歴史を歩く208
30 自由を求めて④
2ウィーン体制とその動揺(その3)

ギリシア人の独立蜂起
ギリシアは、1000年以上にわたってローマ帝国・ビザンツ帝国の支配下にありましたが、ビザンツ帝国の滅亡後(1453年)はオスマン・トルコ帝国の一州となり、イスラム教徒の支配下に置かれてきました。
しかし、オスマン・トルコが17世紀以後衰退に向かう中で、ギリシア人は商人・官僚として活躍し、経済や外交面で大きな力を持つように成っていました。
19世紀に入ると、フランス革命やナポレオン戦争による自由主義・国民主義がギリシアにも及ぶようになり、ギリシア人はオスマン・トルコからの独立を求めて蜂起します。

セルビア蜂起、ネゴディンの戦い
1820年にアルバニアでオスマン・トルコに対する反乱が起こると、翌1821年にヘタイリア・フィリケ(ギリシアの独立をめざす秘密結社、ギリシア語で「友の会」の意味)がルーマニアで反乱を起こしますが、この反乱は失敗に終わったものの、この反乱が契機となってギリシア独立戦争(1821年~29年)に繋がっていきます。

1821年3月25日、戦いの宣誓を行うパトラ府主教パレオン・パトロン・ゲルマノス
1821年3月にペロポネソス半島で始まったギリシア人の独立蜂起は、たちまちギリシア全土に広まり、1822年1月には独立宣言が行われました。
これに対して、オスマン・トルコ帝国は報復として、コンスタンティノープルでギリシア人の大虐殺を行うと共に、シオ(キオス)島に軍隊を送り込み、22,000人の島民を虐殺し、47,000人の男女を奴隷としました(シオの虐殺、1822年4月)。
フランスのロマン派の代表的な画家ドラクロワ(1798年~1863年)は、「シオの虐殺」(1824年に出品)を描いて、ギリシアへの救援を訴えて大きな反響を呼んでします。

ミソロンギに上陸したバイロン
更にオスマン・トルコ帝国は、エジプト太守のムハンマド・アリ(1769年~1849年)にギリシアの鎮圧を命じ、トルコ軍はイオニア海岸のミソロンギを包囲し(1825年)、翌年ここを陥落させます。
この時、イギリスの代表的なロマン派の詩人バイロン(1788年~1824年)は、自分の炭田を売り払って資金を作り、武器・弾薬を積み込んで、1824年1月にミソロンギに入境しますが4月に病死しています。

モレア地方に上陸したイブラーヒーム・パシャ軍
ヨーロッパの人々にとって、ヨーロッパ文明の発祥の地であるギリシアはあこがれの地であり、又異教徒のトルコ人に対して独立のために戦うギリシア人に同情し、バイロンをはじめ多くの人々が義勇兵としてギリシア独立運動に参加しました。
ミソロンギの陥落(1826年)後の不利な状況のなかでも、ギリシア人の独立運動は続けられ、その頃、ヨーロッパの国際関係に変化が生じ、ギリシアにとって有利な状況が現れてきます。
メッテルニヒは、正統主義の立場からギリシアの独立戦争に対してはオスマン・トルコ帝国を支持していましたが、1825年にロシアで、メッテルニヒに同調してきたアレクサンドル1世が急逝してニコライ1世(在位1825年~55年)が即位すると、ロシアはギリシア援助を口実にトルコに宣戦してバルカン半島へ南下する可能性が生じてきました。

総督府で執務中のムハンマド・アリー
ロシアの南下を警戒するイギリスは、フランス・ロシアを加えた3国でロンドン会議(1827年~32年)を開き(1827年7月)、トルコに休戦調停を申し入れ、この申し入れをトルコが受け入れない時は、ギリシアを援助して海軍を出動させる事を趣旨としたロンドン条約を結びます。

ナヴァリノの海戦
しかし、トルコがメッテルニヒの支援を期待してこれを拒否したために、イギリス・フランス・ロシア連合艦隊が出動し、1827年10月にナヴァリノの海戦でトルコ・エジプト艦隊を撃滅し、この海戦によってギリシア独立が可能と成りました。
翌1828年4月、ロシアはトルコに宣戦してアドリアノープルを占領し、アドリアノープル条約(和約)(1829年9月)が結ばれ、この条約で、ロシアはトルコにドナウ川沿岸・黒海沿岸を割譲させ、トルコはギリシアの独立を承認しました。
翌1830年2月に開かれたロンドン会議で、ギリシアの完全独立が国際的に承認され、1832年にはバイエルン王家からオットー1世(在位1832年~62年)が国王に迎えられました。
ギリシアの独立は、ウィーン会議後のヨーロッパに於ける最初の領土変更で、ウィーン体制がもはや維持できなくなったことを示しています。
ジョークは如何?
第二次世界大戦の後、ジューコフ将軍とアイゼンハワー将軍が会見した。
お互いの戦術論をぶつけあい、親睦を深め合う二人の将軍。
話はやがていかに地雷原を突破するかに及び、アイゼンハワーは連合軍が苦心して考え出した地雷対策を披露した。
「戦車の前にドラム缶を装備して地面を叩いたり、事前砲撃でじっくり地雷原を叩き潰すのがコツなんです」
しかし、それを聞いたジューコフは、感銘を覚える様子も無くただにやにやと得意そうな笑みを浮かべた。
「いやいや将軍、それよりよほど確実で効果のある方法がありますよ」
ジューコフは得意げな表情を崩さずこう言った。
「簡単な事です、歩兵にその上を行軍させれば宜しい」
続く・・・
2ウィーン体制とその動揺(その3)

ギリシア人の独立蜂起
ギリシアは、1000年以上にわたってローマ帝国・ビザンツ帝国の支配下にありましたが、ビザンツ帝国の滅亡後(1453年)はオスマン・トルコ帝国の一州となり、イスラム教徒の支配下に置かれてきました。
しかし、オスマン・トルコが17世紀以後衰退に向かう中で、ギリシア人は商人・官僚として活躍し、経済や外交面で大きな力を持つように成っていました。
19世紀に入ると、フランス革命やナポレオン戦争による自由主義・国民主義がギリシアにも及ぶようになり、ギリシア人はオスマン・トルコからの独立を求めて蜂起します。

セルビア蜂起、ネゴディンの戦い
1820年にアルバニアでオスマン・トルコに対する反乱が起こると、翌1821年にヘタイリア・フィリケ(ギリシアの独立をめざす秘密結社、ギリシア語で「友の会」の意味)がルーマニアで反乱を起こしますが、この反乱は失敗に終わったものの、この反乱が契機となってギリシア独立戦争(1821年~29年)に繋がっていきます。

1821年3月25日、戦いの宣誓を行うパトラ府主教パレオン・パトロン・ゲルマノス
1821年3月にペロポネソス半島で始まったギリシア人の独立蜂起は、たちまちギリシア全土に広まり、1822年1月には独立宣言が行われました。
これに対して、オスマン・トルコ帝国は報復として、コンスタンティノープルでギリシア人の大虐殺を行うと共に、シオ(キオス)島に軍隊を送り込み、22,000人の島民を虐殺し、47,000人の男女を奴隷としました(シオの虐殺、1822年4月)。
フランスのロマン派の代表的な画家ドラクロワ(1798年~1863年)は、「シオの虐殺」(1824年に出品)を描いて、ギリシアへの救援を訴えて大きな反響を呼んでします。

ミソロンギに上陸したバイロン
更にオスマン・トルコ帝国は、エジプト太守のムハンマド・アリ(1769年~1849年)にギリシアの鎮圧を命じ、トルコ軍はイオニア海岸のミソロンギを包囲し(1825年)、翌年ここを陥落させます。
この時、イギリスの代表的なロマン派の詩人バイロン(1788年~1824年)は、自分の炭田を売り払って資金を作り、武器・弾薬を積み込んで、1824年1月にミソロンギに入境しますが4月に病死しています。

モレア地方に上陸したイブラーヒーム・パシャ軍
ヨーロッパの人々にとって、ヨーロッパ文明の発祥の地であるギリシアはあこがれの地であり、又異教徒のトルコ人に対して独立のために戦うギリシア人に同情し、バイロンをはじめ多くの人々が義勇兵としてギリシア独立運動に参加しました。
ミソロンギの陥落(1826年)後の不利な状況のなかでも、ギリシア人の独立運動は続けられ、その頃、ヨーロッパの国際関係に変化が生じ、ギリシアにとって有利な状況が現れてきます。
メッテルニヒは、正統主義の立場からギリシアの独立戦争に対してはオスマン・トルコ帝国を支持していましたが、1825年にロシアで、メッテルニヒに同調してきたアレクサンドル1世が急逝してニコライ1世(在位1825年~55年)が即位すると、ロシアはギリシア援助を口実にトルコに宣戦してバルカン半島へ南下する可能性が生じてきました。

総督府で執務中のムハンマド・アリー
ロシアの南下を警戒するイギリスは、フランス・ロシアを加えた3国でロンドン会議(1827年~32年)を開き(1827年7月)、トルコに休戦調停を申し入れ、この申し入れをトルコが受け入れない時は、ギリシアを援助して海軍を出動させる事を趣旨としたロンドン条約を結びます。

ナヴァリノの海戦
しかし、トルコがメッテルニヒの支援を期待してこれを拒否したために、イギリス・フランス・ロシア連合艦隊が出動し、1827年10月にナヴァリノの海戦でトルコ・エジプト艦隊を撃滅し、この海戦によってギリシア独立が可能と成りました。
翌1828年4月、ロシアはトルコに宣戦してアドリアノープルを占領し、アドリアノープル条約(和約)(1829年9月)が結ばれ、この条約で、ロシアはトルコにドナウ川沿岸・黒海沿岸を割譲させ、トルコはギリシアの独立を承認しました。
翌1830年2月に開かれたロンドン会議で、ギリシアの完全独立が国際的に承認され、1832年にはバイエルン王家からオットー1世(在位1832年~62年)が国王に迎えられました。
ギリシアの独立は、ウィーン会議後のヨーロッパに於ける最初の領土変更で、ウィーン体制がもはや維持できなくなったことを示しています。
ジョークは如何?
第二次世界大戦の後、ジューコフ将軍とアイゼンハワー将軍が会見した。
お互いの戦術論をぶつけあい、親睦を深め合う二人の将軍。
話はやがていかに地雷原を突破するかに及び、アイゼンハワーは連合軍が苦心して考え出した地雷対策を披露した。
「戦車の前にドラム缶を装備して地面を叩いたり、事前砲撃でじっくり地雷原を叩き潰すのがコツなんです」
しかし、それを聞いたジューコフは、感銘を覚える様子も無くただにやにやと得意そうな笑みを浮かべた。
「いやいや将軍、それよりよほど確実で効果のある方法がありますよ」
ジューコフは得意げな表情を崩さずこう言った。
「簡単な事です、歩兵にその上を行軍させれば宜しい」
続く・・・
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