歴史を歩く164
37帝国主義の成立と列強の国情④
4ドイツ

1848年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世とビスマルク
ドイツの統一後、ビスマルク(1815年~98年)はドイツ帝国宰相(在任1871年~90年)として約20年間にわたって独裁的な権力を奮いました。
この間、フランスの復讐に備えてオーストリア・ロシアとの間に三帝同盟を結び(1873年)、更にオーストリア・イタリアとの間で三国同盟を結んで(1882年)フランスの孤立化を図りました。
その後バルカンでオーストリアとロシアとの対立が激化し、三帝同盟が事実上消滅すると、ロシアとの間に再保障条約を締結します(1887年)。
又国内では社会主義勢力の進出を抑えるために社会主義者鎮圧法を制定して(1878年)、社会主義的結社を禁止し、集会・出版の自由等を制限しました。

ヴィルヘルム2世(Wilhelm II., 1859年1月27日 - 1941年6月4日)
全名フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン(Friedrich Wilhelm Viktor Albert von Preußen)
1888年、ヴィルヘルム1世が崩御し、フリードリヒ3世(在位1888年)が即位しますが、在位わずか99日で没し、孫のヴィルヘルム2世(在位1888年~1918年)が29歳で即位します。
若いヴィルヘルム2世は、社会主義者鎮圧法の扱いと再保障条約の更新をめぐって、老宰相のビスマルクと対立しました。
ビスマルクが社会主義者鎮圧法の有効期間を延長し、ロシアとの再保障条約を更新・継続を主張した事に対し、ヴィルヘルム2世は社会主義者鎮圧法の延長を否決し、再保障条約の更新をも拒否しました。
1890年3月、ビスマルクは終に辞職し、ヴィルヘルム2世の親政が始まります。

ビスマルク辞職を描いた挿絵「水先案内人の下船」
この頃、ドイツの資本主義は重化学工業を中心に目覚しく発展し、工業生産額では1900年代にイギリスに迫り、1910年迄にはイギリスを追い抜き、アメリカに次ぐ世界第二の工業国へと成長します。
こうした経済力を背景に、ヴィルヘルム2世は「世界政策(新航路政策)」と呼ばれる積極的な帝国主義政策に乗り出して行きました。
ヴィルヘルム2世は、親政を開始するにあたって「国家という船の当直将校の役を朕が担当することになった。航路は従来通り、全速で航行せよ」とドイツ諸王侯宛に打電したので、彼の世界政策は新航路政策と呼ばれますが、航路は従来通りでなく、ビスマルクの平和・現状維持政策を変更して積極的な世界政策を推進し、アフリカ・太平洋・近東へ進出して行きます。

ドイツ海軍防護巡洋艦「SMS ハンザII」を視察するヴィルヘルム2世
又ヴィルヘルム2世は世界政策を進める為に、「ドイツの将来は海上にあり」をスローガンにイギリスに対抗して海軍の大拡張に乗り出し、海軍大臣ティルピッツ(在任1897年~1916年)のもとで大建艦計画を推進します(1897年以後)。
特に1917年迄に戦艦38隻・巡洋艦42隻の大艦隊を建造すると云う前代未聞の第2次艦隊法(1900年)は大海軍国のイギリスに大きなショックを与え、以後イギリスとドイツの間に激しい建艦競争を引き起こし、この間、国内では社会主義を目ざす労働運動が盛んとなって行きました。

ドイツ労働運動の先駆者とされた五人
カール・マルクス(中央)、アウグスト・ベーベル(左上)、ヴィルヘルム・リープクネヒト(右上)
カール・ヴィルヘルム・テルケ(左下)、ラッサール(右下)
ドイツの社会主義運動は1860年代から始まり、ラッサール(1825年~64年)を指導者とする全ドイツ労働者同盟(1863年に結成)やべーベル(1840年~1913年)を指導者とする社会民主労働者党が結成され(1869年)、両者は1875年に合同し、ドイツ社会主義労働者党が成立します。
ドイツ社会主義労働者党は社会主義者鎮圧法によって弾圧されますが、その一方で徐々に勢力を拡大し、1890年の社会主義者鎮圧法の廃止・ビスマルクの辞職後、ドイツ社会民主党と改称しました(1890年10月)。
ドイツ社会民主党はその後順調に発展し、1912年の総選挙では110議席を獲得して第一党となり、その間第二インターナショナルでは指導的な地位を占めました。
ドイツ社会民主党は、1991年にエルフルト綱領を採択してマルクス主義による革命を主張しましたが、党内では19世紀末からベルンシュタインの修正主義が現われます。
ベルンシュタイン(1850年~1932年)は、社会民主労働者党に入党し、社会主義者鎮圧法に反対してスイス・ロンドンに亡命し、彼はロンドンでフェビアン社会主義の影響を受けてマルクス主義の革命理論に懐疑的となり、革命を否定して議会主義による漸進的な社会主義の実現を説く修正主義を主張し(1896年頃から)、修正主義の理論的な指導者となりました。
ジョークは如何?
買い物の鉄則「月曜日に作られたものは買うな」
※週休二日で土日を飲み明かした労働者が、
月曜日の朝、向かい酒のウオッカをあおってから工場に出勤するから
続く・・・
4ドイツ

1848年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世とビスマルク
ドイツの統一後、ビスマルク(1815年~98年)はドイツ帝国宰相(在任1871年~90年)として約20年間にわたって独裁的な権力を奮いました。
この間、フランスの復讐に備えてオーストリア・ロシアとの間に三帝同盟を結び(1873年)、更にオーストリア・イタリアとの間で三国同盟を結んで(1882年)フランスの孤立化を図りました。
その後バルカンでオーストリアとロシアとの対立が激化し、三帝同盟が事実上消滅すると、ロシアとの間に再保障条約を締結します(1887年)。
又国内では社会主義勢力の進出を抑えるために社会主義者鎮圧法を制定して(1878年)、社会主義的結社を禁止し、集会・出版の自由等を制限しました。

ヴィルヘルム2世(Wilhelm II., 1859年1月27日 - 1941年6月4日)
全名フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン(Friedrich Wilhelm Viktor Albert von Preußen)
1888年、ヴィルヘルム1世が崩御し、フリードリヒ3世(在位1888年)が即位しますが、在位わずか99日で没し、孫のヴィルヘルム2世(在位1888年~1918年)が29歳で即位します。
若いヴィルヘルム2世は、社会主義者鎮圧法の扱いと再保障条約の更新をめぐって、老宰相のビスマルクと対立しました。
ビスマルクが社会主義者鎮圧法の有効期間を延長し、ロシアとの再保障条約を更新・継続を主張した事に対し、ヴィルヘルム2世は社会主義者鎮圧法の延長を否決し、再保障条約の更新をも拒否しました。
1890年3月、ビスマルクは終に辞職し、ヴィルヘルム2世の親政が始まります。

ビスマルク辞職を描いた挿絵「水先案内人の下船」
この頃、ドイツの資本主義は重化学工業を中心に目覚しく発展し、工業生産額では1900年代にイギリスに迫り、1910年迄にはイギリスを追い抜き、アメリカに次ぐ世界第二の工業国へと成長します。
こうした経済力を背景に、ヴィルヘルム2世は「世界政策(新航路政策)」と呼ばれる積極的な帝国主義政策に乗り出して行きました。
ヴィルヘルム2世は、親政を開始するにあたって「国家という船の当直将校の役を朕が担当することになった。航路は従来通り、全速で航行せよ」とドイツ諸王侯宛に打電したので、彼の世界政策は新航路政策と呼ばれますが、航路は従来通りでなく、ビスマルクの平和・現状維持政策を変更して積極的な世界政策を推進し、アフリカ・太平洋・近東へ進出して行きます。

ドイツ海軍防護巡洋艦「SMS ハンザII」を視察するヴィルヘルム2世
又ヴィルヘルム2世は世界政策を進める為に、「ドイツの将来は海上にあり」をスローガンにイギリスに対抗して海軍の大拡張に乗り出し、海軍大臣ティルピッツ(在任1897年~1916年)のもとで大建艦計画を推進します(1897年以後)。
特に1917年迄に戦艦38隻・巡洋艦42隻の大艦隊を建造すると云う前代未聞の第2次艦隊法(1900年)は大海軍国のイギリスに大きなショックを与え、以後イギリスとドイツの間に激しい建艦競争を引き起こし、この間、国内では社会主義を目ざす労働運動が盛んとなって行きました。

ドイツ労働運動の先駆者とされた五人
カール・マルクス(中央)、アウグスト・ベーベル(左上)、ヴィルヘルム・リープクネヒト(右上)
カール・ヴィルヘルム・テルケ(左下)、ラッサール(右下)
ドイツの社会主義運動は1860年代から始まり、ラッサール(1825年~64年)を指導者とする全ドイツ労働者同盟(1863年に結成)やべーベル(1840年~1913年)を指導者とする社会民主労働者党が結成され(1869年)、両者は1875年に合同し、ドイツ社会主義労働者党が成立します。
ドイツ社会主義労働者党は社会主義者鎮圧法によって弾圧されますが、その一方で徐々に勢力を拡大し、1890年の社会主義者鎮圧法の廃止・ビスマルクの辞職後、ドイツ社会民主党と改称しました(1890年10月)。
ドイツ社会民主党はその後順調に発展し、1912年の総選挙では110議席を獲得して第一党となり、その間第二インターナショナルでは指導的な地位を占めました。
ドイツ社会民主党は、1991年にエルフルト綱領を採択してマルクス主義による革命を主張しましたが、党内では19世紀末からベルンシュタインの修正主義が現われます。
ベルンシュタイン(1850年~1932年)は、社会民主労働者党に入党し、社会主義者鎮圧法に反対してスイス・ロンドンに亡命し、彼はロンドンでフェビアン社会主義の影響を受けてマルクス主義の革命理論に懐疑的となり、革命を否定して議会主義による漸進的な社会主義の実現を説く修正主義を主張し(1896年頃から)、修正主義の理論的な指導者となりました。
ジョークは如何?
買い物の鉄則「月曜日に作られたものは買うな」
※週休二日で土日を飲み明かした労働者が、
月曜日の朝、向かい酒のウオッカをあおってから工場に出勤するから
続く・・・
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