歴史を歩く160
36東アジアの激動⑥
7日清戦争

崔済愚(1824年~64年)
朝鮮には、18世紀後半に中国からキリスト教が伝わり、天主教と呼ばれました。
李朝は天主教を禁止して弾圧を加えますが、社会不安を背景に天主教信者は次第に増加して行きます。
19世紀後半にキリスト教(天主教)に対抗する新しい宗教である東学が創始され、没落両班出身の崔済愚(1824年~64年)は、在来の民間信仰を基に東洋的な儒教・仏教・道教を融合して東学を創始しました(1860年頃)。
東学は西学に対する意味で、西学とはキリスト教・天主教を意味し、彼は欧米の侵略に対抗する「保国」と封建的な収奪に反対する「安民」を唱えました。
この東学は、欧米諸国・日本の侵略と李朝の圧制下の社会不安の中で動揺する民衆の間に急速に広まって社会問題化した為、政府は民を惑わす者として崔済愚を処刑しますが、東学は崔済愚の処刑後も民衆の間に広まり、彼等は全琫準に率いられて全羅道を中心に決起しました。

甲午農民戦争・群衆を前にした全琫準
1894年2月、かねてから農民を搾取して悪名高かった郡守が水利税を滞納した貧農を極刑に処し、この出来事を発端にこの郡守の悪業に耐えかねた農民達が全琫準に率いられて郡庁を襲ってこれを占拠し、甲午農民戦争(東学党の乱、1894年)が始まりました。

甲午農民戦争の始まりとともに広まった全琫準の檄文
全琫準の檄文に応じて各地で悪政に苦しむ農民達が蜂起し、その中心となったのは東学信徒でした。農民軍は5月末に全州を占領し、更に漢城(ソウル)へ向かって進撃を試みますが、当時の李朝はこれを鎮圧する力は無く、清国軍の出兵を要請する一方で、全琫準が提訴していた改革案を全面的に受け入れて全州和約(不正官吏・不正両班の懲罰、奴婢文書の焼却、賎民がかぶる笠を外す事等が約束された)を結びます(1894年6月)。

全琫準1854年 - 1895年4月24日
全琫準は、全州和約が結ばれると農民軍に解散を命じ、彼はこのことによって外国の軍隊が朝鮮に出兵して来る口実を除去しようと考えたのですが、全州和約が結ばれる迄に、既に清と日本は朝鮮に出兵しており、清朝は朝鮮から出兵を要請されると直ちにこれに応じ、天津条約(1885年)に従って朝鮮出兵を日本に通告し、朝鮮に出兵して牙山に上陸しました。
日本もこれに対抗して、清国から出兵の通告があった翌日に清国に出兵を通告して出兵し、漢城(ソウル)に兵を入城させます。

景福宮
清国は、日本軍との衝突を避けるために両国軍の即時撤兵を提案しましたが、日本は清国に朝鮮内政の共同改革を提案し、これが拒否されると、単独で朝鮮に内政改革案を突きつけ、期限迄に回答が無かった為、王宮(景福宮)を占領し、朝鮮に清国との宗属関係を破棄させ、清国軍の撤退を日本に一任させます(1894年7月23日)。

豊島沖の海戦・日本海軍『浪速』の砲火により擊沈される清国海軍輸送船『高陞』
その2日後、日本軍艦3隻は仁川西方の豊島沖の海戦で清国軍艦2隻を撃破し(7月25日)、又牙山の清国軍を潰走させて牙山を占領しました(7月29日)。
1894年8月1日、日清両国は宣戦を布告し、日清戦争(1894年8月~95年4月)が始まりました。
日本軍は、9月には平壌の戦いで清国陸軍を撃破し、退却する清国軍を追って更に北進、同月黄海海戦で清の北洋艦隊(李鴻章が創設した新式海軍)を撃破しました。

黄海海戦
北洋艦隊は当時としては、大型鋼製艦の定遠・鎮遠以下14隻、これに対して日本艦隊は12隻でしたが、日本艦隊は速力に優れ、重砲の数は清より少ないものの速射砲の数は圧倒的に多く、総合戦力では北洋艦隊を上回り、戦闘訓練の面でも勝っていました。
黄海海戦は5時間にわたって続き、日本艦隊の勝利に終わり、北洋艦隊は3隻が撃沈され、2隻が大破、これに対して日本艦隊は1隻の損耗も発生していません。

北洋水師の要港であった威海衛湾
平壌の戦いで勝利を治めた日本軍は、鴨緑江を渡って清国領内に入り、11月には遼東半島南部の旅順を陥落させ、翌年2月、日本海軍は北洋艦隊の根拠地である威海衛を占領し、北洋艦隊は降伏します。
1895年3月、下関で講和会議が始まり、日本全権の伊藤博文・陸奥宗光、清国全権の李鴻章との間で下関条約が結ばれ、この下関条約によって、清は朝鮮の独立、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金2億両の支払い、日本の通商上の特権等を認めました。
この間、全琫準は、1894年10月に再び蜂起します。
一時は10万以上の農民が全琫準の基に終結しますが、近代兵器を持つ朝鮮軍と日本軍が出動すると、農民軍は各地で敗走を重ね、全琫準も密告によって捕らえられ(1894年11月)、翌年ソウルで処刑されています。
ジョークは如何?
戦後まもなく、日本政府は食糧難によって
数百万人の餓死者が出るという統計を元に
アメリカに莫大な食糧援助を求めたが、
その何分の一かの輸入で別段死人も出なかった。
そのことをマッカーサーが詰問した。
マッカーサー「でたらめな数字を出すな!」
吉田茂「うちの統計がそんなに立派なら、戦争には負けてませんよ。」
続く・・・
7日清戦争

崔済愚(1824年~64年)
朝鮮には、18世紀後半に中国からキリスト教が伝わり、天主教と呼ばれました。
李朝は天主教を禁止して弾圧を加えますが、社会不安を背景に天主教信者は次第に増加して行きます。
19世紀後半にキリスト教(天主教)に対抗する新しい宗教である東学が創始され、没落両班出身の崔済愚(1824年~64年)は、在来の民間信仰を基に東洋的な儒教・仏教・道教を融合して東学を創始しました(1860年頃)。
東学は西学に対する意味で、西学とはキリスト教・天主教を意味し、彼は欧米の侵略に対抗する「保国」と封建的な収奪に反対する「安民」を唱えました。
この東学は、欧米諸国・日本の侵略と李朝の圧制下の社会不安の中で動揺する民衆の間に急速に広まって社会問題化した為、政府は民を惑わす者として崔済愚を処刑しますが、東学は崔済愚の処刑後も民衆の間に広まり、彼等は全琫準に率いられて全羅道を中心に決起しました。

甲午農民戦争・群衆を前にした全琫準
1894年2月、かねてから農民を搾取して悪名高かった郡守が水利税を滞納した貧農を極刑に処し、この出来事を発端にこの郡守の悪業に耐えかねた農民達が全琫準に率いられて郡庁を襲ってこれを占拠し、甲午農民戦争(東学党の乱、1894年)が始まりました。

甲午農民戦争の始まりとともに広まった全琫準の檄文
全琫準の檄文に応じて各地で悪政に苦しむ農民達が蜂起し、その中心となったのは東学信徒でした。農民軍は5月末に全州を占領し、更に漢城(ソウル)へ向かって進撃を試みますが、当時の李朝はこれを鎮圧する力は無く、清国軍の出兵を要請する一方で、全琫準が提訴していた改革案を全面的に受け入れて全州和約(不正官吏・不正両班の懲罰、奴婢文書の焼却、賎民がかぶる笠を外す事等が約束された)を結びます(1894年6月)。

全琫準1854年 - 1895年4月24日
全琫準は、全州和約が結ばれると農民軍に解散を命じ、彼はこのことによって外国の軍隊が朝鮮に出兵して来る口実を除去しようと考えたのですが、全州和約が結ばれる迄に、既に清と日本は朝鮮に出兵しており、清朝は朝鮮から出兵を要請されると直ちにこれに応じ、天津条約(1885年)に従って朝鮮出兵を日本に通告し、朝鮮に出兵して牙山に上陸しました。
日本もこれに対抗して、清国から出兵の通告があった翌日に清国に出兵を通告して出兵し、漢城(ソウル)に兵を入城させます。

景福宮
清国は、日本軍との衝突を避けるために両国軍の即時撤兵を提案しましたが、日本は清国に朝鮮内政の共同改革を提案し、これが拒否されると、単独で朝鮮に内政改革案を突きつけ、期限迄に回答が無かった為、王宮(景福宮)を占領し、朝鮮に清国との宗属関係を破棄させ、清国軍の撤退を日本に一任させます(1894年7月23日)。

豊島沖の海戦・日本海軍『浪速』の砲火により擊沈される清国海軍輸送船『高陞』
その2日後、日本軍艦3隻は仁川西方の豊島沖の海戦で清国軍艦2隻を撃破し(7月25日)、又牙山の清国軍を潰走させて牙山を占領しました(7月29日)。
1894年8月1日、日清両国は宣戦を布告し、日清戦争(1894年8月~95年4月)が始まりました。
日本軍は、9月には平壌の戦いで清国陸軍を撃破し、退却する清国軍を追って更に北進、同月黄海海戦で清の北洋艦隊(李鴻章が創設した新式海軍)を撃破しました。

黄海海戦
北洋艦隊は当時としては、大型鋼製艦の定遠・鎮遠以下14隻、これに対して日本艦隊は12隻でしたが、日本艦隊は速力に優れ、重砲の数は清より少ないものの速射砲の数は圧倒的に多く、総合戦力では北洋艦隊を上回り、戦闘訓練の面でも勝っていました。
黄海海戦は5時間にわたって続き、日本艦隊の勝利に終わり、北洋艦隊は3隻が撃沈され、2隻が大破、これに対して日本艦隊は1隻の損耗も発生していません。

北洋水師の要港であった威海衛湾
平壌の戦いで勝利を治めた日本軍は、鴨緑江を渡って清国領内に入り、11月には遼東半島南部の旅順を陥落させ、翌年2月、日本海軍は北洋艦隊の根拠地である威海衛を占領し、北洋艦隊は降伏します。
1895年3月、下関で講和会議が始まり、日本全権の伊藤博文・陸奥宗光、清国全権の李鴻章との間で下関条約が結ばれ、この下関条約によって、清は朝鮮の独立、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金2億両の支払い、日本の通商上の特権等を認めました。
この間、全琫準は、1894年10月に再び蜂起します。
一時は10万以上の農民が全琫準の基に終結しますが、近代兵器を持つ朝鮮軍と日本軍が出動すると、農民軍は各地で敗走を重ね、全琫準も密告によって捕らえられ(1894年11月)、翌年ソウルで処刑されています。
ジョークは如何?
戦後まもなく、日本政府は食糧難によって
数百万人の餓死者が出るという統計を元に
アメリカに莫大な食糧援助を求めたが、
その何分の一かの輸入で別段死人も出なかった。
そのことをマッカーサーが詰問した。
マッカーサー「でたらめな数字を出すな!」
吉田茂「うちの統計がそんなに立派なら、戦争には負けてませんよ。」
続く・・・
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