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2016/06/21

歴史を歩く199

1フランス革命とナポレオン⑪

8 ナポレオンの没落(その1)

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ナポレオン時代の最大領土

 ナポレオンが征服した大陸諸国の多くは絶対主義国家で、封建的な諸制度が残っていました。
ナポレオンは封建的圧政からの自由を掲げ、占領した地域で封建的諸制度を廃止し、自由・平等の思想を広めた結果、彼は解放者として熱烈な歓迎を受ける一方で、ナポレオンは占領地に対してはあくまで支配者として臨み、占領地に軍隊を駐屯させて莫大な経費を負担させた為、諸国民はその重圧に苦しむことに成ります。
又、彼の広めた自由思想は、被征服地の諸民族の民族意識を目覚めさせ、その民族意識はナポレオンに対する抵抗運動に発展していくことに成り、更に大陸封鎖令は、穀物や原料をイギリスに輸出し、イギリスから工業製品を輸入していた大陸諸国の経済に打撃を与え、各地で大陸封鎖令に対する反発が強まっていきます。

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「1808年5月3日の処刑」
フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes、1746年3月30日 - 1828年4月16日)

 ナポレオンに対する抵抗運動にまず立ち上がったのはスペイン人でした。
ナポレオンは、大陸封鎖令に従わないポルトガルをスペインとともに征服して分割しましたが(1807年)、更にスペイン宮廷の内紛に乗じてスペインに軍隊を送り込み(1808年)、これに対してマドリード市民は、5月2日に蜂起します。
この蜂起は、フランス軍によって鎮圧され、多くの市民が虐殺・逮捕され、逮捕された多くの人々が後に銃殺されますが、18世紀スペインを代表する画家ゴヤ(1746年~1828年)は、この蜂起を目のあたりにして「1808年5月3日の処刑」を描いています。

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ゴヤ『戦争の惨禍』より『人間の記憶のなかの戦争』

 ナポレオンは、兄ジョゼフをスペイン王に送り込みますが(1808年6月)、スペイン国民はイギリスの援助を得てゲリラ戦を展開し、フランス軍を翻弄します(スペイン反乱、半島戦争、1808年~14年)。
ナポレオンは12万の大軍を送り込みますが、最後迄鎮圧できず、「スペインの潰瘍が余を破壊した」と後に回想録に記しています。

 プロイセンは、嘗てフリードリヒ大王のもとで、強大な陸軍国として名を馳せますが、ナポレオンに敗れて屈辱的なティルジット条約を押しつけられ、領土は半減しました。

 そのプロイセンでは、シュタインとハルデンベルクのもとで、プロイセン改革(シュタイン・ハルデンベルクの改革)が行われました。

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ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタイン(Heinrich Friedrich Karl vom Stein、1757年10月25日 - 1831年6月29日)

 シュタイン(1757年~1831年)は、大学時代にイギリス自由主義の影響を受け、プロイセンに仕官して大臣に任じられますが、絶対主義を批判して罷免され(1804年)、ティルジット条約後の難局に宰相として再度起用され(任期1807年~1808年)、農奴解放(1807年10月)等の改革に着手しますが、反対派に追放されてオーストリア・ロシアに亡命し、ナポレオン打倒に奔走しました。

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カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク侯爵(Karl August Fürst von Hardenberg、1750年5月31日 –1822年11月26日)

 ハルデンベルク(1750年~1822年)は、プロイセンに仕えて外相と成りますが(任期1804年~06年、1807年)、ナポレオンに反対したために2度も罷免されました。
シュタインが罷免されると宰相となり(任期1810年~22年)、シュタインの後を継いでプロイセン改革を推進し、行政改革・農業改革・営業の自由化等プロイセンの近代化に尽力しました。

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1806年10月14日ドルンブルク・敗走するプロイセン軍

 プロイセン改革の中心は農奴解放でした。
シュタインは、イエナの敗戦でプロイセンの後進性を痛感し、プロイセンの近代化のためには農奴制の廃止が不可欠であると考えました。
プロイセンの農奴解放は「上から」の解放であった為、身分制の廃止・職業選択の自由は与えられましたが、農奴が土地所有者になるには、領主に25年分の地代を支払うか、土地の3分の1を割譲しなければならず、自作農になった農奴は少なく、ユンカー(エルベ川以東の大地主貴族)経営を成立させる結果となりました。
しかし、1813年~14年の解放戦争の中心は農奴から解放された農民を徴兵制で組織したプロイセン軍だったのです。

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ゲルハルト・ヨハン・ダーヴィト・フォン・シャルンホルスト( Gerhard Johann David von Scharnhorst、1755年11月12日 - 1813年6月28日)
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ナイトハルト伯アウグスト・ヴィルヘルム・アントニウス・フォン・グナイゼナウ(August Wilhelm Antonius Graf Neidhardt von Gneisenau, 1760年10月27日 - 1831年8月23日)

 プロイセン改革のもう1つの柱は、シャルンホルスト(1755年~1813年)やグナイゼナウ(1760年~1831年)等によって行われた軍制改革でした。
彼等は軍制の近代化を図り、今まで貴族に独占されていた将校を一般市民出身者に開き、又苛酷な笞刑の廃止・外国人傭兵制の廃止等を断行し、又フランスに倣って国民軍の創設に努力し、1814年には国民皆兵制が実現します。

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カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm Christian Karl Ferdinand Freiherr von Humboldt、1767年6月22日 - 1835年4月8日)

 更にフンボルトによる教育制度改革も重要な柱でした。
フンボルト(1767年~1835年)は、プロイセンに仕官し、外交官として各地に赴任し、その間ゲーテ・シラーらと親しく交流しました。
後にプロイセン改革の文教部門を指揮し、ベルリン大学の創設(1810年)等を行いました。

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ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte、1762年5月19日 - 1814年1月27日)

 又ベルリン大学の初代学長となったドイツ観念論哲学者フィヒテ(1762年~1814年)は、ナポレオン占領下のベルリンで「ドイツ国民に告ぐ」と題する愛国的な連続講演を行い、敗戦に打ちひしがれたプロイセン人に、自民族の文化への自信を与え、誇りと愛国心を喚起したのでした。

 こうして国力を充実し、民族意識を高めたプロイセンは、ナポレオンのロシア遠征失敗を機に、ナポレオン打倒に立ち上がり、ナポレオン打倒に大きな役割を果たす事になります。

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エアフルトの会談に臨むアレクサンドル1世とナポレオン1世

 大陸封鎖令は、ヨーロッパ大陸諸国に打撃を与えたましが、特にイギリスに穀物を輸出し、イギリスの工業製品を輸入していた農業国ロシアにとって、なかでもロシアの地主貴族にとっては大打撃でした。
ロシアのツァーリズム(ロシアの専制君主体制)は貴族の支持によって成り立っていたので、皇帝アレクサンドル1世は貴族達の穀物の密輸出を黙認し、再三にわたるナポレオンの抗議に応じる事は在りませんでした。
1810年、ロシアは大陸封鎖令を破って中立国の船舶の寄航を許可し、イギリスとの貿易を復活します。
大陸封鎖令はロシアを除外しては意味が無く、ナポレオンは終にロシア遠征(モスクワ遠征、1812)を決意しました。

ジョークは如何?

エデンの園はロシアにあったとする学説がある。

なぜなら、アダムとイブはクルマも家も服さえも持っていなかったが、
自分たちが住んでいるところがパラダイスだと信じて疑わなかったからだ。


続く・・・


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2016/06/13

歴史を歩く198

1フランス革命とナポレオン⑩

7 ナポレオンとその帝国(その3)

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 ナポレオンは、フランス産業の発展をはかり、フランス商品の市場を確保するために、フランス本国及び彼の勢力下にあるイタリア・オランダ等でもイギリス商品の締め出しを画策し、イギリス商品に重税を課した結果、両国の関係は悪化し、イギリスはアミアンの和約を破棄してフランスに宣戦します(1803年5月)。

 イギリスでは、ピットが再び政権を握り(1804年~1806年)、ナポレオンの皇帝就任を機に、イギリス・ロシア・オーストリアとの間で第3回対仏大同盟(1805年8月~1805年12月)を締結します。
これに対してナポレオンはスペインと結びました。
スペインは、当初フランス革命軍と戦いますが、植民地貿易等でイギリスと対立し、フランス側に回りました。

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ウルムの戦い

 ナポレオンは、直接イギリス攻撃を考え、イギリス本土上陸作戦を計画し、ドーヴァー海峡を望むブーローニュに兵10数万を集結しますが、9月オーストリア軍がバイエルンに侵入すると、ブーローニュの陣を引き上げてバイエルンに急行し、ウルムの戦いでオーストリア軍を完全に包囲したのでオーストリア軍は降伏します(1805年10月20日)。
しかし、その翌日、フランス艦隊がトラファルガーの海戦で壊滅します。

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トラファルガー海戦

 1805年10月21日、ネルソン提督率いるイギリス艦隊(27隻)は、スペインのカディス港を出撃したフランス・スペイン艦隊(33隻)を、ジブラルタル海峡北西のトラファルガー岬沖で捕捉します。ネルソン提督は、旗艦ヴィクトリア号に「イギリスは各人がその義務を果たすことを期待する“England expects that every man will do his duty”」という有名な信号旗を掲げ、これに対してフランス水兵は「皇帝万歳」と叫び、トラファルガー海戦が11時過ぎに開始されました。

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初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン( Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson KB, 1758年9月29日 - 1805年10月21日)

 ネルソン提督は、敵艦隊と並行した進路を進み、砲火を交える普通の戦法でなく、縦陣をとって敵の横陣に突っ込んでいく戦法を取ったのでした。
砲撃技術の差が勝敗の分かれ目となり、激戦の後にイギリス艦隊が圧勝し、フランス・スペイン艦隊は沈没5隻・捕獲17隻、これに対してイギリス艦隊の損失はゼロでした。
しかし、ネルソン提督は敵弾を受けてから3時間後の午後4時半頃に「神に感謝する。余は余の義務を果たせり」と云う言葉を残して亡くなります。

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ネルソン提督の死:ベンジャミン・ウエスト (1806)

 トラファルガー海戦の敗北によってイギリス本土上陸作戦を断念せざるを得なくなったナポレオンは、ウルムの戦いの後更に進んでウィーンに入城します(1805年11月14日)。

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アウステルリッツの戦いのナポレオン:フランソワ・ジェラール 画

 1805年12月2日、7万4千のフランス軍と9万のオーストリア・ロシア連合軍がアウステルリッツ(現在のチェコの地)で激突しました。
このアウステルリッツの戦いは、フランス皇帝ナポレオン1世・ロシア皇帝アレクサンドル1世(在位1801年~25年)・オーストリア皇帝フランツ2世(在位1792年~1806年)が会戦したことから三帝会戦とも呼ばれます。
戦いは夜明け前に始まり、夕闇が迫る頃迄続いたのですが、ナポレオンの決定的な勝利のうちに終わり、連合軍の戦死者は2万6千、これに対してフランス軍の戦死者は7千と記録されています。

 アウステルリッツの戦いに敗れたオーストリアは、三度屈服してプレスブルク条約(1805年12月)を結び、ヴェネツィアをフランス領のイタリア王国に割譲し、これによって第3回対仏大同盟は崩壊しました。

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ライン連邦の兵士;ヴィッテンベルク兵

 こうした状況の中で、翌1806年7月、西南ドイツのバイエルン以下16の諸邦がナポレオンを盟主としてライン同盟(ライン連邦、1806年~13年)を結成して神聖ローマ帝国から離脱した事からオーストリア皇帝フランツ2世は、神聖ローマ皇帝位を放棄し、ここにオットー大帝以来844年間続いてきた神聖ローマ帝国(962年~1806年)は名実ともに滅亡しました。
ライン同盟には、その後オーストリア・プロイセンの二大国を除く全ドイツ諸邦が加盟します。

 ライン同盟の成立やその加盟国へのフランス軍の駐留は、プロイセンを脅かすこととなり、それまで対仏大同盟に参加せずに中立を保ってきたプロイセンは、イギリス・ロシア・スウェーデンと共にに第4回対仏大同盟(1806年9月~1807年7月)を結び、フランスとの開戦に踏み切ったのです。

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イエナの戦い(1806年)のフランス軍竜騎兵

 ナポレオンはドイツに軍を進め、イエナの戦い(1806年10月14日)でプロイセン軍を破り、プロイセンの国土の大半を占領し、遂にベルリンに入城しました(1806年10月25日)。
そしてこの地で有名な「大陸封鎖令(ベルリン勅令)」を発します(1806年11月21日)。
前文8カ条、本文11カ条からなる大陸封鎖令の本文の主な条文は次の通りで以下、

 第1条 イギリス諸島を封鎖状態におくことを宣言する。
 第2条 イギリス諸島とのあらゆる商取引、通信を禁止する。これにもとづき、イギリスもしくはイギリス人に宛てられた、もしくは英語で書かれた書状、物品は郵送されず、押収される。
 第3条 わが軍隊又は同盟国軍隊の占領地域にある全てのイギリス臣民は、その身分、状態にかかわらず戦争捕虜とされる。
 第4条 イギリス臣民の所有する、もしくはその工場に由来する全ての倉庫、商品、物品は、その性質にかかわらず、正当な戦利品とされる。
 第5条 イギリス商品の取引は禁止される。イギリスに属する全ての商品もしくは、イギリスの工場および植民地に由来する全ての商品は正当な戦利品とされる。

(山川出版社、世界史史料・名言集より)

 トラファルガー海戦の敗北によってイギリス本土上陸作戦を諦めざるを得なくなったナポレオンは、大陸封鎖令によって大陸諸国とイギリスとの通商を禁じて、ヨーロッパ大陸からイギリス商品を閉め出し、イギリスに経済的な打撃を与えると共に、フランス産業の為にヨーロッパ大陸の市場の確保を図りました。

 しかし、大陸封鎖令は、産業革命を経過して経済力を強め、又アジアやラテン・アメリカに広大な市場を持つイギリスに対してはあまり効果が無く、むしろイギリスに穀物や木材を輸出していたロシア・プロイセンをはじめとするヨーロッパ大陸諸国の方が苦しむ結果になりました。

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フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(Friedrich Wilhelm III., 1770年8月3日 - 1840年6月7日)

 プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(在位1797年~1840年)は、ケーニヒスベルクに逃れ、同盟国ロシアとともに抵抗を続けていました。
ベルリンに1ヶ月留まったナポレオンは、プロイセン王を追い、ロシア軍を迎え撃つためにベルリンを出発し、ポーランドに入境、解放者として迎えられ、翌1807年、アイラウの戦い(1807年2月)・フリートランドの戦い(1807年6月)でロシア軍と交戦、フリートランドの戦いではフランス軍は大勝し、プロイセン王は更にティルジットに退却し、フランス軍はこれを追って同市を占領し、プロイセン・ロシア両国とティルジット条約(1807年7月)を結びました。

 プロイセンにとって屈辱的な条約であったティルジット条約によって、プロイセンは大幅に領土を喪失半減し、その上に莫大な賠償金を課せられました。
又ロシアは大陸封鎖令への協力を約束させられた上に、旧ポーランド領にはワルシャワ大公国(1807年~1814年)が建てられ、ザクセン王が大公を兼ね、更にプロイセンのエルベ川左岸(以西)全域にウェストファリア王国(1807年~13年)を創り、ナポレオンの弟のジェローム(1784年~1860年)を国王としました。

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1807年公国憲法を授与するナポレオン

 1807年頃、ナポレオンはオーストリア・プロイセン・ロシアを屈服させ、7王国・30公国がナポレオンの支配下に編成されました。

 ナポレオン一族も、兄ジョゼフがスペイン王に、弟ルイはオランダ王に、そして末弟の ジェロームはウェストファリア国王になり、妹達もそれぞれ大公妃・元帥夫人等に成っていきます。

 ナポレオンと皇后ジョセフィーヌとの間には子がなく、そのため嗣子を得るため、そしてボナパルト家の家柄を高めるために離婚を決意し、1809年にジョセフィーヌを離婚し、翌1810年にオーストリアのハプスブルク家の皇女マリ・ルイーズ(1791年~1847年、フランツ2世の娘、マリ・アントワネットの姪)と結婚し、ボナパルト家はヨーロッパ第一の名門ハプスブルク家と姻戚になりました。マリ・ルイーズは、翌年王子を出産し、皇子(ナポレオン2世、1811年~32年)にはただちに「ローマ王」の称号が与えられます。

 この時期がナポレオンの絶頂期でした。

ジョークは如何?

イギリス人はジョーク好きで有名です
彼らはジョーク一つにつきに三回笑います

・ジョークを聞いた時
・その意味を教えてもらった時
・家に帰って意味を理解した時

続く・・・

2016/06/10

歴史を歩く197

1フランス革命とナポレオン⑨

7ナポレオンとその帝国(その2)

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エジプト遠征からのボナパルト帰還前のフランス国家の寓:ジャン=ピエール・フランク

 このような情勢を知ったナポレオンは帰国を決意し、8月23日に、少数の幕僚と学者・500人の兵を率いて4隻の船でひそかにアレクサンドリアを出帆しました。
イギリス海軍の監視をくぐりぬけ、10月9日にツーロンの近くに上陸、10月16日にはパリに帰還します。
尚、エジプトに残されたフランス軍は、その後イギリス、オスマン・トルコ連合軍に悩まされながらも、1801年に休戦条約が結ばれ、1802年に帰国を果たしています。

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ブリュメール18日のクーデターで五百人会議員らに取り囲まれるナポレオン・ボナパルト将軍

 1799年11月9日(革命暦ブリュメール18日)、ナポレオンは議会の周囲を軍隊で包囲し、憲法改正を迫り、抵抗した2人の総裁を軟禁し、1人を辞任に追い込んで総裁政府を打倒します。
翌日、3人の統領からなる統領政府の樹立を認めさせ、政権を掌握しました(ブリュメール18日のクーデター)。

 1799年12月には、共和国八年憲法を制定し、3人の統領のうち第一統領(任期10年)が強力な行政権を握ることを定め、ナポレオンは自ら第一統領に就任して事実上の独裁権を握り、他の2人の統領の権限は弱く相談役程度の権限しか持たず、立法機関は4院制でその権限も小さなものでした。

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イタリア遠征・アルプスを越えるナポレオン

 事実上の独裁者となったナポレオンは、イギリス・オーストリアに講和を申し入れるもにに拒否され、再びイタリア遠征を行います。
ナポレオンは、有名なアルプス越えによってイタリアに進出しますが、このアルプス越えの情景を描いたダヴィド(後にナポレオン1世の首席宮廷画家となる)の絵はナポレオンの肖像画の中でも特に有名なものの1枚になりました。

 オーストリア軍の意表をついて、その背後に進出したナポレオン軍は、マレンゴの戦い(1800年6月14日)で大勝し、オーストリアは再びナポレオンに屈し、リュネヴィル条約(1801年)でカンポ・フォルミオの和約を再確認する結果となりました。

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ローマ教皇ピウス7世

 1801年、ナポレオンはフランス革命以来対立関係にあったローマ教皇ピウス7世(在位1800年~23年)との間に宗教協約(コンコルダート)を結んで(1801年7月)教皇と和解しました。
ナポレオンは、ローマ・カトリック教会が大多数のフランス人の宗教であることを承認するかわりに、革命時の没収教会財産を返還しないことやフランス政府が聖職者を指名して教皇が任命することを認めさせます。
教皇との和解はカトリック教徒が多いフランス国民の人心をとらえる上で大きな役割を果たしました。

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アミアンの和約:ジェイムズ・ギルレイの風刺画「10年ぶりのキス!」

 この頃、イギリスでは、戦争のために財政窮乏が激しさを増し、又産業革命の最中にあってヨーロッパ市場を失うことを恐れ、和平を望む声が高まり、主戦派の首相ピットは辞任します(1801年)。
イギリスとフランスはアミアンの和約(1802年3月)を結び、相互に占領地の多くを返還しまし、アミアンの和約によって、第2回対仏大同盟は解消し、ヨーロッパには1793年以来久々の平和が訪れたのです。

 宗教協約とアミアンの和約によって、国民の熱狂的な支持を得たナポレオンは国民投票によって終身統領に就任します(1802年8月)。
この間、ナポレオンは内政にも力をそそぎ、フランス銀行の設立(1800年)、税制の改革、地方行政制度の改革、公教育制度の確立等を行うと共に、1804年3月には有名な「ナポレオン法典(フランス人の民法典)」を公布します。

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ナポレオン法典

 ナポレオン法典は、全文2281カ条からなり、身分編・財産編・財産取得編の3部に分かれ、私有財産の絶対・個人意志の尊重・家族の尊重を基本原理とし、フランス革命で確立された近代市民社会の法原理を表現しています。
ナポレオン法典は、以後の世界各国の民法典の模範となり、後世に大きな影響を及ぼしました。
ナポレオンは、後に『回想録』のなかで、「余の真の名誉は幾度かの戦勝にではなく、余の法典にある」と述べています。

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ナポレオン1世

 1804年5月18日、元老院令が出され、「共和国の政府は世襲の皇帝に委ねられる」ことが宣言され、ナポレオンは皇帝の称号を得て、ナポレオン1世(在位1804年~14年、1815年)と称し、国民投票は圧倒的な支持をもってナポレオンの皇帝就任を承認したことにより、第一共和政は終わりを告げ、第一帝政(1804年~1814年、1815年)が始まりました。

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ノートルダム大聖堂で行われたナポレオン1世の戴冠式

 1804年12月2日、戴冠式がノートルダム大聖堂で、教皇ピウス7世を招いて華やかに行われ、ナポレオンは自ら冠を頭上に戴き、自らの手で皇后ジョセフィーヌに加冠しました。
ダヴィドは、この戴冠式の様子を、縦610cm・横910cmの大画に書き残しています。

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交響曲第3番の浄書総譜表紙(ウィーン楽友協会蔵)

 前年から「交響曲第3番(英雄)」を作曲していたベートーベン(1770年~1827年)は、この曲をナポレオンをイメージしながら作曲していたのですが、ナポレオンの即位を聞き、「彼も普通の人間にすぎなかったのか」と失望し、完成したばかりの楽譜の表紙を引き裂いたと伝えられています。

ジョークは如何?

「共産主義ってのは、船旅に似てるな。」
「どんなところが?」
「展望だけは素晴らしいんだが、どこに向かってるんだかさっぱりわからない。
その上吐き気がする。おまけに降りられない」


続く・・・

2016/06/06

歴史を歩く196

1フランス革命とナポレオン⑧

7ナポレオンとその帝国(その1)

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ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日

 ナポレオン・ボナパルト(1769年~1821年)は、コルシカ島の下級貴族の次男に生まれ、フランス本土の士官学校で教育を受け(1779年~85年)、16歳の時に砲兵少尉に任官されました。
ナポレオンの得意科目は数学で、歴史や地理も興味を持ちましたが、それ以外の科目は余り興味を示さず、読書に熱中してプルタルコス(プルターク)の『英雄伝』やカエサルの『ガリア戦記』等を読むことが多く、卒業試験の成績は58人中の42番であったと云われています。

 フランス革命が勃発するとコルシカ(コルシカ島は中世にはジェノヴァ共和国が領有したが、フランスが1768年に買収してフランス領となる)の独立運動に参加しますが(1792年~93年)、その指導者と対立する様になり、一家でマルセイユに逃れ(1793年)、後にパリに移ります(1796年)。

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トゥーロン攻囲戦(1793年9月18日 - 12月18日)

 この間、反革命軍とイギリス艦隊が占領したツーロン港奪回に戦功をあげて陸軍少将に昇進、ナポレオンの名声が高まったのですが(1793年)、テルミドールのクーデターが発生すると(1794年7月)、ナポレオンはロベスピエールの弟と親しかったために、ロベスピエール派とみなされて投獄されましたが1週間で釈放されています。

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バラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラ(Paul François Jean Nicolas, vicomte de Barras, 1755年6月30日 - 1829年1月29日)

 出獄後、失意のうちにあったナポレオンにとって、彼の一生を決定づける出来事が発生します。
王党派の反乱が起こり(1795年10月)、この時、国民公会から国内総司令官任命されたバラス(1755年~1829年、テルミドールのクーデターで活躍し、5人の総裁の一人となる)はツーロン港の奪回に活躍したナポレオンを思い出し副官の一人に任命しました。
ナポレオンはパリの中心地で反乱軍に砲弾を打ち込むと大胆な作戦によって、王党派の反乱を鎮圧し、国内総司令官に任命され(1795年)、その翌年にナポレオンは子供まであった未亡人のジョセフィーヌ(1763年~1814年)と結婚しました。

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第1次イタリア遠征・デゴの戦い

 王党派の反乱鎮圧によって総裁政府の信任を得たナポレオンは、若干26歳でイタリア遠征軍総司令官に任命され、1796年3月、イタリア遠征の途に就きます。
彼はイタリアに進軍して連戦連勝、オーストリア軍やイタリア諸勢力を撃破してミラノに入城し、更にマントヴァを攻略してウィーンに向けて進軍、ウィーンの間近に迫りました(1797年4月)。
オーストリアは屈服してカンポ・フォルミオの和約(1797年10月)を結び、オーストリア領ネーデルランド(ベルギー)をフランスに割譲しました。
このカンポ・フォルミオの和約によって第1回対仏大同盟は崩壊しました。

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エジプト遠征

 しかし、この時期でもイギリスはその勢力を保ち、しかも、制海権をもっているイギリスに対しては本土上陸作戦は難しいものでした。
そこでナポレオンは総裁政府にエジプト遠征を進言します。
当時イギリスでは産業革命が進展していたのですが、そのイギリスにとって重要となっていたのがインドで在り、ナポレオンはエジプトを勢力圏に含めて、イギリスとインドの連絡を断つことを目的にエジプト遠征の計画を進め、総裁政府も許可を与えました。

 1798年5月19日、ナポレオンの率いるエジプト遠征軍、5万数千の将兵と百数十人の学者・美術家等からなる学術調査団を乗せた350隻の艦隊がツーロン港を出帆しました。
イギリスは早くからフランスの動向を把握していましたが、この行動をアイルランド上陸と思い、ジブラルタル方面を警戒していたのです。
フランスのマルタ島攻撃の報を受けたネルソン(1758年~1805年、イギリスの海軍提督)は、ただちに東地中海に向かいフランス艦隊より先にエジプト海岸に到着します。

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マルタの戦い 1798年7月10日

 フランス艦隊は、途中マルタ島を占領し、アレクサンドリアに到着したのは、ネルソンが更に東に向かった後で、ナポレオンは7月2日にアレクサンドリアに上陸してこれを占領し、カイロに向けて進撃を開始しました。

 「兵士等よ、このピラミッドの上から、4千年の歴史が諸君を見下ろしている」と云うナポレオンの有名な激励の言葉で始まったピラミッドの戦い(1798年7月20日)に勝利したフランス軍は、7月23日にカイロに入城します。
しかし、それから1週間後に、フランス艦隊を探し求めていたネルソンは、アレクサンドリア近くのアブキール湾に停泊中のフランス艦隊を発見してこれを全滅させた(アブキール湾の戦い、1798年8月1日)結果、ナポレオンはエジプトで完全に孤立し、帰国も援軍を求めることも出来ない状態に陥ったのです。

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アレクサンドリアの戦い 7月1~2日

 イギリス首相のピットは、ナポレオンのエジプト遠征を機に、ロシアと同盟し(1798年12月)、翌年これにオーストリア、ナポリ王国、ポルトガル、オスマン・トルコが加わって第2回対仏大同盟(1799年~1802年)が結成されました。

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ロゼッタ石

 尚、このナポレオンのエジプト遠征の際、フランス軍の一隊がナイル河口の町ロゼッタで塹壕を掘っていたところ、縦1m余り・横70cm余りの石碑が発見されました(1799年)。
有名なロゼッタ石で、その石碑には上2段に古代エジプトのヒエログリフとデモティック、下段にはギリシア文字で同じ内容の文面が書かれており、これをもとにフランスの学者シャンポリオンがヒエログリフの解読に成功し(1822年)、この発見によって古代エジプト文字が判読出来るようになったことは有名です。

 エジプトで完全に孤立したナポレオンは持久戦を覚悟しました。
既にフランスに宣戦していたオスマン・トルコは、イギリスの援助を得てエジプト攻撃を準備しており、ナポレオンは機先を制してシリアに出兵するものの(1799年2月)、アッコン包囲に失敗して退却し、カイロに戻ります(1799年7月)。

 この頃、フランス本国の総裁政府も内外の政策で行き詰まり、対仏大同盟軍の攻撃によって、イタリアは再びオーストリアに奪われ、ライン方面でも敗走、国内では王党派の動きが活発になっていました。

ジョークは如何?

「北朝鮮の拉致問題どうする?」
「第三国で発見ということにしましょう」

「北方領土の問題どうする?」
「第三国の領土ということにしましょう」

続く・・・

2016/06/01

歴史を歩く195

1フランス革命とナポレオン⑦

6総裁政府

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テルミドールのクーデターで撃たれるロベスピエール。

 テルミドールのクーデター後、政権を掌握した人々は、テルミドール派と呼ばれます。
テルミドール派は、中間派ブルジョワを中心とした穏和共和派で、その中にはダントン派やジロンド派の残党も含まれており、彼等は恐怖政治を一掃し、ブルジョワによる支配を目指した結果、革命は再びジャコバン派独裁前の状態に戻りました。

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総裁政府

 パリの民衆は、1795年4月と5月の2度にわたって蜂起し、国民公会に押し掛けて「パンと1793年憲法」の実施を要求しますが、テルミドール派は軍隊の力を借りて、これを鎮圧し、新憲法の制定を急ぎました。

 1795年8月20日、国民公会は「1795年憲法(共和国第三年憲法)」を採択します。
1795年憲法は、財産資格による制限選挙を復活し、独裁制の再現を恐れ、二院制と5人総裁制を採用して権力が、一人の人物に集中すること排除する事を考えています。
新憲法による選挙(10月20日)を前にした、1795年10月5日に王党派が国民公会に武力攻撃を仕掛けますが(王党派の反乱)、ナポレオンの指揮する軍によって鎮圧されました。

 1795年10月27日、国民公会は解散し、5人の総裁からなる総裁政府が成立しました。
5人の総裁の中には、「第三身分とは何か」で有名なシェイエスも入閣していました。

 しかし、総裁政府は権限が制限されていた結果、弱体で亡命貴族・王党派の策動が盛んとなり、ジャコバン派も勢力を盛り返し、不安定な政情が続く状況の中で、1796年5月には、バブーフの陰謀が発覚しました。

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フランソワ・ノエル・バブーフ(François Noël Babeuf、1760年11月23日 – 1797年5月27日)

 バブーフ(1760年~97年)は、貧しい家に生まれ、土地台帳監査官になり、領主の不正と土地所有制度の弊害を実感し、私有財産特に土地の私有を否定する思想を抱くように成りました。
革命が勃発するとパリに出てエベール派に近い急進派として活躍し、ロベスピエールの社会・経済政策の不徹底を攻撃してテルミドールのクーデターを支持しました。
3度逮捕され(93年・94年・95年)、獄中でサンキュロット主義(議会外での直接行動)とジャコバン派主義の融合による独自の共産主義思想を作り上げ、出獄後、1793年憲法と私有財産の廃止を主張し、総裁政府転覆を企てましが、事前に発覚して逮捕され(1796年)、翌年の5月にジャコバン派の残党と共に処刑されました。
バブーフは、私有財産の廃止を主張した事から、共産主義の先駆者とされています。

 こうした政情不安の中で、有産市民や革命によって土地を得た農民は、左右両派が政権を握ることを恐れ、現状の社会の安定を願う様に成り、より強力な政府・より強力な指導者の出現を期待する様に成ります。

 当時、この混乱を治めて社会秩序を回復させる力は、軍隊にしか無く、国民の期待は軍隊とその指揮者に集まり、当にこの様な情勢を背景にナポレオン・ボナパルトが登場してくるのです。

ジョークは如何?

北朝鮮建国の英雄が言った。
21世紀、わが国ではたった一握りの燃料で暖房を賄えるほど
科学が発達してるだろう

なんて素晴らしい予言だろうか!

現在、北朝鮮の家庭ではもっと少ない燃料で生活している。


続く・・・