2015/08/28

歴史を歩く132

17ヨーロッパ世界の拡大・中南米よりアステカ

アステカ族の奇習

1生贄の石

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ティノチティトランの市場風景

 現在、メキシコ・シティーの国立博物館中庭に、直径約2m程の周囲に彫刻を施した、丸い石が置かれています。
之は、アステカ(Aztecs)族の「生贄の石」で、展示物の中で最も陰惨な物と云われ、この石の上でどれ程多くの人々が、生贄と成り命を落としたか解かりません。

 14世紀中葉、アステカ族は現在のメキシコ合衆国の首都メキシコ・シティーの存在する場所に、ティノチティトランと呼ばれる都を建設していました。
その後15世紀から16世紀初頭にスペイン人によって征服される迄、中部アメリカに於いて強大な国家を建設し、ある面に於いては、征服者スペインよりも高度な文明を誇っていました。
首都ティノチティトランは、当時のスペインの首都マドリードより人口が多く、住民は石造りのしっかりとした住居で生活し、金・銀・銅・石の細工に長け、織物を作り、彫刻にも秀でていました。
又、ピラミッド状の神殿を建立し、国王の宮殿は素晴らしいものであったと、云われています。

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ティノチティトラン

 彼等の信仰の世界は、複雑な多神教で、その巨大な建造物や絵画彫刻には、現代人の眼で見るとグロテスな物も多いですが、更に国家の宗教行事に於いて、夥しい人身供養を伴いました。
アステカの聖なる都、チョルーラには、彼等の最高神を賛美する為、一辺の長さが120mに及ぶピラミッド状の壮麗なテオカリ神殿を建立し、その頂上には、彼等の最高神を収めた社を設けます。
そして、毎年繰り返される、祭礼には当時メキシコ湾から太平洋迄広がっていた、アステカ族の全領土から巡礼者が参集し、多数の生贄が奉げられたのでした。

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チョルーラピラミッド復元模型

 15世紀末、コロンブスがアメリカ大陸を発見する、6年前、ある神殿拡張の為の祭儀には、その為に長期間に渡って蓄えられた、捕虜2万人を一度に生贄として奉げましたが、その犠牲者の列は3kmにも達した(!?)と伝えられています。

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生贄の儀式

 ピラミッド状に成った神殿の階段を生贄となる人々の列が登り、羽根尾の付いた頭飾りを付け、盛装した神官達が進み、その後から大勢の巡礼者がついて行く、頂上の神像の傍らには、生贄の石が既に用意され、生贄と成る者は、一人一人裸にされ、5人の神官がその者の手足、頭をしっかりと押さえ、もう一人の神官が、黒曜石のナイフで胸を裂き、神像を取り出します。

 犠牲者の列は、人身御供と成る者達の悲痛な叫び声に、身も心も擦り減るような思いをしながらも、静かに死の行進を続けていきました。
2万人の捕虜が、生贄として供養される為には、延々4日間を要したと伝えられています。
後にスペイン征服後、あるスペインの調査隊は、アステカ族のテオカリ大神殿の近郊で、この様な方法で非業の死を遂げた、マヤ・モロック族の遺骨13万6千個を発見したと記録しています。

2コンキスタドール

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スペイン旧1000ペセタ紙幣に刷られたエルナン・コルテス

 スペインの下級貴族エルナン・コルテス(Hernan Cortez 1485年~1547年)は、若くして、キューバに渡り、1518年キューバ総督ディエゴ・ベラルクスの命により、メキシコの探検に向かいます。
彼は兵士400人と馬32頭、大砲を積んだ11隻の帆船に分乗しキューバを出帆、探検先の原住民勢力や土地について全く不案内な中、ベラ・クルスに上陸し、その時乗って来た総ての船を焼却処分しました。
(この話は有名で、映画「レッドオクトーバーを追え」でも紹介されました)
部下達はこの行為によって、完全に退路を絶たれ、原住民を征服するか、自ら死に至るかを選択する事と成りました。

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アステカ族兵士とスペイン征服軍兵士

 アステカ族の兵士は、大変良く訓練され、非常に勇敢な軍隊でしたが、コルテス軍の騎兵隊や最新鋭の大砲、戦闘用具に驚き、翻弄され、ひとたまりも無く殲滅されて行きました。
今回の戦いは、スペイン兵士1名対アステカ兵100人に換算される戦果と成り、次々と現れるアステカ軍を打ち破り、首都ティノチティトランに入城します。

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コルテスとマリンチェ、アステカ皇帝モンテスマ2世、

 しかし、コルテスには独断先行の傾向が強く、キューバ総督は、彼の指揮権を剥奪する事を決め、彼を召還する為、パンフィロ・デ・ナルバスをメキシコに派遣しました。
ナルバスは、スペイン兵の中でも特に勇猛果敢な兵士5名を選抜し、ベラ・クルスに上陸、土地の司令官にコルテス軍より離脱する様勧告しました。

 その司令官は、使者ナルバスの勧告を受入れる代わりに、彼等6人を捕らえ、コルテスの基は送ります。
6人は縄で縛られた上、荷物扱いで首都ティノチティトラン迄逓送しました。(!)
彼等は、飛脚の背中に括り付けられ、昼夜を分かたずベラ・クルスから首都ティノチティトラン迄、約320kmの道程を運ばれました。
その間、厳しい地形を30km毎に移し変えられながら、96時間を費やして、目的地に運ばれました。
人間を荷物扱いで300km以上の道程を運ばれた事実は、前代未聞の出来事で、6人の使者はコルテスの前に引き出され、すぐさま死の宣告を受け無残な最期を遂げます。
その後、アステカ皇帝アウテモクの反乱も鎮圧され、1521年8月、アステカ帝国は歴史的大破壊の後、首都ティノチティトランはコルテス軍の前に陥落しました。

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ポポカテペトル(煙の山)

 メキシコ・シティーの西部、ポポカテペトル(煙の山)とイストクシハウル(眠れる乙女)の2山が聳え、東部にはオリサバ山が聳えていますが、何れも5000mを遥かに超え、万年雪を頂く姿は、世界でも美しい山の一つに数えられています。
この3山の内、ポポカテペトルはアステカ族にとって最も神聖な山でした。
この山は何時も煙と轟音を上げており、ちょうどテオカリ寺院の真西に位置し、ピラミッドの頂上から太陽の沈む光景は、あたかも、ポポカテペトルに吹き上げる煙の中、その火口に吸い込まれる様に見えました。
その光景を合図に、祭壇の石の上の生贄に一撃が加えられました。

ジョークは如何?

紀元元年はいつか? 1933年だ。
なぜ?

その年まではBefore Crisis(危機以前)、B.C. 文字色
それ以降はAfter Depression(不景気の後)、A.D.
だから。


※補足
1933年はニューディール政策の始まった年


続く・・・

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2015/08/23

歴史を歩く131

17ヨーロッパ世界の拡大・中南米よりマヤ②

1ゼロを発明した民族(中米編)

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マヤ文明の数字

 彼らは農耕民族で、最後迄、車輪の概念を持ちませんでしたが、其れでも古代アメリカの他のどの文明も達し得なかった芸術的、知的文明に到達しました。
彼らは天体の運動を計算し、驚くべき正確さで、遠い未来の天体活動、月食、日食を予想する事ができました。

 しかし、一方では、建築工学における、単純なアーチを作る事が出来ず、その文字は、未発達の絵文字でしたが、樹皮を紙の様に加工して、是を折りたたみ、長く繋いで作った書物も存在しています。
又、彼らの数学体系は、古代エジプトでさえ、足元に及ばず、その数の概念は億の単位迄、把握する事が可能で、ヨーロッパ人より1000年も早く0(ゼロ)の概念を持っていました。
中央アメリカのマヤ族は、華麗で、しかも荒削りな文明、急激な没落の為に歴史上最も謎の多い文化を築き上げたと云われています。

2マヤ文明の謎

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マヤの暦

 農民や漁民の単純な村落共同体が、如何にして紀元前1000年前後に、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラ、ユカタン半島、メキシコの南部に迄広がる、強力な文化に発展したのかは、現在でも明らかではありません。
しかし、現実にマヤの人々は現実に是等を成し遂げて行きました。

 緩やかにマヤの人々は、階級制度を発達させ、世襲貴族、神官等の支配層、労働する自由な平民層、戦争捕虜である奴隷の区別が存在し、特に他部族の高位の者が戦争捕虜になると、彼らはマヤの神々の生贄とされました。

 マヤの数字は、3種類の記号だけを使用し、点・は1、棒Iは5、貝の形は0を現し、この組合せによって億単位の計算すら可能でした。
如何なる理由が存在したのか、現在では解明も不可能ですが、マヤの人々は紀元前3114年を天文学的事象の計算と時間軸の出発点と定めました。
天文学の水準は極めて高く、当時他の如何なる文明よりも遥かに正確な暦を作り上げ、1年365日は、20日づつ18ヵ月に分けられ、それにセバと呼ばれる5日が加えられました。

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マヤの農耕生活(想像図)

 西暦300年頃から900年がマヤ文明の黄金期で、壮麗な都市が築かれますが、建物は驚く程に美しく、最上階に神殿を載せたピラミッドは、密林の木々を背景に空に浮かび上がっていました。

 興味深い点と云えば是等の都市は、支配階層が住む儀式の場で、農民は郊外の農地に住み、商売や宗教的祭礼、球技の試合等の時だけ都市の広場に集まりました。

 しかし、突如10世紀初頭、是等の都市は放置、廃棄され、マヤ文明は崩壊してしまいます。
この終焉を説明する為に、数多くの研究文献が出版されました。
研究者に因れば、土壌の消耗と生産性の低下の為、彼らの農耕制度が崩壊し、都市の急激な人口減少を招いた、或は、地震、疫病、戦争、メキシコ高地人種の侵入を説き、又、被支配階級が支配階級に対して、一種の革命を起こした可能性も提唱されています。

 考古学上、最新の研究に因れば、西暦900年頃、神官階級が支配権を喪失し、社会的、経済的平等化が発生したのではないかと言われています。
祭儀の場所は廃棄され、続く数世紀の間にその繁栄を極めた、マヤ文明は衰退した様に思われます。

ジョークは如何?

indows98発売目前のころ。
CMプランナーと皮肉屋の友人が話をしていた。
一人が熱っぽく語りかける。
「次のWindowsのイメージキャラクターにダイアナ妃を使えないかな。
彼女はWindowsのイメージにぴったりだろ、常に世間の注目を浴び、
話題の中心にいて…」
「ただし、必ずしもいい話題とは限らない」とまぜっかえす皮肉屋。

腰を折られつつも、気をとりなおし話を続けるプランナー。
「…両方ともとても美しく、すばらしく優雅に動き…」
皮肉屋が後を続ける
「…そして突然クラッシュする」

続く・・・
2015/08/21

歴史を歩く130

17ヨーロッパ世界の拡大・中南米よりマヤ

雨の神の花嫁(チェチェン・イッツア)

1チェチェン・イッツア

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チェチェン・イッツア:ククルカン神殿

 メキシコ合衆国のパナマ地峡に近いユカタン半島は、現在沿岸部を除いて住む人間も殆ど居ない地域と成っています。
しかし、現在から500年程遡ったコロンブスのアメリカ大陸発見当時は、アステカ族よりも更に高度な文明を誇ったマヤ族が居住していました。
マヤ族に関する研究は、アメリカ人ジョン・エル・ステフェンス(John L、Stephens)やイギリス人フレデリック・キャザウッド(F、Catherwood)、探検家のアルフレッド・モーズレイ(A,P,Maudslay)等により、19世紀中葉よりユカタン半島現地に於いて調査が進められた結果、マヤ族の文化が少しづつ判明してきました。

 研究によれば、マヤ族は紀元68年頃、既に都市ウワハクトン(ホンジュラス)を建設していました。
彼等は120年間に渡ってウワハクトンに住み、その後24km離れたティカルに拠点を移動します。
ティカルには西暦5世紀初頭迄、マヤ族が居住した痕跡が、都市内に現存する記念物から推定されています。
ティカルの後、マヤ族は次々と遷都を繰り返し、終には紀元530年より629年の間に、中部メキシコの地域を遺棄して、北方のユカタン半島に移住しました。

 彼等は600年に渡る文化を捨て、地味の悪い地域に何故移住したのでしょう?
疫病の蔓延、戦争、凶作等結果なのかは、現在でも良く判っていませんが、一般には度重なる遷都や、ユカタン半島への大移動は、何れも凶作に起因するものと考えられています。

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マヤ人の生活風景(想像図)

 マヤ族がユカタン半島に移住した時、農耕に必要な河川は殆ど存在していませんが、ユカタン半島北部には、之に代わる非常に大きなセノテス(自然湧水)が存在していました。
ユカタン半島は石灰質の土壌であり、その地下には無数の湖や河川が存在し、地殻が地下に向って傾斜すると、必ず地下水が湧き出しました。
マヤ族はこの豊かな水源を利用して、農耕を行い、飲料水として利用していきました。

 この地に建設された最大の都市が、チェチェン・イッツア(Chichen itza)で、ユカタン半島のほぼ中央部に位置し都市の近郊には、巨大な遊水地を2箇所も従えていました。
この遊水地は、地殻が40m程陥没した場所に出現した、深水湖であり、その直径は60m余り、両者はお互いに1.6km程離れています。
マヤ族はこの地で、十分な水を得る事が出来る為、都市の建設を開始したのでした。
因みに、チェチェン・イッツアとはマヤ語で「泉の口に在るイッツアの町」を意味しています。

 二つの泉の内一方は、住民の飲料水と田畑の灌漑に利用され、もう一方は神聖なものとして、雨の神ナホチェ・ユムチャックに奉げられました。
この泉は、水深20m、水面に達する為には更に20m以上も壁面を下る必要が在りました。
マヤ人はこの第二の泉が、陰鬱で神秘的な雰囲気に恐れを抱き、雨の神がこの深い泉の底に神殿を構えて住んでいると信じていたのでした。

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ククルカン像(チェチェン・イッツア北側下部)

 マヤ族の間に古くから伝えられた話では、12世紀から13世紀頃、彼等の場所に一人の異邦人が現れ、メキシコ人はこの人物をケツアルコアトルと呼称し、マヤ族はククルカン(有翼の蛇)と呼びました。
ククルカンは戦争捕虜として、チェチェン・イッツアに連行され、雨の神ナムチュ・ユムチャクへ捧げる生贄として、聖なる泉に落とされました。
しかし、ククルカンは溺れる事がなく、マヤ族は古くからの慣わしに従い、彼を救い神の位を授けました。
やがて、ククルカンはチェチェン・イッツアの支配者と成り、ユカタン半島最大勢力を持つ首長と成っていきました。
人々は彼を生き神として崇め、彼の為に神殿を建立したのです。

2雨の神の花嫁

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雨の神の花嫁(イメージ)

 ククルカンの神殿は高さ30m、基礎部分の面積60平方mのピラミッド状をしており、頂上には石造りの神殿が祭られ、この神殿から雨の神の住む聖なる泉に通じる、幅4.5m、全長400mの石畳の道が存在し、両側には有翼の蛇ククルカンの聖像が無数に欄干の如く並んでいます。

 ククルカンの神殿及び、聖なる泉、その石畳はマヤ族の生活に密接な関係が在り、日照りが続き、農作物が干からび始めると、之は雨の神ユムチャクの怒りによるものと信じ、神を宥める為、14歳になる美しい処女を選び、花嫁として聖なる泉に投げ込む風習が在りました。

 生贄の花嫁は、二度と姿を現す事は在りませんが、死にはしないと考えるのが、彼らの信仰であり、生贄と一緒に宝石や雨の神の神殿で生活する為に必要な品物も供物して、投げ込んだのでした。
この雨の神ユムチャクへの生贄については、マヤ族全体が深い関心を持ち、儀式の当日には国中の人々は、生贄を見送る為、この地に参集したのです。

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儀式楽隊(イメージ)

 ククルカンの神殿には、マヤ族の中から選抜された、14歳の美しい処女が、雨の神の花嫁として捧げられる為、美しく着飾り、その時の至る事を待っていました。
その傍らには、マヤ族の中で最も勇敢な若者が、きらびやかな衣装に身を固め、いたいけな花嫁の旅路を守り、雨の神の神殿に無事送り届ける為に控えています。

 やがて夜明けの時間が訪れると、法螺貝の合図と共に、生贄の行列は、司祭長を先頭に、神殿を後に聖なる泉に向かいます。
綺麗に掃き清められた、90段もある急な階段を下り、石畳の上に足を印した時、雨の神の栄光を称える楽隊がその列に加わり、生贄の少女とその警護の勇者は進んでいきます。
石畳の道は、聖なる泉の縁で突然終わり、密林に囲まれた石造りの祭殿に行き当たります。
祭壇の先は、聖なる泉が静まりかえって存在し、周囲の木々の梢から太陽の光が差し込んで来る頃、司祭長は祭壇から、泉に向って手を差し伸べ、雨の神に祈りを捧げ、やがて太鼓の合図と共に花嫁が泉の縁に進み、6人の司祭が彼女を抱えるとゆっくりと前後にゆり動かし、楽隊の旋律は序所に早くなり、それが最高潮に達した時、花嫁は司祭達の手を離れ、暗い泉の中に向っていきました。
警護の若者がその後を追い、さまざまな品物が泉に投げ込れるのでした。
後に「ユカタン事物紀」(Relacion de las cosas de Yucatan)を著したディエゴ・デ・ランダ(Diego de Landa)は、「若し、この国に金が在るとするならば、この泉こそ、その大部分を沈めている筈である」と述べています。

 この儀式も16世紀中頃には終わりを告げ、ユカタン半島がスペイン勢力に落ち、マヤ族の王国が滅亡してからは、一度も行われた事は在りません。
その後、聖なる泉の周囲は自然に戻りつつ在り、僅かに石造りの祭壇や荒れる任せた石畳が、その昔の面影を留めるばかりなのです。

3ククルカンの墓

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ディエゴ・デ・ランダ(Diego de Landa)

 今迄のお話は、ランダ神父の著作に記された事柄ですが、この記録を信じ、聖なる泉を調査、探検しようと志す者も居ます。
1885年から25年間に渡り、この地方のアメリカ領事を務めた、E・H・タムスンは、40年以上をユカタン半島で過ごし、精魂を傾けてマヤ族の遺跡を調査しました。
その長い期間の内に、彼は原住民の仕掛けた、毒ねずみの罠に係り足が不住となり、聖なる泉の調査では水中に潜って耳が不住になり、しかも幾度も風土病に悩まされ続けました。
彼は、チェチェン・イッツアを訪れた時、聖なる泉の伝説を知り、その真偽を確かめ様と考え、友人を口説き落として資金を集め、浚渫機器を揃えスキンダイビングを習得しました。

 タムスンは聖なる泉の最も有望と予想される位置に、浚渫機を設置し、泉の底を浚い始めました。
最初は、汚泥や木々の枝等が殆どで、この状態が長期間に及び流石に楽観主義者のタムスンも、自分の考えに誤りが有るのではないかと疑い始めたます。
しかし、ある日の事、浚渫機は香料の塊をすくい上げ、それから数ヶ月の間に、花瓶、香炉、矢尻、槍の穂、斧、金製の盤、玉の飾り等が次々と発見され、花嫁の伝説を裏付ける若い男女の遺骨も発見されました。
タムスンは潜水服に身を委ね、毎日聖なる泉の底に潜り、調査を続け結果、その発見した黄金の品々は、水鉢と杯、40枚に上る平皿、指輪20個、鈴100個、無数の金塊、金細工300個と膨大な価値のもので、泉の伝説を立証するに十分な発見でした。

 タムスンの発見は、聖なる泉の探索に留まらず、或る日の事、彼はククルカンの神殿の頂上にある祠の床を清掃していた際、その真ん中に、滑らかに仕上げられた大きな石蓋が存在する事に気づき、その石蓋を注意深く動かすと、その下に石壁で囲まれた大きな四角い穴が在り、縦穴の3.5m下の床には、長さ4m余りの大蛇がとぐろを巻いていました。

 彼は、大蛇を始末すると、その下から古い二人の人骨を発見し、その人骨の下には、最初と同様な石蓋が在り、その石蓋の下には更に別の縦穴の墓所が存在していました。
この様に同様な発見を繰り返し、5番目の石蓋を取り除くと、岩をくり抜いた階段が現れ、同じく岩を広げた部屋に辿り着きました。
この場所は、神殿の底部に位置するものと考えられました。

 階段とそれに続く部屋には、木灰が沢山詰まっており、可也の時間を費やして之を取り除き、床の上の石蓋に辿り着き、この下には更に大きな穴が開いており、その深さは15mに達し、其処には宝石の詰まった花瓶、真珠の首飾り、腕輪等が無数に散らばっていました。
ここは、位の高い神官の永久の寝室かも知れませんが、マヤ族の伝説に存在する、彼らの大指導者、有翼の蛇をシンボルとした、文化英雄ククルカンの墓所の可能性も在りました。

 タムスンの発見は、ハワード・カーター(Howard Carter)、カーナヴォン卿(Lord Carnavonn)による1922年11月、王家の谷に於ける、ツタンカーメン王墓の発見とは比べる事は出来ませんが、古代マヤ文明を世界に知らしめた功績は、多大なものと言えるでしょう。

ジョークは如何?

「レーガンなんて馬のケツだぜ!」
「おい、それはここでは喧嘩を売るセリフだぜ」
「済みません、ここの皆さんがレーガンを好きとは知りませんでした」
「そうじゃねえ、馬が好きなんだ」


続く・・・



2015/08/17

歴史を歩く129

17ヨーロッパ世界の拡大⑤

5ヨーロッパの変動

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インド航路とバスコ・ダ・ガマ

 インド航路の開拓、新大陸への到達はヨーロッパに大きな影響を及ぼしました。

 従来、ヨーロッパ規模での遠隔地貿易は、今やアジア・新大陸を含む地球規模に拡大し、商品の種類や量は飛躍的に増大し、世界の一体化が進展していくことに成ります。

 インド航路の開拓によって直接アジアへの海路が開かれ、従来のイスラム商人を介する地中海経由の東方貿易は衰退に向かい、それに伴って商業の中心はヴェネツィア等のイタリア都市から大西洋岸のリスボンに移り、リスボンは16世紀を通じて繁栄していきます。
この様な経済上の変化を一括して「商業革命」と呼んでいます。

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インド航路開拓以前
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インド並びに新大陸航路開拓後

 叉16世紀中頃以降、新大陸から安価な貴金属が、特にポトシ銀山の発見以後、おびただしい銀がヨーロッパに流入した結果、ヨーロッパでは銀の価値が下落し、そのために物価が2~3倍に上昇しました。
この全ヨーロッパでの物価上昇は「価格革命」と呼ばれています。

 新大陸からの大量の銀の流入は、其れまでヨーロッパ第一の銀の産地であった南ドイツ(特にアウグスブルク)の銀を独占していたフッガー家を没落させ、叉南ドイツの銀に依存していたヴェネツィア等のイタリア諸都市の没落を決定的にしました。

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ジャガイモ

 アメリカ大陸との交流が進展するにつれて、アメリカ大陸からユーラシア大陸へとうもろこし・ジャガイモ・サツマイモ・カボチャ・トマト・唐辛子等アメリカ大陸原産の作物がもたらされ、以後ヨーロッパ、アジアの人々にとって重要な作物となって行きます。
特にジャガイモはヨーロッパの人々にとって欠かすことに出来ない重要な食料と成って行きますが、一方でタバコや梅毒等、嗜好品や病原菌も持ち込まれました。

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アンダルシア馬

 そしてユーラシア大陸からアメリカ大陸へは、小麦・さとうきび・コーヒー・馬・牛・羊そして鉄器や車輪がもたらされ、アメリカ大陸の人々の生活に大きな影響を及ぼす様に成ります。
同時に天然痘やペスト、インフルエンザ等の病原菌が持ち込まれ、免疫のないインディヘナの人口減少の一因と成りました。

番外編・エルドラド伝説の黄金郷

 伝説の黄金の都、アンデスの何処かに隠された宝庫、エルドラドは、何世紀もの間、人々の心を虜にし、何百人と云う財宝探しの男達が、探索の途中で死んでいきました。
先に公開された「インディ・ジョーンズ クリスタルスカルの王国」では、このエルドラド伝説とクリスタルスカル、更にロズウェル事件を上手く絡ませ、これらの事柄に興味の在る方々には、面白い作品だったと思います。

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エルドラド(イメージ)

 本来、エルドラドは都市の名前ではなく、ある男の名前でした。
エルドラドの伝説は最初、1513年という早い時期にバルボアと共に中央アメリカに侵入した、スペイン征服者を通じて、世界に広まりました。

 スペイン人をはじめ、ヨーロッパの人々は、南アメリカ大陸に向かって進む途中、今日のコロンビアの首都ボゴダに近い、標高2600mの高原に住む、太陽崇拝を行っている、チャブチャ族の話を耳にしたのでした。
言伝えによれば、この種族は、黄金を太陽神の金属として崇めており、彼らは黄金の装飾品を身に着け、何世紀にも渡って、建造物を金箔で覆ってきたと云う事でした。

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コロンビア出土黄金細工

 何人かのインディオは、山中の何処に在ると云う、黄金で満たされた聖なる湖の話を伝えました。
別の者達は、オマグアと呼ばれる都市で、全身金色に輝く族長を見たと語りました。
話が広まるにつれて、エルドラドは黄金の都と考えられる様に成り、古い地図には、場所こそ千差万別では在ったものの、エルドラドが示された事も有りました。

 1530年代には、ドイツとスペインがエルドラドを探索する為に、現在のコロンビアに何回か探検隊を送りこみましたが、山々の殆どは通行不可能で、食料が尽きると彼らは引き返す他に手段が在りませんでした。
隊員の半分以上は、インディオとの戦闘で殺され、探検は失敗に終わったのです。

黄金の人

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儀式のイメージ

 チャブチャ族は太陽だけでなく、湖に住む神も崇拝しており、この神は何世紀も以前に恐ろしい罪から逃れる為、湖に身を投じた族長に妻で、彼女は其処で女神になって生きていると伝えられました。
近在のインディオはここに巡礼の旅をし、湖の女神に貢物を捧げ、そして、少なくとも年に1度は、湖は趣向を凝らした儀式の場所と成りました。

 部族民は、族長の体に、粘着性のある樹液を塗り、金粉を吹き付け、族長は頭から足の先迄、文字通り“黄金の人”と成り、彼は厳かな行列に加わり、湖に岸に置かれた筏迄導かれて行きます。
筏は、聖なるグアタビータ湖の湖心迄進み、族長は氷の様に冷たい湖に飛び込んで金粉を洗い流し、他の人々は、計り知れない程の黄金や宝石を湖に投げ込むのでした。

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グアダビータ湖

 グアダビータ湖は自在の湖で、1969年迄“黄金の人”を実証するものは何も在りませんでしたが、この年、二人の農場労働者がボゴダ近郊の小さな洞窟の中で、純金で作られた精巧な筏の模型を発見しました。
筏には8人の小さな漕ぎ手が乗っており、族長の堂々とした金色の像に背を向けて、筏を漕いでいました。

 現在でもこのグアダビーダ湖の調査は進んでいますが、湖水の冷たさと堆積した泥の為、めざましい成果は上がっていません。
岸辺や浅瀬で、若干の黄金やエメラルドが発見されたのみで、湖水の深みには、未だに“黄金の人”の捧げ物は眠っています。

ジョークは如何?

ある新聞への投書。
「貴紙のコラムでスコットランド人をケチだとするジョークを載せるのは、
 スコットランド人全体に対する誹謗中傷であるのでやめてもらいたい。
 もしこの警告にもかかわらず、スコットランド人ジョークを載せるのであれば
 我々スコットランド人は、以後貴紙を借りて読む事をやめる事にする」


続く・・・

2015/08/13

歴史を歩く128

17ヨーロッパ世界の拡大④

4スペインによるアステカとインカの征服

 コロンブスによるアメリカ大陸への到達以後、スペイン人はアメリカ大陸の征服と開拓を中心とする植民活動を行いました。

 アメリカ大陸の先住民であるインディオ(インディアン)は、ベーリング海峡がまだアジアと陸続きであった時に、モンゴロイド系の一部が移住、拡散した人々で、古くから独自の文化を形成していました。

 アメリカ大陸では、既に紀元前1000年頃から、メソアメリカ文明やアンデス文明等の古代アメリカ文明が発展していました。

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テオティワカン

 メキシコ湾岸では、紀元前1000年頃からオルメカ文明が、メキシコ高原では紀元前2世紀~紀元後6世紀にテオティワカン文明が成立していました。
そして6世紀~14世紀にはユカタン半島を中心にマヤ文明が栄え、メキシコのアステカ文明に受け継がれますが、これ等の文明は総称してメソアメリカ文明と呼ばれています。

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マヤ文明:チチェンイッツア遺跡

 マヤ文明は、マヤ族がユカタン半島を中心に形成した都市文明で、紀元前500年頃から始まり、4世紀以後都市国家が形成されました。
神殿、石造の階段ピラミッド、天文台が建造され、二十進法による記数法、精密な太陽暦、象形文字等を持つ独自の文明が発達しました。
住民は石器を使用し、とうもろこしやじゃがいもを栽培していました。

 マヤ文明は10世紀~13世紀に最盛期を迎えますが、その後メキシコ・インディアンに破壊され、その文明はアステカ文明に継承されます。

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テノチティトラン

 メキシコ高原では、北部に興ったアステカ(チチメカ)族が、6世紀~10世紀にかけて栄えたトルテカ文明に打撃を与えつつ南下し、他種族を制圧して12世紀中頃にメキシコ中央高原に進出します。14世紀中頃に首都テノチティトランを建設し、15世紀にはアステカ王国を建設しました。

 アステカ族はマヤ文明やトルテカ文明を継承し、神殿、ピラミッド、象形文字、彩文土器、太陽暦を持つ文明を発達させた一方、鉄器や車輪の使用は最後迄知ることは在りませんでした。

 アステカ文明は1521年にスペイン人のフェルナンド・コルテスによって滅ぼされました。

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チャビン文化

 南米のアンデス山脈一帯では、紀元前1000年頃に北部ペルーにチャビン文化が形成され、以後モチイカ文化(1世紀~8世紀、ペルー北部中心)、ナスカ文化(1世紀~8世紀、ペルー南部中心)、ティアワナコ文明(1世紀~12世紀、ボリビア高原中心)等の文化が成立しました。

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インカ帝国・首都クスコ(現在)

 ペルー・ボリビアに居住していたインカ(ケチュア)族は、1200年頃からアンデス山脈一帯の諸王国を次第に統合、15世紀後半にはエクアドルからチリに至る広大な統一国家・インカ帝国(タワンティン・スウユ)を形成し、都をクスコに定めました。

 インカ帝国では、太陽の化身である国王(インカ、太陽の子の意味)が強大な権力を持ち、優れた石造技術によって神殿、宮殿、道路、灌漑施設等が建設され、人々はとうもろこし、じゃがいもを栽培し、リャマ、アルパカ等の小型家畜を飼養しました(新大陸には牛、馬、羊等の大型家畜は居なかった)。

 インカ文明も鉄器の利用を知りませんでしたが青銅器は知られており、叉金、銀は装飾用に大量に使用され、インカでは金、銀細工や美しい陶器、織物等が作られたのです。

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キープ(結縄)

 インカの人々は文字を持ちませんでした。
キープ(結縄)と呼ばれる縄の結び目によって意味や数量を示す記録方法を用いています。

 インカ帝国も1533年にスペイン人のフランシスコ・ピサロによって滅ぼされました。

 スペインはコルテスやピサロに代表される「コンキスタドレス」(征服者)を新大陸に送り込み、インディオの諸王国を征服し、中米から南米にかけて広大な植民地を築き上げて行きました。

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エルナン・コルテス

 コルテス(1485年~1547年)は、スペインの下級貴族の家に生まれ、新大陸に渡って(1504年)キューバで活躍した後に、キューバ総督の命を受けて、兵500人、馬16頭、銃約50丁を持ってメキシコ探検に出発しました。
ユカタン半島に上陸し、反アステカ同盟と結んでアステカの首都テノチティトランを占領し(1519年)、その後反撃に出たアステカ王国軍を打ち破って首都を占領して略奪、破壊を行い、アステカ王国を滅ぼします(1521年)。

コルテスはノバ・イスパニア(新イスパニア=メキシコ)の総督に任命されますが、強引な政策を強行した結果、総督を罷免され失意の内に帰国し(1526)、その後も各地の探検を行うものの不遇の晩年を過ごし、失意のうちに本国で他界します。

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メキシコ銀

 メキシコ征服によって、スペインは新大陸で初めて大量の金・銀(特に銀)を獲得し、メキシコ産出の銀で銀貨を鋳造し、この銀貨はメキシコ銀と呼ばれ、スペインがアジア貿易に使用したため後にアジア各地でも流通することに成ります。

フランシスコ・ピサロ
フランシスコ・ピサロ

 ピサロ(1470年頃~1541年)も、スペインの地方貴族の私生児として生まれ、後にバルボア(1470年頃~1517年、スペインの探検家で1513年にパナマ地峡を横断して太平洋を発見した)の部下となり、彼の航海に同行し、インカの黄金伝説(エルドラド)を聞き、「第二のコルテス」になることを熱望し、南米西海岸を探検して(1524年・1526年)インカ帝国の存在を確かめました。

 1531年にスペイン王の援助を受けて、兵180人、馬27頭と銃を携えてパナマを出発し、翌年ペルーに上陸し、アンデス山脈を越えてクスコに入り、内紛に乗じてインカ王を不意打ちで捕らえて莫大な身代金を要求し、それを手に入れると王を処刑し、インカ帝国はここに滅亡します(1533年)。

 ピサロはペルー征服の功績により、侯爵位を授けられますが、後に同僚のアルマグロと争い、これを処刑しますが、彼自身もアルマグロの同調者によって暗殺され、ピサロ自身はインディオの虐殺と略奪の激しさで悪名高い人物です。

 アステカ王国やインカ帝国が僅かな兵しか持たなかった「コンキスタドレス」によってあっけなく滅ぼされたのは、インディオが平和的な民族であったこと以上に火器の威力と機動力に富む騎兵に太刀打ちできなかったことが最大の原因でした。

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ポトシ銀山:現在

 ペルー征服によって大量の貴金属(特に銀)を手に入れたことからスペインは以後植民地経営の中心を鉱山経営に向け、新大陸最大の銀山であるポトシ銀山(ボリビア南部)の発見(1545年)以後は、スペイン人はインディオの強制労働によって、大量の安価な銀の採掘を強行し、インディオ人口の激減や絶滅を招いきました。
そのためにアフリカ西海岸の黒人を奴隷として新大陸に連行して鉱山労働に使役するように成ります。

ジョークは如何?

ユダヤ&日本ジョーク

第二次世界大戦が終わった。

世界最強の商人は世界最強の兵士になった。
世界最強の兵士は世界最強の商人になった。


続く・・・

2015/08/08

歴史を歩く127

17ヨーロッパ世界の拡大③

3新大陸への到達

 ポルトガルより大西洋進出が出遅れたスペインは、西回りインド航路の開拓に関心を示しました。

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トスカネリと世界地図

 フィレンツェの天文・地理学者トスカネリ(1397年~1482年)は地球球体説と大西洋を西航する方がインドへの近道であるとする説を唱えてコロンブスに大きな影響を与えます。
当時の世界地図やトスカネリが作成した地図には、もちろん新大陸は描かれてないので、ジパング(日本)の位置は今のメキシコの辺りと考えられていた様です。

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バロセロナに立つコロンブス像

 ジェノヴァ生まれの船乗りコロンブス(1451年~1506年)は、このトスカネリ説を信じて西回りインド航路の開拓をポルトガル王に進言したものの受け入れられず、スペインに赴いてスペイン女王イサベル(在位1479年~1504年)を説得し続け、ついにイサベルの援助を得て、1492年8月に3隻の船と120人を率いてパロス港を出航しました。

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コロンブス船団(サンタマリア号・ピンタ号・ニーニャ号)

 コロンブス船団はカナリア諸島で食料や飲料水を補給し、9月2日にカナリア諸島を出帆、以後は陸地を見ることなく困難な航海を続け、10月12日現在のバハマ諸島に到達し、最初に到達した島にサンサルバドル島と命名します。
更に近辺のキューバ、ハイチ島等を探検して、1493年3月に帰国し、大歓迎を受け、コロンブスは発見地の総督に任命されました。

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新大陸到達

 コロンブスはその後も、第2回(1493年~96年)、第3回(1498年~1500年)、第4回(1502年~04年)と航海を繰り返し、南米や中米にも到達し、植民地の建設等に努めますが、中傷によって失脚し、総督職も解かれ、不遇、失意のうちに没しています。

 コロンブスは、中米、南米の発見地をインドの一部と信じていたため、その地の先住民をインディオ(インディアン)と呼び、又彼が到達したカリブ海に散在する島々は西インド諸島と呼ばれるように成りました。

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ペドロ・アルヴァレス・カブラル(Pedro Alvares Cabral)

 ポルトガル人のカブラル(1460年頃~1526年)は、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路の開拓の後に、国王からインドへの航海を命じられ、1500年にリスボンを出航しますが、暴風のためにブラジルのバイア地方南の海岸に漂着し、同地をポルトガル領と宣言し、その後も航海を続けてインドに到達し、翌年リスボンに帰航しました。

 ポルトガルとスペインの対外進出が進むにつれて、両国の間に植民や貿易をめぐって勢力争いが起こります。
コロンブスが「アジア」(実際は新大陸)に到達した報が伝わると、教皇アレクサンデル6世(在位1492年~1503年)は両国の争いを調停するために、スペインの要請によって1493年に教皇子午線(ブラジルの東端を通る線)を設定し、その東をポルトガル、西をスペインの勢力圏と定めました。

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 これにポルトガルが抗議して両国が協議した結果、トルデシリャス条約(1494年)が結ばれ、教皇子午線は西方に移動します。

 カブラルが漂着した地はこの条約の線より東にあったので、ブラジルはポルトガル領となり、その後のスペインの植民地活動によって、中南米のほとんどの地域がスペイン領と成りますが、ブラジルだけがポルトガル領として残ります。
そのため今日でも殆んどの中南米諸国がスペイン語を公用語としている中で、ブラジルのみがポルトガル語を公用語としています。

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アメリゴ・ヴェスプッチ

 フィレンツェ生まれのアメリゴ・ヴェスプッチ(1454年~1512年)は、1497年以後4回にわたってスペインやポルトガルのアメリカ遠征隊に参加して新大陸を探検し、コロンブスが発見した土地はアジアではなく、「新大陸」であるとの見解を報告しました。
そのためドイツの地理学者ヴァルトゼー・ミューラーがアメリゴ・ヴェスプッチの名を取ってアメリカと呼んで(1507年)以来一般化し、新大陸はアメリカ大陸と呼ばれるように成ります。
その結果、今日コロンブスの名は僅かにコロンビアに残るに過ぎなくなっています。

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フェルナン・デ・マガリャンイス(Fernão de Magalhães )

 ポルトガル人のマガリャンイス(マゼラン、1480年頃~1521年)は、下級貴族に生まれ、1505年からインド総督の下で軍務につき、ゴア征服やモルッカ諸島征服にも従事し、この頃西回り航路でモルッカ諸島に至る計画を立ててポルトガル王に援助を依頼したが拒絶され、亡命したスペインのカルロス1世から特許を得て、1519年8月に5隻と265人からなる船団を率いてセビリャを出帆しました。
 
 マガリャンイスはリオデジャネイロに同年12月に到達し、そこから南下して翌年1月にラプラタ川に到達し、そこに留まって海峡を探しますが、後にその水域が川と分かり、荒れる海と寒さに苦しめられながら更に南下を続けてパタゴニア南部に達し、その地で5ヶ月間越冬します。

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マゼラン海峡通過

この間、乗組員の反乱が起こり、また船を1隻失ったものの、この困難を乗り越えて更に南下し、マゼラン海峡(南アメリカ大陸とフェゴ島の間)を発見、1520年10月に3隻の船団は(1隻が脱走して3隻になっていた)終に太平洋を望みました。

それまでの荒れた海から静かな海に出たマガリャンイスは、この海を太平洋(Pacific Ocean、穏やかな・平和な海の意味)と命名します。

 以後100日を越す航海で太平洋を横断したものの、一度も陸地を発見せず、食料と飲料水は底をつき、ねずみや皮をかじり、腐った水を飲み、壊血病に苦しめられながらも、グァム島を経てフィリッピン諸島に到着しました。

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マガリャンイス艦隊・ヴィクトリア号

 マガリャンイスはその地のスペイン領化を進めたが、セブ島で住民の争いに巻き込まれて戦死しますが、残った少数の部下達はアフリカ南端を回って、1522年9月にパロスに帰還を果たしました。
帰国したのは当に廃船同然に成った1隻と18人の乗組員でした。
こうしてマガリャンイスとその部下によって世界史上最初の世界周航が成し遂げられ、地球が球形であることが実証されたのです。

ジョークは如何?

食べたいのなら上海へ行け
おしゃれしたいのなら香港へ行け
稼ぎたいのなら東京へ行け
叫びたいのならソウルへ行け
死にたいのなら平壌へ行け


続く・・・

2015/08/03

歴史を歩く126

17ヨーロッパ世界の拡大②

2インド航路の開拓

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エンリケ航海王子

 ポルトガルのアフリカ西岸の探検は、ジョアン1世(在位1385年~1433年)の第3子であるエンリケ航海王子(1394年~1460年)の奨励によって大いに進み、彼はアフリカ西北端のセウタ攻略(1415年)に軍功をあげ、その後アフリカ西岸の探検、インド航路の開拓を奨励しました。
天文台や航海学校を建設し、ボハドル岬(1434年に到達)、ブランコ岬(1441年に到達)、ヴェルデ岬(1445年に到達)からガンビア河口迄を探検しました。
しかし、彼自身はひどい船酔いのためほとんど航海をしなかったとも云われています。

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バルトロメウ・ディアス

 エンリケ航海王子の事業を受け継いだジョアン2世(在位1481年~95年)の時代に、コンゴ河口(1484年)に達し、1488年にはバルトロメウ・ディアス(1450年頃~1500年)がついにアフリカ南端の喜望峰に達しました。
ディアスはアフリカ南端の岬を「嵐の岬」と名付けましたが、ポルトガル王はインド航路開拓の希望を抱いて「喜望峰」と改めて命名しています。

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ポルトガルによるアフリカ就航

 中世ヨーロッパを代表する地図は、円の中にTの字を書き、地図の中心にイェルサレムを置き、世界の陸地をアジア・アフリカ・ヨーロッパに3分するもので、TOmapと呼ばれています。
15世紀末に、古代ローマのプトレマイオスの地理書と地図がラテン語に訳されて西ヨーロッパに広まりますが、プトレマイオスの世界地図ではアフリカの赤道以南は「未知の土地」となっており、その土地が無限に広がっていたので、アフリカを回ってインドに行くことは不可能であると考えられていました。

 ディアスによってアフリカ南端が確認されたことは、その意味で大変な発見で、これによってアフリカ南端を迂回してインドへ向かう事が出来る可能性が強まったのです。

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ヴァスコ・ダ・ガマ

 ヴァスコ・ダ・ガマ(1469年頃~1524年)は、ポルトガルの航海者で早くから船乗りとして知られ、ポルトガル王からインド航路発見の命を受け、1497年7月に4隻約170人の船団でリスボンを出航しました。

 船団は喜望峰を回ってアフリカ東岸を北上しマリンディに至り(1498年)、そこでインドへの道を知っているイスラム教徒の水先案内人イブン・マジードを雇い、彼の案内でインド洋を横断し、ついにインド西岸のカリカットに到着、インド航路を開拓したのでした(1498年)。

 目的通り香辛料を買い付け、季節風を利用して帰航し、1499年9月にリスボンに帰着しましたが、無事帰着したのは3隻60人以下で、大半は壊血病で死亡していました。
持ち帰った香辛料の量は僅かでしたが、その売却によって約60倍の利益を得たと伝えられています。その後もインドに航海し、インド総督に任命されますが(1524年)、その直後に病死しています。

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大航海時代の交易船団(復元)

 ポルトガル人は火砲の威力を利用して、インドのゴアを占領し(1510年)、総督府を置いてアジア貿易の拠点とし、更にモルッカ諸島(現インドネシア、香辛料の産地で香料諸島とも呼ばれる)を獲得し、香料貿易を一時独占します。

 1557年にはマカオの居住権を得て、対中国貿易の拠点とし、種子島に漂着後(1543年)は日本とも通商を行いました。

 こうしてポルトガルの首都リスボンは香辛料、絹等東方物産の取引の中心地となり、特に香辛料の直接取引は莫大な利益をもたらし、リスボンは一時世界の商業、貿易の中心として繁栄します。

ジョークは如何?

カエサルの凱旋行進の際、兵士達が叫んだと伝えられる言葉

「ローマ市民よ女房を隠せ、禿の女たらしのお帰りだ!」


続く・・・
2015/08/01

歴史を歩く125

17ヨーロッパ世界の拡大①

1大西洋時代

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 西ヨーロッパ世界は、十字軍やレコンキスタ等、外に向かって膨張する傾向を強めていましたが、特に15世紀末から16世紀にかけての「大航海時代」にめざましい対外進出を開始します。

 インド航路の開拓・新大陸への到達等に代表されるヨーロッパ人の対外進出は、従来「地理上の発見」と呼ばれてきましたが、ヨーロッパ中心史観からの表現であるので、今日では「大航海時代」の表現が多く用いられています。

 ヨーロッパ人の対外進出の背景として、以下

(1)レコンキスタを通じて中央集権化したポルトガル・スペインがレコンキスタの延長としてキリスト教世界の拡大に強い意識を持ち、対外進出に意欲的であったこと。

(2)東洋の物資、特に香辛料(こしょう・肉桂・丁字等)に対する需要が増大したこと。
ヨーロッパ人の間に肉食が普及すると、調味料や肉の保存に使われた香辛料への需要が増大した結果、商人達は直接アジアへ赴いて香料貿易に従事し、巨大な利益を獲得しようとしました。

(3)従来の東方貿易は、イスラム商人を介して香辛料等、東洋の物資を獲得していた結果、地中海経由で行われ、ヴェネツィア等イタリア諸都市の商人に独占されていました。
その上、オスマン・トルコ帝国が勃興し、東地中海岸を占領し東方貿易を妨げた影響も在り、イスラム商人を介することなく、オスマン・トルコ領内を経由しないアジアへの直接航路開拓の要求が高まったのです。

(4)マルコ・ポーロの「世界の記述(東方見聞録)」等に刺激を受け、アジアの富等に対する関心が高まっていたこと。

(5)地球球体説、羅針盤の改良、航海術、造船技術の発達等、科学、技術の進歩により遠洋航海が可能になっていたこと等を上げることが出来ます。

 ヨーロッパ人の対外進出により、ヨーロッパ・アジア・新大陸を含む「世界の一体化」が進むこととなり、又インド航路の開拓・新大陸への到達等により、ヨーロッパでの繁栄の中心は地中海から大西洋岸の諸国に移っていきました。

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ジョークは如何?

ヴァルター・ウルプリヒトは今日のドイツの象徴である。

裸のウルプリヒトを後ろから見れば、ドイツが分裂していることがわかる。
前から見れば、ドイツはもはや再起不能であることがわかる。

続く・・・