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2015/11/27

歴史を歩く154

19 絶対主義国家の盛衰・番外編②

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サー・ウォルター・ローリーはエリザベス1世の通り道にマントを敷いた

 従者を従えて、しずしずと歩くイングランド女王の両脇を固める人垣の中に、若く端正な顔立ちの紳士が居ました。
彼の前に差し掛かった時、女王はふと立止りました。
道に水溜りが在ったからなのです。
名前をウォルター・ローリーというこの海の男は、機転の利く伊達男でも在りましたので、水溜りの上に即座に自分のマントを投げます。
女王は彼の手際の良さに感じ入り、マントを踏んで渡りながら、彼女の足を守る為に彼が払った高価な犠牲に笑顔を持って報いました。
二人の歴史的人物に相応しいロマンティックな出会いと思われますが、是は史実では在りません。

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エリザベス1世の足元にマントを広げるウォルター・ローリー

 このお話は、歴史家トマス・フラー(1608年〜1661年)の創作と考えられており、彼は退屈な史実をおもしろおかしく語る為に、しばしば作り話を創造して書き加えたのでした。

 更に、サー・ウォルター・スコットが小説「ケニルワース」(1821年)で同じ話を引用したので、この伝説は一層有名になりました。
この小説作品の中でローリーは「私の手元に在る限り」マントにブラシは掛けませぬと誓い、彼の心ばせを多とした女王は「衣服1着、それも最新仕立ての物」を彼に与える勅令を持たせた従者を、ローリーの館に送ります。

 ローリーは1586年に、イギリスへ初めてジャガイモをもたらしたとも云われていますが、この点についても事実か否かは良く解かりません。
ジョン・ジェラードは、其の著書「草本誌」(1597年)の中で、C・クルジウスなる人物が1585年にイタリアで既にジャガイモを栽培していたと紹介しています。
これらの話が真実か否かは別として、ジャガイモは急速に普及し、「草本誌」で紹介されてから、10年と経たぬ間に、ヨーロッパ全土に普及し栽培される様に成りました。

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喫煙するウォルター・ローリー

 又、イングランドに初めてタバコをもたらしたのも、一般にローリーだと云われています。
1586年、当時のイギリス植民地バージニアからの帰途、持ち込んだと云う話が定説に成っています。
尚、フランスには是より早く、1559年頃に紹介されており、その紹介者は、フランス人ジャン・ニコで、「ニコチン」は彼の名前から派生した言葉なのです。

ジョークは如何?

ピョートル大帝は近代化と称してロシア貴族の髭をそらせた。

小ブッシュはテロリスト狩りと称して髭をそらせた。


続く・・・

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2015/11/24

歴史を歩く153

19 絶対主義国家の盛衰・番外編

ドレイクの併合宣言

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フランシス・ドレイク

◎カリフォルニアはイギリス領?

 サンフランシスコに住むペリル・ジンは、1936年の夏、ゴールデンゲイトブリッジの北側の浜辺にピクニックに出掛けました。
何気なく岩を持ち上げると、その下に汚れた古い真鍮版が隠れていました。
彼は車を修理する時に役立つかもしれないと考えて、その板を自宅に持ち帰りました。

◎女王陛下の名に於いて

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エリザベス女王からサーに列せられるフランシスドレイク

 彼は板を自宅のガレージに置いたまま、8ヶ月間程忘れていました。
そして1937年の初め、改めて板の存在に気づき、石鹸水で磨いてみると、大きさは縦13cm、横20cm程の板で、底部に凹凸の窪みが在り、表面には線文字が刻まれ、微かに「ドレイク」の文字は判読出来ました。

 この真鍮版の発見が、アメリカ史研究家や冶金学者、中世英語学者を巻き込む国際的な騒動に発展したのでした。
板に刻まれていたのは、フランシス・ドレイク(1540年~1596年)による1579年のカリフォルニア併合宣言だったからです。

 ペリル・シンは板をカリフォルニア大学のハーバート・ボルトン教授に送り、博士は慎重に汚れを取り除き、その全文を解読しました。

 1579年6月17日、本証書により全人民に告ぐ。
神の恩寵と、イングランド女王エリザベス陛下及びその後継者の名に於いて、余はこの王国の領有を宣告する。
ノバ・アルビオンと余が命名し、あまねくこの名で呼ばれるべきこの国は、今後女王陛下に属し、おの王と人民は全地域に於ける権利と資格を自発的に陛下に貢納するもの也。
フランシス・ドレイク

 カリフォルニア歴史学会の席上、唖然とする会員達にボルトン博士は、意気揚々と報告します。
「357年間の喪失から蘇えったドレイクの板だ!この真鍮版こそ、カリフォルニア最大の考古学的遺産だ!」

◎カリフォルニアに降臨した神

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フランシス・ドレイクが世界就航に使用したゴールデン・ハインド号(黄金の雌鹿)

 白熱した議論が巻き起こりました。
フランシス・ドレイクが1579年、世界周航の途中カリフォルニアに立ち寄った事は知られています。
南アメリカ南端を回り太平洋を北上した時の事でした。

 現在のカナダ北部で太平洋と大西洋が繋がっている、と古い時代の航海者は信じていました。
伝説の北西航路に向かおうとしていたドレイクは、現在のカリフォルニアのサンフランシスコに近い場所に上陸しました。
一行は現地のネイティブアメリカンの暖かい歓迎を受け、ドレイク達を神の降臨と思い、太平洋岸の彼らの土地をドレイクに提供したのでした。

 航海日誌に拠れば、ドレイクは申し出を礼儀に従って受け入れ、海岸に領有宣言の告知文を掲示し、この国がエリザベス女王の領地と成り、以後ノバ・アルビオンと呼ばれる事を宣言したのでした。

 当然のことながら、学会は大騒動と成り、真鍮版を偽物と決め付けた学者も居ました。
当時の航海日誌にドレイクは、「白い岸と崖」が目印の場所に上陸したと、記録されている事が、論争の中心に成りました。
真鍮版の発見場所には、その様な地形が存在しない上、板に刻まれた日付の信憑性が問題に成り、ドレイクの上陸は6月17日ですが、ネイティブアメリカンは6月26日迄領土を譲らなかったと航海日誌は述べているのです。

◎科学の投げた疑問

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アメリカ合衆国カリフォルニア州マリン・カウンティのドレイクス ビーチは1579年6月17日、フランシス・ドレイクのゴールデンハインド号が世界一周航海の途中に船の修理のために停泊したビーチです。

 真鍮版を分析した結果、16世紀の物にしては、当時の標準より亜鉛の含有量が多い事が、判りました。
更に板の表面には、大量の炭素が含まれている事が、実験で証明されました。
恰も、火で焼いて古びさせた、模造の骨董品と同様に・・・。

 しかし、攻撃の中心は、失われた文字と書体に集中し、記されている文字は全て、エリザベス朝時代に一般的であった装飾的なチューダー書体よりもむしろ、学者しか使用しなかったローマン書体でした。
更に言葉の綴りが一定せず、ページによって変化する場合の多かった時代の文章にしては、全て揃っている事が疑惑を呼びました。

 しかも16世紀にしばしば使用された古い綴り、例えば“Yngland”(イングランド)”Kyng”(王)“Quene”(女王)と言った単語が全て現代綴りで記されていました。
そして、否定論者達は決定的な部分として、碑文中の”herr”(彼女)の綴りは当時存在しなかったと主張しました。

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ノバ・アルビオン

 ボルトン博士は、加えられたこれ等の批判の全てに反論し、ネイティブ・アメリカン達は、公式に領土を6月26日迄譲渡しなかったかも知れませんが、航海日誌には「我々の到着したその日に」に告知文書が刻まれたと述べられているのでした。

 更に新たな科学的な分析によって、真鍮版は新しい物ではなく「いく歳月を経て形成された」皮膜で自然に覆われており、窪みの部分に在った植物の花粉は「疑いなく炭化し」ており、この事実は板が相当長い時間、空気中に曝された場合にのみ生じうる現象でした。

 書体と綴りについては、ボルトン博士の支持者達が、否定論者に反論しました。
ドレイクの船には、一人も学者が乗船していなかったのでしょうか?
或いは少なくとも、ローマン書体の手本になる本が一冊も積まれていなかったのでしょうか?
これ程短い文章なら、綴り文字が統一されるのは、むしろ自然であると思われます。

 そして間も無く、別の領土建設趣意書の中でドレイクが”herr”の文字を使用している事が、明らかに成りました。
今や反論できない批判はただ一つ、ドレイクが白い岸と崖の近くに上陸した点に絞られて行きました。
そして、驚くべき報告が齎されたのでした。

 ペリル・シンの発見のニュースが公表されると、一人の人物が名乗りを上げました。
彼はシンの発見から4年前、ラグーナビーチで主人の帰りを待っているとき、暇つぶしに靴の先で地面を蹴っていると、地中から真鍮版が姿を現し、その上の文字を彼は中国語と思ったが、「ドレイク」の署名だけははっきり読む事が出来ました。

 彼は暫くその真鍮版を手元に置いていましたが、数ヶ月前ペリル・シンが板を発見した場所から、然程遠く無い場所に板を投げ捨てました。
その場所は、以前からドレイクの上陸した地点と伝えられる場所で、その最も目立つ地形的特長は、高い白い崖でした。
真鍮版の汚名は、無事に晴れ、ドレイクの不動産権利証書はカリフォルニア大学に納められましたが、イギリス本国は寛大にも、領土権の主張をしていません。

ジョークは如何?

Q:共産圏には、自由な意見の交換が存在するのでしょうか?

A:存在する。たとえば独自の意見を持って党会議に出席し、
  かわりに党書記の意見を持って帰る。


続く・・・
2015/11/20

歴史を歩く152

19 絶対主義国家の盛衰⑪

9 ポーランド分割

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カジミェシュ大王(カシミール大王、在位1333年~70年)

 ポーランド人は、10世紀に統一され、カジミェシュ大王(カシミール大王、在位1333年~70年)のもとで繁栄期を迎えます。

 ポーランド人の北に居住していたバルト語系のリトアニア人は、13世紀にドイツ騎士団の脅威に抵抗して統一国家を形成し、14世紀には大公国と成りました。

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リトアニア大公ヤゲウォ(ヤゲロー、在位1386年~1434年)

 リトアニア大公ヤゲウォ(ヤゲロー、在位1386年~1434年)は、1386年にポーランド女王ヤドヴィカ(在位1384年~99年)と結婚し、リトアニア・ポーランド王国を形成しました。

 リトアニア・ポーランド王国は、ヤゲウォ朝(ヤゲロー朝、1386年~1572年)のもとで東方に勢力を拡大し、15~16世紀には東ヨーロッパの大国として強盛を誇ります。

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ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト2世(左)とプロイセン王兼ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(右)

 しかし、1572年にヤゲウォ朝が断絶すると選挙王政となり、大貴族の専横と外国の干渉を招き、ザクセン選帝侯でポーランド王を兼ね、北方戦争ではロシアのピョートル1世と結んでスウェーデンと戦ったアウグスト2世(在位1697年~1704年、1710年~33年)の死後、ポーランド継承戦争(1733年~35年)が勃発します。

 ポーランド貴族がフランスのルイ15世の義父を擁立しますが、ロシア・オーストリアはザクセン選帝侯アウグスト3世を擁立して争い、最終的にアウグスト3世(在位1733年~63年)がポーランド王に就くものの、以後外国の干渉が益々激しくなり、後のポーランド分割の発端と成ります。

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アウグスト3世

 ロシア皇帝エカチェリーナ2世は、アウグスト3世の死後、親露派の貴族を王位に就けて様々な干渉を行い、プロイセンのフリードリヒ2世は、ポーランドがロシアのものになる事を恐れて、オーストリアと共にポーランド分割を提唱すると、エカチェリーナ2世もそれに応じ、プロイセン・オーストリア・ロシアの3国によって第1回ポーランド分割(1772年)が行われ、3国はそれぞれ国境に隣接する地域を獲得していきます。

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 第1回ポーランド分割後、ポーランドは新憲法を制定し、選挙王政を世襲王政に改める等の改革を実施し、国力の充実に努めますが、ロシア・プロイセンは、オーストリアがフランス革命に巻き込まれてフランスと戦っている間に第2回ポーランド分割(1793年)を強行し、これによってポーランドはその国土の3分の1を残すのみと成りました。

 この情勢を見て、ポーランドの愛国者コシューシコ(コシチューシコ)は祖国解放の軍を起こします。

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コシューシコ(コシチューシコ、1746年~1817年)
 
コシューシコ(コシチューシコ、1746年~1817年)は、リトアニアの下級貴族の家に生まれ、フランスの陸軍大学で学び、帰国して砲兵大尉と成り、アメリカ独立戦争(1775年~83年)が起こると、これに参加し、ワシントンの副官として戦功をたて、帰国後(1786年)、愛国者の自由主義的改革に加わります。

 コシューシコはロシアのポーランド分割に反対し、侵入してきたロシア軍を敗走させますが、第2回ポーランド分割(1793年)が行われ、彼は国外に亡命しました。
その後、帰国して国民軍最高司令官となり(1794年)、義勇軍を率いて蜂起し、一時はロシア軍を破ってワルシャワ解放しますが、まもなく負傷してロシア軍に捕らえられてペテルブルクへ送られます(1794年)。
コシューシコは後に亡命を許されて(1796年)フランスに入国しますが、ナポレオンのポーランド政策に同調せず、最後はスイスで没しています。

 ロシア・プロイセン・オーストリアは第3回ポーランド分割(1795年)を行い、残りの領土を分割した結果、ポーランドは終に滅亡し、地図から姿を消しました。
そして第一次世界大戦後にやっと独立を回復することになります(1919年)。

 ポーランド分割で最も多くの領土を獲得したのはロシアで、ポーランドの東半分・ポーランドの全領土の半分以上を領有し、プロイセンとオーストリアが西半分をほぼ折半しました。

ジョークは如何?

「この世で最も、人種や地位などの差別も偏見もない、理想的で公平な社会ってどんなのだと思う?」

「毎日数千数万人の人々が無残に機械的に理不尽に殺されていく社会」

「…なんで?」

「死は誰にでも平等。 農民にも、地主にも、僧侶にも、貴族にも」


続く・・・

2015/11/15

歴史を歩く151

19 絶対主義国家の盛衰⑩

8 ロシアの台頭②

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ネルチンスク条約で確定したロシア・清国境

 ロシアは東方ではシベリア経営を押し進め、アムール川(黒竜江)流域まで進出し、1689年に清の康煕帝との間にネルチンスク条約を結び、アルグン川とスタノヴォイ山脈(外興安嶺)をもって両国の国境を画定し、両国の通商などを取り決めました。

 ピョートル1世は、ボートが沈み溺れそうになった兵士を救おうとして極寒の河に飛び込み、その結果、風邪から病状が悪化し急死します(1725年)。

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エカチェリーナ1世

 ピョートル1世の崩御の後、皇后エカチェリーナ1世(イギリス生まれ1725年~1727年)が即位しましたが、ピョートル1世が後継者を決めること無くに亡くなったため、彼の死からエカチェリーナ2世の即位迄の37年間に帝位継承をめぐって、6回の宮廷クーデターが起こり、3人の皇帝と3人の女帝が交替しました。

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エリザヴェータ(在位1741年~1762年)

 ピョートル1世から数えて5人目の皇帝には、彼の娘のエリザヴェータ(在位1741年~1762年)が即位し、彼女の治世にロシアは七年戦争に参戦し、ロシア軍は一時ベルリンを占領します(1760年)。
エリザヴェータは、生涯独身を通して子供がおらず、帝位に就くとドイツのホルシュタイン公に嫁した姉の子ピョートルを養子とし、そのピョートルがエリザヴェータの死後、ピョートル3世として即位します。

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ピョートル・フョードロビッチ大公,後のピョートル3世

 ピョートル3世(在位1762年)は、生来病弱・低能で奇行が多く、フリードリヒ大王を崇拝し、成人になっても彼の真似は治まらず、即位すると周囲の反対を押し切ってプロイセンと単独で講和条約を結び、更にプロイセンと同盟を結んでフリードリヒ大王の危機を救いますが、まもなく起こった近衛軍によるクーデターによって廃位され、皇后のエカチェリーナ2世が即位します。
ピョートル3世はクーデター後幽閉され、1週間後に暗殺されています。

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男装近衛騎兵服姿のエカチェリーナ
  
 エカチェリーナ2世(1729年~96年、在位1762年~96年)は、ドイツの小邦アンハルト・ツェルプトス公の娘に生まれ、後のピョートル3世と結婚して(1745年)一男を生みますが、幸せとは言えない結婚生活の中でも読書、修養を怠らず、1762年のクーデターによって夫ピョートル3世を廃して(のち殺害)即位しました。

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エカチェリーナ2世

 エカチェリーナは、ヴォルテールとも文書を交わし、啓蒙専制君主をもって任じ、この思想に基づいて多くの改革を行いましたが、農奴制はエカチェリーナの時代にかえって強化され、農奴の貢納・賦役はますます重くなり、農奴の売買も地主貴族の意志にまかされ、逃亡農奴に対しては殺人以外は如何なる刑罰を課すことが出来たのです。
こうした状況の中でプガチョフの反乱(1773年~75年)が起こります。

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プガチョフ

 プガチョフ(1724年頃~75年)は貧しいコサック農民で、兵士として従軍したものの脱走し、追われる身となって各地を放浪しました。
1773年、コサックの農民反乱の指導者となり、ピョートル3世が生存していると云う噂を利用してピョートル3世と称し、農奴解放を宣言し、逃亡農奴やウラルの鉱山労働者も加わった結果、反乱軍は74年には5万の大軍となり、反乱はヴォルガ全域からウラルに迄拡大します。
反乱軍はモスクワに進撃する動きを見せましたが、政府軍に敗れ(74年)、プガチョフは逃亡中に味方の密告で逮捕され、モスクワに送られて車裂きの刑に処せられました。

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農奴の売買

 プガチョフの反乱鎮圧後、エカチェリーナは反動化し、農奴制は更に強化され、貴族の特権も拡大強化され、改革主義者は弾圧されました。

 対外的には、2回にわたるオスマン・トルコ帝国との戦い(1768年~74年、1787年~92年)でドニエプルの下流地帯とクリミア半島を獲得して黒海北岸に進出を果たしました。

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大黒屋光太夫

 東方ではオホーツク海に進出し、千島を占領し、カムチャッカに漂着した大黒屋光太夫(おろしや国酔夢譚の主人公)の送還を兼ねてラクスマン(1766年~?、ロシアの軍人)を根室に派遣しました(1792年)。
ラクスマンは翌93年には箱館に来航し、幕府の役人に国書を手渡して通商を求めたが拒否されて帰国します。

 更に西方では3回にわたるポーランド分割(1772年、93年、95年)で中心的な役割を果たし、ポーランドの東半分を獲得し、西方に向かって大きく領土を拡大したのでした。
 
ジョークは如何?

国外を旅行したい若者が、党員、スポーツ選手、軍人に相談した。

共産党員「ぜひ党で働きたまえ。社会主義友邦を訪問する機会が得られよう。」
スポーツ選手「選手になりたまえ。4年に1度、オリンピックで海外に行ける。」
軍人「兵士になりたまえ。12年に1度、戦車で国外に出られる。」

※補足
(1944年 独ソ戦でソ連猛反撃)
(1956年 ハンガリー動乱)
(1968年 プラハの春)
(1980年 アフガニスタン内戦本格化)

続く・・・
2015/11/12

歴史を歩く150

19 絶対主義国家の盛衰⑨

8 ロシアの台頭①

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モスクワ大公国イヴァン3世(在位1462年~1505年)

 ロシアは、13世紀以来、約250年間にわたってモンゴル人の支配に服してきましたが、15世紀頃からモスクワ大公国が徐々に勢力を伸ばし始め、イヴァン3世(在位1462年~1505年)の統治の時代に、キプチャク・ハン国軍をウグラ河の戦いで撃退してモンゴル人の支配から完全に独立を果たしました(1480年)。

 イヴァン3世は、ビザンツ帝国(1453年に滅亡)最後の皇帝の姪ソフィアと結婚し(1472年)、ビザンツ皇帝の後継者を自任し、ツァーリ(ツァー、ロシア皇帝の公式の称号、カエサルのロシア語形)の称号と「双頭の鷲」(ローマ帝国・神聖ローマ帝国でも用いられた)の紋章を継承し、初めて非公式にツァーリの称号を用いました。

 又ビザンツ文化を盛んに受け入れた結果、ビザンツ帝国の滅亡後はギリシア正教の中心もモスクワに移ったことから、モスクワは、「第二のコンスタンティノープル」、又はローマ・コンスタンティノープルに次ぐ「第三のローマ」と呼ばれるように成ります。

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双頭の鷲

 イヴァン3世の孫でロシア絶対主義の基礎を固めたのがイヴァン4世(雷帝)でした。

 イヴァン4世(1530年~84年、在位1533年~84年)は、3歳で父を7歳で母を失い幼くして孤児と成り、3歳で即位するものの、大貴族が実権を握り、陰謀をめぐらす宮廷で成長した結果、その性格は残忍・異常であったと云われています。
17歳の時にアナスタシア(ロマノフ家)と結婚し、同年親政を開始します(1547年)。

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イヴァン4世(雷帝)

 イヴァン4世は公式にツァーリと称し、ギリシア正教の首長も兼ねました。
彼は下層貴族を用いて改革を進め、全国会議(大貴族・下層貴族・商人の代表からなる身分制議会)を召集し(1549年)、全国会議を利用して下層貴族と結んで大貴族の勢力の抑制を図り、これに反抗する大貴族の領地を没収して、皇帝に忠実な下層貴族に分与し、また親衛隊を創設して反抗する大貴族にはテロを用いて容赦なく弾圧した結果、「雷帝」と呼ばれて大いに恐れられました。

 対外的にはカザン・ハン国(1552年)、アストラハン・ハン国(1557年)を征服して、領土を東南に大きく拡大し、更にコサック(コザック)の首長イェルマークが征服した西シベリアを領有し、ロシアがウラル山脈を越えてシベリアへ進出する道を開きました。

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イェルマークの西シベリア遠征

 イェルマーク(?~1585年頃)は、ドン・コサックの首長で、豪商ストロガノフ家の援助を得て、1600余人の遠征隊を率いてウラル山脈を越えて西シベリアに進出し(1581年)、シビル・ハン国を征服して(1582年)イヴァン4世に献じます。
彼自身は1585年頃に戦死したのですが、遠征隊は毛皮獣を求めて更に森林地帯を東進します。

 コサック(コザック)は、14~16世紀に農奴制の圧迫を逃れてロシア東南辺境に移住した農民で、牧畜・漁業・狩猟・交易・略奪等を生業としましたが、16~17世紀には辺境防備の自由な戦士集団を形成するようになりました。

 イヴァン4世の死後、まもなくリューリク(ルーリック)朝(イヴァン3世・イヴァン4世の家系)が断絶し(1598年)、1601年から3年間にわたる大飢饉をきっかけに民衆の反乱が起こり、動乱時代(1601年~13年)が始まります。

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動乱時代 :大動乱・スムータ・Смутное время

 この動乱にポーランドが介入し、モスクワは一時ポーランド軍に占領され(1610年)、これに対して義勇軍(下層貴族・市民・コサック・農民等の混成)が組織され、1612年にはモスクワをポーランド軍から解放し、翌1613年に全国会議が開かれ、ミハイル・ロマノフがツァーリに選出され、ロマノフ朝(1613年~1917年)を開き、ロマノフ朝は以後300年にわたって存続し、ロシア革命で崩壊するまで、ロシアを支配します。

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ミハイル・ロマノフ

 ミハイル・ロマノフ(1596年~1645年、在位1613年~45年)は、ロシアの名家ロマノフ家の出身で、イヴァン4世の皇后アナスタシアの甥の子にあたります。
若年で、しかも病弱・意志も弱かったので、モスクワ総主教の父が実権を握っていました。

 ロマノフ朝のもとで再び農奴制が強化されると、ステンカ・ラージンの率いる大農民反乱(1670年~71年)が起こります。

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ステンカ・ラージン

 ステンカ・ラージン(?~1671年)は、ドン・コサックの首領で農奴制の強化に反発し、ドン川地方で勃発した農民反乱(1667年)を指導し、貧しいコサック軍を率いてヴォルガ川下流からカスピ海南岸にまで遠征し、70年には農民反乱を起こします。

 ステンカ・ラージンの反乱に、一時はヴォルガ全域が呼応し、各地で農民による地主や官吏の殺戮が頻発しますが、その後反乱軍は敗れ、ステンカ・ラージンは捕らえられてモスクワで処刑されましたが、彼は農民の救世主とされ、彼の名は伝説・民謡にうたわれ、後世まで語り伝えられています。

 ステンカ・ラージンの反乱が鎮圧された後に即位したピョートル1世(大帝)の治世にロシア絶対主義が確立されました。

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ピョートル1世(大帝)

 ピョートル1世(大帝、1672年~1725年、在位1682年~1725年)は、異母兄フョードル3世の死後、同じく異母兄のイヴァン5世(在位1682年~89年)の共同統治者として10歳で帝位に就きますが、摂政ソフィア(イヴァン5世の姉)が実権を握り、ピョートル母子はクレムリンから追われ、モスクワ郊外の村で過ごしました。
少年時代のピョートルは、戦争ごっこに明け暮れたと云われ、2mを越える体格を持つ青年に成長しました。

 ソフィアは1689年にクーデターを起こすものの失敗に終わり、ピョートル1世の親政が始まりました。

 ピョートル1世は、ロシア社会の後進性を自覚し、西欧の技術に強い関心を示しその導入に努め、1697年~98年には250人から成る西欧使節団を派遣すると伴に、ピョートルは自らもこれに参加し、オランダの造船所では4ヶ月間職工としてハンマーを振るい訓練を積んだと云われています。
使節団はプロイセン・オランダ・イギリス・オーストリアを訪ねて西欧の軍事・造船などの技術の見聞・習得に努めました。

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ピョートル1世:船大工修行

 ピョートルは西欧から多くの学者・技術者・職人を雇い入れ、留学生を派遣し、ロシアの西欧化による近代化改革を進め。彼の改革は、産業の保護奨励、官僚制度の確立、財政改革、軍制改革をはじめ服装や日常生活の規制にまで及んだ結果、大貴族の不満が増大し、必然的に反乱が頻発しますが、ピョートルはそれらを弾圧し、農奴制を強化してロシア絶対主義を確立していきました。

 対外的には、海への出口の確保を最大の目標とし、オスマン・トルコと戦い(1695年~96年)アゾフ海沿岸の地を獲得、又西ヨーロッパでのスペイン継承戦争(1701年~13年)と同時期に起こった北方戦争(1700年~21年)でバルト海沿岸地方を獲得します。

 当時ロシアは、西欧化による近代化を進めるために西欧との直接交渉の窓口を求めていたのですが、西方のバルト海沿岸地方からフィンランドまでをスウェーデンが領有し、バルト海は「スウェーデンの湖」になっていました。

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イヴァン・マゼーパとカール12世

 そのスウェーデンで、15歳のカール12世(在位1697年~1718年)が即位すると、ポーランド・ザクセン・デンマークは北方同盟(反スウェーデン同盟)を結び、ロシアもその同盟に参加し(1699年)、1700年にデンマークがホルシュタイン公領を攻撃して北方戦争(1700年~21年)が始まると、スウェーデンに宣戦し、スウェーデン領に侵入したものの、ナルヴァの戦い(1700年)では軍事的天才の誉高い若いカール12世に大敗しました。

 カール12世がモスクワに進撃せず、ポーランドを転戦している間に、ピョートルはロシア軍を立て直し、1703年にはイングリア地方を奪取し、ネヴァ河口のデルタ地帯にペテルブルク(後のレニングラード、現在のサンクト・ペテルブルク市)を建設しました。

 ペテルブルクの建設には10年の歳月を要し、4万の農奴、5000の人足を徴発して建設を強行し、労働力を確保するために人狩りさえ行われたと云われ、1712年にはここに遷都し、「西欧への窓口」としました。

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ポルタヴァの戦い:1709年

 この間、カール12世は北方同盟を崩壊させ(1706年)、ロシアに侵入しますが(1707年)、ロシアの頑強な抵抗に遭遇、モスクワ進行を一時断念し、ロシア軍を追ってウクライナへ南下しますが、ピョートルは1709年ポルタヴァでカール12世に決戦を挑み大勝します(ポルタヴァの戦い、1709年)。敗走しやカール12世はかろうじてトルコに逃れます。

 北方戦争はその後も長期にわたって続きますが、1721年のニスタット条約で終結します。
ロシアは北方戦争に勝利し、バルト海沿岸地方を獲得し、宿願を達成すると同時に、この戦争によって北欧の大国スウェーデンは以後没落に向かい、一方ロシアは一躍ヨーロッパ最強国の一つ・東ヨーロッパの大国としての地位を確立しました。

ジョークは如何?

フルシチョフがコルホーズ養豚場の視察に出かけた。
翌日のプラウダの写真キャプション。

『豚とフルシチョフ(フルシチョフは右から2番目)』」


続く・・・
2015/11/09

歴史を歩く149

19 絶対主義国家の盛衰⑨

7 プロイセンとオーストリア②

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アーヘンの和約を祝う花火

 アーヘンの和約では、原則として全ての占領地を相互に返還し、オーストリアは国事詔書とマリア・テレジアの夫のフランツ1世の帝位承認の代わりにプロイセンにシュレジエンを割譲します。

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ロシア・ロマノフ朝皇帝エリザヴェータ

 その後、マリア・テレジアは、シュレジエンの奪回とフリードリヒ2世に対する復讐を決意し、国力の充実をはかり、行政・司法・軍事などの改革を進めるとともに、活発な外交工作を展開し、プロイセン包囲網を構築するためにロシア・フランスに接近していきます。

 ロシアとの間にはすでに同盟が成立していた(1746年)のですが、フランスとの同盟は、ハプスブルク家のオーストリアとブルボン家のフランスが200年以上にわたって覇権を争ってきた宿敵であったために交渉は難航した末に、1756年5月にやっと成立を果たします。
このことはヨーロッパの外交における一大変化で、この宿敵ハプスブルク家とブルボン家の提携は「外交革命」と呼ばれています。

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外交革命時のヨーロッパ同盟関係図

 オーストリアの復讐戦が避けられないと考えたフリードリヒ2世は、フランスと敵対しているイギリスに接近し、イギリスの援助を取り付け(1756年1月)、機先を制してザクセンに先制攻撃をかけ(1756年8月)、ここに七年戦争(1756年~63年)が始まりました。

 オーストリア・フランス・ロシアというヨーロッパの3強国を敵として戦わねばならなくなったプロイセンは、緒戦で敗走しますが、その後フランス・オーストリア(1757年)に、更にロシアに勝利し(1758年)、一時フリードリヒ2世の名声は高まります。
しかし、59年にロシア・オーストリア連合軍に大敗、ロシア軍によって一時ベルリンを占領される(1760年)など絶望的な危機に陥ります。
フリードリヒ2世は毒薬を身につけて戦場に臨みながら苦境に耐えていた時、思いがけない出来事が彼を苦境から救います。

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ピョートル3世

 1762年1月にロシアで女帝エリザヴェータが崩御、ピョートル3世が即位し(在位1762年)、ピョートル3世はドイツ出身で、生来病弱・低能で、フリードリヒ2世を崇拝し、彼に心酔していた人物です。
そのため即位すると周囲の反対を押し切ってロシア軍を召還し、プロイセンと単独で講和条約を結び(1762年5月)、続いて同盟を締結します。

 この出来事によって窮地に陥っていたフリードリヒ2世は急転直下、オーストリア軍を撃破してシュレジエンを奪回し、更にフランス軍をライン左岸に撃退します。

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ツォルンドルフの戦い・七年戦争中最大の激戦1758年の8月25日

 マリア・テレジアも、オーストリア単独でプロイセンを屈服させることは不可能であると考え、1763年にフベルトゥスブルク条約を結び、プロイセンのシュレジエン領有を最終的に認めて、七年戦争が終結しました。

 この間、イギリスとフランスは、北米とインドで植民地をめぐって激しく争い、北米のフレンチ・インディアン戦争(1755年~63年)でもイギリスが勝利し、1763年にパリ条約が結ばれました。

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フレンチ・インディアン戦争

 フリードリヒ2世は、この二つの戦争によって、プロイセンを一躍ヨーロッパの強国の地位に高め、彼は若い頃からフランスの啓蒙思想に親しみ、フランスの哲学者ヴォルテールと文通し(1736年~)、また『反マキャヴェリ論』(1739年)を著し、その中で「君主は国家第一の僕(しもべ)」という有名な言葉を残し、啓蒙専制君主の典型とされています。
宗教的寛容政策や産業の育成・司法の改革などを行っていますが、最も力を注いだのは国家財政の充実と軍備の増強であり、彼の政治の目標は後進国の上からの近代化で、その本質は専制政治でした。

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第2次ウィーン包囲

 一方、オーストリア(オーストリア・ハプスブルク家領)は、17世紀にオスマン・トルコの第2次ウィーン包囲を撃退し(1683年)、カルロヴィッツ条約(1699年)を結んでハンガリーとその周辺を確保し、オーストリアはドイツ人・マジャール人(ハンガリー)とチェック人(ベーメン)などのスラブ系諸民族を含む複合民族国家を形成することになりました。
又スペイン継承戦争によってスペイン領ネーデルランド・ミラノ・ナポリ・サルデーニャを獲得します。

 カール6世(在位1717年~40年)の死後、ハプスブルク家を相続したマリア・テレジアは、プロイセンとの戦いでシュレジエンを失うものの、第1次ポーランド分割(1772年)に参加して領土を拡大しました。
彼女は16人の子供に恵まれ、良き母・良き妻であると同時に男勝りの女帝でした。
マリア・テレジアは、夫フランツ1世(在位1745年~65年)の死後は、長子ヨーゼフ2世と共同でオーストリアを統治します。

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ヨーゼフ2世

 ヨーゼフ2世(在位1765年~90年)は、母の死後ようやく親政を始め(1780年)、若い頃にフランス啓蒙思想の影響を受けたヨーゼフ2世は啓蒙専制君主としてオーストリアの近代化に努め諸改革を実施しました。

 彼は、農奴解放(1781年)や宗教寛容政策、更に商工業の保護育成や学校・病院の建設なども行いますが、改革が急進的であったために貴族や領内の異民族の強い反抗にあって成果をあげることが出来ず、墓誌に「善良なる意図にもかかわらず、何事にも成功しなかった人ここに眠る」と彫らせています。

ジョークは如何?

ルーマニアの洪水では欧米や日本、ロシアからの援助があった。

米国からのドルは道路を復旧させた。
日本からの円は新しい橋になった。
ロシアからのルーブルは尻ふき紙になった。


続く・・・
2015/11/06

歴史を歩く148

19 絶対主義国家の盛衰⑧

7 プロイセンとオーストリア①

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 ウェストファリア条約によって、約300の領邦国家が分立するようになったドイツで最も強大だったのはハプスブルク家が統治するオーストリアですが、三十年戦争の被害が比較的少なかったドイツの北東部でプロイセンが次第に有力となり、オーストリアと並ぶドイツの二大強国に台頭してきます。

 プロイセン(プロシア)の地名は、もとバルト海沿岸に居住していたバルト系住民の名に由来し、ドイツ騎士団が13世紀にこの地を征服してドイツ人の国家を建設、16世紀初頭にドイツ騎士団領がプロイセン公国となり(1511年)、後のホーエンツォレルン家の騎士団長はプロテスタントに改宗します(1525年)。

 ホーエンツォレルン家の起源は、南ドイツの小貴族ですが、15世紀初頭にフリードリヒ1世がブランデンブルク辺境伯領の統治権を得て選帝侯と成り(1415年)、1618年にプロイセン公国のホーエンツォレルン家が断絶した結果、ブランデンブルク選帝侯が相続し、ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国は合併してブランデンブルク・プロイセン(1618年~1701年)と成りました。

 ブランデンブルク・プロイセン発展の基礎を築いた人物が、大選帝侯と呼ばれるフリードリヒ・ヴィルヘルム(在位1640年~88年)で、彼はウェストファリア条約によって東ポンメルンを獲得し、叉プロイセンに対するポーランドの宗主権を排除して完全な主権を獲得した上(1657年)、更にルイ14世がナントの勅令を廃止してユグノーを弾圧すると、約1万5000人の昇るユグノーの亡命を受け入れ、ブランデンブルク・プロイセンの経済発展にも力を尽くし、後のプロイセンの絶対主義の基礎を築いたのです。

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フリードリヒ3世(在位1688年~1701年)

 フリードリヒ・ヴィルヘルムの子、フリードリヒ3世(在位1688年~1701年)はスペイン継承戦争(1701年~13年)の際、皇帝を援助して初めて王号を認められ、プロイセン王と成ったのです(在位1701年~13年)。

 プロイセン王国(1701年~1871年)2代目の王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713年~40年)は、官僚制を整備し、産業を保護して財政の充実に努めした。
「兵隊王」の異名を持つ彼は、特に軍備の増強に力をそそぎ、徴兵制を実施し、叉全ヨーロッパから傭兵を募って長身の兵を選んで巨人部隊を創設する等、即位時には3万8000人であったプロイセンの軍隊を没時には8万3000人の軍隊に増強し、プロイセンをフランス・ロシアに次ぐヨーロッパ3番目の陸軍国としました。

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フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713年~40年)

 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世によって基礎が築かれたプロイセンの絶対主義・軍国主義を完成し、プロイセンを一躍ヨーロッパの最強国の一つにしたのが有名なフリードリヒ2世(大王、1712年~86年、在位1740年~86年)です。

 フリードリヒ2世は、皇太子時代には軍事訓練や狩猟等を嫌い、詩文や音楽(フルート演奏をよくし、作曲もしている)を愛好するのですが、「兵隊王」の父は、このような軟弱なフリードリヒに我慢がならず、優れた軍人に育てるために厳しく対峙しました。

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フリードリヒ2世(大王、1712年~86年、在位1740年~86年)

 その父に反発したフリードリヒは、18歳の時に父の西ドイツ旅行に随行し、隙を見て友人と母の実家のあるイギリスへ逃亡する計画を練ったのですが、計画は未然にもれて失敗に終わり、共謀者の友人は彼の目前で斬首されてしまいます(1730年)。

 フリードリヒ自身は側近の取りなしでかろうじて死を免れましたが、1年間監獄につながれ、この出来事はフリードリヒの生涯の転機となり、その後は軍務に精励し、父の死後プロイセン王に即位し(1740年5月)、彼の即位の5ヶ月後にオーストリアでカール6世が崩御し、マリア・テレジアが即位します。

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神聖ローマ皇帝カール6世(在位1717年~40年)

 神聖ローマ皇帝カール6世(在位1717年~40年)は、息子の死後、名門ハプスブルク家を相続できるのは男子に限ると定めた家訓に反して、一人娘のマリア・テレジアにハプスブルク家の全領土を相続させようとします。
そのためカール6世は1724年に国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオン、1713年に制定)を発布し、女子の領土相続権と領土不分割を宣言して、列国の承認を取り付けました。

 しかし、カール6世が亡くなり、マリア・テレジア(マリア・テレサ、1717年~80年、在位1740年~80年)がハプスブルク家の全領土を相続すると、バイエルン選帝侯・ザクセン選帝侯(ともにカール6世の兄ヨーゼフ1世(在位1705年~11年)の娘婿)とスペインはマリア・テレジアの相続に異議を唱えて帝位継承権を要求します。

 この時、フリードリヒ2世は、マリア・テレジアの帝位継承を認める代償として、シュレジエン(シレジア、鉄・石炭などの資源に富む豊かな地方)を要求してシュレジエンに侵入し、わずか2~3週間で全シュレジエンを占領し(1740年12月)、これを発端としてオーストリア継承戦争(1740年~48年)が始まりました。

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マリア・テレジアと夫フランツ・シュテファン、皇太子ヨーゼフ

 フリードリヒ2世のシュレジエン奪取に激怒したマリア・テレジアはシュレジエン奪回を図るもののプロイセン軍に大敗(1741年4月)、この情勢を見てフランスとスペインがバイエルン選帝侯と同盟してマリア・テレジアの相続に反対し、バイエルン選帝侯の皇帝擁立を図り、更にプロイセンもフランスと同盟を結びます(1741年)。

 これに対して、当時常にフランスと敵対していたイギリスは(当時イギリスとフランスは激しい植民地争奪戦を繰りひろげていた)オーストリアを援助しますが、オーストリア(マリア・テレジア)は、バイエルン選帝侯・ザクセン選帝侯・プロイセン・フランス・スペインを相手に戦うこととなり苦境に立たされ、オーストリアはやむなくプロイセンにシュレジエンを割譲して和約を結ぶことと成ります(1742年)。

 プロイセンの同盟離脱によってオーストリア・イギリス側が優勢となるとフリードリヒ2世は再び参戦して(1744年)オーストリアと刃を交えます。
しかし、バイエルン選帝侯(マリア・テレジアの対立候補、フランスなどの支持によってドイツ皇帝に選出されカール7世(在位1742年~45年)となる)が崩御し、マリア・テレジアの夫が正式に皇帝に選出されてフランツ1世(在位1745年~65年)となると、フリードリヒ2世は再び和約を結び、シュレジエンを確保する代わりにフランツ1世を承認します。
その後もフランス・スペインとの戦いは続きますが、最終的に1748年にアーヘンの和約が結ばれて、オーストリア継承戦争は終結しました。

ジョークは如何?

北朝鮮の原発の査察受け入れ問題か何かでカーター元大統領が
素晴らしい外交を行った.

それに対して「彼は素晴らしい元大統領だ.
最初から元大統領であってくれたらどんなによかったことか」


続く・・・
2015/11/01

歴史を歩く147

19 絶対主義国家の盛衰⑦

6 三十年戦争

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三十年戦争

 ドイツでは、アウグスブルクの和議(1555年)以後も、新教派諸侯と旧教派の皇帝・諸侯との対立が続き、ベーメン(ボヘミア、現在のチェコ共和国)の新教徒の反乱を発端として、1618年についに三十年戦争(1618年~48年)が勃発します。

 アウグスブルクの和議は、「支配者の宗教、その支配地に行われる」と云う言葉に示されているように、個人信仰の自由はなく、支配者(諸侯)の信仰の自由であって、住民は支配者が選択した宗教に従わなければなりませんでした。
従って、支配者がカトリックで住民がプロテスタント等のように、支配者と住民の信仰する宗教が異なる場合には、いつでも紛争が起きる可能性が存在したのです。

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神聖ローマ皇帝フェルディナント2世

 上述の様に三十年戦争の発端になった事件はベーメン(ボヘミア)の新教徒の反乱でした。
1617年にハプスブルク家のフェルディナント(のちの神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)がベーメン王に選出されます。
フェルディナントは、イエズス会の教育を受けて反宗教改革を推進した熱狂的なカトリック教徒で、ベーメン王になると国内の新教派の教会を次々に閉鎖し、旧教の信仰を住民に強制しました。

 この行為に憤激した新教派の人々がプラハの王宮に乗り込み、新教派弾圧の急先鋒であった二人の皇帝顧問官を王宮の窓から20m余り下の壕に突き落とす事件が起こります。
二人は奇跡的に助かったのですが、この出来事(1618年)が三十年戦争の発端となりました。

三十年戦争は大きく4つの時期分けることができます。

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フリードリヒ5世
 
 第1期(1618年~23年、ベーメン・ファルツ戦争)は、ベーメンの新教徒の反乱を中心とするドイツ国内の宗教戦争の時期に成ります。

 神聖ローマ皇帝マティアスが亡くなり、フェルディナント2世(在位1619年~37年)が帝位に就くと、ベーメン議会は彼の廃位を宣言し、カルヴァン派で新教同盟の指導者であったファルツ選帝侯フリードリヒ5世をベーメン王に選びました。

 フェルディナント2世は、旧教派諸侯の援助を得て、フリードリヒ5世をヴァイセンベルクの戦い(1620年)に破り、反乱を鎮圧します。
若し外国の介入がなければ、三十年戦争はこのまま終わる可能性が在ったのですが、デンマーク・スウェーデン(伴に新教(ルター派)国)の介入によって三十年戦争は国際戦争に発展します。

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デンマーク王クリスチャン4世の即位式

 第2期(1625年~29年、デンマーク戦争)は、デンマークが新教側を助けるために介入し、旧教側をスペインが援助したので三十年戦争は国際的な宗教戦争となった時期です。

 デンマーク王クリスチャン4世(在位1588年~1648年)は、国内では絶対王政の確立に努め、対外的には北ドイツへの領土拡大の機会を伺っていました。
そしてイギリス・オランダから軍資金援助の約束を取り付けると、ドイツの新教徒援助を口実に6万の軍を率いてドイツに侵入します(1625年)。

 しかし、デンマーク軍は名将ティリの率いる旧教連盟軍に大敗し(1626年)、皇帝軍はユトランド半島奥深くに攻め込まれ、結局デンマークは以後ドイツに一切干渉しないことを条件に和約が結ばれました(1629年)。

 第3期(1630年~35年、スウェーデン戦争)は、スウェーデンの介入によってますます激しい国際的な宗教戦争となった時期です。

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スウェーデン王グスタフ・アドルフ

 スウェーデン王グスタフ・アドルフ(グスタフ2世、在位1611年~32年)は、17歳で即位し、デンマーク・ロシア・ポーランドと戦ってバルト海に大勢力を築き、スウェーデンを北欧の一大強国とした名君で「北方の獅子」と呼ばれていました。

 1630年6月、グスタフ・アドルフはフランスから軍資金援助の約束を得て、歩兵・騎兵・砲兵からなる1万3000の軍を率いてポンメルンへ上陸します。
グスタフ・アドルフはブランデンブルク選帝侯・ザクセン選帝侯等有力な新教諸侯と同盟して、連戦連勝、破竹の進撃を続けてフランクフルト・マインツを占領し、更に進んで皇帝軍の名将ティリを破りミュンヘンを占領します(1632年)。

 絶望的な状況に追い込まれた皇帝フェルディナント2世は、この状況を打開できるのはヴァレンシュタインしかいないと考え、デンマーク戦争の際に一度は罷免したヴァレンシュタインを再び起用します。

 ヴァレンシュタイン(ワレンシュタイン、1583年~1634年)は、ベーメンの小貴族出身で、有名な傭兵隊長であり、三十年戦争初期のベーメンの反乱の時に皇帝フェルディナント2世を支持し、北ベーメンに広大な没収土地を獲得して巨万の富を築きました。
デンマーク戦争が始まると、皇帝のために自己の資金で5万の傭兵を募集し(1625年)、皇帝軍の総司令官に就き、新教軍に連戦連勝し、クリスチャン4世をドイツから駆逐しますが、彼の野心を恐れる旧教派諸侯の圧力で、罷免されます(1630年)。
しかし、グスタフ・アドルフの快進撃で戦況が悪化すると、再び起用されて総司令官に成りました。

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リュッツェンの戦い

 グスタフ・アドルフとヴァレンシュタインは、1632年のリュッツェンの戦いで激突し、激戦の中でグスタフ・アドルフは銃で撃たれて戦死しますが、王の戦死はスウェーデン軍を奮い立たせ、戦いはスウェーデン軍の勝利に終わります。

 ヴァレンシュタインはリュッツェンの戦いの後ベーメンに帰り、鳴りを潜めます。
そして皇帝には秘密のうちに新教側と和平交渉を行ったために、皇帝の疑惑を受けて罷免され、皇帝派によって暗殺されました(1634年)。

 第4期(1635年~48年、フランス・スウェーデン戦争)は、フランスの参戦によって政治戦争化した時期です。

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アクセル・グスタフソン・オクセンシェルナ;スウェーデン宰相

 フランスは、ハプスブルク家に対抗するためにデンマーク・スウェーデンを援助してきたのですが、リシュリューは1635年にスウェーデンと同盟を結び、スペインに宣戦を布告し、ドイツにも出兵して直接介入に踏みきります。

 旧教国のフランスが新教側に立って参戦したことは、三十年戦争がもはや宗教戦争ではなく、ブルボン家対ハプスブルク家の政治戦争に変わったことをよく示しています。

 戦況は一進一退を繰り返し、更に長期化し、この間、皇帝フェルディナント2世も崩御し(1637年)、戦争の長期化によって新・旧両派ともに疲弊し、和平への機運が高まっていきました。
フランス・スウェーデン側が優勢の中で、講和会議が1644年からウェストファリア地方の2都市で始まりますが、各国の利害が対立して交渉は進まず、4年間費やして、1648年にウェストファリア条約が調印されました。

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ウェストファリア条約

 近代国際会議の始まりとされているウェストファリア講和会議には66カ国が参加し、以後のヨーロッパの歴史にとって重要な項目が決定されました。

 三十年戦争の原因となった信仰の問題については、アウグスブルクの和議の原則が再確認されるとともにカルヴァン派が認められ、諸侯はカトリック・ルター派・カルヴァン派の選択の自由が認められましたが、領民には支配者と違う宗派を信仰する場合には立ち退きの自由が認められただけでした。

 ウェストファリア条約で最大の利益を得たのはフランスでした。
フランスはアルザスの大部分とメッツ・トゥール・ヴェルダンの3司教領を獲得し、スウェーデンも西ポンメルンを獲得し、ヨーロッパ大陸に初めて領土を持つことに成ります。

 ドイツの諸侯と帝国都市にはほとんど完全な主権と外交権が認められたので、ドイツには約300の領邦国家が分立することになり、神聖ローマ帝国の分裂は決定的と成りました。
そのためウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡証書」とも云われています。

 又中世末期に事実上独立していたスイスと、独立戦争によって1609年には事実上独立していたオランダの独立が国際的に承認されました。

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 三十年戦争は傭兵の戦いでも有りました。
ヴァレンシュタインのような戦争請負人=傭兵隊長が、自費で傭兵を集めて、その軍隊を皇帝や諸侯に売り込み、傭兵隊長達は民衆から軍税と称して臨時の租税を徴収し、更には都市や村落を脅して税を取り立てて軍隊の維持や戦費に充当します。
民衆は税負担のみならず、兵士達の掠奪・暴行にも苦しめられ、一般的に傭兵軍の規律は低く、給料は戦時にのみ支払われたので、戦争が無いときには、傭兵達は徒党を組んで村落を襲い、略奪・暴行の限りを尽くしたのです。

 このため戦場となったドイツ各地の農村の荒廃は激しく、三十年戦争前に1800万人であったドイツの人口は終戦時には700万人に激減したと云われ、ドイツは政治・経済・社会面で西欧諸国に比べて著しく立ち遅れることとなり、ドイツの後進性は決定的となったのです。

ジョークは如何?

 ソ連絶頂期のクレムリン。
 ブレジネフがコスイギンに云った。

 「今我国で海外渡航を解禁したら、我々二人の他誰が残るだろうね?」

 コスイギンが答えた。

 「我々二人って、いったい君以外に誰が残ると云うんだい?」


続く・・・