歴史を歩く126
31自由主義と国民主義②
2イタリアの統一

近代に入っても依然として分裂状態にあったイタリアは、ウィーン会議後も分裂を続け、しかもウィーン会議でロンバルディア・ヴェネツィアがオーストリア領に編入された結果、イタリア統一のためにはまず外国勢力を排除する必要に迫られます。

モデナ公によるメノッティら革命家の逮捕
しかし、オーストリアの勢力は強く、1820年代のカルボナリの革命、七月革命後のカルボナリよる再度の革命はいずれもオーストリアによって鎮圧されました。
1848年、二月革命が起きると、その影響のもとでサルデーニャ王国のカルロ・アルベルト(在位1831年~49年)は統一戦争に踏切ります。
サルデーニャ王国は、1720年にサヴォイ家が、サルデーニャ島を領有して成立した北イタリアの小王国で、トリノを都と定めていました。

ノヴァラの戦い

ジュゼッペ・マッツィーニ( Giuseppe Mazzini, 1805年6月22日 - 1872年3月10日)
しかし、サルデーニャの統一戦争はオーストリア軍とのノヴァラの戦いに敗れて失敗に終わり、マッツィーニの指導する青年イタリアが建設したローマ共和国もフランス軍の介入によって崩壊します。
サルデーニャ国王カルロ・アルベルトはノヴァラの戦いでの敗北の責任をとって退位し、息子のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820年~78年、サルデーニャ国王(在位1849年~61年)、初代イタリア国王(在位1861年~78年))が即位してリソルジメント(イタリアの自由・独立・統一を目ざした自由主義・民族主義運動)を続行するために、自由主義者のカヴールを首相に任じました。

カヴール及びチェッラレンゴ並びにイゾラベッラ伯爵カミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ・ベンソ(イタリア語: Camillo Paolo Filippo Giulio Benso, conte di Cavour, di Cellarengo e di Isolabella、1810年8月10日 - 1861年6月6日)
カヴール(1810年~61年、在任1852年~61年)は、トリノの名門貴族の家庭に生まれ、当初軍人と成りましたがまもなく退役し、地主として農業経営にあたっていました。
その間、イギリス・フランスを旅行してイギリス議会政治に心酔し、同志と新聞「リソルジメント(復興)」を発行し(1847年)、サルデーニャ国王を中心とする立憲君主制によるイタリア統一を主張しました。
1848年に議員の職に就き、1852年に首相に任じられます。
カヴールはサルデーニャ王国近代化のための政策を積極的に推し進め、近代産業の育成・軍隊の近代化を進め、国家財政の基礎を固めるために強い反対を押し切って修道院を解散し、その土地を国有化しました(1855年)。

クリミア戦争・セヴァストーポリ包囲戦
その一方で、カヴールはサルデーニャ単独ではオーストリアを破って統一を達成することは不可能と考え、イギリス・フランス等大国の援助が不可欠と考えており、そのためイギリス・フランスと同盟を結んで1855年にクリミア戦争(1853年~56年)に参戦し、1万5千の将兵をクリミア半島に送り、サルデーニャの国際的地位の向上に努めました。
更に、1858年7月、カヴールはナポレオン3世との間にプロンビエールの密約を締結します。
この密約は、サルデーニャがサヴォイアとニースをフランスに割譲し、その代償としてイタリア統一のための対オーストリア戦をフランスが支援する内容でした。

ソルフェリーノの戦い
プロンビエールの密約を知ったオーストリアは、1859年4月にサルデーニャと開戦し、イタリア統一戦争(1859年4月~59年11月)が始まり、フランスの援助を受けたサルデーニャは連勝し、6月のソルフェリーノの戦いでオーストリア軍を撃破、全ロンバルディアを奪回しました。
この時、ナポレオン3世は、サルデーニャの強大化とイタリアの統一を恐れ、突如サルデーニャを裏切り、単独でオーストリアと講和条約を結び(1859年7月)、カヴールはこのナポレオンの裏切りに憤激し、サルデーニャ単独で戦いを続けることを国王に進言したものの容れられず辞任し、1859年11月に正式に講和条約が結ばれますが、サルデーニャはロンバルディアを獲得したに留まりました。

カヴールは、イタリア統一を外国の援助に頼ろうとしたことへの誤りを悟り、イタリア統一はイタリア人自身の手で達成すべきだと考え、首相に復職してナポレオン3世との取引に望みます。
彼はサヴォイアとニースの割譲と引き替えに、統一戦争中にサルデーニャとの併合を要求していたトスカナ以下の中部イタリア諸邦の併合を認めさ、これによって中部以北のイタリアの統一が実現し、サルデーニャ王国は人口約500万人の国から一躍1100万人の国となります。

ジュゼッペ・ガリバルディ( Giuseppe Garibaldi, 1807年7月4日 - 1882年6月2日)
南イタリアのナポリ王国(両シチリア王国)には、ウィーン会議でブルボン朝が復活したが、国王による圧政が続き、1860年4月にシチリア島でナポリ王の圧政に対する反乱が勃発し、反乱の指導者がガリバルディに援助を求めてきます。
マッツィーニ・カヴールと並んで「イタリア統一の三傑」と呼ばれるガリバルディ(1807年~82年)は、ニースで船員の家庭に生まれ、成長してサルデーニャ海軍に入隊、青年イタリアに参加し(1833年)ジェノヴァ蜂起に敗れて亡命し(1834年)、南アメリカでウルグアイ等の独立運動に参加した後、1848年に帰国し、ローマ共和国の防衛に活躍しますが、敗北して再び南アメリカに亡命します。
1854年に帰国してからは、青年イタリアの共和主義運動よりもサルデーニャ国王による統一運動に共感し、統一戦争に参加しました(1859年)。

赤シャツ隊
シチリアからの救援要請を受けたガリバルディは、ジェノヴァで千人隊(赤シャツ隊)と呼ばれる義勇軍を組織し、千人隊を率いてジェノヴァを出発し、シチリアの救援に赴きました(1860年5月)。
ガリバルディ軍はシチリアに上陸、7月末までにはシチリア全土を占領し、8月にはイタリア本土に上陸し、北上して9月にナポリに入城します。

ナポリ・シチリア王国軍を破る赤シャツ隊
ガリバルディは更に教皇領を目ざして北上を開始しますが、カヴールは、ガリバルディのローマ進撃が教皇領を守るフランス軍との紛争を引き起こすことを恐れ、またガリバルディ配下の共和主義者によって南イタリアに独立共和国が成立することをも恐れて、サルデーニャ軍をボローニャとフィレンツェから南下させます。
サルデーニャ軍は教皇領を通過して南下し、10月に両軍はナポリの北方で相対しました。

テアーノに於けるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とガリバルディ
サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とガリバルディは、道路上で会見し、ガリバルディは一部の部下の反対を退けて占領地をサルデーニャ国王に献上し、11月には国王と並んでナポリに入城し、その後ガリバルディは司令官を辞してカプレラ島に帰郷します。

ガリバルディのナポリ入城
こうしてイタリア統一が達成され、ヴェネツィアとローマ教皇領を除く全イタリアの代表がトリノに集まりイタリア最初の議会が開催されました(1861年2月)。
1861年3月にイタリア王国が成立し、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が王位に就きます。
その後、普墺戦争の際にヴェネツィアを併合し(1866年)、更に普仏戦争時にフランス守備隊が撤退した期をのがさず、1870年にローマ教皇領を占領し、ここにイタリアの統一が完成し、翌1871年にローマに遷都しました。

ヴァチカンの囚人.・ピウス9世
ローマ教皇は、イタリア王国の武力による教皇領占領に抗議し、教皇ピウス9世は捕囚されたと宣言し、以後「ヴァチカンの囚人」と称してイタリア国王と対立を続けました。
又1870年の統一後も、トリエステ・南チロル等国境地帯はオーストリア領に留まっており、イタリア人は「未回収のイタリア」と呼んでその併合を要求し続けたのです。
ジョークは如何?
執務室で書類を決裁しているヒトラーのもとに副官が駆け込んできた。
副官:「総統閣下、イタリアが参戦いたしました!」
ヒトラー:「そうか。ならば2、3個師団送って対応すればよい」
副官:「いいえ、イタリアは我々の側に立って参戦したのです!」
ヒトラー:「何と言うことだ! 2、3個軍団送って守ってやらねばならんではないか!」
続く・・・
2イタリアの統一

近代に入っても依然として分裂状態にあったイタリアは、ウィーン会議後も分裂を続け、しかもウィーン会議でロンバルディア・ヴェネツィアがオーストリア領に編入された結果、イタリア統一のためにはまず外国勢力を排除する必要に迫られます。

モデナ公によるメノッティら革命家の逮捕
しかし、オーストリアの勢力は強く、1820年代のカルボナリの革命、七月革命後のカルボナリよる再度の革命はいずれもオーストリアによって鎮圧されました。
1848年、二月革命が起きると、その影響のもとでサルデーニャ王国のカルロ・アルベルト(在位1831年~49年)は統一戦争に踏切ります。
サルデーニャ王国は、1720年にサヴォイ家が、サルデーニャ島を領有して成立した北イタリアの小王国で、トリノを都と定めていました。

ノヴァラの戦い

ジュゼッペ・マッツィーニ( Giuseppe Mazzini, 1805年6月22日 - 1872年3月10日)
しかし、サルデーニャの統一戦争はオーストリア軍とのノヴァラの戦いに敗れて失敗に終わり、マッツィーニの指導する青年イタリアが建設したローマ共和国もフランス軍の介入によって崩壊します。
サルデーニャ国王カルロ・アルベルトはノヴァラの戦いでの敗北の責任をとって退位し、息子のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820年~78年、サルデーニャ国王(在位1849年~61年)、初代イタリア国王(在位1861年~78年))が即位してリソルジメント(イタリアの自由・独立・統一を目ざした自由主義・民族主義運動)を続行するために、自由主義者のカヴールを首相に任じました。

カヴール及びチェッラレンゴ並びにイゾラベッラ伯爵カミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ・ベンソ(イタリア語: Camillo Paolo Filippo Giulio Benso, conte di Cavour, di Cellarengo e di Isolabella、1810年8月10日 - 1861年6月6日)
カヴール(1810年~61年、在任1852年~61年)は、トリノの名門貴族の家庭に生まれ、当初軍人と成りましたがまもなく退役し、地主として農業経営にあたっていました。
その間、イギリス・フランスを旅行してイギリス議会政治に心酔し、同志と新聞「リソルジメント(復興)」を発行し(1847年)、サルデーニャ国王を中心とする立憲君主制によるイタリア統一を主張しました。
1848年に議員の職に就き、1852年に首相に任じられます。
カヴールはサルデーニャ王国近代化のための政策を積極的に推し進め、近代産業の育成・軍隊の近代化を進め、国家財政の基礎を固めるために強い反対を押し切って修道院を解散し、その土地を国有化しました(1855年)。

クリミア戦争・セヴァストーポリ包囲戦
その一方で、カヴールはサルデーニャ単独ではオーストリアを破って統一を達成することは不可能と考え、イギリス・フランス等大国の援助が不可欠と考えており、そのためイギリス・フランスと同盟を結んで1855年にクリミア戦争(1853年~56年)に参戦し、1万5千の将兵をクリミア半島に送り、サルデーニャの国際的地位の向上に努めました。
更に、1858年7月、カヴールはナポレオン3世との間にプロンビエールの密約を締結します。
この密約は、サルデーニャがサヴォイアとニースをフランスに割譲し、その代償としてイタリア統一のための対オーストリア戦をフランスが支援する内容でした。

ソルフェリーノの戦い
プロンビエールの密約を知ったオーストリアは、1859年4月にサルデーニャと開戦し、イタリア統一戦争(1859年4月~59年11月)が始まり、フランスの援助を受けたサルデーニャは連勝し、6月のソルフェリーノの戦いでオーストリア軍を撃破、全ロンバルディアを奪回しました。
この時、ナポレオン3世は、サルデーニャの強大化とイタリアの統一を恐れ、突如サルデーニャを裏切り、単独でオーストリアと講和条約を結び(1859年7月)、カヴールはこのナポレオンの裏切りに憤激し、サルデーニャ単独で戦いを続けることを国王に進言したものの容れられず辞任し、1859年11月に正式に講和条約が結ばれますが、サルデーニャはロンバルディアを獲得したに留まりました。

カヴールは、イタリア統一を外国の援助に頼ろうとしたことへの誤りを悟り、イタリア統一はイタリア人自身の手で達成すべきだと考え、首相に復職してナポレオン3世との取引に望みます。
彼はサヴォイアとニースの割譲と引き替えに、統一戦争中にサルデーニャとの併合を要求していたトスカナ以下の中部イタリア諸邦の併合を認めさ、これによって中部以北のイタリアの統一が実現し、サルデーニャ王国は人口約500万人の国から一躍1100万人の国となります。

ジュゼッペ・ガリバルディ( Giuseppe Garibaldi, 1807年7月4日 - 1882年6月2日)
南イタリアのナポリ王国(両シチリア王国)には、ウィーン会議でブルボン朝が復活したが、国王による圧政が続き、1860年4月にシチリア島でナポリ王の圧政に対する反乱が勃発し、反乱の指導者がガリバルディに援助を求めてきます。
マッツィーニ・カヴールと並んで「イタリア統一の三傑」と呼ばれるガリバルディ(1807年~82年)は、ニースで船員の家庭に生まれ、成長してサルデーニャ海軍に入隊、青年イタリアに参加し(1833年)ジェノヴァ蜂起に敗れて亡命し(1834年)、南アメリカでウルグアイ等の独立運動に参加した後、1848年に帰国し、ローマ共和国の防衛に活躍しますが、敗北して再び南アメリカに亡命します。
1854年に帰国してからは、青年イタリアの共和主義運動よりもサルデーニャ国王による統一運動に共感し、統一戦争に参加しました(1859年)。

赤シャツ隊
シチリアからの救援要請を受けたガリバルディは、ジェノヴァで千人隊(赤シャツ隊)と呼ばれる義勇軍を組織し、千人隊を率いてジェノヴァを出発し、シチリアの救援に赴きました(1860年5月)。
ガリバルディ軍はシチリアに上陸、7月末までにはシチリア全土を占領し、8月にはイタリア本土に上陸し、北上して9月にナポリに入城します。

ナポリ・シチリア王国軍を破る赤シャツ隊
ガリバルディは更に教皇領を目ざして北上を開始しますが、カヴールは、ガリバルディのローマ進撃が教皇領を守るフランス軍との紛争を引き起こすことを恐れ、またガリバルディ配下の共和主義者によって南イタリアに独立共和国が成立することをも恐れて、サルデーニャ軍をボローニャとフィレンツェから南下させます。
サルデーニャ軍は教皇領を通過して南下し、10月に両軍はナポリの北方で相対しました。

テアーノに於けるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とガリバルディ
サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とガリバルディは、道路上で会見し、ガリバルディは一部の部下の反対を退けて占領地をサルデーニャ国王に献上し、11月には国王と並んでナポリに入城し、その後ガリバルディは司令官を辞してカプレラ島に帰郷します。

ガリバルディのナポリ入城
こうしてイタリア統一が達成され、ヴェネツィアとローマ教皇領を除く全イタリアの代表がトリノに集まりイタリア最初の議会が開催されました(1861年2月)。
1861年3月にイタリア王国が成立し、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が王位に就きます。
その後、普墺戦争の際にヴェネツィアを併合し(1866年)、更に普仏戦争時にフランス守備隊が撤退した期をのがさず、1870年にローマ教皇領を占領し、ここにイタリアの統一が完成し、翌1871年にローマに遷都しました。

ヴァチカンの囚人.・ピウス9世
ローマ教皇は、イタリア王国の武力による教皇領占領に抗議し、教皇ピウス9世は捕囚されたと宣言し、以後「ヴァチカンの囚人」と称してイタリア国王と対立を続けました。
又1870年の統一後も、トリエステ・南チロル等国境地帯はオーストリア領に留まっており、イタリア人は「未回収のイタリア」と呼んでその併合を要求し続けたのです。
ジョークは如何?
執務室で書類を決裁しているヒトラーのもとに副官が駆け込んできた。
副官:「総統閣下、イタリアが参戦いたしました!」
ヒトラー:「そうか。ならば2、3個師団送って対応すればよい」
副官:「いいえ、イタリアは我々の側に立って参戦したのです!」
ヒトラー:「何と言うことだ! 2、3個軍団送って守ってやらねばならんではないか!」
続く・・・
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