歴史を歩く133
31自由主義と国民主義⑨
7ロシア南下政策と東方問題(その2)

聖地イェルサレム・現在
聖地イェルサレムの管理権は、16世紀以降カトリックの保護者としてのフランスが保有していましたが、フランス革命時にギリシア正教会がロシアの支持を得て管理権を掌握します。
ナポレオン3世は国内のカトリック教徒の支持を繋ぐためにオスマン・トルコに聖地管理権を要求し、それを象徴する神殿の鍵を与えられました。

ニコライ1世
(Николай I,: Nikolai I、ニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ:Николай Павлович Романов,: Nicholai Pavlovich Romanov、1796年7月6日 - 1855年3月2日)
ニコライ1世はこれを不満としてトルコに抗議するとともに、トルコ領内のギリシア正教徒をロシアの保護下におくことを要求し(1853年2月)、これが拒絶されるとトルコ領内のモルダヴィア・ワラキアに侵入して占領します(1853年7月)。
トルコはイギリス・フランスの支持を得てロシアに宣戦し(1853年10月)、ロシアもトルコに宣戦して(1853年11月)クリミア戦争(1853年~56年)が始まりました。

クリミア戦争・トルコ軍将官・士官
翌年にはイギリス・フランスが、ロシアの南下政策を阻止するためにトルコと同盟してロシアに宣戦し(1854年3月)、サルデーニャもトルコ側に立って参戦しました(1855年1月)。
戦場はバルカン半島からクリミア半島に移り、やがてイギリス・フランス・トルコ軍はロシア軍のこもるセヴァストーポリ要塞を包囲し(1854年10月)、ほぼ1年続いた激戦の末についにこれを陥落させました(1855年9月)。
当時のロシアは鉄道網が未発達で十分な兵員・武器・弾薬等を戦場に送ることが出来ず、又イギリス・フランスのスクリュー推進の重装備艦艇に対して、ロシア艦隊の大部分は帆船で編成されていました。
このようなロシアの後進性・近代化の遅れが敗戦の最大の原因であり、その改革が戦後ロシアの課題となったのです。

フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale、1820年5月12日 - 1910年8月13日)
又クリミア戦争の戦場での惨状を知ったナイティンゲール(1820年~1910年)が戦傷やコレラで苦しむ兵士の看護に活躍して「クリミアの天使」と呼ばれ、後に近代看護婦(師)制度の確立に貢献したことはよく知られています。

1855年3月にニコライ1世(在位1825年~55年)が崩御し、アレクサンドル2世(在位1855年~81年)が即位してオーストリアの仲介で停戦し、1856年3月にパリ条約が締結されました。
パリ条約では、
1) トルコの独立と領土の保全。
2) トルコは宗教的な差別を行わない。
3) 外国軍艦のダーダネルス・ボスフォラス両海峡通航禁止の確認と黒海の中立化。
4) ロシアはベッサラビアをモルダヴィアに割譲してモルダヴィアとワラキアをトルコの主権下におくこと。
5) ドナウ川の自由航行
等が取り決められました。

黒海
黒海の中立化によって、黒海や港は全ての国の商船に開放されましたが、軍艦に関しては禁止され、ロシアとトルコは黒海に軍艦を持つことを禁止され、ロシアの南下政策はまたもや失敗に終わります。
19世紀中頃以降、バルカンではスラヴ民族の統一と団結をめざすパン・スラヴ主義が盛んになり、ロシアはトルコやオーストリアに対抗する勢力の結成を期待し、パン・スラヴ主義を利用してバルカン半島の諸民族への影響力を強め、バルカン半島への勢力の拡大を図りました。
1870年にはパリ条約(1856年)の黒海の中立化条項を破棄して再び南下政策を進めることになります。
1875年7月にトルコ治下のボスニア・ヘルツェゴヴィナでトルコに対するギリシア正教徒の反乱が起こると、翌年にはブルガリアでも反乱が起こりますが、この反乱はトルコ軍によって残虐に鎮圧されます。

ヨーロッパの火薬庫
ロシア国内ではスラヴの同胞を救えというパン・スラヴ主義が昂揚し、列国もこれに抗議するとともに会議を開き、調停案を作成してトルコに示したがトルコはこれを拒否しますが、これを見てロシアは単独でトルコに宣戦し、1877年4月に露土戦争(ロシア・トルコ戦争、1877年4月~78年3月)が始まります。

露土戦争
ロシアは一時苦戦しますが、翌年1月にアドリアノープルを占領し、更にコンスタンティノープルに迫った結果、トルコは屈服し、1878年3月にサン・ステファノ条約が結ばれます。
この条約で、ロシアはトルコにルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立、マケドニアを含む大ブルガリアをトルコ領内の自治国としてロシアの保護下におくことを認めさせた結果、ロシアのバルカン支配・地中海進出が成功するかに見えました。
しかし、これに対してスエズ運河の株式買収(1875年)に成功したイギリスとバルカンにおけるパン・スラヴ主義の発展を恐れるオーストリアが激しく反発し、ロシアとイギリス・オーストリアとの間に戦争が起こりかねない状況となります。

公正な仲買人
統一後間もないドイツがこの戦争に巻き込まれることを恐れるビスマルクが調停に乗り出し、1878年6月にベルリン会議が開かれ、ビスマルクはベルリン会議を開催するにあたって「誠実な仲買人(公正な仲買人)」と称しましたが、実際にはイギリスの主張を支持し、サン・ステファノ条約は破棄されて新たにベルリン条約が結ばれます(1878年7月)。

ヨーロッパの状況
ベルリン条約では、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立が承認され、ブルガリアについては領土が大幅に縮小されてトルコ治下の自治国となり、ロシアはベッサラビアを得たもののバルカンから後退し、南下政策はまたもや阻止されました。
これに対してイギリスはキプロス島を獲得し、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を獲得した事から、ロシアはビスマルクに対して不信感を抱き、三帝同盟は事実上崩壊し、後にロシアをフランスに接近させる原因と成りました。
露土戦争の失敗後、ロシアはバルカンへの南下政策を一時放棄し、東アジアと中央アジアへの進出に努め、国際関係は新たな展開をみせることに成ります。
ジョークは如何?
Q: アクシデント(事故)とカタストロフィーの違いは?。
A:主席以下共産党指導者を乗せた飛行機が墜落することがアクシデント。
そいつらが無事救出去れることがカタストロフィー
続く・・・
7ロシア南下政策と東方問題(その2)

聖地イェルサレム・現在
聖地イェルサレムの管理権は、16世紀以降カトリックの保護者としてのフランスが保有していましたが、フランス革命時にギリシア正教会がロシアの支持を得て管理権を掌握します。
ナポレオン3世は国内のカトリック教徒の支持を繋ぐためにオスマン・トルコに聖地管理権を要求し、それを象徴する神殿の鍵を与えられました。

ニコライ1世
(Николай I,: Nikolai I、ニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ:Николай Павлович Романов,: Nicholai Pavlovich Romanov、1796年7月6日 - 1855年3月2日)
ニコライ1世はこれを不満としてトルコに抗議するとともに、トルコ領内のギリシア正教徒をロシアの保護下におくことを要求し(1853年2月)、これが拒絶されるとトルコ領内のモルダヴィア・ワラキアに侵入して占領します(1853年7月)。
トルコはイギリス・フランスの支持を得てロシアに宣戦し(1853年10月)、ロシアもトルコに宣戦して(1853年11月)クリミア戦争(1853年~56年)が始まりました。

クリミア戦争・トルコ軍将官・士官
翌年にはイギリス・フランスが、ロシアの南下政策を阻止するためにトルコと同盟してロシアに宣戦し(1854年3月)、サルデーニャもトルコ側に立って参戦しました(1855年1月)。
戦場はバルカン半島からクリミア半島に移り、やがてイギリス・フランス・トルコ軍はロシア軍のこもるセヴァストーポリ要塞を包囲し(1854年10月)、ほぼ1年続いた激戦の末についにこれを陥落させました(1855年9月)。
当時のロシアは鉄道網が未発達で十分な兵員・武器・弾薬等を戦場に送ることが出来ず、又イギリス・フランスのスクリュー推進の重装備艦艇に対して、ロシア艦隊の大部分は帆船で編成されていました。
このようなロシアの後進性・近代化の遅れが敗戦の最大の原因であり、その改革が戦後ロシアの課題となったのです。

フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale、1820年5月12日 - 1910年8月13日)
又クリミア戦争の戦場での惨状を知ったナイティンゲール(1820年~1910年)が戦傷やコレラで苦しむ兵士の看護に活躍して「クリミアの天使」と呼ばれ、後に近代看護婦(師)制度の確立に貢献したことはよく知られています。

1855年3月にニコライ1世(在位1825年~55年)が崩御し、アレクサンドル2世(在位1855年~81年)が即位してオーストリアの仲介で停戦し、1856年3月にパリ条約が締結されました。
パリ条約では、
1) トルコの独立と領土の保全。
2) トルコは宗教的な差別を行わない。
3) 外国軍艦のダーダネルス・ボスフォラス両海峡通航禁止の確認と黒海の中立化。
4) ロシアはベッサラビアをモルダヴィアに割譲してモルダヴィアとワラキアをトルコの主権下におくこと。
5) ドナウ川の自由航行
等が取り決められました。

黒海
黒海の中立化によって、黒海や港は全ての国の商船に開放されましたが、軍艦に関しては禁止され、ロシアとトルコは黒海に軍艦を持つことを禁止され、ロシアの南下政策はまたもや失敗に終わります。
19世紀中頃以降、バルカンではスラヴ民族の統一と団結をめざすパン・スラヴ主義が盛んになり、ロシアはトルコやオーストリアに対抗する勢力の結成を期待し、パン・スラヴ主義を利用してバルカン半島の諸民族への影響力を強め、バルカン半島への勢力の拡大を図りました。
1870年にはパリ条約(1856年)の黒海の中立化条項を破棄して再び南下政策を進めることになります。
1875年7月にトルコ治下のボスニア・ヘルツェゴヴィナでトルコに対するギリシア正教徒の反乱が起こると、翌年にはブルガリアでも反乱が起こりますが、この反乱はトルコ軍によって残虐に鎮圧されます。

ヨーロッパの火薬庫
ロシア国内ではスラヴの同胞を救えというパン・スラヴ主義が昂揚し、列国もこれに抗議するとともに会議を開き、調停案を作成してトルコに示したがトルコはこれを拒否しますが、これを見てロシアは単独でトルコに宣戦し、1877年4月に露土戦争(ロシア・トルコ戦争、1877年4月~78年3月)が始まります。

露土戦争
ロシアは一時苦戦しますが、翌年1月にアドリアノープルを占領し、更にコンスタンティノープルに迫った結果、トルコは屈服し、1878年3月にサン・ステファノ条約が結ばれます。
この条約で、ロシアはトルコにルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立、マケドニアを含む大ブルガリアをトルコ領内の自治国としてロシアの保護下におくことを認めさせた結果、ロシアのバルカン支配・地中海進出が成功するかに見えました。
しかし、これに対してスエズ運河の株式買収(1875年)に成功したイギリスとバルカンにおけるパン・スラヴ主義の発展を恐れるオーストリアが激しく反発し、ロシアとイギリス・オーストリアとの間に戦争が起こりかねない状況となります。

公正な仲買人
統一後間もないドイツがこの戦争に巻き込まれることを恐れるビスマルクが調停に乗り出し、1878年6月にベルリン会議が開かれ、ビスマルクはベルリン会議を開催するにあたって「誠実な仲買人(公正な仲買人)」と称しましたが、実際にはイギリスの主張を支持し、サン・ステファノ条約は破棄されて新たにベルリン条約が結ばれます(1878年7月)。

ヨーロッパの状況
ベルリン条約では、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立が承認され、ブルガリアについては領土が大幅に縮小されてトルコ治下の自治国となり、ロシアはベッサラビアを得たもののバルカンから後退し、南下政策はまたもや阻止されました。
これに対してイギリスはキプロス島を獲得し、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を獲得した事から、ロシアはビスマルクに対して不信感を抱き、三帝同盟は事実上崩壊し、後にロシアをフランスに接近させる原因と成りました。
露土戦争の失敗後、ロシアはバルカンへの南下政策を一時放棄し、東アジアと中央アジアへの進出に努め、国際関係は新たな展開をみせることに成ります。
ジョークは如何?
Q: アクシデント(事故)とカタストロフィーの違いは?。
A:主席以下共産党指導者を乗せた飛行機が墜落することがアクシデント。
そいつらが無事救出去れることがカタストロフィー
続く・・・
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