歴史を歩く213
30 自由を求めて⑨
6二月革命とナポレオン3世
フランスでは、七月革命(1830年7月)以後、新政府の政体をめぐってブルジョワ派と共和派が対立しましたが、やがてブルジョワ派が共和派を抑え、自由主義者として知られるオルレアン家のルイ・フィリップを王に迎えて七月王政(1830年~48年)が成立しました。

ルイ・フィリップ( Louis-Philippe 1773年10月6日 - 1850年8月26日)
ルイ・フィリップ(1773年~1850年、在位1830年~48年)は、オルレアン公フィリップ(フランス革命で刑死)の長男に生まれ、父の死後オルレアン家(ブルボン家の分家)を継承し、フランス革命中は国外で亡命生活を余儀なくされ(1793年~1814年)、ナポレオンの没落で帰国を果たしました。帰国後はブルジョワの自由主義者と交わり、七月革命後にブルジョワの支持で王に迎えられ、「フランス人民の王」として即位します(1830年8月)。

フランス七月革命 市街戦, 市庁舎への襲撃
フランスでは、七月革命後、産業革命が本格化し、産業資本家の力が増大する一方で多くの労働者階級が生み出されていましたが、七月王政(1830年~48年)の支持者は、大資本家や銀行家(金融資本家)等の大ブルジョワと大地主等で、その為七月王政下では大資本家や銀行家に有利な政策が取られた結果、中小資本家や労働者・農民等の不満が強まっていきます。
当時のフランスは極端な制限選挙を採用しており、選挙の度毎に有権者数は徐々に増加していましたが、1830年の約9万人から、1839年には約20万人に増加したものの、総人口に対する割合は0.6%にしか過ぎず、中小資本家や労働者は選挙法の改正を要求します。
フランスは、1846年に凶作に見舞われ、更に翌1847年には国際的な恐慌の影響を受け、国民は食料品の値上がりや失業に苦しんでいましたが、これに対して政府は適切な対策を取ることが出来ず、次第に人望を失い、こうした状況の中で選挙法改正運動が急速に高まったのでした。
1847年の夏頃から、「改革宴会」と呼ばれる選挙法改正を目的とする集会が各地で開かれるようになります。
この集会は、当初宴会の形をとって「国王万歳」等と祝杯が上げられましたが、次第に普通選挙や人民主権等政治・経済・社会問題が熱心に論じられ、政府に対する批判も行われた為「改革宴会」と呼ばれる様に成りました。

フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー(François Pierre Guillaume Guizot, 1787年10月4日 - 1874年9月12日)
「ヨーロッパ文明史」の著者で歴史家としても知られる当時の首相ギゾー(在任1847年~48年)は、「金持ちになり給え、そうすれば選挙人になれる」と述べて改革宴会への干渉を強め、パリでの改革宴会を禁止しました(1848年1月)。
1848年2月22日、この日予定されていたパリの改革大宴会は政府の干渉で中止されてしまいますが、禁止されていた無届けの集会とデモが強行され、デモ隊はブルボン宮殿を囲んで「ギゾーを倒せ」、「改革万歳」と気勢を上げます。
翌2月23日、デモは益々激しくなり、バリケードが築かれ、政府は国民軍を動員して鎮圧にあたらせようとするものの、国民軍の大半が反政府側に回り、結果的に国王はギゾーを解任しました。

フランス二月革命
しかし、23日の夜、デモ隊への軍隊の発砲を発端に2月24日には激しい市街戦が行われ、民衆は市庁舎を占領し、テュイルリー宮殿に侵入、ルイ・フィリップは退位してイギリスに亡命し、共和政による臨時政府が成立しました。
二月革命の成功でした。

アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(Alphonse Marie Louis de Prat de Lamartine, 1790年10月21日 - 1869年2月28日)
二月革命直後に成立した臨時政府は、有産市民を代表するラマルティーヌ(1790年~1869年、ロマン派詩人としても有名)等7人のブルジョワ共和主義者と労働者を代表するルイ・ブラン等2人の社会主義者、そして小市民を代表する2人から成り立っていましたが、政府内ではブルジョワ共和派と社会主義共和派との対立が熾烈を極めたのです。
臨時政府は、直ちに共和政宣言を行い、第二共和政(1848年2月~52年12月)が発足し、普通選挙制・言論と結社の自由・植民地の黒人奴隷制の廃止等の民主的な改革を進めると共に、ルイ・ブランの主張に基づいて国立作業場(国立工場)が設立されました。

臨時政府の労働政策、国立作業場
国立作業場は失業者の救済を目指して主に土木事業を推進しますが、資材の供給や仕事の配分が混乱した為に仕事らしい仕事も与えられず、労働者は一日の大半を虚しく過ごしながらも日当を支給されていました。
1848年4月、普通選挙による憲法制定議会議員選挙が行われ、ブルジョワ共和派が圧倒的な勝利を収め、社会主義者は惨敗し、ルイ・ブランも落選します。

1848年1年間のフランスの政権交代を戯画化した絵。
右からルイ・フィリップ → ラマルティーヌ → カヴェニャック → ルイ・ナポレオン。
いずれもルイ=ナポレオンの登場の露払いに過ぎない。
四月選挙でブルジョワ共和派が勝利を収め、社会主義者が惨敗した理由としては、フランス革命によって土地を所有した農民が社会主義イコール私有財産の没収と思いこんで土地を失うことを恐れてブルジョワ共和派を支持した事、又革命前からの凶作・恐慌 による食料品の値上がり・失業に苦しむ市民・労働者等が殆んど働くこと無く、日当を支給されている国立作業場の労働者に反感を抱いた事等が挙げられます。
6月21日に国立作業場の廃止が決定されると、パリの労働者は反政府運動に立ち上がり、23日には全市にわたってバリケードが築かれ、23日から26日にかけて激しい市街戦が繰り広げられましたが、最終的に政府軍に鎮圧され、1500人が即時銃殺され、2万5千人が逮捕されて死刑・流刑・強制労働に処せられました。
この六月暴動(六月蜂起)によってブルジョワ支配が確立したのです。

諸国民の春・ウィーン体制の崩壊
又六月蜂起は、「諸国民の春」(1848年春にヨーロッパ各国で自由主義・国民主義が高揚したことをいう)に影響を及ぼし、その鎮圧を機にヨーロッパ各国の自由主義・国民主義運動が後退し、各国で反動勢力が復活して行きました。
憲法制定議会は、11月4日に第二共和国憲法を制定しました。
この憲法は人民主権・三権分立を主要な原理とし、国民投票によって選ばれる任期4年の大統領が行政権を行使する大統領制を採用し、12月10日に新憲法に基づく第1回目の大統領選挙が行われ、ルイ・ナポレオンが圧倒的多数の票(約74%)を獲得して当選しました。

シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoléon Bonaparte 1808年4月20日 - 1873年1月9日)
ルイ・ナポレオン(1808年~73年)は、ナポレオン1世の弟オランダ王ルイの第3子として生まれ、ナポレオンの没落後は各地に亡命し(1815年~30年)、1830年にはイタリアでカルボナリの一員として革命運動に参加し、1836年にはストラスブールで帝政復活の反乱を企てて失敗し、アメリカへ追放され、その後ロンドンに移住(1838年)、1840年にもブーローニュに上陸して再び帝政復活の反乱を企てたが失敗して逮捕され、終身刑に処せられて投獄されますが、1846年には労働者に変装して脱獄に成功し再びロンドンに逃れると云う波乱の時代を過ごしました。
1848年、二月革命後の6月の補欠選挙では、ロンドン在住ままで選出され、この時は失格とされたものの、9月の補欠選挙でも当選して議員となり、12月の大統領選挙に立候補して当選を果たします。
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ルイ・ナポレオンのクーデターが決行された1851年12月2日のパリ
1849年に行われた選挙では王党派が圧勝し、ルイ・ナポレオンと議会の対立が強まりましたが、王党派が反動政策で人気を失う一方で、ルイ・ナポレオンの人気が高まって行きました。
ルイ・ナポレオンは、人気の高まりを利用して独裁権獲得を考え、大統領の再選を禁止した憲法の修正が否決されると、1851年12月2日にクーデターを起こして武力で議会を解散し、王党派を一掃して、共和派の抵抗を抑えて独裁権を掌握します。
次いで1852年1月に新憲法を発布して大統領の任期を10年に延長し、更に同年11月には国民投票を行って782万票対25万票という圧倒的な支持を得て、12月2日に皇帝となり、ナポレオン3世(在位1852年~70年)と称し、ここに第二帝政(1852年~70年)が始まりました。
ジョークは如何?
ルーズベルトとスターリンが言論の自由の多寡について口論を始めた。
ルーズベルト「わが国ではホワイトハウスの前で私の悪口を言っても逮捕されないぞ!」
スターリン「クレムリンの前で君の悪口を言っても逮捕されないが?」
続く・・・
6二月革命とナポレオン3世
フランスでは、七月革命(1830年7月)以後、新政府の政体をめぐってブルジョワ派と共和派が対立しましたが、やがてブルジョワ派が共和派を抑え、自由主義者として知られるオルレアン家のルイ・フィリップを王に迎えて七月王政(1830年~48年)が成立しました。

ルイ・フィリップ( Louis-Philippe 1773年10月6日 - 1850年8月26日)
ルイ・フィリップ(1773年~1850年、在位1830年~48年)は、オルレアン公フィリップ(フランス革命で刑死)の長男に生まれ、父の死後オルレアン家(ブルボン家の分家)を継承し、フランス革命中は国外で亡命生活を余儀なくされ(1793年~1814年)、ナポレオンの没落で帰国を果たしました。帰国後はブルジョワの自由主義者と交わり、七月革命後にブルジョワの支持で王に迎えられ、「フランス人民の王」として即位します(1830年8月)。

フランス七月革命 市街戦, 市庁舎への襲撃
フランスでは、七月革命後、産業革命が本格化し、産業資本家の力が増大する一方で多くの労働者階級が生み出されていましたが、七月王政(1830年~48年)の支持者は、大資本家や銀行家(金融資本家)等の大ブルジョワと大地主等で、その為七月王政下では大資本家や銀行家に有利な政策が取られた結果、中小資本家や労働者・農民等の不満が強まっていきます。
当時のフランスは極端な制限選挙を採用しており、選挙の度毎に有権者数は徐々に増加していましたが、1830年の約9万人から、1839年には約20万人に増加したものの、総人口に対する割合は0.6%にしか過ぎず、中小資本家や労働者は選挙法の改正を要求します。
フランスは、1846年に凶作に見舞われ、更に翌1847年には国際的な恐慌の影響を受け、国民は食料品の値上がりや失業に苦しんでいましたが、これに対して政府は適切な対策を取ることが出来ず、次第に人望を失い、こうした状況の中で選挙法改正運動が急速に高まったのでした。
1847年の夏頃から、「改革宴会」と呼ばれる選挙法改正を目的とする集会が各地で開かれるようになります。
この集会は、当初宴会の形をとって「国王万歳」等と祝杯が上げられましたが、次第に普通選挙や人民主権等政治・経済・社会問題が熱心に論じられ、政府に対する批判も行われた為「改革宴会」と呼ばれる様に成りました。

フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー(François Pierre Guillaume Guizot, 1787年10月4日 - 1874年9月12日)
「ヨーロッパ文明史」の著者で歴史家としても知られる当時の首相ギゾー(在任1847年~48年)は、「金持ちになり給え、そうすれば選挙人になれる」と述べて改革宴会への干渉を強め、パリでの改革宴会を禁止しました(1848年1月)。
1848年2月22日、この日予定されていたパリの改革大宴会は政府の干渉で中止されてしまいますが、禁止されていた無届けの集会とデモが強行され、デモ隊はブルボン宮殿を囲んで「ギゾーを倒せ」、「改革万歳」と気勢を上げます。
翌2月23日、デモは益々激しくなり、バリケードが築かれ、政府は国民軍を動員して鎮圧にあたらせようとするものの、国民軍の大半が反政府側に回り、結果的に国王はギゾーを解任しました。

フランス二月革命
しかし、23日の夜、デモ隊への軍隊の発砲を発端に2月24日には激しい市街戦が行われ、民衆は市庁舎を占領し、テュイルリー宮殿に侵入、ルイ・フィリップは退位してイギリスに亡命し、共和政による臨時政府が成立しました。
二月革命の成功でした。

アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(Alphonse Marie Louis de Prat de Lamartine, 1790年10月21日 - 1869年2月28日)
二月革命直後に成立した臨時政府は、有産市民を代表するラマルティーヌ(1790年~1869年、ロマン派詩人としても有名)等7人のブルジョワ共和主義者と労働者を代表するルイ・ブラン等2人の社会主義者、そして小市民を代表する2人から成り立っていましたが、政府内ではブルジョワ共和派と社会主義共和派との対立が熾烈を極めたのです。
臨時政府は、直ちに共和政宣言を行い、第二共和政(1848年2月~52年12月)が発足し、普通選挙制・言論と結社の自由・植民地の黒人奴隷制の廃止等の民主的な改革を進めると共に、ルイ・ブランの主張に基づいて国立作業場(国立工場)が設立されました。

臨時政府の労働政策、国立作業場
国立作業場は失業者の救済を目指して主に土木事業を推進しますが、資材の供給や仕事の配分が混乱した為に仕事らしい仕事も与えられず、労働者は一日の大半を虚しく過ごしながらも日当を支給されていました。
1848年4月、普通選挙による憲法制定議会議員選挙が行われ、ブルジョワ共和派が圧倒的な勝利を収め、社会主義者は惨敗し、ルイ・ブランも落選します。

1848年1年間のフランスの政権交代を戯画化した絵。
右からルイ・フィリップ → ラマルティーヌ → カヴェニャック → ルイ・ナポレオン。
いずれもルイ=ナポレオンの登場の露払いに過ぎない。
四月選挙でブルジョワ共和派が勝利を収め、社会主義者が惨敗した理由としては、フランス革命によって土地を所有した農民が社会主義イコール私有財産の没収と思いこんで土地を失うことを恐れてブルジョワ共和派を支持した事、又革命前からの凶作・恐慌 による食料品の値上がり・失業に苦しむ市民・労働者等が殆んど働くこと無く、日当を支給されている国立作業場の労働者に反感を抱いた事等が挙げられます。
6月21日に国立作業場の廃止が決定されると、パリの労働者は反政府運動に立ち上がり、23日には全市にわたってバリケードが築かれ、23日から26日にかけて激しい市街戦が繰り広げられましたが、最終的に政府軍に鎮圧され、1500人が即時銃殺され、2万5千人が逮捕されて死刑・流刑・強制労働に処せられました。
この六月暴動(六月蜂起)によってブルジョワ支配が確立したのです。

諸国民の春・ウィーン体制の崩壊
又六月蜂起は、「諸国民の春」(1848年春にヨーロッパ各国で自由主義・国民主義が高揚したことをいう)に影響を及ぼし、その鎮圧を機にヨーロッパ各国の自由主義・国民主義運動が後退し、各国で反動勢力が復活して行きました。
憲法制定議会は、11月4日に第二共和国憲法を制定しました。
この憲法は人民主権・三権分立を主要な原理とし、国民投票によって選ばれる任期4年の大統領が行政権を行使する大統領制を採用し、12月10日に新憲法に基づく第1回目の大統領選挙が行われ、ルイ・ナポレオンが圧倒的多数の票(約74%)を獲得して当選しました。

シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoléon Bonaparte 1808年4月20日 - 1873年1月9日)
ルイ・ナポレオン(1808年~73年)は、ナポレオン1世の弟オランダ王ルイの第3子として生まれ、ナポレオンの没落後は各地に亡命し(1815年~30年)、1830年にはイタリアでカルボナリの一員として革命運動に参加し、1836年にはストラスブールで帝政復活の反乱を企てて失敗し、アメリカへ追放され、その後ロンドンに移住(1838年)、1840年にもブーローニュに上陸して再び帝政復活の反乱を企てたが失敗して逮捕され、終身刑に処せられて投獄されますが、1846年には労働者に変装して脱獄に成功し再びロンドンに逃れると云う波乱の時代を過ごしました。
1848年、二月革命後の6月の補欠選挙では、ロンドン在住ままで選出され、この時は失格とされたものの、9月の補欠選挙でも当選して議員となり、12月の大統領選挙に立候補して当選を果たします。
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ルイ・ナポレオンのクーデターが決行された1851年12月2日のパリ
1849年に行われた選挙では王党派が圧勝し、ルイ・ナポレオンと議会の対立が強まりましたが、王党派が反動政策で人気を失う一方で、ルイ・ナポレオンの人気が高まって行きました。
ルイ・ナポレオンは、人気の高まりを利用して独裁権獲得を考え、大統領の再選を禁止した憲法の修正が否決されると、1851年12月2日にクーデターを起こして武力で議会を解散し、王党派を一掃して、共和派の抵抗を抑えて独裁権を掌握します。
次いで1852年1月に新憲法を発布して大統領の任期を10年に延長し、更に同年11月には国民投票を行って782万票対25万票という圧倒的な支持を得て、12月2日に皇帝となり、ナポレオン3世(在位1852年~70年)と称し、ここに第二帝政(1852年~70年)が始まりました。
ジョークは如何?
ルーズベルトとスターリンが言論の自由の多寡について口論を始めた。
ルーズベルト「わが国ではホワイトハウスの前で私の悪口を言っても逮捕されないぞ!」
スターリン「クレムリンの前で君の悪口を言っても逮捕されないが?」
続く・・・
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