2017/01/24

歴史を歩く140

3アメリカ合衆国の発展⑥

4大西部の開拓と工業の発達

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西部開拓・先住民族との接触

 南北戦争中に制定されたホーム・ステッド法(1862年)によって、公有地に5年間定住し開拓した者には160エーカーの土地が無償で与えられることになったので、西部に多くの農民が進出し、西部開拓が急速に進みました。

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牛のロング・ドライブ

 又コロラドでゴールド・ラッシュが起こり(1859年)、同じ頃ネヴァダでも金・銀鉱が発見されたので、金・銀の採掘を目ざす鉱夫達が西部に進出し、次いで大平原(ロッキー山脈以東に広がる草原地帯)で放牧を行う牧畜業者が進出し、1860年代から80年代にはカウ・ボーイによる牛のロング・ドライブが行われ、数百万頭の牛が東部の市場へ送られました。

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大草原・グレートプレーン

 更に1870年代の終わり頃から、乾燥地帯での農業技術の進歩・機械化等に助けられて農民が大平原に進出し、大平原は世界一の穀倉地帯に変わって行きます。
尚、この農民の大平原への進出には有刺鉄線の発明(1874年)が大きな役割を果たしたと云われています。

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大陸横断鉄道締結

 西部の発展に伴い、東部と西部を結ぶ鉄道建設が行われ、1869年には最初の大陸横断鉄道が完成し、これによって西部の開拓と国内市場の統一が益々促進され、1890年代にはフロンティアが終に消滅しました。

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南北戦争・ミシシッピー川で作戦行動を取る装甲艦

 南北戦争は、経済の面からみると、北部産業資本と南部プランテーション奴隷制度との戦いでした。そして北部産業資本の勝利によって、南部は北部の市場に組み込まれ、西部市場の拡大と相まって広大な国内市場が出来上がり、この広大な国内市場を基盤として南北戦争後、アメリカ資本主義は急激に発展します。

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19世紀末・ニューヨーク市高架鉄道

 特に石炭・製鉄・石油等を中心とする工業がめざましく発展し、合衆国は農業国から工業国へ転換を果たし、1890年代にはイギリスを追い抜いて世界一の工業国に成長しました。
このような工業発展の原因の一つとなったのが、安価な労働力としての移民の流入でした。
南北戦争後、其れまでの西ヨーロッパ、北ヨーロッパからの「旧移民」の数が減少し、南ヨーロッパ・東ヨーロッパ・アジアからの「新移民」の数が増大します。
この頃になると西部で自営農民になることは次第に不可能になっていたので、「新移民」の多くは都市に集中して未熟練労働者と成りました。
この為スラム街の出現等の社会問題が生じ始めます。

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ペリー浦賀に来航

 対外的には、カリフォルニアの獲得によって領土が太平洋岸に達し、太平洋への関心が高まる中で、1853年にはペリーが浦賀に来航し、翌年日米和親条約が結ばれました。

 南北戦争中に行われたナポレオン3世によるメキシコ出兵(1861年~67年)に対して、合衆国は南北戦争が終わるとモンロー主義の立場から激しく抗議し、フランス軍を撤兵に追い込みます。

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ロシア・アメリカ会社で活動したアレクサンドル・バラノフ:ロシア領アラスカの初代総督

 アラスカは、ベーリングの発見によってロシア領となり(1741年)、その後はロシア・アメリカ会社が植民地経営に当り、19世紀初頭にはロシア人は太平洋岸沿いに南下します。
1823年に出されたモンロー宣言には、ロシア人の太平洋岸への南下を抑えるという目的も含んでいたのですが、その後1866年にはロシアからアラスカ売却の申し出があり、合衆国内には反対の声も強かったものの1867年に720万ドルで買収しました。
そのアラスカでは19世紀末にゴールド・ラッシュが起こり、1958年には第49番目の州に昇格しています。

ジョークは如何?

「レーガンなんて馬のケツだぜ!」
「おい、それはここでは喧嘩を売るセリフだぜ」
「済みません、ここの皆さんがレーガンを好きとは知りませんでした」
「そうじゃねえ、馬が好きなんだ」

続く・・・

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2017/01/24

歴史を歩く139

3アメリカ合衆国の発展⑤

3南部の再建

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濃い緑はアメリカ連合国(CSA)に加わった諸州、薄い緑は州内の一部勢力が南部につき、CSAがその一部と主張したが実効支配はできなかった州

 南北戦争の終結から、1877年に南部諸州が合衆国に復帰する迄の時期は「再建」の時期と云われています。

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アンドリュー・ジョンソン( Andrew Johnson, 1808年12月29日 - 1875年7月31日)

 リンカーンは、南部が奴隷解放さえすれば寛大な条件で、出来るだけ早く合衆国に復帰させる事を考えおり、彼の暗殺後大統領となったジョンソン(任期1865年~69年)もリンカーンの方針を受け継いで南部の再建を図ろうとしました。

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南北戦争後のサウスカロライナ州チャールストンの惨状

 しかし、共和党の急進派はこれに反対し、独自の再建案をつくり、1867年3月に再建法が成立します。
この再建法は、南部を5つの区域に分けて北軍の軍政下に置き、黒人の選挙権と黒人に白人と同等の市民権を保障する州憲法を制定すること等を規定し、これを南部諸州が連邦に復帰する絶対条件としました。
この再建法はその後10年間にわたって施行されますが、1877年に軍政が解かれました。

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サウスカロライナ州の畑で働く黒人奴隷

 南北戦争後、1865年には憲法修正第13条によって合衆国内に於ける奴隷制度が全面的に廃止され、翌年には黒人の市民権を保障する市民権法が成立し、これは憲法修正第14条として1868年に確立しました。
更に黒人の選挙権を保障する憲法修正第15条も1869年に議会で可決され、翌年発効します。

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シェア・クロッパーとして働く黒人と家族

 しかし、解放された黒人には市民権や選挙権は与えられたものの、土地は与えられなかった結果、経済的に自立することが出来ず、大部分はシェア・クロッパー(分益小作人)となります。
彼等は、地主から土地・住居・種子・農具・家畜等を貸し与えられましたが、収穫の約半分を地主に納めなければならなかったので、黒人は貧しい・苦しい生活を強いられたのでした。

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クー・クラックス・クラン(KKK団)
南部連合軍の元兵士らによって、黒人の危険な行動やそれを扇動する白人を規制する自警団として結成された。


 又白人達はK・K・K(クー・クラックス・クラン)と呼ばれる反黒人秘密結社を結成し(1865年)、黒人を襲い、暴行を加え、投票場に行くことを妨害する等暴力的な迫害を行い黒人に恐怖を与えました。

 こうして合衆国復帰後の南部諸州では、次第に白人支配が復活し、州法その他によって黒人の市民権や選挙権が骨抜きにされ、黒人に対する社会的差別待遇を進めた為、黒人問題は20世紀の後半迄その解決が持ち越されることと成ります。

ジョークは如何?

ジュール・ベルヌの「80日間世界一周」の一コマ

アメリカ西部の町で暴動が起こってて、旅行者が何の騒ぎか聞くと、

「治安判事の選挙があるんで、両陣営が戦ってるんでさあ」

続く・・・

2017/01/15

歴史を歩く138

3アメリカ合衆国の発展④

2奴隷制度と南北戦争(その2)

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サムター要塞

 1861年3月に大統領に就任したリンカーンは連邦の維持を至上目的とし、連邦を脱退した南部諸州に連邦への復帰を呼びかけますが南部は此れに応じず、南部にあった合衆国の要塞や武器庫の接収を試みます。
この動きを見たリンカーンはサウスカロライナ州のサムター要塞への弾薬・物資の補給を命じました。

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サムター要塞砲撃

 1861年4月12日、南軍はサムター要塞に砲撃を開始し、ここに南北戦争(1861年4月~65年4月)が始まりました。
南北戦争はアメリカでは、the Civil War(内乱)と呼ばれています。
北部は南部諸州の合衆国からの脱退を憲法違反として認めておらず、従ってアメリカ連合国を国家として認めていないので、南部諸州の合衆国に対する内乱という立場を取りました。
これに対して南部は、アメリカ連合国とアメリカ合衆国との戦争という立場をとり、南北戦争をthe War between the States(諸州間の戦い)と呼んでいました。

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南北戦争時のアメリカ諸州

 南北戦争が始まった時には、北部も南部も戦争は短期間で終わると予測されましたが、予想に反して全面戦争となり、4年間にわたる大内乱に発展します。
近代戦の勝敗を決定するのは経済力を含めた総合的な戦力であり、この点では北部が圧倒的に優勢で、北部(23州)の人口約2200万人に対して南部(11州)は約900万人でしたがその中には、約400万人の奴隷が含まれていました。
経済力では北部が圧倒的に優勢で、北部は近代的な工業力を持ち、当時合衆国内の工場の約81%は北部に存在し、鉄道等の輸送力の面でも北部が断然優れていました。
又海軍力に於いても優位に立つ北部は、南部に対して海上封鎖を行った為、南部は唯一の重要な輸出品である綿花の輸出が不可能になり、更に武器・弾薬・食糧等の輸入も止まり大打撃を受けたのです。

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ロバート・エドワード・リー(Robert Edward Lee、1807年1月19日 - 1870年10月12日)と愛馬トラベラー

 しかし、開戦初期に於いては南軍が名将リー将軍(1807年~70年)の指揮下に優勢に戦いを進めました。
1862年になると、北部は西部戦線でニューオリンズを占領して(1862年5月)戦いを有利に進めましたが、東部戦線ではリッチモンド(アメリカ連合国の首都)攻略戦が南軍の激しい抵抗にあって敗退を重ね、苦戦を強いられていたのです。

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北軍騎兵隊

 1862年5月、リンカーンは大統領選挙での公約であったホームステッド法(自営農地法)を制定しました。
これは公有地に5年間定住して開墾に従事した者には160エーカー(約65ha)の土地を無償で与える土地立法で、農民の西部進出と西部開拓が促進され、又北部はこれによって西部の支持を得ることが出来たのです。

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南北戦争の愛国カバー:戦意昂揚のための図案を表面に印刷した封書。1861.7.2の消印があります。

 リンカーンは奴隷制度には反対でしたが、奴隷制拡大反対論者であり、解放論者では在りません。
彼の南北戦争に於ける最大の目的は連邦の維持であり、その為奴隷制即時廃止論者はリンカーンに奴隷制廃止の為にもっと強い政策をとるように要求しますが、これに対してリンカーンは次の様に回答しています(1862年8月)。

「この戦争に於ける私の至上の目的は連邦を救うことにあります。
奴隷制度を救うことにも、亡ぼすことにもありません。
もし奴隷を一人も解放せずに連邦を救うことが出来るものならば私はそうするでしょう。
そしてもしすべての奴隷を解放することによって連邦を救えるならば私はそうするでしょう。
又もし一部の奴隷を解放し、他の者をそのままにしておくことによって連邦を救えるものならそうもするでしょう。
私が奴隷制度や黒人種についてすることはこれが連邦を救うに役立つと信じているためなのです。」(東京法令出版社、世界史資料集より)

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リンカーン・奴隷制廃止

 リンカーンは、内外の世論の支持を得て戦いを有利に展開するために奴隷解放宣言を行うことを決意し、1862年9月に予備宣言を行いました。
以下はその一部です。

「1863年1月1日を以って、如何なる州に於いても、又特に州内で人民が上記年月日に合衆国に対して謀反中と指定される地方に於いて、総て奴隷の身分に置かれている者は、その日より永久に自由人となるべきである。」(山川出版社、史料世界史より)

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閣僚と奴隷解放宣言の草稿をねるリンカーン

 1863年1月1日に奴隷解放宣言が行われました。
しかし、この時解放されたのは合衆国に反乱を起こしている州内の奴隷で、ミズーリ州など合衆国にとどまった奴隷州(4州)の奴隷は除外されており、合衆国国内の奴隷制度が全面的に廃止されたのは憲法修正第13条(1865年発効)迄待たねば成りませんでした。

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ゲティスバーグの戦い

 1863年7月、リー将軍は7.5万の南軍の主力を率いてワシントンを迂回し、ペンシルヴァニアに侵入し、北軍8.7万と3日間に渡って戦火を交えます。
この戦いが南北戦争中最大の激戦と云われるゲティスバーグの戦いで、北軍が勝利を収め、南軍は退却を余儀なくされました。
この戦いでは北軍2万、南軍2.5万の戦死者が生じています。

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ゲティスバーグ演説

 リンカーンは戦死者を祀る国有墓地を設立する為の式典に出席する為にゲティスバーグを訪れ、有名な「ゲティスバーグの演説」を行いました(1863年11月)。

「・・・これら名誉ある戦死者よりいっそうの献身を受け継いで、彼らが最後の全力をあげて身を捧げたその主義の為に尽くすべきであります。
これら戦死者の死を無駄に終わらしめぬよう、ここに固く決意すべきであります。
この国に、神の恵みのもと、自由の新しき誕生をもたらし、又人民の、人民による、人民のための政府が、この地上より消滅する事の無い様にすべきであります。」(山川出版社、史料世界史より)

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ユリシーズ・S・グラント(Ulysses S. Grant、1822年4月27日 - 1885年7月23日)

 1864年、グラント将軍(後の第18代大統領、在任1869年~77年)が北軍の総司令官に任命され、彼はリッチモンドを目ざし、此れに呼応してシャーマン将軍の率いる軍がテネシー州からジョージア州に入り、アトランタを陥れ、更に北上してリッチモンドに向かいました。
シャーマンの軍は破壊と略奪の限りを尽くし、南部の市民に多大な恐心を植えつけたのです。

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『風と共に去りぬ』アトランタ炎上シーン(MGM 1939年作)
 
 映画でも有名なミッチェル(1900年~49年)の『風と共に去りぬ』(1936年)は、南部の立場から南北戦争を描いた名作ですが、その中にも南部の人々がどんな気持ちでシャーマン軍を迎えたかが書かれています。

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リンカーン暗殺

 1865年4月、北軍がアメリカ連合国の首都リッチモンドを占領し、4月9日リー将軍が降伏して南北戦争が終結します。
南北戦争が終わって僅か5日後、1865年4月14日、二期目の大統領に就任したばかりのリンカーンが暗殺されました。
その夜、ワシントンのフォード劇場で観劇中のリンカーンは南部出身の俳優ブースに狙撃され、翌朝死去しています。

ジョークは如何?

僕は小さい頃から『誰でも(anybody)大統領になる事が出来るチャンスがある』と聞かされてきました。
今レーガン大統領をみて、本当に誰でも(anybody)大統領になる事が出来るのだという事を知りました。

※補足
*anybodyには『つまらん奴』という意味もある


続く・・・

2017/01/15

歴史を歩く137

3アメリカ合衆国の発展③

2奴隷制度と南北戦争(その1)

 合衆国領土の拡大・西部の発展と共に、北部・西部・南部のセクション(地域)が成立し、セクション間での対立が激しく成りました。

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アメリカ南部プランティーション

 南部では、植民地時代からタバコ栽培を中心とする黒人奴隷を使用するプランテーションが発展していましたが、イギリスの産業革命によって綿花の需要が増大し、特にホイットニーの綿繰り機の発明(1793年)によって綿花栽培が急激に増大し、イギリスへの綿花輸出も飛躍的に増大した結果、南部は奴隷制の存続と自由貿易を主張し、1816年以後続けられていた保護関税政策に強く反対しました。

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ニューヨーク、イースト・リバー(1848年)

 これに対して米英戦争(1812年~14年)後、産業革命が進展して資本主義が発達した北部は、先進工業国イギリスから北部の産業資本を守るために保護関税政策を主張し、奴隷制については人道上の理由からも反対します。
又北部は保護関税政策を維持する為に連邦主義を主張しますが、南部は州権主義(州の自治・主権を主張する立場)を主張し、北部と南部の対立は奴隷制度をめぐって激化して行きます。

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自由州と奴隷州

 奴隷制度を禁止するか否かは州法で決定され、又合衆国上院は各州から2名の議員が選出される為、自由州(奴隷制度を禁止した州)と奴隷州(奴隷制度を認める州)の数は上院の勢力分布に直接反映されることになる為、西部の発展によって新州が成立して連邦に加入する際に、自由州とするか、奴隷州にするかを巡って南部と北部は激しく争いました。

 ミズーリ准州が州に昇格する際に、南部と北部の対立は凄まじく、結果ミズーリ協定が結ばれ、ミズーリ州を奴隷州とするが、以後はミズーリ州の南境界線の北緯36度30分以北には奴隷制度を認めないことが決議されました。

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フォーティ・ナイナーズ・ゴールドラッシュ

 1820年以前には、自由州が11州・奴隷州も11州で在り、ミズーリ州を奴隷州として認める代わりに、マサチュセッツ州からの分離を要望していたメイン州を自由州として認めて連邦に加入させ、自由州と奴隷州の均衡が図られていましたが、アメリカ・メキシコ戦争(1846年~48年)によって獲得したカリフォルニアのサクラメントの近くで1848年に金鉱が発見されると、世界中から一攫千金を夢見る夥しい移民が殺到し、翌1849年だけでも8万人以上の人々がカリフォルニアに押しかけ、後に彼等は、1849年に移住して来た事から「フォーティ・ナイナーズ」と呼ばれる様に成ります。

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ゴールド・ラッシュ

 この「ゴールド・ラッシュ」によってカリフォルニアの人口が急増し、1849年には早くも10万人に達し、州に昇格する条件を満たし、当時の自由州と奴隷州の数は共に15州で在り、カリフォルニアが自由州として連邦に加入を希望すると、自由州と奴隷州との均衡が崩れる為、再び南部と北部の対立が激化しました。

 カリフォルニアは南北に大きな州で、北緯36度30分が州の中央やや南を通過しており、ミズーリ協定で解決することは不可能で、結局「1850年の妥協」が成立し、カリフォルニアを自由州にする代わりに厳重な逃亡奴隷取締り法を制定することで南部と北部は妥協しました。
奴隷制廃止論者達は、逃亡奴隷取締り法に強く反対し、「地下の鉄道」と云う秘密組織をつくり、南部から逃亡してきた奴隷を匿ってカナダへ送り込みました。

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アンクル・トムの小屋

 ストウ夫人(1811年~96年)は逃亡奴隷取締り法に怒りをかき立てられ、1851年~52年に「アンクル・トムの小屋」を雑誌に連載し、「アンクル・トムの小屋」が出版されると(1852年)、1年間で30万部以上が売れてベストセラーとなり、人々に大きな感銘を与えると共に大きな社会的反響を呼び起こしました。

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カンザス・ネブラスカ法の行方、奴隷か自由か

 このような状況の中で、1854年に「カンザス・ネブラスカ法」が成立します。
これはカンザス・ネブラスカ両州を准州とする際、両州が将来自由州になるか奴隷州になるかは住民の決定に委ねるという法でした。
カンザス・ネブラスカ両州は、ミズーリ協定では当然自由州になる筈でしたが、南部はミズーリ協定がある限り新州が奴隷州になる望みがないので、ミズーリ協定の廃棄を強く要望しており、カンザス・ネブラスカ法の成立は、このミズーリ協定の廃棄を意味し、又奴隷制度が北部へ拡大する可能性も否定できず、南部と北部の対立が再び激化していきました。

カンザス・ネブラスカ両州が将来自由州になるか奴隷州になるかは住民投票で決定されることに成り、南部と北部は多くの人々を両州に移住させ、将来両州を自由州又は奴隷州にしようと争った為、対立は益々深まり、武力衝突も起こり始めます。
カンザス・ネブラスカ法の成立から2ヶ月後に、奴隷制反対をスローガンとしてホイッグ党を中心に共和党が結成され(1854年)、奴隷制度を巡る南北の対立は決定的と成りました。
この様な状況の中で1860年に行われた大統領選挙は激戦でしたが、共和党のリンカーンが当選を果たしました。

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エイブラハム・リンカーン( Abraham Lincoln:1809年2月12日 - 1865年4月15日)

 リンカーン(1809年~65年、在任1861年~65年)は、貧しい開拓農民の家庭でケンタッキーの丸太小屋で生まれ、イリノイ州に定住しました。
独学によって弁護士となって開業すると共に、州議会議員・下院議員に選出されてホイッグ党員として活躍し、一時政界を引退しましたが、共和党が結成されると奴隷制拡大反対論者であったリンカーンは共和党に加わり、イリノイ州選出の上院議員に立候補します(1858年)。
この選挙では敗れますが、選挙中の演説で全国にその名を知られるようになり、1860年の大統領選挙では共和党の大統領候補と成り、民主党の分裂等に助けられ、第16代大統領に当選しました。

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1861年、未だ建設中のアメリカ合衆国議会議事堂で行われた大統領就任式

 リンカーンの当選は南部の奴隷州に衝撃を与え、連邦を脱退して別の国家をつくろうとする空気が強まり、リンカーンの当選の翌月にサウスカロライナ州はついに連邦脱退を宣言し(1860年12月)、これに続いてリンカーンの大統領就任(当時は大統領就任式は3月に行われた)迄の間に6州が脱退します。

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ジェファーソン・フィニス・デイヴィス( Jefferson Finis Davis: 1808年6月3日 - 1889年12月6日)

 1861年2月、合衆国を脱退した南部諸州はアメリカ連合国(アメリカ連邦)を結成して憲法を制定し、ジェファーソン・デヴィス(1808年~89年、ミシシッピ州選出の上院議員からアメリカ連合国の大統領となる、在任1861年~65年)を大統領に選び、アメリカ連合国は最初7州で形成され、5月迄には11州が加わりました。

ジョークは如何?

「ジョニー、なんだこの成績は。ワシントンはおまえの年で既に学校で1番だったんだぞ」

「そして、お父さんの年ではもう大統領だったんだね」

続く・・・


2017/01/15

歴史を歩く136

3アメリカ合衆国の発展②

1 民主主義の発達と領土拡張(その2)


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アメリカ合衆国の版図拡大

 合衆国領土は、独立当時はミシシッピ川以東でしたが、以後次第に西方へ拡大し、1848年にはその領土は終に太平洋岸に到達します。
1803年にはフランスからルイジアナを購入して領土を倍増させた後、1819年にはスペインからフロリダを買収し、1840年代には、合衆国の領土拡張と西方への進出を正当化する考え方として「マニフェスト・ディスティニー(明白な運命)」(合衆国の領土拡張はアメリカ人が神から与えられた運命であるとの意味)と云う言葉が広まりました。

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テキサス革命・サンジャシントの戦い1836年4月21日

 テキサスは、1821年にスペインから独立したメキシコの領土でしたが、合衆国から多くの移住民が入り込み、奴隷制を持ち込んだ結果、メキシコはそれ以上の移住を禁止し、奴隷制廃止を命じますが、これに対して移住民が反乱を起こし、1836年に独立を宣言して共和国となり、更に合衆国は1845年にテキサスを併合して第28番目の州とします。

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アメリカ・メキシコ戦争:ベラクルス包囲戦

 翌1846年にはイギリスとオレゴン協定を結び、オレゴン地方を北緯49度(現在の国境線)で南北に分割した上でオレゴンを併合し、更に合衆国はカリフォルニアの獲得を望み、メキシコに売却を求めますが拒否された為、テキサスとメキシコの国境地帯に軍隊を派遣してメキシコを挑発し、アメリカ・メキシコ戦争(1846年~48年)を起こしました。
戦争は合衆国の完勝に終わり、1848年の講和条約でカリフォルニアとニューメキシコを獲得し、合衆国の領土はついに太平洋岸に達します。

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西部開拓時代のネイティブアメリカン(実写)

 19世紀に於ける合衆国の歴史はフロンティア(辺境)が次第に西方へ移動していく歴史でした。
19世紀を通して西部開拓が進展し、フロンティアは西へ西へと進み、この西方への移住・開拓の動きは総称して西漸運動と呼ばれ、西漸運動は植民地時代にも行われましたが、独立後本格化し、1820年代に急速に促進されました。

 西部と云う言葉には、新しく開拓されて文明地域に加えられた地域と云う意味が含まれています。従って西部は時代によって場所が異なり、独立した頃にはアパラチャ山脈の西が西部でしたが、その後は次第に西へ移って行きました。

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西部開拓・幌馬車隊の移動

 開拓地と未開拓地との境界地帯はフロンティアと呼ばれ、ここでフロンティアとは、1平方マイル(約2.6平方km)につき人口密度が2~6人の人口が希薄な地域を意味しています。
1783年のパリ条約で合衆国の独立が認められ、ミシシッピ川以東の地が合衆国の領土と成りますが、この新しい領土を如何に利用するかは、独立当初の大問題で在り、東部13州で分割する案も提唱されますが、結局1787年に北西部条例が制定され、西部の土地については一定の地域で自由人の成年男子の数が5000人に達すると、准州として自治政府を設け、准州の自由人口が6万人に達したときは連邦議会の承認を得て州に昇格し、最初の13州と同じ資格で連邦に加入させる事と成ります。

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黄金の穀倉地帯 グレート・プレーンズGreat Plains

 又これより2年前には土地条例が制定され(1785年)、アパラチャ山脈以西の土地1平方マイル(640エーカー)を単位として1エーカー当たり1ドルで売却することが決められていましたが、貧しい農民にとって640ドルは大金であり、もっと買い易くして欲しいと云う要求がくり返され、19世紀に入ると最低売却面積が小さくなり、1820年には80エーカーでも購入が可能に成りました。

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ネイティブ・アメリカン(インディアン)

 農民や東部で生活が困難な者、ヨーロッパからの移民が西部へ移住し、定着して開墾に従事しますが、彼等は自然やネイティブ・アメリカン(インディアン)と戦いながら荒地を切り開き、丸太小屋を建て、周辺の土地を農地に変えて行きました。
そうした開拓民の生活の中から、自主独立・何事にも屈しない不撓不屈の精神・他人との協力・冒険心に富む楽天的な性格等のアメリカ人気質、所謂フロンティア・スピリット(開拓者精神)が形成され、又西部は伝統や家柄等に縛られない実力主義の自由な社会として発展した結果、アメリカの民主主義をも発展させました。

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ネイティブ・アメリカン(インディアン)

 しかし、西部開拓歴史は、先住民のネイティブ・アメリカン(インディアン)にとって白人による抑圧・迫害の歴史で在った事を忘れては成りません。

 「ジャクソニアン・デモクラシー」を推進したジャクソンは、1830年にネイティブ・アメリカン(インディアン)強制移住法を制定し、ネイティブ・アメリカン(インディアン)はミシシッピ川以西の土地へ移住を強制され、従わない部族は武力で討伐されていきます。

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ネイティブ・アメリカン(インディアン)実写

 南北戦争後、西部開拓が大規模に進められるようになると、追いつめられたネイティブ・アメリカン(インディアン)は各地で激しい抵抗を繰り返しますが、1871年にはネイティブ・アメリカン(インディアン)は特定の居留地に押し込められることになり、1890年頃迄にその抵抗はすべて鎮圧され、その為、アメリカ独立当事約115万人と推定されたネイティブ・アメリカン(インディアン)の人口は、1890年頃には25万人に迄減少していました。

ジョークは如何?

先生がジョニーに尋ねた。
「ジョニー、ワシントンが『庭の桜の木を切ったのは僕です』と正直に告白した時、
ワシントンのお父さんは叱らずに許してやりました。なぜかしら?」
「はーい。ワシントンがまだ手に斧を持っていたからです」とジョニー

続く・・・

2017/01/15

歴史を歩く135

3アメリカ合衆国の発展①

1民主主義の発達と領土の拡大(その1)

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ジョージ・ワシントン(George Washington:1732年2月22日 - 1799年12月14日)

 アメリカ合衆国では、1789年に連邦政府が発足し、ワシントン(在任1789年~97年)が初代の大統領に就任しますが、ワシントンは大統領を2期務め、3選を固辞して「告別の辞」で中立の必要を説いて引退しました。

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ジョン・アダムズ(John Adams:1735年10月19日 - 1826年7月4日)

 独立宣言の起草者の一人で、ワシントンのもとで副大統領を務めたアダムズが、フェデラリスト(連邦派)の指導者として第2代大統領に就任します(在任1797年~1801年)。

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トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson:1743年4月2日 - 1826年7月4日)

 1800年の大統領選挙では、アンチ・フェデラリスト(反連邦派)のジェファーソンがアダムズを破って第3代大統領に就任しますが、この出来事は「1800年の革命」と呼ばれました。
ジェファーソン(1743年~1826年、在任1801年~09年)は、ヴァージニアのプランター(大農園主)の家庭に生まれ、弁護士となり、ヴァージニア植民地議会議員を経て大陸会議の代表となり、独立宣言の起草者となりました(1776年)。

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独立宣言
5人委員会がその草稿を大陸会議に提出している。ジェファーソンは宣言文を机に置いている中央の背が高い人物。


ワシントン大統領のもとでは初代国務長官に就任しますが、ハミルトンやアダムズ等のフェデラリストと対立して国務長官を辞任し(1793年)、アンチ・フェデラリスト(反連邦派、1787年の憲法草案に反対した人々)を中心にリパブリカン党(後に民主共和党に発展)を結成し、1800年の大統領選挙でフェデラリスト(連邦派)のアダムズを破って第3代大統領となります。

 ジェファーソンは民主主義の発展に努め、少数意見の尊重・憲法によって保障された権利と自由を維持すること・州の正当な権限を保障すること等を主張し、自営農民こそが民主主義の中核と称えました(ジェファーソニアン・デモクラシー)。
こうした彼の民主主義に対する考え方は後世に影響を与え、リンカーンはジェファーソンを「アメリカ民主主義の父」と呼んでいます。

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ルイジアナ購入

 ジェファーソン在任中の出来事の中で、以後の合衆国の歴史にとって最も重要な出来事の一つとなったのが、1803年のルイジアナ購入でした。
ジェファーソンの在任中はナポレオンの全盛期でした。
ナポレオンはスペインからミシシッピ以西のルイジアナ(1763年にフランス領からスペイン領となる)を取り戻しますが、ジェファーソンは西部農民の要請を受けてフランスと交渉し、ナポレオンからルイジアナを購入します。

 ルイジアナはミシシッピ川とロッキー山脈に挟まれた面積約214万平方km(日本の国土面積は約37.8万平方km)の広大な地域でしたが、合衆国はこれをわずか1500万ドル(1平方km当たり約7ドル)で購入し、これによって合衆国の領土は一機に倍増しました。

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ジェームズ・マディソン・ジュニア(James Madison, Jr.:1751年3月16日 - 1836年6月28日)

 第4代大統領マディソン(在任1809年~17年)の在任中、1812年6月に合衆国はイギリスに宣戦し、米英戦争(アメリカ・イギリス戦争、1812年6月~14年12月)が始まりました。
アメリカはカナダの奪取を目論むものの失敗し、海上もイギリス海軍に封鎖されますが、米・英共に決定的な勝敗をみないうちに、ヨーロッパでナポレオン戦争が終結した為、米・英共に戦闘を継続する理由がなくなり、ガン条約が結ばれて米英戦争は終結しました。

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米英戦争・ワシントン焼き討ち

 戦争中にイギリス商品の流通が総て停止した結果、米英戦争はアメリカの経済的自立を促し、木綿工業を中心とするアメリカの諸産業が発展します。
このため米英戦争は、政治的な独立を果たした独立戦争に対して、経済的な独立を果たしたという意味で「第二次独立戦争」と呼ばれています。

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ジェームズ・モンロー(James Monroe、1758年4月28日 - 1831年7月4日)

 第5代大統領モンロー(1758年~1831年、在任1817年~25年)は、ヴァージニア州出身でヴァージニア州選出の下院議員を経て上院議員となり、アンチ・フェデラリストの指導者として活躍し、ジェファーソン大統領の下で国務長官を務め、1816年の大統領選挙でリパブリカン党から立候補して当選し、大統領を2期務めました。

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モンロー主義・風刺画

 モンローはラテン・アメリカ諸国の独立を支援し、メッテルニヒがラテン・アメリカ諸国の独立運動に干渉しようとすると、1823年にモンロー宣言(教書)を発し、相互不干渉主義を主張してこれに反対しました。
モンロー宣言は、ワシントン以来の中立政策をより明確に表明したもので、後の孤立主義に発展し、合衆国の外交政策の基本方針と成りました。

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アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson:1767年3月15日 - 1845年6月8日)

 第7代大統領ジャクソン(1767年~1845年、在任1829年~37年)は西部出身初の大統領として、「ジャクソニアン・デモクラシー」を推進します。

 ジャクソンは、当時の西部辺境であったサウスカロライナ州の貧しい開拓民の家庭に生まれ、テネシー州選出の下院・上院議員となり、米英戦争では司令官としてイギリス軍に大勝して一躍国民的英雄と成りました。
1828年の大統領選挙で庶民の支持を得て当選し、西部出身初の大統領となり、又庶民の大統領として注目されます。

 ジャクソンは、西部の自営農民・東部の小市民や労働者等の要求を巧に捉え、特権や独占に反対して庶民の側に立って民主主義を推進し、普通選挙制度・公立学校の普及・婦人参政権運動・官職交替制・特権に反対する自由企業の発展等の民主化が進展した為「ジャクソニアン・デモクラシー」と呼ばれ、ジャクソンの支持者達は1820年代に南部を主な基盤とする民主党を組織しました。
これに対して反ジャクソン派は北部を主な基盤とするホイッグ(ウイッグ)党を組織し(1834年)、後にホイッグ党を中心に、奴隷制反対をスローガンとする共和党が結成されました。

ジョークは如何?

紀元元年はいつか? 1933年だ。
なぜ?

その年まではBefore Crisis(危機以前)、B.C.
それ以降はAfter Depression(不景気の後)、A.D.
だから。

※補足
1933年はニューディール政策の始まった年


続く・・・

2017/01/05

歴史を歩く134

31自由主義と国民主義⑩

8北ヨーロッパ諸国

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汎スカンディナヴィア主義
「北欧諸国(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン)、特に「ノルマン人」の連帯と統一を目指す思想運動で、北欧諸国が、欧州列強の脅威に囲まれる中で、北欧の団結と統合を体現化したナショナリズムの昂揚」。

 スウェーデンは、ナポレオン戦争でフィンランドをロシアに割譲されますが、ウィーン会議ではデンマークからノルウェーを同君連合として割譲させ、19世紀半ば以降、対外的平和と国内の民主化に努力し、二院制議会を設ける(1866年)等立憲王国として発展しました。

 ノルウェーは、ウィーン会議の結果、デンマーク領から同君連合のスウェーデン領となり、その後の独立運動の結果、1905年に国民投票によって平和的に独立を達成します。

 デンマークは、ナポレオン戦争でノルウェーを失いました。
1848年には二月革命の影響を受け、立憲君主制を宣言し、自由主義的憲法を制定しますが、デンマーク戦争(1864年)でプロイセン・オーストリアにシュレスヴィヒ・ホルシュタインを割譲され、以後は対外平和政策と福祉政策の充実・農牧業を中心とする国づくりに努め、民主的な立憲王国への道を進むことになります。

9国際的諸運動の進展

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1851年ロンドン万国博覧会の水晶宮
「開業までたった9ヶ月という計画で建設された」

 1851年にロンドンで第1回万国博覧会が開催されましたが、それはイギリスの国力を誇示する場でもありました。
1855年にはナポレオン3世が勢威を誇示するためにパリで第2回万国博覧会を開催します。
1862年には再びロンドンで万国博覧会が開催されますが、この時フランスの労働者代表がイギリスに渡り、労働者の国際的組織設立の動きが始まりました。

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ピエール・ジョゼフ・プルードン(Pierre Joseph Proudhon ・1809年1月15日-1865年1月19日)

 1863年のポーランド反乱に対するイギリス・フランスの労働者の支援運動が契機となり、1864年9月にロンドンで第一インターナショナル(国際労働者協会、1864年~76年)が結成され、創立宣言を起草したマルクスがその指導者となりますが、先ずプルードン派と、次いでバクーニン等の無政府主義者との対立が激しくなります。
この様な内部対立とパリ・コミューン(1871年)を公然と支持して各国政府から弾圧され、1876年に解散しました。

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ミハイル・アレクサンドロヴィチ・バクーニン(ихаи́л Алекса́ндрович Баку́нин、・1814年5月30日 - 1876年7月1日)

 第一インターナショナル解散後は各国別に運動が展開されていましたが、1889年7月にパリでフランス革命百年祭が催された時に、欧米19カ国の代表によって第二インターナショナル(1889年~1914年)が結成されます。
第二インターナショナルは、各国の社会主義政党が中心となって組織され、特にドイツ社会民主党が指導的な地位を占めますが、第一次世界大戦の勃発で、各国社会主義政党が自国政府の戦争を支持したために崩壊します。

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万国平和会議の風刺画

 19世紀末、帝国主義列強の対立によって戦争の危機が迫るなかで、ロシア皇帝ニコライ2世の提唱によって万国平和会議が1899年と1907年の2回にわたってオランダのハーグで開催され、第1回会議には26カ国が、第2回会議には44カ国が参加しています。

 平和確保の為の軍備縮小が論議されましたが、成果は得られなかったものの、第1回会議では国際仲裁裁判所の設立が決まり、1901年にハーグに設置されます。
国際仲裁裁判所は国際紛争の平和的解決を目標としましたが、第一次世界大戦前には殆ど成果をあげることは出来ませんでした。

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アンリ・デュナンとソルフェリーノの戦い
ジャン・アンリ・デュナン(Jean Henri Dunant, 1828年5月8日 - 1910年10月30日)

 この間、クリミア戦争におけるナイティンゲールの活動とイタリア統一戦争でのソルフェリーノの戦いを目撃してその惨状に心をうたれたスイス人のデュナン(1828年~1910年)の提唱によって、1864年に26ヵ国が参加して国際赤十字社が設立されました。

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クーベルタン男爵ピエール・ド・フレディ(1863年1月1日 - 1937年9月2日)

 又フランスのクーベルタン(1863年~1937年)の提唱によって近代オリンピック大会が始まり、1896年にアテネで第1回国際オリンピック大会が開催されます。
その他、国際電信連合(1865年創設)や万国郵便連合(1875年に成立)等の国際的な機関もこの時期に創設されています。 

ジョークは如何?

社会主義者のための天国に、一人の男性が死んでやってきた。

天国の門番「お前の父親の職業は?」
 男「弁護士で、商売のほうも少し…」
門番「フン、資本家の仲間だな。おふくろは?」
 男「商人の娘です」
門番「これもブルジョアか。で、お前の職業は?」
 男「著述業です」
門番「労働者じゃないな。女房はどうなんだ?」
 男「貴族の娘です」
門番「ああ、だめだだめだ!とても労働者の天国には入れられん!
    帰れ! …ああ、いちおう名前だけ聞いておこう」

 男「……カール・マルクス」

続く・・・