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2016/08/27

歴史を歩く208

30 自由を求めて④

2ウィーン体制とその動揺(その3)

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ギリシア人の独立蜂起

 ギリシアは、1000年以上にわたってローマ帝国・ビザンツ帝国の支配下にありましたが、ビザンツ帝国の滅亡後(1453年)はオスマン・トルコ帝国の一州となり、イスラム教徒の支配下に置かれてきました。
しかし、オスマン・トルコが17世紀以後衰退に向かう中で、ギリシア人は商人・官僚として活躍し、経済や外交面で大きな力を持つように成っていました。

 19世紀に入ると、フランス革命やナポレオン戦争による自由主義・国民主義がギリシアにも及ぶようになり、ギリシア人はオスマン・トルコからの独立を求めて蜂起します。

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セルビア蜂起、ネゴディンの戦い

 1820年にアルバニアでオスマン・トルコに対する反乱が起こると、翌1821年にヘタイリア・フィリケ(ギリシアの独立をめざす秘密結社、ギリシア語で「友の会」の意味)がルーマニアで反乱を起こしますが、この反乱は失敗に終わったものの、この反乱が契機となってギリシア独立戦争(1821年~29年)に繋がっていきます。

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1821年3月25日、戦いの宣誓を行うパトラ府主教パレオン・パトロン・ゲルマノス

 1821年3月にペロポネソス半島で始まったギリシア人の独立蜂起は、たちまちギリシア全土に広まり、1822年1月には独立宣言が行われました。
これに対して、オスマン・トルコ帝国は報復として、コンスタンティノープルでギリシア人の大虐殺を行うと共に、シオ(キオス)島に軍隊を送り込み、22,000人の島民を虐殺し、47,000人の男女を奴隷としました(シオの虐殺、1822年4月)。

 フランスのロマン派の代表的な画家ドラクロワ(1798年~1863年)は、「シオの虐殺」(1824年に出品)を描いて、ギリシアへの救援を訴えて大きな反響を呼んでします。

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ミソロンギに上陸したバイロン

 更にオスマン・トルコ帝国は、エジプト太守のムハンマド・アリ(1769年~1849年)にギリシアの鎮圧を命じ、トルコ軍はイオニア海岸のミソロンギを包囲し(1825年)、翌年ここを陥落させます。
この時、イギリスの代表的なロマン派の詩人バイロン(1788年~1824年)は、自分の炭田を売り払って資金を作り、武器・弾薬を積み込んで、1824年1月にミソロンギに入境しますが4月に病死しています。

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モレア地方に上陸したイブラーヒーム・パシャ軍

 ヨーロッパの人々にとって、ヨーロッパ文明の発祥の地であるギリシアはあこがれの地であり、又異教徒のトルコ人に対して独立のために戦うギリシア人に同情し、バイロンをはじめ多くの人々が義勇兵としてギリシア独立運動に参加しました。

 ミソロンギの陥落(1826年)後の不利な状況のなかでも、ギリシア人の独立運動は続けられ、その頃、ヨーロッパの国際関係に変化が生じ、ギリシアにとって有利な状況が現れてきます。

 メッテルニヒは、正統主義の立場からギリシアの独立戦争に対してはオスマン・トルコ帝国を支持していましたが、1825年にロシアで、メッテルニヒに同調してきたアレクサンドル1世が急逝してニコライ1世(在位1825年~55年)が即位すると、ロシアはギリシア援助を口実にトルコに宣戦してバルカン半島へ南下する可能性が生じてきました。

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総督府で執務中のムハンマド・アリー

 ロシアの南下を警戒するイギリスは、フランス・ロシアを加えた3国でロンドン会議(1827年~32年)を開き(1827年7月)、トルコに休戦調停を申し入れ、この申し入れをトルコが受け入れない時は、ギリシアを援助して海軍を出動させる事を趣旨としたロンドン条約を結びます。

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ナヴァリノの海戦

しかし、トルコがメッテルニヒの支援を期待してこれを拒否したために、イギリス・フランス・ロシア連合艦隊が出動し、1827年10月にナヴァリノの海戦でトルコ・エジプト艦隊を撃滅し、この海戦によってギリシア独立が可能と成りました。

 翌1828年4月、ロシアはトルコに宣戦してアドリアノープルを占領し、アドリアノープル条約(和約)(1829年9月)が結ばれ、この条約で、ロシアはトルコにドナウ川沿岸・黒海沿岸を割譲させ、トルコはギリシアの独立を承認しました。
翌1830年2月に開かれたロンドン会議で、ギリシアの完全独立が国際的に承認され、1832年にはバイエルン王家からオットー1世(在位1832年~62年)が国王に迎えられました。

 ギリシアの独立は、ウィーン会議後のヨーロッパに於ける最初の領土変更で、ウィーン体制がもはや維持できなくなったことを示しています。 

ジョークは如何?

第二次世界大戦の後、ジューコフ将軍とアイゼンハワー将軍が会見した。

 お互いの戦術論をぶつけあい、親睦を深め合う二人の将軍。
話はやがていかに地雷原を突破するかに及び、アイゼンハワーは連合軍が苦心して考え出した地雷対策を披露した。

「戦車の前にドラム缶を装備して地面を叩いたり、事前砲撃でじっくり地雷原を叩き潰すのがコツなんです」
 しかし、それを聞いたジューコフは、感銘を覚える様子も無くただにやにやと得意そうな笑みを浮かべた。
「いやいや将軍、それよりよほど確実で効果のある方法がありますよ」
 ジューコフは得意げな表情を崩さずこう言った。
「簡単な事です、歩兵にその上を行軍させれば宜しい」


続く・・・

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2016/08/24

歴史を歩く207

30 自由を求めて③

2ウィーン体制とその動揺(その2)

 1810年代から20年代に起こった自由主義運動はいずれも鎮圧されてしまいますが、時代の流れに逆らって自由主義・国民主義運動を抑圧しようとするウィーン体制は次第に崩れ始めました。

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ラテン・アメリカの独立運動

 その動きは、まず新大陸のラテン・アメリカの独立運動として始まりました。
ラテン・アメリカは、19世紀初頭迄は主にスペインの植民地(ブラジルのみはポルトガルの植民地)でしたが、スペイン・ポルトガルの植民地はアメリカ独立革命やフランス革命の影響を受け、又本国がナポレオンの支配下に置かれた事に乗じて独立運動を起こし始めます。

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ハイチの独立・サントドミンゴの戦い

 ラテン・アメリカで、まず独立を果たした地域ハイチでした。
ハイチは1697年にスペイン領からフランス領になり、フランス革命に際して、黒人奴隷が反乱を起こし(1791年)、独立運動が始まります。
その後、ナポレオン軍を撃退して1804年に独立し、世界最初の黒人共和国となりますが、ハイチの独立に続いて、1810年代になると反乱は各地に拡大して行きます。

 ラテン・アメリカの独立運動の中心となったのは、植民地生まれの白人であるクリオーリョで、彼等は、本国から来た役人・軍人等から厳しい差別を受けており、本国の政策に対して強い不満を持っていました。
又白人とインディオの混血であるメスティーソや、白人と黒人の混血であるムラートはクリオーリョより更に厳しい差別を受けており、彼等も独立と解放を望んでいたのです。

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サン・マルティン(左)とシモン・ボリバル(右)

 シモン・ボリバル(1783年~1830年)は、ベネズエラのスペイン人大地主の家に生まれたクリオーリョで、スペインで教育を受けた後、帰国して大農場を経営していましたが、1810年に独立運動に参加した。カラカス解放に成功し(1814年)、「解放者」の称号を得たのも束の間、本国軍の反撃にあって一時亡命します。
1819年には、大コロンビア共和国(現在のコロンビア・ベネズエラ・パナマを合わせた国、後にエクアドルも加わった)の樹立に成功し、その大統領に就任しますが、その後、ボリビア共和国(ボリビアの国名はボリバルの名に因んでいる)の独立にも成功した(1825年)ものの、大コロンビア共和国の解体(1830年)に失望して引退し、まもなく病没します。

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サンマルティン将軍像(Jose' Francisco de San Marti'n 1778年ー1850年)

 アルゼンチン・チリ・ペルーの独立運動の指導者であるサン・マルティン(1778年~1850年)やメキシコの独立運動の指導者であるイダルゴ(1753年~1811年)もクリオーリョの出身でした。

 この様に1810年代には、パラグアイ(1811年)・アルゼンチン(1816年)・チリ(1818年)・コロンビア(1819年)・ベネズエラ(1819年、最初は大コロンビアと合邦、1830年に分離独立)等が独立して共和国として成立します。
1820年代には、メキシコ(1821年)・ペルー(1821年)・中央アメリカ連邦共和国(1821年、コスタリカ・グアテマラ・ホンジュラス・ニカラグア・エルサルバドルが合邦して形成)・ブラジル(1822年、ポルトガルの王子を頂いて帝国として独立)・ボリビア(1825年)・ウルグアイ(1828年)等も宗主国の束縛を逃れ独立しました。

 ウィーン会議の正統主義に従えば、ラテン・アメリカはスペイン・ポルトガルの植民地であるべきで、ラテン・アメリカ諸国の独立はウィーン体制の破綻に繋がることになります。
メッテルニヒは、ラテン・アメリカの独立運動を革命とみなし、ウィーン体制を乱すものと考え、神聖同盟の名の下にラテン・アメリカの独立運動に武力干渉を画策します。

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ジョージ・カニング( The Rt.Hon. George Canning 1770年4月11日 - 1827年8月8日)

 イギリス外相のカニング(1770年~1827年、任期1807年~09年、22年~27年)は、ラテン・アメリカ市場へのイギリス商品の進出のため、神聖同盟の干渉に反対し、ラテン・アメリカ諸国の独立を承認・援助しました。

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ジェームズ・モンロー(James Monroe 1758年4月28日 - 1831年7月4日)

 又アメリカ合衆国の第5代大統領モンロー(任期1817年~25年)も、1823年12月に、有名な「モンロー宣言(教書)」を発表します。

モンロー宣言(抜粋)
「それゆえに、我々は率直に、又合衆国とこれら諸国との間に存する友好関係に恩義を感じつつ、これら諸国の政治体制を西半球のどの部分にも拡張しようとする企ては我々の平和と安全を害するものと考えることをここに宣言する。
ヨーロッパ諸国の現在の植民地あるいは従属国について我々はかつて干渉したことはなく、将来も干渉しないであろう。
しかし、既に独立を宣言し、それを維持し、又その独立について我々が熟考し、正しい基準に基づいて承認した諸政府については、我々はヨーロッパ諸国がその独立政府を抑圧し、或いは他の方法でその運命を支配するような目的をもって行う如何なる干渉も、合衆国に対する非友好的態度の表れとみなさない訳にはゆかない。・・・ 」


 神聖同盟によるラテン・アメリカ諸国の独立運動への干渉に反対し、ヨーロッパ諸国とアメリカ大陸諸国との相互不干渉を唱えたので、メッテルニヒの企ては失敗に終わりました。

 ラテン・アメリカ諸国の独立によって、ウィーン体制はヨーロッパ外から崩れ始め、1820年代にはヨーロッパ大陸でも、メッテルニヒ等ウィーン体制を維持しようとする勢力に大打撃を与える出来事が発生します。

其れがギリシアの独立なのです。

ジョークは如何?

ユダヤ&日本

第二次世界大戦が終わった。

世界最強の商人は世界最強の兵士になった。
世界最強の兵士は世界最強の商人になった。


続く・・・

2016/08/17

歴史を歩く206

30 自由を求めて②

2ウィーン体制とその動揺(その1)

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 ウィーン会議の結果成立したヨーロッパの新しい政治体制は、ウィーン体制と呼ばれます。
ウィーン会議の基本原則である正統主義は、フランス革命前の状態に戻し、その状況を維持していく復古主義であり、ウィーン体制は結果的に保守反動体制と成り、更なる革命や戦争の再発を防ぎ、この新しい国際秩序を守るために、神聖同盟や四国同盟が結成されました。

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オスマン=トルコ帝国の領土縮小

 神聖同盟は、1815年9月にロシア皇帝アレクサンドル1世(在位1801年~25年)が提唱し、オーストリア皇帝・プロイセン国王の3人の間で結ばれた同盟でしたが、やがてイギリス国王・ローマ教皇・オスマン=トルコ皇帝を除く各国君主が参加しました。
神聖同盟は、各国君主がキリスト教の正義・友愛の精神に基づいて平和維持のために協力することを謳った精神的な盟約で条文等は存在しませんでした。

 イギリス国王・ローマ教皇・オスマン=トルコ皇帝は神聖同盟に参加しませんでした。
イスラム教国であるオスマン=トルコはキリスト教君主との同盟を拒否して参加せず、又ローマ教皇は、ロシア皇帝の称えるキリスト教とはギリシア正教であり、カトリックの教理と合致しないこと、そして新教諸国との同盟を避けるために参加していません。
イギリス不参加の理由は簡単ではなく、当時の外相カスルレーは、精神的な盟約で罰則も締結者の義務も定められてない神聖同盟を「気高き神秘主義とナンセンスの紙切れ」と酷評しています。

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王政復古・ルイ18世( Louis XVIII、1755年11月17日 - 1824年9月16日)

 神聖同盟は、キリスト教の正義・友愛の精神に基づいて平和を維持することを謳っているところから、国際協力による平和維持の思想の先駆とされていますが、その前提になっているのは反動的なウィーン体制の維持にあり、現在の国際連合等とは全く性格が異なるものでした。

 1815年11月、同盟国とフランス間で第2次パリ条約が結ばれ、フランス国境を1790年の国境に戻すこととフランスに賠償金を課すことが定められ、この第2次パリ条約と同じ日にイギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアの間で四国同盟が締結されています。

 四国同盟の目的は、四カ国が協力してヨーロッパの平和を維持する、そのためにフランスを監視してボナパルト家の復活やフランスの侵略戦争防止を図るものでしたが。1818年9月には、監視されるはずのフランスの加入が承認され、五国同盟が成立します。

 五国同盟の成立によって、その目的はフランスを監視することから、フランス革命やナポレオン支配のもとで目覚めた諸国民の間に起こってきた自由を求める自由主義運動や民族統一と外国支配からの解放を求める国民主義(ナショナリズム)運動を抑圧し、反動的なウィーン体制を守る理念に替わっています。

 保守反動政策の中心人物であり、19世紀前半のヨーロッパ外交をリードしたメッテルニヒは、神聖同盟や四国同盟(五国同盟)を自由主義運動の抑圧に利用しましたが、自由を求める運動は、1810年代から20年代にかけてヨーロッパ各地で次々と起こっていきます。

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ブルシェンシャフト運動

 ドイツでは、1817年10月18日、ブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟、1815年に成立したドイツの大学生の団体)が、ルター宗教改革300年祭とライプチヒ戦勝記念式典をワルトブルクの森で行い、自由とドイツの統一を求めてドイツ各地から700~800人の学生が集まり気勢を上げました。

 メッテルニヒが学生の自由主義運動の弾圧に乗り出し、彼は、1819年にカールスバードでドイツ連邦議会を開き、ブルシェンシャフトの解散・言論出版の自由の制限・進歩的な教授の追放などを決議し(カールスバード決議、1819年9月)、これによってブルシェンシャフトは壊滅しました。

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ラファエル・デル・リエゴ・イ・ヌーニェス (Rafael del Riego y Nuñez 1784年4月9日 - 1823年11月7日)

 スペインでは、1820年1月にスペイン立憲革命が起こります。 
スペインでは、ナポレオンに対するスペイン反乱(1808年~14年)の最中にコルテス(議会)が成立し、主権在民・男子普通選挙制・出版言論の自由などを定めたスペイン最初の自由主義憲法(1812年憲法)が定められていましたが、ナポレオンの没落後、ブルボン朝が復活すると憲法が廃止され再び専制政治に逆戻りした結果、リェゴ(1785年~1823年)等が立憲革命を起こし、1812年憲法の復活を宣言しました(1820年1月)。

 革命が全国に波及するなかで、国王も憲法復活を布告し(1820年3月)、スペイン立憲革命は成功するかに見えましたが、1822年の選挙で急進派が勝利すると国王は神聖同盟に干渉するように要請しました。

 これを受けて五国同盟はヴェロナ会議(1822年10月、ヴェロナは北イタリアの小都市)を開き、スペイン革命の鎮圧をフランスに委譲することを決議し、この決議に基づいて、フランスは翌1823年にスペインに出兵してマドリードを占領し(1823年8月)、スペイン立憲革命は挫折し、そしてリェゴは王党派によって処刑されます(1823年)。

 このヴェロナ会議で、イギリスはスペインへの干渉に反対し、五国同盟は事実上崩壊しました(1822年10月)。
イギリスが反対したのは、スペイン及びその中南米植民地がイギリス市場及び原料の供給地として価値が高く、それを失うことを恐れた結果でした。

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1822年9月12日、ナポリ革命指導者の絞首刑執行

 イタリアでも、カルボナリ(炭焼党)によるナポリ革命(1820年)・ピエモンテ立憲革命(1821年)が起こいます。

 カルボナリは、1806年頃、南イタリアで結成された革命的秘密結社で、専制政治の打倒・自由平等の実現を目的とし、1814年以後、北イタリアにも浸透するにつれて立憲自由主義運動としての性格が強まります。
彼等は炭焼き人夫を装って山中に入り、炭焼き小屋で集会を開いたので炭焼党と呼ばれるようになったといわれています。

 カルボナリは、1820年7月にナポリで蜂起し、国王にスペインの1812年憲法とほぼ同じ内容の憲法を認めさせ、翌1821年3月にはピエモンテ(北イタリアのポー川上流地方、トリノを州都とする)でも蜂起し、サルデーニャ(サルディニア)国王にスペインの1812年憲法の採用を約束させます。

 これに対してメッテルニヒは、オーストリア領の北イタリアに革命が波及することを恐れ、1821年にライバッハで五国会議を開き、イタリア革命に対する武力干渉とオーストリアの出兵を承認させ、オーストリア軍は、1821年3月にナポリを占領し、4月にはピエモンテに侵入してカルボナリを中心とする革命派軍を破り、革命派を徹底的に弾圧します。

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デカブリスト(十二月党)の乱

 ロシアでは、1825年12月にデカブリスト(十二月党)の乱が起こります。
ナポレオン戦争でフランス軍と戦ったロシアの青年貴族将校達は、自国の後進性を痛感し、フランス軍が強い理由は、フランス軍の中心である農民が農奴から解放された中小土地所有農民であることだと考え、彼等は帰国後秘密結社をつくり(1816年)、専制政治と農奴制の廃止・憲法制定を目標としました。

 1825年12月、アレクサンドル1世が急死してニコライ1世(在位1825年~55年)が即位した日に、デカブリストは蜂起したものの鎮圧され、こうして、1810年代から20年代に起こった自由主義運動はいずれも鎮圧されました。

ジョークは如何?

カエサルの凱旋行進の際、兵士達が叫んだと伝えられる言葉

「ローマ市民よ女房を隠せ、禿の女たらしのお帰りだ!」

続く・・・


2016/08/12

歴史を歩く205

30 自由を求めて①

1ウィーン会議

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ウィーン会議

 フランス革命とナポレオン戦争の戦後処理のため、1814年9月から翌15年6月にかけてウィーン会議が開かれ、この会議は、オスマン・トルコ帝国を除く全ヨーロッパ諸国、90の王国、53の公国の代表が参加して開かれた大国際会議でした。

 各国の主な出席者は、イギリスからはウェリントンと外相カスルレー、オーストリア外相メッテルニヒ、プロイセン首相ハルデンベルク、ロシア皇帝アレクサンドル1世、そしてフランス外相タレーランで、会議を主宰したのはメッテルニヒでした。

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クレメンス・ヴェンツェル・ロタール・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ=ヴィネブルク・ツー・バイルシュタイン(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein、1773年5月15日 - 1859年6月11日)

 メッテルニヒ(1773年~1859年)は、ライン地方の名門貴族に生まれ、大学で法律・外交を学んだ後に外交官と成り、フランス駐在大使(1806年)等を歴任し、1809年には外相に就任、ナポレオンとオーストリア皇女マリ・ルイーズとの結婚を画策しました(1810年)。
ナポレオンのロシア遠征失敗後は、解放戦争に参加し(1813年)、ウィーン会議では議長として新秩序の形成に努め、1821年~48年迄オーストリア宰相として国政を指導すると共に、ウィーン体制の維持に尽力します。

 会議は、イギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアの指導のもとに進められましが、領土配分をめぐる問題では各国の利害が対立して解決には困難を極め、「会議は踊る、されど会議は進まず」と評される程でした。
しかし、ナポレオンのエルバ島脱出の報が届くと(1815年2月)、各国は急速に妥協にふみきり、ワーテルローの戦いの直前にウィーン議定書(ウィーン条約)が調印されました(1815年6月9日)。

 ウィーン会議の基本原則となったのは、正統主義と勢力均衡でした。
正統主義とは、フランス外相タレーランによって提唱され、フランス革命前の主権と領土を正統とし、革命前の正統王朝と旧制度の復活をめざす復古主義的な理念です。

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シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord, 1754年2月13日(2月2日?) - 1838年5月17日)

 タレーラン(1754年~1838年)は、貴族の家に生まれたものの聖職者への道を選び、三部会には第一身分の代表として選出されました。
フランス革命を支持し、教会財産の国有化を提案して教皇から破門され(1791年)、8月10日事件(1792年)後、イギリスに亡命し、後にアメリカにも滞在します。
総裁政府の成立(1795年)後、帰国して外相となり(1797年~99年)、ナポレオン政権と第一帝政でも外相を務め(1799年~1807年)ますが、やがてナポレオンに見切りをつけ、ブルボン家に接近して王政復古に尽力し、王政復古後三度外相となり、ウィーン会議にはフランス代表として参加し、正統主義を提唱してフランス(ブルボン家)の戦争責任を巧に回避しました。

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ウィーン体制後のヨーロッパ

 ウィーン議定書は、全文121カ条からなりますが、その主な内容は次の通りです。
1、正統主義の原則に基づいてフランスではブルボン家が復位。

2、フランスの国境は1792年の国境に縮小されたものの、フランスの犠牲は僅かにとどまる。

3、スペインでもブルボン家が復位し、またローマ教皇領も復旧。

4、ライン同盟が廃止されたドイツでは、神聖ローマ帝国は復活されず、オーストリア・プロイセン以下の35の君主国と4自由市からなるドイツ連邦が組織され、オーストリアが連邦議会の議長として指導権を掌握。

5、オーストリアは、ネーデルランド(後のベルギー)を放棄し、その代償として北イタリアのロンバルディアとヴェネツィアを獲得した結果、領土は一つに統合。

6、プロイセンは、ポーランド分割で獲得したポーランドの領土を放棄する代償として、ザクセンの北半部と当時ドイツで最も産業が発達していたライン中流左岸地域を獲得。

7、ロシアは、ポーランド・フィンランド・ベッサラビアを獲得し、ワルシャワ大公国の大部分がポーランド王国となったが、ロシア皇帝がポーランド国王を兼ねることになったのでポーランドは事実上ロシア領となる。

8、イギリスは、ナポレオン戦争中に占領したマルタ島と旧オランダ領のセイロン島・ケープ植民地の領有が認められた。

9、オランダは、セイロン島・ケープ植民地を失った代償としてオーストリア領ネーデルランド(後のベルギー)を獲得した。

10.スイスは永世中立国となった。

 上の領土問題の取り決めをみると、ポーランド・ベルギー等の弱小国・弱小民族の犠牲の上に立って強国の勢力均衡(balance of power)がはかられていることがよく理解できると思います。

ジョークは如何?

ベルギー人「オーストリアは海に面していないのに海軍があるのはなぜ?」

オーストリア人「ベルギーだって文化省があるじゃないか」

続く・・・


2016/08/02

歴史を歩く204

29 産業革命④

5資本主義体制の確立

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手工業から大量生産へ

 産業革命によって、それまでの道具を使用する小規模な手工業に替わり、機械を使用する工場制機械工業が成立・発展し、安価で良質な商品が大量に生産されるようになり、従来の手工業や家内工業は急速に没落していきました。

 その結果、大工場を経営する産業資本家が労働者を雇って利潤を得ることを目的として商品を生産する経済の仕組み、すなわち資本主義体制が確立し、以後産業資本家は社会・経済・政治の分野で支配的な地位を確立して行きます。

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都市への人口集中(1850年代のロンドン)

 産業革命は、機械の使用によって人々の生活が一変し、生活が豊かに便利になった経済的な面だけでなく、社会・政治・文化等あらゆる面に大きな影響を与えました。
産業革命は、人口の都市集中・都市化と云う現在も進行している現象をもたらし、産業革命期のイギリスでは、木綿工業の中心地として急激に発展したマンチェスター、製鉄を中心とする金属工業で繁栄したバーミンガム、18世紀に奴隷貿易で発展し・産業革命期にはマンチェスターの外港として綿花の輸入や綿織物の輸出によって繁栄したリヴァプール等の大商工業都市が発展しました。

 マンチェスター、バーミンガム、リヴァプールの1685年頃の人口はそれぞれ6000人・4000人・4000人程度でしたが、1821年には16.4万人、10.2万人、13.8万人と成り、更に1880年には39.4万人、40.1万人、55.2万人の大都市に発展しています。
又、産業革命によって労働問題・社会問題が発生しました。
当時の資本家は利潤の追求のみを考え、機械に使用によって単純になった作業に婦女子や子供を低賃金で雇い、長時間働かせました。

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婦女子による低賃金・長時間労働

 紡績工場だけでなく、炭坑でも婦女子や子供が働いており、当時炭坑の坑道は低く更に狭かったので、小柄な女性や子供(通常は8~9歳)が石炭を積んだトロッコを体に結びつけて腹這いになって引いていました。
この余りに劣悪な児童労働が問題となり、下院に児童労働の実態調査を行う委員会が設置されて証人喚問が行われています。
以下の例はその委員会の報告書(1832年)の一部であり、文中に少女とあるのは、8~9歳でした。

サミュエル・クールスンの証言

「活況の時期には、少女達は朝の何時に工場に行きましたか。」
「活況の時期には、それは6週間ばかりの期間ですが、少女達は朝の3時には工場に行き、仕事を終えるのは夜の10時から10時半近くでした。」
「19時間労働の間に休息或いは、休養のためにどれだけの休憩時間が与えられましたか。」
「朝食に15分間、昼食に30分間、そして飲料をとる時間に15分間です。」
「その休憩時間のうちのどれ程が機械の掃除に回されましか。」
「時にはこの仕事が朝食の時間、或いは飲料を取る時間を全部使ってしまいました。」
「このように極端な労働をする子供達を、朝、目を醒まさせるのに大変苦労しませんでしたか。」
「そうです、早出の時には、彼女達を仕事に送り出す前に、身仕度させるために床の上におろすとき、眠ったままでいるのをかかえあげ、ゆすぶらなければなりませんでした。・・・。」
「若しも彼女達が僅かに遅刻したとして、この長時間の間にその影響はどうでしたか。」
「彼女達は労働時間が最も長いときでも、最も短かい時と同様にクォータされました。」
「クオータとはなんのことですか。」
「賃金を4分の1減らされることです。」
「どのくらい遅れたらクォータされるのですか。」
「5分間です。」
「この長期間労働の期間に、彼女達が寝床に入っていられる時間の長さは何れ位でしたか。」
「僅かな食事を摂った後で11時近くなってやっと彼女達を床に就かせることができました。」
「それではこの場合には彼女達は4時間以上の睡眠をとらなかったのですね。」
「そうです。とりませんでした。」
「それはどの位の期間継続しましたか。」
「6週間ばかり継続しました。」
「普通の労働時間は朝の6時から夜の8時半迄でしたね。」
「そうです。」
(平凡社『西洋史料集成』より)

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労働運動の始まり

 このように当時の労働者は、不衛生な住居と食事・危険な職場での過度の労働・貧困に苦しみ、みじめな生活を強いられていたので、彼等は次第に目覚め、労働組合の結成を図り、労働運動を起こすようになります。
又悲惨な労働者を救済するために資本主義体制の変革や廃止を主張する社会主義思想が生まれてくるのです。

ジョークは如何?

国連総会にて

ソ連代表「昔フルシチョフがミサイルをまるでホットドックを作るように
沢山作っている、と此処で演説した」
「だが今、我々はホットドックを作ることすら出来ません」

暫くしてソ連は崩壊した。


続く・・・