歴史を歩く170
38アフリカ・太平洋地域の分割③
2列強の太平洋諸地域分割

太平洋地域の列強植民地
アフリカ分割と同じ時期、太平洋諸地域も列強によって分割され、20世紀初頭までに太平洋諸地域はイギリス・フランス・ドイツ・アメリカによって分割領有されました。

ジェームズ・クック(James Cook、 1728年10月27日 - 1779年2月14日)
イギリスはオーストラリア・ニュージーランドとその周辺の諸島を領有します。
オーストラリアは、17世紀中頃にオランダ人の航海者タスマン(1603年~59年)によって発見され。その結果、現在のオーストラリアは100年以上にわたってニュー・オランダと呼ばれていました。
18世紀後半、イギリスの探検家クック(1728年~79年)は第1次航海の際、タヒチ・ニュージーランドを経てオーストラリア東海岸に上陸し(1770年)、イギリス領有を宣言します。

オーストラリア入植
イギリスは、1788年に囚人750人と役人及びその家族からなる、総数1100名を数える最初の移民を送り込み、11隻の船には移民に伴われた29頭の羊・6頭の牛・7頭の馬も同行したと云われています。
以後オーストラリアは流刑植民地として開拓が進められ、19世紀に入ると牧羊業が発展し、1829年からは自由移民が開始されて移民が増加、内陸への開拓が進み、更に1850年代に金鉱が発見されてからは移民が激増しましたが、1880年代には有色人種の移民を制限する白豪主義の道を進む様になりました。
1901年にはオーストラリア連邦が形成され、イギリス帝国内の自治領となりました。

サウス・オーストラリア入植者とアボリジニー
しかしこの間、先住民のアボリジニーは開拓とともに奥地に追われ、タスマニア島の先住民は1876年に絶滅しています。

マオリ族のモア猟
ニュージーランドは、1642年にタスマンによって発見され、1769年にはクックが探検を行ってニュージーランドをほぼ一周し、1840年に原住民のマオリ族との条約によってイギリスの直轄植民地となりました。
以後植民が進められ、1907年にはイギリス帝国内の自治領となります。
尚、ニュージーランドでは1893年に世界で初めて、婦人参政権が認められています。
イギリスはオーストラリア・ニュージーランドの他に北ボルネオ(1888年)・ニューギニア島の東北部(パプア、1884年)やフィジー諸島(1874年)・トンガ諸島(1900年)を領有しました。

デュプティ・トゥアール率いるフランス太平洋艦隊
フランスは、オーストラリア・ニュージーランドの植民地経営を進めるイギリスに対抗してメラネシア・ポリネシアへの進出を謀り、ニューカレドニア島(1853年)やタヒチ島を含むソシエテ諸島など南太平洋西部の諸島を領有します。
アメリカは、米西戦争(1898年)でフィリピン・グァムを獲得し、又同年ハワイを併合しました。
フィリピンでは、19世紀後半になるとスペインの統治に対する不満・批判が高まり、ホセ・リサール等の活動によって民族主義が高揚します。

ホセ・リサールの銃殺
ホセ・リサール(1861年~96年)は、スペインで医学を学んだ後、ベルリンで小説を発表してスペインの暴政を暴露し、その後帰国ますが小説の反響が大きく、当局の迫害が厳しいため日本を経てヨーロッパに亡命、1892年に再び帰国してフィリピン同盟を結成し、文化と経済の向上を図りますが逮捕され流刑になります。
リサールの逮捕の日に結成された秘密結社「カティプーナン」は、独立を目ざして1896年に蜂起し、政府軍と激しく戦い、(カティプーナンの反乱、1896年~97年)ますが、リサールは反乱、扇動、違法結社の無実の罪で死刑を宣告され1896年12月30日にバグンバヤン広場で、銃殺されました。

エミリオ・アギナルド・イ・ファミイ(Emilio Aguinaldo y Famy,1869年3月22日 - 1964年2月6日)
アギナルド(1869年~1964年)は、1896年のカティプーナンの反乱に参加し、翌年選挙によって革命政府大統領の地位に就任するも、革命軍は次第に追いつめられ、和平交渉の結果成立した協定によってスペイン政府が多額の賠償金を払うかわりに、全フィリピン人の武装解除が定められ、アギナルドはシンガポール・香港に亡命しました(1897年)。

米西戦争・フィリピンのアメリカ遠征軍
(アメリカ遠征軍のM1892小銃は、構造上の問題から強装弾の発射が難かしく、又一発ずつ装填しなくてはならない煩雑さからスペイン軍のスパニッシュ・モーゼルM1893小銃に苦戦を強いられた)
1898年4月、米西戦争が起こるとアギナルドはアメリカ軍の援助で帰国し、独立を宣言して再び大統領と成ります(1898年6月)。
アギナルドは、アメリカ軍に協力することによって、独立の承認を得ることを期待していましたが、アメリカに裏切られ、アメリカはスペインから直接フィリピンの統治権を譲り受け(2000万ドルで買収)、フィリピンの独立を認めませんでした。
そのためアギナルドは、1899年1月憲法を発布してフィリピン共和国の大統領となり、独立を目ざして反米武力闘争を展開しますが、1901年にアメリカ軍に捕らえられ、釈放後は政治的活動から引退しました。
フィリピンの独立運動はその後も続きますが、1902年4月迄には鎮圧され、フィリピンはアメリカの植民地となりました。

1889年に太平洋のサモア島近海で嵐に巻き込まれたドイツ水兵と米国水兵を悼んで描かれた米国のイラスト
ドイツは、太平洋進出にも遅れ、1880年代以後分割に割り込んでいきます。
1884年にはニューギニア島東部を占領し、イギリスと南北に分割してニューギニア島東北部を領有し、又同年ビスマルク諸島も領有しました。
1886年には赤道以北のマーシャル諸島を領有し、1899年には米西戦争に乗じてカロリン諸島・マリアナ諸島・パラオ諸島をスペインから買収します。
尚、日本は第一次世界大戦中に赤道以北のドイツ領諸島(南洋諸島)を占領し、戦後マーシャル諸島・カロリン諸島・マリアナ諸島・パラオ諸島を委任統治(国際連盟から統治を委任される)領として、実質的には植民地として1945年迄実行支配し、太平洋戦争中、これらの諸島では日米両軍の間で戦いが繰り広げられます。
こうして太平洋上の小さな島々に至る迄、イギリス・フランス・アメリカ・ドイツによって分割占領されて行きました。
名言集
もし人を幸せにしたいと思うなら、思いやりを学びなさい。
もし自分が幸せになりたいと思うなら、思いやりを学びなさい。
If you want others to be happy, practice compassion.
If you want to be happy, practice compassion.
ダライラマ
続く・・・
2列強の太平洋諸地域分割

太平洋地域の列強植民地
アフリカ分割と同じ時期、太平洋諸地域も列強によって分割され、20世紀初頭までに太平洋諸地域はイギリス・フランス・ドイツ・アメリカによって分割領有されました。

ジェームズ・クック(James Cook、 1728年10月27日 - 1779年2月14日)
イギリスはオーストラリア・ニュージーランドとその周辺の諸島を領有します。
オーストラリアは、17世紀中頃にオランダ人の航海者タスマン(1603年~59年)によって発見され。その結果、現在のオーストラリアは100年以上にわたってニュー・オランダと呼ばれていました。
18世紀後半、イギリスの探検家クック(1728年~79年)は第1次航海の際、タヒチ・ニュージーランドを経てオーストラリア東海岸に上陸し(1770年)、イギリス領有を宣言します。

オーストラリア入植
イギリスは、1788年に囚人750人と役人及びその家族からなる、総数1100名を数える最初の移民を送り込み、11隻の船には移民に伴われた29頭の羊・6頭の牛・7頭の馬も同行したと云われています。
以後オーストラリアは流刑植民地として開拓が進められ、19世紀に入ると牧羊業が発展し、1829年からは自由移民が開始されて移民が増加、内陸への開拓が進み、更に1850年代に金鉱が発見されてからは移民が激増しましたが、1880年代には有色人種の移民を制限する白豪主義の道を進む様になりました。
1901年にはオーストラリア連邦が形成され、イギリス帝国内の自治領となりました。

サウス・オーストラリア入植者とアボリジニー
しかしこの間、先住民のアボリジニーは開拓とともに奥地に追われ、タスマニア島の先住民は1876年に絶滅しています。

マオリ族のモア猟
ニュージーランドは、1642年にタスマンによって発見され、1769年にはクックが探検を行ってニュージーランドをほぼ一周し、1840年に原住民のマオリ族との条約によってイギリスの直轄植民地となりました。
以後植民が進められ、1907年にはイギリス帝国内の自治領となります。
尚、ニュージーランドでは1893年に世界で初めて、婦人参政権が認められています。
イギリスはオーストラリア・ニュージーランドの他に北ボルネオ(1888年)・ニューギニア島の東北部(パプア、1884年)やフィジー諸島(1874年)・トンガ諸島(1900年)を領有しました。

デュプティ・トゥアール率いるフランス太平洋艦隊
フランスは、オーストラリア・ニュージーランドの植民地経営を進めるイギリスに対抗してメラネシア・ポリネシアへの進出を謀り、ニューカレドニア島(1853年)やタヒチ島を含むソシエテ諸島など南太平洋西部の諸島を領有します。
アメリカは、米西戦争(1898年)でフィリピン・グァムを獲得し、又同年ハワイを併合しました。
フィリピンでは、19世紀後半になるとスペインの統治に対する不満・批判が高まり、ホセ・リサール等の活動によって民族主義が高揚します。

ホセ・リサールの銃殺
ホセ・リサール(1861年~96年)は、スペインで医学を学んだ後、ベルリンで小説を発表してスペインの暴政を暴露し、その後帰国ますが小説の反響が大きく、当局の迫害が厳しいため日本を経てヨーロッパに亡命、1892年に再び帰国してフィリピン同盟を結成し、文化と経済の向上を図りますが逮捕され流刑になります。
リサールの逮捕の日に結成された秘密結社「カティプーナン」は、独立を目ざして1896年に蜂起し、政府軍と激しく戦い、(カティプーナンの反乱、1896年~97年)ますが、リサールは反乱、扇動、違法結社の無実の罪で死刑を宣告され1896年12月30日にバグンバヤン広場で、銃殺されました。

エミリオ・アギナルド・イ・ファミイ(Emilio Aguinaldo y Famy,1869年3月22日 - 1964年2月6日)
アギナルド(1869年~1964年)は、1896年のカティプーナンの反乱に参加し、翌年選挙によって革命政府大統領の地位に就任するも、革命軍は次第に追いつめられ、和平交渉の結果成立した協定によってスペイン政府が多額の賠償金を払うかわりに、全フィリピン人の武装解除が定められ、アギナルドはシンガポール・香港に亡命しました(1897年)。

米西戦争・フィリピンのアメリカ遠征軍
(アメリカ遠征軍のM1892小銃は、構造上の問題から強装弾の発射が難かしく、又一発ずつ装填しなくてはならない煩雑さからスペイン軍のスパニッシュ・モーゼルM1893小銃に苦戦を強いられた)
1898年4月、米西戦争が起こるとアギナルドはアメリカ軍の援助で帰国し、独立を宣言して再び大統領と成ります(1898年6月)。
アギナルドは、アメリカ軍に協力することによって、独立の承認を得ることを期待していましたが、アメリカに裏切られ、アメリカはスペインから直接フィリピンの統治権を譲り受け(2000万ドルで買収)、フィリピンの独立を認めませんでした。
そのためアギナルドは、1899年1月憲法を発布してフィリピン共和国の大統領となり、独立を目ざして反米武力闘争を展開しますが、1901年にアメリカ軍に捕らえられ、釈放後は政治的活動から引退しました。
フィリピンの独立運動はその後も続きますが、1902年4月迄には鎮圧され、フィリピンはアメリカの植民地となりました。

1889年に太平洋のサモア島近海で嵐に巻き込まれたドイツ水兵と米国水兵を悼んで描かれた米国のイラスト
ドイツは、太平洋進出にも遅れ、1880年代以後分割に割り込んでいきます。
1884年にはニューギニア島東部を占領し、イギリスと南北に分割してニューギニア島東北部を領有し、又同年ビスマルク諸島も領有しました。
1886年には赤道以北のマーシャル諸島を領有し、1899年には米西戦争に乗じてカロリン諸島・マリアナ諸島・パラオ諸島をスペインから買収します。
尚、日本は第一次世界大戦中に赤道以北のドイツ領諸島(南洋諸島)を占領し、戦後マーシャル諸島・カロリン諸島・マリアナ諸島・パラオ諸島を委任統治(国際連盟から統治を委任される)領として、実質的には植民地として1945年迄実行支配し、太平洋戦争中、これらの諸島では日米両軍の間で戦いが繰り広げられます。
こうして太平洋上の小さな島々に至る迄、イギリス・フランス・アメリカ・ドイツによって分割占領されて行きました。
名言集
もし人を幸せにしたいと思うなら、思いやりを学びなさい。
もし自分が幸せになりたいと思うなら、思いやりを学びなさい。
If you want others to be happy, practice compassion.
If you want to be happy, practice compassion.
ダライラマ
続く・・・
スポンサーサイト