2016/05/27

歴史を歩く194

1フランス革命とナポレオン⑥

5ジャコバン派の独裁

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『ナントの溺死刑』 ジャコバン派独裁政治下で行われた溺死処刑

 内外の危機に直面したジャコバン派は、1793年6月2日、サンキュロットの力を背景にジロンド派を国民公会から追放して国民公会の指導権を掌握し、以後急進的な諸改革を次々に強行して行きます。

 国民公会は、先ず「1793年憲法」を採択しました(1793年6月24日)。
1793年憲法は、ジャコバン憲法とも呼ばれ、人民主権・男子普通選挙・抵抗=蜂起権・人民の生活権等を主な内容とし、1791年憲法に比べて遥かに民主的な憲法でした。
国民投票で承認されたものの、革命の激化で実施が延期され(1793年10月)、結局実施されることは在りませんでした。

 又7月には「封建的貢租の無償廃止(封建的特権の無償廃止)」を最終的に確定しました(1793年7月17日)。
封建的貢租の無償廃止はジャコバン派が行った改革のなかで最も重要な改革であり、これによって領主権の無条件・無償廃止が行われました。
1789年8月の封建的特権の廃止宣言では、貢租の廃止は有償とされ、貧しい農民の大部分は依然として貢租を負担し続けてきましたが、この土地改革によって貢租が無償廃止され、多数の農民は中小土地所有者となり、以後フランス社会の中間層を形成していくことに成ります。
同時に国外に逃亡した亡命貴族や聖職者から没収した土地(国有財産)が分割されて競売に付されていきました。

 更に徴兵制の実施(1793年8月)・革命暦の制定(1793年10月5日)・理性の崇拝(1793年11月)・メートル法実施の決定等が行われました。

 徴兵制は、1793年2月に30万人の募兵を決定し、同年8月には世界史上初めて全国民を対象とする徴兵制が決定されました。

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革命歴の寓意画


 革命暦は、反キリスト教の立場からイエスの誕生を紀元元年とするグレゴリ暦を否定し、第一共和政が成立した1792年9月22日を紀元第1日とし、1年を12ヶ月、1ヶ月を30日、残りの5日をサンキュロットの日として祭日とし、又1週7日制も廃止されて10日毎に休日を設けた暦で共和暦とも呼ばれます。
月の名前も全て自然現象から命名され、9月22日より30日間はヴァンデミエール(葡萄月)、10月22日より30日間はブリュメール(霧月)、以下霜月・雪月・雨月・風月・芽月・花月・草月・収穫月、7月19日より30日間はテルミドール(熱月)・実月の様に呼ばれました。
革命暦は1793年10月5日に採用が決定され、1805年9月にグレゴリ暦への復帰が決定されて1806年1月1日に正式に廃止される迄存続します。

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最高存在の祭典

 理性の崇拝は、反キリスト教運動の為に行われた合理主義的な宗教儀式で、1793年秋からパリをはじめとして各地で行われましたが、ロベスピエールは1794年春にこの儀式を廃止して最高存在の崇拝に代えています。

 メートル法は、度量衡の統一が行われた1790年から進められ、1793年に国民公会で実施が決定され、1799年に正式に採用されて現在では全世界で使用されています。
パリを通る子午線(地球の周囲)の4000万分の1を1mと定めましたが、これは度量衡の基準を不動なものに求めた合理主義の現れでした。

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革命歴2年の公安委員会

 ジャコバン派は、急進的な諸改革を進める一方で、公安委員会や保安委員会の権限を掌握し、独裁体制を強化して行きました。
特に事実上の政府とも云うべき公安委員会は、ロベスピエールの加入後(1793年7月26日)権威が高まり、ジャコバン派独裁の中心機関に成長します。
保安委員会は、国民公会内の委員会として設置され(1792年10月)、治安・警察権を担当し、公安委員会に継ぐ権限を有しました。

 ジャコバン派は、ジロンド派の追放以後、国民公会の指導権を握り、公安委員会・保安委員会・革命裁判所等を指導下に治め、反対派を圧殺する革命的テロリズム、いわゆる「恐怖政治」(1793年6月~1794年7月)を行ったのでした。

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マリ・アントワネットの処刑

 特に1793年10月16日のマリ・アントワネットの処刑後、多くのジロンド派の人々や反革命容疑者がギロチンで処刑されます(10月から12月迄に177名)。

 徴兵制の実施によって、フランス軍は60万人以上に達し(同盟国軍は計約40万人)、1793年の秋以後、フランス軍は各地で次々と勝利を収め、戦局は好転して対外的な危機は遠のきましたが、ジャコバン派が行った経済統制の成果は上がらず、物価の値上がりは依然として続き、又封建的貢租の無償廃止によって土地を得た農民や経済的な自由を求める商工業者は次第に保守化し、ジャコバン派の独裁に対する不満が高まり、恐怖政治への不安も強まって行きました。

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『国民公会でのロベスピエールの打倒』マックス・アダモ (de:Max Adamo) 作(1870年)

 こうした状況の中で、ジャコバン派の指導者内部にも対立が生じ、ロベスピエールは過激派のエベールや穏健派のダントンを処刑して、ますます独裁を強化して行きます。

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ジャック=ルネ・エベール(Jacques René Hébert, 1757年11月15日 - 1794年3月24日)

 エベール(1757年~94年)は、大衆新聞を発行してパリ民衆に大きな影響力を持つようになり、民衆運動の指導者と成り、ジャコバン派に属して8月10日事件を指導して台頭し、恐怖政治時代にはサンキュロットを代表して最高価格令や理性の崇拝等を要求してエベール派(ジャコバン派の左派)を率いましたが、やがてロベスピエール派と対立し、公安委員会への反乱を企て、逆に逮捕・処刑されます(1794.年3月)。

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ダントン処刑

 ダントンは、ジャコバン派の右派の中心人物として、ダントン派を形成し、革命の過激化を嫌い、恐怖政治の緩和を主張してロベスピエールと対立し、1794年4月に処刑されました。

 ロベスピエールは、ダントン処刑以後完全な独裁権を握り、革命の徹底化を図り、反対する者を反革命容疑で続々と逮捕・処刑し、その恐怖政治は絶頂に達しました。
1794年5月には346人が、6月には689人が、そしてピークの7月には936人がギロチンによって処刑されています。

 この間、ロベスピエールの独裁に反感を持つ人々によって反ロベスピエール派が形成され、彼等はロベスピエール打倒に動き始めます。
ジャコバン派の国民公会議員の中にも、その地位を利用して私腹を肥やしてきた人士等、ロベスピエールの告発を恐れる人々が存在し、彼等は自分がギロチンに送られる前に、先手をうってロベスピエールを倒そうと考え、ジャコバン派以外の国民公会議員と結んで反ロベスピエール派を形成しました。

 1794年7月27日(革命暦テルミドール9日)、この日開かれた国民公会は反ロベスピエール派による演説妨害・ロベスピエールへの攻撃演説で大混乱に陥り、その混乱の中でロベスピエール派の逮捕が決定されます。

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「テルミドール10日の朝」に於ける瀕死のロベスピエール

 ロベスピエールは一旦逮捕されて監獄に送られますが、収監を拒否されてパリ市役所に逃れるものの、翌28日午前2時頃、市役所は反ロベスピエール派の国民公会部隊に襲われ、ロベスピエールはピストル自殺を図るも、顎を砕いただけで失敗に終わり、再び逮捕され革命裁判所で形式的な尋問を受けただけで死刑の宣告を受け、28日の夕方に処刑されました。

 この一連の事件が有名な「テルミドールのクーデター(テルミドールの反動)」で、これによってジャコバン派の独裁と恐怖政治は終わりを告げました。

ジョークは如何?

モスクワの街頭にて。

「今度「プラウダ」が懸賞つきで政治ジョークを募集するらしいぜ」
「へえ、一等賞はなんだい?」
「シベリア送りさ」


続く・・・
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2016/05/24

歴史を歩く193

1フランス革命とナポレオン⑤

4共和政の成立

 1792年9月21日、ヴァルミーの戦いに勝利した中で、男子普通選挙で選ばれた国民公会が開催されました。
国民公会は、開会後ただちに王政の廃止・共和政の樹立を宣言し、この時成立した共和政は、フランス最初の共和政であった結果、第一共和政(1792年9月21日~1804年)と呼ばれます。
新しく召集された国民公会では、議員の大半を共和派が占め、中でもジロンド派とジャコバン派(山岳派)が有力でしたが、更には両派に属さない多くの議員が在籍していました。

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ジャコバン・クラブの変遷

 ジャコバン派は、1789年にパリのジャコバン修道院内に設立され、92年9月にジャコバン協会と称し、国民公会では91年夏迄は立憲王政派が、92年夏迄はジロンド派が、それ以後は山岳派が主力と成りました。
山岳派は、ジャコバン派最左派で、国民公会で演壇から見て最左翼の高い議席を占めていた結果、個の様に呼ばれました。

 ジャコバン派(以下山岳派をジャコバン派)は、下層市民や農民の支持を受け、急進共和主義を主張しました。
国民公会では最初ジロンド派よりも劣勢でしたが、マラー・ダントン・ロベスピエール等に率いられて、革命の徹底を強調し、これ以上の革命の激化を防ごうとするジロンド派と対立しました。

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ジャン=ポール・マラー(Jean-Paul Marat、1743年5月24日 - 1793年7月13日)

 マラー(1743年~93年)は、医師ですが、革命勃発と共に「人民の友」と名づけた日刊紙を発行してパリの民衆の間で人気を博しました。
国民公会議員に選出され、ジャコバン派の指導者として活躍しましたが、後にジロンド派の女性に自宅の浴室で刺殺されます(1793年7月)。

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ジョルジュ・ジャック・ダントン(仏: Georges Jacques Danton, 1759年10月26日 - 1794年4月5日)

 ダントン(1759年~94年)は、パリで弁護士を営み、革命開始と共にパリで活躍し、ジロンド派内閣では法相に起用され、更に国民公会に選出され、マラー・ロベスピエール等とジャコバン派の指導者となり、公安委員会委員としてジロンド派の逮捕・反革命の鎮圧等に尽力しましたが、後にロベスピエールと対立し、ギロチンで処刑されます(1794年4月)。

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マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(仏: Maximilien François Marie Isidore de Robespierre, 1758年5月6日 - 1794年7月28日)

 ロベスピエール(1758年~94年)は、弁護士から三部会に選出され、国民議会では左派に属して雄弁で知られ、立法議会への現国民議会議員の立候補を禁止する法案を成立させました。
従って立法議会時代は議員でなく、ジャコバン・クラブを指導して対外戦争に反対し、ジロンド派と対立しました。
高潔な人格と清廉の士として評判が高く、国民公会にはパリから首位で選出され、国王裁判・ジロンド派の追放等に活躍し、ジャコバン派の独裁を現出し、恐怖政治を行った中心人物です。

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屋内馬術練習場で行われた国王裁判(1793年1月)

 国民公会が直面した最大の問題は国王裁判でした。
ジャコバン派は、国王の処刑を主張してジロンド派と争い、国王裁判は11月に始まり、翌1793年1月14日に票決が行われます。
「ルイは有罪か」については、693対28の圧倒的多数で有罪が決定し、「判決には国民の承認を求めるべきか」については大差で否決され、そして「いかなる刑をルイに科すべきか」について票決が行われ、387人が死刑に賛成し、334人は死刑以外の刑に賛成しました。
但し、387人の中には26人の死刑執行猶予の条件付き賛成であったので、もしこれが反対にまわれば、361対360と成り殆ど同数の票決でしたが、「刑の執行を猶予すべきである」とする提案が成されると、これは310対380で否決されました。

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断頭台に向かうルイ16世


 1793年1月21日、午前11時頃、軍隊と群衆が取り巻く革命広場(現コンコルド広場)で、ルイ16世はギロチン(断頭台)で処刑され、ルイ16世の処刑はヨーロッパ諸国の君主に強い衝撃を与えたのでした。

 これより先、1792年秋頃からフランス軍は攻勢に転じ、国境を越えてベルギーやライン地方へ進出してベルギーを占領します(1792年11月)。

 イギリスは、其れまで革命に好意的で不干渉主義の立場を示していましたが、フランス軍がネーデルランド方面に進出すると、フランスを敵視してオランダを支援し、やがてルイ16世の処刑が実行されると、イギリスはフランスと国交断絶を通告、これに対して国民公会はイギリスとオランダに宣戦を布告し(1793年2月)、更にスペインにも宣戦しました(1793年3月)。

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ウィリアム・ピット(William Pitt (the Younger)、1759年5月28日 - 1806年1月23日)

 この様な状況の中でイギリス首相ピット(1759年~1809年)の提唱によって、オーストリア・プロイセンの同盟にイギリス・オランダ・スペイン・ロシアが加わり、第1回対仏大同盟(1793年~97年)が結成さます。

 この為、フランスは全ヨーロッパを敵にまわして戦わねばならなくなり、国内でも王党派による反革命内乱が起こり、ジャコバン派とジロンド派の対立が激化する等、フランスは内外の危機に曝される事に成りました。
この内外の危機を克服する為に、ジャコバン派は革命裁判所(1793年3月)・公安委員会(1793年4月)を設置し、更に最高価格令を公布して(1793年5月)、民衆の協力によって危機を克服しようと試みました。

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反動反革命分子の連行

 革命裁判所は、政治犯審理の為にパリに設置され、反革命分子や政敵を逮捕すると簡単な審理でギロチンに送り、恐怖政治の重要な一機関として機能します。

 公安委員会は、国民公会内部委員会として設けられましたが、ロベスピエールの加入(1793年7月)以後は、政治・軍事の最高指導機関として、事実上の政府機能を果たすことに成ります。

 又最高価格令は、インフレと生活必需品の欠乏から国民を守る為に、先ず穀物に、9月以後は全生活必需品に適用範囲を広げ、最高価格の設定に伴い、違反者は反革命容疑者として逮捕されたのです。

ジョークは如何?

フランスを訪れたソ連の経済学者が、フランスの蔵相に向かって言った。
「貴国の経済はひどい状態ですな。こんな貧困をみるのは初めてですよ」
「おっしゃる意味が分かりませんね」と蔵相は答えた。
「我が国の商店にはあらゆる種類の商品が山と積まれていますが」

するとソ連の経済学者が言った。
「しかしですな、一人として手が出せないようなありませんか。貴国に滞在中、
私はただの一度も、人々が行列しているところを見かけませんでしたよ」


続く・・・

2016/05/21

歴史を歩く192

1フランス革命とナポレオン④

3王政の動揺

脱出
脱出

 ミラボーの死後(1791年4月)、宮廷・貴族を中心とする反革命派の策動はにわかに活発となります。
ミラボーは宮廷に出入りし、財政的な援助を受けて革命派の内情を国王に知らせていた為、彼の死は宮廷にとって大きな打撃でした。
彼の病死で国民議会とのパイプが切れると、国王や王妃は内外の反革命勢力に頼ってパリから脱出し、国外へ逃亡する計画を進めます。

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パリとヴァレンヌの位置関係

 事件を起こしたのは国王ルイ16世と云うよりもマリ・アントワネットですが、1791年6月20日の深夜、国王一家は亡命を企て、王妃マリ・アントワネットの生家オーストリアへ逃れ様と行動を開始します。
王妃の愛人で、スウェーデン貴族フェルゼンを中心に亡命計画が立案されました。
以前から、国王が国外逃亡を計画しているとの噂が在り、宮殿の周辺には警備の兵が詰めていたのですが、警備担当責任者ラ・ファイエットの粋な図らいで、フェルゼンが王妃の部屋へ出入りする入口だけは、警備兵が居なかったと云います。

 国王一家はこの出入口を使って宮殿を抜け出し、用意してあった馬車に乗って国境の町メッツに向かいました。
計画では、パリと国境のほぼ中間に位置する、シャロン近くで騎兵隊と合流し、騎兵隊の警護を受けベルギーとの国境近く迄進み、ベルギー側にはオーストリア軍が待機している計画で、そのメッツには、亡命を手助けするショワズール公が待っている手筈です。
馬車に乗るのは国王、王妃、二人の子供と王の妹、子供の教育係。
八頭立ての大きな馬車(通称ベルリン馬車)ですが、この馬車に多くの荷物を詰め込み、更には王妃の衣装、ワイン等、重量超過で馬車は当然スピードが落ちます。

 無事にパリから出られたのは良いのですが、もともと出発の時刻が2時間近く遅れていた上に馬車の低速が、予定の時間を更にどんどん遅れさせて行きます。
ルイ16世の鷹揚さなのか、危機感が全くなく、途中で古くからの知り合いの屋敷に立ち寄りながらメッツに向かいます。
沿道の要所には軍資金輸送の警備との名目で、亡命を助ける為の兵士が警戒に応っていたのですが、途中から予定の時間より相当に遅れた為、警備の兵が引き揚げてしまい、挙句には連絡が上手く出来なくなりました。
更に、ある村を通過する時、王が窓から顔を出して、待っていた警備部隊の指揮官に声を掛けたのですが、其の姿を革命派の村人に目撃されてしまいます。

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国王一家確保

 「王が、この様な場所に居るのは不自然、国外への亡命を画策しているのではないか」、との知らせを聞いた革命派の軍人が国王を追います。
軍人にも、王に忠誠心を持っている王党派軍人と、革命に理解を示す軍人と両方いる訳ですが、この段階では多くの指揮官クラスの軍人は、国王に同情的です。

 国王の馬車がヴェレンヌの町に来ました。
この町で味方が替え馬を連れて待っている段取りに成っていましたが、王の到着が遅く、もう深夜に成っています。
味方の部隊が見つからず、一行は町に入って、住民をたたき起こして馬の場所を尋ねました。(相当間抜け)
突然の騒動に、付近の住民が集まり、国王の一行を取り囲み、追ってきた革命派の軍人も合流します。
最初、国王は自分の身分を隠しているのですが、遂に国王と認め、すぐにパリに連絡され、国王一家は厳重な警護のもとで、25日の夕方にテュイルリー宮殿へ連れ戻されて以後軟禁状態に置かれました。

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テュイルリー宮殿に軟禁される国王一家

 この有名な「ヴァレンヌ逃亡事件」は国民に大きな衝撃を与え、国王が国民よりも外国の宮廷の方を信頼していた事実から、国民の国王に対する信頼は完全に失われ、以後共和主義が急速に台頭することに成ります。

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レオポルト2世(Leopold II., 1747年5月5日 - 1792年3月1日) 
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フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(Friedrich Wilhelm II., 1744年9月25日 - 1797年11月16日)

 ヴァレンヌ逃亡事件の2ヶ月後、神聖ローマ皇帝(オーストリア皇帝)レオポルト2世(在位1790年~92年、マリ・アントワネットの兄)はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(在位1786年~97年)とピルニッツで会見し、列国の君主にフランスに対する共同抗議を呼びかけてフランス王権の回復を求める宣言を発し、革命に干渉する用意があることを示しました(ピルニッツ宣言、1791年8月)。
このピルニッツ宣言は、フランス人の愛国心を燃え上がらせ、革命戦争を誘因する結果と成りました。

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1791年憲法発布

 1791年9月3日、国民議会はフランス最初の憲法である「1791年憲法」を採択します。
1791年憲法は、人権宣言を前文として207条からなり、立憲君主制・制限選挙・一院制を主な内容とし、国王は宣戦・条約締結等を除く行政権と議会が決めた法律に対する拒否権を有しており、又選挙権は一定額以上の納税者に与えられました。

 憲法制定の役割を終えた国民議会は解散し(1791年9月30日)、1791年10月1日に立法議会が召集されますが、立法議会ではフイヤン派とジロンド派を発生させました。

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バルナーヴの変節「1789年は民衆の人、1791年は宮廷の人」

 フイヤン派は、自由主義貴族や富裕市民を代表する立憲君主派で、ラ・ファイエットやバルナーヴ(1761年~93年、第三身分の代表として国民議会で活躍、ヴァレンヌ事件以後国王に接近した)らが指導者でした。
これに対してジロンド派は、中産階級や商工業者を地盤とし、穏和な共和主義を唱え、有力議員がジロンド県から選出されていたところからこの名称で呼ばれていました。

 立法議会が直面した最大の問題は対外戦争でした。
この頃、亡命貴族が外国と結んで国境に軍隊を集め、国内でも反革命の動きが活発になり、ジロンド派の中でも、戦争によって内外の反革命勢力を一挙に倒してしまおうとする主戦論が強まっていたのです。

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『ジロンド派の最後の晩餐』

 1792年3月、ジロンド派内閣が成立すると、国王に迫ってオーストリアに宣戦させ(1792年4月20日)、ここにフランス革命戦争(1792年4月~1799年1799年~1815年迄はナポレオン戦争と呼ばれる)が始まりましたが、開戦はしたものの、貴族の司令官には戦意がなく亡命する者が続出し、ベルギー戦線では敗北と後退が続き、6月にはジロンド内閣が崩壊、更にオーストリアと同盟を結んだプロイセン軍がライン地方に集結し、フランス国境に迫っていました。

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祖国は危機にあり!

 その報を受けた立法議会は「祖国危機に瀕す」とした非常事態宣言を発し(1792年7月11日)、これに応じて各地から義勇軍がパリに集まります。
義勇軍は、今迄の豊かな市民を中心に結成された国民軍とは異なり、一般の民衆や農民が祖国と革命の防衛の為に自発的に参加た義勇兵から構成され、装備や訓練は不十分でしたが闘志にあふれていました。

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「ラ・マルセイエーズ」

 この時、マルセイユから来た義勇軍によって歌われて広まった歌が、現在のフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」で、「起て、祖国の子らよ 今ぞ、光栄の日は来た!吾らに向いて圧制の血なまぐさき旗ひるがえる!君聞くや、野に山に、かの暴兵どもの吼えわめく声を?彼らはすでに吾らの腕に迫り、吾らの子、吾らの妻を殺さんとする!武器を取れ、市民たちよ!汝らの軍隊を作れ!進め!進め! けがれた血で吾らの畝をうるおそう。」(山川出版社、史料世界史より)

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『ライン軍団の歌』を謳うリール大尉

 工兵大尉ルージュ・ド・リールが作曲したこの革命歌は、初めは「ライン軍の歌」として歌われたのですが、南方のマルセイユ方面に伝わり、そこからやってきた兵士達によって広められた結果、ラ・マルセイエーズと呼ばれるようになり、1875年に正式にフランス国歌に制定されます。

 「祖国危機に瀕す」とした非常事態宣言が出され、各地から義勇軍が集まり、前線に赴きますが、この危機に直面しても国王は義勇軍を認めず、かえって外国と通謀し、王妃は敵軍の司令官に一刻も早くパリに入り国王一家を救出してくれるように要請しました。

 これを受けて同盟軍側の指揮官は「もし王室に少しでも危害が加えられるならば、パリ全市を破壊して、永久に記念となるような復讐をするであろう」とする威嚇宣言を発っています。

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サンキュロット

 かねてから国王がオーストリアと通謀していることを疑っていたパリ民衆(サンキュロット、革命派の都市民衆は、当時の貴族や富裕市民が着用していた半ズボン(キュロット)をはかない者の意味でサンキュロットと呼ばれた)と義勇兵は、ジャコバン派の指導のもとで、1792年8月10日早朝、テュイルリー宮殿を強襲した王宮内に侵入し、近くの議場に難を避けていた国王を捕らえた(8月10日事件)。

 立法議会は、直ちに王権の停止を宣言し、男子普通選挙による国民公会の召集を決議し、3日後に国王一家はタンプル塔(12世紀に造られた城のなかの高い石の塔)に幽閉されました。

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ヴァルミーの戦い

 この間も、戦況は依然として不利でしたが、1792年9月20日、フランス軍はパリ東方の小村ヴァルミーでパリに迫ろうとしていたプロイセン軍を初めて撃退し(ヴァルミーの戦い)、この戦いは民衆の義勇軍が歴戦の職業軍人の軍隊に勝利をおさめた事で歴史的な戦いでも在りました。

 この戦いをプロイセン軍の陣中で目撃していたドイツの文豪ゲーテ(1749年~1832年)は「ここから、そしてこの日から、世界史の新しい時代が始まる」と書き記しています。

ジョークは如何?

ナポレオンは部下に武器の掃除と靴磨きを命じた。
しかし部下はそっぽをむいて言った。
「もうすぐ遠征でしょ?今掃除したところですぐ汚れてしまいますよ」

その夜、部下達の食卓に夕食が並んでいない。
不平を言う彼らにナポレオンは言った。
「食事をとったところで諸君はまたすぐ腹が減ってしまうんだろう?」

続く・・

2016/05/17

歴史を歩く191

1フランス革命とナポレオン③

2革命の勃発(その2)


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『サン・キュロットに扮した歌手シュナール』(1792年、ボワイユ画)

 バスティーユ牢獄襲撃の報告が夜になってヴェルサイユ宮殿に届いた時、ルイ16世は「なに、パリに叛乱(暴動)が起こったのか?」と尋ね、これに対して侍従は「いいえ陛下、叛乱(暴動)でなく革命でございます」と答えたと云われています。

 ルイ16世(1754年~93年、在位1774年~92年)は、穏和で実直だがお人好しで優柔不断の性格の人物で、趣味は錠前作りと狩猟でした。
特に狩猟を好み3日に1日の割合で狩りに出かけたと云われ、彼の日記には狩猟の事が多く書かれており、狩猟をしなかった日の日記には「何もなし」と書いていました。
7月13日の日記は「何もなし」、そして7月14日の日記は空白で何も書かれていません。

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マリ・アントワネット(1755年~93年)・シャルル・ルブラン1785年作

 ルイ16世の妃が有名なマリ・アントワネット(1755年~93年)で、マリ・アントワネットは、オーストリア女帝マリア・テレジアの末娘に生まれ、ハプスブルク家とブルボン家の政略結婚でフランス皇太子妃となり(1770年)、1774年に王妃となりました。
彼女は良い意味では無邪気・純情で陽気、悪く例えれば気まぐれで軽率、遊び好きでした。
奢侈にふけり、宮廷費を浪費し、又無思慮な行動によって国民の人望を失い、フランス革命が始まると王政維持の為に反革命工作に終始し、生国オーストリアと連絡をとり、ミラボーの死後、オーストリアへの逃亡を図って失敗し(ヴァレンヌ逃亡事件、1791年)、国民の国王への信頼を失墜させたのです。

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ヴァレンヌ逃亡事件

 バスティーユ牢獄襲撃の知らせはたちまち全土に広まり、全国的な農民暴動が起こります。
農民達は貴族領主や大地主の館を襲撃し、封建的な租税や賦役の根拠となった土地台帳を焼却し、抵抗した場合には館に火を付け、領主を殺害しました。
この様な情勢に恐怖を感じた一部の貴族は国外へ逃亡を始めます。

 この「大恐怖」に危機感をもった国民議会は、8月4日に「封建的特権の廃止」を決議しました。この決議は、自由主義貴族が革命の進行を防ぐ目的で提案したものですが、これによって農民の人格的自由が認められ、農奴制・領主裁判権・賦役・十分の一税等が無償で廃止されましたが、生産物や貨幣で領主に納める貢納の廃止は有償とされ、20年乃至25年分の地代に相当する金を領主に支払わねばならなかったので、実際に貢納から解放された農民は僅かな数でした。
又特権身分は免税特権が廃止され、総ての人が収入に応じて税を納めることも決議されたので、全国的な農民暴動は急速に沈静化します。

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フランス人権宣言

 1789年8月26日、国民議会は憲法の前文にあたる「フランス人権宣言(人間および市民の権利の宣言)」を採択しました。

 国民議会は憲法制定議会と改称した後、憲法制定の審議を進めていましたが全国的な暴動が一応沈静化した後に審議は本格化し、8月26日に人権宣言を採択した。ラ・ファイエット等によって起草された人権宣言にはルソーの思想やアメリカ独立宣言の影響が見られます。

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マリー・ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ, ラファイエット侯爵:(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette、1757年9月6日 - 1834年5月20日)

 ラ・ファイエット(1757年~1834年)は、名門貴族の家庭に生まれ、パリで学んだ後に軍に入隊し、アメリカ独立戦争が起こると義勇兵を率いて、ワシントンの副官として活躍し、自由主義者として名声を博しました。
帰国後、自由主義貴族の代表的存在となり、三部会の召集を主張し、貴族身分の代表となり、バスティーユ牢獄襲撃の翌日にパリ国民軍司令官に就任、人権宣言の起草でも活躍しますが、革命の激化によって保守化し、1792年8月にオーストリアに亡命します。

 人権宣言は、全文と17カ条からなり、主な条文は次の通りです。

 第1条 人間は自由かつ権利に於いて平等なものとして生まれ、又存在する。社会的な差別は共同の利益にもとづいてのみ設けることができる。
 第2条 あらゆる政治的結合(国家)の目的は、人間の自然で時効により消滅することのない権利の保全である。それらの権利は、自由、所有権、安全および圧制への抵抗である。
 第3条 あらゆる主権の原理は、本質的に国民のうちに存する。いかなる団体、いかなる個人も、国民から明白に由来するものでない権威を行使することは出来ない。
 第4条 自由とは他人を害しない限り、何事をもなし得ることである。・・・。
 第17条 所有権は神聖かつ不可侵の権利であるから、何人も適法に確認された公共の必要が明白にそれを要求する場合であって、また事前の公正な補償の条件の下でなければ、それを奪われることはない。
(山川出版社「詳説世界史」より)

 人権宣言は、総ての人間の自由・平等を高らかに謳いあげ、主権在民・言論の自由・私有権の不可侵など革命の精神を明らかにしたもので、第2条・第17条で所有権の不可侵を主張しているのは、当時の革命を指導した人々が、自由主義貴族や富裕な市民等、多くの財産を持った人々であったことを示しています。

 しかし、ルイ16世は、封建的特権の廃止宣言や人権宣言の承認を拒み、軍隊をヴェルサイユに集めて議会弾圧を企てようとしており、又依然としてパンをはじめ食料品が値上がりして貧しい人々の生活を圧迫していた為、パリの民衆は再び立ち上がりました。

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「パンをよこせ」

 1789年10月5日の早朝、パリの広場に集まった約7000人の主婦が「パンをよこせ」と叫び、やがて国王と議会にパンを要求する為にヴェルサイユに向かって行進を開始し、ラ・ファイエットの率いる2万の市民軍がその後に続きます。
彼等は雨の中を約20km、6時間かけて行進してヴェルサイユに到着しました。

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ヴェルサイユ行進

 この日もルイ16世は狩りに出かけていて、彼等は更に4時間近く待たされ、帰ってきた国王がパンの配給を約束したので事態はやや沈静化しましたが、翌6日の明け方に武装した市民の一部が宮殿内に侵入し、近衛兵と衝突して数名の兵士が殺され、これに興奮した民衆が宮殿に乱入して略奪を行うと共に国王を捕らえ、国王がパリに帰ることを要求し、その日の午後に国王一家をパリに連行しました。
これが有名な「ヴェルサイユ行進(十月事件)」です。

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テュイルリー宮殿への強制移動

 国王一家は、この日からテュイルリー宮殿(パリにある旧王宮、16世紀後半に建造が始まり、ルイ14世時代に完成したが、ヴェルサイユ宮殿が造営されるとそちらに移ったので、以後長く放置されていた)に入りパリ市民の監視下に置かれる事態になり、又国王一家と共に国民議会もパリに移動しました。

 この事件の際、ルイ16世は封建的特権の廃止宣言や人権宣言を承認したので、以後政局は安定に向った様に見えましたが、フランス革命のきっかけとなった財政危機はまったく解決されておらず、国民議会は、その解決策として教会財産の国有化(教会財産の没収)を決議し(1789年12月)、翌1790年に実施に移されました。

 1790年には国民議会は封建的地方制度を廃止して新たに全国の行政区画を定め、又ギルド廃止や度量衡統一等の改革を実施し、又バスティーユ牢獄陥落の1周年を記念して全国連名祭が行われ(1790年7月14日)、ルイ16世は憲法維持を誓いました。

 当時の国民議会を指導していた人物は、自由主義貴族のラ・ファイエットやミラボー等の立憲君主主義者で、彼等は革命がこれ以上進むことを望まず、立憲王政を目指していたのでした。

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ミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・ド・リケッティ( Honoré-Gabriel de Riquetti, Comte de Mirabeau, 1749年3月9日 - 1791年4月2日)

 ミラボー(1749年~91年)は、名門貴族の家庭に生まれ、17歳で騎兵隊中尉に任官しますが、放蕩と浪費で身をもちくずして投獄され、釈放後イギリスに渡り(1784年)、帰国後は自由主義貴族として名声を高め、三部会には第三身分の代表として選出され、雄弁をもって知られ、国民議会の成立にも大きな役割を果たしますが、90年3月頃から度々宮廷に出入りし、革命派の内情を知らせて宮廷から多くの裏金を受け取るように成ります。

 ミラボーは、1791年4月に病の為、急死しますが、彼の死によってフランス革命は新たな展開を見せるのです。

ジョークは如何?

某日系商社のプラント輸出に関して

工場長「書類上は、このプラントの能力はフル稼働の70%程度にしておいてください」
日本人「へっ?」
工場長「それをもとにノルマが決まるので・・・」


続く・・・

2016/05/12

歴史を歩く190

1フランス革命とナポレオン②

2革命の勃発(その1)

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ルイ15世(在位1715年~74年・ルイ・ミシェル・ヴァン・ロー画 ヴェルサイユ宮殿蔵)

 フランスは、ルイ14世の晩年には度重なる侵略戦争と宮廷の奢侈により、既に国家財政は破綻の兆しを見せていました。

 次のルイ15世(在位1715年~74年、ルイ14世の曾孫)の時代に、ヨーロッパに於けるオーストリア継承戦争(1740年~48年)・七年戦争(1756年~63年)、それと並行して起こった新大陸のジョージ王戦争(1744年~48年)・フレンチ・インディアン戦争(1755年~63年)、更にインドに於ける植民地争奪戦等で莫大な戦費を費やし、国家財政は益々悪化した上にルイ16世(在位1774年~92年、ルイ15世の孫)は、アメリカ独立戦争(1775年~83年)に介入し、20億リーブルの戦費を費やしています。

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ルイ16世(在位:1774年5月10日 - 1792年8月10日)

 当時のフランスの国庫収入は年間約5億リーブルといわれ、ルイ14世以来の財政赤字は累積し1789年には約45億リーブルに達していたと云われており、その為革命直前のフランスは国庫収入の半分以上を国債の利子の支払いに充てなければならない程の財政危機に陥っていました。

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ローヌ男爵アンヌ・ロベール・ジャック・テュルゴー(Anne-Robert-Jacques Turgot, Baron de Laune, 1727年5月10日 - 1781年3月18日)

 ルイ16世は、即位後、重農主義者のテュルゴー(1727年~81年)を財務総監に任命し(1774年)財政の立て直しを図ります。
彼は穀物取引の自由化・ギルドの廃止等の自由主義改革による財政再建を企てますが、特権階級の反対を受けて失脚しました(1776年)。

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ジャック・ネッケル(Jacques Necker, 1732年9月30日 - 1804年4月9日)

 テュルゴーの後、スイス生まれの銀行家であるネッケル(1732年~1804年)が財務総監に任命され(1777年~81年、88年~90年)、ネッケルは宮廷費の削減や貴族への年金の停止等の支出の削減によって財政危機を打開しようと試みましたが、王妃や貴族の猛反発の為辞任を余儀なくされました(1781年)。

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シャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌ(Charles Alexandre de Calonne,1734年1月20日 - 1802年10月30日)

 ネッケルの財政政策を批判して1783年に財務総監となったカロンヌ(1734年~1802年)は、当初積極財政を試みるものの成功せず、終に特権身分の免税特権の打破以外に財政危機は解決できないと考えて改革案を作成し、名士会(近代フランスの身分制諮問議会、三部会と異なり、王族・大貴族・司教・知事・高等法院院長・大都市の市長・地方三部会の代表等からなるメンバーは国王の任命による)を召集してその支持を得ようとしますが、強硬な反対を受けて失脚します(1787年)。

 特権身分に対する課税の企てを失敗させた貴族は、更に特権身分の免税特権を再確認させようとして、1615年以来開かれていなかった三部会の召集を要求し、第三身分もこれに賛同しました。

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三部会

 1788年にはネッケルが再び財務総監に就任(88年~90年)、ネッケルもこの頃には特権身分への課税(免税特権の廃止)を主張していましたが、就任の条件として三部会を1789年5月に召集することを要求し、宮廷もこれを承認しました。

 三部会の召集が決定すると、貴族は旧来の三部会の召集を要求しましたが、第三身分は第三身分の代表者数を他の身分の倍にすること、又三部会に於いては身分制によらず多数決の議決を要求し、その要求が認められる迄は、租税の支払いを拒否すると云う強硬な態度に出た為、結局貴族は第三身分の代表者数を他の身分の倍にすることを承認し、1789年1月に三部会の召集が公表され、選挙戦が始まりました。

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エマニュエル・ジョゼフ・シエイエス(Emmanuel-Joseph Sieyès、1748年5月3日 - 1836年6月20日)

 シェイエス(1748年~1836年)は、1789年の初めに『第三身分とは何か』と題するパンフレットを著し、三部会召集に際して特権身分を攻撃し、「第三身分とは何か・・・すべてである。今日までのその政治的地位はいかなるものであったか・・・無。それは何を求めたか・・・そこで相当なものになること」と述べて第三身分の権利を主張します。
シェイエスは聖職者出身でしたが、三部会には第三身分の代表として選出され、革命初期には理論的指導者として活躍しました。

 1789年5月5日、選出された各身分の代表者が各地の陳情書を携えてヴェルサイユに集まり、三部会の開会式が行われます。

 三部会の各身分の定数は、300・300・600と定められていましたが、この時ヴェルサイユに集まったのは第一身分(聖職者)代表308名、第二身分(貴族)代表290名、第三身分(平民)代表594名と云われています。

 しかし、会議は初めから議決方法をめぐって紛糾します。
第一身分と第二身分は旧来の身分別の議決を、第三身分は一人一票の合同議決(多数決)を主張しました。
身分別議決とは、各身分別部会毎に議決する方法で、例えば特権階級への課税が議題となった時、第一身分と第二身分は反対、第三身分が賛成しても、反対2・賛成1で否決される議決方法です。
その為、この議決方法では第三身分の主張が通る可能性は先ず在りませんでした。

これに対して一人一票の合同議決の場合では、第一身分・第二身分と第三身分はほぼ同数となり、特権身分の中にも第三身分の主張に同調する進歩的な人々が存在した結果、第三身分の方が有利になると考えられており、この為双方共に譲らず三部会は、40日間に亘って紛糾しました。

テニスコートの近い
6月17日国民議会結成 6月22日 テニスコートの誓い

 こうした状況のなかで、シェイエスは第三身分の代表者だけで議会をつくることを主張し、第三身分の代表者達は三部会よりの分離を宣言し、第三身分こそ真に国民を代表するものであるとして「国民議会」(1789年6月~1791年9月)と称しました(6月17日)。
第三身分の断固とした態度に動揺した第一身分(聖職者)の部会も国民議会に合流することを議決します(6月19日)。

 翌1789年6月20日、国王が議場を閉鎖した結果、議員達はヴェルサイユ宮殿内の室内球戯場に集合して会議を開き、憲法制定迄は解散しない事を誓い、この誓いが有名な「球戯場(テニスコート)の誓い」で、この時の情景は、フランス古典主義の代表的画家であるダヴィドによって劇的に描かれています。

 国王は国民議会を武力で解散させようと試みますが、聖職者・貴族の中から次々に同調者が現れて国民議会に合流し、もはや身分別審議が不可能となり、国王は終に国民議会を承認し(6月27日)、国民議会は、憲法制定議会と改称して、憲法の制定に着手しました(7月9日)。

 しかし、国民議会を一旦は承認した国王は保守的な貴族に動かされて外国人傭兵隊をパリ郊外に集結させ、武力による議会弾圧を図った為に事態が急迫し、しかもその責任を問うてネッケルを罷免します(7月11日)。

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ルシー・シンプリス・カミーユ・ブノワ・デムーラン(Lucie Simplice Camille Benoist Desmoulins、1760年3月2日 - 1794年4月5日)

 翌7月12日、前年からの凶作の為にパンの値上がり・不足に苦しんでいたパリの民衆は、当時民衆に人気のあったネッケルの罷免や数万の軍隊がパリを包囲しつつあることに反感を抱き、パリの数箇所に集まり不満や不安を漏らしていました。
パレ・ロワイヤル広場では、後に革命家として活躍するデムーラン(1760年~94年)が6000人の群衆を前に「市民諸君、武器を取れ」と演説し、これに興奮した民衆は武器商を襲って武器を奪い、市民軍も結成されますが、武器・弾薬が全く不足していました。

バスティーユ
バスティーユの占領

 1789年7月14日、パリの群衆は廃兵院に数万の小銃が蓄えられているという情報を得、廃兵院を襲って3万2000丁の小銃と20門の大砲を奪取しますが、弾薬は全く不足していました。
多くの弾薬がバスティーユ牢獄にあるとの情報を得た群衆は、次にバスティーユに向かいます。
バスティーユは、15世紀後半に建設された要塞でしたが、当時は政治犯を収容する牢獄になっていたので、バスティーユ牢獄は圧制の象徴と見なされていました。

 バスティーユ牢獄に殺到した2万人以上のパリ市民は、100人程の守備隊との間での 2時間を超える激しい砲撃・銃撃戦の末に、夕方にはバスティーユ牢獄を占領して囚人(たった7人だった)を釈放し、バスティーユ牢獄襲撃の翌日に、ラ・ファイエットはパリ国民軍司令官に就任します。

 バスティーユ牢獄襲撃をもってフランス革命の勃発とされ、フランス革命開始の日、7月14日はフランスの祭日(パリ祭)となっています。

ジョークは如何?

ヒトラーがゲーリングとともに列車で前線の視察に出た。
帰りは夜行列車。ある駅に停まった時のこと。

ゲーリング「ここはどのあたりですかね」
ヒトラー「こうすればわかるさ」
ヒトラーが窓の外に手を出すと、窓の外にいた誰かが手にキスをしてきた。
ヒトラー「ここはルーマニアだ」

次の駅で同じように手を出すと、唾を吐きかけられた。
ヒトラー「ここはチェコだ」

次の駅では、腕時計をもぎとられた。
ヒトラー「ここはポーランドだ」

次の駅では、何かを手渡された。爆弾だった。
導火線に火がついている。

ゲーリング「わかりますよ。ここはドイツでしょう」

続く・・・

2016/05/07

歴史を歩く189

1フランス革命とナポレオン

1旧制度の矛盾

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アンシャン・レジームの風刺画

 革命以前、フランスの政治・社会体制は旧制度(アンシャン・レジーム)と呼ばれ、旧制度のもとでは、フランスの国民は3つの身分に分かれていました。

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各身分の比率

 第一身分は聖職者(僧侶)、その数は約12万人で、フランス総人口の約0.5%、第二身分は貴族で、約40万人、全人口の約1.5%でした。
第一身分の聖職者と第二身分の貴族は特権身分・支配階級であり、合わせて総人口の約2%にしか過ぎない第一身分と第二身分で全フランスの耕地の約40%を所有し、又国家の重要な官職を独占し、しかも免税の特権を持ち、多大な年金を支給されていました。

 第三身分は平民で、フランス全人口約2500万人の約8割(2000万人)を占める農民と約450万人の市民(ブルジョアジー)から形成されていましたが、彼等には政治的発言権は認められていませんでした。

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革命以前の農民家庭

 市民は、富裕市民(上層ブルジョアジー、大商人・金融業者・徴税請負人・大地主等)・中流市民(商工業者等)・無産市民(下層市民、職人・徒弟・労働者等)に分けられるが、大部分は無産市民でした。
富裕市民や中流市民は経済の発展に伴って富を蓄積し、経済的な地位を向上させていた為、その実力に相応する政治上の権利を要求していました。

 之に対して、人口の約8割を占める農民はフランス全耕地の30~40%を保有したに過ぎず、殆どは貧しい小作農で在り、農民も富農・自営農民・貧農に分けられますが、大部分を占める貧農は領主の搾取や国家の租税の為に苦しい生活を余儀なくされていました。

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Le Rappel des Glaneuses (The Recall of the Gleaners):ジュール・ブルトン(Jules Breton1827−1906)

 フランス革命直前のフランス社会については、イギリスの農業経済学者のアーサー・ヤングが『フランス旅行記』に書き残していますが、その中で貧しい農民の生活について次のように記述しています。
「1789年7月12日、馬を休ませる為に長い坂を歩いて登っていた時に貧しい女と一緒になったが、彼女は時勢をかこち悲しい国だと嘆いた。そこでその訳を尋ねると、女が言うにはこうだった。「私の亭主は一片の狭い耕地と一頭の牝牛と一頭の痩せた馬しか持っていないのに、私たちは一人の領主に地代として1フランシャルの小麦と3羽の雛を、もう一人の領主には地代として4フランシャルの小麦と1羽の雛と1スーの貨幣を払わなきゃならない、もちろんこの他に重い人頭税や他の租税が課されている。・・・この女は近くで見ても60歳か70歳に見えるだろう。それ程労働の為に女の腰はまがり、顔は皺を刻み強張っているのだ。しかし、女の言うところでは、未だ28歳に過ぎないとの事だった。・・・下層階級の生活状況の、両王国におけるこの差異は何によるのだろうか。政治によるのだ。・・・」

 この様にフランス革命前のフランスは旧制度の下で、多くの政治的・社会的矛盾を抱え、経済の発展に伴って富を蓄積し、経済的な地位を向上させていた市民階級は、商工業の自由な活動を制限する不合理な旧制度に不満をもち、現状を打破しようとしていたのです。

 不合理な伝統や権威を批判した啓蒙主義は彼等に大きな思想的影響を与え、又イギリスにおける立憲政治の確立やアメリカ独立革命の成功も大きな影響を及ぼしたのです。

ジョークは如何?

二日酔いで議会に出席したチャーチル。
女性議員が不謹慎だと批難すると、チャーチルは反論して曰く
「私の二日酔いは明日になれば治るが、あンたのその顔は永遠に治らんよ」

続く・・・
2016/05/02

歴史を歩く188

27 アメリカ独立革命③

3合衆国憲法の制定


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1783年パリ条約締結

 アメリカ合衆国は、1783年のパリ条約で独立を達成しますが、13の独立した州のゆるやかな連合国家にすぎませんでした。

 大陸会議で、1777年に承認された合衆国最初の憲法である「アメリカ連合規約」(1781年発効)では各州の大幅な主権が認められ、中央政府である連合会議(連合規約の発効以後は大陸会議はこう呼ばれた)には国防・外交・鋳貨等の権限は認められていましたが、徴税権・通商規制権・常備軍の保持等は禁じられていた為、政治的・経済的な困難が続いていました。

 その為、商工業者を中心とする連邦派(フェデラリスト)は強力な中央政府の樹立を望み、彼らが中心となって1787年5月にフィラデルフィアで憲法制定会議が開かれます。

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 憲法制定会議では、強力な中央政府の樹立を主張する連邦派と各州の自治・主権を主張する州権主義の立場から憲法草案に反対する反連邦派(アンチ・フェデラリスト)が対立しましたが、 結局各州の大幅な自治を認めながらも中央政府の権限を従来よりも強化する連邦主義・三権分立・人民主権を基本とする世界最初の民主的な近代成文憲法である「アメリカ合衆国憲法」が採択され、1788年に発効しました。

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アメリカ合衆国憲法への署名

 合衆国憲法は中央政府に新たに徴税権・通商規制権を与えて権限を強化すると共に、三権分立の原則を初めて取り入れ、立法権は議会に・行政権は大統領の率いる政府に・そして司法権は最高裁判所に分けて分担させ、相互の抑制によって均衡をはかり、中央政府の一部門への権力の集中を避けました。

 議会は、各州2名の代表からなる上院と、人口比例によって各州から選ばれた代表からなる下院の二院制を取りますが、州権主義の立場から上院が優越するしくみになっています。

 しかし、合衆国憲法には、ほとんどの州憲法に取り入れられていた権利の章典(国民の権利と自由を保障する条項)が欠けていたので反対の声も強く、合衆国憲法を支持する連邦派(フェデラリスト)とこれに反対する反連邦派(アンチ・フェデラリスト)の対立が残り、これが後に形成された政党の基本にも成りました。

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ジョージ・ワシントン( George Washington、1732年2月22日〜1799年12月14日)

 1789年4月、最初の大統領選挙で当選したワシントンが初代大統領に就任し、副大統領には次点のジョン・アダムス(独立宣言の起草者の一人)が選ばれ、国務長官にはトマス・ジェファーソン(独立宣言の起草者、反連邦派の中心人物、後にハミルトンと対立して辞任)が、そして財務長官にはハミルトン(連邦派の中心人物、独立戦争ではワシントンの副官として活躍した)が就任してアメリカ合衆国が発足しました。

 ワシントンは就任後まもなく起こったフランス革命戦争に対しては中立政策を取り、合衆国憲法制定に除外された権利の章典は、憲法修正第1~第10条として、第1回議会で承認されました(1791年)。

ジョークは如何?

問:ソ連の憲法と米国の憲法の違いを述べよ。

答:どちらも言論の自由を保障しているが、米国では言論の自由を
行使したあとも自由を保障している。


続く・・・