歴史を歩く156
36東アジアの激動③
2アロー戦争とロシア

南京条約によって開港した5港
イギリスは、アヘン戦争後の南京条約による五港の開港・公行の廃止によって、対中国貿易が飛躍的に増大することを期待しましたが、戦後もイギリス製品の輸出は増えず期待したほどの利益はあがりませんでした。
イギリスは、貿易不振の原因が、開港場が南に片寄っていて首都北京の近くに存在せず、又広州では領事の駐在や居留地設置が延期されるなど、中国側に条約違反や不履行が多いことにあると考え、条約の改定や市場の一層の拡大を求めましたが清朝は応じず、そのためイギリスは清朝に再び打撃を与えてより有利な条約を結ぶ機会を窺っていました。

イギリス国旗を降ろす清国官憲
その時偶然アロー号事件が発生します。
1856年10月、イギリス船籍に属し、船長がイギリス人で中国人が所有する小型帆船アロー号が、広州港外に停泊中に海賊容疑で清朝官憲の臨検を受け、中国人乗組員12人が逮捕される事件が発生し、後にこれがアロー号事件呼ばれます。
イギリスは、清朝官憲がイギリス船籍のアロー号に対してイギリス船長不在中に臨検を行い、イギリスに無断で乗組員を逮捕し、しかもその際イギリス国旗が引き下ろされて侮辱されたとして乗組員の釈放と謝罪・賠償を要求しました。
これに対して清朝は、アロー号は中国人所有の船で船長を除いて乗組員全員が中国人であること、アロー号は事実上中国の海賊船であること、又イギリス国旗は掲げられてなかったとしてイギリスの要求を拒絶します。
イギリスは、このアロー号事件を絶好の機会と捉え、広西省で宣教師が殺害され清に抗議していたフランスのナポレオン3世も共同で出兵し、アロー戦争(1856年~60年)を引き起こし、アロー戦争は第2次アヘン戦争とも呼ばれています。

大沽砲台を攻撃するイギリス軍の67歩兵隊
イギリス軍は1856年10月に広州を攻撃しますが、広州の住民の抵抗にあって虎門に退き本国からの援助を待ちます。
イギリスはシパーヒー(セポイ)の反乱のために派兵が遅れ、英仏連合軍が広州の攻撃を開始したのは、ようやく1857年12月になってからの事でした。
英仏連合軍は広州を占領して略奪・暴行の限りを尽くし、翌1858年英仏連合艦隊は北上し、4月には天津に迫ります。

天津条約批准
対外的にはアロー戦争(1856年~60年)、国内では太平天国の乱(1851年~64年)という内憂外患に苦しんでいた清朝はやむを得ず1858年6月に英仏両国と天津条約を結びます。
天津条約の主な内容は、
1) 外国公使の北京駐在
2) キリスト教の布教の自由
3) 漢口など10港の開港
4) 外国人の中国内地での旅行の自由
5) 英仏への計600万両の賠償金の支払い
以上を清が認めるというものであり、天津条約は1年後に批准されることになっていました。
1859年6月、批准書交換のために英仏連合艦隊16隻が天津沖に姿を現し、英仏艦隊は白河を遡って天津へ進もうとしますが、白河河口には障礙物が施されており、障礙物の除去作業を行っているイギリス艦隊が清軍の砲台から攻撃を受け、イギリス艦隊は惨敗して上海へ退きます。

破壊の惨状を今に伝える円明園
この様な事態に対し英仏両国は、大艦隊とともにイギリス軍1万600・フランス軍6300の大軍を派遣し、英仏連合軍は1860年8月に大沽を陥れ、天津を占領しました。
驚いた清朝は大臣を天津に派遣して交渉を始めますが、交渉が決裂すると咸豊帝(在位1850年~60年)は熱河へ逃れ、英仏連合軍は10月に北京を占領し、円明園の略奪・破壊を行います。

在りし日の円明園
円明園は、北京の北西約10kmの所にあった離宮で、イタリア人のカスティリオーネが設計したヴェルサイユ宮殿を模したバロック式の宮殿・庭園もあり、歴代の皇帝のコレクションである金銀財宝・書画骨董や貴重な書物があったが、英仏連合軍は円明園に侵入して略奪・破壊の限りを尽くし、火を放った。そのため美しい円明園は廃墟と化してしまいます。

北京条約主文
清は屈服し、ロシアの調停によって1860年10月に英仏両国との間に北京条約を締結します。
北京条約は天津条約の批准交換と追加条約として締結され、従って天津条約の外国公使の北京駐在・キリスト教の布教の自由・外国人の中国内地での旅行の自由はそのまま認められ、開港場については天津が加えられて11港となった上、香港の対岸の九龍半島南部をイギリスに割譲することが追加され、賠償金も800万両となり、アヘン貿易も公認されました。

ロシアが獲得した沿海州
ロシアはこの北京条約を調停した代償として、イギリス・フランスとは別に清と北京条約を結び、ウスリー江以東の地(沿海州)を獲得します。
この北京条約の結果、清はますます諸外国から政治・経済上の圧迫を受けるようになり、大量の外国商品の流入によって国内の産業や社会は深刻な影響を受けるようになります。
ロシアは、清朝が太平天国の乱やアロー戦争に苦戦している状況に乗じて黒竜江(アムール川)の地と沿海州を奪い中国への進出を図ります。

ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリング(Витус Ионассен Беринг,g, 1681年8月 - 1741年12月19日])
ロシアは、17世紀前半に太平洋岸に達すると南下して黒竜江方面に進出して清と衝突、ネルチンスク条約(1689年)によって一時黒竜江方面から退きますが、その後ピョートル1世(在位1682年~1725年)の命によって始まったベーリング(1681年~1741年)の探検後カムチャッカ半島からベーリング海峡方面、さらにアラスカにも進出し、又エカチェリーナ2世(在位1762年~96年)の使節ラクスマンは根室に来航して(1792年)日本に通商を求めるなど、ロシアは東方への関心を強めて行きました。

ニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵
(Николай Николаевич Муравьёв-Амурский、1809年8月23日 - 1881年11月30日)
ムラヴィヨフ(1809年~81年)は、ニコライ1世によって東シベリア総督に任命されると(1847年)、黒竜江の重要性に着目し、クリミア戦争(1853年~56年)中に黒竜江地域に進出しました。
ムラヴィヨフは、清朝が太平天国の乱(1851年~64年)やアロー戦争(1856年~60年)苦戦している時、1858年にアイグン(愛琿)条約を結んで黒竜江(アムール川)以北の地の領有と黒竜江とその支流である松花江の航行権などを認めさせています。

アイグン(愛琿)条約によってロシアが清国より獲得した地域
更に1860年には清と英仏間のアロー戦争の講和を仲介した代償として、英仏とは別に北京条約を結んでウスリー江以東の地(沿海州)を獲得し、ウラジヴォストーク(東方を支配せよの意味)の軍港を建設し、以後アジア・太平洋進出の拠点とし、19世紀に入るとインドへの通商路・綿花の生産地・豊富な金の産地であった中央アジアに着目し、進出を図る様になります。

19世紀初頭のウズベグ3ハン国
当時、中央アジアにはティムール帝国を滅ぼしたウズベク族が建てたブハラ(ボハラ)・ハン国(1505年~1920年)・ヒヴァ・ハン国(1512年~1920年)・コーカンド・ハン国(1710年~1876年)の3ハン国が分立していましたが、ロシアの前に相次いで屈服し、ブハラ・ハン国は1868年に、ヒヴァ・ハン国は1873年にロシアの保護国となり、コーカンド・ハン国は1876年にロシアに併合されます。
1862年に新疆でイスラム教徒(ウイグル人)の反乱が起こると、ロシアは反乱に乗じて中央アジアのイリ地方に出兵・占領し(イリ事件、1871年~81年)、反乱は清軍によって1877年に鎮圧されましたが、ロシアはイリ地方から撤収せず、清はイリ地方の返還を求め、翌年からロシアと清との間で交渉が続き、1881年にイリ条約が結ばれ、ロシアは占領したイリ地方の東部を返還するに留まり、清はロシアに賠償金を支払い、その上イリ以西の広大な領土を失いました。
ジョークは如何?
「ソ連共産党が70年かけてできなかったのに、エリツィン
が7年でなしとげた事はなにか?」
「社会主義のすばらしさを国民に認識させたこと」
続く・・・
2アロー戦争とロシア

南京条約によって開港した5港
イギリスは、アヘン戦争後の南京条約による五港の開港・公行の廃止によって、対中国貿易が飛躍的に増大することを期待しましたが、戦後もイギリス製品の輸出は増えず期待したほどの利益はあがりませんでした。
イギリスは、貿易不振の原因が、開港場が南に片寄っていて首都北京の近くに存在せず、又広州では領事の駐在や居留地設置が延期されるなど、中国側に条約違反や不履行が多いことにあると考え、条約の改定や市場の一層の拡大を求めましたが清朝は応じず、そのためイギリスは清朝に再び打撃を与えてより有利な条約を結ぶ機会を窺っていました。

イギリス国旗を降ろす清国官憲
その時偶然アロー号事件が発生します。
1856年10月、イギリス船籍に属し、船長がイギリス人で中国人が所有する小型帆船アロー号が、広州港外に停泊中に海賊容疑で清朝官憲の臨検を受け、中国人乗組員12人が逮捕される事件が発生し、後にこれがアロー号事件呼ばれます。
イギリスは、清朝官憲がイギリス船籍のアロー号に対してイギリス船長不在中に臨検を行い、イギリスに無断で乗組員を逮捕し、しかもその際イギリス国旗が引き下ろされて侮辱されたとして乗組員の釈放と謝罪・賠償を要求しました。
これに対して清朝は、アロー号は中国人所有の船で船長を除いて乗組員全員が中国人であること、アロー号は事実上中国の海賊船であること、又イギリス国旗は掲げられてなかったとしてイギリスの要求を拒絶します。
イギリスは、このアロー号事件を絶好の機会と捉え、広西省で宣教師が殺害され清に抗議していたフランスのナポレオン3世も共同で出兵し、アロー戦争(1856年~60年)を引き起こし、アロー戦争は第2次アヘン戦争とも呼ばれています。

大沽砲台を攻撃するイギリス軍の67歩兵隊
イギリス軍は1856年10月に広州を攻撃しますが、広州の住民の抵抗にあって虎門に退き本国からの援助を待ちます。
イギリスはシパーヒー(セポイ)の反乱のために派兵が遅れ、英仏連合軍が広州の攻撃を開始したのは、ようやく1857年12月になってからの事でした。
英仏連合軍は広州を占領して略奪・暴行の限りを尽くし、翌1858年英仏連合艦隊は北上し、4月には天津に迫ります。

天津条約批准
対外的にはアロー戦争(1856年~60年)、国内では太平天国の乱(1851年~64年)という内憂外患に苦しんでいた清朝はやむを得ず1858年6月に英仏両国と天津条約を結びます。
天津条約の主な内容は、
1) 外国公使の北京駐在
2) キリスト教の布教の自由
3) 漢口など10港の開港
4) 外国人の中国内地での旅行の自由
5) 英仏への計600万両の賠償金の支払い
以上を清が認めるというものであり、天津条約は1年後に批准されることになっていました。
1859年6月、批准書交換のために英仏連合艦隊16隻が天津沖に姿を現し、英仏艦隊は白河を遡って天津へ進もうとしますが、白河河口には障礙物が施されており、障礙物の除去作業を行っているイギリス艦隊が清軍の砲台から攻撃を受け、イギリス艦隊は惨敗して上海へ退きます。

破壊の惨状を今に伝える円明園
この様な事態に対し英仏両国は、大艦隊とともにイギリス軍1万600・フランス軍6300の大軍を派遣し、英仏連合軍は1860年8月に大沽を陥れ、天津を占領しました。
驚いた清朝は大臣を天津に派遣して交渉を始めますが、交渉が決裂すると咸豊帝(在位1850年~60年)は熱河へ逃れ、英仏連合軍は10月に北京を占領し、円明園の略奪・破壊を行います。

在りし日の円明園
円明園は、北京の北西約10kmの所にあった離宮で、イタリア人のカスティリオーネが設計したヴェルサイユ宮殿を模したバロック式の宮殿・庭園もあり、歴代の皇帝のコレクションである金銀財宝・書画骨董や貴重な書物があったが、英仏連合軍は円明園に侵入して略奪・破壊の限りを尽くし、火を放った。そのため美しい円明園は廃墟と化してしまいます。

北京条約主文
清は屈服し、ロシアの調停によって1860年10月に英仏両国との間に北京条約を締結します。
北京条約は天津条約の批准交換と追加条約として締結され、従って天津条約の外国公使の北京駐在・キリスト教の布教の自由・外国人の中国内地での旅行の自由はそのまま認められ、開港場については天津が加えられて11港となった上、香港の対岸の九龍半島南部をイギリスに割譲することが追加され、賠償金も800万両となり、アヘン貿易も公認されました。

ロシアが獲得した沿海州
ロシアはこの北京条約を調停した代償として、イギリス・フランスとは別に清と北京条約を結び、ウスリー江以東の地(沿海州)を獲得します。
この北京条約の結果、清はますます諸外国から政治・経済上の圧迫を受けるようになり、大量の外国商品の流入によって国内の産業や社会は深刻な影響を受けるようになります。
ロシアは、清朝が太平天国の乱やアロー戦争に苦戦している状況に乗じて黒竜江(アムール川)の地と沿海州を奪い中国への進出を図ります。

ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリング(Витус Ионассен Беринг,g, 1681年8月 - 1741年12月19日])
ロシアは、17世紀前半に太平洋岸に達すると南下して黒竜江方面に進出して清と衝突、ネルチンスク条約(1689年)によって一時黒竜江方面から退きますが、その後ピョートル1世(在位1682年~1725年)の命によって始まったベーリング(1681年~1741年)の探検後カムチャッカ半島からベーリング海峡方面、さらにアラスカにも進出し、又エカチェリーナ2世(在位1762年~96年)の使節ラクスマンは根室に来航して(1792年)日本に通商を求めるなど、ロシアは東方への関心を強めて行きました。

ニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵
(Николай Николаевич Муравьёв-Амурский、1809年8月23日 - 1881年11月30日)
ムラヴィヨフ(1809年~81年)は、ニコライ1世によって東シベリア総督に任命されると(1847年)、黒竜江の重要性に着目し、クリミア戦争(1853年~56年)中に黒竜江地域に進出しました。
ムラヴィヨフは、清朝が太平天国の乱(1851年~64年)やアロー戦争(1856年~60年)苦戦している時、1858年にアイグン(愛琿)条約を結んで黒竜江(アムール川)以北の地の領有と黒竜江とその支流である松花江の航行権などを認めさせています。

アイグン(愛琿)条約によってロシアが清国より獲得した地域
更に1860年には清と英仏間のアロー戦争の講和を仲介した代償として、英仏とは別に北京条約を結んでウスリー江以東の地(沿海州)を獲得し、ウラジヴォストーク(東方を支配せよの意味)の軍港を建設し、以後アジア・太平洋進出の拠点とし、19世紀に入るとインドへの通商路・綿花の生産地・豊富な金の産地であった中央アジアに着目し、進出を図る様になります。

19世紀初頭のウズベグ3ハン国
当時、中央アジアにはティムール帝国を滅ぼしたウズベク族が建てたブハラ(ボハラ)・ハン国(1505年~1920年)・ヒヴァ・ハン国(1512年~1920年)・コーカンド・ハン国(1710年~1876年)の3ハン国が分立していましたが、ロシアの前に相次いで屈服し、ブハラ・ハン国は1868年に、ヒヴァ・ハン国は1873年にロシアの保護国となり、コーカンド・ハン国は1876年にロシアに併合されます。
1862年に新疆でイスラム教徒(ウイグル人)の反乱が起こると、ロシアは反乱に乗じて中央アジアのイリ地方に出兵・占領し(イリ事件、1871年~81年)、反乱は清軍によって1877年に鎮圧されましたが、ロシアはイリ地方から撤収せず、清はイリ地方の返還を求め、翌年からロシアと清との間で交渉が続き、1881年にイリ条約が結ばれ、ロシアは占領したイリ地方の東部を返還するに留まり、清はロシアに賠償金を支払い、その上イリ以西の広大な領土を失いました。
ジョークは如何?
「ソ連共産党が70年かけてできなかったのに、エリツィン
が7年でなしとげた事はなにか?」
「社会主義のすばらしさを国民に認識させたこと」
続く・・・
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