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2015/07/29

歴史を歩く124

1ルネサンス番外編②

モナ・リザ盗難事件

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 レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作「モナ・リザ(ジョコンダ)」は、謎の微笑みで有名ですが、是と供に、今から100年近く前に発生した、「モナ・リザ盗難事件」も不可解な部分が多く、コナンドイルもシャーロック・ホームズ作品の一部に取り入れています。

 ルーブル美術館の「モナ・リザ」が盗難に遭遇した事が判明したのは、1911年8月21日の事で、この日は、美術館の清掃日でした。
しかし、何故か直ぐに警察に届けられず、まず館内がくまなく捜索されたのですが、関係者は盗難と思わなかったのでしょうか?
美術館関係者から、警察沙汰にする事で、犠牲者が発生する事を、避け様としたのだと考えられます。

 結果として「モナ・リザ」は発見されず、翌朝、警察に通報され、ルーブル美術館は、三日間休館と成り、徹底的な調査が行われ、その日の午後、額だけが発見され、展覧室に通じる扉のノブが、近くの側溝から発見され、犯人は扉のノブを内側から分解して、逃走した事が推測されたものの、そのほかに手掛かりは発見されませんでした。

 事件が公表されるとフランス国内は、大騒ぎとなり、時の議会で関係者は質問を受け、主要な新聞は、発見者に賞金提供を申し出ました。
中には犯人を占った、占い師に賞金を出す(!)と迄公表した新聞社も在った程、フランス国民の関心事に成りました。

 犯人の手掛かりも無いまま、ルーブル美術館は再開されましたが、館長のオユーモ氏は休職と成り、当時の美術館責任者の多くは、交替と成り、職員の数に比較して、美術館が広すぎる事から一部の施設を閉鎖する結果となりました。
11月に成り、ルーブル美術館の警備関係者7名が、裁判所に召喚され、無断外出の1名と居眠りをしていた1名はは有罪とされ、その間、パリ警視庁には犯人に関する密告も多数寄せられ、捜査も進み、取り調べを受けた人物も多数に及びました。

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パブロ・ピカソ

 その中で特に有名なのは、詩人のアポリネールで、彼の参考人として、あのパブロ・ピカソも警察に呼ばれています。
当時アポリネールが、秘書として雇用していた、ゲリー・ピュレェは「ルーブル位、泥棒するのに楽な所は無い」と言い、時々小さな彫刻等を盗みだしましたが、その頃のルーブル美術館は、監視人も少なく、その気に成れば、小さな物を盗み取る位、容易で在ったらしいのです。

 ゲリーは盗んだ彫刻等を、アポリネールやピカソに贈った上に、自分の泥棒稼業を或る雑誌に投稿した程でした。
アポリネールとピカソは、ゲリーからの“贈り物”を鞄に入れて、セーヌ川に捨てようと、二人で真夜中に川の辺を歩き続けます。
しかし、誰かに尾行されている様な気配がして、とうとう鞄を捨てられず、一晩中歩き回りました。
やがて、終に二人は警察に呼び出され、その時、気の強そうなピカソも、警察と聞いて脅え、“振るえてズボンもなかなか履く事が出来なかった”と伝えられています。
問題の彫刻は、ルーブル美術館に既にこっそりと戻していた事、事件も可也昔の事で在った為、二人は無事に許されて家に帰る事ができました。

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ヴィンセンコ・ペルージア

 「モナ・リザ盗難事件」は、迷宮入りした様に思われましたが、1913年12月12日、急転直下解決します。
フィレンツェの古美術商に、レオナルディと名乗り「モナ・リザ」を売りに来た男がいました。
古美術商は、「専門家に立会いを求め、本物で有ったら購入しよう」と告げ、レオナルディはこの条件を受入ました。
専門の鑑定士は、この「モナ・リザ」を本物と鑑定し、レオナルディはその場で身柄を現地の公安当局に束縛されます。

 この男の本名は、ヴィンセンコ・ペルージアで塗装工でした。
イタリア人ですが、フランスに出稼ぎに行き、事件当時はルーブル美術館で絵にニスを塗る作業を行っていました。「ナポレオンが、イタリアから絵画や彫刻を幾つも略奪していったから、その仇を討ったのだ」と彼は証言したと伝えられています。
やっと「モナ・リザ」はルーブル美術館の本来に場所に戻り、翌年1月4日から公開されました。

 この事件は、結末が余りにも“間の抜けた”終結で、その発見直後から疑問を呈していた様です。
古美術商に持ち込めば、公安関係者(イタリアには、美術専門の特捜警察組織が現在も存在します)に通報され、拘束される事は明らかであり、2年近くも隠匿しながら、何故その様な安易な行為を行ったのでしょうか?
この2年の間に精巧な模写が描かれ、ルーブル美術館に戻った「モナ・リザ」は贋作の方で在ると考える人物も多く存在しています。

日本での報道

 森鴎外には、外国新聞からおもしろいニュースを見つけて翻訳し、「椋鳥通信」「水のあなたより」等と題して、海外からの便りの形をとって、雑誌「ずばる」等に連載したものが在り、「鴎外全集」にも収録されています。
その部分を読むと、モナ・リザ盗難事件の発生から解決迄を辿る事ができます。

ジョークは如何?

日本にディズニランドーを作るとき、ディズニー社は日本側から
「できるだけアメリカらしさを出してくれ」と言われた 。

パリにディズニランドーを作るとき、ディズニー社はフランス側から
「できるだけアメリカらしさを出さないでくれ」と言われた。


続く・・・
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2015/07/24

歴史を歩く123

1ルネサンス⑧

5技術と科学の発展

 「自然と人間の発見」(スイスの歴史家ブルクハルトの言葉)は、ルネサンスを端的に表した言葉として有名です。

 ルネサンス時代には、自然観察や実験が重んじられ、科学や技術が著しく発達しました。

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カノン砲(初期)
 
 技術分野では、火薬(火砲)・羅針盤・活版印刷のいわゆる三大発明(正確には発明でなく改良)が成しとげられ、以後のヨーロッパ発展に大きな役割を果たしました。

 火薬は、中国の宋・元で実用化され、イスラムを経て、13世紀にヨーロッパに伝わり、大砲や鉄砲に使用され、従来の戦術を一変させて騎士階級の没落を早めたのです。

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羅針盤他16世紀頃

 羅針盤も、宋代に実用化されたものが、14世紀にイタリアで改良された結果、大洋航海を容易にし、大航海時代を促進することに成りました。

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活版印刷

 ドイツ人グーテンベルク(1400年頃~68年)は、1440年頃合金活字と加圧式印刷機を発明し、1450年頃ラテン語聖書を初めて印刷します。
印刷本は従来の手写本に比べて約10分の1の値段となり、書物やパンフレットの出版を容易にし、書物と知識の普及に大きく貢献しました。

 ヨーロッパで活版印刷が盛んとなった背景には製紙技術の普及も見逃せません。
中国で発明された製紙法は8世紀にイスラムへ、12世紀頃に西ヨーロッパに伝わり、製紙業の発達に伴い紙が大量にそして安価に作られるようになり、それまでヨーロッパで使用されてきた羊皮紙に取って代わったのでした。
これにより従来大変高価であった書物が安くなり、書物の大衆化が可能に成りました。

 中世ヨーロッパでは、科学精神はキリスト教の教義によって抑圧されてきましたが、ルネサンス期には自分の目で見て判断しようとする合理的、科学的精神が生まれ、地動説等に繋がって行きます。

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コペルニクス

 コペルニクス(1473年~1543年)は、ポーランドに生まれ、クラクフ大学で医学、天文学を学んでイタリアに留学し(1495年~1505年)、留学中に古代の太陽中心説(地動説)に接し、カトリック教会公認の天動説に疑問を抱くように成り、帰国して聖職につき、天文観測を続けるなかで地動説を確信しますが(30年頃)、教会との争いを恐れて公表せず、友人の勧めで「天球回転論」(1543年刊)が刊行されたのは死の直前でした。

 「天球回転論」は激しい非難を浴び、後にカトリック教会によって禁書とされましたが、コペルニクスは既に他界しており、教会の迫害を受けることはなかったのです。

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ジョルダーノ・ブルーノ

 しかし、ジョルダーノ・ブルーノ(1548年~1600年、イタリアの学者)は、コペルニクスの説を主張したために捕らえられ、7年間投獄された後、宗教裁判によって火刑と成ります。

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ガリレオ・ガリレイ

 ガリレオ・ガリレイ(1564年~1642年)は、ピサに生まれ、ピサ大学で医学を志し、数学・物理学に転向し、25歳でピサ大学の教授と成った後、パドヴァ大学に転じ、自ら製作した望遠鏡で天文観測を続け、木星の衛星を発見し、コペルニクスの地動説に有利な事実を多数発見し、コペルニクスの地動説を側面から証明しました。

 このためローマの異端審問所に召喚されて宗教裁判にかけられ(1616年)、地動説に関する著述と教授を禁止されますが、ガリレイはその後も観測を続け、「天文対話」(1632年)を刊行したので、宗教裁判にかけられ、地動説の放棄を誓約させられます(1633年)。
この時ガリレイが「それでも地球は動く」とつぶやいたという伝説は、彼の無念な気持ちをよく表しています。
その後フィレンツェ郊外に幽閉され、その地で没しました。

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ケプラー

 地動説は、その後ケプラー(1571年~1630年、ドイツの天文学者、惑星の運行の法則を発見、地動説を数理的に完成した)やホイヘンス(1629年~95年、オランダの物理・天文学者)そしてニュートン(1642年~1727年)等によって力学的に基礎づけられ、18世紀末迄には完全に実証されました。 

ジョークは如何?

北朝鮮には、「不敬罪」は存在しない。
不敬を働いたものは、全ての記録を抹消され、存在しなかったことになるからだ。


続く・・・

2015/07/18

歴史を歩く122

1ルネサンス⑦

4ルネサンス文芸の社会・政治的背景

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ロレンツォ・デ・メディチ

 ルネサンスは、ヨーロッパ近代の出発点とされていますが、中世的要素を強く残していること、またその貴族的、保守的性格等の点で限界が在りました。

 ルネサンス時代に活躍した学者や芸術家は都市に住む知識人で、都市の大衆や農民とは無縁の存在であり、ルネサンスは広く大衆に及ぶものではなかったのです。

 学者や芸術家の多くは、フィレンツェのメディチ家やローマ教皇等の権力者の保護下で活躍し、経済的にも保護者に依存することが多く、その為ルネサンスは貴族的性格をおび、個人的に聖職者や貴族を批判、攻撃することはあっても、社会組織や教会制度の改革を主張する迄には至りませんでした。

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サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

 イタリア・ルネサンスは、16世紀後半には衰退し、ルネサンスの中心は西ヨーロッパ諸国に移って行きます。

 イタリア・ルネサンスが衰退した理由としては、ヨーロッパ人の対外進出(いわゆる地理上の発見)によってアフリカ南端を回って直接アジアへ行くことが可能となり、従来の地中海経由の東方貿易が衰退に向かい、イタリア諸都市が没落したことがまず上げられます。

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イタリア戦争

 中世以来、イタリアは多くの都市共和国、諸侯国や教皇領等に分裂し、神聖ローマ皇帝、フランス王、スペイン王等の干渉を受け、イタリア戦争と呼ばれる覇権争いが続いて分裂、混乱が続いたこと等も重要な要素です。

 イタリア戦争(1521年~44年、広義には1494年~1559年)は、イタリア支配をめぐる神聖ローマ皇帝、フランス王、スペイン王等の抗争で、1494年にフランス王シャルル8世がイタリアに侵攻して以来抗争が繰り返されました。

 特にフランス王フランソワ1世(在位1515年~47年)は、神聖ローマ皇帝をめぐってハプスブルグ家のスペイン王カルロス1世(在位1516年~56年、神聖ローマ皇帝としてはカール5世)と争って敗れ、スペインとドイツにまたがる大勢力となったハプスブルグ家と激しく対立し、1521年から44年迄北イタリアを中心に、複雑な外交的なかけひきと激しい戦いを繰りひろげます。

 フランソワ1世は、カール5世に対抗する為に、ドイツのルター派諸侯を援助し、叉オスマン・トルコのスレイマン1世(在位1520年~66年)と結ぶ等トルコ迄を巻き込み、当時ドイツで起こった宗教改革にも大きな影響を及ぼしました。

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マキァヴェリ

 結果的には、フランスが不利で、北イタリアに於けるフランス勢力は殆ど一掃され、マキァヴェリ(1469年~1527年)は、このようなイタリアの状況を憂い、イタリアの統一を熱望し、「君主論」を著しています。

 マキァヴェリは、フィレンツェの小貴族の家に生まれ、メディチ家が追放された後に、フィレンツェ共和政府の外交使節となり、度々外国に渡航しました。
1521年にメディチ家が復帰すると、役を追われ、一時投獄されますが、釈放後郊外に隠棲して「君主論」(1513年頃執筆)、「ローマ史論」等を著します。

 マキァヴェリは、「君主論」の中で「君主が獣の方法を取らなくてはならぬ場合には、彼はまず狐と獅子を選ぶがよい」と説いています。

 君主は狐のようなずる賢さとライオンのような力を使い分けて統治すべきであると云う意味で、目的の為には手段を選ばないと云う権謀術数主義(マキァヴェリズム)を端的に表しています。

 マキァヴェリがこのような極端な論を説いた背景には、中央集権化した諸大国の侵入からイタリアを救うにはイタリアの統一が急務であること、その為には道徳や宗教に縛られない強力な君主の出現が必要であるという祖国愛からでした。

 「君主論」は近代政治学の先駆として高く評価されています。

ジョークは如何?

あるペレストロイカ期のソ連では石鹸と紅茶が不足していた。

「どうして、よりによってこの国には石鹸がないんだ?」
「そりゃ、共産党が過去の罪を洗い落としてる真っ最中だからさ」


続く・・・


2015/07/14

歴史を歩く121

1ルネサンス番外編

レオナルド・ダ・ヴィンチの裏文字(鏡文字)

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裏文字(鏡文字)

 ルーブル美術館にある「モナ・リザ」或は「ジョコンダ」と云われる美しい女性の肖像画は、描かれている唇の両端を僅かに上げた微妙な表情は“謎の微笑”と呼ばれています。
「モナ・リザ」を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチと云う名前を聞くと、私達は天才画家と連想しますが、彼は画家とは一口で言えない人物でした。

 ダ・ヴィンチの活躍した15世紀から16世紀の頃、イタリアは「ルネサンス(文芸復興)」と云われ、ミケレンジェロ、ラファエロ、ボッティチェリ等、天才的な画家や彫刻家達が、次々と登場した時代で、芸術の分野のみならず、建築、文学、科学にも多くの人物が、登場した時代でした。
その上、この当時の人々の才能は、一つの方面にだけ特に優れて発揮されたのでは無く、一人の人物が多方面に、同時に才能を示したので、彼等を「万能の人」と呼び、ダ・ヴィンチもその一人でした。

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人力航空機のアイデアデッサン

 彼は、ミラノのロドヴィゴ公に仕える時、自分の推薦状を自ら書きます。
その推薦状は、10ヶ条から成り、自分は橋、攻城機、大砲、船舶の設計制作に優れ、最後の部分に、彫刻、絵画も得意であると書きました。
以上から推察される様に、ダ・ヴィンチは彫刻、絵画を自分の才能の一部と思っていた様です。

 彼は、あらゆる事象に関心が有り、見聞した事や自分の発想を記録していました。
現在でも是等の記録は、6000ページに相当する数が現存し、イタリア、フランス、イギリス等の図書館、博物館に所蔵され、又その大部分は、文献として出版され、私達も見る事ができます。

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回転翼機のデッサン

 処が、この文書は、大部分が不思議な文字で書かれ、行は右から始まり左方向に向かっており、その一文字一文字が、裏返しに成っていて、鏡に写して見ると、普通の文字として判読できるの事から「鏡書き」等と呼称される事も有ります。
その上、短い単語が組み合わされたり、長い単語を短く切断したりされており、文節、文法も無視され、省略は至る処に存在する為、大変読み難く、理解し難いものと成っています。

 なぜ、ダ・ヴィンチは裏文字を書いたのでしょうか?
彼は晩年、リューマチか神経痛で右手が不住に成ったと云われていますが、問題の裏文字は、20歳代から既に始まっており、最初の頃は、所々に少し混じる程度ですが、見受けられるので、単純に病気の為だけでは成さそうです。
彼の生きた時代は、教会勢力の強い時代で、異端審問も可也の頻度で行われていましたから、彼自身の本当の考えが外部に洩れる事を恐れて、わざと読み難い文字を使用したのではないか?と考える説も在ります。
当時は、捕らわれない心で自然を見、理性で物事を判断する人間が現れはじめましたが、その様な人々の中には、正統な神を信じない人は“異端者”とされ、処刑される者も多数に上りました。
ダ・ヴィンチは、異端者と疑われる事の無い様に、自分の手記記録を他の人物に読まれる事が無い様に、判り難い文字で書いたのだと思われます。

 もう一面として、彼は多分、“左利き”で在った為この様な文字を書いたのではないか?との疑問も存在します。
美術書に因れば、彼のデッサン類を深く見聞すると、陰影の部分に引かれた細い影付けの線が皆、左上から右下に向けて描かれています。
普通は、右上から左下へ線を引きますが、是は彼が左利きの為左で描いた為で在り、先に述べた記録は、他人に見せる事を前提にしていないものなので、書き易い左手を使った為、裏文字に成ったと推測されます。
その為、他人に読んで貰う書面、先の10ヶ条の推薦書は、普通の文字で書かれています。

ジョークは如何?

エデンの園はロシアにあったとする学説がある。

なぜなら、アダムとイブはクルマも家も服さえも持っていなかったが、
自分たちが住んでいるところがパラダイスだと信じて疑わなかったから


続く・・・

2015/07/13

歴史を歩く120

1ルネサンス⑥

3美術の黄金時代②

 イタリア・ルネサンス絵画は、15世紀後半から16世紀前半にかけてボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ等が活躍し黄金時代を迎えました。

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「春」

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ヴィーナスの誕生

 ボッティチェリ(1444年頃~1510年)は、フィレンツェに生まれ、メディチ家の依頼で「春」(1478年)や「ヴィーナスの誕生」(1488年)等多くの作品を制作しました。
「春」と「ヴィーナスの誕生」は官能的な女体美を描いた作品で、発表当時人々に大変な衝撃を与えたと云われています。

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最後の晩餐

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モナ・リザ

 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)は、フィレンツェ近郊のヴィンチ村に生まれ、フィレンツェ、ミラノ、ローマで活躍しました。

 彼は画家、彫刻家、建築家として活躍しただけでなく、物理学、解剖学、植物学等の諸科学、飛行の原理や軍事技術等の諸技術にも優れた天才でルネサンスの理想像であった「万能人」の典型でした。

 絵画の分野でも、「最後の晩餐」(1495年~98年の作)や「モナ・リザ」(1503年頃の作)等の有名な作品を描いています。

 「最後の晩餐」は、キリスト受難前の弟子達との最後の夕食を題材とし、「汝らの一人、我を売らん」というイエスの言葉に動揺する12人の弟子達の姿がみごとに描かれている名作です。

 「モナ・リザ」は、ジョコンダ像とも呼ばれる婦人の肖像画で、謎の微笑といわれる神秘的な表情で有名です。

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ダヴィデ像

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最後の審判

 ミケランジェロ(1475年~1564年)は、彫刻家、画家、建築家でレオナルド・ダ・ヴィンチと並ぶルネサンスの巨匠であり、メディチ家の保護を受け、叉ローマ教皇に仕えてフィレンツェ、ローマで創作活動を行った。

 彫刻では、「ピエタ」や「ダヴィデ像」、「モーゼ像」が有名ですが、「ダヴィデ像」は若き日のダヴィデ(古代ヘブライ王国の第2代の王)をモデルにした5.4mもある巨大な彫刻で、フィレンツェ共和国の自由と独立の象徴としてつくられました。

 壮年期のミケランジェロの2大作は、教皇ユリウス2世の墓廟(1513年から40年を費やした)とシスティナ礼拝堂(ヴァチカン宮殿内の主要礼拝堂でサン・ピエトロ大聖堂の側にある)の天井画です(1508年~12年の作)。

 システィナ礼拝堂の天井画は、旧約聖書の天地創造や楽園追放等の場面を描いた雄大で迫力に満ちた作品です。

 後にシスティナ礼拝堂の祭壇の奥の壁に「最後の審判」を描きました(1536年~41年)。
「最後の審判」はイエスが裸体で描かれていたので非難を集めましたが、力強さと気品に満ちたミケランジェロの最高傑作と評価されています。

 叉ラファエロの後を継いでサン・ピエトロ大聖堂の改築の責任者となり(1546年)、ブラマンテの設計を縮小して大聖堂の大部分を建設しました。

 ミケランジェロは生涯独身を通し、死の数日前迄制作を続け89歳の生涯をローマで終えました。

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聖母子像より美しき女庭師(聖母子と幼児聖ヨハネ)
     
 レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並び称せられるルネサンス三大巨匠の一人であるラファエロ(1483年~1520年)は画家、建築家として活躍しました。

 幼いときから絵画を仕込まれ、後にフィレンツェに出て(1504年)、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロの影響を強く受け、一連の「聖母子像」を描いて名声を確立します。
一連のマリア像は女性の優しさ、美しさを余すところなく描き出した名作と賞賛されています。

 ローマに出てからは(1508年以降)、教皇ユリウス2世、レオ10世に重く用いられ、ブラマンテの死後、サン・ピエトロ大聖堂の改築主任と成りますが(1514年)、37歳の若さで没しています。

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ファン・アイク兄弟・神秘の子羊

 イタリアでルネサンス絵画が勃興した頃、ネーデルランドにもファン・アイク兄弟(兄1366年頃~1426年、弟1380年頃~1441年)が登場し、油絵画法を創めて、フランドル派を創始し、写実的な画風で宗教画や肖像画を残しています。

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 ブリューゲル(1528年~69年)は、フランドル(現ベルギー)の農民出身の画家で、故郷の村の名を取って姓としました。
彼は当時では例外的に名もない農民達とその生活を好んで描いたので「農民のブリューゲル」と呼ばれました。
彼の絵画は20世紀初頭に再評価され、今日でも高く評価され、代表作に「結婚祝い」「農民の踊り」等が在ります。

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Melancolia(メランコリア)

 ドイツでは、デューラーやホルバインらが活躍した。
 デューラー(1471年~1528年)は、ニュルンベルクで金細工師の子に生まれ、父に金細工を学んだ後に絵画と木版画を学びました。
イタリア、ネーデルランド等各地を遍歴して修業し、帰国後重く沈んだ宗教的な名画「四使徒」を制作し(1526年)、叉絵画の他に多くの優れた木版画や銅版画も残しました。

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ヘンリ8世像

 ホルバイン(1497年~1543年)は、アウグスブルクに生まれ、スイスのバーゼルに住み、個々でエラスムスの「愚神礼讃」の挿し絵を描いたことが縁となり、トマス・モアに招かれてロンドンに滞在し、一度帰国し、その後再びイギリスに渡り以後永住しました。
やがてヘンリ8世の宮廷画家となり、「エラスムス像」「ヘンリ8世像」「トマス・モア像」等の優れた肖像画を残しました。

ジョークは如何?

ルーマニアの洪水では欧米や日本、ロシアからの援助があった。

米国からのドルは道路を復旧させた。
日本からの円は新しい橋になった。
ロシアからのルーブルは尻ふき紙になった。


続く・・・

2015/07/07

歴史を歩く119

1ルネサンス⑤

3美術の黄金時代

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小鳥に説教する聖フランチェスコ

 絵画分野でイタリア・ルネサンスの道を開いたのはジョット(1266年頃~1337年)です。
ジョットは、ビザンツ様式を克服して、巧みな心理描写や遠近法によってルネサンス絵画の祖と成り、その代表作に「小鳥に説教する聖フランチェスコ」が在ります。

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楽園追放

 マサッチョ(1401年~28年頃)は、当時流行していた保守的なゴシック様式から脱却し、ジョットの表現力豊かな画風に戻って遠近法を確立し、初期ルネサンス絵画を確立しました。
代表作に「楽園追放」が在ります。

 同じ頃、ギベルティ(1378年~1455年)やドナテルロ(1386年頃~1466年)が彫刻に絵画的な表現を取り入れて写実主義を発展させ、彫刻における初期ルネサンス様式を確立しました。

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サンタ・マリア大聖堂

 建築ではブルネレスキ(1377年~1446年)によってルネサンス様式が創始されました。
ブルネレスキが設計・建築したフィレンツェのサンタ・マリア大聖堂は初期ルネサンス様式の傑作です。

 ルネサンス様式は、大円蓋(ドーム)と古代ギリシア・ローマ風の列柱や装飾を特徴とし、安定感と豪快さに富む建築様式で、ルネサンス最大の建築家であるブラマンテ(1444年~1514年)は、当初ミラノで活躍し、やがてローマに移り(1499年)、教皇庁に仕え、教皇ユリウス2世(在位1503年~13年)の命を受けてサン・ピエトロ大聖堂の改築を設計・監督しました。

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サン・ピエトロ大聖堂

 サン・ピエトロ大聖堂は、使徒ペテロの墓所とされていた場所にコンスタンティヌス大帝の命によって建立された教会で、14世紀以来カトリック教会の総本山となりました。

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ブラマンテ

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ラファエロ

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ミケランジェロ

 教皇ユリウス2世はブラマンテを起用して大々的な改築に着手し(1506年)、ブラマンテの死後、教皇レオ10世(在位1513年~21年)がラファエロに、次いで教皇パウルス3世(在位1534年~49年)はミケランジェロに命じます。
ミケランジェロは初期設計規模を全長で4分の3に縮小し、工事を進めますが宗教改革の影響等で中断され、その後更に縮小されて再開され、1626年に完成しますが、円屋根の高さは132mにも達し世界最大の大聖堂と成りました。

 なおレオ10世が、このサン・ピエトロ大聖堂改築費用調達のために贖宥状(免罪符)を発行、販売したことがルターの宗教改革の発端と成ったことは有名です。

ジョークは如何?

或る国で会議が行われた。

「今日の議題は、2つある。
1つめは、わが国に蔓延する汚職、腐敗、癒着を
いかに根絶するかということ。
2つめは、そうした後で我々がどうやって生きるかということだ。」


続く・・・
2015/07/07

今日は七夕

<今日は七夕>

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今年の七夕は、はたして星空を眺めることが叶うでしょうか?

 こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られ、織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘でした。

 夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルで、夏彦もまた働き者で、天帝は二人の結婚を認め、目出度く夫婦と成りましたが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなりました。
この為天帝は怒り、2人を天の川を隔てて引き離しましたが、しかし年に1度、7月7日の七夕の日だけは会うことが許されたのです。
雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡る事が出来ませんが、そのときはどこからか無数のカササギがやってきて、天の川に自分の体で橋を架けてくれると云います。

鵲の橋

 日本古来の年中行事は、1年を半分に分けた時、1月からの行事と7月からの行事で、似通ったものが2回繰り返されると云われます。
例えば7月15日のお盆(新盆)と1月15日の小正月、どちらも祖霊祭に原義が在り、半年を周期に年月の流れを取られていた為と云われています。
では7月7日の七夕は、1月の如何なる行事に似ているでしょうか?
それは、若水汲みになります。

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 吉成直樹『俗信のコスモロジー』(白水社1996年)に沿って紹介すると、高知県等での七夕に関する俗信の調査では、「里芋の葉にたまった水を集めて顔を洗うと肌が綺麗になる」「その水でイボや傷・吹き出物につけると直る」と云った事が言われます。
他には「その水で墨をすって字を書くと字が上手なる」と云うものも在りますが、之はこの日に技芸の上達を祈るという中国の乞巧奠の影響だろうということです。
里芋の葉の水とは、天から落ちてきた水だと考えられました。
そして肌や皮膚に関して人が若返るという信仰は、盆に備える為に禊で清めるというものとは異質のものだろうと云います。
皮膚が若返るとは、脱皮を意味するもので、水神=蛇を模したもので、その水神は天に住んでいるのだという信仰なのです。

 同じ調査では、6日の晩に14歳以上の未婚の少女たちが一つの宿に集まって、夜を通して、苧(お)を績(う)む行事があったと報告され、かつては全県で同様の行事があったといいます。「苧を績む」とは麻の繊維から麻糸を作ることです。
辞書によれば「苧績み宿」「糸宿」ともいい「娘宿の一。夜間、娘たちが集まって麻糸を紡いだり糸引きの仕事をしたりする集会所。糸引き宿。よなべ宿。」(大辞泉yahoo版)と説明され、全国的な民俗だったようです。
機織りについて糸を績むことと類似の行為と見てよいと思います。

七夕

 七夕とは、神を祭る棚機姫(たなばたつめ)と呼ばれる女性が、水辺の棚の上で、機を織りながら、神の来訪を待つ神事だと云われ、其れは選ばれた特別の女性の様なイメージなのですが、村の総ての少女が集団で行なってきた事でした。

 七夕の伝説が一人の美しい女性の物語と成ったのは、物語だからそう成ったと云えばそれまでですが、神に選ばれたと云う結果から解釈された物語なのかもしれません。
神に選ばれたとは、毎年の糸引きや神祭りを続ける事によって誰もが結婚の資格を得た事を意味しているのでしょう。
未だ学校の無かった時代ですから、娘宿では機織等の他にも学ばねばならない事柄は沢山在り、或は春先に、日中に外へ出て若菜を摘んで自炊したり、様々な経験をする処が娘宿だった様です。

終わり・・・
2015/07/03

歴史を歩く118

1ルネサンス④

2文学③

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 ルネサンス末期の作家としては、スペインのセルバンテス、イギリスのシェークスピアが有名です。
 
スペイン・ルネサンスの代表的な作家セルバンテス(1547年~1616年)は、マドリード近郊の貧しい外科医の子に生まれたため、正規の教育は受ける機会を与えられませんでした。

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レパントの海戦(1971年モナコ発行切手)

枢機卿の従僕と成って、ローマへ赴き、彼が24才の時レパントの海戦(1571年、スペイン・ローマ教皇・ヴェネツィア連合艦隊がオスマン・トルコ艦隊を撃破した海戦)に参加して負傷、その後帰国途上海賊に捕らわれ、5年間奴隷生活を経験します。
帰国後、スペイン無敵艦隊の食料徴発員や徴税吏と成るのですが、何らかの不手際で2回投獄され(1597年、1602年)、獄中で「ドン・キホーテ」の前編を執筆します。

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ドン・キホーテより風車への突撃

 「ドン・キホーテ」は、騎士道物語を読み過ぎて騎士になったと思いこんだドン・キホーテ(ドンは貴族の称号)が百姓の従士サンチョ・パンサを従えて遍歴の旅に出る、夢と現実を取り違えて引き起こす両者のとんちんかんな会話、行動を描くことにより、古い騎士的人物の時代錯誤のおかしさを描いた風刺小説で、近代文学の発達に大きな影響を与えました。
 
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ウィリアム・シェークスピア

 有名なシェークスピア(1564年~1616年)は、エリザベス女王時代の詩人・劇作家で、彼の作品は今日でも高く評価され、各国語に翻訳され、上演されています。

 シェークスピアは、イギリス、ストラトフォード・アポン・エイヴォン在住のヨーマン階層の家に生まれましたが、家が没落していたために学校教育も十分に受けられず、故郷を出て、ロンドンの劇団に入り(1586年)、木戸番から俳優兼座付き作者として劇作を始めます(1590年)。
以後20年間、独立の劇作家として活躍し、36編の作品を残しますが、突然筆を折り、故郷に引退し(1611年)、自適の晩年を送りました。

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夏の夜の夢・オーベロンとタイターニアの喧嘩

 作品の中では、「ハムレット」・「オセロ」・「リヤ王」・「マクベス」の四大悲劇をはじめ、「ロミオとジュリエット」・「ヴェニスの商人」・「ジュリアス=シーザー」・「アントニーとクレオパトラ」・「ヘンリ6世」・「リチャード3世」・「真夏の夜の夢」・「ウインザーの陽気な女房たち」等、史劇や喜劇等その作品は多方面にわたっています。

番外編<シェークスピアは実在したのか>

 嘗て、インドが大英帝国最大の植民地で在った頃、「インドは失っても、シェークスピアは失いたくない」とイギリスでは、云われていました。 

 さて、この世界的に有名なシェークスピアの生い立ちが、実際の処、良くわからないのです。

 1964年4月は、「シェークスピア生誕400年祭」がイギリスで行われ、記念行事も多数開催されました。
シェークスピアは1564年4月23日に生れ、1616年4月23日に死去した事になっています。
しかし、実際には、彼の生没は、きっちりと判明している訳ではなく、彼が生れたとされる、ストラトフォード・アポン・エイヴォン市の教会には、1564年4月26日に洗礼を受けた記録が、存在していますが、キリスト教では、生後まもなく洗礼を受けてキリスト教徒に成りますので、誕生は多分洗礼を受けた日から、それ程遠くない日であると推定され、更に没年月日が極めて近い為、同月日にされた(!)らしいのです。

 現在判明している、彼の生い立ちでは、実家は皮細工商で、父親は一時町の名誉職に就きましたが、稼業に失敗し、其の為シェークスピアは、学校教育もまともに受ける事が出来なかったと伝えられています。

 処が、彼の作品はどれも、相当の教育を受けた、ギリシア、ローマの古典にも通じた人物でなければ、書く事が出来ない様に見受けられます。
その為、「“ストラトフォード・アポン・エイヴォン”で生れたシェークスピアと多くの作品を残したシェークスピアは別人で在り、他の人物が彼の名前を借りて、是等の作品を書いたのだ」と云われ、一部には、哲学者フランシス・ベーコンの名前や、劇作家マーローの名前さえ称えられた事が在りました。
今から50年以上前に成りますが、とある人物が、劇作家マーローの墓所を調査すれば、本当は、マーローがシェークスピア劇を書いた事を証明できるとして、イギリス政府の許可を取り(!)彼の墓所を調査しましたが、証拠の発見には至りませんでした。

 又、シェークスピアは短詩(ソネット)も書いていますが、「これらの作品等は、国王ジェームズ一世の宮廷に仕えていた人物で無ければ、書く事は不可能で、常に創作活動を行い、劇場に出入していた人物が書いたとは思えない」と詩人で文学博士のブランデン氏が述べた事が在ります。
実在を疑われた、著名人は“キリスト”“マホメット”“釈迦”等多数存在しますが、シェークスピアの様に、比較的時代が新しい人物で、その実在を疑われている事は、珍しいと思われます。

 現在でも多くの専門分野の方々が、シェークスピアについて、文献を著していますが、基本部分として、彼の伝記が明確でない事に起因しているのです。
何時か、これ等の疑問に答える、明確な当時の文献が発見され、謎が謎で無くなる時が来るでしょうが、例え本当の作者云々が無くても、シェークスピア劇の面白さ、巧妙さは、色あせません。

ジョークは如何?

ユーゴスラビアに共産政権が生まれた時、スターリンはお祝いに 自動車をチトーに送った。
チトーは自分で運転し、交差点に差し掛かると左のウインカーを点滅させながら右にハンドルを切った。

キューバで共産政権が生まれた時、フルシチョフはお祝いに自動車をカストロに送った。
するとすぐに電報がフルシチョフの元に届いた

「送られた自動車にはハンドルが無い。至急送られたし。」

それに対するフルシチョフの返事は
「君はアクセルを踏め。私がハンドルを握る」

2015年、キューバ、アメリカ国交回復


続く・・・