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2016/09/29

歴史を歩く213

30 自由を求めて⑨

6二月革命とナポレオン3世

 フランスでは、七月革命(1830年7月)以後、新政府の政体をめぐってブルジョワ派と共和派が対立しましたが、やがてブルジョワ派が共和派を抑え、自由主義者として知られるオルレアン家のルイ・フィリップを王に迎えて七月王政(1830年~48年)が成立しました。

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ルイ・フィリップ( Louis-Philippe 1773年10月6日 - 1850年8月26日)

 ルイ・フィリップ(1773年~1850年、在位1830年~48年)は、オルレアン公フィリップ(フランス革命で刑死)の長男に生まれ、父の死後オルレアン家(ブルボン家の分家)を継承し、フランス革命中は国外で亡命生活を余儀なくされ(1793年~1814年)、ナポレオンの没落で帰国を果たしました。帰国後はブルジョワの自由主義者と交わり、七月革命後にブルジョワの支持で王に迎えられ、「フランス人民の王」として即位します(1830年8月)。

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フランス七月革命 市街戦, 市庁舎への襲撃

 フランスでは、七月革命後、産業革命が本格化し、産業資本家の力が増大する一方で多くの労働者階級が生み出されていましたが、七月王政(1830年~48年)の支持者は、大資本家や銀行家(金融資本家)等の大ブルジョワと大地主等で、その為七月王政下では大資本家や銀行家に有利な政策が取られた結果、中小資本家や労働者・農民等の不満が強まっていきます。

 当時のフランスは極端な制限選挙を採用しており、選挙の度毎に有権者数は徐々に増加していましたが、1830年の約9万人から、1839年には約20万人に増加したものの、総人口に対する割合は0.6%にしか過ぎず、中小資本家や労働者は選挙法の改正を要求します。

 フランスは、1846年に凶作に見舞われ、更に翌1847年には国際的な恐慌の影響を受け、国民は食料品の値上がりや失業に苦しんでいましたが、これに対して政府は適切な対策を取ることが出来ず、次第に人望を失い、こうした状況の中で選挙法改正運動が急速に高まったのでした。

 1847年の夏頃から、「改革宴会」と呼ばれる選挙法改正を目的とする集会が各地で開かれるようになります。
この集会は、当初宴会の形をとって「国王万歳」等と祝杯が上げられましたが、次第に普通選挙や人民主権等政治・経済・社会問題が熱心に論じられ、政府に対する批判も行われた為「改革宴会」と呼ばれる様に成りました。

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フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー(François Pierre Guillaume Guizot, 1787年10月4日 - 1874年9月12日)

 「ヨーロッパ文明史」の著者で歴史家としても知られる当時の首相ギゾー(在任1847年~48年)は、「金持ちになり給え、そうすれば選挙人になれる」と述べて改革宴会への干渉を強め、パリでの改革宴会を禁止しました(1848年1月)。

 1848年2月22日、この日予定されていたパリの改革大宴会は政府の干渉で中止されてしまいますが、禁止されていた無届けの集会とデモが強行され、デモ隊はブルボン宮殿を囲んで「ギゾーを倒せ」、「改革万歳」と気勢を上げます。
翌2月23日、デモは益々激しくなり、バリケードが築かれ、政府は国民軍を動員して鎮圧にあたらせようとするものの、国民軍の大半が反政府側に回り、結果的に国王はギゾーを解任しました。

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フランス二月革命

 しかし、23日の夜、デモ隊への軍隊の発砲を発端に2月24日には激しい市街戦が行われ、民衆は市庁舎を占領し、テュイルリー宮殿に侵入、ルイ・フィリップは退位してイギリスに亡命し、共和政による臨時政府が成立しました。
二月革命の成功でした。

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アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(Alphonse Marie Louis de Prat de Lamartine, 1790年10月21日 - 1869年2月28日)

 二月革命直後に成立した臨時政府は、有産市民を代表するラマルティーヌ(1790年~1869年、ロマン派詩人としても有名)等7人のブルジョワ共和主義者と労働者を代表するルイ・ブラン等2人の社会主義者、そして小市民を代表する2人から成り立っていましたが、政府内ではブルジョワ共和派と社会主義共和派との対立が熾烈を極めたのです。

 臨時政府は、直ちに共和政宣言を行い、第二共和政(1848年2月~52年12月)が発足し、普通選挙制・言論と結社の自由・植民地の黒人奴隷制の廃止等の民主的な改革を進めると共に、ルイ・ブランの主張に基づいて国立作業場(国立工場)が設立されました。

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臨時政府の労働政策、国立作業場

 国立作業場は失業者の救済を目指して主に土木事業を推進しますが、資材の供給や仕事の配分が混乱した為に仕事らしい仕事も与えられず、労働者は一日の大半を虚しく過ごしながらも日当を支給されていました。

 1848年4月、普通選挙による憲法制定議会議員選挙が行われ、ブルジョワ共和派が圧倒的な勝利を収め、社会主義者は惨敗し、ルイ・ブランも落選します。

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1848年1年間のフランスの政権交代を戯画化した絵。
右からルイ・フィリップ → ラマルティーヌ → カヴェニャック → ルイ・ナポレオン。
いずれもルイ=ナポレオンの登場の露払いに過ぎない。


 四月選挙でブルジョワ共和派が勝利を収め、社会主義者が惨敗した理由としては、フランス革命によって土地を所有した農民が社会主義イコール私有財産の没収と思いこんで土地を失うことを恐れてブルジョワ共和派を支持した事、又革命前からの凶作・恐慌 による食料品の値上がり・失業に苦しむ市民・労働者等が殆んど働くこと無く、日当を支給されている国立作業場の労働者に反感を抱いた事等が挙げられます。

 6月21日に国立作業場の廃止が決定されると、パリの労働者は反政府運動に立ち上がり、23日には全市にわたってバリケードが築かれ、23日から26日にかけて激しい市街戦が繰り広げられましたが、最終的に政府軍に鎮圧され、1500人が即時銃殺され、2万5千人が逮捕されて死刑・流刑・強制労働に処せられました。
この六月暴動(六月蜂起)によってブルジョワ支配が確立したのです。

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諸国民の春・ウィーン体制の崩壊

 又六月蜂起は、「諸国民の春」(1848年春にヨーロッパ各国で自由主義・国民主義が高揚したことをいう)に影響を及ぼし、その鎮圧を機にヨーロッパ各国の自由主義・国民主義運動が後退し、各国で反動勢力が復活して行きました。

 憲法制定議会は、11月4日に第二共和国憲法を制定しました。
この憲法は人民主権・三権分立を主要な原理とし、国民投票によって選ばれる任期4年の大統領が行政権を行使する大統領制を採用し、12月10日に新憲法に基づく第1回目の大統領選挙が行われ、ルイ・ナポレオンが圧倒的多数の票(約74%)を獲得して当選しました。

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シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoléon Bonaparte 1808年4月20日 - 1873年1月9日)

 ルイ・ナポレオン(1808年~73年)は、ナポレオン1世の弟オランダ王ルイの第3子として生まれ、ナポレオンの没落後は各地に亡命し(1815年~30年)、1830年にはイタリアでカルボナリの一員として革命運動に参加し、1836年にはストラスブールで帝政復活の反乱を企てて失敗し、アメリカへ追放され、その後ロンドンに移住(1838年)、1840年にもブーローニュに上陸して再び帝政復活の反乱を企てたが失敗して逮捕され、終身刑に処せられて投獄されますが、1846年には労働者に変装して脱獄に成功し再びロンドンに逃れると云う波乱の時代を過ごしました。
1848年、二月革命後の6月の補欠選挙では、ロンドン在住ままで選出され、この時は失格とされたものの、9月の補欠選挙でも当選して議員となり、12月の大統領選挙に立候補して当選を果たします。

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ルイ・ナポレオンのクーデターが決行された1851年12月2日のパリ

 1849年に行われた選挙では王党派が圧勝し、ルイ・ナポレオンと議会の対立が強まりましたが、王党派が反動政策で人気を失う一方で、ルイ・ナポレオンの人気が高まって行きました。
ルイ・ナポレオンは、人気の高まりを利用して独裁権獲得を考え、大統領の再選を禁止した憲法の修正が否決されると、1851年12月2日にクーデターを起こして武力で議会を解散し、王党派を一掃して、共和派の抵抗を抑えて独裁権を掌握します。

 次いで1852年1月に新憲法を発布して大統領の任期を10年に延長し、更に同年11月には国民投票を行って782万票対25万票という圧倒的な支持を得て、12月2日に皇帝となり、ナポレオン3世(在位1852年~70年)と称し、ここに第二帝政(1852年~70年)が始まりました。

ジョークは如何?

ルーズベルトとスターリンが言論の自由の多寡について口論を始めた。

ルーズベルト「わが国ではホワイトハウスの前で私の悪口を言っても逮捕されないぞ!」
スターリン「クレムリンの前で君の悪口を言っても逮捕されないが?」

続く・・・

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2016/09/24

歴史を歩く212

30 自由を求めて⑧

5社会主義思想の成立

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労働運動の激化

 産業革命によって大量の労働者が生み出されました。
彼等は資本家の利潤追求の犠牲となり、低賃金で長時間働かされ、貧困に苦しみ、悲惨な生活を送っていた彼等は、生活改善のために団結して労働運動を起こすようになりますが、イギリスでは、1799年・1800年に団結禁止法が制定され、違反者は投獄等に処せられます。

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ラダイト運動

 労働者や手工業者等は当初、その生活が苦しい原因は新しく発明された機械にあると考え、機械打ち壊し運動を起こします。
1811年~17年に、イギリス中・北部の織物工業地帯で起こった機会打ち壊し運動は、伝説的な人物ラッドに因んでラダイト運動と呼ばれましたが、政府によって厳しい弾圧を受けます。

 1824年に団体禁止法が撤廃されると、多くの労働組合が結成され、労働運動の主体と成り、その当時イギリスで労働運動に大きな影響を及ぼした人物が、ロバート・オーウェンです。

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ロバート・オウエン(Robert Owen, (1771年5月14日 - 1858年11月17日)

 ロバート・オーウェン(1711年~1858年)は、徒弟奉公から身を起こして紡績工場の支配人となり、ついでスコットランドのニュー・ラナーク紡績工場で経営者に成りました。
この工場で利潤の追求よりは労働者の生活改善・幼少年の教育・福祉の向上に努め、更に私財を投じてアメリカのインディアナ州に「ニュー・ハーモニー」村を建設して共産主義的な協同社会の建設を試みましたが(1825年~29年)その運営に失敗し、全財産を失って帰国します。

 帰国後は全国労働組合大連合の結成(1834年)に努力しますが、政府の弾圧と内部分裂によって数ヶ月で崩壊すると、チャーティスト運動等からも離れ、貧窮のうちに没します。
この間、社会環境の改善による人間性の改善を提唱し、工場法の制定にも尽力したのです。

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若年労働者

 工場法は、年少労働者の労働条件を規制した法律で、1802年の幼年徒弟の労働時間を12時間に制限した法律が最初の工場法と云われ、1819年の工場法は、オーウェンの尽力で制定され、9歳以下の雇用禁止・10歳~16歳の12時間労働が規定されましたが、この工場法で9歳以下の雇用が禁止されたことは、それ迄9歳以下の多くの子供が雇用されていたことを示しています。

 そして、1833年の工場法で、9~13歳の9時間労働・18歳以下の12時間労働や工場監督官制(工場法が守られているかどうかを監督する制度)が規定され、更に1847年には婦人・児童の10時間労働が定められ、労働者の労働条件は次第に改善されていきました。

 オーウェンと同じ頃、フランスではサン・シモンやフーリエ等も労働者を保護する新しい社会秩序の建設を説いていました。

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サン=シモン伯爵クロード・アンリ・ド・ルヴロワ(Claude Henri de Rouvroy、Comte de Saint-Simon、1760年10月17日 - 1825年5月19日)

 サン・シモン(1760年~1825年)は、パリの貴族に生まれ、16歳で軍隊に入隊、アメリカ独立戦争に義勇兵として参加し、フランス革命によって全財産を没収されましたが革命を支持し、革命後は人々が自由に能力を発揮できる平等な社会の実現を説きますが、彼自身晩年は貧窮に苦しみました。

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フランソワ・マリー・シャルル・フーリエ(Francois Marie Charles Fourier、1772年4月7日 - 1837年10月10日)

 フーリエ(1772年~1837年)は、富裕な毛織物商人の家庭に生まれ、少年時代から商業に携わりヨーロッパ各地を巡り、その体験に基づいて資本主義を批判し、「ファランジュ」と呼ばれる協同組合的な理想社会の実現を図りますが失敗し、彼も貧窮のうちに没しています。

 ロバート・オーウェン、サン・シモン、フーリエ等は、人道主義的な立場から理想社会の実現をめざしますが、その理論は現実社会の分析が不十分で、理想社会実現の方法が空想的であった結果、マルクスやエンゲルスは「空想的社会主義」と呼んで批判し、自分達の思想体系を「科学的社会主義」と称しています。

 フランスではサン・シモン、フーリエに続いて多くの社会主義思想家が現れます。

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ルイ・ブラン(Louis Blanc, 1811年10月29日 - 1882年12月6日)

 ルイ・ブラン(1811年~82年)は、生産の国家統制を主張し、二月革命後の臨時政府に参加し、国立作業場(国立工場)の設置に尽力します。

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ピエール・ジョゼフ・プルードン(Pierre Joseph Proudhon ・1809年1月15日-1865年1月19日)
『プロウドンと子供たち』


 プルードン(1809年~65年)は、その著『財産とは何か(所有とは何か)』(1840年)で「財産、それは窃盗だ」と述べ、私有財産制を批判して有名に成り、私有財産制と共に国家の廃止をも主張しましたが、社会問題の解決を相互扶助に求めています。
又彼の思想は無政府主義に大きな影響を与えたのです。

 ドイツのマルクスやエンゲルスは、オーウェン等の空想的社会主義を批判し、科学的社会主義を唱え、資本主義の没落と社会主義社会の実現を科学的に論証しました。

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カール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx、1818年5月5日 - 1883年3月14日)

 マルクス(1818年~83年)は、ライン州トリールでユダヤ人弁護士を父として生まれ、ボン、ベルリン大学で法律を学ぶと同時に、歴史や哲学にも熱中しました。
卒業後、『ライン新聞』の編集長となり、貧困や抑圧に苦しむ労働者や農民に接する中で、当時のドイツ社会への批判を強めて行きますが、その結果、新聞は発禁処分となり、彼はパリに住まいを移します(1843年)。

 その後、ブリュッセル、ロンドンで共産主義運動を始め、ロンドンでドイツ移民を中心に「共産主義者同盟」が結成されると、その綱領の執筆を依頼され(1847年)、エンゲルスと共同で『共産党宣言』(1848年2月発表)を起草しました。

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ドイツ三月革命

 1848年に、フランスで二月革命・ドイツで三月革命が起こると、パリを経てケルンに帰り、『新ライン新聞』の主筆として活躍しましたが、革命の失敗後パリを経てロンドンに亡命し(1849年)、終生をここで過ごします。

 ロンドンでは苦しい亡命生活を余儀なくされ、すさまじい貧困に苦しめられましたが、この苦境のなかにあったマルクスを物心両面から援助したのがエンゲルスでした。
マルクスは大英博物館に通って研究に打ち込むとともに、国際的な労働運動の指導に尽力し、第1インターナショナル(1864年~76年)の設立にも関わり、その創立宣言を起草します。

 彼の主著『資本論』は、1867年に第1巻が公刊されますが、第2巻、第3巻はマルクスの死後エンゲルスの編纂によって刊行されました。
そして晩年は貧困と病苦に悩まされながら、ロンドンで没します。

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フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels、1820年11月28日 - 1895年8月5日)

 エンゲルス(1820年~95年)は、ライン州の紡績工場主の家庭に生まれ、父の会社の関係でイギリスに渡り、仕事のかたわら研究・執筆活動を行いました。
1844年にパリで亡命中のマルクスと再会し、以後終生変わらぬ友情と協力関係を結び、特にロンドンに亡命したマルクスを経済的に援助し、又彼の著作の普及に尽力します。

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共産党宣言

 マルクスの思想は、「一つの妖怪がヨーロッパをはい廻っている-共産主義という妖怪が」という有名な文で始まる『共産党宣言』に簡潔に要約されています。

 マルクスは、人間社会や歴史の基礎は人間の物質的な生産活動であり、その経済的な土台の上に政治・制度・文化が成立すると考え、歴史は生産力と生産関係の矛盾を原動力として発展していくと説いています(唯物史観・史的唯物論)。

 次に「今日までのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である。自由民と奴隷・貴族と平民・領主と農奴・ギルドの親方と職人、要するに抑圧者と被抑圧者は常にたがいに敵対し、ときにはひそかに、ときには公然とたえず闘争を続けてきた。」(共産党宣言の一部、以下同じ)と述べ、古代奴隷制では奴隷所有者と奴隷・中世封建制では領主と農奴・近代資本主義では資本家と労働者という形で階級闘争が行われ、歴史が発展してきたと説きました。

 近代資本主義では「大工業の発展ともに、ブルジョワ階級の足もとから、彼らがそのうえで生産を行い、生産物をわがものとした基盤そのものが失われていく。ブルジョアワ階級は何よりも自分自身の墓掘り人をつくりだす。彼らの没落とプロレタリア階級の勝利はともに不可避である。」と述べ、大工業の発展によって資本家と対立する労働者階級が大量に生み出されるから、資本家と労働者の対立は労働者階級の勝利に終わり、従って資本主義体制の没落と社会主義社会の実現は歴史の必然であると主張しました。

 しかし、資本家の力は強いので、社会主義社会の実現には労働者の国際的な団結が必要であると説き、「共産主義者は、今までのいっさいの階級秩序の暴力による転覆を通じてのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級は共産主義革命の前に恐れおののくがよい。プロレタリアは鉄鎖以外に失うものは何ももたない。うるのは全世界である。」と述べ、「万国のプロレタリアよ、団結せよ。」と云う言葉で結んでいます。

Пролетарии всех стран, соединяйтесь!

ジョークは如何?

エデンの園はロシアにあったとする学説がある。

なぜなら、アダムとイブはクルマも家も服さえも持っていなかったが、
自分たちが住んでいるところがパラダイスだと信じて疑わなかったからだ。

続く・・・

2016/09/13

歴史を歩く211

30 自由を求めて⑦

4イギリスの諸改革

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オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell、1599年4月25日 - 1658年9月3日)

 産業革命をいち早く成し遂げたイギリスでは、ブルジョワジー(産業資本家)の地位が高まり、1820年代には自由主義的傾向が強まり、1830年代には七月革命の影響のもとで、自由主義改革が次々と行われました。

 クロムウェルの征服以来、宗教・政治・土地所有等の面で差別に苦しんできたアイルランドでは、カトリック信仰の自由と政治的自治を求めて17~18世紀にしばしば反乱が起きますが全てが鎮圧され、こうした状況のなかで、イギリス議会はアイルランド人の要求を無視して、1800年に合同法を可決し、翌1801年にアイルランドを正式に併合します。

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ダニエル・オコンネル(Daniel O'Connell、1775年8月6日 - 1847年5月15日)

 アイルランドの地主の家に生まれたオコンネル(1775年~1847年)は、1823年にカトリック教徒の選挙権獲得をめざしてカトリック協会を設立し、アイルランドの解放運動を指導しました。
1828年に下院議員に選出されましたが、非国教徒が公職に就くことを禁止した審査律に払拭して議席を拒否されてしまいます。

 オコンネルの議席が拒否されたことにアイルランド人は強く反発し、更に反乱に発展することを恐れたウェリントン首相は国王に譲歩を勧め、1828年5月に審査律が廃止され、審査律の廃止によってカトリックを除く非国教徒の公職就任が可能となったのです。

 オコンネル等は、更に併合の際の公約であったカトリック教徒の選挙権獲得をめざす運動を展開し、翌1829年に終にカトリック教徒解放法案が成立し、カトリック教徒の公職就任が可能と成り、これによってイギリスでは宗教による差別が撤廃されました。

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イギリス議会風景

 当時のイギリスにとって最大の問題は選挙法改正問題でした。
イギリスは議会政治の先進国でしたが、18世紀の議会政治にはさまざまな問題も存在し、参政権は相当の土地を所有する地主に限られ、投票の秘密はなく、投票権の売買も行われていました。

 又産業革命の結果、人口の都市集中が発生し、激しい人口の移動が起こっていたにも関わらず、選挙区は旧態依然のままで、人口が激減したにもかかわらず従来通りの議員選出の特権を持ち、有力地主・貴族の意のままになった選挙区、すなわち腐敗選挙区が多数存在する一方で、新興の大工業都市にはほとんど議員定数の割り当てが在りませんでした。
例えば、人口200人以下の選挙区が111あり、人口ゼロの選挙区も34も存在したのです。
こうした不合理な選挙制度の改正を求めたのは産業資本家や労働者達でした。

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第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ(Charles Grey, 2nd Earl Grey, KG, PC、1764年3月13日 - 1845年7月17日)

 ホイッグ党は、1819年から4回選挙法改正法案を提出したが、いずれもトーリー政権の反対にあって否決されていましたが、七月革命が起こると、その影響を受けて、1830年12月の選挙ではホイッグ党が進出し、グレー内閣(在任1830年~34年)が成立しました。
1831年にグレー内閣は選挙法改正法案を提出しますが、下院を通過しても上院では否決されます。

 こうした状況の中でグレー内閣の退陣・ウェリントンの再組閣の報が伝わると、イギリスは革命前夜の状態に陥り、再任されたグレー内閣のもとで、1832年6月にやっと選挙法改正法案が成立しました(第1回選挙法改正)。

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チャーティスト暴動

 これによって、56の腐敗選挙区が廃止され、143議席が再配分され、新興都市にも議席が与えられ、又都市の産業資本家など市民階級に選挙権が与えられ、有権者数は50万人から81万人に増加しますが、この改正では労働者には選挙権が与えられなかった為、労働者は普通選挙を要求する運動を起こし、この運動はチャーティスト運動と呼ばれ、労働者による最初の政治運動となりました。

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「人民憲章」の基礎を示したラヴェット

 彼等は6カ条からなる「人民憲章(People's Charter)」(1837年にまとめられ、翌1838年に全国に配布された)を掲げて運動を起こし、1839年・1842年・1848年に多数の署名を添えて議会に請願書を提出し、大規模な請願デモを展開します。

 人民憲章6カ条は、男子普通選挙・無記名投票(それまでは口頭)・議会の毎年召集・議員の財産資格制限廃止・議員への歳費支払い・平等選挙区制でした。

 しかし、彼等の請願は拒否され、1848年の大デモ行進を最後に衰え、労働者はチャーティスト運動によっては選挙権を獲得することは叶いませんでした。

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自由貿易の発展

 参政権を獲得した産業資本家は、次に経済面での自由主義的改革を求め、自由貿易主義の実現を要求します。
既に1813年に東インド会社の対インド貿易独占権は茶を除いて廃止されていましたが、1834年には東インド会社の対中国貿易独占権も廃止されます(廃止の決定は1833年)。

 経済面での自由主義的改革のうち最も重要な改革は穀物法の廃止でした。
穀物法は、1815年に制定された地主の利益を擁護するための法律で、ナポレオン戦争が終結し、大陸封鎖令が解かれると、イギリスには工業製品の見返り品として、東ヨーロッパ・北ヨーロッパ・カナダなどから大量の安い穀物が輸入されるようになります。
その為、ナポレオン戦争後も穀物価格を高く維持する意図から、国内価格が1クォーター(約242リットル)80シリングに達する迄、外国産小麦の輸入を禁止し、その後、穀物価格の騰落に応じて輸入関税を増減する方式に改められました。

 当時、消費者である労働者の数が飛躍的に増大すると、労働者は高い食糧を押しつける穀物法に強く反対しましたが、穀物法反対運動の中心になったのはコブデンやブライト等の産業資本家達でした。

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リチャード・コブデン(Richard Cobden、1804年6月3日 - 1865年4月2日)

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ジョン・ブライト(John Bright、1811年11月16日 - 1889年3月27日)

 コブデン(1804年~65年)は、農家に生まれ、ロンドンで事務員となり、後にマンチェスターで捺染工場を興して富豪となり、アダム・スミスの自由主義経済学に共鳴し、自由貿易を主張しました。又ブライト(1811年~89年)は、紡績工場を経営する産業資本家で、コブデンを知り、1839年に反穀物法同盟を結成し、穀物法の廃止運動を展開しました。

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第2代准男爵サー・ロバート・ピール(Sir Robert Peel, 2nd Baronet, PC, FRS、1788年2月5日 - 1850年7月2日)

 ピール保守党内閣(在任1834年~35年、1841年~46年)は、1845年のアイルランド飢饉をきっかけに穀物法の廃止を決意し、穀物法は1846年についに廃止されます。

 又1849年には航海法(1651年にクロムウェルが制定)も廃止され、外国船はイギリス船と同等の権利をもってイギリスの海運に従事することが可能となり、輸送費が安くなり、イギリスの貿易がさらに盛んとまりました。
穀物法の廃止・航海法の廃止によってイギリスの自由貿易主義体制が確立されたのです。

ジョークは如何?

「先生、民主主義と、社会主義型民主主義の違いを教えてください。」

「一口で言うと、椅子と、電気椅子の違いみたいなものだ。」

続く・・・

2016/09/08

歴史を歩く210

30 自由を求めて⑥

3七月革命とその影響②


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1830年8月26日ブリュッセル蜂起

 七月革命の影響は、先ずオランダ領ベルギーに現れました。
ベルギーはウィーン会議の結果、オランダに併合されますが、本来オランダとベルギーの間には民族・言語・宗教等に大きな相違点が存在していました。

 オランダ人がドイツ系でカルヴァン派を信仰していたのに対し、ベルギー人はフランス系でカトリックを信仰していたのですが、オランダがベルギーの宗教・言語・教育に干渉し、ベルギーの工業の発展を抑えた結果にベルギー人の不満が強まっていました。
更にオランダ語を公用語とし、オランダ語が話せない者は官吏に任用しない事を趣旨とする布告が出されると反オランダ運動が高まり、七月革命の報が伝えられると、1830年8月26日にブリュッセルで独立蜂起が始まりました。

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第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル(Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston, KG, GCB, PC, 1784年10月20日 - 1865年10月18日)

 ベルギーは、鎮圧に向かったオランダ軍との「九月の四日間」の戦闘で勝利を得、10月に独立を宣言を発布、イギリス外相パーマストンの仲介によってロンドン会議が開かれ、1830年12月に独立が承認され、翌1831年にはレオポルド1世(在位1831年~65年)が即位して立憲王国となりました。

 ベルギーの独立運動は成功に終わりましたが、ポーランド・ドイツ・イタリアで起こった革命運動はいずれも不成功に終わっています。

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ワルシャワ蜂起

 ウィーン会議後ロシアの支配下におかれていたポーランドでは、ニコライ1世の反動政治に対して独立運動が秘密裡に進められていました。
そこへ七月革命やベルギーの独立の報が伝えられると、1830年11月にワルシャワの士官学校生徒の蜂起をきっかけとしてワルシャワ革命が勃発します。

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ロシアに潰されたポーランド11月蜂起の寓意画

 ポーランド人は一時、ロシア総督を追って革命政府を樹立し、革命政府は1831年1月に独立を宣言しますが、ロシアは大軍をポーランドに派遣し、ポーランド人の抵抗を抑えて9月にはワルシャワを占領しました。
ニコライ1世は革命勢力を徹底的に弾圧し、ポーランドをロシアの属州とし、以後ロシア化政策を推進します。

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フレデリック・フランソワ・ショパン( Frédéric François Chopin 、Fryderyk Franciszek Chopin・1810年3月1日(2月22日(出生証明の日付)、1809年3月1日説もあり) - 1849年10月17日)

 ウィーンでワルシャワ蜂起の報を聞いたポーランドのロマン派の作曲家ショパン(1810年~49年)は、パリに向かう途中のシュツットガルトでワルシャワ陥落の報を聞き、その時の衝撃をピアノ練習曲「革命」で表現しています。

 ドイツでは、1830年にザクセン・ヘッセン・ハノーヴァー等で革命暴動が起き、憲法が制定されましたが、メッテルニヒはドイツ連邦議会を利用して革命運動を弾圧し続けます。

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ジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini, 1805年6月22日 - 1872年3月10日)

 イタリアでも、1831年に七月革命の報が伝わると、カルボナリがボローニャ・モディナ・パルマなどの中部イタリアで蜂起しましたが、オーストリア軍によって鎮圧され、カルボナリは壊滅します。
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カルロ・アルベルト・アメデーオ・ディ・サヴォイア(Carlo Alberto Amedeo di Savoia, 1798年10月2日 - 1849年7月28日)
 マッツィーニ(1805年~72年)は、カルボナリに参加して逮捕され、その後マルセイユに亡命していましたが、1831年にこの地でカルボナリの残党を吸収して「青年イタリア」を組織し、共和主義によるイタリアの統一をめざしました。
彼はサルデーニャ国王カルロ・アルベルト(在位1831年~49年)に統一を呼びかけましたが、これを拒否されて失敗に終わっています。

ジョークは如何?

北朝鮮の原発の査察受け入れ問題か何かでカーター元大統領が
素晴らしい外交を行った.

それに対して「彼は素晴らしい元大統領だ.
最初から元大統領であってくれたらどんなによかったことか」

続く・・・

2016/09/03

歴史を歩く209

30 自由を求めて⑤

3七月革命とその影響①

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執務中のルイ18世

 フランスでは、ナポレオンの退位直後に、ルイ18世が帰国して即位し、ブルボン朝が復活しました。
ルイ18世(1755年~1824年、在位1814年~24年)は、ルイ16世の弟で、ヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月)と同時に国外へ逃亡し、反革命運動を行い、ナポレオン没落後に帰国して王位に就きますが(1814年5月)、ナポレオンの「百日天下」の間はベルギーに亡命し、1815年7月に復位しています。

 ルイ18世は、即位後間もなく新憲法(憲章)を発布し(1814年6月)、立憲君主制を施行しますが、選挙権が財産資格によって極端に制限されていた為、亡命貴族(エミグレ)が議会の多数を占める結果になります。
革命への怨みから、彼等は過激王党派(ウルトラ)を組織し、「国王より王党的」でした。

 ルイ18世は、1816年9月に過激王党派が多数を占める議会を解散し、10月に行われた選挙では立憲君主主義者が過半数を占めた為、これに対して過激王党派は、その中心人物であったアルトワ伯(後のシャルル10世)の次男暗殺事件(1820年2月)を発端に、再び巻き返して反動政策を推し進めました。

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シャルル10世(Charles X、1757年10月9日 - 1836年11月6日)

 ルイ18世の死後、過激王党派の中心人物であったアルトワ伯がシャルル10世(1757年~1836年、在位1824年~30年)として即位します。
ブルボン朝の最後の王となったシャルル10世は、ルイ16世・ルイ18世の弟で、フランス革命中は亡命して反革命運動を行い、ナポレオンの没落後帰国し(1814年)、アルトワ伯と称して過激王党派を指導しました。

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ジュール・オーギュスト・アルマン・マリー・ド・ポリニャック(Jules Auguste Armand Marie, prince de Polignac, 1780年5月14日 - 1847年3月2日)

 シャルル10世は、即位すると亡命貴族を優遇し、反動政治を推し進め、1825年には「10億フラン年金法」を制定し、革命中に土地・財産を没収された亡命貴族に多額の補償金を支出しました。
1827年11月に議会を解散して総選挙を行い、自由主義派(反政府派)が勝利をおさめた結果、追いつめられたシャルル10世が、過激王党派の指導者ポリニャック(1780年~1847年)を首相に任命すると(1829年8月)、国王と議会の対立が深まりました。

 1830年5月、シャルル10世は再び議会を解散したものの、7月の選挙では自由主義派(反政府派)が更に議席を伸ばした為、ポリニャックは、国内の危機を回避する目的で、国民の目を国外に向けアルジェリア出兵(1830年7月)を行なうとともに、七月勅令の発布を進めます。

 1830年7月25日に発布された七月勅令では以下、
1)7月の総選挙で自由主義派(反政府派)がさらに増加した未召集の議会を解散すること。
2)次回の選挙を9月に行うこと。
3)地主以外の有権者の選挙権を奪うこと。
4)言論・出版の統制を強化すること。
以上が布告されました。

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「民衆を導く自由の女神」

 これに対して、7月27日、パリの学生・小市民・労働者等約6万人は共和主義者を中心にバリケードを作り始め、28日には市街戦が激化し、29日には民衆がルーヴル宮・テュイルリー宮殿やノートルダム寺院などを占領し、七月革命が勃発します。
市街戦が行われた7月27日から29日は「栄光の三日間」と呼ばれ、この「栄光の三日間」の市街戦の様子は、三色旗を掲げる自由の女神が革命軍の志士を率いているありさまを描いたドラクロワ(1798年~1863年)の有名な「民衆を導く自由の女神」(1831年出品)に描かれています。

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ルイ=フィリップ1世(Louis-Philippe Ier、1773年10月6日 - 1850年8月26日)

 シャルル10世は、8月2日に退位を宣言してイギリスに亡命し、8月9日にはオルレアン家の自由主義者ルイ・フィリップが「フランス人民の王」として即位し、14日には新憲法が制定され、七月王政(1830年~48年)が始まりました。

 ウィーン体制はラテン・アメリカ諸国の独立・ギリシアの独立によって破綻しつつありましが、七月革命は今までの様に新大陸やイスラム教国での出来事でなく、フランスでの出来事であり、又七月革命の成功によってフランスが神聖同盟から離脱したことは、ウィーン体制を守護する勢力にとっては大きな衝撃でした。
そのため七月革命はウィーン体制下のヨーロッパ諸国に大きな影響を与えたのです。

ジョークは如何?

チャーチルと仲の悪い女性議員がチャーチルに
「もし私があなたの妻だったら、毒入りの紅茶をだすでしょうね」
それに対してチャーチルは
「もし私があんたの夫だったら、それを飲むだろうね」

続く・・・