21ヨーロッパ列強の植民活動①
1各国の植民活動
現在に残るポルトガル・ゴア要塞 ポルトガルは、インド航路を開拓した後、インドのゴアを占領し(1510年)、其処にインド総督を置いて東洋貿易の根拠地としました。
次いでマライ半島に進出、マラッカを占領し(1511年)、東南アジア貿易の拠点とした上、更に香料の主産地であるモルッカ諸島を占領、一時香料貿易を独占します。
1600年代のマカオ 1517年には広州で明と通商を始め、1557年にはマカオに居住権を得て、対中国貿易の拠点とし、1543年にはポルトガル船が種子島に漂着したことをきっかけとして、平戸に来航(1550年)、日本とも貿易を始めました。
こうして16世紀の間、ポルトガルは東洋貿易をほぼ独占して全盛期を迎え、首都リスボンは空前の繁栄を誇ったのです。
新大陸では、1500年にブラジルを領有、16世紀後半からは海岸部で黒人奴隷を使役する砂糖黍の生産を開始します。

ポルトガル船来航 スペインは、新大陸の征服と開拓を中心に植民活動を行い、ブラジルを除くラテン・アメリカを植民地としました。
新大陸では特に各地で発見された金銀の鉱山の開発に努め、16世紀後半には新大陸の金銀を独占して全盛期を迎えます。
一方アジアでは、フェリペ2世時代にフィリッピンを領有、マニラを建設して(1571年)、この地を拠点にアジア貿易を行いました。
しかし、無敵艦隊の敗北(1588年)を発端としてスペインは衰退に向かい、代わってオランダ・イギリス・フランスが植民地獲得に進出します。
オランダ東インド会社造船施設 オランダは、独立戦争中から海外に進出していましたが、1581年に独立を達成した後、積極的に海外進出を行い、東洋には1595年に最初の艦隊を派遣し、翌年ジャワ島に到達、1602年には東インド会社を設立し、1603年に初めてジャワ島のバンタムに商館を建設します。
モルッカ諸島をめぐってポルトガルとその利権を激しく争い、17世紀初頭にはポルトガルからモルッカ諸島を奪取し、1619年にはジャワ島のバタヴィア(現在のジャカルタ)に新市を建設、オランダ総督府を設置して東洋貿易最大の根拠地としました。
オランダと同じ頃イギリスもジャワ島とモルッカ諸島に進出しますが、1623年にモルッカ諸島の基地アンボイナで、オランダはイギリス人商館員(雇用されていた日本人も含む)全員を虐殺し、モルッカ諸島からイギリス勢力を一掃、香料貿易を独占します(アンボイナ事件、1623年)。
1619年 オランダ、ジャワにバタヴィア市建設
オランダは、更にポルトガルからマラッカ(1641年)・セイロン島を奪い、アジアへの中継の拠点として南アフリカにケープ植民地を築きます(1652年)。
これより先、オランダ人は1609年に平戸に来航し、鎖国後(1639年)も対日貿易を許され、長崎の出島で日本と通商を続け、この間、中国の明末期清初期の混乱に乗じて台湾を占領(1624年~61年)ゼーランディア城を築き、中国とも貿易を行いました。
オランダは、1621年には西インド会社を設立して新大陸・アフリカでも通商・植民活動を行います。
ネイティブアメリカンから土地を購入するオランダ人 北アメリカ東岸にニューネザーランド植民地を建設し、ハドソン川のマンハッタン島にニューアムステルダムを建設して新大陸経営の拠点としました(1625年)。
ニューアムステルダムは、1664年にイギリス軍によって占領され、当時のイギリス王チャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)に因んでニューヨークと改称され、オランダは新大陸における植民地争いから脱落しました。
ニューアムステルダム イギリスは早くから東洋貿易に関心を持っていましたが、海外進出が盛んとなるのはエリザベス1世治世の時代で、特に無敵艦隊の撃破(1588年)と東インド会社の設立(1600年)によって本格化しました。
イギリスもオランダとほぼ同じ時期にモルッカ諸島へ進出しますが、1623年のアンボイナ事件で敗退し、以後はもっぱらインド経営に力を注ぐことに成ります。
当初インド西岸のスラットに商館を設け(1612年)、以後東岸南部のマドラス(1639年)、西岸のボンベイ(現ムンバイ、1661年)、そしてガンジス川下流にカルカッタ(現コルカタ、1690年)を建設し、この三大拠点を足場にしてムガル帝国の衰退・分裂に乗じて、インド経営を積極的に推し進めていきました。

イギリスインド植民地 一方、アメリカ大陸にも進出しますが、本格化したのはステュアート朝時代に入ってからで、1607年には大西洋岸に最初の永続的な植民地であるヴァージニア植民地(エリザベス女王の時に創設されたヴァージニア植民地は失敗に終わった)が建設さます。
次いでジェームズ1世の圧迫を逃れたピルグリム・ファーザーズと呼ばれるピューリタンの一団が信仰の自由を求めて北米に渡り、プリマス植民地を建設し(1620年)、以後ピューリタンの農業移民が移住し、ニューイングランド植民地が形成され、叉ピューリタンの別の一派はマサチュセッツ植民地を建設しています(1629年)。
更に1664年にはオランダのニューネザーランド植民地の中心ニューアムステルダムを攻略してニューヨークと改称するなど、18世紀前半までに13の植民地が成立しました。
北アメリカの植民地 フランスは、アンリ4世時代に東インド会社を設立し(1604年)、北アメリカにもケベックを建設(1608年)しますが、フランスの海外進出が本格化するのは、ルイ14世時代のコルベールによる重商主義政策によってです。
コルベールによって1664年に再建された東インド会社は、シャンデルナゴル(カルカッタの近く、1673年)・ポンディシェリ(マドラスの南、1674年)を獲得し、ここを拠点としてイギリスに対抗しながらインドでの勢力の拡大を謀りました。
叉北アメリカでは、ケベックを拠点にカナダに植民し、毛皮取引等を行い、1664年にはコルベールによって西インド会社が設立され、セントローレンス川流域・五大湖周辺更にミシシッピ川流域の広大な地域(ルイ14世に因んでルイジアナと命名)を領有し、イギリスの植民地を北西から大きく包囲し、更には西インド諸島のハイチ(1697年)やアフリカ西岸のセネガル(1638年)、マダガスカル島にも植民地を開拓していきました。
ジョークは如何?
Q: アクシデント(事故)とカタストロフィーの違いは?。
A:主席以下共産党指導者を乗せた飛行機が墜落することがアクシデント。
そいつらが無事救出去れることがカタストロフィー続く・・・