2015/12/23

歴史を歩く161

21ヨーロッパ列強の植民活動③

3奴隷貿易

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奴隷船への積み込み

 ポルトガル人によるアフリカ西岸の探検以来、ヨーロッパ諸国による黒人奴隷貿易が始まりました。
特に16世紀にスペインが新大陸での金銀の鉱山開発に、黒人奴隷を使役するようになると、黒人奴隷貿易は活発化します。

 スペイン人は、新大陸での金銀の鉱山開発に当初は原住民のインディヘナを強制的に使役しましたが、酷使によってインディヘナ人口が激減し、労働力が不足すると、アフリカの黒人奴隷を大量に輸入して使役するように成ります。

 しかし、17世紀に入ると新大陸の金銀が枯渇し始め、黒人奴隷は鉱山労働に代わって、砂糖黍栽培の労働力として使役されるようになります。

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砂糖黍プランテーションの黒人奴隷労働者

 18世紀にイギリスで紅茶を飲む習慣が普及すると共に、砂糖消費量が飛躍的に伸びた結果、17世紀にはブラジルで、18世紀に入ると西インド諸島で黒人奴隷を労働力とする砂糖黍のプランテーションが発達し、其れと共に黒人奴隷貿易は最盛期を迎え、大量の黒人奴隷がアフリカから新大陸に運ばれたのでした。

 17~19世紀(18世紀がピーク)にかけてアフリカから新大陸に運ばれた黒人奴隷の数は1000万人前後と推定されていますが、彼等は暴動を防ぐために船底に鎖につながれ、身動きできないほどのすし詰め状態で運ばれたため、途中で約3分の1が船中で死亡したと云われ、その数を加えると1000万人以上の黒人奴隷がアフリカから輸出されたと推定されています。

 黒人奴隷の多くはアフリカ西海岸、特にギニア湾岸の地域(現在のナイジェリア・ベナン・トーゴ共和国の周辺は奴隷海岸と呼ばれた)の地域から連れ去られ、当時この地域では部族間の抗争が続いていたため、ヨーロッパ諸国の商人は武器を輸出し、部族同士を戦わせ、その戦争捕虜を奴隷としたのです。
そのため部族間の抗争に敗れれば奴隷とされるので、抗争に勝つためにより多くの武器を手に入れようとしますが、ヨーロッパ商人は奴隷との交換でないと武器を売らなかったので、奴隷狩りも盛んに行われました。

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三角貿易

 こうして、ヨーロッパからアフリカへ武器・雑貨を輸出して黒人奴隷と交換し、アフリカの黒人奴隷を西インド諸島に運んで砂糖と交換するヨーロッパ・アフリカ・新大陸間の三角貿易が盛んとなり、イギリス等のヨーロッパ列強はこれによって莫大な利益を得ることに成ります。

 労働力としての黒人奴隷の対象になったのは若い男女の黒人で、黒人奴隷を連れ去られたアフリカ西海岸を中心とする地域では、人口が減少し、貴重な労働力を失って社会の発展は阻害され、次第に後進地域に陥っていきました。

 この非人道的な黒人奴隷貿易は19世紀初頭まで続き、黒人奴隷貿易に対する反対運動はフランス革命の中から起こり、イギリスでは1807年にまず奴隷貿易が禁止され、1833年には植民地での奴隷制が廃止されました。

ジョークは如何?

ユダヤ人のジレンマ:ハムの無料セール

解説
ユダヤ人は金にうるさく無料は大好きだが、ユダヤ教の戒律によりハムを食べられない

続く・・・

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2015/12/18

歴史を歩く160

21ヨーロッパ列強の植民活動②

2イギリスとフランスの抗争

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英蘭戦争(1652年~74年)

 オランダは、17世紀を通して海上権を握り、香料貿易を独占して繁栄しましたが、3回にわたる英蘭戦争(1652年~74年)に敗れて植民地闘争から脱落すると、イギリス・フランス両国の抗争が激しくなります。
このイギリスとフランスの植民地・海上権をめぐる抗争は、中世の百年戦争になぞらえて第2次英仏百年戦争(1689年~1815年)とも呼ばれています。

 当時の植民地抗争はヨーロッパにおける国際戦争が植民地に波及する形態のため、イギリスとフランスもヨーロッパで国際戦争がおこると北アメリカとインドで激しい植民地争奪戦を展開しています。

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ウィリアム3世(オラニエ公ウィレム3世)

 ヨーロッパでファルツ継承戦争(1689年~97年)が始まると、北アメリカでウィリアム王戦争(1689年~97年)がおこり、双方ともに決定的な勝利は得られず引き分けの形で終わっています。

 次いでスペイン継承戦争(1701年~13年)が始まると、北アメリカでアン女王戦争(1702年~13年)が勃発、この戦いにはフランス側にスペインも参戦しましたが、イギリス優勢のうちに終わり、1713年に結ばれたユトレヒト条約で、イギリスはフランスからハドソン湾地方・アカディア・ニューファンドランドを、更にスペインからはジブラルタルとミノルカ島を獲得しています。

 その後オーストリア継承戦争(1740年~48年)・七年戦争(1756年~63年)がおこると、イギリスはフランスの関心をヨーロッパ大陸に向けさせ、自らは北アメリカ・インドに総力を結集してフランスを撃破しました。

 オーストリア継承戦争と並行して、北アメリカでジョージ王戦争(1744年~48年)がおこりますが、勝敗はつかず、相互に占領地を返還して終わっています。

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インド総督デュプレクス(1697年~1763年)

 この間、インドではフランスのインド総督デュプレクス(1697年~1763年)が活躍し、1746年以降、中・南部インドでイギリス軍を圧倒し、イギリス勢力をインドから一掃する勢いを示しましたが、デュプレクスは1754に本国に召還されています。

 七年戦争が始まると、フランスが宿敵ハプスブルク家と結んでヨーロッパでの戦いに全力を挙げたのに対し、イギリスは植民地争いに全力を注ぎ、インドでは、一時帰国していたクライブ(1725年~74ねN)を急遽インドに呼び返します。
クライブは、イギリス東インド会社の書記としてインドに渡り、傭兵隊の将校として活躍しましたが、当時は本国に帰国していました。
彼はインドに戻るや、傭兵隊を率いてカルカッタの北方のプラッシーの戦い(1757年)でフランス・ベンガル藩王連合軍に圧勝し、インドにおけるイギリスの覇権を確立します。

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プラッシーの戦い(1757年)

 一方、北アメリカでは、この頃イギリス植民地がアパラチア山脈を越えてオハイオ川流域に進出すると、この地域のインディアン及びフランスと衝突し、フレンチ・インディアン戦争(1755年~63年)が発生、イギリスはインディアンと結んだフランスと戦い、1759年にフランスの拠点ケベックを占領して優位に立ち、この戦いに圧勝します。

 1763年にパリ条約が結ばれ、イギリスはフランスからカナダ及びミシシッピ以東のルイジアナ・西インド諸島の一部・セネガルを獲得し、スペインからフロリダを獲得しました。

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 フランスはフロリダの代償としてミシシッピ以西のルイジアナをスペインに譲渡した結果、北アメリカにおける植民地をすべて喪失し、イギリスは北アメリカ及びインドでのフランスとの長期にわたる植民地抗争に勝利し、後の大英植民地帝国の地位を確立しました。

ジョークは如何?

僕は小さい頃から『誰でも(anybody)大統領になる事が出来るチャンスがある』と聞かされてきました。
今レーガン大統領をみて、本当に誰でも(anybody)大統領になる事が出来るのだという事を知りました。

※補足
*anybodyには『つまらん奴』という意味もある。

続く・・・



2015/12/15

歴史を歩く159

21ヨーロッパ列強の植民活動①

1各国の植民活動

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現在に残るポルトガル・ゴア要塞

 ポルトガルは、インド航路を開拓した後、インドのゴアを占領し(1510年)、其処にインド総督を置いて東洋貿易の根拠地としました。
次いでマライ半島に進出、マラッカを占領し(1511年)、東南アジア貿易の拠点とした上、更に香料の主産地であるモルッカ諸島を占領、一時香料貿易を独占します。

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1600年代のマカオ

 1517年には広州で明と通商を始め、1557年にはマカオに居住権を得て、対中国貿易の拠点とし、1543年にはポルトガル船が種子島に漂着したことをきっかけとして、平戸に来航(1550年)、日本とも貿易を始めました。

 こうして16世紀の間、ポルトガルは東洋貿易をほぼ独占して全盛期を迎え、首都リスボンは空前の繁栄を誇ったのです。

 新大陸では、1500年にブラジルを領有、16世紀後半からは海岸部で黒人奴隷を使役する砂糖黍の生産を開始します。

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ポルトガル船来航


 スペインは、新大陸の征服と開拓を中心に植民活動を行い、ブラジルを除くラテン・アメリカを植民地としました。
新大陸では特に各地で発見された金銀の鉱山の開発に努め、16世紀後半には新大陸の金銀を独占して全盛期を迎えます。

 一方アジアでは、フェリペ2世時代にフィリッピンを領有、マニラを建設して(1571年)、この地を拠点にアジア貿易を行いました。

 しかし、無敵艦隊の敗北(1588年)を発端としてスペインは衰退に向かい、代わってオランダ・イギリス・フランスが植民地獲得に進出します。

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オランダ東インド会社造船施設

 オランダは、独立戦争中から海外に進出していましたが、1581年に独立を達成した後、積極的に海外進出を行い、東洋には1595年に最初の艦隊を派遣し、翌年ジャワ島に到達、1602年には東インド会社を設立し、1603年に初めてジャワ島のバンタムに商館を建設します。
モルッカ諸島をめぐってポルトガルとその利権を激しく争い、17世紀初頭にはポルトガルからモルッカ諸島を奪取し、1619年にはジャワ島のバタヴィア(現在のジャカルタ)に新市を建設、オランダ総督府を設置して東洋貿易最大の根拠地としました。

 オランダと同じ頃イギリスもジャワ島とモルッカ諸島に進出しますが、1623年にモルッカ諸島の基地アンボイナで、オランダはイギリス人商館員(雇用されていた日本人も含む)全員を虐殺し、モルッカ諸島からイギリス勢力を一掃、香料貿易を独占します(アンボイナ事件、1623年)。

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1619年 オランダ、ジャワにバタヴィア市建設

 オランダは、更にポルトガルからマラッカ(1641年)・セイロン島を奪い、アジアへの中継の拠点として南アフリカにケープ植民地を築きます(1652年)。

 これより先、オランダ人は1609年に平戸に来航し、鎖国後(1639年)も対日貿易を許され、長崎の出島で日本と通商を続け、この間、中国の明末期清初期の混乱に乗じて台湾を占領(1624年~61年)ゼーランディア城を築き、中国とも貿易を行いました。

 オランダは、1621年には西インド会社を設立して新大陸・アフリカでも通商・植民活動を行います。

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ネイティブアメリカンから土地を購入するオランダ人

 北アメリカ東岸にニューネザーランド植民地を建設し、ハドソン川のマンハッタン島にニューアムステルダムを建設して新大陸経営の拠点としました(1625年)。

 ニューアムステルダムは、1664年にイギリス軍によって占領され、当時のイギリス王チャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)に因んでニューヨークと改称され、オランダは新大陸における植民地争いから脱落しました。

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ニューアムステルダム

 イギリスは早くから東洋貿易に関心を持っていましたが、海外進出が盛んとなるのはエリザベス1世治世の時代で、特に無敵艦隊の撃破(1588年)と東インド会社の設立(1600年)によって本格化しました。

 イギリスもオランダとほぼ同じ時期にモルッカ諸島へ進出しますが、1623年のアンボイナ事件で敗退し、以後はもっぱらインド経営に力を注ぐことに成ります。
当初インド西岸のスラットに商館を設け(1612年)、以後東岸南部のマドラス(1639年)、西岸のボンベイ(現ムンバイ、1661年)、そしてガンジス川下流にカルカッタ(現コルカタ、1690年)を建設し、この三大拠点を足場にしてムガル帝国の衰退・分裂に乗じて、インド経営を積極的に推し進めていきました。

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イギリスインド植民地


 一方、アメリカ大陸にも進出しますが、本格化したのはステュアート朝時代に入ってからで、1607年には大西洋岸に最初の永続的な植民地であるヴァージニア植民地(エリザベス女王の時に創設されたヴァージニア植民地は失敗に終わった)が建設さます。
 
 次いでジェームズ1世の圧迫を逃れたピルグリム・ファーザーズと呼ばれるピューリタンの一団が信仰の自由を求めて北米に渡り、プリマス植民地を建設し(1620年)、以後ピューリタンの農業移民が移住し、ニューイングランド植民地が形成され、叉ピューリタンの別の一派はマサチュセッツ植民地を建設しています(1629年)。

 更に1664年にはオランダのニューネザーランド植民地の中心ニューアムステルダムを攻略してニューヨークと改称するなど、18世紀前半までに13の植民地が成立しました。

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北アメリカの植民地

 フランスは、アンリ4世時代に東インド会社を設立し(1604年)、北アメリカにもケベックを建設(1608年)しますが、フランスの海外進出が本格化するのは、ルイ14世時代のコルベールによる重商主義政策によってです。

 コルベールによって1664年に再建された東インド会社は、シャンデルナゴル(カルカッタの近く、1673年)・ポンディシェリ(マドラスの南、1674年)を獲得し、ここを拠点としてイギリスに対抗しながらインドでの勢力の拡大を謀りました。

 叉北アメリカでは、ケベックを拠点にカナダに植民し、毛皮取引等を行い、1664年にはコルベールによって西インド会社が設立され、セントローレンス川流域・五大湖周辺更にミシシッピ川流域の広大な地域(ルイ14世に因んでルイジアナと命名)を領有し、イギリスの植民地を北西から大きく包囲し、更には西インド諸島のハイチ(1697年)やアフリカ西岸のセネガル(1638年)、マダガスカル島にも植民地を開拓していきました。

ジョークは如何?

Q: アクシデント(事故)とカタストロフィーの違いは?。

A:主席以下共産党指導者を乗せた飛行機が墜落することがアクシデント。
そいつらが無事救出去れることがカタストロフィー


続く・・・

2015/12/11

歴史を歩く158

20イギリス立憲政治の発達④

4議会政治と政党内閣

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ウィリアム3世とメアリ2世

 ウイリアム3世(在位1689年~1702年)は、オランダ人であったのでイギリス国民からはあまり好感を持たれませんでしたが、議会と協調し、政党政治への道を開いた人物です。

 当時の国王は、一方の党からだけ大臣をとり、これによって拘束されることを嫌って両党の代表者による連立内閣を組織させました。

 ウイリアム3世も当初はトーリー・ホイッグ両党から半数ずつの大臣を任命して連立内閣を組織させましたが政争が絶えず、晩年にはホイッグ党に内閣を組織させ、トーリー党の大臣を退けています(1694年)。
ここに議会の多数党に内閣を組織させるという政党政治が開始されました。

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ウイリアム王戦争・ニューイングランド艦隊を砲撃するヌーベルフランス軍

 ウイリアム3世時代のイギリスは、ファルツ継承戦争(1688年~97年)が起こると、それに呼応して北米の植民地でもフランスと戦い(ウイリアム王戦争、1689年~97年)、更にスペイン継承戦争(1701年~13年)にも参戦しましたが、間も無くウイリアム3世自身が落馬事故のため崩御しています。

 ウイリアム3世には子が居らず、メアリの妹であるアンが王位を継承し、アン女王(在位1702年~14年)が即位しました。

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アン女王(在位1702年~14年)

 アン女王は、ウイリアム3世の政策を引き継ぎ、スペイン継承戦争でルイ14世と戦い、北米の植民地でもフランスとの間にアン女王戦争(1702年~13年)を戦って勝利し、ユトレヒト条約(1713年)でフランスからハドソン湾・アカディア・ニューファンドランドを獲得しています。

 叉アン女王の時代の1707年に、イギリスはそれまで同君連合の関係にあったスコットランドを合併して大ブリテン王国(Great Britain)が成立し、1603年にスコットランド王ジェームズ6世がイギリス王位を継承してジェームズ1世となり、ステュアート朝を創始して以来、スコットランドはイギリスと同君連合の関係に有りました。

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ジョージ1世

 アン女王の死後、ステュアート朝が断絶し(アン女王は16人の子をもうけていましたが、総て早世していたため)、遠縁にあたるドイツのハノーヴァー選帝侯が迎えられてジョージ1世として即位し、ハノーヴァー朝(1714年~1917年、現王室)が始まりました。
ハノーヴァー朝は第一次世界大戦中の1917年に敵国ドイツの地名を嫌って、王宮所在地名のウィンザー朝と改称し、現在のエリザベス2世に至ります。

 ジョージ1世(在位1714年~27年)は、ジェームズ1世の曾孫(母がジェームズ1世の孫のソフィア)であったので、ステュアート朝の断絶によってイギリス王と成りますが、この時既に54歳で英語を解せず、イギリスの制度・慣習等についても知識が乏しく、しかもイギリスよりもドイツに滞在することの方が多かった結果、政務をもっぱら大臣に委ね、特に1721年~42年の約20年間はホイッグ党のウォルポールに国政を委ねていました。

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ロバート・ウォルポール(1676年~1745年)

 ウォルポール(1676年~1745年)は、ジェントリの家に生まれ、ケンブリッジ大学を卒業し、1701年にホイッグ党から下院議員に当選して政界に進出しました。
ジョージ1世の厚い信頼を受け、1721年に蔵相であったウォルポールが最初の首相となり、以後約20年間にわたって政権を担当し、健全財政と平和外交に尽力してイギリスの繁栄を支えましたが、1742年に総選挙で敗れて退陣しています。

 このウォルポールによって、内閣は国王に対してではなく議会に対して責任を負う、責任内閣制度が確立し、「国王は君臨すれども統治せず」の伝統が生まれました。

 しかし、当時のイギリスの議会制度はいまだに未完成で、議員の資格や参政権は相当の土地を所有する地主(ジェントリや貴族)に限られ、投票の秘密はなく、投票権の売買さえ行われ、まだ民主的なものといえず、その根本的な改革は1832年の第1次選挙法改正を待たねば成りませんでした。

ジョークは如何?

Q ヒトラーとゲッペルスとゲーリングが乗っていた飛行機が墜落した。
  助かったのは誰か?

A ドイツ国民

続く・・・
2015/12/08

歴史を歩く157

20イギリス立憲政治の発達③

3王政復古と名誉革命

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リチャード・クロムウェル

 クロムウェルの死後、子のリチャード・クロムウェルが護国卿の地位を継いだのは前述の通りですが、その頃開かれた新議会では長老派が勢力を盛り返し、王党派との妥協を謀っていました。

 リチャード・クロムウェルが護国卿を辞任すると、長老派勢力が中心となって、フランスに亡命していた(1651年~60年)チャールズ1世の子を国王として迎え、彼は1660年に帰国してチャールズ2世(1630年~85年、在位1660年~85年)として即位します(王政復古)。

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イングランド王位に就くためにロッテルダムを出港するチャールズ2世の艦隊。

 但し、この王政復古には幾つかの条件が付けられていましたが、チャールズ2世は帰国の直前にオランダのブレダで宣言を発し(ブレダ宣言、1660年)、父チャールズ1世の死刑宣告書にサインした生存中の政治犯の大赦・ピューリタン革命中に没収或いは売却された土地に対する購入者の権利の承認・信仰の自由・軍隊の未払い給与の支払い等を約束しました。

 しかし、チャールズ2世は即位後この公約を履行せず、既に死亡していたクロムウェルの墓をあばいて遺体に対する絞首刑を執行すると共に(1661年)、多くの生存者を死刑や投獄刑に処し、叉革命中に没収・売却された土地を無償で元の所有者に戻し、宗教についてもピューリタンを地方の公職から追放する(1661年)等ピューリタンに対する圧迫を強めた結果、ピューリタンの勢力は次第に衰え、ジェントリや商工業者の中には国教会に改宗する者も多かったのです。

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チャールズ2世の帰還 

 更にフランス亡命中にルイ14世の影響を受けていたチャールズ2世は、ルイ14世と密約を結び(ドーヴァー密約、1670年)、ルイ14世のオランダ侵略を支援することやカトリックの復活を公約していたことから、カトリック擁護・復活政策に対して議会は、1673年に官吏と議員を国教徒に限るという審査法(審査律)を制定し、カトリック教徒を公職から追放し、更に1679年には人身保護法(人身保護律)を制定し、国民を不当に逮捕しないことを定めますが、これに対してチャールズ2世は議会を開催せず(1681年~85年)に対抗したために議会との対立がますます強まっていきました。

 王政復古後の1661年に召集された新議会では王党派が多数を占めていましたが、もはや国王は課税権を持たず、財政権は議会が握っていたので、国王は議会を無視して政治を行うことは不可能で、議会は立法府としての機能を発揮し始めており、この様な状況の中で1670年代末頃からトーリー党とホイッグ(ウィッグ)党の2つの政党が誕生しました。

 チャールズ2世には子が居らず、王弟でカトリック教徒のヨーク公(後のジェームズ2世)の王位継承が大きな問題となっていました。

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ジェームズ2世(1633年~1701年、在位1685年~88年)

 トーリー党(反対派からつけられたあだ名でアイルランドの無法者の意味)は、王弟ジェームズの王位継承排除法案への反対者で組織されており、貴族や地主に支持され、王権や国教会擁護を主張し、トーリー党は後に保守党に発展して行きます。

 これに対してホイッグ党(トーリーが呼んだあだ名でスコットランドの謀反人の意味)は、王弟ジェームズの王位継承排除法案に賛成する人々で組織され、都市の商人や非国教徒の支持を受け、議会を中心とし王権を制限することを主張し、ホイッグ党は後に自由党に発展していきます。

 王弟ジェームズの王位継承排除法案は下院を通過しましたが、上院で否決され、1685年にチャールズ2世が亡くなると、王弟ジェームズがジェームズ2世として即位しますが、兄のチャールズ2世よりさらに反動的であったジェームズ2世(1633年~1701年、在位1685年~88年)は、即位すると専制政治の強化とカトリックの復活をはかり、議会と対立しました。
唯、彼には男子がなく、ステュアート朝の断絶が予想されたので、トーリー党が多数の議会はあまり強く抵抗しませんでした。

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オラニエ公ウィレムとメアリ

 しかし、1688年に王子が誕生すると、トーリー党とホイッグ党は結束し、ジェームズ2世の長女メアリの夫・オランダのオラニエ公ウィレム(後のウイリアム3世)に招請状を送り、武力援助を要請しました。

 オラニエ公ウィレムが、14000の軍を率いてイギリスに上陸すると、軍や臣下にも見放されたジェームズ2世は抗戦を断念してフランスに亡命し(1688年12月)、翌1689年2月、議会は王位の空席を宣言した後に「権利の宣言」を議決し、オラニエ公ウィレムとメアリの即位の条件として提出します。
両者はこれを承認し、共同統治者ウイリアム3世(在位1689年~1702年)ならびにメアリ2世(在位1689年~1694年)として即位しました。
これが名誉革命(1688年~89年)で、イギリス人はこの無血革命を誇ってGlorious Revolutionと呼びますが、日本では名誉革命と訳されています。
 
 議会は同年12月、「権利の宣言」を「権利の章典」として制定し(1689年)、権利の章典は、全13項目から構成され、これにより王権に対する議会の優越が確認され、イギリス立憲王政が確立されました。

 イギリス憲法史上最も重要な文書である権利の章典の主な項目は次の通りです。(抜粋)

1 王は、その権限によって、議会の同意なしに、法の効力を停止、法の執行を停止を行う権力があるという主張は違法である。
4 国王大権を口実として、議会の承認なしに、議会が承認するよりも長期にわたり、又議会が承認する行為と異なる方法で、王の使用のために金銭を徴収することは違法である。   
6 議会の同意しない限り、平時に王国内で常備軍を徴募し維持することは、法に反する。
8 国会議員の選挙は自由でなければならない。
9 議会での言論の自由や討論や議事手続きは、議会以外の如何なる裁判所や場所でも弾劾されたり問題とされてはならない。
13 また、すべての苦情を除き、法を修正・強化・保持するため、議会はしばしば開かれなければならない。等々   (山川出版社「詳説世界史」より)

ジョークは如何?

1920年、英国の自由党と保守党の戦時連立政権は議会で勢力を保っていた。
ある自由党議員が労働党に鞍替えしたとき、チャーチル(保守党)はこう言った。

「沈みつつある船に向かって泳いでいくネズミというのを初めて見たよ」


続く・・・

2015/12/04

歴史を歩く156

20イギリス立憲政治の発達②

2 ピューリタン革命

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内乱勃発

 1642年、ついに王党派と議会派の間で内乱が勃発します。

 王党派(国王派)は経済的に発展が遅れたイングランド西北部を地盤とし、貴族・特権商人・保守的なジェントリ等に支持され、宗教的には国教徒が中心でした。

 これに対して、議会派はロンドンを中心に商工業の発達したイングランド東南部を地盤とし、進歩的なジェントリ・ヨーマン・商工業者等に支持され、宗教的にはピューリタンが中心でした。

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鉄騎隊:ネーズビーの戦い(1645年)

 戦況は当初王党派が優勢でしたが、やがてオリヴァ・クロムウェルが鉄騎隊を編成してからは次第に議会派が優勢となっていきます。
鉄騎隊は、クロムウェルが信仰心にもえるピューリタンのジェントリ・ヨーマンを中心に編成した騎兵隊で、規律と闘志にすぐれ、議会派の勝利に大いに貢献しました。

 議会派軍はネーズビーの戦い(1645年)で決定的な勝利をおさめ、チャールズ1世はスコットランドに逃亡しますが、議会派に身柄を引き渡されて幽閉され(1647年1月)、第1次内乱は終結します。

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チャールズ1世
 
 しかし、この頃から議会派内部では長老派と独立派の対立が起こっていました。
長老派と独立派の名称はピューリタンの派の名称に由来しており、長老派は、長老教会制度、すなわち個別の教会が長老会の支配下におかれると共に、全国の教会が長老会の指導下に置かれる全国的な統一教会の実現を目指し、政治的には国王と妥協した立憲王政の実現を模索し、進歩的なジェントリやロンドンの大商人に支持されていました。

 これに対して、独立派は個別の教会の自主性を尊重する教会制度を目指しました。
政治的には、当初王権の制限と議会主権を主張しますが、後には制限選挙による共和政を主張し、ヨーマンや商工業者の支持を集め、クロムウェルはこの独立派の指導者でした。

 更に1647年頃から水平派(平等派)が現れます。
水平派は貧農・手工業者・小市民・軍の兵士等に支持され、普通選挙による共和政を主張しました。

 こうした議会派内部での分裂・対立に乗じて、チャールズ1世が脱出し(1647年.12年)、翌年には第2次内乱が始まりますが、クロムウェルは王党派及び国王と同盟したスコットランド軍を破って国王を再び捕らえ、第2次内乱は3ヶ月で終焉します(1648年)。

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オリヴァ・クロムウェル(1599年~1658年)

 オリヴァ・クロムウェル(1599年~1658年)は、イングランド東部のジェントリの家庭に生まれ、幼少の時からピューリタンの影響を受け、熱心なピューリタンに成長し、ケンブリッジ大学(父の死で中退)で学んだ後、帰郷して所領の経営にあたり、1628年に下院に選出され、1640年には長期議会にも選出されました。
ピューリタン革命が勃発すると、鉄騎隊を編成して議会派の劣勢をはね返し、独立派の中心人物として軍の改革を進めました。

 クロムウェルはネーズビーの戦い(1645年)で王党派軍を大破し、第2次内乱が始まるとスコットランド軍を破って国王を再び捕らえ(1648年)、そして尚も国王と妥協を続ける長老派を水平派と結んで議会から追放し(1648年12月)、翌1649年1月国王チャールズ1世を国家に対する反逆者として処刑し、イギリス史上初めての共和政(コモンウェルス、1649年~60年)を樹立しました。

 更に49年春、普通選挙を主張する水平派が革命の徹底化を求めて反乱を起こすと、クロムウェルは中産階級や地主の利益を養護する立場から、水平派を弾圧し、その指導者を処刑します。

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チャールズ1世の処刑

 この間、チャールズ1世が処刑されると、子のチャールズ(後のチャールズ2世)が即位を宣言し、スコットランド・アイルランドは彼を支持しますが、チャールズは後にクロムウェルに敗れてフランスに亡命します(1651年)。

 クロムウェルは王党派の殲滅を口実に、カトリック派の拠点となったアイルランドに遠征し(1649年~52年)、この地を征服してアイルランド人の土地を没収、イングランドの地主に分与したため、アイルランド人は以後イングランドの不在地主の小作人となり、苛酷な収奪に苦しめられることとなります。

 アイルランドは、ケルト人の住む島で、5世紀以後カトリックが普及しており、12世紀後半にイギリスの支配下に置かれ、16世紀にはヘンリ8世がアイルランド王を称しますが、上述の通り1649年のクロムウェルの征服によって植民地的地位に落とされ、アイルランド人は以後宗教・政治・土地所有等の差別に苦しむことに成ります。

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ゴールウェイ:議会派が落とした最後のアイルランド人拠点で、1652年に降伏

 叉チャールズ1世の子チャールズがスコットランドに拠って王権回復を謀った結果、クロムウェルはスコットランド遠征を行い(1650年)、スコットランド軍を破ってこの地を征服しました。
翌1651年には、中継貿易を主体とするオランダに打撃を与えるために、航海法(航海条例)を発布し、イギリスとの商品輸出入をイギリス船叉は当事国(地域)の船に限定します。

 航海法は、当時ヨーロッパ随一の商船保有国であり・アジア・新大陸の産物をヨーロッパ各国に転売して利益を上げていたオランダ商船をイギリスから閉め出すこと、及びイギリスの植民地貿易の独占を目的としており、航海法の発布は中継貿易を主体とするオランダにとっては大打撃でした。

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チャールズ2世

 このため、航海法の発布が原因となって第1次英蘭(イギリス・オランダ)戦争(1652年~54年)が始まり、イギリスとオランダは海上の覇権を巡って激しく争いますが、オランダ側の貿易損害が大きく講和条約が結ばれ、英蘭戦争はその後、第2次(1665年~67年)、第3次(1672年~74年)と続きますが、イギリスは次第にオランダを圧迫し、オランダから海上覇権を奪い、17世紀に繁栄したオランダが没落していく大きな原因と成りました。

 クロムウェルは、厳格なピューリタンの禁欲主義に基づく軍事独裁制を行ない、劇場の閉鎖・賭博や売春の禁止等、庶民の娯楽を奪った結果、次第に国民の反発が高まる中で、1658年9月に死去します。

 クロムウェルの死後、子のリチャード・クロムウェル(1626年~1712年)が護国卿に就任しましたが、彼は無能で人望が全く無く、軍の要求に屈して議会を解散したために議会の支持を失い、就任後わずか8ヶ月で辞任し(1659年)、そして翌1660年、フランスに亡命していたチャールズ1世の子が帰国してチャールズ2世として即位しました(王政復古)。

ジョークは如何?

知的で善良なナチは存在しないことは、論理的に証明できる。

知的なナチは善良でなく、
善良なナチは知的でなく、
知的で善良な人間はそもそもナチにはならない。


続く・・・
2015/12/01

歴史を歩く155

20イギリス立憲政治の発達①

1 王権と議会の対立

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ジェームズ1世(1566年~1625年、在位1603年~25年)

 イギリスではエリザベス1世の崩御をもってテューダー朝が断絶し、遠縁にあたるスコットランドのステュアート家が王位を継承し、ジェームズ1世が即位しました。

 ジェームズ1世(1566年~1625年、在位1603年~25年)は、スコットランド女王メアリ・ステュアートの子に生まれ、1歳でスコットランド王ジェームズ6世(在位1567年~1625年)として即位し、エリザベス1世の死でテューダー朝が断絶すると、彼の曾祖母がヘンリ7世の娘であったことからイギリス王位を継いでジェームズ1世として即位し、ステュアート朝(1603年~49年、1660年~1714年)を開きます。

 ジェームズ1世は「監督なくば国王なし」と唱えて、イギリス国教会の監督制度(イギリス国王を首長として、教会は国家の監督・支配を受ける)を重視し、ピューリタン(イングランドのカルヴァン派)・カトリック教徒を圧迫したため、ピルグリム・ファーザーズの新大陸移住を引き起こしました(1620年)。

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ピルグリム・ファーザーズ、プリマス上陸

 ピルグリム・ファーザーズとは信仰の自由を求めてメイフラワー号で北米のプリマスに移住した102名のピューリタンと非国教徒の人々を意味します。

 叉ジェームズ1世は、イギリスの国情・特に議会についての理解に乏しく、王権神授説(国王の支配権は王の祖先が神から直接に授けられたものであり、王権は如何なる制限も受けないとする論理)を信奉し、議会を無視して増税や大商人に独占権を付与したので、しばしば議会と対立しました。

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チャールズ1世(在位1625年~49年)

 次のチャールズ1世(在位1625年~49年)も王権神授説を信奉し、フランスの新教徒援助に失敗し(1627年)、戦費支出の増大による財政難を打開するために課税を強化し、叉国教会を強制してピューリタンを弾圧したため議会との対立が激化して行きます。

 この頃、イギリスでは毛織物工業を中心に商工業が発達し、市民階級(ブルジョアジー、中世には都市の市民を指しますが、近代では貴族に対して都市の富裕な商工業者を指すようになります)の力が強まり、更に農村でも荘園制が崩壊する中で多くの独立自営農民(ヨーマン)が生まれ、多くのヨーマンは農耕と共に羊毛・毛織物生産に従事し、中には毛織物マニュファクチュアを営む富農も現れていました。

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議会に於けるジェントリ

 特にジェントリと呼ばれた地主階級が地方行政や議会で活躍します。
ジェントリは郷紳と訳されてジェントルマンの語源と成りますが、身分的には貴族の最下層・ヨーマンよりは上層の地主階級で、富裕なヨーマンや商人が土地を買い取ってジェントリに成って行きました。

 この様な中産階級の人々にはピューリタンが多く、彼らは議会を通して権利を伸ばそうとした結果、貴族や特権大商人と結びついていた絶対王政と対立していました。

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権利の請願

 1628年、議会は権利の請願を王に提出します。
権利の請願は、全11条から成り、議会の同意なく課税することや不法な逮捕・投獄などに反対したもので、マグナ・カルタ、権利の章典と並んでイギリス憲法の三大法典といわれています。

 チャールズ1世は権利の請願をいったんは承認しましたが、翌年議会を解散し、以後11年間(1629年~40年)にわたって議会を召集せず、専制政治を断行いました。

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反乱の発端と成ったエジンバラ、セント・ジャイルズ聖堂に於ける暴動

 1637年には、長老派(プレスビテリアン、スコットランドのカルヴァン派の称)が優勢なスコットランドに国教会を強制してスコットランドの反乱(1639年)を招きます。

 チャールズ1世はスコットランド反乱鎮圧の戦費調達のために、翌1640年4月、11年ぶりに議会を召集したが議会が課税を拒否したために3週間で解散しました。
このためこの時召集された議会は、短期議会と呼ばれています。

 しかし、戦費調達の必要から、同年11月に再び議会を召集します。
この議会は1653年まで続いたため、長期議会と呼ばれています。

 この長期議会でも王と議会は対立し、議会はチャールズ1世の失政を非難し、政治の抜本的改革を要求する大諌議書を僅かの差で可決し(1641年)、チャールズ1世は武力で議会を押さえようと画策し、反対派の指導的な議員5名を逮捕するため、兵を率いて議場に乗り込みますが、彼らはすでに逃亡しており失敗に終わります。

 この出来事をきっかけに王党派と議会派の間に内戦が始まり、ピューリタン革命(1642年~49年)へと発展して行きました。

ジョークは如何?

シェークスピアの舞台が終わり観光客達が劇の素晴らしさを語りあっていた。
 しかしその中で一人、アメリカから来た中年男性は不満そうだ。
 「あまりよろしくなかったですか?」その問いに彼は答えた。

 「劇はよかった。だがこの作品の台詞はアメリカ映画で使い古された表現ばかりだ」


続く・・・