歴史を歩く130
31自由主義と国民主義⑥
5フランス第二帝政と第三共和政

「馬上のサン・シモン」ナポレオン3世
1852年11月に行われた国民投票で圧倒的支持を得たルイ・ナポレオンは、翌12月に皇帝ナポレオン3世(在位1852年~70年)となり、第二帝政(1852年~70年)が始まりました。
第二帝政では、普通選挙によって選ばれる議会は存在しましたが、殆んど権限がなく、皇帝が行政・軍事・外交の全権を掌握していた結果、実質的には皇帝独裁体制でした。
ナポレオン3世は、カトリック勢力・農民の支持を基盤とし、資本家と労働者の均衡の上に立って、軍隊・警察の力で反対派を抑えて専制的な政治を行いましたが、このようなナポレオン3世の政治形態はボナパルティズムと呼ばれています。

アロー戦争:フランス軍総司令官モントバン
ナポレオン3世は国民の人気を保つためにさかんに対外進出を行いました。
クリミア戦争(1853年~56年)に介入して名声を博したナポレオン3世は、アロー戦争(1856年~60年)で中国に進出し、インドシナ出兵(1858年~67年)によってヴェトナムに領土を獲得し、更にイタリア統一戦争(1859年)に干渉してサヴォイア・ニースを獲得しましたが、メキシコ出兵(1861年~67年)の失敗によって対外的な威信を失いました。

マクシミリアン1世(マクシミリアーノ1世: Maximiliano I、1832年7月6日 - 1867年6月19日)
ナポレオン3世は、財政難に陥ったメキシコが外債の利子不払いを宣言すると、1861年にイギリス・スペインと共同でメキシコに出兵し、両国が撤兵した後も干渉を続け、共和政府を倒してオーストリア皇帝の弟マクシミリアンをメキシコ皇帝に就けますが(1864年4月)、メキシコ人の抵抗やアメリカ合衆国の抗議のためにマクシミリアンを見捨てて撤兵し(1867年3月)、マクシミリアンは処刑されてしまいます(1867年6月)。
このメキシコ出兵の失敗でナポレオン3世の人気は低下し、焦ったナポレオン3世はドイツ統一の妨害に乗り出しましたが、普仏戦争に敗れて終に退位します(1870年9月)。

ルイ・アドルフ・ティエール( Louis Adolphe Thiers、 1797年4月16日 - 1877年9月3日)
ナポレオン3世の退位後も、パリに成立した国民防衛政府は更に抗戦を続けましたが、ドイツ軍に降伏して休戦条約を結びます(1871年1月)。
休戦条約による総選挙で国民議会が成立し、ティエール(1797年~1877年)を行政長官(首相にあたる)とする臨時政府がヴェルサイユに成立し、ドイツと仮講和条約を締結します(1870年2月)。

普仏戦争で進軍するプロイセン軍
仮講和条約ではアルザス・ロレーヌの割譲・50億フランの賠償金・ドイツ軍のパリ入城が定められていたので、パリの民衆は屈辱的な条約であるとして強く反対しました。
1870年3月18日、ティエール臨時政府がパリ国民軍の武装解除を実行した事から反乱が勃発し、ティエールはパリを放棄して政府と軍をヴェルサイユに移した結果、パリは蜂起した市民・国民軍の手に落ちました。

パリ・コミューンの政府構成者
3月26日にコミューン議会の選挙が行われ、3月28日にパリ・コミューンの成立が宣言されます。パリ・コミューンは労働者、小市民が中心となってつくった自治政府で、世界史上最初の社会主義政権といわれています。
パリ・コミューンは行政委員会をはじめ10の委員会を設置し、労働者の解放を目ざす多くの改革を行いましたが、4月に入るとドイツ軍の支援を取り付けたティエールがパリ攻撃を開始し、ヴェルサイユ軍は5月21日にパリに突入し、5月21日から28日までのいわゆる「血の一週間」による虐殺によってパリ・コミューンはわずか2ヶ月で鎮圧されます。

コミューン女性兵士による戦闘
その後、ティエールが第三共和政の初代大統領に選ばれ(1871年8月)、王党派と共和派の対立に悩まされながらも、対ドイツ賠償金の支払いと財政の立て直しに努めしたが、王党派と共和派の両派から攻撃される中で辞任し(1873年5月)、マクマオン(在任1873年~77年、普仏戦争の時の司令官の一人、パリ・コミューンを鎮圧した)が大統領に選ばれます。

マクマオン伯爵及びマジェンタ公爵マリー・エドム・パトリス・モーリス・ド・マクマオン
( Marie Edme Patrice Maurice de Mac-Mahon, comte de Mac-Mahon, duc de Magenta, 1808年7月13日 - 1893年10月16日)
1875年2月、三権分立・二院制・任期7年の大統領制・男子普通選挙などを骨子とする第三共和制憲法が議会に於いて僅か1票差で可決・制定され、第三共和政(1870年~1940年)の基礎が確立しました。
しかし、第三共和政は、議会で小党が分立し、政府は連立政権の為政情は不安定でした。
<strong>ジョークは如何?
ある日のイズベスチヤに「今日、パンは品薄です」という告知が掲載されていた。
日頃からソ連邦崩壊の噂を聞いている夫は急いでキッチンにいる妻の所に駆け寄った。
夫「おい、急いでパンを買いに行かなくてもいいのか?」
妻「パンがなくても告知する新聞紙があるだけまだ崩壊しないわよ」
続く・・・
5フランス第二帝政と第三共和政

「馬上のサン・シモン」ナポレオン3世
1852年11月に行われた国民投票で圧倒的支持を得たルイ・ナポレオンは、翌12月に皇帝ナポレオン3世(在位1852年~70年)となり、第二帝政(1852年~70年)が始まりました。
第二帝政では、普通選挙によって選ばれる議会は存在しましたが、殆んど権限がなく、皇帝が行政・軍事・外交の全権を掌握していた結果、実質的には皇帝独裁体制でした。
ナポレオン3世は、カトリック勢力・農民の支持を基盤とし、資本家と労働者の均衡の上に立って、軍隊・警察の力で反対派を抑えて専制的な政治を行いましたが、このようなナポレオン3世の政治形態はボナパルティズムと呼ばれています。

アロー戦争:フランス軍総司令官モントバン
ナポレオン3世は国民の人気を保つためにさかんに対外進出を行いました。
クリミア戦争(1853年~56年)に介入して名声を博したナポレオン3世は、アロー戦争(1856年~60年)で中国に進出し、インドシナ出兵(1858年~67年)によってヴェトナムに領土を獲得し、更にイタリア統一戦争(1859年)に干渉してサヴォイア・ニースを獲得しましたが、メキシコ出兵(1861年~67年)の失敗によって対外的な威信を失いました。

マクシミリアン1世(マクシミリアーノ1世: Maximiliano I、1832年7月6日 - 1867年6月19日)
ナポレオン3世は、財政難に陥ったメキシコが外債の利子不払いを宣言すると、1861年にイギリス・スペインと共同でメキシコに出兵し、両国が撤兵した後も干渉を続け、共和政府を倒してオーストリア皇帝の弟マクシミリアンをメキシコ皇帝に就けますが(1864年4月)、メキシコ人の抵抗やアメリカ合衆国の抗議のためにマクシミリアンを見捨てて撤兵し(1867年3月)、マクシミリアンは処刑されてしまいます(1867年6月)。
このメキシコ出兵の失敗でナポレオン3世の人気は低下し、焦ったナポレオン3世はドイツ統一の妨害に乗り出しましたが、普仏戦争に敗れて終に退位します(1870年9月)。

ルイ・アドルフ・ティエール( Louis Adolphe Thiers、 1797年4月16日 - 1877年9月3日)
ナポレオン3世の退位後も、パリに成立した国民防衛政府は更に抗戦を続けましたが、ドイツ軍に降伏して休戦条約を結びます(1871年1月)。
休戦条約による総選挙で国民議会が成立し、ティエール(1797年~1877年)を行政長官(首相にあたる)とする臨時政府がヴェルサイユに成立し、ドイツと仮講和条約を締結します(1870年2月)。

普仏戦争で進軍するプロイセン軍
仮講和条約ではアルザス・ロレーヌの割譲・50億フランの賠償金・ドイツ軍のパリ入城が定められていたので、パリの民衆は屈辱的な条約であるとして強く反対しました。
1870年3月18日、ティエール臨時政府がパリ国民軍の武装解除を実行した事から反乱が勃発し、ティエールはパリを放棄して政府と軍をヴェルサイユに移した結果、パリは蜂起した市民・国民軍の手に落ちました。

パリ・コミューンの政府構成者
3月26日にコミューン議会の選挙が行われ、3月28日にパリ・コミューンの成立が宣言されます。パリ・コミューンは労働者、小市民が中心となってつくった自治政府で、世界史上最初の社会主義政権といわれています。
パリ・コミューンは行政委員会をはじめ10の委員会を設置し、労働者の解放を目ざす多くの改革を行いましたが、4月に入るとドイツ軍の支援を取り付けたティエールがパリ攻撃を開始し、ヴェルサイユ軍は5月21日にパリに突入し、5月21日から28日までのいわゆる「血の一週間」による虐殺によってパリ・コミューンはわずか2ヶ月で鎮圧されます。

コミューン女性兵士による戦闘
その後、ティエールが第三共和政の初代大統領に選ばれ(1871年8月)、王党派と共和派の対立に悩まされながらも、対ドイツ賠償金の支払いと財政の立て直しに努めしたが、王党派と共和派の両派から攻撃される中で辞任し(1873年5月)、マクマオン(在任1873年~77年、普仏戦争の時の司令官の一人、パリ・コミューンを鎮圧した)が大統領に選ばれます。

マクマオン伯爵及びマジェンタ公爵マリー・エドム・パトリス・モーリス・ド・マクマオン
( Marie Edme Patrice Maurice de Mac-Mahon, comte de Mac-Mahon, duc de Magenta, 1808年7月13日 - 1893年10月16日)
1875年2月、三権分立・二院制・任期7年の大統領制・男子普通選挙などを骨子とする第三共和制憲法が議会に於いて僅か1票差で可決・制定され、第三共和政(1870年~1940年)の基礎が確立しました。
しかし、第三共和政は、議会で小党が分立し、政府は連立政権の為政情は不安定でした。
<strong>ジョークは如何?
ある日のイズベスチヤに「今日、パンは品薄です」という告知が掲載されていた。
日頃からソ連邦崩壊の噂を聞いている夫は急いでキッチンにいる妻の所に駆け寄った。
夫「おい、急いでパンを買いに行かなくてもいいのか?」
妻「パンがなくても告知する新聞紙があるだけまだ崩壊しないわよ」
続く・・・
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