歴史を歩く199
1フランス革命とナポレオン⑪
8 ナポレオンの没落(その1)

ナポレオン時代の最大領土
ナポレオンが征服した大陸諸国の多くは絶対主義国家で、封建的な諸制度が残っていました。
ナポレオンは封建的圧政からの自由を掲げ、占領した地域で封建的諸制度を廃止し、自由・平等の思想を広めた結果、彼は解放者として熱烈な歓迎を受ける一方で、ナポレオンは占領地に対してはあくまで支配者として臨み、占領地に軍隊を駐屯させて莫大な経費を負担させた為、諸国民はその重圧に苦しむことに成ります。
又、彼の広めた自由思想は、被征服地の諸民族の民族意識を目覚めさせ、その民族意識はナポレオンに対する抵抗運動に発展していくことに成り、更に大陸封鎖令は、穀物や原料をイギリスに輸出し、イギリスから工業製品を輸入していた大陸諸国の経済に打撃を与え、各地で大陸封鎖令に対する反発が強まっていきます。

「1808年5月3日の処刑」
フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes、1746年3月30日 - 1828年4月16日)
ナポレオンに対する抵抗運動にまず立ち上がったのはスペイン人でした。
ナポレオンは、大陸封鎖令に従わないポルトガルをスペインとともに征服して分割しましたが(1807年)、更にスペイン宮廷の内紛に乗じてスペインに軍隊を送り込み(1808年)、これに対してマドリード市民は、5月2日に蜂起します。
この蜂起は、フランス軍によって鎮圧され、多くの市民が虐殺・逮捕され、逮捕された多くの人々が後に銃殺されますが、18世紀スペインを代表する画家ゴヤ(1746年~1828年)は、この蜂起を目のあたりにして「1808年5月3日の処刑」を描いています。

ゴヤ『戦争の惨禍』より『人間の記憶のなかの戦争』
ナポレオンは、兄ジョゼフをスペイン王に送り込みますが(1808年6月)、スペイン国民はイギリスの援助を得てゲリラ戦を展開し、フランス軍を翻弄します(スペイン反乱、半島戦争、1808年~14年)。
ナポレオンは12万の大軍を送り込みますが、最後迄鎮圧できず、「スペインの潰瘍が余を破壊した」と後に回想録に記しています。
プロイセンは、嘗てフリードリヒ大王のもとで、強大な陸軍国として名を馳せますが、ナポレオンに敗れて屈辱的なティルジット条約を押しつけられ、領土は半減しました。
そのプロイセンでは、シュタインとハルデンベルクのもとで、プロイセン改革(シュタイン・ハルデンベルクの改革)が行われました。

ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタイン(Heinrich Friedrich Karl vom Stein、1757年10月25日 - 1831年6月29日)
シュタイン(1757年~1831年)は、大学時代にイギリス自由主義の影響を受け、プロイセンに仕官して大臣に任じられますが、絶対主義を批判して罷免され(1804年)、ティルジット条約後の難局に宰相として再度起用され(任期1807年~1808年)、農奴解放(1807年10月)等の改革に着手しますが、反対派に追放されてオーストリア・ロシアに亡命し、ナポレオン打倒に奔走しました。

カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク侯爵(Karl August Fürst von Hardenberg、1750年5月31日 –1822年11月26日)
ハルデンベルク(1750年~1822年)は、プロイセンに仕えて外相と成りますが(任期1804年~06年、1807年)、ナポレオンに反対したために2度も罷免されました。
シュタインが罷免されると宰相となり(任期1810年~22年)、シュタインの後を継いでプロイセン改革を推進し、行政改革・農業改革・営業の自由化等プロイセンの近代化に尽力しました。

1806年10月14日ドルンブルク・敗走するプロイセン軍
プロイセン改革の中心は農奴解放でした。
シュタインは、イエナの敗戦でプロイセンの後進性を痛感し、プロイセンの近代化のためには農奴制の廃止が不可欠であると考えました。
プロイセンの農奴解放は「上から」の解放であった為、身分制の廃止・職業選択の自由は与えられましたが、農奴が土地所有者になるには、領主に25年分の地代を支払うか、土地の3分の1を割譲しなければならず、自作農になった農奴は少なく、ユンカー(エルベ川以東の大地主貴族)経営を成立させる結果となりました。
しかし、1813年~14年の解放戦争の中心は農奴から解放された農民を徴兵制で組織したプロイセン軍だったのです。

ゲルハルト・ヨハン・ダーヴィト・フォン・シャルンホルスト( Gerhard Johann David von Scharnhorst、1755年11月12日 - 1813年6月28日)

ナイトハルト伯アウグスト・ヴィルヘルム・アントニウス・フォン・グナイゼナウ(August Wilhelm Antonius Graf Neidhardt von Gneisenau, 1760年10月27日 - 1831年8月23日)
プロイセン改革のもう1つの柱は、シャルンホルスト(1755年~1813年)やグナイゼナウ(1760年~1831年)等によって行われた軍制改革でした。
彼等は軍制の近代化を図り、今まで貴族に独占されていた将校を一般市民出身者に開き、又苛酷な笞刑の廃止・外国人傭兵制の廃止等を断行し、又フランスに倣って国民軍の創設に努力し、1814年には国民皆兵制が実現します。

カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm Christian Karl Ferdinand Freiherr von Humboldt、1767年6月22日 - 1835年4月8日)
更にフンボルトによる教育制度改革も重要な柱でした。
フンボルト(1767年~1835年)は、プロイセンに仕官し、外交官として各地に赴任し、その間ゲーテ・シラーらと親しく交流しました。
後にプロイセン改革の文教部門を指揮し、ベルリン大学の創設(1810年)等を行いました。

ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte、1762年5月19日 - 1814年1月27日)
又ベルリン大学の初代学長となったドイツ観念論哲学者フィヒテ(1762年~1814年)は、ナポレオン占領下のベルリンで「ドイツ国民に告ぐ」と題する愛国的な連続講演を行い、敗戦に打ちひしがれたプロイセン人に、自民族の文化への自信を与え、誇りと愛国心を喚起したのでした。
こうして国力を充実し、民族意識を高めたプロイセンは、ナポレオンのロシア遠征失敗を機に、ナポレオン打倒に立ち上がり、ナポレオン打倒に大きな役割を果たす事になります。

エアフルトの会談に臨むアレクサンドル1世とナポレオン1世
大陸封鎖令は、ヨーロッパ大陸諸国に打撃を与えたましが、特にイギリスに穀物を輸出し、イギリスの工業製品を輸入していた農業国ロシアにとって、なかでもロシアの地主貴族にとっては大打撃でした。
ロシアのツァーリズム(ロシアの専制君主体制)は貴族の支持によって成り立っていたので、皇帝アレクサンドル1世は貴族達の穀物の密輸出を黙認し、再三にわたるナポレオンの抗議に応じる事は在りませんでした。
1810年、ロシアは大陸封鎖令を破って中立国の船舶の寄航を許可し、イギリスとの貿易を復活します。
大陸封鎖令はロシアを除外しては意味が無く、ナポレオンは終にロシア遠征(モスクワ遠征、1812)を決意しました。
ジョークは如何?
エデンの園はロシアにあったとする学説がある。
なぜなら、アダムとイブはクルマも家も服さえも持っていなかったが、
自分たちが住んでいるところがパラダイスだと信じて疑わなかったからだ。
続く・・・
8 ナポレオンの没落(その1)

ナポレオン時代の最大領土
ナポレオンが征服した大陸諸国の多くは絶対主義国家で、封建的な諸制度が残っていました。
ナポレオンは封建的圧政からの自由を掲げ、占領した地域で封建的諸制度を廃止し、自由・平等の思想を広めた結果、彼は解放者として熱烈な歓迎を受ける一方で、ナポレオンは占領地に対してはあくまで支配者として臨み、占領地に軍隊を駐屯させて莫大な経費を負担させた為、諸国民はその重圧に苦しむことに成ります。
又、彼の広めた自由思想は、被征服地の諸民族の民族意識を目覚めさせ、その民族意識はナポレオンに対する抵抗運動に発展していくことに成り、更に大陸封鎖令は、穀物や原料をイギリスに輸出し、イギリスから工業製品を輸入していた大陸諸国の経済に打撃を与え、各地で大陸封鎖令に対する反発が強まっていきます。

「1808年5月3日の処刑」
フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes、1746年3月30日 - 1828年4月16日)
ナポレオンに対する抵抗運動にまず立ち上がったのはスペイン人でした。
ナポレオンは、大陸封鎖令に従わないポルトガルをスペインとともに征服して分割しましたが(1807年)、更にスペイン宮廷の内紛に乗じてスペインに軍隊を送り込み(1808年)、これに対してマドリード市民は、5月2日に蜂起します。
この蜂起は、フランス軍によって鎮圧され、多くの市民が虐殺・逮捕され、逮捕された多くの人々が後に銃殺されますが、18世紀スペインを代表する画家ゴヤ(1746年~1828年)は、この蜂起を目のあたりにして「1808年5月3日の処刑」を描いています。

ゴヤ『戦争の惨禍』より『人間の記憶のなかの戦争』
ナポレオンは、兄ジョゼフをスペイン王に送り込みますが(1808年6月)、スペイン国民はイギリスの援助を得てゲリラ戦を展開し、フランス軍を翻弄します(スペイン反乱、半島戦争、1808年~14年)。
ナポレオンは12万の大軍を送り込みますが、最後迄鎮圧できず、「スペインの潰瘍が余を破壊した」と後に回想録に記しています。
プロイセンは、嘗てフリードリヒ大王のもとで、強大な陸軍国として名を馳せますが、ナポレオンに敗れて屈辱的なティルジット条約を押しつけられ、領土は半減しました。
そのプロイセンでは、シュタインとハルデンベルクのもとで、プロイセン改革(シュタイン・ハルデンベルクの改革)が行われました。

ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタイン(Heinrich Friedrich Karl vom Stein、1757年10月25日 - 1831年6月29日)
シュタイン(1757年~1831年)は、大学時代にイギリス自由主義の影響を受け、プロイセンに仕官して大臣に任じられますが、絶対主義を批判して罷免され(1804年)、ティルジット条約後の難局に宰相として再度起用され(任期1807年~1808年)、農奴解放(1807年10月)等の改革に着手しますが、反対派に追放されてオーストリア・ロシアに亡命し、ナポレオン打倒に奔走しました。

カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク侯爵(Karl August Fürst von Hardenberg、1750年5月31日 –1822年11月26日)
ハルデンベルク(1750年~1822年)は、プロイセンに仕えて外相と成りますが(任期1804年~06年、1807年)、ナポレオンに反対したために2度も罷免されました。
シュタインが罷免されると宰相となり(任期1810年~22年)、シュタインの後を継いでプロイセン改革を推進し、行政改革・農業改革・営業の自由化等プロイセンの近代化に尽力しました。

1806年10月14日ドルンブルク・敗走するプロイセン軍
プロイセン改革の中心は農奴解放でした。
シュタインは、イエナの敗戦でプロイセンの後進性を痛感し、プロイセンの近代化のためには農奴制の廃止が不可欠であると考えました。
プロイセンの農奴解放は「上から」の解放であった為、身分制の廃止・職業選択の自由は与えられましたが、農奴が土地所有者になるには、領主に25年分の地代を支払うか、土地の3分の1を割譲しなければならず、自作農になった農奴は少なく、ユンカー(エルベ川以東の大地主貴族)経営を成立させる結果となりました。
しかし、1813年~14年の解放戦争の中心は農奴から解放された農民を徴兵制で組織したプロイセン軍だったのです。

ゲルハルト・ヨハン・ダーヴィト・フォン・シャルンホルスト( Gerhard Johann David von Scharnhorst、1755年11月12日 - 1813年6月28日)

ナイトハルト伯アウグスト・ヴィルヘルム・アントニウス・フォン・グナイゼナウ(August Wilhelm Antonius Graf Neidhardt von Gneisenau, 1760年10月27日 - 1831年8月23日)
プロイセン改革のもう1つの柱は、シャルンホルスト(1755年~1813年)やグナイゼナウ(1760年~1831年)等によって行われた軍制改革でした。
彼等は軍制の近代化を図り、今まで貴族に独占されていた将校を一般市民出身者に開き、又苛酷な笞刑の廃止・外国人傭兵制の廃止等を断行し、又フランスに倣って国民軍の創設に努力し、1814年には国民皆兵制が実現します。

カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm Christian Karl Ferdinand Freiherr von Humboldt、1767年6月22日 - 1835年4月8日)
更にフンボルトによる教育制度改革も重要な柱でした。
フンボルト(1767年~1835年)は、プロイセンに仕官し、外交官として各地に赴任し、その間ゲーテ・シラーらと親しく交流しました。
後にプロイセン改革の文教部門を指揮し、ベルリン大学の創設(1810年)等を行いました。

ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte、1762年5月19日 - 1814年1月27日)
又ベルリン大学の初代学長となったドイツ観念論哲学者フィヒテ(1762年~1814年)は、ナポレオン占領下のベルリンで「ドイツ国民に告ぐ」と題する愛国的な連続講演を行い、敗戦に打ちひしがれたプロイセン人に、自民族の文化への自信を与え、誇りと愛国心を喚起したのでした。
こうして国力を充実し、民族意識を高めたプロイセンは、ナポレオンのロシア遠征失敗を機に、ナポレオン打倒に立ち上がり、ナポレオン打倒に大きな役割を果たす事になります。

エアフルトの会談に臨むアレクサンドル1世とナポレオン1世
大陸封鎖令は、ヨーロッパ大陸諸国に打撃を与えたましが、特にイギリスに穀物を輸出し、イギリスの工業製品を輸入していた農業国ロシアにとって、なかでもロシアの地主貴族にとっては大打撃でした。
ロシアのツァーリズム(ロシアの専制君主体制)は貴族の支持によって成り立っていたので、皇帝アレクサンドル1世は貴族達の穀物の密輸出を黙認し、再三にわたるナポレオンの抗議に応じる事は在りませんでした。
1810年、ロシアは大陸封鎖令を破って中立国の船舶の寄航を許可し、イギリスとの貿易を復活します。
大陸封鎖令はロシアを除外しては意味が無く、ナポレオンは終にロシア遠征(モスクワ遠征、1812)を決意しました。
ジョークは如何?
エデンの園はロシアにあったとする学説がある。
なぜなら、アダムとイブはクルマも家も服さえも持っていなかったが、
自分たちが住んでいるところがパラダイスだと信じて疑わなかったからだ。
続く・・・
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