歴史を歩く132
17ヨーロッパ世界の拡大・中南米よりアステカ
アステカ族の奇習
1生贄の石

ティノチティトランの市場風景
現在、メキシコ・シティーの国立博物館中庭に、直径約2m程の周囲に彫刻を施した、丸い石が置かれています。
之は、アステカ(Aztecs)族の「生贄の石」で、展示物の中で最も陰惨な物と云われ、この石の上でどれ程多くの人々が、生贄と成り命を落としたか解かりません。
14世紀中葉、アステカ族は現在のメキシコ合衆国の首都メキシコ・シティーの存在する場所に、ティノチティトランと呼ばれる都を建設していました。
その後15世紀から16世紀初頭にスペイン人によって征服される迄、中部アメリカに於いて強大な国家を建設し、ある面に於いては、征服者スペインよりも高度な文明を誇っていました。
首都ティノチティトランは、当時のスペインの首都マドリードより人口が多く、住民は石造りのしっかりとした住居で生活し、金・銀・銅・石の細工に長け、織物を作り、彫刻にも秀でていました。
又、ピラミッド状の神殿を建立し、国王の宮殿は素晴らしいものであったと、云われています。

ティノチティトラン
彼等の信仰の世界は、複雑な多神教で、その巨大な建造物や絵画彫刻には、現代人の眼で見るとグロテスな物も多いですが、更に国家の宗教行事に於いて、夥しい人身供養を伴いました。
アステカの聖なる都、チョルーラには、彼等の最高神を賛美する為、一辺の長さが120mに及ぶピラミッド状の壮麗なテオカリ神殿を建立し、その頂上には、彼等の最高神を収めた社を設けます。
そして、毎年繰り返される、祭礼には当時メキシコ湾から太平洋迄広がっていた、アステカ族の全領土から巡礼者が参集し、多数の生贄が奉げられたのでした。

チョルーラピラミッド復元模型
15世紀末、コロンブスがアメリカ大陸を発見する、6年前、ある神殿拡張の為の祭儀には、その為に長期間に渡って蓄えられた、捕虜2万人を一度に生贄として奉げましたが、その犠牲者の列は3kmにも達した(!?)と伝えられています。
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生贄の儀式
ピラミッド状に成った神殿の階段を生贄となる人々の列が登り、羽根尾の付いた頭飾りを付け、盛装した神官達が進み、その後から大勢の巡礼者がついて行く、頂上の神像の傍らには、生贄の石が既に用意され、生贄と成る者は、一人一人裸にされ、5人の神官がその者の手足、頭をしっかりと押さえ、もう一人の神官が、黒曜石のナイフで胸を裂き、神像を取り出します。
犠牲者の列は、人身御供と成る者達の悲痛な叫び声に、身も心も擦り減るような思いをしながらも、静かに死の行進を続けていきました。
2万人の捕虜が、生贄として供養される為には、延々4日間を要したと伝えられています。
後にスペイン征服後、あるスペインの調査隊は、アステカ族のテオカリ大神殿の近郊で、この様な方法で非業の死を遂げた、マヤ・モロック族の遺骨13万6千個を発見したと記録しています。
2コンキスタドール

スペイン旧1000ペセタ紙幣に刷られたエルナン・コルテス
スペインの下級貴族エルナン・コルテス(Hernan Cortez 1485年~1547年)は、若くして、キューバに渡り、1518年キューバ総督ディエゴ・ベラルクスの命により、メキシコの探検に向かいます。
彼は兵士400人と馬32頭、大砲を積んだ11隻の帆船に分乗しキューバを出帆、探検先の原住民勢力や土地について全く不案内な中、ベラ・クルスに上陸し、その時乗って来た総ての船を焼却処分しました。
(この話は有名で、映画「レッドオクトーバーを追え」でも紹介されました)
部下達はこの行為によって、完全に退路を絶たれ、原住民を征服するか、自ら死に至るかを選択する事と成りました。

アステカ族兵士とスペイン征服軍兵士
アステカ族の兵士は、大変良く訓練され、非常に勇敢な軍隊でしたが、コルテス軍の騎兵隊や最新鋭の大砲、戦闘用具に驚き、翻弄され、ひとたまりも無く殲滅されて行きました。
今回の戦いは、スペイン兵士1名対アステカ兵100人に換算される戦果と成り、次々と現れるアステカ軍を打ち破り、首都ティノチティトランに入城します。

コルテスとマリンチェ、アステカ皇帝モンテスマ2世、
しかし、コルテスには独断先行の傾向が強く、キューバ総督は、彼の指揮権を剥奪する事を決め、彼を召還する為、パンフィロ・デ・ナルバスをメキシコに派遣しました。
ナルバスは、スペイン兵の中でも特に勇猛果敢な兵士5名を選抜し、ベラ・クルスに上陸、土地の司令官にコルテス軍より離脱する様勧告しました。
その司令官は、使者ナルバスの勧告を受入れる代わりに、彼等6人を捕らえ、コルテスの基は送ります。
6人は縄で縛られた上、荷物扱いで首都ティノチティトラン迄逓送しました。(!)
彼等は、飛脚の背中に括り付けられ、昼夜を分かたずベラ・クルスから首都ティノチティトラン迄、約320kmの道程を運ばれました。
その間、厳しい地形を30km毎に移し変えられながら、96時間を費やして、目的地に運ばれました。
人間を荷物扱いで300km以上の道程を運ばれた事実は、前代未聞の出来事で、6人の使者はコルテスの前に引き出され、すぐさま死の宣告を受け無残な最期を遂げます。
その後、アステカ皇帝アウテモクの反乱も鎮圧され、1521年8月、アステカ帝国は歴史的大破壊の後、首都ティノチティトランはコルテス軍の前に陥落しました。

ポポカテペトル(煙の山)
メキシコ・シティーの西部、ポポカテペトル(煙の山)とイストクシハウル(眠れる乙女)の2山が聳え、東部にはオリサバ山が聳えていますが、何れも5000mを遥かに超え、万年雪を頂く姿は、世界でも美しい山の一つに数えられています。
この3山の内、ポポカテペトルはアステカ族にとって最も神聖な山でした。
この山は何時も煙と轟音を上げており、ちょうどテオカリ寺院の真西に位置し、ピラミッドの頂上から太陽の沈む光景は、あたかも、ポポカテペトルに吹き上げる煙の中、その火口に吸い込まれる様に見えました。
その光景を合図に、祭壇の石の上の生贄に一撃が加えられました。
ジョークは如何?
紀元元年はいつか? 1933年だ。
なぜ?
その年まではBefore Crisis(危機以前)、B.C. 文字色
それ以降はAfter Depression(不景気の後)、A.D.
だから。
※補足
1933年はニューディール政策の始まった年
続く・・・
アステカ族の奇習
1生贄の石

ティノチティトランの市場風景
現在、メキシコ・シティーの国立博物館中庭に、直径約2m程の周囲に彫刻を施した、丸い石が置かれています。
之は、アステカ(Aztecs)族の「生贄の石」で、展示物の中で最も陰惨な物と云われ、この石の上でどれ程多くの人々が、生贄と成り命を落としたか解かりません。
14世紀中葉、アステカ族は現在のメキシコ合衆国の首都メキシコ・シティーの存在する場所に、ティノチティトランと呼ばれる都を建設していました。
その後15世紀から16世紀初頭にスペイン人によって征服される迄、中部アメリカに於いて強大な国家を建設し、ある面に於いては、征服者スペインよりも高度な文明を誇っていました。
首都ティノチティトランは、当時のスペインの首都マドリードより人口が多く、住民は石造りのしっかりとした住居で生活し、金・銀・銅・石の細工に長け、織物を作り、彫刻にも秀でていました。
又、ピラミッド状の神殿を建立し、国王の宮殿は素晴らしいものであったと、云われています。

ティノチティトラン
彼等の信仰の世界は、複雑な多神教で、その巨大な建造物や絵画彫刻には、現代人の眼で見るとグロテスな物も多いですが、更に国家の宗教行事に於いて、夥しい人身供養を伴いました。
アステカの聖なる都、チョルーラには、彼等の最高神を賛美する為、一辺の長さが120mに及ぶピラミッド状の壮麗なテオカリ神殿を建立し、その頂上には、彼等の最高神を収めた社を設けます。
そして、毎年繰り返される、祭礼には当時メキシコ湾から太平洋迄広がっていた、アステカ族の全領土から巡礼者が参集し、多数の生贄が奉げられたのでした。

チョルーラピラミッド復元模型
15世紀末、コロンブスがアメリカ大陸を発見する、6年前、ある神殿拡張の為の祭儀には、その為に長期間に渡って蓄えられた、捕虜2万人を一度に生贄として奉げましたが、その犠牲者の列は3kmにも達した(!?)と伝えられています。
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生贄の儀式
ピラミッド状に成った神殿の階段を生贄となる人々の列が登り、羽根尾の付いた頭飾りを付け、盛装した神官達が進み、その後から大勢の巡礼者がついて行く、頂上の神像の傍らには、生贄の石が既に用意され、生贄と成る者は、一人一人裸にされ、5人の神官がその者の手足、頭をしっかりと押さえ、もう一人の神官が、黒曜石のナイフで胸を裂き、神像を取り出します。
犠牲者の列は、人身御供と成る者達の悲痛な叫び声に、身も心も擦り減るような思いをしながらも、静かに死の行進を続けていきました。
2万人の捕虜が、生贄として供養される為には、延々4日間を要したと伝えられています。
後にスペイン征服後、あるスペインの調査隊は、アステカ族のテオカリ大神殿の近郊で、この様な方法で非業の死を遂げた、マヤ・モロック族の遺骨13万6千個を発見したと記録しています。
2コンキスタドール

スペイン旧1000ペセタ紙幣に刷られたエルナン・コルテス
スペインの下級貴族エルナン・コルテス(Hernan Cortez 1485年~1547年)は、若くして、キューバに渡り、1518年キューバ総督ディエゴ・ベラルクスの命により、メキシコの探検に向かいます。
彼は兵士400人と馬32頭、大砲を積んだ11隻の帆船に分乗しキューバを出帆、探検先の原住民勢力や土地について全く不案内な中、ベラ・クルスに上陸し、その時乗って来た総ての船を焼却処分しました。
(この話は有名で、映画「レッドオクトーバーを追え」でも紹介されました)
部下達はこの行為によって、完全に退路を絶たれ、原住民を征服するか、自ら死に至るかを選択する事と成りました。

アステカ族兵士とスペイン征服軍兵士
アステカ族の兵士は、大変良く訓練され、非常に勇敢な軍隊でしたが、コルテス軍の騎兵隊や最新鋭の大砲、戦闘用具に驚き、翻弄され、ひとたまりも無く殲滅されて行きました。
今回の戦いは、スペイン兵士1名対アステカ兵100人に換算される戦果と成り、次々と現れるアステカ軍を打ち破り、首都ティノチティトランに入城します。

コルテスとマリンチェ、アステカ皇帝モンテスマ2世、
しかし、コルテスには独断先行の傾向が強く、キューバ総督は、彼の指揮権を剥奪する事を決め、彼を召還する為、パンフィロ・デ・ナルバスをメキシコに派遣しました。
ナルバスは、スペイン兵の中でも特に勇猛果敢な兵士5名を選抜し、ベラ・クルスに上陸、土地の司令官にコルテス軍より離脱する様勧告しました。
その司令官は、使者ナルバスの勧告を受入れる代わりに、彼等6人を捕らえ、コルテスの基は送ります。
6人は縄で縛られた上、荷物扱いで首都ティノチティトラン迄逓送しました。(!)
彼等は、飛脚の背中に括り付けられ、昼夜を分かたずベラ・クルスから首都ティノチティトラン迄、約320kmの道程を運ばれました。
その間、厳しい地形を30km毎に移し変えられながら、96時間を費やして、目的地に運ばれました。
人間を荷物扱いで300km以上の道程を運ばれた事実は、前代未聞の出来事で、6人の使者はコルテスの前に引き出され、すぐさま死の宣告を受け無残な最期を遂げます。
その後、アステカ皇帝アウテモクの反乱も鎮圧され、1521年8月、アステカ帝国は歴史的大破壊の後、首都ティノチティトランはコルテス軍の前に陥落しました。

ポポカテペトル(煙の山)
メキシコ・シティーの西部、ポポカテペトル(煙の山)とイストクシハウル(眠れる乙女)の2山が聳え、東部にはオリサバ山が聳えていますが、何れも5000mを遥かに超え、万年雪を頂く姿は、世界でも美しい山の一つに数えられています。
この3山の内、ポポカテペトルはアステカ族にとって最も神聖な山でした。
この山は何時も煙と轟音を上げており、ちょうどテオカリ寺院の真西に位置し、ピラミッドの頂上から太陽の沈む光景は、あたかも、ポポカテペトルに吹き上げる煙の中、その火口に吸い込まれる様に見えました。
その光景を合図に、祭壇の石の上の生贄に一撃が加えられました。
ジョークは如何?
紀元元年はいつか? 1933年だ。
なぜ?
その年まではBefore Crisis(危機以前)、B.C. 文字色
それ以降はAfter Depression(不景気の後)、A.D.
だから。
※補足
1933年はニューディール政策の始まった年
続く・・・
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