歴史を歩く169
23 中国文化圏の拡大3
1 明の興亡③
12代世宗嘉靖帝(在位1521年~66年)は、当初善政を布きますが、後に道教に傾き政治をおろそかにします。
嘉靖帝の時代は、いわゆる「北虜南倭」の外患が最も酷かった時代で、明はその鎮圧に苦しみ、衰退に向かっていきました。
北虜南倭は、明中期以後の外患を意味し、北虜は北からのオイラート、タタールの侵入、南倭は南(東)からの倭寇の侵入を指す言葉です。

アルタン・ハン(1507年~82年)
北方では、オイラート部に変わり、タタール部(韃靼、だったん)が強盛となり、特にアルタン・ハン(1507年~82年)は、1520年代以降、連年にわたって明に侵入し、長城一帯を略奪します。
40年代になると侵入はますます激しくなり、1550年にはついに北京が包囲されますが、アルタン・ハンがその後中国の西北に転じたため、明は辛うじて難を逃れます。

タタール部(韃靼)との戦い
一方、倭寇は、13~16世紀に朝鮮・中国の沿岸を侵した日本の海賊・貿易商人を呼んだ名で、その活動は、14世紀を中心とする前期倭寇と16世紀を中心とする後期倭寇に分けられ、前期は朝鮮半島沿岸から黄海沿岸が中心でしたが、後期になると中国沿岸、特に華中から華南沿岸が中心となり活動も活発化しました。
又前期倭寇は日本人が多数を占めますが、後期倭寇には中国人が多く、中国の書物には「真倭は二・三で、その七・八は偽倭である」と書かれています。

倭寇撃退
北虜南倭により、防衛のための軍事費が増大し、14代神宗万暦帝(在位1572年~1620年)が10歳で即位した頃には、政治の腐敗と財政窮乏が大問題になっていました。
この大問題に取り組み、政治の立て直しに努めたのが張居正です。

張居正(1525年~82年)
張居正(1525年~82年)は、穆宗(万暦帝の前の皇帝)の時に内閣大学士(宰相)の列に加わり、改革の必要性を訴えてきましたが、若い万暦帝が即位すると、以後10年間にわたって首席内閣大学士として実権を握り、政治・財政改革に取り組みました(張居正の改革)。
特に財政改革では、全国規模の検地の実施や租税の確保、軍事費の節約などにより財政を立て直し、明中興の実をあげています。
しかし、張居正が死去すると(1582年)、万暦帝は宦官を寵愛し、政務を放棄し、奢侈にふけった結果政治は乱れ、各地で反乱が続発します。

文禄の役(1592年~93年)・慶長の役(1597年~98年)
中央では、東林党(明末の政治的党派、東林書院を中心に、官僚と協力して宦官派に対抗した)と非東林党(宦官派に与した反東林官僚の勢力をいう)の党争が激化し、又「万暦の三大征」と云われる、寧夏のモンゴル人の反乱、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役(1592年~93年)・慶長の役(1597年~98年))に対する朝鮮の李朝への援軍、貴州省の蕃族首長の反乱がおこり、更にビルマ出兵・東北地方の女真族との戦いの激化等による多額の軍事費の支出によって財政は破綻し、国力は急速に衰退します。

明十三陵
北京郊外の明十三陵の一つ、定陵が万暦帝の陵墓で、地下数10メートルの地下墳墓で、万暦帝・皇后の柩とともに玉座をはじめ多くの財宝類が安置され、この豪華な定陵の建設が明の財政を傾けたとも云われています。
「明朝の滅亡をいう者は、崇禎帝(最後の皇帝)に滅びずして、万暦に滅ぶという」と書かれたように、明は万暦帝の死後20余年で滅亡することと成ります。
明朝最後の皇帝となった毅宗崇禎帝(在位1627年~1644年)は、英明でしたが、積年の病弊はいかんともしがたく、特に女真族の清との戦いに莫大な軍事費を費やし、増税に次ぐ増税を行って民衆を苦しめ、その様な時に陜西省で大飢饉がおこり、それを機に大規模な農民反乱が起こります。
このうち最も規模が大きく明朝が苦戦した乱こそが、張献忠の乱と李自成の乱でした。

人民に支持される李自成(1606年~45年)
李自成(1606年~45年)は、陜西省の貧農に生まれ、大飢饉によって陜西省の農民が反乱をおこすと彼も飢民を率いて反乱に加わり(1631年)、反乱の指導者高迎祥の部下となって頭角をあらわし、彼の死後、闖王(ちんおう)と称し、西安を占領し(1643年)、国号を大順と号しました。
彼は部下の掠奪を禁じ、貧しい農民を救ったので、各地の農民の支持を得て、100万と号する反乱軍を率いて破竹の進撃を続け、山西を経て北京に入城しました(1644年)。
崇禎帝は自害し、約300年続いた明はここに終に滅亡します(1644年)。
しかし、李自成は、清に降伏して南下してきた呉三桂(明の武将)の軍に敗れ、わずか40日で北京を追われて西安に逃れますが、更に清軍の追撃を受けて湖北で自決し、彼の天下も幕を降ろします。
ジョークは如何?
ヴォストーク1号打上げ成功のニュースにモスクワ大学の物理学研究室の
教授も学生もみな大喜び。
教授が言った。
「我々が惑星へ旅行できるようになる日も近いだろう。」
生徒から、より具体的な質問があがった。
「アメリカへ旅行に行けるのは、いつになるのでしょうか?」
続く・・・
1 明の興亡③
12代世宗嘉靖帝(在位1521年~66年)は、当初善政を布きますが、後に道教に傾き政治をおろそかにします。
嘉靖帝の時代は、いわゆる「北虜南倭」の外患が最も酷かった時代で、明はその鎮圧に苦しみ、衰退に向かっていきました。
北虜南倭は、明中期以後の外患を意味し、北虜は北からのオイラート、タタールの侵入、南倭は南(東)からの倭寇の侵入を指す言葉です。

アルタン・ハン(1507年~82年)
北方では、オイラート部に変わり、タタール部(韃靼、だったん)が強盛となり、特にアルタン・ハン(1507年~82年)は、1520年代以降、連年にわたって明に侵入し、長城一帯を略奪します。
40年代になると侵入はますます激しくなり、1550年にはついに北京が包囲されますが、アルタン・ハンがその後中国の西北に転じたため、明は辛うじて難を逃れます。

タタール部(韃靼)との戦い
一方、倭寇は、13~16世紀に朝鮮・中国の沿岸を侵した日本の海賊・貿易商人を呼んだ名で、その活動は、14世紀を中心とする前期倭寇と16世紀を中心とする後期倭寇に分けられ、前期は朝鮮半島沿岸から黄海沿岸が中心でしたが、後期になると中国沿岸、特に華中から華南沿岸が中心となり活動も活発化しました。
又前期倭寇は日本人が多数を占めますが、後期倭寇には中国人が多く、中国の書物には「真倭は二・三で、その七・八は偽倭である」と書かれています。

倭寇撃退
北虜南倭により、防衛のための軍事費が増大し、14代神宗万暦帝(在位1572年~1620年)が10歳で即位した頃には、政治の腐敗と財政窮乏が大問題になっていました。
この大問題に取り組み、政治の立て直しに努めたのが張居正です。

張居正(1525年~82年)
張居正(1525年~82年)は、穆宗(万暦帝の前の皇帝)の時に内閣大学士(宰相)の列に加わり、改革の必要性を訴えてきましたが、若い万暦帝が即位すると、以後10年間にわたって首席内閣大学士として実権を握り、政治・財政改革に取り組みました(張居正の改革)。
特に財政改革では、全国規模の検地の実施や租税の確保、軍事費の節約などにより財政を立て直し、明中興の実をあげています。
しかし、張居正が死去すると(1582年)、万暦帝は宦官を寵愛し、政務を放棄し、奢侈にふけった結果政治は乱れ、各地で反乱が続発します。

文禄の役(1592年~93年)・慶長の役(1597年~98年)
中央では、東林党(明末の政治的党派、東林書院を中心に、官僚と協力して宦官派に対抗した)と非東林党(宦官派に与した反東林官僚の勢力をいう)の党争が激化し、又「万暦の三大征」と云われる、寧夏のモンゴル人の反乱、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役(1592年~93年)・慶長の役(1597年~98年))に対する朝鮮の李朝への援軍、貴州省の蕃族首長の反乱がおこり、更にビルマ出兵・東北地方の女真族との戦いの激化等による多額の軍事費の支出によって財政は破綻し、国力は急速に衰退します。

明十三陵
北京郊外の明十三陵の一つ、定陵が万暦帝の陵墓で、地下数10メートルの地下墳墓で、万暦帝・皇后の柩とともに玉座をはじめ多くの財宝類が安置され、この豪華な定陵の建設が明の財政を傾けたとも云われています。
「明朝の滅亡をいう者は、崇禎帝(最後の皇帝)に滅びずして、万暦に滅ぶという」と書かれたように、明は万暦帝の死後20余年で滅亡することと成ります。
明朝最後の皇帝となった毅宗崇禎帝(在位1627年~1644年)は、英明でしたが、積年の病弊はいかんともしがたく、特に女真族の清との戦いに莫大な軍事費を費やし、増税に次ぐ増税を行って民衆を苦しめ、その様な時に陜西省で大飢饉がおこり、それを機に大規模な農民反乱が起こります。
このうち最も規模が大きく明朝が苦戦した乱こそが、張献忠の乱と李自成の乱でした。

人民に支持される李自成(1606年~45年)
李自成(1606年~45年)は、陜西省の貧農に生まれ、大飢饉によって陜西省の農民が反乱をおこすと彼も飢民を率いて反乱に加わり(1631年)、反乱の指導者高迎祥の部下となって頭角をあらわし、彼の死後、闖王(ちんおう)と称し、西安を占領し(1643年)、国号を大順と号しました。
彼は部下の掠奪を禁じ、貧しい農民を救ったので、各地の農民の支持を得て、100万と号する反乱軍を率いて破竹の進撃を続け、山西を経て北京に入城しました(1644年)。
崇禎帝は自害し、約300年続いた明はここに終に滅亡します(1644年)。
しかし、李自成は、清に降伏して南下してきた呉三桂(明の武将)の軍に敗れ、わずか40日で北京を追われて西安に逃れますが、更に清軍の追撃を受けて湖北で自決し、彼の天下も幕を降ろします。
ジョークは如何?
ヴォストーク1号打上げ成功のニュースにモスクワ大学の物理学研究室の
教授も学生もみな大喜び。
教授が言った。
「我々が惑星へ旅行できるようになる日も近いだろう。」
生徒から、より具体的な質問があがった。
「アメリカへ旅行に行けるのは、いつになるのでしょうか?」
続く・・・
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