2017/03/14

歴史を歩く152

35南アジア・東南アジアの植民地化③

3東南アジア諸島部の植民地化

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18世紀のバタヴィア

 オランダは、17世紀以来、ジャワ島のバタヴィアを拠点として香料貿易を独占し、18世紀中頃にはマタラム王国(16世紀末~1755年)を滅ぼしてジャワ島の大部分を領有しました。

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オランダ東インド会社(正式名、連合東インド会社): Vereenigde Oostindische Compagnie、略称VOC

 しかし、18世紀末にオランダ本国がナポレオンに征服されるとオランダ東インド会社は解散され(1799年)、ジャワ島はオランダ本国の直轄領となりました。
ナポレオン戦争中にイギリスはジャワ島を占領しましたが(1811年~14年)、ナポレオンの没落によって再びオランダ領に戻ります(実際の返還は1816年)。

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ジャワ戦争. ディポヌゴロとデ・コックの会談

 復帰後オランダの植民地支配に対してジャワ戦争(1825年~30年)と呼ばれる反乱が起こり鎮圧には成功しますが、オランダはその鎮圧に莫大な出費を強いられ東インド政庁は財政難に陥ちいりました。

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ファン・デン・ボス

 其の為オランダは、経営の危機を乗り切る為にファン・デン・ボス(1780年~1844年、在任1830年~33年)を東インド総督に任命し、彼は東インド政庁の財政難を克服する目的で1830年に強制栽培制度を導入しました。

 強制栽培制度はオランダ領ジャワで行われた経済政策で、ジャワの原住民に作地の5分の1を提供させ、そこでコーヒー・さとうきび・藍等のヨーロッパ向けの商品作物を栽培し、作物を安価に買い上げるやり方で、オランダはこの制度によって莫大な利益を得る事ができました。
この強制栽培制度によってオランダ東インド政庁やオランダ本国の財政難は救われましたが、ジャワの原住民は労働力を奪われ、米不足による米価高騰に悩まされ上、更には飢饉も続発したので強制栽培制度は1870年にコーヒーを除いて廃止されます。

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強制栽培制度

 オランダは19世紀末迄に、現在のインドネシアのほぼ全域に支配を拡大しており、これに対してアチェー王国(16世紀初頭~1904年、スマトラ北西部のイスラム王国)は激しく抵抗し、アチェー戦争(1873年~1904年)が勃発しますが、オランダはこの戦争に勝ってアチェー王国を滅ぼし、領土をオランダ領東インドに編入しました(オランダ領東インドの成立、1904)。

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1684年当時のマニラ

 スペインは、16世紀後半にマニラを建設し、フィリピン経営の根拠地と定め、17世紀前半迄にほぼフィリピン諸島を支配下に治めます。
この間、スペインはイスラム化したミンダナオ島等南部を除くフィリピンの大部分をカトリックに改宗させると共に、中国の絹織物・陶磁器等をメキシコに輸出して新大陸の銀と交換する中継貿易で大きな利益をあげていました。

 18世紀後半頃から、さとうきび・マニラ麻・たばこ等の商品作物の栽培を中心とするフィリピンの経済開発が進められ、それとともに大土地所有制が進展しました。

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19世紀末から20世紀初頭、東南アジアの植民地支配図

 イギリスは、18世紀後半からマライ半島に進出し、1786年にペナン島を占領してイギリス領とし、1824年にはシンガポールとマラッカをイギリス領とします。
シンガポール獲得に大きな役割を果たした人物がラッフルズ(1781年~1826年)で、彼は1819年にマライ半島南端にあるシンガポール島に上陸し、港としての価値に着目し、その地をジョホール王から買収して新しい港の建設に努めました。

 イギリスは1826年にペナン・マラッカ・シンガポールの3地域をまとめて海峡植民地とし、1867年からは直轄植民地とします。
イギリスは海峡植民地の形成以後、錫資源を求めて半島内部にも進出し、1895年に海峡植民地と半島南部を併せてマライ連邦とし、イギリスの保護領(植民地)とします。

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ゴム農園(現在)

 マライ連邦では、20世紀に入るとゴムの栽培が盛んと成りました。
ゴムは19世紀に実用化された電気の絶縁体として、又自動車や航空機のタイヤに利用されるようになって急激に需要が高まっていました。
マライ連邦ではゴムのプランテーション経営が急激に増大し、ゴムの世界的な生産地となっていきます。

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森の中で大きなクマに出会ったら、ロシア人はどうするか?

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続く・・・
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2017/03/14

歴史を歩く151

35南アジア・東南アジアの植民地化②

2インド大反乱とインド帝国の成立

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シパーヒー(セポイ)の反乱

 イギリスによるインド支配が進むにつれて、インドの伝統的な生活が破壊されるなかで、イギリス支配に対するインド人の不満と反感が広い階層に広まりました。
こうした状況を背景として1857年にインド初の民族的大反乱であるシパーヒー(セポイ)の反乱が勃発します。

 シパーヒー(セポイ)とはイギリス東インド会社に雇われたインド人傭兵で、イギリス東インド会社は彼等を低賃金・低待遇で雇い、インド支配の道具としましたが、反乱は兵士だけのものではなかったので、近年はインド大反乱と呼ばれています。

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エンフィールド銃

 1857年はプラッシーの戦いから100周年に当たる年で、宗教的指導者の中にはイギリス滅亡の年であると予言する者もあり、インドは異常な熱気に包まれており、同年5月10日、デリー北方のメーラトのシパーヒー部隊が反乱を起こします。
反乱の発端は、東インド会社が新たに採用したエンフィールド銃で、この銃は弾丸を込める際に上質の紙で出来た弾薬包の端を口でかみ切る必要があったが、その弾薬包には銃身での摩擦を少なくするために牛と豚の油脂が塗られていました。

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シヴァ神と聖牛ナンディ

 牛はヒンドゥー教徒にとっては神聖な動物であり、豚はイスラム教徒にとっては不浄とされた動物で、このためシパーヒーはこの銃の受け取りと使用を拒否したのでした。
このような出来事は既に2月頃から各地の部隊で起きていたので、イギリスは弾薬包を手で破るように改めていたのですが、4月末にメーラトのシパーヒー連隊で90人中85人が弾薬包に手を触れることを拒否し、軍法会議で10年間の強制労働の刑に処せられ、5月9日に85人が投獄された。反乱が起こったのはその翌日でした。

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反乱の発端となった、エンフィールド銃の弾丸込め

 1857年5月10日、メーラトのシパーヒー部隊が蜂起し、兵器庫を襲って武器・弾薬を奪い、民衆と共に教会・兵営・住宅等を襲い、イギリス人を殺害してその財産を奪い、自分達の仲間が拘留されている監獄を襲って抑留者を解放すると共にシパーヒーは、その夜のうちにデリーに向けて進撃します。

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バハードゥル・シャー2世(بہادر شاہ ظفر, Bahadur Shah II, 1775年10月24日 - 1862年11月7日)

 翌日反乱軍がデリーに到着すると、デリーのシパーヒーや市民も反乱に加わり、反乱軍はたちまちこの町を占領すると、ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世(在位1837年~58年)を擁立し、有名無実になっていたムガル皇帝の統治復活を宣言しました。

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反乱軍のシパーヒー

 ムガル皇帝の名でインド各地に反乱を呼びかける檄文が送られると、たちまち各地で反乱が連鎖し、北インド全域に及ぶ大反乱に発展、イギリスのインド支配は崩壊するかに思われました。
この反乱には、イギリス支配に不満を持つ旧支配層や近代的な地租制度によって没落した地主・土地を失った農民・綿織物工業の没落で職を失った職人など広範な階層の人々が加わりますが、反乱軍には統一された組織がなく、まとまった目標も存在しなかった為、イギリスが態勢を立て直し、多くの藩王(地方の王侯)を味方につけて反撃に転じると反乱は個別に撃破され、鎮圧されていきます。

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降伏するバハードゥル・シャー2世

 デリーは、1857年9月に陥落し、ムガル皇帝は捕虜となり、その息子達は処刑され、翌1858年3月にもう一つの反乱の拠点であったラクナウも陥落し、8月にはムガル皇帝は廃位されてビルマに追放され、300年以上続いたムガル帝国(1526年~1858年)は終に滅亡します。

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反乱軍兵士を砲に括り付け、木の弾丸を発射する英軍による見せしめ

 1858年8月、東インド会社はシパーヒーの反乱を招いた責任から解散させられ、11月のヴィクトリア女王宣言によってインドは本国政府の直接統治下に置かれる事と成りました。
デリー、ラクナウ等の拠点を失った後も、インド人は各地でゲリラ戦を展開しましが、1859年4月には頑強に抵抗してきたアウドの反乱軍も鎮圧され、3年に及んだインド大反乱はほぼ完全に鎮圧されます。

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ヴィクトリア女王にインド人の格好をしたベンジャミン・ディズレーリがインド帝冠とイギリス王冠の交換をする風刺画

 イギリスは既に反乱中の1858年にインドを本国政府の直接統治下に置いていましたが、1877年にはインド帝国(1877年~1947年)の成立が宣言され、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる事になります。
インド帝国は直轄領と大小500を越える藩王国(イギリスの支配下で旧地方王侯に内政権を与えて藩王国とした)とから成り、以後イギリスはこれら保守的な藩王国を保護しつつ、巧妙な分割統治によってインドの植民地経営を遂行します。

ジョークは如何?

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続く・・・

2017/03/14

歴史を歩く150

35南アジア・東南アジアの植民地化

1イギリスのインド支配

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プラッシーの戦い・イギリスと内通したジャアファル

 1757年にプラッシーの戦いで、フランス・ベンガル太守連合軍を撃破したイギリス東インド会社軍は、同じ頃南インドでも3回にわたるカーナティック(カルナータカ)戦争(1744年~63年)でもフランスを破って支配領域を広げて行きました。

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初代クライブ男爵ロバート・クライヴ
(Major-General Robert Clive, 1st Baron Clive、1725年9月29日 - 1774年11月22日)


 プラッシーの戦いで活躍したクライブ(1725年~74年)は、翌1758年に初代ベンガル知事となり、イギリスのベンガル支配確立に努め1760年に帰国し、男爵の称号を贈られました。
その後、ムガル皇帝とベンガル太守が反抗すると、イギリスはこれを制圧し(1764年)、翌年クライブを再度ベンガル知事に任命し(在任1765年~67年)、その直後にイギリス東インド会社はムガル皇帝からベンガル・ビハール・オリッサの一部を含む広範な地域の地租徴収権と裁判権を獲得します。

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インド人傭兵(シパーヒー)

 こうしてイギリス東インド会社は、ベンガル地方を中心に広大な会社領を領有し、住民から地租を徴収し、イギリス兵と現地で採用したインド人傭兵(シパーヒー)で編成した軍隊でこれらの地域を支配するようになり、対インド貿易を目的に商業活動を主眼として設立された東インド会社は植民地の統治を兼ねた政治機関に変貌していきました。

 其の為イギリスは1773年にインド統治法を制定し、ベンガル知事に代わってベンガル総督を設置し、ヘースティングズ(1732年~1818年)が初代ベンガル総督に就任しました。

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シュフランと面会するハイダル・アリー

 こうしたイギリス勢力の進出に対して頑強に抵抗したのが、南インドのマイソール王国で、当時のマイソール王国には英主ハイダル・アーリー(在位1761年~82年)とティプ・スルターン(在位1782年~99年)が出て、4回にわたるマイソール戦争(1767年~69年、1780年~84年、1790年~92年、1799年)でイギリスと死闘を繰り広げましたが、イギリスはこれ等の戦いに勝利を納め、南インドを支配下に治めました。

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第2次マラーター戦争、アッサイェの戦い

 又中部インドには好戦的なヒンドゥー系マラータ族の諸侯がマラータ同盟と呼ばれる封建的な連合体を形成して反ムガル・反イギリスの立場をとっていました。
マイソール戦争に連勝し勢いに乗るイギリスは、3回にわたるマラータ戦争(1775年~82年、1802年~05年、1817年~18年)でマラータ同盟を崩壊させ、中部インドを支配下に治めます。

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インドにおけるイギリスの植民地獲得の変遷

 更にイギリスは第1次アフガン戦争(1838年~42年)以来、西北インドに進出を謀り、パンジャーブ地方のシク教徒を2回にわたるシク戦争(1845年~46年、1848年~49年)で破り、西北インドを支配下に治めると共に略インド全域に領土を広げました。

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ザミンダール

 イギリスはインド支配を進める中で財源の確保を図る為に18世紀末から19世紀初頭にかけて新しい地税制度を導入し、ベンガル地方を中心とする北インドではザミンダーリー制と呼ばれる地税制度を実施しました。
ザミンダーリー制は、イギリスがザミンダール(旧来の地主・領主層の呼称)の土地所有権を認め、彼等を地税納入の直接責任者とした制度で、この制度よって農民からの徴税が確実になり、東インド会社の税収は飛躍的に増大しましたが、地主支配が強化され、農民はサミンダールの収奪に苦しめられることになります。

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反乱軍のシパーヒー

 南インドではライヤット(農民の意味)に土地所有権と同時に納税責任を負わせるライヤットワーリー制が実施され、この間、イギリス本国では産業革命が進展して産業資本家が台頭すると、彼等は東インド会社によるインド貿易の独占に強く反対するようになり、1813年に東インド会社の茶以外のインド貿易独占権が廃止されます。

 更に1833年には東インド会社のインドに対する商業活動が全面的に禁止され、東インド会社はインド統治権だけを持つこととなり、完全にインド統治機関と成り、又ベンガル総督はインド総督と改称されました。

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イギリスのインド 貿易概念図

 19世紀に入ると、イギリス製の安価な機械織りの綿布がインドに輸出されるようになり、1820年頃にはインド産の綿織物との地位が逆転しました。
以後イギリス綿織物のインドへの輸出は急激に増加し、19世紀中葉にはインドは、イギリスが輸出する綿織物の4分の1を輸入するようになり、インドの伝統的な手織りの綿布産業は壊滅的な大打撃を受けます。
こうしてこれまではイギリスに綿織物を輸出していたインドが、イギリス製工業製品の販売市場・原料供給地に転落し、綿花・藍・ジュート・茶・アヘン等の輸出作物の栽培を強制されるようになりました。

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イギリス ロンドン東インド会社 本社

 イギリスは、英語教育の実施・イギリス的司法制度の導入・近代的な地租制度の採用・道路網の整備・鉄道の敷設等或る意味ではインドの近代化を進めましたが、これ等は何れもインドの植民地化を進めるための政策でした。

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カースト制度基本構造

 イギリス人はインドを遅れた社会と考え、これ等を文明化することが使命であると考え、カースト制や不可触選民の惨状・幼児婚・寡婦の殉死と再婚禁止の風習・インド女性の地位の低さ等インドの「憂うべき」インド問題を解消する為にはインド人の道徳・習慣・思考法をヨーロッパ流に変えていかなければならないと考えたのです。

 しかし、この為にインドの伝統的な社会慣習や生活基盤が破壊され、インドの自給自足的な村落社会は崩壊し、其の為支配者の地位を追われた王侯貴族から、職を失った手工業者・重税の取り立てに苦しむ農民に至る広い階層に跨るインド人の間にイギリスに対する不満と反感が広まって行きました。

ジョークは如何?

とあるホームパーティの席で。ゲストの毒舌男が料理を批判して「ひどい食い物だ。
これじゃ豚の餌だね」
すかさず女主人が「あら、じゃあもっと貴方にご馳走しなきゃ」


続く・・・