歴史を歩149
34オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒④
4イランとアフガニスタンの動向
イランでは、18世紀前半にサファヴィー朝(1501年~1736年)が滅亡し、以後アフシャール朝(1736年~96年)ザンド朝(1750年~95年)の短命な王朝が続きましたが、18世紀末にはカージャール朝(1796年~1925年)が成立します。

カージャール朝と周辺諸国の位置関係
カージャール朝はトルコ系王朝でテヘランを都とし、19世紀前半に2度ロシアと戦って敗れ(1812年~13年、1826年~28年)、トルコマンチャーイ条約(1828年)を結んでロシアに東アルメニアとコーカサス地方を割譲し、治外法権を認めました。
ロシアに領土を奪われたカージャール朝は東方のアフガニスタンに向かって進出をはかり、1832年~57年にかけて3度ヘラートを攻め、3度目には占領に成功しましたが(1856年)、イギリスはこれをインドへの脅威ととらえてカージャール朝に宣戦します。
カージャール朝は此れに屈服してヘラートから撤退すると共に、イギリスにも治外法権を認め貿易上の特権を与えました。

1800 年代のヘラート
トルコマンチャーイ条約以後、カージャール朝の財政は破綻し、農民への税負担が増大しました。
こうした状況の中で1848年~50年にかけて封建制に反対し、外国勢力への屈従を拒んだイラン農民の反乱が起こります。
この反乱は、それに参加した貧しい農民、商人、職人等の多くがバーブ教徒であった為、バーブ教徒の乱(1848年~50年)と呼ばれています。

バーブの霊廟(ハイファ)
バーブ教は、イランのサイイド・アリー・ムハンマド(1819年~50年)によって1844年頃に創始されたイスラム教シーア派に属する神秘主義的宗教で、既存の宗教儀礼の廃止や男女平等、階級的差別の撤廃等を主張し、貧しい農民、商人、職人等の支持を得ました。

サイイド・アリー・ムハンマド(1819年-50年)
創始者のサイイド・アリー・ムハンマド(ミールザー・アリー・モハンマド)は、マフディ(アラビア語で救世主の意味)の出現を説き、彼自身をマフディに近づくバーブ(門の意味)と称したので、彼が創始した宗教はバーブ教と呼ばれ、バーブ教徒は各地で蜂起し、政府軍を相手に勇敢かつ頑強に抵抗しましたが鎮圧され、以後激しい弾圧、迫害を受けることになりました。
サイイド・アリー・ムハンマドは反乱には直接関係しませんでしたが、自らマフディと称した為、既成宗教と秩序を破壊する危険人物とみなされて1850年にタブリーズ市民の前で銃殺されます。

アフマド・シャー・ドゥッラーニー(Ahmad Shāh Durrāni, 1722年 - 1772年10月16日)
ドゥッラーニー朝の王に選出
アフガニスタンは、10世紀以後ガズナ朝、ゴール朝、イル=ハン国、ティムール帝国、サファヴィー朝による支配を受け、又16世紀以後はインドのムガール帝国にその東半部を支配されてきました。
アフマド・シャー・ドゥッラーニー(1724年~73年)は、イランのアフシャール朝のナーデル・シャーの傭兵隊長でしたが、ナーデル・シャーが暗殺された後に自国に戻り、国王に選出されてドゥッラーニー朝(1747年~1842年)を創始し、アフガニスタンの民族的独立を達成しました。
しかし、19世紀に入ると、ドースト・ムハンマド(1789年~1863年、ドゥッラーニー朝宰相の家柄でパーラクザイ族出身)がドゥッラーニー朝勢力を駆逐してパーラクザイ朝(1826年~1973年)を創始します。

撤退するイギリス部隊を襲撃するアフガン人
先にカージャール朝で述べた通り、1837年にロシアの支援を得たカージャール朝が再度ヘラートを包囲攻撃すると、ロシア南下に加えて、支配権を確立したインドに脅威が及ぶ事を恐れたイギリスがこれに介入してアフガニスタンへ侵略し、第1次アフガン戦争(1838年~42年)に発展します。

第2次アフガン戦争に参戦した第5ノーサンバランド・フュージリア連隊
第1次アフガン戦争ではイギリスが完敗しますが、1856年にカージャール朝が三度ヘラートを攻撃するとイギリスは宣戦を布告してイランを屈服させ、アフガニスタンをイランから独立させ(1857年)、アフガン戦争は3回行われましたが(1838年~42年、1878年~80年、1919年)、イギリスは第2次アフガン戦争(1878年~80年)の勝利によってアフガニスタンの保護国化に成功しました。
ジョークは如何?
「ネタにされる大統領はたいてい共和党だね。タカ派の多いこと」
「うむ、そしてネタにされる書記長は共産党と決まっている」
続く・・・
4イランとアフガニスタンの動向
イランでは、18世紀前半にサファヴィー朝(1501年~1736年)が滅亡し、以後アフシャール朝(1736年~96年)ザンド朝(1750年~95年)の短命な王朝が続きましたが、18世紀末にはカージャール朝(1796年~1925年)が成立します。

カージャール朝と周辺諸国の位置関係
カージャール朝はトルコ系王朝でテヘランを都とし、19世紀前半に2度ロシアと戦って敗れ(1812年~13年、1826年~28年)、トルコマンチャーイ条約(1828年)を結んでロシアに東アルメニアとコーカサス地方を割譲し、治外法権を認めました。
ロシアに領土を奪われたカージャール朝は東方のアフガニスタンに向かって進出をはかり、1832年~57年にかけて3度ヘラートを攻め、3度目には占領に成功しましたが(1856年)、イギリスはこれをインドへの脅威ととらえてカージャール朝に宣戦します。
カージャール朝は此れに屈服してヘラートから撤退すると共に、イギリスにも治外法権を認め貿易上の特権を与えました。

1800 年代のヘラート
トルコマンチャーイ条約以後、カージャール朝の財政は破綻し、農民への税負担が増大しました。
こうした状況の中で1848年~50年にかけて封建制に反対し、外国勢力への屈従を拒んだイラン農民の反乱が起こります。
この反乱は、それに参加した貧しい農民、商人、職人等の多くがバーブ教徒であった為、バーブ教徒の乱(1848年~50年)と呼ばれています。

バーブの霊廟(ハイファ)
バーブ教は、イランのサイイド・アリー・ムハンマド(1819年~50年)によって1844年頃に創始されたイスラム教シーア派に属する神秘主義的宗教で、既存の宗教儀礼の廃止や男女平等、階級的差別の撤廃等を主張し、貧しい農民、商人、職人等の支持を得ました。

サイイド・アリー・ムハンマド(1819年-50年)
創始者のサイイド・アリー・ムハンマド(ミールザー・アリー・モハンマド)は、マフディ(アラビア語で救世主の意味)の出現を説き、彼自身をマフディに近づくバーブ(門の意味)と称したので、彼が創始した宗教はバーブ教と呼ばれ、バーブ教徒は各地で蜂起し、政府軍を相手に勇敢かつ頑強に抵抗しましたが鎮圧され、以後激しい弾圧、迫害を受けることになりました。
サイイド・アリー・ムハンマドは反乱には直接関係しませんでしたが、自らマフディと称した為、既成宗教と秩序を破壊する危険人物とみなされて1850年にタブリーズ市民の前で銃殺されます。

アフマド・シャー・ドゥッラーニー(Ahmad Shāh Durrāni, 1722年 - 1772年10月16日)
ドゥッラーニー朝の王に選出
アフガニスタンは、10世紀以後ガズナ朝、ゴール朝、イル=ハン国、ティムール帝国、サファヴィー朝による支配を受け、又16世紀以後はインドのムガール帝国にその東半部を支配されてきました。
アフマド・シャー・ドゥッラーニー(1724年~73年)は、イランのアフシャール朝のナーデル・シャーの傭兵隊長でしたが、ナーデル・シャーが暗殺された後に自国に戻り、国王に選出されてドゥッラーニー朝(1747年~1842年)を創始し、アフガニスタンの民族的独立を達成しました。
しかし、19世紀に入ると、ドースト・ムハンマド(1789年~1863年、ドゥッラーニー朝宰相の家柄でパーラクザイ族出身)がドゥッラーニー朝勢力を駆逐してパーラクザイ朝(1826年~1973年)を創始します。

撤退するイギリス部隊を襲撃するアフガン人
先にカージャール朝で述べた通り、1837年にロシアの支援を得たカージャール朝が再度ヘラートを包囲攻撃すると、ロシア南下に加えて、支配権を確立したインドに脅威が及ぶ事を恐れたイギリスがこれに介入してアフガニスタンへ侵略し、第1次アフガン戦争(1838年~42年)に発展します。

第2次アフガン戦争に参戦した第5ノーサンバランド・フュージリア連隊
第1次アフガン戦争ではイギリスが完敗しますが、1856年にカージャール朝が三度ヘラートを攻撃するとイギリスは宣戦を布告してイランを屈服させ、アフガニスタンをイランから独立させ(1857年)、アフガン戦争は3回行われましたが(1838年~42年、1878年~80年、1919年)、イギリスは第2次アフガン戦争(1878年~80年)の勝利によってアフガニスタンの保護国化に成功しました。
ジョークは如何?
「ネタにされる大統領はたいてい共和党だね。タカ派の多いこと」
「うむ、そしてネタにされる書記長は共産党と決まっている」
続く・・・
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