歴史を歩く176
23 中国文化圏の拡大10
5 宣教師の活動と文化の交流

フランシスコ・デ・ザビエル( Francisco de Xavier 又は Francisco de Jasso y Azpilicueta, 1506年頃4月7日 - 1552年12月3日)
ポルトガル人は、1517年にマカオに来航し、1557年にマカオ居住権を認められ、この頃からポルトガル人の貿易船に便乗して、キリスト教宣教師も来航して中国伝道を行い、特にイエズス会の布教活動は活発で、フランシスコ・ザビエル(シャヴィエル)(1506年頃~52年)は、日本での布教活動の後に中国伝道をめざして広州港外に至りましたが、同年その地で病没しています。

マテオ・リッチ(Matteo Ricci, 1552年10月6日 - 1610年5月11日)
その後、マテオ・リッチを初め多くのイエズス会宣教師が来航し、中国への布教に努めました。
イタリア出身のイエズス会宣教師、マテオ・リッチ(1552年~1610年)は、東方布教を志してインドのゴアに赴き(1578年)、中国布教の使命を帯びてマカオ・広東省・南京を経て北京に至ります(1601年)。
万暦帝に時計等を献上して北京に天主堂を建てることを許され、彼の得た信者は10年間で約200人といわれ、その中には徐光啓(1562年~1633年)のような高官も居ました。
マテオ・リッチは、中国名を利瑪竇(りまとう)と名乗り、中国の官人服を着用し、中国語を話し、『天主実義』(1595年刊、カトリックの教義の漢訳本)やエウクレイデス(ユークリッド)の幾何学の前半部の漢訳である『幾何原本』(1607年刊)等を翻訳し、特に彼が作成した『坤輿(こんよ)万国全図』(1602年刊、坤輿は大地の意味)は中国最初の世界地図で、中国人のみならず、日本人にも大きな影響を与えています。
マテオ・リッチは中国の布教とヨーロッパの諸学問の伝授に活躍し、北京で没し、ゴアに葬られています。

ヨハン・アダム・シャール・フォン・ベル(Johann Adam Schall von Bell、1591年 - 1666年8月15日)
アダム・シャール(1591年~1666年、中国名は湯若望)は、ドイツのイエズス会宣教師で、1622年に中国に渡来し、崇禎帝の命により、徐光啓らと『崇禎暦書』の編纂を行い、更には大砲の鋳造をも行っています。
明が滅ぶと清に仕えて天文台長官と成りますが、後に失脚し、北京で死去しています。

フェルディナント・フェルビースト(Ferdinand Verbiest, 1623年10月9日 - 1688年1月28日)
イエズス会宣教師は、清代になっても活躍し、ベルギー出身のフェルビースト(1623年~88年、中国名は南懐仁)は、1659年に中国に到着後清朝に仕え、アダム・シャールを助けて天文学の普及に尽力し、天文観測や修暦の編纂にあたり、三藩の乱が起こると大小120門の大砲を鋳造し、その功により工部侍郎に任命されます。

ジョアシャン・ブーヴェ(Joachim Bouvet、1656年7月18日 - 1730年6月28日)
フランスのイエズス会宣教師ブーヴェ(1656年~1730年、中国名は白進)は、ルイ14世の命で中国に派遣され、康煕帝に仕えて幾何学を進講し、叉康煕帝の命で10年余りを費やして大規模な実測をもとに中国最初の全土の実測地図である『皇輿全覧図』(1718年に完成)を作成しました。
同じくフランスのイエズス会宣教師レジス(1663年~1738年、中国名は雷孝思)もブーヴェ等と共に『皇輿全覧図』の作成に従事しました。

カスティリオーネの筆による塞宴四事図
叉イタリア出身のイエズス会宣教師カスティリオーネ(1688年~1766年、中国名は郎世寧)は、1715年に北京に渡り、康煕帝・雍正帝・乾隆帝の3代に仕え、彼は中国の画家達に西洋の油絵画法や明暗法・遠近法等の写実的な画法を教えるとともに、自らは中国の画法を取り入れて肖像画や馬の絵等を描き、中国絵画に大きな影響を与えました。

在りし日の円明園
カスティリオーネは円明園の設計・建設にも従事しています。
円明園は北京郊外の北西約10kmの所に作られた清の離宮で、雍親王(後の雍正帝)が創建し、乾隆帝が増改修した、中国最初の西欧風の噴水やカスティリオーネが設計したバロック式と中国式を融合した宮殿・庭園が造られ、中国で最も美しい建築物・庭園と讃えられましたが、1860年アロー戦争の際、英仏連合軍によって掠奪・放火・破壊され廃墟と化しています。
イエズス会宣教師達は自ら姓名を中国風に改め、中国の言葉を使い、中国風の服装を身につけて中国社会に入り込んで行きました。
叉布教にあたっては中国人の慣習・伝統的儀式を尊重し、孔子の崇拝や先祖の祭祀等の典礼(一定の儀式、儀式作法)を認めています。

教皇クレメンス11世
しかし、後から中国に入ったフランチェスコ修道会やドミニコ修道会等は、イエズス会のそのような布教方法は神への冒涜であるとして攻撃し、その非をローマ教皇に訴えたので、論争は教皇庁に迄波及し、結局教皇クレメンス11世はイエズス会の布教方法を否定しますが(1704年)、この決定に怒った康煕帝は、イエズス会宣教師以外の布教を禁止し、典礼を否認する他派宣教師の入国と伝道を禁止して追放し(1706年)、更に雍正帝は、1724年にキリスト教の布教を全面的に禁止し、宮廷奉仕者以外の宣教師をマカオに追放しましたが、この時は日本程の迫害はなく、殉教も発生しませんでしたが、以後布教は途絶え、18世紀末の嘉慶帝以後は更に取り締まりが厳しくなっていきます。
そして、乾隆帝は、1757年に外国との交易港を広州1港に限定しました。
キリスト教の布教のために来航した宣教師達は、様々なヨーロッパ文化を中国に紹介しましたが、その一方で科挙制や中国の文化がヨーロッパに紹介され、17世紀以後フランスを中心とする西ヨーロッパ各国で中国の文物に対する興味・関心が高まったのです。
ジョークは如何?
ある日、ヘリから地上を眺めておられた金正日主席様はこう仰られました。
「ここから百ウォンを落とせば民は喜ぶであろうな。」
すると側近が一言。
「主席様、千ウォンが落ちて来た方がもっと民は喜びますよ。」
ヘリの操縦かんを握る操縦士が心の中でポツリ。
「主席様、あなたが落ちた方がもっと民は喜びますよ。」
続く・・・
5 宣教師の活動と文化の交流

フランシスコ・デ・ザビエル( Francisco de Xavier 又は Francisco de Jasso y Azpilicueta, 1506年頃4月7日 - 1552年12月3日)
ポルトガル人は、1517年にマカオに来航し、1557年にマカオ居住権を認められ、この頃からポルトガル人の貿易船に便乗して、キリスト教宣教師も来航して中国伝道を行い、特にイエズス会の布教活動は活発で、フランシスコ・ザビエル(シャヴィエル)(1506年頃~52年)は、日本での布教活動の後に中国伝道をめざして広州港外に至りましたが、同年その地で病没しています。

マテオ・リッチ(Matteo Ricci, 1552年10月6日 - 1610年5月11日)
その後、マテオ・リッチを初め多くのイエズス会宣教師が来航し、中国への布教に努めました。
イタリア出身のイエズス会宣教師、マテオ・リッチ(1552年~1610年)は、東方布教を志してインドのゴアに赴き(1578年)、中国布教の使命を帯びてマカオ・広東省・南京を経て北京に至ります(1601年)。
万暦帝に時計等を献上して北京に天主堂を建てることを許され、彼の得た信者は10年間で約200人といわれ、その中には徐光啓(1562年~1633年)のような高官も居ました。
マテオ・リッチは、中国名を利瑪竇(りまとう)と名乗り、中国の官人服を着用し、中国語を話し、『天主実義』(1595年刊、カトリックの教義の漢訳本)やエウクレイデス(ユークリッド)の幾何学の前半部の漢訳である『幾何原本』(1607年刊)等を翻訳し、特に彼が作成した『坤輿(こんよ)万国全図』(1602年刊、坤輿は大地の意味)は中国最初の世界地図で、中国人のみならず、日本人にも大きな影響を与えています。
マテオ・リッチは中国の布教とヨーロッパの諸学問の伝授に活躍し、北京で没し、ゴアに葬られています。

ヨハン・アダム・シャール・フォン・ベル(Johann Adam Schall von Bell、1591年 - 1666年8月15日)
アダム・シャール(1591年~1666年、中国名は湯若望)は、ドイツのイエズス会宣教師で、1622年に中国に渡来し、崇禎帝の命により、徐光啓らと『崇禎暦書』の編纂を行い、更には大砲の鋳造をも行っています。
明が滅ぶと清に仕えて天文台長官と成りますが、後に失脚し、北京で死去しています。

フェルディナント・フェルビースト(Ferdinand Verbiest, 1623年10月9日 - 1688年1月28日)
イエズス会宣教師は、清代になっても活躍し、ベルギー出身のフェルビースト(1623年~88年、中国名は南懐仁)は、1659年に中国に到着後清朝に仕え、アダム・シャールを助けて天文学の普及に尽力し、天文観測や修暦の編纂にあたり、三藩の乱が起こると大小120門の大砲を鋳造し、その功により工部侍郎に任命されます。

ジョアシャン・ブーヴェ(Joachim Bouvet、1656年7月18日 - 1730年6月28日)
フランスのイエズス会宣教師ブーヴェ(1656年~1730年、中国名は白進)は、ルイ14世の命で中国に派遣され、康煕帝に仕えて幾何学を進講し、叉康煕帝の命で10年余りを費やして大規模な実測をもとに中国最初の全土の実測地図である『皇輿全覧図』(1718年に完成)を作成しました。
同じくフランスのイエズス会宣教師レジス(1663年~1738年、中国名は雷孝思)もブーヴェ等と共に『皇輿全覧図』の作成に従事しました。

カスティリオーネの筆による塞宴四事図
叉イタリア出身のイエズス会宣教師カスティリオーネ(1688年~1766年、中国名は郎世寧)は、1715年に北京に渡り、康煕帝・雍正帝・乾隆帝の3代に仕え、彼は中国の画家達に西洋の油絵画法や明暗法・遠近法等の写実的な画法を教えるとともに、自らは中国の画法を取り入れて肖像画や馬の絵等を描き、中国絵画に大きな影響を与えました。

在りし日の円明園
カスティリオーネは円明園の設計・建設にも従事しています。
円明園は北京郊外の北西約10kmの所に作られた清の離宮で、雍親王(後の雍正帝)が創建し、乾隆帝が増改修した、中国最初の西欧風の噴水やカスティリオーネが設計したバロック式と中国式を融合した宮殿・庭園が造られ、中国で最も美しい建築物・庭園と讃えられましたが、1860年アロー戦争の際、英仏連合軍によって掠奪・放火・破壊され廃墟と化しています。
イエズス会宣教師達は自ら姓名を中国風に改め、中国の言葉を使い、中国風の服装を身につけて中国社会に入り込んで行きました。
叉布教にあたっては中国人の慣習・伝統的儀式を尊重し、孔子の崇拝や先祖の祭祀等の典礼(一定の儀式、儀式作法)を認めています。

教皇クレメンス11世
しかし、後から中国に入ったフランチェスコ修道会やドミニコ修道会等は、イエズス会のそのような布教方法は神への冒涜であるとして攻撃し、その非をローマ教皇に訴えたので、論争は教皇庁に迄波及し、結局教皇クレメンス11世はイエズス会の布教方法を否定しますが(1704年)、この決定に怒った康煕帝は、イエズス会宣教師以外の布教を禁止し、典礼を否認する他派宣教師の入国と伝道を禁止して追放し(1706年)、更に雍正帝は、1724年にキリスト教の布教を全面的に禁止し、宮廷奉仕者以外の宣教師をマカオに追放しましたが、この時は日本程の迫害はなく、殉教も発生しませんでしたが、以後布教は途絶え、18世紀末の嘉慶帝以後は更に取り締まりが厳しくなっていきます。
そして、乾隆帝は、1757年に外国との交易港を広州1港に限定しました。
キリスト教の布教のために来航した宣教師達は、様々なヨーロッパ文化を中国に紹介しましたが、その一方で科挙制や中国の文化がヨーロッパに紹介され、17世紀以後フランスを中心とする西ヨーロッパ各国で中国の文物に対する興味・関心が高まったのです。
ジョークは如何?
ある日、ヘリから地上を眺めておられた金正日主席様はこう仰られました。
「ここから百ウォンを落とせば民は喜ぶであろうな。」
すると側近が一言。
「主席様、千ウォンが落ちて来た方がもっと民は喜びますよ。」
ヘリの操縦かんを握る操縦士が心の中でポツリ。
「主席様、あなたが落ちた方がもっと民は喜びますよ。」
続く・・・
スポンサーサイト