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2017/02/12

歴史を歩149

34オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒④

4イランとアフガニスタンの動向

 イランでは、18世紀前半にサファヴィー朝(1501年~1736年)が滅亡し、以後アフシャール朝(1736年~96年)ザンド朝(1750年~95年)の短命な王朝が続きましたが、18世紀末にはカージャール朝(1796年~1925年)が成立します。

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カージャール朝と周辺諸国の位置関係

 カージャール朝はトルコ系王朝でテヘランを都とし、19世紀前半に2度ロシアと戦って敗れ(1812年~13年、1826年~28年)、トルコマンチャーイ条約(1828年)を結んでロシアに東アルメニアとコーカサス地方を割譲し、治外法権を認めました。
ロシアに領土を奪われたカージャール朝は東方のアフガニスタンに向かって進出をはかり、1832年~57年にかけて3度ヘラートを攻め、3度目には占領に成功しましたが(1856年)、イギリスはこれをインドへの脅威ととらえてカージャール朝に宣戦します。
カージャール朝は此れに屈服してヘラートから撤退すると共に、イギリスにも治外法権を認め貿易上の特権を与えました。

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1800 年代のヘラート

 トルコマンチャーイ条約以後、カージャール朝の財政は破綻し、農民への税負担が増大しました。
こうした状況の中で1848年~50年にかけて封建制に反対し、外国勢力への屈従を拒んだイラン農民の反乱が起こります。
この反乱は、それに参加した貧しい農民、商人、職人等の多くがバーブ教徒であった為、バーブ教徒の乱(1848年~50年)と呼ばれています。

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バーブの霊廟(ハイファ)

 バーブ教は、イランのサイイド・アリー・ムハンマド(1819年~50年)によって1844年頃に創始されたイスラム教シーア派に属する神秘主義的宗教で、既存の宗教儀礼の廃止や男女平等、階級的差別の撤廃等を主張し、貧しい農民、商人、職人等の支持を得ました。

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サイイド・アリー・ムハンマド(1819年-50年)

 創始者のサイイド・アリー・ムハンマド(ミールザー・アリー・モハンマド)は、マフディ(アラビア語で救世主の意味)の出現を説き、彼自身をマフディに近づくバーブ(門の意味)と称したので、彼が創始した宗教はバーブ教と呼ばれ、バーブ教徒は各地で蜂起し、政府軍を相手に勇敢かつ頑強に抵抗しましたが鎮圧され、以後激しい弾圧、迫害を受けることになりました。
 
 サイイド・アリー・ムハンマドは反乱には直接関係しませんでしたが、自らマフディと称した為、既成宗教と秩序を破壊する危険人物とみなされて1850年にタブリーズ市民の前で銃殺されます。

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アフマド・シャー・ドゥッラーニー(Ahmad Shāh Durrāni, 1722年 - 1772年10月16日)
ドゥッラーニー朝の王に選出


 アフガニスタンは、10世紀以後ガズナ朝、ゴール朝、イル=ハン国、ティムール帝国、サファヴィー朝による支配を受け、又16世紀以後はインドのムガール帝国にその東半部を支配されてきました。
アフマド・シャー・ドゥッラーニー(1724年~73年)は、イランのアフシャール朝のナーデル・シャーの傭兵隊長でしたが、ナーデル・シャーが暗殺された後に自国に戻り、国王に選出されてドゥッラーニー朝(1747年~1842年)を創始し、アフガニスタンの民族的独立を達成しました。

 しかし、19世紀に入ると、ドースト・ムハンマド(1789年~1863年、ドゥッラーニー朝宰相の家柄でパーラクザイ族出身)がドゥッラーニー朝勢力を駆逐してパーラクザイ朝(1826年~1973年)を創始します。

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撤退するイギリス部隊を襲撃するアフガン人

 先にカージャール朝で述べた通り、1837年にロシアの支援を得たカージャール朝が再度ヘラートを包囲攻撃すると、ロシア南下に加えて、支配権を確立したインドに脅威が及ぶ事を恐れたイギリスがこれに介入してアフガニスタンへ侵略し、第1次アフガン戦争(1838年~42年)に発展します。

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第2次アフガン戦争に参戦した第5ノーサンバランド・フュージリア連隊

 第1次アフガン戦争ではイギリスが完敗しますが、1856年にカージャール朝が三度ヘラートを攻撃するとイギリスは宣戦を布告してイランを屈服させ、アフガニスタンをイランから独立させ(1857年)、アフガン戦争は3回行われましたが(1838年~42年、1878年~80年、1919年)、イギリスは第2次アフガン戦争(1878年~80年)の勝利によってアフガニスタンの保護国化に成功しました。 

ジョークは如何?

「ネタにされる大統領はたいてい共和党だね。タカ派の多いこと」
「うむ、そしてネタにされる書記長は共産党と決まっている」

続く・・・
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2017/02/12

歴史を歩く148

34オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒③

3オスマン帝国の改革

 第2次ウィーン包囲失敗(1683年)、カルロヴィッツ条約締結(1699年)以来、オスマン・トルコは否応なしにヨーロッパの軍事力の優越を認めざるを得なくなっていました。

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マフムト2世(Mahmud II, 1785年7月20日 - 1839年7月1日)

 18世紀末に即位したセリム3世(第28代皇帝、在位1789年~1807年)は軍事的改革を中心とする近代化改革を進めますが保守勢力の抵抗によって廃位されます。
しかし、セリム3世の改革はマフムト2世(第30代皇帝、在位1808年~39年)に受け継がれ、彼は横暴をきわめ、堕落したイェニチェリを廃止し(1826年)、西欧式軍隊を編成し、地方豪族の勢力抑制に努めました。

対外的にはギリシアの独立(1829年)とムハンマド・アリーによるエジプトの自立(1805年)・東方問題(1831年~40年)の激化を招いたのです。

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アブデュルメジト1世(Abdülmecid I, 1823年4月23日 - 1861年6月25日)

 マフムト2世の死後、若いアブデュル・メジト1世(1823年~61年、第31代皇帝、在位1839年~61年)が即位し、ギュルハネ勅令を発布して(1839年)タンジマート(1839年~76年)を開始します。

 タンジマート(アラビア語で整理、秩序の意味、恩恵改革と訳す)とはギュルハネ勅令に基づくオスマン・トルコの諸改革の総称で、タンジマートはオスマン・トルコの司法、行政、財政、軍事、文化等あらゆる分野にわたる西欧化による近代化改革であり、オスマン・トルコの旧体制から西欧式体制への移行を目ざした「上からの改革」でした。

 アブデュル・メジト1世は、1856年に再度勅令を発布し、領内の非イスラム教徒の社会的平等を確認しますが、タンジマートは旧勢力の反対に遭い志半ばで挫折してしまいます。

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ミドハト・パシャ(Midhat Paşa, 1822年10月18日 - 1884年5月8日)

 クリミア戦争(1853年~56年)後、ミドハト・パシャ(1822年~84年)を中心とする憲法制定を求める運動が起こります。
ミドハト・パシャは各地の地方官をへて二度宰相を務め、この間ヨーロッパを視察した経験から近代化の必要を痛感し、自由主義的改革に努めました。 
1876年にアブデュル・ハミト2世(第34代皇帝、在位1876年~1909年)が即位すると、ミドハト・パシャは宰相に任命され、ミドハト憲法を起草、発布しました。

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「カーヌーニ・エサーシー、Kanun-ı Esasî」(ミドハト憲法/オスマン帝国憲法)

 ミドハト憲法はアジア最初の憲法で、イスラム教徒と非イスラム教徒との平等、宗教別比例代表制による議会、責任内閣制、個人の自由等を定めた民主的な憲法でしたが、翌年露土戦争(1877年~78年)が勃発すると、これを口実にミドハト憲法は停止されてしまいます。

ジョークは如何?

とあるホームパーティの席で。ゲストの毒舌男が料理を批判して「ひどい食い物だ。
これじゃ豚の餌だね」
すかさず女主人が「あら、じゃあもっと貴方にご馳走しなきゃ」


続く・・・


2017/02/11

歴史を歩く147

34オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒②

2アラブ民族の覚醒

 18世紀に入りオスマン・トルコ帝国が衰退していく中で、西アジアから北アフリカに至るオスマン・トルコの支配下のアラブ地域に於いて民族的な自立を求める動きが始まります。

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ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ
( محمد بن عبد الوهاب‎,Muhammad ibn ʿAbd al-Wahhab; 1703年– 1792年6月22日)


 18世紀中庸、アラビア半島でムハンマド・ブン・アブドゥル・ワッハーブ(1703年頃~91年)がイスラム教の改革を唱えてワッハーブ派を創始します。
ワッハーブ派は、スンナ派に対抗して原始イスラムへの復帰を唱え、ムハンマド以来の300年間が正しいイスラム教が行われた時期であるとしてそれ以後の全ての改革を否定すると共に、又極端な禁欲主義を説き、厳正な一神教に従ってコーランと預言者ムハンマドの言行に基づく知識以外は認めない立場を取りました。

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イフワーン Ikhwan(サウジアラビアの建国を支えた民兵組織)を従えたアブドゥル・アジズ・イブン・サウード(2代目ワッハーブ王国(第1次)国王)

 ワッハーブ派は、中部アラビアの豪族サウード家と結んでワッハーブ王国(1744年頃~1818年、1823年~89年)を建設し、リヤドを都と定めました。
第1次ワッハーブ王国(1744年頃~1818年)は、オスマン・トルコから征討を命じられたエジプト総督ムハンマド・アリーによって1818年に滅ぼされます。

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アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラフマーン・ビン・ファイサル・アール・サウード
( عبد العزيز بن عبد الرحمن بن فيصل آل سعود‎, Abdulaziz bin Abdulrahman bin Faisal Al Saud、1876年 - 1953年11月9日)

 サウード家によって再興された第2次ワッハーブ王国(1823年~89年)はリヤドを奪われて滅びましたが(1889年)、サウード家のイブン・サウード(1876年~1953年)が20世紀初頭にリヤドを奪回して再び復活し、1932年には国号をサウジアラビアと改称して現在に至っています。
尚、ワッハーブ派は現在のサウジアラビアでも支配的宗教です。

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ムハンマド・アリー・パシャ
( محمد علي باشا‎, Muḥammad ʿAlī Bāšā, 1769年? - 1849年8月2日)


 ワッハーブ派は、イスラム改革の始まりとなり、又アラブ民族主義運動の先駆となりました。
ナポレオンのエジプト遠征(1798年~99年)はアラブ民族主義運動高揚の端緒となり、ナポレオン軍敗退の混乱に乗じて、マケドニア生まれのアルバニア人傭兵隊長ムハンマド・アリー(メフメト・アリー、1769年~1849年)は実力によってエジプト太守(総督、パシャ)となり、エジプトの実権を握りました(1805年)。
ムハンマド・アリーはその後エジプト全土を統一し、行政、産業、教育、軍事の西欧化による近代化を進めます。

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 又、ギリシアの独立戦争(1821年~29年)でオスマン・トルコを援助してクレタ、キプロス島を獲得したムハンマド・アリーは、更にシリアの領有を要求して第1次エジプト・トルコ戦争(1831年~33年)を引き起こしてシリアの領有を認めさせました。
ムハンマド・アリーは、更にエジプト、シリア等の領土世襲権を要求して、第2次エジプト・トルコ戦争(1839年~40年)を起こし、フランスの援助を得てオスマン・トルコに大勝しました。
これを見たイギリスはロシア、プロイセン、オーストリア共に干渉し、ロンドン会議を開いてロンドン四カ国条約成立させ、この条約によってムハンマド・アリーは世襲領域をエジプト、スーダンに限定され、シリアを放棄させられます。

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スエズ運河・1869年11月開通

 エジプトでは、1840年代以後、イギリスを初めとするヨーロッパからの資本や製品の流入が増大し、列強への経済的従属が進みました。
特にイスマーイール(在位1863年~79年)がスエズ運河の建設、鉄道、用水路、工場の建設等の近代化政策を進めたために、これらの事業によってエジプトには莫大な外債が残されました。

 財政難に陥ったエジプトは、スエズ運河の株式をイギリスに売却(1875年)して財政難を切り抜ける事を思案しますが、外債の利子支払いも不可能となり国家財政が破綻し、イギリス、フランスの財務管理下におかれることと成りました。
1877年には国庫歳入の実に79%が債務返済に充てられる状態となり、エジプト農民は重い税負担に苦しめられ、農民が餓死する中でも税の取り立てが行われます。

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馬上のアラービー・パシャ

 こうしたイギリス、フランスの経済支配に対する反対闘争が各地で起こりますが、その先頭に立ったのがアラービー・パシャでした。

 アラービー・パシャ(1841年~1911年)は、農民出身の軍人でエジプト人将校の間で祖国党を組織して「エジプト人のためのエジプト」運動を進め、1881年には反乱を起こし、翌年には陸軍大臣に就任して自由主義的な憲法を発布させます(アラービー・パシャの反乱、1881年~82年)。

 1875年にスエズ運河の株式を買収していたイギリスは、アラービー・パシャの反乱が起こると彼の辞職を要求し、単独でエジプトに出兵してアラービー・パシャ軍を破り、エジプトを軍事占領して事実上の保護下に置きました。
アラービー・パシャの反乱は、エジプト最初の民族革命であり、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンとしたアラービー・パシャの運動はその後のエジプト民族主義運動の原点となったのです。

ジョークは如何?

ポーランド人が鶏小屋に忍び込んだ
人気を察した飼い主が銃を構えて呼びかけた

「おい!そこに誰かいるのか?」
「誰もいません旦那様、おらたち鶏だけでがす」


続く・・・


2017/02/11

歴史を歩く146

34オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒

1オスマン帝国支配の動揺

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 オスマン・トルコ帝国は、16世紀の最盛期にはアジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる大帝国を形成しましたが、その頃にはヨーロッパでは「大航海時代」が始まっていました。
これによってヨーロッパ人はアフリカの南端を回ってアジアへ到達する事が可能となり、ヨーロッパとアジアの要の位置を占めていたオスマン・トルコの世界交通上の重要な地位は失われる事になります。

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アッバース1世(1571年1月27日 - 1629年1月19日)

 先ずポルトガルがインド洋に進出し、やがてイギリスがインド洋の制海権を握るようになり、17世紀にはペルシア湾岸のバスラに東インド会社の商館を設立しました。
サファヴィー朝最盛期の王アッバース1世(在位1587年~1629年)は、イギリス東インド会社艦隊の協力を得て、ポルトガル勢力をホルムズ島から駆逐します。

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 オスマン・トルコ帝国は、1683年の第2次ウィーン包囲の失敗で大打撃を受け、これによってオスマン・トルコのヨーロッパ進出が断念され、以後ヨーロッパからの後退が始まります。
オスマン・トルコは1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーとトランシルヴァニアをオーストリアに割譲します。

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ギリシャ独立戦争の敗北(ナヴァリノの海戦1827年10月20日)

 以後オスマン・トルコ帝国とオーストリア、ロシア等のヨーロッパ諸国との力関係は逆転し、18世紀に入るとオスマン・トルコは北セルビアをオーストリアに、又黒海北岸とクリミア半島をロシアに割譲されます。

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クリミア戦争:オスマン・トルコ軍敗走

 オスマン・トルコ帝国がヨーロッパに於ける領土を次々に喪失し、その支配下にあったアジア、アフリカでも民族的自立を求める動きが始まり、19世紀になると、ヨーロッパ列強の進出とその支配下にあった諸民族の自立により、オスマン・トルコの領土は縮小の一途を辿って行く事になります。

ジョークは如何?

Q:スターリンは何故最も偉大な人間なのか?

A:自分より偉大な人間は全員粛清したから


続く・・・

2017/02/11

歴絵を歩く145

33 19世紀のヨーロッパ文化⑤

5地理上の探検

 19世紀は探検家の時代でもありました。
探検家達は未知の土地を求めてアフリカ、北極、南極、中央アジアへと足を伸ばします。

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ジェームズ・クック(James Cook、 1728年10月27日 - 1779年2月14日)

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赤は第1回航海、緑は第2回航海、青は第3回航海をあらわす。青の点線は、クック死後の航海ルート

 18世紀後半、イギリスのクック(1728年~79年)は3回にわたって太平洋を調査航海し、第1次航海(1768年~71年)でタヒチ島、ニュージーランド、オーストラリア東岸を、第2次航海(1772年~75年)では南極圏に到達し、第3次航海(1776年~79年)ではタスマニア島、ニュージーランド、タヒチを経てハワイに至り、更に北上して北極海の一部に達しますが、帰途ハワイで島民とのトラブルで命を落としています。

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ヴィクトリア滝にあるリヴィングストン像

 19世紀に入っても、サハラ砂漠以南のアフリカ内陸部はヨーロッパ人にとっては、当に未知の大陸でした。
イギリスのリヴィングストン(1813年~73年)は、宣教師としてアフリカに赴き、1840年代から約30年間にわたってアフリカ奥地の探検を行ってヴィクトリア瀑布等を発見し、ナイル川の水源を探る探検に出て、一時消息不明となりましたが、後年スタンリーに救出されています。

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リヴィングストンとスタンリーの対面

 イギリス生まれのアメリカ人であるスタンリー(1841年~1904年)は、リヴィングストン捜索の為にアフリカに渡り、タンガニーカ湖畔で感激の対面を果たしました。
後にベルギー王の援助でコンゴ地方を探検し、アフリカ大陸の横断に成功しました。

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湖上のヘディン

 中国の奥地や中央アジアへの学術探検も19世紀末に始まりました。
スウェーデンの地理学者・探検家のヘディン(1865年~1952年)は中央アジア、チベット、タリム盆地等を4回にわたって探検し、ロブ・ノールの桜蘭(シルク・ロードの要衝として繁栄しましたが、前漢の武帝に征服され、漢の属国となった)遺跡を発見し(1901年)、又イギリスの考古学者・探検家のスタイン(1862年~1943年)は4回にわたって中央アジアを探検し、敦煌文書を発見・紹介しています。

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フリチョフ・ナンセン(Fridtjof Wedel-Jarlsberg Nansen 、1861年10月10日 - 1930年5月13日)

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ロバート・エドウィン・ピアリー(Robert Edwin Peary, 1856年5月6日 - 1920年2月20日)

 極地探検も19世紀末から始まり、ノルウェーのナンセン(1861年~1930年)は北緯86度に達し、極地が海洋であることを確認し(1895年)、その後、アメリカのピアリ(1856年~1920年)が1909年に初めて北極点に到達しています。

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1911年12月15日、南極点に到達したアムンセン一行。
左からアムンセン、ヘルマー・ハンセン、スヴェレ・ハッセル、オスカー・ウィスチング。


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南極点到達メンバー
(後列左から)ウィルソン、スコット、エヴァンズ (前列左から)バウアーズ、オーツ


 ノルウェーのアムンゼン(1872年~1928年)は、北極点到達をピアリに先行された為、目標を南極点に向け、1911年12月に南極点に初めて到達しますが、この時、イギリスのスコット(1868年~1912年)と南極点到達を競ったものの、アムンゼンに35日遅れ、1912年1月に南極点に到達を果たしています。
スコットは帰路、吹雪等悪天候に遭遇した氷原で命を落としています。

ジョークは如何?

民主主義では,一歩進むために,一日をかける.

全体主義では,一歩進むために,一人を殺す.

共産主義では,一歩進むために,二歩下がる.


続く・・・

2017/02/11

歴史を歩く144

33 19世紀のヨーロッパ文化④

4自然科学と技術

 19世紀は「科学の世紀」とも呼ばれています。
18世紀迄にほぼ基礎が確立されていた近代自然科学は、産業革命による工業の飛躍的な発展に伴い、19世紀中頃からめざましく進歩しました。

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エネルギー保存の法則(概念)

 物理学に於ける「エネルギー保存の法則」の発見、生物学での進化論及び生物体の細胞説の確立は、19世紀に於ける自然科学の三大業績と呼ばれています。

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ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー(Julius Robert von Mayer, 1814年11月25日 - 1878年3月20日)

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ヘルマン・ルートヴィヒ・フェルディナント・フォン・ヘルムホルツ(Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholtz, 1821年8月31日 - 1894年9月8日)

 エネルギー保存の法則は、ドイツの物理学者マイヤー(1814年~78年)とヘルムホルツ(1821年~94年)によって1847年に発見されました。

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マイケル・ファラデー(Michael Faraday, 1791年9月22日 - 1867年8月25日)

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ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン(Wilhelm Conrad Röntgen、1845年3月27日 – 1923年2月10日)

 物理学の分野では、イギリスのファラデー(1791年~1867年)が1831年に電磁誘導(モーターの原理)を発見し、電磁誘導の発展に貢献し、又ドイツのレントゲン(1845年~1923年)は1895年にX線を発見し、その功績によって第1回ノーベル物理学賞を受賞しました(1901年)。

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キューリ夫妻と長女イレーヌ

 フランスのキューリ夫妻(夫1859年~1906年、妻1867年~1934年、ポーランド生れ)は共同で放射線物質を研究し、1898年にラジウムを発見して原子核物理学の先駆となりました。

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ユストゥス・フォン・リービッヒ男爵(Justus Freiherr von Liebig, 1803年5月12日 - 1873年4月18日)

 化学の分野では、ドイツのリービッヒ(1803年~73年)が有機化合物の元素分析法を改良し、有機化学の基礎を確立しました。

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ルイ・パスツール(フランス語: Louis Pasteur, 1822年12月27日 - 1895年9月28日)

 医学の分野では細菌学が著しく進歩し、フランスのパスツール(1822年~95年)は狂犬病予防接種に成功し、ドイツのコッホ(1843年~1910年)は結核菌(1882年)・コレラ菌(1883年)を発見しました。

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チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin , 1809年2月12日 - 1882年4月19日)

 「科学の世紀」に於ける最大の業績の一つはダーウィンの進化論で、進化論は自然科学の分野だけでなく、社会思想、文化一般に大きな反響を呼び起こしました。

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ダーウィンが乗船したビーグル号(HMS Beagle)

 イギリスのダーウィン(1809年~82年)は1859年に『種の起源』を著し、生物は生存競争、自然淘汰によって適者のみが生存し、進化するとする説を唱えました。
進化論では、生物は神の創造物であると考える従来の人間観、自然観に大きな衝撃を与え、賛否両論の激しい論争を巻き起こし、特に教会は進化論に関して、聖書の教えに反するとして激しく攻撃しました。

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メンデルの法則(概念)

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グレゴール・ヨハン・メンデル( Gregor Johann Mendel、1822年7月20日 - 1884年1月6日)

 生物学の分野では進化論の他に、ドイツのシュライデン(1804年~81年)とシュヴァン(1810年~82年)が1838年、1839年に生物体の基本単位は細胞であることを発見し、オーストリアのメンデル(1822年~84年)は遺伝に関する「メンデルの法則」を発見しました(1865年)。

 自然科学の発達と共に新しい技術の開発も大いに進歩しました。
19世紀最大の成果は新しい電気エネルギーの利用で、電気は広い範囲で利用されて人間の生活を大きく変えていきます。

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サミュエル・フィンリー・ブリース・モールス(Samuel Finley Breese Morse、1791年4月27日 - 1872年4月2日)

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アレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell、1847年3月3日 - 1922年8月2日)
1892年、ニューヨーク-シカゴ間の長距離電話回線開通式典でのベル


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トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847年2月11日 - 1931年10月18日)

 電力が一番早く実用化されたのは通信分野で、アメリカのモールス(1791年~1872年)は1837年に電信機を発明し、又アメリカのベル(1847年~1922年)は1876年に電話機を発明しました。
少し遅れて電灯が1879年にアメリカのエジソン(1847年~1931年)によって発明され、発明王エディソンは電灯の他に蓄音機(1876年)や映画(1893年)等も発明していきます。
イタリアのマルコーニ(1874年~1937年)は1895年に無線電信を発明し、1901年には大西洋横断の交信に成功します。

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エルンスト・ヴェルナー・フォン・ジーメンス (Ernst Werner von Siemens, 1816年12月13日–1892年12月6日)

 1879年にはドイツのジーメンス(1816年~92年)が発電機を発明し、1870年代以後、電力は工場の動力源、交通、運輸機関の動力源としても利用されるようになり、19世紀末から20世紀初頭には蒸気力の利用を圧倒するようになります。

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ルドルフ・クリスチアン・カール・ディーゼル(Rudolf Christian Karl Diesel、1858年3月18日 - 1913年9月29日)

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ゴットリープ・ヴィルヘルム・ダイムラー(Gottlieb Wilhelm Daimler, 1834年3月17日 - 1900年3月6日)

 ドイツのディーゼル(1858年~1913年)は1897年に従来の石炭ガスに代わって石油を燃料とする内燃機関、所謂「ディーゼル・エンジン」を発明し、ドイツのダイムラー(1834年~1900年)は1883年に軽量のガソリン・エンジンを発明してまず二輪車、次いで四輪車に取り付けて稼動させる事に成功しました。
世界最初の自動車は時速18kmを出すことが出来たのです。

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アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel, 1833年10月21日 - 1896年12月10日)

 化学工業も発展し、スウェーデンのノーベル(1833年~96年)は1867年にダイナマイトを発明して財を成し、彼の遺産を基金として1901年にノーベル賞が設けられました。
その他、人造ソーダ、人造繊維、人造染料等も19世紀末に発明されています。

ジョークは如何?

1937年ナチスドイツのオーストリア併合が噂される中
ムッソリーニは航空相ゲーリングの私邸に招かれた。ゲーリングは
そのとき大きなヨーロッパ地図を展示した。
ムッソリーニはドイツと同じくオーストリアも赤く塗られているのを見て「早過ぎないか」
と指摘するとゲーリングは「いつかはこうなるということです。
私は貧乏でそのたびに新しい地図は買えないので、その日にそなえて・・・」

続く・・・

2017/02/10

歴史を歩く143

33 19世紀のヨーロッパ文化③

3哲学と人文・社会科学

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イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724年4月22日 - 1804年2月12日)

 哲学では、18世紀末にドイツのカント(1724年~1804年)がイギリス経験論と大陸の合理論を総合、批判してドイツ観念論哲学を創始しました。

 ドイツ観念論哲学は、ナポレオンの占領下で「ドイツ国民に告ぐ」と題する連続講演を行ったフィヒテ(1762年~1814年)やシェリング(1775年~1854年)に引き継がれ、ヘーゲルによって完成されました。

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ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770年8月27日 - 1831年11月14日)

 ヘーゲル(1770年~1831年)は、世界を精神の自己発展の過程としてとらえ、その発展の論理として弁証法を提唱しました。
弁証法は、あるもの(正)があると必ずそれと矛盾し、否定するもの(反)が生まれ、その対立、矛盾、否定を通してより高いものに総合される(合)、この正・反・合がくり返されて事物が発展していくとする考え方です。
ヘーゲルは、精神は主観的精神、客観的精神、絶対的精神(絶対精神)の三段階に発展して行き、精神の本質は自由にあるから世界史は自由が実現される過程であると論じました。

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ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach, 1804年7月28日 - 1872年9月13日)
 
 ヘーゲルの死後、ヘーゲル左派のフォイエルバッハ(1804年~72年)はヘーゲル哲学を批判し、人間は自然物であり、自然物以外は何者も存在しないとする独自の唯物論(一般的には、世界を精神的なものと物質的なものに区別し、物質的なものが世界を動かしていく根本原理であるとする考え方)を樹立しました。

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カール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818年5月5日 - 1883年3月14日)と妻イェニー・マルクス

 マルクス(1818年~83年)は、フォイエルバッハの唯物論とヘーゲルの弁証法を受け継いで弁証法的唯物論を確立し、歴史の発展を弁証法的唯物論の立場から解明する唯物史観(史的唯物論)を唱えて資本主義の没落と社会主義への移行の必然性を説いています。

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アルトゥル・ショーペンハウエル(Arthur Schopenhauer、1788年2月22日 - 1860年9月21日)

 又ドイツのショーペンハウエル(1788年~1860年)は、カントの後継者を自任し、フィヒテやシェリングを攻撃し、インド古典哲学の研究に打ち込み、「生きることは苦しみの連続である」とする厭世哲学(ペシミズム)を展開しました。

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ジェレミ・ベンサム(Jeremy Bentham、1748年2月15日 - 1832年6月6日)

 イギリスでは、ベンサム(1748~1832)が功利主義を創始しています。
ベンサムは人生の目的を幸福におき、快楽の量が大きい程幸福であると考え、幸福・快楽を道徳的に善と見做し、幸福や快楽をもたらすものを功利と呼んで、個人の幸福と社会全体の幸福の調和が大切であるとして「最大多数の最大幸福」を功利主義の標語としました。

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ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill、1806年5月20日 - 1873年5月8日)

 ジョン・ステュアート・ミル(1806年~73年)は、ベンサムが快楽の量を重視したのに対して、「満足した豚であるよりは、不満足な人間である方がよく、満足した愚か者であるよりは、不満足なソクラテスである方がよい」と述べて、快楽の質を重視し、功利主義を更に発展させました。

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オーギュスト・コント(Isidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年1月19日 - 1857年9月5日)

 フランスのコント(1798年~1857年)は、実際に確かめることの出来る経験的事物のみを学問的知識の源泉とする実証主義を体系化し、又社会活動を支配する法則も科学的に求められるとして社会学を創始します。

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セーレン・オービエ・キェルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard、1813年5月5日 - 1855年11月11日)

 デンマークの思想家キルケゴール(1813年~55年)は、ヘーゲルの観念論哲学を批判し、世界の発展を論じるよりも、今ここに存在している自分が如何に生きるかを追求する方が大切であるとし、神への信仰を通じて人間は絶望から立ち上がることが出来ると説いています。
キルケゴールは、20世紀に盛んとなる実存主義の先駆者とされています。

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レオポルト・フォン・ランケ(Leopold von Ranke, 1795年12月21日 - 1886年5月23日)

 19世紀は「歴史の世紀」と呼ばれ、ナポレオン支配に対して民族意識が高まったドイツが歴史研究の中心となりました。

 19世紀最大の歴史家ランケ(1795年~1886年)は、生涯のほとんどをベルリン大学で過ごしましたが、彼は厳密な史料批判によって史実を確定する客観的な歴史研究の方法を確立し、近代歴史学の祖と呼ばれています。
ランケは、16世紀~17世紀のヨーロッパ各国の歴史を多く著し、又各国史の寄せ集めでない「世界史」を残す事を志ましたが未完に終わっています。

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ヨハン・グスタフ・ドロイゼン(Johann Gustav Bernhard Droysen、1808年7月6日 – 1884年6月19日)

 ドイツの歴史家としては、ランケ以外に、『ヘレニズム史』を書いて、ヘレニズムと云う言葉を初めて使ったドロイゼン(1808年~84年)、『十九世紀ドイツ史』を書いたトライチュケ(1834年~98年)、『ローマ史』で有名なモムゼン(1817年~1903年)等が有名です。

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フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー(François Pierre Guillaume Guizot, 1787年10月4日 - 1874年9月12日)

 フランスでは、七月王政末期の首相で『ヨーロッパ文明史』を書いたギゾー(1787年~1874年)、『フランス革命史』を書いたミシュレ(1798年~1874年)等が現れ、又イギリスでは、ホイッグの立場から『イギリス史』を書いたマコーリー(1800年~59年)や『フランス革命史』で有名なカーライル(1795年~1881年)等が現れました。

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フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー(Friedrich Carl von Savigny, 1779年2月21日 - 1861年10月25日)

 法学では、自然法思想や啓蒙合理主義に対して、一国の法はその国民の固有の文化から生まれた歴史的所産であると考え、法の歴史性や民族性を主張する歴史法学がドイツのサヴィニー(1779年~1861年)によって唱えられました。
 
経済学では、イギリスのマルサスやリカードがアダム・スミスに始まる古典派経済学を継承・発展させました。

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トマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus、1766年2月14日- 1834年12月23日)

 マルサス(1766年~1834年)は古典派経済学を代表する学者であるが、『人口論』の著者としてよく知られています。
彼は、『人口論』(1798年)において「人口は幾何級数的に増加するが、食料は算術級数的にしか増加しない」ので、過剰人口による食料の奪い合いや貧困の増大は不可避であると考え、禁欲による人口増加の抑制が必要であると説きました。

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デヴィッド・リカード(David Ricardo、1772年4月19日 - 1823年9月11日)

 リカード(1772年~1823年)は、労働価値説(商品の価格はその商品の生産に要する労働時間によって決定されるという説)・差額地代説・分配論等を完成し、古典派経済学を大成しました。

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フリードリッヒ・リスト(Friedrich List, 1789年8月6日 - 1846年11月30日)

 ドイツでは歴史学派経済学が生まれました。
歴史学派経済学は経済現象を歴史的に考察しようとするもので、その先駆者となったドイツのフリードリヒ・リスト(1789年~1846年)は、経済発展の遅れた国では国家による保護が必要であるとして、自由貿易政策を批判して保護貿易政策を主張し、ドイツ関税同盟(1834年発足)の結成に努力しました。
先に述べたマルクスは、資本主義を研究・分析し『資本論』(第1巻は1867年刊)を著し、マルクス経済学を樹立します。

ジョークは如何?

コルホーズの議長が、共産主義になったら洋服も手に入るし、食べ物も腹いっぱい食べられるようになる、と言った。
 そのとき1人のお婆さんが立ちあがって、天を仰いで言った
「ああ嬉しい! やっとツアー(皇帝)がいた頃に戻るんだね」

続く・・・

2017/02/07

歴史を歩く142

33 19世紀のヨーロッパ文化②

2美術と音楽

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サン・ベルナールを越えるナポレオン

 絵画では、18世紀末から19世紀初頭にかけて格調高い、均整のとれた古典主義絵画が発達しました。
ナポレオンの首席宮廷画家を務めたダヴィド(1748年~1825年)が代表的な画家で、「ナポレオンの戴冠式」、「サン・ベルナールを越えるナポレオン」等の作品がよく知られており、代表作「泉」で知られるダヴィドの弟子アングル(1780年~1867年)によって古典主義絵画が完成されました。

 19世紀に入ると、古典主義に対する反動として、色彩による強い感情表現を求める情熱的・幻想的なロマン主義絵画が起こります。

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シオの虐殺

 フランス・ロマン主義絵画の指導者ドラクロワ(1798年~1863年)は、ギリシアの独立戦争に題材をとった「シオの虐殺」(1824年)や七月革命の市街戦を描いた「民衆を率いる自由の女神」(1831年)等強烈な色彩と動的な構図で劇的な場面を描きだしています。

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裸のマハ

 スペインの画家ゴヤ(1746年~1828年)は、ロココ式の影響を受けながらも斬新で写実的な表現で「裸のマハ」等の肖像画に傑作を残し、ナポレオンのスペイン侵入に対する抵抗を題材とした「1808年5月3日の処刑」を描いています。

 写実主義や自然主義の流れは絵画にも及び、現実の自然や人間の生活をありのままに描写しようとする写実主義絵画や自然主義絵画が起こりました。

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晩鐘

 自然や農村の風景を多く描いた自然主義絵画ではフランスのコローやミレー等のバルビゾン派が中心となり、コロー(1796年~1875年)はフランス風景画の代表的な画家とされ、ミレー(1814年~75年)は農村の生活に深い共感を抱き、農民生活を題材とした風景画を描き「落穂拾い」・「晩鐘」は特に有名です。

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石割り
第二次世界大戦終盤のドレスデン爆撃により焼失

 フランス写実主義絵画の代表的な画家としてはドーミエ(1808年~79年)、クールベ(1819年~77年)等ですが、代表作「石割り」で知られるクールベはパリ・コミューンの委員にも選出されています。

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笛を吹く少年
 
19世紀後半のフランスで、光と影の色彩を主観的感覚でとらえて表現しようとする印象派が生まれ、マネ、モネ、ドガ、ルノワール等が活躍しました。
「草上の昼食」、「笛を吹く少年」等で知られるマネ(1832年~83)は、外光によって変化する光と色彩の表現を追求し、フランス印象派の創始者とされ、モネ(1840年~1926年)は「色彩は光の変化で変化する」とする理論と実践を展開し、晩年には「睡蓮」を好んで描いています。

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踊り子

 ドガ(1834年~1917年)は、市井の風俗を題材として動作を瞬間的に捉える独特の画風を確立し、「踊り子」等を描き、又ルノワール(1841年~1919年)は情感あふれる色調で裸婦やバラを好んで描き、「色彩の魔術師」と呼ばれました。
19世紀末には、光や色彩上の手法に留まらず、主観的な表現を試みる後期印象派が盛んになり、20世紀の絵画にも影響を及ぼしました。
後期印象派の代表的な画家はセザンヌ、ゴーガン、ゴッホ等です。

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タヒチの女

 フランスのセザンヌ(1839年~1906年)は肖像画、風景画、静物画等に独自の画風を開き、近代絵画に大きな影響を与えました。
又フランスのゴーギャン(1848年~1903年)は単純な形と原色を用いて独自の画風を追求し、原始と熱帯の自然に引かれて1891年以来タヒチ島に移住して「タヒチの女」等を描きました。

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ひまわり

 オランダのゴッホ(1853年~90年)は、パリに出て印象派や日本の浮世絵の影響を受け、強烈な色彩と線を特徴とする独自の画風を築き、代表作には「ひまわり」や「糸杉」等有名です。

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カレーの市民

 彫刻では、「考える人」や「カレーの市民」等で知られるフランスのロダン(1840年~1917年)が鋭い写実で人間の内面性を追求し、近代彫刻を確立しました。

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フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn, 1732年3月31日) - 1809年5月31日)

 音楽では、18世紀末から19世紀初頭にかけて、オーストリアの作曲家で「交響曲の父」と呼ばれるハイドン(1732年~1809年)、オーストリアの作曲家で短い生涯に交響曲、室内楽、歌劇等600以上の作曲をした天才モーツァルト(1756年~91年)、「英雄」、「運命」、「田園」、「合唱」等9つの交響曲をはじめ多くの名曲を残したドイツのベートーベン(1770年~1827年)等によって古典派音楽が完成されました。

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フランツ・ペーター・シューベルト( Franz Peter Schubert, 1797年1月31日 - 1828年11月19日)

 19世紀前半には、個性や感情を表現するロマン派音楽が盛んとなりました。
代表的な作曲家としては、「未完成交響曲」や多くの歌曲を作曲したオーストリアのシューベルト(1797年~1828年)、標題音楽の「幻想交響曲」で有名なフランスのベルリオーズ(1803年~69年)、ドイツの初期ロマン派の作曲家リスト(1811年~86年)、「ピアノの詩人」と呼ばれたポーランドのショパン(1810年~49年)、交響詩を創始し、又近代ピアノ奏法を確立したハンガリーのリスト(1811年~86年)、楽劇の創始者ワーグナー(1813年~83年)等が有名です。

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スティーブン・フォスターの彫像(Carnegie Museum of Natural History)

 19世紀中頃になると、民族的伝統を表現しようとする国民学派が現れ、ロシアではグリンカ(1804年~57年)やムソルグスキー(1839年~81年)が活躍し、アメリカのフォスター(1826年~64年)は親しみやすい素朴な民謡的小歌曲を作曲しました。

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ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Пётр Ильич Чайковскийvsky、1840年5月7日) - 1893年11月6日)

 又ロシアのチャイコフスキー(1840年~93年)は、西ヨーロッパのロマン派の技法やロシア国民学派の影響を受け、スラヴ的色彩の濃い交響曲第6番「悲愴」や序曲「1812年」、「スラヴ行進曲」等多くの名曲を残しています。
19世紀末には、フランスの作曲家ドビュッシー(1862年~1918年)が印象派音楽を創始し、近代音楽に大きな影響を及ぼしました。

ジョークは如何?

中ソの蜜月は終わり、ついに両国は開戦した。
一日目:ソ連軍は100万の人民解放軍を捕虜にした。
二日目:ソ連軍は100万の人民解放軍を捕虜にした。
三日目:ソ連軍は100万の人民解放軍を捕虜にした。

四日目:毛沢東はクレムリンに電話してこう言った。
    「どうだ?そろそろ降参するか?」


続く・・・

2017/02/07

歴史を歩く141

33 19世紀のヨーロッパ文化

1文学

 17世紀のフランスに始まった古典主義は、18世紀中葉から19世紀初頭では、ドイツで盛んとなりました。
ドイツでは、1770年代から、世俗的な道徳や因襲を否定し、個性や感情と自然を尊重する「疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク:Sturm und Drang)」と呼ばれる革新的な文学運動が起こり、若き日のゲーテやシラーが中心となったこの運動は10年程で衰退しましたが、ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』(1774年)やシラーの『群盗』は疾風怒濤期を代表する作品です。

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ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749年8月28日 - 1832年3月22日)

 ゲーテ(1749年~1832年)は、「疾風怒濤」の文学運動の中心人物で、後にシラーと共にドイツ古典主義文学を大成しました。
晩年の作品『ファウスト』はゲーテの古典主義の代表作とされている一方で、ゲーテはヴァイマル(ワイマール)公国の宰相を務める等政治家としても活躍したのでした。

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ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller、1759年11月10日 - 1805年5月9日)

 シラー(1759年~1805年)もゲーテと並んで疾風怒濤期の代表的な作家であり、後にはゲーテと共にドイツ古典主義文学を大成しました。
彼は歴史研究者でもあり、史劇に優れた作品を残します。
『ヴァレンシュタイン』・『オルレアンの少女』・『ヴィルヘルム・テル』等三部作の史劇は、彼の代表的な作品です。
尚、ヴァレンシュタインは三十年戦争で活躍した傭兵隊長、オルレアンの少女とは百年戦争の末期に活躍したフランスの愛国的少女ジャンヌ・ダルクであり、ヴィルヘルム・テルはスイスの独立運動で活躍した伝説的英雄です。

 18世紀末から19世紀前半にかけては古典主義に対抗してロマン主義が現れて盛んとなりました。ロマン主義は、当時盛んであった啓蒙主義の主知主義に反発し、個性や感情を重んじ、歴史や民族文化の伝統を尊び、中世を讃美します。
ドイツのハイネ、イギリスのバイロン、フランスのユーゴ等はロマン主義を代表する詩人、作家です。

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クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine, 1797年12月13日 - 1856年2月17日)

 ハイネ(1797年~1856年)は、ユダヤ系ドイツ人で、ウィーン体制下で自由主義を唱え、七月革命に刺激されてパリに亡命し、マルクス等と交わって社会主義に傾倒し、革命詩人と呼ばれました。

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第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron, 1788年1月22日 - 1824年4月19日)

 バイロン(1788年~1824年)は、『チャイルド・ハロルドの遍歴』で有名となり、後にギリシアの独立戦争に義勇兵として参加するためにギリシアに渡り、客死しています。

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ヴィクトル・マリー・ユーゴー(Victor, Marie Hugo、1802年2月26日 - 1885年5月22日)

 ユーゴー(1802年~85年)は、当初詩人として知られ、後に劇作家・小説家として名声を博しました。
彼は次第に政治に関心を寄せ、二月革命後は共和主義者として議員に選出され、ナポレオン3世が政権を握ると反対の立場をとって国外追放になり、英仏海峡の小島で8年間に及ぶ亡命生活を送り(1852年~70年)、ここで大作『レ・ミゼラブル』(1862年)を完成させました。
ナポレオン3世失脚後はパリに戻って上院議員にも選出されています。

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グリム兄弟、左・ヴィルヘルム、右:ヤーコプ。
ヤーコプ・ルートヴィヒ・カール・グリム(Jacob Ludwig Karl Grimm、1785年1月4日 - 1863年9月20日)
ヴィルヘルム・カール・グリム( Wilhelm Karl Grimm、1786年2月24日 - 1859年12月16日)


 彼等の他にロマン主義を代表する詩人・作家を上げると、ドイツでは初期ロマン派の詩人であるノヴァーリス(1772年~1801年)、ロマン主義運動の理論家シュレーゲル兄弟(兄1767年~1845年、弟1772年~1829年)、『子供と家庭のための童話』(グリム童話集)で有名なグリム兄弟(兄1785年~1863年、弟1786年~1859年)等が居ます。


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ウィリアム・ワーズワース(Sir William Wordsworth, 1770年4月7日 - 1850年4月23日)

 フランスでは、ネッケルの娘で熱烈な自由主義者でナポレオンに追われて各地に亡命したスタール夫人(1766年~1817年)、ナポレオンと復古王政に仕えた政治家でもあるシャトーブリアン(1768年~1848年)等、イギリスでは湖畔の詩人と呼ばれたワーズワース(1770年~1850年)、『湖上の美人』や歴史小説『アイヴァンホー』で有名なスコット(1771年~1832年)等、そしてロシアでは、ロシア国民文学の創始者で『オネーギン』や『大尉の娘』を書いたプーシキン(1799年~1837年)等を上げることが出来ます。

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ナサニエル・ホーソーン(ナザニエル・ホーソーン、Nathaniel Hawthorne 1804年7月4日 – 1864年5月19日)

 アメリカでは、アメリカの知的独立宣言とされる『アメリカの学者』と題する講演を行ったエマーソン(1803年~82年)、ピューリタン文学者で代表作『緋文字』で知られるホーソン(1804年~64年)、詩集『草の葉』でアメリカ民主主義を讃美したホイットマン(1819年~92年)等が活躍しました。

 19世紀後半になると、資本主義が発達し、市民階級の力が大きくなると共に労働者階級の悲惨な生活が社会問題となります。
又科学・技術の急速な発達が文学にも影響を及ぼし、非現実的なロマン主義に対する反動として、社会や人間を客観的にありのままに描こうとする写実主義・自然主義がフランスで芽生えます。

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スタンダール(Stendhal、1783年1月23日 - 1842年3月23日)本名マリ・アンリ・ベール(Marie Henri Beyle)

 フランスの写実主義を代表する作家はスタンダール、バルザック、フロベール等を上げる事ができます。
ナポレオンのロシア遠征にも従軍したスタンダール(1783年~1842年)は『赤と黒』、『パルムの僧院』等によってフランス写実主義の先駆的作家とされています。

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オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac 1799年5月20日 - 1850年8月18日)

バルザック(1799年~1850年)は『人間喜劇』(約90の短編小説の総称)で市民社会と小市民の姿を描きだし、フロベール(1821年~80年)は『ボヴァリー夫人』(1857年)によってフランス写実主義文学を確立しました。
フランスに起こった写実主義は、その後イギリス、ドイツ、ロシアに広まっていきます。

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チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens, 1812年2月7日 - 1870年6月9日)

 イギリスでは、『虚栄の市』で19世紀初頭のイギリス上流・中流社会を描いて諷刺したサッカレー(1811年~63年)、『オリヴァー・トゥイスト』等下層社会に題材をとり下層階級を同情的に描いたディケンズ(1812年~70年)等が代表的な作家です。
尚、ディケンズの『二都物語』はフランス革命を背景にパリとロンドンを舞台とする優れた歴史小説で彼の代表作の一つとされています。

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イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(Ивáн Серге́евич Турге́нев、1818年11月9日 - 1883年9月3日)

 ロシアでは、農奴制下のロシアの頽廃、矛盾、不正を描いたゴーゴリ(1809年~52年)が『死せる魂』等を著して写実主義を確立し、トゥルゲーネフ(1818年~83年)は、『父と子』(1862年)で農奴解放後のロシア社会及び新旧世代の対立とニヒリスト(虚無主義者)を描いています。

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フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(Фёдор Миха́йлович Достое́вский;1821年11月11日 - 1881年2月9日)

 ドストエフスキー(1821年~81年)は、社会主義を研究するサークルに関係してシベリアに流刑となり4年間囚人生活を送りますが、この間にギリシア正教に心の拠り所を求め、その後は革命に反対し、以後、大作『罪と罰』(1866年)・『カラマーゾフの兄弟』(1880年)等で帝政末期のロシア社会の諸相を鋭く浮き彫りにし、人間の魂の苦悩と救済を描いています。

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レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой, 1828年9月9日- 1910年11月20日)

 トルストイ(1828年~1910年)は、古い貴族の家に生まれ、軍隊に入ってクリミア戦争に従軍した経験を持ち、軍務を退いた後は自分の領地で地主として暮らし、農民の教育にも務めました。
ナポレオンのロシア遠征を背景にロシア貴族の生活を描いた歴史小説の『戦争と平和』(1869年)や1860年代のロシア貴族社会を背景に人妻アンナの悲恋を描いた『アンナ・カレーニナ』(1877年)で世界的な名声を博し、晩年には『復活』等、宗教的な人道主義の作品を多く表しています。

 1870年代以後は写実主義を更に強調し、現実を実験科学的に捉えて表現する自然主義が盛んと成っていきました。

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エミール・フランソワ・ゾラ(Émile François Zola、1840年4月2日 - 1902年9月29日)

 フランスの自然主義文学を代表する作家ゾラ(1840年~1902年)は、「科学者が実験室で観察するように冷静に人間及び社会を観察し、遺伝と環境によって形成される人間を描く」事を主張し、『ナナ』、『居酒屋』等でパリの労働者社会の悲惨な生活を描き、又ゾラはドレフュス事件(1894年~99年)で被告のドレフュスの無罪を主張し、「私は弾劾する」の論陣を張っています。

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ギ・ド・モーパッサン(アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant、1850年8月5日 - 1893年7月6日)

 ゾラと並んでフランス自然主義文学を代表するモーパッサン(1850年~93年)は、『女の一生』(1883年)で有名ですが、彼には短編・中編の方が多く、短編小説形式の完成者とされています。

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ヘンリック(ヘンリク)・イプセン(Henrik Johan Ibsen、1828年3月20日 - 1906年5月23日)

 女主人公ノラを中心に女性解放を主題とした戯曲『人形の家』を書いたノルウェーの劇作家イプセン(1828年~1906年)やスウェーデンのストリンドベリ(1849年~1912年)等も自然主義の代表的な作家として知られています。

ジョークは如何?

西側のおとぎ話は「むかし、むかし、あるところに・・・」で始まる

東側のおとぎ話は「やがて、いつかは・・・」で始まる


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ジロくんは2月6日で11歳に成りました。

続く・・・