エラスムス(1469年~1536年)は、ネーデルランドのロッテルダムに生まれ、パリで学び、しばしばイギリスを訪れ、トマス・モアと親交を結び、イギリス滞在中に「愚神礼讃」(1509年)を著しました。

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痴愚礼賛より「ろばがろばをこする」;意味「馬鹿が馬鹿にお世辞を言う」、「たいしたことのない者どうしが大げさに褒めあう」

 「愚神礼讃」は、痴愚の女神の口を借りて聖職者等の腐敗・悪徳を痛烈に風刺した作品で、活版印刷で印刷され、当時のベストセラーとなり、宗教改革にも大きな影響を与えます。

 「宗教改革という毒蛇はエラスムスが卵を生み、ルターがそれをかえした」と云われた様に、彼の弟子達からは多くの宗教改革者が登場しますが、エラスムス自身は過激なことを好まず、宗教改革には中立の姿勢を貫き、ルターとは対立しました。

 又、エラスムスはギリシア語の新約聖書を世に広め、ギリシア劇のラテン語訳等古代ギリシア語の研究にも優れた業績を残し、最大のヒューマニスト(人文主義者)と呼ばれています。


トマス・モア

 エラスムスの友人であったトマス・モア(1478年~1535年)は、ロンドンで弁護士の家庭に生まれ、オックスフォード大学で神学を学んだものの、父の希望に従って弁護士に成りました(1501年)。
その頃エラスムスと知り合い(1499年)、以後親交を結ぶことに成ります。

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「ユートピア」の挿絵よりユートピア島

 ヘンリー8世の信任を得て、外交使節としてヨーロッパ大陸に渡り、この旅行中に「ユートピア」(1515年~16年)を執筆します。
後に大法官に就任し(1529年)、熱心なカトリック教徒であったことから、ヘンリー8世の離婚には終始反対を唱え、ロンドン塔に幽閉され(1534年)、反逆罪に問われて翌年処刑されました。

 「ユートピア」は、アメリゴ・ヴェスプッチ(4回にわたって新大陸を探検したフィレンツェの航海者)の航海に同行したヒュロダエウスが訪れたユートピア島(架空の島、ユートピアとは何処にも存在しないの意味)での理想的な社会の様子を描くことによって、当時のイギリス社会を痛烈に批判した作品で、特に「囲い込み」を批判した箇所は有名です。
以後ユートピアは理想郷の意味に使われる様に成りました。

 第1次囲い込み(エンクロージャー)は、15世紀末から17世紀中頃にかけて、特に16世紀に最高潮と成りました。
毛織物市場の拡大に伴い羊毛の需要が増大し、羊毛価格が上昇した結果、牧羊のために領主や地主が小作人から農地を取り上げ、生け垣や塀で囲んで羊の牧場としたことから、土地を追われた農民達は浮浪人となって都市に流れ込み、犯罪が増大する等、社会不安が生じ、時の政府は何度も禁止令を出しますが効果は期待出来るものでは在りませんでした。

 以下「ユートピア」の一部を抜粋。
 「しかし、これだけが人々に盗みを働かせる唯一の原因ではありません。私の考えるところでは、もう一つ、あなた方イギリス人に特有の原因があります。」「それはなんですか」と枢機卿はたずねました。「それはあなたの国の羊です。羊はとてもおとなしく、とても小食だったということですが、この頃では聞くところによると、とても大食で乱暴になったそうで、人間さえも食い殺し、畑や家屋や町を荒廃させて人影を絶やしてしまうほどです。」(山川出版社、世界史史料・名言集より)

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ラブレー

 トマス・モアは、「羊が人間を食い殺す」という有名な言葉で金儲けのために農民を犠牲にする領主、地主を激しく非難し、彼と同じ頃に、フランスにはラブレー(1494年頃~1553年)が、「ガルガンチュア物語(ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語)」(1532年~64年)を著して人気を博しました。
ラブレーは、修道士として各地の修道院を遍歴し、その間ギリシア語と医学を学んで医者となり、学術書を著すかたわら「ガルガンチュア物語」を著します。

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ガルガンチュア物語

 「ガルガンチュア物語」は、中世フランスで語り継がれた伝説の大食巨人ガルガンチュアとその子パンタグリュエル(ラブレーはガルガンチュア伝説とは別のパンタグリュエル伝説をつなぎ合わせて、パンタグリュエルをガルガンチュアの子に仕立て上げた)の奇想天外な遍歴の物語ですが、ラブレーはヒューマニストの理想と痛烈な社会風刺を奇想天外な話に託しました。

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モンテーニュ

 ラブレーと並ぶフランスの代表的なヒューマニストであるモンテーニュ(1533年~92年)は、南フランスのボルドー近郊に生まれ、幼い時からラテン語・ラテン文学・法律を学び、ボルドー高等法院判事(1557年~70年)等を歴任した後、生家に隠棲し、「随想録(エセー)」を出版しました(1580年~88年)。

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『随想録』表紙

 その後、ボルドー市長に選出され(1581年~85年)、市長として活躍後、再び隠棲生活に戻り、「随想録」の加筆、訂正に専念します。
この間、ユグノー戦争(1562年~98年、フランス国内の新旧両教徒間の内戦)が勃発し、モンテーニュはカトリック教徒でしたが、ユグノー戦争の調停、新旧両教徒の融和に努力します。

 「随想録」は、彼自身の公私にわたる生活を省みて、「私は何を知っているか(Que sais-je?)」との懐疑主義をもって人間の内面や社会生活を観察し、人間本来のあり方を追求した随筆集です。

ジョークは如何?

赤軍の精鋭部隊がアフガニスタンに侵攻!

現地のイスラム教徒を解放しつづけていたが、みるみる士気が減ってきた。
不思議に思った将校が、そのへんにいた一兵卒に聞いた。
将校「どうしてやる気がないんだ? 銃殺するぞ!」
兵卒「やる気もなくなりますよ。こいつ(アフガン難民)ら、おれたちが
   ほしいソニーのラジカセとカラーテレビを持ってやがる。我々より裕福だなんておかしいぜ」
将校「だったら、奪って故郷に持って帰れ」
兵卒「べつにいりませんよ。持って帰っても見る番組がないですから」


続く・・・

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2015/06/25

歴史を歩く116

1ルネサンス②

2文学

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 イタリア・ルネサンスの先駆者となった人物は、ダンテ(1265年~1321年)でした。
フィレンツェの貴族階級に生まれたダンテは、ボローニャ大学で修辞学を学び、ラテン文学や哲学の教養を積み、9歳の時に美少女ベアトリーチェ(8歳)に出会い、永遠の女性として生涯思い続けました。
ベアトリーチェは別の男性に嫁ぎ24歳で亡くなりますが、彼女への思慕は「新生」(1293年頃)に歌われています。

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ダンテとベアトリーチェの再開

 その後、政治活動に没頭し(1295年~1302年)、ゲルフ党に属してフィレンツェの統領に推されますが、反対党によって永久追放され、以後各地を放浪し、その間に「神曲」(1304年~21年)を書き、最後はラヴェンナの君主のためにヴェネツィアに使いし、その帰途病死します。

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ステュクスの沼-船頭プレギュアス(地獄篇第八歌)ギュスターヴ・ドレ

 「神曲」は、地獄・煉獄(カトリック教で死者が天国に入る前に、その霊が火によって罪を浄化されると信じられた場所)・天国の3編からなる大叙事詩で、ダンテ自身が古代ローマの詩人ヴェルギリウスに導かれて地獄と煉獄を、そしてベアトリーチェに導かれて天国を巡り、歴史上の人物の死後の姿に出会う構想で描かれています。

 ダンテは、この「神曲」をラテン語でなく、トスカナ語(フィレンツェを中心とするトスカナ地方の口語)で描いた結果、「神曲」はイタリア国民文学の最初の作品とされています。

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 ペトラルカ(1304年~74年)の父はダンテと共にフィレンツェを追放され、ペトラルカはその父と共に各地を転籍し、ボローニャ大学で法学を学んだ後にアヴィニョン教皇庁に聖職者として仕えて文学を志しました。
その頃、美しい人妻ラウラに出会い、彼女への思慕を「叙情詩集」に歌っています。
その後、諸国を巡り、この間ラテン古典の文献収集や復活に努め、ヒューマニズム(人文主義)の先駆者となり、最初のヒューマニスト(人文主義者)と呼ばれました。

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ボッカチオ

 ペトラルカの友人であったボッカチオ(1313年~75年)は、フィレンツェの富裕商人の私生児として生まれ、ナポリで商業の見習いと法律を学びながら文学に没頭し、後にフィレンツェに戻り、「デカメロン」(1348年~53年)を著しました。
晩年はフィレンツェ近郊で古典の研究に専念し、ペトラルカとも深く交わり、ペトラルカの死の翌年に没しています。

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デカメロン:ギリシャ語の10日deka hemeraiに由来

 「デカメロン」は十日物語とも訳され、黒死病(ペスト)の流行を避けた3人の紳士と7人の淑女が森の奥の小屋で共同生活をするなかで退屈をまぎらすために、各人1日1話ずつ、10日で100の話を語り合う形式になっています。
このなかでボッカチオは聖職者や王侯等を風刺し、人間の性欲・物欲を赤裸々に描いたため「デカメロン」は後世好色本の代名詞となりました。
後にボッカチオはこの作品を涜神として否定したが、「デカメロン」は、ダンテの「神曲」に対して「人曲」と呼ばれ、近代小説の先駆とされいます。

ジョークは如何?

パーティもたけなわの頃、バレンティノが美しいマダムの耳元で
囁いた。
「奥さま、あなたを愛しています」
「まあ、お目にかかって間もないのにあなたは私のハートを
 お求めになるのね?」
「とんでもない。そんな高いところまでは望んでおりません」


続く・・・

2015/06/19

歴史を歩く115

1ルネサンス

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最後の審判」部分画 ミケランジェロ (イタリア 1475年~1568年) フレスコ 壁画 13.7x12.2m ヴァチカン宮殿システィーナ礼拝堂

1ルネサンスとヒューマニズム

 ルネサンス(Renaissance、再生の意味)とは、ギリシア・ローマの古典文化の再生を意味する言葉で、文芸復興と訳されてきました。

 ルネサンスは、14世紀にイタリアで始まり、15世紀以後西ヨーロッパに広まりますが、単にギリシア・ローマの古典文化の復興にとどまらず、人間精神の革新を求める文化運動でした。

 ルネサンスの根本精神はヒューマニズム(humanism)で、ヒューマニズムの原義は人間主義と訳されます。

受胎告知
受胎告知 フラ・アンジェリコ 1437年〜1446年 サン・マルコ修道院

 十字軍以後、都市が成立・発展し、市民活動が盛んに成るに連れて、市民達は封建制度や教会の束縛から解放された人間らしい自由な生き方を求めるように成りました。

 中世の人々の生活は、カトリック教会が定めたさまざまな規制によって束縛され、カトリック教会は、来世に天国に召されることを人生の目的と説いていましたが、市民達は人間のもつ欲望を肯定し、現世をより良く、より楽しく生きることが人間らしい生き方であると考えます。
このような人間中心的な生き方が人間主義(ヒューマニズム)です。

 そして市民達は、その人間中心の新しい生き方の手本を、彼等と同じように都市生活を営み、しかもキリスト教の束縛に縛らず、自由に生きた古代ギリシア・ローマの人々の生活・考え方に求め、彼等の残した文芸の作品を収集し、深く研究し、復興することにより、新しい生き方を追求しようとしました。
そのため14世紀以後まずイタリアで古代ギリシア・ローマの文化の収集・研究・復興が行われました。
このような動きもヒューマニズムと呼ばれますが、人文主義と訳されています。
そしてヒューマニズム精神に立つ、ルネサンス期の文人・学者を総称してヒューマニスト(人文主義者)と呼んでいます。

 ルネサンスが、まずイタリアで始まった理由としては以下の事象を上げることができます。

(1)十字軍以後、東方貿易によって都市が発展し、市民の活動が盛んであったこと 。
(2)イタリアはローマの故地であり、古代ローマの遺跡などが多く残っていたこと 。
(3)ビザンツ帝国の滅亡前後から、ビザンツの学者達がイタリアに移住してきて、ギリシア文化が伝えられたこと。
(4)フィレンツェのメディチ家やローマ教皇が学者や芸術家を保護したこと 。

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フィレンツェ
  
 イタリア・ルネサンスの中心となった都市はフィレンツェでした。
フィレンツェは毛織物業と金融業で栄え、14世紀初頭には人口10万人に達したヨーロッパ大都市の1つで、大富豪メディチ家が市政を握り、多くの学者や芸術家を招き、文芸や美術を保護・奨励したのでルネサンスの一大中心地となりました。

 しかし、後にフィレンツェの政治が混乱すると、16世紀初頭からイタリア・ルネサンスの中心はローマやヴェネツィアに移って行きます。

ジョークは如何?

あるロシアの空港で

飛行機が時効表どうりに飛ばないので、ついに怒り心頭にたっした男が
「どうせ、遅れてばかりなら、時刻表など作るな!」
と息巻いたところ、職員が答えて曰く
「お客さん、時刻表があるからこそ、遅れがあるのです」


続く・・・
2015/06/15

歴史を歩く114

15-6西ヨーロッパ中世の文化②

2美術と文学

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ビザンツ様式:セント・ソフィア大聖堂

 中世の美術は、教会建築とそれに付随する絵画・彫刻を中心に発達しました。

 教会建築は、はじめセント・ソフィア大聖堂に代表されるビザンツ様式が模倣されていましたが、11~12世紀にかけて、ロマネスク様式が盛んと成りました。

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ロマネスク様式;ヴォルムス大聖堂

 ロマネスクとはローマ風を意味し、その特色はドーム型のアーチとその重みを支える重厚な石壁に在ります。
窓が小さい為に内部は薄暗く、広い壁面は壁画で飾られており、ピサの斜塔で有名なピサ大聖堂やヴォルムス大聖堂などがその代表例です。

 12世紀末から、教会権威の増大と新興市民階級の経済力上昇を背景として、尖塔とアーチと広い窓を特色とするゴシック様式が教会建築の主流となり、全ヨーロッパに普及しました。

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ゴシック様式:アミアン大聖堂

 ゴシック様式の普及は教会の大規模化を促し、聖堂の多くは天に向かってそびえ立つ大小の尖塔を備え、その広い窓はステンドグラスで飾られ、彫刻もロマネスク様式より写実的に成りました。
パリ・ノートルダム大聖堂、北フランスのアミアン大聖堂・ランス大聖堂・シャルトル大聖堂やドイツ最大のゴシック建築であるケルン大聖堂等がその代表例です。

 中世文学を代表する作品は騎士道物語です。
騎士道物語は英雄的騎士にまつわる伝説や騎士道を題材とし、ラテン語では無く日常語で書かれて吟誦されました。
フランスの「ローランの歌」、イギリスの「アーサー王物語」そしてドイツの「ニーベルンゲンの歌」等がその代表作ですが、これらは当初口語で吟誦され、後に文字で書かれた物語です。

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 「ローランの歌」:ローランの死

 「ローランの歌」は、カール大帝の対イスラム戦に従軍したローランの武勲と友情、恋を歌った武勲詩です。
主人公のローラン(カール大帝の甥)はカール大帝(作品中では200歳の老王として描写されています)のイスパニア遠征に従軍し、殿(しんがり)軍として引き上げる時、ピレネー山脈中ロンスヴォーでイスラム軍と戦いますが、裏切り者の為に戦死してしまいます。

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アーサー王物語:『アーサー王のアヴァロンでの最後の眠り』
 
 「アーサー王物語」は、イギリス先住民であるブリトン人(ケルト系)の伝説的英雄で、しばしばサクソン人を撃退したアーサー王と彼の宮廷に集まる円卓騎士の武勇を題材とした騎士道物語で12世紀頃に成立しました。

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ニーベルンゲンの歌;ジークフリートと妻クリームヒルト

 「ニーベルンゲンの歌」は、ジークフリートの妻クリームヒルトが、兄グンター(ブルグンド王)の臣下ハゲネに殺された、夫ジークフリートの敵を討つ為に、エッツェル(フンのアッティラ)に嫁し、グンターとハゲネを殺させて彼女も命を絶つ、クリームヒルトの復讐とブルグンド族の没落を描いた叙事詩で13世紀に完成しました。

 叉12世紀以後、南フランスの吟遊詩人(トゥルバドゥール)やドイツの吟遊詩人(ミンネジンガー)が各地を遍歴し、時には宮廷に招かれて騎士的愛をテーマにした叙情詩を歌ったのです。

ジョークは如何?

「神聖ローマ帝国」

神聖でもなければローマでもないし、帝国ですらない。


続く・・・

2015/06/05

歴史を歩く113

15-6西ヨーロッパ中世の文化

1学問と大学

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アンセルムス

 西ヨーロッパ中世文化の特色は、キリスト教文化と言い表すことが出来ます。
中世西ヨーロッパはカトリックの時代で、カトリック教会が絶大な権威をもっていた結果、学問・芸術等も教会の支配下に在り、当時最高の学問は、キリスト教教理を研究する神学で、建築や美術は教会とその装飾のために発達しました。

 中世の学問の担い手は、中世ヨーロッパの共通語であるラテン語が読み書きできる聖職者で在り、彼等が学者・知識人でした。
人口の大部分を占める農民は、ほとんど読み書きが出来なかったのです。

 上述の様に最高の学問は神学で、「哲学は神学の婢(はしため、召使い・下女の意味)」と云う諺は当時の学問の状況をよく示しています。

 神学は、当初アウグスティヌス等教父の著述を読む程度でしたが、十字軍以後はビザンツやイスラムからギリシア哲学(特にアリストテレス哲学)を取り入れてキリスト教の信仰・教義を哲学的に体系化したスコラ学(スコラは教会付属の学校の意味)に発展します。

 イタリア生まれで、後にカンタベリ大司教となったアンセルムス(1033年~1109年)は、神や普遍は個々の事物に先立って存在すると云う実在論を唱えて「スコラ哲学の父」と呼ばれました。
これに対してアベラール(1079年~1142年)は、実在するものは個々に事物だけで、神や普遍は後につくられたもので、名のみのものにすぎないと云う唯名論(ゆいめいろん)を主張します。

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 トマス・アクィナス

 この実在論と唯名論の対立は、普遍闘争と呼ばれ、ヨーロッパ全域で長く争われましたが、アリストテレス主義の導入によるトマス・アクィナスの説によって解決されました。

 トマス・アクィナス(1225年頃~74年)は、イタリアの神学者・スコラ哲学者で、ナポリ大学で学んだ後にドミニコ修道士となり、パリ大学で教鞭をとり、帰国後はローマの修道院で研究に励み、主著「神学大全」(1266年~73年に執筆)を著して信仰と理性の調和・統合を図ります。
彼はアリストテレス哲学をキリスト教思想に調和させて普遍論争に終結をもたらし、又神学と哲学の結合に努めたのでスコラ哲学の大成者とされています。

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ウィリアム・オッカム

 しかし、教皇権の衰退と共に、中世末にはウィリアム・オッカム(1290年頃~1349年頃)等の唯名論が有力となりました。

 中世ヨーロッパでは、キリスト教教義やカトリック教会の教えに反するような自由な思想や学問は許されず、合理的な学問の発達は妨げられていました。

 自然科学は上記の理由で大きな発展は在りませんが、中世最大の自然科学者と称されるイギリスのロジャー・ベーコン(1214年頃~94年)は、12世紀以後イスラム科学の影響を受けて、実験や観察を重んじ、近代自然科学への道を開きます。

 12世紀ルネサンスと後に云われる様に、12世紀の西ヨーロッパではイスラム文化やビザンツ文化が盛んに取り入れられ、イスラムやギリシアの学術文献がアラビア語やギリシア語からラテン語に翻訳・研究されて学問が盛んと成りました。

 イスラム文化は、主にトレドを中心とするスペインやシチリアを中心とする南イタリアを経由して、又ビザンツ文化はコンスタンティノープルと盛んに通商を行ったヴェネツィアを中心とする北イタリア経由して西ヨーロッパに伝播します。

 西ヨーロッパではイスラム文化やビザンツ文化の影響を受けて様々な学問が盛んと成りましたが、これらの学問は当初、修道院や私塾で教えられるに過ぎませんでしたが、12 世紀頃からはその頃ヨーロッパ各地に生まれてくる大学で教授されるように成ります。

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パリ大学

 ヨーロッパの大学の多くは12世紀以前から各地にあった教会や修道院付属学校を母体として生まれました。

 有名なパリ大学は、12世紀中頃ノートルダム大聖堂付属神学校から昇格し、フィリップ2世の保護を受けて、教授学生組合として発展します。
ソルボン(パリ大学神学部の別名であるソルボンヌは彼の名に由来する)によって創始された神学部が有名で、教会大分裂の時代迄、神学の最高権威で、ヨーロッパ各地から多くの優れた学生を集め、、又パリ大学は、14世紀以降ヨーロッパ各地に設立される大学の模範と成りました。

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十字軍に参加し負傷したノルマンディー公ロベール二世を迎えるサレルノの医学校の様子 ( Biblioteca Universitaria, Bologna )

 ヨーロッパ最古の大学は、ナポリの南部に位置するサレルノ大学です。
サレルノ大学は、イスラムから受け入れた医学で有名であり、11世紀中頃に設立され、ギリシアの医学者ヒポクラテスの研究に基づく講義が行われていました。

 サレルノ大学と並んで古い大学が北イタリアのボローニャ大学で11世紀末に設立されました。
法学者がローマ法の注釈を始め、ローマ法と教会法で有名になると全ヨーロッパから学生が集まり、13世紀中頃には学生数が1万人に達したと云われています。

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ボローニャ大学講義風景

 ボローニャ大学は学生の大学でした。
学生達は相互扶助を目的としてウニヴェルシタス(universityの語源)と呼ばれる団体を結成して、彼等の生活を守るために部屋代の値下げ等様々な要求を出し、聞き入れられない時は他の町に移住すると脅して要求を認めさせましたとの逸話も残っています。
当時の大学は現在の様に校舎等も存在せず、学生が他の町に移ることは大学が他の町に移ることを意味していたのです。

 後には学生達は教授に対しても講義ボイコット等の手段で対抗し、教授達は学生の中から選ばれたレクトル(学長)に服従の宣誓をするように成りました。
当時の教授達の収入は学生からの徴収金に拠っていた結果、教授達は学生達のボイコットには抵抗できなかったのです。

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オックスフォード大学(オール・ソウルズ・カレッジ)

 イギリスのオックスフォード大学は、12世紀後半にパリを引き上げた学生達によってパリ大学を模範として設立され、神学部を中心として、多くの優れた学者を輩出し、ケンブリッジ大学と並んでイギリスの指導者層を多く輩出しました。

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ケンブリッジ大学:キングス・カレッジのチャペル

 ケンブリッジ大学は、13世紀初頭にオックスフォード大学の教授や学生が移って設立され、法学で有名に成ります。

 上記の大学に続いて、13~15世紀にかけてヨーロッパ各地に多くの大学が設立され、14世紀に設立されたプラハ大学はドイツ最初の大学として名高く、後にフスも同大学の総長に就任しています。

 中世ヨーロッパの完全な大学は、神学・法学・医学の3学部を揃え、その下に人文学部が置かれていました。
人文学部は教養課程にあたり、いわゆる自由7科(文法(ラテン語)、修辞、論理、算術、幾何、天文、音楽)が必修とされ、是等を履修しなければ専門過程への進学は不可能だったのです。

ジョークは如何?

民主主義では,一歩進むために,一日をかける.

全体主義では,一歩進むために,一人を殺す.

共産主義では,一歩進むために,二歩下がる.

続く・・・

2015/06/05

歴史を歩く112

15-5西ヨーロッパ中央集権国家の成立⑦

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オットー大帝

6ドイツ・イタリア・北ヨーロッパ

 オットー大帝が神聖ローマ帝国皇帝に即位以来、ドイツ皇帝はローマ皇帝の称号を保つために、旧ローマ帝国の中心地イタリアの統治に力をそそぎ、イタリアへの遠征と干渉を行い教皇と対立しました。
このためドイツ本国の統治をおろそかにした結果、国内では大諸侯の台頭をまねき、皇帝の権力は不振に成ります。
歴代の神聖ローマ皇帝がとったこのような政策はイタリア政策と呼ばれています。

 シュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝、1138年~1254年)の第2代皇帝フリードリヒ1世(在位1152年~90年)は、イタリアにおける帝権拡大をはかり5回にわたってイタリア遠征を行いますが、第3回十字軍に参加した祭、小アジアで溺死と云う非業の死を迎えます。

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フリードリヒ2世(フリードリヒ2世の宮廷・16世紀作)

 第6代皇帝フリードリヒ2世(在位1215年~1250年)は、祖父のフリードリヒ1世と並んで中世ドイツの君主のうち最も親しまれている君主です。
シチリア女王を母として生まれ、幼年時代を教皇インノケンティウス3世の後見の下で過ごし、彼の支持を得て神聖ローマ皇帝に就きました。

 彼はシチリアを中心にドイツ・イタリアにまたがる帝国の建設を構想し、イタリア政策に全力を傾け、ロンバルディア同盟(北イタリアのミラノを中心とする都市同盟で教皇と結んだ)と激しい抗争を繰り返したのですが、その治世の大半をシチリア・イタリアで過ごします。

 フリードリヒ2世は、イタリア政策を強力に進めるために、ドイツ国内では聖俗諸侯に大幅な特権を認めた結果、大諸侯の力が更に強まり、皇帝によるドイツの統一は困難と成って行きます。

 フリードリヒ2世の死後まもなく、シュタウフェン朝は断絶し(1254年)、以後20年間にわたって、神聖ローマ皇帝が実質的に空位となる、所謂大空位時代(1256年~73年)が訪れ、国内は混乱を極めました。
この間、オランダ伯やイギリスやフランスの傀儡皇帝が立てられましたが、事実上は無皇帝時代でした。

 1273年には、ハプスブルグ家のルドルフ1世が皇帝に選ばれ、大空位時代に終止符を打ちますが、その後も皇帝は少数の有力諸侯によって選ばれ慣習が根付きます。

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ルクセンブルグ朝カール4世

 有力諸侯は、ルクセンブルグ朝(1347年~1437年)のカール4世(在位1347年~78年)を皇帝に選び、「金印勅書(黄金文書)」(1356年)によって彼らの特権を法的に承認させました。

 金印勅書は、皇帝選出権を持つ聖俗7人の諸侯(マインツ大司教・トリール(トリエル)大司教・ケルン大司教・ベーメン(ボヘミア)王・ファルツ伯・ザクセン公・ブランデンブルク辺境伯)を定め、皇帝選出をめぐって混乱が生じた場合は上記の7人の諸侯(彼等は選帝侯又は選挙侯と呼ばれた)の多数決によることを定め、又選帝侯の特権を認めたものでした。

 これによって皇帝選挙制が確立され、従来の混乱は避けられましたが、その所領における完全な主権を認められた選帝侯は一際強大な力を持つこととなり、彼等はもはや皇帝に臣従する臣下ではなくなり、皇帝権力はますます低下したいきます。

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金印勅書・選定諸侯

 その後、1438年に皇帝となったハプスブルグ家のアルプレヒト2世(在位1438年~39年)以後、19世紀初めに神聖ローマ帝国が消滅する迄、ハプスブルグ家が代々皇帝を輩出していきます。

 中世末にイギリス・フランス・スペイン等で国王による中央集権化が進むなか、ドイツでは皇帝の権力は益々弱体化し、13~14世紀にかけて大諸侯は事実上独立し、ドイツでは大小の諸侯・自由都市等合わせて約300余の領邦(領邦国家ともいう、13世紀以後のドイツで形成された地方国家)が分立し、ドイツの分裂は決定的と成っていました。

 この間、ドイツ人は12世紀以降、エルベ川以東のスラブ人の居住地域に植民し、ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などを作りあげ、エルベ川以東の地では、西ヨーロッパで農奴制が崩れて行くなかで、領主制と農奴制が逆に強化されていったのです。

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モンガルテンの戦い(1315年)

 スイスは、ドイツからアルプスを越えてイタリアに至る通路として重要な地であり、神聖ローマ帝国は直轄地として支配していました。

 ハプスブルグ家が皇帝位に就くと、ハプスブルグ家の居城に近いこの地方への領土拡大を図って圧迫を加えた結果、ウリ・シュヴィッツ・ウンターヴァルデンの3州(原初3州)は同盟してハプスブルグ家の支配に反抗し、独立運動を開始します。
モンガルテンの戦い(1315年)、ドルナッハの戦い(1499年)に勝利をおさめ、13州(同盟州は次第に増加した)は事実上の独立を達成し、1648年のウェストファリア条約でその独立が国際的に承認されました。

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ヴィルヘルム・テル

 スイス独立運動の伝説的英雄ヴィルヘルム・テルの物語は、19世紀初めのドイツ人劇作家シラーの戯曲によって広く知られるようになります。

 イタリアも、ドイツと同様に国家の統一は実現せず、教皇領をはじめ多数の王国・諸侯国・都市共和国等が分立しおり、フランク王国が分裂していくなかで、いち早くカロリング朝が断絶し(875年)、しかもその前後からイスラム教徒の侵入に脅かされます。

 更に、ドイツで神聖ローマ帝国が成立すると(962年)、以後ドイツ皇帝のイタリア政策による侵入と干渉に苦しめられました。

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15世紀頃のイタリア半島

 11~12世紀には、教皇とドイツ皇帝間の聖職叙任権闘争が絡んでゲルフ(教皇党、教皇支持派で都市の大商人が多い)とギベリン(皇帝党、ドイツ皇帝を支持する派で貴族・領主層が多い)の党争が激しく成り、更に11世紀以後、ノルマン人の侵入を受け、シチリア島と南イタリアにはノルマン人による両シチリア王国(1130年~1860年)が成立、更に十字軍以後は都市が繁栄し、多くの都市共和国が成立します。

 この様に中世末期には、教皇領・ナポリ王国(両シチリア王国)・ヴェネツィア共和国・ジェノヴァ共和国・フィレンツェ共和国・ミラノ公国・サヴォイア公国等、多数の王国・諸侯国・都市共和国が分立しました。

 しかしながら、是等諸国家は単独でイタリアを統一する力はなく、伝統的なドイツのイタリア政策による干渉に加えて、中央集権化を成し遂げたフランス・スペイン等の干渉も強まり、イタリアはその抗争の場となり、分裂状態が長く続き、統一は不可能と成ります。
政治的には分裂していたイタリアですが、都市の繁栄を背景に14世紀以降ルネサンスが花開き、文化面では他のヨーロッパ諸国を大きく引き離していきます。

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デンマーク女王マルグレーテ1世

 ノルマン人によって建国されたデンマーク王国(8世紀頃に国家を形成)・スウェーデン王国(10世紀頃に王国形成)・ノルウェー王国(9世紀に王国形成)の北欧三国は、14世紀末にデンマーク女王マルグレーテ(在位1387年~1412年)の下でカルマル同盟(1397年)を結び、同君連合の王国(デンマーク連合王国、1397年~1523年)を形成します。

 マルグレーテは、デンマーク王の王女として生まれ、後にノルウェー王と結婚(1363年)、父と夫の死後、子のオラーフが王位を継ぎますが、オラーフも又没したため、デンマーク・ノルウェー女王となり、スウェーデンに勢力を伸ばし、スウェーデン王を破って捕虜とし、三国が共通の君主を頂くことを認めさせ、カルマル同盟を結んで三国の王を兼ねることと成りました。
このカルマル同盟はスウェーデンが独立する迄(1523年)続くことに成ります。

 アジア系のフィン人(現在のフィンランド人の祖)は、700年頃に現在の地に定着し、13世紀末にスウェーデンに併合されて行きます。 

ジョークは如何?

イギリスの首相のブレアは外遊ばっかして、内政に力を入れていななかった。
久しぶりに国内の議会に登場すると議員が揶揄して・・・

「ブレア首相がイギリスに来訪されました」

続く・・・

2015/06/01

歴史を歩く111

15-5西ヨーロッパ中央集権国家の成立⑥

5スペインとポルトガル

イベリア半島の歴史01_convert_20150601081637
レコンキスタの変遷

 イベリア半島は、8世紀以来イスラム教徒の支配下に置かれていました。
イスラム教徒(ウマイヤ朝)に滅ぼされた西ゴート王国の貴族は北方の山岳地帯に逃げ込み、そこを拠点としてイベリア半島からイスラム教徒を駆逐し、キリスト教徒の手に奪回する運動を起こしました。
この運動は国土回復運動(レコンキスタ、再征服)と呼ばれています。

 レコンキスタの過程で、イベリア半島にはレオン・カスティリア・ナヴァル・アラゴン・ポルトガル等の諸国が成立します。

 レコンキスタの先頭に立った国は、8世紀初頭に西ゴート貴族等によってイベリア半島北西部に建国されたアストゥリアス王国で、次第に領土を拡大し、9世紀後半にレオン地方を征服し、レオンに首都をおいたので以後はレオン王国と呼ばれました。

 カスティリア王国(930年頃建国)は、レオン王国辺境伯が近隣を征服し自立後建国しました。
その後南方に領土を拡大し、13世紀にはレオン王国を併合(1230年)、更にコルドバを占領して(1236年)イベリア半島の大半を支配下に治め最大の王国となりました。

 ナヴァル王国は、10世紀初頭に建国され、11世紀にアラゴン王国に併合されましたが、12世紀には独立を回復します。

 アラゴン王国は、11世紀にナヴァル王の一族によって建国され、その後南方に領土を拡大し、14世紀にはサルデーニャ(サルディニア)島・シチリア島等も領有して西地中海で勢力を振るい、カスティリア王国と並んでレコンキスタの中心と成って行きます。

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ジョアン1世

 ポルトガルは、アルフォンソ・エンリケシュがイスラム教徒を撃破し、領土を回復してカスティリア王国から分離独立して王国と成り(1143年)、ジョアン1世(在位1385年~1433年)は北アフリカのセウタを攻略して海外進出の基礎を築き、その子エンリケ航海王子は西アフリカの探検を奨励しました。

 ジョアン2世(在位1481年~95年)は、貴族の反乱を鎮圧して国内統一を進めて絶対主義の基礎を築き、又インド航路発見を援助する等、海外発展に力を尽くします。

 12世紀になると、カスティリア・アラゴン・ポルトガルの3国が強大となり、キリスト教徒はイベリア半島の北半を奪回し、イスラム教徒は次第に南へ追いつめられて行きます。

 イベリア半島南端に追い込まれたイスラム教徒は、イベリア半島最後のイスラム王朝であるナスル朝(グラナダ王国、1230年~1492年)を建国、グラナダを首都とし、以後グラナダはヨーロッパに於けるイスラムの政治・軍事・文化の最後の拠点となり、グラナダに残るアルハンブラ宮殿は世界で最も美しい建築物の一つに数えられています。

 13世紀前半に、グラナダを除いてレコンキスタがほぼ完了すると、共通の目標を失ったカスティリア・アラゴン・ポルトガル等の諸国間では対立が激しくなり、14、15世紀には各国で混乱が続きました。

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イサベル1世

 カスティリア国王ファン2世(在位1406年~54年)の娘イサベル(後のイサベル1世、1451年~1504年)は、1469年にアラゴン王子のフェルナンド(後のフェルナンド5世、1452年~1516年) と結婚し、イサベルは兄の後を継いでカスティリア国王となり(1474年)、夫のフェルナンドも父の死後アラゴン王位に就き(1479年)、カスティリア・アラゴン両国は合邦してスペイン(イスパニア)王国と成りました。

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フェルナンド5世

 フェルナンド5世(在位1479年~1516年)とイサベル1世(1479年~1504年)はスペインを共治し、1492年にイスラム教徒の最後の拠点であったグラナダを陥れ、ここにレコンキスタが完了します。イサベルが後援したコロンブスの船団がサンサルバドルに到達したのも同じ1492年のことでした。

 フェルナンドとイサベルは、国内では勃興しつつあった都市と結んで貴族勢力を抑え、スペイン絶対王政の基礎を築きました。

ジョークは如何?

自国民に無いモノは何?

日本人「余裕」
韓国人「自制心」
英国人「完全な私有地」
米国人「命の保証」
ソ連人「人権」


東欧諸国の人「脱出経路」

続く・・・