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2017/06/25

歴史を歩く164

37帝国主義の成立と列強の国情④

4ドイツ

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1848年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世とビスマルク

 ドイツの統一後、ビスマルク(1815年~98年)はドイツ帝国宰相(在任1871年~90年)として約20年間にわたって独裁的な権力を奮いました。
この間、フランスの復讐に備えてオーストリア・ロシアとの間に三帝同盟を結び(1873年)、更にオーストリア・イタリアとの間で三国同盟を結んで(1882年)フランスの孤立化を図りました。
その後バルカンでオーストリアとロシアとの対立が激化し、三帝同盟が事実上消滅すると、ロシアとの間に再保障条約を締結します(1887年)。
又国内では社会主義勢力の進出を抑えるために社会主義者鎮圧法を制定して(1878年)、社会主義的結社を禁止し、集会・出版の自由等を制限しました。

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ヴィルヘルム2世(Wilhelm II., 1859年1月27日 - 1941年6月4日)
全名フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン(Friedrich Wilhelm Viktor Albert von Preußen)

 1888年、ヴィルヘルム1世が崩御し、フリードリヒ3世(在位1888年)が即位しますが、在位わずか99日で没し、孫のヴィルヘルム2世(在位1888年~1918年)が29歳で即位します。
若いヴィルヘルム2世は、社会主義者鎮圧法の扱いと再保障条約の更新をめぐって、老宰相のビスマルクと対立しました。

 ビスマルクが社会主義者鎮圧法の有効期間を延長し、ロシアとの再保障条約を更新・継続を主張した事に対し、ヴィルヘルム2世は社会主義者鎮圧法の延長を否決し、再保障条約の更新をも拒否しました。
1890年3月、ビスマルクは終に辞職し、ヴィルヘルム2世の親政が始まります。

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ビスマルク辞職を描いた挿絵「水先案内人の下船」

 この頃、ドイツの資本主義は重化学工業を中心に目覚しく発展し、工業生産額では1900年代にイギリスに迫り、1910年迄にはイギリスを追い抜き、アメリカに次ぐ世界第二の工業国へと成長します。
こうした経済力を背景に、ヴィルヘルム2世は「世界政策(新航路政策)」と呼ばれる積極的な帝国主義政策に乗り出して行きました。

 ヴィルヘルム2世は、親政を開始するにあたって「国家という船の当直将校の役を朕が担当することになった。航路は従来通り、全速で航行せよ」とドイツ諸王侯宛に打電したので、彼の世界政策は新航路政策と呼ばれますが、航路は従来通りでなく、ビスマルクの平和・現状維持政策を変更して積極的な世界政策を推進し、アフリカ・太平洋・近東へ進出して行きます。

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ドイツ海軍防護巡洋艦「SMS ハンザII」を視察するヴィルヘルム2世

 又ヴィルヘルム2世は世界政策を進める為に、「ドイツの将来は海上にあり」をスローガンにイギリスに対抗して海軍の大拡張に乗り出し、海軍大臣ティルピッツ(在任1897年~1916年)のもとで大建艦計画を推進します(1897年以後)。
特に1917年迄に戦艦38隻・巡洋艦42隻の大艦隊を建造すると云う前代未聞の第2次艦隊法(1900年)は大海軍国のイギリスに大きなショックを与え、以後イギリスとドイツの間に激しい建艦競争を引き起こし、この間、国内では社会主義を目ざす労働運動が盛んとなって行きました。

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ドイツ労働運動の先駆者とされた五人
カール・マルクス(中央)、アウグスト・ベーベル(左上)、ヴィルヘルム・リープクネヒト(右上)
カール・ヴィルヘルム・テルケ(左下)、ラッサール(右下)

 ドイツの社会主義運動は1860年代から始まり、ラッサール(1825年~64年)を指導者とする全ドイツ労働者同盟(1863年に結成)やべーベル(1840年~1913年)を指導者とする社会民主労働者党が結成され(1869年)、両者は1875年に合同し、ドイツ社会主義労働者党が成立します。
ドイツ社会主義労働者党は社会主義者鎮圧法によって弾圧されますが、その一方で徐々に勢力を拡大し、1890年の社会主義者鎮圧法の廃止・ビスマルクの辞職後、ドイツ社会民主党と改称しました(1890年10月)。

 ドイツ社会民主党はその後順調に発展し、1912年の総選挙では110議席を獲得して第一党となり、その間第二インターナショナルでは指導的な地位を占めました。
ドイツ社会民主党は、1991年にエルフルト綱領を採択してマルクス主義による革命を主張しましたが、党内では19世紀末からベルンシュタインの修正主義が現われます。

 ベルンシュタイン(1850年~1932年)は、社会民主労働者党に入党し、社会主義者鎮圧法に反対してスイス・ロンドンに亡命し、彼はロンドンでフェビアン社会主義の影響を受けてマルクス主義の革命理論に懐疑的となり、革命を否定して議会主義による漸進的な社会主義の実現を説く修正主義を主張し(1896年頃から)、修正主義の理論的な指導者となりました。

ジョークは如何?

買い物の鉄則「月曜日に作られたものは買うな」

※週休二日で土日を飲み明かした労働者が、
月曜日の朝、向かい酒のウオッカをあおってから工場に出勤するから


続く・・・



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2017/06/11

歴史を歩く163

37帝国主義の成立と列強の国情③

3フランス

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アルザス・ロレーヌの位置

 フランスは、普仏戦争(1870年~71年)に敗れてアルザス・ロレーヌをドイツに割譲したために工業生産の発展が鈍化し、1870年代にはアメリカ・ドイツに追い抜かれてその生産力は第4位に後退しました。
又、工業では小企業が乱立し、農業でも小経営が多かった為、国内には有利な資本の投下先が少なく、結果として国内の資本はもっぱら有利な海外投資に向けられ、フランスは「ヨーロッパの高利貸し」と呼ばれ、特に露仏同盟の成立(1891年~94年)後はロシアへの投資が増加しました。

フランス植民地
アフリカの列強植民地

 フランスは、対外的には1880年代以後チュニジアやインドシナを獲得し、イギリスに次ぐ広大な植民地を領有し、国内では、1875年に第三共和政憲法が成立し、第三共和政の基礎が確立しましが、小党分立の傾向が強く、政情はなお不安定でした。

 フランスでは、普仏戦争の敗北後対独復讐心が強まり、ドイツに対する反感から軍部や右翼が台頭し、第三共和政はブーランジェ事件(1887年~89年)やドレフュス事件(1894年~99年)によって重大な危機に直面しました。

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ジョルジュ・エルネス・ジャン=マリー・ブーランジェ(Georges Ernest Jean-Marie Boulanger、1837年4月29日レンヌ - 1891年9月30日)

ブーランジェ事件
ブーランジェ(1837年~91年)は、普仏戦争に従軍し、師団長を経て陸相に就任します(1886年~87年)。
彼は対独強硬策を唱え、「復讐将軍」・「ビスマルクを尻込みさせた男」と渾名されて愛国主義者・右翼・一般民衆の人心を集めます。
王党派やボナパルト派はブーランジェを引き入れて共和政を打倒し、軍部独裁政権の樹立を企てました。

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ブーランジェ事件の風刺画

 ブーランジェが、パリの補欠選挙で大勝すると(1889年1月)、興奮したパリの民衆は街頭に犇めき、クーデターの危機は目前に迫ったかにみえたが、ブーランジェが土壇場で実行を躊躇い、クーデターは未遂に終わります。
これに驚いた政府が不穏な団体を解散させ、ブーランジェ派の指導者を起訴するとブーランジェはベルギーに亡命し、欠席裁判で終身禁固刑の判決を受けると数ヶ月後に自殺します。

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階級を剥奪されるドレフュス大尉

ドレフュス事件
 1894年夏、パリのドイツ大使館から一通の手紙が盗み出されてフランス陸軍省の手に落ちました。その中にはフランス陸軍の機密文書の名が列記されており、フランス陸軍省の中にスパイの存在が明らかになり、捜査が行われてユダヤ人の砲兵大尉ドレフュスがドイツのスパイ容疑で逮捕され(1894年)、軍法会議に処されます。

 ドレフュスは無罪を主張しますが、ユダヤ人ドレフュスを早く処分せよと云う世論の高まりの中で、陸軍は事件の処理を急ぎ、ドレフュスを有罪として終身禁固刑を言い渡し(1894年12月)、官位を剥奪して南アメリカのフランス領ギアナ沖の悪魔島(ここへ送られたが最後、生きて帰れないことからこう呼ばれた)へ送ります。

 1896年、陸軍省情報部長の調査によって真犯人はエステラジー少佐であることが明らかになりますが、陸軍は体面を保つ為に揉み消しを図りますが、真犯人が別にいる事が知れると再審を求める世論が、巻き起こりますが、軍部は威信を保つ為に再審を拒否して反ユダヤ主義や拝外主義を煽り、エステラジーを形式的に軍法会議にかけて無罪としました。

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軍法会議のドレフュス

 エステラジー裁判から2日後(1898年1月13日)、フランス自然主義の代表的な作家であるゾラ(1840年~1902年)は「私は弾劾する」と名付けられた大統領宛の公開質問状を新聞に発表し、軍部の不正・横暴を攻撃してドレフュス擁護の論陣を展開しました。

 ドレフュスの再審を要求する運動は増々激しくなり、その一方で再審反対運動も激しさを増し、その結果、再審派と反対派の対立は、ドレフュス個人の有罪・無罪の問題を越えて共和政の擁護と共和政打倒の戦いとなり、国論を二分する政治問題に発展しました。
再審要求運動が更に高まる中でようやく再審が行われますが、軍法会議はドレフュスに再び有罪判決を下しますが、ドレフュスは大統領特赦で釈放され(1999年)、その後も復権運動が行われ、再再審で終に無罪と復権が確認されました(1906年)。

 ドレフュス事件は共和政の存続を脅かす出来事でしたが、この出来事によってかえって共和派の団結が強まり、又ドレフュス事件を機にユダヤ人のシオニズム(ユダヤ人の国家をパレスチナに建てようとする運動)が始まりました。

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ピエール・ワルデック=ルソー(Pierre Waldeck-Rousseau, 1846年12月2日 - 1904年8月10日)

 1899年に成立したヴァルデック・ルソー内閣(1899年~1902年)は「共和政防衛内閣」と呼ばれ、社会主義者も含めた全共和主義派の支持の下で、軍部・カトリック教会・右翼の攻撃から共和政を守ることを目的に組織され、政治改革・社会改革に取り組みました。

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英仏協商の風刺画

 共和政防衛内閣の成立によって第三共和政は安定しましたが、フランス人の間にはドイツに対する警戒心が依然として強く、露仏同盟(1891年~94年)や英仏協商(1904年)を結んでドイツに対抗しました。

 ドレフュス事件でドレフュス擁護に活躍したジョレス(1859年~1914年)は社会党(統一社会党)の結成に大きな役割を果たし、社会党(統一社会党)はフランスの社会主義政党や団体の連合組織として1905年に結成されます。
又、フランスの労働運動では、議会主義を否定して労働組合の直接行動・ゼネストによって革命を目ざすサンディカリズムが19世紀末から盛んになって行きます。

ジョークは如何?

ポーランド人が鶏小屋に忍び込んだ
人気を察した飼い主が銃を構えて呼びかけた

「おい!そこに誰かいるのか?」
「誰もいません旦那様、おらたち鶏だけでがす」

続く・・・

2017/06/08

歴史を歩く162

37帝国主義の成立と列強の国情②

2イギリス

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初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, 1804年12月21日 - 1881年4月19日)肖像画は1857年当時

 帝国主義と云う言葉は、1870年代後半に、保守党首相ディズレーリ(在任1868年、1874年~80年)が、その頃高まりつつあった小英国主義(植民地は財政負担を増す重荷に過ぎないとして植民地放棄を唱える立場)を攻撃し、植民地支配を強化し、帝国の拡張・団結を主張したのが始まりです。

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ヴィクトリア女王にインド皇帝の王冠を渡しているのはディズレーリ首相


 ディズレーリは、スエズ運河の株式買収(1875年)やインド帝国成立(1877年)、更に露土戦争に干渉してベルリン会議でロシアの南下を阻止する一方で、キプロス島を獲得する(1878年)等帝国主義政策を推進しました。

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ウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone 1809年12月29日 - 1898年5月19日)

 これに対して自由党の首相グラッドストーンは平和外交を主張し、アイルランド問題等の内政に力を注ぎました。

 ディズレーリと共に帝国主義者として知られるジョゼフ・チェンバレン(1836年~1914年)は、螺子製造業で財を成して政界に進出、自由党急進派として活躍し、グラッドストーン内閣にも2度入閣しましたが、アイルランド自治法案に反対して自由党を離れ、自由統一党を結成します(1866年)。
その後チェンバレンは、第3次ソールズベリ保守党内閣(1895年~1902年)に植民相として入閣し、国内の社会問題の解決には植民地の開発が必要であると主張し、アフリカでの帝国主義政策を推進して南ア戦争(南アフリカ戦争、ブーア戦争、1899年~1902年)を引き起こしました。

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植民地省の大臣デスクに座るチェンバレン

 又チェンバレンの主張によって、1877年には植民地会議が開催され、本国・自治領・インド等の代表で構成された会議は、本国と自治領・植民地間の結合・協力関係の強化を目的とし、イギリス帝国共通の防衛・経済等の問題を討議しました。
植民地会議はその後4回開催され、1907年にはイギリス帝国会議と改称されます。

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ウェッブ夫妻

 この間、国内では労働運動・社会主義運動が盛んとなり、フェビアン協会(1884年)や独立労働党(1893年)等が設立されます。
1884年に設立されたフェビアン協会は、革命を否定して漸進的な社会改革を主張する社会主義者の団体で、ウェッブ夫妻(夫シドニー(1859年~1947年)は後にマクドナルド労働党内閣に入閣した)や劇作家として有名なバーナード・ショー(1856年~1950年)等が活躍しました。
尚フェビアンの名は、戦わず・挑まず・敵の消耗を待つ戦術でハンニバル軍を破った古代ローマの将軍の名前ファビウスの名に因んでいます。

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ジェームズ・ケア・ハーディ(James Keir Hardie、1856年8月15日 - 1915年9月26日)

 ケア・ハーディ(1856年~1915年)が設立した独立労働党も、労働者の議会進出と社会主義を目的とする漸進的な改革を目ざしました。
1900年には、フェビアン協会・独立労働党・社会民主連盟(マルクス主義)の3つの社会主義団体と65の労働組合の代表によって、その連合体である労働代表委員会が結成されます。

 労働代表委員会は、その後既存政党(保守党や自由党)から独立した労働者独自の政党を目ざし、1906年に労働党と改称しました。
労働党は、社会民主主義(共産主義の革命理論に反対し、議会主義による社会主義の実現を説く思想)の立場に立って漸進的な改革で社会主義の実現をはかる穏健な方針でした。

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初代オックスフォード=アスキス伯爵ハーバート・ヘンリー・アスキス(Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith, KG, PC, KC、1852年9月12日 - 1928年2月15日)

 その前年に成立していた自由党内閣は、労働党の協力を得て老齢年金法や国民保険法等の社会改革を実現を画策しますが、保守党勢力の強い上院が改革に反対した結果、1908年に成立したアスキス自由党内閣(1908年~16年)は、1911年に議会法(議院法)を成立させました。

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初代ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵デビッド・ロイド・ジョージ(英語: David Lloyd George, 1st Earl Lloyd George of Dwyfor, OM, PC、1863年1月17日 - 1945年3月26日)

 アスキス内閣の蔵相であったロイド・ジョージ(1863年~1945年、1916年~22年に首相を務める)は、ドイツに対抗して海軍の増強が叫ばれると、土地所得への新課税・所得税と相続税の増額等を含む予算案を議会に提出しますが、この予算案が上院で否決された為(1909年)、下院を解散して総選挙で勝利し、世論を背景に上院を屈服させて議会法を成立させました。
議会法の内容は、下院を3回通過した法案は上院の同意なく法律となる事、又上院は予算案を否決する事ができないこと等で、この法律によって下院の優越が確立しました。
日本国憲法の衆議院の優越はこの議会法の精神を取り入れたものです。

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19世紀後半、アイルランドを襲ったジャガイモ飢饉

 19世紀後半のイギリス内政最大の問題の1つであったアイルランド自治法案は、1886年と1893年の2度グラッドストーン内閣によって提出されたが、いずれも否決されていました。

 20世紀に入るとシン・フェイン党を中心にアイルランド独立運動が激しさを増します。
シン・フェイン党(シン・フェインは「われわれ自身で」の意味)は、1905年に結成されたアイルランドの政党で、アイルランドの独立を主張し、急進的な反英路線を主張します。

 自由党内閣は、1912年に三度アイルランド自治法案を議会に提出、翌1913年には下院で可決されましたが上院では否決され、1914年にやっと下院・上院で可決されて成立しました。
しかし、イギリス人が多数を占める北アイルランド(アルスター地方、17世紀にイングランド・スコットランド人の新教徒が植民)は自治法案に反対し、シン・フェイン党との対立が激化し、政府は第一次世界大戦の勃発を理由にアイルランド自治法案の実施を延期します。

ジョークは如何?

アル中のスコットランド人が尻のポケットにウィスキーの瓶を入れて車道を千鳥足。
当然のごとく、車にはねられ道端までとばされた。
幸い命に別状はなかったものの尻のあたりが、なにやらぬれている模様。
その男、手で触ってみて、
「ああ神様、どうかこれが血でありますように」


続く・・・

2017/06/02

歴史を歩く161

37帝国主義の成立と列強の国情

1帝国主義

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ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин、1870年4月22日 – 1924年1月21日)
本名、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ(Влади́мир Ильи́ч Улья́нов)


 19世紀末から20世紀初頭にかけて世界は帝国主義の時代に入って行きました。
ロシア革命の指導者レーニンはその著『帝国主義論(資本主義の最高段階としての帝国主義)』の中で「帝国主義とは、独占体と金融資本の支配が成立していて、資本輸出が著しく重要性を増し、国際的なトラストによる世界の分割が始まり、最強の資本主義諸国による世界の全領土の分割が完了したという発達段階に達した資本主義のことである。」と述べています。

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アメリカの独占資本に対する風刺画

 19世紀後半には先進資本主義国、特にアメリカ・ドイツ等で技術革新が進み、電力や石油を動力源として、鉄鋼・電機・化学等の重化学工業が急速に発展しましたが、これを第2次産業革命と呼びます。

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独占3形態

 産業革命によって成立した資本主義社会では、自由競争に勝ち残った少数の大企業が相互の競争を避けるために企業の集中を進め、カルテル・トラスト・コンツェルン等の独占の形態が現れ、利潤の独占を図る様に成りました。

 この様な独占資本(独占企業)が、銀行資本と結合して金融資本が形成され、アメリカ・ドイツを初めとする主な資本主義諸国は独占資本主義の段階に入って行ったのです。
金融資本は、国内だけでは利潤を得る事が難しくなると、国内の余剰資本のより有利な投下先を求めて国外へ進出する様に成りました。

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 こうして先進資本主義諸国は国内の余剰資本を原料・労働力・市場を持つ植民地等に投資する事で(国外投資、資本輸出)より大きな利潤を得ようとし、欧米列強は植民地や従属国を求めてアジア・アフリカ等への進出を図ります。
この様な段階に入った資本主義を帝国主義と呼びます。
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「列強クラブ」これまですべて白人で初めて有色人種の会員を迎えることになるが、この風刺画を見ると、列強クラブからの視線、日本に対する驚きと嘲笑する心を見抜くことができる。

 その為帝国主義の時代には植民地の獲得等を巡って国際的な対立が激化し、イギリスやフランス等の先進資本主義国が早くから海外に進出して広大な植民地を領有したのに対し、遅れて帝国主義の段階に入ったドイツ・ロシア・日本等は遅れて植民地の獲得に乗り出し、植民地の再分割を要求します。この為帝国主義列強間で対立が激化し、第一次世界大戦の原因と成りました。

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 帝国主義列強の国内では、労働運動が盛んとなり、帝国主義や軍国主義に反対する社会主義運動がおこり、社会主義政党が成立します。
一方、帝国主義列強によって植民地とされ、若しくは従属させられた地域では激しい抵抗と解放のta為の闘争が展開され、同時に旧体制に対する変革の動きも広がって行きました。

ジョークは如何?

ドイツの鉄血宰相ビスマルクは、フランスのシャンパンが好きだった。
あるとき皇帝から「君は愛国者だろう。何故ドイツの物を飲まないのかね?」
と訊かれた。ビスマルクが答えて言うには
「陛下。恐れながら愛国心と舌は別物でございます」


続く・・・