2017/05/17

歴史を歩く160

36東アジアの激動⑥

7日清戦争

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崔済愚(1824年~64年)

 朝鮮には、18世紀後半に中国からキリスト教が伝わり、天主教と呼ばれました。
李朝は天主教を禁止して弾圧を加えますが、社会不安を背景に天主教信者は次第に増加して行きます。
19世紀後半にキリスト教(天主教)に対抗する新しい宗教である東学が創始され、没落両班出身の崔済愚(1824年~64年)は、在来の民間信仰を基に東洋的な儒教・仏教・道教を融合して東学を創始しました(1860年頃)。
東学は西学に対する意味で、西学とはキリスト教・天主教を意味し、彼は欧米の侵略に対抗する「保国」と封建的な収奪に反対する「安民」を唱えました。

 この東学は、欧米諸国・日本の侵略と李朝の圧制下の社会不安の中で動揺する民衆の間に急速に広まって社会問題化した為、政府は民を惑わす者として崔済愚を処刑しますが、東学は崔済愚の処刑後も民衆の間に広まり、彼等は全琫準に率いられて全羅道を中心に決起しました。

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甲午農民戦争・群衆を前にした全琫準

 1894年2月、かねてから農民を搾取して悪名高かった郡守が水利税を滞納した貧農を極刑に処し、この出来事を発端にこの郡守の悪業に耐えかねた農民達が全琫準に率いられて郡庁を襲ってこれを占拠し、甲午農民戦争(東学党の乱、1894年)が始まりました。

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甲午農民戦争の始まりとともに広まった全琫準の檄文

 全琫準の檄文に応じて各地で悪政に苦しむ農民達が蜂起し、その中心となったのは東学信徒でした。農民軍は5月末に全州を占領し、更に漢城(ソウル)へ向かって進撃を試みますが、当時の李朝はこれを鎮圧する力は無く、清国軍の出兵を要請する一方で、全琫準が提訴していた改革案を全面的に受け入れて全州和約(不正官吏・不正両班の懲罰、奴婢文書の焼却、賎民がかぶる笠を外す事等が約束された)を結びます(1894年6月)。

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全琫準1854年 - 1895年4月24日

 全琫準は、全州和約が結ばれると農民軍に解散を命じ、彼はこのことによって外国の軍隊が朝鮮に出兵して来る口実を除去しようと考えたのですが、全州和約が結ばれる迄に、既に清と日本は朝鮮に出兵しており、清朝は朝鮮から出兵を要請されると直ちにこれに応じ、天津条約(1885年)に従って朝鮮出兵を日本に通告し、朝鮮に出兵して牙山に上陸しました。
日本もこれに対抗して、清国から出兵の通告があった翌日に清国に出兵を通告して出兵し、漢城(ソウル)に兵を入城させます。

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景福宮

 清国は、日本軍との衝突を避けるために両国軍の即時撤兵を提案しましたが、日本は清国に朝鮮内政の共同改革を提案し、これが拒否されると、単独で朝鮮に内政改革案を突きつけ、期限迄に回答が無かった為、王宮(景福宮)を占領し、朝鮮に清国との宗属関係を破棄させ、清国軍の撤退を日本に一任させます(1894年7月23日)。

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豊島沖の海戦・日本海軍『浪速』の砲火により擊沈される清国海軍輸送船『高陞』

 その2日後、日本軍艦3隻は仁川西方の豊島沖の海戦で清国軍艦2隻を撃破し(7月25日)、又牙山の清国軍を潰走させて牙山を占領しました(7月29日)。
1894年8月1日、日清両国は宣戦を布告し、日清戦争(1894年8月~95年4月)が始まりました。
日本軍は、9月には平壌の戦いで清国陸軍を撃破し、退却する清国軍を追って更に北進、同月黄海海戦で清の北洋艦隊(李鴻章が創設した新式海軍)を撃破しました。


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黄海海戦

 北洋艦隊は当時としては、大型鋼製艦の定遠・鎮遠以下14隻、これに対して日本艦隊は12隻でしたが、日本艦隊は速力に優れ、重砲の数は清より少ないものの速射砲の数は圧倒的に多く、総合戦力では北洋艦隊を上回り、戦闘訓練の面でも勝っていました。
黄海海戦は5時間にわたって続き、日本艦隊の勝利に終わり、北洋艦隊は3隻が撃沈され、2隻が大破、これに対して日本艦隊は1隻の損耗も発生していません。

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北洋水師の要港であった威海衛湾

 平壌の戦いで勝利を治めた日本軍は、鴨緑江を渡って清国領内に入り、11月には遼東半島南部の旅順を陥落させ、翌年2月、日本海軍は北洋艦隊の根拠地である威海衛を占領し、北洋艦隊は降伏します。
1895年3月、下関で講和会議が始まり、日本全権の伊藤博文・陸奥宗光、清国全権の李鴻章との間で下関条約が結ばれ、この下関条約によって、清は朝鮮の独立、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金2億両の支払い、日本の通商上の特権等を認めました。

 この間、全琫準は、1894年10月に再び蜂起します。
一時は10万以上の農民が全琫準の基に終結しますが、近代兵器を持つ朝鮮軍と日本軍が出動すると、農民軍は各地で敗走を重ね、全琫準も密告によって捕らえられ(1894年11月)、翌年ソウルで処刑されています。

ジョークは如何?

戦後まもなく、日本政府は食糧難によって
数百万人の餓死者が出るという統計を元に
アメリカに莫大な食糧援助を求めたが、
その何分の一かの輸入で別段死人も出なかった。

そのことをマッカーサーが詰問した。

マッカーサー「でたらめな数字を出すな!」

吉田茂「うちの統計がそんなに立派なら、戦争には負けてませんよ。」

続く・・・

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2017/05/17

歴史を歩く159

36東アジアの激動⑥

5日本の変革

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マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794年4月10日 – 1858年3月4日)

 1853年7月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリー(1794年~1858年)が4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本に開国を迫りました。

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黒船来航

 江戸幕府は、開国か攘夷かをめぐる激しい対立の中で、翌1854年に日米和親条約を結び、下田・箱館2港の開港や最恵国待遇の供与等を認め、 更に1858年の日米修好通商条約では箱館の他に神奈川・兵庫・新潟・長崎の開港、領事裁判権の承認、自由貿易の原則の確立、関税自主権の放棄等を認めた不平等条約に調印し、又オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の修好通商条約を結んで開国を断行します。

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大政奉還

 これに対して尊皇攘夷運動や討幕運動がおこるなかで大政奉還が行われ、1868年の明治維新となり、天皇中心の明治新政府が樹立されます。
明治政府は政治・経済・軍事・教育等あらゆる分野の改革を実施して富国強兵を図り、西欧化による近代化を進め、対外的には欧米列強に対しては和親策を取ますが、近隣のアジア諸国に対しては強硬な態度を見せています。

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江華島事件

 1874年には、琉球の漁民が台湾に漂着し、台湾の原住民に殺されたことを口実に台湾に出兵し、1879年には沖縄県を設置して琉球を併合、翌1875年には江華島事件を機に朝鮮に迫って日朝修好条規を結んで朝鮮を開国させました。

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大日本帝国憲法発布

 又北方ではロシアとの間に1875年に樺太・千島交換条約を結び、全樺太をロシア領・千島全島を日本領とします。

 この間、国内では自由民権運動が起こるとこれを抑える一方で、1881年の国会開設の詔によって1890年迄に国会を開設することを約束し、 1889年にドイツ帝国憲法を手本にした大日本帝国憲法を発布し、翌1890年に国会を開設しました。

6朝鮮の開国

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 李氏朝鮮(1392年~1910年)は、16世紀末に豊臣秀吉の侵入(壬辰・丁酉の倭乱)によって国土が荒廃し、更に17世紀前半には清の侵入を受けてその属国と成りました(1637年)。
この間、党争は更に激化しましたが、18世紀の英祖(在位1724年~76年)・正祖(在位1777年~1800年)は党争を抑えることに努めた結果、党争は下火になりました。

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洪景来の乱

 しかし、19世紀に入ると純祖・憲宗・哲宗(在位1849~63年)と年少の王が続き、実際の政治は外戚によって行われ、いわゆる勢道政治です。
こうした状況の中で没落官人の洪景来(1784年)は、政権から閉め出されて不満を持つ下級官僚と結び、窮乏した農民・流民・都市の貧民等を指導して反乱を起こします(洪景来の乱、1811年~12年)。農民軍が敗れる中で洪景来は戦死し、反乱は半年で鎮圧されましたが、李朝の官僚支配体制をゆるがす反乱となりました。

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興宣大院君(1820年12月21日(時憲暦嘉慶25年11月16日) - 1898年2月22日(時憲暦光武2年2月2日)

 1863年、哲宗が急死し、彼には嗣子が居なかった為、王族の中から12歳の少年が選ばれて李朝第26代高宗(在位1863年~1907年)として即位し、実父の大院君(1820年~98年)が摂政となって以後10年間にわたって実権を握ります。
大院君は内政改革を推し進めると共に、キリスト教を弾圧し、フランス・アメリカの艦隊を撃退し、又明治政府からの国書の受け取りを拒否する等鎖国攘夷策を推進しました。

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閔妃(1851年10月19日 - 1895年10月8日)

 しかし、大院君は1773年に、権力欲が強く野心家であった閔妃(びんひ、高宗の妃、1851年~95年)とその一族によって国王親政の名目で引退させられ、以後閔妃自等が実権を握り、一族と共に政治を専断しました。Unyogunboat.jpg
雲揚 (砲艦)

 こうした状況の中で、1875年9月に江華島事件が起こります。
明治政府は、朝鮮の内紛に乗じて武力による威嚇をもって朝鮮に開国を迫ることを決定し、軍艦雲揚を釜山に派遣して示威を行わせます(1875年5月)。
1875年9月には再び軍艦雲揚を派遣し、雲揚は朝鮮西海岸を北上して江華島に達し、雲揚から降ろされたボートが江華島に接近したときに江華島の砲台から砲撃を受け、これに雲揚が応戦して江華島の砲台を破壊し、水兵を上陸させて民家や官衙を焼き払い、朝鮮兵30数名を戦死させました。
これが江華島事件です。

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日朝修好条規(江華条約)調印

 雲揚が朝鮮の許可なく領海を侵犯し、江華島の砲台を挑発して発砲させたことは明らかでしたが、明治政府は江華島事件を口実として朝鮮を武力で脅し、1876年2月に日朝修好条規(江華条約)を締結しました。
その主な内容は、朝鮮の自主独立、釜山・仁川・元山の開港、日本公使館・領事館の設置、日本人の領事裁判権を認める事等です。

 日本は欧米列強から押しつけられた不平等条約を朝鮮に強制し、朝鮮を開国させ、第1条に「朝鮮は自主の邦にして日本国と同等の権を保有せり」とありますが、この条文は朝鮮が清国の属国でないことを明らかにし、清国との宗属関係を否定し、将来日本が朝鮮を属邦とするための布石でした。

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守旧派と開化派

 この時期の朝鮮では、守旧派と開化派との対立が強まっており、閔氏一族は当初開化的立場を取、軍制改革に着手し、日本から軍事顧問を招いて両班の子弟を中心に近代的な軍隊を創設、日本式の訓練を行いました。
これに対して旧軍隊の間には新式軍隊との差別待遇に対する反発が強まりました。

 当時、財政難に陥っていた李朝では軍隊への給与(米で支給)が遅配しており、やっと支給された1ヶ月分の米に砂やぬかが混じっていた事を発端に旧軍隊兵士の不満が爆発しました(1882年7月)。
この旧軍隊の暴動は、武器庫を襲って武装した旧軍隊の兵士に一般の貧民も加わり、大院君の煽動も加わって政府及び日本人に対する暴動に発展しました。
彼等は閔氏派要人や日本人を殺害し、日本大使館を焼き打ちし、大院君を擁立し、大院君は再び摂政の座について政権を掌握します。

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壬午政変(壬午軍乱)日本公使館襲撃

 日本と清国は直ちに出兵し、特に大軍を送り込んだ清軍は大院君を捕らえて保定(北京南西の都市)へ送って監禁し、閔氏政権が復活しました。
これが壬午政変(壬午軍乱)で、この壬午政変によって清の朝鮮支配が強化され、日本勢力は朝鮮から後退せざるを得ませんでした。

 壬午政変後、閔氏は清国に依存して政権の維持を図り、この閔氏を中心とする守旧派は事大党と呼ばれて、これに対して日本は金玉均等の独立党(開化派)との結びつきを強めて行きました。

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金 玉均(김옥균、1851年2月23日 - 1894年3月28日)
 
 金玉均(1851年~94年)は、科挙試験文科に主席合格して官界に入り(1872年)、1881年には日本使節団に加わり、又翌1882年には壬午政変の謝罪の為に派遣された修信使節団員として来日しました。
彼は日本の目覚しい近代化・発展に強い刺激を受け、日本と結んで朝鮮の近代化と国政改革を図る事を考え、朴泳孝(1861年~1939年)等同士と共に独立党(開化派)を組織しました。

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甲申政変

 しかし、独立党は、壬午政変後清国と結んだ閔氏一族の事大党政権の圧迫を受けて次第に劣勢に陥り、金玉均はクーデターによる政権奪取を決意し、清仏戦争での清の敗戦に乗じて日本の武力を借りてクーデターを起こし、事大党政権を倒して政権を奪取します。
それもつかの間、独立党の新政権は清軍の介入によって僅か3日で転覆し、金玉均は朴泳孝らとともに日本に亡命します。
これが甲申政変(甲申事変、1884年12月)です。

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洪鐘宇に殺害される金玉均

 日本に亡命した金玉均は日本政府によって小笠原・北海道へ移送され、最後は刺客に上海に誘い出されて暗殺されました。
1885年4月、甲申事変の処理に関する天津条約(日清天津条約)が結ばれ、日清両国は即時漢城(ソウル)から撤兵すること、将来朝鮮に出兵する場合は相互に通告すること等を約束しました。

ジョークは如何?

金正男が日本で捕まった。報告をうけて、金正日は言った。
「どの正男だ?」

※補足
影武者が多い

続く・・・

2017/05/07

歴史を歩く158

36東アジアの激動⑤

4洋務運動の進展

 アヘン戦争・アロー戦争・太平天国の乱等によって西洋の軍事技術が優れている事を認めた清朝は、1860年頃から西洋の軍事技術等の導入による富国強兵運動を進め、これを洋務運動と呼びます。

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天津フランス領事館


 北京条約(1860年)によって外国公使が北京に駐在することになり、清朝は1861年に総理各国事務衙門(総理衙門、そうりがもん)を設けて外交事務の処理機関とすると共に、ヨーロッパ文化の摂取に努めました。
洋務運動を推進したのは、太平天国の鎮圧に活躍した曾国藩・李鴻章・左宗棠等の漢人官僚でした。

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曽 国藩(嘉慶16年10月11日(1811年11月26日) - 同治11年2月4日(1872年3月12日))

 曾国藩(1811年~72年)は、郷里である湖南省で湘軍を組織して太平天国鎮圧の中心となり、天京(南京)を攻略して太平天国を滅ぼし、その功によって両江総督・直隷(河北省の旧名)総督・内閣大学士を歴任し、文官出身の漢人としては初めて侯爵を授けられ、直隷総督に任じられました。
彼は漢人官僚台頭の先駆けとなり、洋務運動の中心人物として活躍しました。

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李 鴻章(道光3年1月5日(1823年2月15日) - 光緒27年9月27日(1901年11月7日))

 李鴻章(1823年~1901年)は安徽省出身、進士に合格しますが(1847年)太平天国の乱が起こると郷里で義勇軍を組織して戦い、曾国藩の幕僚となり(1858年)、後に彼の推薦で江蘇巡撫となり、淮軍を組織して(1862年)太平天国討伐に活躍し、以後両江総督・直隷総督・内閣大学士を努め、清末の最高実力者として内政・外交に活躍しました。
この間、洋務運動の中心人物として軍隊の近代化・軍事工業の育成・近代工業の育成・鉱山の開発・鉄道建設等の富国強兵策を推進しました。

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左宗棠

 左宗棠(さそうとう、1812年~85年)は湖南省出身、科挙の最終試験(殿試)に3度失敗して帰郷し、太平天国軍が湖南に入ると曾国藩の軍に加わって討伐に従事し、軍功をあげて総督となり、福州に造船所を建設して軍隊の近代化に努める等洋務運動を推進しました。

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同治帝(清第10代皇帝(在位:1861年 - 1875年))

 当時の同治帝(在位1861年~75年)の治世は、太平天国の乱が鎮圧され、清朝の内政・外交が一時的に安定を取り戻した時期であったので「同治の中興」と呼ばれ、洋務運動が推進された時期でもありました。

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洋務運動によって編成された西洋式軍隊


 洋務運動の推進者達は「中体西用」をスローガンとしました。
中体西用とは、中国の伝統や学問を本体とし、西洋の科学や技術を応用するという意味で、この様に洋務運動の推進者達は、中国は軍事技術等の面では劣っているが、政治や社会体制の面では中国の方が優れていると考えており、彼等が推進した洋務運動の目的は清朝の支配体制の維持・強化にあったので、ヨーロッパ文化の摂取は単なる技術の導入に偏り、政治体制の変革には至らず、真の富国強兵を達成することが出来なかったのです。

 洋務運動とほぼ同じ頃に行われた日本の明治維新は、徹底した西欧化による近代化を推し進めたので、その差が以後の日本と中国の明暗を分けたと云われており、不徹底に終わった洋務運動の欠陥が清仏戦争(1884年~85年)や日清戦争(1894年~95年)の敗戦によって明らかになると、清朝でも日清戦争の敗北後政治体制の変革をめざす変法運動が起こる事になります。

ジョークは如何?

ある男が赤の広場で、「スターリンの大馬鹿野郎!」と叫んでいた。
さっそく秘密警察に逮捕され、強制収容所送りになる。刑期は二十五年。
その内訳は…国家元首侮辱罪で五年。国家機密漏洩罪で二十年。

続く・・・




2017/05/07

歴史を歩く157

36東アジアの激動④

3太平天国の興亡

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太平天国の乱100週年切手・中華人民共和国郵政

 清がアヘン戦争(1840年~42年)・アロー戦争(1856年~60年)の対外的な問題に直面している時期、国内では太平天国の乱(1851年~64年)が発生します。

 アヘン戦争による多額の戦費と賠償金の支払いは、銀価の高騰をまねき、又重税となって農民の生活を圧迫し、その上水害・干害・蝗害等の天災が相次ぎ、多くの窮乏化した農民は流民となり、全国に貧民・流民・失業者があふれ、各地で暴動や反乱が相次ぎますが、アヘン戦争の影響が大きかった広東・広西省では太平天国の乱(1851年~64年)が勃発します。

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洪秀全

 太平天国の指導者洪秀全(1813年~64年)は、広東省花県の客家出身でした。
客家(ハッカ)とは部外者の意味で、広東・広西・江西・福建等の山間僻地に住んだ移住民を指す言葉です。
彼等は、外部から移住してきた人達で、元から住んでいた住民から差別され、多くは小作・炭焼き・木こり・鉱山労働・運輸労働等に従事していました。

 洪秀全の家は中農で、彼は幼少の頃から聡明で、7歳頃から塾で学び、村の塾の教師となって科挙の受験勉強に励みますが、30歳過ぎ迄に地方試験を4回挑戦しますがいずれも失敗しています。
洪秀全は3回目の試験に失敗した時に心痛の余り高熱を発し、40日間寝込むのですが、その時病床で夢を見ました。
その夢の中に一人の老人が現れ、彼に一振りの剣を与えて「悪魔を根滅せよ」と命じ、この夢を見たあと病気は治り、再び受験勉強に励み4回目の受験をしてまた落第します。

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勧世良言

 失意の中、彼は偶然に2回目の受験の時に広州の路上でもらった「勧世良言」と云うパンフレットを読み、そこに書かれている内容が病床で見た夢とよく似ていることに驚き、その本を何度も読み返しました。
「勧世良言」はプロテスタントの伝道書でした。

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太平天国における礼拝

 洪秀全は、夢の中に現れた老人はヤハウェ(エホバ)であり、ヤハウェはこの世で苦しむ人を救う為に自分を遣わしたと信ずるようになり、自分はヤハウェの子であり、イエス・キリストの弟であると称し、そして同郷の馮雲山等と上帝会(拝上帝会)と名づけたキリスト教的結社を組織して布教を始めます(1844年以降)。
ここで上帝とはヤハウェを意味しています。

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太平天国の伝道教育

 洪秀全等は、上帝を信仰すれば地上の天国で生き、死ねば天国へ昇ることができると説き、地上の天国は、総ての者が均等に分け与えられるので貧富の差のない世であると説いて、太平天国と呼んだのでした。
上帝会は、広西省を中心に布教し、貧農や鉱山労働者・炭焼き人夫等貧しい人々(多くは客家であった)の間に多くの信者を獲得し、この間、後の太平天国の幹部となる楊秀清(炭焼き)・蕭朝貴(貧農)・韋昌輝(地主)・石達開(地主)等が上帝会に入会していますが、彼等も客家出身でした。

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上帝会信徒が集合した金田村

 洪秀全は、上帝会信徒に広西省金田村に集合するようにという指令を発し(1850年7月頃)、約1万人が金田村に集まりました。
1851年1月、洪秀全は広西省金田村で太平天国の起義を宣言し、国号を太平天国と号し、彼自身は天王と称しました。
太平天国軍は、北に向かって進撃し、永安・桂林・全州を経て湖南省の長沙を包囲したが陥れることが出来ず囲みを解いて北に向かい、益陽で民船千数百艘を得て、その後水路を進み、岳州で多量の武器弾薬を手に入れ、1853年1月にはついに武昌を占領します。

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金田起義

 太平天国軍が湖南省へ進出した頃から貧農や流民が大挙参加し、太平天国軍の兵力は急激に膨張して約50万の大軍となり、太平天国軍は水陸両軍に分かれて長江を下り、1853年3月には終に南京を占領し、天京と改称して都と定めます。

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南京に入城する太平軍

 太平天国軍の最盛期(1854年~55年頃)の兵力は約300万(老弱男女すべてを含めた数)と云われており、太平天国軍がこのように急激に増加した最大の理由は「太平天国に行けば食える」と云う事が最大の理由で、太平天国内では総ての者が均等に分け与えられたと云う事も多くの人々を引きつけた大きな理由でした。

 太平天国が挙兵から2年余りで南京を攻略できたのは、「軍隊よりは盗賊の方がまし」と云われた様に清の正規軍の腐敗が甚だしかったのに対し、太平天国軍は規律が厳格で、殺人・放火・暴行・略奪等は一切行わず、役人・地主・富豪を襲って租税や田地に関する文書や借金証書を焼き捨てたものの農民には決して手出しをしなかったので民衆の支持を得ることが出来たからでした。
当時の書物には「太平天国軍がやってくれば争って迎え、官軍がやってくればこれを避けて門を閉じた」と書かれています。

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長髪と弁髪

 太平天国は、早くから「滅満興漢」(満州人の王朝である清を滅ぼして漢民族の国家を興すの意味)と云う民族主義的なスローガンを掲げ、清朝が強制した満州人の風習である弁髪を廃止して長髪としたので、太平天国の乱は長髪族の乱とも呼ばれました。
太平天国が理想とした平等主義を最もよく示している事柄が南京占領直後(1853年3月)に発布した「天朝田畝制度」と呼ばれる土地制度で、土地を男女の別なく均等に配分し、余剰生産物はすべて国庫に納入させる方法ですが、実施には至りませんでした。

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天朝田畝制度

 又アヘンの吸飲の禁止・纏足(中国では小足が美人の条件とされていたので、良家の子女の足指を4・5歳頃から足裏の方に曲げて布を堅く巻いて縛り、足の成長を妨げて小さくした風習で五代(907~960)頃に始まったとされている)の禁止等悪習の撤廃・男女の平等と身分制の廃止・租税の軽減等をスローガンに掲げて民衆の支持を得ました。

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太平天国軍高官と兵士

 太平天国は、間も無く清朝の打倒を目指して北伐軍を起こし(1853年5月)、10月には天津に迫りましたが陥れることが出来ず、その後も2年間にわたって戦いを続けましたが、蒙古騎兵の攻撃を受けて壊滅します(1855年)。
北伐と同時に西征の軍を進めましたが、これは曾国藩の湘軍との長い戦いの始まりとなりました。

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忠王府

 この様な状況の中で、天京では太平天国内部で権力争いが起こります。
太平天国の幹部は洪秀全・馮雲山・楊秀清・蕭朝貴・韋昌輝・石達開等でしたが、馮雲山と蕭朝貴はすでに戦死しており(1852年)、その後、楊秀清の権力が強まり彼の横暴に対する反感が強まってくると、洪秀全に支持された韋昌輝が楊秀清とその一族を虐殺しますが(1856)、その韋昌輝も洪秀全に殺され(1856年)、石達開はこうした内紛を嫌って、太平天国を離脱し、長江中流域を転戦した後に四川で清軍に捕えられて処刑されています(1863年)。

 以後、洪秀全は凡庸な一族の者を登用した結果、太平天国は内部から腐敗が始まり、又天朝田畝制度等理想として掲げた政策も実施されなかった為、太平天国は次第に内外の支持を失って行きました。
清の正規軍(八旗や緑営)が弱体化すると、地方の地主や富豪達は自分達の生命や財産を守る為に自分で兵を集めて軍隊を組織します。

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湘軍

 清末に、正規軍の不足を補うために地方官や郷紳(科挙に合格しても官吏とならず、郷里に住んだ地方の有力者、多くは地主であった)が募集した臨時の義勇軍は郷勇と呼ばれ、なかでも曾国藩(1811年~72年)が1853年に郷里の湖南省湘郷県で組織した湘軍や李鴻章(1823年~1901年)が曾国藩の命を受けて1862年に安徽省で組織した淮軍は特に有力で、太平天国討伐の主力となり、正規軍以上に戦果を上げる事になります。

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天京を攻撃するイギリス艦隊

 イギリス等各国は太平天国がキリスト教を奉じているので初めは中立の立場をとっていましたが、太平天国がアヘン貿易や不平等条約を認めないことが判ると、北京条約(1860年)で英仏の要求をそのまま受け入れた清朝が存続した方が有利であると考えて、太平天国鎮圧に協力する様になります。

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戦闘指揮を執るウォード

 アメリカ人のウォード(1831年~62年)は太平天国軍が上海に迫ると(1860年8月)、上海商人の要請によって200人の外人部隊を編成して太平天国軍を撃退し、翌年この部隊を解散して外国人将校の下に中国人傭兵を集めた軍を編成して上海周辺の防衛に活躍し、「常勝軍」の名称を得ています。

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清朝官吏の衣装を纏うゴードン

 ウォードの戦死後、イギリス人ゴードン(1833年~85年)が指揮官となり(1863年)、3000人の部隊を率いて江蘇省各地を転戦して太平天国鎮圧に大きな役割を果たしました。

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太平軍と清国軍の戦闘
 
李鴻章の淮軍と常勝軍は江蘇省・浙江省の太平天国の占領地を次々に奪回して東から天京に迫り、曾国藩の湘軍は西から天京に迫り、太平天国では李秀成(1823年~64年)が奮戦しましたが、1864年3月、湘軍によって天京(南京)は包囲され、洪秀全は毒を仰いで自殺し(1864年6月)、1864年7月、終に天京(南京)が陥落して太平天国(1851年~64年)は滅亡しました。

 太平天国運動は近代中国に於ける民族運動の先駆となり、その後の中国の民族運動に大きな影響を及ぼし、又これによって清朝の権威は失墜し、太平天国の鎮圧に活躍した漢人官僚が台頭するきっかけと成りました。

ジョークは如何?

とある国の君主が戦争に臨んで:
国王「将軍、今度の戦はことのほか厳しそうだ。何か良い策はあるのか?」
将軍「難しゅう御座います。勝敗は時の運で御座いましょう」
国王「それでは困る!何とか必勝の策は出ないのか?」
将軍「左様、2つ御座います。一つは、王が私めの采配に口を差し挟まないこと。
もう一つは、敵将の采配に王が口を差し挟むこと」

続く・・・