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2016/07/20

歴史を歩く203

29 産業革命③

4 産業革命の波及

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世界の工場としてのイギリス


 世界で最初に産業革命を経過したイギリスは、先進工業国として、世界各地から原料を輸入し、良質で安価な工業製品を世界中に輸出することにより、世界市場で圧倒的な地位を占め、「世界の工場」としての地位を獲得しまた。

 イギリスは、産業革命の技術的成果の独占を図り、1774年に「機械輸出禁止令」を公布、他国や植民地への機械輸出や技術者の渡航を禁じます。
その後、機械輸出禁止令は1825年に一部が解除され、1843年には全面的に廃止される迄続いたのです。

 ナポレオン戦争の終了後、イギリスが機械の輸出を一部解禁すると、ベルギー・フランス等のヨーロッパ諸国やアメリカでも産業革命が始まります。

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ワロン地方の鉱山遺跡(ベルギー)

 先ず、豊富な石炭や鉄に恵まれ、又イギリスに一番近い地の利に恵まれていたベルギーで産業革命が始まり、1830年の独立後、伝統的な毛織物工業を基礎として工業化が進展し、ベルギーはイギリスに次いで早い時期に産業革命を経過しました。

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世界遺産「ノール=パ・デュ・カレー地方の炭田地帯」 フランス

 フランスでも、イギリスが機械の輸出を一部解禁したことから産業革命が始まり、1830年代の七月王政の時期に本格的に進展し、19世紀の後半迄はイギリスに次ぐ工業国の地位を確保しました。
しかし、フランスの産業革命は、フランス革命によって生まれた中小土地所有農民が多数を占めていたので労働者となる人口が少なく労働力が不足し、又資本の蓄積も遅れていた結果、軽工業が中心で小経営が多く、資本主義の発展は緩やかでした。

 ドイツとアメリカでは、ベルギーやフランスよりやや遅れて産業革命が始まりました。

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ドイツ産業革命の中心と成ったラインラント(現ラインラントプファルツ州)の位置

 ドイツでは、関税同盟の結成(1833年)によって発展の基礎がつくられ、1840年代からラインラントを中心に工業化が進展し、特に1871年のドイツ統一後、国家の保護政策の基で重化学工業が飛躍的に発展し、19世紀末にドイツはアメリカ・イギリスに次ぐ工業国に成長します。

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プロモントリーサミットでの開通記念式典・1869年5月10日

 アメリカは、米英戦争(1812年~14年)によってイギリスから経済的に自立し、1830年代に木綿工業・金属機械工業が発展しました。
南北戦争(1861年~65年)後本格化し、石炭・石油・鉄鋼を中心に工業がめざましく発展、19世紀末にはイギリスを追い抜いて世界一の工業国に成って行きます。

 ロシアと日本の産業革命は更に遅れ、19世紀末頃から産業革命に突入しました。

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農奴解放令を読み上げるアレクサンドル2世

 ロシアでは、農奴解放令(1861年)後に徐々に進展し、1890年代には国家の保護とフランス資本の導入によって重工業が急速に進展しました。

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1901年(明治34年)官営八幡製鐵所として操業を開始

 日本は、明治維新後、欧米の先進国から技術を導入し、日清戦争(1894年~95年)前後に製糸・紡績等の軽工業を中心に産業革命が本格化し、更に日露戦争(1904年~05年)前後に軍需部門を中心に重工業が発達して産業革命を達成しました。

 産業革命を19世紀末から20世紀初めに経過した国々が現在の世界で先進工業国の地位を確立しています。
是等先進工業国と、第二次世界大戦に産業革命を経過したアジア・アフリカ・ラテン=アメリカの多くの発展途上国との間の経済格差が今日南北問題と呼ばれ、1960年代以後大きな問題になって行きました。

ジョークは如何?

戦後まもなく、日本政府は食糧難によって
数百万人の餓死者が出るという統計を元に
アメリカに莫大な食糧援助を求めたが、
その何分の一かの輸入で別段死人も出なかった。

そのことをマッカーサーが詰問した。

マッカーサー「でたらめな数字を出すな!」

吉田茂「うちの統計がそんなに立派なら、戦争には負けてませんよ。」

続く・・・


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2016/07/19

歴史を歩く203

29 産業革命③

3 交通・運輸機関の発達

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ロケット号

 産業革命の進展に伴い、原料・製品・特に重量物の鉄鉱石や石炭等を大量に早く・安く輸送する必要から交通・運輸の部門で一大変革がおこります(交通革命)。

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イギリスの商業運河(現在)

 18世紀後半には、運河を利用した舟運が大量の物資輸送に大きな役割を果たし、運河が盛んに建設され、特に1790年代は「運河狂時代」と呼ばれる程運河建設がブームに成り、運河建設は、当初石炭を運ぶ必要から始まりました。
当時の石炭船は運河の両堤を走る馬によって引かれて航行しました。
運河が使われたのは、馬車で運ぶよりもはるかに少ない馬で大量に運ぶことが出来たからですが、19世紀に入ると運河は鉄道にとって替わられるように成りました。

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リチャード・トレビシック(Richard Trevithick、1771年4月13日 - 1833年4月22日)

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ペナダレン号のレプリカ(国立ウォーターフロント博物館、スウォンジ)

 1804年に、トレヴィシック(1771年~1833年)が、初めてレールの上を走る蒸気機関車の試運転に成功しましたが、低速で安全度に問題もあり実用化には至りませんでした。

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ジョージ・スチーブンソン(George Stephenson、1781年6月9日 - 1848年8月12日)

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ロコモーション号

 スティーブンソン(1781年~1848年)は、トレヴィシックの蒸気機関車の欠点を改良し、石炭運搬用の実用蒸気機関車の開発に成功し(1814年)、更に1825年には、スティーブンソンの「ロコモーション号」が、35両の貨車と客車を引いて、ストックトン⇔ダーリントン間(イギリス東海岸の北、ニューカッスルの南)約17kmを時速約18kmで走破しました。

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ロケット号(レプリカ)

しかし、「ロコモーション号」も石炭消費量が多く採算に合わず、更に改良を加えて「ロケット号」を製作します。
ロケット号は、1830年に開通したマンチェスター⇔バーミンガム間を時速約40kmで走ります。

 この成功に刺激されて、1830年代以後、イギリスを中心にヨーロッパ大陸、アメリカ大陸でも鉄道網が急速に拡大し、鉄道時代に入って行きます。
一方、海上交通の方でも19世紀に入ると蒸気船が登場してきます。

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ロバート・フルトン(Robert Fulton、1765年11月14日 - 1815年2月24日)

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外輪式蒸気船クラーモント号

 アメリカ人フルトン(1765年~1815年)は、世界最初の外輪式蒸気船クラーモント号(長さ45m、重さ150トン)を建造し、1807年にハドソン川240kmを時速約7.5kmで遡航することに成功しました。

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USSサヴァンナ号

 更に、アメリカ船サヴァンナ号は、1819年に初めて大西洋横断に成功し、29.5日でリヴァプール港に入港しました。
サヴァナ号は、重さ320トンの木造・外輪式の機帆船でしたが、ほとんど帆走し、蒸気力による航行は僅か85時間であり、積み荷は綿花でした。
その後、1830年代にはスクリュープロペラを採用した汽船が登場し、サヴァナ号から20年後には大西洋横断は10~15日に短縮されます。

 交通・運輸機関の発達は、人や物の輸送の量・速度を飛躍的に増大させ、世界各地の時間的な距離を短縮し、世界の一体化をますます促進しました。

ジョークは如何?

ジュール・ベルヌの「80日間世界一周」の一コマ

アメリカ西部の町で暴動が起こってて、旅行者が何の騒ぎか聞くと、

「治安判事の選挙があるんで、両陣営が戦ってるんでさあ」

続く・・・

2016/07/19

歴史を歩く202

29 産業革命②

2 機械の発明(2)

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産業革命の進行


 産業革命の進展には、機械の原料である良質の鉄を作る製鉄業や蒸気機関の燃料となる石炭を採掘する石炭業等の発達が不可欠でした。

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父エイブラハム・ダービー1世が作った溶鉱炉

 当時、鉄の生産には木炭が使用されていた関係で、製鉄所は森林があるところに作られました。
ところがイギリスでは、既に16世紀頃から木材や薪炭が不足する状態が生じていた為、17世紀頃から木炭にかえて石炭を使用する製鉄法が考えられており、これに成功したのがダービー父子( 父エイブラハム・ダービー1世・1677年~1717年、子エイブラハム・ダービー2世・1711年~63年)です。

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世界初の鉄の橋アイアンブリッジ Ironbridge (東面・ウェールズ)

 父は石炭を燃料とする製鉄法を発明し(1713年頃)、子が1735年コークスを燃料とする製鉄法を発明しました。
この発明によって燃料費は一挙に従来の1割以下になったと云われています。
その結果、それ迄鉄をスウェーデン等から大量に輸入していたイギリスは初めて鉄を自給することが出来るようになり、18世紀末頃からは鉄の輸出国となりました。

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イングランド、 シュロップシャー (Shropshire) の ブリスト・ヒルにある元の高炉 コールブルックデール

 イギリスでは、17世紀頃から家庭用・工業用燃料が薪炭から石炭に切り替えられるようになり、更に製鉄の燃料として利用されるようになると石炭業がますます盛んに成ってきます。

 しかし、当時の炭坑には種々の問題が在り、最大の問題はとめどもなく湧いてくる地下水をどうして排水するかということでした。
当時は主として馬力による揚水作業が行われていましたが、排水作業が追いつかず、多くの炭坑が廃坑に追い込まれます。
そこで登場したのが蒸気機関を動力とする排水ポンプで、最初の蒸気機関はセーヴァリ(1650年頃~1715年)によって1698年に発明された鉱山用揚水ポンプでした。

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ニューコメンの蒸気機関

 しかし、セーヴァリの蒸気機関には欠陥が多く、機械技師のニューコメン(1663年~1729年)がセーヴァリの蒸気機関を改良して1710年頃に実用化しました。
ニューコメンの蒸気機関もシリンダーと冷却器が共用なので熱効率が悪く、燃料費が嵩む為炭坑の排水用にしか使われませんでしたが、 このニューコメンの蒸気機関を大幅に改良したのが有名なワットです。

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ジェームズ・ワット ERS ERSE (James Watt FRS FRSE, 1736年1月19日 - 1819年8月25日)

 ワット(1736年~1819年)は、グラスゴー大学からニューコメンの蒸気機関の修理を依頼されて大改良を決意し、1765年にシリンダーと冷却器を分離することで出力を従来の2倍以上に、石炭消費量を7分の1に減らすことに成功し、更に改良を加えて、1781年にはピストンの往復運動を回転運動に替えることに成功、これによって従来炭坑の排水用にしか使えなかった蒸気機関があらゆる機械の動力として利用することが出来るようになりました。

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1784年にボールトンとワットが設計した蒸気機関の図面

 こうして、木綿工業から始まった産業革命は、蒸気機関の利用による動力革命を引き起こし、更に機械工業・製鉄業・石炭業等他の工業部門を飛躍的に発展させ、その結果、工場制機械工業が成立・発展し、良質・安価な商品が大量に生産されるようになり、人々の生活を大きく変えていく事となります。

ジョークは如何?

ポーランド人が鶏小屋に忍び込んだ
人気を察した飼い主が銃を構えて呼びかけた

「おい!そこに誰かいるのか?」
「誰もいません旦那様、おらたち鶏だけでがす」


続く・・・

2016/07/09

歴史を歩く201

29 産業革命

1 イギリス産業革命の原因

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ジェームズ ワット 蒸気 機関

 フランス革命より以前に、イギリスでは「道具から機械へ」の進展である技術革新がおこり、それに伴って産業・経済・社会上の大変革がおこりました。
これが産業革命です。

 産業革命は、18世紀後半に、まずイギリスで始まりました。
産業革命がまずイギリスでおこった原因(背景)としては以下の事が挙げられます。

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大英帝国の領土

(1)17世紀以後のオランダ・フランスとの植民地争いに勝利して、世界の海上権を握り、広大な海外市場を獲得すると共に、植民地貿易によって莫大な富を蓄積していたこと。
(2)国内でも毛織物工業を中心にマニュファクチュアが発達し、大量の資本が蓄積されていたこと。
(3)農業革命と第2次囲い込み(エンクロージャー)によって豊富な労働力が創出されていたこと。

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18世紀の英国農村風景

 18世紀のイギリスでは、都市人口の増大や戦争の影響によって穀物価格が高騰すると、大地主は営利を目的として小作地や共同地を囲い込み(第2次囲い込み)、 資本家がこれを借り、農業労働者を使用して資本主義的な大農経営を行う様になります。(農業革命)。

 16世紀の第1次囲い込みが牧羊を目的とする非合法の囲い込みであったのに対し、第2次囲い込みは、穀物生産を目的とし、議会の承認を得て大規模に行われました。
この為、多くの農民が土地を失い、彼等は農業労働者として資本家に使用され、又職を求めて都市に流入して賃金労働者と成っていきます。

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産業革命初期の炭鉱労働者

 更に、
(4)ニュートン以来、科学や技術が発達し、これを工業技術に応用する条件が整っていたこと。
(5)鉄と石炭が豊富で、しかも近い場所に産出したこと(運輸機関が発達してない段階では重要な条件であった)。
(6)ピューリタン革命以後、国内ではほとんど戦争がなく、市民革命をいち早く経過して産業規制がほとんど無くなっていたことなど政治的な条件にも恵まれていたこと等も挙げる事が出来ます。

2 機械の発明

134.綿花2
綿花

 技術革新は、まず木綿工業の分野で始まりました。

 イギリスの伝統的な工業は毛織物工業でしたが、17世紀後半以後、東インド会社がインド産の綿織物(キャラコ)を輸入するようになると、吸湿性・耐久性に優れ、しかも様々な用途に使えるインド産キャラコは物珍しさもあって、イギリス上流階級の間で一種のブームを呼び起こしました。

 その為、毛織物業者は猛烈に反対し、インド産綿織物の輸入を禁止させます(1700年)が、綿織物に対する需要は根強く、インド産の綿織物に匹敵する優れた綿織物を作り出すことがイギリスの新興木綿工業の目標となりました。
工程が多く、機械化が困難であった毛織物工業に比べて機械化が容易であり、又毛織物工業の様な規制がなかった為、木綿工業の部門では次々と独自の技術が発明され、木綿工業は18世紀後半には毛織物工業 に代わって繊維産業の中心に成長します。

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ジョン・ケイ(John Kay, 1704年6月17日 - 1780年)

 毛織物工業の工場で布を織る職人であったジョン・ケイ(1704年~80年)が、1733年に「飛び杼」を発明しました。
当時の織布は、織工が一方の手で杼(ひ、横糸を縦糸の間を通すための織機の付属物)を縦糸の間に投げ込んで、もう一方の手で受けていたので、織布の幅は織工の両手の幅で決定され、広幅の織布を織るには1台に2・3人が付かねばなりませんでした。

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「飛び杼」

 ジョン・ケイは、織機の中央のひもを引くと横糸用の杼がバネで左右に飛ぶ「飛び杼」を発明し、これによって速度は2倍になり、広幅の布を織ることも可能になったのですが、一方この発明によって糸の不足をきたし、今度は優れた紡績機の発明が促されたのです。

 紡績は、昔から手動式の紡ぎ車で行われていましたが、紡錘は1つしかなかったので、1人で1本の糸しか紡げませんでした。

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ジェニー紡績機

 ハーグリーヴズ(?~1778年)も布を織る職人でしたが、1764年頃多軸紡績機を発明しました。多軸紡績機はローラーを利用して1人で同時に8本の糸を紡ぐことが出来、彼はこの紡績機に妻の名にちなんでジェニー紡績機と命名しました。
ジェニー紡績機は人力で運転でき、軽便で廉価であったので急速に普及し、その改良機は1人で80本の糸を紡ぐことが出来る迄に成りました。

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改良型ジェニー紡績機

 アークライト(1732年~92年)は、貧しく教育も受けられなかったのでかつら師となります。
1768年にジェニー紡績機を改良して、水力紡績機を発明し、この機械は水力を動力としましたが、後には蒸気機関を動力とし(1790年)、強い糸の連続生産が可能に成りました。

 水力を動力として使うには、工場を急流を利用しやすい山の中腹に建てなければならなかったのですが、蒸気機関を利用するようになると立地の制約がなくなり、工場は平野部に建てられるように成り、大量生産が可能と成りました。

 ジョン・ケイやハーグリーヴズをはじめ発明家の多くが貧困・不遇な生涯を送っている中で、アークライトは富と名誉を得た希な人物でも在りました。

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サミュエル・クロンプトン(Samuel Crompton:1753年12月3日 - 1827年6月26日)

 クロンプトン(1753年~1827年)は、ジェニー紡績機と水力紡績機の長所を取り入れ、1779年にミュール紡績機を発明しました。
ここにミュールとは、らば(ろばと馬のあいの子)の意味です。

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ミュール紡績機(現存する唯一の機器)

 ミュール紡績機は、非常に優れた紡績機で、水力紡績機では強いが太い糸しか紡げなかった点をミュール紡績機の発明によって細くて強い糸が紡げるように成り製品の質が安定し、インド産の綿織物に匹敵する綿織物が生産できるようになった反面、クロンプトンは特許を取らなかったので不遇のうちに没しています。

 優れた紡績機の発明によって、糸が生産過剰と成り、今度は織物機の改良が必要と成りました。
そうした中で織布部門での重要な発明がカートライトによって成されました。
力織機の発明です。

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エドモンド・カートライト(Edmund Cartwright, 1743年4月24日 - 1823年10月30日)

 カートライト(1743年~1823年)は、牧師でありながら機械の発明に熱中し、1785年にアークライトの水力紡績機にヒントを得て力織機を発明しました。
力織機には初め馬の力が利用されましたが、後には蒸気機関が使用されました(1789年)。
力織機は、飛び杼の3.5倍の能力と云われ、これによって綿織物の生産量は著しく増加します。

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力織機

 ミュール紡績機や力織機の発明によって、今度は原料である綿花の処理が追いつかなく成りました。
綿花は、インド・西インド諸島・アメリカ南部等から輸入されていました。
アメリカ南部の綿花は良質ですが綿の繊維が種子に付いていて分離作業が面倒でした。
綿花の処理の能率をあげる機械の発明を依頼されたアメリカ人のホイットニー(1765年~1825年)は、1793年に綿繰り機を発明しますた。

 綿繰り機は、回転筒に針金を鋸歯状に取り付けて、綿の繊維を種子から外す機械で、この発明によってそれまで処理困難であったアメリカ綿の処理能力が30~50倍に上昇し、人件費は1割以下と成り、このためアメリカ南部における綿花栽培は急激に増加し、アメリカ南部の綿花王国が出現する端緒となりました。

ジョークは如何?

同じ水域で操業しているのに、日本漁船の方がソ連漁船より漁獲量がなぜ多いのかについて政治集会で熱心に討議がかわされた。
一人の漁師が立ち上がって言った。

「原因は分りませんが、日本の漁師は網を引き上げて魚が入っていないと、魚が捕れるまで何度もくり返し網を海にいれます。
 しかるに我が国では、網に魚が入っていないと政治集会を開いて不漁を討議します。
この違いが・・・・・」


続く・・・

2016/07/01

歴史を歩く200

1 フランス革命とナポレオン⑫

8 ナポレオンの没落(その2)


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ロシア遠征時のフランス周辺諸国と進軍、撤退経路

 ナポレオンは、1812年6月、ニーメン川河畔に「大陸軍」を集結させました。
この時集結した大陸軍はフランス・オーストリア・プロイセン・ライン同盟・ポーランド・イタリア等から成る混成部隊で、その数は約60万人(この数は第一次世界大戦迄破られることがなかった)でした。
これに対するロシア軍の総数は約16万人でした。

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ニーメン川(ネマン川)渡河

 6月4日、ニーメン川渡河が始まり、数日間続いたのですが、暑さの為に多数の兵士が日射病で倒れ、おびただしい落伍者が発生した為、国境を越えてロシアに侵入した大陸軍は約47.5万人であったものの、ロシア軍は、兵力があまりにも劣勢でひたすら決戦を避け、退却に退却を重ねました。

 ロシアに侵入した大陸軍は更に進軍しますが、炎天下の行軍・生野菜の不足・赤痢等で次々と倒れ、ヴィデブスク(国境から約300km)に到達した頃(7月24日)には、37.5万人になっていました。ロシア軍は更にスモレンスク迄退却し、大陸軍もスモレンスクに進軍し、これを攻撃・占領するものの(8月16日)、彼等が入城した時には町は焦土作戦の為猛火に覆われ、ロシア軍は既に撤退しており、しかもスモレンスク占領時の大陸軍は15.5万人に減っていました。

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ミハイル・イラリオーノヴィチ・ゴレニーシチェフ=クトゥーゾフ公爵
( Михаил Илларионович Голенищев-Кутузов: 1745年9月16日 - 1813年4月28日)


 これより前、ロシア軍事委員会は、敗戦の原因は指揮の不統一にあるとして、ロシア最古参の老将クトゥーゾフ元帥(1745年~1813年)を起用して準備を整えます。

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ボロディノの戦い・戦場のナポレオン


 クトゥーゾフ元帥は、モスクワの西方約90kmのボロディノで初めて激戦を交えました。
ナポレオンの率いる13万の大陸軍とクトゥーゾフの率いるロシア軍が激突したものの勝敗は決せず、双方とも4万の死者を出し、両軍共に勝利を伝えています(ボロディノの戦い、1812年9月7日)。

 1812年9月14日、ナポレオンは終にモスクワに入城したが、街には人影が在りません。
当時モスクワの人口は約30万人、市民の大部分は街を立ち退き、残っていたのは親仏派の人々と貧しい人々5千から1万人と云われています。

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モスクワ明け渡しを決断するクトゥーゾフ(Alexey Danilovich Kivshenko画)

 14日の夜から、有名な「モスクワの大火」が発生し、モスクワの街は4日間にわたって燃え続け、市域の4分の3を焼き尽くしました。
火事の原因については、ナポレオンの兵士達による失火説もありますが、ロシアの焦土作戦による放火で、食料と居所を失った大陸軍は農村部へ移動せざるを得ませんでした。

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冬将軍の到来


 ナポレオンは、アレクサンドル1世に手紙を出して和平交渉を試みますが、1ヶ月経っても返事は来なかった上に、ロシアの冬が近づきつつあったのです。
ナポレオンは終にモスクワからの退却を決意し、1812年10月19日、モスクワからの退却が開始されました。
之に呼応する様にナポレオン軍が退却を始めると、ロシア軍・ゲリラが奇襲を仕掛け、しかも11月にはいると「冬将軍」が到来し、激しい寒気が始まり、雪が降り続きます。
ナポレオン軍は、11月8日、やっとスモレンスクに辿り着きます。
ナポレオンの最初の計画ではこのスモレンスクで越冬する予定でしたが、もはやスモレンスクには食料や燃料は殆んど無かったのです。

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モスクワ撤退

 モスクワを退却時には10万であった軍が、スモレンスクでは3.7万になり、ベレジナ川迄退却した時には3万になっていました。
10万のロシア軍の追撃を受けるなかで、11月26日に始まったベレジナ川渡河は凄惨を極め、3万の兵は8500になり、12月10日、ニーメン川を渡ってロシアの勢力圏を脱出したのは僅か5000にすぎませんでした。
12月18日、ナポレオンは敗軍の将としてパリに戻りました。

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ベレジナ川渡河

 このナポレオンのロシア遠征については、トルストイ(1828年~1910年)の壮大な長編小説『戦争と平和』(1864年~69年)に詳しく書かれています。
又ロシアの作曲家チャイコフスキー(1840年~93年)も、ナポレオンのロシア遠征を題材として 「序曲1812年」を作曲しました。

 ナポレオンがロシアで敗れたとの報はたちまちヨーロッパ各地に広まり、諸国はいっせいに解放戦争に立ち上がり、第6回対仏大同盟(1813年~14年)が結成されました。

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ライプチヒの戦い

 1813年10月16日、ロシア・プロイセン・オーストリアの同盟軍33万とフランス軍15万が激突したライプチヒの戦い(諸国民戦争)は、3日間にわたって激戦が続きましが、フランス側にあったザクセン軍の突然の寝返りの為に同盟軍がナポレオン軍に大勝し、ナポレオンはパリに敗走し、同盟軍はライン川を越え(1814年1月)、1814年3月31日パリに入城します。

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エルバ島へ旅立つナポレオン

 1814年4月、フランス元老院はナポレオンの廃位を宣言し(4月2日)、ナポレオンは退位宣言に署名し(4月11日)、フォンテンブロー宮に別れを告げ(4月20日)、5月4日にエルバ島に流刑されました。

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ルイ18世(Louis XVIII、1755年11月17日 - 1824年9月16日)

 1791年以来国外に亡命していたルイ16世の弟が5月に帰国し、ルイ18世(在位1814年~24年)となり、ブルボン朝が復活しました。
ウィーンでは、ナポレオン没落後の秩序再建の為にウィーン会議(1814年9月~1815年6月)が開かれましたが、領土配分をめぐって会議は紛糾します。

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ナポレオン エルバ 島 脱出

 ナポレオンは、同盟国側によってエルバ島(ナポレオンが生まれたコルシカ島の東48kmの所にある島)に流されましたが、その時同盟国側が示した条件は「ナポレオンはエルバ島に流され、年額補助200万フランを受け取り、皇帝の称号を保持し、400人の近衛兵を保有する」と云う緩やかな条件でした。

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ミシェル・ネイ(Michel Ney、1769年1月10日 - 1815年12月7日)

 ナポレオンは、ウィーン会議が紛糾している事、又ルイ18世の反動政治に対する国民の不満が高まっているのをみて、1815年2月26日に密かにエルバ島を脱出し、1000人の兵と共に3月1日にカンヌに上陸し、ほとんど抵抗を受けることなく、「皇帝万歳」の声に迎えられてグルノーブル・リヨンを経てパリに進軍します。
ルイ18世が派遣した討伐軍もネイ元帥(1769年~1815年、特にロシア遠征の退却戦で功をたてた名将)をはじめ次々とナポレオンに従い、3月20日、ナポレオンはパリに入城、再び皇帝位に就き、以後再び退位する迄は、ナポレオンの「百日天下」(1815年3月20日~1815年6月22日)と呼ばれています。

 当時のパリの新聞の見出しは、ナポレオンが北上するにつれて変わっています。
マスコミの権力者に対する姿勢が見えていて興味深いものがあります。
「怪物、流刑地を脱出」、「コルシカの狼、カンヌ上陸」、「悪霊、グルノーブルを占拠」、「専制皇帝、リヨンに入る」「ボナパルト、北方へ進撃中」「皇帝陛下、フォンテンブローへ入られる」。

 ナポレオンのエルバ脱出の報がウィーンに伝えられると、列強は急速に妥協に向かい、6月にウィーン議定書に調印し、イギリス・プロイセン・ロシア・オーストリアの間で第7回対仏大同盟(1815年)が結成されました。

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ワーテルローの戦い
 
ナポレオンは、僅か2ヶ月の間に25万の軍を集め、12万の兵を率いてパリを出発し、ベルギー方面へ進出し、6月16日・17日にプロイセン・イギリス軍と戦い、プロイセン軍に打撃を与え,1815年6月18日のワーテルローの戦いに臨みます。

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戦場のウェリントン将軍

 ナポレオン軍7.4万、ウェリントン(1769年~1852年、イギリスの軍人、後に首相となる)の率いるイギリス軍6.7万が、ベルギーのワーテルローで激突し、午前11時半頃戦いの火ぶたが切られ、フランス軍は攻撃をくり返しましたが、イギリス軍は頑強に守りぬき、午後4時半頃、前日フランス軍に敗れて退却していたプロイセン軍が来援してイギリスと合流すると、イギリス・プロイセン連合軍が優勢となり、午後8時頃フランス軍の突撃が失敗に終わり、フランス軍の敗北は決定的となります。
フランス軍の戦死者4万以上、連合軍の戦死者は2.2万であった。

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セント・ヘレナにて

 ナポレオンは、パリに敗走(6月21日)、6月22日に退位し、7月に入って連合軍がパリに入城(7年3月)、ルイ18世が再び即位しました(7月8日)。
ナポレオンは連合軍の決議によって、アフリカ西岸の遥か1800kmにある絶海の孤島、イギリス領のセント・ヘレナに流され(1815年10月)、1821年5月5日に波乱の生涯を終えました。
その死因については胃ガン説が有力ですが、ヒ素による毒殺説も存在します。

ジョークは如何?

このたび、ソ連の誇る自転車工場が創立10周年を迎えた。
それを祝う式典には、自転車修理を依頼した、工場最初のお客を呼ぶことになった。

華やかな式典のクライマックスでは、ファンファーレが鳴り響く中、彼を称える祝
辞と共に立派なトロフィーが手渡される。
式次第も最後となり、来賓として演説台に上った彼は、会場を埋め尽くした工員達
を前に照れながら、祝辞とトロフィーへの返礼の挨拶を述べた。

「普段厚かましく生きているつもりの私が照れてしまうほどのお褒めの言葉と一緒
 に、このような立派な記念品までいただいて・・・
 ところで話は変わりますが、私がお願いした自転車は、いつ直るのでしょうか?」


続く・・・