2015/09/29

歴史を歩く139

18 宗教改革④

3イギリス国教会の成立

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ヘンリー8世

 イギリスでも宗教改革が起こりますが、イギリスの宗教改革はテューダー朝第2代の国王ヘンリー8世(1491年~1547年、在位1509年~47年)の離婚問題から始まり、宗教的動機よりも政治的・経済的な動機の方が強かったのが特色です。

 ヘンリー8世は、初めは熱心なカトリック教徒で、ルターの宗教改革がおこるとそれに反対する論文を発表し、教皇から「信仰の擁護者」と云う称号を受ける程でした。

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キャサリン・オブ・アラゴン

 しかし、その後ヘンリー8世は王妃キャサリン(カザリン)との離婚を教皇に願い出ますが、教皇が離婚を認めなかったために教皇と対立するように成ります。

 ヘンリー8世は、早世した兄の未亡人キャサリン(1485年~1536年、スペイン王フェルナンド5世とイサベルの娘)と結婚しますが(1509年)、キャサリンには男子の後継者が生まれず、又キャサリンの侍女アン・ブーリン(1507年~36年)と親密な関係に成り、離婚を決意して教皇に許可を求めますが、教皇はキャサリンがスペイン王家の出身で、当時の神聖ローマ皇帝カール5世の叔母であったために許可することは出来ませんでした。

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アン・ブーリン

 ヘンリー8世はキャサリンとの離婚を強行し、アン・ブーリンと再婚を果たし(1533年)、イギリス国民の間に強かった反ローマ教会の機運を利用してローマ教会からの独立を決意しました。

 ローマ教皇はヘンリー8世を破門に処しますが、ヘンリー8世は議会の支持のもとに、1534年に首長法(首長令)を発し、イギリス国王がイギリス国教会の唯一・最高の首長であると宣言し、イギリス国教会をローマ教会から分離・独立させ、又同じく議会立法で修道院を廃止し、その広大な土地・財産を没収しました(1536年、及び1539年)。

 イギリスの宗教改革は、ルターやカルヴァンの宗教改革のように教義をめぐる宗教的動機からでなく、中央集権化をはかるヘンリー8世が、ローマ教会からの分離・独立と修道院財産を没収して王室財政の強化をはかるという政治的・経済的動機からおこしたことが特色であり、そのため教義上の改革は不徹底で、イギリス国教会の教義はカトリックとほとんど変わらなかったと云われています。

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トマス・モア

 イギリスの代表的なヒューマニストであり大法官であったトマス・モアは国王の離婚と首長法に反対して処刑されています(1536年)。

 尚ヘンリー8世は6人を王妃としたが、そのうち2人が離婚され、2人が処刑されており、アン・ブーリンも男子を出生しなかったので姦通罪の汚名をきせられて処刑されています。

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エドワード6世

 ヘンリー8世の死後、彼の唯一の男子であったエドワード6世(1537年~53年、在位1547年~53年)が9歳で即位します。
エドワードの母は第3王妃のジェーン・シーモアで、エドワード6世は、『トム・ソーヤーの冒険』で有名なアメリカの作家マーク・トゥーエンの『王子と乞食』(1881年)における王子のモデルと伝えられています。

 エドワード6世のもとで、プロテスタント化が進められ、イギリス国教会の礼拝儀式や教義を規定した一般祈祷書がつくられ(1549年)、教義面でも福音主義・信仰義認説・予定説等カルヴァン派に近いプロテスタンティズム(新教主義)の原理が取り入れられます。
エドワード6世自身は生来病弱であったため在位6年で没しています。

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メアリ1世

 エドワード6世の後は、メアリ1世(1516年~58年、在位1553年~58年)が継承しますが、メアリ1世の母はヘンリー8世の最初の王妃で離婚されたキャサリンでした。

 メアリ1世は、母の影響を受けて熱心なカトリック教徒となり、異母弟エドワード6世の治世中も、国教会の礼拝を拒否し、カトリックの信仰を貫きます。

 そして王位に就くとカトリック教会を復活させ、更に国民の反対を押し切って熱烈なカトリック信者として知られるスペイン皇太子フェリペ(後のフェリペ2世)と結婚し、カトリック復活を企てて国教徒(イギリス国教会の信者)を弾圧し、多くの国教徒を処刑にした結果「流血好きのメアリ」と呼ばれました。

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エリザベス1世

 病身であったメアリ1世も治世5年で亡くなり、エリザベス1世(1533年~1603年、在位1558年~1603年)が王位を継ぎます。
エリザベス1世の母は、ヘンリー8世の第2王妃のアン・ブーリンであり、3歳の時に母が刑死したので、以後メアリ1世によってロンドン塔に幽閉される等苦難の時代を送りましたが、ヘンリー8世の遺言でエドワード6世、メアリ1世に次ぐ王位継承者となり、メアリ1世の死によって、25歳で即位します。

 エリザベス1世は、イギリス絶対王政の最盛期を現出したイギリス史上最も有名な女王ですが、宗教面では中道の政策に復帰し、1559年に首長法(首長令)と統一法(統一令)を発布し、イギリス国教会の礼拝・祈祷の統一をはかり、これに従わない者への刑罰も定め、これによってイギリス国教会の体制が最終的に確立されたのです。

ジョークは如何?

チャウシェスク政権下のルーマニアにてある真冬の天気予報

お天気おねーさん「全国の明日の気温ですが、全国で零下18度です。
         たいへん寒い日が続きますので注意してください」
見ていた子供  「パパー、ママー。毎日-18゚Cしか書いてないけどどうしてなの?」
パパ&ママ   「それはそういうきまりになっているからだよ」

↑実話
※真相は、チャウシェスクの指示でいくら寒くても-18゚Cと発表することに
 なっていた。石炭の配給が同気温の場合を前提にしていたので、それ以上寒いと
 よけいに石炭を配給しなければならなかったのだ。


続く・・・

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2015/09/26

歴史を歩く138

18 宗教改革③

2スイスの宗教改革とカルヴァン

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フルドリッヒ・ツヴィングリ(1484年~1531年)

 ドイツと並行してスイスでも宗教改革が興ります。
スイスではツヴィングリ(1484年~1531年)が、1523年以来チューリヒで宗教改革を始めました。

 エラスムスやルターの影響を受けたツヴィングリは、チューリヒの説教司祭となり(1519年)、チューリヒでのローマ教会との公開討論に勝利し、市参事会の支持を得て、聖像やミサの廃止等の教会改革を押し進めますが、聖餐問題ではルターと対立し決裂します(1529年)。

 その頃までにチューリヒでのツヴィングリの宗教改革は、スイス北部諸州から西南ドイツ地方にまで影響を及ぼしていましたが、頑強にカトリックを維持していた原初諸州との紛争が絶えず、終に内戦となり(1531年)、カッペルの戦いでチューリヒ軍は壊滅し、従軍中のツヴィングリも戦死し、このため改革運動は停滞し、ツヴィングリ派は後にカルヴァン派に吸収されていきました。

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ジャン・カルヴァン(1509年~64年)

 ツヴィングリの死後、スイスの宗教改革の中心はジュネーヴに移ります。
ジュネーヴで宗教改革を行った人物が、フランス人のカルヴァンでした。

 カルヴァン(1509年~64年)は、北フランスに生まれ、パリ大学等で法学・神学・人文主義等を学びましたが、「突然の回心」(1533)によって福音主義者(プロテスタント)と成ります。
当時ルターの宗教改革の影響はフランスに及び、フランスでもルター派が広まっていたのですが、福音主義は危険思想として弾圧されていました。
カルヴァンもパリを離れ(1533年)、後にスイスの新教都市バーゼルに逃れます(1534年)。

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キリスト教綱要(19世紀発行版)

 バーゼルに逃れたカルヴァンは、その地で有名な『キリスト教綱要』を著し(1536年)、その中でカルヴァンは「全ての者は、同じ条件のもとに創造されたのではない。ある者は、永遠の生命に、他のある者は、永遠の断罪に、あらかじめ定められている。 したがって、人はだれでもこの目的のどちらかにむけて創造されており、つまり、いってみれば、生に対してか、死に対してか、そのいずれかだということだ。・・・したがって、聖書が示すところに従ってわれわれは主張する。 神は、永遠の計画によって、救済にあてようとする者と、滅亡にあてようとする者とをあらかじめ定めたのである。」(山川出版社、世界史史料・名言集より)と述べています。

 魂の救済は、人間の意志によるものではなく、神によって最初から決められていると云うこの教義は「予定説」と呼ばれています。

 『キリスト教綱要』によって一躍有名となったカルヴァンは、ジュネーヴに改革者として迎えられて宗教改革に従事しますが(1536年)、一時反対派によって追放されストラスブルクに赴き(1538年)、後に再び請われてジュネーヴに帰り(1541年)、以後死去する迄同市に留まりました。

 カルヴァンは、改革のために反対派を弾圧し、教会制度・組織の改革を行い、厳格な禁欲生活を市民に強制するなどカルヴァン主義による神政政治(神権政治)を行い、ジュネーヴをプロテスタンティズム(新教主義)の牙城としました。

 教会制度については、上部から任命される司教を置かず、牧師とこれを補佐する信徒代表の長老とで教会を運営する長老制度を取り入れます。

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聖書を基礎ととした信仰

 カルヴァンの教義は、福音主義(聖書を信仰の基礎に置く)と信仰義認説(人は信仰によってのみ救われる)に立っているが、彼の教義の中心となっているのが「予定説」です。

 「予定説」では、魂が救われるか否かはあらかじめ神によって定められていますが、人は信仰によって「自分は救われる」と確信することが出来ると説かれ、又救済の確証を得るために、人は禁欲的生活を営み、職業を神から与えられた天職と考えて勤労に従事すべしと説き、 勤労の結果得られる富の蓄積は信仰上正しいと説きました。
このためカルヴァンの教えは、当時勃興しつつあった市民階級(商工業者)に支持されて普及し、資本主義の発展に大きな影響を与える結果となります。

 カルヴァン派は各地に広まり、イングランドではピューリタン(清教徒)、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)、フランスではユグノー、オランダではゴイセンと呼ばれ、その勢力はルター派をやがて凌ぐようになり、ルター派以上に大きな影響を残したのです。

ジョークは如何?

天国の門に、死んだスターリンがやってきた。
「私を天国に入れて下さい」
「それはできん。お前の行くところは地獄と決まっておる」
スターリンはとぼとぼと地獄へと立ち去った。
やがてベリヤたちも同じように天国の門まで来たが、同じように地獄へと追い返された。
しばらくして。
天国の門に、鬼の一団がやってきた。
門番は驚いた。
「一体あなた方は何をしに来たのです!?」
鬼は言った。
「我々は地獄から亡命してきたのです」


続く・・・

2015/09/24

歴史を歩く137

18 宗教改革②

1 ルターの宗教改革②

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16世紀にオランダで行われた再洗礼派の処刑

 神聖ローマ皇帝カール5世とルターの対立が深まっていた頃、ルターが聖書中心主義を唱えたのに対し、聖霊による神秘的な体験を重視し、聖書を軽んずる教派がおこり、広まっていました。
この教派は、自覚のない幼児期の洗礼を無効として、成人の「再洗礼」を主張したので、再洗礼派と呼ばれており、ルターは、このような動きを知り、ヴァルトブルク城からヴィッテンベルクへ戻り、警告の説教を行いました(1522年)。

 この頃までに、ルターの教えは、教皇や皇帝に反感を抱く諸侯、没落しつつあった騎士、自由を求める都市の市民、封建制の重圧に苦しむ農民に受け入れられていましたが、その受け入れられ方は身分や階層の利害と関わっていたので、宗教改革は単に信仰の問題には留まらず、政治化の方向を辿って行ったのです。

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ドイツ農民戦争(1524年~25年)

 没落しつつあった騎士達は、宗教動乱に乗じて教会諸侯領の撃破を唱えて蜂起しましたが、諸侯軍によって鎮圧されます(騎士戦争、1522~23年)。

 教会や諸侯の圧迫に苦しんでいた農民達は、ルターの思想的影響を受けて、1524年に南ドイツを中心に大規模な反乱を起こし、この出来事はドイツ農民戦争(1524年~25年)と呼ばれ、彼らは農奴制の廃止や封建的地代の軽減等を求めて「十二カ条の要求」を掲げて戦い、一時は南ドイツの3分の2を制圧しました。
反乱は更に各地に広がり、特に再洗礼派の代表者であるトマス・ミュンツァー(1490年頃~1525年)が指導した中部ドイツでは激しい暴動が繰り返し発生しています。

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トマス・ミュンツァー(中央の人物)

 トマス・ミュンツァーは、初めルターの福音主義を支持しましたが、再洗礼派の人々に出会い、次第にルターから離れて急進化し、教会の腐敗・堕落を激しく攻撃するように成り、後にドイツ農民戦争に参加し、信仰を社会改革に結びつけて徹底した社会改革を求め、中部ドイツのチューリンゲンで一時市当局を打倒する迄に勢力を拡大しますが、後に諸侯軍に敗れて斬首されています。

 ルターは、初め農民を支持していましたが、ミュンツァーに率いられた農民達が財産の共有や神の前での平等を主張して教会を襲撃する等、過激な行動をとるようになると、彼らを「殺人強盗団」と罵り、諸侯に「狂犬同様に絞め殺し、打ち殺してしまえ」と過激な鎮圧を勧告しています。
これに対してミュンツァーはルターを「嘘つき博士」と呼んで激しく非難しますが、ルターがこのような行動をとったのは、彼が問題としたのは内面的な信仰のあり方であって、社会の現状を変革することまでは考えていなかったためなのです。

 装備に勝る諸侯軍は、ルターの支持に力を得て結束して反撃に転じ、反乱側の分裂・不統一に乗じて農民軍を徹底的に鎮圧し、農民の犠牲者数は10万人にも達したと云われています。

 ドイツ農民戦争後、南ドイツの貧しい農民達はルター派から離れ、以後ルター派の支持者は、おもに北ドイツの諸侯や豊かな市民・農民に移って行きました。
ルター派の諸侯は、領内の教会の首長として、領内の教会の支配権を握り(領邦教会制)、修道院の解散等の改革を進めて行きました。

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スレイマン1世

 その頃、神聖ローマ皇帝カール5世は、フランス王フランソワ1世とイタリア領有を廻て抗争を繰り返し(イタリア戦争)、フランソワ1世はカール5世に対抗するためにドイツのルター派諸侯を援助し、またオスマン・トルコ帝国のスレイマン1世とも結びます。

 スレイマン1世はハンガリーを攻略してオーストリアに侵入し、孤立したカール5世は、第1シュパイアー帝国議会(シュパイエル国会、1526年)でルター派を認め、ルター派諸侯の支持を取りつけて危機を脱しました。

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ウィーン包囲(1529年)

 その後スレイマン1世は再度オーストリアに侵入し、1529年にはウィーンを包囲しますが、カール5世はウィーン包囲をかろうじて撃退し、第2シュパイアー帝国議会で3年前の決定を取り消し、再びルター派を禁止したため、ルター派諸侯は抗議書を提出し(1529年)、このため彼らはプロテスタント(抗議する者の意味)と呼ばれるように成りました。

 ルター派諸侯・都市はシュマルカルデン同盟を結成して(1530年)、皇帝に対抗し、両者の争いは後にシュマルカルデン戦争(1546年~47年)と呼ばれる内戦に発展しますが、同盟側は内部分裂によって戦いに敗れて瓦解します。

 しかし、国内の混乱を恐れた両者は妥協して、1555年にアウグスブルクの和議を結び、この和議によって諸侯にはカトリック派(旧教)とルター派(新教)のうちいずれかを選択する権利が認められ、都市では両派の存在が認められました。

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アウグスブルクの和議

 しかし、アウグスブルクの和議では、個人の信仰の自由は認められず、領民の信仰は諸侯のそれと一致することが要求され、領民は諸侯が選択した派を信仰しなければならず、又当時各地に普及していたカルヴァン派は除かれる等問題も多く、後に三十年戦争(1618年~48年)が起こる原因と成りました。
 ルター派はやがてデンマーク・スウェーデン・ノルウェーなどの北欧諸国にも広がっていきます。

ジョークは如何?

スターリンが占い師に尋ねた。

「私の寿命はどれくらいだ?」
「わからない。しかし、おまえは最も大きな祝祭日に死ぬだろう」
「それはいつだ」
「おまえが死ぬ日がそうだ」


続く・・・

2015/09/19

歴史を歩く136

18 宗教改革

1 ルターの宗教改革①

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マルティン・ルター(1483年~1546年)

 1517年にドイツでおこった宗教改革は、単に宗教面のみならず、政治、経済、社会のあらゆる面に大きな影響を及ぼしました。

 宗教改革がおこった背景として、
(1)教会大分裂(シスマ)等の出来事によって教皇や教会の権威は更に衰え、教会の世俗化や腐敗が進んだ為に教会を批判し、教会の革新を主張するウィクリフやフスによって先駆的な運動が行われたものの、カトリック教会内部での革新が進まなかったこと。

(2)エラスムスの『愚神礼賛』やドイツのロイヒリンやメランヒトン等により聖書の文献学的研究が進んだこと等、ルネサンスのヒューマニストの影響が広まるなかで、人々が教会の世俗化や腐敗に疑問を抱くようになったこと。

(3)国王の中央集権化が進むなかで、国王は教会の束縛を離れようとする傾向を強めていたこと。
等を掲げることができます。

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教皇レオ10世

 ルネサンスの保護者として知られるメディチ家出身の教皇レオ10世は、サン・ピエトロ大聖堂の改築資金を調達する為に、当時のマインツ大司教にドイツでの贖宥状(免罪符)販売を許可しました。

 カトリック教会では、罪を告白し、悔い改めた者に、祈りや巡礼、金銭の喜捨等の償いを課し、罪の償いを金銭の喜捨で免除できるとしたのが贖宥状なのですが、中世末には贖宥状は教皇庁の財源をまかなう手段として乱用され、贖宥状を購入すれば罪そのものが許されるという考え方が広まっていました。

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贖宥状

 レオ10世が、ドイツでの贖宥状の販売を許可したのは、当時のドイツが「ローマの牝牛」と呼ばれていた様に、ドイツは分裂を続け、皇帝権力が弱く、教皇に対する抵抗がほとんど見られなかったからであり、しかも、この時のドイツでの贖宥状販売には、ドイツに於ける教皇庁財政の独占的管理者でもあったアウグスブルクの大富豪フッガー家が協力していました。

 マインツ大司教は、贖宥状販売をドミニコ派修道会の説教僧であるテッツェルに委ね、テッツェルは、教皇の紋章をつけた十字架を先頭に行列をつくって町をねり歩き、「お金が賽銭箱のなかでチャリンと音を立てさえすれば、魂は煉獄の焔の中から飛び出してくる」等と云う露骨で巧みな説教により、身分や収入に応じて寄進の額を定めて贖宥状を売りまくり、人々からお金を集めて行きました。テッツェルの一行はザクセン選帝侯領内のヴィッテンベルクの近くでも贖宥状を売りまくったのです。

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テッツェルによる贖宥状の販売

 この時、修道士でヴィッテンベルク大学の神学教授でもあったマルティン・ルター(1483年~1546年)は、1517年10月31日に、ヴィッテンベルク城教会の扉に、贖宥状の悪弊を攻撃する「九十五カ条の論題」を発表し、この出来事が宗教改革の発端と成りました。

 ルターは、中部ドイツのチューリンゲンの鉱夫の家に生まれ、エルフルト大学で学び、友人の死や落雷体験をきっかけに修道院に入り(1505年)、後にヴィッテンベルク大学の神学教授となり(1512年)、1517年に「九十五カ条の論題」を発表して、宗教改革の口火をきったのでした。

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「九十五カ条の論題」を掲示するルター

 ルターは「九十五カ条の論題」の中で、
『第一、我々の主にして師たるイエス・キリストが、「汝ら悔い改めよ」と云う時、信徒の全生活が、改悛であらんことを望んでいるのである。
 第二十七、彼等は人に説教して、金銭が箱に投げ入れられて、音がするならば、霊魂は(煉獄から)飛び逃げる、と云っている。
 第二十八、箱の中で金銭が音を立てる時、財貨と貪欲とがいやますことは、確かではあれ、教会の(赦宥の)援けは、ただ神の意思のうちにのみよっている。
 第八十二.もし、教皇が教会をたてるというような瑣末な理由で、いともけがらわしい金銭をあつめるため、無数の霊魂をすくうのならば、なぜ、あらゆることのうち、もっとも正しい目的てある、いとも聖なる慈愛と霊魂の大なる必要のために、煉獄から(霊魂)をすくいださないのであろうか。』(山川出版社、世界史史料・名言集より)
と述べ、魂の救済は善行や儀式によるのでなく、悔い改めと福音への信仰によってのみ人は救われるとして、贖宥状の販売を激しく攻撃しました。

 「九十五カ条の論題」は、神学上の論争を求めたものであり、教皇の権威を否定するものでは在りませんでしたが、たちまちドイツ中に広まり、大反響を呼び起こしたのです。

 教皇は使節を派遣し、ルターに説の取り消しを求めますが、ルターは之に応じず(1518年)、神学者エックとのライプチヒの公開論争では教皇権を否定し(1519年)、『キリスト者の自由』(1520年刊)を著し、「人は信仰によってのみ義とされる」と云う信仰義認説を主張します。

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神聖ローマ皇帝カール5世

 教皇は、ルターが60日以内に自説を撤回しない場合は破門に処すとの教書を発しますが、ルターは破門状を公衆の面前で焼却し(1520年)、破門され(1521年)、教皇は、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519年~56年)に、ルター破門の実行を要求し、イタリア戦争を有利に展開するために教皇との緊密な関係を必要としていたカール5世は、ルターを弾圧するためにヴォルムスの帝国議会への出頭を命じますが、ルターの友人達は、ルターに出頭は身の危険が多大に在るので中止するように勧告しますが、ルターは「ヴォルムスの屋根の瓦程多くの悪魔が居ても、私は行くつもりだ」と答えています。

 カール5世から自説の撤回を求められたのに対し、ルターは聖書に明らかな証拠がある以外は取り消さないと拒否し、「我ここに立つ、神我を助け給え」という言葉で答弁を終わったと云われています。
カール5世はルターを法律の保護外において帝国追放に処し、ルター派を禁止して彼の著書の購買や頒布を禁じ(1521年)、その後、ルターは突然人々の前から姿を消してしまいますが、その時ルターはザクセン選帝侯の居城ヴァルトブルク城に匿われており、そこで彼は『新約聖書』のドイツ語訳を完成し、一般の人々にも広く聖書が読める道を開いたのでした。

ジョークは如何?

NHK「音楽の広場」で芥川が言った

愛を語るならフランス語。
文学を語るなら英語。
宗教を語るならドイツ語。
農業を語るならロシア語。


続く・・・

2015/09/13

歴史を歩く135

17ヨーロッパ世界の拡大・アメリカ大陸の「発見」

アメリカ大陸の発見

地球儀
地球儀:南北アメリカ大陸

 アメリカ大陸程、幾度も“発見”された土地は殆んど無いと思います。
諸説を総合すると、クリストファー・コロンブスが1492年にカリブ海の島に辿り着くよりも遥かな昔に、フェニキア人、アイルランド人、バイキング、ウェールズ人、中国人が“新世界”に到達している事になります。
特にアジア人は数千年前にアメリカ大陸を“発見”した点においてほぼ学会の説は一致している様です。
アジア人は、狭いベーリング海を越えてアラスカに渡り、北アメリカの南部と東部に広がり、更に南アメリカへと南下しています。

 中国人説は、近年、北京大学の研究者から提起された学説で、西暦459年、5人の中国人が太平洋を横断して、メキシコに到達し、6世紀の伝承では一人の仏教僧が、日本から東に7400km航海し、扶桑(フサン)と呼ばれる大陸を発見したと云います。
是は現在のアメリカ大陸で在るか否か、結論は出ていませんが、船が風と潮流の関係で、アメリカ沿岸に到達する事は在ったかも分かりません。
現在、その様な船や乗組員を物語る資料は、一切存在していません。

①アイルランド人はアメリカに到達したのか?

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ドルイドの宗教儀式

 旅や旅行者の年代史研究の第一人者、サミュエル・エリオット・モリソンは、ノルウェーの伝承の中で、グリーンランドの近くの何れかの土地が、「白い国」「アイルランド大国」と呼ばれていると記述しています。
ビョルンと名乗るアイルランド人が、10世紀の終わり頃、船で西に向かったまま姿を消してしまいました。
それから長い年月が過ぎた頃、同じアイルランド人、グドリエフ・グンラングソンが、強い西風の為、何処かの土地で身動きが取れなくなり、原住民に捕らえられました。
彼らは、アイルランド語を話す様ですが、長老と思わしき人物が、彼を「粗野なアイルランド人」から救い出し、帰国させてくれました。
グドリエフはこの長老と思わしき人物が、ビョルンであると語りました。

 この話とは別の北欧伝説によると、西の国で捕らえられた男が、「白い衣服をまとい、大声で叫ぶ、布切れをつけた長い棒を持った」白人達を見たと報告しています。
この話をモリソンは次の様に解説しています。
「アイルランド人の宗教儀式の行列が、この人物の眼にどのように写ったか推測して欲しい。しかしながら、アイルランド人が9世紀や10世紀に、現在アメリカ大陸と呼ばれている土地に辿り着いたとしても、彼らは帰ってこなかったし、それを物語るものを、何一つ残しはしなかった。将来何時の日か、アイルランド人が、アメリカに到達した確実な証拠となる異物が発見されるかもしれない。しかし、その時が到来するまで、我々は掴み所のないアイルランド植民地の話を立ち込める霧を通して、垣間見る事しか出来ない」。

②ウェールズ人説

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モビール湾:アメリか合衆国アラバマ州

 これ以上に捕らえどころの無い話が、ウェールズ人の話で、マドク・アプ・オウェイン・グイネス殿下が、1170年にモビール湾に上陸、ウェールズ語を残した事に成っています。
ミズーリ川上流の色白のインディアン、マンダン族はこのウェールズ人の子孫であるとの説も存在しますが、これは単なる空想に過ぎず、研究者はこの説の矛盾、誤りをはっきりと指摘しています。

③スカンジナビア人の発見

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レイブ・エリクソンの航海

 スカンジナビアの人々が、“新世界”を発見した事は、資料や遺跡、グリーンランドで発見された墓地、ニューファンドランドの考古学的発見から、しっかりとした根拠が存在します。
しかし、スカンジナビアの人々が、北アメリカに定住したという、確実な証拠は、存在していません。

 伝承によれば、ノルウェー人ビジャーニ・ヘルユフソンが、986年にグリーンランドに向かう途中、強風の為針路を外れ、アメリカに達したと云います。
それから約15年後、グリーンランドを発見し、殖民地にしたレイブ・エリクソンは、ビジャーニの語った、平坦な森林地帯を見つけてやろうと決意し、やがて彼は、「野生の葡萄や自生の小麦が育っている場所」に行き着き、この場所を「良き国・ビンランド」と名付け、ここに小屋を建てて冬を越し、又船に乗ってグリーンランドに帰って行きました。

④ビンランド

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クリスチャン・クローグ(1852~1925)ノールウエー:「レイフ・エリクソンはアメリカ大陸を見る」

 其れから7年後、グリーンランドの商人、ソーフィン・カールセブニが、レイブのビンランドに植民地を建設しようと試み、約250人の入植者と共に、レイブの入植地に上陸しました。
しかしながら、後に原住民と衝突し、グリーンランドに引き上げます。

 このビンランドが何処の場所を指すのか、この問題を廻って研究者の果てしない憶測が繰り返されました。
レイブが野生の葡萄を見つけたのなら、ノバスコシアか、ケープコッド付近と思われますが、ニューファンドランドのランソー・メドウズでの発掘調査から、この土地が、レイブの入植地で在った事は保々確実と考えられています。

遺物?

 他の遺物の発見を根拠として、スカンジナビアの人々が更に内陸へ進んだとする説も存在します。
西暦1000年頃オンタリオに、1362年にはミネソタのレッド川渓谷に入ったとする説で、オンタリオの墓地で発見された、バイキングの剣、斧、楯の鉄製品は、研究者から本物と鑑定されました。
しかし、サミュエル・エリオット・モリソンは是等の遺物をジョークであるとして、一笑に付しています。

クリストファー・コロンブスの登場

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援助したフェルナンド2世とイサベル1世左上・パロスを出港中上・サンタマリア号右上・上陸中下(キューバ1984年発行)

 終に1492年、クリストファー・コロンブスが大西洋を横断して“新大陸”に到達しました。
最も彼には、その場所が何処か分からず、それをアジアの一部と思い続けていました。

 現在でも研究者の間では、アメリカ発見について、調査研究が進んでいますが、当時の混乱ぶりをマーク・トォーエンは次の様に語りました。
「多くの研究者は、既にこの問題の実態をひどくぼかしてしまった。もし彼らが今後もこの様な事を継続すれば、我々はやがて、この事象について何一つ解明できない事になるだろう」。

ジョークは如何?

二日酔いで議会に出席したチャーチル。
女性議員が不謹慎だと批難すると、チャーチルは反論して曰く
「私の二日酔いは明日になれば治るが、あンたのその顔は永遠に治らんよ」


続く・・・


2015/09/08

歴史を歩く134

17ヨーロッパ世界の拡大・コロンブスの遺骨は何処に

コロンブスの遺骨

コロンブスの上陸した島

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クリストファー・コロンブス ドミニカ共和国500ペソ紙幣

 イタリア、ジェノヴァの生まれのクリストファー・コロンブス(1456年~1506年)が、スペイン女王イザベル1世の援助を受け。サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の3隻の帆船に、120名の乗組み員を乗せ、故国のバロス港を出帆して、大西洋横断に旅立ったのは1492年8月3日未明の事でした。
途中、部下達がその航海の前途多難による不安から、幾度も反乱の予兆を抑えながら、航海を続け、同年10月12日午前2時、故国を出帆しておよそ70日後、バハマ諸島(西インド諸島)のひとつの島に到達し、この島を「サン・サルバドル島」命名しました。
ヨーロッパ人によるアメリカ大陸発見の第一歩と成りました。
この島は、現在のワットリング島と推定されています。

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バハマ諸島

 コロンブスが第一歩を印したバハマ諸島には、30以上の大小の島々が存在し、彼が「サン・サルバドル」と名づけた島が、正確には現在のどの島なのか、特定する事は大変な事でした。

 コロンブスの新大陸への航海日誌は、不幸にも、彼の死後間も無く所在が不明と成りますが、彼の生前、同時代の僧侶フレイ・ラス・カオスが、コロンブスの原書である1492年10月12日付けの航海日誌を忠実に複製しました。
これは後に翻訳され、複製刊行されます。
その文献によれば、10月11日の夜、強い東風が吹き、月の光に浮かび上がる島影を最初に発見したのは、ピンタ号の水夫ロドリゴであることが判ります。

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新大陸上陸

 コロンブスは「サン・サルバドル島」について、次の様に記録しています。
「島は極めて大きく、かつ扁平であり、島の中央部には大きな湖が存在し、島の形はソラマメの様で、多くの木々が繁茂している」。
更に2日後の10月14日付けの日誌には、「明け方、私は船を1隻用意させ、島を観察するために、島に沿って東北方向に航海をした。住民たちが岸に出て来た。上陸地を探したが、島を取り巻く岩礁が心配であった。しかし、やがて岩礁の切れ間を見つけ、其処は全キリスト教国の船舶を収容するに足りる広大な入り江だった」と記しています。
以上は、サン・サルバドル島に関し、現存するコロンブスの航海日誌(模写)の殆ど全てですが、詳細な記録とは言い難いものです。

 バハマ諸島には30の大島と600以上の小島が存在し、コロンブスがそのいずれかに上陸した事は間違い無く、しかも彼は大西洋を東方から航海した為、最初に遭遇する島は、10個程度の外洋に面した島と成ります。
列挙すると、大アバコ島、エリューセラ島、コンセプション島、ユーマ島、サマナ島、キャット島(後年コロンブスの乗船したマリア・テレジア号が座礁した島)等があります。

ワットリング島

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新大陸の確認と上陸

 1892年、コロンブスのアメリカ発見400年記念博覧会が開催された時、慎重な再調査が行われた結果、ワットリング島を正式にコロンブスの上陸第一歩を印した地とし、「サン・サルバドル島」と命名しました。
その年、新聞記者ウォルター・ウェルマンは、コロンブスが第一歩を印したと推定される場所を示す為、島の東海岸に小さな記念碑を建立したのでした。

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航海図

 コロンブスの上陸した最初の島が、ワットリング島で在る事を確認する資料として、1921年刊行のルドルフ・クロナウ博士による「アメリカの発見とコロンブスの上陸」(Dr.Rudolf Cronau;The Discovery of America and Landfall of Columbus,1921)が在ります。
博士は大西洋側に面した島々を綿密に調査し、その結果、ワットリング島こそが、コロンブスの最初の上陸地点で在る事を決定づけました。

 しかも、1892年のコロンブス博覧会開催の折り、ウォルター・ウェルマンがコロンブス上陸地点として、記念碑を建立した東海岸では無く、島の北側で在る事を明らかにしたのでした。
其処には入り江が在り、サンゴ礁が自然の防波堤となり、内側には幅1マイルに及ぶ、静かな入り江を伴っていました。
此処ならば、15世紀頃の全キリスト教国の艦艇を収容できた事でしょう。

 クロナウ博士の著作が刊行されて、記念碑の位置の誤りで在る事を指摘し、東海岸の記念碑を北側の最も正確な場所と推定される地点に移動されましたが、現在この島には、100名足らずの原住民が住んでおり、稀にコロンブス上陸地点見物の観光客が訪れる程度なのです。

コロンブスの墓

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ドミニカ共和国:サント・ドミンゴ:コロンブス像

 コロンブスに関しては、上陸地点の確定も然りですが、その墓の場所についても多年に渡り、多くの研究者の意見が分かれ、この結果、一国の宰相が更迭され、キリスト教会が非難を受け、国家間の戦争勃発寸前の状況を作り出しました。
ヨーロッパとアメリカでは、コロンブスと云う、キリスト以後世界で最も有名な人物の遺骨の存在と所有を廻って、論争が絶えませんでした。

 クリストファー・コロンブスは、第一回の航海の後、3回に渡り合計4回、大西洋を横断し、「黄金のジパング」や「香料」の国インドを必死に探し求めましたが、その思惑とは裏腹に、原住民の反乱や本国の反対派による逮捕拘束される等、かつての提督も晩年は、病と貧困に悩まされ、不遇の内に1506年スペインのバリヤドリーで、寂しくこの世を去りました。

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15世紀スペインよって作成されたヒスパニオラ島地図

 彼がその死にあたり、繰り返し第一回の航海で発見した、豊かで美しい島ヒスパニオラ(現ハイチ)に遺体を葬る様懇願したのでした。
其処には、繁栄したサント・ドミンゴ港が在り、全スペイン人衆目の土地で在り、コロンブスが最初に建設した、恒久的植民地で、巨万の富を求めて、海外へ向かう人々の目標の土地と成っていました。

 この新世界の中心地と云うべき場所に、コロンブスの遺体が移されたのは、彼の死後30年を経過した、1540年の事で、スペインから到着した鉛製の柩は、この為に新たに建立された教会で、厳かな儀式が行われた後、祭壇の北側の床下に安置されました。
その時、息子のディエゴ・コロンブスの遺体も、スペインから一緒に運ばれ、父親の遺体の傍に埋葬され、二つの墓にはそれぞれ大理石の墓碑銘が刻まれ、150年の間、何事も無く時間が過ぎていきました。

 しかし、1655年英国海軍が、サント・ドミンゴを攻略した時、教会は英国軍による暴挙から、墳墓の冒涜を守る為、大理石の墓碑銘をはじめ、遺体の所在を明らかにする物の全てを抹消してしまい、戦乱後も墓碑は修復されず、コロンブスの遺体の安置された場所を示す、墓碑銘等は復活せぬまま140年の時間が経過していきました。

 1795年、スペインはフランスから、ヒスパニオラ島西側を強制的に割譲された為、スペイン人は自国の国民的英雄の遺体を、手放す訳には行かず、コロンブスの柩をキューバ島に移動します。
彼等は、教会の祭壇の下にある墓所を掘り、姿を見せた鉛製の柩をハバナの教会に移し、納骨所に安置するとその場所を封印しました。
納骨所には、コロンブスのレリーフが置かれ、次の様な碑銘が掲げられました。
「偉大なるコロンブスの遺体とその像よ、この柩の中に、そして、我が国民の記憶の中に、永久に安らぎ給え」

遺骸紛争

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セビーリャ大聖堂:スペイン

 サント・ドミンゴ教会は、その栄光を剥奪されたまま、荒廃するに負かせ、誰も顧みる者が在りませんでした。
1877年教会の再建が決まり、その時祭壇前の床石を掘り起こしていた作業員が、1795年にハバナに移動させた鉛製の柩と同様な柩を発見しました。
柩の上には、“D.de la A.per.Ate”の略語が掘り込まれており、コロンブスに事跡を調査していた、クロナウ博士は、“Descubridor de la America primer Almirante”(アメリカの発見者、第一級提督)と解釈し、又柩の3方の側面にはC,C,A,の文字が1文字ずつ掘り込まれていました。
この文字の意味は、“Cristoval Colon,Almirante”(クリストヴァル・コロン提督)と解釈する事が出来ました。

 この柩の発見を重要な事態と考えた、教会関係者は、柩の蓋を開けるに当たり、全サント・ドミンゴの名士・名家、各国の領事等を招待しました。
開けられた蓋の裏には、次の様な銘が刻まれていました。
“Llltre y Esdo Varon.Criztoval Colon”この銘に意味は明らかに“Lllustre y Varon Don Criztoval Colon”即ち「名声多き、クリストヴァル・コロン男爵」と解釈されるもので、鉛製の柩の底に、朽ちるにまかせられた遺骨が、誰のものであるか、疑う余地は有りませんでした。

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セビーリャ大聖堂:コロンブスの墓所

 ハバナの教会では、多年にわたり、別のコロンブスを崇めていた事に成り、墳墓の墓標が早い時期に喪失していた事、コロンブスの子供が父親の傍に葬られていた事、以上を多くの人間が忘れていた事が原因でした。
スペイン人は、偉大なるアメリカの発見者クリストファー・コロンブスの代わりに、息子のディエゴの遺骨の入った柩をキューバに移し、盛大な儀式の内にこれを葬ったのでした。

 サント・ドミンゴの教会から、コロンブスの本当の遺骨が発見されたニュースは、全世界に一大センセーショナルを巻き起こし、スペインでは、明確な証拠を敢えて否定し、憤然としてその真実性を否定しました。
コロンブスの柩の蓋を開ける時に立ち会った、ドミニカ共和国駐在スペイン公使が、コロンブスの遺骨発見が真実である事を本国政府に報告するや、スペイン政府は、この公使をサント・ドミンゴから召還するなど、スペインは自国の主張以外絶対に妥協しませんでした。

 1898年キューバが宗主国のスペインから独立した時、スペイン政府は、尚もコロンブスの遺骨は、スペイン領内に安置されるべき事を主張し、無銘の柩(ディエゴの柩)を350年前に旅立った、故国スペインのセヴィリアに三度移し、「クリストヴァル・コロン」の銘を記した石棺に納めなおし、壮大なセヴィリア教会に安置しまが、大多数の人々は其処にコロンブスに遺骨が存在しない事を知っていました。

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サンタ・マリア・ラ・メノル大聖堂(アメリカ首座大司教座聖堂)(1540年.建造)

 サント・ドミンゴの人々は、彼等が託されているものが、如何に貴重なものなのかを理解し、彼等も又教会の中に、コロンブスの遺骨を安置する堂を建立します。
堂の中央には、重い青銅の柩があり、柩の側面は折畳みに成っていて開閉可能であり、必要に応じて内部の柩を見る事が出来る様に成っていました。
毎年10月12日、コロンブスのアメリカ発見の日を記念して、その日は柩の側面が開放され、鉛製の柩全体が参拝者に公開されました。
鉛の柩の大きさは、長辺42.5cm 短編22.5cmであり、中には遺骨が固体と粉体になって、内部を満たしていますが、その損傷度合いが激しく、そのまま放置する事は遺骨の雲散消滅に繋がり兼ねない状況でした。
現在、サント・ドミンゴ大聖堂に静かに安置され、永遠の眠りについています。

 コロンブスによって発見された、アメリカ大陸、特にカリブ地方がその後、大航海時代を通じて如何様に変化し、又原住民から見たコロンブス(スペイン人)の姿、歴史家のその後の評価について、敢えて此処に書きません。

ジョークは如何?

先生がジョニーに尋ねた。
「ジョニー、ワシントンが『庭の桜の木を切ったのは僕です』と正直に告白した時、
ワシントンのお父さんは叱らずに許してやりました。なぜかしら?」
「はーい。ワシントンがまだ手に斧を持っていたからです」とジョニー


続く・・・

2015/09/02

歴史を歩く133

17ヨーロッパ世界の拡大・中南米よりインカ

太陽の処女

1太陽の王国

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ピサロの侵略経路

 コロンブスがアメリカ大陸に到達した頃、現在のメキシコから中央アメリカにかけてアステカ王国が、ユカタン半島を中心にマヤ王国が、そして南アメリカのアンデス山脈一帯にはインカ帝国(タワンティン・スーユ)が繁栄し、非常に高度な独自の文明を営んでいました。
インカの起源についての研究は、現在でも進められていますが、未だその成り立ちが確立されておらず、ケチュア族、アイマラ族の古くからの伝承によって、幾つかの説話が知られていますが、勿論歴史的事実として正式に認められている訳では在りません。

 ペルー共和国とボリビア共和国の国境を跨ぎ、アンデス山脈のアルティプラノ南部に位置するチチカカ湖(神の黄金の鉢)は、全長176km、最大幅46km、面積8,280平方km、標高3,810mに在り、南アメリカ大陸最大の湖であるばかりでなく、世界最高地点に位置する湖なのです。

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マンコ・カパック

 古来、この湖はインカ人にとって、最も神聖な地域の一つに数えられました。
この天上の湖の中に大小40余りの島が存在していますが、伝説によれば、インカ初代皇帝マンコ・カパック(Manco Capac)とその妻ママ・オクリョが、太陽神の命令でインカの国を建設する為、地上に降臨した際、初めて第一歩を踏み出した場所であり、嘗てこの二つの島は、金と銀で固められていたと云います。
太陽神の子として、国民から尊敬されたインカ皇帝は、この島に宮殿と太陽神の神殿を建立し、黄金の太陽神像を創り、朝夕2回、聖なる湖に捧げものを投じたと伝えられており、現在、島には考古学上重要な遺跡が存在していいます。

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チチカカ湖

 湖畔の土地は、耕作に十分は雨量を確保し、湖水の存在が冬季並びに昼夜の寒暖差を緩和する為、現在も多くのインティヘナが居住し、麦、ジャガイモ、とうもろこしを栽培し、リャマ、羊等を飼育しています。
ヨシの一種トトラ(バルサ)で作られた舟が一般に移動手段として用いられ、更に食料にも成っています。
チチカカ湖では、漁業も行われていますが、固有種は小魚が中心で、日本の援助でニジマスの養殖が行われています。

2マチュ・ピチュ

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マチュ・ピチュ

 古代インカ人は、優れた民族で太陽を神と崇め、偉大な文化を築き上げて発展しました。
9世紀初頭、ヨーロッパ全土が暗黒時代の頃、インカ人はアンデス山脈の東側に居住し、標高3,000m余りの高地に、石造りの都市を建設し、この場所を「マチュ・ピチュ(老いたる峰の町)」と名づけました。

 町には400戸程の家々や神殿、宮殿も造営され、神殿の祭壇は100トンを越える、一枚岩で造られています。
石材の組立てには、モルタル等の接着剤を用いず、石と石の隙間が殆ど判らない位、巧みに組み上げられ、1,000年以上を経過した現在も、少しの狂いも生じていません。
これ等の石材を採掘した石切り場は、600m下の峡谷の底に在り、その巨大な石材を階段状のテラスを持つ町の頂上に運び上げたのか、又、鉄製品を知らない彼らが、如何なる方法で石材を切断し、組み上げたのか、近代建築史上大きな疑問なのです。
この地に古くから住んでいる、インティヘナの人々は、古代インカ人は「天使の建築家」が作業を援助し、魔法の技術で峡谷を横切り、巨大な石を断崖の頂上まで運んだと云います。

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シンチ・ロカ

 200年の間、インカ人はマチュ・ピチュに居住しましたが、人口の増加に比例して、食料が不足した為、46km離れたアンデス山脈の西側に位置するクスコ高原に移住します。
スペイン人の記録によれば、12世紀初頭、マンコ・カパックの子シンチ・ロカ(Sinchi Roca)が、その妹ママ・クーラ(Mama Cura)を妻に迎え、当事クスコ渓谷に居住していたケチュア族(Quichua)の統治者と成り、彼もまた両親の様に、もはや神話上の人物では無く、既に歴史上の人物と成っていました。
ロカの孫マイタ・カパック(Mayta Capac、1195年~1230年)の時代と成ると、統治面積は更に広大と成り、更に第9代ハイナ・カパック(Huayna Capac,1438年~1471年)の時代、その領土は北部コロンビアから南はアルゼンチン北部乃至チリに達し、インカ帝国の最盛期を向かえ、人口は1,100万人を数えました。

 インカには文字が存在しませんでしたが、彼らは縄の結び目で数を記録する「キープ」と呼ばれる結縄文字を用い、その結び方や色で、意味を表しましたが、この方法を理解する為には、特別に教育を受けた専門家(キープカマヨ)が必要で、その数は限られたものでした。

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インカの吊り橋(現存するインカ時代の工法で設営された橋)

 インカは、道路、つり橋、灌漑設備、城砦、宮殿、神殿を設計し建造し、鉱物資源である金を用いて、色々な細工物や神像を創り、更にインカ人の崇拝する太陽に見立て、金の持つ光を太陽神の象徴として扱い、神殿には大量の黄金製品を置きました。
スペイン人はこの噂を伝え聞き、黄金を手中に収め様と考え、この事がインカや先のアステカ侵略の大目的でした。

 1531年1月、スペインのコンキスタドール、フランシスコ・ピサロは、三隻の帆船に165名の兵士と27頭の馬を乗せ、パナマを南下しペルーに向う途中、現在のエクアドル沖で遭難し、辛うじて小島に上陸して難を逃れます。
スペイン国王は、直ぐに二隻の帆船を急派し彼らを救助しますが、ピサロの求めたものは、救助ではなく征服への糸口でした。
彼は、海岸の砂の上に剣で一本の線を引くと其れを眺める部下達に言いました。
「諸君!この線の向こう側には、辛苦と空腹、不毛の地と暴風雨、荒廃と死が待ち構えている。しかし、其れを乗り越えたなら、計り知れぬ富を擁した場所が待っている。線のこちら側は、安易と快楽、家庭と貧困が待っている。諸君!祖先を辱しめぬ立派なカスティリア人(スペイン人)と成る最善の道を選べ!私は言う迄も無く南に行く!」
ピサロに続いて、13人の若者が之に従いました。

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一攫千金

 本国からの救助船は、ピサロを含めた14名を残し、旅立ちますが、大海原に浮かぶ小さな島には、食料も陸地に渡る舟すら無く、衣類も無ければ、武器も無く、更には之から向うインカに対する知識さえ在りませんでした。
只、インカ帝国に対して、自らが十字軍と成る事であり、ピサロは万難を排して13名の部下と共に海を渡り、インカ帝国攻略に立ち向かいます。

3太陽の乙女達

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太陽の乙女達

 ピサロが、現在のペルーの地に上陸し、アンデス山脈を登り始めた時、初めて白人に遭遇したインカの民は、彼らを伝説の白い人ビラコチャと思い、友好的な態度を示しました。
ピサロはこのインカ人の心情を巧みに利用し、インカ帝国第13代皇帝アタワルパ(Atahuallpa)を姦計にかけました。

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運命の瞬間・カハマルカ

 時に1533年11月16日、現在のペルー共和国北部に位置する、カハマルカ(Cajamarca)の町でピサロとアタワルパは会見の時を持ちます。
ピサロとビンセント・デ・バルベルデ神父らの随行者は、皇帝アタワルパとの会見に臨み、バルベルデ神父は通訳を通し、スペイン本国への服従とキリスト教への改宗とを要請した文面を読み上げますが、通訳障害の為、アタワルパは神父によるキリスト教の説明に困惑し、使節の意図を完全に理解できてはいなかったと言われています。
アタワルパは、ピサロの使節が提供したキリスト教信仰について更に質問を試みたが、スペイン人達は皇帝の随行者を倒し、皇帝アタワルパを人質として捕らえたのでした。

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黄金の身代金

 後日、皇帝アタワルパは、ピサロ一行がインカ帝国を訪れた本当の理由は、黄金に在ることを知り、今自分が軟禁されている部屋いっぱいの黄金と引き換えに、自由の身とされる事を申し出ます。
アタワルパが軟禁されていた部屋は、幅5.1m、長さ6.6m、高さ2.7mあり、1ヶ月後には、クスコの王宮や神殿、貴族から持ち込まれた黄金で、いっぱいに成りました。

 しかし、皇帝アタワルパはピサロの命令により、自由の身と成る代わりに、カハマルカの町の広場で、火刑の処せられましたが、インカ人は、皇帝をインカ=太陽神(神)と信じていた為、皇帝がスペイン人に殺されたのは、インカの民を見捨てて逃げ去ったのだと解釈し、反抗を止めてしまいます。

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アタワルパ

 ピサロの勢力は、先の13人に加え兵士154人、重火器1門、馬27頭でしたが、その戦力は皇帝アタワルパの率いる8万人のインカ軍を完全に凌駕していました。
ピサロを含めた14名の侵略者は、飽くことを知らず、略奪を繰り返して行きましたが、常に飢え、乾き、苦汁を強いられ、少しも状況は変わる事無く、彼らの内で最後まで生き残ったのは、3名に過ぎず、ピサロ本人は、アタワルパの身代金の内、57,000ペソの分け前を受けたものの、故国の土を踏む事は叶いませんでした。

 例えば、レギサーノと云う一騎兵は、戦利品の分け前として、インカ帝国の太陽神をかたどる、黄金品を手に入れましたが、たった一晩の博打ですっかり消えてしまい、以来スペインでは「フェサ・エル・ソル・アンテス・ケ・アマネスカ」(日の出前に太陽を使い果たす)と云う諺が有名に成りました。

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クスコ市街図(風の旅行者より)

 さてこれより先、クスコには一生を太陽神インカに仕える為、上流階級から選抜された清純な乙女達100人から成る「太陽の尼僧院」が存在していました。
ピサロの一隊は、クスコに入場するや、まずこの尼僧院を襲い、彼女達を虜にして隷属させ様と考えましたが、彼等がその場所に到着した時、既に一切の人間は残らず何処かに移動した後でした。
彼女達が、何処に身を隠したのか、全くの秘密とされ、誰も知る者も無く、恐らく太陽神の導きにより、何を逃れたのだろうと伝えられていました。

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ハイラム・ビンガム

 其れから400年の歳月が経過し、100人の乙女達の事も伝承の彼方に消え去ろうとしていた頃、1911年、偶然の事から、この伝承が真実として語られる時が、やって来ました。
1911年7月、アメリカ合衆国エール大学考古学教授 ハイラム・ビンガム博士(Dr Hiram Bingham)と同僚のハリー・ワード・フォート(Harry Word Foote)、ウィリアム・G・アービング(Willam G,Erving)と共に、ウルバンバ渓谷のインカ時代の遺跡を調査した際、現地人ガイド、メルコール・アルテガに導かれて、マチュ・ピチュ(老いたる峰の町)を発見しました。

 ガイドは、「或る古い高台」を望見する為に、博士一行を禁断の山の頂上に案内します。
ビンガム博士一行は、道の険しさに、幾度もその希望を棄て様と考えましたが、熱心なガイドに励まされ、ようやく禁断の山の山頂に立つ事が出来ました。
その場所こそ、インカの伝承に在る「天使の建てた町」でした。
町の中央に在る神殿に近い神聖な墓地から、什器備品に混じって173体にも及ぶ遺骨が発掘されましたが、その内150人迄が女性であり、彼女達こそ太陽神インティに仕えた「太陽の乙女達」であると信じられています。

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太陽の乙女達

 1533年、ピサロの一隊がクスコに入城した時、身の危険を察した「太陽の乙女達」は、太陽神インティに仕える神官の案内で、神殿からウルバンバ渓谷に逃れ、更に険しい山道を辿ってマチュ・ピチュに至り、下界との一切の交渉を断ち、その生涯をこの町で終えたのだと考えられています。

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伝説

 伝説は次の様に伝えています。
太陽の乙女達は、年と供にその美しさも衰え、次第に年を重ね、一人又一人と此の世を去って行き、やがては数人を残すのみと成りました。
更に年月は流れ、疲れ、衰え、世を忘れ、世に忘れられ、終に残った二人の内の一人が世を去って行きました。
たった一人に成ったその人は、最後の墓に友を葬ると、既に語る友も無く、廃墟の中にただ一人、遠くの川の囁きを聞きながら、その時を待つばかりでした。

 帝国の最盛期、人口1,100万人を誇ったインカの民も現在その人口は、極めて少数に成っています。
彼らは、嘗ての首都クスコ(現在の人口30万人)で、彼ら本来の言葉であるケチュア語もスペイン語に変わりましたが、そのインカの昔話はケチュア語で、伝承されています。
現在のクスコは、インカ時代の基礎の上にスペイン式の建造物が並ぶ街で、嘗ての黄金で装飾された神殿や王宮は存在しませんが、モロッコのフェス、インドのバラナシ、サウジアラビアのメッカ、イスラエルのエルサレムと同じく、「太陽神の都」であり「聖都」なのです。

 スペイン人は彼らから、全ての物を奪い去って行きました。
土地、自由、富、信仰の対象である太陽さえも。

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マチュピチュ遺跡の上空を飛ぶコンドル

ジョークは如何?

民主主義では,一歩進むために,一日をかける.

全体主義では,一歩進むために,一人を殺す.

共産主義では,一歩進むために,二歩下がる.


続く・・・