歴史を歩く139
18 宗教改革④
3イギリス国教会の成立

ヘンリー8世
イギリスでも宗教改革が起こりますが、イギリスの宗教改革はテューダー朝第2代の国王ヘンリー8世(1491年~1547年、在位1509年~47年)の離婚問題から始まり、宗教的動機よりも政治的・経済的な動機の方が強かったのが特色です。
ヘンリー8世は、初めは熱心なカトリック教徒で、ルターの宗教改革がおこるとそれに反対する論文を発表し、教皇から「信仰の擁護者」と云う称号を受ける程でした。

キャサリン・オブ・アラゴン
しかし、その後ヘンリー8世は王妃キャサリン(カザリン)との離婚を教皇に願い出ますが、教皇が離婚を認めなかったために教皇と対立するように成ります。
ヘンリー8世は、早世した兄の未亡人キャサリン(1485年~1536年、スペイン王フェルナンド5世とイサベルの娘)と結婚しますが(1509年)、キャサリンには男子の後継者が生まれず、又キャサリンの侍女アン・ブーリン(1507年~36年)と親密な関係に成り、離婚を決意して教皇に許可を求めますが、教皇はキャサリンがスペイン王家の出身で、当時の神聖ローマ皇帝カール5世の叔母であったために許可することは出来ませんでした。

アン・ブーリン
ヘンリー8世はキャサリンとの離婚を強行し、アン・ブーリンと再婚を果たし(1533年)、イギリス国民の間に強かった反ローマ教会の機運を利用してローマ教会からの独立を決意しました。
ローマ教皇はヘンリー8世を破門に処しますが、ヘンリー8世は議会の支持のもとに、1534年に首長法(首長令)を発し、イギリス国王がイギリス国教会の唯一・最高の首長であると宣言し、イギリス国教会をローマ教会から分離・独立させ、又同じく議会立法で修道院を廃止し、その広大な土地・財産を没収しました(1536年、及び1539年)。
イギリスの宗教改革は、ルターやカルヴァンの宗教改革のように教義をめぐる宗教的動機からでなく、中央集権化をはかるヘンリー8世が、ローマ教会からの分離・独立と修道院財産を没収して王室財政の強化をはかるという政治的・経済的動機からおこしたことが特色であり、そのため教義上の改革は不徹底で、イギリス国教会の教義はカトリックとほとんど変わらなかったと云われています。

トマス・モア
イギリスの代表的なヒューマニストであり大法官であったトマス・モアは国王の離婚と首長法に反対して処刑されています(1536年)。
尚ヘンリー8世は6人を王妃としたが、そのうち2人が離婚され、2人が処刑されており、アン・ブーリンも男子を出生しなかったので姦通罪の汚名をきせられて処刑されています。

エドワード6世
ヘンリー8世の死後、彼の唯一の男子であったエドワード6世(1537年~53年、在位1547年~53年)が9歳で即位します。
エドワードの母は第3王妃のジェーン・シーモアで、エドワード6世は、『トム・ソーヤーの冒険』で有名なアメリカの作家マーク・トゥーエンの『王子と乞食』(1881年)における王子のモデルと伝えられています。
エドワード6世のもとで、プロテスタント化が進められ、イギリス国教会の礼拝儀式や教義を規定した一般祈祷書がつくられ(1549年)、教義面でも福音主義・信仰義認説・予定説等カルヴァン派に近いプロテスタンティズム(新教主義)の原理が取り入れられます。
エドワード6世自身は生来病弱であったため在位6年で没しています。

メアリ1世
エドワード6世の後は、メアリ1世(1516年~58年、在位1553年~58年)が継承しますが、メアリ1世の母はヘンリー8世の最初の王妃で離婚されたキャサリンでした。
メアリ1世は、母の影響を受けて熱心なカトリック教徒となり、異母弟エドワード6世の治世中も、国教会の礼拝を拒否し、カトリックの信仰を貫きます。
そして王位に就くとカトリック教会を復活させ、更に国民の反対を押し切って熱烈なカトリック信者として知られるスペイン皇太子フェリペ(後のフェリペ2世)と結婚し、カトリック復活を企てて国教徒(イギリス国教会の信者)を弾圧し、多くの国教徒を処刑にした結果「流血好きのメアリ」と呼ばれました。

エリザベス1世
病身であったメアリ1世も治世5年で亡くなり、エリザベス1世(1533年~1603年、在位1558年~1603年)が王位を継ぎます。
エリザベス1世の母は、ヘンリー8世の第2王妃のアン・ブーリンであり、3歳の時に母が刑死したので、以後メアリ1世によってロンドン塔に幽閉される等苦難の時代を送りましたが、ヘンリー8世の遺言でエドワード6世、メアリ1世に次ぐ王位継承者となり、メアリ1世の死によって、25歳で即位します。
エリザベス1世は、イギリス絶対王政の最盛期を現出したイギリス史上最も有名な女王ですが、宗教面では中道の政策に復帰し、1559年に首長法(首長令)と統一法(統一令)を発布し、イギリス国教会の礼拝・祈祷の統一をはかり、これに従わない者への刑罰も定め、これによってイギリス国教会の体制が最終的に確立されたのです。
ジョークは如何?
チャウシェスク政権下のルーマニアにてある真冬の天気予報
お天気おねーさん「全国の明日の気温ですが、全国で零下18度です。
たいへん寒い日が続きますので注意してください」
見ていた子供 「パパー、ママー。毎日-18゚Cしか書いてないけどどうしてなの?」
パパ&ママ 「それはそういうきまりになっているからだよ」
↑実話
※真相は、チャウシェスクの指示でいくら寒くても-18゚Cと発表することに
なっていた。石炭の配給が同気温の場合を前提にしていたので、それ以上寒いと
よけいに石炭を配給しなければならなかったのだ。
続く・・・
3イギリス国教会の成立

ヘンリー8世
イギリスでも宗教改革が起こりますが、イギリスの宗教改革はテューダー朝第2代の国王ヘンリー8世(1491年~1547年、在位1509年~47年)の離婚問題から始まり、宗教的動機よりも政治的・経済的な動機の方が強かったのが特色です。
ヘンリー8世は、初めは熱心なカトリック教徒で、ルターの宗教改革がおこるとそれに反対する論文を発表し、教皇から「信仰の擁護者」と云う称号を受ける程でした。

キャサリン・オブ・アラゴン
しかし、その後ヘンリー8世は王妃キャサリン(カザリン)との離婚を教皇に願い出ますが、教皇が離婚を認めなかったために教皇と対立するように成ります。
ヘンリー8世は、早世した兄の未亡人キャサリン(1485年~1536年、スペイン王フェルナンド5世とイサベルの娘)と結婚しますが(1509年)、キャサリンには男子の後継者が生まれず、又キャサリンの侍女アン・ブーリン(1507年~36年)と親密な関係に成り、離婚を決意して教皇に許可を求めますが、教皇はキャサリンがスペイン王家の出身で、当時の神聖ローマ皇帝カール5世の叔母であったために許可することは出来ませんでした。

アン・ブーリン
ヘンリー8世はキャサリンとの離婚を強行し、アン・ブーリンと再婚を果たし(1533年)、イギリス国民の間に強かった反ローマ教会の機運を利用してローマ教会からの独立を決意しました。
ローマ教皇はヘンリー8世を破門に処しますが、ヘンリー8世は議会の支持のもとに、1534年に首長法(首長令)を発し、イギリス国王がイギリス国教会の唯一・最高の首長であると宣言し、イギリス国教会をローマ教会から分離・独立させ、又同じく議会立法で修道院を廃止し、その広大な土地・財産を没収しました(1536年、及び1539年)。
イギリスの宗教改革は、ルターやカルヴァンの宗教改革のように教義をめぐる宗教的動機からでなく、中央集権化をはかるヘンリー8世が、ローマ教会からの分離・独立と修道院財産を没収して王室財政の強化をはかるという政治的・経済的動機からおこしたことが特色であり、そのため教義上の改革は不徹底で、イギリス国教会の教義はカトリックとほとんど変わらなかったと云われています。

トマス・モア
イギリスの代表的なヒューマニストであり大法官であったトマス・モアは国王の離婚と首長法に反対して処刑されています(1536年)。
尚ヘンリー8世は6人を王妃としたが、そのうち2人が離婚され、2人が処刑されており、アン・ブーリンも男子を出生しなかったので姦通罪の汚名をきせられて処刑されています。

エドワード6世
ヘンリー8世の死後、彼の唯一の男子であったエドワード6世(1537年~53年、在位1547年~53年)が9歳で即位します。
エドワードの母は第3王妃のジェーン・シーモアで、エドワード6世は、『トム・ソーヤーの冒険』で有名なアメリカの作家マーク・トゥーエンの『王子と乞食』(1881年)における王子のモデルと伝えられています。
エドワード6世のもとで、プロテスタント化が進められ、イギリス国教会の礼拝儀式や教義を規定した一般祈祷書がつくられ(1549年)、教義面でも福音主義・信仰義認説・予定説等カルヴァン派に近いプロテスタンティズム(新教主義)の原理が取り入れられます。
エドワード6世自身は生来病弱であったため在位6年で没しています。

メアリ1世
エドワード6世の後は、メアリ1世(1516年~58年、在位1553年~58年)が継承しますが、メアリ1世の母はヘンリー8世の最初の王妃で離婚されたキャサリンでした。
メアリ1世は、母の影響を受けて熱心なカトリック教徒となり、異母弟エドワード6世の治世中も、国教会の礼拝を拒否し、カトリックの信仰を貫きます。
そして王位に就くとカトリック教会を復活させ、更に国民の反対を押し切って熱烈なカトリック信者として知られるスペイン皇太子フェリペ(後のフェリペ2世)と結婚し、カトリック復活を企てて国教徒(イギリス国教会の信者)を弾圧し、多くの国教徒を処刑にした結果「流血好きのメアリ」と呼ばれました。

エリザベス1世
病身であったメアリ1世も治世5年で亡くなり、エリザベス1世(1533年~1603年、在位1558年~1603年)が王位を継ぎます。
エリザベス1世の母は、ヘンリー8世の第2王妃のアン・ブーリンであり、3歳の時に母が刑死したので、以後メアリ1世によってロンドン塔に幽閉される等苦難の時代を送りましたが、ヘンリー8世の遺言でエドワード6世、メアリ1世に次ぐ王位継承者となり、メアリ1世の死によって、25歳で即位します。
エリザベス1世は、イギリス絶対王政の最盛期を現出したイギリス史上最も有名な女王ですが、宗教面では中道の政策に復帰し、1559年に首長法(首長令)と統一法(統一令)を発布し、イギリス国教会の礼拝・祈祷の統一をはかり、これに従わない者への刑罰も定め、これによってイギリス国教会の体制が最終的に確立されたのです。
ジョークは如何?
チャウシェスク政権下のルーマニアにてある真冬の天気予報
お天気おねーさん「全国の明日の気温ですが、全国で零下18度です。
たいへん寒い日が続きますので注意してください」
見ていた子供 「パパー、ママー。毎日-18゚Cしか書いてないけどどうしてなの?」
パパ&ママ 「それはそういうきまりになっているからだよ」
↑実話
※真相は、チャウシェスクの指示でいくら寒くても-18゚Cと発表することに
なっていた。石炭の配給が同気温の場合を前提にしていたので、それ以上寒いと
よけいに石炭を配給しなければならなかったのだ。
続く・・・
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