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2016/02/28

歴史を歩く176

23 中国文化圏の拡大10

5 宣教師の活動と文化の交流

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フランシスコ・デ・ザビエル( Francisco de Xavier 又は Francisco de Jasso y Azpilicueta, 1506年頃4月7日 - 1552年12月3日)

 ポルトガル人は、1517年にマカオに来航し、1557年にマカオ居住権を認められ、この頃からポルトガル人の貿易船に便乗して、キリスト教宣教師も来航して中国伝道を行い、特にイエズス会の布教活動は活発で、フランシスコ・ザビエル(シャヴィエル)(1506年頃~52年)は、日本での布教活動の後に中国伝道をめざして広州港外に至りましたが、同年その地で病没しています。

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マテオ・リッチ(Matteo Ricci, 1552年10月6日 - 1610年5月11日)

 その後、マテオ・リッチを初め多くのイエズス会宣教師が来航し、中国への布教に努めました。
イタリア出身のイエズス会宣教師、マテオ・リッチ(1552年~1610年)は、東方布教を志してインドのゴアに赴き(1578年)、中国布教の使命を帯びてマカオ・広東省・南京を経て北京に至ります(1601年)。
万暦帝に時計等を献上して北京に天主堂を建てることを許され、彼の得た信者は10年間で約200人といわれ、その中には徐光啓(1562年~1633年)のような高官も居ました。

 マテオ・リッチは、中国名を利瑪竇(りまとう)と名乗り、中国の官人服を着用し、中国語を話し、『天主実義』(1595年刊、カトリックの教義の漢訳本)やエウクレイデス(ユークリッド)の幾何学の前半部の漢訳である『幾何原本』(1607年刊)等を翻訳し、特に彼が作成した『坤輿(こんよ)万国全図』(1602年刊、坤輿は大地の意味)は中国最初の世界地図で、中国人のみならず、日本人にも大きな影響を与えています。
マテオ・リッチは中国の布教とヨーロッパの諸学問の伝授に活躍し、北京で没し、ゴアに葬られています。

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ヨハン・アダム・シャール・フォン・ベル(Johann Adam Schall von Bell、1591年 - 1666年8月15日)

 アダム・シャール(1591年~1666年、中国名は湯若望)は、ドイツのイエズス会宣教師で、1622年に中国に渡来し、崇禎帝の命により、徐光啓らと『崇禎暦書』の編纂を行い、更には大砲の鋳造をも行っています。
明が滅ぶと清に仕えて天文台長官と成りますが、後に失脚し、北京で死去しています。

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フェルディナント・フェルビースト(Ferdinand Verbiest, 1623年10月9日 - 1688年1月28日)

 イエズス会宣教師は、清代になっても活躍し、ベルギー出身のフェルビースト(1623年~88年、中国名は南懐仁)は、1659年に中国に到着後清朝に仕え、アダム・シャールを助けて天文学の普及に尽力し、天文観測や修暦の編纂にあたり、三藩の乱が起こると大小120門の大砲を鋳造し、その功により工部侍郎に任命されます。

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ジョアシャン・ブーヴェ(Joachim Bouvet、1656年7月18日 - 1730年6月28日)

 フランスのイエズス会宣教師ブーヴェ(1656年~1730年、中国名は白進)は、ルイ14世の命で中国に派遣され、康煕帝に仕えて幾何学を進講し、叉康煕帝の命で10年余りを費やして大規模な実測をもとに中国最初の全土の実測地図である『皇輿全覧図』(1718年に完成)を作成しました。
同じくフランスのイエズス会宣教師レジス(1663年~1738年、中国名は雷孝思)もブーヴェ等と共に『皇輿全覧図』の作成に従事しました。

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カスティリオーネの筆による塞宴四事図

 叉イタリア出身のイエズス会宣教師カスティリオーネ(1688年~1766年、中国名は郎世寧)は、1715年に北京に渡り、康煕帝・雍正帝・乾隆帝の3代に仕え、彼は中国の画家達に西洋の油絵画法や明暗法・遠近法等の写実的な画法を教えるとともに、自らは中国の画法を取り入れて肖像画や馬の絵等を描き、中国絵画に大きな影響を与えました。

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在りし日の円明園

 カスティリオーネは円明園の設計・建設にも従事しています。
円明園は北京郊外の北西約10kmの所に作られた清の離宮で、雍親王(後の雍正帝)が創建し、乾隆帝が増改修した、中国最初の西欧風の噴水やカスティリオーネが設計したバロック式と中国式を融合した宮殿・庭園が造られ、中国で最も美しい建築物・庭園と讃えられましたが、1860年アロー戦争の際、英仏連合軍によって掠奪・放火・破壊され廃墟と化しています。

 イエズス会宣教師達は自ら姓名を中国風に改め、中国の言葉を使い、中国風の服装を身につけて中国社会に入り込んで行きました。
叉布教にあたっては中国人の慣習・伝統的儀式を尊重し、孔子の崇拝や先祖の祭祀等の典礼(一定の儀式、儀式作法)を認めています。

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教皇クレメンス11世

 しかし、後から中国に入ったフランチェスコ修道会やドミニコ修道会等は、イエズス会のそのような布教方法は神への冒涜であるとして攻撃し、その非をローマ教皇に訴えたので、論争は教皇庁に迄波及し、結局教皇クレメンス11世はイエズス会の布教方法を否定しますが(1704年)、この決定に怒った康煕帝は、イエズス会宣教師以外の布教を禁止し、典礼を否認する他派宣教師の入国と伝道を禁止して追放し(1706年)、更に雍正帝は、1724年にキリスト教の布教を全面的に禁止し、宮廷奉仕者以外の宣教師をマカオに追放しましたが、この時は日本程の迫害はなく、殉教も発生しませんでしたが、以後布教は途絶え、18世紀末の嘉慶帝以後は更に取り締まりが厳しくなっていきます。
そして、乾隆帝は、1757年に外国との交易港を広州1港に限定しました。

 キリスト教の布教のために来航した宣教師達は、様々なヨーロッパ文化を中国に紹介しましたが、その一方で科挙制や中国の文化がヨーロッパに紹介され、17世紀以後フランスを中心とする西ヨーロッパ各国で中国の文物に対する興味・関心が高まったのです。

ジョークは如何?

ある日、ヘリから地上を眺めておられた金正日主席様はこう仰られました。
「ここから百ウォンを落とせば民は喜ぶであろうな。」

すると側近が一言。
「主席様、千ウォンが落ちて来た方がもっと民は喜びますよ。」

ヘリの操縦かんを握る操縦士が心の中でポツリ。
「主席様、あなたが落ちた方がもっと民は喜びますよ。」


続く・・・


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2016/02/23

歴史を歩く175

23 中国文化圏の拡大9

4 明清代の文化②

 清は、中国人を統治するにあたり、強硬策(威圧策)と懐柔策を併用しましたが、懐柔策の一つとして、学術を奨励し、漢人の学者を優遇して多くの大編纂事業を行いました。
代表的なものとして『康煕字典』・『古今図書集成』・『四庫全書』等が現在に伝わっています。

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康煕字典

 『康煕字典』(1716年完成)は、康煕帝の命によって作られた漢字字書で、4万2000余字が収められ、古典の用例も挙げた代表的な漢字字書とされ、日本の漢字辞典の多くは、この『康煕字典』をもとに編纂されています。

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欽定古今図書集成

 『古今図書集成』(1725年)は、康煕帝の命で編纂に取りかかり雍正帝の時に完成した大部の類書(百科事典)であり、1万巻から成り、古今の典籍から記事を抜き出して編纂されています。

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文淵閣四庫全書(故宮博物院蔵)

 大編纂事業の中で最も有名な『四庫全書』(1781年)は、乾隆帝の命によって多くの学者が動員され、10年の歳月を要して1781年に完成した一大叢書です。
経(儒教)・史(歴史)・子(思想)・集(文学)の4部に分類して編纂され、3462種7万9582巻からなる『四庫全書』は、当時現存した古今の書物を集めて、定本を作り、清書させたものですが、同じものを7部作り、4部は紫禁城・円明園・熱河の離宮・瀋陽の宮城に置き、残りの3部は揚州・鎮江・杭州に置かれましが、其の作成に要した労力はどれほどのものであったか想像も出来ません。

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銭大昕(1728年~1804年)

 明末に始まった考証学は、清に入っても多くの学問分野でますます盛んとなり、清代には銭大昕(1728年~1804年)等の優れた学者が登場しました。
銭大昕は、清代考証学の大家で、特に歴史学の考証に優れていた人物です。

 清末には、考証学を批判し、孔子を革命主義者としてとらえ、政治的実践を尊び、現実の問題に注目しようとする公羊学派(くようがくは)が起こり、変法運動を行った康有為(1858年~1927年)は公羊学派の学者でも在りました。

 庶民文化は清代にも栄え、小説では『紅楼夢』・『儒林外史』・『聊斎志異(りょうさいしい)』等が現在でも読み続けられています。

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紅楼夢・太虚幻境(たいきょげんきょう)を訪れる賈宝玉

 『紅楼夢』は、曹雪芹(1724年頃~63年)の作品で、乾隆帝時代に書かれました。
貴族の家に生まれた賈宝玉と彼を取りまく多くの佳人との恋愛を、栄華を極め・没落を辿る貴族の豪華な家庭生活を背景に描き、日本の『源氏物語』に比される作品です。

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儒林外史・英語版挿入画

 『儒林外史』の著者・呉敬梓(1701年~54年)は、科挙のやり方に義憤を感じて生涯科挙を受験することは在りませんでした。
『儒林外史』は、当時の官界の腐敗を知識人(儒林)の立場から暴露し、科挙制度を諷刺した作品で、『紅楼夢』と並ぶ口語小説の傑作です。

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聊斎志異・挿入画

 『聊斎志異』(1766年)は、蒲松齢の作品で、431編の文語短編小説集です。
民間説話に取材した雑記・奇聞・伝奇小説から成る作品で、江戸時代の上田秋成(1734年~1809年)の『雨月物語』の中の数編は『聊斎志異』の話をもとに創作されています。

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玄宗皇帝と楊貴妃

 戯曲では、唐の玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスを主題とした『長生殿伝奇』、明末の文人と名妓の恋愛を中心に明の滅亡を描いた史劇である『桃花扇伝奇』等が有名で、特に『長生殿伝奇』は、中国の戯曲中の傑作とされています。

 絵画では、明代に引き続いて南宗画(南画)が盛んで、後にはヨーロッパ絵画の明暗法や遠近法などの描法が取り入れられました。

ジョークは如何?

イギリス人:あるイギリスの紳士が大西洋をたらいで横断しましたとさ。
フランス人:あるフランスの紳士がエッフェル塔からこうもり傘で降下しましたとさ。
ロシア人:あるロシアの紳士が・・・
イギリス&フランス人:(もろ手を上げて)君の勝ちだ!

※ロシアに紳士なんか

続く・・・

2016/02/19

歴史を歩く174

23 中国文化圏の拡大8

4 明清代の文化①

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永楽帝の文化事業

 元朝をモンゴル高原に退けて、漢民族による中国統一を達成した明朝では、民族的・伝統的文化復興の気運の高まりを背景に、再び儒教が盛んと成りました。
叉、明では朱子学は官学となり、永楽帝の命によって『四書大全』・『五経大全』・『性理大全』等が編纂され、更に中国最大の類書である『永楽大典』も編纂されています。

 『四書大全』と『五経大全』(共に1415年刊)は、『四書』と『五経』を朱子学の説によって解釈した注釈書で、以後科挙試験における解釈の基準と成り、『性理大全』(1415年完成)は、宋・元の性理学(朱子学のこと)の学説を集大成した書ですが、国家が経典の解釈を定めたために、儒学は形式化し、思想の固定化が進みました。

 16世紀初頭、王守仁が陽明学をおこし、「知行合一」を説きました。

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王守仁(1472~1528)

 王守仁(1472~1528)は、陽明と号したので、王陽明と呼ばれることの方が多く、彼は浙江省に生まれ、28歳で進士に合格して官吏と成りますが、有力な宦官と対立したために貴州省に左遷され(1508年)、この地で「心即理」等を悟り、陽明学を創始します。
その後、中央政界に復帰し(1516年)、反乱の鎮圧等に功績をあげ、兵部尚書(長官)に昇進し、1528年には広西省の反乱を鎮圧しましたが、その帰途に没しています。

 王陽明は、南宋の学者で朱子学の主知主義に反対した陸九淵(1139年~92年)の学説を発展させ、「心即理」(万物の本質・人間の本性である理は、情のない理性のうちにあるのでなく、情や欲を含む人間性の中にあるとする説)を唱え、叉知と行(実践)は本来一つのものであり、真の知は必ず行(実践)を伴うとする「知行合一」を唱え、実践的な道徳を説きました。

 陽明学は、一時隆盛を極めますが、王陽明の死後は次第に実践性を失いますが、日本にも大きな影響を及ぼし、江戸時代に中江藤樹(1608年~48年)や熊沢蕃山(1619年~91年)等が知られています。
 
 明末から清初にかけては、朱子学や空論化した陽明学の末流に対して、確実な文献に典拠を求めて儒学の古典を究明しようとする考証学が盛んとなり、明末記清初期には考証学の先駆者とされる顧炎武(1613年~82年)や黄宗羲(1610年~95年)等多くの学者を生んでいます。

 明代文化の特色の一つは、実用や実践を重んじる実学(経世実用の学)が盛んとなったことです。実学は実際の生活・社会に役立つ学問の意味で、明末には多くの技術関係書が刊行されました。

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李時珍(1523年頃~96年頃)

 李時珍(1523年頃~96年頃)が著した『本草綱目』(1596年刊)は、古来の薬草に関する書を中心に、1898種の薬物品種とその処方を集大成した薬物に関する総合書で、日本でも広く読まれ、薬物学の標準書と成りました。

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宋応星(1590年頃~1650年頃)

 宋応星(1590年頃~1650年頃)の著した『天工開物』(1637年刊)は、産業技術の図版入り解説書で、産業部門を農業・織物・染色・製塩・精糖・陶磁器・鉱業・醸造など18部門に分類して、その製造・生産過程を多くの図版を使用して解説している当時としては類を見ない書物です。

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左マテオ・リッチ、右徐光啓

 徐光啓(1562年~1633年、明末に内閣大学士にまでなった政治家であり、早くからマテオ・リッチ等宣教師と親しく、自ら洗礼を受けて入信した政治家・学者)の著した『農政全書』(徐光啓死後の1639年刊)は、古来の農学書の諸説を12部門に分類・整理して記述した農政関係の総合書です。

 叉同じく徐光啓がアダム・シャール等イエズス会宣教師の協力を得て西洋暦法によって編纂した『崇禎暦書』(1634年刊)等多くの技術関係書が刊行されました。
 
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弓を射る呂布(清朝期の三国志演義の挿絵)

明代には宋・元以来の庶民文化も栄え、小説では「四大奇書」と呼ばれる『三国志演義』・『水滸伝』(北宋末に梁山泊を根拠地として活躍した義賊の豪傑108人をめぐる武勇物語)・『西遊記』・『金瓶梅』が現在の形にまとめられました。

 戯曲では、夢に見た書生に恋こがれて死んだ娘が再生して書生と結ばれるという伝奇的な『牡丹亭還魂記』が代表作とされています。

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菊花文禽図 沈周 明 大阪市立美術館

 絵画では、文人画系の南宗画(南画)が明代に最盛期を迎え、南画は、細い・柔らかい描線を重ねて山水を水墨で描く画法で、董其昌(1555年~1636年)によって大成され、これに対して北宗画(北画)は、院体画系で、仇英(16世紀前半)等が出て栄えました。

 工芸では、コバルトを用い、青色で絵を焼き付けた陶磁器である染付や赤・緑・黄・黒・青等の釉薬(うわぐすり)で文様を描いて焼いた陶磁器である赤絵(特に赤が多く用いられたので赤絵と呼ばれた)等すぐれた陶磁器が景徳鎮等で作られました。

ジョークは如何?

原潜の世界最長潜水記録は我が国の潜水艦が保有している。
「ノブゴロド」は1950年以来未だに潜水して記録を更新中である。


続く・・
2016/02/16

歴史を歩く173

23 中国文化圏の拡大7

3明清の社会

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湖北・湖南等の位置関係

 明代になると、江南の開発の進展や農業技術の向上によって農業生産力はますます増大し、宋代以来、「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」と云われた様に米作の一大中心地であった長江下流域は、大運河沿いで交通の便も良く、江南の物資の集散地として既に宋代から発展していましたが、明中期の16世紀頃から、絹織物・綿織物等の手工業・商業が盛んとなり、都市が発達しました。
特に絹織物の蘇州・綿織物の松江が有名でした。

 しかし、生産力の高かった長江下流域が負担する税も膨大で、都市在住の不在地主(多くは大商人)による大土地所有制と佃戸制が益々進み、明末清初にはこの地域の農民の約9割が佃戸であったと云われており、其の為彼等は苦しい家計を補うために、家族をあげて副業として機織りの内職に努めたのです。

 絹織物・綿織物に代表される農村家内工業が盛んになると、その原料である綿花や養蚕に必要な桑の栽培が普及し、その結果米作の中心は、長江下流域から長江中流域の湖広(現在の湖北・湖南省)に移り、長江中流域が新たな穀倉地帯と成り、明代末には、従来の「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」に代って「湖広熟すれば天下足る」と云われる様に成りました。

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景徳鎮 嘉靖赤絵龍文丸壺

 更に茶の栽培や陶磁器の生産も益々盛んとなり、特に景徳鎮には明代に政府の専用工場が設けられ、数10万人が働き、染付・赤絵等の優れた陶磁器が作られ、景徳鎮の名は世界的に有名と成りました。

 商業・手工業等の発達は、米・生糸・綿花・絹織物・綿織物・茶・陶磁器等の商品流通を促し、客商と呼ばれる遠隔地商人によって各地に運ばれて取り引きされ、山西商人や新安商人等が全国的に活動しました。

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山西商人

 山西商人は、山西省出身の商人層で、明代初頭から政商として活躍し、後には金融業を中心に商業・手工業等多方面にわたって全国的に活躍しましたが、江南では新安商人の進出により次第に後退しました。

 新安商人は、明代後半から江南を中心に全国的に活躍した安徽省徽州(旧新安郡)出身の商人層で、最初は塩商として発展し、海外との交易にも活躍しました。

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重慶糊広会館

 叉商業・手工業等の発達に伴い、主要な都市では会館・公所が建てられ、商工業等の同業者や同郷者の団体が親睦・互助の為に建てた建物で、建物内には事務室・会議室の他に宿泊施設や倉庫も設えられていました。
会館・公所は最初、建物を指した言葉でしたが、後には同業者や同郷者の団体そのものも指すように成りました。

 明の洪武帝は、倭寇対策の一つとして海禁を行い(1371年)、ここに海禁とは、明・清両王朝が行った海上交通・貿易・漁業活動等への制限を意味し、外国船の往来・中国人の海外渡航や外国との交易・大船の建造や所有・漁業活動等を制限したのですが、密貿易が盛んになり、厳重な取り締まりがかえって倭寇の侵入を招いた結果、1567年には緩和されています。

 明代中期は、ヨーロッパの大航海時代に符合し、16世紀になるとポルトガル人をはじめヨーロッパの商人が来航し、絹・茶・陶磁器等中国の産物を手に入れる為に、メキシコ銀等の大量の銀を持ち込み、叉日本銀(明代における日本からの最大の輸入品であった)も大量に流入した結果、16世紀以降、銀が主要な通貨として流通するように成りました。

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大明宝鈔

 明は、1375年に宝鈔と呼ばれる紙幣を発行して銅銭と併用しましたが、宝鈔を乱発した結果、信用が低下して次第に使われなくなり、銀と銅銭の流通が盛んとなり、特に16世紀以降は銀の流通が益々盛んと成ります。
銀の流通が増大すると、税の一部を銀で代納する傾向が現れ、そのため一条鞭法と呼ばれる新しい税法が、16世紀後半に先ず江南で実施され、やがて各地に広まり、16世紀末迄には、ほぼ全国に普及して行きました。

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一条鞭法と張居正

 一条鞭法は、土地を対象とする田賦(地税)と人丁(成年男子)を対象とする徭役(丁税)等をそれぞれ銀に換算して一括して銀納とした税制で、従来別々に割り当てられて複雑になっていた諸税を一括して簡素化した税制であり、唐の両税法以来の大改革でした。

 万暦帝時代に、財政改革を行った張居正は、全国的に検地を行うと伴に、一条鞭法を全国的に実施して、一時明の財政再建に成功しましたが、張居正の死後、明の財政は再び悪化の道を辿ります。

 商工業や貨幣経済が発達する一方で、地主・商人・官僚の支配に苦しんだ農民達は、しばしば暴動を起こし、明末期から清初頭にかけて、抗租運動(佃租(小作料)をめぐる佃戸の地主に対する抗争)や奴変(ぬへん、家内奴隷が身分解放を求めて主家に対しておこした暴動)等が江南を中心に激しく成り、叉広東や福建方面の農民を中心に、海禁を犯して東南アジア各地に移住し、密貿易等に従事する者も多く、後の南洋華僑の基礎と成りました。

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明時代の広州

 明代の社会・経済の傾向は、そのまま清代に引き継がれ、江南は益々中国経済の中心地として重要な役割を果たし、「湖広熟すれば天下足る」と云われた様に長江中流域は米作の一大中心地でしたが、長江流域では、明末期から清代にかけてヨーロッパから、さつまいも・じゃがいも・とうもろこし・さとうきび・藍・落花生・たばこ等が伝播し栽培されました。
この内、さつまいも・じゃがいも・とうもろこし・さとうきび・落花生・たばこは新大陸からヨーロッパへ伝えられた作物です。

 特に康煕・雍正・乾隆の3代130年間は、国内の商工業や外国貿易が益々盛んとなり、銀の流入は更に増大し、国家財政は豊かに成りましたが、ヨーロッパ人との貿易はキリスト教との関係から、乾隆帝時代に広州1港に限定されました(1757年)。

 税制では、当初明の一条鞭法を受け継いだのですが、18世紀の初頭、雍正帝時代に、地丁銀が全国的に実施されるように成り、丁銀(丁税、人丁に課せられていた徭役を銀に換算した額)を地銀(地税)に組み込んで、土地の所有高に応じてのみ徴収する税制で、これによって古来の人頭税(人丁ごとに課せられた税や役)は姿を消すことになった結果、地丁銀は、中国の税制の中で画期的な税制とされ、地丁銀によって税制は更に簡略化されたのです。

 この地丁銀への移行の前提となった政策が、康煕帝によって1711年の在位50周年を記念して行った減税策である「盛世滋生人丁」でした。
康煕帝は、1711年以後に増加する人丁(成年男子)、すなわち盛世滋生人丁に対する丁税を免除し、これによって丁口(成年男子の数)と丁税が固定されることになり、丁銀の地銀への組み込みが可能となり、地丁銀への道が開かれることに成ったのです。

ジョークは如何?

ある日、スターリンが一人の幹部に尋ねた
「君はアメリカについてどう思うね?」
「はい、同士! 資本主義は今や崖っぷちにあるでしょう!」
満足そうに頷き、さらに問い掛ける
「では我らが国はどうかね?」
「はい、同士! 社会主義は資本主義の一歩先をゆくものであります!」


続く・・・



2016/02/11

歴史を歩く172

23 中国文化圏の拡大6

2清の統一③

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世宗雍正帝(1678年~1735年、在位1723年~35年)

 清朝第5代、世宗雍正帝(1678年~1735年、在位1723年~35年)は、44歳で即位したため、その在位は13年と短いのですが、康煕帝と乾隆帝の間にあって重要な役割を果たしました。

 雍正帝は、内政に力をそそぎ、君主独裁の強化・軍機処の設置・キリスト教禁止等を実施しました。

 先ず君主独裁を徹底し、官界の綱紀粛正をはかり、官僚への監督を厳重にして少しでも違法なことがあれば告発して重罪に処し、叉皇帝への報告を自ら点検して朱筆で批判して送り返し、政治の末端の用務迄把握したのです。

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故宮・軍機処

 最も重要なことは軍機処を設置したことです。
軍機処は、清の軍事行政の最高機関で、初期には軍の機密を守るために臨時に設けられた機関(軍機房)でしたが、後に独立して正式の政府機関と成りました(1732)。
数名の軍機大臣で構成され、内閣に代わって最高機関となり、皇帝の下で重要な政務に関与し、軍機処の設置によって皇帝の独裁権は更に強化されて行きました。

 叉地丁銀(清の税制)が全国に普及・施行される様に成ったのも雍正帝の時代でした。

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処刑(清朝末期)

 異民族の征服王朝であった清は、「文字の獄」と云われる筆禍事件によって、反満・反清思想を弾圧し、その様な著述を為す者を極刑に処しますが、特に雍正帝の時代が最も厳重でした。

 江西省で行われた科挙の郷試の試験官として派遣された査嗣庭が出題した試験問題の中に「維民所止」(維(これ)民の止(お)るところ)という語句が問題となった。「維と止」の二字は「雍と正」の字画の頭が欠けている。これは雍正帝の首をはね、清に反旗をひるがえす意図であると糾弾・断定され、本人・一族の者が死刑と処されたことは有名な事例です。

 更にキリスト教を禁止し、朝廷奉仕者以外の宣教師をマカオに追放し(1723)、キリスト教の布教を全面的に禁止しました(1724年実施)。

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キャフタ条約締結後の清朝・ロシア国境線

 雍正帝は、外交・外征には消極的でしたが、青海の反乱を抑え、青海・チベット支配を確立し(1724年)、叉ロシアとの間にキャフタ条約(1727年)を締結して、ロシアとモンゴルの国境を画定し、国境での交易場設置等を取り決めたものです。

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高宗乾隆帝(1711年~99年、在位1735年~95年)

 雍正帝は、在位13年、円明園離宮で急死し、遺言によって第4子が即位しました。
清朝第6代、高宗乾隆帝(1711年~99年、在位1735年~95年)で、彼は、その治世中に10回の対外遠征(十全の武功)を行い、1757年には東トルキスタンのジュンガル部を、1759年には回部(ウイグル人の居住する地域)を平定し、清の支配領域を拡大した結果、清朝の領土は最大と成り、その結果、18世紀中頃には、清は中国本土・東北地方(満州)・台湾を直轄領、モンゴル・東トルキスタン(新疆)・チベット・青海を藩部、そして朝鮮・ヴェトナム・タイ・ミャンマー(ビルマ)を属国とする大帝国に成長したのです。

 清は、中央に理藩院を設置して藩部関係事務を統轄させ、モンゴル・東トルキスタン(新疆)・チベット・青海の藩部に対しては要地に将軍・大臣を派遣する以外、自治を行わせ、間接的統治を行いました。
理藩院は、太宗が内モンゴルを平定したときに設置した蒙古衙門を起源とし、1638年に理藩院と改称され、乾隆帝時代に藩部の増大につれて整備・拡充されました。

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欽定四庫全書総目二百巻、巻首一巻

 叉乾隆帝は、学問を好み、学術を奨励し、学者を総動員して大編纂事業を行わせました。
特に10年の歳月を経て完成した『四庫全書』は、古今の書物をほとんど網羅し、7万9582巻からなる一大叢書です。

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白蓮教徒の乱

 乾隆帝時代は、当に清の全盛期であり、華やかな時代でしたが、晩年には綱紀がゆるみ、衰退の兆しが現れ、譲位した翌1796年には白蓮教徒の乱が起こっています。

 清は中国統治にあたっては、明の制度を継承しながら、雍正帝による軍機処の設置や理藩院の様に独自の制度を合わせて実施しました。

 中央官庁では、要職の定員を偶数とし、満州人と漢人を同数任命する満漢併用制(満漢偶数官制)を採用しましたが、軍機大臣等特定の官職は満州人が多く、同一官職では満州人を優位に置いていました。

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八旗

 軍制では、満州八旗・蒙古八旗・漢軍八旗の各八旗を正規軍とし、八旗以外に常備軍として漢人で編成する緑営(緑旗)を各地に置き、治安維持に充当し、その統治にあたっては、強硬策(威圧策)と懐柔策を併用する巧妙な統治方法を行っています。

 強硬策(威圧策)としては、弁髪の強制・文字の獄や禁書による思想統制を行い、懐柔策としては満漢併用制(満漢偶数官制)や科挙を盛んに行ない漢人にも出世の道を開き、叉学者を優遇して大編纂事業を行い、学者を優遇しました。

 強硬策(威圧策)と懐柔策を併用する巧妙な統治によって、異民族による征服王朝であった清が300年にわたって中国を支配する事が可能だったのです。

ジョークは如何?

モスクワの図書館にて。
「時刻表を探しているのですが」
「ああ、時刻表なら『フィクション』の棚にありますよ」

続く・・・
2016/02/06

歴史を歩く171

23 中国文化圏の拡大5

2清の統一②

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清朝第4代聖祖康煕帝

 清朝第4代聖祖康煕帝(1654年~1722年、在位1661年~1722年)は、順治帝の第3子で、8歳で即位し。彼は幼い時から読書・学問を好み、終生これに励み、又質素堅実な生活態度を一生通し、中国史上第一の名君と讃えられています。

 当初は、4人の大臣が輔政しましたが、1667年以降は親政を開始し、即位以来の問題であった三藩の撤廃を企てます。

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三藩

 清は、中国平定に漢人武将を利用しましたが、彼等のうち王号を与えられて雲南に駐屯した呉三桂・広東の尚可喜(1604年~76年)・福建の耿継茂(?~1671年)は三藩と呼ばれ、一大勢力をなしており、康煕帝は、尚可喜が引退を願い出たことを好機ととらえ、三藩の撤去を命じました(1673年)。

 これに対して最大勢力であった呉三桂がまず叛き(1673年)、耿継茂の子・耿精忠も呉三桂の誘いに応じて清に背きます(1674年)。
尚可喜は清朝への忠誠を変えませんでしたが、子の尚之信は呉三桂に応じ(1676年)、これが三藩の乱(1673年~81年)呼ばれる騒乱です。

 当初は三藩軍が優勢で、呉三桂は帝位に就きますが間も無く死去し(1678年)、清朝は一時危機に陥ったものの、康煕帝は緑営(漢人で編成された、八旗につぐ正規軍の一つ、緑旗とも呼ばれる)を動員して鎮圧にあたり、呉三桂の死後は形勢が逆転し、跡を継いだ呉三桂の孫も自ら命を絶ち、三藩の乱はついに鎮圧されました(1681年)。

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鄭成功・中華民国台南市「延平郡王祠」に鎮座する鄭成功像
 
三藩の乱を平定し、中国支配を確立した康煕帝は、台湾を根拠地として「反清復明」運動を続ける鄭成功の制圧にも乗り出します。

 鄭成功(1624年~62年)は、鄭芝竜を父、日本人の田川氏の娘を母として平戸で生まれ、1630年に明に渡り、明が滅亡すると(1644年)、父とともに唐王を奉じて挙兵し、唐王から王室の姓である「朱」姓を賜り、国姓爺と呼ばれました。
ちなみに近松門左衛門の「国姓爺合戦」は、彼を主人公とする戯曲です。

 父の鄭芝竜はまもなく清に降伏しましたが(1646年)、鄭成功は唐王亡き後は永明王を奉じ、厦門を奪って根拠地とし(1650年)、清に反抗を続け、日本にも援助を要請したものの不成功に終わっています。

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ゼーランディア城の降伏(ヤン・ファン・バーデン画、1675年)

 鄭成功は、1659年には南京に迫りますが今一つ及ばず、1661年に台湾に攻め込み、ゼーランディア城を攻略してオランダ人を駆逐し、以後、台湾を「反清復明」運動の根拠地としましたがまもなく病没しています(1662)。
鄭成功の死後は、子の鄭経が復明運動を受け継ぎ、三藩の乱に乗じて大陸反攻を図りますが失敗に終わっています。

 康煕帝は、三藩の乱を鎮圧すると、台湾に侵攻して鄭氏を滅ぼし、台湾を初めて中国の領土とし(1683年)、鄭氏は3代22年で滅び、清朝の中国統一が完成しました。

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ネルチンスク条約締結時のロマノフ王朝と清朝の勢力関係

 当時、北方ではロシアがシベリアを東進して太平洋岸に達し、さらに黒竜江(アムール川)沿いに南進し、アルバジンに要塞を築いて根拠地とした結果、清の北辺がロシアと接することになります。
康煕帝は、これを反撃し、アルバジンをロシアから奪回し(1685年)、1689年にはピョートル1世との間にネルチンスク条約を結んで、アルグン川とスタノヴォイ山脈(外興安嶺)をもって両国の国境とし、両国の通商などを定めました。
ネルチンスク条約は清がヨーロッパの国家と締結した最初のそして対等の条約です。

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ガルダン・ハン

 又モンゴル高原では、ジュンガル部(オイラートの一部族)が、ガルダン・ハン(在位1676年~97年)のもとで外モンゴル・東トルキスタンを支配して最盛期を迎え、清軍ともしばしば衝突しており、康煕帝はガルダン・ハン討伐に3度親征を行いました(1690年・1696年・1697年)。
ガルダン・ハンは、1696年に康煕帝に敗れ、翌年自害し、これによって清は外モンゴルを支配下に置き、 更にチベット遠征を行い(1718年~20年)、ジュンガル勢力をチベットから駆逐して、チベットをもその勢力下におさめました。

 康煕帝は、内政にも力をつくし、宦官の数を縮小し、黄河の治水にも努め、又1711年には、在位50周年を記念して、「盛世滋生人丁」(1711年以後に増加した成年男子には丁銀を課さないという減税策)を行い、地丁銀(清の税制)への道を開いています。

 又学術を奨励して大編纂事業を行い『康煕字典』(漢字字書)を編纂し、『古今図書集成』(百科辞書)の編纂も行いますがその完成は雍正帝の時代になりました。

 康煕帝は、在位61年、康煕・乾隆時代と云われる清の全盛期の基礎を確立し、康煕帝には35人の男子があったが、皇太子問題で苦労したので、遺言によって第4子の雍正帝を指名して崩御します。

ジョークは如何?

ヨーロッパでは、ナチスの非人道の代表として良く紹介される写真のひとつに、 捕まえたユダヤ人を列車に無茶苦茶に詰め込んでいる写真というものがある。
しかし、この写真は日本ではあまり見かけることはない、なぜか?

日本の基準でいうとすいているからだ


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2月5日ジロくんは10歳を迎えました。


続く・・・
2016/02/03

歴史を歩く170

23 中国文化圏の拡大4

2 清の統一①

 中国東北地方を原住地とするツングース系の女真族は、その地で半農・半牧・半猟の生活を営んでいました。
女真族は、女直とも呼ばれ、清代には自らマンジュ(満州)と称し、女真族の一部は、12世紀に金朝(1115年~1234年)を建国しましたが、モンゴルに滅ぼされ、13世紀以後は元・明に服属します。

 明代には、女真族は女直と呼ばれ、その居住地によって、建州女直(牡丹江上流から長白山一帯に居住)・海西女直(松花江沿岸に居住)・野人女直(黒竜江下流から沿海州にかけて居住)の3つに大別され、大部族集団を形成していました。

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ヌルハチ(太祖、1559年~1626年、在位1616年~26年)

 ヌルハチ(太祖、1559年~1626年、在位1616年~26年)は、建州女直の一首長の子に生まれ、姓はアイシンギョロ(漢字では愛新覚羅(あいしんかくら))、25歳の時に、祖父と父が明との戦いで戦死しますが(1583年)、ヌルハチはその後数年間で建州女直の諸族を従え、以後約30年の歳月を経て、ほぼ女真族の統一を成し遂げ、1616年に推されてハン位に就き、国号を後金(こうきん、1616年~36年、1636年に清と改称)と称しました。

 ヌルハチは、「七大恨」(7カ条にわたって明の罪状を述べたもの、その第1に祖父や父の殺害をあげている)を宣言し(1618年)、明の根拠地である撫順城を攻略しました。
明は翌年10万余の大軍を送り、後金の本拠地を突いたのですが、サルホ山の戦い(サルホの戦い、1619年)で大敗を喫しました。

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サルホ(サルフ)の戦い

 ヌルハチは、更に瀋陽・遼陽(遼東)を攻略し(1621年)、1625年には瀋陽に遷都、翌1626年には、寧遠(山海関の北)を包囲したものの失敗し、まもなく病没しています(1626年)。

 この間、ヌルハチは八旗を編成して軍制を整え、叉金の女真文字に代わる独自の満州文字を創り、女真族の民族的自覚を促しました。

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八旗兵

 八旗は、女真族固有の狩猟・軍事組織を基礎として新たに編成した軍事組織であり、同時に行政・社会組織でもあり、 男300人を1ニル、5ニルを1ジャラン、5ジャランを1グサ(旗)として編成され、8つの軍団は、黄・白・紅・藍の4色と、それぞれに縁をつけた八つの旗を標識としたため、八旗と呼ばれました。

 ヌルハチは、後継者を決めずに死去しますが、武勇に優れ、サルホの戦いでも功績があり、衆望を集めていた第8子のホンタイジ(当時34歳)が推されてハン位に就きました。

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太宗(ホンタイジ、在位1626年~43年)

 太宗(ホンタイジ、在位1626年~43年)は、ヌルハチの遺業を継いで長城以南に繰り返し侵入して明を圧迫する一方で、朝鮮に2度にわたって出兵(1627年、1637年)李朝を服属させ(1637年)、
内モンゴルのチャハル部にも2回の親征を行って(1628年、1635年)これを平定し、蒙古人で編成された蒙古八旗を設けます(1635年)。
この時、元朝の伝統を継ぐ証拠となる玉爾を得たことから、改めて帝位に就き、国号を後金から清(1616年~1912年)に改めました(1636年)。

 清の勢力が強大となり、明への圧迫が強まるにつれて、明朝内部では年を追って動揺が激しくなり、清に投降する官僚・軍人が増加していきました。

 太宗は、投降してきた漢人を優遇し、六部・理藩院の設置等諸制度を整え、叉漢軍八旗を編成(1642年)する等、国力の充実に努め、清朝の基礎を築きましたが、 太宗は、中国征服に乗り出す計画が進むなかで、瀋陽で急死します(1643年)。

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世祖順治帝(在位1643年~61年)

 太宗の死後、第9子で僅か5歳の世祖順治帝(在位1643年~61年)が清朝第3代皇帝として即位し、叔父のドルゴン(ヌルハチの第14子、1612年~50年)が摂政となり、政治の実権を握ります。

 ドルゴンは、李自成が北京を攻略したとの報に接し、10万の兵を率いて南下し、山海関の北100kmの寧遠に進出しますが、当時山海関(万里の長城の東端)を守っていた明の武将が呉三桂でした。

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呉三桂(1612年~78年)

 呉三桂(1612年~78年)は、遼東に生まれ、父の功績で武将となり、清の進出に対して遼西を守備し、1644年李自成が北京に迫ったときは、山海関の北で清軍と対峙していましたが、北京が危うくなると北京防衛の命を受け、前線から引き返して山海関に向かう途中、北京陥落・明滅亡の報を受け、前の清軍・後の李自成軍にはさまれて窮地に陥いりました。
呉三桂は、ドルゴンに領土割譲を代償に李自成討伐の援助を求め、清軍を山海関から北京へ導きました。

 ドルゴンの率いる清軍は、呉三桂の案内で怒濤の如く南下し、北京を陥れて、李自成を北京から駆逐し(1644年)、呉三桂は、この功績により平西王に封じられ、以後明の遺王・遺臣の平定に功を立て、雲南に駐屯してなかば独立した大勢力を築きます。

 ドルゴンは、北京に入城すると、崇禎帝を弔い、大赦・減税を行って漢人の懐柔に努める一方で再度にわたって有名な弁髪令を発し(1644年・1645年)、漢人男子にこれを強制し、従わない者に対しては厳しく断罪しました。

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弁髪の変遷


 弁髪は、頭髪を剃り上げ、一部を残して長く編んで背中に垂らす満州人など北方民族の風習で、清はかって満州で明と戦っていた頃、弁髪の有無によって敵味方を区別していましたが、中国を支配し始めると、弁髪をもって清への服従・忠誠の証と考え、これを強制したのです。

 弁髪令に対しては、中国人は意外な抵抗を示し、最初は厳しく強制することは在りませんでしたが、中国支配が固まってくると、翌1645年には「頭をとどめんとすれば髪をとどめず、髪をとどめんとすれば頭をとどめず」と厳しい命令として改めて布告します。

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「反清復明」明の滅亡後、鄭成功は台湾を拠点として清への反抗運動を展開 

 明は滅亡しましたが、明の遺臣達は明の王族を奉じて、「反清復明」(清に反抗し、明を復興する)運動を起こし、各地に亡命政権が樹立されました。
万暦帝の孫の福王は、南京で即位しましたが(1645年)、清の攻撃を受けて敗走し、翌年捕らえられ殺害され、唐王(洪武帝9世の孫)は、福州で鄭芝竜等によって擁立されますが(1645年)、翌年捕らえられて殺され、又浙江省で擁立された魯王(洪武帝10世の孫)は最後は台湾で没し、1646年に広東で即位した桂王(永明王、万暦帝の孫)は、各地を転々とし、最後はビルマに逃れたものの、呉三桂に捕らえられて殺され(1662年)、ここに明朝の王族は根絶されました。

 順治帝は、ドルゴンの死後、親政を開始します(1651年~)。
彼は、儒教を国政の基本として中国的君主となり、又呉三桂等漢人を重用して、中国全土の統一をほぼ達成しましたが、24歳の若さで没しています。

 順治帝の死後、聖祖康煕帝(在位1661年~1722年)が8歳で即位し、康煕帝は中国史上第一の名君といわれ、康煕・雍正・乾隆の3代130年間(1661年~1795年)に清は最盛期を現出しました。

ジョークは如何?

フルシチョフの暗殺未遂事件が起こった。
犯人の青年が警察の取り調べを受けている。

「それにしてもだらしない男だよ、おまえは。
 あんな近距離から打ち損なうなんて」
「私がピストルを抜いた途端、周りの連中が飛びかかってきたんです」
「なるほど、人民が書記長を守ったわけだ」
「いえ。みんな『おれにやらせろ、おれにピストルをよこせ!』って」



続く・・・