歴史を歩く182
25 トルコ世界とイラン世界①
1ティムール帝国

ティムール(1336年~1405年)
14世紀中頃、中央アジアにティムール(1336年~1405年)と名乗る英雄が現れました。
ティムールは、サマルカンドの南ケシュで、西チャガタイ・ハン国のトルコ系の小貴族の家に生まれましたが、チンギス・ハンの子孫と自称しました。
因みにティムールとは「鉄」の意味です。
当時の中央アジアは、モンゴルの支配体制が崩れる中で、チャガタイ・ハン国が東西に分裂し、各地に豪族が分立する状態に陥っていました。

サマルカンド(現在)
ティムールは、青年時代には羊や馬を略奪する盗賊のような生活を送っていたのですが、その間にも指導者としての才能を発揮し、次第に部下の数を増やし、各地を略奪して回っていたのです。
25歳頃、サマルカンドを攻略した東チャガタイ王に帰属して、ケシュとその周辺の支配権を獲得しますが、まもなくサマルカンドを追われ、以後約10年間苦難の時期を過ごしました。
この間、右腕と右脚に大傷を負って歩行が困難と成りました(1363年頃)。
その後、西チャガタイ・ハン国の混乱に乗じて勢力を伸ばし、終にトランスオクシアナ(アム川とシル川に挟まれた地方、アラブ人はマワランナフルと呼ぶ)を制圧して自立し(1369年)、翌年サマルカンドを都に定めてティムール朝(ティムール帝国、1370年~1507年)を樹立しました。
ティムール(在位1370年~1405年)は、東チャガタイ・ハン国を併合し、次いで西アジアに遠征してイル・ハン国滅亡後の領土を併合し(1393年)、更にキプチャク・ハン国(1395年)や西北インド(トゥグルク朝)(1398年)にも侵入しました。

捕虜になったバヤジット1世を訪れるティムール
その後、ティムールはマムルーク朝からシリアを奪い(1400年)、更に20万の大軍を率いて小アジアに進出し、アンカラ(アンゴラ)の戦い(1402年)で勃興期のオスマン帝国軍を撃破し、バヤジット1世を捕虜にしてオスマン帝国に大打撃を与えました。
こうして連年にわたる遠征によって、東はトルキスタン(中央アジア)、西は小アジア、北は南ロシア、南はインド北部に跨る大帝国を建設しました。
ティムールはチンギス・ハン家の正統な出身者でではなかったので生涯スルタンを称しただけで、ハンの称号は用いませんでしたが、彼はチンギス・ハンの子孫であると自称し、妃をチンギス・ハンの血を引くモンゴルの名家から迎え、モンゴル帝国の再興をはかり、元を滅ぼした明朝打倒のために中国遠征を決意します。
ティムールは、周到な準備の後、1404年に20万の大軍を率いてサマルカンドを出発し、中国遠征の途につきます。
ティムール軍の将兵は、帰路の食糧とするために種子をまきながら進み、又各人が乳牛2頭と羊10頭を携え、途中の食糧の欠乏に備えたと云われています。
大軍はシル川を渡り河畔のオトラルに達したものの、ティムールはそこで病にかかり、同地で病没した為、遠征軍は進軍を止め引き返しました。

サマルカンドのチムール像
「チンギス・ハンは破壊し、ティムールは建設した」と云う言葉があります。
ティムールは抵抗する都市に対しては破壊・虐殺を行っていますが、抵抗しない都市に対しては破壊・虐殺を行わず、各地で建設事業を行い、特に首都サマルカンドの建設には力を注ぎ、王宮をはじめモスク・学校等を次々に造営しました。

中央アジアのキャラバン隊
サマルカンドを中心とするソグド地方は、古くから商業で有名で、ティムールは商業を盛んにするためにバザールやキャラバンの宿舎等を整備した結果、サマルカンドは再び東西交通・貿易の中心地と成りました。
又ティムールは、学者や芸術家を優遇・保護したので、サマルカンドは当時、世界の学問・文芸の一大中心地として繁栄し、又イラン・イスラム文明が中央アジアに伝えられてトルコ・イスラム文明が栄え、多くの詩人や散文家を輩出しました。

シャー・ルフ(在位1409年~47年)
ティムールの第4子で第3代君主のシャー・ルフ(在位1409年~47年)は、父に従って各地に遠征し、ヘラート太守の地位のまま、ティムール死後の相続争いに乗じてサマルカンドに入城して即位し、帝国の首都を本拠地のヘラートに遷し、長男のウルグ・ベクをサマルカンドの太守に任命しました。
名君として知られるシャー・ルフの38年間にわたる治世は、ティムール朝が最も安定した時期で、シャー・ルフは対外的には平和外交を展開し、明とは外交関係を回復して親善関係を保ち、オスマン帝国とも講和を結び、又彼は父による破壊の修復に努め、学者・芸術家を保護したので宮廷は栄え、ティムール朝は最盛期を迎えました。

サマルカンドの天文台:ウルグ・ベク(右)
シャー=・ルフの死後、子のウルグ・ベク(在位1447年~49年)が第4代君主となりました。ウルグ・ベクは学問を好み、学問を奨励して文人・学者を保護し、彼自身、天文学者・数学者・歴史家であり、特に天文学に優れ、サマルカンドに天文台を建設して天文表を作成しました。
しかし、シャー・ルフの死後、ウルグ・ベクが即位すると、たちまち内乱が生じ、それに乗じて北方からウズベク族が侵入し、ウルグ・ベクは長男に背かれ、捕らえられて殺されます(1449年)。
ウルグ・ベクの死後、ティムール朝は混乱・分裂して衰退し、1500年にウズベク族によってサマルカンドを占領され、まもなく9代約140年間続いたティムール朝は滅亡します。
ジョークは如何?
エデンの園はロシアにあったとする学説がある。
なぜなら、アダムとイブはクルマも家も服さえも持っていなかったが、
自分たちが住んでいるところがパラダイスだと信じて疑わなかったからだ。
続く・・・
1ティムール帝国

ティムール(1336年~1405年)
14世紀中頃、中央アジアにティムール(1336年~1405年)と名乗る英雄が現れました。
ティムールは、サマルカンドの南ケシュで、西チャガタイ・ハン国のトルコ系の小貴族の家に生まれましたが、チンギス・ハンの子孫と自称しました。
因みにティムールとは「鉄」の意味です。
当時の中央アジアは、モンゴルの支配体制が崩れる中で、チャガタイ・ハン国が東西に分裂し、各地に豪族が分立する状態に陥っていました。

サマルカンド(現在)
ティムールは、青年時代には羊や馬を略奪する盗賊のような生活を送っていたのですが、その間にも指導者としての才能を発揮し、次第に部下の数を増やし、各地を略奪して回っていたのです。
25歳頃、サマルカンドを攻略した東チャガタイ王に帰属して、ケシュとその周辺の支配権を獲得しますが、まもなくサマルカンドを追われ、以後約10年間苦難の時期を過ごしました。
この間、右腕と右脚に大傷を負って歩行が困難と成りました(1363年頃)。
その後、西チャガタイ・ハン国の混乱に乗じて勢力を伸ばし、終にトランスオクシアナ(アム川とシル川に挟まれた地方、アラブ人はマワランナフルと呼ぶ)を制圧して自立し(1369年)、翌年サマルカンドを都に定めてティムール朝(ティムール帝国、1370年~1507年)を樹立しました。
ティムール(在位1370年~1405年)は、東チャガタイ・ハン国を併合し、次いで西アジアに遠征してイル・ハン国滅亡後の領土を併合し(1393年)、更にキプチャク・ハン国(1395年)や西北インド(トゥグルク朝)(1398年)にも侵入しました。

捕虜になったバヤジット1世を訪れるティムール
その後、ティムールはマムルーク朝からシリアを奪い(1400年)、更に20万の大軍を率いて小アジアに進出し、アンカラ(アンゴラ)の戦い(1402年)で勃興期のオスマン帝国軍を撃破し、バヤジット1世を捕虜にしてオスマン帝国に大打撃を与えました。
こうして連年にわたる遠征によって、東はトルキスタン(中央アジア)、西は小アジア、北は南ロシア、南はインド北部に跨る大帝国を建設しました。
ティムールはチンギス・ハン家の正統な出身者でではなかったので生涯スルタンを称しただけで、ハンの称号は用いませんでしたが、彼はチンギス・ハンの子孫であると自称し、妃をチンギス・ハンの血を引くモンゴルの名家から迎え、モンゴル帝国の再興をはかり、元を滅ぼした明朝打倒のために中国遠征を決意します。
ティムールは、周到な準備の後、1404年に20万の大軍を率いてサマルカンドを出発し、中国遠征の途につきます。
ティムール軍の将兵は、帰路の食糧とするために種子をまきながら進み、又各人が乳牛2頭と羊10頭を携え、途中の食糧の欠乏に備えたと云われています。
大軍はシル川を渡り河畔のオトラルに達したものの、ティムールはそこで病にかかり、同地で病没した為、遠征軍は進軍を止め引き返しました。

サマルカンドのチムール像
「チンギス・ハンは破壊し、ティムールは建設した」と云う言葉があります。
ティムールは抵抗する都市に対しては破壊・虐殺を行っていますが、抵抗しない都市に対しては破壊・虐殺を行わず、各地で建設事業を行い、特に首都サマルカンドの建設には力を注ぎ、王宮をはじめモスク・学校等を次々に造営しました。

中央アジアのキャラバン隊
サマルカンドを中心とするソグド地方は、古くから商業で有名で、ティムールは商業を盛んにするためにバザールやキャラバンの宿舎等を整備した結果、サマルカンドは再び東西交通・貿易の中心地と成りました。
又ティムールは、学者や芸術家を優遇・保護したので、サマルカンドは当時、世界の学問・文芸の一大中心地として繁栄し、又イラン・イスラム文明が中央アジアに伝えられてトルコ・イスラム文明が栄え、多くの詩人や散文家を輩出しました。

シャー・ルフ(在位1409年~47年)
ティムールの第4子で第3代君主のシャー・ルフ(在位1409年~47年)は、父に従って各地に遠征し、ヘラート太守の地位のまま、ティムール死後の相続争いに乗じてサマルカンドに入城して即位し、帝国の首都を本拠地のヘラートに遷し、長男のウルグ・ベクをサマルカンドの太守に任命しました。
名君として知られるシャー・ルフの38年間にわたる治世は、ティムール朝が最も安定した時期で、シャー・ルフは対外的には平和外交を展開し、明とは外交関係を回復して親善関係を保ち、オスマン帝国とも講和を結び、又彼は父による破壊の修復に努め、学者・芸術家を保護したので宮廷は栄え、ティムール朝は最盛期を迎えました。

サマルカンドの天文台:ウルグ・ベク(右)
シャー=・ルフの死後、子のウルグ・ベク(在位1447年~49年)が第4代君主となりました。ウルグ・ベクは学問を好み、学問を奨励して文人・学者を保護し、彼自身、天文学者・数学者・歴史家であり、特に天文学に優れ、サマルカンドに天文台を建設して天文表を作成しました。
しかし、シャー・ルフの死後、ウルグ・ベクが即位すると、たちまち内乱が生じ、それに乗じて北方からウズベク族が侵入し、ウルグ・ベクは長男に背かれ、捕らえられて殺されます(1449年)。
ウルグ・ベクの死後、ティムール朝は混乱・分裂して衰退し、1500年にウズベク族によってサマルカンドを占領され、まもなく9代約140年間続いたティムール朝は滅亡します。
ジョークは如何?
エデンの園はロシアにあったとする学説がある。
なぜなら、アダムとイブはクルマも家も服さえも持っていなかったが、
自分たちが住んでいるところがパラダイスだと信じて疑わなかったからだ。
続く・・・
スポンサーサイト