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2017/07/13

歴史を歩く167

7帝国主義の成立と列強の国情⑦

7ラテン・アメリカ諸国

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ラテン・アメリカ諸国の独立

 ラテン・アメリカ諸国の殆どは1810年代から20年代に独立を果たしたものの、多くの国では独立後も政情が不安定で、政変も多く、国際紛争にも悩まされ続けました。
又経済的には殆どが農業国であり、しかも封建的な大土地所有制が残った結果、貧富の差は非常に大きなものでした。

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1885年当時のメキシコシティーストリートマーケット

 独立後のラテン・アメリカ諸国には早くからイギリス・アメリカが経済的に進出し、特にイギリスは南アメリカの貿易・銀行・鉄道・鉱山を独占的に支配し、南アメリカをイギリスの商品市場・原料供給地としました。

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シモン・ボリバル (Simón Bolívar、1783年7月24日 - 1830年12月17日)

 ラテン・アメリカ諸国は、シモン・ボリバルの提唱で1826年に初めて中南米会議を開催しました。この中南米会議はラテン・アメリカ諸国の団結と共同防衛を目ざし、以後十数回開かれました。

 アメリカはこの会議を利用しようとし、1889年にアメリカの主導で第1回パン・アメリカ(汎米)会議をワシントンで開催した結果、以後アメリカの影響力が強まって行きます。

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米西戦争・スペイン人からキューバ人民を守るアメリカ(寓意画)

 アメリカはキューバの独立運動に介入して米西戦争(1898年)を引き起こし、キューバを事実上の保護国としました(1901年)。
又1902年にはイギリス・ドイツのベネズエラ干渉を調停し、更に1903年にはパナマをコロンビアから独立させ、翌年にはパナマ運河の工事に着工し、1914年に完成させて運河地帯を支配下に置く等カリブ海政策を推進していきました。

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ニート・パブロ・フアレス・ガルシア(Benito Pablo Juárez García, 1806年3月21日 - 1872年7月18日)

 メキシコでは、インディオ出身の自由主義者ファレス(1806年~72年、在任1858年~72年)が自由主義革命(1855年)に参加し、法相として自由主義的な諸改革を行い、1858年に大統領に就任しました(正式就任は1861年)。
ファレスはナポレオン3世のメキシコ出兵(1861年~67年)に激しく抵抗し、アメリカの援助でこれを退けて再建に努めます。

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ホセ・デ・ラ・クルス・ポルフィリオ・ディアス・モリ(José de la Cruz Porfirio Díaz Mori、1830年9月15日 - 1915年7月2日)

 ディアス(1830年~1915年、在任1877年~80年、1884年~1911年)は、対フランス戦争では革命派として活躍しますが、その後は反動化し、ファレスの死後、1876年にはクーデターによって大統領の地位を奪い、一時期を除いて、長期にわたって独裁的権力を奮いました。
ディアスは、ファレス時代に接収された土地を地主に返還し、地主の支持を得てアメリカ資本を導入してメキシコの近代化を図り、それに伴って経済は発展しましたが、大土地所有制が拡大され、貧富の差が益々増大していきました。

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エミリアーノ・サパタ・サラサール(Emiliano Zapata Salazar、1879年8月8日 - 1919年4月10日)

 其の為、自由主義者のマデロ(1873年~1913年)や農民指導者のサパタ(1879年頃~1919年)等が1910年に革命を起こし、ディアス追放に成功しました。

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フランシスコ・イグナシオ・マデロ・ゴンサーレス(Francisco Ignacio Madero González、1873年10月30日 - 1913年2月22日)

 マデロが大統領に就任して(在任1911年~13年)改革に着手しますが、土地改革を実行しなかった為に農民の支持が得られず、1913年には右派のクーデターによって失脚し、まもなく暗殺され、
その後、革命派の内部で抗争が続いたが、ブルジョワ派が農民派を抑え、1917年に憲法が制定されます。
この憲法は勤労者の権利を認め、教会や外国人による土地所有を禁止し、大統領に強大な権限を与えた民主的・民族的な憲法であり、これ等一連の流れがメキシコ革命(1910年~17年)です。

 メキシコ革命は、ラテン・アメリカ最初の反帝国主義・民主主義革命で、他のラテン・アメリカ諸国に大きな影響を与えると共に、メキシコの近代化の出発点となったのです。 

ジョークは如何?

テキサスのドライバーは世界一フレンドリーなんだ

なんでかって? みんな酔っ払ってるからさ


続く・・・


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2017/07/13

歴史を歩く166

7帝国主義の成立と列強の国情⑥

6アメリカ

 アメリカの資本主義は、南北戦争(1861年~65年)後、めざましい発展をとげました。
工業生産額は1860年~90年迄の30年間に5倍に達し、1890年頃迄にはイギリスを追い抜いて世界一の工業国に成長します。

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スタンダード・オイル第1製油所、オハイオ州クリーブランド1899年

 この間、主要な産業ではトラスト(企業合同)が形成され、独占と集中が進みました。
「石油王」として有名なロックフェラー(1839年~1937年)が設立したスタンダード石油会社(1870年設立)は1880年頃には全国の製油業の約90%を支配し、又「鉄鋼王」のカーネギー(1835年~1919年)が設立したカーネギー製鋼会社はモルガンに売却されますが、売却前にはアメリカの鉄鋼の約25%を生産していました。
更にモルガン(1837年~1913年)が設立したU.S.スティール(1901年設立)はアメリカの鉄鋼の約65%を独占します。
モルガンは鉄道投資で成功してモルガン商会を設立し、鉄道・製鉄・銀行を中心に多くの産業を傘下に収めてアメリカ最大のモルガン財閥を作りあげたのです。

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ジョン・シャーマン(John Sherman、1823年5月10日 - 1900年10月22日)

 こうした独占資本による独占の弊害が大きくなると、これを防止して公正な自由競争を維持するために、1890年にシャーマン反トラスト法が制定されましたが、効果は在りませんでした。
又資本主義の発展に伴い労働運動が広がり、各種の労働組合組織が生まれ、1886年には全国的な組織としてゴンパース(1850年~1924年)の指導の下でアメリカ労働総同盟(AFL)が結成されました。AFLは熟練労働者によって組織された職能別労働組合の全国的な連合組織で、政治活動よりも労働条件の改善等の経済闘争に重点を置いたものでした。
 アメリカが世界一の工業国となった1890年代には西部開拓の進展によってフロンティア(辺境)が終に消滅し、フロンティアが消滅するにつれて海外進出を唱える帝国主義的な傾向が強まる中で、アメリカは先ずラテン・アメリカへの経済的な進出を図ります。

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ウィリアム・マッキンリー(William McKinley, 1843年1月29日 - 1901年9月14日)

 共和党のマッキンリー大統領(第25代、在任1897年~1901年)はオハイオ州知事から大統領となり、高関税政策をとって大資本の利益を代弁し、対外的には米西戦争やハワイ併合等の帝国主義政策を推進しました。

 ラテン・アメリカ諸国の中で独立が遅れたキューバでは、スペインの悪政に対して第1次独立反乱(1868年~78年)の後、1895年に第2次独立反乱が起こり、キューバは一時独立を宣言し、共和国の成立を宣言しました(1895年)。
その頃、多くのアメリカ人がキューバの砂糖黍産業(キューバは19世紀後半には世界一の砂糖生産国)に多額の資本を投下し、砂糖黍のプランテーションや精糖工場を経営しており、独立反乱による抗争で農園や工場が損害を受け、スペイン人のキューバ人に対する残虐行為が新聞で取り上げられると、アメリカでは自国の権益を守る為、又独立運動への同情から干渉を要求する声が高まりした。

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メイン号爆沈事件

 1898年2月、キューバのハバナ港内でアメリカ軍艦メイン号の爆沈事件(原因は不明)が起こると、アメリカはこれを口実にスペインに宣戦を布告し、米西戦争(アメリカ・スペイン戦争、1898年4月~98年12月)が始まりました。
戦闘は4ヶ月で終わり、アメリカは一方的な勝利をおさめ、この間キューバ・フィリピン・プエルトリコを占領し、8月に仮講和、12月にはパリで講和が成立し、キューバの独立とフィリピン・グァム・プエルトリコのアメリカへの割譲が決定されました。

 米西戦争後、1901年にアメリカはプラット条項を押しつけ、キューバと他国との条約や借款の制限・アメリカの干渉権・海軍基地建設等を認めさせ、キューバを事実上の保護国とし、又米西戦争中の1898年8月にはハワイを併合しました。

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カメハメハ1世(Kamehameha I、1758年 - 1819年)

 ハワイでは19世紀初頭に、カメハメハ1世(1753年頃~1819年、在位1795年~1819年)がそれまで4つの王国に分かれていたハワイ全島を統一し(1810年)、以後カメハメハ王朝(1795年~1893年)が19世紀末迄ハワイを統治しました。
この間、1875年頃から本国から移住してきたアメリカ人による砂糖黍産業が盛んとなります。

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リリウオカラニ(Lili‘uokalani、1838年9月2日 - 1917年11月11日)

 1891年に即位したリリウオカラニ(ハワイ王国最後の女王、有名な「アロハオエ」の作詞者)が即位し、民族主義的な政策を強めると、ハワイ在住のアメリカ人は自分達の権益を守る為に反乱を起こし、女王は王位を追われます。
リリウオカラニの退位後、アメリカ人による併合運動が強まる中で、マッキンリー大統領により併合条約が成立し、1898年にハワイはアメリカ合衆国に併合されました。

 米西戦争によってフィリピン・グァム島を領有したアメリカは、1899年9月に国務長官ジョン・ヘイが門戸開放宣言(ジョン・ヘイの三原則)を発表し、門戸開放・機会均等・領土保全を提唱し、中国の分割への割込みと中国への経済的進出を図りました。

 マッキンリーは再選されます(1900年)が無政府主義者に暗殺され(1901年9月)、副大統領のセオドア・ローズヴェルト(ルーズヴェルト)が大統領に昇格します。
セオドア・ローズヴェルト(1858年~1919年、第26代、在任1901年~1909年)は、共和党から下院議員として政界に入り、その後ニューヨーク州知事を経て副大統領となり、マッキンリーの暗殺で大統領に昇格しました。

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セオドア “テディ”・ルーズベルト( Theodore "Teddy" Roosevelt、1858年10月27日 - 1919年1月6日)

 セオドア・ローズヴェルトは、内政では革新主義(進歩主義)を唱え、大資本・大企業の専横を抑える為に反トラスト法(1890年制定)を厳格に適応して独占資本を抑制する等社会改革に努め、外交面では、カリブ海政策(カリブ海をアメリカの内海にしようとするアメリカの帝国主義政策)を推進し、パナマのコロンビアからの独立を支援し、独立したパナマ共和国からパナマ運河の租借権を得て、1904年にパナマ運河の建設に着手します。

 カリブ海沿岸諸国に対するセオドア・ローズヴェルトの外交は「棍棒をたずさえ、おだやかに話せ」を方針としたので「棍棒外交」と呼ばれました。
セオドア・ローズヴェルトは日露戦争を調停した功績でノーベル平和賞を受賞し(1906年)、一度は政界を引退しましたが、1912年の大統領選挙には革新党を結成して出馬したウィルソンに敗れます。

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トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson, 1856年12月28日 - 1924年2月3日)

 民主党のウィルソン大統領(1856年~1924年、在任1913年~21年)は、プリンストン大学政治学教授、同学長、ニュー・ジャージー州知事を経て、「新しい自由(New Freedom)」を掲げて大統領選挙に当選し、1913年に第28代大統領に就任し、ウィルソンは革新政治を推進し、反トラスト法の制定・関税の引下げ等の改革を行い、少数特権者の権力打破・国民の利益の増進に努めますが、その在任中に第一次世界大戦が勃発しました。

ジョークは如何?

紀元元年はいつか? 1933年だ。
なぜ?

その年まではBefore Crisis(危機以前)、B.C.
それ以降はAfter Depression(不景気の後)、A.D.
だから。

続く・・・


2017/07/03

歴史を歩く165

7帝国主義の成立と列強の国情⑤

5ロシア

 1861年の農奴解放以後、徐々に発展したロシアの資本主義は、1890年代に入ると、特に露仏同盟の成立後(1891年~94年に成立)、フランス資本の援助が増大して重工業を中心に急速に発展しますが、ロシアは国内市場が狭小の為、市場を求めて極東や中央アジアに進出して行きました。

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シベリア鉄道の地図(1897年当時の路線、ドイツで出版されたもの)

 ヨーロッパ・ロシアと極東を結ぶ世界最長の鉄道(全長6484km)であるシベリア鉄道の工事は、フランス資本の援助のもとで1891年に始まり、1905年迄に東清鉄道と結ぶ路線が完成し、(北方領内線の完成は1916年)シベリア鉄道はシベリア開発やロシアの極東政策の推進に大きな役割を果たしました。

 資本主義の発達と共に都市では大工業が成長し、工場労働者の数が急増する中で低賃金等の劣悪な労働条件に苦しむ労働者の間には社会主義思想が広まります。
やがて1898年にはプレハーノフ(1856年~1918年、ロシアのマルクス主義の父とされている)やレーニン(1870年~1924年)等によってロシア社会民主労働党が結成されますが、政府の弾圧を受け、指導者の多くは国外に亡命します。

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ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин、1870年4月22日 – 1924年1月21日)

 ロシア社会民主労働党は、1903年にロンドンで開かれた第2回大会で党の綱領決定を巡って、レーニンの率いるボリシェヴィキとマルトフ(1873年~1923年)・プレハーノフの率いるメンシェヴィキに分裂しました。

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ゲオルギー・ヴァレンチノヴィチ・プレハーノフ(Георгий Валентинович Плеханов, 1856年12月11日 - 1918年5月30日()

 ボリシェヴィキ(多数派の意味)が党を労働者・農民を基礎とする少数の革命家の集団とすることを主張したのに対し、メンシェヴィキ(少数派の意味)は広く大衆に基礎をおいて中産階級とも妥協して漸進的な革命を主張しました。

 ロシア社会民主労働党に続いて、1901年には社会革命党(エスエル)が結成され、社会革命党はナロードニキの流れをくみ、農民を地盤として専制の打倒と土地分配を主張し、更に1905年には立憲民主党(カデット)が結成され、立憲民主党はブルジョワの自由主義者が結成した政党で立憲君主制の確立を目ざしました。

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血の日曜日事件

 日露戦争の戦況が不利になると国民の不満が高まり、1905年1月22日の日曜日、首都ペテルブルクで血の日曜日事件が発生します。
この日、僧ガポン(1870年~1906年)に率いられたストライキ中の労働者を中心とするペテルブルクの十数万人の労働者とその家族は生活の窮乏を訴えた請願書を持って冬宮へ請願行進をしました。しかし、如何なるデモも認められていなかった為、軍隊がこの行進に発砲し、冬宮前広場等で2000人を越える死傷者が発生します。

戦艦ポチョムキン号反乱
セルゲイ・エイゼンシュテイン監督「戦艦ポチョムキン」(1925)より。

 この血の日曜日事件をきっかけに、工場労働者のストライキ・農民一揆が各地で起こり、6月には戦艦ポチョムキン号反乱が起き、革命は軍隊に迄波及し、更に10月に入ると全国的なゼネストが起こり、各地でソヴィエトが結成されました。

 これをロシア第一次革命(第一次ロシア革命、ロシア第一革命、1905年1月~5月12日)と呼びます。
労働者は革命を進める為に工場を母体に選挙で代表会議を組織しました。
これがソヴィエトで、ソヴィエトとはロシア語で会議・評議会を意味します。

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セルゲイ・ユリエヴィチ・ヴィッテ( Сергей Юльевич Витте, 1849年6月29日 - 1915年3月13日)

 ポーツマス条約を締結して(1905年9月)帰国した自由主義者のヴィッテ(ウィッテ、1849年~1915年)は、この情勢を見て皇帝に改革を進言しました。
ニコライ2世(在位1894年~1917年)は、革命の鎮静を図る為にヴィッテの進言を容れ、1905年10月に十月宣言(十月勅令)を発し、国会(ドゥーマ)の開設と憲法の制定そして思想・言論・集会・結社の自由を約束し、その翌日ヴィッテを首相に任命しました。

 ブルジョワ自由主義者は十月勅令に熱狂し、これによって革命は大きく後退し鎮静化しましたが、労働者・農民はこれに満足せず、12月にはモスクワ等で武装蜂起が起こるものの鎮圧され、ロシア第一次革命は終わりを告げました。

 1906年5月、十月勅令で約束された国会(ドゥーマ)が開かれ、この時召集された議会は帝国参議院(半数が勅選議員)と帝国議会(ドゥーマ)の二院から構成されていましたが、立法権は皇帝・帝国参議院・帝国議会の三者が共有し、全ての法律案の発議権は皇帝のみに存在した為、国会は立法の協賛権を持つだけでほとんど権限が無く、国会が混乱のうちに解散されるとストルイピンが首相に就任します(1906年7月)。

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ピョートル・アルカージエヴィチ・ストルイピン(Пётр Арка́дьевич Столы́пин, 1862年4月14日 - 1911年9月18日)

 ストルイピン(1862年~1911年、在任1906年~11年)は貴族地主出身の政治家で、内務官僚となり、国会が開かれた時に内務大臣に就任、国会が解散されると首相に就任し、革命派の徹底的弾圧などの反動政治を強行し、又土地改革を中心とする内政改革を行いました。

 所謂「ストルイピンの反動」の時期(1906年~11年)に約4000人が処刑されたと云われ、絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれたのです。

 ストルイピンの内政改革の中で最も重要な改革は土地改革(1906年11月)でした。
農奴解放令(1861年)では、農地の分与は有償で在り、買戻金が支払えない多くの農民の土地はまとめてミール(農村共同体)に引き渡され、ミールの共有地となりました。

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1861年勅令を読む農奴たち

 ストルイピンの土地改革は、ミール(農村共同体)を解体し、農民がミールを離れることを許し、農民に土地を分与して自作農になる道を開くものであったので、これによって1916年迄に全農家の22%がミールを離脱し、約200万戸の自作農が創出されました。

 ストルイピンの土地改革の目的は、自作農になった農民の中から富農を育成して「帝政の支柱」にすることに成ったのですが、独立した自作農の半分以上が自由競争に敗れて多くは労働者に転落し、農村内部では富農と貧農の対立が激しくなり、改革が行きづまる中で、皇帝・地主との対立が深まり、ストルイピンは警察のスパイに暗殺されてしまいます(1911年9月)。

 社会不安が増大する中で、ロシアは国民の不満を反らす為にバルカンへの進出を強め、ドイツ・オーストリアと衝突して国際的な緊張を高めて行きました。

ジョークは如何?

ソ連崩壊後のNATO諸国と東側および旧ソ連諸国が年例で開いた会議に
旧ソ連諸国が軒並み代表の外相を送ってこなかった.。
出席の西側からは会議を軽く見てるのではないかなどと文句が起こった。

そこで議長がとりなして言うには
「派遣費用が出せず欠席する旨、複数の国よりご連絡いただいております」


続く・・・