2016/03/30

歴史を歩く182

25 トルコ世界とイラン世界①

1ティムール帝国

ティムール

ティムール(1336年~1405年)

 14世紀中頃、中央アジアにティムール(1336年~1405年)と名乗る英雄が現れました。
ティムールは、サマルカンドの南ケシュで、西チャガタイ・ハン国のトルコ系の小貴族の家に生まれましたが、チンギス・ハンの子孫と自称しました。
因みにティムールとは「鉄」の意味です。

 当時の中央アジアは、モンゴルの支配体制が崩れる中で、チャガタイ・ハン国が東西に分裂し、各地に豪族が分立する状態に陥っていました。

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サマルカンド(現在)

 ティムールは、青年時代には羊や馬を略奪する盗賊のような生活を送っていたのですが、その間にも指導者としての才能を発揮し、次第に部下の数を増やし、各地を略奪して回っていたのです。
25歳頃、サマルカンドを攻略した東チャガタイ王に帰属して、ケシュとその周辺の支配権を獲得しますが、まもなくサマルカンドを追われ、以後約10年間苦難の時期を過ごしました。
この間、右腕と右脚に大傷を負って歩行が困難と成りました(1363年頃)。

 その後、西チャガタイ・ハン国の混乱に乗じて勢力を伸ばし、終にトランスオクシアナ(アム川とシル川に挟まれた地方、アラブ人はマワランナフルと呼ぶ)を制圧して自立し(1369年)、翌年サマルカンドを都に定めてティムール朝(ティムール帝国、1370年~1507年)を樹立しました。

 ティムール(在位1370年~1405年)は、東チャガタイ・ハン国を併合し、次いで西アジアに遠征してイル・ハン国滅亡後の領土を併合し(1393年)、更にキプチャク・ハン国(1395年)や西北インド(トゥグルク朝)(1398年)にも侵入しました。

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捕虜になったバヤジット1世を訪れるティムール

 その後、ティムールはマムルーク朝からシリアを奪い(1400年)、更に20万の大軍を率いて小アジアに進出し、アンカラ(アンゴラ)の戦い(1402年)で勃興期のオスマン帝国軍を撃破し、バヤジット1世を捕虜にしてオスマン帝国に大打撃を与えました。
こうして連年にわたる遠征によって、東はトルキスタン(中央アジア)、西は小アジア、北は南ロシア、南はインド北部に跨る大帝国を建設しました。

 ティムールはチンギス・ハン家の正統な出身者でではなかったので生涯スルタンを称しただけで、ハンの称号は用いませんでしたが、彼はチンギス・ハンの子孫であると自称し、妃をチンギス・ハンの血を引くモンゴルの名家から迎え、モンゴル帝国の再興をはかり、元を滅ぼした明朝打倒のために中国遠征を決意します。

 ティムールは、周到な準備の後、1404年に20万の大軍を率いてサマルカンドを出発し、中国遠征の途につきます。
ティムール軍の将兵は、帰路の食糧とするために種子をまきながら進み、又各人が乳牛2頭と羊10頭を携え、途中の食糧の欠乏に備えたと云われています。
大軍はシル川を渡り河畔のオトラルに達したものの、ティムールはそこで病にかかり、同地で病没した為、遠征軍は進軍を止め引き返しました。

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サマルカンドのチムール像

 「チンギス・ハンは破壊し、ティムールは建設した」と云う言葉があります。
ティムールは抵抗する都市に対しては破壊・虐殺を行っていますが、抵抗しない都市に対しては破壊・虐殺を行わず、各地で建設事業を行い、特に首都サマルカンドの建設には力を注ぎ、王宮をはじめモスク・学校等を次々に造営しました。

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中央アジアのキャラバン隊

 サマルカンドを中心とするソグド地方は、古くから商業で有名で、ティムールは商業を盛んにするためにバザールやキャラバンの宿舎等を整備した結果、サマルカンドは再び東西交通・貿易の中心地と成りました。

 又ティムールは、学者や芸術家を優遇・保護したので、サマルカンドは当時、世界の学問・文芸の一大中心地として繁栄し、又イラン・イスラム文明が中央アジアに伝えられてトルコ・イスラム文明が栄え、多くの詩人や散文家を輩出しました。

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シャー・ルフ(在位1409年~47年)

 ティムールの第4子で第3代君主のシャー・ルフ(在位1409年~47年)は、父に従って各地に遠征し、ヘラート太守の地位のまま、ティムール死後の相続争いに乗じてサマルカンドに入城して即位し、帝国の首都を本拠地のヘラートに遷し、長男のウルグ・ベクをサマルカンドの太守に任命しました。

 名君として知られるシャー・ルフの38年間にわたる治世は、ティムール朝が最も安定した時期で、シャー・ルフは対外的には平和外交を展開し、明とは外交関係を回復して親善関係を保ち、オスマン帝国とも講和を結び、又彼は父による破壊の修復に努め、学者・芸術家を保護したので宮廷は栄え、ティムール朝は最盛期を迎えました。

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サマルカンドの天文台:ウルグ・ベク(右)

 シャー=・ルフの死後、子のウルグ・ベク(在位1447年~49年)が第4代君主となりました。ウルグ・ベクは学問を好み、学問を奨励して文人・学者を保護し、彼自身、天文学者・数学者・歴史家であり、特に天文学に優れ、サマルカンドに天文台を建設して天文表を作成しました。

 しかし、シャー・ルフの死後、ウルグ・ベクが即位すると、たちまち内乱が生じ、それに乗じて北方からウズベク族が侵入し、ウルグ・ベクは長男に背かれ、捕らえられて殺されます(1449年)。
ウルグ・ベクの死後、ティムール朝は混乱・分裂して衰退し、1500年にウズベク族によってサマルカンドを占領され、まもなく9代約140年間続いたティムール朝は滅亡します。

ジョークは如何?

エデンの園はロシアにあったとする学説がある。

なぜなら、アダムとイブはクルマも家も服さえも持っていなかったが、
自分たちが住んでいるところがパラダイスだと信じて疑わなかったからだ。

続く・・・

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2016/03/24

歴史を歩く181

24 中国の隣接地域の変遷⑤

5東南アジア諸国②

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アノーヤター(アノーラター、在位1044年~77年)

 ビルマ(ミャンマー)では、11世紀にアノーヤター(アノーラター、在位1044年~77年)によってビルマ最初の統一国家であるパガン朝(1044年~1287年)が建てられました。
アノーヤターは、古くから海岸部に居住していたモン人のタトゥンを征服し、上座部仏教(小乗仏教)の教典と共にモン文化を移入し、又モン文字を改良してビルマ語を書き写すようにする等モン人の高度な文化を受け入れてパガン朝の文明化を進めます。

 パガン朝では、12世紀後半頃からモン文化は急速に衰微し、13世紀になるとビルマ独自の文化が発達して行きますが、約250年間続いたパガン朝はフビライよる大軍の侵入を受けて滅亡します(1287年)。

 ビルマではパガン朝の滅亡後分裂状態が続き、その間シャン人(タイ人)に圧迫されますが、16世紀前半にはトゥングー朝が成立します。
ダビンシュエティ(在位1531年~50年)は、15世紀末頃からシャン人の勢力が衰え始めると、下ビルマのトゥングーのビルマ人を結集し、まず南方に勢力を伸ばし、次いで上ビルマの地を併せてトゥングー朝(1531年~1752年)を樹立しました。

 トゥングー朝は、16世紀後半にはペグーを都として栄えましたが、17世紀前半になるとシャン人制圧に力を注ぎ、都を上ビルマのインワに遷した結果、南方のモン人勢力が再び台頭します。

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アラウンパヤー(1714年~60年)

 モン人は、南部を制圧し、次いでインワを攻略してトゥングー朝を滅ぼします(1752年)が、しモン人のビルマ支配は極めて短期間で、アラウンパヤー(1714年~60年)がモン人支配に対して反乱を起こし(1752年)、ビルマ王を称してモン人を撃退し、敗走するモン人を追ってペグーを攻略し(1757年)、モン人の支配は終わっています。

 アラウンパヤーによって創始されたコンバウン(アラウンパヤー)朝(1752年~1885年)は、アラウンパヤーの子(第3代の王)の時に、アユタヤを攻略して徹底的に破壊し、400年以上続いたアユタヤ朝を滅ぼします(1767年)。
尚、コンバウンはアラウンパヤーの生地の古名です。

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コンバウン朝王宮

 タイ人は、もと四川・雲南に居住していましたが、8世紀頃を中心に長期にわたって南下し,特に13世紀にモンゴル人の雲南侵入で南下が活発となります。
インドシナ半島に南下したタイ人は、タイ北部に諸小国家をつくり、真臘に従属していましたが、13世紀中頃に真臘の要地であったスコータイを攻略し、タイ最初の統一王朝であるスコータイ朝(1257年~1350年)を建国して、メナム川流域を支配します。

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ラーマ・カムヘン大王(在位1275年/77年~1317年)

 スコータイ朝は、第3代の王ラーマ・カムヘン(在位1275年/77年~1317年)の治世時に最盛期を迎え、タイ史上最も傑出した王とされるラーマ・カムヘンはクメール文字を改変してタイ文字を制定し(1283年)又13世紀末以後、元に朝貢し、中国文化を取り入れます。

 又スコータイ朝では上座部仏教(小乗仏教)が栄えましたが、14世紀中頃に南方に興ったアユタヤ朝に従属し、スコータイ朝の領主であったラーマ・ティボディ(ラーマ・ティボディ1世、在位1350年~ 69年)は、アユタヤに移って勢力を拡大し、スコータイ朝の衰退に乗じてその領土の大半を領有してアユタヤ朝(1350年~1767年)を創始しました。

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アユタヤ朝アユタヤ王宮・サンペット宮殿

 アユタヤ朝は、1432年には真臘からアンコールを奪い、15世紀後半には中央集権体制を確立して栄えますが、ビルマにトゥングー朝が成立すると(1531年)、ビルマに圧迫され、首都アユタヤをビルマに奪われ(1569年)、以後ビルマに臣従するようになります。

 ビルマ占領軍を撃退し、アユタヤ朝をビルマから解放したのが、ナレースエン大王(在位1590年~1605年)でした。
ナレースエン大王から約1世紀の間、アユタヤ朝の領土はタイ史上最大となり、周辺諸国や中国・日本・ヨーロッパ諸国との通商が盛んとなり、アユタヤ朝は最盛期を迎えます。

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山田 長政(天正18年(1590年)頃 - 寛永7年(1630年))

 日本人の山田長政(?~1630年)が活躍したのもこの時期で、彼は駿河の生まれでで、1612年頃タイに渡り、アユタヤの日本町(最盛期には邦人の数は1500人に達したと言われている)の長となり、後にリゴール太守として活躍しましたが、政争で毒殺されています。
18世紀に入るとアユタヤ朝の国力は衰え、ビルマのコンバウン(アラウンパヤー)朝によって滅ぼされました。

 アユタヤ朝の滅亡後、トンブリー朝(1767年~82年)を建てたタークシンが精神錯乱に陥いり、元アユタヤ朝の武将であり、タークシンの腹心の部将であったチャクリが推されて即位してチャクリ朝(バンコク朝、1782年~現在に至る)を建てました。

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ラーマ1世(在位1782年~1809年)

 チャクリ(1735年~1809年)は即位するとラーマ1世(在位1782年~1809年)と称し、都をトンブリーからバンコクに遷都、更にラーマ1世は、ビルマ軍を撃退し、カンボジアを圧迫し、後にはマライ半島にも進出して領土を拡大する一方、国内では中央集権体制を確立します。

 ラオスでは、ラオ人によるランサン王国(14~18世紀)が成立しますが、周辺のヴェトナム・ビルマ・タイから圧迫を受けました。
16世紀に仏教文化が栄え、17世紀には最盛期を迎えますが、18世紀後半に王位継承問題から3王国に分裂します。

 諸島部では、スマトラ南部から興ったシュリーヴィジャヤ(7世紀から14世紀)が、10世紀には最盛期を迎えますが、マジャパヒト王国の勃興によって14世紀には衰退し、そのマジャパヒト王国(1293年~1520年頃)は、ジャワ中・東部を中心に栄えた最後のヒンドゥー教の王国です。

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マジャパヒト王国の版図

 初代の王、ヴィジャヤ(在位1293年~1309年)は、シンガサーリ朝 (1222年~92年)の王クルタナガラ(フビライの使者を追放し、元によるジャワ遠征の原因を作った王)の子で、シンガサーリ朝の末期に起きた反乱で逃亡しますが(1292年)、元軍の支持を得て王位回復を果し(1293年)、次いで元軍を撃退してマジャパヒト王国を建国しました。

 マジャパヒト王国は、14世紀後半に最盛期を迎えますが、15世紀後半からイスラム教徒の侵入で衰退し、16世紀初頭にイスラム勢力の勃興で滅亡します。

 マジャパヒト王国の滅亡後、ジャワ島では、東部に建国されたヒンドゥー教国であるマタラム王国(16世紀末~1755年)、西部に興ったヒンドゥー教国であるバンテン王国(1527年頃から1813年)の勢力が強大と成り、又この間マライ半島西南部では、東南アジア最初のイスラム国家であるマラッカ王国(14世紀末から1511年)が大勢力となり、海上貿易の中心として繁栄します。
 
6 日本

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蒙古襲来

 鎌倉幕府の第8代執権の北条時宗(1251年~84年)は2回にわたる蒙古の襲来(1274年、1281年)を撃退しましたが、鎌倉幕府はまもなく崩壊し、南北朝の争乱期(1336年~92年)となり、この頃から倭寇の活動が活発と成りました。

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室町幕府第3代将軍足利義満(1358年~1408年)

 室町幕府の第3代将軍足利義満(1358年~1408年)が勘合貿易を始めると、倭寇は一時下火となりますが、応仁の乱(1467年~77年)の頃から再びその勢力を盛り返します。

 16世紀になると、ポルトガル人の来航(1543年)を機に、海外発展の機運が高まり、南蛮貿易や朱印船貿易が発展し、又日本人の海外進出が盛んとなり、日本人の活動は東南アジア各地に及び、タイ・フィリッピン・ヴェトナム・カンボジア・ビルマ等に日本人町が出来ていきました。

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 豊臣秀吉の2回にわたる朝鮮出兵(1592年~93年、97年~98年)は、日本・李氏朝鮮・明の政治・社会に大きな影響を及ぼしています。

 17世紀初頭に、江戸幕府が成立すると(1603年)、幕府はキリスト教を禁止し、鎖国政策を実施し(1639年完成)、以後は中国・朝鮮・オランダとのみ交易を保ったのでした。

ジョークは如何?

同じ水域で操業しているのに、日本漁船の方がソ連漁船より漁獲量がなぜ多いのかについて政治集会で熱心に討議がかわされた。
一人の漁師が立ち上がって言った。

「原因は分りませんが、日本の漁師は網を引き上げて魚が入っていないと、魚が捕れるまで何度もくり返し網を海にいれます。
 しかるに我が国では、網に魚が入っていないと政治集会を開いて不漁を討議します。
この違いが・・・・・」


続く・・・
2016/03/18

歴史を歩く180

24 中国の隣接地域の変遷④

4琉球

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尚 巴志王(1372年(洪武5年)〜1439年6月1日(正統4年4月20日))

 琉球(現在の沖縄)は、14世紀中頃に中山・北山・南山の3王国に分立し、それぞれ明に朝貢していました。

 1429年に、中山(ちゅうざん)王の尚巴志(1372年~1439年)が3王国を統一し、首里に王府を置き、琉球王国を建設しました。

 1609年に薩摩の島津氏の軍が侵入し、首里城を陥れて国王を捕らえ、以後琉球は島津氏に服属しましたが、中国(明、後には清)への朝貢は続いたのです。
    
5東南アジア諸国・ヴェトナム

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胡季犛(1336年〜?)

 ヴェトナムでは、1400越年に陳朝(1225年~1400年)が、権臣の胡氏によって簒奪されます。
永楽帝はヴェトナムの内政に干渉し、1406年に20万の大軍を送り、胡氏父子を捕らえ、胡朝(1400年~1407年)は、僅か7年で滅び、ヴェトナムは明の支配下に置かれました(1407年~ 1420年)。

 永楽帝は、ヴェトナムの漢化政策を推進し、ヴェトナム固有の風俗を捨て漢民族風に従うことを強制し、又塩を専売として重税を課し、象牙・犀角等の珍貨の収奪を行った結果、ヴェトナム各地で反明反乱が頻発しまし。

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黎利(レ・ロイ、Lê Lợi:1385年〜1433年)

 黎利(1384年~1433年)は、陳朝の武将でしたが、明のヴェトナム支配に抵抗して挙兵し(1418年)、長期にわたるゲリラ戦を展開し、永楽帝の死後、一挙に攻勢に出て明軍をヴェトナムから駆逐し(1427年)、翌1428年にハノイで即位し、国号を大越と号し、これがヴェトナム史上最も長く続いた黎朝(1428年~1527年、1532年~1789年)です。

 黎利(太祖、在位1428年~33年)は、田制・税制・地方制度等の改革を実施し、儒学(朱子学)を奨励し、又明との関係修復にも努めました。
黎利は中国の圧政からヴェトナムを解放した民族独立の英雄として、現在も国民的尊敬を集めています。

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黎聖宗(レ・タイントン、 Lê Thánh Tông:在位:1460年〜1497年)

 黎朝第5代の王、黎聖宗(在位1460年~97年)は国内では中央集権体制を確立し、対外的にはチャンパー(占城)征服に乗り出し、チャンパーを滅ぼしてこれを併合し(1471年)、これによって領土は一気に中・南部ヴェトナムにまで拡大し、黎朝の最盛期を現出しましたが、黎朝は聖宗の死後、急速に衰退し始め、各地に反乱が頻発するようになりました。

 このため、内乱鎮圧に功績をあげた権臣の莫氏が軍事権を握り、1527年には恭帝(前期黎朝第11代の王)から王位を奪い、莫氏は以後65年間にわたってヴェトナムを支配しますが、莫氏の勢力はハノイ周辺に限られていた結果、まもなく南方にこれに対抗する勢力が生まれ、初め黎朝の旧臣である阮氏が莫氏に殺された黎昭宗(黎朝第10代の王)の子を擁立して莫氏に対抗しますが(1532年)、その後、黎朝擁立派の実権は武人の鄭氏に移ります。

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フエ 阮朝王宮・正殿、太和殿

 鄭氏は、黎氏を擁立して莫氏と抗争を続け、1592年についにハノイを攻略し、莫氏(莫氏は5代続いた)を倒して、黎朝を再興しました。
黎朝は65年ぶりに復興しましたが、黎朝(後期黎朝、1532年~1789年)の王は名目的存在にすぎなくなり、政治の実権は武人の鄭氏に握られていました。

 黎朝擁立をめぐる主導権争いに敗れた阮氏は、初め鄭氏に従属していたが、中部ヴェトナムのフエに移り、やがて独立して鄭氏に対立する勢力となり、さらに南ヴェトナムへ領土を拡大していきます(広南国)。

 こうして黎朝(後期黎朝)は、北の鄭氏と南の阮氏の南北に事実上分裂することに成り、当時ヴェトナムを訪れたヨーロッパ人は、鄭氏の支配領域を「トンキン」、阮氏の支配領域を「コーチシナ」と呼び、南北分裂は、以後2世紀半に及びますが、1789年に黎朝は西山党の阮氏によって滅ぼされます。

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阮三兄弟像・ビンディン省タイソン県 光中皇帝博物館

 ヴェトナム中部の西山(タイソン)村出身の阮文岳・阮文呂・阮文恵の3兄弟(3兄弟の阮氏と「広南国」の阮氏とは全く関係がない)が、黎朝の衰退に乗じて、1773年に反乱を起こし、この反乱は広範な社会層を巻き込んで大反乱に発展しました。

 西山党は、まず「広南国」の阮氏を滅ぼし(1777年)、次いでハノイに侵入して鄭氏を滅ぼし(1786年)、この間、阮文岳は領土を3分して自らは中央皇帝と称し(1778年)、西山(タイソン)朝(1778年~1802年)を開きました。

 黎朝最後の(後期黎朝第17代の王)愍宗(在位1786年~1789年)は、清朝に介入を要請し、清は大軍を送ったが西山党の軍に大敗した。志敗れた愍宗は北京に逃れ、約350年間続いた黎朝はついに滅亡します。

ジョークは如何?

ロックフェラー家の家訓

罰金は、間違ったことをして払わされる税金。

税金は、正しいことをして払わされる罰金。


続く・・・
2016/03/13

歴史を歩く179

国・北九州市は、開発予定地を遺跡公園として整備を!
1800年前の弥生期集落後が残る、城野(じょうの)遺跡を保存しましょう!


24 中国の隣接地域の変遷③

3 朝鮮

 高麗(918年~1392年)は、13世紀にモンゴルの侵入を受け、1259年以来モンゴル(元)に服属し、その属国と成りますが、14世紀に入ると倭寇の侵入が激しくなり、高麗はその対策に苦しみ、国力はますます衰退していきます。

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恭愍王と1365年に他界した妻の魯国公主

 高麗の恭愍王(高麗第31代の王、在位1352年~74年)は、即位すると親元勢力を粛清し、元に反旗をひるがえして朝鮮北部を奪回しました。

 1368年、中国で明朝が成立し、元をモンゴル高原に退けると、恭愍王は明に属することを表明したものの宦官によって殺害され、次王辛ぐう(在位1374年~88年)が即位すると、国策は一変し、高麗は再び元(北元)に服属することになります。

 高麗は、1388年に大軍を送り、明との戦いを始め、このとき李成桂も数万の軍を率いて遼東に向かいますが、高麗軍には厭戦気分が強く、逃亡する者が続出しる結果に成りました。

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李 成桂(イ・ソンゲ、太祖 康献大王 忠粛王4年10月11日(1335年10月28日) - 太宗8年5月24日(1408年6月18日)

 明と戦うことに反対であった李成桂は、進軍の中止を決意し、軍を返して首都開城に入り、クーデターを断行して国王を廃し、その子の辛昌(在位1388年~89年)を擁立し、親元派の高官を追放します(1388年)。
李成桂(太祖、1355年~1408年、在位1392年~98年)は、高麗に仕えて武将となり、元末に起こった紅巾の乱の一部が2回にわたって高麗に侵入すると(1359年・1361年、2回目の時は開城を陥れた)、紅巾軍の撃退に大功を立てて頭角を著し、又当時激しくなった倭寇の討伐にも功績を上げます。
特に1380年に半島南部深く侵入してきた倭寇と戦い、これに大勝すると彼の名声は益々上がります。

 政治の実権を握った李成桂は、親明政策を執るとともに、田制の改革を断行し、先ず検地を実施し、公私の古い土地台帳を焼却して新たに科田法を実施しました(1391年)。
科田法は、高麗時代の王侯・貴族・高官等の私有地であった農荘(私有地、荘園)を没収し、王族・官僚にはその地位に応じて科田を給し、兵士には軍田を支給する田制です。

 この間、李成桂は国王の辛昌を廃し、恭譲王(高麗第34代・最後の王、在位1389年~92年、94年に暗殺)を擁立しますが、田制の改革に成功した彼は部下に推されて、恭譲王にかわって国王の位につき、李氏朝鮮(李朝、1392年~1910年)を建国しました。

 太祖(李成桂、在位1392年~98年)は、即位すると国号を朝鮮と改め(1393年)、翌年には漢陽(ソウル)に遷都し、又高麗時代の仏教に代わって儒教(朱子学)を官学に定め、明制に倣って官僚制を強化しました。
太祖は在位7年で、子の定宗に譲位し、定宗は在位2年で弟の太宗に代わっています。

 太宗(在位1401年~1418年)は、太祖をたすけて建国に大功が在り、即位後は王権の強化を図り、李朝の支配体制を確立しました。
官制を整備し、学問を奨励し、世界史上最初の銅活字を作らせて書物の印刷を盛んにします。
太宗は在位18年で、子の世宗に譲位しています。

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世宗(セジョン、洪武30年4月10日(1397年5月7日) - 景泰元年4月8日(1450年5月18日))

 李朝第4代の王、世宗(在位1418年~50年)は若い頃から英明で学を好み、在位32年間を通じて常に政治に意を用いたので国内は良く治まり、李朝第1の名君とされ、韓国の1万ウォン紙幣にその肖像が印刷されています。

 世宗の功績のうち最も重要な事象は、訓民正音(ハングル)の制定(1446年公布)で、訓民正音は音標文字で、母音・子音計28字(現在は母音10字、子音14字の24字)の組み合わせで出来ている朝鮮文字です。

 又内政では、田制の改革・農業の奨励・儒教の保護と仏教の抑圧・銭貨の鋳造とその通用等に努め、対外的には倭寇の本拠地である対馬の攻撃等を行っています。

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世祖(セジョ、永楽15年9月29日(1417年11月7日) - 成化4年9月8日(1468年9月24日)、在位:1455年閏6月11日 - 1468年9月7日)

 世宗の後、文宗・端宗を経て世祖(李朝第7代の王、在位1455年~68年)が即位しました。
世祖は甥の端宗から王位を簒奪して即位しましたが、在位13年間、文武両面に優れた業績を残しました。

 李朝は、太宗から世祖に至る約70年間に最盛期を現出し、李朝の政治を動かしたのは、高麗に始まり李朝で確立した政治的・社会的特権階級である両班(やんばん)でした。
両班の上層は大土地所有者で官僚、中層は官僚、下層には官僚でない中小土地所有者が多数を占めていました。

両班
両班の特権

 李朝の官僚は、文班(東班)と武班(西班)に分けられていたので、これを併せて両班(両は二つの意味)と称し、両班は種々の特権を持ち、官職や官僚を独占、李朝の官僚はその地位に応じて一定の土地を与えられ、両班は儒教の教養を身につけて科挙に合格して官僚となり、立身出世して土地を手に入れることを目的としました。

 李朝では15世紀末頃から16世紀中頃にかけて、「士禍」と呼ばれる党争が激しくなります。
士禍は、新興の士林(両班の地方新興勢力で、儒教振興策に乗じて中央に進出した)と特権官僚(守旧派)の間に起こった党争で、士林側がしばしば弾圧されました。

 士林派と守旧派間の激しい抗争の中で、有力な大官のもとに多くの人々が結集して「朋党」が組織され、16世紀後半には官界に2つの党派「東人」と「西人」が生まれ、あらゆる官僚・士林はどちらかの派に属して激しい党争を展開します。

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壬辰の倭乱(文禄の役)蔚山城の戦い

 李朝内で激しい党争が展開されていた時期に最大の国難が降りかかってきます。
豊臣秀吉の朝鮮侵略です。
壬辰の倭乱(1592年~93年、日本では文禄の役)と丁酉(ていゆう)の倭乱(1597年~98年、日本では慶長の役)によって、朝鮮全土が戦場と化し、日本・朝鮮・明の大軍が激突し、都市も農村も全く荒廃し、李朝は急速に衰退に向い、又明にとっても朝鮮へ大軍を送ったことから財政窮乏が増々激しくなり、明滅亡の大きな原因となりました。

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丁酉の倭乱(慶長の役)順天城の戦い

 豊臣秀吉の朝鮮侵略に際し、水軍(海軍)を強化して日本水軍を徹底的に撃破した人物が、名将李舜臣(1545年~98年)です。
李舜臣は有名な亀甲船(甲板を覆い、船底にひそんだ兵士が火砲を放つ、亀の甲羅の形をした装甲軍艦)を主力とした水軍を率いて奮戦し、日本水軍を撃破して日本の補給を断ち、日本の戦争継続を断念させますが、李舜臣は最後の海戦で流れ弾に当たって戦死し、国民的英雄である李舜臣の像は各地に建てられています。

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李舜臣将軍の亀甲船、秀吉の倭軍を閑山島沖で撃破
  
 豊臣秀吉の侵略は、李舜臣の活躍・明の援軍・民衆の義兵の活躍によって何とか切り抜けることができましたが、李朝ではその後も党争が続き、又16世紀後半以後中国東北地方で女真族が台頭すると、女真族・清軍の侵入に苦しむ結果となり、李朝は1636年に清に服属しました。

ジョークは如何?

世界で最も広い国はポーランドである。
領土は欧州に、首都はモスクワに、国民はシベリアにいる。

続く・・・
2016/03/06

歴史を歩く178

24 中国の隣接地域の変遷②

2 モンゴル・トルキスタン・チベット②

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アルタン・ハーン(Altan Qaγan、中国語:俺答汗、モンゴル語:Алтан Хаан、1507年 - 1582年1月)

 清が興ると、太宗(ホンタイジ)は内モンゴルのチャハル部を服属させましたが(1635年)、外モンゴルのカルカ部は独立を維持していました。
西北モンゴルに拠ったオイラート部は、エセン・ハンの死後(1454年)次第に衰え、又タタール部のアルタン・ハンに討たれ(1552年)更に衰えますが、17世紀に入るとオイラートの一部族でシル川流域を本拠とするジュンガル部が強大となり、ガルダン・ハンの時代に最盛期を迎えました。

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ガルダン・ハーン(モンゴル語:Галдан хаан、中国語:噶尔丹 汗、1644年 - 1697年)

 ガルダン・ハン(1644年~97年、在位1671年~97年)は、当初チベット、ラサのダライ・ラマのもとで僧として修行を重ねましたが、兄の死後(1671年)ダライ・ラマの援助を受けて帰国を果たし、即位すると、たちまち部族を統一して全オイラート部の指導者となり、東トルキスタン(回部)を服属させ、青海・チベットをも勢力下に置きました(1677年)。
 
 ガルダン・ハンは、更に全モンゴル統一を意図し、外モンゴルカルカ部に侵入し、これを撃ち破って外モンゴルも支配下に置きます(1688)年。
カルカ部は清朝に保護を求め、以後清朝に服属する発端と成りました。

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 康煕帝は、北京を目指して進攻するガルダン・ハンを内モンゴルで撃破し(1690年)、敗れたガルダン・ハンは再起を図りますが、漠北に親征した康煕帝に再びクーロン(現在のウランバートル)で壊滅的な打撃を受け(1696年)、翌年自ら命を絶ちます。

 雍正帝は、オイラート部がダライ・ラマを扇動してチベットで反乱を起こさせると、これを平定してチベットに大臣を駐在させます(1724年)。

 乾隆帝は、ジュンガル部の内紛に乗じてこれを征服し(1758年)、その領域を準部とした上に翌年には回部(天山山脈以南にすむウイグル人の居住地を指した呼称)を平定し(1759年)、準部と回部を併せて新疆(新領土の意味)と呼称します(新疆省の設置は1882年)。

 チベットでは、7世紀に建国された吐蕃が9世紀後半頃から分裂し、以後数世紀にわたって諸侯が割拠する情勢と成りました。
チベット仏教(ラマ教)は、元朝で保護され、明代になっても優遇されて教理も総て堕落し、14世紀末にツォンカパが現れると堕落したラマ教を改革して黄帽派を開闢します。

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タンカに描かれたツォンカパ(1357年~1419年)

 ツォンカパ(1357年~1419年)は、青海に生まれ、7歳で出家し、16歳乃至17歳頃にチベットに赴いて諸寺院で学んだものの、旧来からのラマ教の堕落を激しく非難し、36歳頃にそれまでのラマ教の紅帽派(黄帽派成立以前のラマ教の諸宗派の総称)を改革して、飲酒・妻帯の厳禁等、厳しい戒律と徳行を主張して黄帽派を開きました。

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ダライ・ラマ1世(ゲンドゥン・トゥプ)・1391年〜1474年

 ラマ教(黄帽派)の教主はダライ・ラマと呼ばれ、ここでダライは「海」、ラマは「師」の意味で、ダライ・ラマはチベットにおける宗教・政治の最高権力者で、更にラマ教ではダライ・ラマは活仏と考えられました。
活仏とはラマ教の高僧の生まれ変わり、いわゆる転生ラマを意味し、黄帽派では妻帯を厳禁したので、この活仏を教権継承の方法と結びつけて制度化しました。

 ダライ・ラマが、生前に予言した転生の方角にその後1年以内に生まれた幼児の内から、神託や夢占い・故人の言行・遺品等を頼りに条件の合う者を選んで転生者としました。
初代ダライ・ラマは、ツォンカパの弟子で、以後のダライ・ラマもツォンカパの弟子の転生者として継承されてきました。

 現在のダライ・ラマは、14世で、1959年のチベット反乱の際インドに亡命し現在に至っていますが、1989年にはノーベル平和賞を受賞しており、又ダライ・ラマに次ぐラマ教の副教主は、パンチェン・ラマ(偉大なる学僧の意味)と呼ばれます。

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チベット:ダライ・ラマ法王日本代表日事務所公式ページより

 清朝がチベットを平定したのは、康煕帝の晩年のことでした。
自害したガルダン・ハンの甥が再びオイラート部を統一し、チベットに侵入してラサを占領します。この報に接した康煕帝はチベットに遠征軍を派遣し、ジュンガル兵を追放してチベットを平定し(1720年)、更に雍正帝は、青海のオイラートがダライ・ラマを扇動して反乱を起こさせると、これを平定し、ラサに大臣を駐在させます(1724年)。
駐チベット大臣はダライ・ラマを監督するだけで、チベットをダライ・ラマを利用して間接的に支配しました。

 しかし、乾隆帝はチベットで反乱が起き、駐チベット大臣が殺害されると、反乱を鎮圧し、駐チベット大臣に全チベットの政治・軍事の権力を与え、チベットに対する清の支配権を確立します。

ジョークは如何?

第一日目:神は生き物を作り休息した。
第二日目:神は男を作り休息した。
第三日目:神は女を作った。
       その時以来神と男は休息をとるひまはない。


続く・・・

2016/03/03

歴史を歩く177

24 中国の隣接地域の変遷①

1 台湾

 台湾は、清代以後の名称で、隋から元までは琉球と呼ばれていました。
原住民はインドネシア系の高砂(高山)族で、元が遠征した時代も在りますが、台湾は長い間中国文化圏の外にあって、中国との関係は希薄でした。

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ゼーランディア城の降伏(ヤン・ファン・バーデン画、1675年)

 台湾は、16世紀頃から海賊の根拠地となり、対岸から中国人が移住し、ようやく西海岸地方が開け始め、1624年にオランダ人が南部を占領し、ゼーランディア城を築き、同じ頃北部を占領したスペイン人を台湾から駆逐し(1642年)、以後約20年間にわたって台湾を支配しました。

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「鄭成功義和圖」と題された、鄭成功と降伏するオランダ人の像

 1661年には、鄭成功がオランダ人を駆逐し、鄭氏は以後3代にわたって台湾を根拠地として清に抵抗しましたが、清は1683年に鄭氏一族を滅ぼし、台湾を直轄領とし、これにより台湾は初めて中国の支配下に入ることとなります。

 以後、福建・広東方面からの中国人移住者が次第に増えて開発が進んだが、治安が悪く、絶えず反乱が起こりますが、19世紀後半になると列強の進出に伴い、台湾は国際的に注目されるように成ります。

2 モンゴル・トルキスタン・チベット①

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北元の歴代皇帝

 元の最後の皇帝順帝(在位1332年~1368年)は、明軍に追われて応昌(上都の北)で病死し、その子昭宗は、モンゴル高原を確保してカラコルムに本拠を置き、北元(1371年~88年)を建てて元の復興を図りますが、昭宗の死後、弟のトグス・テムルが即位するものの(1378年)、明軍は満州を征服し(1387年)、更に翌年北元軍を撃破し皇后、皇子等8万人を捕らえ、北元に壊滅的な打撃を与えます。
トグス・テムルもカラコルムへ脱出する途中で殺され、北元は滅び(1388年)、以後はタタール部(韃靼、だったん)と呼ばれるように成りました。

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オイラート部

 その後、モンゴル高原では、東方のタタール部と西北モンゴルのオイラート部がモンゴル高原の支配をめぐって激しく対立します。

 オイラート部は、西北モンゴルに拠るモンゴルの一部族で、チンギス・ハンに服属したが、元の滅亡で台頭し、エセン・ハンのもとで強大と成ります。

 エセン・ハン(?~1454年)は、父の死後(1439年)、その跡を継いで全モンゴルの指導者となり、四方に勢力を拡大し、東は満州の女真を討って朝鮮に迫り、西は西トルキスタンにまで進出しました。

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明王朝6代皇帝英宗正統帝

 明が朝貢貿易を制限すると、明に侵入して土木堡で英宗を捕らえ(土木の変、1449年)、その後、北元の皇帝子孫を抹殺し(1451年)、1453年には自ら大ハンの位について名実ともにモンゴルの支配者と成りますが、翌年部下に命を絶たれ、エセン・ハンの死後、オイラート部は次第に衰退し、かわってダヤン・ハンのもとでタタール部(韃靼)が強力と成って行きます。

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モンゴル高原に於けるタタール部(韃靼)の台頭

 ダヤン・ハン(1468年~1519年)は、チンギス・ハンの後裔で、父の死後即位し(1487年)、その後内モンゴルを統一し(1510年)、各地に諸子を分封して支配させましたが、後に子孫は全モンゴルに広がっていったため、後世のモンゴル貴族の大部分はダヤン・ハンを祖としています。
タタール部は、ダヤン・ハンの孫アルタン・ハンの時代に全盛期を迎えます。

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大召寺前の広場にある、アルタン・ハン像

 アルタン・ハン(1507年~82年、在位1551年~82年)は、内モンゴルのトメト部に分封され、帰化城(現在のフフホト)を本拠地として勢力を拡大し、1520年代以降連年にわたって長城一帯を蹂躙しました。
1540年代には明への侵入を更に激化させ、1542年には山西省に侵入して20余万人を殺戮し、家畜200万頭を略奪、1550年には終に北京を5日間にわたって包囲し、周辺地域を蹂躙します。
しかし、その後アルタン・ハンの軍は西方に向かい、オイラート部を討ってカラコルムを奪回し(1552年)、更に青海・チベットに侵入します。

 アルタン・ハンは、チベットに侵入した時に(1573年)、ラマ教に接して帰依し、青海に第3代ダライ・ラマを迎えます(1578年)。

 ラマ教は、元朝帝室の保護を受けて栄えましたが、ラマ教を信じたのは中央の上層のモンゴル人だけで、モンゴルの一般住民にはほとんど普及せず、又元朝で栄えたのは、ラマ教の中の紅帽派(紅教)で、アルタン・ハンが帰依したのは黄帽派(黄教)でした。

 ダライ・ラマ3世は、東モンゴル各地を行脚し、至る所で帰依を受け、黄帽派を広め、又アルタン・ハンの曾孫が第4代ダライ・ラマの位に就いた結果、以後ラマ教はモンゴル人の間に広く普及し、戦闘的なモンゴル人が平和的な遊牧民に変わる原因になったと云われています。

ジョークは如何?

各国の古代史に対するattitude
三皇五帝時代の歴史遺跡の発掘に、国家の威信を懸けるのが中国
檀君神話を世界中に向けて、昼夜を惜しむことな
く発信しつづけてるのが韓国
未だにムー大陸を追っかけてるのが日本

続く・・・