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2017/08/30

歴史を歩く170

38アフリカ・太平洋地域の分割③

2列強の太平洋諸地域分割

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太平洋地域の列強植民地

 アフリカ分割と同じ時期、太平洋諸地域も列強によって分割され、20世紀初頭までに太平洋諸地域はイギリス・フランス・ドイツ・アメリカによって分割領有されました。

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ジェームズ・クック(James Cook、 1728年10月27日 - 1779年2月14日)

 イギリスはオーストラリア・ニュージーランドとその周辺の諸島を領有します。
オーストラリアは、17世紀中頃にオランダ人の航海者タスマン(1603年~59年)によって発見され。その結果、現在のオーストラリアは100年以上にわたってニュー・オランダと呼ばれていました。
18世紀後半、イギリスの探検家クック(1728年~79年)は第1次航海の際、タヒチ・ニュージーランドを経てオーストラリア東海岸に上陸し(1770年)、イギリス領有を宣言します。

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オーストラリア入植

 イギリスは、1788年に囚人750人と役人及びその家族からなる、総数1100名を数える最初の移民を送り込み、11隻の船には移民に伴われた29頭の羊・6頭の牛・7頭の馬も同行したと云われています。

 以後オーストラリアは流刑植民地として開拓が進められ、19世紀に入ると牧羊業が発展し、1829年からは自由移民が開始されて移民が増加、内陸への開拓が進み、更に1850年代に金鉱が発見されてからは移民が激増しましたが、1880年代には有色人種の移民を制限する白豪主義の道を進む様になりました。
1901年にはオーストラリア連邦が形成され、イギリス帝国内の自治領となりました。

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サウス・オーストラリア入植者とアボリジニー

 しかしこの間、先住民のアボリジニーは開拓とともに奥地に追われ、タスマニア島の先住民は1876年に絶滅しています。

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マオリ族のモア猟

 ニュージーランドは、1642年にタスマンによって発見され、1769年にはクックが探検を行ってニュージーランドをほぼ一周し、1840年に原住民のマオリ族との条約によってイギリスの直轄植民地となりました。
以後植民が進められ、1907年にはイギリス帝国内の自治領となります。
尚、ニュージーランドでは1893年に世界で初めて、婦人参政権が認められています。

 イギリスはオーストラリア・ニュージーランドの他に北ボルネオ(1888年)・ニューギニア島の東北部(パプア、1884年)やフィジー諸島(1874年)・トンガ諸島(1900年)を領有しました。 

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デュプティ・トゥアール率いるフランス太平洋艦隊

 フランスは、オーストラリア・ニュージーランドの植民地経営を進めるイギリスに対抗してメラネシア・ポリネシアへの進出を謀り、ニューカレドニア島(1853年)やタヒチ島を含むソシエテ諸島など南太平洋西部の諸島を領有します。

 アメリカは、米西戦争(1898年)でフィリピン・グァムを獲得し、又同年ハワイを併合しました。
フィリピンでは、19世紀後半になるとスペインの統治に対する不満・批判が高まり、ホセ・リサール等の活動によって民族主義が高揚します。

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ホセ・リサールの銃殺

 ホセ・リサール(1861年~96年)は、スペインで医学を学んだ後、ベルリンで小説を発表してスペインの暴政を暴露し、その後帰国ますが小説の反響が大きく、当局の迫害が厳しいため日本を経てヨーロッパに亡命、1892年に再び帰国してフィリピン同盟を結成し、文化と経済の向上を図りますが逮捕され流刑になります。

 リサールの逮捕の日に結成された秘密結社「カティプーナン」は、独立を目ざして1896年に蜂起し、政府軍と激しく戦い、(カティプーナンの反乱、1896年~97年)ますが、リサールは反乱、扇動、違法結社の無実の罪で死刑を宣告され1896年12月30日にバグンバヤン広場で、銃殺されました。

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エミリオ・アギナルド・イ・ファミイ(Emilio Aguinaldo y Famy,1869年3月22日 - 1964年2月6日)

 アギナルド(1869年~1964年)は、1896年のカティプーナンの反乱に参加し、翌年選挙によって革命政府大統領の地位に就任するも、革命軍は次第に追いつめられ、和平交渉の結果成立した協定によってスペイン政府が多額の賠償金を払うかわりに、全フィリピン人の武装解除が定められ、アギナルドはシンガポール・香港に亡命しました(1897年)。

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米西戦争・フィリピンのアメリカ遠征軍
(アメリカ遠征軍のM1892小銃は、構造上の問題から強装弾の発射が難かしく、又一発ずつ装填しなくてはならない煩雑さからスペイン軍のスパニッシュ・モーゼルM1893小銃に苦戦を強いられた)

 1898年4月、米西戦争が起こるとアギナルドはアメリカ軍の援助で帰国し、独立を宣言して再び大統領と成ります(1898年6月)。
アギナルドは、アメリカ軍に協力することによって、独立の承認を得ることを期待していましたが、アメリカに裏切られ、アメリカはスペインから直接フィリピンの統治権を譲り受け(2000万ドルで買収)、フィリピンの独立を認めませんでした。

 そのためアギナルドは、1899年1月憲法を発布してフィリピン共和国の大統領となり、独立を目ざして反米武力闘争を展開しますが、1901年にアメリカ軍に捕らえられ、釈放後は政治的活動から引退しました。

 フィリピンの独立運動はその後も続きますが、1902年4月迄には鎮圧され、フィリピンはアメリカの植民地となりました。

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1889年に太平洋のサモア島近海で嵐に巻き込まれたドイツ水兵と米国水兵を悼んで描かれた米国のイラスト

 ドイツは、太平洋進出にも遅れ、1880年代以後分割に割り込んでいきます。
1884年にはニューギニア島東部を占領し、イギリスと南北に分割してニューギニア島東北部を領有し、又同年ビスマルク諸島も領有しました。
1886年には赤道以北のマーシャル諸島を領有し、1899年には米西戦争に乗じてカロリン諸島・マリアナ諸島・パラオ諸島をスペインから買収します。

 尚、日本は第一次世界大戦中に赤道以北のドイツ領諸島(南洋諸島)を占領し、戦後マーシャル諸島・カロリン諸島・マリアナ諸島・パラオ諸島を委任統治(国際連盟から統治を委任される)領として、実質的には植民地として1945年迄実行支配し、太平洋戦争中、これらの諸島では日米両軍の間で戦いが繰り広げられます。

 こうして太平洋上の小さな島々に至る迄、イギリス・フランス・アメリカ・ドイツによって分割占領されて行きました。

名言集

もし人を幸せにしたいと思うなら、思いやりを学びなさい。
もし自分が幸せになりたいと思うなら、思いやりを学びなさい。

If you want others to be happy, practice compassion.
If you want to be happy, practice compassion.

ダライラマ


続く・・・



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2017/08/24

歴史を歩く169

38アフリカ・太平洋地域の分割②

1列強のアフリカ分割(その2)

 フランスは、七月革命の直前にアルジェリアに出兵し(1830年7月)、その後直轄領として(1842年)植民地化を進め、更にアルジェリアを確保する為に19世紀後半以後チュニジアにも進出しました。

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フランスのチュニジア侵攻・フランス軍によるスファックス侵攻

 チュニジアにはイギリス・イタリアも進出を図っていましたが、1878年のベルリン会議ではフランスの優越が認められ、フランスは1881年に首都チュニスを占領し、チュニジアを保護国とします。
その後フランスはサハラ砂漠に進出し、フランス領西アフリカ(1894年に領有)とフランス領コンゴを領有すると、アフリカ西海岸と紅海入り口の要港ジブチ(1888年フランス領)を結びつける大陸横断計画を立ててスーダンに進出しますが、これがフランスの横断政策(アフリカ横断政策)です。
フランスの横断政策とイギリスの縦断政策はスーダンで衝突し、1898年にファショダ事件が発生します。

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マルシャン大尉(1863年~1934年)

 フランスは横断政策を実現する為に、マルシャン大尉(1863年~1934年)を指揮官として原住民の兵士200人からなる探検隊をフランス領コンゴからスーダンに向けて出発させました(1896年)。
マルシャンは2年の歳月を要しながら1898年7月にナイル河畔のファショダに到着しました。

 一方イギリスも再びスーダンへの進出を図り、1896年にキッチナー将軍(1850年~1916年、南ア戦争時のイギリス軍総司令官)をスーダンに派遣した。キッチナーは2万5千の軍隊を率いてナイル川を遡り、マフディーの軍隊を撃破し、此方も2年を要してハルツーム(ゴードンが戦死した地)に入城しました。

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カイロからケープタウンに電線を引くセシルローズの風刺画

 キッチナーは、ハルツームでマルシャン大尉がファショダに到着しているとの情報を得て、ファショダに急行し、マルシャンと会見して撤退を求めますが、マルシャンは応ぜず、問題の解決は本国政府間の交渉に移されました。
両国の世論は激昂し、英仏の関係は一触即発の状況に成りますが、結局フランスが譲歩政策をとってマルシャンに撤退を命じ、翌1899年に両国間で協定が成立しました。
この協定によってイギリスのスーダン進出が認められ、フランスはナイル川の通商権を得たに留まり、イギリスの縦断政策が勝利します。

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英仏協商締結記念絵葉書(踊るブリタニアとマリアンヌ)

 その後イギリス・フランス両国は、ドイツの進出に対抗するために1904年に英仏協商を結び、エジプトにおけるイギリスの、モロッコにおけるフランスの優越権を相互に承認して妥協策を選択します。
この結果、スーダンへの道を断たれたフランスはモロッコへ向かい、二度にわたるモロッコ事件を経て、1912年にモロッコを保護国としました。

 ドイツは、ビスマルクの方針により、1880年頃迄は植民地経営に乗り出しておらず、アフリカ分割に加わろうとしたときには、列強による分割がほぼ終わっていました。
ビスマルクはベルリン会議(1884年~85年)を開いてアフリカ分割の原則を定めますが、かえってアフリカ分割競争を激化させる結果になります。

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ドイツ領東アフリカ(ドイツ帝国植民地軍)

 ドイツは西アフリカから東アフリカの分割に割り込み、赤道直下のカメルーン(1884年)・ドイツ領東アフリカ(タンガニーカ、1885年)・西南アフリカ(1885年)・トーゴランド(1884年)を獲得していきました。
更に20世紀には、ヴィルヘルム2世のもとで植民地の拡大を目ざし、1905年と1911年の二度にわたってモロッコ事件を引き起こします。

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タンジール事件(タンジールを訪問するドイツ皇帝ヴィルヘルム2世)

 1904年の英仏協商で、モロッコにおけるフランスの優越権が認められると、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は1905年3月、突然タンジール港に上陸し、フランスのモロッコ進出に反対を表明、列国会議の開催を要求しました。
この第1次モロッコ事件(タンジール事件、1905年)によってドイツ・フランス間に緊張が極度に高まり、開戦の危機が叫ばれます。

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アガディール事件の風刺画

 翌1906年に開かれたアルヘシラス会議では、イギリスが強力にフランスを支持した結果、ドイツは譲歩せざるを得ず、モロッコはフランスとスペインの勢力範囲となります。
その後もモロッコに対する野望を捨てきれないドイツは、1911年7月にフランスがベルベル人の抵抗を鎮圧するために出兵すると、アガディールに軍艦を派遣してフランスを威嚇し、ドイツ・フランス間に再び緊張が高まります(第2次モロッコ事件、アガディール事件、1911年)。

 しかし、この時もイギリスが強力にフランスを支援した為、ドイツは独仏協定(1911年11月)によってフランスのモロッコ保護権を認め、その代償としてフランス領コンゴの一部を獲得しました。

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アドワの戦い
 
 統一が遅れ、分割へ加わる事も遅れたイタリアは、チュニジアの植民地を画策しますが、フランスがこれを保護国とすると(1881年)、翌1882年に紅海に面するエリトリアを植民地とすることを宣言して1885年に占領、更にソマリランドを保護領とし(1889年)、エチオピア併合に進みます。

 イタリアは、1895年にエチオピアに侵入しますが(第1回エチオピア戦争、1895年~96年)アドワの戦いで大敗し(1896年3月)、エチオピアはフランスから武器の援助を受け、ゲリラ戦でイタリアに勝利して独立を維持しました。

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イズミル奪還後、コナク広場に入るトルコ軍首脳

 その後イタリアはフランスのモロッコにおける優越権を認める代償として、トリポリでの優越権を認められ、イタリア・トルコ戦争(1911年~12年)でトリポリとキレナイカを占領し、1912年にリビア(トリポリ・キレナイカ)を併合しました。

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コンゴ探検家ヘンリー・スタンリーと先住民の少年

 ベルギー王レオポルド2世(在位1865年~1909年)はコンゴ国際協会(1876年に設立、1882年に改称)を設立し、コンゴ川流域にスタンリーを派遣して調査させ、コンゴ川流域を協会の保護下に置き、ベルギー国王の私有地としてのコンゴ自由国(1885年~1908年)はベルリン会議で認められ、レオポルド2世は鉱山開発等を進めましたが、その統治が暴虐であるとの国際的な非難を受け、1908年には本国議会の管理下に置かれ、ベルギー領コンゴとなりました。

 こうして20世紀初頭には、アフリカの9割以上が列強の支配下に置かれ、独立を保ったのは僅かにエチオピア帝国とリベリア共和国だけでした。

 リベリア共和国は、1821年にアメリカで解放された黒人奴隷の居住地としてアメリカ植民協会が開拓し、翌年から植民が開始され、1847年に独立を宣言し、アメリカ合衆国憲法にならって共和制を実施します。
国名のLiberiaはliberty(自由)から付けられ、首都モンロヴィアはアメリカ合衆国第5代大統領モンローの名に因んでいます。

名言集

天才とは、山の頂上まで蝶を追う幼い少年である。

Genius is a little boy chasing a butterfly up a mountain.

ジョン・スタインベック


続く・・・


2017/08/06

歴史を歩く168

38アフリカ・太平洋地域の分割

1列強のアフリカ分割(その1)

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列強のアフリカ分割・1914年当時

 近代ヨーロッパの人々から「暗黒大陸」と呼ばれたアフリカ大陸のうち、地中海沿岸の北アフリカやインド航路の港、又奴隷貿易が盛んに行われた西アフリカの沿岸部は早くからヨーロッパ人に知られていましたが、それ以外の地域は、その状態がヨーロッパ人に知られるようになったのは、19世紀中頃のリヴィングストン(1813年~73年)やスタンリー(スタンレー、1841年~1904年)の探検以後のことでした。

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ジンバブエ、リヴィングストン像・ヴィクトリア滝

 リヴィングストンは、1849年以後アフリカ奥地の探検を行ってヴィクトリア瀑布(1855年)を発見した後、最後のナイル川の水源を探る探検の際に一時消息不明になり、彼の捜索に向かったイギリス生まれのアメリカ人ジャーナリスト・探検家スタンリーは、タンガニーカ湖畔で感激の対面を果たし(1871年)、その後コンゴ川を発見し、大陸横断に成功しました(1877年)。

 こうした探検によってアフリカ大陸の奥地が資源の宝庫であることが判明し、列強の目がアフリカに注がれるようになりますが、それ以上に列強のアフリカへの関心を高めたのが1869年のスエズ運河の開通でした。
スエズ運河は地中海と紅海を結ぶ全長160kmの運河で、フランス人技師レセップス(1805年~94年)の努力によって開通し、レセップスは国際スエズ株式会社を設立して資金を集め、フランスが約半分の株式を所有し、残りの4分の3をエジプト、4分の1をトルコが所有しました。
スエズ運河は1859年に着工され、1869年に開通します。

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スエズ運河の開通

 スエズ運河の開通により、ヨーロッパからアジアへの所要時間が喜望峰回りのコースの約3分の1となり、既にアジア諸地域への進出をはかっているヨーロッパ列強にとってその重要性は一層増大します。

 こうした状況の中で列強はアフリカに注目し、侵略を企てるようになりました。
列強によるアフリカ分割が盛んとなった1884~85年にビスマルクの提唱によってベルリン会議(コンゴ会議)が開かれ、この会議ではコンゴ自由国が認められ、又「アフリカの海岸で領土を先占する国は先占を尊重させるに必要な権力を確保する義務を持つこと」・「先占の通告を他の締結国に対して行うべきこと」と云うアフリカ分割の原則が定められました。

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ベルリン会議

 この文言の意味する処は、他国よりも早く武力で占領して他国に通告すればその国の植民地になると云う事であり、このベルリン会議はアフリカの全面的な分割の契機となり、1876年頃には全アフリカの10.8%が植民地化されていたにすぎませんでしたが、1890年迄には90.4%が植民地化され、20世紀初頭にはエチオピア帝国とリベリア共和国を除いてアフリカは全て列強の支配下に置かれたのでした。

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馬上のアラービー・パシャ

 イギリスは、ディズレーリ内閣の時に、エジプトの財政難に乗じてスエズ運河会社の株式を買収し(1875年)、以後フランスと共にエジプトの財政管理を行うと共に内政に干渉しました。
これに対してアラービー・パシャの反乱(1881年~82年)が起こると、イギリスは単独で出兵してこれを鎮圧し、エジプトを事実上の保護国としました(1882年、正式の保護国化は1914年)。
 イギリスがエジプトから更にスーダンへ進出すると、スーダンではマフディーの反乱(1881年~98年)が起こります。

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ムハンマド・アフマド

 ムハンマド・アフマド(1844年頃~85年)は、スーダンの預言者の一族に生まれ、少年時代から宗教家を志し、彼はエジプトの圧制とスンナ派イスラム教の腐敗に憤激していた民衆の間にマフディーの出現を期待する風潮が強まる中で、アッラーに選ばれた者であるという自覚を持つようになり、1881年に自等マフディー(導かれた者の意味、救世主の意味に使われる)であると宣言し、イスラム教の復興を唱えて民衆を糾合し、ジハード(聖戦)に乗りだし、エジプト軍を各地で撃破しました。

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初代キッチナー伯爵ホレイショ・ハーバート・キッチナー(The Right Honourable Horatio Herbert Kitchener, 1st Earl Kitchener, 1850年6月24日 - 1916年6月5日)

 マフディー軍は、1885年にはエジプト軍を支援するゴードン(常勝軍を率いて太平天国の乱の鎮圧に活躍)指揮下のイギリス軍をハルツームで破って彼を戦死させるものの、ムハンマド・アフマドも同年に病没します。
マフディーの反乱はその後も続きますが、イギリスはキッチナー将軍の率いる軍隊を派遣してこれを鎮圧し(1898年)、翌年にはエジプト・スーダンを征服しますが、このマフディーの反乱によってイギリスのスーダン進出は約10年遅れたと云われています。

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ケープ植民地と周辺地域

 イギリスは南アフリカでは、ウィーン会議によってオランダ領からイギリス領となったケープ植民地を根拠地として周辺に進出しました。
ブーア人(ブール人、ボーア人)は、17世紀以降にケープに入植したオランダ人植民者の子孫でケープ植民地を築き、やがてケープ植民地がイギリス領となると(1814年)、北の奥地に追われ、オレンジ自由国(1854年~1902年)とトランスヴァール共和国(1855年~1902年)を建国しました。

 オレンジ自由国で1867年に世界屈指のダイヤモンド鉱山が、又トランスヴァール共和国で1886年に世界一の金鉱が発見されると、イギリスは両国の併合を企てます。
セシル・ローズ(1853年~1902年)は牧師の家に生まれ、1870年に南アフリカに渡りました。
彼はオレンジ自由国で発見されたダイヤモンド鉱山の採掘に従事して巨富を得、更にトランスヴァールで発見された金鉱の採掘権を独占しました。

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セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes、1853年7月5日 - 1902年3月26日)

 1890年にはケープ植民地首相となり、イギリス帝国主義を典型的に推進した。「出来ることなら私は惑星をも併合したい」という言葉は、彼の帝国主義思想をよく示しています。
更にセシル・ローズはトランスヴァールの北方の中央アフリカを征服し(1890年~94年)、銅・亜鉛・クローム・ニッケル等の鉱産資源に富むこの地は、彼の名に因んでローデシア(現在のジンバブエ共和国、ザンビア共和国)と呼ばれました。

 しかしながら、セシル・ローズはトランスヴァールに対する極端な侵略政策で内外の非難を浴びて失脚し(1896年)、南ア戦争が終わった1902年に病没します。
イギリスは、セシル・ローズの失脚後も、トランスヴァール共和国侵略を諦めた訳でなく、トランスヴァール共和国がブーア人以外の入植者に対して市民権取得資格を制限したのに対して、イギリス人移民の参政権を要求し、そしてこれが拒否されると1899年10月に宣戦を布告し、南ア戦争(ブーア戦争、1899年10月~1902年5月)が勃発します。

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ブーア戦争

 トランスヴァール共和国はオレンジ自由国と同盟してイギリスに抵抗しましたが、イギリスは大軍をもって両国内に進攻し、翌年一度は併合を宣言しますが、ブーア人はゲリラ戦で頑強に抵抗したので戦争は長期化します。

 典型的な帝国主義戦争である南ア戦争を推し進めるイギリスに対しては、世界中から激しい非難が起こり、イギリスは国際的に孤立しましたが、45万の兵力と莫大な戦費をつぎ込み、残虐な戦闘を行ってトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を征服しました。
こうして1910年にケープ・トランスヴァール・オレンジ・ナタールの4州からなる南アフリカ連邦を組織してイギリス帝国内の自治領としました。

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ファショダ事件当時の英仏

 アフリカの北と南を押さえたイギリスは、エジプトのカイロと南アフリカのケープタウンを結ぶ縦断鉄道を計画し、スーダンを南下してフランスと衝突し、1898年にファショダ事件を起こしました。このエジプトと南アフリカを結ぼうとするイギリスのアフリカでの帝国主義政策を縦断政策(アフリカ縦断政策)と呼んでいます。

 更にイギリスは、アフリカの縦断政策とインドを結びつけ、インドのカルカッタ(Calcutta)・エジプトのカイロ(Cairo)・南アフリカのケープタウン(Capetown)を結ぶ三角地帯を勢力下に収めようと考え、このイギリスの帝国主義政策は3つの都市の頭文字をとって3C政策と呼ばれています。

名言集

罪を憎しみ、罪人を愛しなさい。

Hate the sin and love the sinner.

マハトマ・ガンジー


続く・・・