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2015/10/27

歴史を歩く146

19 絶対主義国家の盛衰⑥

5 フランスの宗教戦争と絶対主義(その2)

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ルイ14世(8歳)

 リシュリューの死の翌年にルイ13世も崩御し(1643年)、5歳のルイ14世(1638年~1715年、在位1643年~1715年)が即位し、母后が摂政となりますが、その摂政時代に実権を握った人物が名宰相のマザランです。

 マザラン(1602年~61年)は、イタリアに生まれ、教皇の外交使節となり、パリに派遣されてリシュリューの信任を得てフランスに帰化し(1639年)、リシュリューの死後その推薦によって宰相に就任(1642年)、ルイ13世の死後は摂政(母后)によって宰相に登用されました。

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ジュール・マザラン:Jules Mazarin, 1602年7月14日 - 1661年3月9日

 マザランはリシュリューの政策を継承し、国内ではフロンドの乱を鎮圧し、対外的には三十年戦争への介入を続け、巧みな外交手腕によってウェストファリア条約(1648年)でアルザスの大部分とヴェルダン・メッツ・トゥールを獲得しました。

 フロンドの乱(1648年~53年)は、ルイ14世が幼少であったことや外国人であるマザランへの反感、三十年戦争への介入による増税に対する市民の不満、リシュリュー次いでマザランに抑圧されてきた貴族の不満などが結びついて発生した反乱です。

 当初は高等法院の反抗が中心でしたが、後半には大貴族の反乱が中心となり、全国的な内乱に発展し、ルイ14世とマザランは一時パリを退去せざるを得なくなりますが(1651年)、マザランは反乱側の不一致に乗じて鎮圧に成功しています。

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フロンドの乱

 フロンドの乱は、フランス最後の貴族の反乱となり、その鎮圧によって貴族勢力は打倒され、結果的には王権が一層強化されることとなり、フランス絶対主義が確立しました。
 
 マザランが死去すると、ルイ14世は親政を宣言し(1661年)、以後宰相を置かず、自ら全権を握って政務に邁進し、やがて「太陽王」と呼ばれ、「朕は国家なり(国家、それは朕である)」と云う言葉にふさわしい強大な王権を築き、フランス絶対主義の極盛期を現出しました。

 内政では、コルベール(1619年~83年)を財務総監(長官)に任命し、商工業の育成と貿易の振興など典型的な重商主義を行い財政の充実に努めます。

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ジャン・バティスト・コルベール:Jean-Baptiste Colbert, 1619年8月29日 - 1683年9月6日

 コルベールは、毛織物商人の子に生まれ、マザランの推挙でルイ14世に登用され、財務総監(長官)に任命されました(在任1665年~72年)。
保護関税政策によって国内産業を保護・育成し、王立マニュファクチュアを設立し、叉東インド会社を再興して(1664年)貿易の発展・植民地獲得に乗り出し、そのために海軍力の強化にも努めました。コルベールが行った経済政策は典型的な重商主義で、コルベール主義(コルベールティズム)と呼ばれ、重商主義の代名詞と成っています。

 ルイ14世は、パリの南西約20kmのヴェルサイユに壮大な宮殿を造営して王宮としました。
ヴェルサイユには、ルイ13世の狩用の仮泊所が建てられていましたが、ルイ14世は改築から20数年を要して(1661年~82年)豪壮な宮殿を造営し、ここに宮廷を移したのです。

ヴェルサイユ宮殿
ヴェルサイユ宮殿:16世紀初頭

 ヴェルサイユ宮殿はバロック式の代表的な建築で、豪華な室内装飾と広大な庭園で有名で、そこには国王の廷臣と化した貴族が集まり、日夜舞踏会やオペラ・演劇が演じられ、ヴェルサイユ宮殿はヨーロッパの外交・文化の中心となり、フランス語はヨーロッパの国際語と成りました。
ラシーヌ、モリエール等に代表されるフランス古典主義文学もヴェルサイユ宮殿を中心に発展します。

 カトリック教徒であったルイ14世は、絶対王政を強化するために、ユグノーを弾圧し、1685年にナントの勅令を廃止しましたが、このルイ14世最大の失政と云われるナントの勅令の廃止によって、20~30万人に及ぶユグノーが国外に逃亡しました。
ユグノーには商工業者が多く、彼等の逃亡はフランスの産業・経済に深刻な打撃を与え、ルイ14世晩年の財政窮乏の大きな原因となったのでした。

 対外的には、充実した国力とヨーロッパ最強の陸軍を擁する強大な軍事力を背景に、ハプスブルク家の打倒を目標として自然国境説(大西洋・ライン川・アルプス山脈・ピレネー山脈の内側はフランスの領土であるべきだとの考え方)を口実に、しばしば隣国に侵略戦争を行い領土の拡大を図っています。

マリーテレーズ
マリア・テレーズ

 スペインでフェリペ4世が崩御すると(1665年)、ルイ14世はスペイン領ネーデルラントの継承権が王妃マリア・テレーズ(フェリペ4世の娘)にあると主張して南ネーデルラント継承戦争(1667年~68年)を引き起こしてフランドルに出兵しますが、フランスの進出を恐れるオランダがイギリスと同盟して調停に乗り出し、アーヘンの和約(1668)が結ばれ、フランスはフランドルの一部を得たに留まります。

 南ネーデルラント継承戦争の際に、オランダが妨害したとして、その報復のために突如出兵しますが(オランダ侵略戦争(1672年~78年))、各国の反対とオランダの激しい抵抗に遭い、ナイメーヘンの和約(1678年・79年)が結ばれ、この和約によってオランダは全領土を回復し、フランスはスペイン領のフランシュ・コンテとフランドル南部のいくつかの都市を獲得するに留まっています。

 更にドイツのファルツ選帝侯の継承権を主張して大規模な侵略戦争であるファルツ継承戦争(アウグスブルク同盟戦争、1689年~97年)を引き起こし、当初フランスはファルツ伯領に侵入し、破壊・掠奪・放火を行い、ファルツ伯領を蹂躙しますが、ヨーロッパ諸国がアウグスブルク同盟(オランダ・神聖ローマ皇帝・ドイツ諸侯・スペイン・スウェーデンの同盟に後にイギリスも参加)を結んでフランスに対抗したため、 フランスはライスワイク条約(1697年)を結んで、ナイメーヘンの和約以後に獲得した領地を返還することと成りました。

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ルイ14世の侵略戦争

 ルイ14世の侵略戦争は莫大な戦費を使いながら、得たものは僅かで、その戦費の負担が晩年の財政窮乏の大きな原因となったのです。

 ルイ14世の侵略戦争のうち最後にして最大の戦争がスペイン継承戦争(1701年~13年)です。
スペインでカルロス2世(在位1665年~1700年)が崩御し、病弱で子供がなかったカルロス2世の遺言によってルイ14世の孫のフィリップがフェリペ5世(在位1700年~24年、24年~46年)として即位しました。

 これに対して、オーストリア・イギリス・オランダは、同じブルボン家のスペインとフランスが合同すれば、海外の植民地を併せて飛び抜けた強大な王国が出現することになり、ますます侵略の恐怖に曝されることになるとして、同盟を結んで反対し、スペイン継承戦争が勃発しました。

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スペイン継承戦争;ライミの戦い

 戦争は、当初フランスが優勢でしたが、1704年頃からは同盟国側が優勢となり、1706年にはマドリードが陥落してフェリペ5世が一時追放されます。
しかし、1710年頃からフランスが再び勢力を盛り返し、叉フェリペ5世の対立候補として同盟国側が推していたカールが神聖ローマ帝国ヨゼフ1世の死によってカール6世として即位したこともあり(1711年)、1713年にユトレヒト条約が結ばれて戦争は終結しました。

 このユトレヒト条約によって、フランスとスペインが合併しないことを条件にフェリペ5世の王位継承が承認され、スペイン継承戦争の際に、英仏は北米でアン女王戦争(1702年~13年)を戦っていますが、植民地に関してはイギリスがフランスからニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方を獲得することが認められ、叉イギリスがスペインからジブラルタル・ミノルカ島を獲得することも認められています。

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フェリペ5世

 ルイ14世は、孫のフェリペ5世をスペイン王に就ける事で面目を保ちましたが、北米の植民地を失って植民地争いで大きく後退することとなり、結局イギリスがユトレヒト条約で最大の利益を得た国家と成りました。

 ルイ14世の時代は、フランス絶対主義の極盛期・フランスの黄金時代であり、フランスはヨーロッパ一の強国となり、ヨーロッパの政治・外交・文化の中心と成りましたが、度重なる侵略戦争や宮廷の浪費、特にルイ14世の最大の失政といわれるナントの勅令の廃止(1685年)によってユグノーの商工業者が大量に国外に亡命してフランス経済は大打撃を受けたこと等によって、王の晩年には国家財政が窮乏し、国民は重税に苦しむようになっていたのでした。

 このため、ルイ14世が72年に及ぶ治世の末に崩御し、曾孫のルイ15世が即位しますが、次のルイ16世の時代にかけて国家財政は益々悪化し、後のフランス革命の原因と成っていきます。

ジョークは如何?

飲んべぇが3人、いつものように酒場で飲んでいました。

アイルランド人がぽつりと言いました。
「実は、俺はもうすぐ病気で死んでしまうんだ。俺が死んだら、
俺の墓石にこの銘柄のウイスキーをグラス一杯かけてくないか?」
イギリス人はこう答えました。
「ああ、もちろんだとも。毎年命日には必ずかけてやるよ」

スコットランド人が言いました。
「俺もかけてやるよ。・・・ただ、腎臓を一回通してからでいいかな?」


続く・・・

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2015/10/23

歴史を歩く145

19 絶対主義国家の盛衰⑤

5 フランスの宗教戦争と絶対主義(その1)

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ヴァロア朝シャルル8世

 フランスでは、百年戦争末期に即位したシャルル7世(在位1422年~61年)、そしてシャルル8世(在位1483年~98年)の治世に中央集権化が進み、国民国家が形成されてきました。

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ヴァロア・オルレアン家ルイ12世

 しかし、シャルル8世の死によって直系ヴァロア朝が断絶し、ヴァロア・オルレアン家のルイ12世(在位1498年~1515年)が即位します。

 ヴァロア・オルレアン朝(1498年~1589年)の第2代国王フランソワ1世(在位1515年~47年)は、神聖ローマ皇帝位をカール5世と争って敗れ、以後イタリアをめぐって激しい対立を繰り返し(イタリア戦争)ますが、フランソワ1世治世の間にフランス・ルネサンスが栄え、王権は更に伸張します。

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1600年「カトリーヌ・ド・メディシスの婚礼」 Jacopo di Chimenti da Empoli ヤコポ・ディ・キメンティ・ダ(1551-1640)

フランソワ1世の死後、アンリ2世(1519年~59年、在位1547年~59年)が即位ますが、アンリ2世の妃が有名なカトリーヌ・ド・メディシス(1519年~89年)です。
 
 カトリーヌ・ド・メディシスは、フィレンツェの名門メディチ家のロレンツォ・ド・メディチ(大ロレンツォ)の曾孫として生まれ、生後1ヶ月経たぬうちに両親を失い、叔母に預けられてローマ、フィレンツェで過ごし、1533年にオルレアン公アンリ(後のアンリ2世)と結婚しました。
夫の死後、長男のフランソワ2世(1544年~60年、在位1559年~60年、彼の妃がメアリ・ステュアート)が即位しますが早世し、次男のシャルル9世(1550年~74年、在位1560年~74年)が即位すると母后カトリーヌは摂政の地位に就きます。

 この間、宗教改革の影響は旧教国フランスにも波及し、1540年代後半頃からカルヴァン派が普及し、国民の約3~5%の人々がカルヴァン派に改宗したと云われています。
アンリ2世は統一を維持するためにカルヴァン派に厳しい迫害を加えますが、その数は減少することは在りませんでした。
フランスのカルヴァン派の人々はユグノーと呼ばれ、都市の商工業者の他に、一部の有力な貴族にも広まり、ユグノー(新教徒)とカトリック教徒(旧教徒)の対立は宮廷をめぐる貴族の政争と結びついて内乱に発展して行きます。

 母后カトリーヌは、ユグノーとカトリックの勢力均衡によって王権の安定を図ることを考え、ユグノーに対して私的集会での礼拝の自由を認める等ユグノー抑圧策を緩和しました。

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ユグノー戦争:カルヴァン派によるリヨン教会の略奪

 これに対してカトリック側は態度を硬化させ、旧教派の中心人物であったギーズ公の兵士達が礼拝中のユグノーを攻撃して20数人を殺戮する出来事が発端と成り、終にユグノー戦争(1562年~98年)と呼ばれる宗教戦争が勃発します。

 内乱が長引くと、母后カトリーヌは新旧両教徒の調停を図り、シャルル9世の妹マルグリートとナヴァル王アンリ(ユグノーの中心人物の一人、後のアンリ4世)との結婚を成立させた為、一時講和が成立しました(1570年)。

 1572年8月、マルグリートとナヴァル王アンリとの結婚式(8月19日に行われた)を祝って旧教派貴族はもちろん、多くの新教派貴族も続々とパリに参集します。

 母后カトリーヌは、この機会にシャルル9世の心を捕らえて対スペイン戦争を企てたユグノーの首領コリニーの排除を目論み、旧教派のギーズ公アンリ(1550年~88年)と結んでサン・バルテルミの大虐殺を実行しました。

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虐殺跡を視察するカトリーヌ・ド・メディシス

 1572年8月24日(サン・バルテルミの祭日の日)の未明、ギーズ公アンリの兵は鐘を合図にコリニーを急襲して殺害し、予め印がつけられていた新教派貴族の宿舎を次々と不意打ちし、3日間にわたって約3000人のユグノーを虐殺しました。
ナヴァル王アンリは改宗して殺戮を免れ、宮中に監禁されたが、後に脱走しています(1576年)。

 この有名なサン・バルテルミの大虐殺後、各地でユグノーによるカトリック教徒への復讐が行われ、内乱は再び激化し、この間、旧教徒側をスペインが、新教徒側をイギリスが援助し、ユグノー戦争は国際戦争の様相を呈しました。

 シャルル9世はサン・バルテルミの大虐殺の2年後に崩御し、弟のアンリ3世(1551年~89年、在位1574年~89年)が即位すると、旧教派のギーズ公アンリ及び脱走後再びユグノーに戻ったナヴァル王アンリの三つ巴の争いに発展します(3アンリの戦い)。

 アンリ3世は、王位を窺うギーズ公アンリを暗殺しましたが(1588年)、彼自身も旧教徒に暗殺され(1589年)、ここにヴァロア朝は断絶します。

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ナヴァル王アンリ

 アンリ3世の死後、ブルボン家のナヴァル王アンリが即位してアンリ4世(在位1589年~1610年)となり、ブルボン朝(1589年~1792年、1814年~30年)を創始しました。

 しかし、パリ市民をはじめとする旧教徒はユグノーであるアンリ4世を王として認めず、 アンリ4世は政治的配慮からカトリックに改宗し(1593年)、1598年にナントの勅令を発布してユグノーに対し信仰の自由を認めました。

 ナントの勅令でユグノーは信仰の自由と公職につくことも認められますが、公的な場所での礼拝はパリでは禁止する等の条件が付加され、カトリック教徒に比べると不平等な状況では在りましたが、ナントの勅令の発布によって30年以上に及んだユグノー戦争は終結します。

 アンリ4世は混乱した国内治安の回復、弱体化した王権の再興、特に疲弊した国家財政の再建に取り組み、農業の振興など国力の回復に努め、叉対外的には国内の再建のために平和政策を推進し、1604年には東インド会社を設立し、北米にケベックを建設するなど海外進出を進めますが、アンリ4世自身も狂信的な旧教徒に暗殺されてしまいます(1610年)。

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フランス王国とナヴァール王国を表わす擬人像の間のルイ13世

 父アンリ4世が暗殺されことから、ルイ13世(在位1610年~43年)が9歳で即位した結果、母后のマリ・ド・メディシスが摂政に就き、彼女はリシュリューを用いて貴族を抑え、親政を始めたルイ13世と対立して追放されました(1617年)。

 この間、マリ・ド・メディシスは1614年に三部会を召集したが、第1身分(僧侶)・第2身分(貴族)と第3身分(平民)の利害が対立して混乱したために、三部会は1615年に解散され、以後フランス革命の直前の1789年まで召集されず、無議会の状態が続く結果と成りました。

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フランス王国宰相アルマン・リシュリュー公爵

 ルイ13世は、1617年に親政を開始しますが、政治の混乱が続き、1624年にリシュリューを宰相に任命して王権の確立を図ります。

 リシュリュー(1585年~1642年)は、地方貴族の次男に生まれ、聖職につき(1606年)、聖職者の代表として出席した三部会で政治家としての才能を認められ、母后マリ・ド・メディシスに登用されましたが、ルイ13世の親政開始によって失脚していました。
しかし、その後復帰してルイ13世の宰相となり(1624年)、死去する迄その地位に留まり名宰相と謳われ、フランス絶対主義の確立に努めました。

 リシュリューは、王権の伸張とフランスの国際的地位の向上を目指し、内政では貴族とユグノーの勢力を抑圧し、対外的にはハプスブルク家打倒に全力を注ぎました。

 1628年にはユグノーの最大の拠点ラ・ロシェルを陥れてユグノーの勢力を挫き、叉三部会を開催せず、高等法院(フランスの最高司法機関で王令審査権を持ち、貴族の牙城であった)の権限を縮小し、貴族の反乱を鎮圧して貴族勢力の抑圧に努めたのでした。

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マリー・ド・メディシス:フィレンツェからマルセイユに到着

 対外的には、スペイン・オーストリアの両ハプスブルク家に対抗するために、旧教国であるフランスがドイツの新教徒や新教国(ルター派)のスウェーデンを援助して、隣国ドイツでおこった三十年戦争(1618年~48年)に介入し、1635年にはスウェーデンと同盟を組みスペインに宣戦して直接介入を行い、フランスの国際的地位の向上を図りますが、彼自身は三十年戦争の終結を待たずに死去しています。

ジョークは如何?

冷戦時代、東ドイツ陸軍は4個戦車師団と6個機械化歩兵師団を保有し
ソ連は30個師団を東ドイツに駐屯させていた。

この配備を見た西側の専門家は「第3次世界大戦ではソ連軍と東ドイツ軍が一緒になって攻めてくる」と判断していたが、
内実は東ドイツ軍1個師団をそれぞれソ連軍3個師団が包囲するように配置されていた。


続く・・・

2015/10/16

歴史を歩く144

19 絶対主義国家の盛衰④

4 イギリスの興隆

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テューダー朝の家系図

 イギリスは、ばら戦争後、テューダー朝(1485年~1603年)のヘンリ7世(在位1485年~1509年)の時代に王権が強化され、絶対主義の基礎が固められました。
次いで宗教改革を行ったヘンリ8世(在位1509年~47年)によって王権はさらに強化され、エリザベス1世(1533年~1603年、在位1558年~1603年)の時代にイギリス絶対主義は全盛期を迎えます。

しかし、イギリスの絶対主義は フランスに比べ、強力な官僚制や常備軍が整備されず、州の有力者であるジェントリ(地主階級)の勢力が強かったのです。

 エリザベス1世は、ヘンリ8世の第2王妃アン・ブーリンの子として生まれましたが、3歳の時に母が刑死したため、以後メアリ1世によってロンドン塔に幽閉される等苦難の時代を送りますが、ヘンリ8世の遺言によってエドワード6世、メアリ1世に次ぐ王位継承者となり、メアリ1世の死によって、25歳で即位します。

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即位以前のエリザベス・チューダー

 エリザベス1世は、即位の翌年(1559年)に首長法(首長令)・統一法(統一令)を発してイギリス国教会制度を確立しました。
又その頃イギリスの国民的産業になっていた毛織物工業を保護・育成し、大商人に独占権を与えて国家財政の充実に努め、更にエリザベス1世は私拿捕船(しだほせん、商船捕獲の特許を受けた民有武装船、一般に知られる海賊船)を保護し、ホーキンズやドレーク等を援助しました。
私拿捕船は、新大陸のスペイン植民地と密貿易を行い、新大陸から大量の銀を本国に運ぶスペインの銀船隊を襲撃して巨利を得るのですが、スペインのフェリペ2世は私拿捕船の取り締まりを女王に再三要請するのですが、女王はこれを無視し続けます。

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エリザベス1世よりナイトに列せられるフランシス・ドレイク

 ドレーク(1543年頃~96年)は、有名なイギリスの海賊で後にイギリス海軍提督となった人物ですが、ホーキンズ(イギリスの海賊、黒人奴隷貿易で巨富を得た、後にイギリス海軍提督となる)の船団に参加し、私拿捕船の船長として各地を航海しました。
エリザベス女王から特許状を得て、女王の援助のもとに5隻の船団を率いて西回り航路に出発し、2年10ヶ月費やしてイギリス人としては初めて世界周航(1577年~80年)に成功しました。
途中至る所でスペイン船を襲って莫大な財宝を満載して帰国し、女王からサーの称号とナイトの位を与えられ、後にホーキンズと共にスペイン無敵艦隊撃滅(アルマダの海戦)に大活躍します。

 又エリザベス女王は当時起こったオランダ独立戦争を援助した結果、スペインのフェリペ2世はイギリス国内のカトリック教徒と図りメアリ・ステュアートの擁立を画策します。

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死刑宣告を受けるメアリ・スチュアート 
 
 スコットランド女王メアリ・ステュアート(1542年~87年、在位1542年~67年)は、父王の死によって生後6日で王位に就き、フランス王フランソワ2世と婚約し(1548年)、10年間フランスの宮廷で養育された後に結婚しました(1558年)。
しかし、夫が早世したために帰国し(1561年)、カトリック教徒のダーンリ卿と再婚し(1565年)、これに反対した新教貴族を弾圧し、その後夫を暗殺したボスウェル伯と結婚したために(1567年)、国内で反乱が起こり、子のジェームズ6世に譲位しますが監禁され、翌年脱出してイングランドに逃亡してエリザベス1世に保護を求めますが、かってエリザベス1世即位の際に王位継承権を主張して対立したこともあり、エリザベス世によって19年間にわたり監禁され、各地を転々とした後、彼女はカトリックの中心人物とみなされていたことから、カトリック教徒による女王暗殺の陰謀に加担したとの疑いで斬首されました(1587年)。
このメアリ・ステュアートの処刑がフェリペ2世による無敵艦隊派遣の直接原因となったのです。

 フェリペ2世は、1588年に無敵艦隊をイギリスに向けて出動させますが、イギリス海軍はアルマダの海戦(1588年)で無敵艦隊を撃破し、以後イギリスが海外に発展していく道を開きます。

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船乗りの冒険談に聞き入る少年時代のウォーター・ローリー(左の少年)

 エリザベス女王は多くの独占貿易会社を設立しましたが、特に1600年に設立された東インド会社は喜望峰からマゼラン海峡に至るアジア全域での貿易独占権を与えられた国策貿易会社で、イギリスのアジア進出、特にインドへの進出及びその植民地化に重要な役割を果たすことに成ります。
又新大陸へも進出し、寵臣ウォーター・ローリー等はイギリス北米最初の植民地であるヴァージニア植民地(「処女王」と呼ばれたエリザベス女王にちなんで命名された)を創設しますが失敗に終わっています。

 45年間にわたるエリザベス1世統治時代に、イギリスはそれまでの二流国からヨーロッパの強国に成長し、イギリスは繁栄期を迎えました。

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エドモンド・スペンサー

 この繁栄を背景に、シェークスピアやエドモンド・スペンサー(イギリスの代表的な詩人の一人)等が活躍します。

 エリザベス1世は、「私は国家と結婚している」と述べて、各国君主の求婚を全て退けて生涯独身を貫いたので「処女王」と呼ばれ、その結果エリザベス女王が崩御すると同時にテューダー朝は断絶し、遠縁にあたるスコットランドのジェームズ6世(イギリス王としてはジェームズ1世)がイギリス王位を兼ねてステュアート朝(1603年~49年、1660年~1714年)を開きます。

ジョークは如何?

1920年、英国の自由党と保守党の戦時連立政権は議会で勢力を保っていた。
ある自由党議員が労働党に鞍替えしたとき、チャーチル(保守党)はこう言った。

「沈みつつある船に向かって泳いでいくネズミというのを初めて見たよ」


続く・・・

2015/10/13

歴史を歩く143

19 絶対主義国家の盛衰③

3 オランダの独立

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ネーデルラント地域

 ネーデルラントは、「低い地方」の意味で、現在のオランダ・ベルギー・ ルクセンブルクを中心とする地方の総称です。
ネーデルラントの南部、現在のベルギーを中心とする地方はフランドル地方と呼ばれ、中世以来毛織物工業が発達し、ガン・ブリュージュ・アントワープ等の都市が繁栄してきました。
ネーデルラントは、1477年に血縁関係によりハプスブルク家所領となり、カール5世の死後、フェリペ2世の支配下におかれることと成りました。

 商工業が発達し、都市が繁栄していたネーデルラントにはカルヴァン派が普及し、ゴイセン(乞食の意味)と呼ばれたカルヴァン派の新教徒が多く居住したいました。

 熱烈なカトリック教徒であったフェリペ2世は、ネーデルラントに対しても厳しいカトリック政策を推進して新教徒を圧迫し、叉都市の自治権を奪い、重税を課して行きました。
このようなフェリペ2世の政策に対してネーデルラント民衆は教会を襲撃し、聖像を破壊する等の行動に出、次第にその動きは各地に広まっていったのです。

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左はアルバ公。右は、アルバの鎖に繋がれた女性たちがネーデルラント各州を示し、奥では次に拡大するような処刑が行われている、アルバの圧政を示す絵画。

 フェリペ2世は、アルバ公を派遣して新教徒を徹底的に弾圧しました。
アルバ公は1567年~73年の6年間にわたりフランドル総督として、残酷な宗教裁判と重税でネーデルラントの民衆を苦しめます。

 エグモント伯(ベートーベンの「エグモント序曲」で有名)は、オラニエ公ウィレム・ホルン伯らとネーデルラント独立運動を起こしますが、ホルン伯と共にアルバ公に捕らえられて処刑され(1567年)、この出来事がオランダ独立戦争の導火線と成りました。

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オレンジ公ウィリアム:1533年~84年

 ネーデルラントは、オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム、1533年~84年、独立後の初代総督(任期1579年~84)年)を指導者として、1568年についに独立戦争が勃発します(オランダ独立戦争、1568年~1609年)。

 スペインは大軍をもって次々と都市を攻略し、破壊と略奪を繰り返し、ネーデルラントのある町は堤防を破壊してスペイン軍の進撃を阻み、ライデン市は6ヶ月にわたる防戦の末についにスペイン軍を撃退する等抗戦を続けました。
叉アルバ公の圧政を逃れて国外に亡命していたカルヴァン派の人々は「海の乞食団(ゼー・ゴイセン)」を結成し、イギリスの援助を受けながらスペイン船に対するゲリラ戦を展開します。

 オラニエ公ウィレムは、ネーデルラントの全州が団結してスペインに抵抗する同盟を成立させ(1576年)ますが、一方スペインはネーデルラントの南北の諸州の間に民族・言語・宗教・産業等に相違があることを利用して南北離間を謀ります。

 北部7州(現在のオランダ)の民族はゲルマン系で、言語もドイツ系であり、造船・中継貿易・農業が主な産業であり、宗教はカルヴァン派の新教徒が多く、これに対して南部10州(現在のベルギー)は、民族はラテン系、言語もフランス語系、産業は毛織物工業・牧畜が主で、宗教はカトリック教徒が多く居住したいました。

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ブレダの開城:ベラスケス

 そこでスペインは、カトリック勢力が強い南部10州を懐柔し、北部と切り離すことに成功し、南部10州は終にスペインと和平を結んで独立戦争から離脱します(1579年)。
南部10州は、北部の独立後もスペイン領(ハプスブルク家領)に留まり、1830年にベルギーとして独立することに成ります。

 しかし、北部7州はユトレヒト同盟を結び(1579年)、オラニエ公ウィレムの基で抗戦を続け、1581年にネーデルラント連邦共和国(オランダ)の独立を宣言します。
この国は連邦の中心となったホラント(Holland)州の名前をとって一般にはオランダと呼ばれています。

 オラニエ公ウィレム(ウィレム1世)は、独立後初代オランダ総督(統領)(ネーデルラント連邦共和国の最高官職)に就任しますが、スペインに姦計によりカトリック教徒によって暗殺され(1584年)、ウィレム1世の死後、オランダ総督の地位はオラニエ(オレンジ)家が世襲しました。

 オランダが独立を宣言した後も、スペインはオランダの奪回に努め、特に1585年には当時最も繁栄していたアントワープを占領して徹底的な略奪・破壊を行い、アントワープは以後衰退し、替わってアムステルダムが政治・経済・文化の中心になっていきます。

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クロート・マルクトと世界遺産・聖母大聖堂(現在)

 当時、スペインのフェリペ2世はイギリスのエリザベス1世と激しく対立しており、エリザベス女王は私拿捕船を保護して新大陸から銀を輸送するスペインの銀船隊を襲撃させ、叉オランダの独立戦争を援助していた為、フェリペ2世はイギリス国内のカトリック教徒と結んで、前スコットランド女王メアリ・ステュアートの擁立を謀るものの失敗に終わり、メアリ・ステュアートは処刑され(1587年)ます。

 更なる対抗手段としてフェリペ2世は、エリザベス女王打倒とオランダ独立軍の鎮圧を意図して、スペインの誇る無敵艦隊をイギリスに向けて出動させますが、アルマダの海戦(1588年)で大敗北を喫します。

 無敵艦隊の敗北後も、フェリペ2世はオランダの奪回に努めますが1598年に没し、スペインは終に1609年にオランダと12年間の休戦条約を結び、この休戦条約によってオランダは事実上独立果たす形に成りますが、オランダ独立が国際的に承認されるのは三十年戦争後に結ばれたウェストファリア条約(1648年)迄待たねば成りませんでした。

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オランダ船対バルバリ海賊船の海戦

 17世紀は「オランダの世紀」と呼ばれています。

 オランダは、既に15世紀末からハンザ同盟諸都市の衰退の後、北海・バルト海に於ける仲介貿易に進出して富を蓄えており、叉オランダ商人はリスボンで東洋の香辛料等を買い付け、それを北欧で売って利益を得ていましたが、独立戦争が始まるとオランダ商人はリスボンから閉め出された結果、密貿易に転向し、更に直接東洋貿易や新大陸貿易に進出するように成って行きました。

 1602年に設立された東インド会社は、東洋との貿易独占権を与えられて東南アジアに進出して、17世紀初頭にはアンボイナ(香料諸島と呼ばれたモルッカ諸島の中心地)をポルトガルから奪取して香辛料貿易を独占し、ポルトガル・スペインの勢力を東洋から駆逐します。
叉1621年には西インド会社が設立され、アフリカ西岸と新大陸との貿易に活躍し、北米にニューネザーランド(ニューネーデルラント)植民地を建設しました。

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オランダ・アジア植民地

 この間、独立戦争から脱落した南部10州の毛織物業者の多くはオランダやイギリスに移住した結果、オランダでも毛織物工業が発達するように成ります。

 こうしてオランダはポルトガル・スペインに代わって世界商業の覇権を握り、首都アムステルダムはアントワープに代わって国際金融の中心に成長し、オランダは16世紀末から17世紀末の約1世紀にわたって全盛期を迎えました。

 文化面でも、画家レンブラント・哲学者スピノザ・法学者グロティウス等優れた人物が活躍します。

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レンブラント・「夜警」

 しかし、オランダは仲介貿易に重点を置く経済構造であった事、特権的大商人の力が強かった事、毛織物工業に於けるマニュファクチュアの発展がイギリスより遅れていた事等の弱点を抱えており、17世紀後半にはイギリスとの3回にわたる英蘭戦争(イギリス・オランダ戦争)に敗れて衰退に向かい、その繁栄は続きませんでした。

ジョークは如何?

ポーランド人が鶏小屋に忍び込んだ
人気を察した飼い主が銃を構えて呼びかけた

「おい!そこに誰かいるのか?」
「誰もいません旦那様、おらたち鶏だけでがす」


続く・・・

2015/10/09

歴史を歩く142

19 絶対主義国家の盛衰②

2 スペインの強盛

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フェルナンド5世とイサベル1世

 スペインは、1479年にアラゴンとカスティリャの合邦によって成立し、合邦後はフェルナンド5世(在位1479年~1516年)とイサベル(在位1474年~1504年)が共同統治を行いました。

 この間、イスラム勢力をイベリア半島から駆逐してレコンキスタが完了し、叉コロンブスの航海を援助し、新大陸に広大な植民地を建設する基盤がつくられたのです。

 フェルナンド5世の崩御後、娘のファナ(ハプスブルク家のフィリップと結婚)の子カルロス1世(在位1516年~56年)が即位し、スペイン・ハプスブルク王朝が始まりました。

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カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)

 カルロス1世は、フランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝位を争い、これを破って神聖ローマ皇帝に選出され(1519年)、スペイン王と神聖ローマ皇帝を兼ねた結果(神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519年~56年)、その領土はスペイン・ネーデルランド(現在のオランダ・ベルギー、1477年以来オーストリア・ハプスブルク家が領有していた)・ナポリ・シチリア(ナポリ・シチリアは父フェルナンド5世から相続)・ドイツ・オーストリア・新大陸に及び、空前の大帝国に成長しました。

 しかし、当時ドイツで起こったルターの宗教改革に巻き込まれ、対外的にはフランソワ1世とのイタリア戦争(1521年~44年)やオスマン・トルコの侵入に苦しめられることに成ります。

 カルロス1世の治世中、スペインではマガリャンイス(マゼラン)の世界周航(1519年~22年)やコルテスのメキシコ征服(1521年)・ピサロによるインカ征服(1532年)等の出来事が起きています。

 カルロス1世(カール5世)は、ドイツでアウグスブルクの和議が結ばれてルター派の信仰が認められた翌年(1556年)に、スペイン王位を子のフェリペ2世に、そして神聖ローマ皇帝位を弟のフェルディナント1世に譲って退位し、スペインの修道院で失意のうちに余生を送り、1558年に亡くなっています。

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フェリペ2世

 カルロス1世の後を継いだフェリペ2世(在位1556年~98年)の時に、スペインの絶対主義は最盛期を現出しました。

 フェリペ2世は、熱烈なカトリック教徒で、イギリスのメアリ1世と結婚し(1554年)、その後父の退位によってスペイン王となり、スペイン本国・ナポリ王国・ネーデルランド・アメリカ大陸及びフィリッピンの植民地等広大な領土を領有することと成りました。

 更にポルトガルの王統が絶えると、母イサベルがポルトガル王女であったことからポルトガルを併合し(1580年)、ポルトガル王を兼ねてその領土(当時のポルトガルはアフリカ・アジアに多くの植民地を領有していた)も継承し、スペインは「太陽の沈まぬ国(日の没することなき大帝国)」と呼ばれたのでした。

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レパントの海鮮(位置)

 フェリペ2世は、1571年にはスペイン・ローマ教皇・ヴェネツィア連合艦隊でオスマン・トルコ海軍をレパント(ギリシアのコリント湾)の海戦で破って地中海の覇権をトルコから奪い、新大陸から流入する膨大な金・銀とあいまってスペインの全盛時代を現出しました。

 しかし、熱狂的なカトリック教徒であったフェリペ2世は、反宗教改革の中心となり、カトリック政策(旧教化政策)を推し進め、カトリックによる広大な領土の統一を図り、宗教裁判を強化し、異端を弾圧し、 特にカルヴァン派が普及していたネーデルランドに対して厳しいカトリック政策をとり、 ネーデルランド(オランダ)の独立運動(1568年~1609年)を招くこととなりました。

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ネーデルランド(オランダ)の独立運動

 当時、フェリペ2世はイギリスのエリザベス1世と激しく対立していました。
エリザベス女王がイギリスの私拿捕船(しだほせん、商船捕獲の特許を受けた民有武装船、俗に云う海賊船)に特許を 与えて新大陸から大量の銀を輸送するスペインの銀船隊を襲わせたこと、前スコットランド女王のメアリ・ステュアートをめぐる問題、そしてイギリスがオランダの独立運動を援助したこと等が原因でした。

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1587年フォザリンゲイ城にて処刑されるメアリー・スチュアート

 そしてメアリ・ステュアートがエリザベス女王暗殺の陰謀に加担したとの疑いから 処刑されると(1587年)、フェリペ2世はエリザベスを打倒してカトリック君主の擁立を画策し、1588年にスペインの誇る無敵艦隊(インヴィンシブル・アルマダ:当時世界最大であったスペイン艦隊の呼称)をイギリスに向けて出動させます。

 1588年7月、イギリス海峡に130隻(内半分が戦闘艦で残りは弾薬・食糧等を運ぶ輸送船)からなる無敵艦隊が姿を現しました。
イギリスは種々雑多な102隻の戦闘艦(この中には多くの私拿捕船を含まれる)を動員してこれを迎え撃ちます。
イギリス艦船は速度が速く、軽い砲弾を遠くに飛ばせる大砲を多く積み込んでいました。

 イギリス海軍は、イギリス海峡を通過する無敵艦隊を追って、カレー沖に集結し、無敵艦隊に焼き打ち船作戦(空船に火薬を満載して大砲を発射しながら敵艦につっこんでいく 作戦)を使って攻撃を行い、混乱に陥った無敵艦隊との6日間にわたる戦闘に大勝し、逃走する無敵艦隊をスコットランド沿岸迄追撃して引き返しています。
壊滅状態に陥った無敵艦隊は、スコットランド・アイルランドを迂回してかろうじて本国に帰還しますが、53隻の艦船と3分の1の人員を喪失しました(アルマダ海戦、1588年)。

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アルマダ海戦、1588年

 このアルマダ海戦の敗北によって、スペインは大西洋の制海権を失い、叉オランダ独立軍を鎮圧する計画も挫折してスペインが衰退に向かう原因となります。

 フェリペ2世治下のスペインには新大陸から膨大な金・銀(特に銀)が流入していましたが、宮廷の奢侈と巨額な戦費につぎ込まれ、王室財政は破綻状態に陥っていました。
度重なる重課税にも関わらず財政窮乏は回復せず、新大陸からの大量の金・銀は借金の返済の為に国外に流出し、叉新大陸の富が農業や産業の発展に投下されず、重要な産業であった毛織物工業も発展せず、国民生活を潤すことがなかったことがスペイン衰退の大きな原因だったのです。

ジョークは如何?

ルーズベルトとスターリンが言論の自由の多寡について口論を始めた。

ルーズベルト「わが国ではホワイトハウスの前で私の悪口を言っても逮捕されないぞ!」
スターリン「クレムリンの前で君の悪口を言っても逮捕されないが?」


続く・・・

2015/10/06

歴史を歩く141

19 絶対主義国家の盛衰

1 絶対主義の成立

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絶対王政君主・エリザベス1世

 中世以来、各国で国王による中央集権化が進み、16~18世紀頃には国王の絶対的な権力が確立され、絶対主義(絶対王政)と呼ばれる政治体制が成立しました。

 絶対主義は、中世封建社会から近代市民社会への過渡期に現れた政治形態で、国王は没落していく封建貴族と勃興してくる市民階級のバランスの上に立って、絶対的な権力を握り国民を支配します。

 国王の絶対的な権力を支えた二大支柱は官僚と常備軍(戦争の度に召集された封建的諸侯・騎士の軍に代わる常設の軍隊)でした。

 没落しつつあった封建貴族は王権に頼ってその地位を維持しようと考え、国王は彼等の身分上の特権を保障して、彼等を官僚や常備軍に編入すると共に、王権強化に利用し、叉市民のうち、特に大商人(商業資本家)は国内市場統一を求めて、国王による統一を支持してきましたが、新航路開拓によって商業・貿易の規模が拡大し、叉外国商人との競争が激しくなると、国王の援助を必要とするようになり、王権と結びついて行きました。

 国王も、官僚と常備軍を維持する為に莫大な貨幣を必要とした結果、一部大商人(特権商人)に独占権を与え、それと引き替えに金銭を手に入れたのです。

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マニュファクチュア(工場制手工業)

 新航路の発見に伴う商業革命は都市や農村における生産のしくみにも大きな影響を及ぼし、問屋制(問屋制度、問屋制家内工業)やマニュファクチュア(工場制手工業)のような生産様式が盛んと成り、これ等は資本家が労働者を雇って、市場向けの商品の生産を行うという点で資本主義の始まりといえます。

 問屋制は、大商人(商業資本家)が、主に手工業者に道具や原料を前貸しして、自宅で加工させ、加工賃を払って製品を独占的に買い上げて販売する生産様式です。
問屋制はイギリスの毛織物生産で盛んに行われ、大商人は生産者を直接支配するように成って行きました。

 マニュファクチュア(工場制手工業)は、資本家が労働者(手工業者など)を雇い、作業場にまとめて、道具を使用して製品をつくる生産様式で在り、マニュファクチュアは技術的にはまだ手工業の段階に留まっていますが「分業による協業」が行われたことが大きな特色であり、道具が機械に代わると工場制機械工業と成ります。
マニュファクチュアは資本主義生産様式の初期段階で、16世紀後半からイギリスの毛織物業で盛んと成って行きました。

 絶対主義国家は官僚と常備軍を維持する為に多くの貨幣を必要とした為、叉当時は国家の富は蓄積された貨幣や金・銀の量であると考えられていたので、各国は貿易によって貨幣や金・銀等の富を手に入れようとする重商主義(政策)を採用しました。

 重商主義は初期の重金主義とその後の貿易差額主義の2段階に分けることが出来ます。

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イングランド・ブリストル港の商船

 初期には直接的な手段によって金・銀の獲得をめざす重金主義が行われ、各国は国内・国外の金・銀鉱山の開発・採掘に努めると共に、金・銀の国外持ち出しを禁止しました。
新大陸の金・銀を独占した16世紀のスペインがその典型です。

 しかし、後には、直接貨幣や金・銀を獲得せずとも、貿易を盛んにして輸出を伸ばし、輸入を抑えれば国家財政は豊かに成って行くとの考え方から、貿易差額主義に代わり、更に輸出を伸ばすには自国産業発達が不可欠と考え、国内産業の保護・育成が図られたのです。

 貿易差額主義は、17世紀以降オランダ・フランス・イギリスで典型的に行われ、各国は自国製品の為の海外市場としての植民地獲得に乗り出し、植民地獲得争いが激化していくことと成ります。

ジョークは如何?

ある地方書記がモスクワの党本部に呼び出され、査問を受けた。

「君は党の方針に対して、動揺があるようだね?」
「はい、党の基本方針と一緒に動揺しています。」


続く・・・

2015/10/02

歴史を歩く140

18 宗教改革⑤

4反宗教改革

 宗教改革の進展につれて、カトリック教会側もこれらの動きに対抗して、みずから教会改革を行い、勢力の立て直しに努めました。
この様な活動を反宗教改革と呼んでいます。

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トリエント(トレント)公会議

 1545年から18年間にわたって南チロルのトリエント(トレント)で開かれた公会議は、当初は新旧両教会の調停を目的としていましたが、プロテスタント側がその出席を拒否した結果、旧教側だけによる会議となり、近代カトリック教義の確定の場と成りました。

 会議では、教皇の至上権を再確認し、又教義についても従来の解釈が正しいことを再確認しましたが、その一方でカトリック教会内部の粛正、宗教裁判所による異端審問の強化、禁書目録の制定による思想統制強化等も行われたのです。

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イグナティウス・ロヨラ(イグナティウス・デ・ロヨラ:Ignacio López de Loyola)

 反宗教改革の推進に大いに貢献した人物が、スペイン人のイグナティウス・ロヨラ等によって1534年に設立されたイエズス会(ジェズイット教団)でした。

 イグナティウス・ロヨラ(1491年頃~1556年)は、スペイン貴族出身で、軍隊入隊後フランスとの戦いで負傷し、その病院で療養中に回心し(1521年)、イェルサレムへの巡礼後、パリ等で勉学に励み、パリでフランシスコ・ザビエル(シャヴィエル)等6人の同志と伴に、清貧・貞潔・教皇への絶対服従を根本精神とするイエズス会(ジェズイット教団)を創設(1534年)、後に教皇の許しを得て(1540年)、初代総長と成りました。

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フランシスコ・ザビエル( Francisco de Xavier )

 フランシスコ・ザビエル(1506年頃~52年)は、スペイン、ナヴァラのシャヴィエル城主の子に生まれ、王国の没落でパリに出て学び、同郷のイグナティウス・ロヨラに出会い、彼に共感してイエズス会の設立に加わりました。
反宗教改革に尽くし、ポルトガル王の要請でインド布教のためにゴアに至り(1542年)、インド・東南アジアの布教に努め、マラッカで日本人彌次郎に出会い(1547年)、彼の案内で鹿児島に来航(1549年)、日本に初めてキリスト教を伝え、その後平戸・山口・大分で布教活動を行います。
更に中国への布教のために広州付近の上川島に至ましたが、熱病にかかりその地で没しています。

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ザビエルの伝道

 イエズス会は、厳格な軍隊的な規律と組織によって、ヨーロッパ内外でのカトリックの失地回復に努め、特にまだキリスト教を知らないラテン・アメリカや東アジア・南アジア等にも宣教師を派遣し、海外伝道に大いに活躍しました。

 反宗教改革によって、新旧両教徒の対立が激化し、以後ヨーロッパ各地で宗教戦争が勃発することに成り、又中世以来の「魔女狩り」が宗教改革以後各地で荒れ狂い、16~17世紀に最高潮に達しました。
「魔女」とは悪魔に魂を売り払った者で男も含まれ、異端よりも悪質とされ、宗教裁判所への密告が盛んに行われ、激しい拷問・自白の強要が行われ、「魔女」と判定された人物は火あぶりの刑に処せられたのです。 
魔女の密告・告発とそれに呼応する魔女裁判、魔女の処刑は1755年、ババリアでの執行を最後にヨーロッパから姿を消すまで、人々を恐怖に陥れたのでした

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魔女裁判

ジョークは如何?

「先生、民主主義と、社会主義型民主主義の違いを教えてください。」

「一口で言うと、椅子と、電気椅子の違いみたいなものだ。」


続く・・・