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2016/12/28

歴史を歩く133

31自由主義と国民主義⑨

7ロシア南下政策と東方問題(その2)

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聖地イェルサレム・現在

 聖地イェルサレムの管理権は、16世紀以降カトリックの保護者としてのフランスが保有していましたが、フランス革命時にギリシア正教会がロシアの支持を得て管理権を掌握します。
ナポレオン3世は国内のカトリック教徒の支持を繋ぐためにオスマン・トルコに聖地管理権を要求し、それを象徴する神殿の鍵を与えられました。

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ニコライ1世
(Николай I,: Nikolai I、ニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ:Николай Павлович Романов,: Nicholai Pavlovich Romanov、1796年7月6日 - 1855年3月2日)


 ニコライ1世はこれを不満としてトルコに抗議するとともに、トルコ領内のギリシア正教徒をロシアの保護下におくことを要求し(1853年2月)、これが拒絶されるとトルコ領内のモルダヴィア・ワラキアに侵入して占領します(1853年7月)。
トルコはイギリス・フランスの支持を得てロシアに宣戦し(1853年10月)、ロシアもトルコに宣戦して(1853年11月)クリミア戦争(1853年~56年)が始まりました。

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クリミア戦争・トルコ軍将官・士官

 翌年にはイギリス・フランスが、ロシアの南下政策を阻止するためにトルコと同盟してロシアに宣戦し(1854年3月)、サルデーニャもトルコ側に立って参戦しました(1855年1月)。
戦場はバルカン半島からクリミア半島に移り、やがてイギリス・フランス・トルコ軍はロシア軍のこもるセヴァストーポリ要塞を包囲し(1854年10月)、ほぼ1年続いた激戦の末についにこれを陥落させました(1855年9月)。

 当時のロシアは鉄道網が未発達で十分な兵員・武器・弾薬等を戦場に送ることが出来ず、又イギリス・フランスのスクリュー推進の重装備艦艇に対して、ロシア艦隊の大部分は帆船で編成されていました。
このようなロシアの後進性・近代化の遅れが敗戦の最大の原因であり、その改革が戦後ロシアの課題となったのです。

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フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale、1820年5月12日 - 1910年8月13日)

 又クリミア戦争の戦場での惨状を知ったナイティンゲール(1820年~1910年)が戦傷やコレラで苦しむ兵士の看護に活躍して「クリミアの天使」と呼ばれ、後に近代看護婦(師)制度の確立に貢献したことはよく知られています。

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 1855年3月にニコライ1世(在位1825年~55年)が崩御し、アレクサンドル2世(在位1855年~81年)が即位してオーストリアの仲介で停戦し、1856年3月にパリ条約が締結されました。
パリ条約では、
1) トルコの独立と領土の保全。
2) トルコは宗教的な差別を行わない。
3) 外国軍艦のダーダネルス・ボスフォラス両海峡通航禁止の確認と黒海の中立化。
4) ロシアはベッサラビアをモルダヴィアに割譲してモルダヴィアとワラキアをトルコの主権下におくこと。
5) ドナウ川の自由航行
等が取り決められました。

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黒海

 黒海の中立化によって、黒海や港は全ての国の商船に開放されましたが、軍艦に関しては禁止され、ロシアとトルコは黒海に軍艦を持つことを禁止され、ロシアの南下政策はまたもや失敗に終わります。
19世紀中頃以降、バルカンではスラヴ民族の統一と団結をめざすパン・スラヴ主義が盛んになり、ロシアはトルコやオーストリアに対抗する勢力の結成を期待し、パン・スラヴ主義を利用してバルカン半島の諸民族への影響力を強め、バルカン半島への勢力の拡大を図りました。
1870年にはパリ条約(1856年)の黒海の中立化条項を破棄して再び南下政策を進めることになります。

 1875年7月にトルコ治下のボスニア・ヘルツェゴヴィナでトルコに対するギリシア正教徒の反乱が起こると、翌年にはブルガリアでも反乱が起こりますが、この反乱はトルコ軍によって残虐に鎮圧されます。

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ヨーロッパの火薬庫

 ロシア国内ではスラヴの同胞を救えというパン・スラヴ主義が昂揚し、列国もこれに抗議するとともに会議を開き、調停案を作成してトルコに示したがトルコはこれを拒否しますが、これを見てロシアは単独でトルコに宣戦し、1877年4月に露土戦争(ロシア・トルコ戦争、1877年4月~78年3月)が始まります。

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露土戦争

 ロシアは一時苦戦しますが、翌年1月にアドリアノープルを占領し、更にコンスタンティノープルに迫った結果、トルコは屈服し、1878年3月にサン・ステファノ条約が結ばれます。
この条約で、ロシアはトルコにルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立、マケドニアを含む大ブルガリアをトルコ領内の自治国としてロシアの保護下におくことを認めさせた結果、ロシアのバルカン支配・地中海進出が成功するかに見えました。

 しかし、これに対してスエズ運河の株式買収(1875年)に成功したイギリスとバルカンにおけるパン・スラヴ主義の発展を恐れるオーストリアが激しく反発し、ロシアとイギリス・オーストリアとの間に戦争が起こりかねない状況となります。

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公正な仲買人

 統一後間もないドイツがこの戦争に巻き込まれることを恐れるビスマルクが調停に乗り出し、1878年6月にベルリン会議が開かれ、ビスマルクはベルリン会議を開催するにあたって「誠実な仲買人(公正な仲買人)」と称しましたが、実際にはイギリスの主張を支持し、サン・ステファノ条約は破棄されて新たにベルリン条約が結ばれます(1878年7月)。

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ヨーロッパの状況

 ベルリン条約では、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立が承認され、ブルガリアについては領土が大幅に縮小されてトルコ治下の自治国となり、ロシアはベッサラビアを得たもののバルカンから後退し、南下政策はまたもや阻止されました。

 これに対してイギリスはキプロス島を獲得し、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を獲得した事から、ロシアはビスマルクに対して不信感を抱き、三帝同盟は事実上崩壊し、後にロシアをフランスに接近させる原因と成りました。
露土戦争の失敗後、ロシアはバルカンへの南下政策を一時放棄し、東アジアと中央アジアへの進出に努め、国際関係は新たな展開をみせることに成ります。

ジョークは如何?

Q: アクシデント(事故)とカタストロフィーの違いは?。

A:主席以下共産党指導者を乗せた飛行機が墜落することがアクシデント。
そいつらが無事救出去れることがカタストロフィー


続く・・・
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2016/12/13

歴史を歩く132

31自由主義と国民主義⑧

7ロシアの南下政策と東方問題(その1)

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ポーランド分割

 ロシアは、17世紀に東方のシベリア方面へ領土を拡大し、18世紀には北方戦争(1700年~21年)やポーランド分割(1772年~95年)によって西方のバルト海方面へ領土を拡大しました。
更に南方に向かっては、18世紀以後黒海へ進出し、19世紀に入ると不凍港の獲得とウクライナの穀物輸出の通路を求めて黒海から地中海への進出をはかる南下政策を積極的に推進します。

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黒海に臨むノヴォロシースク(現在)

 19世紀に自由主義・国民主義が隆盛となる中で、オスマン・トルコ帝国の支配下におかれていた諸民族は独立運動に目覚めますが、これらの諸民族は自力では独立を達成するには力不足で、オスマン・トルコの衰退に乗じてトルコ領内への進出を画策していたロシアを初めとするヨーロッパ列強はこれに干渉し、オスマン・トルコ帝国の領土と民族問題をめぐって国際的諸問題が発生します。
西ヨーロッパ列強はこの問題を「東方問題」と呼びました。

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ムハンマド・アリー・パシャ( محمد علي باشا‎, Muḥammad ʿAlī Bāšā, 1769年? - 1849年8月2日)

 ギリシアがイギリス・フランス・ロシアの援助で独立したのはその最初の出来事で、このギリシアの独立の際、孤立したオスマン・トルコを援助したのがムハンマド・アリーでした。

 ムハンマド・アリー(メフメト・アリー1769年~1849年)は、マケドニア生まれのアルバニア人でオスマン・トルコに仕えて傭兵隊長となり、ナポレオンのエジプト遠征の際にはアルバニア連隊を率いて戦い、ナポレオンの撤退後、エジプト太守(総督、パシャ)となり(1805年)、ムハンマド・アリー朝(1805年~1953年)を創始しました。
1811年にはエジプト全土を支配下において事実上独立し、行政・産業・教育・軍事の西欧化を進め、エジプトの近代化に努めました。

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ギリシア独立戦争・メソロンギの包囲

 ムハンマド・アリーは、ギリシアの独立戦争(1821年~29年)ではオスマン・トルコを援助してクレタ・キプロス島を獲得しましたが、更にシリアを要求して二度にわたってオスマン・トルコと戦火を交えます(エジプト・トルコ戦争(エジプト事件)、1831年~33年、1839年~40年)。

 1831年、ムハンマド・アリーはシリアを要求してオスマン・トルコと開戦し、翌1832年には全シリアを占領し(第一次エジプト・トルコ戦争、1831年~33年)、この時ロシアはトルコを援助しようと企てますが、ロシアの南下を恐れるイギリスとフランスがトルコに干渉し、トルコはエジプトの独立を承認してシリアを割譲しました。

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ダーダネルス・ボスフォラス海峡

 これを不満とするオスマン・トルコは、1833年7月にウンキャル・スケレッシ条約を結び、ロシアと相互援助を約しました。
この条約は、オスマン・トルコにロシア援助義務の負担を免除する代償として、ロシア以外の外国軍艦に対してダーダネルス・ボスフォラス両海峡を閉鎖するという秘密条項を含んでいたのでイギリス・フランスは強く反発しました。

 これによってロシアはダーダネルス・ボスフォラス両海峡を確保して、ロシアの南下政策が成功するかに見えましたが、第二次エジプト・トルコ戦争の勃発によってロシアの南下政策は阻止されました。

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アレクサンドリアにおいて第二次エジプト・トルコ戦争の降伏交渉を行うムハンマド・アリー

 1839年、ムハンマド・アリーは更にエジプト・シリアなどの領土の世襲権を要求し、これを討伐しようとしたオスマン・トルコとの間で第二次エジプト・トルコ戦争(1839年~40年)が勃発します。ロシアの援助を受けたトルコはシリアに出兵しますが、フランスの援助を受けたエジプトに大敗しています。

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第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル
( Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston, KG, GCB, PC, 1784年10月20日 - 1865年10月18日)


 この情勢を見たイギリスのパーマストン外相は、フランス勢力がエジプトに定着することを恐れてトルコ保全策に転じ、イギリス・ロシア・プロイセン・オーストリアとの間に四国同盟を結んでトルコを援助し、この結果。国際的孤立化を恐れたフランスはエジプト援助をうち切り、孤立したムハンマド・アリーはオスマン・トルコに屈せざるを得ませんでした。

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総督府で執務中のムハンマド・アリー

 1840年にロンドン会議が開かれ、ロンドン四国条約が結ばれ、この条約により、ムハンマド・アリーのエジプトでの世襲権を認める代わりに、彼の世襲領域をエジプトとスーダンに限定し、シリアを放棄させ、またウンキャル・スケレッシ条約も破棄され、外国軍艦のダーダネルス・ボスフォラス両海峡の通航が禁止され、これによってロシアの南下政策は阻止されます。

 しかし、ニコライ1世は南下政策をあきらめず、たまたま聖地管理権問題が起きるとオスマン・トルコに抗議するとともに、トルコ領内のギリシア正教徒の保護を要求し、これが拒否されるとトルコに宣戦し、クリミア戦争(1853年~56年)に発展します。

ジョークは如何?

クレムリンで会議が行われた。

「今日の議題は、2つある。
1つめは、わが国に蔓延する汚職、腐敗、癒着を
いかに根絶するかということ。
2つめは、そうした後で我々がどうやって生きるかということだ。」


続く・・・

2016/12/09

歴史を歩く131

31自由主義と国民主義⑦

6ロシアの改革

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デカブリストの乱

 ロシアではアレクサンドル1世の死後、弟のニコライ1世(1796年~1855年、在位1825年~55年)が即位に際し、時を同じく起こったデカブリストの乱を鎮圧して、反動的な内政・外交を展開します。

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ニコライ1世(Николай I:ニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ: Николай Павлович Романов、1796年7月6日 - 1855年3月2日)

 ニコライ1世はヨーロッパの革命がロシアに及ぶ事を恐れ、七月革命の影響のもとで起こったポーランドの反乱を鎮圧(1831年)、更に二月革命・三月革命の影響のもとで起こったハンガリーの独立運動をも鎮圧する(1849年)等「ヨーロッパの憲兵」の役割を果たし、メッテルニヒの失脚後はヨーロッパの反動勢力の中心的人物となりました。

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クリミア戦争とナイティン・ゲール

 その一方で領土の拡大に努め、特に黒海から地中海に進出する南下政策を進め、東方問題に介入してトルコを圧迫し、クリミア戦争(1853年~56年)を引き起こしましたがイギリス・フランスの介入で敗れ、失意のうちに急死します。

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戴冠式で家族から祝福を受けるアレクサンドル2世

 クリミア戦争中に即位したアレクサンドル2世(1818年~81年、在位1855年~81年)はクリミア戦争を収拾しますが、クリミア戦争の敗北はロシアに大きな衝撃を与えます。
クリミア戦争の敗北によってロシアの後進性・近代化の遅れを痛感し、改革の必要性を悟ったアレクサンドル2世は、「下からの改革」を恐れ、「下から農民が解放する事を待つよりは上から農奴制を廃止した方がよい」と考え、「上からの改革」にふみきり、1861年3月に「農奴解放令」を発布しました。

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農奴解放令を読み上げるアレクサンドル2世

 当時、売買の対象にもされ、人口の3分の1以上を占めていたロシアの農奴は、「農奴解放令」によって人格的自由と土地の所有が認められますが、農地の分与は有償で、地主に2カ年以内に買戻金を納めなければならず、それが不可能な農民には政府が代わって地主に買戻金を支払い、農民は49カ年賦でその債務を政府に返すことになりました。
しかも土地は私有地にはならずミール(農村共同体)の共有地となり、ミールがその共同利用や買戻金の返還等に責任を持いました。

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船を引く農奴

 このようにロシアの農奴解放は旧地主本位で不徹底なものであり、自作農も出現はしましたが、その一方で多くの土地を失う農民が現れ、彼らは離村して賃金労働者に成って行きますが、このことがロシア資本主義発達の出発点ともなったのです。

 農奴解放令に始まるアレクサンドル2世の自由主義改革はポーランド反乱(1863年1月~64年5月)の勃発によって一時中断されます。

 アレクサンドル2世はポーランド人の不満を抑えるためにポーランドにも自由主義的改革を及ぼそうと考えますが、独立運動の急進派は完全独立を目ざして1861年に反乱を起こし、ポーランドの保守派政府は徴兵制を布いて、青年特に学生を軍隊に入隊させる事で反乱を防ぐ事を考えますが、この徴兵制が引き金となり、1863年1月の大規模な反乱を呼び、18ヶ月にわたってロシア軍・政府軍との戦いとなります。

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ポロニア1863年
1863年1月の蜂起失敗後に描かれた作品。囚人たちがシベリアへの移送を待つ情景を描いている。ロシア人の官吏と兵士は、鍛冶屋が黒衣を着た若い女性(擬人化されたポーランド)に手枷をはめるのを眺めている。彼女と引き離されようとしている奥の白衣の女性はリトアニアを象徴している。


 全ヨーロッパの自由主義者がポーランドの反乱を支援し、特にイギリス・フランスの労働者の支援運動が第1インターナショナル(国際労働者協会)創立の契機と成りました。
しかし、ポーランド反乱は、自国への革命の波及を恐れるビスマルクの支持と協力を得たロシア軍によって1864年5月までには鎮圧され、数千人が死刑・シベリア流刑に処せられ、ポーランドはロシアの一地方に編入されます。

 アレクサンドル2世は、ポーランドの反乱鎮圧後、ゼムストヴォ(地方議会)の創設(1864年)や裁判制度の改革(1864年)などの改革を行うものの、その後次第に反動化し、専制政治を強行していきました。

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「判決を受けたナロードニキ」 1879年作 《マコフスキー》

 アレクサンドル2世の反動化が進む中で、1870年代以後インテリゲンツィア(知識人)や学生などを中心とするナロードニキ(人民主義者)の運動が盛んになります。 
ロシアはミール(農村共同体)を基礎として西欧とは異なる独自のコースで社会主義に到達できると考えた革命的知識人や学生らは、「ヴ・ナロード(人民の中へ)」を合い言葉にした為ナロードニキと呼ばれました。

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『ナロードニキの逮捕』(1880年~1889年, 1892年) トレチャコフ美術館

 彼らは、医師・看護婦・教員などになって農村へ入り、農民を啓蒙して革命の狼煙をあげようとしますが、生活をしていくことが精一杯で、貧しく、文字も読めない農民にはナロードニキの説く革命理論は全く理解できず関心も示さなかったのです。
この農民の無関心と官憲による激しい弾圧によってナロードニキの運動は挫折、分裂していきます。

 絶望した人々の間に、ニヒリズム(虚無主義、いっさいの権威と価値・国家や社会秩序を否定する思想)が広まり、彼らの中にはテロリズムによって皇帝や政府高官を暗殺することによって専制政治の打倒を考える一派が現れ、数度の失敗の後に、1881年3月に皇帝アレクサンドリア2世を暗殺します。

 この間、アレクサンドリア2世は対外的には、清朝とアイグン条約(1858年)や北京条約(1860年)を結んで東方で領土を拡大し、又バルカン半島へ進出を謀って露土戦争(ロシア・トルコ戦争、1877年~78年)を引き起こします。

ジョークは如何?

エデンの園はロシアにあったとする学説がある。

なぜなら、アダムとイブはクルマも家も服さえも持っていなかったが、
自分たちが住んでいるところがパラダイスだと信じて疑わなかったからだ。

続く・・・