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2016/01/26

歴史を歩く169

23 中国文化圏の拡大3

1 明の興亡③

 12代世宗嘉靖帝(在位1521年~66年)は、当初善政を布きますが、後に道教に傾き政治をおろそかにします。
嘉靖帝の時代は、いわゆる「北虜南倭」の外患が最も酷かった時代で、明はその鎮圧に苦しみ、衰退に向かっていきました。
北虜南倭は、明中期以後の外患を意味し、北虜は北からのオイラート、タタールの侵入、南倭は南(東)からの倭寇の侵入を指す言葉です。

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アルタン・ハン(1507年~82年)

 北方では、オイラート部に変わり、タタール部(韃靼、だったん)が強盛となり、特にアルタン・ハン(1507年~82年)は、1520年代以降、連年にわたって明に侵入し、長城一帯を略奪します。
40年代になると侵入はますます激しくなり、1550年にはついに北京が包囲されますが、アルタン・ハンがその後中国の西北に転じたため、明は辛うじて難を逃れます。

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タタール部(韃靼)との戦い

 一方、倭寇は、13~16世紀に朝鮮・中国の沿岸を侵した日本の海賊・貿易商人を呼んだ名で、その活動は、14世紀を中心とする前期倭寇と16世紀を中心とする後期倭寇に分けられ、前期は朝鮮半島沿岸から黄海沿岸が中心でしたが、後期になると中国沿岸、特に華中から華南沿岸が中心となり活動も活発化しました。
又前期倭寇は日本人が多数を占めますが、後期倭寇には中国人が多く、中国の書物には「真倭は二・三で、その七・八は偽倭である」と書かれています。

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倭寇撃退

 北虜南倭により、防衛のための軍事費が増大し、14代神宗万暦帝(在位1572年~1620年)が10歳で即位した頃には、政治の腐敗と財政窮乏が大問題になっていました。
この大問題に取り組み、政治の立て直しに努めたのが張居正です。

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張居正(1525年~82年)

 張居正(1525年~82年)は、穆宗(万暦帝の前の皇帝)の時に内閣大学士(宰相)の列に加わり、改革の必要性を訴えてきましたが、若い万暦帝が即位すると、以後10年間にわたって首席内閣大学士として実権を握り、政治・財政改革に取り組みました(張居正の改革)。

 特に財政改革では、全国規模の検地の実施や租税の確保、軍事費の節約などにより財政を立て直し、明中興の実をあげています。

 しかし、張居正が死去すると(1582年)、万暦帝は宦官を寵愛し、政務を放棄し、奢侈にふけった結果政治は乱れ、各地で反乱が続発します。

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文禄の役(1592年~93年)・慶長の役(1597年~98年)

 中央では、東林党(明末の政治的党派、東林書院を中心に、官僚と協力して宦官派に対抗した)と非東林党(宦官派に与した反東林官僚の勢力をいう)の党争が激化し、又「万暦の三大征」と云われる、寧夏のモンゴル人の反乱、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役(1592年~93年)・慶長の役(1597年~98年))に対する朝鮮の李朝への援軍、貴州省の蕃族首長の反乱がおこり、更にビルマ出兵・東北地方の女真族との戦いの激化等による多額の軍事費の支出によって財政は破綻し、国力は急速に衰退します。

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明十三陵

 北京郊外の明十三陵の一つ、定陵が万暦帝の陵墓で、地下数10メートルの地下墳墓で、万暦帝・皇后の柩とともに玉座をはじめ多くの財宝類が安置され、この豪華な定陵の建設が明の財政を傾けたとも云われています。

 「明朝の滅亡をいう者は、崇禎帝(最後の皇帝)に滅びずして、万暦に滅ぶという」と書かれたように、明は万暦帝の死後20余年で滅亡することと成ります。

 明朝最後の皇帝となった毅宗崇禎帝(在位1627年~1644年)は、英明でしたが、積年の病弊はいかんともしがたく、特に女真族の清との戦いに莫大な軍事費を費やし、増税に次ぐ増税を行って民衆を苦しめ、その様な時に陜西省で大飢饉がおこり、それを機に大規模な農民反乱が起こります。
このうち最も規模が大きく明朝が苦戦した乱こそが、張献忠の乱と李自成の乱でした。

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人民に支持される李自成(1606年~45年)

 李自成(1606年~45年)は、陜西省の貧農に生まれ、大飢饉によって陜西省の農民が反乱をおこすと彼も飢民を率いて反乱に加わり(1631年)、反乱の指導者高迎祥の部下となって頭角をあらわし、彼の死後、闖王(ちんおう)と称し、西安を占領し(1643年)、国号を大順と号しました。
彼は部下の掠奪を禁じ、貧しい農民を救ったので、各地の農民の支持を得て、100万と号する反乱軍を率いて破竹の進撃を続け、山西を経て北京に入城しました(1644年)。

 崇禎帝は自害し、約300年続いた明はここに終に滅亡します(1644年)。
 しかし、李自成は、清に降伏して南下してきた呉三桂(明の武将)の軍に敗れ、わずか40日で北京を追われて西安に逃れますが、更に清軍の追撃を受けて湖北で自決し、彼の天下も幕を降ろします。

ジョークは如何?

ヴォストーク1号打上げ成功のニュースにモスクワ大学の物理学研究室の
教授も学生もみな大喜び。
教授が言った。
「我々が惑星へ旅行できるようになる日も近いだろう。」
生徒から、より具体的な質問があがった。
「アメリカへ旅行に行けるのは、いつになるのでしょうか?」


続く・・・

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2016/01/21

歴史を歩く168

23 中国文化圏の拡大2

1明の興亡②

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宮廷の永楽帝と側近

 永楽帝(在位1402年~1424年)は、即位するや建文帝の遺臣や反対勢力を徹底的に弾圧し、諸王の勢力を削減して君主独裁制を更に強化していきました。

 永楽帝は、内閣大学士を設置して、皇帝親政の補佐の任にあたらせました。
内閣大学士は重要政務に参画し、明の後半期には事実上の宰相と成りますが、その一方で宦官を重用したため、宦官の力が次第に強まり、後にはその弊害が大きくなり、明滅亡の一因となっています。

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紫禁城(近代)

 又即位後まもなく、北平を北京と改称して遷都し(1403年)、10数年を要して紫禁城を中心とする都づくりを推進し、1421年には正式に北京に遷都、江南と北京を結ぶ運河を整備しました。

 即位当初、彼には帝位簒奪者との非難が強く、その非難をかわすために学者を総動員して大編纂事業を行わせ、中国最大の類書(百科事典)である『永楽大典』(1408年完成)や『四書大全』・『五経大全』等を編纂(1415年刊)させました。

 永楽帝の名を有名にしているのは、その積極的な対外政策です。

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15世紀のモンゴル高原

 北方のモンゴルに対しては、5回にわたって親征し(1410年~1424年)、「五出三犂」(漠北に5度遠征し、3度敵を撃ち破ったの意味)と云われ、中国史上、皇帝自ら大軍を率いて砂漠を越えて親征を行ったのは、永楽帝と清の康煕帝だけでした。

 中国東北地方にも遠征軍を送り、黒竜江下流地域にまで勢力を伸ばし、 南方のヴェトナムでは陳朝(1225年~1400年)が権臣の胡氏に滅ぼされ、永楽帝はヴェトナムの内政に干渉し、大軍を送って(1406年)、胡氏父子を捕らえ、以後ヴェトナムを20年間(1407年~1427年)にわたって明の支配下におき、漢化政策を進めました。

 永楽帝の対外政策のなかで最も有名な出来事は、鄭和の南海遠征(1405年~33年)です。

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鄭和の南海遠征経路

 鄭和(1371年~1434年頃)は、雲南出身のイスラム教徒で、永楽帝に宦官として仕え、靖難の変で功績をあげ、宦官の長官に任命され、やがて南海遠征の指揮官として前後7回の遠征を行いました。遠征の目的は、明の国威を発揚すると伴に、南海諸国(東南アジア)の朝貢貿易を促すことでしたが、建文帝の行方を捜す密命を受けていたとも云われています。

 第1回目は1405年~07年に行われ、この時の船団は数百人を載せた大型帆船62隻、乗組員は2万7000人に及んだと云われ、以後07年~09年、09年~11年、13年~15年、17年~19年、21年~22年の6回目までが永楽帝時代に、第7回は宣徳帝時代の31年~33年にわたって行われました。第3回迄は東南アジア・インド西岸に至り、第4回以後はペルシア湾・アラビア半島・アフリカ東岸に迄到達し、これにより南海諸国の朝貢が相次ぎ、南海貿易が活発と成ります。

 永楽帝の積極的な対外政策によって、明の領土は最大と成りますが、彼自身は第5回モンゴル親征の帰途に病没しています(1424年)。

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宣宗宣徳帝(在位1425年~35年)

 永楽帝の死後、4代仁宗が即位しますが病弱で、在位わずか8ヶ月で崩御、その子宣宗宣徳帝(在位1425年~35年)が即位しました。
宣徳帝は名君と称えられ、内治と財政を安定させるために対外消極策をとり、北方ではオイラートの南下を、南方ではヴェトナムの独立運動を黙認します。

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英宗正統帝(在位1435年~49年、6代・8代の皇帝、8代の時は天順帝と呼ばれる)

 宣宗が38歳の若さで崩御し、英宗正統帝(在位1435年~49年、6代・8代の皇帝で8代の時は天順帝と呼ばれた)が9歳で即位しました。

 当初は賢臣が補佐を務めましたが、次第に宦官の専横を許し、政治が乱れ、国内では鄧茂七の乱(1448年~49年)がおこり、大農民反乱に発展しますが、明は大軍で鎮圧し、鄧茂七は敗死します。

 その直後に、北方から全モンゴルを統一したオイラート部のエセン・ハン(?~1454年)が長城内に侵入し、英宗は宦官の勧めに従い、親征してこれを撃とうと試みますが、明軍は土木堡(河北省北部)で全滅し、英宗は捕虜となり連行されます(土木の変、1449年)。

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万里の長城東側の起点、河北省秦皇島山海関

 明は北辺防衛のために、永楽帝の時代から万里の長城の修築に取り組みますが、このオイラートの侵入以後積極的な大改修事業が起こされ、15~16世紀に山海関から嘉峪関に至る2400kmに及ぶ修築を行い、現在八達嶺等で見ることの出来る長城の姿は、この明代に修築された長城なのです。

 土木の変で英宗が捕虜となった結果、弟の代宗(在位1449年~57年)が即位し、翌年和議が成立し、英宗は許されて帰国を果たしましたが、代宗によって幽閉され、後に英宗は、代宗の病に乗じたクーデターによって復位し、8代天順帝(在位1457年~64年)と成りますが、宰相に政治を委ねてしまいます。

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孝宗弘治帝(在位1487年~1505年)

 10代孝宗弘治帝(在位1487年~1505年)は、明の支配体制を立て直し、中興の英主とされ、平和な状態が続きますが、11代武宗正徳帝(在位1505年~21年)は、遊興にふけり、政治を宦官に委ねすぎた結果、宦官の専横はますます激しくなり、各地で連年にわたって反乱が続きます。

ジョークは如何?

とある国の君主が戦争に臨んで:
国王「将軍、今度の戦はことのほか厳しそうだ。何か良い策はあるのか?」
将軍「難しゅう御座います。勝敗は時の運で御座いましょう」
国王「それでは困る!何とか必勝の策は出ないのか?」
将軍「左様、2つ御座います。一つは、王が私めの采配に口を差し挟まないこと。
もう一つは、敵将の采配に王が口を差し挟むこと」


続く・・・

2016/01/19

歴史を歩く167

23 中国文化圏の拡大

1 明の興亡①

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紅巾の乱

 元末の紅巾の乱のなかから頭角をあらわした朱元璋は、1368年、南京(金陵、応天府)で即位し、明王朝(1368年~1644年)を開きました。

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朱元璋・太祖洪武帝(1328年~98年)

 朱元璋(1328年~98年)は、安徽省の貧農に生まれ、大飢饉と流行病によって父母と長兄を相次いで失い(1344年)、彼は食を求めて仏門を志しますが其処でも食べることはままならず、乞食同然の托鉢僧となって各地を放浪し、やがて紅巾の乱の一派である郭子興の軍に身を投じました(1352年)。

 元末の紅巾の乱は、白蓮教徒の乱とも云われ、白蓮教は、弥勒下生信仰(みろくげしょう、慈悲深い弥勒菩薩が乱世で苦しんでいる人々を救うためにこの世に現れるという信仰)を中心とする宗教結社として貧民の心をとらえ、彼らは紅い布を目印としたため、紅巾軍と呼ばれました。

 紅巾軍に加わった朱元璋は、多くの武功を立てて頭角をあらわし、郭子興の片腕となり、彼の死後、全軍を掌握し(1355年)、翌年南京を攻略してここを根拠地とします。

 元末、各地に群雄が割拠しましたが、長江流域では上流に陳友諒、中流に朱元璋、下流に張士誠が乱立する情勢となりました。
朱元璋は、陳友諒を破って、呉王と称して紅巾の乱から自立し(1363年)、更に張士誠を破って長江流域を支配下に治め(1367年)、翌1368年に、南京で即位して、国号を明(1368年~1644年)、年号を洪武と定めました。

 建国後は、一世一元の制(皇帝一代を一年号とする制度)を定めて、朱元璋は太祖洪武帝と呼ばれ、中国史上、農民出身で皇帝になったのは、漢の劉邦と朱元璋の二人だけです。

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順帝・トゴン・テムル(在位1332年~1370年)

 洪武帝は、即位後すぐに大軍をもって、元朝の首都大都(北京)を攻略し、元の順帝を北に追いやり、1381年までに中国全土の統一を達成しました。

 元は、順帝の死後、子の昭宗がモンゴル高原に退いて、北元(1371年~88年)を建てて初代皇帝に就きますが、北元は洪武帝による再三の攻撃に敗れ、2代で滅亡します。

 明は、江南から興って中国を統一した中国史上唯一の王朝でした。
秦・漢・隋・唐・宋・元等は総て華北から興り、江南を征服して中国統一を達成した王朝であり、明が江南から興って中国を統一したことは、特に南宋以来江南の開発が進み、江南の経済力が充実し、江南が中国経済の中心となってきたことをよく示しています。

 明は、異民族の征服王朝であった元を北方に追いやり、中国を漢民族の手に取り戻して建てられた王朝です。
洪武帝は、「漢民族の中国」と云う民族意識を高めながら、荒廃した農村の復興を中心に国土の再建に努め、一方で君主独裁を強化する支配体制の確立に努めました。

 特に洪武帝は、猜疑心が強く、建国の功臣が力を持つことを恐れ、将来の禍根を断つために、胡惟庸(こいよう)の獄(1380年)と藍玉(らんぎょく)の獄(1393年)等で、約5万人を誅殺したと云われています。

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 胡惟庸の獄を機に、中央官制を改め、六部(りくぶ、行政機関)を統轄する中書省を廃止し、宰相の制を停止し、六部を皇帝直属として君主独裁制の強化を図り、又衛所制と呼ばれる軍制を確立しました。
衛所制は、唐の府兵制を範とした兵制で、民衆を民戸と軍戸に分け、民戸には税役を負担させ、軍の戸籍は一般と区別して世襲の軍戸とし、軍役に服させる代わりに税役を免除する制度です。
軍戸の正丁112人で百戸所、10百戸所で千戸所、5千戸所(5600人)で1衛を編成し、明初には全国に329衛があり、強力な軍事力に成長しましたが、中期以後は衰えていきます。

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明軍

 こうして洪武帝は、宋以来強化されてきた君主独裁制を確立しました。
地方の村落行政組織としては、里甲制を実施し(1381年)、 賦役負担能力のある民戸110戸で1里を編成し、そのうち富裕な10戸を里長戸(村長にあたる)とし、残りの100戸を10甲に分け、各甲に甲首戸をおく村落制度です。
里長と甲首は、1年交代の輪番で10年で1巡し、賦役黄冊の作成・租税の徴収・治安の維持等にあたりました。

 里甲制と関連して、賦役黄冊と魚鱗図冊を作成させました。

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魚鱗図冊

 賦役黄冊は、明代の戸籍であり、租税台帳を兼ね、1381年に全国的に作成させ、以後10年ごとに里長・甲首に作成させました。
黄表紙を用いたため黄冊と呼ばれました。

 魚鱗図冊は、土地台帳で、書かれた土地の形が魚の鱗(うろこ)に似ていた事から、この名称が生まれました。
魚鱗図冊には、土地一区画ごとに場所・面積・形・税の負担額・所有者及び佃戸(小作人)の氏名などが記されています。

 民衆教化のために六諭(りくゆ)を発布し(1397年)、「父母に孝順なれ、長上を尊敬せよ、郷里に和睦せよ、子孫を教訓せよ、各々生理に安んぜよ、非為をするなかれ」の6カ条からなる教訓で、里老人(有徳の年長者が任命された)が月に6回、これを唱えつつ里内を巡回しました。

 又洪武帝は、唐以来ほとんどそのまま用いられてきた律(刑法)を明の実情の合わせて改め、明律(大明律)として制定し(1367年)、その後3度の改訂を経て1397年に完備されました。
又唐令を範とし、宋・元の法を参考にして作成された明令(大明令)を公布し(1368年)、国家体制を支える法令を整備しています。

 洪武帝には26人の男子をもうけました。
彼は諸子を各地の王に封じ、一族を帝室の藩屏とし、特にモンゴルの侵入に備えて、北辺の王には優れた人物を充てると同時に強大な兵権を与えています。

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朱棣:成祖永楽帝(1360年-1424年・在位1402年~1424年)

 洪武帝の死後、長男の皇太子は既に亡くなっていたので、皇太孫の建文帝(恵帝、在位1398年~1402年)が16歳で即位しました。
建文帝は、側近の進言により、各地に封じられた一族諸王を抑制し、彼らの勢力削減を図り、叔父にあたる燕王朱棣(しゅてい)が北京で挙兵します。

 燕王朱棣(1360年~1424年)は、洪武帝の第4子で、洪武帝の子のなかでも特に優れた人物であったので燕王に封じられて北平(北京)に赴いていました。
強大な兵権を与えられた燕王は、兄の晋王とともにモンゴル(北元)との防衛戦に活躍します。

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建文帝(在位1398年〜1402年)

 洪武帝の死後、建文帝が即位して、側近の進言により諸王抑圧削減策をとり、各地の諸王を次々と取りつぶしていく状況を見た燕王は、いずれは自分もその対象になると考え、「君側の奸を除き、帝室の難を靖んず」と称して挙兵し、帝位をめぐる内紛が始まりました。
この叔父と甥の帝位をめぐる内紛は靖難の変(1399年~1402年)と呼ばれています。

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靖難の変(1399年~1402年)

 戦いの勝敗は容易に決せず、持久戦となり4年に及びましたが、燕王は一挙に首都を突く作戦に出て、1402年に終に南京を陥れ、王宮にも火を放ち、建文帝は火中で死んだ(建文帝の最後については、このとき逃れて生き延びたという説もあり、謎である)と云われています。

 燕王は、南京で帝位につき、年号を永楽と改元した。すなわち中国史上有名な明朝第3代の成祖永楽帝(在位1402年~1424年)です。

ジョークは如何?

モスクワの街頭にて。

「今度「プラウダ」が懸賞つきで政治ジョークを募集するらしいぜ」
「へえ、一等賞はなんだい?」
「シベリア送りさ」


続く・・・

2016/01/15

歴史を歩く166

22 17~18世紀のヨーロッパ文化 番外編

シェークスピアは実在したのか

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ウィリアム・シェイクスピア; William Shakespeare(1564年4月26日〜1616年4月23日)

 シェークスピアの名前を聞いて、どの作品を思い出しますか?
「ハムレット」「マクベス」「リア王」「オセロ」「リチャード三世」「ロミオとジュリエット」「真夏の夜の夢」等悲劇、喜劇が浮かびますね。
嘗て、インドが大英帝国最大の植民地で在った頃、「インドは失っても、シェークスピアは失いたくない」とイギリスでは、言われていました。
さて、この世界的に有名なシェークスピアの生い立ちが、実際の処、良くわからないのです。

 1964年4月は、「シェークスピア生誕400年祭」がイギリスで行われ、記念行事も多数開催されました。
シェークスピアは1564年4月23日に生れ、1616年4月23日に死去した事になっています。
しかし、実際には、彼の生没は、きっちりと判明している訳ではなく、彼が生れたとされる、ストラト・フォン・エイヴォン市の教会には、1564年4月26日に洗礼を受けた記録が、存在していますが、キリスト教では、生後まもなく洗礼を受けてキリスト教徒に成りますので、誕生は多分洗礼を受けた日から、それ程遠くない日であると推定され、更に没年月日が極めて近い為、同月日にされた(!)らしいのです。

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ストラト・フォン・エイヴォンの現存するシェークスピアの生家Wikipediaより

 現在判明している、彼の生い立ちでは、実家は皮細工商で、父親は一時町の名誉職に就きましたが、稼業に失敗し、其の為シェークスピアは、学校教育もまともに受ける事が出来なかったと伝えられています。

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クリストファ・マーロウ:Christopher Marlowe(1564年2月26日 - 1593年5月30日)

 処が、彼の作品はどれも、相当の教育を受けた、ギリシア、ローマの古典にも通じた人物でなければ、書く事が出来ない様に見受けられます。
その為、「ストラト・フォン・エイヴォンで生れたシェークスピアと多くの作品を残したシェークスピアは別人で在り、他の人物が彼の名前を借りて、是等の作品を書いたのだ」と云われ、一部には、哲学者フランシス・ベーコンの名前や、劇作家マーローの名前さえ挙げられたられた事が在りました。
今から40年以上前に成りますが、とある人物が、劇作家マーローの墓所を調査すれば、本当は、マーローがシェークスピア劇を書いた事を証明できるとして、イギリス政府の許可を取り(!)彼の墓所を調査しましたが、証拠の発見には至りませんでした。

 又、シェークスピアは短詩(ソネット)も書いていますが、「それ等は、国王ジェームズ一世の宮廷に仕えていた人物で無ければ、書く事は不可能で、常に創作活動を行い、劇場に出入していた人物が書いたとは思えない」と詩人で文学博士のブランデン氏が述べた事が在ります。
実在を疑われた、著名人は「キリスト」「ムハンマド」「釈迦」等多数存在しますが、シェークスピアの様に、比較的時代が新しい人物で、その実在を疑われている事は、珍しいと思われます。

 現在でも多くの専門分野の方々が、シェークスピアについて、文献を著していますが、基本部分として、彼の伝記が明確でない事に起因しているのです。
何時か、これ等の疑問に答える、明確な当時の文献が発見され、謎が謎で無くなる時が来るでしょうが、例え本当の作者云々が無くても、シェークスピア劇の面白さ、巧妙さは、色あせません。

ジョークは如何?

知的で善良なナチは存在しないことは、論理的に証明できる。

知的なナチは善良でなく、
善良なナチは知的でなく、
知的で善良な人間はそもそもナチにはならない


続く・・・
2016/01/11

歴史を歩く165

22 17~18世紀のヨーロッパ文化④

4 啓蒙主義

 自然科学の発達を背景に、合理主義的批判精神に基づいて、政治・社会・宗教等の不合理な伝統や権威の打破をめざす思想運動が、17世紀のイギリスで始まり、18世紀にはフランスやドイツに広まりました。

 この人間の理性を尊重し、不合理な伝統や権威を批判し、迷信や偏見を打破し、社会的不正を攻撃し、民衆を無知の状態から解放しようとする思想を啓蒙主義(啓蒙思想)と呼びます。
この啓蒙思想は、市民革命を経験したイギリスに比べて、政治や社会の不合理が目立っていたフランスで最も発展しました。

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シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー:Charles-Louis de Montesquieu(1689年~1755年)

 モンテスキュー(1689年~1755年)は、ボルドー高等法院の院長を勤めた経験を持つ(1616年~26年)法官貴族で、院長を退職した後、ヨーロッパ各地を遍歴し(1628年~31年)、イギリスにも滞在しています。
ロックの影響を受けて自由主義的な政治思想を展開し、フランスの絶対王政を批判しました。

 モンテスキューは、『ペルシア人の手紙』(1721年)で、パリに来たペルシア人が故郷の友人と交わす往復書簡の形式をとって、ヨーロッパの制度・風俗を大胆に批判し、又主著『法の精神』(1748年)では、各国の法律制度を、各国の風土・習俗・社会・政治的条件と関連づけて考察し、イギリスの憲政を讃えて紹介し、有名な三権分立論を主張しました。

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ヴォルテールことフランソワ=マリー・アルエ:"Voltaire" François-Marie Arouet(1694年~1778年)

 ヴォルテール(1694年~1778年)は、貴族と対立して投獄され、出国を条件に釈放されてイギリスに渡り(1726年~29年)、名誉革命後の自由空気の漲るイギリスに接し、帰国後、『哲学書簡(イギリス便り』(1734年)を発表し、書簡の形式でイギリスの社会制度や思想を紹介して賛美し、フランスの絶対主義をイギリスと比較して批判した結果、この書物はフランスで発禁処分となる程でした。

 後にフリードリヒ2世の招きでポツダムに滞在し(1750年~53年)、晩年はジュネーヴ近郊に居を構え、もっぱら文筆活動に専念しました。
ヴォルテールは迷信や宗教家の非寛容を攻撃し、更にカトリック教会を非難して啓蒙運動に大きな役割を果たしています。

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ジャン=ジャック・ルソー:Jean-Jacques Rousseau(1712年~78年)

 フランスの代表的な啓蒙思想家ルソー(1712年~78年)は、スイスのジュネーヴで時計職人の家庭に生まれ、10歳の時に孤児となり、13歳で徒弟奉公に出され、16歳の時に放浪の旅に出、フランスでヴァラン婦人と出会い(1728年)、以後その庇護のもと、独学で様々な学問を学びました。
30歳の時にパリに出て、ディドロ等と交友を結んでいます。

 『学問芸術論』(1750年)の成功で執筆生活に入り、『人間不平等起源論』(1755年)・『社会契約論』(1762年)、『エミール』(1762値)・『告白』等を著しました。

 特に『人間不平等起源論』では、自然状態を平和な状態と規定し、不平等の起源を私有財産制に求め、文明社会に対して鋭い批判を行い、文明社会の不平等な・非人間的な状態から脱却して人間性を回復せよと主張し、「自然に帰れ」と唱えた言葉は有名です。

 又『社会契約論』(民約論)では、社会契約説・人民主権(主権在民)を主張し、フランス革命に影響を与え、ディドロ(1713年~84年)とダランベール(1717年~83年)は、約20年(1751年~72年)にわたり、当時のフランスの啓蒙思想家のほとんどを動員して、28巻(初版)の『百科全書』を編纂しました。
『百科全書』に執筆したフランスの啓蒙思想家達は百科全書派と呼ばれており、『百科全書』には、発刊当時から政治的圧力が加えられた結果、第8巻以降は秘密出版で発行され、大きな社会的反響を呼び、啓蒙思想の集大成・普及に大きな役割を果たしたのです。

ジョークは如何?

ある新聞への投書。
「貴紙のコラムでスコットランド人をケチだとするジョークを載せるのは、
 スコットランド人全体に対する誹謗中傷であるのでやめてもらいたい。
 もしこの警告にもかかわらず、スコットランド人ジョークを載せるのであれば
 我々スコットランド人は、以後貴紙を借りて読む事をやめる事にする」

続く・・・
2016/01/09

歴史を歩く164

22 17~18世紀のヨーロッパ文化③

3政治・経済思想

 自然科学や哲学を通じて発達した合理的な考え方は、政治思想にも大きな影響を及ぼしました。

 16~17世紀には、絶対主義を正当化する政治思想として、王権神授説が唱えられました。
王権神授説は、国王の権力は神から直接授けられた絶対・神聖なものであるから、人民は王権に反抗することはできないとする思想です。

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ジャック・ベニーニュ・ボシュエ :Jacques-Bénigne Bossuet(1627年~1704年)

 ユグノー戦争中に王権擁護と宗教の寛容を主張したフランスの政治思想家ボーダン(1530年~96年)、イギリス国王のジェームズ1世、チャールズ1世に仕えてピューリタン革命で王党派として活躍したイギリスの政治思想家フィルマー(1589年~1653年)、そしてルイ14世に仕えたフランスの司教・神学者・政治学者ボシュエ(1627年~1704年)等は王権神授説を唱えた代表的な学者で、そしてルイ14世・ジェームズ1世・チャールズ1世等はその信奉者として有名なのです。

 王権神授説や国王の恣意的な権力行使を批判する思想として、近代的な自然法思想が唱えられました。

 自然法とは、人間が生まれながらにして有している自然権(人間として生まれた以上、すべての人が生まれながらにしてもっている権利)としての生存の権利を守るために、普遍的で永久不変なものとして存在していると考えられた法で、人為的に作られた法(実定法)に優越して存在すると考えられた法であり、自然法思想は社会契約説の基礎と成りました。

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フーゴー・グローティウス: Hugo Grotius(1583年~1645年)

 オランダのグロティウス(1583年~1645年)は、11歳の時にライデン大学に入学し、14歳で卒業し、16歳で弁護士になった天才でした。
後に外交官に成りますが、宗教上の理由でフランスを経てスウェーデンに亡命しています(1621年~45年)。

 グロティウスは、『海洋自由論』(1609年)で、スペインとポルトガルの領土分割に反対し(1493年の教皇子午線によって、東はポルトガル・西はスペインの勢力圏とされていた)、オランダの権益を守るために、公海の自由を主張しました。

 更に、三十年戦争の惨禍を実見して、主著『戦争と平和の法』(1625年)を著し、戦時でも国家間・個人間にも守られるべき正義の法があることを自然法をもとに説きました。

 このため、グロティウスは「近代自然法の父」・「国際法の祖」と呼ばれています。

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トマス・ホッブズ:Thomas Hobbes(1588年~1679年)

 イギリスの経験論哲学者で政治学者のホッブズ(1588年~1679年)とロック(1632年~1704年)は、自然法思想に基づいて社会契約説を唱えました。

 社会契約説は、17~18世紀のイギリス・フランスで展開された政治学説であり、国家・政府は、自然状態(国家・政府が成立する以前の状態)における自然権(人間として生まれた以上、すべての人が生まれながらにしてもっている権利)を守るために、自由・平等な個人が自発的に結んだ契約(社会契約)によって成立したとする学説です。

 ホッブズは、オックスフォード大学卒業後、貴族の家庭教師等を生業としましたが、後に絶対王政を支持する者として議会派の攻撃を受けてフランスに亡命し(1640年~51年)、帰国後は政治との関わりを避けて学究生活を送っています。

 ホッブズは、主著『リヴァイアサン』(1651年、リヴァイアサンは旧約聖書に出てくる怪物)で、自然状態のもとでは、各人が自己保存の本能に従って自然権を無制限に行使するので、「万人の万人に対する闘争」の状態に陥って自滅するととらえ、人々は自然権(特に生存権)を守ってもらい、闘争状態から脱するために、社会契約を結んで国家を形成しますが、その際国家に自然権を全面的に委譲したのであるから、国家(王)が絶対的な権力をもつのは当然であるとして、専制君主制を擁護しました。

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ジョン・ロック:John Locke(1632年~1704年)

 これに対して、ロックは同じ社会契約説の立場に立ちながら、名誉革命を擁護・正当化し、アメリカの独立革命やフランス革命にも影響を与えました。

 ロックは、弁護士の家庭に生まれ、オックスフォード大学に学び、哲学・政治・宗教を学び、後に医学部に転じて医師と成り、1666年にアシュリー卿の侍医・家庭教師となりますが、アシュリー卿がシャフツベリー伯となり大法官に任じられると(1672年)、政治に関係するように成ります。
シャフツベリー伯がホイッグ党の指導者として反カトリックの立場をとり、チャールズ2世の専制政治に反対して失敗しオランダに亡命すると、ロックもオランダに亡命した(1683年~89年)。
名誉革命で帰国し、主著『統治論二編(市民政府二論)』(1690年)を著しました。

 ロックは、ホッブズとは異なり、自然状態を自然法のはたらく理性的で平和な状態と考え、紛争を調停する公的な機関がないと戦争状態に陥る危険性があるため、社会契約によって政府を形成しましが、政府に権力を委任したのは自然権(特に財産権)を守ってもらうためであり、政府は人民の信託を受けたにすぎず、従って政府が人民の自然権を守ってくれず、逆に自然権を侵すような圧政を行った場合には、人民には抵抗する権利があり、信託した自然権を取り戻して、政治体制を根本的に変革する権利(抵抗権・革命権)があると主張し、名誉革命を擁護・正当化しました。
このためロックの政治論は、後のアメリカの独立革命やフランス革命に大きな影響を与えたのです。

 自然法思想は、重商主義による国家の規制が強かったフランスでは経済理論にも適用され、重農主義の理論を生みました。

 重農主義は、国家・社会の富の源泉は農業生産にあるとする経済思想で、自然法に基づいて、農業生産の増大のためには経済活動の自由が必要であると説き、「レッセ・フェール(なすにまかせよ)」をスローガンに掲げ、経済活動に対する国家の干渉・統制の排除を主張しました。

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フランソワ・ケネー:François Quesnay(1694年~1774年)

 ケネー(1694年~1774年)は、『経済表』(1758年)を著し、農業生産増大のために自由放任を主張し、重農主義の祖と成り、又ルイ16世の財務長官(蔵相)に任じられ、財政改革に取り組んだテュルゴー(1727年~81年)も重農主義経済学者として知られています。

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エジンバラ・ロイヤル マイルのアダム ・ スミス (1723年-90) 記念碑

 18世紀後半に、いち早く産業革命が始まったイギリスでは、アダム・スミス(1723年~90年)が『諸国民の富(国富論)』(1776年)を著し、重商主義を批判し、国民の生産活動全体を富の源泉と見なし、自由放任こそが国の富を増す政策であると説き、アダム・スミスは、自由主義経済学(富の増大のためには経済活動への政治の干渉を排除すべきと説く経済学)を完成し、古典派経済学(アダム・スミスによって創始された自由主義経済学をいう)の創始者となりした。

ジョークは如何?

北朝鮮と韓国が平和条約を結んだ。
一ヶ月以内に韓国は38度線の地雷原を取り除く、
北朝鮮は38度線の戦車部隊を引き上げると双方が確認しあった。

 一ヶ月後突如北朝鮮の戦車部隊が南進し38度線を破った。が、そこには取り除かれ
たはずの地雷原があり、北朝鮮の戦車部隊は大損害を出してしまった。
 被雷した戦車長が戦車の近くで腰を抜かしていた韓国兵に叫んだ

「このウソツキ野郎!」

続く・・・


2016/01/05

歴史を歩く163

22 17~18世紀のヨーロッパ文化②

2科学と哲学の発達

 17世紀には、自然界の研究が進み、科学の諸分野で知識の基礎と方法論が確立し、「科学革命」と呼ばれており、その基礎を築いたのがイギリスのニュートンです。

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アイザック・ニュートン:Isaac Newton (1642年~1727年)

 ニュートン(1642年~1727年)は、自作農の家庭に生まれ、ケンブリッジ大学に学び、後に同大学教授となり、数学・光学の講義・研究を行いました。
有名な万有引力の法則を発見し(1661年)、微分積分法の発見等古典力学と近代物理学の確立に大きな業績を残しています。
主著『プリンキピア(自然哲学の数学的原理)』(1687年)は、万有引力の法則を初めとするニュートン力学と天文学の研究成果を集大成したものです。

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ウイリアム・ハーベー:William Harvey(1578年~1657年)

 17世紀にはニュートンの他に、血液循環説を唱えたイギリスの生理学者ハーヴェー(1578年~1657年)、ボイルの法則を発見したイギリスの物理・化学者ボイル(1626年~91年)、土星の環を発見したオランダの物理・天文学者ホイヘンス(1629年~95年)等が活躍しました。

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カール・フォン・リンネ:Carl von Linné(1707年~78年)

 更に18世紀には、動植物の分類学を確立したスウェーデンのリンネ(1707年~78年)、燃焼理論と質量不変の法則を確立して近代化学の創始者とされるフランスのラヴォワジェ(1743年~94年)、宇宙進化論を説いたフランスの天文・数学者のラプラース(1749年~1827年)、種痘法を発見して予防接種の創始者となったイギリスの医師ジェンナー(1749年~1823年)等が科学の各分野で活躍し、優れた業績を残しました。

 ヨーロッパ近代哲学の基礎は、当時盛んとなった自然科学の研究方法を哲学的に基礎づけようとしたイギリスのフランシス・ベーコンとフランスのデカルトによって確立され、フランシス・ベーコンを祖とするイギリス経験論とデカルトを祖とする大陸の合理論はヨーロッパ近代哲学の二大潮流と成りました。

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フランシス・ベーコン:Francis Bacon(1561年~1626年)

 フランシス・ベーコン(1561年~1626年)は、名家に生まれ、13歳でケンブリッジ大学のトリニティーカレッジで学びますが、当時のスコラ哲学的方法に強い不満を抱いき、その後パリに留学して1584年には下院議員を務め、更に検事総長を経て大法官に登用され(1618年)、最高位に迄登りつめますが、汚職の嫌疑をかけられ、すべての官職と地位を追われ(1621年)、その後はもっぱら研究と著述に励みました。
主著『新オルガヌム』(1620年)において、実験と観察による帰納法を説いて、近代科学の研究方法としての経験論を確立しました。

 フランシス・ベーコンは、「知は力なり」といい、人間による自然の支配を学問の目的としました。そして真の知識に至るには、正しい認識の妨げになるイドラ(偏見・先入観)を排除しなければならないと説き(イドラ説)、更に実験と観察に基づく個々の事実から法則・結論を導き出す帰納法を提唱しました。

 具体的・経験的事実が認識の基礎であるとする立場を経験論と称して、イギリスで発達し、叉帰納法は経験論の基礎となった結果、フランシス・ベーコンはイギリス経験論の祖と云われています。」イギリス経験論は、その後ロック(1632年~1704年)・ヒューム(1711年~76年)に継承されて行きました。

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ルネ・デカルト: René Descartes(1596~1650)

 一方、デカルト(1596~1650)は、高等法院貴族の家に生まれ、大学で法学・医学を学んだ後に放浪し、1618年にはオランダ軍に入り、旧教側について三十年戦争に従軍した後、1620年には軍を離れ、再び北欧・中欧・フランス・イタリアを旅行した後にオランダに移住し、研究生活の大部分をオランダで過ごしています(1628年~49年)。
49年にスウェーデン女王に招かれてストックホルムに赴き、半年後にその地で没しています。
主著『方法叙説』(1637年)は、彼の合理主義哲学の方法論を説いたもので、「われ思う、ゆえにわれあり」という有名な言葉もこの中に出てきます。

 デカルトは、確実な真理を得るために、あらゆるものを疑って、疑い得ない真理を得ようとしました(方法的懐疑)。
そしてあらゆるものを疑わしいとして退けて行きますがが、そのように疑っている自分自身が存在することは疑う余地がないとし、「われ思う、ゆえにわれあり」という真理に到達し、「われ思う、ゆえにわれあり」という真理から出発して、彼の哲学大系を作り上げて行きました。

 その方法として、デカルトは普遍的な真理を前提として、論理的に必然的な結論を導き出す方法、すなわち演繹法をうち立てました。
演繹法は、数学特に幾何の証明等に使われる思考方法と考えれば分かり易いと思います。

 認識の根拠を人間の理性に求め、論理的な演繹によって結論に到達しようとする哲学思想を合理論と云います。
合理論は、フランス・ドイツなどヨーロッパ大陸で発達したので、一般に大陸の合理論と呼ばれ、デカルトは、大陸の合理論の祖、近代合理主義哲学の祖と呼ばれています。

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バールーフ・デ・スピノザ:Baruch De Spinoza(1632年~77年)

 大陸の合理論は、汎神論を唱えたオランダの哲学者スピノザ(1632年~77年)、単子(モナド)論を説いたドイツの哲学者ライプニッツ(1646年~1716年)等によって継承され、発展し行きました。

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ブレーズ・パスカル:Blaise Pascal(1623年~62年)

 フランスの数学・物理・哲学者パスカル(1623年~62年)は、パスカルの原理で知られていますが、哲学者としてはキリスト教の立場から、理性よりも心情を重視し、人間性について深い考察を行い、主著『パンセ(瞑想録)』の中に、有名な「人間は考える葦である」と云う言葉を残しています。

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イマヌエル・カント:Immanuel Kant(1724年~1804年)

 18世紀末に現れた近代ヨーロッパ最大の哲学者、ドイツのカント(1724年~1804年)は、イギリスの経験論と大陸の合理論はいずれも独断的であるとして、経験論と合理論を総合する批判哲学を唱え、ドイツ観念論の祖と成りました。
主著『純粋理性批判』(1781年)・『実践理性批判』(1788年)・『判断力批判』(1790年)はカントの3批判として有名です。

ジョークは如何?

最近夫婦関係がさめていると感じたマーガレット・サッチャーは精神科へ相談に行った。
精神科医は夫婦で裸になって生活してみてはどうかとアドバイスした。
家に帰ったマーガレットは嫌がる夫をなんとか説得し、二人で裸になった。
しばらくは何事もなかったが、夕食時に変化があった。
マーガレットは頬を赤らめて言った。
「ねえ、あなた。私なんだか胸が熱くなってきたわ」

夫はさめた口調で言った。
「マーガレット。それは君の乳房がスープの皿に漬かっているからだよ」


続く・・・

2016/01/02

歴史を歩く162

22 17~18世紀のヨーロッパ文化①

1芸術と文学

 17~18世紀のヨーロッパでは、絶対主義のもとで、宮廷を中心とする文化が栄えましたが、市民階級の成長と共に市民文化も発展して行きました。

 美術の分野では、17世紀のスペインやフランスを中心に、強大な王権を背景にした豪壮華麗なバロック式が発達し、このバロック式建築を代表する建造物が、ルイ14世のヴェルサイユ宮殿で、豪華な室内装飾と広大な庭園で、現在でもその姿を見る事が出来ます。

 絵画では、スペインのエル・グレコ(1541年頃~1614年)・ベラスケス(1599年~1660年)やフランドル派のルーベンス(1577年~1640年)・ファン・ダイク(1599年~1641年)等が現れました。

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エル・グレコ:「聖衣剥奪」 1581-86 リヨン美術館

 エル・グレコは肖像画、宗教画を多く残しましたが、「受胎告知」(倉敷・大原美術館蔵)は彼の代表作の1つです。

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ベラスケス:白衣の王女 マルガリータ・テレサ

ベラスケスは、スペインのフェリペ4世の宮廷画家となり、光線の独特な表現で後の印象派の先駆者と成りました。

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ルーベンス:聖母被昇天・アントワープ大聖堂所蔵

 フランドル派の巨匠ルーベンスは、歴史画、宗教画等あらゆる題材の絵画を描きますが、その画風は雄大、劇的、官能的でバロック絵画の代表的な画家の一人です。

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ファン・ダイク:狩場のチャールズ1世・ルーブル美術館

ファン・ダイクは、チャールズ1世の宮廷画家となり、多くの肖像画、宗教画を繊細優美な画風で描きました。

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レンブラント: ベルシャザルの饗宴

 独立後のオランダには、オランダ画派を代表するレンブラント(1606年~69年)が現れ、最盛期のオランダ市民の生活を描きました。
レンブラントは独創的な構図や光と影のコントラストを強調する独自の画風を築き、「光と影の画家」と呼ばれ、彼も多くの作品を残しましたがその代表作には「夜警」が在り、叉近代油絵画法の完成者としても有名です。

 18世紀になると、豪壮華麗なバロック式に替わって、繊細優美なロココ式(ロココはフランス語の貝殻細工から出た言葉)が盛んと成りました。

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サン・スーシー宮殿

 ロココ式を代表する建築は、フリードリヒ2世がベルリン郊外のポツダムに建てたサン・スーシー宮殿で、サン・スーシー宮殿にはヴォルテールをはじめ多くの学者や芸術家が集まり、18世紀東欧の文化の中心地と成りました。

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ヴィヴァルディ(1678年~1741年)

 絵画ではワトー(1684年~1721年)が有名で、叉ヴィヴァルディ(1678年~1741年)・バッハ(1685年~1750年)・ヘンデル(1685年~1759年)等に代表されるバロック音楽が流行したのはこの頃です。

 文学では、ルイ14世時代のフランスで、古典主義文学が盛んと成りました。
古典主義は、ギリシア・ローマの文化(特に詩や演劇)を理想とし、その精神や様式を模倣しようとする文芸上の傾向で、フランスでは17世紀に、イギリスでは17世紀末~18世紀前半に、そしてドイツでは遅れて18世紀中頃~19世紀初期にかけて盛に成りました。

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シャンティイ城のモリエール像

 フランスの古典主義は、宮廷劇を中心に発展し、悲劇作家のコルネイユ(1606年~84年)・ラシーヌ(1639年~99年)、喜劇作家のモリエール(1622年~73年)等が活躍し、特にモリエールは『タルチュフ』・『人間嫌い』・『守銭奴』等の優れた風刺劇を残しました。

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『失楽園』より、アダムとエヴァの楽園追放

 17世紀にピューリタン革命・名誉革命を成し遂げ、市民階級が成長していたイギリスでは、ピューリタン文学や市民小説が盛んとなり、熱心なピューリタンで、ピューリタン革命を熱烈に支持したミルトン(1608年~74年)は、ピューリタン文学の最高傑作である『失楽園』(1667年刊)を著し、旧約聖書の楽園喪失を物語化し、人間を象徴するアダムとサタンの闘争を通して神の摂理を明らかにしようとしました。

 バンヤン(1628年~88年)は、ピューリタン革命に議会派の兵士として参加し、後に妻の影響で熱心なピューリタンとなり、迫害を受け投獄されて『天路歴程』を著し、典型的なピューリタンが天国に至る信仰上の苦闘を描いています。

 18世紀になるとイギリスの植民活動を背景に、デフォー(1660年~1731年)の『ロビンソン・クルーソー』やスウィフト(1667年~1745年)の『ガリヴァー旅行記』のような市民小説が生まれました。

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『ロビンソン・クルーソー』

 『ロビンソン・クルーソー』は、孤島に流れ着いた主人公が、28年間、信仰に支えられて一人で生きぬいて運命を切り開いていく姿を描いた作品で、当時の中産階級の精神に合致していた結果、ベストセラー作品と成りました。

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『ガリヴァー旅行記』

 スウィフトは、アイルランドのタブリンで生まれ、大学卒業後、秘書・聖職者と成り、政治・宗教・学界を厳しく風刺する作品を発表し、またアイルランド抑圧に抗議して政府を攻撃しています。
晩年は不遇でしたが、その中で『ガリヴァー旅行記』(1726年)を著します。

『ガリヴァー旅行記』は、船医ガリヴァーが小人の国・大人の国・馬の国等を旅行する形式を採って、当時のイギリスの現状を厳しく批判・風刺した作品で、イギリス風刺文学の最高傑作の一つに数えられています。

 『ガリヴァー旅行記』の第3編第11章には「著者、ラグナグを去り、日本に航す、ついでオランダ船によってアムステルダムに帰り、更にアムステルダムを経て英国に帰る」とあり、日本にやって来てエド(江戸)で皇帝に拝謁し、ナンガサク(長崎)からオランダ船で帰国した様子が書かれています。

ジョークは如何?

共産党政権、ソ連崩壊後のロシア・・・

ゴルバチョフによる改革も挫折し、民衆はかえって貧しくなる一方。
当然腹いっぱい食べたいのは誰でも同じである。
「なぁ、イヴァン、もういやだで。いつになったら、どうしたら食えるんだ?」
「戦争さ!日本に戦争を吹っかけるんだよ!」
「でもなぁ、かつての世界に誇る黒海艦隊は今や弱体・・・・それに、戦争はアフガンで
懲りたよ。もうこりごりだ。」
「ハハッ!そんなんじゃねぇ。なんも、宣戦布告すりゃいいだけさ。」
「そんなこと言ったって、相手も馬鹿じゃねぇ・・・」
「わからんやつだ。戦闘状態にはいれば白旗掲げて待つだけさ。」
「捕虜になるだけだ!アホらしい。」
イヴァンが腹を叩いて大声で笑って言った。
「どっちがだ?よく聞けよ。日本の捕虜になればたらふく食わせてくれるって話だ。」


続く・・・

2016/01/01

新年のご挨拶

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新春を寿ぎ謹んでお慶びを申し上げます

皆様のご健勝とご多幸をお祈りいたします

本年も宜しくお願い申し上げます

平成28年 元旦