歴史を歩く146
19 絶対主義国家の盛衰⑥
5 フランスの宗教戦争と絶対主義(その2)

ルイ14世(8歳)
リシュリューの死の翌年にルイ13世も崩御し(1643年)、5歳のルイ14世(1638年~1715年、在位1643年~1715年)が即位し、母后が摂政となりますが、その摂政時代に実権を握った人物が名宰相のマザランです。
マザラン(1602年~61年)は、イタリアに生まれ、教皇の外交使節となり、パリに派遣されてリシュリューの信任を得てフランスに帰化し(1639年)、リシュリューの死後その推薦によって宰相に就任(1642年)、ルイ13世の死後は摂政(母后)によって宰相に登用されました。

ジュール・マザラン:Jules Mazarin, 1602年7月14日 - 1661年3月9日
マザランはリシュリューの政策を継承し、国内ではフロンドの乱を鎮圧し、対外的には三十年戦争への介入を続け、巧みな外交手腕によってウェストファリア条約(1648年)でアルザスの大部分とヴェルダン・メッツ・トゥールを獲得しました。
フロンドの乱(1648年~53年)は、ルイ14世が幼少であったことや外国人であるマザランへの反感、三十年戦争への介入による増税に対する市民の不満、リシュリュー次いでマザランに抑圧されてきた貴族の不満などが結びついて発生した反乱です。
当初は高等法院の反抗が中心でしたが、後半には大貴族の反乱が中心となり、全国的な内乱に発展し、ルイ14世とマザランは一時パリを退去せざるを得なくなりますが(1651年)、マザランは反乱側の不一致に乗じて鎮圧に成功しています。

フロンドの乱
フロンドの乱は、フランス最後の貴族の反乱となり、その鎮圧によって貴族勢力は打倒され、結果的には王権が一層強化されることとなり、フランス絶対主義が確立しました。
マザランが死去すると、ルイ14世は親政を宣言し(1661年)、以後宰相を置かず、自ら全権を握って政務に邁進し、やがて「太陽王」と呼ばれ、「朕は国家なり(国家、それは朕である)」と云う言葉にふさわしい強大な王権を築き、フランス絶対主義の極盛期を現出しました。
内政では、コルベール(1619年~83年)を財務総監(長官)に任命し、商工業の育成と貿易の振興など典型的な重商主義を行い財政の充実に努めます。

ジャン・バティスト・コルベール:Jean-Baptiste Colbert, 1619年8月29日 - 1683年9月6日
コルベールは、毛織物商人の子に生まれ、マザランの推挙でルイ14世に登用され、財務総監(長官)に任命されました(在任1665年~72年)。
保護関税政策によって国内産業を保護・育成し、王立マニュファクチュアを設立し、叉東インド会社を再興して(1664年)貿易の発展・植民地獲得に乗り出し、そのために海軍力の強化にも努めました。コルベールが行った経済政策は典型的な重商主義で、コルベール主義(コルベールティズム)と呼ばれ、重商主義の代名詞と成っています。
ルイ14世は、パリの南西約20kmのヴェルサイユに壮大な宮殿を造営して王宮としました。
ヴェルサイユには、ルイ13世の狩用の仮泊所が建てられていましたが、ルイ14世は改築から20数年を要して(1661年~82年)豪壮な宮殿を造営し、ここに宮廷を移したのです。

ヴェルサイユ宮殿:16世紀初頭
ヴェルサイユ宮殿はバロック式の代表的な建築で、豪華な室内装飾と広大な庭園で有名で、そこには国王の廷臣と化した貴族が集まり、日夜舞踏会やオペラ・演劇が演じられ、ヴェルサイユ宮殿はヨーロッパの外交・文化の中心となり、フランス語はヨーロッパの国際語と成りました。
ラシーヌ、モリエール等に代表されるフランス古典主義文学もヴェルサイユ宮殿を中心に発展します。
カトリック教徒であったルイ14世は、絶対王政を強化するために、ユグノーを弾圧し、1685年にナントの勅令を廃止しましたが、このルイ14世最大の失政と云われるナントの勅令の廃止によって、20~30万人に及ぶユグノーが国外に逃亡しました。
ユグノーには商工業者が多く、彼等の逃亡はフランスの産業・経済に深刻な打撃を与え、ルイ14世晩年の財政窮乏の大きな原因となったのでした。
対外的には、充実した国力とヨーロッパ最強の陸軍を擁する強大な軍事力を背景に、ハプスブルク家の打倒を目標として自然国境説(大西洋・ライン川・アルプス山脈・ピレネー山脈の内側はフランスの領土であるべきだとの考え方)を口実に、しばしば隣国に侵略戦争を行い領土の拡大を図っています。

マリア・テレーズ
スペインでフェリペ4世が崩御すると(1665年)、ルイ14世はスペイン領ネーデルラントの継承権が王妃マリア・テレーズ(フェリペ4世の娘)にあると主張して南ネーデルラント継承戦争(1667年~68年)を引き起こしてフランドルに出兵しますが、フランスの進出を恐れるオランダがイギリスと同盟して調停に乗り出し、アーヘンの和約(1668)が結ばれ、フランスはフランドルの一部を得たに留まります。
南ネーデルラント継承戦争の際に、オランダが妨害したとして、その報復のために突如出兵しますが(オランダ侵略戦争(1672年~78年))、各国の反対とオランダの激しい抵抗に遭い、ナイメーヘンの和約(1678年・79年)が結ばれ、この和約によってオランダは全領土を回復し、フランスはスペイン領のフランシュ・コンテとフランドル南部のいくつかの都市を獲得するに留まっています。
更にドイツのファルツ選帝侯の継承権を主張して大規模な侵略戦争であるファルツ継承戦争(アウグスブルク同盟戦争、1689年~97年)を引き起こし、当初フランスはファルツ伯領に侵入し、破壊・掠奪・放火を行い、ファルツ伯領を蹂躙しますが、ヨーロッパ諸国がアウグスブルク同盟(オランダ・神聖ローマ皇帝・ドイツ諸侯・スペイン・スウェーデンの同盟に後にイギリスも参加)を結んでフランスに対抗したため、 フランスはライスワイク条約(1697年)を結んで、ナイメーヘンの和約以後に獲得した領地を返還することと成りました。

ルイ14世の侵略戦争
ルイ14世の侵略戦争は莫大な戦費を使いながら、得たものは僅かで、その戦費の負担が晩年の財政窮乏の大きな原因となったのです。
ルイ14世の侵略戦争のうち最後にして最大の戦争がスペイン継承戦争(1701年~13年)です。
スペインでカルロス2世(在位1665年~1700年)が崩御し、病弱で子供がなかったカルロス2世の遺言によってルイ14世の孫のフィリップがフェリペ5世(在位1700年~24年、24年~46年)として即位しました。
これに対して、オーストリア・イギリス・オランダは、同じブルボン家のスペインとフランスが合同すれば、海外の植民地を併せて飛び抜けた強大な王国が出現することになり、ますます侵略の恐怖に曝されることになるとして、同盟を結んで反対し、スペイン継承戦争が勃発しました。

スペイン継承戦争;ライミの戦い
戦争は、当初フランスが優勢でしたが、1704年頃からは同盟国側が優勢となり、1706年にはマドリードが陥落してフェリペ5世が一時追放されます。
しかし、1710年頃からフランスが再び勢力を盛り返し、叉フェリペ5世の対立候補として同盟国側が推していたカールが神聖ローマ帝国ヨゼフ1世の死によってカール6世として即位したこともあり(1711年)、1713年にユトレヒト条約が結ばれて戦争は終結しました。
このユトレヒト条約によって、フランスとスペインが合併しないことを条件にフェリペ5世の王位継承が承認され、スペイン継承戦争の際に、英仏は北米でアン女王戦争(1702年~13年)を戦っていますが、植民地に関してはイギリスがフランスからニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方を獲得することが認められ、叉イギリスがスペインからジブラルタル・ミノルカ島を獲得することも認められています。

フェリペ5世
ルイ14世は、孫のフェリペ5世をスペイン王に就ける事で面目を保ちましたが、北米の植民地を失って植民地争いで大きく後退することとなり、結局イギリスがユトレヒト条約で最大の利益を得た国家と成りました。
ルイ14世の時代は、フランス絶対主義の極盛期・フランスの黄金時代であり、フランスはヨーロッパ一の強国となり、ヨーロッパの政治・外交・文化の中心と成りましたが、度重なる侵略戦争や宮廷の浪費、特にルイ14世の最大の失政といわれるナントの勅令の廃止(1685年)によってユグノーの商工業者が大量に国外に亡命してフランス経済は大打撃を受けたこと等によって、王の晩年には国家財政が窮乏し、国民は重税に苦しむようになっていたのでした。
このため、ルイ14世が72年に及ぶ治世の末に崩御し、曾孫のルイ15世が即位しますが、次のルイ16世の時代にかけて国家財政は益々悪化し、後のフランス革命の原因と成っていきます。
ジョークは如何?
飲んべぇが3人、いつものように酒場で飲んでいました。
アイルランド人がぽつりと言いました。
「実は、俺はもうすぐ病気で死んでしまうんだ。俺が死んだら、
俺の墓石にこの銘柄のウイスキーをグラス一杯かけてくないか?」
イギリス人はこう答えました。
「ああ、もちろんだとも。毎年命日には必ずかけてやるよ」
スコットランド人が言いました。
「俺もかけてやるよ。・・・ただ、腎臓を一回通してからでいいかな?」
続く・・・
5 フランスの宗教戦争と絶対主義(その2)

ルイ14世(8歳)
リシュリューの死の翌年にルイ13世も崩御し(1643年)、5歳のルイ14世(1638年~1715年、在位1643年~1715年)が即位し、母后が摂政となりますが、その摂政時代に実権を握った人物が名宰相のマザランです。
マザラン(1602年~61年)は、イタリアに生まれ、教皇の外交使節となり、パリに派遣されてリシュリューの信任を得てフランスに帰化し(1639年)、リシュリューの死後その推薦によって宰相に就任(1642年)、ルイ13世の死後は摂政(母后)によって宰相に登用されました。

ジュール・マザラン:Jules Mazarin, 1602年7月14日 - 1661年3月9日
マザランはリシュリューの政策を継承し、国内ではフロンドの乱を鎮圧し、対外的には三十年戦争への介入を続け、巧みな外交手腕によってウェストファリア条約(1648年)でアルザスの大部分とヴェルダン・メッツ・トゥールを獲得しました。
フロンドの乱(1648年~53年)は、ルイ14世が幼少であったことや外国人であるマザランへの反感、三十年戦争への介入による増税に対する市民の不満、リシュリュー次いでマザランに抑圧されてきた貴族の不満などが結びついて発生した反乱です。
当初は高等法院の反抗が中心でしたが、後半には大貴族の反乱が中心となり、全国的な内乱に発展し、ルイ14世とマザランは一時パリを退去せざるを得なくなりますが(1651年)、マザランは反乱側の不一致に乗じて鎮圧に成功しています。

フロンドの乱
フロンドの乱は、フランス最後の貴族の反乱となり、その鎮圧によって貴族勢力は打倒され、結果的には王権が一層強化されることとなり、フランス絶対主義が確立しました。
マザランが死去すると、ルイ14世は親政を宣言し(1661年)、以後宰相を置かず、自ら全権を握って政務に邁進し、やがて「太陽王」と呼ばれ、「朕は国家なり(国家、それは朕である)」と云う言葉にふさわしい強大な王権を築き、フランス絶対主義の極盛期を現出しました。
内政では、コルベール(1619年~83年)を財務総監(長官)に任命し、商工業の育成と貿易の振興など典型的な重商主義を行い財政の充実に努めます。

ジャン・バティスト・コルベール:Jean-Baptiste Colbert, 1619年8月29日 - 1683年9月6日
コルベールは、毛織物商人の子に生まれ、マザランの推挙でルイ14世に登用され、財務総監(長官)に任命されました(在任1665年~72年)。
保護関税政策によって国内産業を保護・育成し、王立マニュファクチュアを設立し、叉東インド会社を再興して(1664年)貿易の発展・植民地獲得に乗り出し、そのために海軍力の強化にも努めました。コルベールが行った経済政策は典型的な重商主義で、コルベール主義(コルベールティズム)と呼ばれ、重商主義の代名詞と成っています。
ルイ14世は、パリの南西約20kmのヴェルサイユに壮大な宮殿を造営して王宮としました。
ヴェルサイユには、ルイ13世の狩用の仮泊所が建てられていましたが、ルイ14世は改築から20数年を要して(1661年~82年)豪壮な宮殿を造営し、ここに宮廷を移したのです。

ヴェルサイユ宮殿:16世紀初頭
ヴェルサイユ宮殿はバロック式の代表的な建築で、豪華な室内装飾と広大な庭園で有名で、そこには国王の廷臣と化した貴族が集まり、日夜舞踏会やオペラ・演劇が演じられ、ヴェルサイユ宮殿はヨーロッパの外交・文化の中心となり、フランス語はヨーロッパの国際語と成りました。
ラシーヌ、モリエール等に代表されるフランス古典主義文学もヴェルサイユ宮殿を中心に発展します。
カトリック教徒であったルイ14世は、絶対王政を強化するために、ユグノーを弾圧し、1685年にナントの勅令を廃止しましたが、このルイ14世最大の失政と云われるナントの勅令の廃止によって、20~30万人に及ぶユグノーが国外に逃亡しました。
ユグノーには商工業者が多く、彼等の逃亡はフランスの産業・経済に深刻な打撃を与え、ルイ14世晩年の財政窮乏の大きな原因となったのでした。
対外的には、充実した国力とヨーロッパ最強の陸軍を擁する強大な軍事力を背景に、ハプスブルク家の打倒を目標として自然国境説(大西洋・ライン川・アルプス山脈・ピレネー山脈の内側はフランスの領土であるべきだとの考え方)を口実に、しばしば隣国に侵略戦争を行い領土の拡大を図っています。

マリア・テレーズ
スペインでフェリペ4世が崩御すると(1665年)、ルイ14世はスペイン領ネーデルラントの継承権が王妃マリア・テレーズ(フェリペ4世の娘)にあると主張して南ネーデルラント継承戦争(1667年~68年)を引き起こしてフランドルに出兵しますが、フランスの進出を恐れるオランダがイギリスと同盟して調停に乗り出し、アーヘンの和約(1668)が結ばれ、フランスはフランドルの一部を得たに留まります。
南ネーデルラント継承戦争の際に、オランダが妨害したとして、その報復のために突如出兵しますが(オランダ侵略戦争(1672年~78年))、各国の反対とオランダの激しい抵抗に遭い、ナイメーヘンの和約(1678年・79年)が結ばれ、この和約によってオランダは全領土を回復し、フランスはスペイン領のフランシュ・コンテとフランドル南部のいくつかの都市を獲得するに留まっています。
更にドイツのファルツ選帝侯の継承権を主張して大規模な侵略戦争であるファルツ継承戦争(アウグスブルク同盟戦争、1689年~97年)を引き起こし、当初フランスはファルツ伯領に侵入し、破壊・掠奪・放火を行い、ファルツ伯領を蹂躙しますが、ヨーロッパ諸国がアウグスブルク同盟(オランダ・神聖ローマ皇帝・ドイツ諸侯・スペイン・スウェーデンの同盟に後にイギリスも参加)を結んでフランスに対抗したため、 フランスはライスワイク条約(1697年)を結んで、ナイメーヘンの和約以後に獲得した領地を返還することと成りました。

ルイ14世の侵略戦争
ルイ14世の侵略戦争は莫大な戦費を使いながら、得たものは僅かで、その戦費の負担が晩年の財政窮乏の大きな原因となったのです。
ルイ14世の侵略戦争のうち最後にして最大の戦争がスペイン継承戦争(1701年~13年)です。
スペインでカルロス2世(在位1665年~1700年)が崩御し、病弱で子供がなかったカルロス2世の遺言によってルイ14世の孫のフィリップがフェリペ5世(在位1700年~24年、24年~46年)として即位しました。
これに対して、オーストリア・イギリス・オランダは、同じブルボン家のスペインとフランスが合同すれば、海外の植民地を併せて飛び抜けた強大な王国が出現することになり、ますます侵略の恐怖に曝されることになるとして、同盟を結んで反対し、スペイン継承戦争が勃発しました。

スペイン継承戦争;ライミの戦い
戦争は、当初フランスが優勢でしたが、1704年頃からは同盟国側が優勢となり、1706年にはマドリードが陥落してフェリペ5世が一時追放されます。
しかし、1710年頃からフランスが再び勢力を盛り返し、叉フェリペ5世の対立候補として同盟国側が推していたカールが神聖ローマ帝国ヨゼフ1世の死によってカール6世として即位したこともあり(1711年)、1713年にユトレヒト条約が結ばれて戦争は終結しました。
このユトレヒト条約によって、フランスとスペインが合併しないことを条件にフェリペ5世の王位継承が承認され、スペイン継承戦争の際に、英仏は北米でアン女王戦争(1702年~13年)を戦っていますが、植民地に関してはイギリスがフランスからニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方を獲得することが認められ、叉イギリスがスペインからジブラルタル・ミノルカ島を獲得することも認められています。

フェリペ5世
ルイ14世は、孫のフェリペ5世をスペイン王に就ける事で面目を保ちましたが、北米の植民地を失って植民地争いで大きく後退することとなり、結局イギリスがユトレヒト条約で最大の利益を得た国家と成りました。
ルイ14世の時代は、フランス絶対主義の極盛期・フランスの黄金時代であり、フランスはヨーロッパ一の強国となり、ヨーロッパの政治・外交・文化の中心と成りましたが、度重なる侵略戦争や宮廷の浪費、特にルイ14世の最大の失政といわれるナントの勅令の廃止(1685年)によってユグノーの商工業者が大量に国外に亡命してフランス経済は大打撃を受けたこと等によって、王の晩年には国家財政が窮乏し、国民は重税に苦しむようになっていたのでした。
このため、ルイ14世が72年に及ぶ治世の末に崩御し、曾孫のルイ15世が即位しますが、次のルイ16世の時代にかけて国家財政は益々悪化し、後のフランス革命の原因と成っていきます。
ジョークは如何?
飲んべぇが3人、いつものように酒場で飲んでいました。
アイルランド人がぽつりと言いました。
「実は、俺はもうすぐ病気で死んでしまうんだ。俺が死んだら、
俺の墓石にこの銘柄のウイスキーをグラス一杯かけてくないか?」
イギリス人はこう答えました。
「ああ、もちろんだとも。毎年命日には必ずかけてやるよ」
スコットランド人が言いました。
「俺もかけてやるよ。・・・ただ、腎臓を一回通してからでいいかな?」
続く・・・
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