2016/10/28

歴史を歩く126

31自由主義と国民主義②

2イタリアの統一

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 近代に入っても依然として分裂状態にあったイタリアは、ウィーン会議後も分裂を続け、しかもウィーン会議でロンバルディア・ヴェネツィアがオーストリア領に編入された結果、イタリア統一のためにはまず外国勢力を排除する必要に迫られます。

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モデナ公によるメノッティら革命家の逮捕

 しかし、オーストリアの勢力は強く、1820年代のカルボナリの革命、七月革命後のカルボナリよる再度の革命はいずれもオーストリアによって鎮圧されました。
1848年、二月革命が起きると、その影響のもとでサルデーニャ王国のカルロ・アルベルト(在位1831年~49年)は統一戦争に踏切ります。
サルデーニャ王国は、1720年にサヴォイ家が、サルデーニャ島を領有して成立した北イタリアの小王国で、トリノを都と定めていました。

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ノヴァラの戦い

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ジュゼッペ・マッツィーニ( Giuseppe Mazzini, 1805年6月22日 - 1872年3月10日)

 しかし、サルデーニャの統一戦争はオーストリア軍とのノヴァラの戦いに敗れて失敗に終わり、マッツィーニの指導する青年イタリアが建設したローマ共和国もフランス軍の介入によって崩壊します。
サルデーニャ国王カルロ・アルベルトはノヴァラの戦いでの敗北の責任をとって退位し、息子のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820年~78年、サルデーニャ国王(在位1849年~61年)、初代イタリア国王(在位1861年~78年))が即位してリソルジメント(イタリアの自由・独立・統一を目ざした自由主義・民族主義運動)を続行するために、自由主義者のカヴールを首相に任じました。

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カヴール及びチェッラレンゴ並びにイゾラベッラ伯爵カミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ・ベンソ(イタリア語: Camillo Paolo Filippo Giulio Benso, conte di Cavour, di Cellarengo e di Isolabella、1810年8月10日 - 1861年6月6日)

 カヴール(1810年~61年、在任1852年~61年)は、トリノの名門貴族の家庭に生まれ、当初軍人と成りましたがまもなく退役し、地主として農業経営にあたっていました。
その間、イギリス・フランスを旅行してイギリス議会政治に心酔し、同志と新聞「リソルジメント(復興)」を発行し(1847年)、サルデーニャ国王を中心とする立憲君主制によるイタリア統一を主張しました。
1848年に議員の職に就き、1852年に首相に任じられます。

 カヴールはサルデーニャ王国近代化のための政策を積極的に推し進め、近代産業の育成・軍隊の近代化を進め、国家財政の基礎を固めるために強い反対を押し切って修道院を解散し、その土地を国有化しました(1855年)。

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クリミア戦争・セヴァストーポリ包囲戦

 その一方で、カヴールはサルデーニャ単独ではオーストリアを破って統一を達成することは不可能と考え、イギリス・フランス等大国の援助が不可欠と考えており、そのためイギリス・フランスと同盟を結んで1855年にクリミア戦争(1853年~56年)に参戦し、1万5千の将兵をクリミア半島に送り、サルデーニャの国際的地位の向上に努めました。

 更に、1858年7月、カヴールはナポレオン3世との間にプロンビエールの密約を締結します。
この密約は、サルデーニャがサヴォイアとニースをフランスに割譲し、その代償としてイタリア統一のための対オーストリア戦をフランスが支援する内容でした。

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ソルフェリーノの戦い

 プロンビエールの密約を知ったオーストリアは、1859年4月にサルデーニャと開戦し、イタリア統一戦争(1859年4月~59年11月)が始まり、フランスの援助を受けたサルデーニャは連勝し、6月のソルフェリーノの戦いでオーストリア軍を撃破、全ロンバルディアを奪回しました。
この時、ナポレオン3世は、サルデーニャの強大化とイタリアの統一を恐れ、突如サルデーニャを裏切り、単独でオーストリアと講和条約を結び(1859年7月)、カヴールはこのナポレオンの裏切りに憤激し、サルデーニャ単独で戦いを続けることを国王に進言したものの容れられず辞任し、1859年11月に正式に講和条約が結ばれますが、サルデーニャはロンバルディアを獲得したに留まりました。

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 カヴールは、イタリア統一を外国の援助に頼ろうとしたことへの誤りを悟り、イタリア統一はイタリア人自身の手で達成すべきだと考え、首相に復職してナポレオン3世との取引に望みます。
彼はサヴォイアとニースの割譲と引き替えに、統一戦争中にサルデーニャとの併合を要求していたトスカナ以下の中部イタリア諸邦の併合を認めさ、これによって中部以北のイタリアの統一が実現し、サルデーニャ王国は人口約500万人の国から一躍1100万人の国となります。

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ジュゼッペ・ガリバルディ( Giuseppe Garibaldi, 1807年7月4日 - 1882年6月2日)

 南イタリアのナポリ王国(両シチリア王国)には、ウィーン会議でブルボン朝が復活したが、国王による圧政が続き、1860年4月にシチリア島でナポリ王の圧政に対する反乱が勃発し、反乱の指導者がガリバルディに援助を求めてきます。

 マッツィーニ・カヴールと並んで「イタリア統一の三傑」と呼ばれるガリバルディ(1807年~82年)は、ニースで船員の家庭に生まれ、成長してサルデーニャ海軍に入隊、青年イタリアに参加し(1833年)ジェノヴァ蜂起に敗れて亡命し(1834年)、南アメリカでウルグアイ等の独立運動に参加した後、1848年に帰国し、ローマ共和国の防衛に活躍しますが、敗北して再び南アメリカに亡命します。
1854年に帰国してからは、青年イタリアの共和主義運動よりもサルデーニャ国王による統一運動に共感し、統一戦争に参加しました(1859年)。

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赤シャツ隊

 シチリアからの救援要請を受けたガリバルディは、ジェノヴァで千人隊(赤シャツ隊)と呼ばれる義勇軍を組織し、千人隊を率いてジェノヴァを出発し、シチリアの救援に赴きました(1860年5月)。
ガリバルディ軍はシチリアに上陸、7月末までにはシチリア全土を占領し、8月にはイタリア本土に上陸し、北上して9月にナポリに入城します。

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ナポリ・シチリア王国軍を破る赤シャツ隊

 ガリバルディは更に教皇領を目ざして北上を開始しますが、カヴールは、ガリバルディのローマ進撃が教皇領を守るフランス軍との紛争を引き起こすことを恐れ、またガリバルディ配下の共和主義者によって南イタリアに独立共和国が成立することをも恐れて、サルデーニャ軍をボローニャとフィレンツェから南下させます。
サルデーニャ軍は教皇領を通過して南下し、10月に両軍はナポリの北方で相対しました。

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テアーノに於けるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とガリバルディ

 サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とガリバルディは、道路上で会見し、ガリバルディは一部の部下の反対を退けて占領地をサルデーニャ国王に献上し、11月には国王と並んでナポリに入城し、その後ガリバルディは司令官を辞してカプレラ島に帰郷します。

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ガリバルディのナポリ入城

 こうしてイタリア統一が達成され、ヴェネツィアとローマ教皇領を除く全イタリアの代表がトリノに集まりイタリア最初の議会が開催されました(1861年2月)。

 1861年3月にイタリア王国が成立し、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が王位に就きます。
その後、普墺戦争の際にヴェネツィアを併合し(1866年)、更に普仏戦争時にフランス守備隊が撤退した期をのがさず、1870年にローマ教皇領を占領し、ここにイタリアの統一が完成し、翌1871年にローマに遷都しました。

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ヴァチカンの囚人.・ピウス9世

 ローマ教皇は、イタリア王国の武力による教皇領占領に抗議し、教皇ピウス9世は捕囚されたと宣言し、以後「ヴァチカンの囚人」と称してイタリア国王と対立を続けました。
又1870年の統一後も、トリエステ・南チロル等国境地帯はオーストリア領に留まっており、イタリア人は「未回収のイタリア」と呼んでその併合を要求し続けたのです。

ジョークは如何?

執務室で書類を決裁しているヒトラーのもとに副官が駆け込んできた。

副官:「総統閣下、イタリアが参戦いたしました!」
ヒトラー:「そうか。ならば2、3個師団送って対応すればよい」
副官:「いいえ、イタリアは我々の側に立って参戦したのです!」

ヒトラー:「何と言うことだ! 2、3個軍団送って守ってやらねばならんではないか!」


続く・・・
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2016/10/25

歴史を歩く125

31自由主義と国民主義

1イギリスのヴィクトリア時代

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ヴィクトリア女王・戴冠式の肖像(Victoria、1819年5月24日 - 1901年1月22日)
イギリス・ハノーヴァー朝第6代女王(在位:1837年6月20日 - 1901年1月22日)
初代インド女帝(在位:1877年1月1日 - 1901年1月22日)

 1837年、イギリスではヴィクトリア女王(1819年~1901年、在位1837年~1901年)が18歳で即位します。
歴代イギリス国王の中で最長の64年に及ぶ治世は「ヴィクトリア朝時代」と呼ばれ、大英帝国の黄金時代でした。

 ヴィクトリア朝時代を代表する偉大な政治家が、保守党のディズレーリと自由党のグラッドストンで、19世紀後半のイギリスでは、この二人の政治家のもとで、保守党と自由党による典型的な二大政党制が発展します。

 トーリー党は、1830年頃から保守党と呼ばれるようになりました。
トーリー党を近代的な保守党に脱皮させたのは、穀物法の廃止(1846年)を断行したピール(首相、在任1834年~35年、1841年~46年)でした。

 ホイッグ党も、第1回選挙法改正(1832年)後に自由党と呼ばれるようになります。
30年にわたってイギリス外交をリードしたパーマストン(1784年~1865年、首相(在任1855年~58年、1859年~65年))の死後、グラッドストンが指導権を握り、多くの自由主義改革を行いました。

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1840年代のチャーチスト運動

 19世紀後半のイギリスにとって最大の問題は選挙法改正でした。
第1回選挙法改正で、選挙権を獲得できなかった労働者は、チャーティスト運動を起こしますが失敗に終わり、1866年に自由党が提出した4回目の選挙法改正案が否決されると、ロンドンで選挙法改正を要求する大規模なデモが起こり、労働者に選挙権を与えることは避けられない状況となりました。

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保守党党首・首相ダービー伯爵
第14代ダービー伯爵エドワード・ジョージ・ジョフリー・スミス=スタンリー(Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, KG, PC、1799年3月29日 - 1869年10月23日)

 この状況をみて、保守党のディズレーリは、保守党の手で改正を行って民衆の支持を得る方が得策と考え、自由党の改正に応じ、保守党ダービー内閣(第3次、在任1866年~68年)のもとで、1867年8月に第2回選挙法改正が行われ、これにより都市の労働者に選挙権が与えられ、新有権者の数は110万人以上増加しました。

 ダービーは、翌1868年に体調を壊して引退し、第1次ディズレーリ内閣(1868年)が成立します。しかし、第2回選挙法改正後に行われた1868年の総選挙では自由党が勝利し、第1次グラッドストン内閣(1868年~74年)が成立、以後、ディズレーリは2回、グラッドストンは4回にわたって内閣を組織しました。

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1878年のディズレーリ首相
初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ( Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, KG, PC, FRS、1804年12月21日 - 1881年4月19日)

 ディズレーリ(1804年~81年、首相(在任1868年、1874年~80年))は、祖父の代にイギリスに移住したユダヤ人の家系に生まれ、キリスト教に改宗し、弁護士事務所に勤務しながら小説を著しました。
数回の落選を経験した後、1837年に下院議員に当選し、政治小説を書いてトーリー・デモクラシーを主張し、穀物法の廃止(1846年)に反対してピールと袂を分かち、その後保守党保護貿易派の首領となり、ダービー内閣で3度蔵相を務め、第2回選挙法改正(1867年)を行いました。
ダービーの引退後、2回内閣を組織し、スエズ運河株式の買収(1875年)・インド帝国の成立(1877年、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任)・ベルリン会議でロシアの南下策を阻止する等積極的に帝国主義的外交を展開しました。

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ホイッグ党党首・首相パーマストン子爵
第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル( Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston, KG, GCB, PC, 1784年10月20日 - 1865年10月18日)
 グラッドストン(1809年~98年、首相(在任1868年~74年、1880年~85年、1886年、1892年~94年))は、リヴァプールの豪商の家に生まれ、オックスフォード大学を卒業後、1833年に保守党の下院議員となり、穀物法廃止の際はピールを支持し、その後ピール派として保守党から次第に離れ、1859~66年にパーマストン自由党内閣・ラッセル自由党内閣で蔵相に就任し、ラッセルの引退後は自由党党首として4回首相を務めました。

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自由党党首・首相ウィリアム・グラッドストン
ウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone [ˈwɪljəm ˈjuːwɑːt ˈglæd.stən], FRS, FSS、1809年12月29日 - 1898年5月19日)

 グラッドストンは、主に内政問題に力を注ぎ、1870年には教育法を制定して宗派に関係ない公立学校を増設し、翌1871年には労働組合法を制定して労働組合運動を合法化、更に1884年には第3回選挙法改正を行い、農業労働者及び鉱山労働者に選挙権を与え、これによって有権者は約500万人(成年男子約700万人中)と成りました。

 グラッドストンが最も力を入れて取り組んだのがアイルランド問題でした。
アイルランドは、クロムウェルに征服されて(1649年)以来、事実上イギリスの植民地状態におかれ、アイルランド人は宗教・政治・土地所有等の差別に苦しめられた上、1801年に正式にイギリスに併合され、ロンドンの議会に代表を送るようになり、1829年のカトリック教徒解放法で議会に進出しますが、アイルランド人は長い間イギリス人不在地主の小作人に位置した結果、生活は苦しく、1874年にイギリス議会に選出された60~80人のアイルランド選出議員を中心にアイルランド国民党を結成して、アイルランドの自治権獲得をめざす運動を展開しました。

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ダブリン市にあるジャガイモ飢饉追悼記念像

 グラッドストンは、アイルランド人小作人の地位向上の為にアイルランド土地法の制定に取り組ます。
1870年法で適正な地代・小作権売買を認め、1881年法では土地購入権も認め、又1885年法・1891年法では自作農創設の為に小作人の土地購入を促進する法を制定しました。

 更にグラッドストンは、議会内第3党となったアイルランド国民党と結んで、1886年にアイルランド自治法を提出しましたが、自由党の一部が反対にまわり、自由党が分裂した為に失敗に終わり、1893年には再度、第2次アイルランド自治法案を議会に提出します。
この時は下院を通過しますが上院で否決され、グラッドストンは翌年政界を引退しました。

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20世紀初期のイギリス植民地

 当時のイギリスでは、植民地に関して大英国主義と小英国主義が対立していました。
小英国主義は、自由貿易による利益の獲得こそが重要であって、植民地は財政負担を増加させる重荷に過ぎないとして植民地放棄論を唱えて帝国の拡大に反対する立場で、自由党のグラッドストンはこの小英国主義を支持しました。
これに対して保守党のディズレーリは大英国主義を主張し、インド・アフリカ・中国への進出を強めます。

 19世紀後半のイギリスは、インド帝国を中心としてオーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ・カナダ等に広大な植民地を持ち、第2次イギリス帝国(七年戦争迄に形成された帝国を第1次帝国)を形成していました。
第2次イギリス帝国では、次第に白人植民地の自治が認められ、白人植民地は自治領と成り、まず1867年に、カナダがイギリス帝国内で最初の自治領と成りました。

 自治領は、イギリス植民地の中で自治権を与えられた国で、イギリス国王を元首とし、カナダに続いてオーストラリア(1901年)・ニュージーランド(1907年)・南アフリカ連邦(1910年)も自治領に成って行きます。

ジョークは如何?

二日酔いで議会に出席したチャーチル。
女性議員が不謹慎だと批難すると、チャーチルは反論して曰く
「私の二日酔いは明日になれば治るが、あンたのその顔は永遠に治らんよ」

続く・・・

2016/10/07

歴史を歩く124

30 自由を求めて⑩

7二月革命の影響

 二月革命は、ヨーロッパの自由主義・国民主義運動に大きな影響を及ぼし、全ヨーロッパで自由主義・国民主義が高揚した為、1848年の春は「諸国民の春」、1848年全体では「革命の年」と呼ばれています。

ウィーン暴動
ウィーン三月革命でバリケードを築くウィーン市民

 二月革命の影響はドイツに及び、三月革命が起こります。
1848年3月13日にウィーンの三月革命(ウィーン暴動)が発生、この日、学生・市民・労働者が蜂起し、メッテルニヒの罷免を要求して宮殿に殺到して、軍隊が民衆に発砲したものの、民衆は宮殿を包囲し、夜になると宮殿内に侵入します。
翌14日、長年ヨーロッパの反動勢力の中心人物であるメッテルニヒは、変装して脱出に成功してロンドンに亡命し、これによってウィーン体制は終に完全に崩壊し、皇帝は憲法の発布と議会の召集を約束しました。

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コシュート・ラヨシュ(Kossuth Lajos: 1802年9月19日 - 1894年3月20日)

 マジャール人(ハンガリー)・チェック人(ベーメン)・イタリア人・スラブ系の諸民族等からなる複合民族国家であったオーストリアでは、ウィーンの三月革命に続いて各地で民族独立運動が連続します。

 ハンガリーでは、民族独立運動の指導者であるコッシュート(1802年~94年)等が、1848年3月に憲法改革と責任内閣制を要求して皇帝に承認させ、コッシュート自身はハンガリー最初の内閣の蔵相に就任します。

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オーストリア帝国からの独立のために人々に決起を呼びかけるコシュート・ラヨシュ(1848年)

 オーストリアの反動化によって革命戦争(1848年~49年)が勃発すると、1849年4月に、ハンガリーはコッシュートの指導下で独立を宣言し、コッシュートは臨時政府の執政官に就任しますが、オーストリアの要請でロシア軍が介入し、コッシュートはロシア軍に敗れて亡命し(1849年)、ハンガリーの独立運動は鎮圧されます。

 ベーメンでも、1848年6月にプラハを中心に独立蜂起が起こしますが、失敗に終わっています。

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1848年3月4日の憲法に署名するカルロ・アルベルト

 イタリアでは、ウィーンの三月革命の報が伝わると、ロンバルディア、ヴェネツィアで反オーストリア暴動が発生しました。
この情勢を見て、サルディニア国王カルロ・アルベルト(在位1831年~49年)はオーストリアに宣戦し(1848年3月)、ロンバルディアに進撃するものの、オーストリアのラデツキー将軍(ラデツキー行進曲で有名)にノヴァラの戦い(1849年6月)で敗れて退位します。

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ヨハン・ヨーゼフ・ヴェンツェル・フォン・ラデツキー伯爵(Johann Joseph Wenzel Graf Radetzky von Radetz, Jan Josef Václav (H)Radecký z (1766年11月2日 - 1858年1月5日)

 二月革命の影響でローマにおいても暴動が起こり、教皇ピウス9世がローマを脱出すると、マッツィーニの率いる青年イタリアがローマ共和国(1849年2月~49年7月)を樹立し、イタリアの統一をめざして憲法会議開催を呼びかけます。

ミラノ暴動
バリケードを築いてオーストリア軍に抵抗するミラノ市民

 ピウス9世は、カトリック諸国に鎮圧を要請し、これに応じたフランス軍の介入によってローマ共和国は崩壊し、イタリアの統一運動も失敗に終わりました。

 ウィーンの三月革命に続いて、プロイセンの首都ベルリンでもベルリンの三月革命(ベルリン暴動)が発生します。
1848年3月18日、ベルリンでブルジョワ・労働者が蜂起し、プロイセン国王に憲法制定を約束させました。

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フランクフルト国民議会

 三月革命後の革命的機運の高まりの中で、1848年5月18日にフランクフルト国民議会が開かれます。
フランクフルト国民議会は、ドイツ最初の全国的議会で、議員はドイツ諸邦から普通選挙で選ばれ、議員の多くは学者・官吏・ブルジョワで占められていました。
フランクフルト国民議会は、ドイツの統一の方式や全国憲法制定等が議題に上がりましたが、議論に多くの時間を費やし、決断と実行力に欠けていました。

 フランクフルト国民議会は、1848年12月にやっとドイツ国民の基本法(憲法の基本原理を定めたもので人権宣言にあたる)を、翌年3月にはドイツ国憲法を作成・公布します。

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ドイツ諸国(1815-1866);赤い線はドイツ連邦の領域を示す

 ドイツの統一の方式をめぐっては、大ドイツ主義と小ドイツ主義が対立しました。
大ドイツ主義は、オーストリアの指導のもとで、オーストリアを含めたかっての神聖ローマ帝国の全領域を統合しようとする立場であり、これに対して小ドイツ主義は、複合民族国家であるオーストリアを除外してプロイセンの指導によるドイツの統一をめざす立場でしたが、最終的に小ドイツ主義が勝利を納めています。

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フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(Friedrich Wilhelm IV., 1795年10月15日 - 1861年1月2日)

 1849年3月に制定されたドイツ国憲法は立憲君主制を採用していた為、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を統一ドイツ皇帝に選出しましたが、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がこれを拒否した結果、議会は紛糾しました。
プロイセン国王は、他の諸王侯の同意があるまでは受けることが出来ないとの理由で拒否しましたが、本当の理由は革命派からの帝冠は受けられないとする、この一点が問題でした。

 議会は憲法の実現を訴え、これを支持する民衆の蜂起が5月以後各地で起こるも鎮圧される中で、諸邦は議員を引き上げ、フランクフルト国民議会は1849年6月には武力で解散させられ、ドイツの統一と全国憲法制定の試みは失敗に終わりました。

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1848年ロンドン、ケニントン・コモン広場でのチャーティスト集会

 イギリスでは、二月革命の影響の下で、1848年4月にチャーティスト運動が最高に達します。
チャーティスト達は、大規模なデモを行い議会に圧力を掛けますが政府の厳しい弾圧を受けて失敗に終わり、以後チャーティスト運動は衰退に向かって行きました。

 尚、マルクス・エンゲルスによって『共産党宣言』が出されたのも1848年であり、この様に1848年の諸革命はウィーン体制を崩壊させましたが、1848年末から1849年にかけて反革命が勝利し、ヨーロッパは再び反動化して行きます。
メッテルニヒの失脚後、この反動勢力の中心となったのは「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれたロシアでした。

ジョークは如何?

スターリンが占い師に尋ねた。

「私の寿命はどれくらいだ?」
「わからない。しかし、おまえは最も大きな祝祭日に死ぬだろう」
「それはいつだ」
「おまえが死ぬ日がそうだ」

続く・・・