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2016/04/28

歴史を歩く187

27 アメリカ独立革命②

2独立戦争

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パトリック・ヘンリー(1736年~99年)

 植民地側は、第1回大陸会議(1774年)を開いてボストン港の閉鎖やマサチューセッツ州の自治権剥奪等に対してイギリス本国に抗議しますが、本国政府と国王は態度を変えず、植民地側とイギリス本国との戦争は避けがたい情勢となりました。

 当時、ヴァージニア植民地議会議員として印紙法に反対して独立運動の急先鋒となり、熱烈な雄弁家として知られたパトリック・ヘンリー(1736年~99年)は、1775年3月に開かれた非合法の植民地協議会で「われに自由を与えよ、しからずんば死を与えよ」という有名な演説によって本国との武力抗争が避けられないことを説いています。

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レキシントン・コンコードの戦い


 1775年4月、ボストンに駐屯していたイギリス本国軍は、ボストン郊外のコンコードに植民地民兵の武器・弾薬が相当集められているとの情報を得てこれら物資を押収しょうと考え、4月19日早朝、ボストン郊外のレキシントンに到着した約800名のイギリス兵とこれを待ちかまえていた約50名の植民地民兵の間で武力衝突が起こり、アメリカ独立戦争(1775年~83年)の火ぶたが切られました。

 レキシントン・コンコードでの武力衝突の知らせはたちまち全植民地に伝えられ、各地から義勇兵が続々と集結し、5月には第2回大陸会議が開かれ、6月にワシントンが植民地軍総司令官に任命されます。

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青年将校時代のジョージ・ワシントン

 ワシントン(1732年~99年)は、ヴァージニアの富裕なプランター(プランテーションの経営者)の子に生まれ、兄の死後農場を継ぎ(1752年)、フレンチ・インディアン戦争(1755年~63年)にイギリス軍少佐として従軍し、その後ヴァージニア植民地議会議員に就任、イギリス本国の課税に反対し、独立戦争が始まると第2回大陸会議で植民地軍総司令官に任命されました(1775年)。

 1775年4月に独立戦争が勃発しますが、独立戦争を支持・推進した独立派(愛国派、パトリオット)はプランター・自営農民・商工業者に支持され、その勢力は植民地人口の約3分の1であり、これに対して独立に反対した国王派(忠誠派、ロイヤリスト)も約3分の1を占め、残りの約3分の1は中立派か無関心であったといわれています。
忠誠派(ロイヤリスト)の多くは高級官吏・大商人・大地主でした。

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トマス・ペイン)1737年1月29日 - 1809年6月8日)

 このような状況にあった植民地の人々の気持ちを一挙に独立の方向に向かわせたものが、1776年1月に出版されたトマス・ペインの『コモン・センス(常識)』でした。

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『コモン・センス(常識)』

 トマス・ペイン(1737年~1809年)は、イギリス生まれの文筆家・革命思想家で、ロンドンでフランクリンと出会ってアメリカに渡り(1774年)、独立戦争が起きると小さなパンフレットである『コモン・センス(常識)』を出版し、独立の必要と共和政の長所を力説し、独立して共和国になることが常識であると説きました。
『コモン・センス(常識)』は数ヶ月で12万部も売れ、独立への機運を盛り上げたのです。

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トマス・ジェファーソン(1743年~1826年)

 更に1776年7月4日、大陸会議はフィラデルフィアでトマス・ジェファーソン(1743年~1826年)等が起草した『独立宣言』を発表しました。

 「我々は、次のことが自明の真理であると信ずる。
すべての人は平等に造られ、造化の神によって、一定の譲ることのできない権利を与えられていること。
その中には生命、自由、幸福の追求がふくまれていること。
これらの権利を確保するために、人類の間に政府がつくられ、その正当な権力は被支配者の同意に基づかねばならないこと。
もしどんな形の政府であっても、これらの目的を破壊するものになった場合には、 その政府を改革し、あるいは廃止して人民の安全と幸福をもたらすにもっとも適当と思われる原理に基づき、そのような形で権力を形づくる新しい政府を設けることが人民の権利であること。・・・」

(山川出版社「詳説世界史」より)と云う有名な文言で始まる『独立宣言』は、まず基本的人権・人民主権・革命権等を主張し、次に当時のイギリス国王ジョージ3世(在位1760年~1820年)の暴政を列挙し、最後に13州の独立を宣言したもので、後のフランス革命の『人権宣言』と共に近代民主政治の基本原理となりますが、独立宣言の冒頭の部分である基本的人権・人民主権・革命権等の主張には、イギリスの啓蒙思想家ロックの思想的影響が強く表れています。

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ジョン・アダムス(1735年10月19日〜1826年7月4日)
 
 尚、独立宣言の起草者5人の中には、トマス・ジェファーソン(後の第3代大統領)の他にフランクリンやジョン・アダムス(後の第2代大統領)も入っています。
独立宣言を発表した翌年に、大陸会議はアメリカ最初の憲法である「アメリカ連合規約」を承認し、「アメリカ合衆国(United States of America)」の名称を採択しました(1777年11月)。

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サラトガの戦い

 この間独立軍は、当初武器・弾薬・食料の不足で苦戦を続けていたが、ワシントンの指揮下で善戦し、サラトガの戦い(1777年10月)でイギリス軍数千を降伏させます。
この勝利を見て、翌年フランスはアメリカ合衆国を承認し、米仏同盟を結んでイギリスに宣戦して参戦し(1778年)、このフランスの参戦には、駐仏大使として活躍したフランクリン(1706年~90年、独立宣言の起草者の一人、新聞発行・出版業・ジャーナリズムの他に政治・外交・科学の分野でも活躍)が大きな役割を果たしました。
又スペインもフランスと同盟してイギリスに宣戦した(1779年)。

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マリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ, ラファイエット侯爵[1][2](Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette、1757年9月6日 - 1834年5月20日)

 更にフランスの自由主義貴族ラ・ファイエット(1777年~81年に義勇軍を率いて独立軍に参加)やポーランドの愛国者であるコシューシコ(1776年~84年ワシントンの副官として活躍)、そしてフランスの空想的社会主義者のサン・シモン等のヨーロッパ人が義勇兵として独立軍に参加しました。

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コシューシコ(1746年2月4日 - 1817年10月15日)

 1780年には、ロシアのエカチェリーナ2世の提唱によって、ロシア・スウェーデン・デンマーク・プロイセン・ポルトガルが武装中立同盟を対決します。
武装中立同盟は、イギリスの中立国船舶規制に対抗し、中立国船舶の航行の自由と禁制品以外の物資の通商の自由を主張したものでしたが、イギリスを完全に孤立させ、独立軍の士気を高める役割を果たしました。

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ヨークタウンの戦い(1781年)コーンウォリスの降伏

 このように国際情勢が独立軍に有利に展開する中で、ついにヨークタウンの戦い(1781年)で、米仏連合軍に包囲された7000名のイギリス軍は降伏し、大勢は決したのです。

 イギリスは1783年のパリ条約で、アメリカ合衆国の完全独立を承認し、合衆国にミシシッピ川以東のルイジアナを割譲し、此処にアメリカ合衆国が誕生しました。

ジョークは如何?

「共産主義ってのは、船旅に似てるな。」
「どんなところが?」
「展望だけは素晴らしいんだが、どこに向かってるんだかさっぱりわからない。
その上吐き気がする。おまけに降りられない」


続く・・・


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2016/04/24

歴史を歩く186

この度の熊本・大分地域震災によりお亡くなりに成られた方々のご冥福をお祈り申し上げますと共に、被災された皆様に謹んでお見舞い申し上げます。

27 アメリカ独立革命①

1イギリスの植民地政策

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ヴァージニア植民地での感謝祭(後方にネイティブアメリカン)

 イギリスは、17世紀初頭、北アメリカ東岸に最初の永続的な植民地であるヴァージニア植民地を建設し(1607年)、18世紀前葉迄に13の植民地を設立しました。
イギリスの13植民地は、信仰の自由や政治的自由を求めて新大陸に移住した人々、又貿易・開拓の利益を求めて移住した人々によって設立されたのです。

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ピルグリム・ファーザーズ、ニュープリマス到着

 1620年にピルグリム・ファーザーズ(巡礼の父達、メイフラワー号で移住した102名のピューリタンの一派の人々)によって設立されたプリマス植民地(1691年にマサチューセッツ植民地に併合)は信仰の自由を求めて新大陸に移住したピューリタンによって設立された植民地であり、マサチューセッツ植民地も1629年にピューリタンによって建設されました。

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ウィリアム・ペン(William Penn、1644年10月14日 - 1718年7月30日)

 メリーランド植民地(1634年設立)は、ボルティモア卿が国王から特許状を得て、カトリック教徒の植民地として設立され、又ペンシルヴェニア植民地(1681年設立)は、ウィリアム・ペンによってクウェーカー教徒(17世紀中頃に創設されたプロテスタントの一派、徹底した平和愛好団体で戦争に反対し絶対に武器をとらない)のために建設されました。
現在の世界都市であるニューヨークは、イギリスがオランダからニューアムステルダムを奪取して設立された(1664年)植民地であり、13植民地の最も遅れて最南部に建設されたジョージア植民地は本国の債務・貧困者救済のために建設された(1733年)植民地です。

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東部13植民地

 このようにして、17世紀初頭から18世紀前半迄の約130年間に北アメリカ東岸に13植民地が建設されましたが、その地域は亜熱帯から亜寒帯に広がっていた為、地域によって経済的には大きな格差が生じていました。
南部では、主に黒人奴隷を使ってたばこ・米・藍等を栽培するプランテーションが盛んであったのに対し、北部では海運・造船・農業・漁業が盛んでした。

 各植民地は、本国の議会制度にならって植民地議会を設ける等(最初の植民地議会は1619年にヴァージニア植民地で設立)自治の制度を発達させており、又イギリスからの移住者の多くが中産階級の人々で、13植民地では早くから出版・新聞の発行(1704年)・大学の設立(ハーヴァード大学は1636年に、イェール大学は1701年に設立)が行われたことも重要な特色でした。

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イギリス本国とアメリカ植民地の諸問題

 イギリス本国は、植民地に対しては植民地の自治を認める一方で、重商主義政策をとり、本国の利益の為に商工業の発展を抑える政策をとり続けます。

 例えば、羊毛品法(1699年)では本国の羊毛産業を保護する為に植民地の毛織物の輸出を禁止し、糖蜜法(1733年)は、植民地が西インド諸島の外国植民地から輸入していた安い糖蜜や砂糖に輸入税を課したものですが、これは西インドの英領ジャマイカ産さとうきびプランター(プランテーション経営者)を保護する為の条例で在り、更に鉄法(1750年)では、本国の製鉄業を保護する為に植民地の鋼鉄用溶鉱炉や圧延工場の建設を禁じた法律です。

 これらの重商主義諸政策は植民地の経済に打撃を与えた、「有益な怠慢」と云う言葉に表されているように、例えば密輸に対する取り締まりは不十分で、当時フランス植民地から植民地を守るために本国の援助が必要であった事から、本国に対する反抗は発生しませんでした。

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フレンチ・インディアン戦争中のワシントン(1753,54年頃)

 しかし、フレンチ・インディアン戦争(1755年~63年)でイギリスが圧勝し、1763年のパリ条約でカナダ及びミシシッピ以東のルイジアナを獲得してフランスの脅威が消滅、又七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)の戦費と獲得した広大な領土を統治する為の費用をまかなう必要性から重商主義を強化し、課税を強化したので植民地人の不満が増大しました。

 1764年には糖蜜法に代えて砂糖法を制定して密貿易への処罰を強化し、更に翌1765年には印紙法を制定しました。

 印紙法は、植民地で発行される全ての法律・商業関係書類、新聞・暦等の刊行物に印紙を貼ることを要求した法律で、その収入を植民地に駐屯する軍の費用に充当する目的で制定された法律で、印紙法は従来の法のように一部の人々にだけ影響を与える法でなく、全植民地の全ての職業・階層の人々に影響を与える法であった毛か結果、植民地住民は強硬に反対し、至る所で反対運動が起こりました。

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 ヴァージニア植民地議会は、印紙法反対決議案を可決し、ニューヨークでは9植民地の代表が集まって印紙法会議が開かれ、植民地側は、有名な「代表なくして課税なし」、植民地は本国議会に代表を送っていないので、本国議会は植民地人に課税出来ないと云う論理を主張し、イギリス商品の不買運動を行って抵抗した為、イギリス商人は大きな不利益を受け、印紙法は翌年撤廃されます。

 しかし、イギリス本国は1767年にタウンゼント諸法を制定し、植民地に輸入されるペンキ・紙・ガラス・茶に輸入税を課し、これに対しても植民地側はイギリス商品の不買運動を行って抵抗し、本国商人もこの動きに同調した結果、輸入税は1770年に茶税を残して撤廃されます。

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ボストン茶会事件(Boston Tea Party)

 更に1773年には、当時経営難に陥っていた東インド会社を救済する目的で茶法を制定し、東インド会社にアメリカ植民地への茶の直送を認め、茶の独占販売権を与えます。
この茶法は、当然植民地の商人に大きな打撃を与え、彼らと茶法に反対する急進派の人々がネイティブ・アメリカンに変装して、1773年12月16日夜、ボストン港に入港していた東インド会社の3隻の船を襲って茶箱342箱を海中に投棄する出来事が起き、これが有名なボストン茶会事件(Boston Tea Party)と後に呼ばれる出来事で、独立戦争の導火線と成りました。

 イギリスは、この事件に対する報復として、翌1774年に強圧的諸法を制定し、ボストン港の閉鎖・マサチューセッツ州の自治権剥奪等を行った為、植民地側は1774年9月にフィラデルフィアで第1回大陸会議(13植民地(13州)の代表で構成された植民地側の最高の連絡・意志統一機関)を開いて本国に抗議し、強圧的諸法の撤廃を求める決議や通商断絶同盟の結成を採択し、こうして植民地側とイギリス本国との戦いは避けがたいものに成っていました。

ジョークは如何?

ある晩餐会で、無口で有名なクーリッジ大統領に、
1人の女性が近づいた。
「わたくし、友人と賭をいたしましたの。あなたに
2語以上しゃべらせることができたら、わたくしの
勝ちですわ」
クーリッジの返答。
「ユー・ルーズ(君は負けた)」


続く・・・
2016/04/22

歴史を歩く185

26 ムガール帝国

1ムガール帝国の建設と発展

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バーブル(1483年~1530年、在位1526年~30年)

 北インドでは、13世紀初頭から、デリーを都とする5つのイスラム王朝が相次ぎます(デリー・スルタン朝、1206年~1526年)。

 デリー・スルタン朝最後のロディ朝(1451年~1526年)末期に、中央アジアからティムールの子孫であるバーブルが西北インドに侵入します。
バーブル(1483年~1530年、在位1526年~30年)は、ティムールから数えて5代目の直系の子孫で、母方でチンギス・ハンの血を引くと云われています。
ティムール朝末期に侵入してきたウズベク族によって故地を追われ、アフガニスタンのカーブル(カブール)を占領して小王国を建国(1504年)、その後、カーブルを拠点としてティムール帝国の再興を図りますが失敗し、その頃ロディ朝が内紛によって分裂・弱体化している情勢を見て取り、ティムール帝国の再興を捨て、インド征服に乗り出したのでした。

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パーニパットの戦い1526年

 1519年にインダス川を渡ってパンジャーブ地方に侵入しますが、この時はロディ朝の大軍に敗退、しかし、1525年にロディ朝の内紛に乗じて再びパンジャーブ地方に侵入し、翌1526年にパーニパット(デリーの北約140km)の戦いで、自軍の10倍にも達するロディ朝軍を撃破し、デリーを占領してムガール帝国(1526年~1858年)を建国しました。

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ムガール帝国の拡大

 バーブルは、次いでラージプート族(インド西部に居住し、古代のクシャトリアの子孫と自称した)を従え、更にベンガル地方(ガンジス川下流域)の諸勢力を平定してムガール帝国の基礎を築きますが、まもなくティムール帝国の故地を慕いつつカーブルで崩御しています。

 尚、ムガール(Mughal)の語源はモンゴル(Mongol)が変化したものと云われています。(バーブルはティムールの直系の子孫であり、母方でチンギス・ハンの血を引くと云われ、ティムールもチンギス・ハンの子孫と自称したことからモンゴルの呼称を用いたものと考えられます)。

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行軍するフマユーン(在位1530年~56年)

 バーブルの死後、子のフマユーン(在位1530年~56年)が後を継ぎますが、ベンガル遠征で逆にスール朝(1539年~55年、アフガン系スール族が建てた王朝、5代16年間北インドを支配した)の軍に敗走(1539年)、西北インド各地を転々とした後にイランに逃れてサファヴィー朝の保護を受け(1540年~)、その後サファヴィー朝の支援を受けて勢力を回復し、スール朝の内紛に乗じてデリーを奪回するものの(1555年)、その翌年書斎の階段から転落して急死しました。

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渡河するアクバル(大帝、1542年~1605年、在位1556年~1605年)

 ムガール帝国第3代皇帝アクバル(大帝、1542年~1605年、在位1556年~1605年)は、父の急死によって14歳で即位し、重臣のバイラーム・ハーンが後見役を努め、同年スール朝勢力を破り(1556年、第2パーニパットの戦い)、再びムガール帝国の支配を確立すると、やがて頑固なイスラム教徒であった重臣のバイラーム・ハーンを追放して実権を握り(1560年)、ヒンドゥー教徒との融和政策を行いました。

 アクバル大帝は、イスラム教徒とヒンドゥー教徒との融和を図り、ヒンドゥー教徒(ラージプート族)の王女を王妃に迎え、ヒンドゥー教徒に対する差別待遇を撤廃して、ヒンドゥー教徒へのジズヤ(人頭税)を廃止しました(1564年)。

 この政策によりムガール帝国に頑強に抵抗してきたヒンドゥー教徒の最有力部族のラージプート族も友好的な同盟者となり、アクバル大帝は1576年迄に、略全北インドを支配下に収め、更にカーブル(1581年)、デカン高原(1593年)に兵を進めて支配領域を拡大し、ムガール帝国はアクバル大帝の時代に最盛期を迎えます。

 アクバル大帝は、アグラに遷都し(1558年)、全国を州・県・郡に分けて中央から官吏を派遣して統治させますが、彼等には土地を与えず、俸給を支給して封建領主化を防ぎ、又全国の耕地を測量させて面積に応じた課税を実施し、良質の銀貨を鋳造して貨幣を統一行って財政の確立に努めました。

 アクバル大帝はイスラム教徒ではありましたが、皇帝を神として崇拝する神聖宗教(ディーネ・イラーヒー)を創始して諸宗教の融合を図るものの、帰依者は少なく、彼の死と共に消滅しました。

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ジャハーンギール(在位1605年~27年)

 アクバル大帝が病死すると、長子が即位してジャハーンギール(在位1605年~27年、「世界の征服者」の意味)と名乗りました。
ジャハーンギールは文芸を愛好して保護・奨励した結果、その宮廷では華やかなムガール文化開花しますが、一方で彼はペルシアの美妃を寵愛し、王妃が政治を左右するようになり政治が乱れを生じさせる事になります。

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シャー・ジャハーン(右)と愛妃ムムターズ・マハル(左)

 ジャハーンギールの死後、第3子のシャー・ジャハーン(在位1628年~58年)が兄弟との帝位継承争いに勝って即位します。
シャー・ジャハーンは、サファヴィー朝からカンダハル(ジャハーンギールの時に失った地)を一時奪回し、デカン高原にも領土を拡大しましたが、この外征が晩年に財政難を引き起こす原因となります。

 シャー・ジャハーンも学者・文人を保護した為、ムガール文化はシャー・ジャハーンの時代に最盛期を迎え、特に彼が、愛妃ムムターズ(愛称タージ)・マハルを偲んでアグラ郊外に造営した(1532年~53年)タージ・マハル廟はインドを代表するイスラム建築で、白大理石の巨大なドームと美しい庭園で知られ、世界で最も美しい建築の一つとして有名です。

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アウラングゼーブ(在位1658年~1707年)

 しかし、シャー・ジャハーンが晩年に病にかかると帝位継承争いが起こり(1657年)、シャー・ジャハーンは第3子アウラングゼーブによってアグラ城に幽閉されて没します(1658年)。
   
 ムガール帝国第6代皇帝アウラングゼーブ(在位1658年~1707年)は、シャー・ジャハーンの第3子でしたが、父の病気に乗じて父帝を監禁し、兄弟4人の帝位継承争いに勝利し、兄弟達を殺害して帝位に就いた人物です。

 アウラングゼーブは、長い治世の大半を外征に費やし、自等軍を率いてデカン遠征を行い(1681年)、1689年頃迄にデカン高原南端の一部を除いて略全インドを領有し、ムガール帝国の領土は最大となりますが、インド史の中で、略全インドが統一されたのはマウリヤ朝のアショーカ王時代とムガール帝国のアウラングゼーブの時代だけです。
 
 アウラングゼーブは厳格なイスラム教のスンナ派で、曾祖父のアクバル大帝が廃止したヒンドゥー教徒に対するジズヤ(人頭税)を復活し(1679年)、ヒンドゥー教寺院を破壊し、ヒンドゥー教・シーア派等を弾圧しました。

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ラージプート族の戦士

 この為、ヒンドゥー教徒のラージプート族が反乱を起こし(1680年)、更にマラータ族やシーク教徒も反乱を起こしますが、特にマラータ族は、この反乱を通じてデカン高原西部にマラータ王国(17世紀中期頃~1818年)を建設しています。

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ムガール帝国版図の変遷

 アウラングゼーブの死後、デカン高原・ベンガルの地方政権が相次いで自立し、マラータ同盟(1708年~1818年、マラータ諸侯の緩やかな連合体)は首都デリーを脅かし、又イギリス・フランス等西ヨーロッパ諸国が沿岸の都市を拠点として内陸部にも勢力を伸ばし始めた結果、ムガール帝国は急速に衰退に向かいます。

2インド・イスラム文化

 インドでは、デリー・スルタン朝のもとで外来のイスラム文化と伝統的なヒンドゥー文化との融合が進み、インド・イスラム文化が成立し、特にムガール帝国の時代に成熟しました。

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ウルドゥー語

 デリー・スルタン朝時代に、ヒンディー語(北インドの共通語、現在のインドの主要な公用語)を基礎としてアラビア語・ペルシア語・トルコ語の語彙を多く取り入れたウルドゥー語が使われるようになり、ウルドゥー語はムガール帝国の民衆の間でも広く用いられ、現在のパキスタンの国語になっています。

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ナーナク(1469年~1538年)
 
 宗教面では、16世紀初頭にナーナク(1469年~1538年)がヒンドゥー教とイスラム教を折衷してシク教を創始しました。
シク教はヒンドゥー教の改革派で、イスラム教の影響を受けて、その教義は一神教的であり、偶像を否定し、カースト制にも反対しています。
シク教の信仰の中心はパンジャーブ地方のアムリットサルで、その信者はパンジャーブ地方に多く、その数は現在約1800万人と云われています。

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タージ・マハル

 美術分野では、シャー・ジャハーンが建てたタージ・マハルはインド・イスラム文化を代表する建築であり、絵画ではムガール絵画やラージプート絵画が発達しました。
ムガール絵画は、イランから伝来したミニアチュール(細密画)から発達し、アクバル大帝、ジャハーンギール帝の保護を受けて盛んとなり、宮廷風俗・花鳥・動物・肖像画等を写実的に描いています。

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ミニアチュールの婦人画

 これに対してラージプート族諸王の宮廷の保護を受けて発達したラージプート絵画は庶民的であり、ヴィシュヌ信仰やそれと関連ある民間信仰の神々を題材とする宗教的な・神秘的な絵画が描かれています。

ジョークは如何?

実は在韓米軍など存在しない。
現在、韓国に駐留しているのは、国連軍だからだ


続く・・・

2016/04/15

歴史を歩く184

25 トルコ世界とイラン世界・番外編
日本とトルコ、友好の架け橋となった一つの事件

1 イラン・イラク戦争

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イラン・イラク戦争

 1985年3月17日、イラン・イラク戦争の最中、当時のサダム・フセイン イラク大統領は「48時間後にイラン領空にいる外国機を無差別攻撃する」と宣言し、各国政府は48時間の執行猶予期間にイランに居る自国民救出の為、飛行機を首都テヘランに派遣させます。

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イラン・イラク戦争当時の日本航空機の塗装 ボーイング747SR-46(国内線)

 しかし、日本政府は自衛隊機を派遣出来ませんでした。
当時の自衛隊法は、自衛隊の外国における活動を人道目的をも含めて想定しておらず、又、イラン迄ノンストップで飛行できる航空機が配備されていなかったため、自衛隊を派遣する事は事実上不可能でした。
今日、同様の事案が発生した場合には航空自衛隊の日本国政府専用機を、機内の首相執務室や会議室等を撤去し、座席を設置して運用する事と成っています。

 加えて当時世界各地に路線網を持っていた、日本航空も乗務員、機材の安全が保証出来ないとして乗務員組合の反対から臨時便を出さず、テヘラン居た日本人215人が孤立する事態に陥りました。
他国の救援機には、自国民分の席の確保がやっとで、日本人215人は警告期限が迫る中、パニックに陥っていました。
(この時、同年8月12日の日本航空123便墜落事故で亡くなった海上自衛隊出身の高濱雅巳機長は、真っ先に救援便の運行乗務員に志願していたと云われています。)

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1985年当時のトルコ航空 ボーイング727-200と1番機の機長を務めたオルハン・スヨルジュさん

 この様な不足の事態に、在イラン日本大使はトルコ大使に窮状を訴えたところ、「私たちはエルトゥールル号の時の恩を知っています。今こそ恩返しさせていただきます」との言葉で要請を快諾。
トルコ政府の要請を受けたトルコ航空機2機によって215人全員が無事脱出し、トルコ経由で日本に帰国を果たしました。
この時、飛行機がイラン領空を脱出したのは攻撃数時間前と云う、当に間一髪の時間だったのです。

2 オスマン帝国海軍 装甲フリーゲート艦 エルトゥールル号


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エルトゥールル号

 この邦人テヘラン脱出事件から約100年前の1889年7月14日、当時のオスマン帝国海軍の軍艦エルトゥールル号は、1887年に行われた小松宮夫妻のイスタンブール訪問に応える事を目的に、更には航海訓練を兼ねて大日本帝国(当時)へ、皇帝アブデュルハミト2世の命によって派遣されることになりました。

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オスマン・パシャと使節団

 明治天皇に謁見する為、オスマン・パシャ以下650人の使節団を乗せてイスタンブールを出帆、スエズ運河、インド洋を経由、途中各地のイスラム諸国の歓迎とオスマン帝国の威信をかけて苦難の11ヶ月の航海を乗り切り、1890年6月7日横浜港に到着、天皇へ親書に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として大歓迎を受けました。

 しかしながら、今回の航海に使用されたエルトゥールル号は木造船であり、就役から既に25年以上を過ぎ、今回の長距離航海で船体の消耗は激しく、更に資金の欠乏、乗組員の間に発生したコレラの問題もあり、出航が伸びていました。

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アブデュルハミト2世

 日本政府は船体の消耗の激しさと台風の多い季節である9月を避ける様、トルコ側に忠告します。
しかし、エルトゥールル号が派遣されたもう一つの理由として、インド・東南アジアのイスラム国家にイスラムの盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝アブデュルハミト2世の強い意志が在り、出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためとも云われています。

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遭難


 9月15日に横浜港を出港し、帰国の途に就いたエルトゥールル号ですが、翌16日21時頃和歌山県串本沖を航行中、折からの台風に遭い座礁、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし22時半頃に沈没、650人の内オスマン・パシャを含む587人が死亡するという大惨事に成りました。

3 嵐の中の救助作業

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樫野崎灯台

 事故後、生存者が崖を攀じ登り、近くの樫野崎灯台に駆け込み灯台守に助けを求めますが、灯台守は応急手当を行うものの、お互いの言葉が通じず、国際信号旗を使用して、遭難し艦船がオスマン帝国海軍軍艦である事を初めて知りました。
灯台守の知らせを受けた近くの大島村の住民達は、暴風雨の中総出で救助活動と介抱を行い、村の学校や寺に運び乗組員達に着物を着せ、台風の為漁にでることも出来ず、残り僅かだった自分達の食料や非常食として飼われていた鶏を与える等、献身的に看病した結果69人が生還を果たしましたが、残る587名は死亡若しくは行方不明と成りました。

 翌朝、事故の知らせを聞いた大島村の村長は、神戸の外国公館に乗組員を神戸の病院に搬送する手配を要請し、生存者は一旦神戸の病院に入院します。
合わせて、和歌山県を通じて日本政府に連絡し、これを聞いた明治天皇は心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示を出し、又新聞各紙が大々的に報じ、全国から弔慰金や義捐金が送られました。

4 帰還・その後

 救助された69人は一旦東京へ向かい、事故から20日後の10月5日に大日本帝国海軍のコルベット艦「比叡」と「金剛」(共に初代)に乗り帰国、1891年1月2日イスタンブールに到着しました。
尚この2隻の内、「比叡」には秋山 真之が海兵17期生少尉候補生として乗り組んでいます。

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秋山 真之

 事故はオスマン帝国本国でも大きく取り上げられ、救助に全力を尽くした大島村民と日本政府に対して、オスマン国民は感謝と共に遠い日本に対し好印象を抱く結果となり、これがトルコを親日国とした事件と云われ、代々トルコ国民の間で語り継がれるように成りました。

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エルトゥールル号遭難事件

 しかし、日本人で事故のことを知る者は地元の串本町民以外殆どおらず、長らく公に出ることは在りませんでしたが、今世紀に入って事故の話が前述の逸話と共に紹介されるようになり、昨年「海難1890」として映画化される迄に成りました。

ジョークは如何?

日本軍内のジョーク

「サンボウ」とは何か?

無謀
乱暴
凶暴
の三つを併せ持った軍人の意


続く・・・

2016/04/08

歴史を歩く183

25 トルコ世界とイラン世界③

2オスマン帝国の発展②

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スレイマン1世(大帝、1494年~1566年、在位1520年~66年)

 オスマン帝国は、セリム1世の子、第10代皇帝スレイマン1世(大帝、1494年~1566年、在位1520年~66年)の時に最盛期を迎えました。
 
 スレイマン大帝は、その治世の間に13回の親征を行い、そのうち10回はハンガリー・オーストリア等ヨーロッパに対してであり、残り3回はアジア(イラン)に対するものでした。
モハッチの戦い(1526年)でハンガリー王を敗死させ、1529年にはウィーンを包囲、結果的にウィーンを陥れることは出来ませんでしたが、このウィーン包囲はヨーロッパに大きな衝撃を与え、その後、スレイマン大帝はカール5世を牽制するために、フランス王フランソワ1世と同盟を結び、この時フランソワ1世にカピトゥレーションを与えました。

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モハッチの戦い(1526年)
 
 ここでカピトゥレーションとは、オスマン帝国がフランスを初めとするヨーロッパ諸国に与えたトルコ領内での領事裁判権や租税免除の治外法権や身体・財産・住居・企業の安全を保障した特権のことで、オスマン帝国の衰退につれて西欧諸国から不平等条約を押しつけられる足がかりと成りました。

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プレヴェザの海戦

 更にスレイマン大帝は、1538年にはプレヴェザの海戦で(プレヴェザはギリシア西岸の地)スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊を撃破し地中海の制海権を掌握、東方ではサファヴィー朝と戦ってメソポタミア南部を奪取、北アフリカではチュニスにも侵攻し、こうしてオスマン帝国は、スレイマン大帝の時に最大の領土を領有し、アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがる当時の世界最強の国家に成長し、ヨーロッパの政局にも大きな影響を与えたのです。

 内政では、行政組織や管理機構を強化し、法典の集大成を行い「立法者」と呼ばれ、又学芸を保護したので独自のトルコ民族文化が発達し、トルコ建築の最高峰といわれるスレイマン寺院等壮麗な寺院が建立されますが、晩年には後宮の影響を受けて奢侈におぼれて財政難や2人の王子の反乱を招き、ハンガリー親征中に没しています。

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セリム2世(第11代皇帝、在位1566年~74年)

 その後、セリム2世(第11代皇帝、在位1566年~74年)の時代に、オスマン海軍はレパントの海戦(1571年)でスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊に敗れて地中海の制海権を喪失しました。

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第2次ウィーン包囲

 オスマン帝国のヨーロッパに対する優位は17世紀中葉迄続きましたが、1683年の第2次ウィーン包囲の失敗以後は次第にヨーロッパに対して守勢に回るようになり、更にオスマン帝国は、領内に多くの民族を抱える複合民族国家ですが、非イスラム教徒の異民族に対しては寛大な政策を施行し、異教徒はそれぞれの信仰を認められ、宗教別に共同体(ミッレト)を構成し、ミッレトには大幅な自治が認められました。

 又オスマン帝国は、政教両権を握り、強大な権力を持つスルタンを頂点とする軍事的な封建国家で、各地の領主はスルタンから授与された土地に対する徴税権を認められ、その土地の広さに応じて軍事的な義務を負担し(ティマール制、イクター制を継承した制度)、彼らは戦時には軍団を指揮し、平時には地方行政を担当しました。

3サファヴィー朝

 ティムール帝国の滅亡後、イランでは長期にわたるトルコ民族支配から脱したイラン人がアケメネス朝(紀元前550年~同330年)・ササン朝(226年~651年)に次ぐ久々のイラン民族国家であるサファヴィー朝(1501年~1736年)を樹立しました。

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イスマーイール1世(在位1501年~24年)

 サファヴィー朝の創始者であるイスマーイール1世(在位1501年~24年)は、イラン西北部で神秘主義教団教主の子に生まれ、神秘主義(スーフィズム=神との合一の境地を理想とするイスラムの神秘主義)集団のトルクメン7部族の支持によって白羊朝を倒してタブリーズで即位し(1501年)、1510年迄にイラン全土を統一しました。

 イスマーイール1世は、ササン朝時代に使われたシャー(ペルシア語で「王」・「支配者」の意味)の称号を用い、イラン人の民族意識の高揚に努めると共に、シーア派の中の十二イマーム派(シーア派の主流をなす穏健派で、アリーとファーティマの直系の12人を真のイマーム(指導者)とする派)を国教とし、スンナ派のオスマン帝国と対立します。

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アッバース1世(大帝、在位1587年~1629年)

 サファヴィー朝は、第5代のシャー、アッバース1世(大帝、在位1587年~1629年)の時に最盛期を迎えました。
アッバース1世は、国内では建国以来の軍人貴族を抑え、親衛隊を強化して専制君主の地位を確立すると共に、対外的には長年にわたってオスマン帝国と抗争し、アゼルバイシャンとイラクの一部を回復し、又ウズベク族の侵入を阻止しました。

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イスファハーンは世界の半分

 更に新首都イスファハーンを建設してここに遷都し(1597年)、モスク・宮殿・学院・庭園等が次々に建設された壮麗な都市イスファハーンは、当時のコンスタンティノープルと並び称せられ、「イスファハーンは世界の半分」と云われる程繁栄しました。

 1622年にはポルトガル人からホルムズ島を奪回、又イギリス人が初めてイラン宮廷を訪れたのもアッバース1世の時代でした。

 しかし、アッバース1世の治世を頂点とし、その後は無能なシャーが続いたためにサファヴィー朝は次第に混乱して衰退に向い、1722年にアフガン人に首都を奪われてまもなく滅亡します(1736年)。
サファヴィー朝では、建築・美術・工芸等に代表されるイラン芸術が最高度に発達し、又独特のシーア派神学が完成されました。

ジョークは如何?

「プラハの春」が終わったばかりの頃の酒場で。

5人の男がいた。彼らはめいめい物思いに耽っていた。
一人は、深くため息をつき、一人は悲しげなうめき声をあげた。一人は絶望したというように首を振り、一人は両目いっぱいに涙を溜めていた。
 最後の男が、びっくりして叫んだ。
「おいっ、こんな所で政治を語るのは危険だぜ!」


続く・・・
2016/04/03

歴史を歩く183

25 トルコ世界とイラン世界②

2オスマン帝国の発展①

 オスマン帝国(オスマン・トルコ帝国)(1299年~1922年)の前身は、西トルキスタンのホラサン地方で半遊牧生活を送っていた部族ですが、チンギス・ハンの圧迫を受けて西進し、小アジアの西北部に入り、やがて族長のエルトゥルルはルーム・セルジューク朝(1077年~1308年、セルジューク族の一分派が小アジアに建国した国)に一軍団長として仕え、その子オスマン・ベイ(オスマン1世、1258年~1326年)は、ルーム・セルジューク朝の衰退に乗じて独立し、オスマン帝国を建国しました(1299年)。

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オスマン・ベイ(オスマン1世、1258年~1326年)

 オスマン1世(在位1299年~1326年)は、周辺のビザンツ帝国の諸侯の領土に侵略して勢力を拡大し、オスマン帝国の基礎を築き、次のオルハン・ベイ(在位1326年~59年)は、小アジア西部のブルサを攻略してここを首都と定めました(1326年)。

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ムラト1世(在位1359年~89年)

 オスマン1世の孫、第3代皇帝ムラト1世(在位1359年~89年)は、小アジアから対岸のバルカン半島に進出し、アドリアノープルを征服し、ブルサからアドリアノープルへ遷都しました(1362年)。

 ムラト1世のバルカン進出に対して、バルカン諸民族はセルビアを盟主としてオスマン帝国の侵入を阻止しようと試みますが、ムラト1世はコソヴォの戦い(1389年)でこれを撃破し、バルカンの支配権を確立します。
しかし、ムラト1世本人は、この時降伏してきたセルビア貴族に陣中で暗殺されています。

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イェニチェリ 下級兵士

 尚、有名なイェニチェリが創設されたのが、ムラト1世の時代と云われています。
イェニチェリ(新しい兵士の意味)は、支配下のキリスト教徒の中から強健・美貌の少年を選抜してイスラム教に改宗させ、厳格な訓練を施して組織された親衛隊で、身分上はスルタンの奴隷ですが、高位・高官に栄達する登竜門でもあったので、後にはバルカン半島の住民の中には自分の子弟を志願させる者も現れました。

 ヨーロッパの軍隊はイェニチェリの楽隊の音を聞いただけで戦意を喪失したと云われ、イェニチェリは14~15世紀の征服戦争に多くの軍功を立てていきました。
しかし、後には軍規が乱れ、横暴を極め、スルタンの擁立にも関与するようになった結果1826年に廃止されます。

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バヤジット1世(在位1389年~1402年)

 第4代皇帝バヤジット1世(在位1389年~1402年)は、父の暗殺後に即位し、セルビアを従属させるとともに、ニコポリスの戦い(1396年)でハンガリー王ジギスムントを中心とするバルカン諸国・フランス・ドイツ・イギリスのヨーロッパ連合十字軍を撃破し、更にコンスタンティノープル攻略に着手します。

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ニコポリスの戦いでハンガリー王ジグムントと助けようとするティトゥス・フェ

 この時、突如東方からティムールが小アジアに侵攻し、バヤジット1世はこれをアンカラに迎え撃ちますが大敗を喫して捕虜となり(アンカラの戦い、1402)、翌年獄中で憤死し、オスマン帝国は一時ここに中断しました(1402年~13年)。

 ティムールがアンカラの戦いから3年後に崩御すると、バヤジットの諸王子はいっせいに蜂起しオスマン帝国の再興を図りますが、同時にスルタンの位をめぐって激しい内紛に発展し、11年間にわたる空位時代が続きます。

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メフメト1世(在位1413年~21年)

 スルタン継承争いに勝利したバヤジットの第3子がメフメト1世(第5代皇帝、在位1413年~21年)として即位し、オスマン帝国の復興に努め、次のムラト2世(第6代皇帝、在位1421年~51年)の時には、再びバルカン半島に領土を拡大していきます。

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メフメト2世(1432年~81年、在位1451年~81年)

 第7代皇帝が「征服王」・「大帝」と呼ばれるメフメト2世(1432年~81年、在位1451年~81年)で、メフメト2世は、1453年、終にコンスタンティノープルを攻略し、1000年以上続いたビザンツ帝国(395年~1453年)を滅ぼし、コンスタンティノープル(オスマン帝国ではイスタンブルの呼称が一般化した)に遷都しました。

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コンスタンティノープル攻略

 メフメト2世は、コンスタンティノープル攻略にあたって、油を塗った丸太を並べて、その上を戦艦を引っぱる奇抜な方法で山越えを敢行し、コンスタンティノープルを陥落させたのは有名な話です。
その後、メフメト2世はバルカン半島や黒海沿岸地方を征服し、「征服王」と呼ばれ、又国内では、法典の整備を行い、学芸を保護・奨励し、以後のオスマン帝国の大発展の基礎を築来ました。

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セリム1世(1512年~20年)

 第9代皇帝セリム1世(1512年~20年)は、父バヤジット2世(第8代皇帝、在位1481年~1512年)を廃位して即位し、新興のサファヴィー朝から小アジア東部やメソポタミアを奪取し、1516年にはシリアを併合、翌1517年にはマムルーク朝を滅ぼしてエジプトをも併合(1517年)、そして、それまでマムルーク朝が掌握していたメッカ・メディナの保護権を獲得し、カリフ政治の後継者としてスンナ派の信仰の擁護に努めました。

 尚、従来はセリム1世がマムルーク朝を滅ぼした時に、マムルーク朝に亡命してその庇護のもとにあったアッバース朝の最後のカリフからカリフの称号を強制的に取り上げ、オスマン帝国のスルタンがカリフを兼ねるスルタン・カリフ制が成立したとされてきましたが、最近の研究ではオスマン帝国がスルタン・カリフ制を用いたのは18世紀後半以後のことであるとされています。

ジョークは如何?

ヴォストーク1号打上げ成功のニュースにモスクワ大学の物理学研究室の
教授も学生もみな大喜び。
教授が言った。
「我々が惑星へ旅行できるようになる日も近いだろう。」
生徒から、より具体的な質問があがった。
「アメリカへ旅行に行けるのは、いつになるのでしょうか?」

続く・・・